【QUEEN】
普段、プロのスポットライトがあたる部分しか見られないので、こういうのを見ると、いろんな意味でアマチュアとの違いのようなものを強く感じて、身が引き締まるようだった。レコーディングの場面が特におもしろかった。ちょうど、知っている曲だったので、完成するまでの過程がよくわかった。1パートのたった1フレーズに、あんなにこだわって作るのだから、これが1曲になり、さらにアルバムのために何曲もやることには、いったいどれだけのエネルギーがいるのだろう。
どこまでやって0Kとするかは難しいところだろうが、1フレーズについてもめてるところは迫力があった。ほんの、ニュアンスの問題なのだが、徹底的にこだわっていた。4人の中で1番我が強そうなフレディ・マーキュリーが、「ケンカは後にしよう。今はやめておこう」などといってとりなしていたのがおもしろかった。見ていると、派手な人たちだという感じはなく、みんな地道な勢力家で、いつもベストを尽くしていて、自分に誠実であり、精神的にとても強いと感じた。
マネージメントやお金のトラブル、人間関係、時代の流れなど、本業以外での問題はたくさんある。歌が好きだから、かっこいいからというだけじゃ、あっという間に流されてしまいそうだ。プロになったからって、急に強くなれるわけじゃないし、たった今、しっかり生きていないと、ロクなことにならないと思った。フレディが死んでしまうまで、メンバー チェンジもなく、あんな緊張した状態で、20年近くも続いてきたなんてすごい。だらだらやっていたら、続かなかったに違いない。自分をコントロールする強さを身につけなくては。
フレディ・マーキュリーは自分をよく知っている、という言葉が何度もでてきた。ボへミアン・ラプソディをオペラ風にす るというアイディアも、そういうところから出たのかもしれない。オペラのことを知らなくても、オペラ風だと思えるし、ロックとオペラを合わせるというのは、とても新鮮だったけど、聴いていても、木に竹をついだようには思えない。意外な組み合わせで、新しいものが生み出せる。私も、何とかして、新しいものを生み出したい。
みんな歌っている声としゃべっている声の印象がずいぶん違った。しゃべると低くて深い。レッスンの時に、実際歌うと きと、発声の時とは違っていいのだといわれることが、よく理解できる。やはり基本がないと、その上に何を乗せても厶 ダなのだ。
バラバラな個性なのに、歌っていても、話していても、魅力的な人たちだ。画面に映っているだけで素敵だった。とりたててハンサムなわけではないのに。
日本の若いミュージシャンはいやに美形が多いけど、区別が付かないし、おやじになって生き残れるかは疑問だ。ハンサムか美人かではなく、存在が輝いているかどうかも、重要なことだ。生活とトレーニ ングに疲れて老け込んでしまったら、本末転倒だ。今の私と、プロとの根本的な速い。それから内面の充実。この点を考えさせられた。
【Rolling Stones】
ミックのソロでも、キースのソロでも、ストーンズは全然違う。比較にならない。ストーンズは、絶妙のブレンドからなっていて、すごく強くて、ねばっこい。野心的で、いきいきとしていて、あけっぴろげで哀しい、人生そのもののようなグルーヴを出している。彼らは曲の構成で聴かせるわけではなくそのイントロから、どこをとってもストーンズでしか ない。
【TAKE 6】
「人の声で、ここまで表現できるとは…」、6つの声と、そのハーモニーだけで、こんなにも豊かな世界が創造されていて、とても驚いた。決して楽器の音では得られないやわらかさ(ぬくもり)と、決して従来の四重唱などの真似できない、独自のハーモニーで。新たな音楽のジャンルを作ってしまった。
高域はトランペット、 中域はバイオリン、低域はベースを、その響きからイメージできて、突然歌い出す楽器群といったところ。その中でも、 一番TAKE 6たらしめているのが、一番最後のメンバーでも ある、Bass担当のアルヴィンであろう。
「Bassがもし歌いだ したら、こんな感じだろうな…」と思わせるほど、ある時はコーラスのベースのパート、ある時はBassそのものの擬音、そしてある時は人声とBassをMIXさせた「歌う(言葉をしゃ ベる)Bassの音、・・・等々が一曲の中に変化自在に現れては消える。
独自のハーモニーと、彼(アルヴィン)の存在、この二つがTAKE 6のキー(鍵)だと思う。そして、これらの ハーモニーは、黒人独特のリズム感によって、支えられているのであろう。声(歌)の中に、あれだけのリズムやうねリ が表現できるなんて…。
もう一つ感心した点が、彼らがクリスチャンとして、ステージ上以外でも、神の証言者であろうとしていること。日常生活において行動墓準(ポリシー)を持つことは、精神向上において、音楽創造上においても、大切であり、必要なもので あろう。是非見習いたい点だ。
【ホリー・コール】
