一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

鑑賞レポート416

ニューオリンズ・ゴスペル】

 

何度見ても、涙が流れてしまう。何か熱いものがこみ上げてきて、「グッ」となってしまう。歌詞も「サンキュー・ロード」「ジーザス」くらいで、それ以外何をいっているのかさっぱりわからず、メロディーも、ほとんど同じフレーズの繰り返しだし、楽器も良い音じゃないし。ただ「熱いもの」と「ビート」だけは、ガンガン伝わってくる。やっぱり声だろうか。

「体を使って歌う」とか、そんな生やさしいものじゃなく、(もっともっと強く深く…そう、「魂を探り出す」、その音が声として、歌として聞こえる感じである。しかし暗さはみじんもなく、自由に、素直に、感じるままを、楽しげにいきいきと、そして(他のどんなジャンルの曲よりも)力強く歌っている。そして、聴く側も全く同様に。やっぱり曲だろうか。

 

「ゴスペルはFeelingだ」

「それは教わるものではなく、自分の心の中から沸き上がってくるもの〈ソウル〉」

「他の曲と違うのは、内容が個人的なものじゃなく、より大きな存在を歌っているからだ」

信仰に基づいた、しかも唯一、黒人にとって自由になれた、心が解放されたシチュエーションから生まれてきた。このゴスペルに「熱い想い」が込められているのは当たり前で、言葉がわからず、信仰心のかけらさえない、我々日本人の心にまでも、その「何か熱いもの」が届くのもまた、当たり前のことかもしれない。

ここでもまた、歌の原点を思い知らされた。彼らほど強く、熱く、「表現したいもの」は私にはあるだろうか。ただ、四方八方に散らばっている胡麻粒ほどの「想い」たちが、心の中で少しずつ、少しずつくっつきはじめて、大きくなろうとしているのが、私にはわかる。



We Are The World

 

何かを訴えかける。今の気持ちを素直に表現する。芸術の、音楽の、そして歌の原点と理想がそこにはあった。「アフリ力の飢餓を何とかしよう!」この博愛の熱い想いが、このパワーを内包した名曲を産み、アメリカの第一線で活躍中のポップスターを一堂に集わせ、各人のエゴイズムを捨て去り、この曲を歌わせた。

 

日本のように「〇〇もどき」の声は一つもない。実に様々な、そして一声聴けばすぐに顔が浮かぶほどの、強烈な個性と生き様と才能が滲む、インパクトがある声のヴォーカリストが、わずか1フレーズの中にその想いのすべてを凝縮して歌い込める。

 

本物のプロヴォーカリストの凄味(実力)と厳しさが、ひしひしと伝わってきた。一転、コーラスの部分では、なごやかに、まるで旧友や家族のように、心を一つにし、声に合わせる。何かとてつもないパワーが、次から次へと泉のごとく溢れ出てくる感じがした。

 

録りの合間に、誰かが戯れて歌いだした曲をみんなが歌い始めたが、何の打ち合わせもなく、全くの偶然、即興にもかかわらず、1フレーズ口を開き、声を出しただけで、それはもう作品となって、こちらの耳に飛び込んでくる、声の素晴らしさ。

 

手拍子さえあれば、どこでもいつでも誰でも歌うことができる。スピリットさえあれば誰でも表現できる。一番原始的だが、一番伝わりやすい、この歌うということの凄さと原点を再確認させられた。一番大切なのはスピリッツ。いくら金を積んでも、これだけの大スターは集まらなかったろう。技術が聴く人の耳まで届けてくれるが、心まで届けてくれるのは、スピリッツ。そしていつか、あのの中で、黄色人種代表として歌っている自分の姿を夢見て…。



サラ・ヴォーン

 

とてつもなく低く深く、本当に地の底から沸き上がってくるかのような声で驚いた。いわゆる「ハスキー・ヴォイス」という呼び名が日本にはあるが、そんな貧弱なメジャーでは計りきれないほど広く広く、水平線よりも、地球よりも、宇宙よりも広く、神にまで届くような。

 

