ステージ実習コメント 1164
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【ライブ実習② 】
[ステージ実習①]
[ステージ実習③]
[ステージ実習④]
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【ライブ実習② 】
「エビータ」をもう一度思いだしながら、合宿に落とそうと思います。それは去年も難しくてやめて、今年も無理だと思ってやめたものです。そこで感じたようなことと同じようなことがきっと問題になりそうです。
私は日本のミュージカルには違和感があるのですが、マドンナの映画バージョン「エビータ」には違和感はありません。たぶんミュージカルとオペラの感覚よりはポップスの感覚になじんでいるせいでしょう。
今日また聞いて、どうも違うなと、それでレッスンはミルバのでやったのですが、ミルバで聞くと本当にわかりやすいのです。そういう問題がまったく解決されている。マドンナで聞いてもわかります。音楽としてはもっと完成している。
悪くなかったのではないかと思います。いつもの3クラスよりはずいぶんよい。いろいろ感じることはありました。
全体に感じていたのは、フレッシュでよかったということ、全体的にもあまり退屈するようなものはなかった。でも何か私が子供の頃ののど自慢というか、地元の祭り、古い昭和30年代に作った回転木馬とお化け屋敷、そういうところののど自慢の雰囲気がある。フレッシュさと元気に対して、古さを感じさせるのは何かというのを見ていました。
とりあえず力尽きるまで、ここのトップレベルの人もマイペースでやっていますが、そのあたりまで突っ走ってください。追いついたあたりで体力が切れるかも知れませんが、あまりいうことはない。それは今いってどうこうなるものでもない。
日本人の持つ要素で、歌を歌として処理していくときに、フォークやニューミュージックの人のもっているリズムでやっている。
それがだめということではなく、そういってしまったら日本の歌が何もないということになる。ただやっている歌が向こうの歌なのにそれが出てくるというのは引っかかりました。
最初に歌詞を渡されたときに間違えるところは予期しなければいけません。この2曲は、両方とも歌詞を、どんなに歌っても間違いを犯す可能性を含んでいる。こういう歌詞とこういう展開というのは間違いやすいからです。それを当り前にやってくると当日間違えたりいい違えてあたりまえです。そこで細心の詰めをやってこないといけない。
何回も舞台をやっていたら間違うパターンはわかってきます。そういうふうに構成も歌詞もなっています。どうでもなるというようなものは一番間違えやすいからです。だから練習のときに間違える体験をしておき、それでカバーするやり方をつかむ。
どうにもなるということは、逆にいうと自分が間違えたことを白状しなければ通せる。そんな楽なこともない。その詰めが甘いというのは感じました。
よかったのは切れです。ある意味では放り出していました。ただ自分の強いところに勝負するための守りが忘れられている。ただそういうと、今度は一方的に守ってしまうような舞台になってしまう。でもそこを忘れてしまうと雑なところやマイナスのアピールになる。閉じていないことを今回は評価します。
外に出すのも思いきり破るのもよい。それでも1メートルや1メートル半くらいはとばしている。しかし、その先にどこかにひとつ到達点があるのではないかという方向性があってこそ破れるものではないかと思います。
だからといっていつものように閉じてもらっても困る。前に出すことはよい。そのパワーや大胆さが本当のものではない。本当のパワーならそれは繊細さとか細やかさとか、ていねいさが伝わってくる。でもそんな技術がないからともかく思いきりやったというのは、それはそれで評価するということです。
半径1.5メートルくらい飛び超えるというのも歌のなかでは大変なことなので、よかったと思います。自分の主張をする、音楽を音楽としてならしめる、体の原理を使う、これを結ぶ線は本当に1本か2本しかなくて、その1本をとっていた上で展開しなければいけません。
思いきり歌っているしいいたいことはわかる。けれども、誰の歌なの、というふうに聞かれてしまう。いつも突き放せといっている。誤解されては困るが、突き放すのは引きつけるためです。投げ出して拾わなければ、それはかえってわけがわからなくなってしまう。
歌から音楽に入ってほしい。どうしても歌から人間のほうに引きつけてしまう。人間の魅力や勢いで勝負しようとしてしまうと、ややもするとやくざのこけ脅しみたいにキャラクターに見える。次の歌を歌ってみても結局同じだというパターンになってしまう。ひとつでも勝負してほしいというところは持っているから、この場合はそれでよいと思うのですが。
できたときにはそれ以上のことをしなければいけない。そうでないと似てきて音楽上のポイントが落ちてくる。それが歌の紹介に終わってしまう原因だと思うのです。確かにその人も歌も出ているのですが、だから音楽としてライブ実習としてよいのかというと問題です。
それから曲に関しても、思いきり出してきた、そうすると自分の力の7~9割でやりますから、どうしても平坦になってきます。だからどこかで落とし込むなり強さ以外のメリハリを考えていかないといけない。イマジネーションの問題です。
たくさんのパターンをもっている上で歌い込んでくる。それの幅をもっと極端にとっておいて歌のときにはそうでなくてもイメージが出てくるようにする。ここで極端にシャウトしたり泣くように小さく歌うとかそんなことはやってはだめなのです。もちろん、練習のプロセスでそういうことをやらせます。一人のなかではもっと違う意味で「ジェルヴォ」がきたら、そういっていればよいという形になっているとつまらない。もっとイマジネーションがプロセスのなかでほしかった。もう少し何か伝えられるものがあった。
なめらかにきれいにならしていくという歌い方もあります。そうでなければ何かを起こしていくか。どちらでもよいと思うのです。日本の舞台はその人に合うことを目標にして、その人が許せていたら何を歌っていても許せてしまう。ライブ実習もそうなりかねないところがありますが、独立した作品として基準をつけていく必要がある。
いつもいっているとおり、日本の歌い方は対象があるとすると、そことの距離がいつも同じなのです。それをこう並べていく。日本語もそういう言葉ですから、マスにしっかりと入るものです。欧米は違います。もっと引き寄せたり離したり、対象との距離、音楽のなかでの遠近感はどこかで必要です。切れがあったということは、どこかはまりどころやはめたいところは見えているのです。それが単発の繰り返しでは困ります。
思いついたようにでてくる。歌っているときにそういうことに思いついたりするならし方をしたのですが、インパクトは何かを起こすわけだから、次に繰り返してそれを拾いながら重ねていくことです。
「ジェルヴォ」が繰り返し出て重なっていく。
「ジェルヴォ」が忘れたころに出ていたら何の効果もなく、1コーラス歌うのと変わらない。前に置いたことややったことを次にきちんととらえてやる感覚がどこか抜けている感じがする。だから盛りが見えていない。日本の歌ではそんなことをやっている。
プロの構成や出だしからどういうふうにサビにもっていって1曲落とすのかというようなところを学ぶことです。日本人としては、そこから学ぶべきと思うのです。もし日本語で歌うのであれば、そういうところを学んでもらえばよい。盛りをつくることや全体を構成することはどういうことなのか、効果を重ねていくというのはどういうことなのか。理屈ではなくて、感覚のかたまりのなかで音感からリズムから声の微妙なコントロールで、そういうことを組み立てています。
それと正直すぎるところがあります。何人かは自分で限界のせまさを見せてしまっている。こちら側で見ようとしているのを、その前に見せてはよくありません。見ていたら見えてしまうものです。見えても構わないものですが、まだ見せなくてもよいところでパンツを下ろしてしまうようなところがある。そんなのは何とか隠し通し貫いていかなければいけない。