おもしろかったのは、コーリング・ユーの録音風景のところ。 私も以前、ある女性ヴォーカルのレコーディングを見学したことがあるのだが、本当に、何度も何度も毎フレーズごとの録り直しがある。これは並大抵の体力ではできない。私なんかがやると、どんどん悪くなっていくような気がするが、これに耐える力―どんどんよくなっていく力―を持っていなければだめなのだろうなと思った。
あの、深く体の底から沸き上がる低音、思いのままに変化する声を聞いているだけで、涙が出そうだった。やっぱりベースだ、体がなくちゃだめだと思った。息の流れ、 声と体がつながっているということが、とてもわかりやすい人だと思う。事故でアゴを砕き、ギプスをはめたまま、死ぬ ほど発声練習をしたと言っていた。
わかりやすい声の人なので、イメージをつかみやすい。生で聴いたときは、なおさらだった。体で声を自由にできるとい うことは、細やかな表現が可能になるということだ。「ここは押さえて、こういう感じに…」と思っていくらやっても、私には体がないから、勝手に違う声が出てしまったり、不自然になってしまう。体を使おうと思うと、まっ平らな、べったとした感じになるだけで、とても歌にならないし。
ライブで見たときは、ホリーが、一生懸命日本語でMCを入れてくれる。「シン…シンキョク、デス」とか「ロッポンギノウタ、デス」とか言うのですが、カタコトにも関わらず、言葉がはっきりこっちに伝わってきた。日本語を間違えて「ハッハッハ」なんて大笑いしているのも、みんな歌っているような感じがした。あんな声を出しているのに、少しも必死な様子がなくて、涼しそうにしている風に見えたのも、印象的だった。涼しそうにしていても、あんな声が出せるのは、体 の違いだ。
歌詞にこだわっているところがビデオに出てきたけれど、あれはとてもよくわかる。書き換えてすめばいいけど、韻が損なわれるというような問題もある。シンガーなら、あそこで妥協はできないだろう。最良の方法を探さなくては。
曲で索敵だったのは、「テネシーワルツ」。知っている曲だが、何とも思っていなかった。それがこんなにいい曲だったなんてと思わされてしまった。聴く人がカバーだと思わないほど、自分の歌として歌える、これはどういうことなんだろう。自分のスタイルがきちんとあるから、自分でちゃんと曲を解釈しているから、ということはわかっているけれど…。
アゴや舌の力を抜くことができずに、私は苦しんでいるのだが、否応なく力の入れら れない状態でトレーニングしたことも、ずいぶんきいているんだろうなと思った。
スタンドマイクでまっすぐ立ったまま、あれだけの声が出るのだ。私はすぐまねをしてみたけど、てんでダメだった。
私は自分のことがよくわかっていないのかもしれないと思った。自分でこうだと思ってやっていても、ハタから見たら全くそうでないのかもしれない。自分を知るということがいかに大切かを思う。歌を歌う以前のところで、欠けているもの はないかと考えてしまった。
とってもおもしろかったのは、ベースの人が楽器をたたいて、パーカッションの音を出したり、ピアノの人がふたをガン!としめる音を利用したりしていたこと。
Calling Youはやはりすごかった。あのスケールの大きさ、声の表情。 流れ出る感情が伝わってくる。会埸はしんとしているけど、 空気が、ホリーの方へぐーっと集中しているのがわかるくらいだ。自分のスタイルとは、自分の声とは何だろう、歌って何だろうというようなことを考えさせられた。
彼女のもらす、囁きのような、それでいてはっきりと聞こえる声にかかれば、音程がずれていようがなんだろうが、もうどうでもよくなってしまう。関係ないのだ。それは伝説に対する思い入れのせいかもしれない。なによりも彼女は「詩」を語っている。それが歌になる。レコードだけ聞き流していると、そんなに好きにならない曲でも、歌詞を見ながら聞いていると、「いいなあ」と思えるものがかなりあった。
サンジェルマン・デ・プレで哲学者や芸術家のアイドルだったグレコ。サルトルは「彼女の喉に、未だ書かれていない何千もの詩が詰まっている」と言ったそうだ。まあ、アイドルだっただけに、初期の頃は意外と「女」を使っているなあ、と感じた。40すぎたあたりからスランプになったそうだが、やはり関係あるのかもしれない。ちやほやされてきた人間は、何か大切なものを身につけずにきてしまうことがあるらしい。そして白髪となった現在の彼女は、また堂々と、伝鋭を身にまとい歌っているのだ。
彼女だけでなく、フランス人は何かと「レジスタンスの悲劇」「ナチスへの抵抗」が語られる。しかし、私はあまりそれを問題にしたくない。フランスがアルジェリアで、ベトナムで、ムルロワでなにをしたかが、同じく問われているのではなければ。彼女は本当に「時代精神」だったかもしれないし、それを「売り」にしていただけだったかもしれない。
来日したとき、昭和女子大に見に行ったが、年老いたグレコに意外と感動しなかったことを覚えている。せめて「ロマンス」か「詩人の魂」を歌ってほしかった。結局、私も、「ただ一曲」のためだけに、それを生で聞いて、泣 き崩れたいために、コンサートに行くのである。