「これでもか」と思わせるほどの低音の魅力。80%は息なのに、歌声として心に入り込んでくる。ふと、大学のころ、高音に憧れて無理矢理のどを締め付けてた自分が浮かんだ。

「自分の勝てるところを見つけて勝負する」という言葉も。

 

ビリー・ホリディを鑑賞したときにも感じたのだが、一般的な幸福という始点からすれば、何回もの結婚や、旅から旅へ、の浮き草のような毎日など、彼女の人生は決して幸せとは呼ペないだろう。でも、死んだ眼で満員電車に揺られているだけの奴もいるわけだから、結局、自分の一番やりたいことができるのが、幸せなんだろう。

かくいう私も、昔は心の支えとか何とかいって、精神的に彼女に寄かかってばかりいたが、トレーニングを始めてから、心の支えが少しずつ、自分の中に存在し始め、やっと最近「自分と友達になれる」ような気がしてきた。

 

自分が死んだとき、はたして(身内以外で)あれだけ熱く、自分のことを語ってくれる人がいるだろうかと思った。彼らは戦友であるサラ・ヴォーンに親しみと敬意を込めて、話してくれた。結局、本当の人とのつながりは、なあなあじゃなくて、お互いの信用・敬意の上に成り立っているものなのだろう。自分の中に尊敬に値する何かが存在しない限り、親友(戦友)はできないのだろう。前は至るところに目に付くようになったけれど。長い旅になりそうである。



アレサ・フランクリン

 

彼女の歌う姿は、何と自然体なのだろう。あの絶妙なリズムは天性のものだろうか。たっぷりと太った大きな体の深い部分でしっかり刻まれ、それがまるで呼吸するのと同じように'自然に保たれている。彼女の歌には決まったメロディなど必要ないのであろう。リズムに乗せて言葉を口にすると、同時にメロディが生まれるような感じだ。「歌う」という概念より「語る」という概念に近いのではないだろうか。語ると自然と言葉が歌に変化していく。時には軽く目を伏せて、自分の内側からわき起こる何かに感性で反応して。言葉を、歌を舫ぎ出しているように見える。

 

完成されたものとは、こういうものだろうか。彼女はバンドやコーラスとの簡単の取り決めだけあれば十分で、自分の感牲のままに世界を作り上げていく。とにかく常にリラックスしている。それでいてパワフルなシャウトも聞かせる。むろん、その反面、きわめて集中しているのだろうけれど。パワフルな歌声とは、決して力で押すものではないのだなぁ。頭でわかっていても、体でわかっていない。揺るぎない土台の上に立つ技だからこそ、不動のものとなるのだろう。彼女と私とのとてつもない距離を知りながらも、それを才能の一言では片づけたくない。磨きたいもの、たくさんあるのだから。



【カリフォルニア・スクリーミングVol・1】

 

どのプレイヤーも、一人一人とても孤独だと思った。みんなでやることにおいて、一体感や、仲間意識がもてて、孤独じゃなくなるために音楽をやる人もいると思うけど、出演した人たちは、私の想像を絶するくらいに孤独で、でも目では見ることのできないバイブレーションをいっぱい感じていた人々だ。

 

こういう表現は、必ず時代とともに存在しているものだと、改めて実感した。かっこいいなと思うものや、うらやましいと思うものもあったけど、あれは私ではない。私にできることや、今の時代に必要なものはもっと違う形をしてて、でも「その形の中に包まれたSPIRTとかHEARTのようなものが存在している」という事実だけが、アーティスティックな活動に共通な、普遍な&不変なものではないかと思う。



【Making of 三代テノールの競演】

 

何度聴いてもすばらしい。ドミンゴカレーラスパヴァロッティ、それぞれの歌声でのあの曲、あのフレーズがしっかり頭の中に刻まれていた。何かこう、ワクワクして、ツーンと熱くなって、そして観終わったとき、とても気持ちがよい。元気の源がわき上がってくるような。これが歌なのだろう。ボクシングや、ラグビーなど、スポーツを観戦したときと共通するものも感じられた。

