ステージ実習コメント
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まず自分の体を自分の体として感じます。しぜんな状態であれば誰でも感じられることを、確認するところから始めてください。当然のことながら、役者さんなど、人前に出て演じる人は、それをもう一度掘り起こす過程をトレーニングで経験しきているわけですね。
私もヴォーカリストにはそういう必要はないと思っていました。それは歌っていく中で全部身についてくることだと思っていたからです。本来は歌っているなかで、身につけてきていることなのです。歌えてしまってから気づいたり、経験しているうちに、できてくることがわかるのです。
ところが最近は、そういうトレーニングを予めいれておかないと、狭い世界の中でどうも偏ってしまう人が多いのです。一番の原因は、自分の中にしっかりした判断基準がないことです。信じられるものがなくて、自分一人で、と思わないで、トレーナーに全面的に頼るからです。
こういうところにくるのは、トレーナーを利用するためなのですが、あまりに一方的に頼るところからスタートしているようです。
昔とくらべても相当に、私に期待されている役割が変わってきた感じがするのです。
歌い手なら歌を教えられなくても、歌のベースのヴォイストレーニングさえしっかりマスターすればよいはずです。声を徹底しているヴォイストレーニングが他にないから、ここはそこに専念させたかったのです。
いま、ここでは、場の雰囲気や一つのものが自分の体と心に宿っていくプロセスとふませないといけなくなってきています。
もっと単純なことでいうと、普通に一所懸命生きている人なら、いろいろ悩んだり苦しんだりしてきて、当然、何らかの表現、言いたいことをもっているはずでしょう。
それを歌うという表現にするために、声、一音感、リズム、ことばをつけないといけないという単純な問題が、それ以前の部分からモチベートすることにまで変わってきているのです。
最近ここにこられる人は、まじめな人が多いようです。そのことは、よいことばでいうと素直さです。いろいろなものを吸収して学んでいける状態ということでは必要なことです。
しかし、もう1面、自分であることはもっと大切です。
白紙のものを、ヴォイストレーニングならブレスヴォイストレーニング、声なら声、歌なら歌とそのまま、そめられてしまうだけでは何も出てきません。
もっと大切なこと、その人間が、そこにある材料から何をとりだして自分の世界をつくるかが、ポイントなのです。
それなのに、その方向になかなかいかないのです。私はそれに気づかせるような授業をしています。それをわからないまま、すんなりとクリアして何とも思わない人の方が問題です。
モノトークも「赤とんぼ」の歌も同じです。
簡単なことでいうと、たとえば、皆さんがやったことというのは、すんなりと通ってしまったわけです。何の表現も感動も感覚もない時間のままで、終わりました。その時間のままに、ここでいってしまうと、2年間はすんなり2年間という時間だけで終わってしまうでしょう。
一人ひとりが人間としての顔とか心とか魂とか、表現者としての道に歌い手というのがあるのに、そこにいたらないのです。歌い手でも、いろいろいますからすんなりといってしまう人もいるし、すんなりと表現する人もいます。しかし、今では、何か一番大切なところが抜かれてしまっている、しかもそれに全く気づいていない気がします。
歌ができないなら、それなりに、その人間もできていなかったり、表現するものもなかったりしてもよいでしょう。それは声をつくっていく、歌をつくっていく、そういうことで、一から入っていって学んでいけるから、まだよいのです。ところが、皆はすんなりと歌えてしまった、そして、それが歌だと思っている。そこが問題です。
一番大切なことというのは、今まで頭で考えてきたこと、それから世の中のいろんなことを見聞きして判断してきたことを、根本から問いつめていくことです。
それが全部、歌を聞くまえから、どこにでもいる普通の人だとみえてしまうことです。
世の中の人は、おまわりさんにつかまる人は怖い人、悪い人だというし、刑務所に入った人は、もう悪いのだと一方的に決めつけてしまうなかで生きているのでしょう。もしかするとそのまま生きていくのかとも思います。その中で歌える歌というのは、非常に限られてくるでしょう。
別に歌い手がすべてのことを直感したり、すべての世界を通じていて、そこから魂がどうこうとかそんな難しいことはいいません。クリエイティブの原点の部分をつかむこと、それは歌に限らないと思います。表現ということをやっていたら、絵描きさんでも同じです。
きれいに水彩画が描けて、それでできたと思ってしまっている。そこから何が得られますか。せいぜい、その絵をもう少しきめ細かく書き込むというようなものでしょう。形でしかありません。
こういう分野でのレッスンを考えているのかというような気がします。大胆に構図を変えたり、常讖でない色を使うことなど思いもしないのだと見受けられます。
発表の場で難なくいってしまったということは、逆にいうと難がないというのは、問題があるのです。そこに気づいてくれるとよいのですが…。
モノトークでは、いっていることや、歌の解釈とかは問題にはしていないのです。
