課題曲レッスン 1173
【「愛のメモリー」】
主として、アメリカの曲の素材を使いました。
ほかは、メルセデス・ソーサ、A・ロドリゲス、E・ピアフ、E・フンパーティングと、「ヴォーカルの学び方」の本に出した歌い手です。
名が上がるチャンスを活かしたあと、ファンと成り立っていたらよいことと思います。
勉強方法というのは、皆、完成作品を勉強するのですが、上達は、そのプロセスを勉強しなければいけないのですから、本当はデビュー前のもので学ぶのが理想です。
布施明さんのデビュー曲「霧の摩周湖」です。体を使って、強いインパクトを出しています。その当時は、そういう人しか認められなかったのです。
今は、この先にあるようなかたちをとっていきます。歌の形に近いと認められる傾向があります。
世の中にはあんな人がなぜ出ているのだろうと思う人もいますが、そこに出してもらえることが偉い。プロというのは、声のかかることに価値があります。
歌い手も大きく変わっていきます。日本の場合はデビューしたあとにおかしくなっていたのが、今やデビューに向けておかしくなってきています。大ヒットしたのち、当然のことながら狙う層が違ってきます。それが、歌の死かどうかはわかりませんが、変わっていきます。
ここまで押し上げてくれた人はマイナーな層ですから、とても強いインパクトが必要です。そこからエンターテイナーの部分をもっていきます。踊りや表情が入って、歌もやさしくなってきます。マドンナなどもアレンジや歌い方がショービジネス、エンターテイメントに変わってきました。日本でもそうなるのはそれでよいのです。売れるようにするのがプロですから。
今度はヒット作と比べられてしまいます。大ヒットが出た人はそこそこ売れたでは失敗になってしまいます。その辺は、客商売の難しいところでしょう。
スポーツの世界でも、金メダルをとってしまったら、優勝しなければ何をいわれるかわかりません。あてにされていなければ、入賞しただけですごいと思われます。
ヴォーカルもエンターテイナーとしてやっていくわけですからよいのですが、大切なのはここの時点で何を得たかということです。
結局、メジャーはメジャーな層に売らなければいけないのですから、理解しやすくしなければいけません。マイナーなうちはインパクトを強くしなくてはいけないから、個性が前面に出てきます。
ロックやパンクはその個性がそのまま、新しいものをつくって古いものを壊していきます。ただ、安易に受け売りも多いので、壊すというより下ろします。メジャーにするための個性を伸ばすので、問題が声もこういうものにそぐうかになります。立派な音響も使い、フォローできます。
昔はプロとアマの違いは楽器の性能の違いでもありました。そこで勝負がついたとはいいませんが、何かを与えるわけですから、それで何かをつくり出さなければいけません。今は最初から整っています。こういうのをプロだと思うのでしょうが、このレベルはアメリカあたりにいくと何千人もいるでしょう。アジアをまわるときも私はその辺を見ます。
でも、日本では形が先についています。そのときにどのくらい気持ちを入れているかです。日本も昔であればここにあたるのは劇団がそんな感じでした。
④クラスは、トレーナーと同じ感覚レベルで進めていきますから、正しく気づけないと何にもなりません。曲を聞いてすぐに繰り返しながら創り出す。1.5秒聞いて1秒の中で創造しないと次の音がそこに入ります。そこでの作品で成り立ちます。入っていない人は、場を壊してしまいます。それは音の理解力があるということではなくて、その中の何をとるかという部分での内的に厳しい選択のレベルでしょう。
その感覚が、最近は磨かれていないので、どうしても演奏から入れざるをえません。入れなくてはいけないことが多すぎます。
何が違ってきているかというと学び方の部分がどこかしら忘れられてきているのではないかと思います。体力やパワーは落ちました。
どこの学校でも成り立たなくなってきているようです。ラジオ体操をやっていたら何か出てきます。そんな程度でもよいと思いますが、健康を維持することに出てくるなら癒しでしょう。設備や教え方は、毎年、恵まれてきていると思うのです。しかし、大学でも立派な図書館があってもほとんどの人はまともに使わないで卒業します。
レッスンでやっていることは自分でやっているつもりになっているだけで、これまでやってきたことは全部否定されるようなことでしょう。今までやってきたことは何もならなかったとわかるのにそれだけかかります。それの積み重ねです。
そのあと、気づくまでの間が短くなってきます。そこまでが何もならないことがわかったり、土俵が違うことがわかります。そうやって普通の人がわからないところがわかっていたら、自分の身についてきます。それは獲得しようと思ってできることではないでしょう。
こういう芸術的なものの価値はわかるということなら、それを認められる誰もが皆わかることでできないことなのです。何が必要なのかというとわからないこと、それでできてしまうことが必要でしょう。ことばで語れたら、そのやりとりでできたように思うが、そうではありません。
一番入れなければいけないことは、今のレッスンの組み立てがそうなっているところです。その大半は、他のところで補いたいのですが、平均して聞けていません。自分の好きな曲を好きに聞いて、それで学べるのならもう学べていますね。
以前に気づけないことに気づいたときに、学べなかったと思ったでしょう。ここで学ばないと同じことになってしまいます。
ここに入ったことやレッスンを受けることが学ぶこととは違います。音の中に全ての正解があります。
先生が見本を見せてくれてそれに合わせるのがよいのではありません。
ここは世界一の見本を連続してひとつのクラスの中に入れています。それがすぐに受け入れられるとは思いませんが、そこに入っているものがいずれ出てくるような感覚をプロセスで養成しておかないとだめです。
