一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

ステージ実習コメント 27086字 1164

ステージ実習コメント 1164

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【ライブ実習②  】

[ステージ実習①]

[ステージ実習③]

[ステージ実習④]

 

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【ライブ実習②  】

 

「エビータ」をもう一度思いだしながら、合宿に落とそうと思います。それは去年も難しくてやめて、今年も無理だと思ってやめたものです。そこで感じたようなことと同じようなことがきっと問題になりそうです。

私は日本のミュージカルには違和感があるのですが、マドンナの映画バージョン「エビータ」には違和感はありません。たぶんミュージカルとオペラの感覚よりはポップスの感覚になじんでいるせいでしょう。

 

今日また聞いて、どうも違うなと、それでレッスンはミルバのでやったのですが、ミルバで聞くと本当にわかりやすいのです。そういう問題がまったく解決されている。マドンナで聞いてもわかります。音楽としてはもっと完成している。

 悪くなかったのではないかと思います。いつもの3クラスよりはずいぶんよい。いろいろ感じることはありました。 

 

全体に感じていたのは、フレッシュでよかったということ、全体的にもあまり退屈するようなものはなかった。でも何か私が子供の頃ののど自慢というか、地元の祭り、古い昭和30年代に作った回転木馬とお化け屋敷、そういうところののど自慢の雰囲気がある。フレッシュさと元気に対して、古さを感じさせるのは何かというのを見ていました。

 

 

とりあえず力尽きるまで、ここのトップレベルの人もマイペースでやっていますが、そのあたりまで突っ走ってください。追いついたあたりで体力が切れるかも知れませんが、あまりいうことはない。それは今いってどうこうなるものでもない。

 

日本人の持つ要素で、歌を歌として処理していくときに、フォークやニューミュージックの人のもっているリズムでやっている。

それがだめということではなく、そういってしまったら日本の歌が何もないということになる。ただやっている歌が向こうの歌なのにそれが出てくるというのは引っかかりました。

 

 最初に歌詞を渡されたときに間違えるところは予期しなければいけません。この2曲は、両方とも歌詞を、どんなに歌っても間違いを犯す可能性を含んでいる。こういう歌詞とこういう展開というのは間違いやすいからです。それを当り前にやってくると当日間違えたりいい違えてあたりまえです。そこで細心の詰めをやってこないといけない。

 

 

何回も舞台をやっていたら間違うパターンはわかってきます。そういうふうに構成も歌詞もなっています。どうでもなるというようなものは一番間違えやすいからです。だから練習のときに間違える体験をしておき、それでカバーするやり方をつかむ。 

どうにもなるということは、逆にいうと自分が間違えたことを白状しなければ通せる。そんな楽なこともない。その詰めが甘いというのは感じました。

 

 よかったのは切れです。ある意味では放り出していました。ただ自分の強いところに勝負するための守りが忘れられている。ただそういうと、今度は一方的に守ってしまうような舞台になってしまう。でもそこを忘れてしまうと雑なところやマイナスのアピールになる。閉じていないことを今回は評価します。

 

 外に出すのも思いきり破るのもよい。それでも1メートルや1メートル半くらいはとばしている。しかし、その先にどこかにひとつ到達点があるのではないかという方向性があってこそ破れるものではないかと思います。 

 

 

だからといっていつものように閉じてもらっても困る。前に出すことはよい。そのパワーや大胆さが本当のものではない。本当のパワーならそれは繊細さとか細やかさとか、ていねいさが伝わってくる。でもそんな技術がないからともかく思いきりやったというのは、それはそれで評価するということです。

 

 半径1.5メートルくらい飛び超えるというのも歌のなかでは大変なことなので、よかったと思います。自分の主張をする、音楽を音楽としてならしめる、体の原理を使う、これを結ぶ線は本当に1本か2本しかなくて、その1本をとっていた上で展開しなければいけません。 

 

思いきり歌っているしいいたいことはわかる。けれども、誰の歌なの、というふうに聞かれてしまう。いつも突き放せといっている。誤解されては困るが、突き放すのは引きつけるためです。投げ出して拾わなければ、それはかえってわけがわからなくなってしまう。

 

 

 歌から音楽に入ってほしい。どうしても歌から人間のほうに引きつけてしまう。人間の魅力や勢いで勝負しようとしてしまうと、ややもするとやくざのこけ脅しみたいにキャラクターに見える。次の歌を歌ってみても結局同じだというパターンになってしまう。ひとつでも勝負してほしいというところは持っているから、この場合はそれでよいと思うのですが。

 

 できたときにはそれ以上のことをしなければいけない。そうでないと似てきて音楽上のポイントが落ちてくる。それが歌の紹介に終わってしまう原因だと思うのです。確かにその人も歌も出ているのですが、だから音楽としてライブ実習としてよいのかというと問題です。 

 

それから曲に関しても、思いきり出してきた、そうすると自分の力の7~9割でやりますから、どうしても平坦になってきます。だからどこかで落とし込むなり強さ以外のメリハリを考えていかないといけない。イマジネーションの問題です。 

 

 

たくさんのパターンをもっている上で歌い込んでくる。それの幅をもっと極端にとっておいて歌のときにはそうでなくてもイメージが出てくるようにする。ここで極端にシャウトしたり泣くように小さく歌うとかそんなことはやってはだめなのです。もちろん、練習のプロセスでそういうことをやらせます。一人のなかではもっと違う意味で「ジェルヴォ」がきたら、そういっていればよいという形になっているとつまらない。もっとイマジネーションがプロセスのなかでほしかった。もう少し何か伝えられるものがあった。

 

 なめらかにきれいにならしていくという歌い方もあります。そうでなければ何かを起こしていくか。どちらでもよいと思うのです。日本の舞台はその人に合うことを目標にして、その人が許せていたら何を歌っていても許せてしまう。ライブ実習もそうなりかねないところがありますが、独立した作品として基準をつけていく必要がある。 

 

いつもいっているとおり、日本の歌い方は対象があるとすると、そことの距離がいつも同じなのです。それをこう並べていく。日本語もそういう言葉ですから、マスにしっかりと入るものです。欧米は違います。もっと引き寄せたり離したり、対象との距離、音楽のなかでの遠近感はどこかで必要です。切れがあったということは、どこかはまりどころやはめたいところは見えているのです。それが単発の繰り返しでは困ります。

 

 

 思いついたようにでてくる。歌っているときにそういうことに思いついたりするならし方をしたのですが、インパクトは何かを起こすわけだから、次に繰り返してそれを拾いながら重ねていくことです。

 「ジェルヴォ」が繰り返し出て重なっていく。

 

「ジェルヴォ」が忘れたころに出ていたら何の効果もなく、1コーラス歌うのと変わらない。前に置いたことややったことを次にきちんととらえてやる感覚がどこか抜けている感じがする。だから盛りが見えていない。日本の歌ではそんなことをやっている。 

 

プロの構成や出だしからどういうふうにサビにもっていって1曲落とすのかというようなところを学ぶことです。日本人としては、そこから学ぶべきと思うのです。もし日本語で歌うのであれば、そういうところを学んでもらえばよい。盛りをつくることや全体を構成することはどういうことなのか、効果を重ねていくというのはどういうことなのか。理屈ではなくて、感覚のかたまりのなかで音感からリズムから声の微妙なコントロールで、そういうことを組み立てています。

 

 

 それと正直すぎるところがあります。何人かは自分で限界のせまさを見せてしまっている。こちら側で見ようとしているのを、その前に見せてはよくありません。見ていたら見えてしまうものです。見えても構わないものですが、まだ見せなくてもよいところでパンツを下ろしてしまうようなところがある。そんなのは何とか隠し通し貫いていかなければいけない。

 

 映像で見たら自分でも、ここであきらめてしまったとかここでゆるめたとかわかると思います。

 英語に関しては、拍の中心でとるということをどこかで徹底して覚えていく。

 今日は少し自分で表現しようと思って歩き出したような人が見られましたから、そういうことではよかった。

 癖にならなかった。ロックは上からひねっていってもっていけますから、うまくのれた人はそのひねっていくことに頼りすぎないことです。すると今度は下に刺さらなくなってくる。体の原理がうまく働かないうちに流れていく。だからロックは体でとらえ、ある種息を吐いて切ったり、ひびきのところで切ったりします。それは実際に音声が切れるというのでなく感覚的な意味でです。そんな感覚を勉強してください。

 

 

 言葉からメロデイに入ってもよいでしょう。平坦になりがちな日本人の感覚のところをどこかで裏切りながらやってください。それが音楽になっていくと、あまり音楽や歌にするというと複雑になってきますから、シンプルに保つ。自分のところで馴れ合いになってきたと思ったら、そこに何かをいれなければいけない。そこのタイミングや動かし方を学んでください。今日もいろいろなスタンダードなナンバーが出ましたが、そういうものはいろいろな人が歌って、それぞれの呼吸で変えている。

でも必ず帳尻を合わせている。どこかを重ねていっている。

 

 前に置いたことを絶対に無駄にしないで拾っている。そこで、最大に効果を出しているから、聞き手は2コーラス聞きたいし、できたら3コーラス聞いて満足するというふうにもっていける。皆のは1コーラスどころか8フレーズが連続して並行しているようなところがあります。 

 

全体を見てやること、やるときにそれを意識するのは難しいものです。絵と違って自分の描いた線は歌い終わったら消えてしまう。決めとなる言葉になったときに、前の感覚ときちんと比べたりそれに対してどうひねっているか、同じに置いているのか、どういう意味なのか、そういうことに敏感になって練習してください。

 

 

 

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[ステージ実習①]

 

 1クラスに関してはいろいろな段階の人がいますので、自分の目的を設定して、その都度、その目的に対してどうだったのかということを問うてください。歌詞とか内容を忘れてもそんなことでもたないのではない。確かにエラー一つで一瞬いろいろなことが起きる。それは慣れていかないとしかたがない。 

誰でもいろいろなことがおきます。しゃべることでもおきます。パッと思い浮かんだものが消えてしまう、調子の悪いときは戻せないし、よいときは何かをそこでひらめく。

 

 この歌は与えられたときにいくつか歌ってきていたら、どこでとぶがかが予想がつきます。とびやすい歌です。同じことが繰り返されて起承転結があるわけでなく、入れ替えが成り立つ歌です。最初に与えられたときに勘が少し働けば、そういう歌だと気づくでしょう。それをチェックしなければいけない。

 

だから練習で間違いを起こしてくることです。こういうものを与えられたら、自分でわざと間違えます。一日で覚えて次の日にやってみて、そのときにおきる間違いを整理する。日本語で何回も繰り返しているとその間違いがわからない。原曲を聞き日本語で練習する時間を自分でつくってみる。朝一にパッとやってみるのがよい。そうしたら昨日完全に覚えているはずのものを忘れているのが、わかります。意識してやるのです。意識でやると大体出てしまうのです。

 

 

 そういうときにいくつかやっておく。確実にそれを出していきたいのであれば、意味づけを自分なりにしていく。言葉を変える必要はありませんが、この言葉のなかでストーリーをつくってみたり、そういうことをやっておけば忘れにくくなるし、忘れても何かで代用できます。

 こういう舞台を観ているといろいろな代用の仕方があります。何かがおきる。そうなったときに何をおこしたか。何も考えずに1番と2番を逆に歌ってみたり、同じことを繰り返したり、本人が気づかない場合もありました。多いのは2番から歌ったりすることです。 

 

もちろんそんなことは問いませんから、動揺しないことです。声の世界で何を表わしているかというのが、ステージ実習の目的なのです。そういうことで比べて比較基準をつけていってください。他の人とも比較がつけやすいと思います。自分のなかでも今までのものと比べてみてください。条件としては同じだと思います。 

メロディも同じような意味で変化させたりフェイクしたりするのはかまいません。ただそこに理由がないと、この曲を知っているからというわけではなくとも、違和感が起きます。それは進行上のことなどとは別になぜそうしてしまうのかと思わせる。

 

 その曲をそのとおりに聞きたいという人もいます。そういう場合はそのとおりに歌ってあげるのがよい。何か起こしてほしいときも果たしてそういう変化を起こしたときに歌はよくなっているのか、ということをみることです。それも誰にとってもよいということではない。その人の最高のものがでるようにセットされていて許されるのです。

 その人が伝えたいことがより伝わっているかというと、面倒だとか取りにくいとかいう理由で略している。これではアドリブやフェイクが逆効果になってしまいます。手抜きはやらない方がよい。メロディを変えたから歌がもつということではない。

 

 

 名曲にはそれなりの理由があります、それを他のものに変えたとき、他のものにのっかってしまうことが多い。それから歌のなかで、ひとつの構成のしぼり込みのなかで分裂してしまうことがあります。

 全体の構成は美空ひばりさんなどから勉強しなさいとよくいっています。

 

与えられたものに対しての条件にどれだけ自分が動かせるか、その限定は自分で外してもよいのですが、逆にその限定のなかで煮つめていかないといけません。何でもありといってしまうと歌が全部壊れてしまいます。

 

 ある程度、すぐれた曲を課題にとっているときには、とれるところは全部とると考えた方がよい。ただ音域が間に合わないから詰めたとか、盛り上がりがないから3度上げたとか、そういうことは悪くはないと思います。それは歌っている中で起きてくることなのです。 

特に女性で2オクターブの課題が出たら、そのとおりに歌っても難しい。1オクターブ詰めてくるとか、裏声に変えるとかいうのはよいと思います。

 

 

 ステージ実習で聞いているのは、ステージ全体ですが、音色、スピード、メリハリです。1クラスのときは、それに慣れてほしい。英語で歌えていないのは、その切り込み方のスピードです。息で声をコントロールするという言語の上にのっている音楽とそうでない音楽の違いは、鋭さなのです。そのことによって音の高まりというピークをつくっていくことです。 

ピアノでも力の強い人が躍動感を出せるということではありません。女性でも男性でも弾き方のタッチの差はあるとは思いますが。結局は打鍵のスピード、切り込み方とその人のもっている感覚のフレーズ感が音色を決めるタッチなのです。

 

 ライブ実習になるとピアノとの掛け合いになりますから、そのまえに自分の自由な呼吸のなかでフレーズ感をどう出していくか、音色、息のことをステージ実習で徹底してやっておいてください。それなら2や3クラスにいかなくてもよいと思っています。あとはステージでまとめていけるからです。 

ピアノでは動いていても、それを変換させるものはフレーズの感覚です。それを指で伝えてどうやるかというのは打楽器のままでは、フレーズ感が出ない。出ることがあっても、両手になって複雑に感じているうちにはできない。だから音にすること、音をつくり出すためにどうやるか、音を伝えることを音声に対して鋭くしていく材料として使ってください。

 

 それからまだ自分の頭の方が先に働いていて、呼吸が体の原理にそぐわない場合があります。それは呼吸がそうなるのを待たなければいけないから、今のなかでは1オクターブくらいの歌です。大変なら待てばよい。そこを見極めていけばよい。それでもたないと思って違うやり方をとっているのなら別ですが、なるべく生かしていくことです。 

 

 

日本人の歌い方のようにあまり情感を入れない方がよいというのは、媚びて見えてくる。ある一線以上のものは淡々としているもので、そこに在るものです。あまり私情を入れない方がよい。

 感情は入れなければいけません。だからこそ癖はつくしいろいろな形での動かし方もできるわけです。それは感情で変化するのですが、そのタイミングや節度が難しい。

 切れなのか粘りなのかというのも同じです。基本的には媚びてそこに浸り込むのではなくて、突き放してもってくるというような距離が必要です。それはある意味ではハーモニー感覚です。そこをどうビブラートでゆらしていくかのようなところは音楽によっても違う。

 

 形からとるのはよいのですが、そこで終わってしまったらよくありません。形が残ってしまうと、感情でつくり上げた形のようになってしまう。宝塚や劇団四季でもそういうところが目につくから、臭くなってしまう。その臭さが好きな人もいるからそれでよいのですが、そこの一員でなければ、いろいろな解釈ができないといけないのです。そこまで臭くしてしまうと一回でよいというようになってしまう。でもそれはそれで突き詰めていったら何が出てくるかわからないから、やるなということではないです。

 

 ただ私はそのことに対して、そこまで複雑にしなくても、もっとシンプルに相手が心のままに受け入れられるようにできると信じています。歌い方や声の出し方に、ひとりの人がせこまか考えてつくり上げるよりももっと自然なものがあり、その方が大きい。伸びやかな方が好きです。

 その人の好みにもよります。一番間違えるのは自分が癖をつけたり動かそうとしていることです。聞いている音楽だから、その影響が強くてどこかで聞いたふうな歌で終わってしまう。

今十代のカラオケをみていると、影響を受けています。確かに聞いている人からみれば似ているとうまいといえるかもしれませんが、それ以外の人がみたときにどこかで聞いたふうだとなって、何も残らなくなってしまう。それがもったいない。 

 

 

その人を見たいし、その人をつくり上げる世界を見たいし、その人の感覚を見たいのに、別の人の感覚をその人が示してしまう。別の人を見にいった方がよいというふうになってしまいます。

 声や歌に逃げないこと、それが表現の形の手段として歌や声があると私は考えます。歌に逃げないことも大変なことです。それは日本の特別な感覚だと思います、歌という特別なものがあって、思いをワーッと吐き出すものではなく、高尚なもので、考えてやらなければいけないというようなものになってしまっているのは変です。もちろんそういう舞台もあり、歌詞のところでもつ要素もあるので否定はしません。けれどそのままいって降りてこないというのが日本のおかしいところです。それを最終目的としない方がよいと思います。

 

歌詞の内容について、誰かのアテンダンスに歌に逃げるとはどういうことかとありました。歌のなかには逃げの部分がたくさんあります。「この大空に~」でもそうではないかと書いてありました。そういう意味で歌に逃げているといったのではなく、別に桃源境があって、現実が辛いからすごい世界に行こうとか死んでしまおうとかはよいのです。ただ、その結果を受けてお客さんがどうなるかというのが大切です。悲劇を悲しんで、劇場の外に出て自殺する、そんなことではなくて、元気やカタルシスを得て、明日を生きられるというような強さが与えられるかどうかということです。

 

 聞き手が受けることは必ずしもロックやポピュラーとはいいませんが、ひとつの真実味や純粋さだと思います。それを歌い手がどこかで感じていなければ聞き手も感じない。メッセージソングになってくると一慨にはいえませんが、ここで基本に使っているのは、そういうものの方が多いし、そこが本質にあって、いろいろな歌い手がいる。そういうまんなかの勉強をした方がよいのではないかと思います。

 そういう純粋さや真理、どうしてこういうことをやるのかというと、それに触れられる一瞬というのは自分をきちんと感じられる。自分を除いても大切なものがあるのです。

 

 

 ある人は「真理があるから習いに来るのではないですか」といっていました。誰にでもそうだとは思わないけれど、何かそういうものがあって、それは現実離れしているとはいえない。歌に触れていると、その辺がすーっと現われてしまう。

 少しはよい格好して生きたいし、格好よい感じに触れていたいというような人間の弱点をうまくついてくるというところがあります。

 

 後は粘りです。今日も最後の方でいろいろやっていましたが、人にできないことは何かと全部やってみる、自分一人でできないことは人前でもできませんが、それを試みて、おとしてこなければよくありません。

 成り立たないものは捨ててこないといけません。

 

できないことをやりたいといって人前でやっていてもしかたがない。それは言葉や曲を変えることで目立ってしまうことではない。何かこいつの伝わるものが変わったとか、新鮮になったとかそういうところだと思います。そういうところで捉えてもらえばよい。

 

 

 音と音の結びつき、ひとつの音と音の結びつきのなかで音色の生の色とか、そこに命があるわけです。それを日本の歌のように点と点でつないでいくというやり方はとりたくない。線が湧き出ていて、それが最終的に言葉をつけてみて、とってみたら点で書くしかないから楽譜になってしまったというような歌の方が、歌う方も楽です。間違っているということが生じません。そういう歌い方をめざしてほしいと思います。

 

 日本語の朗読や台詞というのは本当に口先でやって、現実離れするのはよいのですが、リアリティが薄れてしまっている。その伝わらないところや殺しているところはもったいない。

 音楽、声、歌、台詞、音色、リズム、何でもよいのです。何かの力で伝えればよい。

 

リズムのすごい人とか展開がすごい人とか、リズムのこういうところでは絶対に強いとか、研究所でもいます。

 皆のなかでも上のクラスになるといろいろととんでくるので、こちらも予測できるようになります。そういうものを持ち味にしてください。

 

 

 それから声を動かすのに「ハイ」や「ハ」で練習させているのは、息が定まらなければだめだからです。これはジャンルに関係なく同じだと思います。定まるところに定まるように、体や感覚がいかないと開放も展開もできない。それで必ず戻せるということ。基本は再現性だといっています。

 どんなにめちゃめちゃなことをしてもよいのですが、ピタッと次の瞬間に戻せないかぎり、その基本は成り立っていない。単に崩したり流したりしているものにしかすぎない。

 

 ここは「ハイ」で2年やってもよいといっているくらい、基本を重視しています。自分のところの課題として、歌も歌えないし声もしっかりと出ないが、「ハイ」という返事だけは誰よりも遠くからとぶようになった。そうすれば次の2年があります。冗談みたいですが、定めるところを流したままでやっていくと、そのことだけをやっている人にも負けてしまう。 

 

私は「ハイ」で練習したのではないですが、そのことをやっていたようなものです。水泳でも、逆の手を伸ばすところで進む。素人はすぐにかこうとするから、伸びずに疲れてしまう。ピッチャーでも、右手できちんと投げたら伸ばせるということと、左側で反動を受ける。全身でやるということは反動を受けるということです。

 

 

 そういうふうに全身を連動させていくという中にリズムを入れていく。トレーニングをしている中でも「ハイ」や「ララ」で、余計な細かな動きがついてしまう。たとえば「ハイ」というときに、「ハイ」といわないと出ない。それはよいのですが、「ハイ」はとっておいて後のものは余分だということを頭のなかに置いておかないと今度はそこから出れなくなってしまう。

 喉のトレーニングでも難しいのは、あるところにいくことを意識して「ハイ」とやる、そこまでは確実にいけるようになるのですが、それより深まらなくなってします。

 

 最初はこのくらいの浅さ、次にこのくらいといって、ここに固定してもってしまうと、今度はそれ以上に入れなくなってしまう。だからまたそのことを忘れるしかない。それの繰り返しです。 

ひびきでも同じです。こういうことは身体的な感覚なので説明しにくいのですが、あることを意識するというトレーニングは必ず部分的です。

 

意識してそこまでいくので早いのですが、そのことに限定するので、次の年にはより厳しく、より集中してテンションを高めて突破しないと、とどまってしまいます。

 今みていて、3分の2くらいの人は言葉がいえていない、日本人の日本語がそうです。いえないということはつかめないし動かせないということです。 

それを歌のなかでやるより言葉や「ハイ」のなかでやったり、息だけを吐くことでやっていって体を変えていくしかない。皆そこをやらないで歌い上げたりするので2年までは伸びても、そのあとが伸びない。 

 

 

そこで圧力をかけてとか切り込みを入れてとイメージがどんどん膨らんでも、声がつかめていないのだから、それができない。だからひびきやフレーズしかとれない三流声楽家のような歌い方になってしまう。それはのっけるだけで、きれいには歌えるのですが伝わらない。

 

日本のミュージカルなどは、そのフレーズ感を重要視して使いまわす。安易なやり方です。前にそういう人達がいてうまいと評価されて、それに似ていれば評価されると思ってしまうのです。つまり、越路吹雪美空ひばりのまねをしておかしくなってしまうのです。彼女らは自分の体を知っていて自分の表現をつくり出したのです。宝塚でも昔の人の借り方に安易にのっかって、それをまねて勉強して悪くなります。だからだめなのです。

 

 ここでもそうならないようにしてください。いろいろな先生がいますが、そういうふうにやれということではないのです。その人なりのタッチをもっている。それに変わる何かを勉強するためにそういう人達がいて、皆違う歌い方をしている。同じ歌い方をしていては、ロックでもポピュラーでもありません。

 

 

 今の舞台では、まだ体の確認をしているところが見えすぎます。それは忘れなければよくありません。レッスンのときもそういっていますが、自分一人のときに確認してください。レッスンやステージ実習の場で人前に出てきたときには、前に出すことです。それを考えたり意識したり、準備しようと思った時点で引っ込んでしまう。 

 

中には声を出しながら意識して確認している人もいますが、出るものは出るまで考えてよいし、それから出し終わった後に考えるのもよい。でも出しながら考えてどうなるというのでしょうか、そのときは出すしかないということです。スポーツをやっていたらわかると思いますが、投げるときにボールを離す瞬間を考えてもしかたない。そんなことをしたらボークになってしまったり落としてしまったり大きなミスが出ます。そういうけじめはつけた方がよい。

 

 外に向けてやるとき、内に向けてやるときの切り分け、ステージ実習の場は外に向けてやった方がよいと思います。自分のなかで閉じて確認するような作業は一人でできます。映像に撮って自分で確認すればよい。

ステージ実習の場合はお客さんがいるのだからそれしかなくてもそれで何が伝えられるのか、別に声や歌がなくても人間には伝わるものがあります。そちらの力を先につけていった方がよい。その人の顔の迫力とか気迫とか、高まってきて眠気を吹き飛ばすようなものです。 

 

 

このくらいの人数ですからその人の力でストレートに働きます。トレーニングの途中経過があまりにも見えない方がよいと思います。それが癖になってしまうとなかなか抜けられなくなってしまいます。

 胸に手を当てながら歌うのもやめた方がよい。それしかなくなってしまうからです。

 

レーニングはあくまで部分なのですから、それが中心になってしまったらいけない。何かをやりたいためのまわりでいろいろやっていて、そこの位置を自分でつかんでおかなければいけない。何もわからない人はまずそこだけやってみるというのもひとつの手ではありません。小さくまとまっていきます。そうすると事を起こすことができなくなる。

 

言葉を投げろとかつかめというのも、全部事を起こすためです。それを動かす。音楽や歌というのはそれを修練させていく。起こすだけなら騒いでいるだけですから、それを音楽的な感覚をもってより修練させ、それをさらに重ねていくという構成をとっていく。

もうひとつ前の世代の感覚にとってみれば、あなたの今のバランス感覚は間違っています。ヴォーカルをひっこめている、昔のこういうものがヴォーカルの歌のバランス感覚だったのです。

 

 

 私が加工しているのではない。1000Hzを上げていくとヴォーカルの域が強くなる。ここは一切していない。トーンもベースもあまり聞かせない。あまりに音がもぐっているときに少しかけますが、ヴォーカルだけを浮き上がらせるようなことはしていないのです。

もともとのCDがそうなっています。 

今は自分の課題に対してどこまでできたか、それからまわりの人達がどう1ヵ月ごとに変わっていくのか、そんなところを見てください。

 

 10月のオーディションで12月のライブの出演者の選択をします。 

そういうときに自分が勝負できる場所はどこなのかを考えてみてください。人をまねて、その人の方がうまくなるような歌い方は最初から捨てていくことです。練習のなかでいろいろやっているのはよい。まねもひとつの才能でしょう。

 

ピアフやミルバは無理でしょうが、昔は皆そういうものをまねて勉強していったわけです。まねていてもしかたないというところで自分がわかってくるでしょう。自分の気づきやすい歌、気づきにくい歌とありますので、そういうふうに勉強してください。

 

 

 

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<ステージ実習③>

 

 フィードバックをしてください。

 音楽的な基本の力の不足です。 ほとんど意味なく音程を外してしまうのでは、勉強ということが成り立たない。

 こちらもレッスンの進行を考えたときに、力の有無でグレードやクラスが上がっていけばよいのですが、とりあえずレッスンの妨げにならないとか当り前のことが当り前にできるくらいのことで上げていかざるを得ない。

 

今の④クラスでも今は大したことはなく、ピンキリです。点数でつけることはできないですが、入門から3クラスまでは1から20点くらいなもので、4クラスは20点から2000点くらいまでの差があります。4クラスを4つくらいに分けたいくらいです。前に5クラスをつくってみましたが、グループレッスンはきて始めて成り立つものなので、出席がないと成り立ちません。

 

 問題なのは基本として2年やらなければいけないことが最低限ありました。その2年でできなかったことをきちんと次の2年にかかってやることです。これは漠然と4年6年やっていくのとは違う。 

同じようにうちで1ヵ月ずつ今月何をやったかというのと、トレーナー方のレッスンを評価していくのも、毎月締めていきたいからです。ステージ実習もライブ実習もそうです。

映像を見て、気づかなければいつもどおりに思って、いつもどおりに練習して、そうしたら5年たっても10年たっても何も変わらない。 

 

 

難しいのは初心者よりも長くやって、そのことをきちんと感じられないセンサーをもつ人の問題です。センサーがあってもそれを正せない場合にどうしていくかというようなこと。今日の全体のレベルでいうのであれば、2の方が相当上、下手すると1クラスにも負けます。それがどういうことなのかをきちんと見なければいけません。

 

歌になったときにトレーニングの成果がすぐに現われないのも、トレーニングに目的があったときに歌が横にいってしまうのもわかります。しかし、期間でも年齢でもないのですが、どこかで振り切って、少なくとも何もやっていない人よりは何かをやった。その勉強をしたものを何か示せるというところに来ないと嘘でしょう。

 

 音感が鈍い人は慣れていなかったりセンサーが働かなかったりして、時間をかけて直していかねばいけないのです。それだけの問題なのかといったらそうではない。ここは日本の歌をうまく歌えても、足りないものがあってそれを身につけたらもっと使えるようになるというような基準で置いている。皆さんがどういう歌い方になっていくかは自分自身が決めていけばよい。

 

 

 ただ一番違和感を持つのは、ここがやっていることやどう出せばよいかということをわかっていないでやめてしまうことです。実際に私は日本のニューミュージック風に歌っていくというならそれでよい。でも、英語のバージョンや欧米系のものを歌うとしたら、ここでやっていることが反映していないというのでは、上達できません。特に前半に対しての感想です。日本人らしいし、でも日本人としても何かが違うと思います。そこをきちんと見ていかないといけない。今のJ-popもまた違う。歌という土俵の上にないことが問題です。 

 

日本人らしいところは、あくまでも線そのものをムチのようにビートから動かそうとせずに点から点につないでいこうとするところです。☆私がいっている強くするとか弱くするというのは違います。体のなかでいう息のコントロールなのです。それを音上のコントロールに甘んじる、同じ線上に引いていて、ここを強くとか弱くとかいう感覚で捉えているのではないかと思います。 

だから声が美しいとかレガートがきちんとできる人は、昔の歌い手にもそういう人がいましたが、そうでないともたない。それは私はあまり勧めていないということです。

 

 それからまだステージ上の態度面での注意というのが特に前半の人に必要です。肩から上ばかりで、顔でも歌っていない。本人がその気になっていない。これも日本的な歌い方のひとつの特徴です。そこに動きをつけると媚びたような歌い方になる。

 どうせ体を動かさないのなら、東海林太郎さんみたいに直立不動で堂々とすればよい。ステージに立つときはだれよりもきちんとしなければいけない、正装をして士気鼓舞するというところまでいった方がまだ言い訳がつく。時代がどうこうということではなく、ステージのスタンスとしてそういうこともあります。

 

 

 お客さんは卑屈なものや媚びているものとか、下から持ち上げるものを観たいのではない。その人が一番魅力的で堂々としているところが観たいのです。日常のなかでそういうことがまったくない人にはそういう注意はできないと思いますが、誰でももっと威厳に満ち、人に訴えられるような表情をしているときがあると思う。

 後はようやく呼吸や声が語り出してきたという人が何人かいまして、ここはよいのですが、もう少しもっていかないと結局形や癖に引きずられます。

 

せっかく語り出してきても、そのことに自分が意識しないでこうもっていこうとか響かしてしまおうとかなると、そこにとってつけたような人工的なものがついてしまう。わかってやっているのならよいのですが、それが歌うことだと思っているようなところがある。

 

歌も音域をせばめたのはよい、そういう変え方もある。でもそこの部分をせっかく語り出してきたものをきちんとつないでいくということをしなければ、ところどころ語り出しているということで終わってします。もっと主体的にものを出していった方がよいと思います。

 

 

 3、4、5番目とけっこう似たようなかたちが多かった。日本の歌い方でもきちんとしているものはしているのですが、特徴としてフレージングが大きくなくシンプルです。歌を4つに捉えてとか4つのフレーズで捉えて歌をまっすぐもっていこうとか、複雑です。ベクトルを定め、四方八方に出していくのではなく、ある一点に対して集中していくべきでしょう。そこのところにまだ歌い手のためらいや迷いが、出しながら考えているところが見えてしまう。

 

 日本の劇団でも、ぶつ切れを見せないためのテクニックというのはたくさんもっています。私はそれに早くから入るのは否定的です。たしかにそうやると言葉は聞こえるし普通の日本人に感じるものも出ますが、音楽上にのっていない。フレーズとしての力のないところでそれを許してしまってよいのだろうか、逆にいうと外国人はそんなせこまかしたところは何も感じず、パワフルに動かす。

 小細工になってくのが日本の場合は許されています。ノリやグルーブ感がそこで全部落ちてしまうのです。そこは日本らしいのですが、そういうものとは本当は違う。

 

 日本人に成り切るのなら成り切ればよいと思います。イタリア語で歌った人もいたと思いますが、その入り方ひとつのところから見て、体に引きつけられていないし、一音ごとにぶつ切れになってしまう。これはそのまま出すというようなことは最初に勉強していくことです。そこから展開したり変えていったり、その感覚を持ちながらメロディックに入ってみるというふうがよい。ダラダラとなるのがいけない。もっとさっぱりと淡々としていて、その代わり情、熱さみたいなものが伝わらないとわからない。

入るときからリズムがない。

 

 

歌がわかっていないのは、トレーニングをやっている中ではしかたない。ただ、そこは自分で自覚しないと、いつも反省していろいろなものを学んだのはよいかも知れないが、変わらないでしょう。

 たとえば野球は一塁ベースに走らなければいけない。それを自分で三塁ベースだと思い込んでいても、皆が右に走っているというイメージが入ると、気づかなくても直っていくものです。そういうふうに直らない人は、もう一度全体から見なくてはいけない。きちんと現状と自分を認識すべきと思います。

 

 自分は見ているし、わかっている、ただ力や声がないからできないのだというのではなく、できないのは見ることができていないのです。だから今までもできていない。直さないとその後もできていかない。見ることをやっていかないと塗り絵みたいなペタペタした歌になってしまします。他人に許さないことさえ、自分には許してしまうわけです。それの繰り返しで上達はありません。

 0.1くらいずつ上がっていけばよいのです。それが見えていたら私は何もいわないのです。

 

 その辺の問題はどこでも大きいと思います。歌っている間でさえ反れてくる。その反れてくることに対して甘い。普通なら自分で不快になってそこで切ります。それは普通の人の普通の感覚です。目の見えない人がこれが黒か白かわからないというくらいにそこは見えていない、聞けていないということです。生じ長年も歌っているとかトレーニングをやっているという自負が自らを盲目にしてしまうのです。

 中間くらいの人達のまねだけのは絶対に通用しない。いろいろなものを聞いてくるのはよい、それをやってみるのもよい。でもそれを人の前に出すということについての判断は甘い。

 

 

 入ったばかりの人はしかたない。それしかない。でも少なくとも自分が歌と本当に接していたときに、それが何かになるというようなことはないと知ることでしょう。そうでなければ一人でやったほうがよい。その人のためにもよくないし、そこでできていないのに何かができていると思ったらもっと大きな勘違いになってしまう。

 それはよかった歌を最大限おとしめてやってきたというだけのことです。だから何もならない、練習にもならないと思います。

 

 完成度みたいなものを歌い手からとるのはよい。しかし、その勉強すべきところを全部無視してやってしまってもよくありません。まず出だしでもよいので、完成度をみてください。自分ができるできないということは選曲でも判断をしなければいけない。普通の人でもできる歌しか歌わない。できない歌を歌っても何の勉強になるのか。それはやってはだめということではないのですが、人前に出しても自分の不利になるだけです。

 

 私は不利なところは人前で見せなければよいと思っています。実力も、よいところを一番編集してきて通用すればよい。悪いところばかりバラバラにもってきたら通用しない。一番弱いところを全部人前でやって通用するはずがない。多くの人はそんなにすぐれているのではない。

 自分で編集できないし、わからないというのが、一番の問題です。今日の選曲は全体的にみてひどい。何でこの人がこれをもってきたのかというのが多い。ようやく最後になって少しわかった人がいましたが、前半は選曲ミスというより、果たして選曲が働いているのかというくらいです。そういう勉強の仕方は2年も経ったらやってはいけないと思う。 

それが見つかるまでいろいろな曲に当たっていくのはよい。そこでセンサーが働いて、練習の過程のなかで判断すべきです。

 

 

 オーディションがあります。そのときも同じことをいうことになるでしょう。今日いっていることも今までに全部いっていることです。だから一本の線をきちんと描く。でもなぜこんなふうにできないうちから歌わなければいけないのかというと、全体を描く練習を何度もしないと、一本の線を描くということがどういうことがわからないからです。示せれば一本の線でよいわけで、そのことを展開させていく。歌は何本の線かわかりません。

 そういう練習とその延長上にあるのが、ステージ実習です。 

 

音や声を扱っているというのはあまり意味がない。だから本当はやらない方がよい。発声の問題と表現の問題がありますが、選んだ歌の評価や解釈、つまり、どう考えているのかが見えない。

 歌のなかでもやってよいことといけないことがあります。やってはいけないことは何かというと、皆がやらないことはやってはいけないとはいいません。やらないから問題には上がってこない。やってはいけないのは誰もがやってしまうことです。だからやってはいけないことなわけです。よほど気をつけなければいけない。そのやってはいけないことばかりを全部並べて、これが作品だといわれても作品ではない。そういうことを練習のなかで区別してやってきているのかが問われます。

 

 全体的に今日の前半に関しては突き詰められていない。真面目に取り組んでいるのはわかるのですが、ここは、誰かに対して何かを与えたり表現したり、歌として成り立たしめるというところです。そこは前提の問題と思います。