「イザベル」は刺激的だった。何度も聴いてしまい、ぜひ、この人の歌う姿を観察したいと思った。(本当は「イザベル」を歌っているところを、一番観たかったけれど)。
彼は何となく、鷹のような風貌をしている。小柄で眼光鋭く。精悍で気品がある。
私が最初に心惹かれ、そして一番気に入った曲は、「イン・マイ・チェアー」という曲だ。その歌を歌う彼は素敵だった。私がこの歌に気づいたのも、この曲を歌っている(語っているとでもいうべきか)ときの、彼のまなざしの深さに惹きつけられたからだ。何を言っているかは、私の英語力ではわからなかったけど、彼の心をとても感じた。きっと演技もしているし、心もあるべき埸所に持っていくよう、思い入れを激しくしているだろうけど、でもとてもナチュラルな彼がそこにいて、心の内を語っているようだった。おこがましいかもしれないが、私が歌を表現したい方法と、彼の方法は似ているような気がした。というより、私が彼のようになりたいということなのだろうけど。
欲を言えば、もう少し若いときの彼が、屋内でライブをして、歌と歌との間の語りの部分もとばさず、なおかつ日本語の字幕のついているものを観たかった。彼の語り口、彼の考え方、彼という人間そのものをもっと観てみたかった。それらすべてが、歌で表現されている、といわれれば、それまでだが。
でも、いくつになっても、人が愛の歌を歌うのは、いつまでたっても男であり、女であるということか。それって大事ことなのか。私は最近そういうことに疲れてしまった。いっそ、男牲も女性もなければいい。だけど、いくつになっても、男性的であり、女性的である人は魅力的だ。やっぱり人生にロマンスがなければ、つまらない。
私の青春時代の初めの方を支配したバンドだった。80年代前半は、とにかく夢中だった。それはキング・クリ厶ゾンがもっていた、オカルト物語的な構成、難解な現代詩風の歌詞、美しく幻想的な曲の魅力にあった。ロックをやっている人なら、誰でもファーストLP「クリムゾン・キングの宮殿」を避けて通れなかっただろう。普通の学校教育から、もう少し違うところに触手を伸ばし始めるころの大部分の青少年にあっては、まるでマルクスの書物のような、危うい魅力があるのだろう。
それは10年遅れだった。当時、4度自の再結成がなされ、日本に来たときのキング・クリ厶ゾンは、私の好きだったキング・クリ厶ゾンでは、もはやなかった。プログレのサークルでは、「クリ厶ゾン観に行った?」が挨拶代わりだった。でも、第1次、第2次クリムゾンを崇拝していた私には、もうついていけなかった。
いったい何が違っているのか。座ったまま、まるで機械のように正確なフレーズを弾き続けるロバート・フィリップ。変わらないメンバーは、この人だけ(リーダーだから当たり前か)。テクニシャンなのもずっと変わらない。でも、つまらなくなった。それはきっと私のせいでもあるのだろう。この第4次クリムゾンのファンももちろん多いのだ。プログレ正統派という点では、彼らが大人になっただけなのだ。そして、私が幼稚なままなのかもしれない。
第1次、第2次クリムゾンには、ピート・シンフィールドという、作詞担当のメンバーがいた。彼の了承なしには、何も進まなかった。そして、あの幻想の世界を築き上げていった。フィリップには、それがだんだん邪魔になってきたらしい。ピートの抜けた後には、何か現代音楽のような、難しいものが残った。
それでも第3次クリ厶ゾンには、ジョン・ウェットンというヴォーカルがいた。第1次には、グレッグ・レイク。彼らは、決してメロディメーカーとはいえないという噂のフィリップの作る曲に、ロマンと哀愁の男泣きメロディーをつけ加えていた。結局、私はプログレでも、ヴォーカルで一本筋が通っているものが好きなようだ。
ところが…今度のヴォーカルはエイドリアン・ブリューなのである。彼は「ギターからギターらしくない音が聞こえると、ワクワクしてくるんだ」と、ギターから、クジラの声や、ゾウの声を出してみせるプレイヤーである。しかし、ヴォーカ ルとしては前2者にくらべて、スタンスが全然違う。少なくとも、前2者には、シャンソンが歌えるに違いない。このクリムゾンは、エイドリアン・ブリューの影響があまりに大きい。
私が初期クリムゾンを求めて、プログレサークルに人ったころ、皆はこの日本公演で売られていた記念のバッジをつけていた。既に私は、遅れた存在になっていた。でも、あれから 10年たって、 やはリプログレッシブ・ロックの最高傑作は、 未だに「クリ厶ゾン・キングの宮殿」ということになっている。私も何も変わっていない。
【マイケル・ポルトン】