それで接点をつけなければいけません。理屈ばかりやっていてもしかたありません。最後の5分間で声にします。いくら息や体をやってもこれは時間のかかることです。感覚が開かれなくてはなりません。
研究所ではできるだけ、ここでしかできないことをやる、それはやはり声の感覚を知ることからスタートするべきだと思います。それが表現をとるというプロセスをしっかりと見ていきます。
わかる人にとってみれば、自分の気に入った一人の歌い手、それにすべてのノウハウがあります。ただ、その歌い手自体のところにその基本が入っていなければ、基本は身につきません。より悪くなっていきます。
歌から学ぶのが難しいのは、応用されているため多くはその人の基本のところからはそれているからです。日本人の場合は特にそれています。こうやって聞いてみると、どこでそれたかがわかるでしょう。
自分がそれを歌って比べてみても、客観的な比較ができないから、自分がうまいとか下手だとか思っていてもよいのですが、軸が合わないと無意味です。
そうしたら自分がそうなったときの状態、彼らのような部分の何かがあったときにそれでも足りない要素は何かというところを見ていくようにしなければ、学べません。それを目的にしていても、半分くらい達成できればよい方です。目標を高くもつというのはそのためです。
単純なところに下ろしてきます。どうして音楽を最初にかけるかというと、皆を彼らのテンションにするしかないからです。
合宿なども上のクラスの2、3人いるだけで、テンションが上がります。そこのテンションが高い状態で感覚と体がしぜんに動くことを何かしら誰かが体でうつしていくことができます。そのプロセスが大切で、そのまま本当は音楽でうつせればよいのですが、それもとり込むベースが入っていないと無理です。
日本人の場合はテンションと耳が対応できていません。耳が体に結びついていません。音楽の中で自分が楽しむというよりは、自分が音楽で楽しまなければいけないというようなかたちで動かしているような世代になってきました。しかし、与えられることから自分がどれだけ主体的に取り入れ発せれられるかということをやっていかなければいけません。
研究所を利用し、標準的に与えているものに対して自分がその時間を何に使えているかと見ないといけません。
私もいろいろなところに行っています。ここに出るより自分一人でやった方がよいと思っても、それで一回は勝てるのですが、何年も通してみると、大多数の人はこういう場に続けて出ている方がすぐれます。
やれる人が残って、自分を見ているところでは、自分の気持ちに甘えがなくなります。
初めての人の前ではステージが問われるが、ここでは音声が問われます。その状態で聞かなければだめだし、その状態でやるのが舞台です。そこには徐々に慣れてください。
一番大切なのは、イメージや感覚、声をどう動かすのかを、実際に動かしたものをたくさん見ることです。出来上がりの絵を見るのも大切ですが、すぐれた絵描きになりたいのであれば、すぐれた絵描きの習作のときの状態を見ます。美術展でも掲示してあります。そうやってその画家がどう育っていったのかというプロセスを見ます。そこでも違いと才能が出てしまうのです。
よくデビュー作や初めて描いた作品が将来を明示しているといいますが、そこまでの感覚というのが元にあります。皆さんであればここで初めて歌ったものがそうかもしれません。それが全然だめなのなら大化けするしかありません。そのためには主体的に取り組むしかありません。
その辺のことが他の人と同じように行われているとまずいでしょう。最初は月に8時間くらい、決まった日にとにかく無理に皆が合わせていました。今は、いつきてもレッスンがあるのに充分に使われていません。本当の問題はそこにあり、発声や音程や歌の問題ではありません。人生における必要度と優先度が全てなのです。
そこの感覚が入っていないから正されません。頭で正されても正されないです。
それはボールを頭で考えて打つようなものです。それを体に入れるには正しいイメージを体に入れるしかありません。その正しいイメージというのは、それをすぐれてやれた人たちの中にすべてあります。
合宿の目標も、私の日常のテンションが皆さんにとっては2日ももたない。皆さんにとっては背伸びして大変だったというのが、これくらい簡単だったという感覚にならないと物事一つ、できません。それを音の中でやっていくことを考えてください。
それとともに他の人がどういう感覚で間違っているのかをみましょう。ここで正解はほとんど出てきませんから、それをしっかりと見ていけばよいと思います。
そこのテンションになり、感覚になりきったときに、奇跡が起きるときがあります。このなかでは、どんなに整えてみてもそうするほどに、表現ではなくなってしまいます。何か知らないまま、こうなのかと思いもしないのにできてしまうときがあって、これが真の上達ということです。
それを起こすためのトレーニングやレッスンなのです。
知識の世界と違います。数ヵ月でどこまで上達するというものではないし、半年たってどこまで上達するのかという質問も意味がありません。それを起こすためにどうするかです。そのために他の語学をやると英語が聞きやすくなるとか、早い英語を聞いていくと会話が楽に聞けるようになるとか、そういう感覚の相違を利用していきます。
最高の感覚は何かというと最高の作品をつくっている人たちがもっているものです。だからトレーナーが歌うよりはよほど世界の一流のステージをみにいく方がよい。トレーナーは声の技術はもっている。だから、声の技術だけが不足している人には有効です。
しかし、世の中で歌手として成功していない人に、やれていないことは学べません。今やそちらの方が学ばなくてはいけない大きなものなのです☆☆。超一流の人がきたとしても、一流のものを題材に使っていたら学べます。あなた方が主体的であれば取り込める材料は無限にあるのです。レッスンとしてはそれが大切なことだと思います。
私や先生の能力を限界としてしまうと、あなた方がそれ以上に伸びなくなります。もっと生の声を、どうして声がしっかりと出てくるのかというのを感じないとだめです。芸事は全部そうでしょう。
