一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

課題曲レッスン 20382字 1173

課題曲レッスン 1173

 

【「愛のメモリー」】

 

 主として、アメリカの曲の素材を使いました。

ほかは、メルセデス・ソーサ、A・ロドリゲス、E・ピアフ、E・フンパーティングと、「ヴォーカルの学び方」の本に出した歌い手です。

 名が上がるチャンスを活かしたあと、ファンと成り立っていたらよいことと思います。

 

勉強方法というのは、皆、完成作品を勉強するのですが、上達は、そのプロセスを勉強しなければいけないのですから、本当はデビュー前のもので学ぶのが理想です。

 

 布施明さんのデビュー曲「霧の摩周湖」です。体を使って、強いインパクトを出しています。その当時は、そういう人しか認められなかったのです。

今は、この先にあるようなかたちをとっていきます。歌の形に近いと認められる傾向があります。

 

 

 世の中にはあんな人がなぜ出ているのだろうと思う人もいますが、そこに出してもらえることが偉い。プロというのは、声のかかることに価値があります。

 歌い手も大きく変わっていきます。日本の場合はデビューしたあとにおかしくなっていたのが、今やデビューに向けておかしくなってきています。大ヒットしたのち、当然のことながら狙う層が違ってきます。それが、歌の死かどうかはわかりませんが、変わっていきます。

 

ここまで押し上げてくれた人はマイナーな層ですから、とても強いインパクトが必要です。そこからエンターテイナーの部分をもっていきます。踊りや表情が入って、歌もやさしくなってきます。マドンナなどもアレンジや歌い方がショービジネス、エンターテイメントに変わってきました。日本でもそうなるのはそれでよいのです。売れるようにするのがプロですから。 

今度はヒット作と比べられてしまいます。大ヒットが出た人はそこそこ売れたでは失敗になってしまいます。その辺は、客商売の難しいところでしょう。

 

 

 スポーツの世界でも、金メダルをとってしまったら、優勝しなければ何をいわれるかわかりません。あてにされていなければ、入賞しただけですごいと思われます。

ヴォーカルもエンターテイナーとしてやっていくわけですからよいのですが、大切なのはここの時点で何を得たかということです。

 

 結局、メジャーはメジャーな層に売らなければいけないのですから、理解しやすくしなければいけません。マイナーなうちはインパクトを強くしなくてはいけないから、個性が前面に出てきます。

ロックやパンクはその個性がそのまま、新しいものをつくって古いものを壊していきます。ただ、安易に受け売りも多いので、壊すというより下ろします。メジャーにするための個性を伸ばすので、問題が声もこういうものにそぐうかになります。立派な音響も使い、フォローできます。

 

 昔はプロとアマの違いは楽器の性能の違いでもありました。そこで勝負がついたとはいいませんが、何かを与えるわけですから、それで何かをつくり出さなければいけません。今は最初から整っています。こういうのをプロだと思うのでしょうが、このレベルはアメリカあたりにいくと何千人もいるでしょう。アジアをまわるときも私はその辺を見ます。

 

 

 でも、日本では形が先についています。そのときにどのくらい気持ちを入れているかです。日本も昔であればここにあたるのは劇団がそんな感じでした。

④クラスは、トレーナーと同じ感覚レベルで進めていきますから、正しく気づけないと何にもなりません。曲を聞いてすぐに繰り返しながら創り出す。1.5秒聞いて1秒の中で創造しないと次の音がそこに入ります。そこでの作品で成り立ちます。入っていない人は、場を壊してしまいます。それは音の理解力があるということではなくて、その中の何をとるかという部分での内的に厳しい選択のレベルでしょう。 

 

その感覚が、最近は磨かれていないので、どうしても演奏から入れざるをえません。入れなくてはいけないことが多すぎます。

 何が違ってきているかというと学び方の部分がどこかしら忘れられてきているのではないかと思います。体力やパワーは落ちました。

 

どこの学校でも成り立たなくなってきているようです。ラジオ体操をやっていたら何か出てきます。そんな程度でもよいと思いますが、健康を維持することに出てくるなら癒しでしょう。設備や教え方は、毎年、恵まれてきていると思うのです。しかし、大学でも立派な図書館があってもほとんどの人はまともに使わないで卒業します。

 

 

 レッスンでやっていることは自分でやっているつもりになっているだけで、これまでやってきたことは全部否定されるようなことでしょう。今までやってきたことは何もならなかったとわかるのにそれだけかかります。それの積み重ねです。

 そのあと、気づくまでの間が短くなってきます。そこまでが何もならないことがわかったり、土俵が違うことがわかります。そうやって普通の人がわからないところがわかっていたら、自分の身についてきます。それは獲得しようと思ってできることではないでしょう。

 

 こういう芸術的なものの価値はわかるということなら、それを認められる誰もが皆わかることでできないことなのです。何が必要なのかというとわからないこと、それでできてしまうことが必要でしょう。ことばで語れたら、そのやりとりでできたように思うが、そうではありません。

 

 一番入れなければいけないことは、今のレッスンの組み立てがそうなっているところです。その大半は、他のところで補いたいのですが、平均して聞けていません。自分の好きな曲を好きに聞いて、それで学べるのならもう学べていますね。

 以前に気づけないことに気づいたときに、学べなかったと思ったでしょう。ここで学ばないと同じことになってしまいます。

 

 

 ここに入ったことやレッスンを受けることが学ぶこととは違います。音の中に全ての正解があります。

 先生が見本を見せてくれてそれに合わせるのがよいのではありません。

 ここは世界一の見本を連続してひとつのクラスの中に入れています。それがすぐに受け入れられるとは思いませんが、そこに入っているものがいずれ出てくるような感覚をプロセスで養成しておかないとだめです。

 

 それで接点をつけなければいけません。理屈ばかりやっていてもしかたありません。最後の5分間で声にします。いくら息や体をやってもこれは時間のかかることです。感覚が開かれなくてはなりません。

 研究所ではできるだけ、ここでしかできないことをやる、それはやはり声の感覚を知ることからスタートするべきだと思います。それが表現をとるというプロセスをしっかりと見ていきます。

 

 わかる人にとってみれば、自分の気に入った一人の歌い手、それにすべてのノウハウがあります。ただ、その歌い手自体のところにその基本が入っていなければ、基本は身につきません。より悪くなっていきます。

 

 

 歌から学ぶのが難しいのは、応用されているため多くはその人の基本のところからはそれているからです。日本人の場合は特にそれています。こうやって聞いてみると、どこでそれたかがわかるでしょう。

 自分がそれを歌って比べてみても、客観的な比較ができないから、自分がうまいとか下手だとか思っていてもよいのですが、軸が合わないと無意味です。

 

そうしたら自分がそうなったときの状態、彼らのような部分の何かがあったときにそれでも足りない要素は何かというところを見ていくようにしなければ、学べません。それを目的にしていても、半分くらい達成できればよい方です。目標を高くもつというのはそのためです。

 

 単純なところに下ろしてきます。どうして音楽を最初にかけるかというと、皆を彼らのテンションにするしかないからです。

 合宿なども上のクラスの2、3人いるだけで、テンションが上がります。そこのテンションが高い状態で感覚と体がしぜんに動くことを何かしら誰かが体でうつしていくことができます。そのプロセスが大切で、そのまま本当は音楽でうつせればよいのですが、それもとり込むベースが入っていないと無理です。

 

 

 日本人の場合はテンションと耳が対応できていません。耳が体に結びついていません。音楽の中で自分が楽しむというよりは、自分が音楽で楽しまなければいけないというようなかたちで動かしているような世代になってきました。しかし、与えられることから自分がどれだけ主体的に取り入れ発せれられるかということをやっていかなければいけません。

 研究所を利用し、標準的に与えているものに対して自分がその時間を何に使えているかと見ないといけません。

 

 私もいろいろなところに行っています。ここに出るより自分一人でやった方がよいと思っても、それで一回は勝てるのですが、何年も通してみると、大多数の人はこういう場に続けて出ている方がすぐれます。

 やれる人が残って、自分を見ているところでは、自分の気持ちに甘えがなくなります。

 初めての人の前ではステージが問われるが、ここでは音声が問われます。その状態で聞かなければだめだし、その状態でやるのが舞台です。そこには徐々に慣れてください。

 

 一番大切なのは、イメージや感覚、声をどう動かすのかを、実際に動かしたものをたくさん見ることです。出来上がりの絵を見るのも大切ですが、すぐれた絵描きになりたいのであれば、すぐれた絵描きの習作のときの状態を見ます。美術展でも掲示してあります。そうやってその画家がどう育っていったのかというプロセスを見ます。そこでも違いと才能が出てしまうのです。

 

 

 よくデビュー作や初めて描いた作品が将来を明示しているといいますが、そこまでの感覚というのが元にあります。皆さんであればここで初めて歌ったものがそうかもしれません。それが全然だめなのなら大化けするしかありません。そのためには主体的に取り組むしかありません。

 

 その辺のことが他の人と同じように行われているとまずいでしょう。最初は月に8時間くらい、決まった日にとにかく無理に皆が合わせていました。今は、いつきてもレッスンがあるのに充分に使われていません。本当の問題はそこにあり、発声や音程や歌の問題ではありません。人生における必要度と優先度が全てなのです。

 

 そこの感覚が入っていないから正されません。頭で正されても正されないです。

 それはボールを頭で考えて打つようなものです。それを体に入れるには正しいイメージを体に入れるしかありません。その正しいイメージというのは、それをすぐれてやれた人たちの中にすべてあります。

 

 

 合宿の目標も、私の日常のテンションが皆さんにとっては2日ももたない。皆さんにとっては背伸びして大変だったというのが、これくらい簡単だったという感覚にならないと物事一つ、できません。それを音の中でやっていくことを考えてください。

 それとともに他の人がどういう感覚で間違っているのかをみましょう。ここで正解はほとんど出てきませんから、それをしっかりと見ていけばよいと思います。

 

 そこのテンションになり、感覚になりきったときに、奇跡が起きるときがあります。このなかでは、どんなに整えてみてもそうするほどに、表現ではなくなってしまいます。何か知らないまま、こうなのかと思いもしないのにできてしまうときがあって、これが真の上達ということです。

 それを起こすためのトレーニングやレッスンなのです。

 

 知識の世界と違います。数ヵ月でどこまで上達するというものではないし、半年たってどこまで上達するのかという質問も意味がありません。それを起こすためにどうするかです。そのために他の語学をやると英語が聞きやすくなるとか、早い英語を聞いていくと会話が楽に聞けるようになるとか、そういう感覚の相違を利用していきます。

 

 

 最高の感覚は何かというと最高の作品をつくっている人たちがもっているものです。だからトレーナーが歌うよりはよほど世界の一流のステージをみにいく方がよい。トレーナーは声の技術はもっている。だから、声の技術だけが不足している人には有効です。

 

しかし、世の中で歌手として成功していない人に、やれていないことは学べません。今やそちらの方が学ばなくてはいけない大きなものなのです☆☆。超一流の人がきたとしても、一流のものを題材に使っていたら学べます。あなた方が主体的であれば取り込める材料は無限にあるのです。レッスンとしてはそれが大切なことだと思います。 

 

私や先生の能力を限界としてしまうと、あなた方がそれ以上に伸びなくなります。もっと生の声を、どうして声がしっかりと出てくるのかというのを感じないとだめです。芸事は全部そうでしょう。

月に何回も来る人よりも、稽古にもつけてもらえない人の方が伸びます。それはなぜかというとそうでない部分を見ているからです。あとは自分で学びます。だから取り入れることが大切です。

 

足りない部分を自分で補えという場合が多いです。最初にカンツォーネシャンソンをいっぱい使うのは、声やフレーズの中の完成度がわかりやすいからです。自分でうつし変えるときに、これを見本にするのではなく、これのベースにあるべきもの、あるいは他の歌い手のベースにあるべきもの、これを使おうとしたときにこうなるだろうというものを踏まえるとよいです。

 

 

 私は個人レッスンではほとんど注意しないです。それはどうしてかというと皆プロセスが違うからです。そこでは、苦労なしではいきません。どんな人に聞いても苦労しないでできた人はいません。その苦労をとってはいけません。そのときに心が宿るのでしょうから、その器がそのまま大きくなっていくしかありません。

 

 今の力ではないもっと大きく働く力を求めています。そのときにより体を使ってみたとか、より気持ちを使いたいとなると必ずバランスが崩れるわけです。喉を痛めることもあります。しかし結果として痛めるのを知っていきながら、やることです。

均衡に丸くなっていくと何もなくなるからです。クラシックの人たちが教えやすいのは、音程がとれるレベルにリズムもとれます。皆さんの場合は全然バラバラでしょう。いろいろなタイプがあります。

 

 アンバランスなのです。だからこそ、どこが先に伸びてもよいと思います。まず伸びるところを伸ばさないと何も出てきません。小さい円になってしまいます。

 だからヴォイストレーナーについてはいけないとか、学校に行くからおかしくなってしまうとかいわれるのでしょう。それは日本の場合は当たっていると思います。他人依存にしてしまう。

トレーナーがよいというのがよいと思ってしまいます。自分が違うと思ってもそのことに自信がもてません。それは正しいことは正しいのですが、自分の実感のないところに正しいものは出てきません。その実感が宴会パーティーでのれる楽しさというので、これは舞台とは全然違います。

 

 まわりの全部が敵であっても、それを自分が歌やしゃべりで説得してファンにしていかなければいけません。それだけの大きなものに対して声を使うのです。多くの人はことばからやらないと、声に心が入りません。

 

 

 「愛の」ということばでまわしてみてください。こういう練習は自分でもできると思うのです。こういう場でやらなければいけないのは、最大にテンションを高め伝えることです。その状態では、どこかで力が入っていますね。

 もうひとつは音の感覚です。日本人は歌いなさいというと「アイノ」、これは「愛の」ということばを「タララ」というメロディにして歌にしていく。そのために点で固定されてしまいます。それをできるだけ崩すことです。それが線としての音色やリズムの部分です。

 

 声の部分より息の部分をしっかりとすることは、体の部分です。そこが奏でていく、メロディになるまえの音楽をしっかりと聞くことです。

 ことばでも「ヤヤヤ」といっているのが、音楽になっている。

ことばを聞いてみたら歌の練習をしていると思えるのがよいのです。「ラララララ」と歌らしいもの声をやっているのは、本当の歌から離れていくのです。

 歌もどきや歌らしいものを試みるのは無駄なことです。歌は素直かつしぜんなところに現れます。そういうところで自分で考えてみます。

 

 

 一番基本的な練習が、基準や息を「ハイ」と吐いてみて、そこで「ハイ」と声にする。それを「愛の」変えてみて、その中で条件を変えないようにする。そのためには何が必要かというと、それだけの体です。テンションを高めないと、「愛の」となってしまう。これなら片手間でできてしまうことです。

 

でも一所懸命やろうとすると「愛の」とごちゃごちゃになってしまいます。そうしたらこの枠がとれたとか、枠と関係ないところに飛んでしまったとか判断して、是正していかなければいけません。

 

 できるだけあなた方の実感の中で結びついていくこと、たとえ、間違っているといわれても、私はこれなんだといって、そのことを5年くらい続けないと説得力が出てこないと思います。しかし、一方で一人よがりにならず自分の中で正されるような感覚をつけておくことです。それがないと、できなくなってしまいます。それはよくないことで、おもしろくないと思います。

 

 

 「ラシド」と捉えるのではなく、「ラシド」の中で捉えるわけです。これを聞いたら「愛の」とひとつで捉えることです。

 体の中に感覚があったら「愛の」といっているところで「愛の」はいえるはずです。ことばでいってからメロディをつけてみてください。そのときに大切なのは完結してしまわないことです。インパクトを出したあと、歌につながるのはそこです。

 

 「愛のー」、ここで何かのイメージがあるから伸びていく、それができなくても感覚的にもっていることです。

 そこで完成度を問うていくのですが、それは次にひっぱっていくためなのです。歌はその連続です。ことばでも同じです。そこを聞いたら次のイメージをひっぱってくることです。

 「愛の」、えっ「愛が何」「甘い」、「甘い何」、「名残」、「名残がどうしたの」というようにしないと会話になっていきません。やってみましょう。

 

 

 皆さんの考えている上達と私の考えている上達が全然違うもののようであるから、こういう説明をしました。皆さんの考えている上達は1ヵ月2ヵ月とあがっていくものらしいのですが、そういうことはこういう世界ではありえないことです。基本のトレーニングをしたら、それだけ器が大きくなります。地力がつきます。

 上達は、形のまとまりとして捉えるのだから大きくなったら、上達にみえません。そうなった上で自由度が広がります。それが大切なのです。その自由度の中でベストを選択できる感性があれば舞台に立てるということです。

 

 だから声が大きく出せるとか音楽をいろいろと知っていても、歌ってみたらだめだというのは、この辺で違いを選択してしまうからです。選択自体ができないという場合もあります。

 レッスンというのはそれでよい。皆さんに感情表現で「愛の」というのを、気持ちを込めていいなさいといったら声がひっこみますね。マイクをつけてみたらそれなりに伝わるし、大きな声でいったら伝わらなくなります。そのときにどちらをとるかということです。

 

 ここでは、一ヶ所でもでもよいから後で伸びるところをとれといっています。トレーニングは必要悪ですから、絶対にいびつな形になります。それが自分の中でふっと自由にここに行けたりするというようなひとつの確かさ、安定性がなければ自由に動かせないのだから、その間、歌がメチャクチャになってしまうのはあたりまえです。

 

 

 でも、お客さんから見てみたら、その中での統一性というので、うまさというのは問われます。声を出したがためにひびきが壊れたとか音程がはずれたとかいうことになると認められません。その人の本来の仕事のところとは別のところで判断されてしまうので、日本のプロはどんどんまとめていく方向になるのです。そのまとめていくことと突き放していくことの差は、結局、身体のなかにある実感の基準なのです。

 

 他人の実感でトレーニングしないことです。業界ではトレーナーのところに行かせたらだめになるといわれていました。正にそうです。それは心身と感性を殺してしまうからです。口先や口内の加工で全部やって技術とか発声とかいっています。それがどまんなかならよいのですが、変なところでやっています。そうなってしまうとその人のなかの感覚が働かなくなってしまうし、体もつかないから創造できません。コピーになってしまいます。

 

 もともと創造すること、日本のなかでは部分的にしかなされていません。音全体をトータル的につかんでコントロールして、というような部分もありません。

 一番悪いのは場です。中途半端にここから出て、歌うようになると、多くの人はおかしな方向にそれてしまいます。それが今の時代に合っていたらよいのですが古くなる。ベースをしっかりと踏んでいないと、上達の方にいきません。

 

 歌謡曲やポップスはその年の流行があります。歌い手も使い捨てていくものといってしまえばそれだけのものだからです。日本で歌にそれ以上の必要性をもたせようとしている人はあまりいません。もちろん、歌詞や曲によってもたせている人はたくさんいます。

 

 

 ここのレッスンで一番大切なのは聞いて感じることです。さまざまなアーティストを見ることの方が大切です。あとは体をつくることです。確かに何年もやっていると全然、違ってくるのですが、そこでは、長さでなく勉強のプロセスの質の違いとなるのです。それには自分が軸になっているかということです。

 それをどこに委ねてしまうから狂ってくるのです。

 

その軸は、②や③クラスの段階でいうと決して正しくないです。他のところにいくともっとゆがんでしまいます。ステージやレッスンを受けてゆがんでしまいます。ここのレッスンでもそうなっている人もいると思うし、その傾向の方が多いかもしれません。ここはそれを直視させる。他のところは見させない、いや、トレーナーも見えていない。

 

 いろいろな可能性が伸びていくのはよいのですが、何が正すかということです。自分の内側にある感覚、その感覚がしっかりとできないうちはよりすぐれたものをたくさん聞くしかありません。いつでもそうです。

 

 

 私はいつもプロセスを見ています。他の国に行ってはデビュー前までのところを見ています。デビューしてからはいろいろなごまかしも必要です。プロですから商業主義にも入っていきます。

 一方、そういうものを離れている人のものを聞くと、今度は技術が伴いません。心や音は伴っているのですが、音という中での完成度がありません。

 

 時間のなかでどれだけ磨くかということでしょう。画家が100センチ四方のキャンパスのなかに何を入れるかを考えるわけではないけれど、全体としてみたら構図として完璧になる。そういう一つの法則性、人間の感性が磨き極まったところに出てくる秩序が感じられるかということです。それによって、国や時代を超えていくかということです。 日本の歌のように永遠を求めなければ、そういう意味もないのですが、どうせなら永遠に残るものを求めましょう。その場で消えてしまう歌もあります。

 

 大学でも最初は100冊しか本がなかった頃は、皆がその100冊に食らいつくように読んでいたのが、なぜか10万冊になったら誰も図書館には行かない、それはどちらが悪いのでしょう。接点をつけられない教育と接点をつけようと思ったらつくのに行かない学生と、両方悪いのです。

 

 

研究所でもその辺を間違えてしまうと同じことが起きています。こういうことは、どこでも起きてくるし、特に日本の場合は起きやすいです。肩書きとかジャンルに頼ってしまい、自分の実感を委ねてしまうからです。ステージに出ているから何かできているつもりになってしまったり、歌がこなせたら、それで成功したつもり、そんなこととは本当の作品の評価というのは全然違うのです。

 

 この国では認められていくことさえ、疑わなければいけません。テレビに出てください、本を書いてください、これもあやしい、これで自分がだめになるリスクや災いの方が大きいと思わなければいけません。そうでないところをしっかりともっていかないと、まわりがだめにしていく国です。

 お金で買えるだけの肩書きはたくさんあります。ただなら使わせてくれるものもやたらとある。多くの人はそういうものがついているかどうかで人や作品を判別していきます。だから、それを集めて示す人もいます。

 

 そういうことは変わっていないし、あなた方の世代でも変わらないどころかもっと強くなっているかもしれません。学校が学校の形をとってしまったらだめになってしまったのと同じです。それは壊さないとしかたありません。

 そこから考え変えていかないと、結局一生貫くものになりません。中途半端にやってしまうともったいないです。

 

 

 漫画読んでラジオ体操をやっているくらいで何かができる気になっていたらいけません。漫画は悪くありません。漫画家が勉強して一所懸命表現して生きているのが伝わります。昔であったら小説を書いていた人が漫画家にいったのでしょうし、そういうパワーは次の時代にはどこにいくのかわかりません。当然お金の動くところにいくでしょう。

 

 ここのレッスンも7、8割が悪い意味で漫画を読んでラジオ体操をやっていたら何かをできていくようになっている。しかし、そうではなくて、何かをつくるときに演奏や楽器の人は必ずものにしていくもの、そういう人たちがデビューの前までのところで、どういう感情やプロセスを音楽や歌に委ねていったのかを勉強します。

行き詰ったら歴史か世界に聞くことです。自分をしっかりと生きた人の伝記を読んでみるとか、その国の歴史を見ます。そういうことを繰り返していけば、そういう人が少ないから道は開かれていく。

 

 間違うのは鈍い人、他人のなかの価値観に自分を合わせていくような人、これはしかたありません。どんなにすぐれようとしても、そのまわりにいる人が鈍いと、その情報量が多いからと大多数の人は影響されます。

 

 

 ここでもトレーナーが一言いうことの方が練習にも将来にも役立ち身につくはずなのに、実際の行動はそこのレベルで起きません。同じようにできない人のことばで動きます。それがよりよく起きるのであれば、その人もそうなっていくのです。まわりからたくさん入ってくる情報のなかで人は動いていってしまいます。そこをどこかで区分けをしていかないと、自分が伸びなくなってしまいます。自分の知らないところで、自分を正すべき感性がにごってしまいます。

 

 そういうふうに見えてきます。ここで会って、何年経って、ただの人になるのもよいのですが、その人にあったよいものが全部なくなってしまうのは、もったいないことです。そこは難しいのですが、そういうふうになる毎日を選んだのだからしかたありません。

 