映像で見たら自分でも、ここであきらめてしまったとかここでゆるめたとかわかると思います。
英語に関しては、拍の中心でとるということをどこかで徹底して覚えていく。
今日は少し自分で表現しようと思って歩き出したような人が見られましたから、そういうことではよかった。
癖にならなかった。ロックは上からひねっていってもっていけますから、うまくのれた人はそのひねっていくことに頼りすぎないことです。すると今度は下に刺さらなくなってくる。体の原理がうまく働かないうちに流れていく。だからロックは体でとらえ、ある種息を吐いて切ったり、ひびきのところで切ったりします。それは実際に音声が切れるというのでなく感覚的な意味でです。そんな感覚を勉強してください。
言葉からメロデイに入ってもよいでしょう。平坦になりがちな日本人の感覚のところをどこかで裏切りながらやってください。それが音楽になっていくと、あまり音楽や歌にするというと複雑になってきますから、シンプルに保つ。自分のところで馴れ合いになってきたと思ったら、そこに何かをいれなければいけない。そこのタイミングや動かし方を学んでください。今日もいろいろなスタンダードなナンバーが出ましたが、そういうものはいろいろな人が歌って、それぞれの呼吸で変えている。
でも必ず帳尻を合わせている。どこかを重ねていっている。
前に置いたことを絶対に無駄にしないで拾っている。そこで、最大に効果を出しているから、聞き手は2コーラス聞きたいし、できたら3コーラス聞いて満足するというふうにもっていける。皆のは1コーラスどころか8フレーズが連続して並行しているようなところがあります。
全体を見てやること、やるときにそれを意識するのは難しいものです。絵と違って自分の描いた線は歌い終わったら消えてしまう。決めとなる言葉になったときに、前の感覚ときちんと比べたりそれに対してどうひねっているか、同じに置いているのか、どういう意味なのか、そういうことに敏感になって練習してください。
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[ステージ実習①]
1クラスに関してはいろいろな段階の人がいますので、自分の目的を設定して、その都度、その目的に対してどうだったのかということを問うてください。歌詞とか内容を忘れてもそんなことでもたないのではない。確かにエラー一つで一瞬いろいろなことが起きる。それは慣れていかないとしかたがない。
誰でもいろいろなことがおきます。しゃべることでもおきます。パッと思い浮かんだものが消えてしまう、調子の悪いときは戻せないし、よいときは何かをそこでひらめく。
この歌は与えられたときにいくつか歌ってきていたら、どこでとぶがかが予想がつきます。とびやすい歌です。同じことが繰り返されて起承転結があるわけでなく、入れ替えが成り立つ歌です。最初に与えられたときに勘が少し働けば、そういう歌だと気づくでしょう。それをチェックしなければいけない。
だから練習で間違いを起こしてくることです。こういうものを与えられたら、自分でわざと間違えます。一日で覚えて次の日にやってみて、そのときにおきる間違いを整理する。日本語で何回も繰り返しているとその間違いがわからない。原曲を聞き日本語で練習する時間を自分でつくってみる。朝一にパッとやってみるのがよい。そうしたら昨日完全に覚えているはずのものを忘れているのが、わかります。意識してやるのです。意識でやると大体出てしまうのです。
そういうときにいくつかやっておく。確実にそれを出していきたいのであれば、意味づけを自分なりにしていく。言葉を変える必要はありませんが、この言葉のなかでストーリーをつくってみたり、そういうことをやっておけば忘れにくくなるし、忘れても何かで代用できます。
こういう舞台を観ているといろいろな代用の仕方があります。何かがおきる。そうなったときに何をおこしたか。何も考えずに1番と2番を逆に歌ってみたり、同じことを繰り返したり、本人が気づかない場合もありました。多いのは2番から歌ったりすることです。
もちろんそんなことは問いませんから、動揺しないことです。声の世界で何を表わしているかというのが、ステージ実習の目的なのです。そういうことで比べて比較基準をつけていってください。他の人とも比較がつけやすいと思います。自分のなかでも今までのものと比べてみてください。条件としては同じだと思います。
メロディも同じような意味で変化させたりフェイクしたりするのはかまいません。ただそこに理由がないと、この曲を知っているからというわけではなくとも、違和感が起きます。それは進行上のことなどとは別になぜそうしてしまうのかと思わせる。
その曲をそのとおりに聞きたいという人もいます。そういう場合はそのとおりに歌ってあげるのがよい。何か起こしてほしいときも果たしてそういう変化を起こしたときに歌はよくなっているのか、ということをみることです。それも誰にとってもよいということではない。その人の最高のものがでるようにセットされていて許されるのです。
その人が伝えたいことがより伝わっているかというと、面倒だとか取りにくいとかいう理由で略している。これではアドリブやフェイクが逆効果になってしまいます。手抜きはやらない方がよい。メロディを変えたから歌がもつということではない。
名曲にはそれなりの理由があります、それを他のものに変えたとき、他のものにのっかってしまうことが多い。それから歌のなかで、ひとつの構成のしぼり込みのなかで分裂してしまうことがあります。
全体の構成は美空ひばりさんなどから勉強しなさいとよくいっています。
与えられたものに対しての条件にどれだけ自分が動かせるか、その限定は自分で外してもよいのですが、逆にその限定のなかで煮つめていかないといけません。何でもありといってしまうと歌が全部壊れてしまいます。
ある程度、すぐれた曲を課題にとっているときには、とれるところは全部とると考えた方がよい。ただ音域が間に合わないから詰めたとか、盛り上がりがないから3度上げたとか、そういうことは悪くはないと思います。それは歌っている中で起きてくることなのです。
特に女性で2オクターブの課題が出たら、そのとおりに歌っても難しい。1オクターブ詰めてくるとか、裏声に変えるとかいうのはよいと思います。
ステージ実習で聞いているのは、ステージ全体ですが、音色、スピード、メリハリです。1クラスのときは、それに慣れてほしい。英語で歌えていないのは、その切り込み方のスピードです。息で声をコントロールするという言語の上にのっている音楽とそうでない音楽の違いは、鋭さなのです。そのことによって音の高まりというピークをつくっていくことです。
ピアノでも力の強い人が躍動感を出せるということではありません。女性でも男性でも弾き方のタッチの差はあるとは思いますが。結局は打鍵のスピード、切り込み方とその人のもっている感覚のフレーズ感が音色を決めるタッチなのです。
ライブ実習になるとピアノとの掛け合いになりますから、そのまえに自分の自由な呼吸のなかでフレーズ感をどう出していくか、音色、息のことをステージ実習で徹底してやっておいてください。それなら2や3クラスにいかなくてもよいと思っています。あとはステージでまとめていけるからです。
ピアノでは動いていても、それを変換させるものはフレーズの感覚です。それを指で伝えてどうやるかというのは打楽器のままでは、フレーズ感が出ない。出ることがあっても、両手になって複雑に感じているうちにはできない。だから音にすること、音をつくり出すためにどうやるか、音を伝えることを音声に対して鋭くしていく材料として使ってください。
それからまだ自分の頭の方が先に働いていて、呼吸が体の原理にそぐわない場合があります。それは呼吸がそうなるのを待たなければいけないから、今のなかでは1オクターブくらいの歌です。大変なら待てばよい。そこを見極めていけばよい。それでもたないと思って違うやり方をとっているのなら別ですが、なるべく生かしていくことです。
