一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン感想  417

レッスン感想

 

他の人の声はとても参考になる。うまい人の真似にならないようにと思うと、単調になるし、離しい。自分の直前の人に惑わされることがある。まずは、聞く耳を持つ(育てる)ことから始めないと先が見えない。歌だけでなく、単なる言葉になってしまう。曲にメリハリをつけるのはセンスであると思う。考えるのではなく、教わるのではなく、真似でなく、自分なりのセンスを磨いていこうと思う。課題だらけだ。

 

体の使う息と声で発声し、体の疲れは感じても、あとはケアすることに気をつけなければならない。高音にいけばいくはど、体も息もポイントも深さが浅くなったり、keepできなくなるが、それはトレーニングでkeepできるようにする。でも、のどをしめることは身につけない。

 

みんな、どんな風に成長して、目標を決めて、どんな風にこのトレーニングをいかしていくんだろう。自分もときどき不安になる。そんな時、まわりの人がものすごいやる気で、何かに向かってがんばってる人を感じたら、私も影響を受ける。でもその逆で、私は不安を吹き飛ばせるパワーを周りの人に与えられたらいいと思う。弱気にならずやる、今の自分の支えは、自分の納得いくトレーニングと、成長と、それをさせるトレーナーだ。

 

常に歌や音楽に対して、自分の感性を全開にして、イメージを持ち統け、ふくらませておくこと。自分が自分の中で成し遂げたいことのヴィジョンを持ち、そのために来ているのだから、1コマ1コマの授業で、自分にとって必要な要素を発見し、取り入れること。歌を歌うことと、トレーニングとは、異質なもので、歌をまとめることに引きずられないように、トレーニングで、むしろ今までの形を壊すこと。

 

腰の筋肉を使って、下の方から息が吐けたとき(その息を声にしたときもそうだが)、息が体の中で流れるのを感じる。でも、いつもできるわけではないし、音が高くなると、全くわからなくなる。できる回数と音程を広げる。

 

発声と「誰にも渡したくない」の1フレーズで始まり、終わった。たった1フレーズから、本当に色々なことが学べる。1曲を最初から最後まで歌う授業よりもずっと、不器用である私向きの授菜だった。

 

とっても楽しかった。声に関して、声が体から、体の全部に共鳴していて、とてもびっくりした。

 

新しい課題をたくさん発見できた。今までやってきた練習は、体と息と声とを一瞬だけ(「いつ」とか「ハイ」とか「ララ」)一致させる練習だったが、今日はレガートの練習をした。

実際にやってみると、息の強さの配分がうまくいかないし、息の量も少なく、続かないし、音が変わると胸のポジションが変わってしまうし、と弱点ばかりがでてきた。

 

ポジションをつかむ。「ハイ」でつかんだ位置を、意地でも話さない。「グ」「ガギグゲゴ」で同じ位置に息を流し続ける。のどの下の方に引っかけようとするのを、深くすべておなかの負担に回して、支える。最後、のどで切ってまとめようとしているのがクセになっている。

 

目をつぶると、意識か頭部に行くので、目を開けて、最初にしっかりつかめたときと同じポイントを見つめて行う。深いところで確実に出せる声を、10回出したら、10回的中するようにする。息なり、声なりを発するとき、ただやみくもに出すのではなく、体とイメージの準備をしっかりもって、発して、自分の持ったイメージに対してどうだったか、そしてまた、それに対して先生が何とコメントするかという事と向き合うことが大切だと痛感した。

 

とっくの昔からいわれていることだが、やっとこのところ、半年たってようやく、体でわかってきている。頭でわかることど、体でわかることは、こんなにも逢うものか。

「ララ」のポジションをつかむ。苦手意識からか「ラ」になると、体を硬くして、ポジションを浅くしていたように思う。のども閉まっていたみたい。

 

今日、体の中の構造が変わっていって、のどからおなかに向かって、ストーンと、広い空間が広がるような気がしたことがあった。そのとき、私なりに「ハイ」と「ラオ」と「ララ」のポジションが見えた。のどを開けておくことが凄く大切。少し邪道かもしれないけど、声を出す前に息を吸って、道をあけてやってみた。

 