表現していく世界は何かを捨て失い破壊していく世界だから、必ずしも幸せだと思いません。それはよりすぐれたものがつくれて初めて評価される。それでなければ単なる破壊者です。そういうことでいうと多くの日本人はやはり人並みでよいのかなと思います。

 結局、何一つ人に押しつけられません。ただ不要なものを切っていかないと感覚は変わっていかないし、何の世界でもなかなかできていきません。その時代によっては不運なのがよい場合もあります。

 

 

 とにかく器を大きくすることです。1フレーズと思っていたもののなかに普通の人が1曲で感じられるもの以上のものが感じられるようになれば違ってきます。それだけ器が大きくなるというわけです。時間というのはそういうものなのです。

 今の皆さんの時間は、質と関係のないところで区切られていきます。何時に始まって何時に終わる、だから文句が多いのです。私が一人でやっていたころは夜8時に始まって12時半に終わる。終電に乗らず公園に泊まるような人が残ります。そういうときは人が育ちます。どんどんとそういう部分が失われていく。 

 

両方のよいところがとれればよいのですが、なかなか難しいです。逆にいうとそれでダラダラなってしまったり、よい人材がやめてしまうこともあります。

 こういう世界では、公の時間はしっかりと機能させなければいけません。そういうのが機能していないから情けない業界として、変わりません。出版、マスコミ、音楽業界ほどルーズに人間たるものから離れてしまった人が生きている場所はありません。

 

多くの人はすぐれた人がそういうところにいくと思っているが、そうではありません。他のところでまともに生きられない人、朝起きれない人や約束をキャンセルするにも電話一本入れることのできない人が堂々と食っていける業界なのです。それは皆さんにもおすすめできません。でも、だから人間らしくもあるのです。

 

 

 

 

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【「ブルージーンと皮ジャンパー】

 

 ねらいとしては、フランス語、わけのわからない音をとって出して、音楽をその場でつくっていきます。メロディやことばがあらかじめ与えられていることを制限します。ことばはことば、メロディはメロディのイメージが分かれて、それを何とかくっつけてやっているのが日本の歌ですが、そうではなく、メロディのイメージ、ことばのイメージを混ぜて、ひとつのイメージのところから自分が声を握っていて動かすことで、新しい歌をつくっていきます。☆ 

 

音程が狂っても、メロディやことばが変わっても新たなものを生み出すのです。 

ことばは限定します。「疲れて」というと「疲れて」になってしまいますが、本当は「疲れて」のまえにもいろいろなイメージがあります。

 

それをことばから入るにも、「疲れて だけど何となく心が」と最初から「心」はこうであって「ブルー」はこうであってとそれを当てはめていくのではなく、「疲れて」にもいろいろなイメージがあります。そのなかで自分が発想した自分の奥にあるイメージをもってきて、その結果「疲れて」よりも「くたばる」というようにことばが出るのであれば、それをつくっていけばよいのです。メロディも同じです。

 

 

 自分のなかで合わない、それをやりながら、そこでのちょっとした呼吸やリズム、リズムは変えます。そのくらいの自由さをメロディやことばにも与えていくのです。日本の歌はことばやメロディをしっかりとやるといって、リズムはあいまいに形だけ動かしています。本当は全部自由でなければいけません。

 そういうのを分けているのは練習の方法としてあるのであって、出てきたものはひとつでなければいけません。心にあるものもひとつであって、その間のプロセスを練習するときに、手段にすぎないもので形づくらないことです。

 

 ゼロからつくって、それを動かして最終的に譜面に書いてみたら音楽という形にしているのです。それをコピーしてしまうのでは、クリエイティブではありません。

 他で勉強してきた人ほど、ことばの上っつらのコピー、たとえば「イエス」といっているところの感情表現や「ラブ」といっているところの心の表現ではなく、発音や音階をどこかから、移してしまいます。それはそれで勉強としては必要です。でも本当は感覚が正すというのはそこで正してはいけません。

 

 難しいことですが、わけのわからないものを流している中で、出てきたものは自分なのです。そこで鈍いのも自分の感性の鈍いところだから、直した方がよい。そこでひらめくものがあれば自分に合っていたり発見したりつくっていくレッスンとなります。本当はそれだけをやりたいのです。それには材料がもう少し練られたり、自分のなかで取り出す選別能力が厳しくないと難しいです。それを支える技術も必要になります。そんなものをやっていると思っています。

 

 

 

 

 

 

 

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 練習は頭で考えるから、体や心が動かないのはしかたがないのですが、できるだけ早く、それが想像して取り出せるところの感覚や要素のところにもっていき、勝負する。考えないでやれといったら、感覚でやるしかない。その感覚が磨かれていたらもう歌えている。それが磨かれていないからレッスンをするのです。そこがなるだけしぜんに出るために勉強していきます。

 

 でも自分の思い違いしてしまうようなものに関しては、考えたり書いてみたりしてみます。レッスンでは1、2フレーズしかやらなかったとしても、自分以外の誰かがいるところでしっかりと気づくこと、これは大切なことです。自分だけのトレーニングや先生とマンツーマンでやるのは、一歩間違えると危ないやり方です。場がないと、思い込みのなかでいってしまいます。

 

 基準のとり方が甘いと自分がわけがわからなくなってしまうから、いつまでも自信がもてなくなる。自分で確信したものでも何度も放り出さなければいけない。武道でもスポーツでも、これで絶対によいと思ってもそこで、限界までくるとだめになる。そこで、フォームを変えてみる。フォームをつくっていくのが目的ではなく、そのフォームをつくっていくことを意識しないところでフォームが動くことが目的です。それぞれの体や感覚や、自分の気性や歌の世界によって全部違ってきます。方法論の発達なくして上達もないのです。

 

 

 少なくとも敏感になっていくこと、それが自分の知らない自分をしっかりと知っていくことです。それも何かを出してもらわないと、その人の顔を見てわかるものではない。日常のものではなく、テンションのずっと高い世界においてのことです。

 

 プロというのは10年20年、その世界に住み着いているから曲もたくさん知って、声もよくなるのです。しかし、創作活動、イマジネーションを使いアイディアを出し、何かをつくり上げることをやっているかは頭から問われることです。それがあれば、声がなくても曲が書けなくてもステージでできてしまいます。 

ステージの創造性というのはあります。それはトータルの世界です。ここでできるのは、そういうものは時代の風向きで変わってしまうから、自分で実感がもてるということで、声、それも基本的にいうと感覚のことなのです☆ 。

 

 

 自分のことを本気でやり始めたら、こういう歌を聞いている時間も練習時間もない。そういうものが固まらないうちにたくさんのものを入れて、いろいろな世界と接する。あとでその人がどの分野に行くにしても、固めたものをほぐす努力を怠らないこと。歌に限らず映画もオーケストラも演劇も学べばよいです。学ぶのは楽しいことです。

 

 マイルス・デイビスでも「なぜ他の人はクラシックの譜面を見ないのか」といっています。それだけ彼は、クラシックを研究している。そういうのを聞かなくてもジャズはやれるし、充分です。しかし、いろいろなアイディアを出して確信していくには、それだけより深い世界でよいもの、異なるものを入れる必要があるのです。

 

 皆さんもそういう窓口としてここを使って欲しい。窓の開け方やとり方、この曲で興味をもてば開いていけばよいし、のぞいてみるのもよい。それでその時期合わない場合も縁がない場合もありますが、それぞれの人で違ってきます。

 ひとつのことを続けてやるには、たくさんのことが入りこんできます。ひとつのこと以外を排斥するということではないのです。そのひとつのことが深まっていくから他のことに時間がなくなるということです。

 

 

 私もご飯をゆっくり食べたいし眠りたい。でももっともっとおもしろいことややりたいことをやっていたら、そんなことは気にならない。とてもおもしろくなるものは、とっつきにくいし、めんどうです。しかし自分のやっていることをおもしろくしていくのが才能です。

 

 それは歌がうまい下手とはまた別です。そこで自分のものが出てこない、イマジネーションが喚起されない、歴史や世界のことが実感できない、そんなつまらないことはないのです。そうしたら人の作品を見ていた方がよほどおもしろい。それをどこかで逆転させることです。

 

いつも少し背伸びをしてみて、自分にはわからないけれどわかっている奴にはわかるのだというものにたくさん接していくことです。背伸びしたって、そんなに大きく違わないのです。そちらの方が心地よくなってきたら、いい加減なことや中途半端なことはしなくなります。

 

 

 歌をいくらていねいに歌いなさいといわれても、何度同じ注意を何年もされてもその人のなかで、ていねいというのが本当の意味でわかっていないから、変わりません。

 ひとつのことでどれだけ動かせるのか、ひとつのことをやるだけでどれだけお客さんに残るイメージが違うのか、そういうことを叩き込まれていないから、いわれて少しはていねいに歌うのに、また雑になって、同じ注意をされる。それが限界にみえたら誰もいわなくなります。

 

 広く興味をもって勉強してください。そういうのが結果として歌の上達になってきます。私は声のことだけをやりたいのですが、それをやるためにもっと大切なことがたくさんあります。だからといって精神論ばかりやっていてもしかたないので声のことをやります。いろいろなレッスンから出たところで何を学ぶかをやってください。お疲れさまでした。

 

 

 

 

 

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【「ファド」】

 

 根本的に何をするのかというと、音声で表現するための舞台の基本をやるのです。これは外から見た方がわかりやすい。ただ外からみるところを、業界のような狭いところを念頭において、外から見てしまうと、物まねと同じになってしまいます。

 漫才や落語の世界でも他人の新作ネタを取り上げてやっていける人はいません。歌い手には、それに似たようなことをやりたがる人が多いのです。

 

 一流になった人はある時期、名人の作品や古典を徹底して入れています。そこでことばが違ったり噺の舞台設計が違ったとしても、根本的に流れるものは同じです。たとえば人を笑いにもってこられる要素や間のとり方は変わらない。そういう感覚の部分を本当の基本というわけです。

 本来、歌は自明の理としてからスタートするものが、理が壊れている場合が多くて、皆さんのなかだけで閉じていって上達しなくなってしまいます。

 

 具体的にいうと、④クラスは、平均で4、5年以上続けている人たちです。研究所でそこまでになる人は100人に1人くらいです。④のクラスの曲を30分やってその後に次の歌を30分やりました。下のクラスはこの曲のレッスンを3時間続けてやっても半分もできていない。④クラスは30分で一通り終わっています。 レッスンをやったあとに、自分の好きなところを好きなように歌ってくださいといって、最後に歌って終わります。

 

 

 細かい動かし方がまだうまく入っていない。それをまねるということではないのです。でも勉強するということは、よりすぐれているものがあったら、それを重視して、盗んでいく。ある意味で自己否定していかないと学べないのです。

 基本から応用します。歌は応用だからこちらでよい。勉強するときにこの基本のことをやらなければいけないということです。

 

 だからすぐれている作品をひとつ出すことを目的にします。歌のなかでも時代を動かしたような歌もあります。歌い手のなかの作品のなかでもよい悪いがあるし、1曲の歌のなかでもあります。

 これから勉強するにあたっては、動機そのものから歌という形をとるまでを客観視して自分を位置付けていくことだと思います。

 

 著名な画家になれないのは、この絵をコンクールに出したら、どのランクに評価されてどういう価値があるのかがわからないからです。それがなければ世に出られても、その先を問えない。しかし、好きに描くのでよいなら、今日からあなたも画家になれます。

 

 そういう部分のものは自分であって自分でない。歌にしろ絵にしろ、自分で楽しむための歌というよりは、出たものが人に対して何を与えるかというところから見ていかなければいけません。

 最近プロデュースを売りものにする学校が増えました。声のことをやっているトレーナーも随分といい加減になってきました。

 

 

 研究所も声のことだけをやっていきたかったのですが、ずいぶんと違ってきています。声、歌のことの部分、それから音響、レコーディングもずいぶん変わってきました。

 今の音響技術がなければ、ポップス自体が細かいところの動きやビブラートは拾い上げることができなかった。よさは伝わらなかったのをカバーしているというより、むしろうまく生かせるようになってきました。そのため、歌が小さくなり、声の音色がなくなり、発音不明瞭となり、くせ声、のど声の合成音が中心になったのは、私には心地よいことではありません。

 

 それからもう一つは演出法の発達があります。そういうところにおいて、声だけに閉じていては勝負ができません。業界でやっていく人は、何がプロたるに必要なのかをしっかりと分析すればよい。それからどこで通用するかという範囲をみる。

 

 もっと大切なのはやり続けて、それでどこまでもつかということです。ポピュラーだから1発ヒットでもよいと思うのです。昔なら紅白に一回出ていたら一生食いはぐれることはなかったのですが、今では事務所を追い出されてしまう。新しいものをつくる力が欠けてしまうからです。紅白でもCDでも昔の思い出曲が大半です。去年のアルバムのベストの中心は過去の編集アルバムです。今のものがつくられていないとおかしい。 

 

 

毎年デビューしていくものの、次の年になると10分の1も残りません。これで20、30年ももっている曲というのはやはり理由がある。クラシックでも、100年以上人気を保っているものは、大きなものがあるのです。 

何かを働きかけ、残そうと思った人、残せる力のある人がそうしていきます。ロドリゲスでも私のような人がいるから、少しは日本に残っていきます。次にまたそういう感覚のある、あるレベル以上の人がまた聞くし、そうでなくなるとなくなってしまいます。

 

 それは時代を超えたものを勉強しないとわかりません。そして、今の時代を生きていればよい。自分が感じるものをしっかりとものにしていけばよいのです。自分で感じることは自分でやるしかないのです。

 できることは、一段自分が高まって、すがすがしい自分のところでいる時間を長くすることです。今の時代はそれも難しいようです。

 

 

ここでも与えていることを400時間から200時間くらいにしてきている。教育が1000時間、自分の勉強が10000時間、それがプロの最低限の条件でしょう。人について勉強しなくても自分でやる方法もあります。しかし、声と歌はとても難しい。 

今度、台湾で学校とステージを見てきます。400時間かける3年、1200時間くらいが基礎教育として与えている。あたりまえではないかと思います。もちろん、時間数だけをやるのではない。 プロの世界は時間をやればなれる時代ではなくなってきています。

 

 昔の方が努力すれば選ばれていきました。長くやっていれば権威に代われたからです。カメラマンでもカメラ1台もつのも大変だった、そういう時代、師匠について使わせてもらうしかない。そして20年たてば、師匠の地位に変わることができた。仕事も人脈も受け継げたのです。 

ところが今は誰でもカメラを買えます。ハードの技術が高まり、価格は安くなった。皆さんの歳でも世の中に出れる。その代わり、力がある人が出てくればその人に変わられてしまう。10年20年たっても才能がなければ出られないし、いつでも若い人にとって変わられる。 

 

昔は出にくかったけれど、出たら安定しました。歌の場合はソフトですから尚さらそうです。しかし、今はチャンスは平等、そのせいもあって、自分よりすぐれた人から学びにくくなりました。

 だからやっている人を考えてみればよいのです。今、音楽プロデューサーが脚光を浴びているのは、そこで他の人を動かせるバランス、最終的に歌い手が一番もっていなければいけなかったところ、つまり、人に何かを与えるという表現のところでわかっているからです。

 

 

 伸びた人が1年目からとっていたような勉強の仕方を伝えていきたい。伸びていかない人はいつも音やことばを覚えるので精一杯です。慣れていない曲をやると、3時間かかってもイメージで曲が入らない。記憶力で歌詞を覚えても、大切なことは音楽を写してたというのではなく、何をつくるかということです。だから感覚を刺激しなければいけない。刺激した感覚のなかから選別を自分でする。その選別のレベルがどこで行われているかということです。

 

 何もやったことのない人なら、皆で集まって何かをつくったら、それだけで自分たちが感動する。でもそれは人が見ておもしろいものではない。そういう感覚があれば、こういうのでは人には見せられないとわかれば、そこでカットします。その厳しさを学ばなくてはなりません。ところが、歌においては全てOKで通っている、あまりに低い。 

どんな練習法をとってもよい。そこで半分、あるいは9割は誤りです。でも1割くらいはよいものがあるかもしれないからやり続ける。誰かがだめだといってやらないのは一番よくないから、やればよいのです。

 

 声が枯れる、だからといってトレーナーにやめさせられるのではなく、自分で気づいて変えないとだめです。こういわれたからやめるというよりは自分で一回思いきり出して、そういうところでつかまなければいけない。過保護にあれこれ禁止していくのはよいことではありません。

 声を出したり汗をかくことは練習ではなく、自己満足です。誰でもできることは本当の意味では価値のある練習ではないのです。それに気づいたらどこかでそれを一歩上げてみることが大切です。

 

 

 先のようなことがすぐにできるには、まず自分のなかにいろいろなものが入っていなければいけません。自分の展開や感覚、音も細かく読みます。ことばでもメロディでも歌ってみたあとで、これはどういうことかと聞いてもわからない人がいます。それは学び方が悪い。歌詞を覚えるにも、これは何の歌でどう表現し、これを聞く人はどこでそれを捉えられるのか、そういうことから感じていくと、心が起きる。

 

 一流の歌い手だからすごいと聞かないで、よいところと同じくらい悪いところを見つける。感動しなければ、なぜかと考える。すると日本の歌い手ともいろいろな比べ方ができます。

 プロはそういう感覚で、歌を構成し展開しています。プロデューサーや音楽をやれている人はすぐにわかります。つきはなしてみているからです。

 

 たとえば1番でこういう歌い方をしたら2番の同じところでもそれを意図するわけです。そうでない出方というのはよほど新鮮につくり出していなければやらない方がよい。判断基準としては楽譜の通りにやれば必ずしもよいわけではありません。歌の流れでも同じです。それが楽譜や作曲などの方法が入ってくるとややこしくなる。そういうときは自分の心、感覚で聞くのです。

 

 

 でもそれも信じられないうちはどうやって聞くかというと、すぐれた人の基準を移しかえる、わけのわからない音楽ばかりを聞かされ、それをどう解釈するかというときに、ロドリゲスのような人がいたら、この歌詞をどう聞くのか、彼女はこういうふうに歌っていたからこういうところでクレームを出すのではないか、そういうふうに置き換えるのです。

 

 ここでもわけのわからない歌を聞くときに、この方向でやっている歌い手を思い浮かべたり、そういう人から見てみたら何ていうかとかシミュレーションします。自分だけではわからないことを他人の感覚の使い方から学びます。

 

 ここではオーディションは8人で判断しました。そのなかで誰かがよいといったら、その人の世界ではよいというので、即、認めます。総合点や平均点よりも、たった一人の感情に深くインパクトを与えることが全てです。

 

 

 歌はほとんどの場合は誰もよいとはいわず、平均点の前後では何の意味もない。そういう基準で見ていけばよいのです。日本の場合は、学ぶというと必ず1+1=2にしていく。こういうものはマイナス×マイナスがプラスみたいな世界です。1+1=10や-10×-10=+100でなくてはいけません。 

彼は演出をやる人には見えません。けれど、それをどこかでつかんで何年もかけて解決してきたキャリアがあるから、道を歩いていたら普通の人のようでもステージに来るとパッとオーラが出る。

 

 どこの世界でもそうです。お笑いでも長くやれている人は皆、根は暗いでしょう。落語でも難しい顔して難しいことをいっている人が一番笑いをとっている。人間に対して価値をしっかりと与えつづけるような人たちがどういうスタンスをとっているかを見ていってください。

 

 自分で自分がわからなくなったときに、どこかで正すための底辺が必要です。もしジャズを歌わなければいけないとなったら、それこそどっぷりとつかってやらなければいけません。自分がわからない期間は、レッスンとの行き来をまめにして欲しいです。

 

 

 

 

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【レッスン】

 

 この前、バーバラ・ストライザンドとセリーヌ・ディオンのデュオのCDが出ました。最近こういう人たちが随分と共同作を出すようになってきました。けっこう力の差が目立ちます。バーバラの30代のアルバムで聞いてみると、その当時の方が今よりレベルが高かったのかもしれないという気がしてきます。 

 

前にアズナブールとダイアン・リーブスが共演していたものは、アズナブールがかすんでいました。デュオは苛酷な世界です。力の差がわかってしまうのです。

 

 向こうの歌い手はそれでもうまいし、いろいろな感覚を勉強するにはよいと思います。カラオケに行って、このくらいの曲でしたら自分で歌詞をつけられるでしょう。適当に歌って語尾処理まで感覚的にやり、ていねいに歌うのにはいいのではないかと思います。

ていねいに歌おうとすると、メロディに気がいってしまいます。しかし、私は音色やリズムを犠牲にしてまで、ことばやメロディを大切にというところではやっていません。最終的に全部まとまってくるのが大切です。今日はダイアナ・クラールでやります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

レッスン 17978字 1173

レッスン 1623

 

【学び方☆】

 

「ハイ アオイ」

 いろいろな問題を指摘しようと思います。私も5人くらいなら声を聞き分けられます。オーケストラでバイオリンを聞き分けるようなレベルからいえば簡単なことです。大勢のなかから自分の聞きたい声だけを聞くような能力、人間のなかには注意集中力があります。これをカクテルパーティ効果といいます。

 

 私が見ていることは、その人が何を出せているかということと、その人がどう修正をかけているかということです。この辺は作品と違うところです。どうごまかしているかというところは見なくてもよい。だから5、6年いる人で個人レッスンに来る人には、私は一言もいわないでレッスンが終わります。

 

 レッスンというのは先生が細かくアドバイスするみたいに思われていますが、違います。どうやって本人にそのことを気づかせるかということです。先生がいくら気づいてもあなたのものにはなりません。できるだけいわないで、できるだけ本人が気づくような材料をどうメニューに設定するかが難しいのです。

 

 

 気づかないことには自分が変わりません。自分が変わらなくてよいというのならそのままです。今の業界では、こういう人は難しくなってきています。ヴォーカルや役者の力というのがあります。これは声、体の部分をうまく声に出せていれば、それが機材で拡大できます。昔は音響技術では吸い上げられませんでした。今は細かいところのちょっとした感覚が出せるように技術が発展しています。しかし、そのために早く小さなところでの勝負に入ってしまいます。ここからどうやっていくのかが大きな問題です。

 

 もうひとつはステージ面なりビジュアル面なり、見せ場のところがあります。ここが複雑になっています。だから求められる感覚も表向きわかりやすく舞台らしくみえるものとなりつつあります。

 ライブで歌えている人が、レコーディングに入ったらほとんどダメで、慣れるのにプロでも時間がかかります。感覚が違っているからです。

 

声がないのにうまいと評価されていた人の方が、音響をうまく使っています。ここ5年くらいでやり方が見せ方から違ってきました。見せになってくるとビジュアルから照明から全部入って、トータルコーディネート力になってきます。一人でできない。出し方より見せ方が問われるのは、本当は不幸なことです。

 

 

 カラオケがうまくなるためにこういうところにきているわけではないでしょう。表現というのは働きかけるものであるかぎり、人の心を捉えたり動かしたり、逆に嫌われてもよい。ことを起こす、そういう意味で何かしらその人の個性なりオリジナリティを出す。焦点はそこに置いておかないと、たえずまわりに左右されて、わけがわからなくなる。だから基本があるのです。

 

 結局ノウハウやマニュアル、どこで習ったというのは、一個人のつきつめたパワーにはかなわない。個人が身につけるところの熱意やテンションがよほど高くなければ、それがどうであれ、そういう形をとってしまいます。

 ヴォイストレーニングをやろうとか歌をやろうという人は、部分的にしか見ていない場合が多い。そういう時期があってもよい。でも声をみるほど、そこで深くなってしまうから、そこから出ていけなくなってしまいます。

 歌を見れば見るほど、歌のなかで完結してくるし、舞台にならなくなってしまう。これはおかしな話です。対象をしっかりとおくべきです。必要なのは外に働きかけるための内なる基準です。ここを間違えてはいけません。

 