月に何回も来る人よりも、稽古にもつけてもらえない人の方が伸びます。それはなぜかというとそうでない部分を見ているからです。あとは自分で学びます。だから取り入れることが大切です。
足りない部分を自分で補えという場合が多いです。最初にカンツォーネやシャンソンをいっぱい使うのは、声やフレーズの中の完成度がわかりやすいからです。自分でうつし変えるときに、これを見本にするのではなく、これのベースにあるべきもの、あるいは他の歌い手のベースにあるべきもの、これを使おうとしたときにこうなるだろうというものを踏まえるとよいです。
私は個人レッスンではほとんど注意しないです。それはどうしてかというと皆プロセスが違うからです。そこでは、苦労なしではいきません。どんな人に聞いても苦労しないでできた人はいません。その苦労をとってはいけません。そのときに心が宿るのでしょうから、その器がそのまま大きくなっていくしかありません。
今の力ではないもっと大きく働く力を求めています。そのときにより体を使ってみたとか、より気持ちを使いたいとなると必ずバランスが崩れるわけです。喉を痛めることもあります。しかし結果として痛めるのを知っていきながら、やることです。
均衡に丸くなっていくと何もなくなるからです。クラシックの人たちが教えやすいのは、音程がとれるレベルにリズムもとれます。皆さんの場合は全然バラバラでしょう。いろいろなタイプがあります。
アンバランスなのです。だからこそ、どこが先に伸びてもよいと思います。まず伸びるところを伸ばさないと何も出てきません。小さい円になってしまいます。
だからヴォイストレーナーについてはいけないとか、学校に行くからおかしくなってしまうとかいわれるのでしょう。それは日本の場合は当たっていると思います。他人依存にしてしまう。
トレーナーがよいというのがよいと思ってしまいます。自分が違うと思ってもそのことに自信がもてません。それは正しいことは正しいのですが、自分の実感のないところに正しいものは出てきません。その実感が宴会パーティーでのれる楽しさというので、これは舞台とは全然違います。
まわりの全部が敵であっても、それを自分が歌やしゃべりで説得してファンにしていかなければいけません。それだけの大きなものに対して声を使うのです。多くの人はことばからやらないと、声に心が入りません。
「愛の」ということばでまわしてみてください。こういう練習は自分でもできると思うのです。こういう場でやらなければいけないのは、最大にテンションを高め伝えることです。その状態では、どこかで力が入っていますね。
もうひとつは音の感覚です。日本人は歌いなさいというと「アイノ」、これは「愛の」ということばを「タララ」というメロディにして歌にしていく。そのために点で固定されてしまいます。それをできるだけ崩すことです。それが線としての音色やリズムの部分です。
声の部分より息の部分をしっかりとすることは、体の部分です。そこが奏でていく、メロディになるまえの音楽をしっかりと聞くことです。
ことばでも「ヤヤヤ」といっているのが、音楽になっている。
ことばを聞いてみたら歌の練習をしていると思えるのがよいのです。「ラララララ」と歌らしいもの声をやっているのは、本当の歌から離れていくのです。
歌もどきや歌らしいものを試みるのは無駄なことです。歌は素直かつしぜんなところに現れます。そういうところで自分で考えてみます。
一番基本的な練習が、基準や息を「ハイ」と吐いてみて、そこで「ハイ」と声にする。それを「愛の」変えてみて、その中で条件を変えないようにする。そのためには何が必要かというと、それだけの体です。テンションを高めないと、「愛の」となってしまう。これなら片手間でできてしまうことです。
でも一所懸命やろうとすると「愛の」とごちゃごちゃになってしまいます。そうしたらこの枠がとれたとか、枠と関係ないところに飛んでしまったとか判断して、是正していかなければいけません。
できるだけあなた方の実感の中で結びついていくこと、たとえ、間違っているといわれても、私はこれなんだといって、そのことを5年くらい続けないと説得力が出てこないと思います。しかし、一方で一人よがりにならず自分の中で正されるような感覚をつけておくことです。それがないと、できなくなってしまいます。それはよくないことで、おもしろくないと思います。
「ラシド」と捉えるのではなく、「ラシド」の中で捉えるわけです。これを聞いたら「愛の」とひとつで捉えることです。
体の中に感覚があったら「愛の」といっているところで「愛の」はいえるはずです。ことばでいってからメロディをつけてみてください。そのときに大切なのは完結してしまわないことです。インパクトを出したあと、歌につながるのはそこです。
「愛のー」、ここで何かのイメージがあるから伸びていく、それができなくても感覚的にもっていることです。
そこで完成度を問うていくのですが、それは次にひっぱっていくためなのです。歌はその連続です。ことばでも同じです。そこを聞いたら次のイメージをひっぱってくることです。
「愛の」、えっ「愛が何」「甘い」、「甘い何」、「名残」、「名残がどうしたの」というようにしないと会話になっていきません。やってみましょう。
皆さんの考えている上達と私の考えている上達が全然違うもののようであるから、こういう説明をしました。皆さんの考えている上達は1ヵ月2ヵ月とあがっていくものらしいのですが、そういうことはこういう世界ではありえないことです。基本のトレーニングをしたら、それだけ器が大きくなります。地力がつきます。
上達は、形のまとまりとして捉えるのだから大きくなったら、上達にみえません。そうなった上で自由度が広がります。それが大切なのです。その自由度の中でベストを選択できる感性があれば舞台に立てるということです。
だから声が大きく出せるとか音楽をいろいろと知っていても、歌ってみたらだめだというのは、この辺で違いを選択してしまうからです。選択自体ができないという場合もあります。