上のクラスの人との体、スケール、集中力の違い。まずシンがしっかりしていて、息の量が多い。だから表現が自然で、伝わってくる。作為が見えない。でもキャパシティーの違う体で、より集中して、表現しなくてはいけない。自分のできる範囲で、無理だったら、言葉で語るつもりで、歌わなくてもいい。言葉でハッキリと、息をしっかり吐いて、ポジションをキープしながら、表現することからやればよい。体ができれば、歌になってくる。表現は、心を真っ白にして、言葉を素直に語ればいいと思う。

 

一瞬だけでも、深いところでいえるようにしたら、それを1つのフレーズにしたときに、最後までその深いところを逃さずに、言い切れること。それができたら、そのフレーズでアクセントをつけて、その中で大きくしたりして、処理していくこと。

 

体の使い方。高音になればなるほど、体は強く使う。低音になればなるほど、深く使う。息と体は分離させない。めいっぱい体を使う。発声(歌うとき)とトレーニングは異なっているもの。歌うときのほうが楽になる。

 

表現が先で、それに声をつける。表現力は計算ではなく、体の感覚で学ぶ。中低音の完成度を高め、高音にもっていく。絶対に逃げないところを確実につかんでいく。1フレーズ1フレーズを確実に。

 

すごさがわかるまで聴くこと。言葉を話すのと同じ感覚で、まず言えるように、言葉を一つの流れの中で言えてから、広げたり、動かしたりする。聰いている人に、「素敵な恋人」「離れないでいたい」が伝わればよい。まずは感情表現から入らないと、いつまでたっても歌にならない。

 

「歌は歌いすぎてはいけない」本物を聴いていると、声のカもあって、表現力もあるから、常にパワーを使って(この言葉にはとても語弊があるけど)情熱的に歌うているのかと思っていたけど、違った。「抑える」とか、「サビ」とかいう言葉の意味か少し分かってきた。

 

私の歌が、なぜー本調子なのか、一番初めの言葉を歌った後、なぜ最後まで歌がどーっと流れていってしまうのかわかった感じがした。もっと歌いながら一つ一つの言葉を自分につなぎ止めて、しっかり時間をコントロ~ルしたかったのに、なぜいくら感情を込めようと思ってもできなかったのか、よくわかった。

 

歌を、目で見て、理解して、頭で解釈して、何となく気持ちだけを高揚させて終わっていた。

感情移入とは、自分の感情を移入することではなく、それ以前に、言葉自身の持っている感情に息吹を与えることだと思った。

よく小説家や漫画家が、自分の書いているものの、登場人物が、勝手にストーリーを作り始めて、作者本人もその後どうなるのか楽しみです、などと言っているのを聞くが、それと似ている。

 

高音域のある歌の時に、まだ髀きに逃げやすい。話している感じと歌ったときの言葉が全くかけ離れていて、その言葉のイメージや雰囲気が伝わらない。1フレーズですら創れないのに、1曲通していかに今までいい加減に音符を弱ってきたかと反省した。

 

「ア」行がいい加減な発音になる。全ての「ア」を注意して、何度も練習すればいいのに、怠っていた。こうやって色々気づいても、家に帰ってからやり直したり、次へのステップにするといろ反復をしないバカな自分をも発見。

 

音が高くなると体は使いやすいが、低くなると声のポジションは下がっても、体が使えなくなる。低い音で息が吐けたら、ポジションも深いし、体と息と声の結びつきがわかりやすいはず。

 

フレーズを大きくつかんでいないから、歌が小さくなってしまうということがわかった。だからカンツォーネなど、スケールの大きい曲を歌える力がないのだと思った。体力がない。発声の後に「ゲー、ゲー、ゲー」を1人ずつ回していったとき、息が一つになるよう、体に負担をかけようとしたけど、体に拒否されてしまった。もっと体力を付けたい。

 

実際にやってみて、一番大切だと思ったのは、体に密着した息をどれだけ吐けるかという寧だ。息吐きトレーニングの大切さを改めて実感した。これからは、一音をしっかり出せる息吐きトレーニングに、徐々に息の長さを増やしたり、強さを変えたりするトレーニングを取り入れていって、体をしっかりつくっていこうと思う。あと、福島先生の声を聞いて、すごく勉強になった。

 

