一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

ステージ実習コメント   454

ステージ実習コメント

 

 

 

0グレード

 

 

 

課顕曲にどう取り組むか

 

ここで課題にするのであれば、できるだけ大きくつくって欲しかったです。こなすのは簡単なのです。この曲ぐらいは、カラオケ常習者でこなせます。ですからこれをどこまで大きくできるかです。かなり大きくみせられるはずです。海外のアーティストが歌ったと思って、あてはめていくと、冒頭のところも、そうできるでしょう。

 

フレーズのところをきちんと出していくことと、ことばに関しては芯をつけていくことです。流れにのせてそこで3連のリズムをとっていくことです。

リズム中心で動いていく曲です。フレーズとリズムが矛盾する人が非常に多いです。それは声を一つにつかみきれていなからです。今の段階では難しいとは思いますが、方向性としては、そういうように思ってみてください。押すところ、引くところが出てこないと歌が進んでいかないからです。

 

カラオケ的に歌うようにしないで欲しいです。思いをたんたんと入れて伝えていくのとは方向性が違ってきます。カラオケで歌って、ここで通用するかというと、通用しないわけです。

一つの基準として厳しくみてください。全体で整えても仕方がないのです。

思いがきちんと伝わっているか、伝わっていないかです。

 

皆さんも歌い手としてはともかく、観客としては普通の人以上のものはもっているという前提で、ここでアピールできたか、できていないかということです。

時折、気になりますが、歌い手が冷めていたら伝わらないです。冷めて歌うのはよいのです。ただ冷めて歌うのには熱くなっている部分が必要です。それが伝わったか、伝わっていないかというのはありますから、これを歌う以上は何か自分でこれを感じてこないといけないです。

 

課題曲をとばして自由曲だけ歌う方がよいとは思います。与えられただけ、こなすだけではマイナスになってしまいます。でも、何も歌で感じるのではなく、自分が感じればよい話です。どの歌がきても感じられ伝えられるぐらいの器が欲しいのです。

 

課題曲の選曲も、いろいろありますか、それに1回はまって、とことん何かを感じられるまで聞くことです。自分で聞いてみたり、楽譜をみても歌詞を読んでみてもよいです。それを置き換えてみれば絶対にできてくるはずなのです。その作業が終わっていないような感じがするのでは番外です。頭の計算だけで進んでいる感じがする人もいます。

 

歌のルールは少しずつ勉強していって欲しいと思います。すごく自由に歌ってみてもよい。ここは特にルール通りに歌わないことをよしとしています。けれど、それでも絶対的な方向はあります。

それは、自分なりに決めたルールみたいなものなら、一貫していないとだめだということです。それが思いついたように歌っているのでは、聞いている方も入っていけません。

 

どんどん壊してぶつけていって、違う歌をつくるならつくるなりに、それが自分の中でルールとして、はまってくるところまで、相手を説き伏せられるくらい煮詰めてください。

この場でぱっとできるほどの力は、そんなに簡単に得られないと思います。

 

歌の中では言い訳をしていっても仕方ない、練習で、今の自分でできるかぎり、仕上げてくるという、あたりまえのことの繰り返しができるかどうかです。

 

 

 

注意して欲しいこと

 

音程と語尾は気になります。これをはずして変えているのは構わないですが、はずれているのでは困ります。変わっているということに閲しては、語尾は気をつけてみてください。変に歌わないほうが無難です。歌全体としてもそうです。

マチュアの人は語尾をのばしがちです。

歌うところを少なくして伝えるところを多くするのが、勝負です。☆

 

もてるところをもって、そこで成立できればよいのです。

ここはアカペラで、非常に厳しい場です。

ここに立つと平常で歌えないというのもありますが、慣れていってください。

 

変わり方ということについては、いつも感じるのですが、音楽の枠内とはいいませんけれど、その表現する人間の枠内で変わっているのはよいのですか、単に変わっているのは変人とかわりません。

それは音楽、歌、声の土俵の中にもってくることです。

 

変わっているのはよいことです。私自身は、変わっている人だけがいるところが心地よいと思っています。でも、出した世界、その中で変わっているものを出していかないといけないと思います。

変わっているのをみると、みんなドキドキするのですが、最後までつきあってもらえるに耐えるものかどうかです。やはり、その枠組みも組み立てないと通用しにくいです。

 

まったく逆のことのようですが、歌に枠組みができすぎると、おもしろくないです。歌はすべてそういえます。きれいに歌えている、完全な歌唱のようだとすると、それ以外が何にも出てこないです。

 