レッスンというのはそれでよい。皆さんに感情表現で「愛の」というのを、気持ちを込めていいなさいといったら声がひっこみますね。マイクをつけてみたらそれなりに伝わるし、大きな声でいったら伝わらなくなります。そのときにどちらをとるかということです。
ここでは、一ヶ所でもでもよいから後で伸びるところをとれといっています。トレーニングは必要悪ですから、絶対にいびつな形になります。それが自分の中でふっと自由にここに行けたりするというようなひとつの確かさ、安定性がなければ自由に動かせないのだから、その間、歌がメチャクチャになってしまうのはあたりまえです。
でも、お客さんから見てみたら、その中での統一性というので、うまさというのは問われます。声を出したがためにひびきが壊れたとか音程がはずれたとかいうことになると認められません。その人の本来の仕事のところとは別のところで判断されてしまうので、日本のプロはどんどんまとめていく方向になるのです。そのまとめていくことと突き放していくことの差は、結局、身体のなかにある実感の基準なのです。
他人の実感でトレーニングしないことです。業界ではトレーナーのところに行かせたらだめになるといわれていました。正にそうです。それは心身と感性を殺してしまうからです。口先や口内の加工で全部やって技術とか発声とかいっています。それがどまんなかならよいのですが、変なところでやっています。そうなってしまうとその人のなかの感覚が働かなくなってしまうし、体もつかないから創造できません。コピーになってしまいます。
もともと創造すること、日本のなかでは部分的にしかなされていません。音全体をトータル的につかんでコントロールして、というような部分もありません。
一番悪いのは場です。中途半端にここから出て、歌うようになると、多くの人はおかしな方向にそれてしまいます。それが今の時代に合っていたらよいのですが古くなる。ベースをしっかりと踏んでいないと、上達の方にいきません。
歌謡曲やポップスはその年の流行があります。歌い手も使い捨てていくものといってしまえばそれだけのものだからです。日本で歌にそれ以上の必要性をもたせようとしている人はあまりいません。もちろん、歌詞や曲によってもたせている人はたくさんいます。
ここのレッスンで一番大切なのは聞いて感じることです。さまざまなアーティストを見ることの方が大切です。あとは体をつくることです。確かに何年もやっていると全然、違ってくるのですが、そこでは、長さでなく勉強のプロセスの質の違いとなるのです。それには自分が軸になっているかということです。
それをどこに委ねてしまうから狂ってくるのです。
その軸は、②や③クラスの段階でいうと決して正しくないです。他のところにいくともっとゆがんでしまいます。ステージやレッスンを受けてゆがんでしまいます。ここのレッスンでもそうなっている人もいると思うし、その傾向の方が多いかもしれません。ここはそれを直視させる。他のところは見させない、いや、トレーナーも見えていない。
いろいろな可能性が伸びていくのはよいのですが、何が正すかということです。自分の内側にある感覚、その感覚がしっかりとできないうちはよりすぐれたものをたくさん聞くしかありません。いつでもそうです。
私はいつもプロセスを見ています。他の国に行ってはデビュー前までのところを見ています。デビューしてからはいろいろなごまかしも必要です。プロですから商業主義にも入っていきます。
一方、そういうものを離れている人のものを聞くと、今度は技術が伴いません。心や音は伴っているのですが、音という中での完成度がありません。
時間のなかでどれだけ磨くかということでしょう。画家が100センチ四方のキャンパスのなかに何を入れるかを考えるわけではないけれど、全体としてみたら構図として完璧になる。そういう一つの法則性、人間の感性が磨き極まったところに出てくる秩序が感じられるかということです。それによって、国や時代を超えていくかということです。 日本の歌のように永遠を求めなければ、そういう意味もないのですが、どうせなら永遠に残るものを求めましょう。その場で消えてしまう歌もあります。
大学でも最初は100冊しか本がなかった頃は、皆がその100冊に食らいつくように読んでいたのが、なぜか10万冊になったら誰も図書館には行かない、それはどちらが悪いのでしょう。接点をつけられない教育と接点をつけようと思ったらつくのに行かない学生と、両方悪いのです。
研究所でもその辺を間違えてしまうと同じことが起きています。こういうことは、どこでも起きてくるし、特に日本の場合は起きやすいです。肩書きとかジャンルに頼ってしまい、自分の実感を委ねてしまうからです。ステージに出ているから何かできているつもりになってしまったり、歌がこなせたら、それで成功したつもり、そんなこととは本当の作品の評価というのは全然違うのです。
この国では認められていくことさえ、疑わなければいけません。テレビに出てください、本を書いてください、これもあやしい、これで自分がだめになるリスクや災いの方が大きいと思わなければいけません。そうでないところをしっかりともっていかないと、まわりがだめにしていく国です。
お金で買えるだけの肩書きはたくさんあります。ただなら使わせてくれるものもやたらとある。多くの人はそういうものがついているかどうかで人や作品を判別していきます。だから、それを集めて示す人もいます。
そういうことは変わっていないし、あなた方の世代でも変わらないどころかもっと強くなっているかもしれません。学校が学校の形をとってしまったらだめになってしまったのと同じです。それは壊さないとしかたありません。
そこから考え変えていかないと、結局一生貫くものになりません。中途半端にやってしまうともったいないです。