「声の魅力」という点では、マイケル・ボルトンの右に出るものはいないであろう。確かにデヴィット・カバーデールもブライアン・アダムスも、私は崇拝しているが、声の説得力、呪縛カ、希少牲など、とにかく「聴かせてしまう凄さ」は彼が一番である。あれだけ太い声を、あれだけの高音域で、あれだけ維持し、伸びやかに歌う。BV生にとって「究極のモデル」、神業としか言い様のない体のカ、息の量である。あの声の歴史(生まれつきなのか、トレーニングの賜物なのか)が知りたくて、伝記的な内容を期待していたのだが、最近のツアーの模様を収めたLIVE版で、少々がっかりした。
このステージを観て、声の魅力(POWER)について次の2点を強く感じた。彼のバラードは世界最強だ。しかし LIVEの構成上、Slowな曲を続けて聴かされると、単調になり、飽きがきそうなものだが、彼の声(歌)には、誰をも強引に聴かせてしまうパワーがある。
たとえば、新宿アルタ前で覆面をして、彼がアカペラで1曲歌ったとしても、最初の 1フレーズで交通渋滞は必然であろう(少々大げさだが)。
ビートルズの名曲、「Yesterday」を歌っていたが、原曲と全く違った、彼独自の世界を作り上げてしまい、その上、あたかもそれがオリジナルであるかのように問こえこえるのである。代表曲「When a Man Loves a Woman」に至っては、原曲のパーシー・スレッジを完全にくっちまった感がある。まあ、これがプロたるゆえんなのだろうが。
歌に関して特に感じたのが、フラット音だ。今まで、フラッ卜(シャープ)は音程のとりづらい、やっかいなもの、ぐらいのイメージしかなかったが、喉をとっぱらってからは、感惰表現にはなくてはならない音であり、気持ちを込めれば、自然に出る音だと気づいた。彼の歌にも、いたるところにフラットの音がちりばめられており、彼の世界構築の重要な要素として光っていた。
印象に残った彼の言葉を記しておく。
「常に最高の歌をみんなに聴かせるんだ!」
「自分の歌う曲に、愛情を持ってほしい」「音楽は、痛みを癒す力をも兼ね備えている」
【美空ひばり】
映画でも男役をやったりしていて、歌も男の歌、女の歌を歌っている。その演じ分け、1曲1曲をきっちり演じている。感情でのめり込んでいるのではなく、芸なんだなと思った。「悲しい酒」を歌うとき、本当に涙を流しているが、ホントに酔って泣いてしまったら、喉がしまったりして歌えないと思う。動き方も邁当ではなくて、きちんと日本舞踊をやった人の動きだと思う。素人にまねできるものではなかった。着物を着て、背筋を伸ばして歌う。でも心に汗をかいているのを感じる。目を閉じて聴いていても、風景まで浮かんでくる。
「真っ赤に燃えた太陽だから…」と歌うときと、「リンゴの花びらが…」と歌うとき、こんなにも違う。表現力があるといえばそれまでのことだが、どうしたらそれができるのか。こういうことは、長い時間をかけて追求していかなければ見えないことなのだろう。
私は「テネシー ・ワルツ」を練習していて、参考にこのビデオを借りたのだが、日本のジャズ歌手が歌っているのより、 美空ひばりの方がずっと良かった。恋人を友達にとられてしまった、そのときに流れていた美しいテネシー・ワルツという、つらい内容の曲。美空ひばりは英詞で歌っていたけど、しっとりと、切なくなる歌だった。どんなジャンルだろうと、この人のものになってしまう。歌いこなすとは、こういうことなのだ。
ステージに登埸するとき、下がっていくときまで、きっちりお客に対し、演じきっている。一瞬も気を抜かずに見せてい るのが良くわかったが、すごい、堂々とした存在感だ。国民的スターになっていったのは、時代的なことなど、いろんな 要素もあったのだと思う。天性のセンスもあるからだろう。 でも、芸を磨くということに対して、怠りなく、地道に積み 重ねてきた部分が大きいと思う。小手先の技術ではどうにも ならないことがあるはず。自分のやっていることに対する執念を感じる。テレビ番組であろうと、自分のステージであろうと、1曲の中にすべてを注いでいく集中力と気迫。やはりすごい人だったんだと思った。
死んだ祖母が、生前、目が悪いにも関わらず「ひばり、ひばり」と、彼女が出演している番組だけは、欠かさず観ていたのを思い出した。彼女の歌の魅力を一言でいうなら、「変幻自在の声」だろう。「器の広さ」とも言える。
喉が完全に開き、深いポジションをキープし、強く深い息で支えるという基礎の部分は、他の一流のヴォーカリストと同じだが、彼女の「ひばり」たる所以は、その基礎的な部分から出された声の響かせ方であろう。「浅く軽い響き」は、イメージ的にいうなら、鼻の方(口腔内の前方)で響かせ、「深く重い書き」は、喉の奥の方(後方)で響かせているのだと思う。
この両極間を行ったり来たりしながら、より深い(太い)息から浅い(細い)息で支え、加えて、裏声やシャウトや様々な感情表現がのっかって、ひばり節となるのだろう。
「りんご追分」の一番最後のフレーズ、♪風に散ったよな…ああああ…♪の、「ああああ」、このたった4音さえも、微妙に響くところを変えて歌っており、「さすがプロ!」と思わざるを得なかった。