日本人の歌い方のようにあまり情感を入れない方がよいというのは、媚びて見えてくる。ある一線以上のものは淡々としているもので、そこに在るものです。あまり私情を入れない方がよい。
感情は入れなければいけません。だからこそ癖はつくしいろいろな形での動かし方もできるわけです。それは感情で変化するのですが、そのタイミングや節度が難しい。
切れなのか粘りなのかというのも同じです。基本的には媚びてそこに浸り込むのではなくて、突き放してもってくるというような距離が必要です。それはある意味ではハーモニー感覚です。そこをどうビブラートでゆらしていくかのようなところは音楽によっても違う。
形からとるのはよいのですが、そこで終わってしまったらよくありません。形が残ってしまうと、感情でつくり上げた形のようになってしまう。宝塚や劇団四季でもそういうところが目につくから、臭くなってしまう。その臭さが好きな人もいるからそれでよいのですが、そこの一員でなければ、いろいろな解釈ができないといけないのです。そこまで臭くしてしまうと一回でよいというようになってしまう。でもそれはそれで突き詰めていったら何が出てくるかわからないから、やるなということではないです。
ただ私はそのことに対して、そこまで複雑にしなくても、もっとシンプルに相手が心のままに受け入れられるようにできると信じています。歌い方や声の出し方に、ひとりの人がせこまか考えてつくり上げるよりももっと自然なものがあり、その方が大きい。伸びやかな方が好きです。
その人の好みにもよります。一番間違えるのは自分が癖をつけたり動かそうとしていることです。聞いている音楽だから、その影響が強くてどこかで聞いたふうな歌で終わってしまう。
今十代のカラオケをみていると、影響を受けています。確かに聞いている人からみれば似ているとうまいといえるかもしれませんが、それ以外の人がみたときにどこかで聞いたふうだとなって、何も残らなくなってしまう。それがもったいない。
その人を見たいし、その人をつくり上げる世界を見たいし、その人の感覚を見たいのに、別の人の感覚をその人が示してしまう。別の人を見にいった方がよいというふうになってしまいます。
声や歌に逃げないこと、それが表現の形の手段として歌や声があると私は考えます。歌に逃げないことも大変なことです。それは日本の特別な感覚だと思います、歌という特別なものがあって、思いをワーッと吐き出すものではなく、高尚なもので、考えてやらなければいけないというようなものになってしまっているのは変です。もちろんそういう舞台もあり、歌詞のところでもつ要素もあるので否定はしません。けれどそのままいって降りてこないというのが日本のおかしいところです。それを最終目的としない方がよいと思います。
歌詞の内容について、誰かのアテンダンスに歌に逃げるとはどういうことかとありました。歌のなかには逃げの部分がたくさんあります。「この大空に~」でもそうではないかと書いてありました。そういう意味で歌に逃げているといったのではなく、別に桃源境があって、現実が辛いからすごい世界に行こうとか死んでしまおうとかはよいのです。ただ、その結果を受けてお客さんがどうなるかというのが大切です。悲劇を悲しんで、劇場の外に出て自殺する、そんなことではなくて、元気やカタルシスを得て、明日を生きられるというような強さが与えられるかどうかということです。
聞き手が受けることは必ずしもロックやポピュラーとはいいませんが、ひとつの真実味や純粋さだと思います。それを歌い手がどこかで感じていなければ聞き手も感じない。メッセージソングになってくると一慨にはいえませんが、ここで基本に使っているのは、そういうものの方が多いし、そこが本質にあって、いろいろな歌い手がいる。そういうまんなかの勉強をした方がよいのではないかと思います。
そういう純粋さや真理、どうしてこういうことをやるのかというと、それに触れられる一瞬というのは自分をきちんと感じられる。自分を除いても大切なものがあるのです。
ある人は「真理があるから習いに来るのではないですか」といっていました。誰にでもそうだとは思わないけれど、何かそういうものがあって、それは現実離れしているとはいえない。歌に触れていると、その辺がすーっと現われてしまう。
少しはよい格好して生きたいし、格好よい感じに触れていたいというような人間の弱点をうまくついてくるというところがあります。
後は粘りです。今日も最後の方でいろいろやっていましたが、人にできないことは何かと全部やってみる、自分一人でできないことは人前でもできませんが、それを試みて、おとしてこなければよくありません。
成り立たないものは捨ててこないといけません。
できないことをやりたいといって人前でやっていてもしかたがない。それは言葉や曲を変えることで目立ってしまうことではない。何かこいつの伝わるものが変わったとか、新鮮になったとかそういうところだと思います。そういうところで捉えてもらえばよい。
音と音の結びつき、ひとつの音と音の結びつきのなかで音色の生の色とか、そこに命があるわけです。それを日本の歌のように点と点でつないでいくというやり方はとりたくない。線が湧き出ていて、それが最終的に言葉をつけてみて、とってみたら点で書くしかないから楽譜になってしまったというような歌の方が、歌う方も楽です。間違っているということが生じません。そういう歌い方をめざしてほしいと思います。
日本語の朗読や台詞というのは本当に口先でやって、現実離れするのはよいのですが、リアリティが薄れてしまっている。その伝わらないところや殺しているところはもったいない。
音楽、声、歌、台詞、音色、リズム、何でもよいのです。何かの力で伝えればよい。
リズムのすごい人とか展開がすごい人とか、リズムのこういうところでは絶対に強いとか、研究所でもいます。
皆のなかでも上のクラスになるといろいろととんでくるので、こちらも予測できるようになります。そういうものを持ち味にしてください。
それから声を動かすのに「ハイ」や「ハ」で練習させているのは、息が定まらなければだめだからです。これはジャンルに関係なく同じだと思います。定まるところに定まるように、体や感覚がいかないと開放も展開もできない。それで必ず戻せるということ。基本は再現性だといっています。
どんなにめちゃめちゃなことをしてもよいのですが、ピタッと次の瞬間に戻せないかぎり、その基本は成り立っていない。単に崩したり流したりしているものにしかすぎない。
ここは「ハイ」で2年やってもよいといっているくらい、基本を重視しています。自分のところの課題として、歌も歌えないし声もしっかりと出ないが、「ハイ」という返事だけは誰よりも遠くからとぶようになった。そうすれば次の2年があります。冗談みたいですが、定めるところを流したままでやっていくと、そのことだけをやっている人にも負けてしまう。
私は「ハイ」で練習したのではないですが、そのことをやっていたようなものです。水泳でも、逆の手を伸ばすところで進む。素人はすぐにかこうとするから、伸びずに疲れてしまう。ピッチャーでも、右手できちんと投げたら伸ばせるということと、左側で反動を受ける。全身でやるということは反動を受けるということです。
そういうふうに全身を連動させていくという中にリズムを入れていく。トレーニングをしている中でも「ハイ」や「ララ」で、余計な細かな動きがついてしまう。たとえば「ハイ」というときに、「ハイ」といわないと出ない。それはよいのですが、「ハイ」はとっておいて後のものは余分だということを頭のなかに置いておかないと今度はそこから出れなくなってしまう。
喉のトレーニングでも難しいのは、あるところにいくことを意識して「ハイ」とやる、そこまでは確実にいけるようになるのですが、それより深まらなくなってします。
最初はこのくらいの浅さ、次にこのくらいといって、ここに固定してもってしまうと、今度はそれ以上に入れなくなってしまう。だからまたそのことを忘れるしかない。それの繰り返しです。