漫画読んでラジオ体操をやっているくらいで何かができる気になっていたらいけません。漫画は悪くありません。漫画家が勉強して一所懸命表現して生きているのが伝わります。昔であったら小説を書いていた人が漫画家にいったのでしょうし、そういうパワーは次の時代にはどこにいくのかわかりません。当然お金の動くところにいくでしょう。
ここのレッスンも7、8割が悪い意味で漫画を読んでラジオ体操をやっていたら何かをできていくようになっている。しかし、そうではなくて、何かをつくるときに演奏や楽器の人は必ずものにしていくもの、そういう人たちがデビューの前までのところで、どういう感情やプロセスを音楽や歌に委ねていったのかを勉強します。
行き詰ったら歴史か世界に聞くことです。自分をしっかりと生きた人の伝記を読んでみるとか、その国の歴史を見ます。そういうことを繰り返していけば、そういう人が少ないから道は開かれていく。
間違うのは鈍い人、他人のなかの価値観に自分を合わせていくような人、これはしかたありません。どんなにすぐれようとしても、そのまわりにいる人が鈍いと、その情報量が多いからと大多数の人は影響されます。
ここでもトレーナーが一言いうことの方が練習にも将来にも役立ち身につくはずなのに、実際の行動はそこのレベルで起きません。同じようにできない人のことばで動きます。それがよりよく起きるのであれば、その人もそうなっていくのです。まわりからたくさん入ってくる情報のなかで人は動いていってしまいます。そこをどこかで区分けをしていかないと、自分が伸びなくなってしまいます。自分の知らないところで、自分を正すべき感性がにごってしまいます。
そういうふうに見えてきます。ここで会って、何年経って、ただの人になるのもよいのですが、その人にあったよいものが全部なくなってしまうのは、もったいないことです。そこは難しいのですが、そういうふうになる毎日を選んだのだからしかたありません。
表現していく世界は何かを捨て失い破壊していく世界だから、必ずしも幸せだと思いません。それはよりすぐれたものがつくれて初めて評価される。それでなければ単なる破壊者です。そういうことでいうと多くの日本人はやはり人並みでよいのかなと思います。
結局、何一つ人に押しつけられません。ただ不要なものを切っていかないと感覚は変わっていかないし、何の世界でもなかなかできていきません。その時代によっては不運なのがよい場合もあります。
とにかく器を大きくすることです。1フレーズと思っていたもののなかに普通の人が1曲で感じられるもの以上のものが感じられるようになれば違ってきます。それだけ器が大きくなるというわけです。時間というのはそういうものなのです。
今の皆さんの時間は、質と関係のないところで区切られていきます。何時に始まって何時に終わる、だから文句が多いのです。私が一人でやっていたころは夜8時に始まって12時半に終わる。終電に乗らず公園に泊まるような人が残ります。そういうときは人が育ちます。どんどんとそういう部分が失われていく。
両方のよいところがとれればよいのですが、なかなか難しいです。逆にいうとそれでダラダラなってしまったり、よい人材がやめてしまうこともあります。
こういう世界では、公の時間はしっかりと機能させなければいけません。そういうのが機能していないから情けない業界として、変わりません。出版、マスコミ、音楽業界ほどルーズに人間たるものから離れてしまった人が生きている場所はありません。
多くの人はすぐれた人がそういうところにいくと思っているが、そうではありません。他のところでまともに生きられない人、朝起きれない人や約束をキャンセルするにも電話一本入れることのできない人が堂々と食っていける業界なのです。それは皆さんにもおすすめできません。でも、だから人間らしくもあるのです。
ーー
【「ブルージーンと皮ジャンパー】
ねらいとしては、フランス語、わけのわからない音をとって出して、音楽をその場でつくっていきます。メロディやことばがあらかじめ与えられていることを制限します。ことばはことば、メロディはメロディのイメージが分かれて、それを何とかくっつけてやっているのが日本の歌ですが、そうではなく、メロディのイメージ、ことばのイメージを混ぜて、ひとつのイメージのところから自分が声を握っていて動かすことで、新しい歌をつくっていきます。☆
音程が狂っても、メロディやことばが変わっても新たなものを生み出すのです。
ことばは限定します。「疲れて」というと「疲れて」になってしまいますが、本当は「疲れて」のまえにもいろいろなイメージがあります。
それをことばから入るにも、「疲れて だけど何となく心が」と最初から「心」はこうであって「ブルー」はこうであってとそれを当てはめていくのではなく、「疲れて」にもいろいろなイメージがあります。そのなかで自分が発想した自分の奥にあるイメージをもってきて、その結果「疲れて」よりも「くたばる」というようにことばが出るのであれば、それをつくっていけばよいのです。メロディも同じです。
自分のなかで合わない、それをやりながら、そこでのちょっとした呼吸やリズム、リズムは変えます。そのくらいの自由さをメロディやことばにも与えていくのです。日本の歌はことばやメロディをしっかりとやるといって、リズムはあいまいに形だけ動かしています。本当は全部自由でなければいけません。
そういうのを分けているのは練習の方法としてあるのであって、出てきたものはひとつでなければいけません。心にあるものもひとつであって、その間のプロセスを練習するときに、手段にすぎないもので形づくらないことです。
ゼロからつくって、それを動かして最終的に譜面に書いてみたら音楽という形にしているのです。それをコピーしてしまうのでは、クリエイティブではありません。
他で勉強してきた人ほど、ことばの上っつらのコピー、たとえば「イエス」といっているところの感情表現や「ラブ」といっているところの心の表現ではなく、発音や音階をどこかから、移してしまいます。それはそれで勉強としては必要です。でも本当は感覚が正すというのはそこで正してはいけません。
