一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

鑑賞レポート   526

鑑賞レポート  526

 

 

 

【ビリー・ホリディ】

 

「彼女の歌は彼女の人生よ。」ということばか印象に残った。ビリーホリディが目を閉じてあの声で歌っている姿を“美しい”と思った。「あの声は人生を物語っているのよ。彼女もそれをわかっているのよ.」ということばを聞いたとき、なんだか私は歌を歌ってはいけないような気分になった。私の声が一体、何を物語っているというのか。私には物語れるほどのものがあるのか。ビリーは「私は1日に100日分生きてるわ」と言っていた。私はちゃんと1日に1日分も生きているか。またも「生き方」を問われた。そしてまたも私は「ハ〜ッ」と思った。

 

とても重苦しい気分になっている自分に気づいた。この人も、ジャニス・ジョプリンも、とても孤独だ。でも、だからこそ、ステージでのパワーはすごい。輝いている。特別好きな声でも歌い方でもない。彼女が愛した、サッチモやベッシー・スミスの方が、私は好きかもしれない。ではなぜ、死んだ後もこんなに愛されるのだろう。それはあの歌がまぎれもなく彼女自身だからだと思う。本人と歌がかけ離れていず、一つなのだ。最近、黒人の人の歌は、地に足がついていると感じる。すべてを込めて歌っていると思う。やつはり生き方そのものが、歌に出るのかもしれない。自分の歌には何が見えるだろうか。人にうったえるだけのものがあるだろうか。自分の中で伝えたいものを大きくしたい。かくしても、こぼれてしまうような感情、想いを抱えて、舞台に立ちたいと思う。

 

 

 

シャルル・アズナブール

 

話すように歌い、演じる。しっかり目、耳を鋭くしないとあっという間に終わってしまう(オレのイメージがそれだけ乏しいってことだが)。だが、鋭くすればするほど、彼の体が見えてくる。話すようにサラリと歌っているんじゃなく、話しているように聴こえるほど体、息が深いのだ。

けっこう音域が広い曲もあり、全く音程が見えない。一息でバッとことばを処理してしまっていて、フレーズの展開が早い。まくしたてるのがうまい。どちらかというと、ことばのたたき込みで聞かされてしまうタイプかと思ったが、その割には音域も広い。

 

うーん。曲も大きく高揚感があるわけじゃなく、淡々と歌うものの方が多い。それなのに、ここまで観客を引き込むのはなぜか。その一つとして、彼のどちらかというとマイナーな声質と照らし合わせて曲が構成されていて、巧妙な演出がされているのではないか。つまり、自分を知りつくしているのだ。これこそ強味だ。自分のすべてを受け入れるという点でも。

 

筆頭すべきは彼の目。なんて鋭い目をしているんだろう。シャンソンというと、優しさをイメージするけど、彼の場合は正反対だ。空前ともいえるほど張りつめに緊張感が彼の回りを支配している。気品に満ちた態度であるが、それには根底に厳しさが必要。しかも笑顔を見せるのはラストのあいさつのときのみ(これは逆に好感がもてた)。MCもマイクを通さず、独り言のように何か客席に投げかけていた。この緊張感は、近頃のイベントと化した超軟弱なロックのライブとは正反対だ。ここまで自分と自己表現の間に妥協を許さない姿勢は、ロックともいえるのではないか。

 

 

We are the world

 

一人ひとりのアーティストのパワーが、一つの目的のためにあそこまでできることはとても素晴らしいと思った。本来、アーティストは、自分の世界だけでなく自分と社会との関わりを考え、社会へどう向かってどう活動するか問うべきだと思う。もちろん、どんな人間でも意志さえあれば平和なり、何かのために活動することはできる。しかし、知名度の高い人間が行なえば、もっと大きな影響を与えることが可能だ。

 