ひびきでも同じです。こういうことは身体的な感覚なので説明しにくいのですが、あることを意識するというトレーニングは必ず部分的です。
意識してそこまでいくので早いのですが、そのことに限定するので、次の年にはより厳しく、より集中してテンションを高めて突破しないと、とどまってしまいます。
今みていて、3分の2くらいの人は言葉がいえていない、日本人の日本語がそうです。いえないということはつかめないし動かせないということです。
それを歌のなかでやるより言葉や「ハイ」のなかでやったり、息だけを吐くことでやっていって体を変えていくしかない。皆そこをやらないで歌い上げたりするので2年までは伸びても、そのあとが伸びない。
そこで圧力をかけてとか切り込みを入れてとイメージがどんどん膨らんでも、声がつかめていないのだから、それができない。だからひびきやフレーズしかとれない三流声楽家のような歌い方になってしまう。それはのっけるだけで、きれいには歌えるのですが伝わらない。
日本のミュージカルなどは、そのフレーズ感を重要視して使いまわす。安易なやり方です。前にそういう人達がいてうまいと評価されて、それに似ていれば評価されると思ってしまうのです。つまり、越路吹雪や美空ひばりのまねをしておかしくなってしまうのです。彼女らは自分の体を知っていて自分の表現をつくり出したのです。宝塚でも昔の人の借り方に安易にのっかって、それをまねて勉強して悪くなります。だからだめなのです。
ここでもそうならないようにしてください。いろいろな先生がいますが、そういうふうにやれということではないのです。その人なりのタッチをもっている。それに変わる何かを勉強するためにそういう人達がいて、皆違う歌い方をしている。同じ歌い方をしていては、ロックでもポピュラーでもありません。
今の舞台では、まだ体の確認をしているところが見えすぎます。それは忘れなければよくありません。レッスンのときもそういっていますが、自分一人のときに確認してください。レッスンやステージ実習の場で人前に出てきたときには、前に出すことです。それを考えたり意識したり、準備しようと思った時点で引っ込んでしまう。
中には声を出しながら意識して確認している人もいますが、出るものは出るまで考えてよいし、それから出し終わった後に考えるのもよい。でも出しながら考えてどうなるというのでしょうか、そのときは出すしかないということです。スポーツをやっていたらわかると思いますが、投げるときにボールを離す瞬間を考えてもしかたない。そんなことをしたらボークになってしまったり落としてしまったり大きなミスが出ます。そういうけじめはつけた方がよい。
外に向けてやるとき、内に向けてやるときの切り分け、ステージ実習の場は外に向けてやった方がよいと思います。自分のなかで閉じて確認するような作業は一人でできます。映像に撮って自分で確認すればよい。
ステージ実習の場合はお客さんがいるのだからそれしかなくてもそれで何が伝えられるのか、別に声や歌がなくても人間には伝わるものがあります。そちらの力を先につけていった方がよい。その人の顔の迫力とか気迫とか、高まってきて眠気を吹き飛ばすようなものです。
このくらいの人数ですからその人の力でストレートに働きます。トレーニングの途中経過があまりにも見えない方がよいと思います。それが癖になってしまうとなかなか抜けられなくなってしまいます。
胸に手を当てながら歌うのもやめた方がよい。それしかなくなってしまうからです。
トレーニングはあくまで部分なのですから、それが中心になってしまったらいけない。何かをやりたいためのまわりでいろいろやっていて、そこの位置を自分でつかんでおかなければいけない。何もわからない人はまずそこだけやってみるというのもひとつの手ではありません。小さくまとまっていきます。そうすると事を起こすことができなくなる。
言葉を投げろとかつかめというのも、全部事を起こすためです。それを動かす。音楽や歌というのはそれを修練させていく。起こすだけなら騒いでいるだけですから、それを音楽的な感覚をもってより修練させ、それをさらに重ねていくという構成をとっていく。
もうひとつ前の世代の感覚にとってみれば、あなたの今のバランス感覚は間違っています。ヴォーカルをひっこめている、昔のこういうものがヴォーカルの歌のバランス感覚だったのです。
私が加工しているのではない。1000Hzを上げていくとヴォーカルの域が強くなる。ここは一切していない。トーンもベースもあまり聞かせない。あまりに音がもぐっているときに少しかけますが、ヴォーカルだけを浮き上がらせるようなことはしていないのです。
もともとのCDがそうなっています。
今は自分の課題に対してどこまでできたか、それからまわりの人達がどう1ヵ月ごとに変わっていくのか、そんなところを見てください。
10月のオーディションで12月のライブの出演者の選択をします。
そういうときに自分が勝負できる場所はどこなのかを考えてみてください。人をまねて、その人の方がうまくなるような歌い方は最初から捨てていくことです。練習のなかでいろいろやっているのはよい。まねもひとつの才能でしょう。
ピアフやミルバは無理でしょうが、昔は皆そういうものをまねて勉強していったわけです。まねていてもしかたないというところで自分がわかってくるでしょう。自分の気づきやすい歌、気づきにくい歌とありますので、そういうふうに勉強してください。
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<ステージ実習③>
フィードバックをしてください。
音楽的な基本の力の不足です。 ほとんど意味なく音程を外してしまうのでは、勉強ということが成り立たない。
こちらもレッスンの進行を考えたときに、力の有無でグレードやクラスが上がっていけばよいのですが、とりあえずレッスンの妨げにならないとか当り前のことが当り前にできるくらいのことで上げていかざるを得ない。
今の④クラスでも今は大したことはなく、ピンキリです。点数でつけることはできないですが、入門から3クラスまでは1から20点くらいなもので、4クラスは20点から2000点くらいまでの差があります。4クラスを4つくらいに分けたいくらいです。前に5クラスをつくってみましたが、グループレッスンはきて始めて成り立つものなので、出席がないと成り立ちません。
問題なのは基本として2年やらなければいけないことが最低限ありました。その2年でできなかったことをきちんと次の2年にかかってやることです。これは漠然と4年6年やっていくのとは違う。
同じようにうちで1ヵ月ずつ今月何をやったかというのと、トレーナー方のレッスンを評価していくのも、毎月締めていきたいからです。ステージ実習もライブ実習もそうです。
映像を見て、気づかなければいつもどおりに思って、いつもどおりに練習して、そうしたら5年たっても10年たっても何も変わらない。
難しいのは初心者よりも長くやって、そのことをきちんと感じられないセンサーをもつ人の問題です。センサーがあってもそれを正せない場合にどうしていくかというようなこと。今日の全体のレベルでいうのであれば、2の方が相当上、下手すると1クラスにも負けます。それがどういうことなのかをきちんと見なければいけません。
歌になったときにトレーニングの成果がすぐに現われないのも、トレーニングに目的があったときに歌が横にいってしまうのもわかります。しかし、期間でも年齢でもないのですが、どこかで振り切って、少なくとも何もやっていない人よりは何かをやった。その勉強をしたものを何か示せるというところに来ないと嘘でしょう。
音感が鈍い人は慣れていなかったりセンサーが働かなかったりして、時間をかけて直していかねばいけないのです。それだけの問題なのかといったらそうではない。ここは日本の歌をうまく歌えても、足りないものがあってそれを身につけたらもっと使えるようになるというような基準で置いている。皆さんがどういう歌い方になっていくかは自分自身が決めていけばよい。