難しいことですが、わけのわからないものを流している中で、出てきたものは自分なのです。そこで鈍いのも自分の感性の鈍いところだから、直した方がよい。そこでひらめくものがあれば自分に合っていたり発見したりつくっていくレッスンとなります。本当はそれだけをやりたいのです。それには材料がもう少し練られたり、自分のなかで取り出す選別能力が厳しくないと難しいです。それを支える技術も必要になります。そんなものをやっていると思っています。
ーーー
練習は頭で考えるから、体や心が動かないのはしかたがないのですが、できるだけ早く、それが想像して取り出せるところの感覚や要素のところにもっていき、勝負する。考えないでやれといったら、感覚でやるしかない。その感覚が磨かれていたらもう歌えている。それが磨かれていないからレッスンをするのです。そこがなるだけしぜんに出るために勉強していきます。
でも自分の思い違いしてしまうようなものに関しては、考えたり書いてみたりしてみます。レッスンでは1、2フレーズしかやらなかったとしても、自分以外の誰かがいるところでしっかりと気づくこと、これは大切なことです。自分だけのトレーニングや先生とマンツーマンでやるのは、一歩間違えると危ないやり方です。場がないと、思い込みのなかでいってしまいます。
基準のとり方が甘いと自分がわけがわからなくなってしまうから、いつまでも自信がもてなくなる。自分で確信したものでも何度も放り出さなければいけない。武道でもスポーツでも、これで絶対によいと思ってもそこで、限界までくるとだめになる。そこで、フォームを変えてみる。フォームをつくっていくのが目的ではなく、そのフォームをつくっていくことを意識しないところでフォームが動くことが目的です。それぞれの体や感覚や、自分の気性や歌の世界によって全部違ってきます。方法論の発達なくして上達もないのです。
少なくとも敏感になっていくこと、それが自分の知らない自分をしっかりと知っていくことです。それも何かを出してもらわないと、その人の顔を見てわかるものではない。日常のものではなく、テンションのずっと高い世界においてのことです。
プロというのは10年20年、その世界に住み着いているから曲もたくさん知って、声もよくなるのです。しかし、創作活動、イマジネーションを使いアイディアを出し、何かをつくり上げることをやっているかは頭から問われることです。それがあれば、声がなくても曲が書けなくてもステージでできてしまいます。
ステージの創造性というのはあります。それはトータルの世界です。ここでできるのは、そういうものは時代の風向きで変わってしまうから、自分で実感がもてるということで、声、それも基本的にいうと感覚のことなのです☆ 。
自分のことを本気でやり始めたら、こういう歌を聞いている時間も練習時間もない。そういうものが固まらないうちにたくさんのものを入れて、いろいろな世界と接する。あとでその人がどの分野に行くにしても、固めたものをほぐす努力を怠らないこと。歌に限らず映画もオーケストラも演劇も学べばよいです。学ぶのは楽しいことです。
マイルス・デイビスでも「なぜ他の人はクラシックの譜面を見ないのか」といっています。それだけ彼は、クラシックを研究している。そういうのを聞かなくてもジャズはやれるし、充分です。しかし、いろいろなアイディアを出して確信していくには、それだけより深い世界でよいもの、異なるものを入れる必要があるのです。
皆さんもそういう窓口としてここを使って欲しい。窓の開け方やとり方、この曲で興味をもてば開いていけばよいし、のぞいてみるのもよい。それでその時期合わない場合も縁がない場合もありますが、それぞれの人で違ってきます。
ひとつのことを続けてやるには、たくさんのことが入りこんできます。ひとつのこと以外を排斥するということではないのです。そのひとつのことが深まっていくから他のことに時間がなくなるということです。
私もご飯をゆっくり食べたいし眠りたい。でももっともっとおもしろいことややりたいことをやっていたら、そんなことは気にならない。とてもおもしろくなるものは、とっつきにくいし、めんどうです。しかし自分のやっていることをおもしろくしていくのが才能です。
それは歌がうまい下手とはまた別です。そこで自分のものが出てこない、イマジネーションが喚起されない、歴史や世界のことが実感できない、そんなつまらないことはないのです。そうしたら人の作品を見ていた方がよほどおもしろい。それをどこかで逆転させることです。
いつも少し背伸びをしてみて、自分にはわからないけれどわかっている奴にはわかるのだというものにたくさん接していくことです。背伸びしたって、そんなに大きく違わないのです。そちらの方が心地よくなってきたら、いい加減なことや中途半端なことはしなくなります。
歌をいくらていねいに歌いなさいといわれても、何度同じ注意を何年もされてもその人のなかで、ていねいというのが本当の意味でわかっていないから、変わりません。
ひとつのことでどれだけ動かせるのか、ひとつのことをやるだけでどれだけお客さんに残るイメージが違うのか、そういうことを叩き込まれていないから、いわれて少しはていねいに歌うのに、また雑になって、同じ注意をされる。それが限界にみえたら誰もいわなくなります。
広く興味をもって勉強してください。そういうのが結果として歌の上達になってきます。私は声のことだけをやりたいのですが、それをやるためにもっと大切なことがたくさんあります。だからといって精神論ばかりやっていてもしかたないので声のことをやります。いろいろなレッスンから出たところで何を学ぶかをやってください。お疲れさまでした。
ーー
【「ファド」】
根本的に何をするのかというと、音声で表現するための舞台の基本をやるのです。これは外から見た方がわかりやすい。ただ外からみるところを、業界のような狭いところを念頭において、外から見てしまうと、物まねと同じになってしまいます。
漫才や落語の世界でも他人の新作ネタを取り上げてやっていける人はいません。歌い手には、それに似たようなことをやりたがる人が多いのです。