 歌も長年やっている人はいくらでもいます。長くやったら人よりやれるのはあたりまえです。それだけではやっていけない。何が違うのかというと、ある意味でやっていけるのは、プロが見てどうだという部分でしょう。プロが見て、プロはああでなければと思えるものが出ていないと難しいです。

 そういう分野からでないと基準をつけるのに難しい。だから基本は自分のところで深めていって、応用できるような準備としておきます。

 作品は当然、自分の個性やオリジナリティを出していくものです。応用し、反れていくのです。だからこのレベルを常に問うていきながら上げていくというのが難しいのです。

 

 

 いろいろな人が録音を送ってきたり活動報告してくれます。伸びていないどころか、悪くなっていく。日本の場合はステージを考えると、これから外れてしまう。基本がくずれていく場合が多いです。

 だから、もっとここの判断のレベルで問題をしっかりと直して欲しい。気づくところのレベルです。同じステージ、同じ歌を見て、自分なりに感想はあり、わかったと思っても、それができるまでのギャップというのはあります。

 だから感じること、感じるままに歌っているのは10代の歌い手です。それはそれで役割としてよいのですが、そこに気づきが入って練り上げていかないと本当に自分の表現の基準はできてきません。 まわりにいわれて左右されてしまいます。それは判断を他人に委ねているからです。判断するのが他だから難しい。その「他」をどうみるか、これは私が研究所でつくってきた大きなシステムです。

 

 

 たとえば、クリスマスライブに対してコメントを8人のトレーナーが書いています。これは8名の基準、毎日見ることをやってきている人の判断の例です。

 皆さんのキャリアというのは知りません。3年以上いる人は、ここで過去のもののピークのときやよかったときの作品を私は見ています。それから比べることはできます。

 これも自分でできそうでできないことです。歌の場合、難しいのは思い入れが入っている分、一人よがりになりがちです。自分で思いきり気持ちよく歌って、これは絶対に最高だと思う。

 

「どうして悪いんですか」といわれても、これは基準が違う。当人がその感覚のまま出てくるのが声なのだから、よくなれば、その感覚のところで狂っている。よほど厳しくなければ、たったひとつの音の扱い方や音程でもよくシャープしたりフラットしたりする。そうなっても何か気持ちよいと思ってしまうようないい加減なものがその人のなかにあり、それが正せていないのです。

 それは外に働きかけない。あるいは一回で終ってしまう。一曲聞いたらもうよいと思ってしまう。だから表現は、結果として論理的につけたり、計算してつけたものではなくとも、本当に磨かれていたら、それが何かしら力強く美しい形をとってきます。

 

 どんなに難しい曲でも楽譜で書ける。本当は書けないのですが、ある程度記号化できてしまう。そういうところから見るのも基本に戻る方法の一つです。

 歌というのはいつも、こうなったところにこうもってきたいか、ああもっていきたいかという選択を迫るものです☆。そこに法則を汲んで、次の何番目にこういきたいというところ、そんなことはお客さんは計算しませんが、どこかで期待している。だから、その期待以上のことをしたら感動する。そういうかけひきのなかで成り立っていくものです☆。だから、そこを勉強しなければいけないのです。それをやるために、感覚の安定性と声がしっかりと磨かれているところの安定性が必要です。

 

 

 今、いろいろなスクールができてきます。一見個人レッスンは理想的なようですが、これらの要素をわかっているトレーナーでないと可能性は閉じてしまいます。だいたい声にマニアックな人がやる。もちろん、どこもマニアックにならないと全部が中途半端でいってしまいますから、それは悪いことではない。

 たとえば、世界の基準があります。それから歴史的な部分からの基準、世界のいろいろな音楽の基準がある。教え方があって、プログラムがあって、そこでいろいろなタイプの人がいます。それを日本のなかで考えてもしかたない、実績をほとんど出せなかったのですから。世界で養成されてやっている人、やれた人ばかりがやっているところの芸事から見ます。

 

 客の動員はエンターテイメントの方から見られています。その上で、舞台としての評価、音楽性の評価がいく。それはポップスや大衆芸能の場合はあまり問われない。日本の場合は何人集まったかで問います。

 テーマパークなどもそうでしょう。商店街や学校でチケットを配って、ツアーなどにも組み、無理やりただでも動員させて、何万人達成と喜ぶような人の多い国です。皆が買い出すと、いきなりベストセラーとなる。実際、他の国からみて、一人ひとりの人間の歌唱力が、どの程度低いのかとか演技力がどの程度低いのか、わかっていない。反面、舞台衣裳や美術セットはすごい、見せ方については日本も見せられるようになってきた。というようなことなどはとてもシビアに外から見られている。

 

 日本のなかではそういう批判は本当にタブーです。ポピュラーの分野に比べたら演劇などはまだいろいろといえる人がいます。やれている人がよい。しかしやろうとする人はそれをしっかりと考えなければいけません。そこの地点にベースを置いておかないと出口がなくなってしまいます。

 海外に出ろとはいいません。そういうところの情報は深く役立つので、そういう窓を何とか開けておくことは、ここの役割だと思っています。

 

 そこから一つの基準を落としてくる。ひとつを磨くのに1200時間が基礎教育、それでプロになるには10000時間、根拠のない目安ですが、漠然としてそういう感覚があります。1200時間というのは、2年間、一日2時間は必要です。ここの1時間のことをしっかりとものにするのに、残りの4時間や8時間をかけているかということです。 

ここだけでやろうとすると、4年かかってもしっかりとフィードバックしていくとよい。一人では10年かかってもできません。 

 

 

ここでいろいろな講座を置いていますが、全て、本当に大切なことです。プラスαになるどころか、本来補わなければいけないものが、まだたくさん落ちています。 音楽基礎も強化しようと思っています。音痴矯正的なプログラムまで考えています。こうやって幅を広げていくと、専門学校のようになっていきます。より特化する部分が必要です。それ以外の部分は会報などで補いたいと思います。

 読譜力はやればできるようになります。受験用みたいなもので、気づき方の一つです。

 

自分で歌ってまわりの人が10個音を外したのがわかるのに、本人は全然わからない。としたら、そこを直さなくてはだめです。録音を聞いてみる。自分で聞いてみて直そうと努めないと直らない。先生が出して、まねていけばいくほど頭を使い、体が死んでしまいます。 

 

それは自分のなかで、直していくことです。つまり直すということは、正しく感覚を入れ、それが正すのを待つ。ここまでしっかりとやったときに結びつく瞬間があって、そのなかで捉えていかないといけません。嫌だなとかびりびりしている感覚のなかで、人の心が動くことはないです。もっと原理に忠実なものです。

 

 

 今歌っているような人たちはカラオケに近づけて歌っていく。カラオケ採点機のようなものもひとつの基準です。それを使えるとするなら、総合点で80点ということではなく、どこでこれは100点から減点されたのか、どこの部分で5点と評価が得られたのかというところです。これは、時間、テンポと音の高さできまるそうです。ミスタッチをしないようなことが求められます。 

 

楽器の場合は全てMIDIに演奏した瞬間に変換できます☆。声の場合はできません。マイクの距離をずらしたり角度を変えたりするだけでも、音の高さやリズムはとれるのですが、打点がどこかといっても打楽器ではないからです。一番計りやすいのは、打楽器です。打ち込みをしたらドラムと同じように聞こえます。 

あとは音色という問題があります。これが声の場合は複雑です。楽器が完成していないからでしょう。人間という楽器が完成することはあり得ないからです。ピアノは完成しています。もちろん、もっとよいピアノも出てくるかもしれません。

 

 寸法何センチの幅の鍵盤、たとえば指の太さによってもう2ミリ広いものをと、オーダーメイドはできない。指の強さがこのくらいなら、このくらいの大きさでというのでなく、決まった規格での勝負です。バイオリンは、幼児用のバイオリンがあります。

 歌の場合は計測不能、だからおもしろい。それを何とかしていきたいのです。

 

 

 皆さんは基準を勉強していくことです。それをたくさん見て欲しい。ここのなかの伸びた人を見ればよい。そういう人はとても厳しいです。まわりにも厳しいのですが、自分の作品にはもっと厳しい。ちょっとの差がどれくらいの大きな差かというのがわからないと、それをつめていくことができません。

どんな人の歌もレッスンを1時間すれば歌えるようになる。そんなことを何年もやっているより、遠回りのようでも、そこで同じにできる条件は何なのかを知ることです。

 

 同じになってもしかたない。完全にできるのなら、そのコピー能力はすごい、でもそれを何に使うかということです。その辺が知識の勉強と違ってきます。そういう見方をしっかりとしていくのです。

 

 テキストでも、その人がそのときに書いたもので、1年たつと違ってきます。しかし、私の本を読んでもらうと、そのなかで変わっていないこともある。私のなかでかわっていかないのと同様に、他の人間のなかでも変わっていかないこともある。もちろん、他の人が書いたらまったく変わってしまうこともあります。

 

 

 書いていること自体も見せや演出だからです。今、私は歌BONとギグスとバッジという雑誌に書いています。編集部はいろいろな情報をよく知っています。私よりずっと、今の歌に詳しい。注文のレベルは、私が書かなくても通じる。

むしろそういうことを自分で今、勉強している人が書いた方がよい。ここの研究生以下のレベルの人が見るのですから、そういう人が書いた方がわかりやすくて親切でしょう。何をやればよいのかきっかけがつかめる、ということで書かせています。その連載は編集部と成り立っていればよい。

 

 どんどんと見えなくなってきているものを明らかにしてやらなければいけません。何でもできますが、何でもできる世の中ほどやりにくいことはないのです。そこにつくる才能が問われるわけです。

 だから声や体のことがまだまだといっても、そんなのは永遠にまだなのだから、その都度感じ、気づいたことを、どう練り上げるかという方向性とひとつの対極を見る力をしっかりとつけることです。

 

声がどんなによくなっても出られない人はたくさんいます。それをどう使うかがないからです。

 うまく歌えない人でもヒットを出している人はいる。しかし、体や声は、鍛えたら伸びる要素だからやっておくべきだということです。

 

 

 音楽や歌からいうと10分の1の要素にしかすぎない。だから他のコンピュータなどを勉強するのではなく、そこの感覚判断を勉強するのです。雑誌や音楽を聞いて物知り博士になるくらいなら、自分の体にきいた方がよい。声が正しい正しくないというのも全部そうです。

一流でやれている人ほど基本を徹底してやります。それはあなたが思っているよりもさらに深いところでやります。自分の思い込みを離してしまうと自分の体が生きているというのは偽りではないのですから、そこから出てきます。それをうまく吸い上げればよい。 

 

レーニングや理論をやっているときは一時狭くなってしまいます。そのままで10年たってしまってはだめです。実践して、声がものすごくよくなった人もいます。でも世の中にとってはあまり意味がありません。自己満足にはなるでしょうが、それなら最初からカラオケをやっていた方がまだ生きがいがあるかもしれません。 

 

そこの問題は遠いことではない。今、今日、ここで問われていることなのです。バーッと弾いている中で、どれだけ音を感受できるか、その音に対してどういう着想が得られるか、それが基本です。そのことができていなければ、鈍くなってきます。

 

 

 緊張はテンションとして大切なのです。それが慣れてくると鈍くなる。創造活動の感覚が死んでしまったら、レッスンしている意味がありません。

 少なくとも一人、人間がいれば場というのは違ってきます。そこでさらに何かをやるというのはもっと違う。自分勝手にはできないし、自分のこだわりだけでもできません。他の人が受け止めるものを投げかけなければ伝わらない。それをこのくらいの空間や音のなかで感じたり気づいて、集約する。

 

 ようやく秋の合宿の評価がまとまりました。何人かの一人舞台だったようなものですが、その人が何を感じ、何を学んだのかを復習してください。

 こういうところにきて学ぶのは、トレーナーからではなくあらゆる人から学ぶのです。よりできていない人からも学ぶ。最終的にやっていくのは人のなかでやっていく。そこを切って自分のことを深めようにも、それは人に与える方向にいっていないから、もうワンステップ必要となります。それを出しても、この人のなかだけでわかっていることとなってしまうと有効性がありません。

 

 何でよい企画なのに通らないのだろうという企画マンもいます。企画というのは立てるのでなく、企画を通すのが仕事です。社会はそうやって動いています。表向きは順番があって、企画書が通るような形になっていますが、企画は後から上がってくる。それはアイディアで通るのではなく、誰のかによる。私が出したらOKというけれど、他の人がその3倍よいものを出してもだめといわれてしまう。それが人間の社会です。

 

 

 もちろん、権威やお金で支えられている場合もある。でも、それも含めて、その人一人の信用です。その信用は、その人間の判断の基準と行動です。演出家でも映画監督でも、長年のスタッフやお金のある人がやってみてつくっても売れない。ところが、たけしさんが初めて映画を撮ったらそれなりにできてしまうというのは、日ごろから物事をどう捉え、どこをカットしてどこをつないでいけばよいということを練っているからです。

 

 歌も自分の出した声で何を選ぶか、そのなかから何をつないでいくか、そのときにあるレベル以上の要素が上がってくる。ものにならないものはその場で捨てていきます。

 ところが、今の日本の社会で勉強してくると自分の意見を主張するのが大切に思ってしまう。しかし、実力社会は実力のある人が全部やって、あとはその人の能力を活かすことを手伝う方がよい。どの社会でも、会社でもそうです。それを均等に割り振ったりするからおかしくなります。

 

 まして芸で問われるなら尚さらです。同じようにステージもそうです。本当に歌える人が全部やって、歌えない人は出さない方がよい。

 それを日本の教育はどちらかというと、20人いるのなら20分の1ずつ時間を分けましょう、それで一人5分ずつやってよかったとやる、それは幼稚園の発表会と同じです。 

そこで才能を問えない人は問えないことをつきつき問えるようにしていくか、他の分野で才能を出せばよい。ピアニストもバイオリニストも本当にだめなら自分の楽器をつくればよい。そうすればそこの第一人者でしょう。

 

 

 ただ、他の人たちが深まって、それだけ競争相手がいる、野球でもサッカーでもあれだけ能力のある人が集まっている分野で鍛えられることに対して、一人で新しくやるというのは逆に難しいのです。

 ポップスはこういう全部の問題を抱えている。何をやっても自由、でもどうなるかわからない。昔はカメラマンでもカメラ1台もつのも大変だった、師匠について使わせてもらって20年たつと、師匠の地位にとって変わることはできた。

 

それは才能ではなく長くいた信用です。いろいろな才能がある。 

ところが今は私でもカメラを買える。撮ったものがピンボケすることもない。皆さんの歳でも世の中に出れる。そのかわり10年20年たっても才能がなければ安定しないで、いつでも若い人にとって変わられる。安く使える人にチャンスがある。 

 

人間は歳をとるにつれ安定したいと思うし、自分のやってきた業績をキープしたいと思うのに、そこで求められる基準自体がなくなって滅びてしまう。

 

 

 インターネットの時代で、音楽配信に変わってくると、ネットの力をもっている人とコンテンツをもてる人が出てきます。音楽業界はもともとソフトだから、実力本位ですぐれた人であればいくら若くても出ていける。そういう意味でいうと厳しいのです。正当にやっているものであれば変わらないでしょう。

 

漫才なども長い目で見ていくとよい。1年前の新聞や雑誌を読むとよくわかるでしょう。どれだけいい加減なことがいわれていて、それを鵜呑みにしていたのか。結局やっていく人は、そこの感覚を超えて、ものをみています。

 

 長くやれている人はそういう判断ができる人やそういう人がまわりにいるかということです。漫才でも才能もあると思いますが、寄りかかって生きている人も、一人でやれている人もいます。その人が判断の基準をもっていて、それがどの範囲に及ぶかということです。歌や声をやり続けて欲しいのは、人間の日常から関わっているものだからです。

 今見ていって欲しいのはそういうことです。何のために日々を過ごしているのかというところから見ないと、本当に流れていく。ここで2年間、誰よりも時間を費やす。どう費やしたのかを見ていって欲しい。

 

 

 舞台で映えない人は、コンプレックスがそのまま出てきてしまう人です。それをもうひとつ落とし込んで、再生すべきなのに、それから逃げようとしてしまう。

 どちらかというとこういう分野に向いていないような人だからこそ、努力でやれている。普通に会ったら、オーラが出ているのでも姿勢がよいのでもない。しかし、その一瞬にパッと輝いて、この人がこう変わるからすごいと思わせるから、説得力がある。それがいかにも二枚目では説得力がない。

 

 その問題が自分に当たってきたときに、ひとつ深く入っていくということです。そうするとその人がやる理由が出てくる。5年も10年も、人生の大切な時間をそれに費やしていると、出てくるのです。 

話し方でもお笑いでももっとうまい人はたくさん、会社員にでもいます。でもそういう人はそれで食べようとは思わない。歌でも同じです。それ以外の能力を生かしているということもありますが、アマチュアとしての楽しみとしてとっておきたいという人もいる。

 

 プロは人を楽しませるのであって、自分が楽しむわけではない。嫌なことを9割くらい引き受けないとやりたいこともやっていけない。選ぶとか選ばないというような世の中ではない。声や歌のことはどこでもできた方がよいのです。これからの社会でもビジネスマンはプレゼンテーション力が問われます。その人がどう表現して説得できるかです。

 それが日本はよくよく問われなかった。やってきた人はその力をしっかりと使っていたということです。

 

 

 舞台での判断はとても厳しいものがあります。お客さんを巻き込んで、1時間半拘束していく。本人のモチベートだけではなくて、場で成り立っているところもあります。何事にも出ていくエネルギーに満ちていないと、やらなければいけないというのが、損得感情と義務感になってしまう。受け止め方で素直にならないと上達できません。自分の判断が自分に対して甘くなります。

 場をもっていると伸びない人も、他人に対しては厳しい判断をできてくる。こう見ればよいという見方ができてくる。でもそれが自分に適応できるには時間がかかる。

 

 特に歌の場合は難しいです。何かを競争するわけではない。自分の好きな歌を好きなように歌っていくということで、ひとりよがりの世界を作ってしまう。そこで注意しないのは、だからといってだめとは限らないからです。音響の利用やバンドをつけてみたら、ファンを得られる可能性もないわけではない。

 以前は声だけでやっていけなければ、音をつけても中途半端にしかやっていけないと見ていたのです。声は徹底すれば強みになる。一番磨いて欲しいのは、声です。

 

 しかしレッスンでは表現に気づき、感ずることのヒントを得てもらいたい。そのヒントを1回でも一瞬、本当のプロの歌い手はこんな感じで声が出ているのだということに気づいたら、そこだけをめざして練習するべきです。その他のものは全部捨ててしまってよい。そういうものが入っていないと出たときに気づかない。

 だから今のスクールなどは半年くらいで伸ばしますとかいっていますが、伸ばしてもカラオケ初心者レベル、それが成り立たないのは、その先のマップをもっていないからです。

 

 すると、それが出たからといって固定できない。調子のよいときに、それいいよといっても本番でいつも失敗します。その声がたまたま出ると惹かれる。でもそれが本人が取り出せずに流れてしまいます。

 本人がわかっていなければ成立しません。声がよいというのは生まれつきの要素かもしれませんし、表現ということになれば偶然に出ることもあります。しかし、それを必然にしていかなくてはいけないのです。

 

 

 大切なのは、一つひとつのレッスンをできるだけそういう開放された状態でつめていくことです。レッスンでも感覚を切り換えていく。

 普通の人から見ると、この世界は多重人格者入門のようなものです。さっき笑っていたらいきなり泣き出し、怒り出すということができてあたりまえ、自分でコントロールしなければいけないのです。そこで他の人よりできる幅をもたないとできない。

 

 なぜ切り換えなければいけないかというのは愚問です☆。歌のなかでは、感情も体も切り換えなければ声も変わらない。運動神経も反射神経もいる。それを意図的に表現として見せていく。人生をひとつ圧縮して、そこで人生のエッセンスだけを集めて、最高の組み合わせを創造しなければいけない。 そういうものがあると歌の勉強をしなくても歌えてしまう。

 

歌い分けができる。名俳優の歌などを聞いていると、じーんとくる。これは私のこういうときの歌だと伝わります。ほとんど歌い手がやらなければいけないようなことをそういう人たちの方がやっています。音楽の基本なんてやっていないのによい歌になる。

 そうやってみると歌は難しいとか面倒なことより、楽しいことだらけです。自分のなかにあるものをしっかりと出してくる。

 

 

 「この合宿にこなければ何をやっていましたか」という質問もよいでしょう。そうやって自分に接していきます。本人がこんな見方もあると実感して気づくために、カウンセリングもあるのです。それを自分自身でやっていくと、セルフカウンセリングです。

 その曲はこうとしか聞こえないと思っているでしょう。でも、他の人のこういう聞き方もあるということを気づいて欲しい。なかなか見えない。そういう時期があってもよいのですが、そういう見方もあるというのをレッスンで気づいてください。それをすべてのレッスンに応用してください。

 

 まわりがすごいテンションでやれていればよいのですが、まだまだそうではない一般レベルの場合は、まわりに流されそうだと思ったら自分で切り換えなければいけません。ダラダラと流れていたら、他の人がだめというのでなく自分が変えようという力をもつこと、その体験が一番よい経験になる。この程度で通じてしまうというところで人と合わせてしまうと、自分のまだ見えない力を制限することになってしまいます。

 

 日本は出すぎたら乱れるし叩かれるから、ちょうどよい中間をはかる。ここで、その必要はない。自分で精一杯出してみて、断然のトップをめざせばよい。トップに出てももっと上の人から見たら、最低限なのだということがわかれば、出し惜しみなど絶対にしません。

 一所懸命、声や体を使っても、それは単に自己満足、疲れたから何かをやった気になっていませんか。スポーツでも結果なしでは許されない。へとへとになるくらい練習しましたといってもしかたありません。それを一生、自分だけでやるのだということであればやればよい。

 

 声が枯れる人もいます。自分で気づいてやめないと変わりません。いわれたからやめるというよりは自分で思いきり出してみればよい。こりたらやらなくなります。そういうところでつかまなければいけません。何でも禁止していくのは絶対によいことではない。リスクをとらず安全ばかり考えて、どうして他人を感動させられますか。

 まわりと同じようにやるのが正しいと思うのがだめです。成り立っているとしたら、おかしいと思って自分が新しいやり方を考えてやっていきます。そういうふうに臨んでいってください。使える人はもっとうまく使うのです。

 

 

 研究所では、先生方や他のスクールとの違いなどではなく、あなた方のなかにある惰性、今までの偏った考え方との戦いからです。それはあなた方自身がやるしかないです。

 あなたのなかに伸びていく要素があるのに、それをだめにしてしまう要素もある。伸びていく方をみるべきなのに、そうしない。人間はどうしても楽な方が気持ちよくなります。だから、声も歌もトレーニングも楽にしなくてはいけません。誰でもそうです。だから人前に出なければいけないし、与えることを考えなければいけません。すると楽でも流れず、しまる方にいく☆。 

 

自分だけでできるのであれば、ここに来ないでしょう。自分でやっていればその反応に責任感が伴います。そういう場を自分でもっていればよい。その場がもてなければ、この場をその時期、応用すればよい。人を集めたところで自分で問う、その他の人の歌も聞き、そういう立場に立つわけです。

 

 何をやらせるかと迷った末、あのときはああやればよかったとか、思うことはあります。でもそうやらなかったのはどういう理由なのかというのは、後でわかってきいます。人を商売にしているのは奧が深いものです。

 トレーナーの人を見る目はリアルタイムに的確です。こいつはこういう状態にいる、前の方がよかった、こういうところで行き詰っているなど、ほとんど一致します。人に同じように見えるというところがあるからです。しかし、私はその上で違うところも見ています。

 

 

 たとえば30秒で何でもしゃべれというときに才能を発揮する人、よい歌を歌うのにことばではあまりうまくいかない人とかいろいろといます。自分で自分のことがわかるようになって、はじめて力がつきます。そのことを自分で克服しようと思って勉強するのもひとつですし、やって、そういう分野の勝負はしないとわかってもよい。ここでは思いきって試せる、そういう意味でここを広く使ってください。 