歌もスポーツも、同じ「時間的芸術」である。前代未聞のこの公演成功に向けて、裏方(プロデューサー、ディレクター、マネージャー、音響・照明・舞台などの技術者、その他諸々の関係者)と演者(200人の楽団員とそれを師いるメータ、そして主役の3人)とも(こ着々と準備を進め、テンションをあげていく。世界タイトルを戦うボクサーのように、その日、そのときに向かい、集中力と冷静さを持続し、続けてゆく3名。

繰り返されるリハーサルにおいて、笑顔で戯けて見せたりもする彼らだが、その厳しさ、完璧さを求める姿に、本物のプロ根性、プロの厳しさが、冷酷に私の心を抉って、とても苦しかった。彼らの中にもし、私が加わっていて、本番直前に、あんなリラックスしてられるだろうか。あれだけの大観衆の前で、あれだけ複雄な構成の中で、たった1音たりともポジションも音もはずさず、かすれず、完璧に歌いきることができるだろうか。

タイトル戦に、それまでのトレーニング、キャリア、全人生を込めて(賭けて)ファイトするボクサー同様、彼らも、1ステージごとにすべてを賭けて、それを積み上げてきたのだろう。だからあれだけの存在感と、笑顔と、歌声があるのだ。笑顔だけでもずーっと観ていたくなるような、そんな彼らに1歩でも近づきたい。



【The Giants of R&R】

 

日本のポピュラーミュージックで例えれば、ナツメロとでも呼ぶのだろうか。とにかく音楽界の御大ばかりで、知らない名前もかなりあった。しかし、そのパワーは、峠を越したにもかかわらず、まだまだ第一線をはれるだけの実力と気力と魅力とファンがいるところが、化石化している日本とは比べものにもならない。作品のよさと、それを十分に活かしきる表現力(歌)の賜物だろう。いくら歳をとろうが、古くなろうが、「よいものはよい、凄いものは凄いから存在し続け、また聴衆にもそれがわかる。若い客(20代の)もかなり見受けられた。

ゴスペル(ニューオリンズライブ)も観たが、やはり声にも歌にも雰囲気にも、共通するものが、J・ブラウンやレイ・チャールズ等に感じられた。

 

名前さえ知らず、全く初めて聴く歌なのに、また、かなり昔にヒットした古い曲なのに、最後まで飽きずに観てしまった。というより、観せつけられた。興味のない人にさえも、見せつけ、聴かざるを得なくしてしまう、これがプロであり、歌のパワーなのだろう。そして一度聴かせれば、二度聴かずにはおられない、ぐっと聴衆の心をつかんでしまう。

 

ピアノマン」として売っているレイ・チャールズやジエリー・リー・ルイスならまだしも、絶対弾けそうにないリトル・リチャードや、あのJ・ブラウンまでもが、見事に鍵盤を操っていた。ピアノに限らず、B・Bキングその他、何かしら楽器に精通している彼らを観て、「歌う」ということは、本当に様々な礎の上に成り立っていることを痛感した。



ジャニス・ジョプリン

 

ジャニス・ジョプリンは低い声だと思っていたが、よく聞くと、とても声域が広いことがわかって、びっくりした。深いところから出ている声だから、とても高い音でもそう聞こえないのかなと思った。ちょっと聞くとのど声のようなしゃがれ声だが、決してそうではないとわかった。いろんな人がサマータイム・ブルースを歌っているけど、あのような歌い方は、この人にしかできないと思った。言葉はわからなくても、心を打たれる思いを感じた。




【アポロ】

 

私達のように、生意気にも歌うたいになりたがっている人々にとっては、こういうのは絶望感を抱かせるはずなのに、それを通り越して夢心地にされてしまう。歌のゆりかごにのっているようで、よい気持ちになってしまう。すペての動きに無理がなく、本当に自然の延長で身をこなしていて、下手な感想はひかえたくなる。

 

彼らのように、自然の延長で身をこなしていて、無理がないもので、他人をこんなに感動させることは、今のままでは、自分にはできるわけはなく、人間としての経験を積むことこそ、そして、彼らみたいな人たちと、対等に会話ができるほどの、人間的幅を得ることこそが、ただ一つの可能性だと感じた。