これまで枠組みをもって、プロで歌ってきた人は、ここでは、しばらくはその枠組みを崩すことをやって欲しいです。今までステージで歌っていたり、楽譜をぱっとみて歌えてしまう人たちは、そこでの決まりごとの枠組みを崩せないがために、伸び悩むことになります。

 

何が評価されるプレイなのか、何がルールの上にのっかったものなのかを、他の人をみながら学ぶことです。自分のを一般的な評価ができなくとも、他の人のをみればわかりやすいでしょう。

「何でだめなのだろう」というところをつかんでおくとよいと思います。

 

プロの中で歌うよりも、ある面では大きな勉強になるはずです。

全部が反面教師になります。それは今、気がつかないと、後々になかなか気づけないことです。

 

全体的には息が足らないことです。これは仕方がないです。

身体から表現するということで格闘していくこと、歌詞とメロディを格闘していくことです。そういう姿勢をみせてもらえればよいです。

 

本物をきちんと聞いて、本当のヴォーカリストの表現をなるだけわかりやすく、シンプルにしていくようにしてください。そのプロセスでの未熟さがみえるのが私には一番心地よいです。

 

よくわからないけれどシンプルに歌ったら、今ここでの評価は高いです。複雑よりはよいです。

それは統一しようと出しているからです。

ただ力が足らないからそれ以上のことはできない、だから詰めていけます。

時間の問題だけなので、そういう軌道にのせていってください。

 

声を消してしまうというのは、だいたいは、あまりよくないです。声が消えてもきちんと体から歌っていたら、そこに息がついています。息が流れている限り歌は流れていますけれど、それが消えたり上ずってしまったり、ひびきを上でつくらないといけなくなってしまうと、複雑になります。

 

声がもっているエロティックなもの、もっとダイレクトに人間に働きかけるものが失われてしまいます。それは歌の本来、基本的なものです。

そういう生々しいものを絶対に失わせないようにする。

歌や音楽に振り回されないために、それを出し統けるためにどうしたらよいかと考えてもらえればよいと思います。

 

視線は、舞台慣れしていていない人の場合は、気になります。目をみれば正気なのかどうかわかるというぐらいです。そうなってしまうと口だけか浮いてきますから、目というものは非常に大切です。

それでもここで、そういうものは映像で反省すればよいと思います。目というのはその人が伝えたくていいたいことを判断される基準になりますから、使えないと致命的です。

 

原点に戻ることです。歌ってきた人には、もう一度、原点に戻って欲しいです。歌う前までに戻って欲しいです。形が先行しているようなところが感じられます。

とにかくこういう歌や音に関しても、何かが自分の心に感じて、それを歌いたいと動いたその部分を、なしにしたら成り立たないということです。そこを誰もが聞きたがっているし、そこに感動するわけです。

 

歌をうたうことはそんなに難しくないです。ただ、その要素を失わないようにして歌うというのは、難しいのです。それがないと「うまく歌っているな」ということになってしまいます。

何となく表現を強調しているように歌っているだけで、その人かみえなくなってしまいます。

 

ですから、何を感じて何を伝えようとするのかというのを、こういう課題を勉強していくときには自分でまとめてみるなり、そのつど、踏んでみるとよいと思います。

自分の吹きこんだ作品にそれが感じられるかどうかです。

 

自分で感じられなかったら、自分が伝えようとしていないものを人が感じるというのはありますが、学び直すことです。別の意味で「みてられないな、支えてやりたいな」となってしまう人もいます。そういうアイドル的な要素をもちたい人は、それで頑張ってください。

 

 

 

「精一杯」を持ってくる埸

 

ここで2年間であれば、24回のステージ、毎回進歩していってください。

24回しかできない、ボクサーと同じで、一戦もおろそかにできません。

課題曲を雑に扱って、自由曲で勝負するというのでは、もったいないです。

これだけの多くの人が同じ課題に取り組んで、そこで学ぶものがつかんでいくのですから。

 

ボクサーも1回負けてしまったらそこで終わりの世界です。精一杯のことをやって、ここに出てくることです。100パーセントを出したところで足らないのはわかっています。100パーセント出そうと思ってここに立ったら、結局、半分も出せないことも多いでしょう。

精一杯のことをやっているプロセスがトレーニングで伸びるための前提です。本番よりもそこまでのプロセス、自分ができる精一杯のことをやっているのかの勝負です。

 

次があると思わず、そのときにできる精一杯のものをもってきて欲しいです。それを続けることは難しいです。

厳しい基準からいくと、飽き飽きする人たちがいても、その人たちのまえに出たら、ハッと目を輝かかさせるぐらいのものは、もたないといけません。それであたりまえ、それですごいと思っても仕方がない話です。