 

2年でしっかりと助走して、10年でマラソンの折り返し地点くらいにして欲しい。今、どこまで行っているのかわからないでは困る。早いペースで2年で折り返しという感じになる人は迷わない。もう1年もいるからここの半分くらいのことは終ったと、いうのなら、ここにいる期間と力とは全然関係のない。 

自分のなかで組み立てて場というものを生かしてください。そういうことに対しては環境を整え、常に必要に応じて変えていきます。

 

 

 会ったときに時間をかけないですむことには、できるだけあなたのなかでやってもらいたい。テキストやコンピュータでできるものならそこでやる。そうでないとトレーナーもあなたの時間ももったいない。しかし、多くの人は相手の才能を自分の力のところまでにしか使えません。自分がいっぱしにできていると思って、思い上がっているからです。素直に相手がもっとも自分に多くを与えてくれるところで接したり、盗んだりすることができないのです☆。 

 

どうせなら自分が10時間やったことを問うためにきた方がよい。ただ問うこと自体が目的ではありません。 私はよく100時間のプログラムを立てなさいといいます。歌を100覚えるのならともかく、声のことでのメニューというのはなかなかできないでしょう。でも、トレーナーは多面的にやっている。こういう欠点のためにこういうメニューをやると、そういうふうに組み立てていく。体にも入っていることをできるだけ具体的に取り出してプログラミングしていくと、そこからまた選んで練習できます。 

 

自分のメニューを勉強しなさいということです。1時間のレッスンを受けて8時間どうやって勉強すればよいかわからない人は8時間レッスンに来ればよい。それは年齢やキャリアによっても違いがある。でも一回のレッスンでひとつ気づけるようになれば、その解決に何十時間のトレーニングができる。気づける。

 そういう場を与えようと思っています。感受性を磨いてください。これしかやっていなくとも、このことだけでもすごいと思わせる力をつけることです。これだけを毎回やってもよい。

 

 同じことをやっていると慣れてしまいがちです。そこで、より深まる人もいるのですが、他のことをやることで気づく人もいる。だからさまざまです。レッスンは自分で気づくために与えている。今日のレッスンでも皆さんにとっては、「わかっている」という人よりも「あっ、そうか」と思う人の方が伸びます。なのに、生じ頭の働く人は自分はできて、まわりはできていないと思っているから伸びません。できていないのがわからない。だから何度も出ることが必要です。お疲れさまでした。

 

 

 誰を使おうかというときに、こいつはこうやるだろうというのがこちら側である。たとえば、アーティストの○○さんというと、皆さんのなかでイメージがありますね。それにはたくさん聞かなければいけないのではなく、一回聞いたらこいつはこういう音楽性をもっていて、これを売り物にしている、だから、このケースには合うとか合わないとかが決められる。その判断の材料は、あなたが出すのです。 ドラマにつける音楽を決めるつもりでやってください。

 

 一通り聞いて、これだけのフレーズをやってみます。最後に今日のレッスンのなかで自分がよいというところを歌ってください、というまとめ方をします。

 一番よく歌えていたところは一応そこまで曲が入る。ということは、その人のなかにいろいろな曲が入っている。それを応用しないと間に合わない状況にする。自分でやると全然違うものになってしまいます。

 

 最初の15分にどこまでできるかというレベルの違いをみる。レッスンは、自己判断能力をつけていくのが目的です☆。他の人に対し、いろいろな見方ができるようになってきます。 

ただ、歌というのは、基本をふまえながらも少し飛び出したところでやっていく。自分だけでやっていたら、まったく関係のない自分勝手な世界ができてしまい、他の人が受け入れられない。だから耐えず、外の眼に対し、行ったりきたりのなかで創らなければいけない。

 

 

レッスンのなかで感覚を外にさらします☆。 要は、自分の歌のなかで歌いたいことをもっと伝えられるために、ていねいに扱ったり、いろいろな動かし方がある。基本をとって、より高いレベルで応用している人のところから受けた感覚をつくり変えて出すという、高度なレッスンです☆。

 

 ここのレッスンは、世界の一流のプロがきても、私のちっぽけな能力に限定されない場としておいている。それをめざす人が、そうなるためにレッスンの場として、どうすればよいかを考えてきました☆。そこを妥協してしまったらそのレベルの歌い手は生まれません。 

彼らのなかでも一流と認めているものをやり、そこから何かを得て、何ができるかというプロセスをしっかりと見ていくことです。

 

 自分のなかだけで自分の好きな曲だけをやっていたら、レッスンのプロセスは必要ありません。自分の世界をもつのとひきかえに止まってしまいます。それでもやれているならよい。

 仮に井上陽水さんがここにきたら、違う感覚で歌おうとしなくても、全て彼の世界にもち込むでしょう。自分で勝負する形が決まっているからです。そこに到るのに、すでにいろいろな勉強をしている。発声や呼吸を正す必要は、彼が感じない限りない。

 

 自分の核があるからです。そこに到るのに自分が出したときに何かしら今の時代に受けるような歌、それは時代をしっかりと生きていたら、核があればできる。その核の強さが、品格となります。

 難しいのはそこまでに至らないとき、自分を無にしながら、ものをつくっていかなければいけないことです。自分に固まってしまったら、もっと大きなものを使えません。そこでだめになってしまいます。

 

 

 大切なのは感じることです。感じて出すだけなら10代でもそれなりのことをできる人はいます。でもそれで終わってしまいます。これは誰かが、そう感じていることを気づかなければ、誰かがつくってくれないとだめです。他人の力がいる。それを自分で動かそうとしたら、自分で気づいて自分で練り上げてくる。 

 

よく感性のままに歌えばよいといいますが、感性には仕込みが必要です。それで本当に入っている人は少ない。そうでないうちは気づいて練り上げて、誰かが納得できるレベルにして出していく。

 たまにこういうものを聞いて、そのなかで何がすぐれていて何がすぐれていないのかをみましょう。同じ歌のなかでもその人のどこがよいか悪いかという見方をしっかりとたてていきます。

 たとえばこれを聞いてみると唖然とする。前の曲でもっている技術や声量、その人のオリジナリティのよさを、ほとんどこの曲では出していません。

 

 リバイバル版でも彼女のよさを生かさないようなものになっている。こういうすぐれた歌い手から何を取り入れるか、その歌に対して必要な要素を選び、それ以外のものを取り入れられない場合は捨てていきます。

 できるだけ多くを取り入れる努力をしていきます。レッスンですから冒険してもよい。むしろ自分の今までなかったものを出そうとして失敗を重ね、本質を知っていくことです。

 

 

 入れたときの感覚が変わることが大切です。本当は声を出す前にほぼ、あるレベル以上の作品を出す場合を自分のなかで想定しなければいけません。それで出してみてだめなら修正を加えていくわけです。これがわかっていない人は修正の加え方より、その必要性がわからないのです。

 音やリズムがとれたというだけでは、創造活動としてはゼロです。それで満点にしている人は、一生かかってもその満点にさえいかない。レッスンがその100点をめざして行なわれていることが少なくありません。 

 

最終的には自分に生かせるだけのものを取り入れて、自分の世界をつくっていけばよい。その方が馬力がいる。入れるときには自分に合わないものも気持ちよく聞こえるまでやってみます。

 

 これが売れたというのであれば、よくないと思っても、一体何が人の心を動かしたり、まわりの人にどこがよいと思われたのか、ある程度知っていくことも大切です。全部を知る時間はありません。同じ時間であればよりすぐれたものを優先して見ていくことです。ただ、逆にいうと、すぐれているからアラは見せず隠すし、できないところは見せてくれません。だからこういう実験の場に身を置いた方がわかりやすいです。

 

 

 ここをとったがためにそこはできなかったとか、後半にピークをもっといくはずなのに前半にピークをつくったためにばたばたしてしまったとか、必ずうまくいかない原因がある。それに気づけないと自分のも直せません。かなり高いレベルのアーティストに修正をかけられたら、自分に対しても客観視して修正できる能力がつく☆。それをトレーナーに任せないことです。というか、多くのヴォーカルアドバイザーは、そんなことをわかってはいません☆。

 

 ただ大切なのはその準備です。あまりに音楽やフレーズが入っていなかったり、歌がわかっていないという人にやれといっても無理です。

 たとえばジャズで適当にアドリブでスキャットしてみてといわれても、入っていないのだからできるわけがありません。好きにやって芸にならない。応用するための基本要素がないからです。ポップスの場合は何でもよいのですが、それでも最低限、他の人よりはたくさん聞いていく。聞き方としても細かいところに気づいていく力をつけます。

 

 こういう歌詞でも流れていなければ、どう歌うのかわかったものではない。次に「愛」が出て大きく変わる。そして「風の中で波に向かって」と出てくる。そういう構成が曲をパッと聞いているときに、入ることです。好きなところを歌ってみなさいといっても、えっという感じになってしまうのでは困る。

 

 

 歌詞を覚えるのは難しい。メロディも黒板に書いていたときもあったのですが、そうするとそちらに目がいってしまいます。メロディや歌詞は変えてもよい。覚えられないなら、自分でつくってしまう。最初からイメージをことばにするのに慣れましょう。

 これを聞いたときに、これは何を歌っていて何を伝えようとしているか、何がポイントで、詞はどう構成しているか、わからないところもあります。日本人に「ツバメの悲しみ」といっても、わかりません。それが何を意味しているのか、調べる勉強もよいでしょう。最初から基準を高くもって、そのなかでの選択もしっかりとしていくことです。

 

 難しい箇所はたくさんあります。難しくしているところも技術を見せているところもあります。その難しいところを全部切り捨て、できると思ったところをやっていき、できていないところをしっかりと知ることです。そこがある程度できてくれば、フレーズになります。

 たとえば「頬を涙がつたうとき」ができたときに「ふるえながら」、ここがしっかりとできれば「ふるえながら」のどこかまではでき、どこかからもたなくなる。50でできていたものが40、30となって、次の声が出ないと、そういうふうにイメージが走っているかどうかです。 

 

音やリズムがとれているかというより、声がそこに調整できているか。声量も音域もいらない。それをよりこの人がもっている感覚の方向や動かし方に忠実にやったときに自分はどう出るか、次にはこんな歌い方をしない。人間の感覚として、ズレてないかぎりこういう表現はとらない。聞いている人もびっくりするだけで効果がないのに、日本の歌い手は、よく、こういうことをやります。

 

 

 感性が論理的に取り出せるというのは、それをただして出せるかということです。1番のあるところがピークになっていたら2番のそこもピークになっている。それを同じに歌えている上で変えるなら、効果的に聞こえる場合もある。けれど基本的に同じところは同じように歌えることが、技術としてなければいけない。より伝えようとして変わってしまうのが、よいだけです。

 

 こうなったときに自分で呼吸や線を描いてみて、何回も聞く。その作業が1回でどこまでできるか、1回でできなかったら10回でも100回でもやる、そのときに、しっかりと歌えている人たちがやっている作業、何でも1時間くらいでつくり上げてしまうことのできる人の作業にどこまで近づけているかを見なければいけません。

そのうち、やらなくてもわからなくてはいけません。ただ、新しい感覚のものはやってみないとわかりません。ロックなどよりファドなどをやるほうが課題が明瞭になります。なんでこんなものできないのかと思うものほど勉強になるものはないのです。それは基準がつけられなかったからうまくいかないのです。少しやれば誰でもできるものばかりやっているレッスンのレベルの低さがわかりませんか☆。

 

聞けないところを聞いていく。普通の人が聞くと「涙がつたうときー」、それは感覚が違っています。よく聞いてみたら「きー」のなかでも浮かしていて、もう少し体から離れるようにつっぱっている方にいきながら、そのあとにしっかりと息のところに戻していくから次にもってこれる。こういうのは専門家だから見れるのではなくて、集中力の訓練で可能となります。ディレクターなどもそういう耳で聞いています。

 どこからどこまでのフレーズでもよいというのも、その人の呼吸や歌い方によって変わる。長くだけやるのは意味がありません。それをつくれるようになるためにその前からどう入ったほうがよいとかどこで切ったほうがよいとか、その判断は自分ですべきです。歌を生じさせなければいけません。

レクチャー 15735字 1172

レクチャー  1172

 

【レクチャー余録】

 

表現するということは、自分がこうしたいという思いがなければ成り立たない。それを見つけるために2年、6年、10年とかかろうがよい。誰かの歌や声がどうだと、いっても仕方がないでしょう。 

最近、自分はこれこれなのでうんぬん、言い訳する人もいますが、誰でもいろいろな意味でハンディキャップを負っている。それを超えて何を出せたかが大切でしょう。

 

自分の世界なり、強い意志なり、持っていきたい部分があれば、それだけである程度成り立っていく。だから10代でもヴォーカルというのはできるのです。そういう意味でここでの曲は、こういう歌い方をしてくださいというのではありません。

 

みんなが日本人であるということと、日本語を使ってきたということで、どれだけ不利な状況にあるのかということをみつめ、それを克服するとトレーニングの効果が出ます。

音声で表現する舞台というものを、日本人の場合は否定してきた。それを肯定することからスタートです。

 

 

 音声で表現するということは、たとえばこうやって前に立って皆さんに話しかけることです。いま、私が話しているのは、日本では講演調、つまりパブリックな話し方です。こういう話し方は、日本人では人前に立つことを常としている人しかできません。 

 

皆さんと友達で隣にいるときには、こういう話し方はしません。こういう話し方だと、何か説教しているか、怒っているようにとられます。でもそれはまさに表現です。

 欧米人の日頃のコミュニケーションというのは、自分の考えや意志を通えることが前提です。お互い違う考えを持つ人間の間では音声で発して相手に伝えない限り、相手は理解してくれません。ですから、音声に対する責任感が違います。

 ことばをきちんと使えない限り、人間として自立していない、つまり大人でないということです。論理で判断の基準をつけていくのです。

 

彼らの場合は言葉というのは、音声です。日本の場合は読み書き中心で、あまり声で出しません。ずっと抑圧されてきて、そして、いきなり歌になったときに、向こうの人と同じ2オクターブのものを3分間出せるとしたら大天才ではないでしょうか。

そのベースでのギャップを埋めなければいけません。それには日常の音声への意識のギャップを克服からでしょう。

 

 

 外国へは、よく10代、あるいはデビュー前のヴォーカルを見に行きます。天才だとかいわれている人に早めに会いに行くのです。

向こうでは、高校生くらいであれば、ここに出てきて30分間しゃべってくださいといったら、リラックスした状態でしゃべれます。それは彼らに能力があるのではなく、そういうトレーニングを教育として受けてきたからです。小さいころから、自分の考えたことはきちんと言葉にして、口に出してきた。そうしないと誰も理解してくれないからです。しつけにそれが入っていたのです。 

 

日本の場合は、レクチャーでも質問はあまりあがりません。向こうでは、わからなかったり聞こえにくかったら、すぐに手があがって質問してきます。

なぜかというと、そのためにきているからです。聞いて何もいわなければ、そのことを了承したことになってしまうからです。聞きとれなければ自分に不利なことをもたらす結果になるかもしれないのです。そのままにしておけません。音声でのやりとりでの契約が通常ですから、厳しいのもあたりまえです。

 

 アメリカで留学している間、「フリーズ」といわれて止まらず撃たれた少年がいましたね。音声で忠告したにもかかわらず、止まらなかったというのは、自分に危害を加えにきているとみなされた。攻撃だから防御しなくてはいけない、殺されないために殺すしかないということになるのです。聞き取らなければいけなかったことばを、聞き取れなかった悲劇です。

 彼らにとって音声というのは、身を守るものとしてあり、大きな武器です。小さいころからずっと耳で聞いて口でいうということを繰り返しています。 

 

 

そのレベルの能力をつけるのに、日本人は2年では足らないくらいです。さらに、演出力や表現力なども補完します。

振り付けから入るやり方はしたくないのですが、形から入るのも一つの学び方です。自分の心がそうなればそういう動きになるし、そういう歌が歌えます。

 

 多くの人は声が出れば歌える、高音が出れば歌の問題は解決すると思っています。また、大きな声が出ないのが問題だと思っているのです。しかし、そこの問題というのは、そんなに大きくないのです。

 それ以前の問題の方が大変なのです。たとえば高いところが出ない、大きな声が出ない、だからといって、やりようはいくらでもあります。それよりも歌いだしのところ、そんなに声量も音域もないところで聞き比べてください。

 

 向こうのものはプロに聞こえて、あなたのは棒読みでしょう。少なくともその先を聞きたいという表現は出ていない。それが問題なのです。そこが成り立たない人が、なぜ高いところで声を張ってオクターブ展開しなければいけないところで、歌として成り立つのかということです。それは基準が甘いだけなのです。

最初のところでテンションも低く声がコントロールできない人が、そのあとですごい作品にできることはないのです。それに気づかないのは基準が甘いからです。基準が厳しかったら、そんなものは自分で迷わない。

 

 

 オーディションテープでも何曲も送ってくるというのは基準がないのです。自分の中でわからないからです。自分の中でわからないうちは練習もできない。

 上達するにも自分がわかるところまでしかいかない。だから、わかろうとして、見えないところを見ていき、基準を高めていかなくてはいけません。

スポーツなどは勝敗がありますからわかりやすいのですが、歌の場合はそういうのがありませんから尚さらわかりにくいのです。

自分で気持ちよかったと思ったら、それでよかったみたいに思ってしまいます。そのことと伝わるということは違うのです。相手からみた基準を持たなくてはいけません。それが厳しいのです。

 

そういうことで音声文化の欠如が、日本人の生活全部に反映しています。話し方でもこういう強い口調では話しません。こういった鋭い切り方もタブーです。なるだけあいまいにして、しり上がりアクセント調や「とか」調とか湾曲ばかり、断定をさける話し方、「でもね」「まあね」とか、自分に責任のくるような表現をしない。これは日本の音声文化の根底にあるものです。

 

 そういうものとステージというのは反します。なぜ日本の若者の歌の大半が生声なのに、向こうの人たちはアマチュアもがカラオケとかで歌うと、きれいにひびくのかということでの差を知ってください。日本の政治家や声を使う人がダミ声でのどをやられていくのに、海外の声を使う人は声が必ず磨かれていくのを考えてみてください。 

声を相手にどう働かせるかを彼らは日常から考え、そういう耳で聞いています。同じ“hello”といった言葉でも音色で使い分ける。その中に憎しみが入っているのか、好感が入っているのかを聞き分けて過ごしています。

 

 

日本では、それが日常にまで浸透していません。 

日本人の場合、昔から目でみる力にすぐれています。あの白とこの白と向こうの白との違いは、誰でもわかるでしょう。それが音になるとわからないのです。そういうことの必要がなかったからです。

 

 日本の音というのは、およそ108しかない(およそというのは学説によって違うからです)。韓国でも中国でもこの数倍はあります。欧米になると音の数が1500から2500くらいある。

日本の場合はその代わりに書き言葉がたくさんあります。当用漢字で2000弱向こうはローマ字が26個です。それを彼らはひとつずつ音として聞き分けている。子音もそれが独立してキーボードみたいにひとつひとつ聞き分けられるのです。 

 

日本人の場合は、「ピッキャップ」を「ピック イット アップ」とは聞けません。彼らには瞬時の時間にそれだけのものがつめて発する力と、それを分析して聞く力がある。日本ではひらがなを覚えてしまうと、漢字は象形文字なのでなんとなく見当がつきます。言語を口でいったり、音声で聞いたりして習得するということはそこで終わってしまうのです。

 

 

 日本人が音声に関して、初めてきちんと耳を開いて開こうとしたというのは、中学1年生の英語の授業のときでしょう。アとエの間の音といわれて、どうやって出すのかと思ったかもしれません。そこまで何もない。

よほど先生に恵まれない限り、国語で詩の朗読などやるにも、そこはもっと気持ちをこめてとか、間をあけてとか、低いトーンでとかいわれることはないでしょう。他の国であれば、国語の中で音声教育が半分以上を占めている。日本の場合は、全部読解と読み書きです。

 

 

 向こうは強弱アクセント、子音中心です。欧米だけでなく、アジアも大体そうです。日本では母音中心です。そこで私は一度、日本人の言語感覚を切って、人類共通である人間のベースのところまで戻すのです。人間である限り、共通している基盤まで戻ろうということです。その上で日本語に戻すようにしています。

 

 母音というのはノンアタック音です。この辺がクラシックとポップスの違いです。クラシックの場合は、母音をつないで響きの方をとっていく。

それに対し、おなかから息をハッと出して、それを妨げて出していくのが子音です。たとえば、At.At.At.といっていると、「At」のはずなのに「ta」と聞こえてきます。日本語の子音というのは、後ろに母音がついているからです。本もHO-Nです。彼らはh-onです。こういう感覚というのはそう簡単に変えられるものではない。 

 

 

白人と黒人でも、黒人の方がリズムでは0.何秒か早く入れるといわれています。彼らはこういうことに関してはとても厳しい。

 日本で歌がうまくないといわれている人たちのほとんどは、音高や音程での音痴です。フラットしてヒットしていない。これは、高低アクセント、音程アクセント、メロディーアクセントに関して耳が働くからです。

 

リズムはいくら狂っていても音程がとれたらOKにしているのですから、音楽の捉え方そのものから違っています。多くの人が歌ったときに、それが間延びして聞こえたり、1本調子に聞こえたり、メリハリがないといわれるのは、日本語のところで正しく歌おうとしているからです。日本語は、ぱっと入れないのです。

 

この日本の音楽がだめで、向こうのがいいというのではありません。今の音楽が向こうのものにそっているために、向こうの感覚でやらなければいけないということです。ましてや向こうの分野の、オペラ、ジャズ、ゴスペルやカンツォーネシャンソンになったら、向こうの感覚に移ってやった方が習得が容易でしょう。

 しかし、もっとも大きな問題は、トレーナーやスクールがこういうことをまったく踏まえずにまったく不要どころか邪魔な声楽もどき(声楽でもない)を教え、鈍感な耳や声をつくっていることです。

 もう一つ大きな理由はどちらでもできた方がいいということです。できた後、感覚を切り替えればよいのです。

 

 

 日本人は欧米人のようにできませんが、向こうの人は日本人に近いことはできます。日本人の場合は点にあてて響かせようとします。ぶつ切れになって、音になったところしかカウントしません。ひとつひとつの音は保たれて、それ以外のところはカウントされないから、リズムの感覚もことばにリズムを入れなくてはいけないような、おかしな感覚になってしまいます。

 

 何事も感覚とは根底に入っていなければ、入れなくては出てこないのです。リズムがとれないとか、音程がとれないというのは、大体の場合は入っていないだけです。それだけ入れていけばいい。

日本語の場合は長さの等時性といって、長さを同じに揃えていくというのがあります。今の音楽からはそういうものは抜けてきています。

欧米の言語の場合はリズムが等時です。息をハーッと吐いて、そこに少し強い集まりができて、そこが拍になる。そこに音が集まっていく。

 

 日本人が英語で歌ったときに、私はすぐに日本人だとわかってしまいます。それは、強のところに弱が巻き込まれないからです。高低をつけて平坦にならしてしまう、歌にするときにも通じることです。

本来は無理にどこかを強くしていかなくても、強が大きくなったら、そこに全部が巻き込まれていくのです。ですから欧米人の弱のところは発音もはっきりとは聞きづらいでしょう。

 

 

日本人は息のない発声で、発音を一つひとつきちんという。その感覚でカタカナ英語になるのです。口先になってしまうときもあります。強のところをアタックしない限り、通用しないのです。

 日本人があたりまえに思っていることで感覚してきたのに、足らない部分を入れるのです。

歌の中でできないのであれば、ことばや発声のトレーニングの中でそういう感覚を入れていく。そうしないと、それはいつまでも使えない。入っているものに関して強化するよりも、入っていないものを入れていくことです。

 