【リズム&ブルース】

ちょっとのぞけば、こういうのをやっている飲み屋がある外国は、うらやましいと思う。これを観ながら、私はなぜか、ドリフのステージは、アドリブではなく、密なリハーサルを重ねたものだというのを聞いて、へぇーと思ったことを思い出していた。



[エンゲルベルト・フンパーディンク]

これまでの経歴の集大成という事を強く意識して背負っていた。でも決してその重荷に負けず、過去の栄光に甘んじるとかではなく、しっかりと受けとめて、はね返して、すべてを表現して、この人はまた、新しいスタートを切るのだろうなと思わせた。

 

ものすごい練習とリハーサルを繰り返したのだろう。中盤、それでも若干、スタミナがきれてきたのか、最初のうち完全に深いところでとらえきっていたのが、所々、のどにかかったり、ポジションかずれたりしているところがあった。



[千僧音曼陀羅]

真言宗のお坊さん1000人と、ジャズピアニストの佐藤允彦、パーカッション・高田みどり、和太鼓の林英哲などが出ている。林英哲は生で観た。頭の中はしーんとして真っ白なのに、全く自分の意志の働かないところで、知らない間に涙がほろほろ出るという体験を、初めてした。和太鼓なら、レナード衛藤という人も見たけど、こんなことはなかった。これは何なんだろう。何か、ガン!と殴られ、粉々にされた気分だった。すばらしい。



 

 

鑑賞レポート2   by トレーナー

 

【マイケル・ボルトン

 

自身の大ヒット・ナンバーから、歴史的な名曲のカヴァーまでライブとインタヴューで描くマイケル・ボルトンの世界ー

これはマイケル・ボルトンのミュージックライフとヴィジョンを示し、彼の歌の魅力をたっぷりと引き出すべく作られています。彼の実像を見るのが楽しみ(彼だけでなく、ミュージシャンのプロフィールには誰しも興味があるもの)です。これは演出されたものです。しかし、ミュージックシーンの場合も、作られたイメージが売り物になってゆきます。

さて、肝心なマイケル・ボルトンの声に関して。

発声の適正を守りながら、声を柔歎に押し出せる技術は・完全と体得されていると言えます。発声器官の自由を、見事に実践しています。自分の声を出すときの調整が、とても優れています。声はどこかを強調しすぎると、別の場所が犧牲を払うことになります。

彼の場合、よい点は、いかにもハードに歌っているように聴衆に師える、強いアピール力です。声域も、抜群に広いイメージを与えます。比較的、声量がないのですが、その分、自由なフレージングを許す声の出し方を心得ているのです。「バラードを歌わせたら彼の右にでるものはいない」という言葉は、これらのことに支えられていると言えます。玄人受けする歌手です。

〈体〉180cm以上はあるでしょう。しかし、ごく平均的アメリカ人の体格です。首が太い。顔のサイズのまま下に首がついている感じです。

〈息〉様々な種類の息を、自由に駆使して歌い上げる技術は、見事です。体と息の誌びっきがしっかりしていて、息を深く吐ける運動神経を、優れたレベルで持っています。

〈声区・頭声区〉歌は全て、頭声区で歌っています(健常者において、声は本来自由なものです。その性能をよく理解して、適切にトレーニングすることに気をつけましょう)。

発声器官には、調整こそが重要な課題です。発声器官を酷使したり、負担をかけて大声を出すようでは、『どこかに問題が起きるぞ』という生きた好例でもあります。

まずは、よく共鳴して鳴っている自分の声を、もっとよく聴くことです。その感覚を自覚し、守りながら、無理せず、徐々に声と体を湿めていきましょう。

〈声区・胸声区〉無理な声の出し方で、歌い上げることは避けられています。声を出す基本は、完全に用いられています。また、歌唱において、胸でしっかり声を鳴らし、さらに頭声でも声を取ろうとする時に起こりがちな弊害(のど声、響きのとり方)は、解消されています。

息を深く吐けそうな点からして、彼をテノール歌手に仕立て上げたとしても、彼は声楽のスタイルを心得た後、その個性を発揮するに遠いないでしょう。彼もまたヴォイス・トレーニングを周到に受けているに違いありません。もしかするとブレス・ヴォイストレーニング理論の基本的な内容にいやと言うほどの時間をかけ、呼吸器官の強化をはかった末に、ヘッド・ヴォイスで自由に歌える術を体得したのかもしれません。そう思わせるほど自由な歌であり、理想です。