 それだけのものを背負っていない。それは責任とか使命感ではなく、イマジネーションの問題です。それが全然感じられない。その人が本当に現実に歩いているままで、現実に歌っていたって伝わるものはあるのです。

 

 

 私は一般の人の歌もカラオケの歌も聞いています。下手だったりひどかったりしますが、それでも元気だとか楽しそうだとか、何かが伝わります。しかし、そういうものだけでは、逃げ場だらけになって、よい状況ではないからです。

 歌い手に、歌で乱暴にうさばらしされたら客は逃げるしかない。それがこれでもかと出てきてしまう。情熱で出てくるのならよいのです。それでも何か伝わるわけでしょう。あなた方のやっているのは何だということです。全員にいっているわけではありません。

 

 そんなこといっても自分はできないとかすぐれていないとか、それは原点としてはよいのです。それで入ったのでしょうし、誰でも最初はそこからでした。

こういうことをやっているのに愚痴は不要です。表現演出に関して、人前で自分を大きく見せることに関して最も遠いところにいた人だから、そのことに一生をかけれ、それで人前でそういうことを価値づけて与えられるようになった人もいます。大体世の中そういうもので器用では大成しない。そこはよいのですが、それは変わっていかなければいけないということです。正すことができないのが一番の問題だと思います。

 

 今、個人的なアドバイスをトレーナーに頼んでいます。仮に他の人が書いても同じです。どうしてもいえないことも私が正直にいっている。思い込む、そのときに修正をかける。これができるには厳しさが必要です。文章でも、私はすごいものを書いているといっても中学生が読んでみてここがおかしいといったら、おかしいのです。そういう正常な感覚はいくらそのことに打ち込んでいても、働かなければいけない。

 

 

今日の歌を一般の人達が聞いて、下手だというならやっぱり下手なのです。そのくらいのことはあなた方が見ても見れる。見たことがなぜ直らないのかというと、直すところが見れていない。それをここでは唯一、学ばせているはずです。

 1フレーズを聞く勉強は相当しています。他の人に書く評価の力は相当ついていると思う。それは、他人への評価ではなく、自分の評価ができるためです。 

 

どこでいつ勝負をするのかというのが、歌のなかで見えないままに終わってしまう。1曲として成り立っていないわけです。それは本当に自分の作品をきちんとみていないということです。 

バランスの悪い絵の話をよくします。私が絵を書くと、親指から描いて小指がものすごく大きくなる。小さい子もそうです。きっとその練習を10回20回やったら、最初からある程度直る。ところがたまに描いてみるとまた元どおりになっている。それは画才がないというよりそういうことを念頭に置いて生きていないからでしょう。 

 

何となくそんな感じです。それを続けてやっているはずなのです。それを見ていないという気がします。別に中学生が聞いて、うまいという歌を歌わなくてもよいのです。わからないけど面白いといわせたらそれはそれでよいと思うのです。そこから何かが生じると思います。

 

 

よくトレーニングに逃げるという言葉も使います。

歌自体が目的になっているのが一番好ましいことです。たとえば歌を手段として世の中に出ていく方が芸術家としては邪道な考え方だと思います。ここの考え方はプロの意味合いは、他人に何かを与えるということだけど、他人に与えなくても自分にその力が与えられれば、それはそれでよいと思うのです。あなたが自分の歌で元気になれば、まわりの人もよくなります。

 

サラリーマンをやって、いつもへとへとでもう死にたい、でも歌を聞いたらあるいは歌ったら、自分に勇気づけられて明日を生きる意味がわかったりするとしたら文句もない。そこでは自他の区別はしていない。ただ、そこで何かが生じる。生じるということ自体も邪道ではないかと思いますが、教会行ってみたら心に触れるものがあったりして元気になるというようなものを、言葉でいえないのですが、感じます。

 

歌をどう捉えるかというのはその人の価値観ですが、そのことをそのまま、示さず消化しても芸としての行為にはなりえないということです。歌は、自分のなかでなく、常に相手との間にあるものだからです☆。トレーニングに逃げるとは、汗をかいてさっぱりした気分になってしまうというので終わることです。結果を出さなければプロの世界では通用しない。「がんばれ」といわれたから素振りだけやった。それは認められない。素振りで何が変わったのかという結果しか問われない。

 

 

 「たくさん書きました」「誰よりも早く2晩で書き上げました」といっても、そんなもので誰も見ない。そこで何日かかろうが、たくさん書かなくても、その内容がどうなのか。それが人に価値が与えられ、きちんとしたものがつまっているのか、そこで問われます。 

 

そこを見て、価値評価基準をつけていかなければ、場が成り立たないということです。自分の好きなようにやってみて、気持ちよければよい、好きに歌っていて何が悪いのかといわれたら、それでここに来るのが悪いと、いうしかない。こういう場として保つためには、それが自分を通じ、自分にも他人にも力を与え、あるいは他人に与えながらやることで自分に力をつけていくというようなものだと思います。

 人の歌詞やメロディ、曲を使っているのは、その人達のものですぐれて、人の心をとらえてきたものの方が、力がより与えることを学べるからです。

 

 本当はつくるときにそれをいろいろ変えなければいけない。レッスンも組み替えていますが、人の歌詞も自分の歌詞にしなければいけない。言葉を変えるということではない。言葉は形、そこの実の部分のことです。

 メロディも人の歌い方もそうです。だから自らつくらなければいけない。

 

 

クリエイティビティが問われる、その手間を省いてはいけないと、省いたらそこにかけた人達よりは得られないということです。ただ、そういう材料がたくさんあることはよいことです。手間をかけることは苦しいと同時に楽しいことというのを、どこかで感じていかなければいけない。

 

今度のオーディションで7人のトレーナーが同じようなことをいうなら、そこは直すべきところでしょう。そういうことはあらかじめわかっていなければいけない。 

たとえばここに立ったときに、こういうふうに歌ってしまうときっと○○先生はこういうし、○○さんはこういうだろうと。だからこう歌わなければいけないということではない。それはわかっていた上で、自分でどう出したいのかということです。 

 

こういうことの勉強を、私がごちゃごちゃいっているのも、ひとつの基準としてわかったら、4や5クラスにいって、いろいろいわなくても、終わった瞬間に自分の結果がわかるようになることです。全体が終わった瞬間、今日は何をいわれるかがわかるようになります。私もそれほどきちんとわかるものかという疑問があったのですが、いろいろなものを出してもらったり総合評価をやっていると、本当にわかるようになるものです。だから芸事は成り立つのでしょう。

 

 

そろそろゲームを考えなければいけないということです。蹴る練習はよいのですが、蹴ることに一生懸命になって、みえなくなってしまってはよくありません。目的が必要です。要は自分がボールをキープしている時間を競うのではなくて、とにかくボールを進めること、それからボールだけ進めばよいのではなく、ドリブルなら自分が蹴った分だけの速度に追いつかなければいけない。自分が動くようにボールがともなっていけばよい。ボールを蹴ることが目的ではない。パスを出すということも誰かに対してメッセージを了承して、それを確認する行為なのです。

 

 だから、おかれたあらゆる要素を最大に使ってどう組み立てるかというのを、歌のなかでもステージでもやらなければいけないと思います。それが今だに遠く蹴れたとかシュートの本数を打ったとか、意味のないところでの判断基準になっていることが気になります。そういう時期があってもよいと思うし、もしかするとそういう時期に戻らなければいけない人もいるのかもしれない。

 

 しかし、一つひとつの意味をもう少し捉えなければいけない。世の中で音楽で、こんなに甘くてよいのかというくらいに甘いです。他に何かが出ていたら、そのことを失わないようにした結果という言い訳はできません。一般の人が聞いてわかるような音の外れは通用しません。一般の人の前で歌っても、音痴といわれます。日本人はそういう耳を持って、それに厳しいから、レッスンでそこばかり優先されてしまいます。外国人はそれに甘いのではなく、リズムも厳しいし、音の世界も厳しい。表現のオリジナリティで問う。それを自分でわからなければいけません。

 

 

 学べなければ楽器で弾いてください。歌っている間に崩していると思うのです。レッスンをしたまま歌ったらそんなに崩れない。その崩れ方は、楽譜を見ないで、あるいはメロディを聞かないで、あるいは最初は合わせていたけれど、自分で思い込みのなかでやっている。だから歌からどんどん反れていくのです。そういうことはやってはいけない。

 声も大切ですが、歌にも大切なものがある。今日聞きたいのは、歌って何なのかということです。別に研究所の歌があるわけではない。一般的に歌といわれるものに、いろいろなやり方があるので、そこからはみ出すのはよいのです。

 

 サッカー場でボールを持って、走り出した人がいて、そこからラグビーが生まれた。それが時代やまわりのある種の期待するものにこたえていた。そうでなければ、ボールを持って走ったりしても何も生じないのです。そういうことを歌のなかでしてはいけない。

 今だにどうしてその曲を選んだのかとか、その曲に一体何を感じて伝えたいのか、全然わからない。きっと課題を課題としてやっている。1ヵ月目と同じようなことを何ヵ月もやっている。 

それから少し器用に歌えている人も後半にいますが、旋律を声に変換しただけのものは、やめた方がよい。コンピュータに負けてしまいます。他人の歌のままです。

 

 日本人がそうなりやすいのは何回もいっています。メロディを言葉でとっているからそうなります。それを注意されてもよいのは入会時だけです。的として掲げているところが違うと思います。メロディを言葉でとるのは当り前ですが、それだけでは歌だとはいっていない場です。方向違いです。

 ニューミュージックやフォークもどきで歌っていこうという人には、これは通用しません。それはそれでよい。そうしたらああいう人達のように、自分で作詞作曲してみたものを、もってくるべきです。声の力や歌い方が同じだといって、何かが通用すると思ったら間違いです。現にこのように歌える人はいくらでもいます。高校でもひとつのクラスのなかで、何人かいると思います。

 

 

 それが終わって、N君くらいからようやくステージの安定が感じられるくらいです。彼でも歌は不安定で、それぞれの後ろがかけている。それでもそこで安定したと思うくらいひどかったということです。統一していない、そういう厳しさが欠けている。 

彼のところからいうと、後半の語尾、言葉の乱れが、せっかくの聞かせどころをだめにしている。声もよいしそこから出るものもよいのですが、それらに頼ってしまうところがあると思いますが、それは使い切らなければよくありません。

 

 Sさんのあたりも、声の感覚や出ているときはよいのですが、声で聞かせられるというのは限度があるから、逆に声がものすごくすぐれていなければいけなくなります。声より感覚が伝わらなければいけない。しかし、その歌のところで、ようやくブロック、歌の構成がようやく見えた。すると、そこまでの人は何をしていたのだろうということです。ただ、正直に歌いますから、もう少し工夫しないと全部底まで見えてしまう、そうすると2番、2曲目がもたない。誰でもできるフレーズづくりだけでなく、歌として少し独自のものを感じながら入れるプロセスが必要か、あるいはステージのなかで入れていくかです。 

 

そういうことは声の力のある人ほど鈍感になる。それでもってしまうところもあるし、歌ですからそれもよいと思います。それが抜けていったら、あの人の声がバーンと出るのがよいというのも、音楽的なことがあってのことです。

 練習はしていても、それがステージの気迫にならなかったり、体も立った瞬間に前に気が出てこないのは、トレーニング自体のテンションの問題です。

 

 

練習をしているとかがんばっているとかもよいわけになると思います。厳しいかも知れませんが、ここはプロセスを見ます。一般の人はプロセスなど見てくれないわけです。そのときのあなたの作品のどこかをさっと聞いてみて、あなたの価値を一生分、すぐに見切ってしまいます。惹きつけられるのか、それさえも聞こえてこないのかというようなことです。

 

 後半の人も、歌自体はきちんとしたメロディや美しさや構成を持っています。それをきちんと勉強した上で、自分のことを知って変えてくるのはよいのです。そのプロセスが全部省かれているのではないかと思います。

 

 自分が勝手に変えたら何かが生まれることを創造と思ってしまっているのではないかと、そこを許してしまっている甘さがみられます。そのことを本当に選んできたか。いろいろなひらめきが起こりますが、ほとんどのひらめきはあるプロレベルの人が作った歌や歌詞には、かなわない。

 

 

 それを客観的に置いて選び直してくるところで厳しくしてください。そうやって選ばれたものかというと、そうではない気がします。声の使い方も、癖があってもよいと思いますが、そこに頼りすぎてしまうと、個性でありながら癖といわれてしまう。その人のよりよいものを邪魔してしまっているからです。

 そういうものがない人は、癖がついていたりいい加減なことをやっていても、その人の世界観やスタンスが伝わってきます。そうでないものは周辺で中心でないと思います。その判断は難しいし、歌によっても違ってきます。

 

 どちらにしろまず正しく歌うのが前提です。正しく歌えなくて動かすのは、ひとつの逃げ方で、それも許せると思いますが、その動きから降りてきたり、ひらめいたものでよりよいものにしていく作業をしていかなければいけない。

 場の逆転が起きていないです。聞いている人を客にしなければいけない。聞いてもらうから、聞かせてあげるという逆転を起こさなければいけない。

 

 「ケ・サラ」は「どうにかなるさ」というような歌です。それを表わせた人が勝ちとはいいませんが、少なくともそのことを考え、そういう歌い方をし、その上でそれも捨てて新しい解釈づけをしてやってきたのかというと、何もやっていない。聞いていた通りにやってみて、音が外れないように合わせてきただけだから、そこを聞かれます。それで外れていたら、最初から負けるわけです。その辺はあるレベル以上できている人を見てください。

 

 

客になるということはどういうことでしょう。私も、いつ知れず入ってしまう経験をこのステージでもよくしています。感動したとか涙が出たというのは少ないのですが。入ることくらいは歌い手の世界に、こちらも入りたいわけです。入らせない何かを皆がもってしまっている、それがよくない。

 

 合宿の「すごい男の歌」でも、そんなのは当日でできると思っていたでしょう。私はできそうもないと思ったので前日に書かせました。原曲も大した歌詞と思いませんが、それさえ超えた人はひとりもいない。音の力もあるから、一概にはいえませんが、きちんと反省しなければよくありません。

 

 いつもいっていますが、やっているのならなおさら考えなくてはいけない。半年や一年の人なら急にわかるのは無理ですが、そんなに難しいことをいっているのではない。家族連れや親父さん達がここにきてみて、ここがおかしいとか反れたとか感じる、そのレベルくらいは自分で直してもらわないと、直せません。

 

 

 「今に生きていない」ということについて、質問されました。オールデイズであればそれを歌ってしまって、そのなかに入ってしまうことを示しています。時代が違うのですから、今の人がオールデイズを歌っていてもコピーにすぎません。

 

今のものとして、新鮮に聞こえなくてはだめということです。そうでなければ、60年代の香りが伝わってくるもののなかに、その人が本当に生きていたらそれはそれで場や空間がチェンジします。そんなことも聞こえないで、今生きているロックに昔の人が聞こえてしまうというのも妙です。そのときのアーティストと観客との信頼や絆を借りているだけで、それを打ち破れないのです。 

そうでなければ洗脳されているのと同じです。そのことが好きな人も多いので、あまりいいません。私としては昔を味わいたいなら、VTRで充分、今の人では退屈してしまうのです。 

 

今のあなたを出してほしい。どんなに昔の歌であろうが、あなたがそこで何かを感じたから歌う。感じていないのに出してくるから悪いのです。今生きているあなたが感じたのだから、今に通じる何かがその歌にはあるということです。それをあなたが客に対して、何かを感じさせようとするのだから、フレッシュなものが出てこなければ、その2つのことが何もないというわけです。そうしたら前の時代で生きていて、その時代のものでしかない。歌は遺跡を発掘しにいくものではない☆。

 

 

 

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[ステージ実習④]

 

音楽として成り立っているもの、あるいは原盤で歌われているものに何かを加えようとするとき、そこのなかでフィルターが必要です。よいものを生かし、悪いものは落としていけばよい。よいものが落ちてしまい悪いものがついてしまう。この四通りくらいのところで判断せざる終えない。

 素人ががんばって、微笑ましくて最後まで観るものの方が、器用さだけが売りのミュージシャンよりよい。

 ミュージカルは外国で観ることがありますが、筋が何となくわかるくらいで、言葉はわからない。でも何ヶ所か必ず泣けるところがある。それは悲劇でなくても、音が集まってきてそこだけ聞いているだけで動かされる。そういうものがミュージカルなのでしょう。そうでなければそんなに人が集まるわけもない。映画か演劇でやっていればよいということになります。

 

 オペラとはまた違った意味で、音の世界としてでき上がっている。ブロードウェイのCDもありますが、音の世界でいうと日本のは成り立っていない。サーカスの音響効果にいってしまう。家族連れでいく人は「感動した」といっているから、それはそれでよい。クラシックの発声を借りないと舞台がもたない。韓国人の劇団の主宰者と会ったときに同じことをいっていました。しっかりと聞けている人は寝ているのだろうから、眠くする要素があるのです。

 

 日本の歌い方はそんなものになってしまうのかと考えながら、最近入門や1クラスのレッスンをやっています。課題がわかっていないとか課題を間違えてくるとか、同じことをずっとやっていますが、昔は1行でしか説明していなかったものを、今はA4に2枚くらい書いて説明しているのに、それでもわからない。たとえば今日はうまく転調したことに私は感動しました。移調ができたことにすごいと思ってしまって、そこまで基準が落ちているところで入ったので、評価できない。 

 

 

最初の方からいっていきますと、シャウト部分にコントロールができればよい。そこがうまくいけば、もうひとつ歌の幅が広くなる。歌によっての使い分けがいろいろできるようにな

るでしょう。音楽の世界がまったく同じように聞こえてしまいがちなので、そういう意味で声のバラエティは持っていた方がよいと思います。

 

 次の人のは横に広がるところがあります。これは調子のよいとき以外のほとんどの人の弱点です。それを縦できちんとつかまなければいけないのと、低音の使い方が表情のところで持とうとしていますが、逆に変な表情がついて目立っている感じがします。よいものが落ちるもの、悪いものがついた部分などのバランスをどこで捉えるかということです。

 

 劇団でもこういう人がトップで、こういう人を選ぶ基準でオーディションがなされているわけです。それは日本のお客さんのひとつの感性に合っているわけです。いつもよりは音色が出ていたり声の幅の広がりがありました。私は伸び率で観ていますので、その分では楽に聞けた感じがします。

 

 

Kさんのは、サビの高く上がったところは開けた方がよいのではないかと思います。前川清のように歌い切ってしまう人もいるし、それで低音部も心を打つひとつの表現だというのもあり、そういうものも少し入っていた感じはありました。抑えがきかないところがもったいなくなっている気がします。

 

 Tさんのは今日の曲は合わなかったと思うのですが、気になるのはブロックの区切れが見えない。実際の歌はブロックの区切れはあるのです。音楽がついていているのもわかるし、音楽を抜かしたときに間奏を開けるとかするともたつくから、ここでやったりアカペラでやる分には続けてもよいのでしょうが、そのなかでの1コーラスであればそこで切れるべき構成があるのです。それを2つまとめてみて1コーラスという考え方をとらない限りは、気持ち的なけじめなり何かが必要です。気持ちを表わせというと声がおかしくなってしまうこともあるのですが。 

 

それから感覚か息かという問題になると思いますが、そこでより強く息のコントロールが動くようになれば、もっと切れるのではないかという気がします。必ず音程とフレージングは持っていき方のところで、思いきり出そうとするとずれてくるところがある。 

 

 

 Nさんも、ある意味ではもて余しています。今日も自分でおりを作ってしまっている。あなたの場合は野性なのだから、ここでおりをつくってドタバタやっていても魅力がないから、それを感じさせてはよくありません。おりのなかでガオガオいっていても、安全だと観てしまう。今まではおりがなかった。だから客も身構えていたし、そばに寄ってはいけないような距離感がよかったのです。今日はおりが見えている。 

声があって何でもできるからこそ、もっと声の使い方がある感じがします。声量とフレーズという考え方を一度捨てて、スピードと息というようにとってみればよいと思います。今日の曲でなく、そういうものが強調されている曲で勉強した方がよいと思います。声量に入ってしまうと本当に声でやっていくしかないのです。

 

 Sさんも声量ということではなく、ぎりぎりで出していたのですが、限界まで出すのがかわいい奴とそうでない奴がいます。そういうことでいうと少し前で止めておいた方がよい。 

限界まで出せといつもいうので、それはそれでよいのですが、力で押すのと力が働くように押すのでは違います。思いきり力を入れて投げたら、球が走らなくなるし速度も出なくなる。どこかで抜いていて、その辺のところでの加減がセンスです。

 

力の勝負になると歌の場合は負けてしまうことが多いです。本人も見えなくなるからです。そういうことでチェンジングがあるのです。今のスタンスでやるのなら、より高いところで集めなければいけない。それからより低いところでも持たなければいけない。日本人らしく上で調整するか外国人のシャウトしている人のようにより下から生み出すかを成し得ればよいでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

課題曲レッスン2 22098字 1163

 

 

 

課題曲レッスン2

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【「命かけて」】

【「タンゴイタリアーノ」④☆】

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[命かけて]

 

 前の合宿で聞かせたものです。ここでやってほしい歌というのは、この程度の歌でよい。音楽性の前に、その思いがあふれでるだけでこんなにも伝わるのです。

「命かけて」

 2、3年前に使っていた曲です。当時は、どのクラスも同じものを使っていました。今やると、誰もレッスンに出られなくなってしまうかもしれません。 

 

やることは2つです。体をつける、体をつけると重くなります。そこで自分の体を総動員しようとしてみます。口先で歌わずにします。「あなたーにー」みたいになってスピードが遅れると、これも困ります。 

たとえ口先で歌ったとしても、このスピードに入れていない。だからスローモーションみたいに聞こえるわけです。しかし、今が体をつけるトレーニングであればそれでよい。体を本当につけようと思ったら、それよりも重くなる。そういう声が出ていたら、それはそれで待ちます。

 

 その両方をやっていかなければいけません。体を使うというのは、芯のある声にしていく。この曲を聞いて、コピーして、ほとんどの人が完全に遅れています。あいつはのろくなっている、あいつはつないでるとか、わかりますか。それを今、極端にやってみせましたが、どちらとも間違いです。それを自分のなかで統御していかないといけません。

 

 

 「あなたになら何でも」ここで張っています。

 「私を愛して」をやってみましょう。

 これも課題を何にするかですが、このスピードと、この声のヴォリュームのところで勉強したいのであれば、日本語できちんと聞かせようとするのは無理です。とりあえず、スピードなり、インパクトなり、パワーからです。

 

 「わたしを」を、「わ・た・し・を」といっていると、そのときには4フレーズくらい向こうにいってしまいます。みんなにいえるところは「オーテー」くらいでしょう。彼女たちはテンポはとっていますから、実際には、そんなに早くいっていないように聞こえるかもしれません。しかし、それでは、なぜこのなかであんなに伸ばせるのかということです。そこはだいぶん違います。 

 

今のはかなり近かったです。近いところまではいっていますが、いつもは3倍くらい違います。実際のテンポはそんなに違わないのですが、感覚的な問題です。 

そう考えてみたら「わたしを」と、なるだけ日本語でいわないようにします。それは、日本語で「わ・た・し・を」と、イメージしないということです。

 

 

日本語でも「あたしが」というときには、絶対に「あ・た・し・が」とは意識していないはずです。とにかく気持ちがあって、それが結果として「あたしがー」となって、そういう感覚のところにくるのです。「あ・い・し・て」とひとつずつとる必要はない。結果的にはこういう人はとれています。それはあとで置いていくという感じです。

 まず言葉でいった方がよい。言葉でいって、この1オクターブ入れるというのは大変ですが、まったくできないことはない。 

 

それは、きちんとした日本語にはならない。「オーテー」という感じにとっていればよい。「タラララー タラララー」と取るのではなくて、「ター ター」とベース音で取っていってもらうとよい。言葉をいってみたらメロディーがついているというくらいに考えてみてください。

 そうやってどこかにインパクトを入れていかないと、遊べる部分がなくなってしまうのです。「わたしをー あいしてー くださるー いじょうにー」と全部歌っていくと、隙間がなくなっていきます。今くらいに「あたしを」といったら、「愛して」というまでに、これだけ自由な空間がある。そこにどうやっていくかというのが本当は問題です。

 

 音を動かす前に、音をつかまえないといけません。そのつかまえる位置をその前のところでつかんでいくのです。日本語でいうと、全部後ろになります。特に訳詞でついているものに関してはそうです。「ウ・ナ・ヴォル・ター」じゃなくて「ヴォルター」という感じです。

「ウナ」はどういう音色をつけるかという課題になるところです。「ヴォルター」を出したときに、ここで吐くわけです。英語とかと同じで、これを吐いたときに声にならないから、日本人の問題が出てしまうのです。

 

 

 歌のなかの遊びというのは、握っていて大事に歌うのではなく、放り投げてそれをきちんと受けとめればよいのです。そういう意味で感覚を変えないと、なかなか歌のアプローチというものは変わりません。どんどん破っていかなくてはいけないのです。

 

 どう破りたいかというのは、その人の感情ですから、誰かと同じに破りなさいということは教えられません。自分がそういう中で、テンションをあげていって、それを自分が正される何か大きなものを、一流の人達から学んでいくしかありません。

 

 ここでも私はそれを教えるのではなく、紹介する役割で留めるのがよいと思っています。そういう人の声のパワーというものはすごいものですし、そういうものが人を動かしてきたのです。そういう人の何万時間ものトレーニングが、凝縮されているのが歌曲です。そこに全てを詰め込んでいます。

 

 

 みんなは音楽に接しているようですが、本当に骨身のところに入っていないと、自分が出したときに甘くなります。それを定着させるためにトレーニングをするのです。自分が思っていて、自分の感覚でやっていても、すぐれたものなんて絶対できないのです。そのためにどう乗り移られるかということです。それには自分を開放することです。

 

 音楽でも同じだと思います。倍賞千恵子さんの歌い方も声がよい、音楽がよい、とかではない。その感覚は上から降りてきている。それをきちんと大切にしているから、それなりのものができるのです。

 技術の問題ではその人が音楽的にすぐれているわけではないのです。ただ、ある歌のある部分に関しては、そういうものをものすごく受けとめて歌ったから、それが人の心を打つことがあるのです。

 

 そんなことをいったら、芸術家の仕事は、全部、自分の仕事ではないように聞こえます。でも、それをどう編集するか、それを感じたままにではなく、どう増幅して出すかという、スピーカーみたいなものです。そのアンプにあたるところ、本質的に鳴っているところがどこなのかです。それを音楽でいうと、人間のものなのかわかりませんが、自然のもの、神様のものなのでしょう。

 

 

 それを自分の楽器を使ってやるのですから、そのときに妨げないことです。作っていったり、頭で考えていく歌い方は、全部妨げられてしまうのです。そういうものをもっともっと勉強をしてください。世の中には努力してすぐれた作品を残してきた人がたくさんいます。それに乗りうつられることができるかどうかです。

 

 素直というのは大切なことです。そういうことを考えて、レッスンに接してください。自分で自分を制限しないことです。それがこういう世界で問われることです。自分でこう歌いたいというのが開放することなのに、ほとんどの場合がそれで制限しているのです。楽譜通りに歌うことも、それで制限されてしまうのです。そうではなく、これを突き放してどこまでこのことをいえるかということです。その辺は考え方とか、価値観の問題になってきます。

 

 そういう刺激はいろいろなところにある、それを常時、あたりまえのように設定して、その上にできるか、たまにきてみたらすごいやと感じてしまうのか、それは自分の身に染みさせていくしかない。単特のクラスもいろいろな実験的な試みもやってみようとは思っています。今やっている練習で全てよいということではないのです。

 

 

 そこの原点なくして、いろいろなものは乗ってこないのです。しかし、たまには他のやり方も取ってみなさいということです。声を荒らすからだめとか、発声で間違ったからだめということではないのです。

 

 自分がひとつになって思いを伝えようとしていないからだめとなるのがほとんどです。もっと生理的に、感覚的に感じられるようにしたら、ほとんどの過ちはなくなると思うのですが、長くいるとなかなかそうもいかなくなってしまいます。いろいろなものができてくると、守っていく方にいってしまいます。だから、突き放して突き放してやってみてください。

 

 曲を本当に使い切って捨てていってくださいといっています。1曲をよくよく噛んで、捨てて、あなた方の栄養にしてください。 たくさんの曲を勉強するのではなく、1曲の1部分がわかるために、たくさんの曲が必要で、たくさんの声が必要で、たくさんの人間が必要だということです。そこは誤解しないようにしてください。

 

 

 

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【「タンゴイタリアーノ」④】

 

「思い出を揺すぶるよ ノスタルジアを誘うよ 忘れられぬ恋人」

タンゴが調子悪く聞こえます。そこがヴォーカルとしての差だと思うのです。何を取って何を捨てるかということです。音感とか、リズムとか、発声とか、息とか、スピードとか、テンポとか言葉でいってしまうと、全部象徴されたキーワードになってしまいます。

 

その下に言葉では表せない部分があって、その下に民族とか、リズムとかもカウントできないものが入っていて、そこで生まれ育たなければ得られないものは抜かしてもしかたありません。地元を背負って歌っているわけではない。それぞれ与えられた音色やリズムのなかで、自分のものを照合させてやっているのです。

 

 最初は全然だめで、今もだめなのです。体を使って息を吐くことによって、落としてしまうものというのがたくさんあります。声が自分に身についていたらよいのですが、トレーニングのつもりでやってしまうと、そんなところで音感とか、リズム感とか、音色とかが全部、殺されてしまいます。だから、どれを取ってどれを生かしていくかということを考えなくてはいけません。そのバランスをとることです。

 

 

 そのときにリズムに対する音のつけ方が一番疎かになってしまう。体は動くまでしかたがないので、こうやって動かしていくしかないのですが、それをバランスよくとっていかないといけません。トレーニングの時期に、体のこととか息のことが気になるのはしかたないと思います。でも、できたらそこである程度リズム、音感、音色みたいなことは意識しておかないとだめでしょう。

 

 それは最終的に歌のなかで、ていねいさ、神経にでてきます。無神経な歌、雑な歌、そこに行き届いている歌なのか、今のフレーズでも、ミルバは世界的な歌い手ですから比べてもしかたないですが、そこをベースに入れたときに、声だけでていればよいとか、体だけ使っていればよいという無神経さは明らかに間違いです。

 

 要は、ていねいに歌い、相手に伝えるがために発声も、音程、リズムもやる。それがいい加減になってしまうくらいなら、息吐きとか、体を鍛えるトレーニングだけをやった方がよい。

 

 

 フレーズの練習でそれをやってしまうと、ステージのなかでもいい加減さがでてきます。それから自分の頭のなかで考えた形に対し、限定されて音楽的な表現が出てこなくなります。音楽的といわれるものと感性といわれるものは近くにあります。それが入門とか1のクラスをみていても、一時死んでしまうのはよい、でもそれは殺してしまうのではなくて、あとで生かせるために、他のものの条件を整えるために許されるのです。 

 

それをフレーズのなかでやって、声が使えない状態になっています。発声の問題とか、体とか息の使い方の問題とかは何も考えていないことになると、何も伝わらないということになります。ミルバのフレーズをとれということではなく、比較的リズムに対して音色がどう働いていくかというのがわかりやすい。

 

歌をやったときに、まったくそこが欠けているというのが大きな問題だということです。たとえば言葉でたたみかけていくにしても、そこにリズムが入っている、そこにフレーズ感覚というのは入っています。体を使いたいのかもしれませんが、体が使いたいということは、お客さんには関係のないことです。

 

 

「風よ運んでおくれ あの日の夢を」

歌でも文章でも、感覚をもって本質的なものを最小限で最大に表現していくということでは、同じです。それが鈍ってしまったらいけません。自分があって、より深い自分を取り出すのです。深い自分というのは人間に基づいている。いや、生物に基づいているから、そこで何か働きかける力というのは大きなものがあるのです。

 

 でもそれを表向きの自分が頭で制限してしまう。みんなよりも勉強していない人の歌を聞いてみればわかる。同じようなことは同じように起きてくる。研ぎすますために、研ぎすまされたままに出せるために、声のこととか、息のこととかをやる。しかし、邪魔してしまうとしたら、その使い方というのは明らかに間違っているわけです。

 

 だからステージというのも、歌というのも、もしそこに鈍さがでてきたり、鈍感さ、無責任さ、無神経さが出てくるのであれば、それは編集してカットしなくてはいけません。そこに方向性を置いて目的をもっていないと、それは何も起きてこない。起きないどころか、のどの状態を悪くしてしまいます。

 

 

 そんなに広い音域を、難しくやっているような歌ではありません。自分の体とか、呼吸の働きを忘れてしまわないと乗ってこないのです。

レーニングに一生懸命になる弊害というのは、トレーニングだけのことを考えてしまうことです。そうでないでしょう。トレーニングを忘れたときでないと、トレーニングというのはできていかない。

 

 調子の悪いときはしかたない。スポーツをやっていた人はわかると思いますが、自分がトレーニングを意識したり、自分の体を意識したり、調子を意識するときというのは、調子が悪いときなのです。よいときというのは意識しないのです。

 

 歌というのはそれほど体力が必要でないし、そのときの瞬発力だけではなく、いろいろなもので総合的に成り立っています。だから大切なことは、もっと煮詰めていかなければいけない。つまり、捨てていかなければいけないということです。声に負ったり、息に負ったり、体に負ったりということも、フレーズをやるときに捨ててみなければいけません。それは他のところで補うべきものです。一緒に全部をやってしまうと無理だと思います。

 

 

 そこで何か鋭いこととか、こちらが予期しないことを起こすのがステージをやる人です。予期しないこと、鋭いことというのは、そのなかで生じるものをどう取り出すかという、その方法論です。そうしたら取り出せない、動かせないような状態に、体とか、声とか、歌を置いてしまうというのは、最初から間違いです。それで歌ってしまうとカラオケと同じように悪いくせをつけてしまいます。その辺を自分で調整していく。バランスというよりも、絞り込みだと思います。

 

こういう最初のフレーズも、どれだけ雑になるのかというのが予測がついてしまう。それを他人につけさせたらだめなのです。できないのであればよいのですが、できないのではなくて、自分のなかで基準が甘くなっている。声を出してみたら何とかまとまると思っていても、まとまるわけがありません。自分のなかでイメージがきちんとできていて、絶対にそれをそらすまいというような意識が働かないところで、出してみても何ともなりません。

 

 それがどんどん悪い方へ同調している。そうでなければ聞き手がそうは感じません。こういうフレーズの難しさというのは、いろいろなパターン展開が、リズムでも、フレーズや音階も変わっていくので、声を最も使える状態にしておかなければよくないということです。

 

 

ヴォイストレーニングの難しさというのは、自分が一番動かしやすいところの声と、理想的な動きが出てくる声というのが、ずれることです。理想的な声が出てくるためには、それだけ体の条件とか、息も流さなくてはいけないからです。ところが体の条件をそれだけ体を使ったり、息を吐いたりすると、そこの部分で応用性がきかなくなってくるのです。

 

逆に歌いなさいというとどうしてものどでまとめてしまったり、ひびきでまとめてしまったりして、ずれていく。ずらしてしまうと限界がきて、このレベルの歌に関してはまったく応用が利かなくなってしまいます。前のフレーズでやれてしまったことは、次のフレーズでは細かい音の操作というのに対応できなくなるのです。

 

 ヴォイストレーニングというのは、細かい音の操作をするために、するというより、結果として細かい音の操作ができているという感覚にならなくてはいけない。1フレーズを歌ったときに、次のフレーズにすぐに入れる状態にしなくてはいけない。なのに1フレーズ歌ったときに開いてしまって、体も戻らなくて、声もなくなっている。

 

 

 それを取り直さなければいけない、そうするとテンポ的にも、リズム的にも遅れてしまうのです。 だからこういうリズム変化が入っていたり、音の変化が入っていると、よほど理想的な状態で使っているか、そうでなければ簡単に動かせるところでやっていかなくてはついていけなくなってきます。それがどっちつかずになってしまう原因です。

 

 ですから一番よいのは、こういう音に関しては、体や息に頼らないやり方を覚えていく。1オクターブくらいしかありません。このミルバの歌い方では、かなり広く聞こえると思います。それはミルバが動かしているからです。その動きにとらわれてしまったら、自分のエネルギーとパワーの方が抜けてしまいます。2オクターブを歌う歌い方もよく注意するのですが、その部分は捨てていかなければいけないのです。

 皆さんがこのリズムを生かしたいと思ったときに、声量と息と体を捨てて2分の1くらいでまとめないと落ちついてこないということです。ところが2分の1でまとめてしまったら、息が上がってしまう、声が落ちつかない、そうするとその声が動かせなくなるということになってしまうので、体を待つしかない。つまり、待てばよいのです。 

 

 

ただ、もう少しなんとかできると、たぶんバランスが悪くなっても、一所懸命にやっているところで、やり続けると失っているものが多くなる。リズムに委ねないと声がつっかかってしまう曲ですから、発声をしていると動かせません。ミルバのなかでもかなり明るい音色を使っています。いつもはもっと練りこんで歌います。

 

 こういうバンドの音を聞いてみて、歌い手もバンドもひとつの本質的なもののところでやっていますから、似てくるわけです。バンドがこう出したい、バイオリンが歌うところ、歌い手が歌うところ、そういう本質の部分をみて、自分の場合はどう出すかということを考えなければいけません。いきなり自分のスタイルにもっていくと、それは合いません。甘さ、軽さ、洒落っけとかです。特に甘さとか、陽気さみたいなものは、感覚が変わらないと、モノトーンで沈み込んだ曲になってしまいます。

 

 ミルバも使いやすいところもありますが、こういう曲の場合は難しいです。こういう曲をミルバはどういうふうに歌っているかというと、タンゴで歌っている。そのかわりミルバではない部分というのがいくつか出てきています。そういうところはきっとタンゴの本質なのでしょう。

 

 

 伴奏のこの辺の、ための置き方は、ミルバとそっくりです。ただ、声の場合はこんなにたくさん音色が出ませんから、呼吸でとっていくしかありません。

 