私が発している日本語は、自然な日本語ではありません。外国語と同じポジションです。だから、声が深い、声がよい、日本人と違うといわれます☆。ドイツ人とかイタリア人とかが使っているポジションで声にしているからです。これを自分の本の中では、芯のある声、音楽的日本語といっています。日本では、役者の声、三船敏郎さんや仲代達矢さんを想像してもらうとよいでしょう。 

 

この日本語は歌では、死滅してきています。尾崎紀代彦さんや布施明さんまでの歌い手では「い」とか「う」が響きます。閉口母音だからひびく。

逆に下手な人というのは「い」とか「う」でのどがつまってしまうのです。それは発声ポジションが悪いのです。

 

 

 私の声を小さくしても、一番後ろまでこの声は聞こえるでしょう。この声をコントロールするために体を使っています。弱い声を表現として持たせようとすると、それだけ強い体と呼気コントロールが必要になってきます。

 

プロの歌の出だしなども、小さく歌っても、表現力は保つため、より大きく表現しなければいけないのです。自分の体で支えなければ、それだけの説得性は持てなくなってきます。だから音程が狂ったり、リズムが狂ったりするわけです。

 

 ここでやっていると全然うまくないのに、カラオケではうまく聞こえてしまう、まさにそこのところを煮詰めていかなければいけません。つまり、練習しなければいけないのは、カラオケでごまかされてしまわないところです。そうでないと誰とでも同じレベルになってしまいます。そこを基本として知っておいてください。

 

 

 表現するときには全てをひとつにする、そして、全部が統一されると考えてください。コントロールするというのは統一することです。「ことば」というときも、「こーとーばー」と分けずそれをひとつに捉えます。ステージでも歌でも同じです。その感覚が宿らなければ、間違いが生じます。

 

 トレーニングでは、「ハイ」を同じように100回やることからやりましょう。やれたら歌がうまいというのではなく、うまくなれるベースができる。とりあえず、10回やって1回でもしくじるレベルをめざす、そうして変わったところが自分で認識できないかとしたら、演奏は成り立たない。高度なことをやれている人が、基本をやったときにできないということはないのです。トレーニングで基準をつけていくというのはそういうことです。 

 

素振りをいくらやったからといって打てるわけではない。でも打てるようにするためには素振りをやるしかない。素振りをやっていたらよいのではなく、そのことで自分の体を正していくのです。そして自分の体の理想的に働く原理を引き出し、そこに正しく合わせていくのです。

 

 

 外国人の曲に合わせて歌うと、声が細くなりませんか。そこで、トレーナーにのどに引っかかったら上に響かせなさいといわれたりするでしょう。そういう教え方は即効的ですが、長い眼でみると必ずしもよくありません。それは、まだまだ体の状態、条件ができていないからです。まず体をうまく使えるようにすることです。

 

 体が彼らと同じ条件になるまで、音高から声を決めつけてはいけない。なのにまったく逆のことをしているのが、日本のJ-POPやニューミュージックです。とにかく高いところを取りにいくことを優先します。日本の声楽から、指導者がきたことも原因の一つです。 それでうまく取れる人はよい。それで通用すればよいからです。ただ、そうでない人はそういう人をまねて追いかけても無理なのです。

 

声は他人に似させるほど壊します。うまくいっても物まねがうまいねで終わってしまう。人を説得する力はそこに出てこないのです。今のJ-POPも受けている人には、説得する力もあるのでしょう。ただ、同じことが自分にできたとして、果たして出ていける場があるかと考えてみてください。 

 

 

音色に関しても、今の声で決めるなということです。まだ体の条件も強くなるし、息も吐けるようになる、声ももっと出るようになるのです。そのまえにそれを決めてしまったら、その音しか出なくなる。なぜ決めてしまうかというと、高く出したいからです。ピッチを正確にあてたいからです。でも「ドレミレド」のところで表現できないのに、高いところがいくら出てもしかたないのです。

 

 ポップスにおいては、音域や音量はどうでもよいのです。人間ですから限界はあります。それは、一人ひとり違います。大切なのは、自分にあるものをどれだけ使えるようにするかでしょう。完全にコントロールして、音の世界として作品にできるかということが大切なのです。

 音量とか声域とかは、ごまかしてまで、今となれば無理して作る必要はないのです。だからといって、狭くて出ないよりは、広くて出る方がよいのです。だからこそ、それはどこまで必要かをみるためにトレーニングするのです。

 

 自分が持っている体の原理に促して、一番正しく使えるところでよい、つまりおのずと決まってくるのです。

 早目に歌をまとめるのもよいし、それで勝負するのもよいでしょう。しかし、それでは基本は身につきません。それで今受けていなければ、5年やっても10年やってもさほど変わらないということです。基本というのは、時間をかければかけるほど有利になるためにやるのです。あとで大きな結果をもたらすためにやるのです。

 

 

 メロディ処理に入ります。「冷たい」といって、それに「レミファミ」とつけてください。歌のレッスンをやってきた人ほど「つーめーたーいー」と、音に当てていきます。しかし、表現がそこで壊れたことを知らなければいけません。それで表現の持つ大切な要素を失ってしまっているのです。「冷たい」と感じるように聞こえないのです。

 この辺から日本人はトレーニングより感覚をこしらえなければいけないところです。歌に逃げるのでなく、歌で伝えることを忘れてはなりません。

 

 外国人は、後ろにアクセントがきますから、「つ・め・た・い」とはなりません。“tume tai”となる。点でとって伸ばすようにはしない。音楽の世界は、点ではなく線です。線にして動かしていくということです。 

昔の日本の歌というのは歌い出しが1拍めにきました。そこから、メロディをつけたことばをていねいにひびかせます。

 

 今はリズム重視の考え方になってます。すると「レミファミ」は「ファミ」の方に強さがくるのです。「つ・め・た・い」は“tai”が強拍となります。 日本人は全部を同じところでいえる体の条件がないのですが、私は全部同じところでいえます。それは、常にどこかを強くいうことでやれるようになってきます。

 

 

 母音というのは、発したときに音が決まるから深い声があれば口先を動かさずにできます。しかし、そういう力がない人には、「あいうえお」と口先で作ってしまいます。

新人アナウンサーやナレーターをみてください。それは声がない場合の発音です。

本当は発音練習の前に発声練習をしなくてはいけないのです。そうしたら同じにいえるようになってきます。まず感覚的にそういう感覚を持たなければいけません。

 

 英語でやった方が歌いやすいというのは、英語は、強拍のところで巻き込まれてフレーズができますから、そこにリズムをつけるとメリハリのついた感覚になってくるのです。それが私のいうメロディ処理です。

 半オクターブで声がそろうのに、2年はかかる。半オクターブできると、大体1オクターブから1オクターブ半くらい歌えます。日本人の場合、表に響かせているところだけしか歌として捉えていないことが多いのです。

 

 役者がこれをいうときに、のんべんだらりとはいわないと思います。

「つーめたーいことーばーきいーてもー」というふうにはなりません。「つー」の出だしのところで大半の人はもっていません。それは感覚も違うし、伝わらないのに、日本で許されてきたことです。

 聞こえたことしか体現できません。子音が聞こえない、強弱アクセントが聞こえない、声の中の動きが聞こえない、なのに出せるわけがないのです。

 

 

 

EX.「ノンソマーイ」(イヴァザニッキ)

 

 プロ(イヴァ・ザニッキ)が果たして「ノンソマーイ」というときに「レミファーミ」という音程をとっていたかということです。音程も、メロディも高低アクセントもとってない、ただ強弱で感覚を得て、音色をきちんと使うことに意識を置いています。でも音程もリズムもとれている。

 

 音程をとろうとしては歌にならない。歌うときにメロディにことばを入れるような練習が必要ない。ましてやそこで声を当てているだけになってしまうからいけないのです。音色とリズムでとり出していくのです。感覚のところでの認識の仕方が違うものを、まったく違う感覚で勉強してもしかたがないということです。

 

 何回も聞いてみると、強弱アクセントで捉えるということの違いがわかってくると思います。これは強い弱いで動かしていて、高い低いで動かしているのではないということです。音色も同じです。

 日本人が勉強するときのように点でとっていくようなとり方をとっていたら、いつまでも、そういう部分は出てこないということです。彼らは、それを凝縮して表現を出すということを知っています。

 それは言語そのものの成立からきた差です。日本人が劣っているわけではありません。ただ、そこから音に対する感覚とか、それに対応する体ということになると大きな差があります。

 

 

 入っていなかったり、見えなかったり足らないものは、自分からも出てこない。そこから見ていくこと、聞いていくこと、体に入れていくこと、必要性を与えることをやっていかないと、根本的には変わっていきません。

 今、自分のもっている感覚で歌ってみて、お客さんに通用しないとしたら、その感覚を変えるしかない。

 

 ポピュラーで教えることは、個性を壊すとか、押し付けるとか思われるらしい。それは表面的に直そうとするからです。精一杯のことをやって通用しないのであれば、教わって変えるしかない。しかし、どうやって変えていくかということは、きちんと基本から学んでいく。そこでは足らないものを入れていくしかないのです。

 

 アーティストに向いている人というのは、こういうものを100、200回聞いてみて、自分の中でそれを見分け、作ることに楽しみを得られる人です。ミュージシャンは一つの音をきちんと聞くということに執着する、その音から次の音にどうつなぐかというところで感覚を多彩に感じとれることが条件です。 

 

 

天才は、この2音を2時間練習しても飽きない。なぜかというと、一つの音から一つの音にいくときにも、いろんなイマジネーションがあって、タッチが浮かぶからです。今まで感動してきたいろんなパターンが入っていて、そこで掛け合いをするからです。そうやって基本というのを深め、演奏技術を磨いていくわけです。

 

 何もこの1曲が弾けたからといって、上達はしないのです。一つのポイント、一つのフレーズのところで、プロの演奏ができない限り、プロということはありません。そういった上で全体の構成力など、いろいろなことが問われるのです。

 

 楽器をやることも、楽典を勉強することもすべて補助です。プロの感覚がなければいけない。プロの感覚があって、そこでやっていたら、バックが狂ったときにすぐにおかしいと気づいたり、リズムに敏感になって乗れないところがわかったりします。そういうことにどれだけ鋭くなれるかということです。

 楽典などの勉強はやればやった分、知識として身につく。

 

 

 私がこうして文章にしているのは、日本人の場合はいくら音の世界で説明してもわからないからです。本でも読んでから音楽を聞き続けたら少しはわかるだろうということからです。

そういうことに気づくためにレッスンとそのきっかけのことばがある。ですからレッスンを受けていたら伸びるということではない。レッスンを受けて気づいたことを、精一杯、トレーニングでやって、自分を変えて、よい方に正していくのです。

 

 それは誰かにいわれるままにやるのではありません。自分の体の原理にそって、自分の中の感覚に忠実にやっていくのです。そうでなければ通用しません。

 「自分の声の中でどれがいいですか」ではなく、自分でもっともよいものを意識して確実に取り出せないといけません。人からいくらいろいろといわれてもその人の中でわかっていなければ、何にもなりません。

 「何か作ってください」といって、「作ってみました」というだけでは、ただ作っただけです。あなたが精魂込めて作ったものでなければこちらも評価できないのです。

 

 それはその人の中で基準も態度もできていないからです。どこができてどこができていないということもわかっていない。そういう状態では、ヴォイストレーニングというのは成り立たないのですが、巷のレッスンはだいたい、そこで声が出たの届いたので一喜一憂しているのです。

 フレーズのことというのは、徹底してやるべきことです。役者さんや外国人の感覚から入り、自分の中のオリジナルな声でそこまでのことはやりましょう。ただ、ヴォーカリストに限っていうなら、その声をそのまま歌に使えばいいということではありません。

 

 

 私の今話す声は私の一番いい声ではありません。日本人のこのくらいの客数に対して、もっとも伝えやすいところで選んだ声です。そういうものをオリジナルのフレーズ、いわゆる節回しといいます。

 日本のヴォーカルでも、プロの活動をしている人は自分の節をもっています。ただ、そこで足らないのは、体に密接しているところで原理の働くための、楽器としての完成度の強さです。パワーとかインパクトです。

 

 外国の人というのはしゃべっている声でもすぐにわかります。要は声一つでも自分の個性が出せているということです。日本人の場合は、歌い手でも大体しゃべったら普通の人になってしまいます。

 そういうものの基本というのは、声を出して動かすことです。

 つかめる声で表現する「冷たい」も「つめたーい」でも、「つーめたい」でもよいのですが、共通することは、「つーめーたーいー」と音にあてて均等にしないということです。そのうえでどう動かしてもよい。それは曲が決める、それに従って柔軟に動かせるようなコントロール力が必要だということです。

 

 線として、どうやって動かしていくのかがフレージングです。それを簡単にしていくために、ポジションを深い方へもっておく。それを上に響かせようが、ミックスヴォイスにしようが、シャウトしようが好きに選べばよいということです。

 

 

 

「ラ・ノビア」(村上進)

 

 歌のよし悪しも、こういう歌い方がよいとか悪いとかいうことではない。これからどう勉強するかということです。「アベ・マリア」の「ア」や「リ」は、深いところで、日本語にはないところです。歌にしたときにはそういう深いポジションを利用した方が声が楽になります。ですから、一流の歌い手の中から、このように共通する要素としてきちんとみていけばよいと思います。

 

 正しいことはシンプルです。作曲家が作った曲を踏まえて、どこをどう伸ばすかとか、どう歌うかというのは、歌い手に委ねられています。今は単にどこを伸ばすかということだけでみせていますが、クレッシェンドをかけてみたり、ミックスヴォイスにしてみたり、いくらでもできるわけです。声はピアノなどよりもよほど応用性があるのです。

 

 その中で何パターンかをもって、これだというのをつかんでください。100回やってみたうちの99回は失敗です。そういうものを捨てていかなければいけません。ところが、歌うのに1つのパターンしか試してなくて、2通りくらいでしか歌っていないから、歌の中で音楽ができてこないのです。 

 

 

練習でも、「わたしは」というのを100パターンくらいやってみましょう。はじめは大して何もできないと思います。しかし、その中で見つけたものしか財産にならないのです。デッサンの勉強でも同じです。 

 

カメラマンでも、撮りっぱなしで上達するのなら、誰でもカメラマンになれるでしょう。必ず撮ったものを見て、それはどういう意図でやったのか、そして、これはどうしなければいけない、ということの修正をやらないとうまくはなりません。

 

 プロの要素というのは、感覚、基準の厳しさです。それを身につけることが大切です。なるだけいろんな音楽に触れて欲しいので、説明しながらいくつか聞いていきます。ここの教材を歌うとか歌わないとかではないのです。ここにおいてあるものは全て、基本を勉強するためにあるのです。この曲をレパートリーにしなさいということではありません。

 

 

「タミア」

 

 これをそのまままねてやってみてもしょうがない。マライヤキャリー張りに歌ってみてもしかたありません。きっとそうは聞こえないでしょう。体で読みこまないといけないということです。

 それはどういうことかいうことを、野球にたとえると、バッターが空振りしたとして、私たちはただ空振りしたか、それさえも見えないのですが、プロの人が見ると、それは肘がどうなったと、自分にきちんと置きかえられ、ことばで話せるのです。

 

 だから聞いてみたときに、自分の中で、今のところは自分の声でどこがどうなったか、それでどうやろうとしてこうなったということが、自分の体の中で置きかえられない限り、同じレベルのことはやれないということです。

 

 だからここでは、他の人の体を読みこませることをしています。他人のことはわかりやすく、自分のことはわかりにくい。たとえば、弱いところとか、小さいところとか、響かせているところをまねして歌ったりしますが、プロはきちんと体で支えて歌っている。それを起こしているのでなく、それが起こっているのです。

 

 

 歌というのは、ヴォイストレーニングの可能性を広げた上で、その声量や声域を全て見せるのではありません。自分がその作品に対して使いたいところだけをピックアップして、それで集約して出すのです。大音量を出して歌う歌が流行るわけではないでしょう。

 もっと繊細なものを出すために声量を得ておくのです。だからといって声量が出ない、体が使えないのがよいのではありません。そこを忘れてはいけません。

 その歌い手がステージをやっているところの裏を見なければいけません。その人が表に出している音の中の感覚を勉強しなければいけないのです。そうでなければ同じこと、同じレベル以上のことはできないということです。

 

 

「セレーナ」

 

 この「セレーナ」をひとついうのに、2年以上、かかると思ってください。そのことで確かな表現できたとしたら、そこからいろんなきっかけがでて上達します。たった1点でも一流のヴォーカリストとの接点がつけば、そうなっていく可能性が大きく広がる。

 10年歌って、この「セレーナ」ひとつもいえない、いえないどころかいえたかどうかさえもわからないというレベルで練習している人が大半です。だから一流の人のものを聞きなさいということです。いろいろな意味で正されていくからです。 

レーニングでやることと、舞台でやることとは、まったく違うのです。基本は基本がわかりやすいもので勉強した方がよいからこういうものを聞かせています。人に対して働きかける要素が何かということをきちんと知っていかなければいけないということです。

 

 

「ギターよ静かに」

 

 一流の人ほどシンプルに歌っています。日本人は「ギターよ、あの人に」は「ドドドドーレミドド」にことばの音を当てていく方向にいきます。すぐれた人の感覚をそのままにとれず、自分たちの感覚でおかしくしているのです。こういうものは聞いてそのままやっているつもりでも、自分に入っているものに置き換わっていきます。自分でなく、日本人、日本語の感覚でやって間違えるのですから気づかないのです。

 だから、もっと正しいものを入れるということです。そして、自分の中で置き換えのときに用心しなければいけません。日本語でもいいのですが、それを今までの先入観とか固定観念でやってしまうとおかしくなるということです。

 本物というのはもっとシンプルなものです。複雑ではありません。それを宿すと、その人が遊んでいるときも歌として口先から出てくるようなものです。ポップスを発声法で歌おうとしたら気が遠くなります。

 もっと息の力をきちんと信じることです。ポップスの場合は、声ではなくて息が命です。

 

 

「仲代達也」

 

 「あれはさしずめ、俺の姿だ」のせりふのところも、全部を声にせずに、息を混ぜた方が伝わります。それは人間の生理的なものです。ポップスをなぜ日常を離れたところでやらなくてはいけないかというと、体の力がないからでしょう。それはごまかしにしか過ぎないのです。

 

 昔の役者というのは観客に声が届かないから、いちいち体を使って声とくっつけていたのです。今は、技術のおかげで、声は伝わるので動きの方が優先で、そちらの方に体をつけなければいけなくなりました。そこで安易にのどをそらすがために上のほうで声を作るようになって、どんどんおかしくなっています。J-POPでも同じことが起きています。

 

それでも、ビジュアルで見せられる人や、バックとの演奏スタイルで見せられる人はよいのです。 それさえ、できない人は、声の力を失って、何のとりえもなくなってしまいます。それぞれに関して、本質的なものとか正しいものがあって、それをどういうふうにとり入れて自分の舞台にするかということは、その人の価値観で選んでいくものです。

 ここでできるのは、アカペラでお客さん50名くらいを感動させられるための声の場づくりです。それがトレーニングの基本だと思います。 

 

 

「私の孤独」

 

カラオケやスクールで勉強すると、音をとって、それを全部覚えようとする。「ミミミミミソファファ」に「ながいあいだひとりで」をあてていきます。ここではそういうことはやっていません。複雑な曲と思えるものも、シンプルな構成で覚えていきます。

 

 この曲であれば最初の5分くらいで覚えられます。1年目では難しくても、3年かかればできてきます。どうして覚えられるのかというと、音楽の流れで覚えるからです。音楽というのは線の動きです。はじめてこれを聞いたときに音がどう行きたいかというところを聞くのです。一つの言葉に一つの音をつけていくのではないのです。

 

 ところが鍵盤も、楽譜も単音で示され、さらに日本語の場合、全部点でとる。だから「ミミミミミソファファ」としか聞こえません。しかし、「ミミミミミソファファ」のところで「ながいあいだひとりで」は、「ミーソーファ」の中に入れていけばいい。「な・が・い・あ・い・だ・ひ・と・り・で」というとり方ではないのです。これでは音楽を邪魔してしまうのです。

 

 

 情感を移入するのは、基本でやることではありません。ステージでやればいいのです。自分でイメージを作らなくてはいけません。ポップスの場合は、声楽などと違って、大きな自由度がある。それをどのくらい自由に活かすかが勝負です☆☆。 そこで自分の音色、自分の表現は一体なんだということ、他の人ができない絶対的なものは何なのかということを最初から見つめていく。そういうことをまったくしていないから、誰かが歌ったようにしか歌えない。そうしたらその人が歌う意味がないのです。

 

 音階でも、リズムでも難しいと感じたら、大体はそのことが入っていないからです。それに反応する体と感覚が入っていないのです。ここにきたら、ロックの人でも、サンバも、ボサノヴァも、ビギンもタンゴも全部やります。

もし、それでそのリズムに反応できないとしたら、差し障りがあるとしたら、それはロックもリズムがとれていないということです。たかだか8ビートの中で変形しているリズムがとれなかったらおかしいでしょう。もっと世界には複雑なリズムがたくさんあるのです。そうしたらロックのリズムがわかっていないということなのです。

 

 プロなら、自分で好きに歌っていればよい。しかし、そこで、何か足らないからレッスンにきているのであれば、それは変えなければいけません。それは誰かが教えるように変えるのではありません。もっと人間の奥深くにあったり、体の中で働いているものをきちんと思い出すことです。リズム、音程もいろんなものがある、それを白紙にして、そういうものを取り入れられるプロの体と、プロの感覚を柔軟にもっていけるようにするということです。

 

 

 求める条件は簡単です。一声聞いただけで違いがわかるように、という単純なことです。日本のプロの中には、それが明確に出せるという人がなかなかいない。ジャンルは何でも構いません。ここでやることは、基本を勉強するということです。声の素振りをやり、音の感覚を厳しく、自分で基準をつけていく。楽器と調律のことと演奏のことを勉強するのです。それを何に使おうがそれはあなたの勝手です。だから歌は教えないのです。

 

歌には遊んでいる部分があってもよい。しかし、必ず根のところできちんと握って、その上で放り出すことです。どんな分野でも引きつけるだけ引きつけて、それで放たなければいけないということが基本です。

 

日本の場合は声が握れないから、上のほうでちょこちょこ握っては放している歌が多い。その価値観の違いはさておき、体を声のためにきちんと使っていこうとするのであれば、外国人のように考えた方がいいと思います。

 この1フレーズを聞いてみて、その続きを聞きたいかどうかです。

 

 

 

 

 

 

 

「本気になること」1171

 

「本気になること」1171

 

 ここで私は、歌や声を通じて、世界や歴史、人間の表現が、どのようにそれを変えてきたかまで扱っているつもりである。

 

 プロと一般を分けるべきという声もあるが、それは養成所では自らが決めていくことです。

 本気で取り組む人のいる世の中で、そうでない人が何かを成し得ることはない。

そういう基準やそれに足る努力の結果、他人に認められていくのであり、その量や質としても、どのくらいのことが必要なのかをここは示しているつもりです。

しかし、その前提として、目の前のレッスンに必死に臨まなくては何事も難しかろう。

 

 第一に、姿勢である。声を大切にしようとしたら、ロビーや電話での声の無駄遣いなど、できなくなるだろう。そういう人には、せめて、やっていこうとしている人に迷惑をかけないようにお願いしたい。

やれない理由捜しと、やらなくてもよいと思わせる友だちづくりの場ではあるまい。

 

 なぜ、学校にも弟子制にもしないかといわれることもあるが、学校でやれるくらいなら、私は音大や専門学校でやっている。人を出すだけなら、プロダクションのめんどうをみる。

弟子というのは、芸にほれこまなくてはいけないが、声は、芸ではない、その基本である。

 歌は応用であるから、基本をわからぬ歌い手は、人に与えられないし、また歌そのものが芸ではないから、そこに何をのせるかを先生がのせてあげたところで、何ともならないだろう