【カリフォルニア・スクリーミンザ・ベスト・オブ・ウェスト・コースト・ロックVol・2】

 

どうして優れたものは皆、アメリカなの。

それは、アメリカ人は自分たちが世界で1だと思っているからなの…。

我々は優れたものを(ロックという音楽のセンスある価値基準を)、自分の力に吸収するために見ているのに、いつも圧倒され、打ちのめされ、心奪われ、完全に心を裏切られていきます。彼ら自身に、音楽を揺るがす力があるのではなく、彼らの演奏を通じて、我々皆、誰もが持つ、音楽の喜びを得ているのです。音楽には実体はなく、それぞれの人のセンスの中に(普段は埋もれていて、外からの刺激によって)見え隠れするものなのかもしれません。

 

力リフォルニア。それは一つの音楽の合い言葉、音楽のジャンルそのものなのかもしれません。このLDに紹介されいてるミュージシャンは皆、音楽の中で生きているような錯覚を起こさせるまでの態度、演奏スタイルを持っています。自分自身があります。またそれなりの音楽活動経験をしてきたというものを感じさせる力が、体から雰囲気で出ているのです。

 

ここでは60年代後半から70年代初頭のウエスト・コーストで行なわれた厶ーブメントや、当時のパフォーマンスに関係の深いアーティストのライブ(当時はビデオクリップなどなく、スタジオ収録か、ラジオ収録か、ライブしかなかった)が、オム二バス形式で見れます。ロック音楽鑑賞の基本です。これを入門にして、この手のジャンルに詳しくなってください。




ハード・ロック・ヘブンザ・ベスト・オブ・ハード・ロック

 

ここに出ている人達は、獣であり、ロックミュージックの使者とも思えます。ライン・ナップをざっと紹介するだけで身の引き締まる感じを抱くのは、私だけでしょうか。

ディープ・パープル/ジミ・ヘンドリックス/スティタス・クウォー/クリー厶/ブラック・サバス/ザ・フーユーライア・ヒープ/アリス・クーパー/シン・リジイー/バッド・力ンパニー/グランド・ファンク/ホワイト・スネイク/AC/DC/モーター・ヘッド/ヘッド・ガール/ナザレス/ジェフ・ベック・グループ/ローリング・ストーンズ/フリー/ステッペン・ウルフ

ロックを目指すものなら、これらの人々について知っていなければならならいでしょう。詳しく研究しなければならないのです。なぜなら半端な理解では、自分が実践する上で、使い物にはならないからです。

 

聞き手と送り手を2つに分ける神の業とは、一体どこにあるのでしょうか。彼らはすでに伝説状態であり、2000年に仕掛ける我々ミュージシャンとしては、残されたビデオなどを手掛かりに、その本質を探らなければならないのです。また、こうして改めて彼らの音楽に触れてみると、彼らは実に冷静に、しかも的確に自分達の音楽を表現していると思うのです。

ラフに、やりたいようにやっているようでも、しっかり声は出ているし、完璧に歌っているし、ギターもドラムもうまい。いわゆる基本・基礎ができあがっています。彼らが、足げくドラム教室に通ったり、音楽スクールで優等生で、研鑽を績んだとも思えませんが、ロックの謎の一つであります。あれだけ短い時間に、あのような生の、よいロックがどうして大量にうまれたのが、80年代のぬかるみに身を寄せていた者には、到底理解できないのです。これらの音楽に魅せられ、ロッカーたちの自信と誇りに満ちた撮度と演奏姿勢には敬服します。カッコイイ・イカス音楽に、いちいち注釈を着けるべきだといっているのではありません。完成されて何も言うことがないロックの感動・興奮する事態を、再び体験し、それを心と体に植えつけておいてほしいのです。




【スーパーロックエイドVol・1〜2 コロンビア・ボルケイノ・コンサート】

 