ここでやっていることとは、モノトークであれば、声を使って、音としてどう伝えられるか、気持ちをどう出せるかということです。文章の意味内容は関係ないのです。そこは舞台とも違います。
そこを壊さないと、ふつうの人に伝わる歌にはならないとは言いませんが、普通の人も聞けるけれど、聞けて、だから何なんだというレベルでしょう。
感じが、あまりに難なく、きれいすぎて、それでよいなら、ここで学ぶ必要ありますか。
何も人間らしいもの、情感やにおい、その刺激みたいなものが全然感じられない。こわいぐらいに感じられない。観念の中でまとまっているような感じがします。
本当の声をだしていこうとしたときに、今のその頭の構造や体とか器の中では、その声というのは相容れないものになるでしょう。
その声で表現する世界というのは、根本から矛盾してしまうでしょう。
その前にその本当の声自体が獲得できる条件を獲得することです。それには、自分の体とか心とかを解放していかないといけないです。
最初はトレーニングをやっていたら、それっぽく「はい」や「ララ」とできますが、すぐに動けなくなってくるような感じが明らかなのです。
どうしろとまではいえないのですが、生活をかえたり仕事をやめたりしたくらいでは、どうしようもないレベルです。自分や世界を何重も深く学ぶことです。
確かにことばというのは大切な世界です。ここほどことばのことをこだわってやっているところはないでしょう。ことばとイメージということも大切でしょう。
しかし、みなさんに対しては、いいたいことは、まず1回ことばをすてないとだめでしょう。そのことばは、実際のところ、嘘でしかないからです。
自分のことばと人のことばがあって、すべて人のことばで、やってきているような気がします。そのことばを歌ってみたところで、耳障りはよいかも知れないけれど、本当に人が心を動かされたり、魅了されたり、あなたを抱きしめたいと思って聞いたりするようにはならないでしょう。
そこで本当と嘘というのがすごくはっきりとわかるのです。うまいとか下手とかではないのです。うまいということなら、何人かはもう、それなりにうまいのかもしれません。そういう人がここにきて、メリットがもしあるとしたら、そこに気づくことと、そこの中から吸い上げたものを自分の作品にとりだして、自分でしかできないものにしていくことでしょう。
こういう世界というのは、世間ではもてはやされている何でも器用にできることなどは、何の価値をもちません。誰の歌でもそれなりに歌えるというような人も、それだけでは何の価値もないです。
あなたがやることは、絶対誰にもできないというところにしか価値がないのです。
このへんは日常の社会と違うのです。そこを自分の中できちんとっくっていくことを目的とすることです。
モノトークも歌に対するスタンスも、もう少し掘り下げないと、そのまま、なまじ器用にいってしまって、超特急で通り過ぎて、どうしますか。
そのままどこにも何も盛り込めなくなる感じがします。
音声のイメージを日本の今の歌い手さんの歌から学んでいると、どうしてもそういうふうになってくるのかがわからなくもありません。これは気づかないなら気づかないままいってもよいのです。
ただ、本当の声が宿ってきている人というのは、その世界とその声が一致しますし、その人の中にすべて一体となって含まれていきます。
ここに来る人は結構不器用な人とか、何の取り柄もなかったり、歌しかないとか、ネガティブなアプローチでくる人も少なくありません。それはそれで変わっていけばよいことです。
ヴォイストレーナーは、今でなく、将来をみています。
どこで化けるのだろう、どこまでいくのだろう、どうなるのだろうと、予測しています。
一人の人を、1年、2年とみてきて、当たったとか、はずれたとか結果をみていきます。
予測通りになるというのは、よい場合も、悪い場合もありまして、それが何がよくて、悪いのかは難しいのですが、ただ、本当の歌が歌えることがよいことだと思っていますから、そういう基準でみたときに、皆さんは、相当.危ないような感じが何となくあるのです。
考えてほしいいことは、トレーニングを通じて歌い手になっていくとしたら、歌い手の体になってくるのですが、その前提の精神的なものも大きいです。スタンスは、既存の価値観に束縛されたらいけないということです。
歌とはこう歌うのだとか、ことばとはこう使うのだというのは、前例であり、他人のもの、よそものです。自分が苦労して産み出してきたものではないから、ただの盗みです。
自分でいっているつもりでも借り物だから通用しないのです。
歌い手になろうとしたら、歌い手と同じ呼吸、歌い手の呼吸というのがあるのです。プロの歌い手しかもっていない呼吸ができないから、その体にするために少しずつ変えていくわけです。
それと同じ土壌のところに精神的なものとか、理屈ではない部分があります。それは感情であったり理屈で通らないものであったりするわけです。そこをもっているかどうかが違うのです。
一人の人としてきちんと生きている人は、正しいことをやっているし、おまわりさんに追いかけられるようなことはやらないけれど、そのことで正しいとまんなかにおく生き方ではみえないのです。
いろいろ悲惨な目に会って生きている人も多いわけです。正しいを外して、みえてくるものがあります。