ただ一番違和感を持つのは、ここがやっていることやどう出せばよいかということをわかっていないでやめてしまうことです。実際に私は日本のニューミュージック風に歌っていくというならそれでよい。でも、英語のバージョンや欧米系のものを歌うとしたら、ここでやっていることが反映していないというのでは、上達できません。特に前半に対しての感想です。日本人らしいし、でも日本人としても何かが違うと思います。そこをきちんと見ていかないといけない。今のJ-popもまた違う。歌という土俵の上にないことが問題です。
日本人らしいところは、あくまでも線そのものをムチのようにビートから動かそうとせずに点から点につないでいこうとするところです。☆私がいっている強くするとか弱くするというのは違います。体のなかでいう息のコントロールなのです。それを音上のコントロールに甘んじる、同じ線上に引いていて、ここを強くとか弱くとかいう感覚で捉えているのではないかと思います。
だから声が美しいとかレガートがきちんとできる人は、昔の歌い手にもそういう人がいましたが、そうでないともたない。それは私はあまり勧めていないということです。
それからまだステージ上の態度面での注意というのが特に前半の人に必要です。肩から上ばかりで、顔でも歌っていない。本人がその気になっていない。これも日本的な歌い方のひとつの特徴です。そこに動きをつけると媚びたような歌い方になる。
どうせ体を動かさないのなら、東海林太郎さんみたいに直立不動で堂々とすればよい。ステージに立つときはだれよりもきちんとしなければいけない、正装をして士気鼓舞するというところまでいった方がまだ言い訳がつく。時代がどうこうということではなく、ステージのスタンスとしてそういうこともあります。
お客さんは卑屈なものや媚びているものとか、下から持ち上げるものを観たいのではない。その人が一番魅力的で堂々としているところが観たいのです。日常のなかでそういうことがまったくない人にはそういう注意はできないと思いますが、誰でももっと威厳に満ち、人に訴えられるような表情をしているときがあると思う。
後はようやく呼吸や声が語り出してきたという人が何人かいまして、ここはよいのですが、もう少しもっていかないと結局形や癖に引きずられます。
せっかく語り出してきても、そのことに自分が意識しないでこうもっていこうとか響かしてしまおうとかなると、そこにとってつけたような人工的なものがついてしまう。わかってやっているのならよいのですが、それが歌うことだと思っているようなところがある。
歌も音域をせばめたのはよい、そういう変え方もある。でもそこの部分をせっかく語り出してきたものをきちんとつないでいくということをしなければ、ところどころ語り出しているということで終わってします。もっと主体的にものを出していった方がよいと思います。
3、4、5番目とけっこう似たようなかたちが多かった。日本の歌い方でもきちんとしているものはしているのですが、特徴としてフレージングが大きくなくシンプルです。歌を4つに捉えてとか4つのフレーズで捉えて歌をまっすぐもっていこうとか、複雑です。ベクトルを定め、四方八方に出していくのではなく、ある一点に対して集中していくべきでしょう。そこのところにまだ歌い手のためらいや迷いが、出しながら考えているところが見えてしまう。
日本の劇団でも、ぶつ切れを見せないためのテクニックというのはたくさんもっています。私はそれに早くから入るのは否定的です。たしかにそうやると言葉は聞こえるし普通の日本人に感じるものも出ますが、音楽上にのっていない。フレーズとしての力のないところでそれを許してしまってよいのだろうか、逆にいうと外国人はそんなせこまかしたところは何も感じず、パワフルに動かす。
小細工になってくのが日本の場合は許されています。ノリやグルーブ感がそこで全部落ちてしまうのです。そこは日本らしいのですが、そういうものとは本当は違う。
日本人に成り切るのなら成り切ればよいと思います。イタリア語で歌った人もいたと思いますが、その入り方ひとつのところから見て、体に引きつけられていないし、一音ごとにぶつ切れになってしまう。これはそのまま出すというようなことは最初に勉強していくことです。そこから展開したり変えていったり、その感覚を持ちながらメロディックに入ってみるというふうがよい。ダラダラとなるのがいけない。もっとさっぱりと淡々としていて、その代わり情、熱さみたいなものが伝わらないとわからない。
入るときからリズムがない。
歌がわかっていないのは、トレーニングをやっている中ではしかたない。ただ、そこは自分で自覚しないと、いつも反省していろいろなものを学んだのはよいかも知れないが、変わらないでしょう。
たとえば野球は一塁ベースに走らなければいけない。それを自分で三塁ベースだと思い込んでいても、皆が右に走っているというイメージが入ると、気づかなくても直っていくものです。そういうふうに直らない人は、もう一度全体から見なくてはいけない。きちんと現状と自分を認識すべきと思います。
自分は見ているし、わかっている、ただ力や声がないからできないのだというのではなく、できないのは見ることができていないのです。だから今までもできていない。直さないとその後もできていかない。見ることをやっていかないと塗り絵みたいなペタペタした歌になってしまします。他人に許さないことさえ、自分には許してしまうわけです。それの繰り返しで上達はありません。
0.1くらいずつ上がっていけばよいのです。それが見えていたら私は何もいわないのです。
その辺の問題はどこでも大きいと思います。歌っている間でさえ反れてくる。その反れてくることに対して甘い。普通なら自分で不快になってそこで切ります。それは普通の人の普通の感覚です。目の見えない人がこれが黒か白かわからないというくらいにそこは見えていない、聞けていないということです。生じ長年も歌っているとかトレーニングをやっているという自負が自らを盲目にしてしまうのです。
中間くらいの人達のまねだけのは絶対に通用しない。いろいろなものを聞いてくるのはよい、それをやってみるのもよい。でもそれを人の前に出すということについての判断は甘い。
入ったばかりの人はしかたない。それしかない。でも少なくとも自分が歌と本当に接していたときに、それが何かになるというようなことはないと知ることでしょう。そうでなければ一人でやったほうがよい。その人のためにもよくないし、そこでできていないのに何かができていると思ったらもっと大きな勘違いになってしまう。
それはよかった歌を最大限おとしめてやってきたというだけのことです。だから何もならない、練習にもならないと思います。
完成度みたいなものを歌い手からとるのはよい。しかし、その勉強すべきところを全部無視してやってしまってもよくありません。まず出だしでもよいので、完成度をみてください。自分ができるできないということは選曲でも判断をしなければいけない。普通の人でもできる歌しか歌わない。できない歌を歌っても何の勉強になるのか。それはやってはだめということではないのですが、人前に出しても自分の不利になるだけです。
私は不利なところは人前で見せなければよいと思っています。実力も、よいところを一番編集してきて通用すればよい。悪いところばかりバラバラにもってきたら通用しない。一番弱いところを全部人前でやって通用するはずがない。多くの人はそんなにすぐれているのではない。
自分で編集できないし、わからないというのが、一番の問題です。今日の選曲は全体的にみてひどい。何でこの人がこれをもってきたのかというのが多い。ようやく最後になって少しわかった人がいましたが、前半は選曲ミスというより、果たして選曲が働いているのかというくらいです。そういう勉強の仕方は2年も経ったらやってはいけないと思う。
それが見つかるまでいろいろな曲に当たっていくのはよい。そこでセンサーが働いて、練習の過程のなかで判断すべきです。