 

うまく歌わせたいと思っていますし、声をきちんとつくっていきたいと思いますが、

ここに立ったら、本当にこの人は、それを望んでいると思わせるようであることです。

力が欲しくて仕方がないと、やっているだけ、すべてやっていると、それでも今はまだできないと、

そうなれば、それでも伝わるものは、大きく出ているものです。

この場ではステージとはまた違う判断をしています。

 

こちらに見えるような計算をしないことです。まるっきり見えます。

そんなところでやっていたら、芸が根づいてこないです。

計算は必要です。ヴォーカリストも、アーティックなものは、皆そうなのですが、その中身です。

ものすごく緻密で細かくて、一方で大胆な部分と両方があるわけです。

 

私も無心、しぜん体であろうとしながら、計算はしています。計算しているのですが、体や技術がついているから、見えなくなるのです。

計算から入ってしまうと、よくないです。

 

声の技術でも何でもよい「あんなくせのある歌い方はいやだな」と思われても、体がついているから認めざるを得ないような力でやっていきましょう。

 

あまり小さくつくっていかないことです。わかりにくくなります。

自分の出したいものが表現に桔びつくようにしていってください。もっともっともいろんな意味で歌を破っていってください。

 

終わった後のあいさつ、終わったら、つくり笑いでもにっこりとしてください。

「これで終わります」という台詞や拍手と同じで、納めないと収拾がつかないです。

会とかでもそうです。「拍手をもってお送りください」といい損ねると最後までどこで終わったかわからないで、全体がだらだらしていた印象になります。けじめはつけておいて欲しいです。

 

どんな暗い歌でも、最後に、にこっと笑うのが、一応、舞台のマナーです。

今までステージで笑ったことのない人は、鏡を見て、少し練習してみるとよいと思います。

笑顔のない人なんだと訴えていくのもよいですが、ステージではステージの華という部分があるので、そこを考えてみてください。

 

 

 

 

 

 

①グレード

 

最低、踏まえて欲しいところは、結局、伝わったか伝わっていないかです。

 

最初の「いまはこんなに」はテーマですから、基本的に崩さないのが原則です。テーマを崩すなら崩すなりの理由を自分でもって、それを示さなければ崩さない方がよいです。

 

「こんなに」は当然のことながら、ここで決ってしまいます。ここしか張れないです。ここがきちんとはまらないと、きついです。その前に「いまは」とついているわけです。当然のことながら、そこの「こ」にもってくるための「いまは」であって、ここからは強く出れないです。

 

けれども、別に強く出てもよいのです。ただその次の「こんなに」がきちんと出るか、出ないかです。中島みゆきさんみたいに、そこは声量ではなく音の動かしかたでフレーズ感を出しています。緻密に構成された歌なので、いろんな勉強になると思います。

 

「こんなにかなしくて」のここは、当然テヌートしていて、「な」のところに入るのですが、「か」の入り方です。細かいところは別に音符通りに歌うようにとはいていませんが、何のためにそうなっているかの意味は踏んで、それを知った上で崩して欲しいものです。

 

「涙もかれはてて」のところもそうです。3連が多いですから基本的には「タタタタタタタタタ」ととるとそんなに間違えないです。リズムにあわせて歌謡曲みたいに歌っても仕方ないので、呼吸とこのリズムとをどう合わせていくかみたいなことを、この前半に関しては出してもらってよかったと思います。

 

課題となったのは、「なれそうもないけど」のところです。ここできちんと終われないと、テーマですから当然のことながらここで終わらないといけないわけです。ここまでは不安なコードでもよいわけです。次にCで完全に安定するコードです。これに関しては、安定すると思えばこそ、不安にもっていける歌なのです。ここのCのコードが次に「そんな時代も」ここで悲しみとかいろんなものが終わっているわけです。

 

何とでも、こうして無理やり解釈してよいのです。ことばで解釈して、メロディで解釈してもよくて、歌全体の構成をしてください。ただ、一つの方向性というのはあって、それをはずすと、かなり異なる世界をつくらないといけないです。それにのっかった方がよいということは、楽譜をみて勉強してもらえるとよいと思います。

 

「そんな時代もあったねと」このあたり、一番大切なところですが、声を浮かして歌うのは通りを歩いている人も歌えるわけです。音域はありますが、そんなに難しいことではないです。ですからきちんとことばを読み込んでいって欲しいと思います。