その人がおかれた境遇、その人の思考の中での真実です。それこそ、日々、飢えに悩んでいる人とか、大勢の人たちにはわからない境遇もあります。
それを含めたところで人間を捉えてください。自分の中で、新たな基準をつくっていくことです。頭で限定していると世界は広まりません。
こういう世界での力というのは、結局、一人でやっていく、一人で万人を説得していくところにあります。それだけのメッセージをあなたはもっていますか。
本当の真実に基づいて考えていくことは、とても難しいです。いろんな人たちの生き方、犯罪者も新聞にいろいろ書かれている人も含めてを同じ人間ということで捉えてみましょう。
すると、歌というのがその人の中にもう少しは宿ってくるでしょう。
皆さんは人並みに歌えるのでしょうが、歌い手が、こういう歌ですよと歌っているだけでは、その人の歌になっていないし、その歌の中で歌が息づいていないのです。
どこにも歌がなくなってしまうのです。歌うまではみえていたはずの歌い手も、歌とともに消えてしまいます。
そのまえに自分の器がこうだと思っていること、あるいはこういうのが自分だと思っていること、自分はこんな人間だと思っていることをやめてしまうことです。
全部やめると自分ではなくなると思う人もいるのですが、そういうことはありません。
全部やめても自分は残るわけです。やめるからこそ、みえてくるのです。
その残ったものを根っこにして、自分に大切なものを一つだけとっておいて、後のものは全部捨ててみる。その一つというのは自分にとても近いところにあるから、その一つに対してもう一度、大切なものを見つめていくのです。
思いこみの中だけの歌とか、ことばに、いえ、生き方も含めて、形だけになりかねないと思います。みんな歌も歌えるし、器用ですが、その器用さとか、歌えているところの力は、歌えているということを捨て、自分がこういうことをできるとか、こうなのだと思っていることを捨ててから、始めたほうがよいと思います。
これから、ここで何が説得力をもつか、もたないかというようなこともわかってくると思います。一つは人間のパワーみたいなものでしょうし、そのことに賭けているようなせっぱつまった情熱みたいなものとか、いろんなものが表われているなら受けとめられると思うのです。
私が求めているものというのは、ここでたった一人の一曲、あるいは一フレーズです。ここの空気自体が変わるというか、燃えることです。火がつく、密度がぐっと濃くなることです。
それではじめて場ができるし、伝わったといえるのです。
薄いまま、ここに誰かが何かした、それで帰っていっただけだと、事務の人がカメラをセッティングして出ていくのと同じくらいの意味しかもたないのです。歌っても歌ではないのです。
わかるということは難しくて、私も未だに全然わからないです。歌もわからない。わからないことはわからないと認めるしかないのです。わかったふりをしてやっていくと、しんどくなって、どんどん嘘になっていきます。本物であろうということは、本当に難しいことです。
ここでできることは、世界で本物といわれているもので、みんながあまり知らない歌や人を、紹介することが一つの役割です。そこから気づける人は気づけるからです。
何となく今までになくすんなりと終わったと思います。歌も熟成発酵させていかないといけないです。熟成していく歌とか発酵していく歌というのがあるのです。
今、歌ってみて仮に歌えてなかったとしても、この人がいつか発酵していくとか、熟成していくとか、味がでてくるとか思わせるものが欲しいです。
その種をまくのを、今の時期、行うことでしょう。そこに何もいれないでは腐っていくだけになります。生き方もですが、こういう芸事とか、あるいは声や歌とかは、体とか心とか、そういうものを真実の中でとっていくことです。
これは何事でも身につけていくものに関して、勉強するのに最初にもった方がよいスタンスです。歌ってレパートリーや経験をひろげていくよりも、歌の世界そのものを自分の中に凝縮して、もつのです。それを手に入れることです。
常に皮膚を薄くして、すっと入らないといけないです。そういう空気があって、そこにすっと入れるということ。その上でそこに何かを表現していく人なら、何かの味をだしていかないといけないでしょう。
それは研究所の中で期待すべきことですから、それをうまく利用していってください。
最近、こういう話とか、その周辺のことをいろいろ語ったり、それこそ細胞の一つひとつを動かしていくようなことをしないと、声がついていかないのではないかと心配しています。
ここは私ができたことなら、もっと要領よくやれば、5年も10年もがかったことが、2〜5年ぐらいでできるということでやっています。基礎の条件づくり、成果があがっている人はあがっているし、やがて皆があがるはずだと確信しています。
体とかベーシックな部分では身についてきます。しかし、本質、本物を観る眼がもし欠けているとしたら、その先がいけません。
最初にとるスタンスは、これまでのことを捨て、身軽になることです。
私は場を与えることしかできません。その場の中で材料をだしています。すべて空気のようなものです。その空気を吸って、それをその人が吐けるようになってきたら、つまり、私の呼吸がその人に宿ってきたら、一つの芸風になってくるでしょう。
それは何かを表現として生きていく人たちの空気です。