オーディションがあります。そのときも同じことをいうことになるでしょう。今日いっていることも今までに全部いっていることです。だから一本の線をきちんと描く。でもなぜこんなふうにできないうちから歌わなければいけないのかというと、全体を描く練習を何度もしないと、一本の線を描くということがどういうことがわからないからです。示せれば一本の線でよいわけで、そのことを展開させていく。歌は何本の線かわかりません。
そういう練習とその延長上にあるのが、ステージ実習です。
音や声を扱っているというのはあまり意味がない。だから本当はやらない方がよい。発声の問題と表現の問題がありますが、選んだ歌の評価や解釈、つまり、どう考えているのかが見えない。
歌のなかでもやってよいことといけないことがあります。やってはいけないことは何かというと、皆がやらないことはやってはいけないとはいいません。やらないから問題には上がってこない。やってはいけないのは誰もがやってしまうことです。だからやってはいけないことなわけです。よほど気をつけなければいけない。そのやってはいけないことばかりを全部並べて、これが作品だといわれても作品ではない。そういうことを練習のなかで区別してやってきているのかが問われます。
全体的に今日の前半に関しては突き詰められていない。真面目に取り組んでいるのはわかるのですが、ここは、誰かに対して何かを与えたり表現したり、歌として成り立たしめるというところです。そこは前提の問題と思います。
それだけのものを背負っていない。それは責任とか使命感ではなく、イマジネーションの問題です。それが全然感じられない。その人が本当に現実に歩いているままで、現実に歌っていたって伝わるものはあるのです。
私は一般の人の歌もカラオケの歌も聞いています。下手だったりひどかったりしますが、それでも元気だとか楽しそうだとか、何かが伝わります。しかし、そういうものだけでは、逃げ場だらけになって、よい状況ではないからです。
歌い手に、歌で乱暴にうさばらしされたら客は逃げるしかない。それがこれでもかと出てきてしまう。情熱で出てくるのならよいのです。それでも何か伝わるわけでしょう。あなた方のやっているのは何だということです。全員にいっているわけではありません。
そんなこといっても自分はできないとかすぐれていないとか、それは原点としてはよいのです。それで入ったのでしょうし、誰でも最初はそこからでした。
こういうことをやっているのに愚痴は不要です。表現演出に関して、人前で自分を大きく見せることに関して最も遠いところにいた人だから、そのことに一生をかけれ、それで人前でそういうことを価値づけて与えられるようになった人もいます。大体世の中そういうもので器用では大成しない。そこはよいのですが、それは変わっていかなければいけないということです。正すことができないのが一番の問題だと思います。
今、個人的なアドバイスをトレーナーに頼んでいます。仮に他の人が書いても同じです。どうしてもいえないことも私が正直にいっている。思い込む、そのときに修正をかける。これができるには厳しさが必要です。文章でも、私はすごいものを書いているといっても中学生が読んでみてここがおかしいといったら、おかしいのです。そういう正常な感覚はいくらそのことに打ち込んでいても、働かなければいけない。
今日の歌を一般の人達が聞いて、下手だというならやっぱり下手なのです。そのくらいのことはあなた方が見ても見れる。見たことがなぜ直らないのかというと、直すところが見れていない。それをここでは唯一、学ばせているはずです。
1フレーズを聞く勉強は相当しています。他の人に書く評価の力は相当ついていると思う。それは、他人への評価ではなく、自分の評価ができるためです。
どこでいつ勝負をするのかというのが、歌のなかで見えないままに終わってしまう。1曲として成り立っていないわけです。それは本当に自分の作品をきちんとみていないということです。
バランスの悪い絵の話をよくします。私が絵を書くと、親指から描いて小指がものすごく大きくなる。小さい子もそうです。きっとその練習を10回20回やったら、最初からある程度直る。ところがたまに描いてみるとまた元どおりになっている。それは画才がないというよりそういうことを念頭に置いて生きていないからでしょう。
何となくそんな感じです。それを続けてやっているはずなのです。それを見ていないという気がします。別に中学生が聞いて、うまいという歌を歌わなくてもよいのです。わからないけど面白いといわせたらそれはそれでよいと思うのです。そこから何かが生じると思います。
よくトレーニングに逃げるという言葉も使います。
歌自体が目的になっているのが一番好ましいことです。たとえば歌を手段として世の中に出ていく方が芸術家としては邪道な考え方だと思います。ここの考え方はプロの意味合いは、他人に何かを与えるということだけど、他人に与えなくても自分にその力が与えられれば、それはそれでよいと思うのです。あなたが自分の歌で元気になれば、まわりの人もよくなります。
サラリーマンをやって、いつもへとへとでもう死にたい、でも歌を聞いたらあるいは歌ったら、自分に勇気づけられて明日を生きる意味がわかったりするとしたら文句もない。そこでは自他の区別はしていない。ただ、そこで何かが生じる。生じるということ自体も邪道ではないかと思いますが、教会行ってみたら心に触れるものがあったりして元気になるというようなものを、言葉でいえないのですが、感じます。
歌をどう捉えるかというのはその人の価値観ですが、そのことをそのまま、示さず消化しても芸としての行為にはなりえないということです。歌は、自分のなかでなく、常に相手との間にあるものだからです☆。トレーニングに逃げるとは、汗をかいてさっぱりした気分になってしまうというので終わることです。結果を出さなければプロの世界では通用しない。「がんばれ」といわれたから素振りだけやった。それは認められない。素振りで何が変わったのかという結果しか問われない。
「たくさん書きました」「誰よりも早く2晩で書き上げました」といっても、そんなもので誰も見ない。そこで何日かかろうが、たくさん書かなくても、その内容がどうなのか。それが人に価値が与えられ、きちんとしたものがつまっているのか、そこで問われます。
そこを見て、価値評価基準をつけていかなければ、場が成り立たないということです。自分の好きなようにやってみて、気持ちよければよい、好きに歌っていて何が悪いのかといわれたら、それでここに来るのが悪いと、いうしかない。こういう場として保つためには、それが自分を通じ、自分にも他人にも力を与え、あるいは他人に与えながらやることで自分に力をつけていくというようなものだと思います。
人の歌詞やメロディ、曲を使っているのは、その人達のものですぐれて、人の心をとらえてきたものの方が、力がより与えることを学べるからです。
本当はつくるときにそれをいろいろ変えなければいけない。レッスンも組み替えていますが、人の歌詞も自分の歌詞にしなければいけない。言葉を変えるということではない。言葉は形、そこの実の部分のことです。
メロディも人の歌い方もそうです。だから自らつくらなければいけない。
クリエイティビティが問われる、その手間を省いてはいけないと、省いたらそこにかけた人達よりは得られないということです。ただ、そういう材料がたくさんあることはよいことです。手間をかけることは苦しいと同時に楽しいことというのを、どこかで感じていかなければいけない。
今度のオーディションで7人のトレーナーが同じようなことをいうなら、そこは直すべきところでしょう。そういうことはあらかじめわかっていなければいけない。
たとえばここに立ったときに、こういうふうに歌ってしまうときっと○○先生はこういうし、○○さんはこういうだろうと。だからこう歌わなければいけないということではない。それはわかっていた上で、自分でどう出したいのかということです。