下がったところは一つのポイントだと思います。「あったね」と、女性ことばというわけでもないですけれど、語尾が「たね」とか「るわ」とついていますから、ことばをとめておいてそこに優しさみたいなものが出せると、だいぶイメージが違ったのではないかと思います。何となく整然と歌って終わってしまっているような感じがします。

 

「くよくよしないで今日の風に」ここもポイントです。きちんとフレーズが呼吸と一緒にとれているか、とれていないかというのが歌の心地よさ、あるいは説得力になります。これもはずしていた人が多いです。「くよくよしないで」の「で」のところです。それと「ふかれましょう」の「う」のところです。

 

ここでCになります。そして次に「まわるまわる」、このコードのところできちんとまわっています。ただ、それにのれたか、のれていないかです。ことばでいうと「まわる」の「る」です。よろこびの「ろ」もそうです。歌詞を踏まえてやっていくことです。あんまりガチガチになっても困りますが、気をつけてください。

 

「くりかえし」これも、わざわざ3連符がついているというのは、こぶしですから、この辺は粘らないといけないと直感で感じてもよいと思います。楽譜を解釈するというよりも、よく音を聞いていたら、だいたい、そういう方向にいきます。

 

もう一つのサビの「今日は別れた恋人たちも」ここは盛り上がらないと、次の「うまれかわって」を歌わなくてはいけなくなります。そうすると歌はこわれてしまいます。

そこまでにきちんとフレーズをつくっておけば「うまれかわって」でおさまるところにおさまるわけです。ですから、そういう流れと呼吸の流れがきちんと出ていたかどうかです。フレーズの展開の中で感情のメッセージが表現できたかどうかというのは、この曲のポイントです。

 

 

 

 

 

 

 

②グレード

 

「時代」の楽譜の解釈を流れで追っておきます。

出だしから、「今はこんなにかなしくて」ここは4拍目から入りますから、本当はそんなに強くは出せないです。「こんなにかなしくて」に4分音符がついていますから、ここの部分をきちんと出そうとしたときに「今は」は導入部として強くしても、次の「こ」のところからでもフレーズがより大きければ許されると思います。

 

基本的には、ここで勝負すべきです。このテーマをひいてしまうと、それだけで聞くか、聞かないかが、決まってしまいます。

 

細かいところでいうと「こんなに」次に「かなしくて」とシンコペーションを踏まえていますね。そういうところも細かくみていってもらえば、いろんな歌い方ができると思います。

規則にそった曲の構成の仕方をしています。

 

「涙もかれはてて」で上にいくところと下にいくところと、この2つの意図の違いを表現することです。楽譜の読み込みを勉強すればよいと思います。

それから「なれそうもないけど」の終わり方です。これが非常に大切です。

 

期待していたのは、次がCコードで落ち着くことです。そこまでの伸ばし方です。ここまでテーマです。

楽譜通りに解釈してもしなくても、テーマは崩してはいけません。

この場では、構わないですが、崩すなら、それ以上のことをやらないといけないという話です。

 

ここまでに一つのテーマで何かをきちんと示さないといけないです。示したところで安定しますので、そこからはそんなに気負う必要は、ないわけです。歌詞の進行をみても、当然、曲も下がります。

 

「そんな時代もあったねと」このあたりも難しいですが、今のグレードに要求したいことは、全部、底をつけてフレーズをきちんとつかむことです。

これを切れ切れにしてしまうとカラオケ歌唱と同じになってしまいます。

 

そのフレーズにのせて展開しながら「あったねと」

これはことばとしてやさしさをきちんと出せればよかったのに、つっけんどんのような気がします。

 

それから「くよくよしないで」で上ります。「今日の風に吹かれましょう」ここは展開が変わっていきます。大きくわけると3番目が「まわるまわる」のところで変わるわけですけれども、その前のつなぎの部分が大切なのです。

 

いつもいっていますが、変わる前のところに前兆が必ずあって、その処理の仕方がセンスとして問われます。☆

それを匂わせていくというのが、当然あってよいはずです。伏線が必要です。

 

そこも細かくみていくと、いろんな仕掛けがしてあります。理屈から入るわけではないですが、もう少し感じてください。

 

「まわるまわる」の「る」は基本からいうと、「る」がきちんとはまっていないです。「時代」のところも「よろこび」のところもそうです。ほとんど、とんで離れてしまいます。ばらばらになっています。

 

「くりかえし」のところもそうです。せっかくそういうこぶしがついていますから、ねばらないといけないわけです。気をつけないと、サビにならなくなります。

サビというのはこの場合、「別れた恋人たちも」のところなのですが、そこを張らないと展開は厳しくなります。

 