一流になった人はある時期、名人の作品や古典を徹底して入れています。そこでことばが違ったり噺の舞台設計が違ったとしても、根本的に流れるものは同じです。たとえば人を笑いにもってこられる要素や間のとり方は変わらない。そういう感覚の部分を本当の基本というわけです。
本来、歌は自明の理としてからスタートするものが、理が壊れている場合が多くて、皆さんのなかだけで閉じていって上達しなくなってしまいます。
具体的にいうと、④クラスは、平均で4、5年以上続けている人たちです。研究所でそこまでになる人は100人に1人くらいです。④のクラスの曲を30分やってその後に次の歌を30分やりました。下のクラスはこの曲のレッスンを3時間続けてやっても半分もできていない。④クラスは30分で一通り終わっています。 レッスンをやったあとに、自分の好きなところを好きなように歌ってくださいといって、最後に歌って終わります。
細かい動かし方がまだうまく入っていない。それをまねるということではないのです。でも勉強するということは、よりすぐれているものがあったら、それを重視して、盗んでいく。ある意味で自己否定していかないと学べないのです。
基本から応用します。歌は応用だからこちらでよい。勉強するときにこの基本のことをやらなければいけないということです。
だからすぐれている作品をひとつ出すことを目的にします。歌のなかでも時代を動かしたような歌もあります。歌い手のなかの作品のなかでもよい悪いがあるし、1曲の歌のなかでもあります。
これから勉強するにあたっては、動機そのものから歌という形をとるまでを客観視して自分を位置付けていくことだと思います。
著名な画家になれないのは、この絵をコンクールに出したら、どのランクに評価されてどういう価値があるのかがわからないからです。それがなければ世に出られても、その先を問えない。しかし、好きに描くのでよいなら、今日からあなたも画家になれます。
そういう部分のものは自分であって自分でない。歌にしろ絵にしろ、自分で楽しむための歌というよりは、出たものが人に対して何を与えるかというところから見ていかなければいけません。
最近プロデュースを売りものにする学校が増えました。声のことをやっているトレーナーも随分といい加減になってきました。
研究所も声のことだけをやっていきたかったのですが、ずいぶんと違ってきています。声、歌のことの部分、それから音響、レコーディングもずいぶん変わってきました。
今の音響技術がなければ、ポップス自体が細かいところの動きやビブラートは拾い上げることができなかった。よさは伝わらなかったのをカバーしているというより、むしろうまく生かせるようになってきました。そのため、歌が小さくなり、声の音色がなくなり、発音不明瞭となり、くせ声、のど声の合成音が中心になったのは、私には心地よいことではありません。
それからもう一つは演出法の発達があります。そういうところにおいて、声だけに閉じていては勝負ができません。業界でやっていく人は、何がプロたるに必要なのかをしっかりと分析すればよい。それからどこで通用するかという範囲をみる。
もっと大切なのはやり続けて、それでどこまでもつかということです。ポピュラーだから1発ヒットでもよいと思うのです。昔なら紅白に一回出ていたら一生食いはぐれることはなかったのですが、今では事務所を追い出されてしまう。新しいものをつくる力が欠けてしまうからです。紅白でもCDでも昔の思い出曲が大半です。去年のアルバムのベストの中心は過去の編集アルバムです。今のものがつくられていないとおかしい。
毎年デビューしていくものの、次の年になると10分の1も残りません。これで20、30年ももっている曲というのはやはり理由がある。クラシックでも、100年以上人気を保っているものは、大きなものがあるのです。
何かを働きかけ、残そうと思った人、残せる力のある人がそうしていきます。ロドリゲスでも私のような人がいるから、少しは日本に残っていきます。次にまたそういう感覚のある、あるレベル以上の人がまた聞くし、そうでなくなるとなくなってしまいます。
それは時代を超えたものを勉強しないとわかりません。そして、今の時代を生きていればよい。自分が感じるものをしっかりとものにしていけばよいのです。自分で感じることは自分でやるしかないのです。
できることは、一段自分が高まって、すがすがしい自分のところでいる時間を長くすることです。今の時代はそれも難しいようです。
ここでも与えていることを400時間から200時間くらいにしてきている。教育が1000時間、自分の勉強が10000時間、それがプロの最低限の条件でしょう。人について勉強しなくても自分でやる方法もあります。しかし、声と歌はとても難しい。
今度、台湾で学校とステージを見てきます。400時間かける3年、1200時間くらいが基礎教育として与えている。あたりまえではないかと思います。もちろん、時間数だけをやるのではない。 プロの世界は時間をやればなれる時代ではなくなってきています。
昔の方が努力すれば選ばれていきました。長くやっていれば権威に代われたからです。カメラマンでもカメラ1台もつのも大変だった、そういう時代、師匠について使わせてもらうしかない。そして20年たてば、師匠の地位に変わることができた。仕事も人脈も受け継げたのです。
ところが今は誰でもカメラを買えます。ハードの技術が高まり、価格は安くなった。皆さんの歳でも世の中に出れる。その代わり、力がある人が出てくればその人に変わられてしまう。10年20年たっても才能がなければ出られないし、いつでも若い人にとって変わられる。
昔は出にくかったけれど、出たら安定しました。歌の場合はソフトですから尚さらそうです。しかし、今はチャンスは平等、そのせいもあって、自分よりすぐれた人から学びにくくなりました。