また、「影を慕いて」でも、完全に自分の世界が築かれていた。あそこまで到達するのは無理だとしても、1番は押さえ気味で、サビも裏声で流しておいて、2番でより深く、重く、サビで力強く感情を爆発させる構成は、大変参考になる。しかし、これらが計算として見えてこないのは、やはり確かな技術、力量に支えられているからであろう。
感じたのが、「どっしりした存在感」。そこに立っただけで、周りの空気が変わってしまうような存在感は、一流と呼ばれるヴォーカリストには必ず感じられる。これは身につけるものではなく、生き様から染み出てくるものなのだろう。
「ひばりは私、私はひばり」というような会報記事があったが、彼女の歌が、敗戦直後の日本人の心を、どれだけ楽しませ、勇気づけたことであろうか。
【森進一 感動の軌跡】
誇張された物まねのイメージなどで、今まで彼の歌を本気で聴く機会がなかった。が、やはりすごかった。声の良し悪し、好みは別として、「声の魅力」という点では、誰もまねできない、聴く人を引きつけて放さないものがあった。もし彼が、演歌でなくて、ブルースを歌っていたら、日本のポップスが今と違った方向に発展したのでは、とフト思った。事実、彼は洋楽の大ファンで、プライベートでは、あちらの曲を歌いまくっていたという話を聞いたことがある。
たぶん生まれつきだと思うが、ポジションが低いところでがっちり固定されていて、あの独特「グッ」と入る部分と、裏声(なのかわからないが)の感じて抜く部分との、アクセント、強弱のついた、メリハリのある歌で、流れみたいなも のも感じられ、今はやっている日本のロックよりも、洋楽っぽく問こえた。また「港街ブルース」のサビの高域の声は、サックスの音のようにしゃがれてて「これぞ声の魅力!」って感じがした。
インタビューの時の話し声、いわゆる「か すれ声」だが、しかしちゃんと下の音(胸?)の響きが聞き取れ、ド演歌歌手というよりも、欧米のポピュラー・ヴォーカリス卜に限りなく近い、日本人ヴォーカリストというイメージを持たざるを得なかった。
また、演歌というジャンルについても考えさせられた。作詞・作曲者がいて、ピアノ、弦楽、金管、木管、打楽器等、室内楽オーケストラ分もの大人数が、一人のヴォーカリストのために演奏する。そして、歌う本人は、イントロ、間奏、エンディングと、直立不動、歌うときの動きも最小限で、視線も動かさず、歌のみで自分の世界を創り、伝えている。
たかだかー人のヴォーカリストが一曲歌うのに。これだけの人が関わり、伝統美、形式美(悪くいえば、各種の制約)に従って、人生の悲しさ(陰の部分)を、泥臭く歌いきる。自作曲を、約4、5人の気心知れたメンバーの演奏をバックに歌うロックと比べれば、歌い手(ヴォーカリスト)としてのプレッシャー、責任感、要求度、求められる厳しさは、演歌歌手の方がはるかに上ではないだろうか。
【ジム・モリソン】
歌の表現、詞、ステージングがすばらしい。自分の求めているものが見えた気がした。ジム・モリソンと尾崎豊がだぶって見えた。
精神的にぎりぎりのところで生きている人だと思った。それが音楽に反映されているらしいが、何となく感じるところはあったが、「怖い」って感じがして、音楽性までは聞くことができなかった。
【ジョン・しノンLive】
前座で出ていた、若いころのスティビー・ワンダー。現在の、どちらかというと落ちついたイメージが私にはあったが、黒人独特のノリというか、あのグルーヴ感には、とてつもないパワーを感じざるを得なかった。
エアロスミスの初期のアルバムを聴いたときにも思ったことなのだが、現在の、歳もとり、完成された声よりも、若いころの発展途上の声の方が剝き出し(技術や味に包み隠されていない)なので、息の流れとか、「こんなにも体を使って歌ってるんだな ぁ」ってことがわかりやすく、勉強になる。
ロバータ・フラック。いわゆる「大地からわき出るような声」で、ソウルフルで、どっしりとして、とても重量感が ある。ポジションも完全に(ガッチリと)固定されていて、話し声がそのまま歌声になっていた。高域では、腰をぐっと 落として、踏ん張って「体使ってるぞ!」って感じなのに、声は見事にコントロールされていて、声量も、声質も、ヴォリュームも相変わらず、自然な流れのまま(ただ、声の中にしめる息の占有率が上がってるなと、敢えていえば)なのであった。
ジョン・レノン。昔は歌詞が覚えられず、適当な言葉を、とりあえずシャウトしているだけだった彼が、完璧に、 しかも繊細に歌うポールを初めて見て、驚いたー、という記事を以前本で読んだ記憶があるが、やはり彼には、シャウト が似合う。止めどもなく、次から次へと溢れ出てくる想いを、シャウトすることによって、聴衆の我々に、そのまま剝き出しでぶつけてくる…彼を見ていると、そんな気がする。どちらかというと、私もシャウト型なので、ポールよりも彼の方 が好きだ。
【ディーバ】
はっきり言って、この手の内容は苦手。フランス語のせいもあってか、実に重く、暗い感じがした。しかし、ディーバの歌声は不思議だ。歌の内容は全然知らないのに、なぜか涙が出そうになる。何回聴いても、聴けば聴くほど胸にしみる。 ジャンルは違うが、アーティスト精神は同じだと思う。実に感動的だった。