レイ・チャールズスティービー・ワンダーマイケル・ジャクソンなど、大物アーティストがアフリカ飢餓救済のために「エゴを捨てろ」という合言葉で“We are the world”と歌う。こんな大きな影響はない!それにしても、あれだけ短い1フレーズに、あんなに表現できるなんて。声を聞くだけで誰なのかすぐにわかる個性の強さにも驚く。まだ、その1フレーズに入れこむ集中力や、何度、歌い直してもいいものを出してくるところに、プロを感じた。

 

一番、印象深かった人は、レイ・チャールズだ。彼自身、もう音楽のようだ。体でリズムをとり、感じたように歌う。なんて自由に歌うんだろう。「うだをうたう」という意識的なものよりも「歌が流れる」かのようだった。彼のようにしぜんに歌うために、私は毎日、意識して歌っていくしかない。

 

 

 

【ロック20年史】

 

元々、綺麗なところからはロックはきていない。60年代、時代が混乱して不安だった。その不安を取り除く、激しいもの強いもの、心の支えになるものが本当に必要だった。絶対的なものが欲しかった。不満を訴えたかった。そういう若人の感情が、激しい音楽にのって爆発した。それがロックの精神にはある。だから甘くない。綺麗、楽しいところからは絶対きていない。だから、時代に対し、社会に対し、激しい怒りや悲しさ、叫びたくないような感情のない人が、(ロックをやっても「さま」にならない。だから音楽やるなら、もっと世の中のことをいろいろ知って、それに対する自分の「気持ち」を信じておもてに出す。この作業を勇気をもってやっていくことだ。人の批判が伴うことだから、とても恐い。しかし、嘘は歌いたくない。社会の代表、時代の代表を認識して真剣に取り組む価値のある表舞台だ、音楽は。

 

今の日本は平和で(表向きは)音楽がなくても(そういう激しいアーティクなもの)、全然、暮らしていける。そしてかしこい、おとなしい大人が増えている。感情を抑えて人間の本質を忘れかけている人も大勢いる。こんな日本でロックの精神が通じるかわからないけど、もっといろんなことを勉強する必要がある。また、したい。そしてこれだけはいいたい、絶対、いいたくてたまらない、そーいう気持ちが湧いてきたら、ステージに立つだろう。今は内にこもって、ぐつぐつと自分を煮込む時間だ。煮込むものはたっぷりのトレーニングとたっぷりの吸収のみだ。少しずつアーティストの精神がでてきて嬉しい。そういう気持ちにさせてくれる、スーパースターが勢ぞろいする、最高にかっこいいビデオに出会って、本当によかった。

 

 

グラミー賞 グレイテストモーメント】

 

よいものを見た後はとても気分がいい。豊かなRichな気分でやさしくなれる。こんな状態にさせてくれて、とてもありがたい。なぜこんな気分になれるのか?綺麗な演出、グラミー賞という、一流の雰囲気(空気)もあるだろうけど、大物シンガーぞろいで、その個人個人が体中にみなぎるパワーを体いっぱい使って、人間の本来もつ生命力を芸に昇華させてドカンと魅せる。発散させる。だから見てる方も気分いいし、かっこよく思い、すっきりする。これにつきると思う。

 

僕も今、充分使える声よりも、最初は一曲歌うだけで体の節々が痛くなって立てなくなっても、全身を使って歌おうと思う。どうやらそれが本物シンガーの条件みたいだから。あるべき姿であるから。前からわかっていたつもりだったけど、本当にそれがよくわかってとてもよかった。反面、「つらい旅の始まり」をマジで感じた、気づいた。ガ・ン・バ・ロ・ウ。

 

[声について]たくさんのアーティストがでてきて、この人はすごいな、この人はそうでもないなと無意識のうちに判断している材料の主体は、やっぱり声の深さだったことに気づいた。声の深い歌ほど素晴らしく思える。逆に深い声をもっていても、浅くさらっと歌うアーティストには、いくら綺麗でもいくらダンスがうまくても、演出上手でも、もの足りない!気がする。うそっぽい。うすっぺらい。改めて気づいた。よかった。

 