外国の曲でやるときの一番の難しさがこういうところに現れてきます。この細かさをまねしろということではない。動きのなかで出てくるところのこれを意識しないとその動きは出てきません。

男性の場合はそういう歌い方をしていない場合が多いです。女性の場合はそういう部分がないと、単に音域とかパワーだけだと男性の方がありますから、そういう部分が特に必要だと思います。

 

「遠い海の彼方は私の故郷 寂しい夕暮れ一人さまよう今宵も」

 

 

 

 

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【関西レッスン】

 

 こういうところで話すことというのは、私でも毎日ネタを考えているのではありません。こういう毎日の生活で人に会っていると、ああ感じた、気づいたということが、ネタになる。

いつしれず、役者らしく、アーティストらしく、先生らしくを超え、私らしくなるのです。それを支える生活や習慣をキープする努力は怠らないようにしています。

 

 ステージになると、出演者は研究生、お客を見て、司会として、盛り上げておいた方がよいのか、ほぐしておいた方がよいのか、コミュニケーションを取らせやすいようにしておいた方がよいのかということなどを考えます。客が硬いので、セッティングくらいは手伝っていました。

 そのときに瞬間的に出てきたものをいうこともある。でも、準備し、多くの試行錯誤をしてきました。自分でイメージで受けるはずではなかったのに受けてしまった経験もタイミングも体に入っているわけです。

 

 歌も、練習したとおりにはいかない。ここで起きたことで、それを材料でここで作らない限り、聞いている人にとってみたら、消化試合を見ているようなものです。だから、歌というのは、ある意味だと安易にこなせる。

一方、厳しくみるとすごく遠くにあって、現実離れしています。現実の世界で日本人が「愛している」とか、「あなたに」とか、感情を入れていうことはない。さらにそういう力はなくなってきている。

ただ、少なくとも、舞台のテンションというのは、日常のテンションとは違う。それが集約されている。日常を感じさせてしまうというのは、まだ歌が始まっていないということです。歌は勉強しているのかもしれませんが、では歌とはなんだろうということです。

 

 

 たとえば、若いタレントを見ると、元気にさせてくれたり、楽しくさせてくれたりする。面白い奴だとは思うこともある。それくらいのことでもあなた方には難しい。もちろん、それをやってみたからといって、すごくはないのです。

 しかし、すごいということを知っていくと、それのできない人が、できるようになることもある。面白いこと、楽しいことをやって、そのうちすごくなる人もいます。しかし、そのまま飽きられてしまう人もいる。

 

 自分の力のなかでやっていることというのは、大体、間違いです☆。私も不器用だったから、今考えるとよくわかるのです。自分でわかることしかできないからです。その点、よくわかっているのかわかってないのかわからないですが、やれている人は、発声はよくなくとも、歌で感動させる人もいる。それはそれでよい。 

 

わかって学んでいくということも勉強のひとつのやり方です。では、わかっていないのにできている人というのは、本当にわかってないのかというと、それは言葉にできなかったり、取り出すことに関して、そういう手段を持っていないというだけであって、体はわかっている。だからできる。よほどわかっていなければ、普通の人が感動できるようなことはできっこないのです。

 

 

 だから、結局同じことなのです。また同時に、わかっていないんだけど、わからないということもわかっているから、できるところだけを出して勝負をしていくのです。それは高いレベルで基準を働かせて勝負しているからです。

 

この歌はカラオケでは通じるかもしれないけれど、よりレベルの高い人がみたら、こんなことやってもよくないなとか、こんなMCをやったらよくないと思うでしょう。そういうふうなところで、あなた方が基準をもたないと、普通の人は勘違いします。普通の人のなかで、ちょっと面白い人とか、ちょっと気がきいている人とかのレベルのこともやれなければ、舞台で慣れてきたら、ここにきたからと上達することはないのです。 

 

常にそういう試みをしなければいけない。最初は意図的にやらなければよくありません。それをやっている時間というのが、トレーニングなのです。

 

 

 MCのネタも意図的に作らなければよくありません。日本のステージなんて大体MCがないともちません。しかし、いつもそういうことに3日も5日もかけて用意する時間はないのです。自分のなかに入っているもので、組み立てていくことです。 歌も同じです。入っていないのはしかたない。でもどれだけ入っていないのかということを、自分で徹底して味わないと、入ってもこない☆。

 

コックになるのと、自分のご飯を食べているのとは違います。「これ食べられる」というレベルで満足していたら、絶対にシェフにはなれないわけです。そうしたら、シェフは何をやっているのかということを考えればよいのです。

 

 状況においてはだめでよいのです。だめだから始まるのです。でも長くだめだめといわれていると、本当にだめになってしまう。だめといわれたということは、本当はだめなときにはだめだとはいわない。本気でやっていないときにいうのです。でも、努力しないとだめだよと、それをもっと楽しまないとだめだよということなのです。創り出すという世界をにおいてのことです。つまり、やれることをやらないためにいわれるだめは、本当は 致命的なのです。

 

 

 歌のなかで何も創り出していません。それは、歌というものが創り出されせるものだという前提が入っていないのです。彫刻とか、絵であったら、少なくともテーマくらい考え、そこに何かクリエイティブなことを生み出すでしょう。なのになぜ歌だけ他人様の作品を、鈍くした形にして出してしまうのかということです。

 

 鈍く出てしまったのは力がなかったり、コントロールができなかったということです。ただ、そういう試みを徹底してやってきている、自分でもそこができていないことがわかっている。というのが、伝わらないのがよくないのです。

 舞台というのは、一所懸命やっていてあたりまえです。一所懸命やっていて伝わらないからだめといわれるのですが、一所懸命にやってきたというのが伝わって、それでよいというのはものかなり甘いレベルです。

 

 まず皆さんに求めたいのはそこです。本当にそこまでしかできないのかということです。

 たとえば、明日死ぬとしたら、最後にそんな歌い方するのかということです。あなたの存在を歌で伝えるというような、その大切な時間をこのくらいのテンションで使ってしまってよいのかということです。

 

 

 死というのはイメージが湧かないかもしれませんが、舞台というのは一つひとつ生み出して、高めて、そして死して終わるわけです。

 状況のなかでやるのではなく、状況の打破力をつけなさい。

 

 客が、「あんた下手だけどそのテンションには負けたよとか、あんたのいいたいことはわかるよ、でも芸術品にはなってないし、歌にはなってないけどね」ということが、これからがんばるためのベースです。その信用が結ばれていたら、歌を間違えようが失敗しないし、演奏を失敗しても客がそこで落ちるということはないのです。逆に面白いことやったと思われるくらいです。

 

 その信用が成り立ってなかったら、「ああ間違えた、やっぱりよくないな、なんだコイツ」となります。それは歌の技量そのものというよりも、その人の姿勢です。それはどこの世界でも同じです。

 

 

 さだまさしさんが、2日間でスティービーワンダーの曲の歌詞をつけてくれといわれ、両日共、仕事もコンサートも入っていたため、夜中から始めて8時間聞いたあと2時間で作ったそうです。あれだけ曲や、詩を作れる人が8時間も聞くということは、どういうことでしょう。誠実です。

いろいろな力がすでにある人が、8時間聞くということは、スティービーワンダーの世界をそれだけ自分の体に取り入れるのに必要だったのです。1時間聞いても、曲くらいはすぐに入るし、すぐにコピーも訳詞もできると思います。 

 

しかし、残りの時間は何をしているかというと、クリエイティブなことを生み出す、よりそのことを伝えるためにベースのものを入れなおしているわけです。自分の歌だったらもっと簡単に作れるのかもしれません。でも他人様の曲だから、その他人様になりきって一番ベースの部分を取るために、そんなにかかるということです。

 

だから、自分なりに練習をしてきたのかもしれないですが、さだまさしさんの集中力で、まず8時間聞いたかということです。彼が8時間聞くならば、あなた方は80時間聞かなければいけない。そこで80時間の勝負をしようと思わない人が、8時間でも勝負をできるようにはならないでしょう。歌はわずか80秒の世界です。 

それをどのレベルで許すのも勝手です。自分で責任をもつのであれば、出だしのところを聞いて、そこですでに何も通じていないということを客観的にみてください。

形だけの歌になるというのは、教えてもらっているとか、こういうコメントをもらいにきているというところから抜け出していないわけです。

 

 

 少しできるとテンションが鈍るというのか、それぞれの事情はあると思いますが、できるならば常に与えに来なければよくありません。与えに来なければ、与えつづけている人にはいずれ負けます。それは年月ではないのです。その姿勢の問題です。

 もとより、あなた方が与えにきてくれなければ困るわけで、こんなコメントをもらって元を取っていてもどうしようもないわけです。

 

自分が与え尽くしたところに、まだ伝え足らないということくらいでよいのです。できないことはやれないし、やれとはいいません。それがやれなかったからといって、舞台でゴタゴタはいいません。でも、やれることをまず精一杯やるということです。

 

ひとつのパターンというのを、日常に落としてみればよい。1人で下を向いてブツブツといっているなら、その人がどんなに心をこめて、どんなに思いを入れてみても、それは歌でもなんでもない。舞台の表現にはならない。常識的にみて、気持ちの悪い人ということです。 

 

 

そういう歌い方は、映像を見て、すぐにやめなければよくありません。表向き内側に入っていくことが芸に近づくことだと思ったら、それは大きな間違いです。

 こうやってコメントをいうにも、私はうしろの人に聞こえるくらいに話しています。ボソボソと話すと、伝わりません。評価内容以前の問題です。

 

 それから、もうひとつのパターンは、形にはまっているということです。それはあなた方だけではありません。また体や息を使いなさいといっているので、いかにも練習しましたとか、トレーニングしましたという形がそのまま出ては、同じような歌い方になってしまいます。

 

ここがよいのは、あんまり質が高くならなくても、バラバラでも、1回毎に自分の足元につけていくということをやっていることです。だから、時間がかかるのです。他人様のものをそのまままねるというのは簡単です。でも後から伸びなくなるのです。2年間で伸び切るより、その間自分がきちんと実感を持てたものをもっと深く探るようにいっています。 

 

 

前に出ていないとしたら、5メートルから先に与える世界ということを知ってください。その先に何が飛んでいくのかということです。飛んだあとに何が残っているかです。

 今、あなた方は誰のステージが思い出せますか、どこのフレーズを思い出しますか。歌というのはそこで決まるのです。今日はたくさんの曲を聞いたと思います。しかし、あまり印象に残っていないでしょう。

 

 そういう評価をしていくことです。自分に対してはわからなくてもよいから、他の人に対してから厳しくやる。そうすると、印象に残る人というのは何かある。そういうものが自分やステージを知るきっかけにもなってきます。

 

 客が不在なのはしかたがない。しかし、本人が不在というのが一番困ります。それは、感受性、創造性、アイデアの問題です。そういう作業をどれだけしているかということです。

 みんな自分で感受性があると思っているのでしょう。

しかし、その程度の感受性というの誰でもあります。もっと精神的に追い詰められている人もいます。しかし、大切なのことは、創造できるところのベースに動く感受性です。それは、創造されたものとか、飛んでくる音によってしか伝わらないのです。

 

 

 顔つきから伝わる人もいますが、音声で問いたいでしょう。「ダーリン」といっても、単に「ダーリン」でしかないのです。カタカナの「ダーリン」でしかなくて、それが「ダーリン」というものの存在とか、そこにある自分の思いとかが何にもないから伝わらないのです。そうしたら、歌というのは成り立たないのです。

 

声量がない歌い手でも何かこめている。でもこめているだけだったら何も飛んでこない。両方やらなければいけないので難しい。

 体として安定していないものを、そういう表現に結びつけるのは難しいのですが、それをいっていたら、3年後でも、10年後でも難しい。 

 

では何で統一していくのかというと、テンションの高さと、伝えたいという気持ちです。いろいろな声もたくさんあるし、声量も出せるようになるし、いろいろな武器はたくさん手に入ってくる、いろいろなこなし方もわかってくる。

 そうしたら、今きちんとやっていないと余計にわけがわからなくなる。そのときに、何がそれを引き出してくれるのでしょう。

 

 

 高音発声をやると、高いところの声がきれいに、一応出るようにはなる。しかし、それは伝わるということとはまったく違うのです。

 

 伝わるということを一言でいうと、伝えるということから引っ張られて出てきた声が働きかけているのです。それは練習で、教えられているままにやっていると、かすれたからだめだということになるのですが、そうではないのです。

 

 伝わっていたら、かすれているなんてどうでもよいことなのです。一流のロック、ジャズシンガーでも、みんなかすれている。

 そこからしか決まっていかないのに、その思いとか、テンションの高さがなければ、ヴォイストレーニングをやっていても、混乱のまま埋没していきます。トレーニングですから、埋没するのはある時期しょうがない。そこをきちんとやるかどうかです。さもなければ、巷で歌っている人達にも負けてしまいます。

 

 

 いつもはもう少しできる人も、あまり調子がよくなかったようです。誰のが聞こえてきたかというのは、その人がすぐれているからではありません。トレーナーを使うのは、その働きかけ方のなかでのひとつの音楽、それが歌としてよりよくなるために、どこに気をつけなければいけないのかということを知るためです。

 歌や音楽には、どういうルールとか変則のやり方があるのかというようなことに気づくことです。それが直せるためには、みんながそこまでのことを練って出してくれないとできません。

 

 今は、初めて絵を20枚くらい描いてみて、そのうちの1、2枚を持ってきただけで、どう評価できますか。2000枚描いて、そのうちの1990枚破って、その残りの10枚のなかから9枚を破って、さらに1枚を持ってきたものなら、その1枚に対しては私もいえるのです。

しかし、20枚描いてみて、てきとうに20枚出してみたところで、これはこうした方がよいということはいえないのです。そんないい加減なところで自分の才能を判断されてよいのですか。

 あなた方は目をつぶって、その20枚を同じように描けない。そこにアドバイスは成り立たないのです。その時期はしかたないのです。 

 

力や判断力がないのに、あまり細かくいわれたら、トレーナーのいった通りに直してきて、余計におかしくなるのです。それは、何かを意図して作品として成り立つためにいっているからです。そのトレーナーの好みではなく、そのトレーナーも超えた舞台の音楽の力というのはこうなんだという方向をみることです。

 

 

 それを汲み取れないで、そういう指示に従ってやると間違ってしまう。そうでなければ、すぐれたアーティストの所にいったら、みんなすぐれるということになります。でも、大体はつぶれる。それは大きな危険があります。似たタイプだったら似てしまうし、違うタイプだったらとれない。だから、プロのヴォーカルというのは、なかなか教えられないのです。

 

 そのプロセスが、自分のことを煮詰めていくプロセスだからです。だから、自分のことでなくて、人間として、生物としてどうするのか、あるいは歌だけでなく全ての芸事、スポーツも含めて、そういうところで人間が人間に働きかけるために、必要な部分のものを取り出してくることです。

 

 それが歌の場合はかけ離れて成り立っています。誰でも歌えますから、だからこそ他の分野のプロのいうことを聞いてみたり、そういう人達の生き方、やり方を勉強した方がよい。

 その必要性を感じ、この場で勝負してもらいたいです。今日の人生は今日で終わる。何か今日に出会った人に残しなさい。明日はないかもしれないのです。あの世は本当に遠い世界みたいに思っていますが、あっという間に月日は経っていきます。

 

 

そのレベルで注意したいのは、たった一人だけでした。呼吸をもっと増さないと平坦になっています。置いていくだけで2曲成り立つかというと、そこに変化がなくなってしまいますし、そこを自分の呼吸でないところでやっているからです。歌を変えてしまってはいけないが、変わっていくのはよい☆。たまに、自分の呼吸でないものとか、ゆっくりした呼吸でやりたいという曲はあっても、そのゆっくりというのに自分の呼吸をあわせていかないとよくありません。 

 

「語りかけたのに」のところは、音楽で置いていっているところと、そこでの感性の表われるところです。「語り」と音楽でおくと、「かけたのに」とそのまま置ける。しかし、そういうところこそ何か作らないと、平坦になってしまいます。次のところの「抱きしめて」のところも同じです。

 音楽のルールというのはそういうものです。ここはメロディーを聞かせていると、最初は提示する、言葉として相手にいうと、感情が入ってくるから少し動きが悪くなる、そこに音楽の力を使う☆。

コード、ハーモニーを取って、そういうパターンにのり、あまり続くようなら、そこで何かまったく違う変化を起こしてみます。そういうことで、いろいろな人がいろいろな歌い方をしているのです。 

 

それから、「いく」の「く」のところも、日本のアーティストと向こうのアーティストの底力の差が表われるところです。「ふたり」のところは響かせたら通じるのですが、彼らは「いく」を徹底的に下のところの呼吸まで落としています。見えにくいところですが、彼らは聞く耳があり、息がきちんと読める。その辺をあいまいにしてしまうと、曲が引き締まらなくなるのです。これは、今の日本のプロの見落としている問題です。

 

 

今、台湾でもらったCDで、宇多田ヒカルさんの曲をカバーして歌っているのを、本人とどう違うのかを聞いてみます。まず呼吸が違います。リズムについてはどちらもよいです。それをきちんと息に結びつけなければいけない。そこで息に結びつけようと思ったら、止まってしまう。そこが歌の難しいところでしょう。

部分部分は完結していかなければいけないのですが、完成させたらいけないし、そこで終わってしまったらいけないのです。その部分はあいまいであっても、次の動きにつなげなくてはいけないから歌い方としては間違ってはいない。そこに響かせるために、すぐにブレスをしたり、引かなければいけないのです。 

 

世界でレベルの高いことをやっている人は、絶対にそういうところをおろそかにしないのです。ということまで考えたときに、逆にテンポを2割くらい早くした方がごまかせる。ゆっくりの曲というのは本当に難しいです。完全な使い方でないと難しいです。

 演歌も下手な人だと、横の世界しかない。ロックは、尚さら立体的に、上下という動き、これは日本人にない感覚ですが、それにのらなくてはいけない。その上で前に出る。日本の歌の表現は前にあてて引くだけです。文化の問題になりますが、ロックの場合は、歌とそういうものを一致させるところがベースにあって、そこから動きが出てきます。そうすると、音楽が大きくなってくる、歌が大きくなってくるのです。

 

 だから、何が価値なのかということを考えないといけません。歌がうまい人はたくさんいます。その前提で、皆さんができるかどうかではなく、考えて欲しいのは、わからなくてもよいし、できなくてもよいのですが、それがわかったら、できたら、どうやろうかということを、イメージの世界では先行しておくことです。

 

 

 ピアノでもまったく弾けない人にはその世界はわからない。でも、たった1フレーズだけでも、ここは心がこもったとか、何かわからないけど、心が動いたときに音が心とひとつになったとか、そういうものがたったひとつでも実感できれば、それは1曲において、天才はこういうことをやっているのではないかという予測がつけられる。 

そこの予測のところから正していかないと、レッスンは成り立たないのです。他の人をたくさんみている人にレッスンにつくのは、その予測についての確信を得るためです☆☆。 

 

自分がやって、力を入れてみたら何か弾いた感じがするとか、汗をかいて指が疲れたから充実感があるとかいうのではただの間違いです。まったく逆のことを起こしていくのです。その辺の判断を歌は持ちにくいですから、楽器のプレーに学び、そこで正されるようにしていくとよい。要は自然に正されるようにしていくことです。

 

 自分が正しても、自分の能力はたかがしれているのです。すぐれた人はそれを知っているので、他人に学ぶ。自分のなかにいるよりすぐれた歌い手とか、自分のなかにいるすぐれた感覚の持ち主のリズムとかけあいをしていくことが大切です。向こうのアーティストはこういうとか、ああいうとか、そうやってみていくのです。この曲は、あのピアニストだったらこう弾くだろうとか、このピアニストだったらこう弾くと、じゃあ自分はどう弾くんだというをやるのです。

 

 

 レベルということでいうと、いつまでも今の自分であってはいけないのです。歌の場合は、くせをつけているために見極めにくく、特に難しいとは思います。カンツォーネシャンソン、オールディーズ、ジャズのスタンダード、何でもよいです。あまり個性とか、好みとかで動かされないで、受け継がれてきた人のものを、好きでなくとも、コイツすごいというものに接してくさだい。そのすごさというのは何なのかというのをみていってください。

 自分が好きでうまいと思う人は、自分がファンですから、客観的評価は難しい。そのことと自分がやることとは別です。そういうことを考えながら、とりくみを考えて欲しいです。

 

 自分だけでしか勝負できないところとして、ステージで積み重ねてください。そこに真剣勝負を挑むために何をやらなければいけないかを知るためです。やってみて大失敗して、徹底的に打ちのめされればよいのです。その創造の冒険と多くの失敗やリスクを恐れてはいけません。

 伸びる人というのは、他の人がよかったなどといっているところで、いつも一人で徹底して打ちのめされている。そういう感覚を持っているから伸びる。自分でよいと思ったら、それで終わりなのです。

 

 ですから、はっきりいうとここのステージは嫌な場でしょう。できてあたりまえで、できてもいろいろな問題がくる。そこでできるだけのことをやらないと問題が絞られない。あまりにたくさんの問題があったら、本当にやらなければいけない問題がどれかわからなくなります。しかし、その問題というのは、全力でやってみたり、レッスンにきたら案外と片付いてしまうものなのです。

そういうものは本当の問題ではないのです。そういうものは自ら変えられるようにしてください。面白くしろとか、楽しくしろとはいいません。そういうときの体の状態とか、心の状態が、声というのに出てしまいます。基本というものを、形として成り立っているものを徹底して疑うとよいのです。

 

 

 皆さんにまた改革アンケートを出してもらいます。研究所が大きく変わるのではないのですが、研究所はいろいろなものを貯めこんでいるのに、それを必ずしも皆さんにうまく出すことができていません。誰が何を求めていて、どうしたいかということがあってこそ、加工もできます。3、4年もいれば、もっとここが使えるとか、こういうことをやって欲しいとか、同じ1時間ならば、こんなやり方もあるとか、いろいろな方向から提案してください。その提案力も自分の伸びるための力です。 

 

2年制といっていながら、6年、8年、10年いる人もいます。それだけのものが学べるところは、ほかにないでしょう。東京はできるだけ外へ出そうとしていました。まわりが辞めていく中で、辞めない人がトップレベルになっています。 

ここ10年のことをきちんとみて、そのあとの10年というのをみないとだめなのです。ここ2年くらいで悩んでいるようでは困ります。

 

1つは昔2年といっていた内容が、今は6年くらいの課題になってきているということです。6年で考えることと、2年で考えることが、単に2年が6年に延長されていたのではだめでしょう。 そこに対応するレッスンは、研究所のなかでできるにもかかわらず、うまくいかなくなってきているということです。どう伸ばしていくかということを考えています。

 

 

 トップグレードに年間2、3人入っては、2、3人辞めていくという、かつての循環が起きていません。何とかもっているのは、5、6年もいる人たちのおかげです。それはよくありません。会報でも、本でも、一般化してくるにつれ、前提の条件が本来、そこはクリアして入ってきてもらわなければいけない問題で時間がかかっています。そこを片づけずに声や歌をやっても、ステージをやっても、何の力もつかないから意味がありません。 

 

この前のオーディションみたいなレベルでみると、B1クラスを抜かすと関西の方がすぐれています。音楽が入っています。でも、ステージとしてみたときに何が足らないかというと、基本的な意味のスタンダードを入れるのを忘れている。

 1年から2年くらいは、レッスンで50分近く音楽を聞くとよい。実際にやるのは10分でよい。4年間徹底して出ていたら、その意味もほぼわかると思います。 

 

シャンソンカンツォーネを使って、ロックを使わないのは、ロックで気づかなかったこと、ロックで全部同じに見えていたことが、早くわかるためです。根本的にその人が語りかけている声の部分のところまで拡大してみるためです。

 

 

声の動きで音楽が進んでいるというのは、ドラムやギターがない方が、わかりやすいのです。ある意味で今の人は、トータルとしての音楽的なバックボーンがあって、歌にもっていくやり方というのはもっている。でもそれは、応用のなかでの応用です。ひとつの曲をぱっと与えられたときには弱い。応用ばかりしているために、戻るべき基本がわからず、その結果、他の応用に弱くなるのです。

 

 ひとつの曲を与えられたときに、音楽的な意味での基本がみえます。いろいろなパターンがあってそのなかでの能力を高めるためにもっといろいろなジャンルの曲を入れていった方がよいということです。

 

 たとえば、今20曲を聞いたときに、皆さんのなかでいろいろな反応が起きている。その反応を全部あわせて、1曲とはいいませんが、2、3曲につめていくという作業をやっていくこと、そこでいろいろなことに気づけると思います。

 

 

欠けてきている要素は、まずひとつが、場に出続けることです。ベテランのつもりで出ないなら引退です。一人で練習して勉強できることというのは限られてくる。その人が、有能であればあるほど、限られてきます。結局、自分がやったことをそこで叩きつけてみて、何が起こるかということを、みなくてはいけません。

 すぐれている人は、年齢も上で、やっているキャリアも長い。曲もたくさん知っている。だから、あたりまえです。高校生とか、10代で初心者の人もたくさんいるところでやって、誉められたり、拍手をもらえても、単に長いというキャリアにしか過ぎません。長く生きているから、それだけ世の中のことを知っているというのと同じです。 

 

彼らがスタンディングオベーションしたいくらいに(日本人のなかでは難しいし、このなかではそういう雰囲気をつくることも難しいのですが)、その上であえて、そういう衝動を起こさない歌というのは、ある時点から止まっているといってよい。本当の力をつけたいのであれば、いろいろなものに頼らないで、場に出たときに、そこで自分一人で何を起こせているかを問う。才能として突出していないといけません。そこには内も外も中もない。

 

 中にそういうすぐれた人ばかりが集まっているのではない。そこのなかで、普通にうまいなと思われる程度では、どこでもやっていけないのです。一般の人達の前に出したときに、たかだか芸能界で人気がある人に、ステージを取られてしまう、それはそのくらいの力しかないということです。

 場に出るということは本当が大切なことなのです。どこからでもお呼びがかかって、毎日スケジュールが一杯になっているというのならば、別ですが、そうでなければ、いつも自ら出て、問うてみることです。レッスンもその一つの場として使うことです。

 

 

この前、台湾に行ってきました。なぜ、いつもこのように外を回っているかというと、人間というのは動かないと妥協してしまうからです。それが自分でわからないから怖いのです。

 研究所を出て、外でいろいろとやりだしても、なぜ上達していかないのか、歌う場がなくなるのかというと、外の客の方が本当は厳しいはずなのに、客に甘えてしまうからです。

客が満足して誉めてくれたら、それでよいと思っているからです。

もっと満足させて、その人が皆にみせたいと、もっと人を連れてくる気持ちにならないと、もっともっと何か人に与えられるのかどうかというところで勝負していなければ、活動も続かない。よくなってしまうのです。歌えたらそれで済んでしまう。そうでなかったような人をきちんと見て欲しいと思います。歌とか、声とかで全て決まるのではないのです。

 

 昔は、私もここでマイルスデイビスと三味線をかけあわせ、聞かせたりしていたのですが、最近は、こういう実験的なことよりは、その前提のことをやらなくてはいけなくなってきました。クリエイティブなものなのに、レッスンがこなされるようなことではいけない。研究所にも、たくさん材料がありますが、あったからといって他人は大して利用しないということが、よくわかってきました。皆さんにはモチベートがあるとは思いますが、それが初心のときよりも低くならないように気をつけないといけません。

 

 常に自分が与えることを考えていれば、間違いはないと思います。与えるということは、自分が伸びるために一番よいことなのです。与えられなくなってきているというのは、自分がそれだけ一人よがりになってきているということです。そういうことは、当然、音のなかでも起きてきます。うまくなったけど、新鮮味やパワーに欠けてしまう。何とそういう歌い手が多いのでしょうか。

 とにかく正しいものを入れていってください。

 

 

 ただ、それで声がよくなったり、歌がうまくなってみても、そのことと人を動かしていくことというのは違うのです。人を動かせる人が、仕事でも何でも、そこにより大きな力を働かせるために、音楽を使ってみたり、バンドをしてみたりする。その根本的な考え方が大切だと思います。

 方法論に関しても同じです。自分で自分のことを限定して、決めつけていってしまうのです。それは自分の頭で考えるからです。他人の頭で、もっとすぐれた人の頭で考えればよいのです。それがだんだんできなくなってきました。自分を主張すれば何とかなると思っているのです。それでやってきて、どうだったかを考えること。

 

 別にすぐれてなくてもよい。何かある人の感覚で考えてみればよい。そう考えるのも大切なことです。いろいろな本、特に伝記を読んでください。何かを成し得た人は、すごい技術があったのではなくて、すぐれた方法論をもち、目的への意識の高さが他人と違っていたのです。誰かのようになりたいとかいうことではなく、自分のなかに自分を離れて律するものをもつことです。人を魅きつけるということは、それだけですごいこと、それ以上のことをやろうとしたら大変なことです。

 

 それは、これじゃだめだと思うが、そこまでのことでさえも日本人でできないのだから、そこにあるノウハウもすごいものです。日本にも客を動員できるノウハウも、楽しませて帰すノウハウもある。でも、それでは嫌だ、違う、という人達が、次の時代を切り開いていく。その嫌だというものがあるのかというのも問題です。

 

 

 

 

 

「セシボン」

 

ここでやることは、本当は自分一人で毎日、100回くらいやってみて欲しい。自分の実感が出るところまでやってほしい。前に声を出すことも、息と体を使うことも大切ですが、もっと大切なのは、このフレーズのなかでの動きです。声で、どこがつかめ、どこが放せ、それはどうやって息使いから声になって、声から音楽になるかということをきちんと見ていくことです。 

 

もっとも結果オーライにしかならないのです。考えているときはできません。このなかに何があるかということを、自分の世界にいきなりもっていくのではなく、もっときちんとそのなかを聞いていくことです。その力をつけることが大切です。

 

 次の音楽にどう入るかということも伏線としてあります。フレーズのどこかで声がかすれているなとか、小さくなっているなと頭で考えて、それで出してみるのも練習なのです。しかし、自分のなかでそういうことが起き、そういう言葉が生きていくのは、表面のまねではないのです。フランスの曲だからわかりにくいのでない。音楽としては共通のものです。ひとつの音のなかに何が起きているかということに、いくつ気づけるかということです。そしていくつ出せるかということです。

 

 

「今 ぼくは」「エルマンテノン」「ラ・メール」

 この二つの音が、二つにわかれて聞こえたらいけない。このフレーズのひびきのなかでこの言葉をいわなければいけないのです。

 

「イザベル」「ラ・ボエーム」「ソレンツァラ 港の町に」

 音が狂っているのは論外ですが、やりたいことは先ほどいったことです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

課題曲レッスン 14063字 1163

課題曲レッスン 1163

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【「ギターよ静かに」】

【「ヴォメロの洗濯女」】

 【アモールモナムールマイラブ ②③】

【「マリアマリ」】

 

 

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【「ギターよ静かに」】

 

こうやって比べると、日本人で、2オクターブを歌うというのは、とても大変ですね。低いところもここまで落として、高いところはあそこまである。音響に負わないでやると難しい。高低がかなりあるということで振りまわされるか、逃げて処理するしかないからです。

 

「水辺には蛍 月は夜空に ただ一人つまびく」

 まずは向こうのものに慣れていってください。ここで使っているものは、皆さんにとっては感覚的に難しいものです。歌として難しいのではなく、感覚として難しいのです☆。これは、今の欧米ポップスが根っこに持っているところの感覚です。それが比較的表に出ていると思ってください。変に響かせてみたり、変にエコーや音響をかけてなく、ギター1本でやったらこんな感じでよいというくらいで歌うということです。

 

それを今は押さえて、バックとアレンジしてレコーディングをしているという状況です。欧米のヴォーカリストが持っている体の条件というものは、昔と比べても劣えているとは思えません。

 音響技術がよくなり、いろいろなタイプが出てきました。昔はマイクの性能も、楽器の性能もたいしたことがありませんでしたから、こうやってヴォーカルの部分が引っ張っていた。それは日本でも同じです。それだけ声の力が必要でした。

 

 

 だから皆さんにとっては、アンバランスに聞こえるかもしれません。これは音響機器のせいではありません。要は、そこのなかでの違いを、今やりにくいところ、自分が引っかかってくるところというのは、欠けているところです。それを明らかにしていくことです。

 

 それとともに体を楽器として使うということを覚えていきます。今まで息を吐いて「ハイ」と体でいっているところを、きちんと1点でもって動かしていこうとすると、3度くらいのなかでも難しいということがわかると思います。きちんと握って、それを離していくということです。 

 

音楽のレッスンの前に、セリフのなかで体からきちんということを身につけることです。すると、半オクターブくらいとれるようになるはずです。そういう形で覚えていくと、音楽になるのには時間がかかるが、基準ははっきりとします☆。

 

 

どこにも接点がつけなければ、今皆さんが歌えているようにしか歌えません。それでよければ問題はない。自分のものをよりよく活かすために、体の原理をきちんと活かすことです。

それから、結果的に力は必要ないのですが、体や息に負わせておかないと、何も変わっていきません。支える力と働く力が必要です。

 

 それで歌らしくならないのはよいのです。歌らしくならなくてもよいから、表現として前に出すことです。きちんと前に出せるようになってきたら、少し余裕が出てきます。そうしたらそこに変化をつけていくことです。できなくても、そのイメージとしてはきちんと持っていなくてはいけないと思います。

 

 解釈力も大切になってきます。こういう歌を1回聞いたときに、一体この歌の何が価値なのか、何が人に伝わるのか、何でこう作ったのか、どうしてこういうふうに終わるのか、そういう疑問を持ってください。一つひとつの歌に対して、自分をねり込むことです。

 別にこの歌に対してでなくても構いませんが、教材としては20年30年、アフリカでも、アジアでも、どこの国でもよいから人々が受け継いできたものを使った方が勉強になるでしょう。 

 

 

ポップスというのは毎年10万も100万も出て、残るものが100分の1、次の年にさらにその100分の1です。それで20年30年残っているものというのはとても少ないのです。それがやがてクラシックとなっていくでしょう。 

今の曲にも確かによいものはあると思います。でもその価値判断ができないうちは、認められ、受けつがれてきたものから学びましょう。同じようなところで同じような人達が歌っているもの、中にはよく知っている人が歌っているからヒットしてしまったということもあります。

 

何よりも声と声の動きがわかるのが、最良の教材です。だから原点に戻って、作品そのもので評価することです。音楽そのもので、作詞がよいのも、作曲がいいのも、歌い手がよいのもあります。

 そこで、歌い手を読み込む。やがて、ヴォーカルのオリジナルなフレーズということがわからなくてはいけません。いろいろな演奏の形があるということを知っておくことです。何人かのヴォーカリストを徹底的に入れておいてもよいと思います。

 

 ただし、コピーするところを間違えないようにしてください。この人が音を伸ばしたから伸ばすではなく、この人が伸ばしたくなった前の感覚は一体何なのかと、その呼吸はどうしてそうなのか、その人の呼吸でいうと2秒だけれど自分はどうかということです。それを2秒だから2秒伸ばすとか、3つ数えて伸ばすというのは形だけの勉強です。

今は自分の寸法にあわせてください。その寸法はあとで伸びていきます。瞬間を、瞬間の表現力できちんと握って出してみてください。

 

 

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【「ヴォメロの洗濯女」】

 

 「預かりましょう 4枚だけ ハンカチーフ ハンカチーフ」

6/8のリズム、さらにナポリターナというのは、かなり歌い手によって呼吸で動かせます。全部を歌っていくより、流れにのせることです。いきなり強くは入りません。 

「預かりましょう」のどこかにピークを置いて、また小さくして、そして次のところでおくだけ。「ハンカチーフ」の「チーフ」ところで入れて、次の「ハンカ」でいれるか、あるいは「ハンカチーフ」で落とすかです。それは自由に自分で構成してよいのです。

 

 声楽的には、「返しましょう」が少しメゾフォルテかメゾピアノくらいで、次の「返しましょう」のところでピアノになる。その前にどこにもう一回クレッシェンドをつけるかです。その前のところの「しょう」までやるのも、1フレーズをやるのもあるでしょう。「か」から小さくするのか、「え」からするのか、「し」からするのか、その辺はその人の個性になってきます。

 

「目が覚めるように 綺麗にして返しましょう 返しましょう 返しましょう 返しましょう 返しましょう」

 こういうのをていねいに歌ってみる。メロディアスにするまえに、本当に呼吸の力だけで、ていねいに扱ってみる。ナポリターナをやると、ずいぶんと自分のが粗雑なのがわかるでしょう。歌はていねいに歌わなければいけません。自分でも日頃やらないようなものをやると気づくことも多いでしょう。

 

 

 

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【アモールモナムールマイラブ ②③】

 

 「アモ~」からいきなり入るのは無理です。基本的な動きがあって、これをひとつずつとれということではないのですが、どこかに中心がきていて、どちらかにちょっとずれる。感覚の問題ですので、これを計ってもしかたないのです。まず、そういう動きがあるということです。

 

 アモーレモナムールのところまでやりましょう。これでソド~ ソドミ~で半オクターブになりましたから、もう少し動かせると思います。

 アモールでソド~ソドミ~。ここにソド~というフレーズがあります。次もソド~ソド~アモ~モナム~ン、本当はこうです。ソド~ソドミ~のフレーズの作り方は、その人のイメージなり、感覚のもち方になる。

 

 ソドミ~と上に伸ばしてしまう人もいれば、ミ~と落とす人もいます。次に、ラ~ソ~と続きますので、これを違うところから入ってくるのか、ミ~ラ~ソ~と前の延長上にいくのか、それもイメージのもち方になります。

 

 

 音楽が発していないといわれていてもよくわからないと思いますので、細かくやっていきましょう。少なくともソードーと直線的ではありません。発声練習をやるときでも、ソのなかにドを入れていく、感じでいきます。

 