1985年11月13日、南米コロンビアで起こったネバド・デル・ルイス火山の爆発は、近郊の町アルメロに壊滅的な被害を与え、死者2万5千人を出し、蒙を失った者は5万人、両親を失くした孤児は1万人にも上ったと伝えられます。こうした故国の窮状を見かねて立ち上がったのが、コロンビア出身で、イギリスのロック/ジャズ・シーンで活躍していたベーシスト、チューチョ・マーチャンでした。

彼はツァー・メンバーなどとして知られるミュージシャンで、その顔の広さを生かして知り合いのミュージシャンに声をかけ、故郷コロンビア救済基金のコンサートを企画したのです。集まった理由はチャリティの為とはいえ、このコンサートは楽しく、エキサイティングなものになりました。単に形式ばった堅苦しい救済活動の既成概念を破る、ミュージシャンのパワーがあったと思います。

 

コンサート全体にドラマがあります。フィナーレでほ、変形フリテンダーズに、当夜の出演メンバーが加わるオールスター・バンドでの演奏となり、大きな音楽のドラマは、何かを成し遂げた興奮のうちに終わったのです。当初は2万ポンドの収益を予定していましたが、「20ポンド、15ポンド、10ポンド、6ポンド」という4種類のチケットが売り出されると、4日間で完売、これにビデオ化の契約金とスポンサーからの援助金も出て、予定の10倍にあたる20万ポンド(当時約4600万円)の収益金が集まりました。さらにコンサート後も募金が続けられ、チャリティは大成功を収めました。

考えてほしいのは、ブロのミュージシャンとは何かということです。それは声の力であり、プロとしてのキャリアであり、音楽を総合的にとらえ、自分の言葉で表現する仕方を持っていることです。日本では、ある程度の知名度しかない彼らですが、欧米では人気のあるミュージシャンがそろっています。

 

一体、いかなる要素が彼らをプロにしているのでしょうか。

まず、プロとしてステージの場数を踏んでいるから、前奏が始まっても落ち着いていて、このステージをどう乗り切るかを冷静に考えています。自分がこの埸で歌えるうれしさや、歌うことの楽しさを笑顔でお客に振りまいています。

出演者は、歌えるポジションを崩さないで、一曲歌い切っています。それを1ステージ統けています。喉はそんなに強いものではありません。感情的に歌い始めて、すぐに駄目にするようでは、ステージを努められません。音楽が好きだから、その気持ちのままに任せて歌うのではなく、好きだからこそ、歌を歌えるポッションで歌うことが大切です。

体を歌いやすくする、歌いやすいところでしっかり歌う練習を経てから、難しい歌に入っていくのがいいでしょう。ここでいうポジションとは、教本に出ているような正しい姿勢を、よけいな力を入れずに保つことです。

「それでは自分の歌いたい歌は歌えないよ」という人は、初歩的なことができていないから、応用が効かないのでしょう。適切な姿勢をとって歌の練習をせずに、いきなり憧れのプロのまねをしても、そのプロを越えることはできません。

歌いたい気持ちをどうしていくのかということです。

 歌いたいから歌う→歌ってみる→もっとうまく歌いたい→歌い続ける→ある量以上のキャリア→うまく歌うためにいろいろと問題が出てくる→習う→土台から作り直す→応用が十分効くまでに基礎を高める→応用練習→応用して本来の自由な歌に戻す→歌いたいように歌う。これでしょう。




【ザ・プリンス・トラスト・コンサート1987】

 

英国星室のチャールズ皇太子が総裁を努める、若年失集者の為の基金団体、ブリンス・トラストは、1986年で創立10周年を迎え、ロック界のスーパースターたちによる誕生10周年記念コンサートが、6月20日にロンドンのウェンブリー・アリーナで開催されました。1987年も同じ会場において、6月5日と6日の2日間に渡り開催され、前回を上回る規模のコンサー卜となりました。

チャールズ皇太子が1976年に設立した「プリンス・トラス卜」は、福祉と若年失業者の救済を目的とした信託機関で、若者たちの小さな事業などへの援助金貸し付けなどの活動を行なっています。この信託基金獲得の為に、プリンス・トラストは様々なイベントを行なっています。その代表的なものがこのコンサートです。