「うまれかわってめぐりあうよ」のところで早くなると、張るだけ張って大きな器をつくっていかないと、次に早くたたみかけても、もう何の完成もなく終わってしまいます。構成を考えてください。

 

結局、フレーズの展開の中に感情メッセージを伝えるという基本的な曲です。

今、要求されているところとしては、ぴったりではないかと思います。

 

「恋人たちも」のところなどを一つとっても、こういったところの距離感、そういったメッセージ的なものはつくってこなかったような感じがします。

下がっている部分では、「そんな時代も」のところです。

 

ほとんど声での表現力の意味はあまり出ていなかったような感じがします。一つつかんでも、バラバラになってしまうのです。フレーズとして処理していくことです。

これもフレーズの解釈です。もう一度、構成しなおして練習してください。

 

 

全体的にいろんな試みがあったのは評価しますが、原曲のよさに、プラスアルファしていないような感じがします。中島みゆきさんの歌唱では、独特の節回しで消化しています。こういうのも処理の仕方の一つです。詞としての真実味も伝わりますし、曲としての真実味もあります。

声としての部分のベースをここでみて、声が体に宿っているところに、詞とメロディを感じて欲しかったです。

 

この曲というのは、基本的にリズム(前回の課題の「いとしのエリー」も同じですか)、バックにメロディが流れている、そこを踏んでおかないとどうしょうもないものです。自分でつくってもよいのですが、完全に聞き込んで、それが間奏に流れるイメージでなくてはいけません。

 

自分の頭で曲が流れているだけでは仕方がなく、その流れているものが、お客さんに伝わるぐらいでありたいです。イメージを自分の中につくりこむのです。すると、語尾処理一つにしても遠ってきます。

 

その音にのせないで、1人で歌っていくから、大変なのです。

ここはアカペラでやっています。こういう曲に関しては、アカペラは成り立ちにくいといえます。

完全にアカペラ的な歌い方はありますけれど、それを嫌って、原曲に忠実にやろうとしたら、逆に自分が伴奏とかペースまで消化して、それを一緒に出そうとすればよいのです。

 

 

注意して欲しいこと

 

③クラスと皆さんとの違いは、呼吸がよくみえないことです。リズム、音感、メロディ、間がバラバラで、旋律とリズム、音感が、声に一致しないです。

 

やりたいということと、やれていることの差がありますが、そこは、わかっていればよいです。

それも声で捉えていきます。声のなかの旅律、リズム、音感を全部つめこんでそれを転がしていくのが、最も単純でストレートなやり方です。

 

今はきれいにまとめるより、フレーズの大きさをみたかったのてす。声が少々、かすれようとも何であろうが、これをいかにインターナショナルに大きな歌として提示できるか。歌のスケール自体も大きくできる歌ですから、フレーズの大きさを問いました。

 

音を変えていた人がいましたが、変える以上は変えた理由を示せなくてはなりません。理屈ではなく原曲より、自分にそう変えた方がぴったりするかを説明すべきです。もちろん歌唱でです。

 

頭でわからなくてもよいのてすが、感覚的に絶対そうだと変えるならよいのです。

何となくその場で、あるいは楽譜をみないためそうなってしまうのでは、どうしょうもありません。で、変える必要を感じられなかったのです。すると減点になってしまいます。

 

理由をもって変えることです。原曲はみんなの頭の中に入っています。そこで変えたことが、プラスアルファにならないといけません。

 

歌とリズ厶との処理がうまくできていない、足をとられています。基本的には歌のリズムを踏まえた上で、自分で展開していかないと、単に最後までのっかって歌ってしまうだけになります。

そのあたり、自分で展開を考えた方がよいです。

さすがに、何かを提示しようとしていますが、引きつけができていないです。何かを示しているのはわかりますが、そこで、もうー歩、表現が欲しいです(表現力のまえの表現欲段階です)。

 

全部を全部、歌えということではありません。どこか絶対、引きつけられるところが欲しいです。この歌を好きとか嫌いとかあっても、自分で好きをみつけて出していき、ものにすることです。

時間があって空間があって、そこで何を提示できるのを見出す、そして問うてください。

 

歌での信用関係に、少し足らないような感じがします。

基本的にブレスの使い方のところに、体と感情を位置づけることです。体を感情を伝えようとしたら、必ず呼吸がつなかってきます。それがでていないというのは、もったいないです。

 

 

判断基準を磨く

 

安定させる方向にいきたがる人が多いのですが、歌や曲の真実にいくまえに、声の真実にいく方に入り、曲を壊して欲しいと、いつもいっています。体力のある限り、歌をふくらまして欲しいです。