 このときに、そのまま音をなめていってもしかたない。ここに踏みこんだところにつくっていきます。なるべく凝縮してください。

 フレーズを大きくもっていって、声を少なく使うのではなく、ひとつの中心をいくつかもってください。最小で最大の効果を上げるということです。

 

 ア~~モ~~~~と歌うよりも、アモ~とそこだけやった方が集中できます。その前後に息を適す流れとか、イメージがなければ、そこだけでアモゥといってしまって終わってしまいます。次にどこに行きたいのか。タ~タなのか、タタ~なのか。なるべく流れないようにです。アモーレだけでもよいですし、アモーレモナムールと長いほうがやりやすいかもしれません。

 

 

 楽器と同じで、声を体に宿してみて、中に入って、宿せる声がひとつでもあればよい。アモールでも単に発する。要は、なるべく歌わないためにどうすればよいのか考えてください。

 全部線でとっていく。それも歌のなかでは、ひとつの方法としてあります。しかし、今やりたいことは、どちらかというと、それを発する感覚の研磨です。

 

 もっとつめてやってみましょう。アからモがうまれて、ルがうまれるとか、アモールの方からモナムールがうまれるとか、そのくらいの感覚で思ってくれれば、あまりバラバラにならないと思います。

 ソド~といくときにも、ドで新しい音が出るのではなく、ソーーードとソの音のなかにドがうまれていく。それがフレーズ感です。

 

ドレミレドとやるときも、ビブラートをかける必要はありません。こういって、この音にくっつく。ここで生まれてくるわけです。フレーズからいうと、表面的ところがなっているように聞こえますが、実際は、音のなかで、次々にいろいろなものが生まれていて、展開していきます。方向性がこう、こういう方向性をもっているというだけのことです。

 

 

 「アモ~ル」を「アモ~ルモナア モ~ル」に感じると、もう少しわかりやすい。半オクターブを自分が宿します。なるべく単純にする、音楽の一番根本のところです。

 「ダーダーダー。」難しければ下げてもよいのです。

 

「タッタ~ダ~ダー。」いわなくてもよいし、歌わなくてもよいのです。「ダーダーダ~。」「タ~タ~」でもよいです。ことばでいうときも同じです。自分の体にとって、そこで「タ~。タ~」。難しいこともこんなものです。なるべく凝縮してしまうということです。「タ~タ~」で、「モ~ム~」これだけにしてしまいましょう。モとム。やりにくい人は、「ア~ナ~」でもよいです。

 

 「タタータタター」ですが、「モ~ム~」です。いつも音をイメージで描いておいて、最小限で最大やるというのは、「タ~タ~」が出ていればよいのです。

 それを、音のコントロール力のないところで出てしまうから、歌がだらしなくなってしまうのです。やたらと伸ばすだけになってしまうのです。凝縮して置いておけば、1点でよい。それは、拍のくるところでしめるのです。歌った方がやりやすいということでしたら、それでもよいです。

 

 

 音楽の練習は、自ら、動かすことと、動いてくれるまで待つことと両方あります。最初の「モームー」で動かしていても音楽にならないときはしかたない。自分で、動きたくなってきたり、声が出たくなるまでしっかりと感じて待ってみましょう。

 

 その練習はこのなかではできませんから、日頃からやっておいてください。「ラ」でやっている人もいますが、「ララ」とやるよりも、「ラ~ラ」とやった方が、簡単にはなります。「ララ」にもいろいろな「ラ」があって、いろいろなバリエーションがあります。それを最初に頭で決めつけてしまわないことです。こう行きたいとか、ああ行きたいとかそのなかで次の音が生じてくるべきで、決まっているわけではありません。

 

 いろいろなとり方があります。コードからも、いろいろな動きができると思います。自分の動きを感じながらつくっていって欲しいのです。頭で、「モ~ルタックム~ルタックラ~ラ」という感じではなく、「モ~ル」といって、次にもう一度入れてひびかせます。音の高さが高くなっていくことは、それだけ意味がある。そういうところをしっかりと呼吸と合わせながらつくっていきます。

 

 

 アモールとモナムールとマイラヴのラのところをどうおくのか。3つ同じで捉えてもよいし、最初の二つをくっつけ、次のを放す場合もあってもよいのです。 

ついでに、「ララ」をつけてやりましょう。音色は変わっていきます。「ララ~」で放したときにいろいろな音色が出てきます。喉を使わないで、体で動くところ、心で動くところです。

 

 「ド~ミ~~ラ~ソ~」とやってみましょう。つくっていることが見えないようにしてください。自分の感覚が声で邪魔されないようにしてください。余計なものを描く必要はありません。中心の線だけです。自分の感覚はこのままです。取り出したところで終わりたいものです。

 

 声なり音が音色を伴って、あるいは、リズムを伴って歌になる瞬間、ある意味では高度なレッスンです。そのなかでしぜんに聞こえる人と、いかにも不しぜんに聞こえてしまう人、しぜんだったのに不しぜんにしてしまって、台無しにしてしまったと自分でその瞬間がわかる人は、すぐれています。

 自分でわかる人は、1回ずつ出さなくてもよいですから、自分で直していってください。自分でわからなければ、録音で聞いてください。 

 

 

ポップスはおもしろいもので、声が出ていたり、発声上、正しかったからといって、必ずしもよい表現になるのではありません。いろいろなパターンがありますが、ただ、結果として、しぜんにならなければいけない☆。 

いろいろな要素がついてしまうとそれだけ複雑になります。「モ」や「ム」は難しいです。どうしてもよくなかったら、息を流してやるしかありません。しぜんにやる方法はいろいろあります。「モッムッ」と切ってしまうと不しぜんになってしまうのです。思い切り切って、「モオツムゥッ」とすると、しぜんに呼吸がわかってきます。

 

 クラシックと違うのは、クラシックはほとんど「モ~ム~ラ~」とひとつの線上につくっていきます。ポップスの場合は、それを切っても切った反動で次のものが生まれてくれば、もちます。一番やってはいけないのは、中途半端にばらばらに広げてしまうことです。広げてしまうと自分で収拾つかなくなってしまいます。とれなくなってしまいます。表現はどこに行ってしまったのかという感じです。

 

 発声で出すことも大切ですが、出したものをしっかりとコントロールします。自分でコントロールするというよりは、それが勝手に弾んでいくという感じがよいです。

 きれいに抜くというのもひとつの方法です。こういう歌の場合、特に使えます。「モ~ム~ラ~」です。

 

 

もうひとつは、同じところでシャウトにもっていくやり方もあります。

 とにかく、テンションは高いところでしっかりとコントロールしないといけません。高いところで、張ってもっていくやり方は、なかなか難しいです。発声ができていないと、かえって乱れが出ているからです。うまい人をみていると、やはり切っていきます。乱れる前に切るのです。

 

 ことばから捉えても、フレーズから捉えてもよいのです。「れ」のなかで「る」をつくっていきます。「あふれる」の「る」で確認することもよいです。日本語は「ふ」のところで深く吐ける音がないので難しいのですが、深いところです。

 「いのち」のところも同じです。ひとつに捉えた方がよいです。なるべく深いところの母音でやってください。音のイメージはつないでいくのですが、全部を歌うわけではないわけです。

 

 「いのーちの」とか「いのちーの」とか、長さだけでなく音色も、自分のなかでフレーズをいろいろと試してみます。「いのちの」で切るのか、「いのちのいずみ」と入れ替えるのか。フレーズをつくってみたら、そのフレーズにある程度はのっかからないといけませんし、のっかかり過ぎてしまうと慣れてしまうから、どこかで変えていきます。「ち」でアクセントがきてしまうのですが、いろいろなアクセントの置き方があります。あまりはずしてしまうのは、よくありません。

 

 

 張りは必要です。ていねいにやることと、力を使って出すことと、大きく出すことはまた、違います。いまのところ「アモーレ」の「ア」のところで、しっかりと「ア」と入れるためには、かなりテンションが高くないとよくありません。「いのちのかぎり あふれる」のこの、「あ」と同じです。「あふれる」のところでも確認すればよいです。

 「マイラヴ」の「マ」、「ラ」のところでも、どこでもよいのですが、自分で確認してみればよいです。

 

 そのときに、とれないとか、そこにバッといかないとか、声が前に出ないというのは、皆さんの力や感覚のまえに、テンションの高さのせいです。ていねいにやるといって、引っ込んだり、まわり出したりすると合わなくなります。そういうものがばっととれるように、前に投げ出していかなければいけません。

 最初の声がコントロールできないときは、やや自分の声量では大きめにやっていかないといけない場合もあります。大きくすると、息が足りないこともわかってしまうし、作品にもならないかもしれませんが、大きく出せないために最初、テンションが出せない場合も多いのです。本当のことをいうと声の大きさと表現力は、あまり関係ありません。

 

 声自体は、なるべくしぜんにやったほうが、働きます。ある程度できたと思った人は、どこが不しぜんなのか自分でチェックしてください。何かバタバタしているなという人は、より大きな声で、より体を使ってやります。全部が続いてしまってもよいのです。

 それから一回外に出す。外に出した上で、余計なところや、伸ばしすぎているところ、もっと切らなければいけないところをチェックしていく。

 

 

 小さく出すとか、早く切るとか、短くやることは、今の段階ではわかりにくいでしょう。歌のなかで自分で聞いて、なぜこう伸びてしまうのかと思うかもしれません。もちろん、その方がコントロールにテンションも、体の力もいるのです。

 

 小さな声で表現します。弱く表現したり、しっかりと弱くあてたりすることは、至難の技でしょう。いろいろなところが働いてきてしまいます。それより、大きくでもよいから、まず、線を出さないといけません。表現ののる線を形成していかなければいけません。

 こういう練習のなかで「アモーレ」の「ア」がばっといえますか。「いのちのいずみあふれる」の、「あ」がしっかりと外に出ていますか。

 

 テンションと集中力の、これだけのフレーズをしっかりと前に出せている。体に入っていて、半オクターブくらいだからできてしまうという人ができているだけです。そうでない人には、バタバタしています。それは、テンションと共にコントロールしていかないといけません。

 声のコントロールは最終的にテンションで保たせる。それが前に出ているときは、かすれても届かなくても案外もってしまうものです。そういう舞台をたくさん見ているでしょう。ただ、その瞬間、それを入れ替えて、そこで落ちてきたというときにパッとまた、切り替えることは大変です。

 

 

 喉にきてしまったらそのままいってしまいます。そこで流れたとなれば、流れたまま最後まで行ってしまいます。それは、切らないとよくありません。日頃から、そういうトレーニングをしておくことです。

 短いフレーズで繰り返し練習すればよいのです。こういう基本的な練習をしてみてください。

 

「はい」とか、「らら」とかいうことと共にやるのです。こういうものの一番高いところをどう出すのかというのは、声楽とまったく同じです。あてる発声で、「はい」と喉をはずし、上にあたっていたら、ここにきているということです。つくっていることとは違います。上の方で響いているものを、胸の方に入れていきます。そこでドラマティックに表現できるように、深くしていくのです。

 

 ポップスからやっている場合も、体でしっかりともっていくところで力を抜いたら、正しくあたっているものです。優先順位が違うくらいのところはありますが、判断が違うわけではありません。自分で声をどこまでコントロールするかということだと思います。こういう基本的な課題ほど大切です。

 

 

 

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【「ギターよ静かに」】

 

こうやって比べると、日本人で、2オクターブを歌うというのは、とても大変ですね。低いところもここまで落として、高いところはあそこまである。音響に負わないでやると難しい。高低がかなりあるということで振りまわされるか、逃げて処理するしかないからです。

 

「水辺には蛍 月は夜空に ただ一人つまびく」

 まずは向こうのものに慣れていってください。ここで使っているものは、皆さんにとっては感覚的に難しいものです。歌として難しいのではなく、感覚として難しいのです☆。これは、今の欧米ポップスが根っこに持っているところの感覚です。それが比較的表に出ていると思ってください。変に響かせてみたり、変にエコーや音響をかけてなく、ギター1本でやったらこんな感じでよいというくらいで歌うということです。

 

それを今は押さえて、バックとアレンジしてレコーディングをしているという状況です。欧米のヴォーカリストが持っている体の条件というものは、昔と比べても劣えているとは思えません。

 音響技術がよくなり、いろいろなタイプが出てきました。昔はマイクの性能も、楽器の性能もたいしたことがありませんでしたから、こうやってヴォーカルの部分が引っ張っていた。それは日本でも同じです。それだけ声の力が必要でした。

 

 

 だから皆さんにとっては、アンバランスに聞こえるかもしれません。これは音響機器のせいではありません。要は、そこのなかでの違いを、今やりにくいところ、自分が引っかかってくるところというのは、欠けているところです。それを明らかにしていくことです。

 それとともに体を楽器として使うということを覚えていきます。今まで息を吐いて「ハイ」と体でいっているところを、きちんと1点でもって動かしていこうとすると、3度くらいのなかでも難しいということがわかると思います。きちんと握って、それを離していくということです。 

 

音楽のレッスンの前に、セリフのなかで体からきちんということを身につけることです。すると、半オクターブくらいとれるようになるはずです。そういう形で覚えていくと、音楽になるのには時間がかかるが、基準ははっきりとします☆。

どこにも接点がつけなければ、今皆さんが歌えているようにしか歌えません。それでよければ問題はない。

 

 自分のものをよりよく活かすために、体の原理をきちんと活かすことです。それから、結果的に力は必要ないのですが、体や息に負わせておかないと、何も変わっていきません。支える力と働く力が必要です。

 それで歌らしくならないのはよいのです。歌らしくならなくてもよいから、表現として前に出すことです。きちんと前に出せるようになってきたら、少し余裕が出てきます。そうしたらそこに変化をつけていくことです。できなくても、そのイメージとしてはきちんと持っていなくてはいけないと思います。

 

 

 それから解釈力も大切になってきます。こういう歌を1回聞いたときに、一体この歌の何が価値なのか、何が人に伝わるのか、何でこう作ったのか、どうしてこういうふうに終わるのか、そういう疑問を持ってください。一つひとつの歌に対して、自分をねり込むことです。

 別にこの歌に対してでなくても構いませんが、教材としては20年30年、アフリカでも、アジアでも、どこの国でもよいから人々が受け継いできたものを使った方が勉強になるでしょう。 

 

ポップスというのは毎年10万も100万も出て、残るものが100分の1、次の年にさらにその100分の1です。それで20年30年残っているものというのはとても少ないのです。それがやがてクラシックとなっていくでしょう。 

今の曲にも確かによいものはあると思います。でもその価値判断ができないうちは、認められ、受けつがれてきたものから学びましょう。

 

同じようなところで同じような人達が歌っているもの、中にはよく知っている人が歌っているからヒットしてしまったということもあります。

何よりも声と声の動きがわかるのが、最良の教材です。だから原点に戻って、作品そのもので評価することです。音楽そのもので、作詞がよいのも、作曲がいいのも、歌い手がよいのもあります。

 

 

 そこで、歌い手を読み込む。やがて、ヴォーカルのオリジナルなフレーズということがわからなくてはいけません。いろいろな演奏の形があるということを知っておくことです。何人かのヴォーカリストを徹底的に入れておいてもよいと思います。

 

 ただし、コピーするところを間違えないようにしてください。この人が音を伸ばしたから伸ばすではなく、この人が伸ばしたくなった前の感覚は一体何なのかと、その呼吸はどうしてそうなのか、その人の呼吸でいうと2秒だけれど自分はどうかということです。それを2秒だから2秒伸ばすとか、3つ数えて伸ばすというのは形だけの勉強です。

 

今は自分の寸法にあわせてください。その寸法はあとで伸びていきます。瞬間を、瞬間の表現力できちんと握って出してみてください。

 

 

 

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【「マリアマリ」】

 

 今、掲示にライブの総評をはり出してあります。私のではなく、トレーナー3人に書いてもらいました。ほぼ同じようなことが書いてあります。2部に関しては、よいとか悪いとかではない。意欲の欠如です。

 

草野球で4番エースなのか、それでも大変なことですが、2軍に落とされてもメジャーをめざすか、そこでコンスタントにやるのかの違いが出ています。第1部の最後の方には後者がいたのに対して、第2部にはあまりいないということです。 

 

まったくやってなかった人というのは可能性がある。ただ、それはあくまで年齢が低いとか、音楽に対するキャリアがないということで、有利なことではない。それは入れていかなくてはわからないからです。ただ、ある程度やって、それで誰にも覚えてもらえないというステージになった場合は、やり方をゼロから考えなくてはいけません。

 

 

 高校とか、中学校のスポーツ大会ではないのです。そのときはいわれたとおりにやって、わけがわからなくて、やり終わったあと全部忘れてしまう。今までのトレーニングは100回だったからだめ、次は150回やればよいと、でも、それでは疲れしか残らない。それまでやるだけのことをやっていた人ほど、そういうときは方法論、感覚、それからやり方を徹底的に叩かなければいけません。 

 でもトレーナーもいっているとおり、どちらがよいとか、悪いとかではありません。そこに立つつもりがなければ、その条件も必要ありません。

 

 

「開けよ窓を 愛しのマリア かぐわしの顔 我に見せよ」

「熱き思いに 心みだれて 胸に切なき 君のおもわ」

「アー マリアマリー この夜も眠れず 嘆きて 一人窓辺による」

 

 今の「トゥーセイ」は、入門科も④クラスでもやっています。あなたはどちらと判断されるかということです。勝負どころが違ってこなければいけません。最初は音をとるとか、言葉をとるとか、あるいはそのことに反応するということで精一杯だと思います。しかし、4のクラスになると、それはフレーズに出して、自分のなかで何が作られてきたかということを確認するくらいの作業になってくるのです。

 

要は、課題を振られたときに、振られてしまわない何かがそのなかに出てくるということです。3クラスの課題は、自分の歌をつくることです。しかし、全然作ってない。音楽を書き移しているだけです。だから、変わりようがないということです。そうしたら初心者のパワーに負けてしまう。10代の人でこの世界を知らなくとも、伝えようというやる気に満ちた恐いもの知らずのステージにかなわなくなってしまいます。今までやったことが前に出ていかなくなってきたら、それは伝わりようがないわけです。 

 

つくるということがどういうことなのかをみるというレッスンが中心です。「トゥー」だったらそのなかに何が入っていて、それから次にいくときにどういうパターンがあるのか、そういう線を自分でいろいろと描いて、どの線がよいのかを自分のなかで見極めていく、その前にそういう線があるということを音の空間のなかにみていくということです。

 

 

 舞台の態度のことをよく注意します。欧米の言語や、こういう音楽を処理するためには、それだけのテンションの高さと、構えが必要なのです。その構えは、集中力からです。テンションを下げて、いい加減にしてみたら誰でも悪くなる。だからその状態であって、そのことが変わらないのであれば、精神論のようにいいたくはないのですが、そこを叩き直すことです。そのことに本当に自分で気づいていないのです。

 

 アマチュアがいくら書き移しても、原盤がよいに決まっている。原盤通りやるのが好きな人、ビートルズが好きな人は、そのファンのなかでやればよい。それが草野球のなかで好きな仲間と無理なくやっていけばよいということです。誰でも歌は歌える。

 そこが見えてなければ、伸び率ということでみれば、かえってだめになっていく。だから取り組みに関しては、毎回詳しく述べています。

 

 1部でもいろいろなキャリアの人がいました。プロでやってきた人もいます。そういう人に勝つとか負けるとかでなくても、その舞台のテンションが自分で作れない限り、表現が出て通じることはないということです。

 

 

 今まで2年とか3年やったというのであれば、それが何なのかがそこに出てこなければ、ステージでも出てこない。 だから、自分でそこで線を引いてしまう、これくらいやれたらよいだろうということではここでは通用しません。その人がこれくらいといったらそれでよい。しかし、それならここでやる必要もない。自分でやっていればよい。評価されている人は単純に、しかし全力でやっています。

 

 これから何かそこに積みあがっていきそうだなという人があがってきています。だから完成度というよりは、今までのなかでよくなった、今まで沈んでいたけど、何か変わったことが出てきたという、その可能性からでもよいと思います。

 自分で決めつけ、勝手に作品を変えてみても、それはあるレベル以上の人がみたら、何でもないということがすぐにわかってしまいます。そこで一番問題なのは、本人がそれで作ったと思っていることです。それは作ったことではないのです。

 

 トレーナーのライブのできもよくはないこともあります。最悪でも、それでも何かが聞こえてくるという最低限のところは守っているわけです。そこは何だろうと、自分のものが聞こえなければ学ばなくてはいけません。

 最低限ベースのところで保っていて、ベストでなくても、出せるものは出しているのです。その出しているものというのは、声の状態のよしあしとか、トレーニングしたから出たり引っ込んだりするものではないのです。表現する心のことです。

 

 

 いつも調子が悪いといっている人には、舞台というものは、いつも最悪なときしかないと思っておくことです。月に1回なら、まだ合わせるということができますが、いつまでもそうもいってられないと思います。 自分の思うようなセッティングができなくとも、誰でも同じ条件です。むしろトレーナーなどは、10時半から1部の人の歌を全部聞いて、相当精神的にきつい状態のなかでやっている。実力の差というよりも、そこのなかでどう考えていくのかということだと思います。 

 

ステージングのよさ、歌のよさ、声のよさということでは、評価が分かれるのかもしれません。入門とか1クラスならば、入れるものを入れないとしかたがない。入ってないものに出せとはいえないから、入れ方を学ぶしかないのです。

 入れるといっても千曲も一万曲も入れるわけではない。基本的に入れているものは100パターンだと思います。しかし、そこからいくつかのパターンで徹底的に使えるように入れるのです。 

それは自分のライブに、根本になるものです。歌えるというのは、そのことから得られたイメージと、そのイメージを元に組み立てた自分のいくつかの作品が出せるということです。

 

 どんなに素人が練習してみても、プロが初見したプレーにもかなわないというのは、プロは楽譜をみたときに、これの弾きどころはどこであって、そこを自分が最大に見せるためには、他の人とは違ってどう変えればよいかを知っているからです。個性もあるし、強い部分もあるとしても、そこをみていない人は上達しません。

 そういう弱点のところをしっかりと補強していきます。音程もリズムもまだ、しっかりととれていません。それは練習量、精神的な強さ、一所懸命さとか、そういうことではない。部活動のことでもいいましたが、新たに自ら気づいていくしかない。

 

 

そこそこやれている場をここで持っているからだめなのかもしれません。プロの世界だと1軍から2軍に落ちたら、そこでもそこそこやっていけるやと思い、そこそこでやっていたら、絶対に次の年はない。そこで変わらない限り、2軍でやっていてもつまらない、1軍でやらなければやる意味がないと思ったら、そこでがんばるでしょう。そうでない人は、そこで終わってしまいます。 

ここでも戦力としてすごいスターばかりがいるわけではない。そこで、どういうふうにするかということをみてください。野村克哉監督は現役のとき、プロのバッターだったら10割打てないとおかしいということで考えに考えた。そこから発想が違うのです。普通のバッターは3割をめざしています。4割ならトップです。 

 

歌の世界も、それが極まってないということが、観客に伝わってしまう。普通の人がみても、そうだとしたら、プロがみるともっといないということです。

 私は自分一人の見方に対し、必ず他のトレーナーの聞き方も参考にします。作品のよさとか、芸術性でみているのかといったら、そんなことではないのです。まだまだアティチュードの問題です。

 

日頃のトレーニングでも、今日のフレーズをみていても、クリエイティブに何か動きそうな感じはしません。必死になって、すがりついている感じです。

 みんなにとって、そんなに難しいことなのかというと、ちょっと意味が違うのです。それなりに声楽とかを勉強しても、彼らの表現がすごいというのではありません。それに置き換えられないレベル、あなたから何も出てこないということが問題です。

 

 

 

 

 

 

 

 

レクチャー 24355字 1162

 

 

 

レクチャー1

ーー

 

<特別「恋の季節」>

 

 

 シャンソンカンツォーネで与えているのは、世界のリズムや旋律の基本です。フランス語、イタリア語というよりも、そういう語感で刺激すること、よいものは吸収し、慣れないものには慣れていきます。それを自分と組み合わせる力が大切です。

 表現は、自分のなかにいろいろなパターンが入っていて、その組み合わせのなかでも最良の選択をすることから発するのです。

 

大切なのは、ひとつのフレーズをどう選ぶか、そして、その前に何が入っているかです。それが入ってもいないし出てもいないものはどういうものなのかということを知ることです。

 それは基本的にしっかりと立っていたら、そういうものは出てくる。自分のなかのものですから。その辺をもう一度チェックし直してください。

 

恋の季節」同じフレーズが3回聞こえます。それがどう聞こえるかです。3つの違いがわかるわからないということもあれば、3つを同じに歌っても自分の感覚のなかで変化が起きてくることもあります。日頃接していないものはいろいろな意味でギャップがあります。これ以上上達していかないとしたら、基本の感覚をきちんと深く持たないからです。

 

 

 まわりが初心者ですと、少し応用しているとできてしまう気になります。すると、前に持っていたところの基本、変わってはいけないところが雑になってしまう人が多い。

 2年や3年で根本的な要素まではなかなか身につかないのは、ついたように錯覚するからです。よくよく気をつけていかなければいけません。 

 

タイプとして崩れやすい人もいます。出口を見ておかないと、すぐにゆがんでしまいます。去年獲得したものは、今年は使えない世界です。

新しいことで常に吸収し、よい感覚をキープしつづけなければいけません。

 去年、聞いたものを今年聞いていなければ、3年くらい前に自分が落ちてしまっているものです。それを5年10年単位で続けていかないと、人間の感覚はすぐに鈍くなります。そのくらい曖昧なものです。 

 

本当の意味では身についていない。レッスンを受けた後に試験を受けたらできるけれど、1週間後にやってみたらできない。ひとつのことを人が固定して、半年やめても1年休んでも変わらないようになるには最低でも2年必要でしょう。休んでもパッととれるようになって、初めて身についたというわけです。 

それをやっているときに、その慣れでできてしまうのはあたりまえです。子供でもできます。だから、できたのと身についたのを、きちんと分けておかなければいけない。長くいる人は用心してください。

 

 

自分の一番表現できているところでやってください。他の人を聞いて、その人がどのくらい勘違いをしているのか、もし自分に届くのであれば、どうフィットしているのかを、聞いてください。

 フレーズの練習は声や体を見せるわけでもない。以前はいろいろな人を見て、うまくいった例だけを取り出していましたが、最近は伸びない原因やうまくいかないところもできるだけ伝えています。

 キーやテンポの呼吸も、まずそれを捉えるところで正さなければいけない。

 

レーニングは一時、そのものが目的になりがちです。それはそれでよい。ただそれはあくまでその先のことをやるためのものということを忘れないことです。

 まわりと張り合って取ろうなどと考えずに、まず何を感じるか、そこの感覚のところを本当に戻してほしい。ないものをつくれとはいわないから戻しておいてほしい。

 

 歌は心の部分があるが、それもその人の5m先に飛んでくるところでしか見ていない。その人のなかが起ころうが、まわりで何が起ころうが、誰も見ていない。ビジュアル的な歌い手はそこで見られますが、そうではないでしょう。 

ましてやこういうレッスンの場合は、目をつぶって聞いているようなものです。そうしたらその人がどういうイメージで選択してきたかが全部、見えてしまう。つまり、すでに伝える価値がなくなっている。

 

 

 声や歌を出すことではない、動きこそがオリジナルのフレーズです。オリジナルの声は皆が今やったよりは、自分の原理に直結しているところで出していく。100回出そうが10時間やろうが、まったく痛めないところでやる。筋肉ですから疲労しますが、正しくやれば70歳まで歌えるのと同じくらい、きちんと原理が働く。

 

それがそのまま歌になるのではないのが、歌の面白いところです。まずはその選び方、フレーズの持ち方に対してどのくらいの厳しさをもってきているかということです。感覚が聞こえても言葉が聞こえてもよい。それは、結局歌が聞こえるということでは同じです。

 

 それからどう歌として聞こえたのか、そこをきちんと見る。それがトレーニングの目的となっているでしょうか。

 

 

オリジナルのフレーズは1曲伝わらなくてもよいから、少なくともその4フレーズ8フレーズには責任を持って、ひとつの表現を終えることです。 

そこのなかで乱れたり一本調子になってしまうのは、半分は、まずテンション不足からです。そこでパッと切り換えられるかというのは、鈍い練習をやっていると正されない。

 

 選択しなければいけないわけです。短くやればよいということではない、頭で考えてやっていたら、わかりません。何かを試みて起こしてほしい、そうでないと伸びていけないというより、悪くなってしまう。こういうのを聞いたときに、うまいとか下手とかではなく、歌に聞こえる、その部分は何なのか。それがないのは、問題です。

 

 曲を選ぶのは、そんなに簡単なところではありません。それなりに歌い手のよさのあらわれるところをやります。プロの歌が全てこういう要素をもっているかというと違います。少なくとも2年前にそのことをやった人はそこから近づいたのか、チェックしてください。 

それはテンションや意欲にも左右されます。

 

 

「恋は 私の恋は」、こんなものでも「恋は」というのが出た、それはただの「恋は」ということではない。「私の」恋といっています。その気持ちや感覚が動いているかということです。

 聞きたいのは言葉や歌ではない。その下の感覚です。声を使わなくても、表現することはできなくとも、そのなかに深いものがたくさんあって、そこからきちんと練習のなかで積み重ねていたら、こういう歌やフレーズにはならないでしょう。

 

ということはレッスンで全部いっている。なのにできないというより、なぜそこをやらないのかということです。

 だから20年たっても歌は変わらない。変えたいのなら、そこを変えないとしかたがない。無理に感じろとはいいませんが、あなたの歌は何をどうやりたいのか。体を使いたいのか、汗を出したいのか。それがスタンスの問題でしょう。たぶん、そういうのではなかったはずです。 

それが許されるのは甘いです。体で息をハ-ッとやってみるのも、普通にやっても声がついてこないから、その声をとるきっかけとしてのトレーニングです。それが目的ではないと何回も繰り返していっています。

 

 今の出し方で半分の人はテンションがまったく足りない。後の半分、何人かは何とかなるかもしれません。しかしその多くは自分で声を固めてしまっている。ヴォイストレーニングも歌の世界も、感覚に対して柔軟に体や声がついていくことをやらなければいけないのです。力で100%出すのでは確かに押してしまう。その先に、志や意欲があればもっと滑っていくのです。普通で使っているより、体で声を使うと、理屈で考えると、そのまま声を壊します。 

でも壊さないのはなぜかというと、テンションが高いからです。命をかかえて試合をしていると怪我しないのです。そうでないとどんどん荒れていき、変なくせがついていきます。そこだけは他人が動かすわけにはいかない。でも動かさないとしかたないから、会報を書いたりしゃべったりしているのです。

 

 

自分で主体的に引き受けたときしか変わらないのです。受け身のレッスンを逆転しないとよくありません。自分のテンションが高くて、まわりがダラダラしているのに耐えられないくらいにならなければいけない。

 このなかにも気をつけてやっている人はいますが、フレーズや音の世界に入ってしまうと、狭くなる。柔軟性というのは、ひとつのことに集中していながら、後ろから何かが飛んできたら、パッと対応できるような八方集中というものです。広くなるのです。パイロットに必要な能力みたいなものです。

 

 全部にいつも集中していたら、疲れてもたない。人間というのは集中したらそれだけ見えなくなる。体も固くなる。全部頭のことが体に移らないままにやってしまうと、どんどん思い込みのなかでまわってきます。

 

 ここでオリジナルのフレーズをオリジナルの声の次にメインの練習にしているのは、多彩な感覚に対応できないものは、本当の意味では身についていないことを知るためです。基本の公式を覚えても応用問題を解けなければ、基本の公式が感覚とか意味でわかっていない、ということです。覚えただけだから、同じ形であたえられないとできない。スポーツと同じです。

 

 

1、2、3の練習ばかりしていても、聞き手にはそれでは入ってこない。でも崩れたときの練習をする必要はない。1、2、3の感覚をきちんといれておけば、それはどんなときでもきちんと働く。 

また、1、2、3にこだわりすぎてはいけません。表向きの1、2、3と1、2、3を通じて得るところの感覚は、違います。努力しないと人間ですからすぐに鈍くなってしまう。そのためにレッスンをするのです。 

その型やフレーズをやって、何年もたったら、初めての人がそこまで感じられない、それを相手に感じさせて出すレベルにいく。

 声を一所懸命やっているという部分で通じることもありますが、それだけだと固まってしまう。そのことに対して柔軟に開いていかなければいけない。一時煮詰めたことは開放しなければいけない。それで、もっと煮詰めるべきところをやらなければいけない。いつも同じレベルのところで煮詰めているから、先にいかないのではないか。

 

 1から10までやるとしたら、1を1から10までやる。そして2を1から10までやる。細分というより、より深い部分でやるのです。難しく考えてはよくありません。シンプルにやるために難しい練習があるわけです。それを開放していかないと本当に変わっていかないのです。

 

 

他の人に対する判断力は、長くいれば否応なしについてくる。それを自分に適用し直してみることです。感覚したものを伝えるために声や歌が必要なのです。そのために最低限の声量や声域がいる。その優先順位が変わるときもあります。そういう作業はひとつの歌をやるときにやっていくのです。

 詞の解釈で、ひとつの歌やことばにここまで深く読み込めるのかと驚いた人が多かったようです。そういう部分を感覚や体のある人はできる。それが入っていなければ入れる。そのために今の歌よりはこの当時の材料を使った方がよい。

 

今のは、当時の歌い方と違い、ひとつの歌のなかでもいろいろ変えている。彼をもまねない方がよいとは思いますが、そういうところの感覚や表現上の繊細さに神経を配ることがあって、初めて体を思い切り使うことや、テンションが生きてくるのです。テンションが上がると神経は細かいところにいきます。音の世界でもっと意識しないと、雑に扱ってしまう。

 

 皆が見えないところで何が起きているのかです。こういう人達と同じように歌えないとしたら、そこをみる努力をしてください。歌の力が声質や声域があるのではない、こういうものでも2音にひとつでしょう。ラからドまでの短2度の間でしょう。こんなところで声域がないからできませんといえない。

 

 

では何が違うのかというと、この曲の対する理解の仕方、読み込みの仕方です。ピンキーのバックのキラーズを聞いていると、よくわかります。そのとおり音をいっているだけで、歌になっていない。日本のハーモニーはそういうのが多いです。それに対してどれだけ今陽子さんが声を動かし、表現を束ねているかを聞いてみればよい。

 

 声を出すというフレーズトレーニングをやるのはよい。しかし、オリジナルのフレーズや歌の勉強をするのであれば、そんなものが引っ込んでいても感覚が出るというのはどういうことなのかを知るのが大前提です。それが部分的要素になってしまうと、なかなか一曲はもたないのです。どの曲も同じように聞こえてしまう。それは感覚の違いです。 

 

そのときに起きたいろいろなことは受け入れていけばよい。それは全てが誤りではない。声が届かなかったとしたら、届かないように柔軟性を失ってしまった自分のバランスの感覚、そこの前に何か違うことをやったことの方が原因であって、だからといって力を入れたら出るのではないのです。そうではなく全部ワンクッションがあります。

 それをきちんと利用していかないと、調子のよいときしか出ないようになってしまう。それは本当の意味で出ているのではないから、最小で最大に見えるようにしていくことです。

 

 

レッスンは気づくことが目的です。レッスンは自分でやれることはやる必要はない。それは自分でトレーニングしておけばよい。最初は他の人をきちんと見てほしい。トレーナーを見るのも必要と思いますが、特別視せず、同感覚でとってみてください。そうでないと、自分のことがわからなくなる。

 

 場のなかで何ができるかが大切です。それをきちんと感じていくことです。確かにこのなかでどう声が出るかというのは、これだけのスペースがあるのですから、わかりやすいはずです。そのなかで音を読み込んでいく世界です。発声やヴォイストレーニングということをやりにきたのかもしれませんが、まずその裏で支えているものを見ていってほしい。これは感じていくしかない。

 

 日本の教育を受けているから、ここでもどちらかというとわかりにきている。でも、こういう世界はわからなくてもできていればよい。わからなくてできるかと思うかもしれませんが、本当にすごいことはわかっていてやっているわけではなく、わからないうちにできる。人間の常識の力を超えるからすごいといわれるのでしょう。

 

 

歌は応用です。どんなに歌を聞いてきて、それを歌ってきても、近づけるけれど、それでは、プロと同じレベルには絶対にならない。追い抜けない。トレーニングは自分がここまでしか見えていないところ以上にいけることはないのです。天才的な人はいるかもしれませんが、それでも何かそのなかに入っている。しかし、レッスンやライブでは、場の力が働き、わからないものができていくのです。

 

 ここでしかできないことをいっぱい入れていってほしい。知識は知識といわれるくらい古いものです。本に書いたものも、わからないものは全部削除されてしまう。わからないと思うことは伝わらないからこちらも書かない。そういうところが全部落ちているわけです。

 

 わかるところは誰でも勉強できるのです。やったかやっていないかだけの違いです。だから才能でも何でもない。皆より長く生きているから、それだけ長くその世界にいたら、わかるわけです。裏の世界はそんなにすぐにわかるものではありませんが、だからといって見せていないわけではありません。それは全て表に表れているのです。

 

 

でも、何事も感じられる人と感じられない人がいる。歌で応用でやっていくことがライブ、トレーニングはそのための基本です。基本の方が簡単そうに見えますが、ずっと難しい。応用はその場で出てきますから、簡単も何もない。うまいか下手かとか、すごいかすごくないかとか、単純なものです。そこの部分では直せない。

 

 とにかく自分で感じられるもの、わからないと思うものを他の人よりたくさん入れておいてほしい。本当は量ではなく、たったひとつのものに特化して深めていくことです。量をやるのは日本の大学教授のようなやり方で、それを知らない人には通用していく。

歌の世界でも歌のレパートリーが200曲もあるといわれたら、すごいでしょう。しかしそれは頭の勝負です。日本の歌い手もこちらの部分が多い。 

 

また、同じ育ちや学校だから応援するという、高校野球のようなところもある。私でも新しいものより、聞きたいときに聞いてきたものの方が心にしみる。それは作品としてよい悪いではなく、作品として一緒に生きたからです。これも歌の持つ時代性という大きな要素です。