ディーバのすごい声に圧倒された。あれだけの声を楽そうに出していて、本当にこの人が歌っているのかと不思議に思った。
【三大テノール世紀の競演】
究極の声といおうが、この世のものとは思えない、神に賜った声といおうか…。とにかく、余計なものをすべて取り払った、混じりけのない純粋な声を、息に乗せて響かせている。しかも、ほぼ100% の効率で。ブレス時(正確には、フレーズの終わりの声を出し終わった時点から、息を吸う直前までの一瞬)に、その厚みというか、「どれだけ体を使っているか」が感じとれる。
福島先生の、「ヴォーカルはスポーツと同じ」という言葉を、この三人の競(共)演を観て、痛切に感じた。
一番体格のよいパバロッティの声の安定感(器の大きさ)は抜群だった。しかも楽々、悠々と歌っており、小柄なカレーラスなど、どうしても見劣りし、実際、並べて聴くと、声の重さに開きがあった。だが逆に、カレーラスが全身を使い、グッと踏ん張り(眉までも微妙に上げ下げしながら)歌う姿は、「歌(発声) とは、こんなにも、ここまで体を使うものなのだ」ということを教えてくれているのである。いずれにせよ、声(歌)と体の密接さを感じざるを得なかった。彼らの歌を聴いていると(彼らに限らず、オペラというこの 歌のジャンル自体が)、イタリア語の美しさ、特徴を、最大 限に生かしたものだと、つくづく思う。
一つの音を急激に高音で(フルヴォリュームで)長く伸ばし、聴かせる。多くの 音を、強弱をつけて並べることで、流れ、うねりを出す英語の曲よりも(2〜3分で完結する点や、最後は必ず最高音でのロングトーンを聴かせる点など)、どちらかというと、日本(語)の曲に近いものを感じる(発声は除外して)。だとすると、日本語を歌っていく上でのヒントが、案外こちらの方に多く埋もれているかもしれない。
あと気づいたのが、三人とも一度も咳をしなかったこと。でも、一番印象に残っているのは、自信と努力とキャリアから 染み出てくる、彼らのとても晴れやかな笑顔です。
[Mama. I Want to Sing ]
ものすごかった。私はこれまでに歌を聴いて感動したことなんてなかったんじゃないかと思わず疑ってしまったくらい、心を激しく揺さぶられた。腰が抜けるとはこのことが!リズム感がすばらしいとか、声量がすごい、なんて、とても落ちついて言っていられるような状態じゃなかったのだ。
ミュージカルは、ドリス・トロイという黒人のシンガーをモデルに、その半生を描いたもの。まだほんの少女だったドリスに向かって、牧師である父親が、「決して夢をなくしてはいけないよ。神様は君が夢を追いかけていくことを望んでおられるのだから」と、優しく、包み込むように、しかも切々と歌う埸面では、本当にひとりでに涙があふれ出てきた。そして、ドリスが父の死を悼んで熱唱する場面では、聴いているだけで、本当に自分の両親を亡くしたように悲しく、胸苦しくなり、舞台を観ていられなくなるほど泣きじゃくってしまった。
公演終了後、パンフレットを見て驚いた。中には、出演者全員のプロフィールが出ている。彼らには皆、共通の信念がある。
「神の教えを守れば、きっと神は自分を良い方向にお導き下さる」。
神を信仰すること、聖歌隊で歌うこと、そして人種差別の迫害に耐え、笑い飛ばすことが、物心つく前から当たり前になっているであろう彼らにとって、「歌」とはまさに人生そのものなのである。このミュージカルには筋書きがあるけれども、彼らは、決してそれを「演じて」いるのではない。
歌を通して、観るものに訴えることを自分の使命だと感じ、歌えることの素晴しさを本当に神に感謝している体全体の表情だって、あんなに豊かでいきいきしているのである。少なくとも、私はそう確信する。
心にもないことを歌うのは無理だけど、歌うということは、ひょっとしたらあんまり我を出しすぎても良くないのかもしれない。独りよがりの歌なんて、「だからどうした」で終わってしまう。私は何を信じ、何のために歌えるだろうか。
歌いたい衝動があるだけで、その肝心なところがぼやけてしまっている。とにかく、言い尽くせない感動とともに、自分の精神面と体力面のあまりの貧弱さを思い知らされた晩であった。
[ハリス・アレクシーウ]
「エヴァー・グリーン・ミュージック」を観ていたら(その回は、おりしも村上進の追悼特集だった)、CMスポットで、 張りつめた、訴えかけるような女性のハスキーヴォイスが、これまた、何とも新鮮な響きに満ちたサウンドにのっかって流れてきた。彼女のコンサートの宜伝だった。時間にして1分そこそこ、1コーラスにも満たない分量ではあったが、それは僕を誘惑し、口説き落とすのに十分な情報量だった。「きっと彼女は、大きなものをくれるに違いない」。根拠のない確信が、否応なしに期待を高めた。当日まで、それ以外、彼女の曲は、わざときかなかった。余計なイメージを勝手に作らず、ただ、新鮮な印象を抱いたまま、実際の彼女に会いたかった。