こういうことの勉強を、私がごちゃごちゃいっているのも、ひとつの基準としてわかったら、4や5クラスにいって、いろいろいわなくても、終わった瞬間に自分の結果がわかるようになることです。全体が終わった瞬間、今日は何をいわれるかがわかるようになります。私もそれほどきちんとわかるものかという疑問があったのですが、いろいろなものを出してもらったり総合評価をやっていると、本当にわかるようになるものです。だから芸事は成り立つのでしょう。
そろそろゲームを考えなければいけないということです。蹴る練習はよいのですが、蹴ることに一生懸命になって、みえなくなってしまってはよくありません。目的が必要です。要は自分がボールをキープしている時間を競うのではなくて、とにかくボールを進めること、それからボールだけ進めばよいのではなく、ドリブルなら自分が蹴った分だけの速度に追いつかなければいけない。自分が動くようにボールがともなっていけばよい。ボールを蹴ることが目的ではない。パスを出すということも誰かに対してメッセージを了承して、それを確認する行為なのです。
だから、おかれたあらゆる要素を最大に使ってどう組み立てるかというのを、歌のなかでもステージでもやらなければいけないと思います。それが今だに遠く蹴れたとかシュートの本数を打ったとか、意味のないところでの判断基準になっていることが気になります。そういう時期があってもよいと思うし、もしかするとそういう時期に戻らなければいけない人もいるのかもしれない。
しかし、一つひとつの意味をもう少し捉えなければいけない。世の中で音楽で、こんなに甘くてよいのかというくらいに甘いです。他に何かが出ていたら、そのことを失わないようにした結果という言い訳はできません。一般の人が聞いてわかるような音の外れは通用しません。一般の人の前で歌っても、音痴といわれます。日本人はそういう耳を持って、それに厳しいから、レッスンでそこばかり優先されてしまいます。外国人はそれに甘いのではなく、リズムも厳しいし、音の世界も厳しい。表現のオリジナリティで問う。それを自分でわからなければいけません。
学べなければ楽器で弾いてください。歌っている間に崩していると思うのです。レッスンをしたまま歌ったらそんなに崩れない。その崩れ方は、楽譜を見ないで、あるいはメロディを聞かないで、あるいは最初は合わせていたけれど、自分で思い込みのなかでやっている。だから歌からどんどん反れていくのです。そういうことはやってはいけない。
声も大切ですが、歌にも大切なものがある。今日聞きたいのは、歌って何なのかということです。別に研究所の歌があるわけではない。一般的に歌といわれるものに、いろいろなやり方があるので、そこからはみ出すのはよいのです。
サッカー場でボールを持って、走り出した人がいて、そこからラグビーが生まれた。それが時代やまわりのある種の期待するものにこたえていた。そうでなければ、ボールを持って走ったりしても何も生じないのです。そういうことを歌のなかでしてはいけない。
今だにどうしてその曲を選んだのかとか、その曲に一体何を感じて伝えたいのか、全然わからない。きっと課題を課題としてやっている。1ヵ月目と同じようなことを何ヵ月もやっている。
それから少し器用に歌えている人も後半にいますが、旋律を声に変換しただけのものは、やめた方がよい。コンピュータに負けてしまいます。他人の歌のままです。
日本人がそうなりやすいのは何回もいっています。メロディを言葉でとっているからそうなります。それを注意されてもよいのは入会時だけです。的として掲げているところが違うと思います。メロディを言葉でとるのは当り前ですが、それだけでは歌だとはいっていない場です。方向違いです。
ニューミュージックやフォークもどきで歌っていこうという人には、これは通用しません。それはそれでよい。そうしたらああいう人達のように、自分で作詞作曲してみたものを、もってくるべきです。声の力や歌い方が同じだといって、何かが通用すると思ったら間違いです。現にこのように歌える人はいくらでもいます。高校でもひとつのクラスのなかで、何人かいると思います。
それが終わって、N君くらいからようやくステージの安定が感じられるくらいです。彼でも歌は不安定で、それぞれの後ろがかけている。それでもそこで安定したと思うくらいひどかったということです。統一していない、そういう厳しさが欠けている。
彼のところからいうと、後半の語尾、言葉の乱れが、せっかくの聞かせどころをだめにしている。声もよいしそこから出るものもよいのですが、それらに頼ってしまうところがあると思いますが、それは使い切らなければよくありません。
Sさんのあたりも、声の感覚や出ているときはよいのですが、声で聞かせられるというのは限度があるから、逆に声がものすごくすぐれていなければいけなくなります。声より感覚が伝わらなければいけない。しかし、その歌のところで、ようやくブロック、歌の構成がようやく見えた。すると、そこまでの人は何をしていたのだろうということです。ただ、正直に歌いますから、もう少し工夫しないと全部底まで見えてしまう、そうすると2番、2曲目がもたない。誰でもできるフレーズづくりだけでなく、歌として少し独自のものを感じながら入れるプロセスが必要か、あるいはステージのなかで入れていくかです。
そういうことは声の力のある人ほど鈍感になる。それでもってしまうところもあるし、歌ですからそれもよいと思います。それが抜けていったら、あの人の声がバーンと出るのがよいというのも、音楽的なことがあってのことです。
練習はしていても、それがステージの気迫にならなかったり、体も立った瞬間に前に気が出てこないのは、トレーニング自体のテンションの問題です。
練習をしているとかがんばっているとかもよいわけになると思います。厳しいかも知れませんが、ここはプロセスを見ます。一般の人はプロセスなど見てくれないわけです。そのときのあなたの作品のどこかをさっと聞いてみて、あなたの価値を一生分、すぐに見切ってしまいます。惹きつけられるのか、それさえも聞こえてこないのかというようなことです。
後半の人も、歌自体はきちんとしたメロディや美しさや構成を持っています。それをきちんと勉強した上で、自分のことを知って変えてくるのはよいのです。そのプロセスが全部省かれているのではないかと思います。
自分が勝手に変えたら何かが生まれることを創造と思ってしまっているのではないかと、そこを許してしまっている甘さがみられます。そのことを本当に選んできたか。いろいろなひらめきが起こりますが、ほとんどのひらめきはあるプロレベルの人が作った歌や歌詞には、かなわない。
それを客観的に置いて選び直してくるところで厳しくしてください。そうやって選ばれたものかというと、そうではない気がします。声の使い方も、癖があってもよいと思いますが、そこに頼りすぎてしまうと、個性でありながら癖といわれてしまう。その人のよりよいものを邪魔してしまっているからです。
そういうものがない人は、癖がついていたりいい加減なことをやっていても、その人の世界観やスタンスが伝わってきます。そうでないものは周辺で中心でないと思います。その判断は難しいし、歌によっても違ってきます。
どちらにしろまず正しく歌うのが前提です。正しく歌えなくて動かすのは、ひとつの逃げ方で、それも許せると思いますが、その動きから降りてきたり、ひらめいたものでよりよいものにしていく作業をしていかなければいけない。
場の逆転が起きていないです。聞いている人を客にしなければいけない。聞いてもらうから、聞かせてあげるという逆転を起こさなければいけない。
「ケ・サラ」は「どうにかなるさ」というような歌です。それを表わせた人が勝ちとはいいませんが、少なくともそのことを考え、そういう歌い方をし、その上でそれも捨てて新しい解釈づけをしてやってきたのかというと、何もやっていない。聞いていた通りにやってみて、音が外れないように合わせてきただけだから、そこを聞かれます。それで外れていたら、最初から負けるわけです。その辺はあるレベル以上できている人を見てください。