 しかし、基本は時代性には関わらないものです。たとえばもう10年たてば、世の中も変わると思います。そんなものでまったく変わらないものを基本という。それを越えていくことが音楽はできるのです。

 

 

 最初にやってほしいのは、感じることをプロの感覚にしていくことです。そうしたら体がそのうちについてきます。家のなかでは息を吐いたりして、レッスンにきたらいろいろな曲がある。そのときの心の部分を大切にすることです。

 今まで音楽を聞いて、本当に心にしみ入ったときがあるから、こういうことをやっているのでしょう。そういうときのものをきちんと蘇らせなければよくありません。そうやって音楽や歌に接していくことです。皆がプロの耳を欲していくのなら、そのことに対して誰よりも集中して、きちんととっていく。

 

 それはとても面倒です。そのことをやるためにはテンションがいる。ここですぐに養えといっても無理です。ひとつは気持ちの問題、それからこういうものを支えるための集中力や体力が必要です。

 第一線でやっている人達は皆、すごいテンションや体力があります。それに負けると思ったら、この辺のことを高めておくのが基本です。基本の前の基本です。そうでないと、声も統一できないし、歌のなかにも出せない。

 

 実際には今の時代の感覚でやるものであろうと、そのなかに共通するものを学んでいくのです。だからあなたが歌えば時が変わらなければおかしい。場も変わらなければおかしい。そこに表現や歌が出たとはそういうことです。

 

 

 今度、オリジナルフレーズの特別レッスンをやります。与えられた音のフレーズを、自分で受けて出す。すぐれた歌、歌い方をきちんと読み込む。それから自分のものとして出す。

 舞台で表現をやっていくのは3つしかない。 

まずそこに立つこと。このスタンスをきちんともつ。あとは入れること、そして出す。出したときに入れることと立つことが同時にできていればよい世界です。これはヴォイストレーニングでも呼吸法でも同じです。

 

 声に関する出し方は、体の原理を優先していく。トレーニングですから意識していく。それに対して、歌は試合、それの応用で、できるだけ無意識に体が統一して使えていて、やった後によかったというものならよい。

 基本としてやることはオリジナルの声をつくることです。同じことが本に書いてあります。本やレクチャーでいったことは知識です。レッスンでは、それを入れておいた上で、知識として出すのではなく、体で出すことです。これが歌のなかではオリジナルのフレーズになります。これは日本のヴォーカリストもそれなりにもっている部分です。

 

 声と歌のオリジナルというのは、違います。声は原形という意味が強いです☆。歌では日本人には日本人のくせがあるし、日本語の特色があります。単に音の世界ではデメリットが多い。そうしたら、人間というオリジナルに戻ってみる。こちらは感覚からきたところの創作以前の器、楽器づくりになります。

 歌も作為があまりにも見え過ぎると知識と同じで、形になってしまいます。こういう中でいう基本は、実の方から形をとっていくことです。

 

 

 いろいろな人の声が聞けることがよいことです。声にどのくらいの種類があって、それをどのくらい使えるか。オリジナルの声も同じです。今はなくとも、それに近いものは持っている人はいるはずです。今は出しにくいかもしれなくとも、そのことはどこかで選んでいくべきです。

 歌い方でも好き嫌いがありますが、それに左右されないひとつの基準がある。そういう使い方をした方が、可能性があるということをアドバイスしています。それがモノになれば歌が楽に感じたことが伝えやすくなる。歌うことや声を出すことが目的ではない。それを使って何を届けるかということです☆。 

 

立つというのは、同じところでやるとわかりやすい。歌が聞こえるというのは、その人にある心の部分があって、声や歌は、それがあるところから先に、きちんと出てくるかどうかです。間をつなぐものとして声や歌を使っている。結果として、伝わってこそ、歌が歌われているということです。

 

 ヴォイストレーニングや歌は目的でなく、プロセスにすぎません。中心に対しての応用だから、結果としてその働きを起こさなければなりません。どんなにそちらの世界で格好のよいことをやってみてもあなたの勝手でしょうということです☆。 

聞いている方にとっては、そこに働きかけてくる世界にしか興味はないのです。その人が身内であったり容姿端麗であったり、何となく親しみやすくとも、それは違う要素です。そこを念頭に置いておいてください。

 

 

 たとえば、こんなに小さくしゃべったらどんなによいことをいっても伝わらないでしょう。だから声や歌というのは、形をとらなければいけないのです。声量があるないに関わらず、最低限、ここでは聞いている人の後ろまで考えなくてはいけません。

その声量を自分で調整して、それ以上早口になってもゆっくりになってもいけないというテンポにも、ひとつの決まりが出てくるでしょう。歌もそのひとつの表れにすぎない。そのことを忘れないでください。

 

 レッスンでは、どういうふうに感じてどう出すか。つまり、どういうふうに実から形にしていくかをシミュレーションします。

 自分から出たものは自分に入っていたのだから、きちんと見ること。自分がそうとしか取れなかったものをもっと取れている人がいる。そこには何があるのかをみること。

 

 その歌を知らない人が聞いたら、それが歌や声として働きかけるならよい。オリジナルのフレーズを20も30もパッパッとやると、頭が働く間もない。頭でわかることなど飛んで理解しなくなっていてもできるのが実力です☆。 

 

 

本当にトレーニングで身についたことができるというときには、頭が働いていないはずです。その前に計算が働いたり、瞬間的に修正したり、認知できたかもしれませんが、やるのは心と体の世界です。だから私は、レッスン中は考えさせる時間を与えない。

 

 他の人のをよく聞いて、そのなかで自分のものをつかむ。オリジナルのフレーズといっても、一人ではわからない。他の人との違いにこだわるしかない。それがない人もいるし、あるのに出せない人もいる。ないといっても本当にないのではなく、こういう世界においてそれをどう取り出したり感じるのかが、わかっていないだけです。

 

 それには慣れていくしかない。何パターンも何人もでやるのは、たくさんのものをやったときに、自分がひとつくらい接点がつかめるものはあるかもしれないからです。あるもので出したときにしっくりと来ないけれど、違う課題でやったときには自分では思わない声が出たとか、表現として成り立ったとします。そうしたら、それを踏み台にすればよいのです。

 

 

 こういう世界はいきなり100や1000でやれる人がいるのです。それをセンスや感覚と呼びます。それこそが接点なのです。 一方で、いつまでも「アエイオウ」などを喉を閉めて、よくない練習をしている人が多い。無駄なことです。

 

 歌は15、6歳でデビューできてしまう。そんなにすごいことがそこにあるのではないともみておくことです。その人は何万人の一人です。いくつかの曲のいくつかのフレーズのなかで才能を発揮できるのですが、すべての歌を歌わせてみたら、うまくは歌えない。もちろん、それでもよいわけです。 

 

すべてのものをうまく歌う必要はない。たったひとつ誰もが歌えないものを、自分のものとしてもっていければよい。私のレッスンには全てが入っているといっています。わかる人は、今日の一回のレッスンで全てがわかるのです。

 

 

恋の季節」このなかでどういうことがいわれていましたか、これはどういうリズムですかというようなことからもいろいろな情報は得ていってほしい。いろいろな勉強の仕方があります。しかし、要は音声の世界をどうみるかなのです。

 オリジナルのフレーズというのは、これを歌ってくださいといわれたときに、そこに出てきて、それなりに、そこでその人の世界が出せるということです。声や歌がどうこうという前にです。その要素はどれだけ感じられるかです。

 

 たとえば、こういうものをパッと聞いたときに、これに何パート入っていて、音を外したり呼吸を変えた部分はどこかは、わかるようになっていくことです。後で知識としていえるようになるのは教えるために必要なくらいで、自分のためなら耳を磨くときにいろいろな意味で捉えることができればよいのです。

 歌い方のヒントは全部、伴奏部分、コーラスにも入っています。そういうところをきちんと聞いていく。自分が1秒のなかできちんと詰めたいのであれば、ほかの人がやっている1秒のなかをきちんと見ていかなければいけない。

 

 体が覚えているというのは、たとえばこのテンポを曲が終わった後にも自分でキープできていることです。リズムもわかっていなければいけない。この歌い手と同じキーや同じ高い音を出せるということは、あまり意味のないことです☆。 

 

 

ひとつのフレーズがあって、そのなかでどれだけ自分が情報を読み取れるか。楽譜で書けるとか何パート入っているかということより、もっと深いところ、その感覚で捉えるのです。その歌い手と同じレベルで歌うためには、その歌い手がもっている声や歌い方の前に、その感覚をきちんと置き換えられるか、それがどこまで深く読めるのか読めないのかです。出せといっても入っていないものは出てこない、だから入れてきてください。

 

 自分一人で勉強できないこととは、そういうことです。最初は、一体何がよくて、どうすればよくてということがわからない。たかだか音をひとつ出すだけのことです。自分の音をどう出すかという世界です。そこに何があるのかです。

 

しかし、そのなかにいくつもの音があり、選択があり、それを自分の体が自動的に選んで、結果として人が心地よくなったり働きかけるものになる。

 これが好き嫌いで判断させるのでない。どのくらい難しかったり簡単だったり、自分がやってみたときにどこが追いついていてどこが追いついていないのかが、明確にわからないと練習には降りてこないのです。

 

 

 歌は誰でも歌えます。でもそれが本当に練習に降りて、すぐれたものになるかならどうかは、この歌い手と同じくらいの感覚でとれているかどうかからです。レッスンでは、それ以上の感覚をもつことをめざしています。それの悪いところがどこかわかり、すぐれているところがどこかわかり、どちらからも学んで参考にしながら、自分の独自のものをきちんと出していくことです。

 

 自分の好きに歌っていたら、上達するのではないのです。もしうまく歌えないとか声が出ないとか思ったら、それは体で変えられる部分もあります。しかし、そうならない感覚の方をきちんと見ていかなければいけません。☆ 

 

「恋は」いろいろな出し方や声があります。大半は今まで自分で歌ってきたもので、ワンパターンです。声も歌も鈍くやってきたものが多いから、そうでないものもたくさん入っていることに気づいて、出してみましょう。自分以外の人に出すようにやってください。なるべく広く空間をとってください。

 

 

 この場で向こうまできちんと聞こえているくらいで、マイクが自由に扱えるくらいに思ってください。ここを満ちさせるようにしてください。それは声量ではなく、心の持ち方によって、です。はじめての曲を利用してやっていくのは慣れていないかもしれませんが、がんばりましょう。プロの歌い手からストレートにテンションを借りると思ってください。

 

 皆がこれから乗り越えなければいけない壁はたくさんあります。どこかで覚えておいてほしいのは、歌はそんなに難しいものではない。自分が難しくしていることを知ることです☆。 

レッスンにきて、どんどん頭で難しくしていかないようにしてください。体でシンプルにやるために難しいこともやらなければいけないくらいに考えてください。

 

 8歳や14歳の子が歌って感動させることもあるのです。その人達がプロではなかったとしても、そこにプロの状態、そういう心、場を外から与えられたのです。 

難しいのは、舞台ということでの切り取り方です。どんなに調子が悪くても、間のそこに行ったときには、化けしなければいけない。最高のものを最高のテンションで出さなければいけないということです。

 

 

あなたも一生のなかで、かなりよい状態や気持ちになるときがあるでしょう。

そういうときのことを忘れてしまうと、トレーニングすることがどんどんつまらなくなってきます。表情が暗くなり活き活きしなくなるのであれば、歌などやってはいけない。まじめに一心不乱にやるとよく陥りがちです。もちろん、そういう時期はありますから、いつもほがらかにとはいいません。

 

 ダラダラやったりテンションを落としてやっても、声はきちんと出てこないということです。皆のまえでは、ほがらかにしましょう。皆が日常の生活で声を使ってきて、ヴォイストレーニングをやったら、それは日常の生活にオンしていくわけでしょう。普通で考えると声を痛めない方がおかしいでしょう。よりたくさんのことをやってしまうからです。

 

 無理なこと、今までできないことまで要請して、唯一、喉を壊さない方法は何かといったらテンションです。テンションが高ければ無駄話などしません☆。

電話での長電話や井戸端会議、世間話などはしません。 

 

 

これはスポーツの試合などと同じです。ラグビーやサッカーも、あれだけ荒っぽいことをやっていても、あまり怪我をしないのはテンションが高いからです。人間的な限界から越えているからです。怪我するのは練習が日常でたるんだときです。

 

 声も同じようなところがあります。本能的に回避する。特にトレーニングはそうです。感覚が鈍くなっているレベルで発声などをしていても何もならないです。それがトレーニングだと思っているのは、ただの自己満足です。

 

 そうなってもなるべくどこかで早めに気づいて、戻ればよいのですが。「恋は」を聞いたときにこいつはすごいことをやってきたと感じさせたり、相手がこいつの先を聞いてみたいと思うことが出せることが、第一段階の目標と思ってください☆。それには、ここのフレーズのすごさを知ることです。音程やリズムをきちんととれたりすることは、あくまでも部分目標であって、それを超える力がなければ、それができるようになっても何もやれないのです。

 

 

 皆がやりたいことはステージで人の心に働きかけることでしょう。それをレッスンでは忘れる人が多い。そのことのために全てがあるのであって、トレーニング自体が目的ではない。

 自分に役に立つ考え方を入れていってください。それから自分が役に立つメニューを取り入れていってください。

 

 最初は量をやるしかない。そのうち混乱してきます。だから自分の感じでわかるところややりやすいところからやればよい。そのときに覚えておいてほしいのは、わからないところこそが大切であること、それができる時がきて、やっとひとつ前進するのです。今日私がいったことのなかで、わかったと思って吸収したことも、まだ成果にはならないのです。でも、同じことをいわれなくては、本当に身に入ってないから、これでよいのです。

 

 歌でも、皆が一番よい状態のときに歌ってみてできたと思ったら、それでもうよい。それでは足りない、感じていないというところが少しずつレッスンのなかであなたが柔軟になってくると、変わっていくわけです。

 

 

たくさん知りたければ何でも読んでください。自分だけがよいと思ってもしかたがない。誰かが評価する、誰かが出番や仕事をくれ有名にしてくれる。誰かとは、プロの判断のできる人です。

 自分が感じるのはよいのですが、他の人がどう感じるかで価値が決まる。そうでなければ趣味の世界です。自分が作品の大切なことはいうまでもないが、その人自身の価値ではなく、取り出された舞台のなかでの価値です。それを目的にしないと今の自分でよいということでは、トレーニングの意味がなくなります。

 

 しょせん自分をさらしていかなければいけない仕事です。出していかなければ意味がない。それは立つこと、前に出るスタンスをとりつづけることといえます。

考えてみたら、こんな愛の歌は歌えない、誰でもそうでしょう。でもそれを本気でやる。それをやって自然に見えるだけの裏付けがあればこそ、そのことが働きかける。それをやりたいのでなく、そうなる。あとは、あなたがこれを語るに足る資格があるのかということです。

 そういう意味でいうと、自分のなかで考えてはしっかりとやっていくのが練習です。

 

レッスンでは同じところを何回も聞きます。自分だけではそんなに聞かないでしょう。それは何の違いかというと、私とのこだわりの差です。ひとつのフレーズにどこまでこだわっているかということです。私が1回で捉えることを皆は20回でもみえない。だから20回以上、聞くことです。 

 

 

ピアノでも正しく弾けたとなると、もう練習しないのですか。ピアニストはこれだけで1時間も2時間もやる。それだけパターンが入っていて、イマジネーションが豊かだということでしょう。そういう練習ができるようになっていってください。

 すぐれた人のまねをすることや体に入れるのはよいのですが、まねするためのまねではないことです。模倣は自分のなかのことを知り、それ以上のことを出すためにやる。他の人の悪いまねもよいまねもできるのはよいのです。ただ、そこから自分に活かせる何を盗むかです。

 

 可能性というのは、声に関して、いろいろ使えるように柔軟性を高めておくためにやるのがヴォイストレーニングです。そのなかでの選び方の組み合わせが最高にすぐれている人が、才能があるといわれる。これは何でもそうです。

 

 こだわりというのは、たとえばあの絵のリンゴを2個にするか、もう少し右におくか、というみたいなものです。そこを決めるのは、必ずそうでなければいけないというのはない。でもパッと見たときにこいつはわかっているな、レイアウトもセンスも、色の取り合わせも深いレベルで決めてやったのだということを納得させられるかということです。それを音のなかでやっていかなければいけないから、尚さら難しいのです。

 

 

 のどを大切にすべきときに、無駄話にあてる声などないでしょう。

 ここで充実してほしいのでなく、一刻も早くここで得たものを世の中や自分の活動のなかで問うていってほしい。

 プロデュースを売りにしている学校もありますが、何ら声一つ、歌一つで問えず、まわりが全てやってあげている。それに合わせるレッスンしか知らない。大切なのは、レッスンで気づいたことを自分一人で静かに深く反芻しながら繰り返すことです。そうしないと変わらない。

 

 レッスンに出ても復習をしない、とにかくレッスンが楽しいという人もいます。でもひとつのレッスンに出たらその後が勝負です。出るのは誰でも出れる。誰でもできることはやっているのはあたりまえです。徹底して自分の時間を使って、そのことを吟味しなければいけない。そこで肉や骨や血に結びつける努力をしなければいけないのです。

 

 映画でも誰が見てもわかるし面白いものもわかりますが、それだけでは映画監督や評論家にはなれない。今のはああするとか、これはこういう意味でやったのかというのを、自分でやっていくのです。面倒なことです。でも、それを経て、自ら創造するから楽しい。

応用が楽しくなると今度は基本のことをやらなくなる。時間を費やしてここに来るのであれば、そこの部分をやらないで過ごしてもしかたがない。よい仲間からよい刺激を受けてほしい、最初はやる気があっても、もたない。平均のレベルでいうと、1、2年くらいで、他人の才能とつながるレベルに到底ないと思います。

 

 

 どこでもナンバーワンの努力をしてダン突のトップでないと出ていけない。私が最低ラインです。

 習い事は大体トレーナーを最高にしていきますね。だから間違う。ここはトレーナーを最低とする。トレーナーが10年かかって得たものを5年でやるようにといっています。2倍やって最低、それで伝えられたら早い方だと思います。時間を大切にしてください。 

 

声はそれだけ大切なものなのに、ロビーでおしゃべりしている。テンションの低いところで声をたくさん使っていたら、痛めてしまうのです。のどは楽器、大切に扱っていってほしい。思いきりやるときにはやらなければいけない。思いきりやったら壊れるようにしていては何にもなりません。それをギリギリ支えているものは、その人のやる気や志なのです。

 そういうものを磨いていったら、自ずと声や声の動きのなかに音楽や伝わるものが出てきます。それが実から形をとることです。一つひとつのレッスンをできる限り大切にしてほしいものです。

 

 ここは本当に基本のさらに前の基本とやるために粘っているところです。誰にとっても歌にアレンジをつけて歌いあげることの方が楽しい。それは最初から楽しいが、最後まで楽しいだけで終わってしまい、力はつかない。どこかでとても面倒なことをとり込む時期が必要です。人が聞きたくないようなリズムや曲や、自分の体に合わないものを取り入れるのもよい、それが楽しめるような力をつけていってほしいのです。

 能力や実力とはどんな場も自ら、ただ一人で楽しめる場に変えられるということです。それをやるのがアーティストです。

 鑑賞も私の基準でセットしますが、判断はあなたに任せたい。さまざまなものに接するようにしてください。悪いものにあたっても、そこから勉強し、よいものも見てください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

レクチャー2

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【とりくみ 入】

【とりくみ】

 

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【とりくみ 入】

 

音楽がかかったときには音楽を入れることに専念してください。最初はできるだけ大きな音量で体を読み込みます。よい音が鳴っているところで、音をきちんと体に入れていくのが大切です。

音がかかっているのに、別のことをやっている人がいますが、それはもったいないことです。ここで無駄な時間はありません。真剣に聞くと、いろいろなものが入ってくると思います。

 

レッスンは、誰かには合うかも知れませんが、誰かにはまだ合わないかもしれない。そういう相性もあります。聞いて、こういうことがわかったということをおろす。それが皆にわかるかどうかはわからない。それぞれ皆、違うし、わからないからよくないというわけではない。今はよくないが、あとでよいと思うかもしれない。その代わりに別の何かがわかってもよい。

 

人を見るときに、その人がよいとか悪いとかいうよりも、自分がそれをできるかできないか、それに代わることをできるかできないか、そうやって見なければ無意味です。そうでなければお客さんです。

 今のはよい、悪い、では、お前がやってみろ、私は何もできません。できなくてもいい、それに代われるものをつくる。そのレベルの葛藤のなかで実力が養成されていくことです。

 

 

 ステージができるということよりも、プロの人達の後でやれること、やってみて恥ずかしくないことは一体何なのかを考えてください。

 皆のなかでは、声や歌の基準がわかっているようでわかっていないものだと思います。そのことをきちんと見ていくことです。声が出なくでも歌が歌えなくても、その基準がわかるとなれば、その後、上達します。

 

 自分でも歌ってみないとわからないから、声を出します。

最初からステージがあり、大変だと思います。

しかし、歌が歌えることや完成することを私が求めているわけではない。それはあなた方のやりたいことのはずです。そういう機会全てを通して得ていくことです。いろいろな材料がおち、自分のメニューが組み立て、実感していくためです。

 

 多くの人は皆やりっ放しなのです。それで上達しない。それでは意味がない。そこでやれることは、今できることなのですから今の力でしょう。やりっ放しでは、ずっと同じでしょう。

何が違ってくるかというと、ちょっと慣れてきて、客の扱い方がわかってくるだけです。

音楽性や人が感動する本質的なものに近づいているわけではないのです。そういうことのなかでどれだけ感じられ、どう感じさせなければいけないのかを、頭でなく、体のなかでわかることです。 

 

 

ここのレッスンだけでよいとはいえません。まして全ての生徒の対応がよいとは到底いえません。

しかし何事も1割のとても大切なことを見つけるために9割の無駄とか嫌なものがたくさんある。だから、休んではいけません。ここでのレッスンは、きっかけをたくさん与え、気づかせていくものです。

 

仕事でもそうでしょう。私の仕事でもそうです。好き勝手いっているように見えますが、9割嫌なことがあっても、たった1割のために耐える。 

ここでの私と歌との関係はもっと悲惨です。年に3000曲聞いてみて、よいものは3曲くらいです。1割どころか0.1%、そんなもののために生きているのです。でもそれを聞いた瞬間、全部のもとが取れてしまう。だから幸せだと思うのです。 

 

そういうものは、自分の考え方次第だと思いますが、あなたがそれを出せるようにしてください。私を幸せにしてみてください。そういうものが学び方です。

 

 

ポルトガルに行ってきました。アマリア・ロドリゲスの歌は、ここでもよく使いますが、彼女が死んだからです。ヨーロッパに行くのでしたら、音楽を聞きたいのならポルトガルがよいです。街のなかでファドが聞こえる。音楽が会話としても生きているというところは、少ないです。

イタリアのカンツォーネでも観光目当てのものしか残っていないでしょう。フランスでも電車のなかでアコーディオンやバイオリンは聞けますが、歌はなかなかありません。

時代が変わってきています。ポルトガルは女性一人で行っても安全です。

 

 

最初の志を生かすために、音や表現の世界で感じられるようにしてください。勉強の仕方も毎日のメニュー、カリキュラムを立てて、それを実行してください。月に1回でも週に1回でもよいのですが、レッスンは気づくのと同時に自分を発表する場です。 

 

レーニングの場としては、私のレッスンはおいていない。トレーニングにばかりに入ってしまうと、音楽教室と同じで、そのなかの問題から抜けられなくなる。

声を出し音を正しくとっていればよいと、受ける方がそれを目的にしてしまう。

そうではない。よりきちんと表現を出し、人に伝えるために絶対に大切なものだけで組み立てていくのです。

 

ここはどう利用してもらってもよい。どう利用しても同じように効果が出るということではない。あなた方それぞれの伸びる時期も伸び方も違えば、やり方も違うからです。

 そういうものは最初にわかるということではない。

何百人も見てきて、いろいろなやり方があるし、いろいろな時期がある。

それを全部、抱え込むのは、私だけでよい。あなたは、自分自身で決めていけばよい。

 

 

人よりもできないというのは、やっていないだけです。人より伸びないということも他人と比べる必要はない。自分が後で大きく伸び、最終的に自分のめざすことができるように方向をとっていけばよい。

立つことと入れることをしっかりやってください。

今あるものだけではよくないから、出してみて足りないから入れる。入れてみて、入らないから出すとか、そういうことで意味を一つひとつの場と機会から得ていってください。

 

 難しいのに出て、全然できないということであっても、皆が出る対象に含まれていたら、それで悪くないのです。次までやってこいといわれたら、次までにできることだから、それに対応しなくてはよくありません。

 

対象でないものには、まわりに迷惑をかけるので出られません。

そうでないものに関しては、たとえ難しいレッスンであっても、できることをめざすのではないという主意で行っています。そういうものにこそ、積極的に出てください。

 

 

 人数の多いときは、トレーナーと向き合う時間は少ない分、他の人からもっと学べばよい。いろいろな声があることを聞くだけでも、1時間集中して、立って、声や音を入れていくだけでも、大変に意味のあることです。 

 

他の人のステージは、皆も聞くに堪えがたいでしょう。そうしたら、そうでないためにどうすればよいのかを考えてみることです。

私はここのオーディションになると、1日に80人×2曲、160曲を続けて聞きます。私を苦しくさせないためにはどうしたらよいのか。

本当はエネルギーを与えなければいけないのに、エネルギーを奪う歌が多いです。そうならないようにしてください。 

 

いろいろなヴォーカリストがいて、歌も下手、声も悪い、大したことではありません。それでもステージをやっている人はたくさんいます。そういう人からももっと学べばよいのです。

10代でやれている、そうしたら何かしらよいところがあるわけです。でもそれ以上やりたいからということで、また入れていってください。

 

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 他の人を見て、何年かでこう伸びていったと思えば、もしかしたら何年か後に自分がそのプロセスを踏むかもしれません。そういう人が間違っていったなとみえたら、同じような間違いを犯す。予め知っていたら防ぐことができます。そうして自分の基準を先々まで、きちんと作っていくことです。

 

 その基準が甘い。ライブをみても、受けるところが音楽や歌のところではない。違うところに客が反応しているのです。それは日本のライブの現状とはいえ、ここでそれで許すのなら、ライブをやっていればよい。選手宣誓のようなもので、思いっきり一所懸命にやっていたら、そこでなにも聞こえてなかろうが、なにか大声でいっていたら、元気があって伝わるとなります。それはスポーツ選手だから許されることです。

 

 歌の世界のなかでは、ミュージシャンという部分の力が必要になってきます。そのことが正しいヴォイストレーニングをやる必要性になる。それが正していくのです。

 そうでなければ、ヴォイストレーニングという基準もいらない。どんな歌を歌っても、どんな声の出し方をしてもよい。自分の耳から鍛えてみてください。

 自分の好きな曲でもよい。こういう古い、録音状態のよくないものを聞いてみるとよい。それをごまかす音響加工をやってないということは、自分もそういうことが同じ条件でできるように直していけばよいのです。

 

 

ライブ実習とか、ライブとかで一番勉強になるのはピアニストと一緒にやるということです。ピアニストの方が曲の解釈と音の構築の仕方、みせ方を知っています。本当はあなた方の持ち歌だからあなたが知っていないといけません。音の動かし方とか、どこをどうおけばよいとか、どこは抜けばよい、どこはつなげた方がよいとかいうことについてです。

 でも小さいときからピアノをやってプロレベルで弾ける人は、ピアノが正しく弾けるのではなく、音をどう動かせばよいかを知っているわけです。音の扱い方がプロなのです。そういう人の演奏を参考にしてください。

 

 声ができることよりも、声を動かしてその世界をつくることの方が難しいのです。それはいつかみることができればよいということではなく、最初から無理にでもみていくことだと思います。そうでなければ、学び方も考え方も決まってきません。声の基準すらはっきりしなくなってきます。

 いつも短いフレーズ、そして長いフレーズをくり返しましょう。前よりもまわりが理解でき、前よりも自分が時間とか空間を支配して、それを出せるようになる、自ら変化を出してうまく落とせるかというような練習をしてください。

 

 曲ばかりをたくさん覚えている人もいます。それも勉強です。両方必要だと思います。いろいろな曲を楽しんで扱ってみてください。

 課題曲も、それがよいとか悪いとかではない。人と比べ、すぐれているものをしっかりと読み込んで、出そうとすべきだと思います。そこで自分が理解できないものとか、他の人がどういうふうにしたということを新たに自分で気づけば、自分のよい財産になると思います。

 

 

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【とりくみ】

 

大変なのは集中力をキープすることです。自分のなかでも深めていきたければ、人並みはずれたコンセントレーションが前提です。ロングトーンにしてみるとか、レガートにして、そこに体を読み込んでいくことです。ある意味ではきついです。

 

 私もバスケットとか水泳もやっていましたが、それよりもきつかった。スポーツというのはとにかく体で負担を引き受けていけば部分的に強化されます。歌の場合はすべて自分で感覚のところでチェックしていかなくてはいけません。そこで意識を絶対に離さないできちんと体を使うというのは、何事の世界でも厳しいことだと思います。

 

 個人レッスンでやっていることも同じことです。はじめのころはこれについていくのがやっとですから、ひとりでやっていてもそんなに変わらない。本当にごく一部の人が、この30分間に出しているすべての音に対して厳しくチェックしているようになるということです。 

呼吸に関しても同じです。それがちょっとでも乱れたらすぐにわかります。

 

 

 本人がコントロールしていますが、コントロール不能になったところで、あるいはコントロールしたにもかかわらず、そのイメージと音が違って出た場合、意識に関しての乱れが問題のほとんどです。息が伴わなくなるとか、息のコントロールを誤ったとき、ストップをかけるかわりに私のピアノが同じところを2回弾くことになる。それとまったく反対でベストが出たときも、その感覚を覚えさせるために繰り返させます。この区分けがつかないような人は、レッスン失格です。

 

本当は無意識のなかでのトレーニングというのが一番望ましい☆。その無意識のなかで、意識的なことが起こったということは、その前に間違いが発生して正しているわけです。その後にすぐ戻れたら、それはうまく正されたことですが、なかなか戻れなくなるのです。 

 

メニューに関しても、得意なメニュー、不得意なメニューがあります。初心者に対して、あまりも細かいことをいってもしかたない。たとえばこういうレッスンを30分やって、少しでも意識がぼやけるような人に対して、声をコントロールしろといっても、それは体力とテンションの問題です。その人がそれだけ集中した場で、耳を澄まさないと入れないのです。声を出せばよいという問題以前なのです。 

出した声がどうなっているかを、耳で聞き取れといっても、マンツーマンの場合は自分の声しか聞こえないわけです。そのなかで何が正されるべきなのかということをきちんと見つめていくのです。だから、最初は集団の場の方がわかりやすい。

 

 

 自分で練習するときに、初心者の場合は声を出しているだけ、汗をかいただけで満足しています。しかし、その音の世界のなかでみていかないといけません。ピアノでも楽器でも、ある程度、弾けたら、それがどういうふうに働きかけているか、自分のイメージをどう伝えているか、ということでチェックをしていきます。

 

 基本とは、声がきちんと奏でられたかどうかをみるのです。その音がきちんとヒットさせられたか、声をかすれさせたり、ミスタッチとしても、そこにきちんと心を宿して音を出せているかということです。その方向に準備されているのかが問題です。ですからいつも感覚がそのまま音につながって動くようなことをめざしていくことです。それを邪魔するのが、声以前に体であったり、集中力のなさ、それから呼吸の乱れなのです。

 

よいトレーニングというのは年に1回か2回くらいしかできません。そのときの状態をきちんと捉えておくことです。日ごろダラダラやっていると、それが出たことにも気づかないということになります。トレーニングというのは、本当に気をつけないと甘くなり間違えていきます。

 

 

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 これもカンツォーネからアメリカに入った代表的なものの一つです。スタンダードなものとして、英語とイタリア語を使います。

 一流のヴォーカリストをみると、その前の必ずすぐれた一流ヴォーカリストをみています。つまり、誰をみるかで、自分のレベルも決まってきます。まともなヴォーカリストを聞かずに、まともになった人はいません。そのヴォーカリストが誰をみて影響を受けたのかを辿っていくと、おもしろい勉強になります。

 

 基本を勉強するということは、20世紀までの音楽の歩みをきちんとみていくことです。それから、自分史というか、自分個人の小さい頃からの、本当は親子3代くらいさかのぼれればよいと思うのですが、自分と自分に入っているものを知ることです。 

今のカンツォーネのアレンジを聞いて、そこからどういうふうにアメリカを通して変わってきたかというようなことをみると、わかりやすいでしょう。

 

 何か音声で伝えるということがあって、そこにメロディーがついたり、構成がついて、そしてリズムがついて発展してきたわけです。前衛まで入ってしまうとわからなくなってきますが、20世紀は、リズムの時代、あらゆるリズムパターンが出尽くした、それを全部戻っていけばよい。

 一番よいのは、みなさんのなかにある人間としての呼吸の部分に戻ること、一個体としての自分の身体とか、筋肉、脈、肺に戻るとそれほど間違わない。

 

 

 こうしてなんでも、自分の位置づけと方向性をみるのが大切です。こんなにゆっくりとレッスンを進めたくはないのですが、何かをやる前にどうやるのか、何か考える前にどう考えるべきかということを、きちんとセットして始めないと、何にもならない。いい加減に渦中に入ってしまうとみえなくなってしまうからです。

 

 この前のライブをみていても、2部くらいがいつもきついです。発声や歌のなかに入ってしまったら、そこから出れなくなってしまいます。歌は、その先に誰か聞く人を想定している。未来にその想定ができる人は生きのびられる。おかしな例ですが、過酷な収容所に入っても誰かとの未来を信じる人は、生きながらえた。自分だけで生きようとするとだめになってしまいます。 中途半端に優秀な人ほどだめになる。その思いがどこに届くかということだからです。

 

 そういうことでいうと、こういう世界でも同じですから、うまい歌というよりは、その思いをきちんと届けてきた歌をその時代までさかのぼり、聞いてください。同じ時期の10代の天才的なヴォーカリストをみたり、映像を見たりしましょう。

 

 

 今日は宇多田ヒカルさんのことで取材がきていますが、世界に通用するかとか、お気楽な質問ですが、ああいう少女というのは、他の国には何千人といます。それがふつうの国のあたりまえの状況で、そんな質問もありえません。しかし、そういう形の学び方、感じたままに歌にしていくというのは、基本の大切なところなのです。しかし、20代なら形からはいるのでは、足りない。間に合わないでしょう。 

 

この前会った、今20歳のギタリストが3歳の時から始めて、14歳でプロデビューをして、キャリアで17年といっていました。仮に20歳から始めたら37歳、30から始めたら47歳までの人と同じものが入っている。日本では、17年やってもそこまで伸びないでしょう。「日本にいるときは先生の注意するとおりに弾いていたけれど、向こうに行ったら何もいってくれない」と、「自分が弾いたことに対して、ちょっとアドバイスがもらえるくらい」だということです。教え方の形態と目的が違うのです☆。 

 

クラシックのギターでさえそうですから、ましてやポピュラーでは、実際に出すところまで出さないと何もいえないのが実際です。だから、自分勝手に作っていっていいのです。しかし、根本に感じていなければいけないことと、それをその先に投げかけていなくてはいけないというのが、基本的なことだと思います。

 歌とか、劇団での台詞とかを考える前に、声は日常的に使っているもので、それを磨くということと、それから得たものをどう使えるかということを常に考えていないといけません。そうでないと、20才くらいで諦め、やるのかやらないのか迷いおもしろくなくなってくるでしょう。そうして多くの人が、自分の資質や才能を見極めぬうちに投げ出してしまうのです。

 

 

 12月にまたライブをやります。できるだけ全ての機会に出ていくべきです。外の活動に関してはどうこういいません。同期の人の成長もきちんとみていく。2年経ったら2年分身に付いていく人もいれば、あらぬ方向に行ってしまう人もいます。そういうものがすべて材料になるのです。 

 

トレーナーをみても、どうやってプロセスを経たのかなんてよくわからない。ただ同期では、いずれ、やる人しか残っていきません。でもやる人のなかで、作品になっていく人と、作品になっていかない人がいる。まず作品にしようとしているか、していないかです。それがなくて技術だけ磨いていても、よくないと思います。

 

 試合と同じで、それに勝つためにどうするかというのがある。そこに技術がはじめて降りてくるのです。それを決めるのが、自分の位置と方向づけ、学び方というより具体的な方法論です。いろいろな方法論があると思いますが、自分の使いやすいものを最初は使いつつ、わからなくてもたくさん聞いてもらうのが一番よい。

 

 

わかるものをわかるように自分で歌ってみても、それは何もつくり出せたことにはなりません。もっと深く思いに入れておくことです。よくわからないけれど、音楽はもっと深いんだろうと、もっと上には上がいるんだろうと、そう考えた方がその距離をつめていく方向に自分をおくことができます。

 

この当時の歌い手も、そんなに音楽的なセンスがよいとか、歌心を理解しているという人ばかりではない。逆にいうと、歌は勢いでやれてしまうので、一見簡単です。それも大切なことです。あんまり理屈とか、状況をどうしようとか、感情移入をどうしようとか、構成、解釈を考えるより、まず勢いです。

 

勢いが決めてしまうところはスポーツと同じところもあると思います。しかし、そこで行き詰まったらどうするのかということです。勢いのあるときは勢いのまま出してよい、そこを必ず通って超えて欲しくもあります。

 

 

 練習で一番大切なことは、接点をつけることです。自分の声がのりやすいところと、正しく出るところとは違いますが、目的によって違うことを、自分で理解しておけばよいと思います。

 

「アーマーミー」

ティーボーリョベーネー」 

こういう勉強をするときに、声から声をコピーすることも、歌から歌をコピーすることはあまりよくありません。歌謡教室では、ピカソの絵をみんなで描きましょうというようなものです。

まず、自分の思いがあり、描きたいものがあり、それを描いてみてそれがよくないということがわかったときに、基本に戻ってやるのです。みたものをどうとっていくかという構図からやっていきます。

 

 歌の場合一番難しいのは、声がそれぞれ違いますから、それで翻弄されてしまうのです。同じことが自分の声に対してもいえます。あとで大きく使えるようになるような声よりも、今、器用に音域がとれて動かしやすい声が優先される。より深い呼吸やより体を使わなければいけない声よりも、逆に簡単な体の力がほとんどいらない、浅い息で楽に高いところが出るような方向に行ってしまうのです。だから伸びなくなるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「“天使にもっとも近い悪魔たち”」1161

「“天使にもっとも近い悪魔たち”」  1161

 〜プレBV座 Vol.25を観覧して

 

 

 愛が足りない、心が足りない。

こう思えるということは、愛や心の領域に触れつつあるからだろう。

 

難しかったのは、自業自得、

音楽がステージを支えて初めて、本当の問題が突きつけられる。

 

世の中には、悪ぶる奴、正義感ぶる奴ばかりだけど、

本当に人の心を慰めてくれるのは、

悪魔の顔したものばかり、

悪魔に必要な天使の心、

天使に必要な悪魔の愛、

 

わかっている輩には“ただ進め”、

わからない輩には“ただ励め”

 

 

 悪魔が耳もとでささやく。

 

その仮面をはぎな、

醜い顔と、さもしい心をみせな、

 

すべて脱ぎ去ったとき、

人は天使に祝福される。

 

それが本当の顔だよ、

それが真実の心だよ。

 

誰もが入口でためらい、

ひきかえすところをただ進んだもの、

勇気をもちリスクを抱えてただ歩んだものだけが、

天国に近づける。

 

 歌には愛。声には心。

 

 

 

ーー

 

「真善美、その本質を観る」

 

正しいこと―自分の考え、真哉?