そこで、どこでも(というより日本では)、先生の活躍している場や権威を借りたいという下心で近づくことになる。そして、そういう輩の旧態然のネットワークが幅を効かすようになる。

若いときに偉かった人も、それに囲まれバカ殿となる。

そんな例を身近や他でも嫌というほど見てきた。

 

 歌い手が、もっとも“歌”から離れてしまったように、アーティストが、大手によるデビューやテレビでの露出度や有名プロデューサーによる客寄せに頼るところで(もちろん、それも実力であり、それとても力がなければ続かない世界でもあるのだが)、アートたるものから離れている。

 まあ、他人のことは他人事、やれている人、やっている人は、それでよいと思う。

 

 あなたは、ここに何を見つけにきたのだろうか。

 

 

 

「別れのとき」

 

 こういうところで多くの人と接していても、その人がやめるときに、はじめてその人の内面や本音がわかるということが度々ある。その大半は、文面などによることになるのだが、いつも返答に窮してしまう。

ということは、それまでの私のいってきたことを少しでも気にとめていれば、それは私に出すべきことでなく、自分を納得させるための方便にすぎないことだからである。

 

 そして、ときに、その人にというより、その人のようになりそうな他の大勢に対して警告するために、このような文を書くはめとなる。

それを当人に渡すことは、まれである。

 

 せめて、今世の別れのときくらいは、笑顔とまではいかなくとも、自分でその苦味を飲み込んだ方がよいからである。相手のためを思って、厳しいことをいって、恨まれてでも、本人が発起してくれるならよいが、そうでなければ、何もいわない方がよいとなる。

 

 所詮、わからず、気づかずの人、慢心している人、自分が正しいとしか思っていない人は、そこで何をいってもわからないからである。10年たって、どれだけやれたかみたらわかるといっても、10年たった頃には、当人はそんなことさえ忘れているからである。

 

 別れ際というのは、その人の真価の、そして将来性や可能性までみえてしまう瞬間である。

しかし、ここにきたときの心や思いさえも、忘れてしまって、それゆえ出会いもせず別れもせず、というのも、さみしいことである。

そして、また他のところを他の人のまわりを、さすらうこととなる。

一人よがりの一人相撲の正義に酔いしれて。何もできず、何も残さず。

 

 アマチュアのなかではなく、プロに認められるその基準というのは、声や歌だけではない。

謙虚さがなければ、忍耐力も伴わず、いかなる行動力も実を結ばない。

【トレーナーのレッスンコメント】5135字 1165

 

【トレーナーのレッスンコメント】1165

 

DesperadoはDsprado(Dにアクセント、デーと伸ばさずDでsにつなげる)と思うほうが、きれいに出しやすいようす。comeもcとmで、しっかり吐くといい。Don'tやDoesn'tのtはしっかりためる。強弱を意識するのはいいことだけど、弱の部分を、落としてしまうのは困る。Doorのrが前の部分に混ざってしまいがち。 

comeはcとmに集中して練習。“cyam”みたいな音になるクセは取ったほうがよいと思う。音がついても、発音がかわってしまわないように注意。静かに、ささやくように歌ってても、言葉の発音には変化がないことに留意。 

Doorがdrawerやdollに聞こえてしまいがち。rなのかlなのか、又、その位置を確認すること。口やあごに力が入りすぎているためだと思われるが、D、P、Cなど吐く息が少ないので、音が出にくい。Don't youはtをしっかりためた音にすれば、つなぎの部分がchuにならないハズ。 

Mなら、Mだけの音を取り出す練習が必要。(MOではなく、M)

余計な音が入ってくることを避けること。RとLの区別をハッキリとすること。できないと思う気持ちが一番前に出てしまっている感じがする。

 

“Desperado”/Dの音が弱く、Desperadoの語尾がドーになってしまいがち。Whyの頭がフワッと散らばってしまう。comeはカムじゃなくて、phonicsのcとmのつもりでいい。cできちんと吐く。yourはユで始まらないsensesの後ろのsは、にごった音。落さない。don't youは、chuにならない。tでしっかりためるつもりで。(全部つながっているDesperadoはpで吐きつつeradoと続く。 

Desperadoの出だし、デじゃなくてDで出すこと。DとOの音をきちんと入れてdoにすること。fineのiのけずれてしまうところも目立つ。全体的にフワフワした感じになってしまう。もっと思い切りよくやるとよいと思う。 

“So Far Away”SOはソーにならない。fはしっかり下のくちびるを押える。DはしっかりDでとる。doesn'tのtはためる。stay、away。place、プレースじゃないcはスじゃない。ItのIはイにならないように注意。fineのiの音はフルにとる。アクセントは→でもでもない。後者のようにと感じてしまうと、fineのiの音がけずれてしまう。mがゆるい。しっかり口をつけたところからスタート。doorはRで。 

 

~face at my door、~place anymore途中で切れてしまうのを、cで吐きながら次につないでいくこと。So far awayのつながりは、なんとなくつながった感じ。もっと、はじいたDとかPが出るとよいと思う。 

So Far Away 3行、Desperado2行。Bridge over troubled water♪feeling swallまで<アルファベット1つひとつの音を正しく取り出す> 

Desperado 2行。So Far Away 3行。

So Far Away 2行。Bridge over troubled water 1行 「音を聞く力をつける」何度も聞いて、そのとおりに発音。DESPERADO 2行。So Far Away 3行。 

DESPERADO 2行。So Far Away3行。

 

テーマ「音を聞く力」 アルファベット1つひとつの音を、正確に取り出すこと。 

Doorの音(Dにアクセント)、Dの方が少し強めに、という意識でいうとよいと思う。ドアだと思っていると。oが2つ分入らない。 

come→cでしっかり吐けば“cyam”みたいにはならないハズ。他のクラスの人も同じだったが、たとえばdoorは、rにアクセントでもアクセントなしでもなく、あくまでもdoor(dにアクセント)と覚えてほしい。

Door→R、place→L、far→R。しっかり区別する必要あり。Doorのアクセントは前にもってくること。 

繰り返しに弱い感じを受ける。comeの語尾がMUにならないこと。placeの語尾がSUにならないこと。 

全体的に口が開いてなさすぎる感じがする。Farはたてに開けるといい。atのaは口を横に開けると出やすいと思う。

<Jazz Chants Collection>

[1]Introduction<5min.>Greetings & Checklist

 Question & Answer(過去のチャンツを利用)/Lesson Plan

[2]Body <50min.>(1)Alphabet 26音&Phonics 基本26音+Combination sounds8音(5min.)/Grammar chants P62 ♯63(10min.)

テーマ:「行かなくちゃ!」(友人間での会話)タイトル:「Can't stay gotta go」Iとhave got toの省略された口語 使用曲名:ビートのみ/Grammar chants P34 ♯36(15min.)

テーマ:過去形 言葉そのもののリズム タイトル:It Was Raining When She Saw Him 例)turned and said good bye 使用曲名:Lupin The Third JAZZより“Bourbon Street Lullaby”♯2/チャンツでリズムを確認・歌う。♯5(20min.)使用曲名:BILLY JOEL 52ND STREET より“STILETTO” (2)Grammarchants P62 ♯63(5min.)テーマ:「行かなくちゃ!」(友人間での会話)タイトル:「Can't stay gotta go」Iとhave got toの省略された口語 使用曲名:ビートのみ/Grammar chants P34 ♯36(10min.)

テーマ:過去形 言葉そのもののリズム タイトル:It Was Raining When She Saw Him 例)turned and said good bye 使用曲名:Lupin The Third JAZZ the 2ndより“Bourbon Street Lullaby”♯2 チャンツでリズムを確認・歌う。♯5(20min.)使用曲名:BILLY JOEL 52ND STREET より“STILETTO”

[3]Conclusion(5min.)要点の整理・アドバイス…言葉にすでにリズムがあるので、会話もチャンツも同じ。音の高低を付け加えたら、Singできる。会話・チャンツ・歌うことは、ひとつのもの。/踏み込んで放す感じ。例)dark and wet, parted, turned and said good bye.等。/顔全体、充分に使う。口をもう少し大きく開ける。舌を巻いたりするスペースが必要。/when he,saw himなどは途中で切らないためにも、“h”で吐くことは大事。/質問など/Reviw(曲と合わせて)/

(1)言葉をリズムで追うことに、少し戸惑いがある様子。前回のチャンツ“Hello, how've you been?”よりも、今回の題材の方が、長い文だったから、余計に難しかったのかもしれない。言葉のリズムが、“STILETTO”のなかで、そのまま生きていることはわかってもらえたと思う。

(2)歌うことに追われる気がしてしまうのか、単語ひとつの発音を直してリピートしてもらったときと、歌ってもらったときとでは、常に単語一つ取り出したときの方がいい音が出ている。

(1)チャンツするときの、手のたたき方が、何かポワンとしてて、言葉もフワフワとしてしまっている。思い切りよく手をたたきながらやると、もっとよくなると思う。

(2)今日、初めて歌を取り入れてレッスンしてみた。言葉一つひとつのときに、クラスの2の方がうまく出していることが多いが、歌のなかでの発音に関しては、クラス1と、それほど差があるわけでもない。でも、2のクラスの方が言葉に勢いがある。クラス分けに悩む。“bought”を“boat”といってしまうクセがある。

次回の課題(予定)…(1)Chantsするとき、踏み込んで放す感じのために、1、2、3、4じゃなくて、1and 2and 3 and4 andで下と上でとってみる。

(2)Chantsするとき、踏み込んで放す感じのために、1、2、3、4じゃなくて、1and 2and 3 and4 andで下と上でとってみる。

[1]Introduction<5min.>Greetings & Checklist/Question & Answer(過去のチャンツを利用)/Lesson Plan

[2]Body <50min.>(1)Alphabet 26音&Phonics 基本26音+Combination sounds 8音(5min.)

タイトル:OnlyYou/タイトル:THE LOCO MOTION

[3]Conclusion<5min.>

(1)踏み込んで放す、バウンスする上下感。例・brand new dance now.(2回のバウンス)brand new, got the get the,など、d、tはそれぞれ、ためる音。口のなかのスペースの形と大きさに注意する。heartは丸い。loveは縦に開く。L・Hは、しっかり出すこと。弱くて、抜け落ちて聞こえないように。Do it, give it a chance, move a roundなど、途中で、切ってしまわない。Mではじまる単語は、しっかりと唇を閉じたところからスタートすること。

(2)踏み込んで放す、バウンスする上下感。例・brand new dance now.(2回のバウンス)brand new,got the get the,など、d、tはそれぞれ、ためる音。口のなかのスペースの形と大きさに注意する。heartは丸い。loveは縦に開く。L・Hは、しっかり出すこと。弱くて、抜け落ちて聞こえないように。Do it,give it a chance,move a roundなど、途中で、切ってしまわない。Mではじまる単語は、しっかりと唇を閉じたところからスタートすること。/質問など/Reviw(曲と合わせて)

(1)アクセントのあるところを、横に長く伸ばした感じにする傾向が全員にあるように感じる。whの音が、弱いのが気になる。hが先に出てしまうときもあるし、ふわっとしてしまう。

(2)二人とも、ONLY YOUを歌うということだったので、ONLY YOUのみ、扱いました。rの音を、もっと丸みがある音にできるとよいと思う。thrill,worldなどrとlが一緒になるのは、もっと大変な様子。

(1)phonicsの音を、活かしていくことは、思った以上に難しい。顔の一部だけで発音しようとしてしまう所がある。/質問など/Reviw(曲と合わせて)

(2)dreamやhandなどの語尾が、“Mu”、“Du”と、“u”が最後に入ってしまって、息が詰まってしまう傾向がある。

(1)顔全体を大きく使って、発音すること。

(2)語尾だけでも、そろえていくと、かなりよくなると思う。

<Skit (1)>[1]Introduction<5min.>/Greetings & Checklist/Question &Answer(過去のチャンツを利用)/Lesson Plan[2]Body<50min.>Phonics(5min.)/内容の説明とSkitの映像でそのシーンの場の雰囲気をつかむ。(10min.)/Skit(15min.)種類:コメディー 番組名:Full House テーマ:別れ タイトル:LUPIN THE THIRD JAZZ the 2ndより“Lupin the Third”♯1

[3]Conclusion<5min.>“h”の吐く音に注意。吐く音が弱いと、“he”が“e”になってしまう。/踏み込んで放すという上下感を。立体感。/音の長さを平面だけでとらえると、だらっとした言葉になって、波で聞いている聞き手には、わかりにくくなってしまう。/質問など/Review(曲と合わせて) 

スキットは、ちょっと難しいのかもしれない。

言葉を追うのに、精一杯になってしまって、スキットではなくなってしまっていた。

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ベスト盤アルバムが流行る 売り手側は製作コストを抑えることができ、買い手側はCDを何枚も買わずにすむという割安感がある、というのが一般的。一方でヒット商品をリードする10~20代女性の「こづかい事情」を調べた電通総研は携帯電話の影響を指摘する。「不況で収入は減っているのに、携帯への支出がさかんでCDに使える分が減り、買い得なベスト盤に走るのでは」と分析している。

 

漂流する日本語 漢字かなまじり 今の日本の言葉はこれまで2回、激変期をくぐってきたといわれている。最初は漢字がもたされた時期。万葉仮名の一部を使ったカタカナ、ひらがなができ、9~10世紀に漢字の音訓読みと、3種類の文字を使う表記法が確立した。「古今和歌集」や「源氏物語」はその揺監期の華といえる。2回目は近代日本の草創期。ポルトガル語や英語が伝わるのを受けて漢字の造語が盛んに行なわれ、新地平を開いた。のちに「和製英語」も生んだ。21世紀を目前に控えた変化は、前例のないものかもしれない。インターネットでの英語の優位性は際だち、英語使用は8割以上。日本語表記も縦書きから横書きへと変容しつつある。中国の人民日報も韓国の新聞も横書きに移る中、縦書きは日本と台湾の新聞、国語の教科書、俳句、短歌…数えるほどしかない。日本語はどこへ行くのだろうか。

 

横ばいの市場 ここ数年、CDの売り上げは100万枚を超える大ヒットが続き、音楽業界が潤っているイメージがあるが、実はそうでない。10~50万枚を売る中位のヒットが激減し、7000億円の音楽市場全体は数年来、横ばい状態。1993年に417人を数えた国内デビュー歌手は、97年には219人と半減。一部の音楽家の活躍だけが目立ち、音楽で食べていける人の数は減っているのが現状だ。

 

情報がつくる超ヒット 90年代に入ってから「メガ・ヒット」の時代といわれる。ヒットが「100万単位」で出ることを意味する。都はるみだって、ピンク・レディーだって100万枚を連発してはいない。松任谷由実の音楽的傑作は荒井姓時代といわれていても、100万枚を売りさばいたのは、バブル期である。75年、400万枚を売った「およげ!たいやきくん」は、珍しい例外である。だが、それらの歌は国民のほとんどが知っていたといっても過言ではない。しかし、近年の100万枚は「100万人しか知らない」ということを意味するというヘンなことになっているのだ。記録に残っても記憶に残らない「流行」や「ヒット」ここがまず「メガ時代」の大きな特徴だ。なぜか。大衆音楽録音物が「歌を心に残すために」買われているわけではないからである。たくさんの人の心に残った結果、「流行」といわれ「ヒット」の記録を残したのがバブル前。「メガ時代」に入り、ポップスを買う理由は変わった。

「友人と話を合わせるため」「流行といわれているから」。「流行」という言葉は強迫観念をまきちらす細菌のように人々の体に入り込み、ねずみ講のごとく感染者を増やしていく。疎外されることへの恐怖症。「えっ、知らないの」という疑問符が、流行のたびに「だれか」から発せられ、それにおびえ、つい「知っている」と答える。それが順次繰り返されれば「メガ・ヒット」が生まれる。「メガ・ヒット」をもくろむこの仕掛け人たちは、その最初の「だれか」を選び、耳打ちする「フレーズ」を考え、「タイミング」をはかる。そこに音楽に対する愛情や夢は希薄であり、音楽家が顧みられることは少ない。必要なのは「マスメディアを不安にさせ」「購買者を恐れさせる」情報力だけである。

 

 

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語録 

 

「シンガーとしての表現衝動にこだわりたい。それを突き詰めるとアカペラなんです。それと、音楽表現に対する問題提起。歌手よりスーパープロデューサー、いやカリスマだと、クリエーター願望のまん延に疑義がある」「歌こそが人間の一番根本的な表現。なにより神の領域に近いわけだ。舞踏と共にね。何のために音楽をやっているか、自分に問いかけなきゃ」「今の音楽ブームは総じて“ファッション”でしょう。『産業ロック』『お化粧バンド』『ファッションR&B』どれも素人による『テースト(風味)』でしかない。歴史を黙殺する全体主義化して、他を封じる策を講じるのは長けててね」(山下達郎)

 

「声の良さだけで歌手になれる場合もあります。でも、第一線を維持するのは難しい。間違いを少なくして、成長していかねばならない。最も必要なのは、勉強と練習です。それに、健康、観客の前で上がらないこと、強い精神力。もうひとつ大事なのは、どの役も同じように歌わないことです。つまり、役を歌うときに、その役になりきること。そのためには、役の性格などを自分で考えて、自分だけの役にしなければならない。それができれば、他の歌手との差がでてきます」(ソプラノ カーティア・リッチャレッリ)

 

「音楽は元々、祈りだと思います。祝詞は揺れているでしょう、あの揺れにメロディーがつくと歌、体の動きを合わせると踊りになる。モンゴルへ行って、ホーミーを聴いたり、羊の解体に立ち会ったりしたんですが、あそこは草原があって、空があってという簡単な世界。そこに羊がいてそれが草食って、その羊から毛糸を紡ぎ肉を食って人間が生きている。単純明快なんです。

80年代後半から、気持ちのよくなる部分だけを商業主義で抜き出してパッケージでどんどんばらまいている。結果、どの音楽を聴いてもさして差がない。これって、今の日本人全体の相似形なんですよね。」(坂田明)

 

「今の若い子は『オハヨー』『オツカレサマ』で、さっさと仕事を終えるけど、オレたちは昔からケンカしまくって音を作ってきたし、それだけ深く広いつきあいをしてきた」(村上ポンタ秀一)

「若いコは新作中心で、以前ほど昔の音楽を聴かなくなった。人と同じ音楽を聴いていると安心する」(某大手レコード店店長)

 

「僕は『息でやれ、狙うな』と教えられた。意図して音を出す瞬間を狙うと、音が死んじゃう。呼吸というものを重視するんです。」(仙波清彦)

 

ベンチャーズが『君たちもこれを持ってやれ』とエレキを差し出し、ビートルズが『やればいいじゃないか、自分たちが歌いたいように』と言ってくれた。その彼らも根っこに古いロックンロールがあり、それを徹底的に学んでいた。今はそういう伝統から断絶していて、音がでかいだけの貧しい音楽になっている」(作家 芦原すなお)

 

「強いチームの根幹をなすのは、強い『個』である。『個』が強くならなければ、強い『組織』などつくれるはずがない。強化の基礎となる自立した『個』をつくるところから、私のチャレンジは始まった。それは、自分の頭で考えることができて、しかもそのスピードが速い「知のスピード」をもったプレーヤーを育てることだ。そのプレーヤーは、どのように変化する状況においても壁を破っていくことができる。」(平尾誠二)

 

「むずかしいことを やさしく やさしいことを ふかく 深いことを おもしろく」は自分の作品を書くときの心構え。(井上ひさし)

 

「日本のプレーヤーは、よく走り、整ったフォームでしっかりと打ち返し、練習をよく積んでいるとわかるが、イマジネーションに欠けている」(マレーバ テニスプレーヤー)

 

「私は常に精神と身体の融合を目指して仕事を続けてきました。身体の技術を真に追求することは、真の精神の追究を必要とすることです。このことを、私は日本の武道を通じて学びました。武道は身体とともに精神を駆使するものだからです。近代のダンスは、身体の動きと精神的瞑想を、まさに武道のごとく融合させることができるものと、私は考えています」(振付家 モーリス・ベンジャール)

「現代人は、電機映像に翻弄されて、本物の自然に触れることから遠ざかっている。心に響く日本画に出会うことが少ないのは、そんな現代人の眼に、どう応えるか、ということに画家が汲々としているのかもしれない。藤原定家の歌の心(「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ」)は、きわめて視覚的だが、絵になる自然に出会っている。絵にする自然と絵になる自然は、眼と心の置き所は違うのだと思う。」(京都市美術館学芸課長 平野重光)

 

「自宅には人形の姿はまったくない。完成するとすぐに倉庫に移してしまう。置いておきたくないんです。人形というのは、髪の毛を植え、簪をつけ、着物を着せというふうにふけ加えていくものなんです。だから、あるところで区切らないとどんどん装飾過多になっていく。目の前にあると気になって次へ移っていけないんです」(人形師 ホリ・ヒロシ)

 

「それほどのエネルギー(趣味に対して)を、仕事にも注いできた。そのパワーが、僕はひとつの才能だと思うんです。この才能を持った人が人より(何事も)できるようになる。他の人より長い時間努力するから」「これ以上長く音を出したら、息が切れて死ぬかもしれないと思うことも。でも関係ない。死んだって平気だし。そういう極限のことをやっていくと、次に伸びるんです」(日野晧正)

 

「イタリア人は、しゃべっているだけで音楽が流れている。イタリアの伝統を知り尽くした厳しい聴衆にさらされることも勉強になります。声にあわないものを歌うとお客さんが納得しないし、表現に関しても、今の歌い方は違うなどと、楽屋に言いに来る。そういう昔からの歌い方を知っている聴衆の方にも納得してもらったうえで、自分を出せる、いわば職人的な歌手になりたい。そのためには、自分を知ることがいちばん重要でしょう」「コンサートに来てくださったある方から、自殺を踏みとどまりたい気持ちになった、と伺ったとき、自分の底にあるものを受け止めてくださる人がいるのだなと思い、責任を感じます。そうしたものを伝える不思議な力を持っていると思います。」(テノール 佐野成宏)

 

「外からのエネルギーでしか動かない日本の音楽マーケットの底が露呈したかな。テクノロジー音楽のなかで伝統的ローテクが新鮮に感じたのだろう。もちろん、起爆剤としては歓迎。ブームをきっかけに、音楽そのものを見つめる目が出てきてくれればいいんですが」(ちまたのラテンブームに対して)「ラテン音楽はハプニングすることが命。演奏の瞬間に、技術とかコンセプトとかを超えた、考えられないような音楽を創造する。これが、演奏側も聴き手も醍醐味です」(熱帯ジャズ楽団 カルロス菅野)

 

文楽の人形は、首と右手を使う主遣い、左手を使う左遣い、足を使う足遣いの3人で使う。まず足から始めて10年、次に左を10年以上修業して一人前の主遣いになる、と言われる。/芝居の始まる3時間前に楽屋へ行き、人形を鴨居に吊って一人で足を使うけいこをしました。まだだれも楽屋には来てません。廊下に吊ってあるツメ人形(端役の人形)で女形の足のけいこもしました。教えてくれそうな人が通りかかったら、わざと下手に使う。そしたら、「何じゃ、その足は」と言われ、使い方を教えてもらうんです。 舞台をよく見て覚えたのが10代から20代。今はビデオがありますが、僕らの時代は舞台を見ておかなかったら、すべてが消えてしまった。今の人はとにかくビデオに頼りがちですが、それではいけません。ビデオと(生の)舞台は違うからです。若い時はつい、けばけばしい、動きの多い役に目が行き、まねのしやすいのを見習おうとしますが、いつまでもそれではいけません。30代では自分の使う役(立役か女形かなど)の方向を決める。40代でその役を深めるよう勉強していく。僕の場合は、どんな役でも代役ができる心構えでやっていました。50代には、お客様に見てもらえる芸に到達せないけません。それから後は、自分で勉強して役を納めて(作り上げて)行かなければしょうがない。私もまだまだ勉強中です。」(文楽人形遣い 吉田玉男)

 