だからやっている人を考えてみればよいのです。今、音楽プロデューサーが脚光を浴びているのは、そこで他の人を動かせるバランス、最終的に歌い手が一番もっていなければいけなかったところ、つまり、人に何かを与えるという表現のところでわかっているからです。
伸びた人が1年目からとっていたような勉強の仕方を伝えていきたい。伸びていかない人はいつも音やことばを覚えるので精一杯です。慣れていない曲をやると、3時間かかってもイメージで曲が入らない。記憶力で歌詞を覚えても、大切なことは音楽を写してたというのではなく、何をつくるかということです。だから感覚を刺激しなければいけない。刺激した感覚のなかから選別を自分でする。その選別のレベルがどこで行われているかということです。
何もやったことのない人なら、皆で集まって何かをつくったら、それだけで自分たちが感動する。でもそれは人が見ておもしろいものではない。そういう感覚があれば、こういうのでは人には見せられないとわかれば、そこでカットします。その厳しさを学ばなくてはなりません。ところが、歌においては全てOKで通っている、あまりに低い。
どんな練習法をとってもよい。そこで半分、あるいは9割は誤りです。でも1割くらいはよいものがあるかもしれないからやり続ける。誰かがだめだといってやらないのは一番よくないから、やればよいのです。
声が枯れる、だからといってトレーナーにやめさせられるのではなく、自分で気づいて変えないとだめです。こういわれたからやめるというよりは自分で一回思いきり出して、そういうところでつかまなければいけない。過保護にあれこれ禁止していくのはよいことではありません。
声を出したり汗をかくことは練習ではなく、自己満足です。誰でもできることは本当の意味では価値のある練習ではないのです。それに気づいたらどこかでそれを一歩上げてみることが大切です。
先のようなことがすぐにできるには、まず自分のなかにいろいろなものが入っていなければいけません。自分の展開や感覚、音も細かく読みます。ことばでもメロディでも歌ってみたあとで、これはどういうことかと聞いてもわからない人がいます。それは学び方が悪い。歌詞を覚えるにも、これは何の歌でどう表現し、これを聞く人はどこでそれを捉えられるのか、そういうことから感じていくと、心が起きる。
一流の歌い手だからすごいと聞かないで、よいところと同じくらい悪いところを見つける。感動しなければ、なぜかと考える。すると日本の歌い手ともいろいろな比べ方ができます。
プロはそういう感覚で、歌を構成し展開しています。プロデューサーや音楽をやれている人はすぐにわかります。つきはなしてみているからです。
たとえば1番でこういう歌い方をしたら2番の同じところでもそれを意図するわけです。そうでない出方というのはよほど新鮮につくり出していなければやらない方がよい。判断基準としては楽譜の通りにやれば必ずしもよいわけではありません。歌の流れでも同じです。それが楽譜や作曲などの方法が入ってくるとややこしくなる。そういうときは自分の心、感覚で聞くのです。
でもそれも信じられないうちはどうやって聞くかというと、すぐれた人の基準を移しかえる、わけのわからない音楽ばかりを聞かされ、それをどう解釈するかというときに、ロドリゲスのような人がいたら、この歌詞をどう聞くのか、彼女はこういうふうに歌っていたからこういうところでクレームを出すのではないか、そういうふうに置き換えるのです。
ここでもわけのわからない歌を聞くときに、この方向でやっている歌い手を思い浮かべたり、そういう人から見てみたら何ていうかとかシミュレーションします。自分だけではわからないことを他人の感覚の使い方から学びます。
ここではオーディションは8人で判断しました。そのなかで誰かがよいといったら、その人の世界ではよいというので、即、認めます。総合点や平均点よりも、たった一人の感情に深くインパクトを与えることが全てです。
歌はほとんどの場合は誰もよいとはいわず、平均点の前後では何の意味もない。そういう基準で見ていけばよいのです。日本の場合は、学ぶというと必ず1+1=2にしていく。こういうものはマイナス×マイナスがプラスみたいな世界です。1+1=10や-10×-10=+100でなくてはいけません。
彼は演出をやる人には見えません。けれど、それをどこかでつかんで何年もかけて解決してきたキャリアがあるから、道を歩いていたら普通の人のようでもステージに来るとパッとオーラが出る。
どこの世界でもそうです。お笑いでも長くやれている人は皆、根は暗いでしょう。落語でも難しい顔して難しいことをいっている人が一番笑いをとっている。人間に対して価値をしっかりと与えつづけるような人たちがどういうスタンスをとっているかを見ていってください。
自分で自分がわからなくなったときに、どこかで正すための底辺が必要です。もしジャズを歌わなければいけないとなったら、それこそどっぷりとつかってやらなければいけません。自分がわからない期間は、レッスンとの行き来をまめにして欲しいです。
ーー
【レッスン】
この前、バーバラ・ストライザンドとセリーヌ・ディオンのデュオのCDが出ました。最近こういう人たちが随分と共同作を出すようになってきました。けっこう力の差が目立ちます。バーバラの30代のアルバムで聞いてみると、その当時の方が今よりレベルが高かったのかもしれないという気がしてきます。
前にアズナブールとダイアン・リーブスが共演していたものは、アズナブールがかすんでいました。デュオは苛酷な世界です。力の差がわかってしまうのです。
向こうの歌い手はそれでもうまいし、いろいろな感覚を勉強するにはよいと思います。カラオケに行って、このくらいの曲でしたら自分で歌詞をつけられるでしょう。適当に歌って語尾処理まで感覚的にやり、ていねいに歌うのにはいいのではないかと思います。
ていねいに歌おうとすると、メロディに気がいってしまいます。しかし、私は音色やリズムを犠牲にしてまで、ことばやメロディを大切にというところではやっていません。最終的に全部まとまってくるのが大切です。今日はダイアナ・クラールでやります。