体力とともに、声も歌も伸びるようにセットすべきなのです。

 

体と声を息で一致させて、そこで歌っている人は、歌っていくなかでも歌のふくらましとかヴォリューム感をつけて歌い変えていくことができます。それを最初から意図しておきましょう。今の3倍、5倍のスケールの歌を前提としてやっておかないと、後で、呼吸は盛り込めなくなります。

 

調子の悪い人もいましたが、調子が悪いとにしても、少し弱いような感じがします。フレーズのときのための体のことです。気持ちで乗り越えて表現するのに、まだ、バラバラで、どこかが出ていると、どれかが引つ込んでいる感じがします。それを一体になるように捉えてください。本物の歌にしていくとは、そういうことです。

 

ある程度、長く場数を踏んでいる人は、本人は気づいていないのですが、それなりに「こんな処理ができるようになった」と私が気づくことがあります。長くやるほどに、その処理ができるようになるけれども、逆に鈍感になっていく人もいます。

ここにいる以上は、長くやればやるほど、いろんなものがみえてきて聞けるようになり、どういう歌が評価されるのかに敏感になりましょう。そうでないと場の意味がないです。

 

自分だけで正しいと思っても、場に出すことでわかります。私でなく場の審判です。

本当の耳のある人がとらわれないようでは、それは違うのです。表現が少しでも通用している人を見習うことです。その表現が生きている人を見習うことです。

 

ものすごく一所慰命、歌う人は、世の中にたくさんいます。そうしていくほどに本質から、それていく場合もあります。ここが難しいのです。

本人がやればやるほど勝手にやってくれという世界だからです。

 

物真似とかではなく、本物との違いを詰めていくことを、その人がやっているかどうかです。その人がみえるか(みえていくか)どうかです。その人が、いかにもそれっぽく一所恩命、歌ても、真似てみえると、もう感動は、しないです。その人のなかで完結している世界だからです。その危険性があります。

 

人と比べる必要はありません。自信をもって、自分が一番と思ってここに立たなくてはいけません。後に進歩する可能性の大きな部分としての声の技術こそ、習得すべきことです。

反応を捉えるセンサーの感度は、磨いていくようにしましょう。

 

人に働きかけてください。今の自分の歌は、退屈させているのか、聞き惚れさせているのか。その判断は難しいのですが、自分で敏感にならないといけないです。すると歌のなかでも、変えていくことができるようになるのです。そして、一人で変えることが、できるはずです。ここから独り立ちする条件です。

 

 

 

 

 

 

 

③グレード

 

 

「時代」というのは名曲だと思います。中島みゆきさんの歌い方もいろんなくせがありますが、国際的にみても通用する部分があるでしょう。どう評価してよいかわかりませんが(評価という考えをもち込むこと自体、無意味なので)、個性的な部分と声とそのもっていき方のところが、一つの大きな世界で調和しているわけです。声がろうろうと出るとかきちんと歌えるということではないところ、もっと大切なところで歌になっているのです。

 

結局、作詞作曲している人にとってみたら、歌の詞の世界がどう合うかが問題ですから、そういうことでいえばヴォーカリストとしてみる必要もないと思います。

人でなく、作品でみればよいのです。

 

比較的大きい歌なのです。

もう少し「なれそうもないけど」から「そんな時代も」の展開のところで何かできる、何かひっかかるものはあるかなとみていました。

今日はスムーズに細かいものにとらわれず聞けた部分があったのはよいことでした。

 

体力のないとき、誰でも元気な人がうらやましいでしょう。自分が今はあんなにできないなと思うと、体を強く使えている人に憧れます。逆に弱いものには、いじめたくなる人もいるかもしれません。

何か本音がでてしまうものです。

力を出さない人間は、目一杯出しても足らないし、出ない力は出ないのだから、100パーセントと力を出すことを試みないといけないということです。

モチベートをあげるまでに1時間かかると、授業にならないのです。

ましてやステージ、タレントのように、ハイテンションで入らなくてはならないのです。

 

そういうことを最近やってないせいか、みんな緊迫した勝負の正念場に近いような感じが出ていません。体力をなくしてはいけないと思います。結果として弱い人間をいじめて、強い人間に慣れ、居心地のよいだけの仲間を求めるような、くすみが出てきます。

 

 

 

総評

 

この曲の解釈云々に関してよりも、全体的なことで総評します。

一つは、歌い手らしさが、でてきたと思います。歌い手っぽくなってきたというのを感じました。

 

それから息の流れが音楽に一致してきていますから、相当はずれたりもっていけなくなっても、リカバーしてきています。これが体の部分です。

まともなヴォーカリストはみんなもっているリスク回避(調子のよくないとさのための)の技術ともいえます。

 