 自分は評価されているとの、せいぜい一方のみからの情報で、

事実や本人に聞かず正しもせず、身近で入ってくる人の話だけですべて判断する。

そこで自分の考えが正しいと思い、それゆえ芸道も仕事も人間関係もうまくいかないのに、

自分の頭で決めて行動し、自分が変わろうともしない。

 

よいこと―自分がよいと思うこと、善哉?

 小さなプライド、大きな思い上がり、

自分は、いつも、安全なところにいて、人をけしかけるだけ、

決してリスクを背負わない。

負うにも、動いてくれる人も動かす糧もない。

慎重で思慮深く、頭がよいから、結果がみえるから、何一つなせない。

まわりを見下したまま、文句をいって人生が終わる。

いい人で弱い人のふりをし、それに甘える。

 

きれいなこと―清潔なこと、美哉?

 父母の代で教科書に載ったものにしか頼れず、信じられず、

知識の受け売りしかできない。

身近な他人の自慢しかできない。

 せいぜい、いろんなところに逃げまどっていることを、

自分の前進、転身と捉える。

 いつも美しいものは危険で、前衛的である。

虎穴に入らずんば虎児を得ず。

 

 

 こういう人が増えたのは、きっと皆と一緒でないと損、ずるい、人より動くと損と思い、権利ばかり主張する輩の教育を受けたからでしょう。

まわりの人と無駄口、叩くひまがあったら、、

自分の力をつけること。

 

 ここにきたのは、実力主義のなかで自分の力を宿して生きていくということを選んだのでしょう。

しかしそれは本来、他人から頼まれなくてもやること、

ここ20年の日本だけの特異な現象のどまんなかにいて、みえなかっただけ。

一人ひとり違うのだからこそ、単に違う行動をとるのでなく、

そこでの状況や価値観を踏まえ、自分がプラスαする。

 

 

 

ーー

 

 ゲストにセミナーのあとに話を聞く。

「質問って、一人も手をあげないの」 こうしていつもチャンスを皆で平等に分けあって、つぶしてしまう。せめて、せっかくきてくれたゲストの立場を考え、ウェルカムクエスチョンでもできなかったのだろうか。

しゃしゃり出る勇気と、仕切る当事者意識の欠如。

そこでゲストへ強く自分のアピールをする努力さえしない、

無駄無用の行動しない頭のよさ、反応して楽しみを生じさせられない感覚の鈍さ―。

 

「皆、覇気が足らないの」

すべては、その一言に要約される。覇気を出すにも、正しくよく清く生きている人には、至難のことだ。間違いを恐れず、もっと強く出ればよいのに、汚れにまみれて欲しい。

本当の間違いとは、踏み出せないこと。

 

それで本当によいの―ずっとこのままでよいの。

 「10年たって考えてみよ。」

というのを今考えられるイマジネーションのある人だけが、自らの人生を切り拓ける。

 “ここ”で“今”、見過ごすなら、人生でいつか何かがみつかることもあるまいに。

 

 一芸に、人生を貫けた人は、人の話に耳を傾け、本質を観て、行動した。

ピッチャーをやりたいのに、キャッチャーに向くといわれたら?

王貞治がピッチャーからバッターに転向しなかったら?

 

 声や歌がよくなっても、一生、何もやれない。

 

だから…その問いからスタートすべきだろう。

レッスン感想・おすすめ 23134字 1157 1158

レッスン感想 1157

 

 

トレーナーが何をいいたいかはよくわかる。「今お茶できるでしょ。この人達はできないはず」といわれたが、その状態が全てを語っているように思う。前回にも聞いた「人と同じだということに嫌悪感を持て」ということ。私も人と同じは大嫌いだが、しっかりとした耳のある人が聞いて同じに聞こえるなら、そうなのかもしれない。自分では、オリジナルフレーズを歌ったつもりだったが間違っていたことを知った。まだどうしても、よくわからない点、短いフレーズ、あの瞬間に自分に入れる人がいるのだろうか。

 

私はどうしても何度も曲を聞かされて気持ちが高ぶっても、自分の番が来る頃には、すっかりテンションが落ちてしまっている。一流の人は、この状態から瞬時に高いところへ戻っていけるものなのだろうか。今すぐお茶できない状態というのは、何度も経験してわかる。しかし、あのレッスン中にそうなるようなことは私にはとても困難である。まわりの目がまだ気になっているからだろうか。

先生は、それに近づく努力をせよといっているだけで、その状態(お茶できない)をレッスン中に得なさいといっているわけではないのだろうか。わからないうちは根気よく何度でもチャレンジしていこうと思う。

 

構成を聞き取るのが遅い。もっと早く気づけるはず。見本の歌手がどのようにメリハリをつけているかを理解すること。まず自分達の歌とどこが違うかを単純に比べてみる。声だけではないはず。その使い方に大きな差があるはず。そこで何が起きているのか、きちんと見ること。そして体のなかがどのような状態でどのように動いているかを感じ取り想像してみる。そしてそれを自分のなかに置き換えてみる。そしてなりきって出してみる。もらえるところはもらってしまえ。基本となるとこえる(誰にでも共通するところ)がおさえられていて、そこに少し自分の味つけがのっかれば自分のフレーズになる。だから幹となるところをしっかりさせれば、あとは自分が好きなように花を咲かせればいい。基本的なところやいいところを盗んでいくこと。

 

「E grazie」の「E」のところは頭にアクセントがつくのではなく、クレッシェンドで膨らましていって、後の方にアクセントがつく感じだ。前回習ったことだが日本人的な感覚だとどうしても頭につけたくなってしまう。後の方につけると、ためて、徐々に盛り上る感じでムードが出る。もちろんそのときどきで、どちらがいいかは違うのだろうが、こういったバリエーションを持っておけば表現の幅が広がるのは確かだろう。

 

フレーズをポイントだけで捉えて簡単にする。そこだけおさえて後は流れに任せれば、うまく展開していく。それがフレーズの線の基本。全部を力入れて歌うのは無理。持つわけがない。力を入れるところは入れて、抜くところは抜く。そういう効率のよさは必要となってくる。力の入れどころを知っているのがプロの仕事。だから初めから力を入れなければ持たないようなキーに設定すると続かない。力が足りなくて乱れる場合がある。どちらが足りなかったかしっかり認識して補足していく。

 

ライブ実習を終えて、こうやって言葉で書くと嘘っぽく、表面的になってしまうのが嫌だけど、多分私にとって2回目(去年の2回目)の合宿から、ずっと考えてきたことだった。あのとき私はどうしてもステージで笑ったりすることができず、どんな顔をして歌ったらいいのか、わからなかった。

あんな自然な表情は、どうして生れてくるのか。にこにこ笑えばいいってもんじゃない。内からにじみ出てくるものなのだ。その内に何があるのか。こびた笑いだけは絶対やりたくない。ステージで必要なときもあるのか、今はわからないだけなのかもしれないけど、ウソ笑いは聞き手にも伝わると思う。そして、自分の歌に対する情熱が薄れてしまったのかと思った。昔はとにかく、歌いたくて歌いたくて、暇さえあれば歌の練習をしていた。そして、晴れてヴォーカルの座を射止めたときはうれしくてしょうがなかった。ジャニスのコピーバンドを無理矢理つくって、その一年間は本当に最高だった。何度ものどを痛め声が出なくなったり、トラブルはつきなかったにも関わらず、歌えることがうれしくてたまらなかった。マイクを持ってステージに立つと、日常の自分はどこかに行って、自分でも信じられないくらいのテンションだった。あこがれるあまり、JANISになりきって自己陶酔していた。その頃の自分は幼くてめちゃめちゃで、でもあのときの歌への情熱を思うと、今の自分は、何なんだろうと思った。今、思えばこれはひとつの壁だったと思う。声量や歌のうまさ、迫力、そういったことばかり追いかけてきた、自分の限界を感じ、それだけじゃだめだ、ということにやっと気がついて、足を止めざるを得ない状況だったのだ。こういった思いとずっと向き合ってきた。ときには、トレーニングさえも放棄した。気持ちだけが焦る。

 

レッスンでのコメントは、全て自分にいわれていると思い、落ち込んで、自信をなくしてしまう。悪循環を繰り返す。日常生活のいろいろなプレッシャーやトラブルがさらに追い討ちをかける。(今までなら歌に支えられてきたから、はね返せたのに)それでも、歌を捨てることもできない。自分のなかでいろいろな葛藤が渦巻く。レッスンにもなかなか行けなくなって、ステージ実習も、随分とばしてしまった。そういったもろもろのことで、自責の念にとらわれた。でも、もともと私はたくましいのか、これだけのことを書いておいてなんだけど、常に答えを探していた。だから、いろんな本を読んだり、自問自答したりして何とか立ち上がる術を、機会をねらっていた。とにかく、自分を見つめる、自分を知る、ということが主なテーマだったのかもしれない。そして、やっと、その呪縛から抜け出しつつあるときに、ミルバのコンサート、美輪さんのピアフを見て、やっと抜け出した。そして、その答えが「愛」だった。いくらイメージして、その言葉をリアルに表現しても、そこに「愛」がなければ駄目だと思った。そして、これを逆算していくと、いろいろ納得がいく。

 

私のステージ実習、先生に、自分がどれだけ上達したかをただアピールしていただけ、そこにあるのは見せかけの内容のない、そして愛のない歌。認められたいというエゴ。もちろん、そればかりではない、「化粧」は魂を込めて、歌ったし「時には昔の話を」も、伝えることだけに専念した。ただ、そこに何か足りない。足りないものだらけなのだが、根本的な何か。この何かは、人のステージを見たら、すぐわかるけど(その人にあるか、ないかは)その何かが具体的にどこからくるもので、どうして自分にないのかわからなかったのだ。それも、歌えば歌うほどわからなくなっていった。だから、それがわかったとき、すべてのナゾがとけた。足繁く通ったレイ・チャールズのコンサートのなかにもあった。人間が好きというと簡単すぎるが、でもそういうようなことじゃないだろうか。私の②クラスの仲間だけでなく、どこか、知らない人や通りすがりの人、同じ電車に持っている人など、親しい人以外の人間に対して、不信感を抱いている気がする。昔は本当に田舎者で人を信じきっていたのが、いろいろな経験によって、いつしかけん制していたのかもしれない。でもそういうことを、バランスよく自分のなかで消化できるようになった。それは、苦しいときに読んだ本もしたり、いろんな音楽からもインスピレーションやら、パワーやらをもらうことができたからだとも思う。

 

レッスンのなかでも、映像のなかでも、会報のなかでも答えは本当にたくさん転がっている。でも、それは目に見えるようなものではないから、言葉だけでは説明しきれない。もっと精神的なものが大きいから、自分でかぎとらないとわからない。

今回の課題曲にしても自由曲にしても、技術的なものはとりあえず抜きにして、歌い手の内面的なもの(というと、語弊があるかもしれないが)を聞こうとした。いろいろ自分でやってみて、録音にとって何度も聞くことによって、いつもながら差は歴然としているのだけれど、そこに自分の音色や、くせなんかも少しずつ見えてきた。とにかくスランプのとき、何でもいいから自分を奮い立たせるため一人でカラオケで何も考えず(というわけでもないが)いろいろ試しながら、いろんな歌を歌って、録音にとって聞いていた。それも、ヒントになっていた。悪いクセというのはわかっていても、どう歌っているときにそれが出てしまうのかということは意外と本人はわかってない。そういうことを、とにかく全部外していこうと思った。外すにつれ、できていると思っていたことがまったく本当はできていないことに気づいたり、まだまだ息が足りないことにも気づいた。

 

ONLY YOUという題材は、とても今回、自分にとってそういった足りないものを補うためのいい題材であると思った。帰り来ぬ青春は、とにかく合宿からずっとためてきたものだった。のわりには、音程(特に最後の「過ぎた日々に昔に」が不安定だったり、リズムが狂っていたりで、そういった楽譜的な面からの調整が意外と時間がかかった。リズムに関しては、ドラム(足)をたたいて、たたきこんだ。先生のコメントにあった通り、忠実すぎたのかもしれないが、次回は、そこまでできたものをまた崩せるところまで持っていける自信にもつながった。それは、リズムが自分のなかにしっかり入ってないとできないことだから。とにかく、今回先生のコメントが、正直なところ、うれしくて、それによってまたさらに自信がついたことも事実です。本当は自分で気づいて客観的に聞けなければよくないのかもしれませんが、どうも、レッスンのなかでも何でも、自信を失うことが本当に多かったのです。そういう自分も大切にしつつ、また、改善もし、バランスよく、また次のステージに向けて日々がんばりたいと思います。

 

ここにおいてある「人間とは何か?」という写真集をライブ実習の前にもう一度見たことによって、私が、あの夜、歌う意味、これからも歌っていく意味を考えました。ありがとうございました。

そして次のXmasライブに向けて、また、自分との戦いが既にはじまっています。自分を強く持ち、ねばっていきたいと思います。私の大切で、いつも心に持っている言葉「継続は力なり」またこれを心に刻みなおし、精進すべし。

 

一流の感覚のすごさ。自分がやっているところとは全然次元が違う、常にイメージが先に先に、大きくないとああいうフレーズは出ない。こういうフレーズを出そう、こういう声を出そうとしていたら、そこまでのものは出ないし、いかにも作られた感じになってしまう。

 

この歌いづらさは何だろう。リズムか、テンポ。それとも歌詞の文字数が一フレーズにしては多めのためか。どちらにしても加藤登紀子さんの曲を自分なりに表現するってとこまで、とてもいけなかった。なぞるので精一杯。いつもなら、課題の曲が流れてくると、何度も聞くうちに自分なりのイメージなどがなんとなく出てくるが、今回はまったく(少しは、出したか)だめだった。原因は、よくわかりません。楽典に詳しければ、曲についていろいろ分析して、それから課題が見えてきたりするのだろうけど、私はまったくといっていいほど、それができない。楽典に精通するのは、やはり音楽の世界を広げるために重要だ。話は戻るが。曲をたくさん聞き込めば、少しは音楽の幅、感覚の深みが違ってくるかも。

 

呼吸、ステージ実習を終えて、先生のいっていたことで感じたのは「呼吸」について、一定の線を走らすという感覚。私の場合、たとえば、「こころすれ違う、悲しい生きざまに」というフレーズがあったときに「こころ」で終り、「すれ違う」で終りといった具合に思える。先生のいっていたことで「もっと一定の線を走らすと楽に同じ効果が出る」というような言葉のなかで、「ああ~自分の場合は、たとえば水のなかでどれだけ息を止めてられるかゲームみたいなのがあったとしたら、顔だけつけていればそのゲームは成り立つけれど、顔だけつけているのでなく、体ごと全部入って、そのゲームをやった方がよりいい」といった感じだ。自分で練習していた中で、ああ~なんか空気に抵抗していないなぁ~というか、自分という物体と空気の境がない。なんか大ゲサにいうと空気になっているというか、一体化しているというか、そういった感じのときが1、2回あった。そういうときは何か、その歌の世界の流れに従っているというか、空気と共に体が動いているというか、そんな気がした。一定の線、呼吸を走らすという感じは、そんな感じなのかなぁ~と思った。

 

今回、特に感じたのは自分の呼吸をとらえ前に出すということ、それがあると、表現しようとか、声をしっかり出そうとか、そんなのは「いいや」という感じになる。ただ、その呼吸を出そうとなる今回、声がとても扱いにくいのを感じた、それは表現から影響してくるものとは違って、ただ単に自分のBEATの状態の整え方を知らないだけの理由からくるもの。腰の感覚と胸のあたりで息を入れて前に出すことで、下は使われてくるけど、果たしてどういうことなのかは、よくわからない。別個の感覚がついてきたとしても、総合して歌に使えないと意味がなくなる。何をどういう目的でやって、どういう感覚が欲しいからこのメニューをやるといった意識が必要。

 

ストレッチ=体のリズム(解放)―精神のリリース。体(=自分自身+自分を取り巻く全てのもの)と対話する作業。伸ばしたら一旦止める。無理に伸ばさない。いろんな考え、目的から面倒臭がりながらも、ここ2年くらい筋トレをしている。(最大の理由は体に余計な脂肪がつくと、それはメンタルな部分、感受性にまで脂肪がついてしまったような経験から)そしてここ半年くらい、それとセットでストレッチもするようにしている。これにも理由は数々あって、たとえば中年オヤジの投球フォームがなぜああ不格好なのかといったら、本来持っている身体能力以外に衰えていく(筋力の低下、硬化)肉体を、自分で気づかないうちに自由に使えなくなっているせいだ、ということに突然気づいたから。ということもあるし、元々自分も体が硬くて、このままじゃヤバいと思ったせいでもある。筋トレでもバランス(右をやったら左も、上半身をやったら下半身も)を気をつけているが、だとしたら力を抜いてやり、力んで硬くしたら、ゆるめて伸ばしてやる重要性があるんじゃないかと思ったことも理由のひとつ。

 

リズム メトロノームに合せて手を叩いてみる。手先だけでなく腰でしっかりとリズムを取る。自分のなかで手の叩き方が不安定でなくなるくらい。点に合せるだけでなく、裏拍、三連符もやってみる。裏拍が弱く、すぐに崩れてしまう。早いリズムのときと、遅いリズムのときの距離感、空気感、その違い。全て基本があって応用がある。メトロノームだけでなく、他の楽器も一緒となると、リズムが取りやすいような錯覚を起こすけれど、リズムを感じているというよりも、雰囲気を感じている。先生がちょっとだけ手でボサノヴァを叩いてくれた。どうやるのだろうと思っていたら、明らかにロックやポップスとは違う。リズムが体のなかで回っていたら、手を叩くことで、その曲の雰囲気が出せるんだ。基本をしっかりとやることから。ただ手を叩くのではなく、腰で一定のリズムを取り出せるようになること。一番シンプルなところから。基本から。

 

オリジナルのフレーズ、表面のコピーではなく、底の部分を読み取る。見えないところを読みとる。これができない。わかりやすいところは誰もがコピーする。根底部分を聞こうとして、いつも見当違いなことをしているような気がする。そこなのかどうか自信がない。わからない。「一流の歌い手は、粘りがある」その歌い手にとって、粘る部分がどうしても“そこ”でなければいけないのはなぜ。“ウネ コロンバ コロンバ”「最後のコロンバで2人くらいコロンバの間を開けた人がいる。センスがいいです」コロンとバの間を開けることのセンスのよさって何。絶対にはずしてはいけない部分はどこ。表面のコピーだけで四苦八苦している。

 

のどを開ける、のどの柔軟性を取り戻す、発声という生理作用の、自分にインプットされているイメージ、回路、プログラムを組みかえる、舌との連携プレー~/低音時の響きをつかんだまま、半音ずつ上がっていく/ファルセット―ヨーデル レイフー レイ・レイ・レイ・フー

トレーナーの個人レッスンによく当たっていた初めの頃、いっつも(ノドしまっているのね)といわれて、それがどういう状態なのか、その反対が何なのか、どうすればいいのか全然イメージできず、一方通行でキャッチボールできず、(また同じこといわれるのかなあ)と翌月もすごくブルーだった思い出があります。関西ステージ実習が始まった頃はいちばん悲惨で、何にも歌えなくて、あのとき退辞めなかったのが不思議なくらい。つい先日も何にも音ついてないのに、のっけからノドしまってて、なんか修正できず、そういう日だったみたいで、気が散ってたのもあるかもしれないけど、こんな体の鈍さで先生方に本気で相手されているとも思えず、もういい加減になって、三月、半年ならいざ知らずいくらなんでも疑心暗鬼でした。ノドのしまっているときは、筋肉が緊張しているので、いったんやめてその回路を断つ。一度弛緩させてやってから臨むこと。発声とは不必要なものを取り除いていくこと。口形も左右するので、有利な形を選ぶ。練習は音色が歪まないよう、無表情か、ほほを持ち上げ気味に。

 

のどの図のプリントを頂いて、トレーナーの説明で、(エ)だったか、(ア)だったかでベロをばぁ~って前に出したとき、ごみ箱のふたを足でぱかっと開けたときみたいに、のどのところの咽頭蓋っていうふたが、ぱかっと開いて空気を通すのを初めてイメージできてカンゲキだった。お風呂のふたを開けてはじに垂直に立てとく感じ。息の流れるスペースを多くとって、共鳴しやすくする。舌の力を入れないで、胸のポジションとか、声量とは頭を切換えて練習してみる。声帯のコントロール。しかるのち息の量を増やして声量をつくる。上半身ラクにしてれば、体の幹から深い息を吐くことにより、体についた、ヴォリュームのある気持いい声が出せる。一流を耳に入れてイメージをつくりかえる。音が上に上がっても喉仏が上がっていかないように。ポジションを握って上がっていくようなトレーニングは体を強くするためのものなので、歌にすぐ応用がきく訳でない、ファルセットなどもやってみて、のどの柔軟性を取り戻す。同じ日に見た女性ブルースシンガーの映像は皆、舌を広く平ら、前にだしてて、すごく大きく写っていた。改善するためには、イメージのプログラムを改良することが必要、生理作用ということは勉強もさることながら、あとはとにかく迷わず、下腹に力を入れて、真っ直ぐ出せばいいんじゃとも思う。

 

福島先生の著書にも、のどの図解は出てただろうし、あの図も見たことあったかもしれないのだけど、実感が湧かず読み流しだったのに初めて実感が持てたのは、トレーナーがホントに理解しているからと思う。ここのトレーニングをこなし、消化してかつそれにONしていける、活字に息吹きを通すことができる。ONしてなきゃ、ホントにわかったこと、やれたことにならないのかもしれない、すごい。一語一語確認するように淡々と話される。学生時代ホントにわかっている先生に教わることができるのは稀だし、ここってあやしいなーと感心した。

 

福島先生の本といつも隣り合わせのON BOOKSのロングセラーの江本クリニックって町の内科のドクターが書いた「スーパー発声法」の江本氏に私は健康診断を受けたことがある。前の会社に入社前の指定医だったのだ。お医者さんの癖して白衣も着ないで、黒のとっくりセーターを着て、なんかすごい気楽な健康診断でやる気あんのか、記憶も定かでないが、体さわるし、服の上から聴診器あてるし、ブラックジャックよりあやしかった。そしてせっかく抜き取った血をすぐに検査しないで翌朝凝固させてしまったらしく、再診にきてくれといわれた。そんなありがたい会社でもなかったので、わざわざ血を抜き取られに、豊中くんだりまで出かけるのも面倒で、入社を見合わせようとしたら支部長があわてて、すんでのとこで自宅を訪ねるところだったそうだ。そんな会社に5年も居座ったのだから人生分らない。馬には乗ってみろ、夫婦は添ってみろだ。その先生は、オペラと声楽にはまって、あらゆる術を研究するうち、第六感の開発にいきついたらしく、万馬券を当てる能力が磨かれて本まで出したという。いつも小銭を欲しがっているくせして、誕生日に枠番買い続けても当たった試しのない私は大いに気になる。

 

忙しい中、アドバイザーとして後進に(与える)ことを誠意をもって当たられているように感じた。その手間まではレッスンで垣間見るわけにはいかないけど。世の中、乾燥したニュースばかりなようだけど、人の心は水分を含んでいて、眼を開いたらその辺にいっぱい転がっている。

キビキビした礼儀正しいあいさつは、蚊取り線香のCMのように、まだここに日本が残っていたかと思って風流だった。

 

自由曲を選ぶとき、音程がいけるとか、いけないとか、自分のガラに合う、合わないとかで判断してしまうけど、なんか違うみたいだ。自由曲より課題曲がいいといわれがちなのは、自分を置き去りにしたところで、そのシンガーの歌を気に入ったりするからだ。話の続きを聞きたかった。音楽基礎は苦手だといわれていたが、カンツォーネの歌いっぷり。声の勉強のためだそうだ。歌い手のからだ。もとはロックバンドされてたそうだ。勉強のポイントをつかんでいる。ステージ実習のときとか、譜読みとことんされたりするんだろうか。コピー能力だけで対応できるのだろうか。

 

3回目の音楽基礎検をやった。リズム打ちとか、調のこととか、パターンわかっていながら、まだあやふやな先天的取り組みの甘さがうらめしかった。隣が、五度ずつシャープが増えていくので、シャープの数が増えていく順番にト調とかを覚えるのだといった。新曲視唱をするとき、たとえば2拍を2拍分のばすとか、テヌートでゆっくりおくとか、クレッシェンドで歌うとかの訓練は音楽に結びつくような気がする。コールユーブンゲンなどの音程練習で音がフラットしないためには、オナカでしっかり切ること、まっすぐ芯のある声をおくことで普段と一緒。裏声もまるくとばす。

 

トレーナーの耳の繊細さは、また違ってすごい。音楽ドリルみたいなことは、グループでやると確かにだるだるなので、公文式みたいに、ひとりずつ足並みそろえないで、寺子屋みたいなのでもいいと思った。音楽の捉え方に奥行きは添えられるだろうけど、どこまでやろうってのはまだわかんない。芸事はインスピレーションを授かるのが仕事だから、静かな海のまんなかにいて、体が満ちてきたり、技量ができてきたり、アイディアが満ちてきたり、歌の心がわかってきたりしたときに石を投じてやるというか、それが合宿だったり、外国行ったり、結婚だったり、出産だったり。十人十色。そんなデジャブ(幻視)を自ら仕掛けていかなきゃいけなかったりするばくち打ちだ。オカネかかって笑かすし、待ち時間多いし、そ~ゆ~アホみたいなことをさも普通にできる人でないと無理なのかもしれない。バイトで小銭稼ぐ、頭も敏捷さも世渡りさも必要かもしれない。

 

今日のフレーズ回しで、またよくわからなくなった。いや、前からそっち方面でわからない、きっと私には全然見えていない世界があるのだろうか。私の耳では、そのフレーズを聞いて、その輪郭をとっているようにしか聞こえないときがある。そのなかにある程度のテンションが入っているにせよ、あまりいいとは思えなかった。なんでだろうか、いいと思えばいいというわけではなく、そのフレーズ、まわりの人が出しているフレーズのいいところは何なのだろうとか。今、どの方面ではよかったのだろうかというのが聞けず、私は最終段階を常に見ているというか、それしか見れないのだろう。その間が見えない、聞けない。わからない。私にとって今は特に基本に忠実なものと、特に表現の入ったものの区別ぐらいしかできない。その2つに関しては「あぁ~多分、今この人はこういうことをやろうとしたんだなあ~」とか「今、この人の心のなか、体のなかはこうだろうなぁ」とかは何となくわかる。けど今日のフレーズ回しで、どの人のどの部分がよかったとか方向はこっちだとか、そういうのが聞けない。

 

福島先生が1回目より2回目の方が悪くなったといっていたけど、それはなんとなく、「あぁ~余計なものがついたってことかなぁ」と聞いてて思ったけど、1回目の他の人の感覚がつかめなかった。私の場合、今、基本と表現、声と音色みたいなところ差がとても広いのだと思う。だから、その間のことを、誰かがしていても、そのフレーズを読み込めない。だから私の場合、できるときとできないときの差が激しいというか、どこかはできて、どこかはだめとか見てはいけない。ようは雑なんだ。一回崩れると全て崩れる感じ。逆に一回のるといい感じになる。自分が安定していない=ステージになっていかない。そこは私の弱点だと思う。0か100かのどちらかしかない。その100に自分のコンディションを整える術を知らないというか、変な完璧主義者。完璧主義者になりきれていないモドキ、0から100にいくためにはテレポーションのように「ピッ」といくことしか考えていない。積み重ねができていない。プロセスをふんでいない。その状態にならなきゃ何もできないと思っている。

 

今日のフレーズ回しにしても、この間のライブ実習にしても他の人の歌、今、この人のここがよかったとか、こういう風にしようとしているとか、そういうのがわからない。ただ、目の前に寿司が出てきたとして、それを食べて「うまい」OR「まずい」しか見ていないのだ。そんなのは誰でもできるんだ。きっと寿司職人だったら「このしゃりはもっとこうして、ネタはこうした方がいい。このワサビはなかなかいい」とかいえるだろう。結局、お客さんなんだ、私は。お客さんが判断するのは「うまい」「まずい」でよく、その「うまい」が伝われば食べに来るだろう。最終的にはそれだけだけど、それをよりよく術をつくる側は知らなければ、より多くのネタの見極め方を知らなければ、自分に使えるもの、ここはいいというものなどがわからず、結局自分という小さな枠のなかでやっているだけになる。0―100でなく0以上に無限に深く、細かく入れる。その間のプロセスが一番面倒だから、ただやっていないだけだからわからない。いいときはいいけど、悪いときは0から修正していかなければだめだ。結局、その状態になったり、お客さんに伝えられるものでないとだめだけど、その間のプロセスを知らないと、ひとつ崩れたら全て終りだ。アマチュアだなぁ。プロはちょっと崩れたところでどうってことないだろう。自分に対して、今いえる忠告は2つある。ひとつは、やるときは「バッ」とやるけど、自主練習はコツコツ、積み重ねでプロセスをふんでいくこと。もうひとつは、結局、自分という枠、安全枠というか、さくのなかにいくら危ないものがあっても、結局頭の隅では「さくのなかだから」という安全枠をはっている自分がいる。そのさくの外に出て、しかも、そのさくをぶっこわすのが、自分のやることだろう。ひとつのことに冒険できていない自分が人に何かをいえるはずがない。そのさくの外に出た者にしかいう必要はないのだから。

 

息を流してて、たまに抜けているときがある。体がしっかりと使えているかを確認すること。感情表現とは音色の動きであり、声や息の使い方で創るものである。ようやくわかってきた音声表現、ただし、プロの音色や歌い方をまねるのは禁止。それをまず自分のなかに取り入れて、中で加工して自分のフレーズを出す。息の使い方や、声の密度、構成をしっかり聞くこと。音量を使わなくても盛り上ったりしてた、そのへんは耳でしっかり判別できるようにしたい、わからなかったらメロディラインやバンドの演奏から判断していかないと。

 

私の耳はまだ、感覚が鈍いと思うので、聞いたとき少しでも感じたことはでっかくとっていこう。体がきつかった。一定に息を吐き続けられないので、震えたりしてしまう声があった。なんか雑っぽい。一音一音をできるだけ細かく聞いて、一つひとつていねいに歌いたい。体を使うことに慣れてないのもあるけど、やっぱりこれも音の感覚の鈍さなのかなあ。あと集中力の持続ができない。一回フレーズを出すとぐったりって感じで。プロはこれを2時間も続けられるのだから本当にすごい。精神面も体力面もまだまだこれからなので、これからどんどん強くなっていきたい。今使える息を自由にコントロールするトレーニングと体の強化トレーニングがある、体を鍛えるのはもちろん必要だが、コントロールするトレーニングも大事。多分これはトレーナーの発声メニューに似ていると思う。両方ともしっかりやるべし。

 

日本人は自分の才能が安易に通用する場所でやっていける状態を疑わなければならない。音から音を取るのではなく、リズムから音をとれるようにすること。余分なものを落していったところで何かが生れてくるということ。ワンフレーズであっても、どこにどう動きをつけるか考えること。呼吸と声と音色をどのように融合できるのか考えること。そしてそれら全てを拡大してやってみること。自分のリズムを取れるようにすること。自分のリズムというものを作れるようにしていかなければならないと思った。感覚の世界なので、本物の音楽をたくさん聞いて、磨いていきたいと思う。

 

自分の知らないうちに正しいことが身についていく状態になっていくこと。テンションを上げることに専念すること。気づいたことを身にするためにトレーニングをすること。本当に自分が喜べるものや価値を取り出していくこと。短い時間のなかでどれだけ密度の濃い練習ができるかということが大切。声ができたら息、息ができたら体というふうにトレーニングをすること。他の応用ができるということは基本ができているということ。すぐれたものを聞いて、そのものに乗り移る感覚を身につけること。同じ呼吸でも音楽のなかでの呼吸にしていく。歌い手なら、歌を知っている人のなかで歌うこと。課題がはっきり見えてくるということは表現ができているということ。課題が見えてきたら、それを深めていくこと。極めていくことが大切。

 

5分といいつつ10分もへんな美空ひばりトリビュートを聞いた。何でそんな歌い方をするのかと思った。で、今日は入の人がいっぱいいて、何でそんな歌い方をするのか、と思った。今時のやつを聞いているんだろうなあと思った。何かすごくいろいろなややこしい、むずかしいことをしていて、そのせいで図太さがない。中心がない。きっとこれをやってくとトリビュートのアルバムの人達のようになって、飽きる、聞けないんだろうなあと思った。ちょっと長くいる人はちょっとましだった。そういうのを全部やめること。へんなことをしないこと。

 

外国人サンレモで入賞したくらいだから、うまいんだろうなと思って聞いて、伊東ゆかりはうまいなあと思った。そこいらの日本人とはやっぱり違うなあと思ったけど、決定的に外国人のは図太さがある。だから飽きない。たぶん、伊東ゆかり、ずっと聞いてたら飽きる。つくりの部分を聞いて、それを取ったらいいのにと思った。がんばって震えちゃうのも違う。やらないって決めているからみんなの冷静に聞いていられるけど、やるとなったら自信ない。図太さなんて、単純になんて、きっとテンションと単純さの間にはさまってやれない気がする。

 

いろんな曲があったので、人によって入りやすい曲とそうでない曲があるというのがよくわかった。それは自分にとってもそうで、なかなかイメージが掘り起こせない曲もあった。自分の得意、不得意を知ることも大切だが、苦手そうな曲においても自分が感じることのできる部分を探すということも大切だろう。最初から決めつけてしまっては自分の範囲を狭めてしまうし、新しい発見をするのも困難になる。何しろ、自分のことというのはわかっているようでわかっていないものだから。というより、自分のことを知るというのが一番難しいのだから。どんな曲がきてもパッと切り替われる柔軟な対応力が要求される。メロディのなかで、ここは来るという部分で、どういうふうに聞かせるか。ある人は同じ部分を1回目は響きで、2回目は張って、というふうに実にうまく聞かせていた。

 

自分の番が回ってきたとき、自分がそれを盗んで同じようにやっていたので、びっくりしてしまった。これもグループレッスンのメリットの1つということかもしれない。今日は盛り上げの部分を割合うまくつくることができた気がした。だが、やや声で押している感じがする。声ではなく感覚で動かしていくこと。ソフトな感じな曲もソフトに歌ってしまうと流れてしまう。かといって声を張り上げて勢いで持っていくわけにはいかない。そのなかで何か起こしていかないと、ひどく退屈になってしまう。工夫が必要だ。音色やちょっとした動かし方で大きな差が出てくる。雰囲気に流されてしまわないこと。

 

言葉を一度外して音だけで表現してみる。歌は言葉があるだけで変化がつくので、逆にそれによってごまかされやすい。歌詞があるだけで、伝わった気になりやすいところもある。一体表現できて伝わるものになっているのかチェックする必要がある。楽器のように音だけで伝えてみる。ルイ・アームストロングのトランペットを聞いてみると、なるほど、聞かせるなと思う。押したり引いたり、強弱の幅も大きいし、展開やメリハリがしっかりつけられている。そして何よりも飽きさせない。トランペットの場合、言葉がない分、ダラダラ吹いてたりなんかしたら、一発でもうとても聞いていられないという感じになるだろう。歌でも本当はそうなはずだが、歌詞がある分、何となく形がついてしまったり、変化がついたような気がしてしまうから本当に注意が必要だ。

 

ルイ・アームストロングを参考にして、自分でもやってみたが、言葉がない分、不安定な部分や音が死んでいる部分などシビアにわかった。自分の音色が崩れているところや、ただ歌ってしまっているところが、如実にわかった。ただ音で聞かせることが少しできた部分もあったので、そういうところは言葉がついても出せるようにキープしていきたい。音の世界で勝負するために(本当はそのなかに言葉も含まれるのだろうが)、一度言葉を外してみるというのは、有意義でわかりやすい方法だ。

 