福島先生が、「ここはこういう風に歌って…」と決めつけるのは、よくないとおっしゃっていた。私は、歌詞を歌詞としてではなく、自分の体験として、自分の中からわき上がった感情を、歌として表現したいと思っているのだが、なかなかそれが離しくて、つい先に、こんな風にと考えて歌ってしまう。自分の感悄と表現を一致させるには、表現するための体が必要だ。

 

「はなれないでいたい」の「いたい」の最後の音の処理がうまくつかめない。体の感覚で、情感を表現するというのにはほど遠くて、いろいろ頭で考えて歌ってみると、「思っていた義現と違う」ということになってしまっている。最後に先生が、「体が足りない」とおっしゃっていたか、地道に体づくりをしていくことが一番ということだろう。

 

大きく出そうとするとき、上体に力が入って、下腹部が固くへこんでしまう。話し声くらいの大きさで、体を使って出したときは、へこんだりしない。うまくいくときと、全然できなくなるときかあり、バラツキかある。トレーニング以外でも、常に息が声になるところ、腹から声が出る感じを意識しているが、すぐつかめるときと、突然わからなくなるときがある。ただ、先生が「今の音は浅い」と言ってくださるときと、自分の体の感覚が一致するようになってきた。

 

コントロールする力がない。行き当たりばったりで、表現も一歩通行である。器を広げて、体をつくっておかないと、自分の表現を自分に引き込むことができない。

上のクラスに出ていたので、今日、そのレベルの差が歴然とわかった。集中力も、理解力も、ちゃんとオリジナリティの域にいっている人もいた。よい見本に囲まれていたときの方が、自分もうまくできていた気がした。

体も頭もついてこないレベルの中にいると、一体自分も何がわかっているのかわからなくなり、この場で何をどうしたらよいのかわからなくなる。それだけ不安定な実力でしかないというだけのことだ。少し音程に高低差か出ただけで、全然ついていけなかった。 

 

日本人の歌と、外国人が歌う歌の決定的な違いは、リズムではないかと思った。腰でとらえるような、波打つようなリズム感覽か、まだ日本人にはないと思う。

 

というのは、のどのところにあるから、「のどを使うな」という言葉の意味がよくわからなかった。よく取り上げられるようなシャンソンカンツォーネの人の声は、「体でつかんでいる」と先生は言うけれど、何のことやらわからなかった。しかし、そういう声の人が、外れていく過程を見て、「これか」と思った。収穫だった。

 

ー人ずつ発声させる練習は、たくさん今まで通りやってほしい。他の人の声を間いて、先生のアドバイスを聞くと、すごく勉強になる。 

 

今日の課題も凄かった。体の深くでつかんだまま、離してなかった。軽く浮かしているように聴こえるようなところも、実はシャウトしているときと同じような体の使い方をしているのではないかと思った。まだ、本当のすごさを聞き分けるカは、私にはない。表現も凄かった。

私には、プライドも全部捨てて、女の人の前にひざまづいている男の姿か浮かんだ。私には、こんな表現ができるほどの経験も、想いもないのではないかと思うと、不安になった。

 

皆さん、3分間笑い転げるように、同じようにフレーズする前に、顔で、心で泣いてみるのはいかがでしょうか。泣くふりでも、無理矢理でもいいから。統けていると、哀しいんだか、おかしいんだか、とても感情的だけど、ふっきれた気持ちになれそう。そうすれば、豊かなイメージと解放された肉体を得られるかもしれない。まるで、「声であって声でない」ような声になりたいと思う、今日この頃。

 

だいぶ前だけど、イッセー尾形を、表参道で見た。外人と話していたが、声が大きくて、そしてとてもいい声をしていた。

 

最近、改めて「わたし」「ふたり」「ひかり」などの発音の難しさを感じる。特に関西人である私は、無声化が苦手なので、メロディに乗せると、「わたしいー」とか「ふうたあり」となりがち。関西弁の歌ならともかく、「私」とか「二人」という言葉のニュアンスを表現できるようになるためには、「わ+た+し」「ふ+た+り」という音のつなかりにしか聞こえないことを、克服したい。

 

最近やっとヴォーカルの歌い手達のすごさがわかってきた。

「耳」ができてない=「『耳』ができてない」ということがわかってない。だから、怖い。