「テクニックはあるし、情報もいっぱい。でも、何かを忘れてる。演奏を聞いていても、本人の話を聞いていても何かが欠けているんです。何でしょう。人間としての底辺ができてないような。私たちは「富士山に登ったらすそ野が見える」と教えられた。他のことは何もかも捨てて、ただ、一番になったらいいではだめ。バイオリンだけじゃなく、他の勉強でも同じ。バイオリンは心豊かな人間をつくるためのひとつの手段です。バイオリニストにならなくてもいいんです。音楽の勉強でもどれだけ集中して耐えるか、その上で初めてできるものがある。暗中模索なしにポイッといってしまうと枝葉が分からない。人としての成長度と自分がやっていることの成長が一緒になって初めて底辺のようなものができる。そんな中からバイオリニストが出てきたらいいんです。そうでないと世界的な演奏家は生まれませんよ。20、30歳を過ぎたらだめになります。/このごろ、「個性、個性」とよく言われるが、オーソドックスなものをしっかり身につけて初めて「個性」が出てくる。戦後、コンクリートの打ちっ放しの建物がはやったが、音楽もそうでした。「どないなるのかなぁ」と思っていたらカサカサの音楽がはやった。でも、今はそういう時期を越えてまたロマンチックな音楽が戻ってきました。「新しいものを加えながら、大切なものを捨てないで行く」ことが大事です。」(バイオリニスト 辻 久子)

 

 

 

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おすすめ

 

【ドン・モーエン】

クリスチャンの同僚と、ワーシップ(福音)活動が職業の白人のゴスペルコンサートに行った。-般が思っているようなのでなくて、それよりはフォークだった。聖書の出版社の招碑みたいで、日本の司会のおっちゃんが、幕開き一番“ハレルヤ”。同時通訳や手話もあった。音楽的にどうなんかは私には見る力ないし、入れない者にはツラかった。が、“ぶれっしんぐ、なんとか~”とか“せれぶれいと・ごっと”とか礼賛の歌なのに曲想が、“イエイ”とか、ブンブンできそうに色彩があって、ポピュラーと遜色ない。娯楽の音楽も、礼賛歌も生活や民族に自然と身にまとっているものであるということ。  

 

いっこく堂

ホテル・ニューオータニで、ディナーショウをする腹話術師って何者やって思ってたら、「ぴあ」がとてもオシャレにライブの紹介をしていた。63’沖縄生まれで、宇野重吉劇団民芸に籍を置いているのだそうだ。30歳半ばってもう世の中でリーダーシップをとる年代なんだな。“芸人”のひびきが持つしみったれた感じはなくて、慶応ボーイみたいだった。新世代だな。歯一つ見せないで、初めはウソかと思った。ほほ骨のところだけ動いていた。台本は笑える小ネタがたくさんあった。3年くらい必死で修行したそうだ。舌をすごくやわらかく、自由に使えないといけないみたいだ。どんな育ちをしたら、こういう芸に夢中になって、腰据えて練習できるのだろう。いやすごい。何人もの声を使い分ける離れ技。ラスベガスでの演目も披露していた。獲得すべきは自由なからだと無心なココロ。

 

アレサ・フランクリン

和田アキコばりの身長と森久美子の約2分の1ほどの横幅もある体から出る声は、パワーに満ちあふれていた。彼女の名前はよく耳にしていたが、LIVEを見たのは初めてだった。噂通りの声であった。体の底から湧き出てくるような声。彼女のお腹から出て、私の腹に入ってくるように感じた。やはり何事も「元の場所」に帰る習性があるように思えてならなかった。表情も豊かで顔で歌っているといっても決して過言ではなかった。彼女のなかでキーによって表情を使い分けているようでもあった。それは彼女にしてみたら自然であって、そうすることがベストの声を出すようになっているのだろう。ステージにおいて「声だけ」による聞かせどころがいくつかあって、オーディエンスもそれがわかっているようで、拍手や歓声で彼女に応えていた。彼女を見にくる人たちも何かを求めていて、それを彼女もわかっているみたいであった。また、それに対して応える彼女はやはり素晴らしいと思う。このLIVEは少し古めのものと思うが、それでもまだ充分に聞けるのは、それだけの価値があるということだろう。時代に流されず、生き続けていくもの、生命力に満ちあふれているもの、それが「本物の証」なのだろう。あと、MCなども小じゃれたセリフをいってみたり、ユーモラスを加えてみたり、時にはシリアス、またはセクシーに1人でさまざまな役を演じる役者のようだった。どのような感情の表現もうまくこなしていた。ただし、セクシーさ意外は。バックコーラスや楽器の人たちにも彼女の心づかいというか、花をもたす一面もあった。それにしてもバックコーラスの高音はすさまじかった。充分1人の歌手としてやっていけるレベルだった。何曲も続けて歌っても疲れを感じさせない、安定した声で、ポジションも深い位置のまま。私ならとっくに喉にきているだろう。全ては発声、プロとしての体の違いだろう。

 

[アバ]

フロントの2人女性ボーカルはとても美しい声をしている。ライブ前半でのしっとりした曲では、まるでカーペンターズのように聞かせてくれた。ただ少しアップテンポの曲になると、なぜかインパクトが弱く入り込めない。彼女たちの美声には、あまり力というか、踏み込んで体が揺さ振られるようなものがないと感じた。しかし、当時のお客さんたちは、喜んで聞いていた。時代の流れに乗っているせいもあるだろう。それとも私にはまだ耳がなく、アバのよさを聞けていないのだろうか。彼らの代表作である「Dancing Queen」は、ライブでも聞きいってしまった。この曲は、かれらの長所がとてもよく活かされた名曲だ。美声にメロディーがうまくマッチしている。時代の流れの後押しがなくとも、充分にヒットする力があると思う。この曲で会場が盛り上った後、それに拍車をかけるようにノリノリの前奏が始まった。アバの曲をほとんど知らない私は、これでメインヴォーカルの女性2人が歌い始めたら興ざめもよいところだ、と不安になった。しかし歌いはじめたのはバックにいる男性であった。これでほっと一安心。女性2人のヴォーカルはコーラスで美しい声を活かし、盛り上げた。男性ヴォーカルも悪くはない。彼女らは、コーラスでとても力を発揮する。この曲では、彼らも自分達の役割をよく知っているのだと思った。自分自身を知ることは容易ではない。冷静に自分自身を見つめて修正すべきは、すぐさま直せるようにしていきたい。それと同時に、自分の武器になるところは、充分磨いて前面に出していく。これは成功の基本原則だ。先生も常日頃おっしゃっていることだけれども。 

 

 

とんねるず

とんねるずのコントはテレビでの活躍がメインになってしまった昨今、ほとんど観る機会はない。正直いってあまり期待していなかった。その期待は完全に覆された。のっけから舞台に引き込まれた。ダチョウ倶楽部ではないが、“つかみはOK”だった。ライブ会場のどよめきがビンビン伝わってきた。彼らは完全に観客を巻き込んだ。それも最初の1分もたたないうちに。小道具のピストルの発射音をとても効果的に使った技だ。彼らは観客が何に反応するか、よくよく心得ている。ハイジャックのコントだったが、会場のお客さんを乗っ取った飛行機の乗客とみたたてて、進行していった。何ともうまいもっていき方だ。人に働きかけるということが完全にできている。3本目のコントでは、新人漫才コンビに扮して、演技というわけではないけど新人漫才師のそれぞれのキャラクターをかなりデフォルメした形で表現していた。それも「笑い」を考えた上での結果だ。その2人のやり取りのなかで「お前は0.5秒ツッコミが遅いからだめなんだ」とかいうセリフが出てくる。ギャグも含んだものだと思うが、こうした一瞬の間は、コントや漫才でもとても重要なものに思える。歌のフレーズでも鋭く入るとか、少し遅れるとか、よく先生方に指摘されるのと同じだと思う。それがよく見える人にとっては、大きな違いらしい。とんねるずはそうした間や呼吸、その他コントに必要な要素をよくわかっている人達だ。最後のコント「毒コブラ座」は本当によかった。まるで短編映画のように中身がギュッと詰まっていた。まさに笑いあり、涙ありのラブコメだった。「笑い」のほうも、とんねるずのよさがバンバン出ていたし、何よりもストーリーがよかった。観終わった後も余韻が残るコントは始めてだった。30分足らずの短いコントでこれだけ人に伝えられるのは素晴らしいことだ。

 

[ジャニス]

いつも激情を胸に秘めている。歌うときは、その激情を暴発させることなくコントロールし、作品にしている。激しい感情を歌にするヴォーカリストは、ポピュラーの場合、たいていハスキーヴォイスか変わった声質の人が多い気がする。エディット・ピアフしかり、カルメン・マキしかり、そして日本でも殆ど知られていない昔のステージ実習の課題曲「傷心」の大友裕子もそうだ。人間の生の叫びのようなものは、やはり美声では置きかえられないのだろうか。やはり、どうもイメージが結びつかない。ジャニスも声だけ聞くと、しゃがれていて悪声なのだけれど、彼女の作品のなかでは、彼女の声は、人々に伝える強力な武器となる。ジャニスの曲は、あまり知らないので簡単に判断していいのかわからないが、彼女をモデルにした映画「ローズ」のベット・ミドラーの歌のほうが私にとって衝撃であった。しかし、そんな映画まで作らせてしまうジャニスの影響力を知るために、もっと彼女の作品に触れてみようと思う。 

 

 

[スティービー・ワンダー]

CMに出ているが、そのなかで「Yeah」といっている場面があるのだが、これだけでもう歌だな、と思ってしまう。きっと会話の一部分だと思うのだが、すごく引寄せられてしまう音だ。 

 

「World music award 2000」

世界中の一流アーティストの歌を聞いた中で、“ノートル・ドゥ・パリ”のメンバーの一人、「ブルーノ・ペルティエ」が、そのミュージカルの歌を歌っていたが、本当にすごい声量、声域。体全体で歌っているので、聞いている私が彼の声を受け止めるのにすごい圧倒された。直立不動で歌っているのに、声だけで会場をのみこんでいた。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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レッスン感想 1167

 

 

印象に残ったのは、先生のいった「どんな人でも、bestを取り出せれば、1音ならプロ並みのものを出せる」という言葉。本当かなー、と一瞬疑ってしまった。一緒に声を出しているときに、発声のつっかかりを感じた。のどがきゅっと締まってしまう感じがした。また、音の密度を濃くしようとすると、のど、肩、胸などに力が入ってしまう。やはり、そこに何かを込めて伝えようという気持ちが引いてしまっている感じがする。だから、歌い終わっても、体から何か出たという感触がない。 

 

同じ曲を歌う、外国人歌手と日本人歌手のとらえ方、感覚、表現の違い。ていねいに歌詞を歌い、声を響かせている日本人歌手はなぜ、聞く側に直接伝わってこないのか。まったく同じ曲を聞いている気がしなかった。聞き比べると、ものすごく日本語のほうが音を伸ばしていて響かせてばかりで、演技臭さも入っていて。(このようなことをいえる身分ではないけど)ピアフの歌はなぜ、こんなにも感情がストレートに伝わるのだろう。そしてとても「音」としても魅力的でひきつけられっぱなしだった。「日本語」をフレーズにのせる音声の表現の難しさをすごく感じた。しかし先生がさらりと歌った「日本語」はストレートに伝わってきた。 

 

同じ曲を使って、日本人歌手(岸洋子美輪明宏など)や外国人歌手(エディット・ピアフなど)の音楽に対する感覚、表現の違いを感じる。

同じ課題なので、より“音も持っていき方”の差や人に伝えようとする“魅せ方”の違いを感じる。時代や文の違いは大きい。しかし外国では時代が変わっても、基本となるベースはまったく変わらない。日本は時代の流れにずいぶん影響される。

 

先生がとてもとらえやすいように、日本人歌手の歌い方をやってくださった。セリフをいうときなんか(歌のなかで)日本語だととてもわざとらしい。音のなかに入れようとしてすごく不自然な感じ。しかし外国は、話し声からスッと音になるから、今までの音楽をとらえる感覚の日本と外国の差、文化の差を本当に改めて感じる。もっといろいろなものたくさん観たり、聞いたりして「感覚」を捉えられるようにしたい。

 

「楽器の音色を自分の“声”で表現する」いつもはプロの歌声を聞くのだが、人の声だと、その人の“クセ”をまねるだけの“ものまねの超縮小版”になってしまう分、楽器の音色は素直に聞けるはずだと思っていたが、全然“音の波”“波”が自分の声にはなかった。やはり“音程”に頭が入ってしまう“拍のリズム”も、その音楽の世界に中に自分の声が入ってしまったら、ぶち壊してしまう。 

 

トレーナーがおっしゃった“演奏側”になって音をとらえなくては、音に対して鋭くとれないし、聞けていないという言葉は、すごく自分に伝わるのだが、“頭でわかっても体が反応できない”同じ曲でも演奏の異なる作品をもっと聞いていこうと思う。奏者ごとの音の出し方、使い方、世界観の違い、それと全ての奏者の共通点は何なのか、そういうことを本当に大切に感じていかなくてはいけない。先生と私は“同じ曲”の同じ音色が聞こえてくるはずなのに、自分にはとらえられないもの、気づけないものが沢山ある。先生の耳や瞳や体には何が映るのだろう、といつも思う。 

 

圧力(凝縮)とは、一体どういうものか。今の自分において考えられる、感じる点といえば、タンポポの綿毛が散っているようになってしまっているのが、拡散してしまっている状態で、圧力はその反対にホースのなかを水がゴムを膨張させながら進んでいくような状態のような感じがします。さらに、もしかしたら、声をつかんた後、次の踏みこみが行くまでの間、もしくは、離すまでの間の、息の筒の長さ(その言葉をおくスペース)を短く意識し、そこにグワッとひとつに詰め込む感じかもしれない。でもそれだと声が詰まってしまっているというか、何となく不自然というか、何かしらしっくりこない。だから、とりあえず今のところは、前者で、しばらく気づくまでは試してみようと思います。とにかく、息を抜いたり、拡散しちゃったり、押しつけたり、もたれたり、ズリ上がったりするのは方向違いと感じるので、直したいし、気をつけたいです。私は息を抜くクセが強いような気がします。 

 

「音楽をする状態」に入る。(これは本来なら、音楽や歌を将来やっていきたいと思う人間なら、あたりまえのことなのに、そんなことをトレーナーに指摘されてしまうほどの反応の鈍さ、反射力、集中力の欠如なのだと思った)前奏の第一音から世界に入りきる。音にもっと敏感でなければ。「聞こえたものを出す」歌詞の先入観を取る。1フレーズを鋭く取る。途中でぬいたり、出だしの入りがぐにょぐにょと入らない。(そう聞こえてしまうのは、表面の雰囲気に流されていて、歌手の声そのもののフレーズのとらえや、強弱に、よほど鈍感かということだ) 今持っているもの、そして感じたものを最大限出そうとしなければ、自分の欠如や課題すら見えない。 

 

今回、いつもより少なかったので、自分の声、そして1人ひとりの声がよく聞こえてきました。同じ場でありながら個人のときとは違いがあります。同じメニューであっても大きく出そうという思いが強いように感じました。それはしっかりと自分の声を聞きたいという思いが強いがために、必要以上に力で持っていこうとしているからだと思います。ただ、今回の場合は少なかったためか、その感覚は少なかった。結局、こういうことが“力み”をつくってしまい、フレーズ感のなさにつながっている。最近感じることは声は少しづつ出るようになってきているのに、同じだけ音楽になっていかないということ。他の人のを聞いたときの判断はそんなに間違っていないと思うのに、自分のこととなると、別のことをしてしまう。だから、少しは深くなった声、息が、今一つ活かされてきません。1フレーズぐらいのときはまだましだが、2つ、3つと続けていくと、それらを余計に感じてしまいます。

 

最近のレッスンでよく耳にするのは「線を描く」「息を流す」「力で歌わない」「イメージする」などである。力一杯で歌っていたレベルから、体は使われているが、そのレベルでなく、少ない息で効率よく音に変えていく、というレベルをめざしていかないといけないと思いました。今日の課題のフレーズも力でもっていかないで、大きさを出していくということを少しでも出せればよいと思い、取り組みました。前述のように「たとえこの愛が」「いつか終るとも」「この命消えるまで」「あなただけ」など、ひとつのフレーズを回していくときは、まだ素直さが感じられるが、いくつかのフレーズをつなげたときはつながっていきません。それぞれのフレーズが独立してしまう。

 

声を出そうとするんじゃなく、線を描くことをイメージしながらやったので、いくつか、そのイメージに近いものが出せたと思います。やはり、出そうとすると体は声が出ているように感じるが、押さえつけているようになり、流れていかないなと思いました。比較的うまくいったときは、何か少し足りないなという感じを受けるが、どこにもひっかかっていないので気持ちはいい。少しづつではあるが、曲を聞くときに、以前よりは声量とか、声のよさなどの表面的なところでなく、1つひとつのフレーズをどう動かし、どう反応しているか、声の使い方はどうか、などというようなとこどが気になりだしてきました。

 

聞き手は素直で心地よいもの、ストレートなものは聞くし、その人にも興味を持つようになる。好き嫌いの前に、共通して受け入れるものがあるということをきちんと認識していかないといけない。ステージでなくても、通常レッスンのなかでも、比較的素直にいったときは、まわりの反応も微妙なものだが、違いを感じます。素直にというのは、決して声の大小とか、きれいだとかではなく、ひっかかりなくストレートに出せたときのように思います。

素直であれば前述のように、正直なものでまわりの人は声を発した人のほうに反応する。自分に置き換えてみても、まったく同じことをしています。いいものはいい。そうでないものには反応しない。「素直」というものがいろいろな形、意味で使われ、そしてその大切さを一つ違うレベルで気づけたようです。 

 

この場でできなかったこと、できないということがわかったことパバロッティの「YEWYORK」のNEWは、上から下へ、右回りにぐるっと円を描いていると思った。だから、「ニュー」→とやってしまうのは違うのはわかる。私はいつも、たった一つわかったことでも、それをできずにいるのは、意志でもって変えていかないからだとわかった。先生にいわれて気づいていること自体、情けない話である。

 

「YORK」は「NEW」でつかんだところから、広げて、ほかる感じにきこえた。ここではやはり、息が必要だ。それもはなして、とばすだけの息。なのに、私は、ものすごく力が入ってしまった。NEWで、つかめていないから、そこから動かせないのはわかった。NEWがYORKにかぶさる感じになってしまった。硬くて窮屈なNEW YORKになってしまった。もっと上半身をリラックスさせようとしたが、気持ちの上でも、そこまでもっていくことができずに終ってしまった。

 

今日、やろうとしたことを細分化して、詰めていけばいいのだと思った。途中、トレーナー先生の話がわからなくなりかけたが、「あー」で、やったらなんとなく飲み込めた。先生の「あー」は、全然違う。そこに自分の詰めの甘さを感じた。先生は、あの「あー」にたどりつくまで。きっと私の想像は、及ばない量と、そしてひとつのことに対する、ものすごい執念で取り組んできたのだと感じた。確実に出せる。先生の体の下の方から、声の芯なのか、何か強い意志を持ったものが、先生の体のまんなかを通って口から出てくるのが見えた気がした。

 

息の層が、クリアな声ではりがある。それは、密度の高い息の芯なのか。でもそのまわりを囲んでいる。息を吐いているけれど、息まじりの声ではない。力強さもある。だけど、硬くないのだ。私と比べるのもおこがましいが、比べていかないと、課題も見えてこない。同じ環境のなかで聞けることは、CDを聞くのとは別のところで、ものすごくわかりやすいし、勉強になった。 

 

この約1年のレッスンの内容を見返してみると、今回のレッスンで1つの大きなテーマがみえてきたように思いました。歌ということに対して1つの捉え方をずっとしてきたようで、野球でいえば、ひたすらストレートを投げ続けていたといえます。それも、しっかりと下半身を使ったものではなく、上半身に頼った腕の振りだけで投げているような感じです。しかし、これだと疲れが出て、それだけならいいが、肩、ひじに必ず障害がくるはず。ヴォーカリストならのどにくる。どんなに速くても(いくら声量や声域があっても)そればかりだとバッターは目が馴れてきて、打たれてしまう。(観客は飽きてしまう)。ところがそこに緩急などの変化が入ったり、絶妙なコントロールがあると、打者は見事にタイミングをはずされてしまう。さほど速くなくとも打ちとれる。だが、これを可能にするには全ての球を同じフォームで投げられないと半減してしまいます。そう、このフォームがとても大事になってきます。

 

大きな声、強い声、弱い声、小さな声、ファルセット、ハーフボイスetc.が全て同じ型になっていないといけないはず。それぞれに出し方を変えていたのでは、息は止まってしまうし、フレーズにならないのでしょう。冷静によく聞いてみると、単純にうまいな、心地よいな、と耳に入ってくる歌は、押してばかりでなく、引きもあり、その中間もあります。ワンフレーズならまだいいが、1曲3分となると、ワンパターンは必ず飽きられてしまう。それが何曲も続いたらさらにです。今一度、世の中歌い上げっぱなし、声量だけでない音楽やヴォーカリストがいることのなぜかを知らないといけない。そういったものが何十年と残ってきているという事実。体を使うということ、出すということはなにも→と出し続けるということだけではないということ。

 

日本のヴォーカリストは、ここでいう深さは確かにない場合も多い、しかし、プロのヴォーカリストとして持っている共通の部分はあるようです。それは一体どういうものだろうか。声をふくらませたり、すぼめたり(<>)、線を描く(~)、柔らかさ(○)、keep力(――)など。そして、声を出すということばかりを考えていたので、やっていけないと思っていた「抜くこと」「響かすこと」「ハーフボイス」など。これらはやってはいけないのではなく、どういう体、息、心の状態であるかで、生きているか死んでいるかということをいっていたのでは、と考え直しました。だから歌は力じゃないというのだろう。

 

ヴォーカリストの条件のひとつとしてpowerが必要であるが、それは=力でということではないんじゃないのかというふうに感じてきました。Powerが生れてくるのは正しい身体の状態、そして精神が集中されているときではないか。いくら大きな声が出るようになっても、声量がついても歌えるものではない、ということの意味を少しづつではあるが、感じとれてきたのではないかと思います。身につけていっている人が行うメニューの一つひとつには裏付けされたものがある。だから伸びてきたのでしょう。

 

まず「量」をやったかという問題があるが、「考え方」(質、内容)がかなりのウエートを占めているようです。「力を抜く」というのも、気を入れてそういう状態をつくりなさいということなのか。自分では力を入れていないつもりだが、レッスンのあと、少し声がかれてしまいます。出していくなかで少しづつ、力が入っていて蓄積された結果なのだろう。今回のメニューのひとつに<または>で出すというものがありましたが、>は比較的やりやすいが<がうまくいかなかった。息の量で調節すべきなのを上の方でやってしまう。だからさらに<>になると難しかった。コントロールは当然のことながら力が抜けていないとできない。

 

今回レッスンのテーマ1無駄な力を抜く。2出しっぱなしではワンパターン。飽きられてしまう。3ハーフボイス・ファルセットなどではだめなのでなく、ひとつの表現方法であるから、使っていけばいいが、問題はその状態がどうであるか、ということ。4どんな声であれ、要求されるのは息である。そしてそれと集中したものがあれば作品になるということ。凝り固まった状態が少し柔らかくなったようです。息が流れているというのがどういう状態をさすのか、ということを前より少しは前進したのではないかと思いました。 

 

ヴォーカル、声の基礎、基準をみつける。やはり、テンションやスタンスの甘さがいけないと実感した。まず最初のモノローグからしてつまづいてしまう。何を書けばいいのか。うそばっかり、みせかけだけの文章しか書けない。いざ本番、カメラの前に立ってみると、何もいえなくなる。心のなかでありったけの言葉かきあつめるしかなかった。でも、今までで一番高いテンションでストレートに声が出たと思う。だからといって、そこから音声表現がなりたっていいるかといえば疑問だ。力が入っているし、そこでやっとスタートラインだと感じた。