歌の奥にあるもの、前提となるものを忘れたりしないこと。簡単にいうと心、イメージ、思い、伝えたいことなど。それらものもが歌という形をとって表に出てきているだけなのに、その形だけを取っていたら実体というものを見失ってしまう。特に声や技術ができてきて、それである程度、歌を持たせることができるようになってからが要注意だ。それはそれでひとつの力といえるのだが、そのために一番元々にある部分の力が薄れていくとしたら、本末転倒だ。歌は手段であって、目的ではない。目的は伝えること。声や技術はさらに手段の手段といえる。小さくまとまったり、せこい考えをしてしまうのは、長い視点から捉えると、とてももったいないことをしていることになる。小さくならないこと。だからといって音楽というメソッドを使っている以上、そこで起きてくる問題は無視をしていいというものではない。気持ちを込めて伝えようとすればいいというのでは、それは結局逃げ道になってしまう。音楽の部分で問題が起きると。それは伝えるということにマイナスの効果を与えてしまう。だから何かがひっかかったり、邪魔をする場合は、その原因を突き詰めて取り除いていくこと。ひとつ問題が解決すると、また、ひとつ問題が見えてくる。その繰り返し。

 

フレーズのシンプルさ、切れのよさ、部分を捉えたら全体を見る。部分―全体。フレーズはまず大きくとっておいてから、入っていく方がよい。「さよふけて」入りの音、あやしい。「さよふけて、なつかしのタンゴ、遠く響けば胸はおどる」村上さんはこの辺まで1つに捉えている。ミルバと村上さんを比べてみると、ミルバの方がムダなフレーズ処理が少なく、とても音をシンプルに出している。村上さんのフレーズはムダがあるというよりは、それが彼の持ち味、聞かせどころ、武器なのだろうが動かし方がちょっとイヤらしく感じることもある。(ファンはそこがいいのかもしれないが)

 

「時は流れ、花の色香もうつろう時も、甘きかおり」展開部。音の置き方、動かし方はいろいろとできるが、大きく、大きくしていくより、抑えのきいた広げ方の方がいいような気がする。よくAA'BAなどの構成で、あまりにBを大きくしすぎたため、Aに戻ったときに、何か始めのAの延長上ではなく、まったく別物になってしまうことがあるということが頭をよぎった。これも部分―全体(曲の)バランスがとれているかどうかのこと。(逆にそれも効果的になるときもあるが)でもひとつのパーツだけを関係なしにでっかくしすぎると、つながらなくなるのは事実。「風にのせる。夜の調べ」最後のおとすところ、大はずれ。きちんとおとせない。自分のなかにマップできず。音をゆっくりおくようにやりたかったが、きちんと音が自分に入っていない。

 

間奏部にミルバは歌っていたけど、村上さんは、やっぱりやらない方が正解だろう。かなり楽器的に音が出せて、それがその人の持ち味となるくらいの扱い方ができるならば、やってもおかしくはならないだろうが、村上さんや淡谷さん(まだ聞いてないけど)の響きを使ったような歌い方、日本人的ななめらかな音の出し方では、はまらない。あんまりやる意味がない。ミルバの空を切るようなフレーズ感覚がとても気持ちよかった。

 

とても単純。みんなよりもすごいけど、やっていることはみんなより単純だと思った。歌い手の持ち味をやってしまうのではなくて、基本的にきちんと歌えるようにする。そういう歌は聞きやすい。そういうものを聞いて、自分の基本ラインを作っておく。実は簡単な歌詞なのに一語を長く感じる。上をとるとギクシャクして歌えない。底をとらえる。短く感じるためには動きをとらえること。深い↓浅い↑そのひとまりが一単語、とすれば短い。―1フレーズ、―1曲、思ったよりびっくりの息を吐いている。発音を聞く短く感じる凹凸ができる秘密がある。息を吐くときに首を固めないこと。フレーズを短く感じるまとまりが欲しい。単語→←こういうふうに縮まっている。

 

自分が読むと凹凸がなくなる。思ったよりずっと深い浅いの差が激しい。ちょっと強くしよう程度では凹凸のある聞きやすいフレーズにはならない。マジってくらいに、そこに息を入れて、1単語、1フレーズに深さを出す。外国語のほうが簡単に歌っている。そしてその方が聞きやすい。こきざみにとらない。リズムをあっていること。頭でカウントしないこと。自分の息の寸法が足りない分を頭でやると不自然になる。こうしようと、息以外のところでやらないこと。なるべく単純に息で高低、深さを出すこと。どこで縮まっているのかを聞く。発音をはっきりさせることより、単純に息で取ることを優先する。その方が短くなる。ゆっくりな曲は特に。リズムと深さは関係がある。In tempoで単純に。歌い方に惑わされないで正確にカウントする。できない―聞きとれない。カウントがとれない。

 

リズムをフレーズに表す。ややテンションが下がり気味だった。初回のフレーズのときは完全に腑抜け状態で、リズムも何もあったもんじゃなかった。何を目的にするにしても常に表現することを前提としないと体を使えないから、まったく意味がなくなってしまう。

 

Mama feel laid off「音量がでかいのではなく。感覚がでかい」というようなことをいわれて、前にも同じことはいわれたが、今日その意味がわかった気がした。Laidの音色が他の言葉より重みがあるということじゃないだろうか。頭ではそういうことに気をつけたつもりだったが、実際には出せなかった。とにかく表現しようとすること、言葉に込めようとすることで、体を使うとか、声を飛ばすとかそういう問題はほとんど解決される。それを最低限やった上で、今日の課題ならリズムを出すことを考えなければいけない。リズムを意識しすぎると口調があいまいになるから注意。

 

A「エイ」M「エムーマッ」という感じで、語尾まで思いっきり息を吐く。最後に母音がついてしまうのはクセ。F・V―下唇をかむ。上の歯を下唇の裏に入れてしまわないように注意。B―「ブッ」ではなく「Bッ」。「B」の音だけを取り出す。「バッ」に近い感じ。CからYまで2つ音がある。C「クッ」「スッ」息音。G「グッ」とジュッ」S「スッ」「ズッ」U・Y・I「I」の口で「E」O「O」の口で「A」V「ヴ」W「ゥワ」Y「イ」と「ィヤ」Z「ヅァ」NG息を止めない。息に抜く感じ。P「ファッ」F「フッ」下唇を歯の舌に入れる、「V」の方が息が強い。Q「クッ」

 

聞く練習/今日耳コピーした曲は、とても芯のある、太い声だった。フレーズの終わり声は聞こえなくなっても、息だけがまだ吐かれていて、しかもかすかな音で音程もあってビブラートしていた。抜群の声の安定性、聞く者を圧倒し、かつ安心させる。決して張り上げてもないのに感じる芯の太さとヴォリューム、言葉を話すテンションを極限まで高めてそれの延長で声に音程をつける。

 

まだ音のなかで何が起こっているかがよくわからない。皆一緒くらいだ。まだ誰がいいとか悪いとかわかるレベルでもない。ここから抜け出したい、しかしあせるのはよくないのはわかっている。大事なのはマイペース+自分から学ぼうとする揺るぎない意志。

 

フォームをつくる。リラックス。柔軟に繊細に声を出す。声を握って出す。―少し感じられた。呼吸のなかで操作する。気持ちを体を使って出す。コードがあってもまずは、アカペラで歌ってみる。―楽器の音にたよらない。強弱で表現する。 

 

声を感覚で動かすのと、ただ声を動かすのとの違いがなんとなくわかった。多分、感情を強弱で動かす人だと思った。ぼくは、うまく声を出そうとしていただけだった。自分の体に置き換えることがまだまだ手探りだった。時間で解決する方向にもって行くという言葉が心に残った。偶然できて、それで満足しない。1/100を1/150にするために100回でも1000回でもやる。

 

自分の出した声に自信がないので、自信が出るくらい反復練習が必要だと思った。一日中自分の声を意識しないと身につかない。歌うときには意識できないくらい全力でやってみる。1フレーズの難しさ、奥深さが身にしみた。私は1フレーズ正確に聞き取ることもできなかった。ましてリピートしたり、動かすなんて、いっぱいいっぱいでした。やっぱり体で聞くことの大切さがわかった。覚えるのと、練り込むことの違いだと感じた。一曲の大変さがわかった。ぼくには、まだまだ夢のなかのようで、一曲歌いきるところまで想像できない。まず1フレーズせいいっぱいできるようにがんばります。

 

声がきちんと出る状態で、もっともっと声を出す練習をすること。歌っていて、声がふらふらするのがわかる。いつどんなときでも安定して声が出るように、トレーニングする。ブレスもきちんと取ることを意識すると、早くて声を出すのがやっと、という状態になると思う。そのために体ももちろん、感覚を変えていかなければ、今のままでは遅すぎる。

 

口の開け方が横に広がっている。もっと縦に開く。以前からいわれている。トレーニングで声を出すとき、毎回しっかり意識してやっていかないと、いつまで経っても直らない、と思った。下へ下へと歌うようにすることも同じ。気にしているのが最初だけというのでは身につかない。体が覚えるまで、意識してやっていく。

 

レッスンごとに、何のためのメニューなのかを把握すること。そしてそのメニューに対して、全力で、体全体を使って取り組むこと。どんなに簡単なリズムでも、適当にとらないこと。リズムに合わせることに意識を傾けすぎて、声を整えてしまわないこと。自分の意志で、息を吐ききること。前傾姿勢での息吐きは、腰から声を出している感じで、床に息をぶつけて弾ませるイメージを持つこと。

肺やのどを息が通っている感じがしないようにする。イメージしたことに対してしか、体は動かないということ。音が高くなると響かせようとしてしまって息を吐くことと、声を出すということが体の内部でバラバラになってしまうので息を吐くことに重点をおくようにする。一番ナチュラルな声を取り出せるようにすること。

 

声に出す際、重要な腰まわり、脇腹、骨盤をストレッチすること。そのとき、自分の体のどの部分に力が入ってしまうか。音楽(声、メロディ)を聞いて、自分自身で表現するとき、メロディのラインをきちんとつなげる。(点でとらない)単にものまねの短縮版になっていないか。メロディが盛り上りに入るとき、単に声を張り上げるのではなく、その盛り上がる前のメロディと、どうつながっていて、このようなテンションになるか、をしっかりとらえる。自分のなかでイメージしたら、即声に出してみる。いちいち迷いながら出さないこと。

 

自分の感覚を働かせていない。いつも表面のコピーをして、それもできなくて終っている。詞を読み、曲を聞いて、自分のなかで生れたもの。それを外してはいけない部分。ずっと以前に感じた疑問と同じことを感じている。1つのことを得るために根気よく何かをしてきていない。

 

声を握って出す感じを少し感じられた。呼吸のなかで操作するのは、声を握って最後まで体を使い、強弱で表すことだと思った。それには、すごい力と息(息を支える力かな)が必要だと思った。そして、すごい力だけど、必要なところ意外は、リラックスできるくらい体を鍛えてないといけないと感じた。思い切り大きな声を出すくらいの体を使って繊細な声を出そうとすると、息がもれてしまう。多分体が弱いのだと思う。それと集中力もかなりいるし、すごい緊張感がある。少しずつだけど、体が強くなってくるのを感じるが。もっともっともっと息―声に耐える体を作らないといけない。一言一言もっとていねいに体を使って声にする。―ふだんの生活も―これがなかなかできてない。

 

息を吐くとき、脇腹のふくらみを感じなければいけないのだが、私は逆に、へこむ感じがするので、息の吐き方が間違っているのかもしれない。前傾姿勢で息を吐くと、うまく腰が動かない。だから息も前に出ない。息に声を乗せるということが、まだ体で実感できないので、毎日練習して、その感じをつかめるようにしたいと思う。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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おすすめ

 

アクターズスタジオ

メソード法なんて言葉知らなかった。今では、あたりまえになっているってことも。第一歩があって、その一歩を最初に踏み出すのは、新しくて斬新であればあるほど、まわりからの圧力、反対、中傷などものすごい。彼の場合、この映像からそれほどのものは感じなかったが、きっと、確固たる自信がなければ、ここまでできない。そして彼のその感覚が歴史に残るスターを生み出し、不動のものにした。つまり“あたりまえ”にした。それはこの1時間たらずの映像に凝縮されすぎて、私の想像を絶することだ。あと、彼の言葉で「見つけて、表現して、抑制する」というのが残った。最後の「抑制する」というのが、むつかしい。アル・バチーノだったと思うが、彼も「役者(表現者)は100%出したがる」といっていた。私も同じだなあ。もっているもの全てを出したい。それがまた、いいと思っていた。レッスンでもよく、同じようなことをいわれているけど、何を、どう抑えていいのかよくわからないのだ。でも「余裕を持って」というのをヒントに、また、今一度練り直してみようと思った。

 

元ヘビー級チャンピオンE・ホリフィール

延々と何時間もストレッチを繰り返すことで有名らしい。10年以上前に少し習った(練習3回でやめたが)永心流雄式体術という実践カラテでは、まず体の力を抜くように、自分の体を中に水の入った袋だと思えと教えられた。極真が“こん棒”だとしたら、この流派は“ムチ”の強さだと思う。それ以来、私は常々ムチのようにしなやかで強い(フィジカル、メンタル面で)自分でありたいと思うようになったし、それには筋力の維持と同時にストレッチを意識的に続けていく必要があると、この年になってやっと実感できたのである。(前置きが相当長くなったが)といっても、今日ほどたっぷり時間をかけてストレッチを行ったのは初めて。筋トレ時のアッパーな感じと逆に、ゆったりとした環境のなかに身をおいて行うと効果も上がるのも、実感できた。ストレッチの気持ちよさは、自分の体の輪郭が曖昧になって空気に溶けていくような、そして外側からエネルギーが中に入り込んでくるような気持ちよさだ。ややこしい理由抜きに、この快感を味わうためだけに続けてもいいぐらい。レッスン終了時、体や気分はまるで温泉から上がってきた後と同じで驚いた。ライブ実習直前に体はかなりいい状態になれた。結果は別として。

 

偉大なる名歌手たち

この映像に出てくる人達は、皆体から泉のようにあふれる声をしている。私としては、とてつもなく羨ましいかぎりだ。ただ、こうした名歌手といわれた人たちにもそれぞれ声量のあるタイプと、そうでもないタイプの人がいるようだった。個人的には、いかにも声量がありますといわんばかりの人の歌は受入れがたかった。別に乱雑だとか、鈍い感覚だというわけはないけれど、それだけ前面に出されてもどうも気持ちよくない。まあ、ある種、競技的な視点からすれば、確かにすごいという気もするけど。でも、心地よく感じる適性声量のようなものは、あるように思う。感覚が必要とする声量を自在にコントロールすることが自然で、心地よい音楽を生むのではないか。だから、これら何人もの名歌手のなかで印象に残ったのは「感覚」が豊かで鋭いタイプの人達だ。

最後に登場したマリア・カラスは圧巻であった。彼女の場合、「声量」だとか「感覚」とかいうものを通りこして、「何かが急に飛び込んできた」ような不思議な衝撃があった。一体あれは何だ。

 

ジャズ・チャンツ

長い間、学校で英語をやってきたが、180度意識が変わった。今までの英語に対する意識が、やはり歌うことに対してハンディになっているんだと実感した。つまり日本語のなかの英語から外れていなかった。こんなに息を使う言葉だったとは。全ての子音に息が通っていて流れが止まることはない。日本語だと子音、または母音でも息がさえぎられている。これが言葉をひとつに捉えられない大きな原因であることは確かだ。とにかく息を吐ききることをしなさいといわれた。今回のレッスンは自分のなかで、とても大きなものになった。英語の歌でやっていくかどうかは別として、英語を知ることで歌に日本語をどう乗せるか、リズムの大切さを感じた。まだまだたくさんのことが見つかる気がする。

 

マイルス・デイヴィス

マイルス アヘッドを見て/「最高の作曲家は最良の音楽コレクターともいえる」私は4年ほど前からそう信じている。ジャンルを問わず、いいとされている音にがんばって入ってみる。たとえわからなくても、好きになるように努力する。そのよさがわからないのは、その他の音を知らなかったりして、それと比べることができなかったり、固定概念や、その他もろもろの雑念があるからだと最近思う。最初は誰でもかぶれてしまうけど、そのかぶれこそが、そのよさをわかるまでがんばれる活力になる。私はどれだけがんばったとかそういうことより、ものすごい音楽フリークのミュージシャンといった方が驚異を感じる。私がかれこれジャズを聞くようになったのは、ジャズ―しぶい―都会的―おしゃれ、といったかぶれからです。マイルスの音楽、最終的には音色、ソウル、グルーヴという音楽のひとつの線にのっかる、やっぱりよいものはいい。これである。おかげでビル•エバンズやハービー・ハンコックにまたかぶれていくことができたのである。一通り聞いて、また、マイルスの音を聞けば、その違いがわかるようになり、また、よくなる。その音色は、静寂を振動させる印象。その空気に対するまじり具合が最高だ。こんなにも確かな温もりを感じる音色は念を唱えるように神聖な香りがする。最高のR。デイビスのあの目の輝きときたら、生まれたてのBabyですね。

 

メイキング・オブ・三代テノール

一番驚いたことは、普通の人達でも、福島先生のような深い声でしゃべっていたことだ。日本人が声についてはマイナス状態であるというのもうなずける。

 

平山郁夫

サラエボの先〜戦場の画家を訪ねて/描く理由―作品に命を吹き込むことができる。何を美とするのか。壊れた心を描く。苦しみは芸術そのも のではない。―苦しみは生きることへ価値を与える。

 

ミルバ

楽器と一体となって歌っていた。福島先生いわく“楽器と呼吸が合っている”ということだけれど、そういう感覚はとてもうらやましいことだと思った。私も早くそうなりたいと思う。

 

「男が女にふられようが、二度と女とつき合えなかろうが私にはどうだっていいことだ。

私にとって重要なのは“Run with the wolves”であり、“stand up and shout”だ」

ロニー・ジェイムス・デュオ

 

 「ミンガス・ジャズ・ワークショップ」

アドリブをバラバラと展開するのを見て、歌について思うことがあった。まず、自分の引出しをたくさんつくることが必要に思う。子供の頃から聞いていた種類の曲ならば、だれでもすぐに覚えられるし、作曲みたいのも簡単にできそう。でも、大人になってから好きになったものは、やはり勉強しないと。この前の福島先生のレッスンでいわれたことを思い出した。8小節くらいのフレーズを何度か聞いて、覚えて歌うというやつ。自分のなかに少しの音楽しかないので、知らない種類の音楽を聞かされると、つかめない。耳も体も初めてなので、当然すぐにコピーするなんて無理。私が普段よくやるのは、好きだと思った歌をざっと覚えたら自分なりに歌ってみて、そのあとオリジナルとあわせてみるということ。自分ではまねしているつもりなのに、全然違う。声はもちろんだけど、しっかりと聞いて覚えたはずなのに、譜割りさえも違う。いかに 自分の耳や体に受け皿がないかが、よくわかる。演歌おやじが「最近の歌は覚えにくくて」というのと同じレベルでしょう。ひとりよがりの歌にならないためにも、コピーの練習は必要だと思う。演奏については、こういう編成でバス・クラが入ったのを初めて聞いたので、面白かった。ミュートのトランペットとあわせると、テナー・サックスよりもとても繊細だし、ソロではちょっと民族音楽のような感じもして、印象的だった。

 

「スイング・タイム・ビデオ4」

〈ナッ卜・キング・コール〉柔らかいけれど、明るい声。さりげないようで、しっかりとひとつの流れに乗って行く先が見える歌い方なので、とても説得力がある。変なはったりみたいのがなくて、歌も楽器のひとつのように自分のピアノと他の楽器とのアンサンブルを楽しんでいるように見えた。また、ピアニストの手元がよく見えるのが、うれしかった。ライブや録画では、ベーシストや管楽器の手元は見えても、ピアニストの手はほとんど見えないので、目が引きつけられた。そんなに難しそうな演奏には見えないのに、よい音がしているのが不思議。それにしても、ほとんど手元を見ずに弾いているのはすごい。ピアニスト出身だったと思うが、歌もピアノも、すっかり体が覚えてしまっているのだろう。こういう歌を聞くと、つい発声のことなど、いろいろ考えながら歌ってしまう自分は、表現などとはほど遠いと思ってしまう。

〈サラ・ボーン〉低音でものすごく癖のある歌い方の印象があったが、ずいぶん違った明るくてのびのびして、若いという感じ。だけど、ダイナミックですごい。自分は女性なので、女性であるサラの歌う姿がよく見れたのが よかった。口の形や呼吸の仕方などは、やはり女性の方が参考になると思った。 映像でないとわからない発見がたくさんあった。

 

 

 

 

ステージ実習コメント トレーナー 24749字 1154

ステージ実習コメント 1154

 

 

【前期ライブ 第1部、第2部コメント】

 

 前期のライブはクリスマスライブと違って、お客さんとして全ての部に対して入れています。いつもながら楽しいところもありましたが、どうでしたでしょうか。 

こういう世界は3年くらいはどこにいても学べます。大切なのはその3年からどう力をつけるかを学んでいるかです。 

 

ここのよいところは自分を出すところです。今の歌は他人の歌を他人の歌のように歌うことを目的としています。ここはそういうことはしていません。しかし、自分の歌を歌えているかというと、難しいものです。本当に歌えているのなら他人の歌も歌えるくらいの力がなければ下手しか出てこないでしょう。その下手なところが可能性としておもしろく見えます。 

一方で、自分の感覚や考え方の部分でまだまだ思い違いをしていて直らない人が少なからずいます。それはどうやって正していけばよいのでしょうか。成長するためには脱皮していかなければいけません。脱皮した後に、いつも同じ形で生まれてくるのは、能がないような―、その人らしいような―、だから通じないのです。

 

 最初の3年はキャリアに入れなくてよいというのは、3年はほとんど試行錯誤だからです。 

よい歌というのは、いつもながらピアニストは素晴らしい演奏をしてくれましたが、その後ろにさらにフルバンドが聞こえてくる気がします。 

私は今日、照明をやりましたが、ここで歌っているものに対して、どう動かされるかみています。誰かだけスポットをキラキラさせたり点滅させたりできませんが、やってあげたいと思った部分はありました。その反面、誰かのときはライトを消したいと思いました。これも、冗談にならなくなります。人が見て、何かやってやりたいとか、誰かが手伝おうと思って、活動は広がっていく。

 

 

 次は、出損ねたメンバーが集ってやります。果たして、本人たちが自分のものをきちんと出せるでしょうか。そのレベル水準が、他の人、30人の前で30人が歌ったら平等でよいのですが、ひとりで歌うとしたら30人分くらいは努力していたり、30人誰もができない水準でやらなければいけないでしょう。300人の前なら、300人分です。 

 

そういうものなら、どんなに世の中が変わっていっても、自然と広がってくるはずです。誰かが応援したくなり、誰かがまた聞きたくなる。そこまで足を運びたくなる。今は聞き手の問題で、テレビで見てすませ、足を運ぶ手間ひまをかけてくれません。

 

ここのステージは皆が勉強するということで、守られていることがあります。だから、研究所なので、ここで問えなくてはどこへ行っても同じ、仮にできるとしたら、問題がぼかされただけです。 

 

 

落語の世界でいうと10年目で二つ目、彼らは4人か5人で出て500円の客の前で勉強のための発表をやっています。やはりつまらない。500円だから損ではないが、4000円であれば二度と人は来なくなる。

お金で価値が決まるわけではありませんが、片や10年も経たないですごくおもしろいことをひとりでやって、90分で8000円もとっている人がいます。

それはアイディアやイマジネーションであったり、時代に受ける受けないも含めての力です。 

 

落語の世界でも境界があって、師匠につき、すごい手間をかけて、後々のびるタイプの人もいれば、師匠をつけないでやれてしまう人もいる。それは日本の社会では難しいことでもありますが、自分のやり方があってもよいと思います。それを学ぶために、人につくのでしょう。

 

 

 沖縄に行ってきました。ドゥルス・ポンテスのコンサートでパーカッションの人がレインスティックという楽器を使っていました。

それとエイサーという沖縄の祭で使う太鼓を買ってきました。まあ、楽器になってくださいというようなことをいいたいのです。 

 

先日、「ア・マン・オン・ザ・ムーン」という映画を観ました。ジム・キャリーが出ている、35歳で死んだお笑い芸人の話です。バカなのか天才なのか評価がわかれているというところで、そのまま映画化されている。客をしらけさせたり歌が下手だということが本当に知りたいというときは、観ると勉強になると思います。

 

でもそれがなぜ取り上げられ、歴史に名を残しているのか。誰もが忘れがたくてどこか心の片隅にあるから映画にするのです。それはそこの国で同じ時代に生きていないと、あの映画を一遍を観て何がよいのか悪いのかはわからない。しかし、伝記をもとにした映画は、どうも何か大切なものが欠けますね。 

 

 

今度のライブは12月23日です。レパートリーを練習して臨んでください。観ていると3年間、イベントやステージに出続けている人は強いです。トレーニングは持続が全てです。1割くらい力が落ちたと思っても少しがんばれば取り戻せると思ってしまうのです。でもこちらが観たら、その1割は5割とか8割とか力が落ちてしまっているのです。当人はまだまだ登るつもりでいるのですが、そこがすでにアマチュアなのです。

 

 皆さんも毎年、前年よりも、そこで得た学び方をきちんと守っていかなければいけません。そういうものが今日のなかにも反映されているように思います。 

昇り調子のときに辞めていく人はいません。気持ちが、なえたときや調子が悪くなったときに辞めていくのです。何かものごとを成し遂げた人は、とにかくそれを超えることに、いつも全力です。いくつそれを乗り超えたかで、芸の価値、人生も決まっていくのです。だから二重にリスクがあるのです。 

 

本当は調子のよいときに辞めてほしいのですが、そういうときは人は決して辞めないものです。なぜなら、覚悟と一体になれているからです。 

能力や才能は、人前に出る力として表われるのです。まだ力が出せなくとも、自分のなかに吸収されているという実感があると、人は前に出ます。 

 

それが自分の気力が衰えたり、大体の場合は、もうできるようになったという慢心が芽生えると、ひくのです。そして、その程度でいいやということで、そこから再び、そのプロセス点を頂点にして一生終わってしまうのです。

何ひとつ、この世でやれていないのに、自分同様にやったことのない人の前でやれた気になっていては、お目出たいだけでしょう。続ける限り、可能性はまだまだあります。 

 

私がまだここに愛着をもっているのは、他人のものを他人の歌のように歌おうとはしていない。自分のものを自分でやっていこうとしているからです。だから下手だしつまらない、けれどそれが価値を持ったときには、誰もできないものになる。そこで失われるものは何もない。 

最初から自分でつくっていくのは大変です。だから、よいものは手本にしながらも、できてきたときにふんばれるかどうかというのは、全てのことにおいて問われていると思います。がんばってください。

 

 

 

【新入ステージ実習 トレーナーのコメント】

 

 

新入ステージ

 

できる限り場に出て、トレーニングを積んでください。新入ステージ・ステージ実習という場を自分で決めつけてしまわないことが大切です。聞いてもらえるという前提で、みんな発表していましたが、もし相手にされるかどうかもわからないという場で真剣勝負するとしたら、そんなふうにやるだろうかというところから、次回に臨んでください。 

聞いてももらえないかもしれない、でもこれだけは伝えなければというものがなければ、人前には立てません。聞き手はあなたの表現を待っていますが、でもあなたの身内や友人ではないからです。それぞれに、よさはみえましたが、それが圧倒的な力の差になるまで続けることだと思います。

 

(1回目)

1.発表と表現はどう違うのかを考えてみましょう。舞台にテンションの高さは不可欠です。

2.少し熱意は伝わる。ゆっくりとことばを発してみよう。

3.意志はみえる。観客への働きかけが必要。暗記文を読み上げるのでなく。

4.内容はまあまあ。やや早口すぎて聞き取りにくい。目線を定めること。

5.元気はあるが、まだ「発表」。3分間、人を魅きつけるにはどうするかを考えてみよう。

6.口調、落ち着いている。何がいいたいのかを絞り込むこと。しっかり声にする。

7.表現したいことを絞り込むこと。発表口調を壊す。意志がみえるのはよい。

8.大切なことを人に伝えるときどうするかを考えよう。発表の場という先入観を壊し、自分の世界にすること。

 

(2回目)

1.何を表現したかったのかを自分に問うこと。覚えて歌うだけでは足りない。

2.ことばが壊れている。「今」→「いまあー」など。ことばを読み直してみよう。

3.よけいな抑揚をはずし、もっとゆっくり読んでみよう。雰囲気で流さないよう。

4.読み方、慣れているが、慣れていることで、声ではないところでつくっている。口調をつくらず、自分のことばになるまで読み込む。

5.「読んでいる」と感じさせないためには、どうしたらよいのか考えよう。「ああ」などの感嘆詞、棒読みではふしぜん。6.フレーズ切りすぎている。伝えたいことを絞ること。声の状態や正しさにとらわれて、表現が引っ込んでしまう。

 

 

 

ステージ実習①

 

 ほとんどの人は、表面通りの歌詞や雰囲気から、こういう曲だと決めてしまっています。決めてしまうというのは、それ以上の作業をしていないということです。歌い手のなかに生き生きしたイメージがないのに、人に伝わるはずがありません。 

皆さんが普段、友だちと会話しているときの方が、ずっと表情も声も豊かなのではと感じます。本番で緊張するきはしかたありませんが、もし全然、緊張しなかったとしても、そこに伝えるべきものがあふれているかどうかです。声を出していることで、自分がごまかされないように気をつけてください。 

音やことばに対し、柔軟になるには、人の何十倍も聞き込むこと、そこから気づくことです。

 

1.音楽や構成として乱れがあるが、曲を解釈し、それを出そうと試みた点では評価できる。1フレーズをていねいに声にしていこう。

2.元気があるのはよい。表面的に歌い回しすぎ。何を伝えたいのか、はっきりするまで曲を聞き込み、イメージを大きくとること。

3.頭のなかで順序を追ってみる。正確さにとらわれず、音楽を素直に感じてみよう。表情が明るいのはよい。

4.MCの声の方が生きている。VTRでよく確認してみよう。その声をそのまま歌にしていくこと。

5.よく音がとれているが、歌より音程が聞こえてきてしまう。形やクセを壊していくこと。

6.思い切って歌っている。やや機械的。音のとり方に、ずり上がるクセがあるので、勢いで歌わず、1フレーズずつゆっくり声にしてみること。

7.音程が、歌っているうちにずれていくので注意。歌い方にクセがついており、ことばが聞きとれない。一音ずつ、きちんと声にする練習。

8.(欠席)

9.声はいつもより安定していたが、やや力まかせ。表現、練り込みが欲しい。歌とトレーニングの区別をする。

10.比較的、曲の流れはよく見えた。読み込みの不足。表現としてのインパクトが欲しい。

11.しぜんさが必要。形をつくろうと、しすぎないこと。MCの方が、よさが出ている。

 

 

 

ステージ実習②

 

前に出せていたのは一人だけで、あとの人は歌う以前のところで引っかかっています。課題曲の聞き込みがまったく足りません。 

ゴンドリ・ゴンドラ→他人のロマンスはありふれたものでも、自分のはそうではないでしょう。そういうことを本当に伝えたいと思ったら、そんなありふれた解釈では、すまないはずです。イマジネーションが死んでいるようです。 

マンマ→親にいわなければいけないのではなく、観客に伝えるのでしょう。ことばを字づらでしか捉えていなければ、歌に入れないのはあたりまえです。まだ歌うことがプライベートなことにすぎず、聞き手に伝えるという、歌い手としての意志に結びついていないと感じました。

 

1.無理がみえる。声と表情、不一致。自分の内側が動くのを待つ。

2.やや早口で、ぶつぶつ切れすぎている。雰囲気をつくることで苦戦している。切るなら、間(ま)まで、きちんと意識をおく。

3.声もしっかり出ていて、音もとれているのに曲の輪郭がみえない。プロテクティブにみえるので、ライブ(生)の感覚をもつこと。

4.無理がみえる。頭で世界をつくってそこに自分をあてている。その逆でないと、表現にならない。肩の力を抜こう。

5.声になる前に、余計な動きで芯が離れてしまう。しっかり声になるところでとること。リズムを、落ち着いてとる。

6.つくりすぎると、聞き手が入り込めない。テンポをゆったりとることと、間伸びの違いを知る。

7.声が素直だが、そのよさが活きていない。曲に入りきれず終わっている。自分の声をよく聞くこと。

8.試みたことは、よくわかった。声は少しずつ変わってきている。前に出ている分、密度が薄くなる傾向。自分でも課題がはっきりみえたと思う。

9.もっと曲を聞き込み、組み立てに手間をかけること。2曲、同じように聞こえる。ぶつけないで、ていねいに声にしてみよう。

 

 

 

ステージ実習③

 

恐る恐る歌っていて、元気のないことが気になりました。評価が痛いのはわかりますが、それは前に出して聞き手を説得することで逆転するしかありません。歌い手としては、反省することも大事ですが、それよりどうしたら相手を魅了できるかについて、もっと真剣にとり組むべきではないでしょうか。

 

1.覇気がなく、入り切れないまま終わっている。伝えることを前提にすること。声にとらわれすぎ。音も、もっととれるはず。

2.VTRで、MCの声を聞くこと。声は出ている。歌になると拡散し、流れてしまう。決めつけすぎず、自分の声をよく聞こう。

3.ことばが聞こえ、普段よりリズムも安定している。フレーズ相互のつながりもみえた。あとは、もっと伝えようとすること。

4.声を語尾で抜くため、よいはずのことばが聞きづらくなっている。力みはだいぶ抜けた。曲のなかにピークが欲しい。

5.最初から声が広がり、バラついている。もっとできるところがあるはず。1曲つくる過程を雑にしない。1ヵ所でよいから、徹底的に。

6.声に慎重になりすぎていた。曲によって差が激しい。聞き込み、練り込みの不足。

7.課題曲は、覚えただけというのがみえる。スタイルがあるが、こなしただけのものはインパクトがない。自由曲、ことばがはみ出している。練り込みていねいに。

8.課題曲、語尾の処理、フレージングが単調。対応力をつけること。自由曲は、元の歌い手をうまく参考にできるのだろう。嘘や、つくりはないが、自分のフレーズには至っていない。集中力不足。

9.声は個性的。解釈や構成力が弱い。上記同様に創唱者のフレーズを追ってしまう傾向。

 

 

 

 

ステージ実習予備

 

(入①)

1.ことばがしぜんで、自分でイメージできている点で評価できます。伝えたいことをもっと絞り込み、前に出していきましょう。

2.発表と表現の違いを考えてみましょう。何が伝えたいかを整理し、伝えるという行為に集中してください。

3.正確さにとらわれなくてもよいのです。曲に入りきれるように、よく聞き込んでください。

4.全体は、まだバラついていますが、フレーズによってはことばが聞こえてくるところもあります。途中で放さずに、思い切って前に出してみましょう。

5.形は整っていて、細かい工夫もしていますが、1音1音が、やや直線的です。1フレーズについて、ていねいに声にしてみましょう。

6.声はしっかり出せるはずです。語尾を浮かさずに、最後まで言い切ることです。曲の流れを体に入れましょう。

 

(②③④)

1.クセをはずし、1音からシンプルに声にすることを行なってください。自由曲は、元の歌い手のフレーズをなぞってしまっています。英語を覚えるだけでなく、音として、しっかり聞き込んでください。

2.声は、変わりつつあります。しっかり声にしようとすると、音程がとりづらくなると思いますが、歌では伝えることに集中してよいです。もう一歩、いけそうなときは引っ込まないように。

3.イタリア語をもう少していねいに聞き込んでください(発音というより、フレーズ感)。Bメロの上昇音程が不安定です。サビをしっかり出すなど、構成をつめてください。

4.課題曲、Bメロの音程、要注意です。いつもより練り込みがみられ、フレーズ感がありました。各フレーズに、もうひと粘り、最後まで意識を置いてみましょう。

 

 

 

新入ステージ

 

現在、不慣れなのは構わないので、できる限り場に出て慣れてください。まだ力がないからできないという理由を、自分に許さないことだと思います。今の力でできるすべてを出し切ることを考えると、準備段階でやるべきことが見えます。目の前に聞き手がいたら、自分を全開にして表現すること、その準備がいつでもできているようにすればよいだけです。まず、しっかり前に立ち、働きかけてください。

 

(1回目)

1.素直でよいのですが、「発表」で終わっています。作品に対し全力になれる状態を取り出していきましょう。

2.一番伝えたいことは何かを、もっと絞り込んでみましょう。たくさん盛り込んでも、そのことで内容が伝わるわけではないからです。長くなるなら、ピーク、聞かせどころをつくり、そこに向かって集中することです。

3.ていねいですが、やや説明調です。伝えたい想いがあるという熱意、元気、気迫を示しましょう。本当に伝えたいことは何だったかを振り返り、詰めてみてください。

4.比較的、表現したいことを声に反映できています。さらには、聞き手に働きかけることを考えてください。自分の声をよく聞き、知っていくことです。声のトーン、動きに敏感になっていきましょう。

5.もっと自分の内側が動き、強く伝えたいと思えるものになるまで練り込んでみましょう。発表と表現の違いについても考えてみてください。

6.やや説明調です。一般的にみて感じは悪くないのですが、表現としては、これだけは伝えたいというものがないとインパクトに欠けてしまいます。3分という時間の流れを感じ、そのなかでピークをみせることです。

 

(2回目)

1.頭のなかで、順を追っているのがみえてしまいます。観客を自分の世界に引き込めるだけの、曲に対するイメージをしっかりもっていきましょう。

2.MC(自分の名前をいったとき)の声と、作品の声を比較してください。MCの声の方がずっとあなたらしく、しぜんです。工夫してきたことはわかりましたが、聞き手がそこに入り込もうとする前に、流れてしまいます。もっと速度を落として練習してみましょう。

3.自分の作品を録音して聞いてみましょう。口調はていねいでよいのですが、早口なので聞き手が入り込めません。浸れる間(ま)が必要です。ことばをつくらず、しぜんな自分のことばで声にしてみてください。

 

 

 

ステージ実習①

 

覚えたての曲を不安そうに歌っているのが、聞き手に伝わってしまいます。力をつける場なので、準備の段階でもっとしっかり詰めなければ意味がありません。本番だという意識が、課題や、やるべきことを教えてくれるからです。失敗しても全然、構わないのです。でもそれが、準備の甘さだとしたら、そこを詰めない限り変わりません。歌い終えた直後に「ありがとうございました」と、さっさと引っ込めるのも、曲に入っていないということです。