当日、オープニング1曲間が、まさにそのCMで使われていた「祈りを込めて」だった。生の方が全然いい。間違いなく、彼女は本物だ。それにしても、何と密度の高い声だろう。確かに枯れてはいるが、強靭な息の線が、みずみずしく豊かに流れている。そして息は「意気」でもあって、フレーズの隅々まできっちり神経が行き届いている。全編シャウトしているといってもいいくらい、切実で、悲痛なまでの歌いっぷりだ。声量も相当ある。ほとんどマイクなしに近い状態で、楽々と声を届かせる場面もあった。
誰かに似ている。どこかできいた覚えのあるタイプの声・・・そう、アマリア・ロドリゲスによく似ている。アマリアを観たとき、正直いって、「1曲で、もう十分」という印象を受けた。とにかく強烈で、くどいほどの歌だった。伴奏も、民族色というが、伝統色というか、耳慣れない、そして単調な色合いのもので(もちろん、それはそれで、十分味わい深いものではあるのだけど)、長時間集中してきき続けるには、物足りない感じがした。
しかし、ハリスの場合は違った。まったく飽きさせなかった。それどころか、1曲終わるごとに「次は、次は」という気にさせてくれた。すべての聴衆が、同じ気持ちだったと思う。全曲、受けっぱなしだった。会場全体が、すてきな高揚感に満ちていた。こういう雰囲気を味わえたコンサートは、本当に久しぶりだった。アンコールも3回、灯かりがついたときは、みんな本当に残念そうだった。そして、同時に、きっと大満足だったに違いない。
彼女の勝因は、その楽曲の質の高さにある。特にアレンジがすばらしい。基本的にはシンセを多用したシーケンサー仕掛けの「今風」なサウンドではある。実際、キーボードだけでも4 、5台は見えたし、ラックには「これでもか」というくらい、うず高くイクイップメント類が積まれており、コンピューターのモニターが「どうだ」と言わんばかりにデンと構えていた。そこに「生」のドラムス、Eベース、Eギ ター、Aギター(このお兄さんがメチャクチャうまい!)、そしてギリシャの伝統楽器であるプズーキが加わるという編成。そこからつむぎだされるサウンドは、前述の通り、何とも不思議な響きに満ちている。そして、イントロやちょっとしたオブリガート、間奏などに出てくるフレーズが「えっ」と思うような、耳慣れない、新鮮な動きをする。
僕はライカとかレンペーティカという、ギリシャの音楽は、まるできいたことがなかった。ブズーキを見たのも、この日が初めてだった。だから、はっきりしたことは言えないのだけど、彼女のコンサートのチラシに載っている解説文などから察するところ、どうやらこの不思議な感じが、ギリシャ音楽の特色らしい。
ブズーキを除けば、よくある「今風」のポピュラー音楽のバンド編成である。別にこの編成のまま、例えばホイットニー・ヒューストンのバックをつとめることも、可能であると思われ る。また、確かにブズーキが入っているけれど、そんなに全面に強調される場面はほとんどなく、リズムを淡々と刻んでいる方が圧倒的に多い。要するに、ギリシャ・ティストはあくまで、スパイスと使われている。しかも薄すぎず、きつすぎない、微妙なサジ加減なのである。どこにでもあるような、そして現代に通用するサウンドであると同時に、間違いなくギリシャなのである。
もし仮に、この日の伴奏が、ちょうどアマリアの演奏のように、例えばブズーキとギターとベースみたいな編成 (ギリシャ音楽の伝統的スタイルが、そういうものなのかどうかは知らないが)のバックバンドであったら、僕自身、そして会場のお客さんたちをここまで魅了できただろうか。そしてそれ以前に、彼女のCDが評判になり、日本でコンサートを催すこと自体、可能であっただろうか。その答えは「N0」であるに違いない。(アマリアの場合も、映画に使われたことが大きな助けになっていることは、否定できないと思う)。
確かに彼女の声はすばらしい。声だけ取り出して、アカペラできいても、相当なものだろう。しかし、声のすばらしさだけで、ある程度の広さの空間に集まった、ある程度の大人数の人々を、ある程度の長さの時間、ある程度の金額の対価に見合う分、あるいはそれ以上に満足させることは、まず無理だろう。だから彼女も含めて、アーティスト達は、コンサートの中でバックバンドを紹介し、大きな拍手を聴衆に求めるのである。さらに、アレンジャーや照明(この日のコンサートの照明も実にすばらしかった)、PA、舞台等々、各セクションのチーフの名前を挙げるアーティストも少なくない。
彼女もまた、そうだった。みんな自分一人のカだけでは、どうにもならないことを知っているからこそだと思う。もちろん、「ポーズ」で言ってるだけのアーティストもいるだろう。そして、そういうアーティストほど、自分の実力よりも周りの人の助力によって、盛り立ててもらっていることをわかっていないのではないだろうか。