 

どうしたら、ひきつけられるのだろう。分れて課題を使いながら声の基準の持ち方、無理に届かせようとしても無意味だ。どこかで入り込みつかむ。メリハリのついた波をつくりだせないと持たない。なにしろ3分間の歌のなかでは特に。前にとばすことは大きく出すことと思っていた。それでのどを痛めてしまったりもする。まず言葉をつかまなければ、でもそれを歌にすることも難しい。日本語は特に一文字一文字の間が長くなると、間延びして薄まってしまう。 

 

ステージというものを考えた。その人が現われて、ぐっと客を引きつけ、刺激するものは、一体何なのか。モノローグでは、最もその辺が見れたように思う。一つ思ったことは、自分のために、舞台に立つ、何かしゃべったり歌ったりするのではなく、目の前にいる人々のために、行うことだということ。自分のためというか、自分の勝手で、自分のことを語ったりするのではなく、人のために自分を語るのだろう。モノローグでは、多くの人が、ステージではなくAスタの壁ぎわに立っている人が何か発表して中央にいる人々は黙って聞くという状況になっていたと思う。ただそう思ってやっても伝わるものではないと感じた。そこに何が必要なのか、を煮詰めていく。

 

言葉の課題は、特に新しい世界がとんできたというのはなかったが、真剣さで差が出たように思う。言葉に真剣さが滲み出ていて、剣のように鋭く耳に入っている人がいた。日頃の生活が現われるのだと思う。改めて、振り返ると、自分のなかに引っ込んでいたなとつくづく思う。常とはいわずとも、人前に立ったときは、上で書いたように意識を、外におくことをやらないといけないのに、普通に自分をやっていた自分が何とも情けなく、いやしく感じる。

 

後半の歌、それへのアドバイスは、だいぶ具体的だったので、特に感じ入るということもなく、直接的に受取ったが、自分ではわからないことも多くあったので、映像や録音などを通じ、理解したい。

先生のコメントと「冷たい」から歌唱までを聞いて思ったのは、音楽のなかでのルールみたいなものをもっと意識し、勉強しなければ、ということ。 

 

いかにして場(ステージ)をなりたたせるか。場(ステージ)に立ったとき、いかにしてその場をつくっていくか。また、すでにつくられた場であるなら、どのようにして自分がそのなかに入っていくのか、そのなかで人をひきつけられるものは何なのか。ただ勢いとテンションだけでは人をひきつけ続けることはできないと感じた。そして、場も含めて、息や声全てにおいて、これくらいはできると感じていたことが実はまったくできていなかったこともよくわかった。 

 

このレッスンは“出たもの勝ち”だなと感じました。そして過去の合宿自分は不参加だったのですが、“出たもの勝ち”だったのだなと思いました。歌のことだけに集中できる。こんな日が毎日だったら、幸せだと思いました。

 

私はマイナス思考が強いので、せっかく集中できるチャンスについつい“だめだから”と思って気が散ってしまいがちなのですが、最初に、思い切り自分を出すようにとか、楽しむようにとか、自分のよいところを見つけるようにいってもらえたので、“出せてた”かどうかは別として、気持ちの上で、自分や歌のことに集中できたので、とても充実感を味わうことができました。最初のモノトークは全然変わっていない自分にガク然としてしまいました。そして、これも先生からコメントがすぐもらえたので、自分がだめだと思っていること自体が勘違いであることにすぐ気づけて幸いでした。

 

せっかく2年間“自己表現講座”をあんなに受けて学んだことが全部とんでしまっているので、ステージに上がることは自己表現なのだと、キモに銘じたいと思います。言葉の練習は本当に勉強になりました。ブレスヴォイスに入った頃、本で読んだりレクチャーなどで聞いたときは何のことだかさっぱりわかっていませんでしたが、この練習で自己表現の楽しさを学べたと思います。日頃“離すな”とか“逃がすな”とかいわれていますが、“ゆっくり歌う”の練習で、こういうことなのか、と思いました。かけ声や笑い声の練習も、とても自分にとっては、ためになり、すぐ声がひっくり返ってしまうことに悩んでいるので、この練習に常に戻るようにしようと思いました。

 

台詞や歌詞を読むのは、とても難しく、読むだけで、こんなにくさくなってしまうのに歌うなんてとんでもないことなのだと、歌うことの難しさを感じました。2日目のメニューでは、最初Gスタでトレーナーにみて頂きましたが、2回やってみて、1回目の注意を全然わかっておらず、2回目をカン違いしてやってしまったことに、その後の先生のレッスンを受けて気づきました。“声の出ない人はこうやって歌うんだ”といわれたことを、とにかくよくイメージして練習してみようと思います。 

 

10cm単位でなく1mm単位で見ていく。レッスンも終りに近づこうとしていたそのとき、体に電流が走った。何てこった。自分で貴重なレッスンをドブに捨ててしまった。何やってたんだもう。普通忘れるか。Fさんがちょっと「コピーで」といったのを、そのままうのみにした。ばかだよ。お前は。どうりで上達しないわけだ。 

 

息がたくさん吐けることより、息が声になることのほうが大事。のどにかからないこと、かんでふるえないこと。浅くならないこと。顔のひびきだけにならないこと。突かないこと。声ができかかってきている人と、浅くなったりふるえたり、どこかでつくっている人ととても差があった。つくっている人は何でそういう出し方をしてしまうのかな、という出し方をしていた。先まで聞かなくても一声で、差が明らかだった。フレーズも、何でそういうふうに歌うのかな、という歌い方をしていた。聞いていて気持ちがよいこと。

 

マヘリア・ジャクソンはサでもっとスッパーンと入っている。マヘリア・ジャクソンが歌っているように伸ばしたり、「si(gh)lent」とウエイトに差をつけようとしたり微妙な声の強弱なんかを全部やろうとすると多分つくっちゃう。自分が一番息を声にできるところで、まずやれるようになること。

 

トレーナーが半音で見せてくれたよいお手本と、つくらない単純な歌い方というのに共通するものを感じました。息が必ず流れていること。声で歌をつくろうとする前に必ず1息で歌えること。その自然な流れと声の間に隔たりがないこと。歌い手の歌い方や大きさや味や声に憧れる前に、自分の息の音楽の流れがあること。息、音楽。2ひびきonlyにならないこと。「芯」にこだわって力まない。変な音がしない。息と声が分離しない。これだ、という変換点がつかめていること。息、音楽、変換点。Colling youのあの音色は、息が声になっていなければ出せない。変換点がつかめていなければ出せない。耳がなまらないように。息歌、息歌。 

 

美輪さんの3分くらいの悟りを二通り、聞く。ほとんど間とか呼吸などの配分は同じだった。もう、あの悟りは作品として、美輪さんのなかで消化されているのだろう。同じものを2回聞く中で、私のなかでこういうグラフのようなものが思い浮かんだ。MAXにいけばいくほど、体や声を使い、MINにいけばいくほど口先だけの、吐息のような声になり、そして「0」のところは普通に出しているところだとすると、体は初めからMAXでのピーク時のところまで準備されていていなければならないし、集中力や鋭さはMINでの細かいところまでなくてはならない。そして何より、最小→最大を出すときのスピードが、0.01秒かはわからないけれども、やはりプロや一流の人は、このスピードを持っている。(グラフでいうと一番大きく振り幅があるところである)だからこの波動は、その人の表現の自由度の幅ともいえるだろう。

 

たとえば、こういうものを作品ごとに透明にシートに出して、違う人のを重ねてみると、「ずいぶんこの人は初めっから体で歌っているんだな」とか「体も使っていると思ったけど、そんなに使っていないんだ」などと、その人の表現と体、声の結びつきのようなものが、視覚的に見れるなと思ったのです。でも絶対に、自分の体に落しこんでいくのには音の世界のほうがよいと思いますので、自分には置きかえられませんが。ただ、世界でよくわからない人、どうやって音を出しているかわからないような天才たちのものが、こういうふうに出ると、それはそれでおもしろいなと思います。そもそも思い浮かんだのは、多分美輪さんの悟りは、2枚重ねてもほとんど同じだろうということからでした。

 

今日のアダモの曲は難解であった。アダモの音の強弱での出し方などは自分には決してないところである。単に音をぶつけるのではなく、音を包み込むくらいのゆとりがほしい。まったくなし。 

 

3回“ハイ”というとき、どの音も同じように身体を使い、同じ強さで音を出せるようにすること。声を出したとき、体のどの部分に力が入っているかを知ること。体の中心で声を出すということを自分で実感できるようになること。腰、骨盤は常にほぐしておき、自由に動かせるようにしておくこと。フレーズをひとつの線と考えられるように、感じられるように、そのように歌えるようにすること。 

 

発想の転換が必要だと思った。メトロノームを拍の頭以外で使ったことがなかった。点と点が合ったからといってリズムがとれているとはいえない。点と点との間をどう感じているかが大切。クリックの音を裏拍に感じながらの演奏だと頭打ちのときと、ノリの感じ方が違うような気がした。特に3拍子の2拍は特に強く感じた。実際にやってみると必ずテンポが遅れてしまう。テンポが保てず、ズレが出てしまう。これは聞いている音に引き摺られているだけで、自分のなかにリズムが回っていない証拠。音楽は自分で引っ張っていかなければならない。基本的なところから修正してしていかなければならない。 

 

曲の解釈は人それぞれ違うところはあると思うのだが、私の場合は言葉から入るというよりも、まず、曲を聞いて映像を思い浮かべる。それをどうやって音で表現するのか。一番いいたいことはどこで、それでいうために全体をどう作っていくのか、という流れが多いような気がする。しかし、ある日ふと思ったのだが、歌詞のなかで「もう少し」というのがあって、「もう少しって、どのくらいだ」と気が止まった。曲の流れから、それは「もう少し」といってはいるが、本当は永遠なんだ、という気持ちが込められている。“永遠”が裏に込められている“もう少し”をどう音で表現しよう、と頭を抱えてしまった。

 

今日も“自由な、自由な”の不自由さを、どうしたらいいのか、正直いってわからなかった。やはり今までのやり方ではつきつめ方が甘いと思う。いろいろな方向から見る。イメージを膨らませる。ただがむしゃらに歌う前にしておくべき作業。そういう作業を踏んだ上で歌いこむ。この作業が小っちゃいことだと思えるくらいに。同じメロディーのところをどう変化をつけて表現するか、詞の流れの面から、曲の流れの面からどうしていくか、体のなかに落しこみ、体で表現できるように。実際にはメロディーを追うことで精一杯で、そこまでできていない。入り込めていないのは問題。

 

リズムの単位を細かくしていく。フレーズの動きを細かく見ていく。その方法として、テンポを落してみるとわかりやすい。ゆっくりだとやりにくいところもあるが、誤魔化してやっていつところが浮き上がってくる。気力が続かないこともわかる。フレーズとフレーズの間、音を伸ばしていることろ、そういうところの間がもてない。そしてそこでリズムを失ってしまいがち。自分が何をやっているかがわからなくなってしまう。音楽は止まらないものなのに、そういったことで全てが壊れてしまうのだ。どう表現していくかがイメージできていないこともこれを引き起こす原因か。

 

“出だし”がもたつく。鋭さに欠ける。(いや、ない)今日のレッスンでも、無意識に音程をとってしまっている。自分でもかなりの重症だと思う。その結果音の高低に走っているし、リズムも勝手に崩している。声を出すとき、一瞬の「迷い」がある。きっと頭でこう出そうとか一瞬考えてしまっている。ポンと反射的に出てない。その上、声がぼやけていて芯がない。この“頭でっかち”の重症状態の感覚を、とにかく変えたい。だからとにかく多くの音楽に触れたい。そこから自分で“何か”を、材料を見つけたい。 

 

「どんぐりの背比べ」の状態から抜け出そうとしなければ。みんなの声を聞いて、足りないものが、そのまま自分に当てはまるのだろうけど、何となく似たりよったりの状態では何も見えてこない。ここのスタジオで今の自分の100%を出しきれないで、一体どこで100%出しきれるというんだろう。もっと今ある小さな殻をこわさなければ何も生れてこない、と思った。

 

下あごに声がひっぱられる。「あ」の発声のとき、下あごを動かさないようにまっすぐに声を出す。高音域が逃げているといわれた。「like me」のmeが上に上がってしまって、音質が変わる。上がらないようにすると、力が入る。歌うときに高い位置に響いて、しゃべるトーンからはずれている。「あ」母音だとできる気がするのに、他の母音だとだめなのは、もともと「あ」母音からしてできていないのか、他の母音だと何か変わってしまうのかがわからない。ブレスを深くする方法。吸うことに注意していたが、限界まで伸ばす練習によってブレスがよくなるといわれた。ブレスが足りないのは呼気のときに力が入っていると指摘された。体のなかを息がうまくまわらない。 

 

やっていて感じたことは、まず場のトレーニング(モノトーク)のときは、自分としてはまったく自分の世界をつくれず、言葉もどの言葉を他人に最も伝えたかったのか、ということもすごくあやふやだし、間もメリハリもつくれず、一本調子でいってしまった。やはり場(ステージ)というところになれてなく、その雰囲気が読み取れていないのがよくわかった。

 

似たような人が多く、ただ一人、すごくよい声で何かわからないが何かを出していた人がいた(前から5、6番目の人だったと思う)その後のレッスンでも自分がまだまだ何もわかっていないにことに気づいた。言葉のフレーズにも、まだ一本の線のようなものも通っていないし、言葉の語尾も離して抜いてしまっている。(ただ気づいたことで感嘆詞を使った言葉は比較的深く、出しやすい。これからの自分のトレーニングに取り入れたい)これらのことをいかにしていくかが、これからのトレーニングのネックになると思う。 

 

トレーナーが前に「完璧にコピーすれば、そのうち外れていく」といっていたのと、今日F先生の「その歌い手がこの曲ではこうやっている。だったら自分はどうすることができるのか。」ということがイコールで結ばれているんだ、と気づいた。この考えが間違っていても、今はいい。進むべきベクトルに進んでいけば(どんな回り道をしようとも)また、そのとき気づくはずだから。 

 

3回”ハイ”というとき、3回目がいいかげんになってしまっている。初めの“ハイ”を意識しすぎていて、3回目になるとだれてしまう。どの音も同じように出そうとすると、息を十分に使えなくなる。音程を意識しすぎている。高い音、低い音にいけばいくほど、のどを使ってしまう。本当にそうなるほどに、息を必要とするはずなのに、それができていない。音程よりも体に意識をもっていけるようにしたいと思う。お腹の下に力を入れることができない。どうしても上の方で息を意識してしまう。毎日毎日イメージして、意識して練習したいと思う。フレーズの練習は難しい。

 

きちんと音、声、雰囲気を聞くことができていない。音の流れ、表面だけをとって間違えないように、と思って歌ってしまうからフレーズの流れ、1本の線になっていることにも気がつけずに歌ってしまう。“アー”で歌ってみていかに自分が1本の線で歌えていないかということがわかった。そして頭で考えすぎてしまって、体が使えていない。息吐きのときや発声練習のときはある程度、使えているのに、歌になると途端に使えなくなってしまう。考えるより行動してみたほうがよいということに気づいた。 

 

リズムを意識すると体がかたくなってしまうように思う。起伏が見えやすいとまだましだが、どう表現していいか、戸惑うときは特にそう。無理矢理つくりだしているようなことが体に出てしまうのだろうか。“夏が過ぎ/風あざみ~”これは正直いって読み込めなくて全然やっていてもしっくりとこなかった。気力もせいぜい前半までで、後半まではもたない。あの無駄のない鋭さをどうやったら出せるのか。セシリア・ノービーのほうは音を伸ばしているところで完全にリズムを見失っていた。「ん」といった感じで、その後はもうボロボロに。一瞬の気のゆるみが大きな事故を引き起こすといったところだろうか。 

 

曲に合わせて読むということ。まず、ワンセンテンス(J-POP、歌謡曲では一行12、3文字というところ)をひとつにつかんで空気中に放つ。ここではまだ単に(声)(音)未確認物体、UFO。感情移入や、形のチェックはしない。それより声を発するとき、少しでも体の動く感覚をつかむこと。 2歌(音楽)には導入部があって、最も感情の盛り上がる個所(サビ)がやってきて(多くは音が上がっていくところ)、エンディングとなる。山形を措いて描いている。その起伏に到るところ、気持ちの盛り上がりに合わせて音がついている。その(歌いたい気持ち)をぐっと内に内包しで“読む”ということ。歌いたい気持ちを溜め込んでまずは“読む”。ここで歌うのを急いではソン。のども痛めるし。ここで(歌いたい)フラストレーションを溜めずに、放ってしまうと薄まってしまう。広がってしまう。

 

生地がしまらない。歯ごたえができない。冷製パスタをつくるときの氷水で“きゅっ”と締める感じ。もちでも手打ちそばでもいいが、粉を水で溶いてこねて、生地を持って延ばして、ごく自然と形になってくる、実を伴ってくるのを待つ。その手間暇にかかる時間をきちんと本番から逆算する。外国語でも曲、音の構成でもって気持ちの高鳴りがつかめるはず。読む=話す高さ=中音域のトレーニング。劇団のメソッドも(何をいわんとしているか)自分のなかで消化する、やってみる。劇団の人にも有用なトレーニングと思う。自習しやすいメニュー。CDって一発選曲、オートリピートだもんね。時間ないので多くは発表の曲と一緒にやっていかなくてはいけない。どういうお客さんに向かって、どういう曲をというイメージができてないが、探りつつ、自身柔軟に変わって行きたい。器を大きくする。 

 

ステージ実習評 Kさん:初めて見たとき、ブランコみたいに体を上下して歌うのと、手をまわすのと(なんじゃ)と思ったが、気がついたら発声で自分も同じことしている。体を使うことを意識するときに生まれる癖なのだ。まわりも眼に入らずトレーニングに(入ってて)エライというか羨まし。いっぺん見たら忘れられない。オモロイなあ。半年くらいですごくうまくなったと思った。アテンダンスとか見ると本質的につかんでる、理解しているのがわかって手助けになる。ある種ここが合ってたかも。まだ若いからか、ステージを見た経験が少ないからか、発表でもトレーニングを引きずってしまう。(立つ)という気迫は正しいが、舞台はそれをちょっと置いといた、違う客観性が求められる。絞り出すものだが、自分自身が照明室の根元になって、自分の姿を眺めていないといけない。地に足着いてないと、技術的には果たせないが、やはりある種舞台はふわふわ浮いている部分があって、よそゆきであると共により純粋に自分であるといえると思う。

先生がよくいう(伝える)ということ。より純化された(自分を出す)。やっている本人がギリギリのところでやっていないと、評さえもらえない。そんなメンバーが大半のなかで、実をとっていくためには、捨て身、前向きに討死にしなければいけないのを切に痛感する。その場を利用して、人のなかで揉まれて、お互いに切磋琢磨するということ。

 Sさん:どんな人か知らない。若そう。素直で伸びやかな文体。そのときどきで求められているものを的確に読み取っている驚き。たぶん初心者じゃないな。そのワクワクが5年、10年続いたらすごい。

 Wさん:言語感覚が繊細なのかな。桑田系のでなくてさだ系の。押さえているって感じ。

 Mさん:気持ちの細やかな人。大阪のTV局で打ち合わせしてそうな作家顔だったので、文章の印象と違った。二十歳前後ってイマジネーションが広がって、いちばん思考回路が形成される年代だ。 

 

ひとつの作品を見ると、自分のなかでよいイメージが体のなかにできてくる気がする。まだ実際に声にすることはできないが、いつかできそうな気がする。1日でも早くそのプロとしての体をつくりたい。

 

 

特別セミナー

 

リズム、Q&A/一番感じたことは、「リズム感が全然ないんだな」ということ。それと、本当に楽しんで音楽に触れている。(Yトレーナーさんが)自分も含めて、レッスン中『お勉強』という感じがぬぐえなかった。日本風って感じ。もっと、happyにレッスンに臨んでいかないと、前へは進まないよ。きっと。英語の歌は母音を伸ばしているのが特徴とか(子音は伸ばせない)一つひとつの言葉をじっくり、ていねいにやっていく。

 

セブンスの音程(そのなかで半音上下したりも)。リズムを体に入れる(メトロノームに合せて、手を叩いたり、ステップしたり)。音楽理論を学ぶ。音に親しむ―この音はどういう感じにするか、とか。とにかく基礎をとことんやっていく。 

 

音をもっと身近に感じる、自分が普段いかに音をいい加減にあつかっていたのかがよくわかった。もっと音の感覚や雰囲気をしっかりととらえられるようにしていく。それができていれば絶対音感がなくても、音がはっきりととらえられる。また、歌を少し見てもらっていろいろなことを指摘された。1つは言葉を一つひとつていねいにとらえていくということだった。今まではやはりそういう部分はかなりいい加減だったと思う。2つめは歌いだしから飛ばし過ぎない、もっと勢いをためるようにしていく。そして曲のおいしいところで全てを解放するようにするようにしていく。

 

ようするに押していく感覚とひく感覚をつかむ。また、歌をコピーするときはもっともっと原曲を聞く。ただ聞いているのではなく、本当によく聞く。息の取り方、言葉、フレーズ、リズム、全ての部分をしっかりととらえ、そのなかから自分に合うものを取り入れていく。

 

もっと口を開ける。(のどを開ける)やはり歌っているときに、まだまだ口が開いていない。鏡で確かめたりしながら、やってみる。最後にこれは気づいたことだけど、自分としては、とにかくレッスンで自分をもっともっと前へ積極的に出していかないとステージでそれをやるのは難しいと思う。今日見ていて自分のなかにこもってしまっている人が多いなと少し思った。その反面、Yu先生は場が沈みかけてくると、そこをうまく盛り上げていくのがうまいと感じた。(これは他の全ての先生にいえるが)やはりプロの感覚が入っている人はそういう場の空気を読むのがうまい。 

 

まず、先生の“存在”にすごく惹かれた。「ひまわり」のような明るさと笑顔、存在感、軽快な話し方、先生のつくる自然な空気のなかのレッスンに、私自身、とても楽しめた。音に対する関心、親しみ、愛着心がすごく伝わってきた。「耳を開いて音を聞く」「音から生れるイメージ」「どんなときでも気持ちをhappyにしてうたう」本当に一番元となる、大切なことを、最近少し忘れていた気がする。先生がおっしゃった言葉の1つひとつが自分の「原点」に気づかせてくれたと思う。

グループをつくって、音と音の「共鳴」をやってみたり、伴奏にコーラスをつけてみたり自分がとても「have fun」な気持ちだった。

 

今まで何となく外国のプロの歌手を聞くことで「日本人」という自分の存在をすごく引いて感じてしまっていたときがあったけど、“日本人”だから、とか“外国人”だからとかはまったく関係ない、「自分は自分」のままでいいんだ。自分の生き方でいいんだ、堂々とどこにいってもしていればいい、そう感じた。それと「世界に通用するプロ」の壁の厚さ、計り知れない距離を感じた。自分も将来的にめざしたいとはもちろん強く思っているが、どこか「甘さ」があった。全然全てにおいて欠陥だらけで、スカスカの中身で、夢だけ大きくても中身がなきゃ、本当に「幻想」で終ってしまう。今のままでは間違いなく幻想のままだと思った。何年かかっても、意地でもねばっていこうと決心した。

 

先生に今日この日会えて、本当によかった。わずか2時間で、とても短く感じたけど、先生の人間的な魅力と奥の深さ、「音楽」に対する一番核心のついたレッスンに得るものは大きかった。ひとつ、自分自身で、もったいないことをしてしまったのはもっと自分をアピールしたかった。遠慮してしまったことが悔しい。もっと、パッと前に出てやっておけば、といまさら思っても、もうしかたないので、もう次からはガンガンアタックしていこうと思う。絶対同じことは繰り返さないぞと誓った。家に帰って先生のCDを聞いた。「気持ちをhappyにして歌う」という先生の言葉が伝わってくる内容だった。