 

1.キィを少し下げ、ぶつけずにしっかり声にしてみましょう。自由曲は、少し勢いがありましたが、課題曲は体に入ってなく、それが出てしまっています。

2.動くことで、全体がバラついています。声が揺れてメロディラインがみえにくくなります。動きをつけるとしたら、もっと周到な準備が必要です。

3.音程を頭で追ってしまっています。それがみえると、聞き手に先を読まれます。人を引きつけるにはどうしたらよいか、VTRやR鑑賞で感じていきましょう。

4.ていねいでよいのですが、形の通りきれいに覚えていて、伝えたいことがよくみえません。全身で表現していきましょう。

5.意志は少し感じられます。MCの声と歌の声を比べてください。歌はやや、つくり声になっています。ことばが聞こえてくる部分はあるので、クセをはずしていくことです。

6.歌うと(前に立つと)、表情がよくなるところがよいです。スケール、インパクト、考えていきましょう。まだ遠慮がちにみえます。

7.力が入りすぎています。MCでの自分の声(力の入っていない声)を、よく聞いてください。声を出すことにとらわれ過ぎず、曲想をしっかり感じることです。

8.しっかり前をみて、伝える意志を見せましょう。構成が長すぎます。長く歌った分、伝わるわけではありません。集中力も、もちません。ここだけは、というところに絞り込んでみましょう。

9.歌は形に流れ過ぎですが、コード感はみえました。フレーズの語尾が流れるので、最後までしっかり意識をおいてください。単調なので、曲の流れ、盛り上がりをきちんと感じましょう。

10.キィを少し下げ、ぶっつけずに声にしてみましょう。MCの声に比べ、歌は口のなかでことばをつくってしまい、少しこもって聞こえます。テンポを落として、しっかり声にする練習をするとよいでしょう。

 

11.思い切りはよいですが、動きが中途半端なため、空回りしてしまいます。落ち着いて、しっかり声にすることを普段からやっていきましょう。

12.しっかり前をみて、聞き手に働きかけてください。頭でメロディを追わなくとも、口からついて出るくらい、練り込みをすることです。録音に録って聞いてみるのもよい練習です。

13.緊張がみえてしまいます。自信をもってください。元の曲の歌い回しに、少し振り回されています。何もかも忘れて、思い切り歌うような体験をたくさんしてください。

14.(欠席)

15.早口で、フレーズが流れてしまいます。もっとリズムをしっかり感じ、ゆったり歌ってみましょう。何を伝えたいのか、よくみえません。全身で曲を大きく捉えましょう。

16.1曲通して同じトーン、同じ動きです。音の感じ方はていねいですが、歌詞を口のなかで動かしてしまうため、途切れがちに聞こえます。サビをピークに、そこへ向かって大きな流れをつくってみましょう。

17.テンポに歌がついていっていませんが、曲の流れは感じられます。前回より、思い切って出せているのはよいです。場に慣れ、落ち着いて声にできるようにしていきましょう。

18.(欠席)

19.まだ曲は壊れていますが、声が安定したら自分が出てくるようなところは、少し感じられます。曲は聞いているのですから、どこか一ヵ所、確実に伝えるというところを絞り込みましょう。

 

 

 

ステージ実習③

 

課題曲の聞き方が足りません。歌詞と雰囲気だけ、手っ取り早くとってきたような印象を受ける人が多かったと思います。少しでも伝えるために、本当にこれでよいのかという、あたりまえのていねいさや、歌の扱いを雑にしないように充分、気をつけてください。

 

1.働きかけができるようになってきた。フレーズをベタ塗りせずに、いろいろな方向で試みてください。声の出し方にとらわれすぎると、曲調や表情が消えてしまいます。

2.しっかり曲を聞くことです。曲想、ノリを充分に感じる前に、急いで声にしているような印象を受けます。もっと自分の声でとれるところがあるはずです。

3.1フレーズをきちんと歌い切らずに、次へいくため、せわしなく聞こえます。語尾の処理をていねいに。レガートの練習をしてください。

4.元の曲をなぞりすぎて、フレーズが浮いています。きちんと声になるところで、落ち着いて声にしてみましょう。忙しく聞こえます。体の動きが、ノリでなくバラつきにならないよう留意してください。

5.自分のテンポを落ち着いてとれています。声はよいので歌のなかでしっかり取り出す練習をしましょう。フレーズは、まだ直線的です。

6.最初から声が揺れてしまっています。休符の感じ方、入り方があいまいで、切れがありません。迷いながら歌わず、方向を定めることです。

7.体の動きが半端で、リズムを壊しています。曲のノリを、雰囲気だけでなくしっかり聞き込んでみましょう。いつものよさは、あまり取り出せていません。ピークが示せるとよいのですが。

8.声は深くなってきているが、ことばのつかみが甘く、フレーズが流れ気味です。もっと体が使えるはず。発音に邪魔されているように聞こえるので、もっと息を使っていきましょう。

9.入り方がよくないです。体の準備、意識してください。なだれ込むと曲が始まりません。終わり方や構成が甘く、適当な感じを与えてしまいます。フレーズのなかで、見せ場が欲しいところです。

 

 

 

ステージ実習予備

 

(入①)

1.落ち着いて声にすることを心がけましょう。キィをもう少し下げ、ぶつけずにしっかり声をとることです。曲の入り方をていねいに。最初からとばしてサビがわかりにくくなっています。1フレーズ、体で歌い切る練習をしてください。

2.覚えてきた歌詞を、追っているのがみえてしまいます。それが、隙になってしまいます。VTRで音程チェックをしましょう。次々に調が変わってしまいます。テンポを落とし、1フレーズずつていねいに練り込むクセをつけてください。

3.急ぎすぎています。フレーズの語尾までしっかり、意識をおきましょう。フレーズとフレーズの間、声は出していなくても、音楽は感じることです。もう一度よく曲を聞いて、リズム、曲調を体に入れてください。

4.全体はバラついていますが、声が取り出せている部分もあります。曲の雰囲気に自分がのまれてしまわないように、ことばをきちんと言い切ってください。自由曲は、やや流れています。休符をきっちり感じる意識が必要です。

 

(②③④)

1.落ち着いて声にしてください。1フレーズを体で歌い切る練習がよいでしょう。早口で忙しくことばをつくってしまう傾向があります。それがメロディラインを、みえにくくしています。テンポを落とし、ゆっくりフレージングすると、わかりやすいので、ひとつひとつのフレーズで行なってください。

 

 

 

新入ステージ

 

最初は何をどうすればよいかがわからなかったと思いますが、今回の経験を次に活かしてください。「わからなかったが、宿題だからとりあえずこなした」ということがみえています。歌いたい、表現したいという生き生きした熱意のようなものがみえなかったのは、そのためでしょう。プロとして客の前に立つという基準で準備してきてください。このぶんでは、歌もただ覚えてきて歌うだけなのだろうということが透けてみえるのは、トレーニングや声以前の問題です。

 

(1回目)

1.素直な点では好感がもてるのですが、ありのままの自分そのままでは、作品になっていきません。自己紹介と表現の違いを考えて、伝えたいことを練り込んでみましょう。

2.聞き手にそのときの想いや風景をリアルに伝えるにはどうしたらよいか、考えてみましょう。伝達と表現は、そこが違います。

3.落ち着いた口調で、ある程度、安心感はあるというのが、最初の印象です。しかし、内容が漠然としていると、印象は薄れます。短時間で人を魅きつけるためには、周到な準備が必要です。

4.比較的、落ち着いてみえますが、目線、立ち方、話し方にスキがあります。舞台でラフに話すスタイルをとることと、友だちや身内とおしゃべりする気軽さとは、全然別のものです。作品として何をしたかったのか、絞り込んでみましょう。5.観客に、もう少し意識して働きかけていきましょう。そのためには、これだけは伝えたいと自分で想えるようなものを、作品として準備してください。うまくできるかどうかよりも、時間をかけていけるものを選びましょう。

6.(欠席)

7.真剣さは伝わります。作品として、絞り込みや構成をつかめないと、内容が漠然として印象が薄れてしまいます。ありのままでなく、舞台として最大限の見せ方を考えましょう。

8.観客に対する働きかけをしましょう。3分間、自分の方に観客の耳も目線も引きつけ続けるためにどうするかを、考えてください。

 

(2回目)

1.ことばや発する声について、感じる習慣をつけてください。歌詞の内容・イメージと、表情が結びつくように、しぜんなものを取り出していきましょう。フレーズをブツ切りにせず、イメージしたものを一気に体から言い切ることをしてみてください。

2.元の曲をよく聞くとよいでしょう。ことばごとにブツブツ切りすぎると、音楽の連続性は損なわれます。MCの声のところで歌うよう、意識してみてください。歌になると、声が変わってしまいます。

3.比較的、落ち着いて立てています。ことばのクセをはずし、ストレートにことばがいえるように練習していきましょう。また、1曲のなかにピークを出せるよう、曲をよく組み立ててください。

 

 

 

ステージ実習①

 

準備不足が目立ちます。確かに課題曲(特に曲の前半部分)は、日本語に置き換えにくいのですが、ことばの置き方、曲の流れが腑に落ちないまま適当に流している人が目立ちました。歌い手が何も感じていないのに、歌になるはずありません。20回聞いてわからなければ、50回聞けばよいことです。一番勉強すべき部分を、省略しないようにしてください。 それとは別に、一人ひとり、よさは出ていました。少しでもこういう場に出て、一人で前に立ったときの空気、伝えるという感覚をつかみ、慣れてください。取り組み方の問題で、今もっているよさをつぶしてしまわないように、ヴォーカリストとしてきちんと音楽に向き合うべきです。

 

1.(欠席)

2.曲をよく聞き込みましょう。音楽の流れや展開を感じてください。イタリア語の深さも、1フレーズでよいので自分の歌と比べてみつしょう。発音としてでなく、音を聞いて再現する練習をしてください。

3.覚えたことを頭で追い、思い出しながら歌っているのがみえてしまいます。歌の世界に入れるだけのイメージを、しっかりとれるようにしていきましょう。

4.曲が中途半端にしか体に入っていません。自分で腑に落ちるまで、きちんと聞き込みましょう。慌てず、ていねいに声にしてください。

5.大きく崩れてはいないのですが、小さくまとまってしまい、表現としてのインパクトが薄れてしまいます。何を伝えたいのか、聞かせどころを絞り、その一点に向かって集中してください。ステージで落ち着いているところはよいです。

6.ややぶつけすぎですが、声は素直に出ています。張り上げずに、声に息を入れていく練習を強化してください。ことばがとんでくる部分もありました。

7.フレーズを少し切りすぎているので、大きく捉え、一気に歌い切るよう練習してみましょう。声はまだ不安定ですが、体で出そうという方向はみえます。

8.話している声のところをフレーズにつなげてください。今回は、いつもの高いところで出てしまいましたが、慣れたらできるはずです。発音の部分では、繊細な変化も聞けているようです。

9.ことばのところで声にしようという努力はみられました。曲をしっかり聞き込んでください。どこでどう盛り上がって終わっていくのか、それを声で調節せず、まず自分の内面が動くまで感じていきましょう。

10.やや声をぶつけすぎて、せわしなくみえますが、伝える意志が出ているのはよいことです。普段、ゆっくりとていねいに声にすることを徹底してください。テンポを落として練習すると、スキのある部分がわかります。

11.ことばを口のなかでつくってしまうクセがあり、それが音のとり方に影響しています。歌い方のパターンが決まってしまっているので、それを壊しましょう。伝えたいことは、少しみえました。氏名をいうときの声と、歌の声を比べてください。

12.MCの声と歌が、かなり違ってしまいます。張り上げずにことばにできているところもあるので、「ハイ」などの基本トレーニングを毎日、行なってください。声では課題曲の方が、素直に出ています。

13.ことばの部分は、あまりブツブツ切らず、もう少しつなぐとよいです。曲は比較的聞けていますが、取り出すときに、まだ中途半端です。ぎりぎりまで盛り上げるようなことを、1フレーズでつきつめてください。

14.MCの声がよいです。そこを深めてください。フレーズは全体にせわしないところがありますが、声はいつもより、前に出せているところがありました。休符をしっかり感じるようにしてください。

15.音楽にはなっていませんが、自分らしさがあります。声は、コントロールできていませんが素直に出ています。曲を聞き込み、音楽の共通の部分、なぜ心地よいのかというところを感じとっていきましょう。

16.課題曲では、声は素直に出せていますが、自由曲ではクセが入りました。元の曲に影響されるためでしょう。少し急ぎすぎに聞こえます。フレーズの語尾をていねいに置き、次のフレーズへつなげるようにしてください。今回の、自由曲と課題曲の差を考えてみましょう。

 

 

 

ライブ実習③

 

よい意味では慣れた分、明るくなってきたという印象です。ただし、過去と比較してという範囲のことであり、歌で表現を出し合うというよりは、楽しいサークルの発表会的ななごやかさで一杯でした。場としては成り立っていなかったと思います。歌が好きなのも、歌がうまいのも、よくわかりました。トレーニングのプロセスということでいうと、個々の顔がほとんどみえないというところが、危険だと思います。ピアノをもっと聞いてください。ピアニストが動かしている部分を、歌い手が何も感じていません。伴奏は、カラオケテープではありません。演奏するということ、ギリギリのライブ感というものを、(プロとしてステージに立つのであれば)普段から勉強してください。

 

1.明るくなり、働きかけようとする動きは、みえるようになりました。それだけ声が出るのに、歌として心地よくないのはなぜか、考えていってください。耳を鍛えるとき、声から離れなければいけないこともあります。声だけでなく、まわりの音を聞きましょう。

2.結果的に、音量の大小でもっていってしまうため、フレーズが力まかせで、サビが空回りして聞こえます。落ち着きましょう。MCで動揺がみえてしまいます。落ち着いて歌に入る方がよいでしょう。あとは、自分が何をしたいのかの問題です。

3.(欠席)

4.自分で感じ切る前に、急いで声にしてしまうのではないでしょうか。1フレーズに絞って聞き込み、歌い込み、詞の読み込みをすれば、必ず変化してくるはずです。かけるべきところに手間をかけるようにしていってください。

5.4と同様、自分ではっきりしないまま、押し切って歌っているようにみえます。音程の問題というより、その曲のどこをどうしたいというレベルで聞き、それを声で確実に取り出すという手間を、惜しまないようにしてください。

6.今回は、曲に入れていました。よい状態で、いろんな面が一致していたと思います。その感覚を認識しておくと共に、そこだけに頼らないよう、前に出していってください。一人のときでも、それが取り出せるよう、気を抜かずに。

7.ことばのクセ、声のこもりが気になります。ストレートに声になるところが、もっとあるはずです。ベーシックなトレーニングでやっていることを、もっと実践に結びつけていってください。息を流すこと、下へ押しつけないことです。

8.2曲、似たように聞こえます。声の出し方、音の扱い方がパターン化しているとういことでしょう。現状を壊して、ステップアップする方向を考えていってください。他の歌い手について、体を読み込むこと、自分の体に置き換えることを、徹底してやるとよいと思います。

9.声は不安定ですが、楽に歌えるところでなく、体でしっかり動かせるところで、もっていけました。全体的には不安定でも、ことばや音色の一部に、可能性が見えたという点でよかったと思います。よりシンプルに、声を捉えていってください。ピアノも聞けていました。

10.自分の世界はありますが、曲がこれ以上続くと、もたないと思います。10曲想定した練り込みが必要です。今の路線でいくなら、もう少し2曲の違いをことばとしてハッキリ示せるよう、組み立てるとよいと思います。

11.特に悪い点がないというのが、課題なのかもしれません。何をどうしたいかを、もっと明確に出そうとすることで、みえてくるものがあるかもしれません。決して不快ではなく、歌もうまく、好感度も高いです。どこにこだわっているかを、歌で示せるとよいのですが。

12.11と同様です。声がきれいで、その活かし方も、成功していると思います。あとは、自分をどう出すか、自分の歌といえるところはどこなのかを、外に出すのか出さないのかだと思います。出さなくても充分、歌えるのですから。失敗を覚悟で、新たな挑戦をするとよいのではないでしょうか。

13.声もよく、歌、英語もとてもきれいです。あとは、自己表現とは何で、自分はどうしたいかだけだと思います。うまかったということは残るのですが、声も顔も、印象が薄いということは、やはりまだ自分の表現としては結びついていないのではないでしょうか。

 

 

 

ステージ実習②

 

全体に、いつもよりよいところがみられた点で、よかったと思います。ただ、曲の聞き方やフレージングは、やはり雑です。何を感じてどう出すかということより、覚えたことに対し、「ここは、こう」「ここは、こういうふうに変える」と決めて歌っており、それがみえてしまいます。音楽の基本的な部分→何が人は心地よいのかを、もっと充分、感じる努力をしてください。

 

1.曲はよく聞き込んでいますが、声にするときに迷いながら流れてしまう傾向があります。変なクセがないところは、とてもよいです。その分、音楽には、なっていません。やたら動きすぎず、声に集中し、1音をしっかり捉えてください。2.曲の出だしがよくありません。準備できていないまま、なだれ込んでいます。曲が始まる一瞬前の緊張感も、音楽です。ああしよう、こうしようと頭で考えずに、音を体でしっかり捉えてください。作品に自分を当てはめても、ムリがみえます。限定のなかで何を絞り出せるかです。

3.メロディとことばが、まだバラついています。声は素直に出ていますが、フレーズとしては棒読みです。日本語にできないようなフェイクのフレーズ、スキャットなどをコピーしてみてください。音はしっかりとれていますが、音として聞けている部分がまだ少ないです。サビがなぜ、どうやって盛り上がっていくかなど、勉強してください。

4.以前よりも動かそうという方向は、みえつつあるのですが、まだ部分的です。音楽はある程度、聞けていて、声もまっすぐに出ています。淡々と歌ってもよいのですが、頭で順を追っているようなところは出てしまいます。フレーズとフレーズのつながりを元の曲からしっかり感じとってください。

5.全体に、いつもより集中できていました。それなりに準備をしたのでしょう。フレーズはブツ切れですが、落ち着いて歌に入れていました。MCの声の方が生き生きしていることを、VTRでみてください。設定キィが高すぎます。自分で歌いやすいところと、しっかり声になるところは、違う場合がありますから、自分の声をもっとよく聞いてください。

6.あと一歩、粘る、前に出すということを、意識してください。1フレーズ、さっさと終わりにしないことです。そこで切ってしまうことで、「間」が死んでしまい、自分でも、もたない「間」が生まれると苦しいはずです。比較的、ことばが聞こえる部分もあるので、意識を離してしまわないように気をつけましょう。リピートは、同じ調子でやると、くどくなります。どうしたら効果的なのか、聞いて勉強してください。

7.これまでに懲らしてきた工夫やアイディアが、ようやく少しずつ声に結びつきつつあるようです。まだ、一定の雰囲気から抜けられませんが、少しずつ変わってくるでしょう。リズムが平坦なことで、損しています。いわゆるグルーヴとはどういうものかを、体感していきましょう。

 

 

 

ステージ実習予備

 

入①

1.声は素直に出ています。ことばでも歌でも同様に、伝達と表現の違いを考えて作品として詰めていきましょう。目線、表情はしぜんでよいです。伝えたい内容に音声が伴うよう、全身で表現してください。

2.勢いはあります。ぶつけずに、きちんと声になるところで粘ってください。歌詞をことばで読んでも、伝わるようにしていく練習を積むとよいでしょう。また、テンポを落として歌ってみると、詰めるべきところがよくみえます。

 

②③④

1.声は落ち着いてきています。1曲のすべてでなくてよいので、1フレーズしっかり歌いきるように絞り込んでください。フレーズとフレーズの間がブツ切れにならないよう、大きく捉えていきましょう。

2.ピッチが不安定に聞こえる部分があるので、キィを確認してください。ことばが飛んでくるところがいくつかありました。構成が甘いため、繰り返しが長く感じられてしまうので、全体を組み立てる作業をていねいに行なってください。

 

 

 

 

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1155

 

【トレーナー特別レッスン報告】

 

こちらの与える曲だけでは、本当の元気に歌う姿が見えないと思ったので、何でもいいから好きな歌を少し聞かせて欲しかったのですが、それもかえってテンションを下げさせてしまったようで、とにかく元気がないし、できるだけ弱点を正直に出してそれをどうにかするために、どうすればいいかということをアドバイスしてもらおうという気持ちが足りないようでした。

 

みんな何を歌っているのかしっかりとわかりましたし、ごく普通には歌えていました。それで、これから、どういうふうになりたいのか。目標としているところとどれだけ隔たりがあるのか。それでそれに、本当の意味で気づいたとして、そこから本気で続けられるのかなど、まだまだそういうどえらいところに足を踏み入れてしまった実感がないように思えました。

 

新しい人ほど、頭で理解したがるようです。だまって息をたくさん吐き続けてみて、それを思い切ってぶつけてみることが質問だと思うので、上の項目と重複しますが、早くそこに気づいて欲しいと思いました。そうしないと、もっと細かいことを指摘できる段階ではないと思いました。

 

もしかしたら多くの出席者は本当は根っこになる部分はできていると思っていて、早く枝葉の部分をやりたい、もうその段階に入っていると思っているのかとも思います。本気で自分の体と息のフィット感に不満があるなら、トレーニングももっと信じられないくらいシンプルで、地味になってもいいのに、それほどそういうことに対する飢餓感を感じませんでした。

 

自分が評価されないのは、実は何かの間違いで、ふとしたきっかけで逆転して、自分は実はいまのままでめちゃくちゃすごいと思っている人がいました。理屈で逃げて、痛いところに話が進まないように時間を稼ごうと思っている人がいました。とにかく、今やっているのが正解だよといってもらいたがっている人がいました。

 

各人が、目標とか目的をもう一度思い出して、この場がそのために本当に利用できるタイプの場かを考え直して欲しいです。それで利用できると納得したなら、本当に毎日何かやっておいて欲しいと思いました。質問する口にフタをして、我慢して、半分泣きながら、地味な練習をやってみて欲しいです。

 

本当にえらいことに取り組み始めたんだと、早く実感して、それでも続けていくのかを頭がクシャクシャになるくらいに考えて、研究所では孤独になって、ロビーではしゃべらずに、レッスンに出なかった人に内容を聞かれたら、からかうくらいにやっておいて欲しい。

 

「アメージング・グレイス」の初めの方のフレーズを、ヴォリューム感は意識せずに、何の作為もない、鼻歌でいいから自然にできるかを試してもらいました。

そうして普段いかに、将来的には力を加えたくない箇所に力を入れてしまって大声を出しているかに気づいてもらおうとしました。

 

今迄の感覚のなかに正解があると思っていたり、全部自分の枠のなかのことに置き換えてしまうので、それを壊そうとなんてこれっぽっちも考えていないので、新しい感覚を呼び起こすのは難しいと思いました。たとえば次の機会には「じゃあ、もっと突っ込んで詳しくやりましょう」という台詞は、こちらから出せそうにもありませんでした。

 

前回のレッスンでやったことをやってきていないので、何度やっても同じなのかなと思いました。もっとこっちが喜んでアドバイスしたくなるくらい前向きな姿勢があればよかったのですが、もう、いっぱいいっぱいなのか、貪欲さに欠けました。また、怖いなら出席しなくてもいいのにわざわざきて人の邪魔をしないでもらいたいと思いました。

 

詞の解説は自分達なりにいろいろと考えられるようです。ただし、こちらからキッカケを作って、うながしてあげなかったらどうなるかはわかりませんが、そしてそれを最後に声に出して表現できなかったら何にもならないということもわかってくれたと思いますし。ただ音域が届いて歌い上げてしまえば、それでいいというものじゃないこともわかってくれたと思います。

 

メロディの細かな部分を注意して聞き取って欲しいと思いました。実際に詞を身体的に理解していこうとすると、頭で考えてしまうことになりがちで、それを今度は体の方に入れ込んで声で表現することの距離の遠さはわかってもらえたと思います。今日の使用曲は音域も広く本当にしっかりと歌おうとすると、大変なもので、それぞれ最低でも今日一日は、それに気づいてくれたと思います。

 

音域をカバーできない曲を通して歌う場合に、その部分を少しやりやすいようにメロディを変えて歌うのはいいことか。それによって聞き手に、そこが弱点だと見抜かれるやり方はまずいが、そう悟られないように(曲全体のその部分だけが変わって聞こえないように)うまく変えるなら、そして大きな目標として、いつかはノーマルに歌えるようにと思い続けるなら問題ないと答えました。

 

たとえば、歌の情景が浮かぶような歌い方をするにはという質問がありました。歌い出しの部分からごく自然に入っていく、話すときのように歌い出す。その話し方自体、まだ特別のものになっていない。そういう根本的な問題。

 

こっちは他の人のために、もう遅れてきた人のことはあまり気にしないで進めるしかないので、本人が一番、気の毒です。

 

本当はこちらの考え方を先にいわないで、みんなで自分なりにその曲をどう対処してきたのか、またどう取り組んできたのか、そこからこうしたら、ああしたら、といえる内容にしたい。

やっぱりもっともっと自然に柔らかく声を出し始めることをやったほうがいいと思いました。

 

 

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【Q&A】回答 トレーナー

 

Q1.いろんなことをやってみても、どれもうまくいかず、自分でどうしたらよいのかわからない。

 

A1.わかろうという気がないのでは。直す気があるのでしょうか。理屈でやりすぎるのは、根本から違うということ。

 

 

Q2.のどに注射を打って録音という話を聞くが、あまりよくないように思えます。どうなんでしょうか。

 

A2.実際には、あまりよくないことですが、このようにしかたのない場合もあります。/薬に頼らなければ何かができないという状態が、よいか悪いか考えてみてください。

 

 

Q3.今はロック系、主にハードロック、メタルが好きですが、いろいろな音楽に触れていくうちに、方向性が変わると思います。そのときに自分のなりたい声と違う方向だと、どうすればよいのでしょうか。

 

A3.どうすればよいのでしょうか、というより自分はどうかということです。こういう質問は人に問うことではないと思います。/何かのジャンルを歌うことが目標なのか、好きな声と同じ声になりたいのか、自分が主体で表現したいのか、あなたの目的によります。

 

 

Q4.歌は、気持ちをことばに、ことばをメロディにというふうにできています。なら、声のしっかり出る声優は、一流の歌手になれるのでしょうか。

 

A4.何でもかんでも一緒にしないことです。声優というのは、いろいろな人物を演じられるキャラクターの声をもっていないといけないのです。こういうこともあまり深く考えてもしかたのないことです。/あなたが掲げた項目は、普通の歌い手が最低限、もっているべき条件のなかのひとつにすぎません。一流の歌い手は、その程度の条件で「一流」なのではありません。R鑑賞にたくさん出席し、基準を勉強してください。

 

 

Q5.迫力のある声になりたくて、外国人のロックヴォーカリストのような体に少しでも近づきたいと思い、体を鍛えています。でも、声に使う筋肉は違うため、息吐きの時間に使った方がよいのでしょうか。

 

A5.何をやるにも、体は資本です。ただ腹筋を鍛えたからといって、声が出るのに直接、つながりません。私自身、体育のレッスン以外に歌のために腹筋を鍛えるということはしたことがありません。腹式呼吸は横隔膜、中身の問題です。あと丹田の感覚です。腹筋と横隔膜は別ものです。横隔膜が下に下がれば下がるほど、呼吸が深くとれるものなのです。だから、理屈よりも、体での感覚が大事なのです。/両方必要ですから、両方やるべきです。限られた時間のなかで、どちらを(何を)優先するかは、あなたの生活と時間帯の長さや位置、歌への思いの度合い、現在抱えている課題などによることで、一概にはいえません。

 

 

Q6.「息を長くもたせる方法がわからない」本に、成人女性の「あー」という声の続く長さは、平均25秒と書いてあったのですが、私は10秒ももちません。とりたてて大きな声で計ったわけではなく、むしろ小さな声だったのですが。フレーズも、こういきたいのに、こうなってしまいます。三村先生には、息の吐きすぎと息と声の結びつきができていないからだといわれました。息をたくさん吐いてないと、のど声になってしまうように感じて、ムダに使ってしまっているのでしょうか。声が続かなくても意識して、今のまま息を重視する練習をしていってよいのでしょうか。

 

A6.声は息がきちんと結びついたときに成り立ちます。ですから、息を先にたくさん吐きすぎると声として成り立たなくなります。あと、たくさん吐きすぎると、声帯やのどが乾いたり、妙な咳が出たり、しまいには酸欠になったりと、よくありません。ですから、あまりムダに吐かず、普段のしゃべっている状態、しぜんに成り立つ状態がベストかと思います。

 

Q7.何でもやることが大切だと思います。でも時間は限られています。ムダなことをしないためには、どうすればよいでしょうか。

 

A7.ムダなことの体験もできない程度のトレーニングでは、やっても大したことは身につかないでしょう。1日10分しか練習できなくても、その10分にすべてを凌(しの)げる人しかやっていけません。あなただったら、その10分で何をするかを考えてください。

 

 

Q8.「みぞおちが痛くなる」 腹に息をためて、腰でふんばって息や声を外に出そうとしてやっていると、お腹のなかが固くなってきて、みぞおちが痛くなってしまいます(胃けいれいみたいに)。それで、これではいけない、もっと深くに息を送りこもうと思ってやると、今度は腰が痛くなり、腰にきてしまいます。これは、息を吸いすぎなのか、息をためようとふんばって力の入れすぎなのか、息を入れるとこ自体が違うのか、このままやっていってよいのか、いつもつまずいてしまうので、何か参考になることがあれば、教えてください。

 

A8.力の入れすぎです。息は、吐き切ったら、しぜんに体に入ってきます。「ヴォーカルの達人・基本ヴォイストレーニング編」P30~34をよく読んでください。ゆっくりと息を吐くようなメニューで、息の流れや体の動きをていねいに感じるようにすることです。“息の支え”は、部分的にどこをどうふんばるというものではありません。息を支えるだけの、体ができていく中で、徐々に感覚できるようになるのです。焦らず、息吐きの基本をきちんと行なってください。部分的に痛みを感じるようなトレーニングは、中止すべきです。イメージを働かせてください。

 

 

Q9.「ゆるみについて」 吸 骨盤を下げ、お腹や背中に空気を 入れ、ふくらますように。    ↓ 吐 さらに腰を外側に広げ、つき出すよ うに、息を拍。    ↓ 吸 くり返し    ↓ ずっとお腹(腰)はふくらんだまま。ということと本には書いているのですが、では歌っている最中でも、一度もゆるむ(→腰まわりが外に広がっていない普通の状態)ことはないんでしょうか。

 

A9.あなたの指す「ゆるみ」というのが、安静時の状態であるのなら、歌っているときは、ゆるみません。歌うということは、体も意識も常に動いているということです。本に書いてあるのも、そういうことです。ただし、そのようにお腹を動かすことが主体ではありません。本を読むだけでは、とても複雑な動きに思えますが、一致するとき、体はきちんと、そのように動いてくれるのです。その状態をとり出す「やり方」はなく、トレーニングを積んで、つかめる瞬間を待つことです。ことばだけにとらわれないよう充分、留意してください。

 

 

Q10.今、バンドをくんでいるんですが、そのなかでオリジナルの曲を歌っているんですが、よくメンバーに「ときどき苦しそうに歌っている」といわれる。どうしても、高音で強い声を出すと、のどをしめてしまう。自分の歌い方には、かなりクセがついているんですが、これを取るにはどうすれば。

 

A10.高音について。「ロックヴォーカル基本講座」P75~78、クセをとることについて、同じテキストのP56~72をよく読んでください。根本的に解決するには、声を自由に扱えるだけの体づくりから時間をかけなければなりません。高音に対するイメージ、感覚を徹底的に変えることも必要です。“やり方”があるのではなく、“体を感覚が変わるまでトレーニングする”こと、つまり時間をかけることです。まず、高音に対するイメージだけでも変えてみましょう。音を高いと感じた時点で、体が固くなり力が入ってしまうはずです。音が高いほど重心を低く、声はぶつけずに体の底でしっかり声にするイメージをくり返し描きます。ただし、これらは練習のときや、普段に行なうことです。ライブのステージ上で、声のことを気にするべきではありません。

 

 

Q11.母音すべて同じ音域がもてる練習法(自分ではわからないので)。

 

A11.何の曲でもよいので、各母音だけで歌ってみましょう(「ア」だけで、「エ」だけで、というふうに)。ことばは、いいやすいことばから声にしていき、苦手なものをそろえるようにしていきますが、まず、いいやすい音、いいにくい音を、自分ではっきり感じられるようになりましょう。「ヴォーカルの達人・基本ヴォイストレーニング編」P95~96を参照してください。

 

 

Q12.日課として、これだけでは必ずやっといった方がよい練習法。

 

A12.息吐きは、毎日欠かさず行なうべきでしょう。ただし、何を優先すべきかというのは、あなたの目標、目的、やる気、生活時間帯の内訳、体調、気質などによって違ってくることであり、万人に共通のマニュアルはありません。各練習法はテキストに載っていますので、よく読んでください。

 

 

Q15.どうも音程が悪く、ギターやピアノの音には合わすことができるけれども、自分自身のなかから音を発信しようとすると、同じ音(ド・レ・ミ~)のなかに、いくつか音階があり、安定しません。普段のレッスンでも意識していますが、それでよいのでしょうか。それとも、音程は音程のレッスン、リズムはリズムのレッスンと、区別してとり組むべきでしょうか。

 

A15.音程を正しくとるということはとても難しいことなので、短時間で直そうと思わずに、一つひとつ積み重ねることが大切です。「ギターやピアノの音にあわすことはできる」とあるので、まずそれを確実に身につけましょう。「音程が悪い」というのは、もって生まれたわけではなく、間違った音程を覚えてしまい、しみこんでしまっているだけなのです。ですから、その間違った音程と正しい音程とを聞き比べて、どのくらい違っているのか判断できる耳をもつこと、そしてなるべく正しい音(ピッチ)を覚えることをこころがけましょう。個人的に練習するときには、音程、リズムは分けた方が各々に集中できるのでよいと思いますが、レッスン内では両方を統合してとり組むという意味で出席してみてはどうでしょうか。

 

 

Q16.Rの上映は、月ごとで変わっているのですか(みたい映像があるけれど、どうしても都合で見れない)。

 

A16.変えています。希望をアテンダンスなどで提出してください(必ずしも希望通りにはなりませんが、配慮できることもあります)。

 

 

Q17.早く自分のトレーニングメニューを作成したいのですが、初めのうちは、どういうことを中心にやっていけばよいのでしょうか。

 

A17.息吐きメニューでの体づくりは、毎日、行なった方がよいでしょう(「ロックヴォーカル基本講座」P18~26参照)。

 

 

Q18.寝る前に、スチームをたいて寝たり、イソジンでうがいをしたり、イガイガしたときはのどスプレーをしていますが、これはよいことなのでしょうか。

 

A18.ここにあげたことが、どういう効果を及ぼすかは人によって違いますが、調子の悪いときに少しでもよい方向へもっていく手段を、自分なりにもっているのはよいことです。何かに依存しなければ調子を保てない、ということにならなければよいでしょう。

 

 

Q19.私は、右の声帯が腫れるクセがあるのですが、これは治すことができるのでしょうか。

 

A19.現在の症状については、専門医の診察を受けてください。のどを痛めつけない発声は、トレーニングで身につけていきましょう。

 

 

Q21.専門学校で習っているときから、「舌が奥に引っ込んでいて発声の妨げになる」といわれていました。特に「オ」などは舌の奥が上に上がってしまうため、よく注意されます。かろうじて「エ」は舌が平らになるのですが、他の発音は、舌が上がってきてしまうのを無理やりぺちゃんこにしようとして、いつまでも直りません。舌に力を入れないのを実践するのに、一番よい方法というのはあるでしょうか。舌が平らになることとならないことで、発声にどのような影響があるのかを知りたいです。

 

A21.舌根が上がるのは、発声時に余計な力が入ってしまうためです。実際には、舌だけでなく、周辺のどの部分にも力が入っています。のどが絞まり、声のこもりや固さにつながります。体で声を支えられるようになることで、しぜんに解決します。最初は、力を抜くといってもうまくいかないものです。体が強くなり、息と声が結びついてくると、発声のときに力を抜くという感覚がわかってきます。まず、強い体のために、息吐きのトレーニングを毎日欠かさず行なってください。体力づくりには時間をかけることです。部分的なチェックは、自分を知るためには大切なことです。しかし、深い息と声がつながらないところで、舌の力だけを抜こうとしても、却って首から上に力を入れてしまうことになりかねません。部分的な矯正よりも、全身で声を出すという感覚を体に入れていくことを優先します。最初はうまくいかなくてもよいですから、意識はおへその下あたりに持っていきましょう。首から上がなく、お腹から直接声にするようなイメージをしっかりと持つようにしてください。イメージすることはとても重要です。また、力を抜いて全身を柔らかく保つため、ストレッチを習慣にしてください。舌のストレッチとしては、舌を思い切り前に出したり引っ込めたりしてみましょう。舌根が上がるのを直すためではなく、スポーツのウォーミングアップと同じです。舌だけでなく、全身をよくほぐすようにしてください。ストレッチについては、各テキストに載っています。「ロックヴォーカル入門」(ナツメ社)のP25~「発声のための準備体操」を参照してください。

 

Q22.口のなかだけで歌っている感覚から抜け出したいのですが、なかなかうまくいきません。自分では体を使おう使おうと思っているのですが、全然、使われていないと指摘されました。前腹(丹田)を動かす、前に出す感じで声を出すと教わったのですが、前腹より脇や後ろの部分が動くというふうに書いてあったのですが、徐々にそうなっていくのでしょうか。

 

A22.いろんな段階、やり方があります。急には難しいこともあります。

 

 

Q23.毎日やっていく息吐きとかの練習で、本やレッスンで教わったものを含めると、すごい量になってしまうのですが、そのなかから自分に合うものをピックアップして継続すればよいのでしょうか。

 

A23.結果として、すごい量になるものです。