力がついてくればくるほど、より大きなものを表現したくなってくるものなのではないだろうか。各分野の優れた人々を集めて、その力を借りて、自分の表現をよりよくしたくなるのではないだろうか。本当に力があり、優れている人ほど、周りに関心を持ち、注意を払えるものだと思う。そして、そういう アーティストだからこそ、優れた人材が集まるのだと思う(もちろん、ビジネスとして割り切ることも可能ではあろうが)。
そう、まさに彼女は「鬼に金棒」状態なのだ。彼女自身のすばらしさに、楽曲、アレンジ、バンドのすばらしさ、さらに様々な舞台効果のすばらしさが加わることによって、この日のコンサートの「全曲受けっぱなし」状態が生み出されているのだ。もし、他の条件をすべて同じにして、誰か別の歌手であったり、別の楽曲、アレンジであったりしたら、こうはならなかったに違いない。
その証は、アンコールに歌った「シクラメンのかほり」に端的に現れている。それは、彼女自身の節回し(日本語だったので、多少無理はあったのかも知れない)、彼らのサウンドのアプローチで処理された、彼らの「シクラメンのかほり」になっていた。もちろん、初来日公演であることや、交友のある小椋桂を念頭に置いてのごあいさつ、サービスみたいな意味あいも含まれていたとは思うが、一つの曲として、彼らの色づけで完成されており、コンサート全体の流れの中で、浮いたりすることもなく、違和感なくハマっていた。
百点満点のコンサートだったと思われるかもしれないが、彼女も見事に大失敗をやってくれた(最 近、 僕の観たコンサートで失敗のなかったものはない。みんないいところでズッコケている)。まさにクライマックス、最高に盛り上がったところで、打ち込み色の強いイントロが始まった。歌い始めてAメロも終わらないうちに、彼女の歌とバックの演奏がずれているのが、はっきりとわかった。間もなく彼女は大きく手を振り、叫び、演奏を止めさせてしまった。キーボードのお兄さんが、激怒して彼女に向かって叫んでいた。そして、モニターを見ながら、コンピューターのキーボードをせわしげに操作し、しばしの沈黙の後、また同じイン卜口が流れだした。どうやら彼女が歌い出しのタイミングを間違えたらしい。単調な打ち込みのリフによるイントロだったので、入りどころを見失った可能性が高い。シーケンサー仕掛けの完璧なアンサンプルも、こうなるとどうしょうもない。すベてミュージシャンの手による演奏ならば、息があっていれば、何とかごまかせただろうに。
そのときの彼女の態度から察するには、おそらく、彼女の中には「融通のきかない機械なんか、うざったい」といった部分もあるのだろう。「金棒」に頼らずとも、自分の声一本だけでも、戦える自信があるのだろう。ほとんどマイクなしで声を届かせたりするのも、そんな「鬼」の部分の現れなのだろう。
その後、言うまでもなく、彼女は見事に盛り返し、終わってみれば「そんな失敗あったつけ」程度にしかなっていない。 やつぱり「鬼」だ。
根拠のない確信は大当たりだった。単純に一人の客として、大満足だったし、同じ土俵を目指すものとしても、とても勉強になった。僕も「鬼に金棒」状態になりたい。彼女が鬼ならば、僕は手のかかるいたずらっ子くらいだろうか。とりあえず、今の体力に見合った小枝あたりを振り回して、暴れてみよう。笑われようと、しかられようと、無視されようとかまいはしない。自分でも止められない。みっともないガキだ。「鬼」 になりたい。「金棒」をもてるようになりたい。その上で暴れ回ってこそ、「本物」だ。道は遠い。
彼女ののびのびとした、パワフルな歌、ギリシャのポップスは、アジア、ヨーロッバ、アラブの音楽が混ざった、不思議な、なつかしい音楽。
それをシンセサイザーなどで現代的に演奏していておもしろい。ギリシャの(ハリスの)ポップスは、ギリシャの伝統的な音楽を、うまくポップスにしているが、日本独自のポップスってあまりないので、うらやましい。
[おおたか静流]
彼女を聴くようになったのは、CMがきっかけ。少女が「泣きなさい 笑いなさい」と歌っていたあのCM。その曲「花」は大勢の人が歌っていたが、私は彼女の歌が1番好きだった。そして、不思議な世界を持つおおたか静 流という女性を聴くようになった。
最新作「NOSTALGIA」は、この地球(私たちが破壊してしまった星)から、子供を連れ出すことから始まる。(ホイットニー・ヒューストンのGreatest Love of Allも、子供たちは未来って歌でしょう)子供たちへのメッセージ、それは平和であり、愛である。すべての人はただ、「人」として、泣きなさい。笑いなさい。心に花を咲かそう。そう言いたい。「花」は日本の曲の中で、最も大切にしている。そして、おおたか静流のような個性的な声と歌と雰囲気を目指したい。
すごい体をもっているんだなと思った。"Tell me would we…"から、次の"memories, maybe beautiful"まで、一息で歌っている。1番高いところも、張り上げる感じではなく、でもしっかり盛り上げている。