調子の悪いときや歌を消化しきれないときに、体でカバーするということで、歌の中でそれてしまっても、体の中で呼吸と一致していたら、乱れません。何とかもたせられるものです。

そこから新しいものがでてくる可能性もあります。

間違っているのかもしれないですが、試していくことです。

 

息は結構、キープできるようになってきています。

プ口の歌い手もそうですけれど、体から声が離れるか離れないかというところを出し、「ああ、離れなかった」というギリギリの瀬戸際みたいなものは、聞いている人間にとって快感だったりします。

体の中であたりまえにできるくらいでやったら、カラオケの延長みたいに緊張感ないですから。

 

自由曲に関しても、オリジナリティらしいものが、ずいぶんとはっきりしてきた感じがします。このクラスになかなか人を上げられないのです。前と比べると、みんなの技術、声というのは実際に上がっていると思います。

それは皆さん自身が一番、感じることだと思います。

 

歌はあとからでもうまくなります。しかし、このステージでの存在実感は、今、感じておくことです。

集中力についても問われます。舞台は終わっても、貫くことです。もっとふっきれた部分をだしていく必要がでてくるかもしれません。

 

大きくスケールをとることを試みてください。ヴォイストレーニング、あるいは、その線上の練習はこのまま続けていって、体と息の線を声の線に集約していきます。

 

少し気になったのが、間ととぎれです。間はよいのです。とぎれてもよいのですが、次に続くのか続かないかをお客さんに不安を抱かせないように。その効果を考えて計算しているのはよいですが、そうでない場合は、このとぎれというのは致命的になります。

 

歌というのは、流れがあります。それを間で処理していくことです。とぎれがあって終わったのか、終わっていないのかわからないのも、ありました。

当然、伴奏が入ったり、実際のステージになれば、そのあたりはフォローできますし、それを踏まえて見ています。でも、表情でわからせる、姿勢でわからせるようなことは必要だと思います。

 

力強さが、でてきました。よいのか悪いのかよくわからないのですが、自分勝手なところがみえてきて、それを評価します。それが通せるようになったことで評価に値するので、ただ自分勝手にみえても仕方がないわけです。それを通した上に何らかの効果をもたらせないと意味がないです。

 

だいぶ通せるようになってきていますから、あまり間違った方向にはいってないような気かします。基本をしっかりやれば、間違えようないのです。その自分勝手が通用する自分のお客さんをつくっていくことだと思います。 ^

 

体が強くなっているというのは、どういうことかというと、体の強さが他の人に見えなくなるということです。本当のヴォーカリストの体の強さは見えないです。それか見えているうちはたいしたことないのです。見えなくなったところで、その人の本当の余力とか余裕がでてくるのです。

 

110ぐらいの体で100のことをやっていても無理がみえます。「ああ、これは歌う限度がでている」というのは誰もがわかってしまいます。ところがそれが、200、300の体があったら全力でやっていると見えなくなってきます。そういう意味でいうと、その線上で体をつけていってよいと思います。

 

 

 

今後に挑むこと

 

今日、特に感じたのは安定性です。今までこんなことはなかったのですか、だいたい12、3回やって1回ベストが出せて、毎回1人は見れる人がいるという感じだったのです。

初めて、全体でも安定性をある程度、評価できたような気がします。

 

この安定性がないとステージができないです。一発勝負はよいのですが、確かにステージは、ばくちみたいなところがありますが、安定の上に安心がのります。

その安定性も、ある程度までのことができてきた人が、だんだん器用になるとまとめる方向にいってしまいます。それを恐れてください。

 

安定性というのは、よい意味と悪い意味と両面があります。安定してきたことがよいことですが、恐いことでもあると知っておいてください。ややもすると、次の力をつけていくのを邪魔する場合もあります。

 

作品として捉えていくより、プロセスということで、今の段階として踏まえてもらった方がよいと思います。今の考え方を今はしてください。そこで残っていくものを自分におとしこんでいくのです。

 

1フレーズの真実を1曲でもっていくというのは、そういうことです。1フレーズではきちんとできる。そうしたら1曲つなげてみることです。

半オクターブで完全にできても、1オクターブになったときには、その半オクターブの完全さもなくなっていきます。そこから、どんどん甘くなっていきます。

安定性、いや、この場合、安全だけが残るような歌になっていくと、もともこうもないです。

 