客になるということはどういうことでしょう。私も、いつ知れず入ってしまう経験をこのステージでもよくしています。感動したとか涙が出たというのは少ないのですが。入ることくらいは歌い手の世界に、こちらも入りたいわけです。入らせない何かを皆がもってしまっている、それがよくない。
合宿の「すごい男の歌」でも、そんなのは当日でできると思っていたでしょう。私はできそうもないと思ったので前日に書かせました。原曲も大した歌詞と思いませんが、それさえ超えた人はひとりもいない。音の力もあるから、一概にはいえませんが、きちんと反省しなければよくありません。
いつもいっていますが、やっているのならなおさら考えなくてはいけない。半年や一年の人なら急にわかるのは無理ですが、そんなに難しいことをいっているのではない。家族連れや親父さん達がここにきてみて、ここがおかしいとか反れたとか感じる、そのレベルくらいは自分で直してもらわないと、直せません。
「今に生きていない」ということについて、質問されました。オールデイズであればそれを歌ってしまって、そのなかに入ってしまうことを示しています。時代が違うのですから、今の人がオールデイズを歌っていてもコピーにすぎません。
今のものとして、新鮮に聞こえなくてはだめということです。そうでなければ、60年代の香りが伝わってくるもののなかに、その人が本当に生きていたらそれはそれで場や空間がチェンジします。そんなことも聞こえないで、今生きているロックに昔の人が聞こえてしまうというのも妙です。そのときのアーティストと観客との信頼や絆を借りているだけで、それを打ち破れないのです。
そうでなければ洗脳されているのと同じです。そのことが好きな人も多いので、あまりいいません。私としては昔を味わいたいなら、VTRで充分、今の人では退屈してしまうのです。
今のあなたを出してほしい。どんなに昔の歌であろうが、あなたがそこで何かを感じたから歌う。感じていないのに出してくるから悪いのです。今生きているあなたが感じたのだから、今に通じる何かがその歌にはあるということです。それをあなたが客に対して、何かを感じさせようとするのだから、フレッシュなものが出てこなければ、その2つのことが何もないというわけです。そうしたら前の時代で生きていて、その時代のものでしかない。歌は遺跡を発掘しにいくものではない☆。
ーー
[ステージ実習④]
音楽として成り立っているもの、あるいは原盤で歌われているものに何かを加えようとするとき、そこのなかでフィルターが必要です。よいものを生かし、悪いものは落としていけばよい。よいものが落ちてしまい悪いものがついてしまう。この四通りくらいのところで判断せざる終えない。
素人ががんばって、微笑ましくて最後まで観るものの方が、器用さだけが売りのミュージシャンよりよい。
ミュージカルは外国で観ることがありますが、筋が何となくわかるくらいで、言葉はわからない。でも何ヶ所か必ず泣けるところがある。それは悲劇でなくても、音が集まってきてそこだけ聞いているだけで動かされる。そういうものがミュージカルなのでしょう。そうでなければそんなに人が集まるわけもない。映画か演劇でやっていればよいということになります。
オペラとはまた違った意味で、音の世界としてでき上がっている。ブロードウェイのCDもありますが、音の世界でいうと日本のは成り立っていない。サーカスの音響効果にいってしまう。家族連れでいく人は「感動した」といっているから、それはそれでよい。クラシックの発声を借りないと舞台がもたない。韓国人の劇団の主宰者と会ったときに同じことをいっていました。しっかりと聞けている人は寝ているのだろうから、眠くする要素があるのです。
日本の歌い方はそんなものになってしまうのかと考えながら、最近入門や1クラスのレッスンをやっています。課題がわかっていないとか課題を間違えてくるとか、同じことをずっとやっていますが、昔は1行でしか説明していなかったものを、今はA4に2枚くらい書いて説明しているのに、それでもわからない。たとえば今日はうまく転調したことに私は感動しました。移調ができたことにすごいと思ってしまって、そこまで基準が落ちているところで入ったので、評価できない。
最初の方からいっていきますと、シャウト部分にコントロールができればよい。そこがうまくいけば、もうひとつ歌の幅が広くなる。歌によっての使い分けがいろいろできるようにな
るでしょう。音楽の世界がまったく同じように聞こえてしまいがちなので、そういう意味で声のバラエティは持っていた方がよいと思います。
次の人のは横に広がるところがあります。これは調子のよいとき以外のほとんどの人の弱点です。それを縦できちんとつかまなければいけないのと、低音の使い方が表情のところで持とうとしていますが、逆に変な表情がついて目立っている感じがします。よいものが落ちるもの、悪いものがついた部分などのバランスをどこで捉えるかということです。
劇団でもこういう人がトップで、こういう人を選ぶ基準でオーディションがなされているわけです。それは日本のお客さんのひとつの感性に合っているわけです。いつもよりは音色が出ていたり声の幅の広がりがありました。私は伸び率で観ていますので、その分では楽に聞けた感じがします。
Kさんのは、サビの高く上がったところは開けた方がよいのではないかと思います。前川清のように歌い切ってしまう人もいるし、それで低音部も心を打つひとつの表現だというのもあり、そういうものも少し入っていた感じはありました。抑えがきかないところがもったいなくなっている気がします。
Tさんのは今日の曲は合わなかったと思うのですが、気になるのはブロックの区切れが見えない。実際の歌はブロックの区切れはあるのです。音楽がついていているのもわかるし、音楽を抜かしたときに間奏を開けるとかするともたつくから、ここでやったりアカペラでやる分には続けてもよいのでしょうが、そのなかでの1コーラスであればそこで切れるべき構成があるのです。それを2つまとめてみて1コーラスという考え方をとらない限りは、気持ち的なけじめなり何かが必要です。気持ちを表わせというと声がおかしくなってしまうこともあるのですが。
それから感覚か息かという問題になると思いますが、そこでより強く息のコントロールが動くようになれば、もっと切れるのではないかという気がします。必ず音程とフレージングは持っていき方のところで、思いきり出そうとするとずれてくるところがある。
Nさんも、ある意味ではもて余しています。今日も自分でおりを作ってしまっている。あなたの場合は野性なのだから、ここでおりをつくってドタバタやっていても魅力がないから、それを感じさせてはよくありません。おりのなかでガオガオいっていても、安全だと観てしまう。今まではおりがなかった。だから客も身構えていたし、そばに寄ってはいけないような距離感がよかったのです。今日はおりが見えている。
声があって何でもできるからこそ、もっと声の使い方がある感じがします。声量とフレーズという考え方を一度捨てて、スピードと息というようにとってみればよいと思います。今日の曲でなく、そういうものが強調されている曲で勉強した方がよいと思います。声量に入ってしまうと本当に声でやっていくしかないのです。
Sさんも声量ということではなく、ぎりぎりで出していたのですが、限界まで出すのがかわいい奴とそうでない奴がいます。そういうことでいうと少し前で止めておいた方がよい。
限界まで出せといつもいうので、それはそれでよいのですが、力で押すのと力が働くように押すのでは違います。思いきり力を入れて投げたら、球が走らなくなるし速度も出なくなる。どこかで抜いていて、その辺のところでの加減がセンスです。
力の勝負になると歌の場合は負けてしまうことが多いです。本人も見えなくなるからです。そういうことでチェンジングがあるのです。今のスタンスでやるのなら、より高いところで集めなければいけない。それからより低いところでも持たなければいけない。日本人らしく上で調整するか外国人のシャウトしている人のようにより下から生み出すかを成し得ればよいでしょう。