ビックなゲストの目白押しで、後半の盛り上がりは目がはなせません。いずれにせよ外国人の有名な歌手は、ほとんどといっていいほど、体を使って声を出しています。そして、声のポジションが体に入って、深くキーブしていないと歌い続けられないことを知っているようです。基本は体の芯を使ってシャウ卜できるようにすることです。そんなことを感じさせてくれるミュージシャンが沢山でていますから、一人一人注意深く見てください。

中間音を出すときや、高音を出すときも、基本的には喉を開いて、音がうまく出るようにします。体の余計な力はぬいて、お腹から深い息を流しています。こうした体で歌い統けていくから、歌う中でうまくなり、体が強くなっていくのです。また、出演しているミュージシャンは皆、楽しそうです。




サイケデリック・ロックの軌跡】

映像が証言する! 深遠なる精神世界を極めるサイケデリック・ロックの世界

 

サイケデリック・ロックこの言葉は一体どんな音楽を憲味するのか、ロックファンならきっと興味深いことでしょう。完成された音楽を定義づけるなんて、無味乾燥でナンセンスなことはしませんが、この言葉の響きから想像するのは、奇怪、異常、幻覚、覚醒、自由思想、狂気などでしょう。

しかし、世の中は常に健常で正常であり、歪曲してないと言えるでしょうか。前述の歪んだ状況を、歪んだまま表現することこそ、意味のある真面目な音楽なのかもしれません。汚いものは、汚いものとしてそのまま表わす。傷あるものは、傷あるものとして、そのまま表わす。そんな正直で、ありのままの音楽があってもいいのです。

サイケデリックがどんな音楽かは、見て感じるしかないでしょう。音楽様式としてのサイケデリアを説明するのは、難しいです。それは、ある種の精神状態です。音楽はR&B、ソウル、メタル、フォーク、そしてもちろんロックといったさまざまなスタイルから成る、一つのスタイルです。バンドによってその配分はまちまちであり、自分たちがサイケデリックをやっているといった自覚はないのです。自分たちは、自分たちの指向する音楽をやっているだけだということになるでしょう。

あらゆるタイプのサイケデリック・ミュージックには、既成概念は通用しないという主張と、幻覚的な思想を求めるという共通した考え方があり、元来それは、商業的成功よりも重要なこととされています。また数多くの世界的に有名なバンドも、一時はサイケデリックなものに走っています。

 

[デヴィッド・ボウイ]

はたしてサイケデリックと分類されるのかどうが、疑問の声もあるが、「スペース・オデッセイ」でクレジットされている。声はポジションが高く、息も浅い印象をうける。しかし60年代のミュージック・シーンのマジックとも言うべきか、しっかりとフレージングをとっている。声のふらつきもなく、中高音を自由に線を描くように歌っている。

 

[スティーヴ・ミラー・バンド]

テキサス出身のスティーヴ・ミラーはサンフランシスコを拠点にして1960年代後半に録音した一連のサイケデリック・アルバムによって名を馳せた。

ジェファーソン・エアブレイン「ホワイト・ラビット」は、1967年全米トツプ10に入った曲。グレース・スリックのヴォーカルは、力強く押し出す現在の歌い方に比べて、かなり頭でうまく共鳴させている。さらにゲインの高いマイクのせいか、とても楽にフレージングをエンジョイしているように見える。

 

[ジミ・ヘンドリックス]

「ヴー・ドゥー・チャイル」。声の芯、ポジションといったイメージや概念を一切持っていないだろう。別に持っている必要はないのだ。ただうまく歌う事ができれば、それでいい世界だ。この人もヴォーカルになると、歌うフォームはなくても、ある程度の声を出さなくてはいけないから、声のポジションを上げて、浅い響きで歌う。ポジション浅く、大きな声(マイクに通る声)を出すために、音量、声域は制限されてしいまい、そのすきをぬって声を出している。それでもある程度の音色を出さなければならないので、発声器官を責めながら、声を出さなくてはならない。彼の死後にリリースされた超サイケデリックなこの曲は、1970年11月、全英チャートのトップに輝いた。