インパクトというのは大切です。

今日は選曲のせいか、結構それでも伝わったような気がします。今まで1音でつかんだことを応用していきます。

今度は1オクターブでつかんだことを1曲で応用していくところまでもっていきます。

これに関しての安定性は、まだまだ弱いような感じはします。

ただ、他の部分でフォローができると見れるようになってきます。

 

 

今、やっていることについては、自分の中の真実をもった人が、伝えるようなことができればよいと思います。そういうことができる、できないというのは、観客が全部そっぽを向いても、そこで続けられる力かついてきたというなら、望ましいです。おどおどして、お客の反応を怖がるなら、最初からやる価値がないです。その力がついてきたと思います。その力こそ、本当は大切な力なのです。

 

 

 

 

 

 

 

ステージ実習コメント  

 

 

BV座構想  研究所自体の指針を示すのに、説明会で私が理論とか練習の仕方など最低限、説明しないといけないこともありますが、それよりも、BV座がそれを担ってくれると一番よいと思っています。

歌への執念、皆の生き方をみせられたら、よいです。

 

音楽をやっていること自体は、何の価値もないです。誰もが一所懸命、生きていることと変わらないという意味です。

そこに示せる価値は、一つのことをやり続け、表現にまで、

得たものが高められて、はじめて見せられるのです。

 

作品ですから、2年、3年たったら、ああいうふうなものができるというよりは、

そういう価値観の中で身につけていくことです。

当然、今の日本の音楽界の基準とは違います。

 

日本人もどんどん個性的になっていきます。今まで安定してきたものが崩れていきます。

すると、生きる支えを得るために、個性的なものとか非現実的なものに魅かれていくでしょう。

 

何事にも、よい面、悪い面、両方ありますが、欧米型の社会になっていくと思います。

このときに、急ぐ必要は全然ないのですが、本当のものをきちんと身につけておいたら、

それに対する評価は、今以上に出てくると思います。

 

影響力ということであれば、多くの人にリスクを与えるような自分の客とつくっていく、

自分が絶対的に影響をもたらせられるようなお客さんをつくって、

より深くその人のなかに入っていくことです。

 

そういうことで考えていくと、再び、BV座のステージがもてるでしょう。そこでうまくいけば、ライブハウスとかも考えようとは思います。一方で長期的にみていこうという考えはあります。

 

人に対して2年といって矛盾してますが、2年くらいでできっこはないのです。

BV座を通じ、世界への窓を開けるのです。

個性的な人たちに認められる場で、日本人がどんどん個性的になっていく、

すると、どんどんと変わってくると思います。

 

声に閲して今から覚えていって欲しいことは、

今まで真面目にやってきた人、体育会的に必死にトレーニングしてきた人も、

もう1回はじめに戻ってみてください。

 

「声を出すことや体を使うことは快感なんだ」と。

その快感の中で自分が気持ちよく感じているものを、

技術は必要ですけれども、

伝えられたら、人もそれを受けとめるというところを省みることです。

 

ある意味では、きちんとしたことは、きちんとして、

もう一つは解放することです。

体を解放する、気持ちも解放する。そこで伝わるものはあると。

 

ややもするとトレーニングオンリーみたいになると、

その器の中に閉じこもってしまう場合があります。

それを解放していくことが、

特にステージに関しては、ステージで学ぶことが問われます。

 

解放だけで歌えている人もいます。

そういう部分は、欠けているところです。

音を感じ、音との戯れを楽しむことです。

声もリズムもおもしろいものでしょう。

ステージは華です。

そういう部分は、少しずつ技術をつけていく上で勉強していって欲しいです。

 

何か新しい世界ができていくとき、そのエネルギーは、何でしょう。

昔のモータウンなら人種差別の中で、それこそ人前で歌ってはいけない、

レコード会社に顔をだせない、そういう逆境で乗り越えていったものです。

 

何でもできるようなところでのあいまいさ、

虐げられ、圧迫されたところがないから、かえってできない、

怒り、反逆に相当する強さがないというのでしょうか。

 

何となくここを卒業した人をみてみたら、

ここ自体がまだホームグラウンドのようで心配です。

 

もう1回基本に立ち戻って充電し、

さらに外に出ていける力を蓄える役割が必要なのでしょうか。

その上で、外にでるためには力がいることを思わなくてはなりません。

モノにする、モノにならないといけないです。

 

去年のステージ実習みたいに、誰でも出られると甘くなるのも、わかりました。

その基準自体をつくるのは、皆さんです。

 

それをアーティストとして示していってくれたら、わかりやすいと思います。

いろんな人たちがいて、それぞれの価値観がありながら、

優れたもの、訳のわからないもの、評価できないものを出していけるようになれば、

わかりやすくなると思います。