アーティストではドナサマーやマービンゲイがよかったです。マービンゲイについては以前も書かせてもらいました。「甘く、やわらかく、セクシー」なイメージがあって、ひょっとしたら口先だけでちょこちょこっと、いやとんでもない。一曲通して全身バリバリ使って歌っている。あんなか細く弱く歌っているフレーズでもしっかり全身を使っている。なぜわかったかと言うと、体の動きとマイクの距離。マイクを普通のヴォーカリストのように口にもっていったままだと、ハウリングの嵐攻拏でどうにもならない。やっぱりマービンゲイはすごいです。

 

 

 

【三大テノール

 

世界のトッフに立つ3人。曲目の中には知っている曲も何曲かあり、他の歌い手のを聞いていたので、なぜこの人たちが称賛されるのか肌で感じた気がした。確かに体が強い。発声が違う。でもそれだけじゃない。それらをベースに歌の解釈、感じ方、そしてそれを表現する、その表現が違う。スケールが違う。心のままに歌うとはこういうことなのではないか。

 

体、息、声と心がぴったり合っている。すべてを思うままに操っている。曲の終わり、声の終止のところでそれを強く感じた。発声ということでは高音が特にわかりやすい。質を変えずに口の形もそう変えることなく、強く体を使って出す。気持ちの高まりと共に声量も増す。曲の見せ場と、そうでない、穏やかに流れる場面とを本当によく心得ていて、体できっちりメリハリをつけている。口の形が何を言ってもほとんど変わらない。3人を比べても変わらない。ものすごく力を入れているように見えるのに、シャウトしているのに、のどにくるなんてことがないのはなぜだろう。

 

口の形にしろ彼らは“フォーム” をもっている。息や声がスムーズにたっぷり通れる道をしっかり確保している。彼らの口、のど、体を見てそう思った。後半、ミュージカルメドレーがあって、英語で私も知ってる曲が何曲か出てきたが、こういう人たらは何を歌わせてもうまいなと感心した。知ってる曲だとなおのこと、差がわかってしまう。超人的な体をもった人たち。でも歌の内容、その流れの起伏は人間そのものである。病気をおして全力で歌うカレーラスや、その他の2人を見て、歌を歌って生きてきた人たらの生きざまを垣間みた気がした。

 

一流と呼ばれる人たらには、無駄な時間がない。かといってガチガチに縛られているわけでもなく、リハーサル中でもゆとりが感じられる。集中力、自信、そして何事も楽しむ気持ちが大切だと思った。一つのステージが成功をおさめるには、各々の役割をただこなすだけではなく、創り上げていく過程で生まれてくる信頼感、一体感がどれだけ強いものになるかが重要なのだと思った。

日本の芸能界でよく聞くような、自分が一流だと勘違いしている人たちのわがままな態度や、そういう人たらにコビを売るようなスタッフからは、間違えてもこんな素晴らしいステージは創れないと思う。今回、漠然とした感想になってしまったが、次は3人の声をじっくり聞き比べてみたいと思う。

 

 

 

【リズ厶&ブルース】

 

はじけるリズム。心をえぐり心をくすぐり、そして詰りかけるようなギターワーク。それに応えるシンガーたち。そしてたたきつけるように弾くピアノ。中心に脈打つベースのビー卜。そのどれもが、ときに悲しく、ときにはやさしく励ますかのようで、その一曲はどこまでも人間臭く、まるで生命をもっているかのようでさえある。そんなブルースが私は大好きだ。まるで手足のようにギターを操り、ギターでことばを発するファンキーなおやじ、Snooks Eaglin。日常のできごとをまるでとなりの誰かに酒のさかなに語りかけるようなRuth Brown。心の高まりと共にハスキーなシャウトへと展開していくJonny Adams。そしてとこまでも深く、息の流れが目に見えるような声で悲しみや希望をゆったり語るCharles Brown。そのどれもが個性的で、人間的で、やさしくあたたかい。まるでその一曲が生きているかのように…。

 

 

 

【四大オペラ歌手の競演 ニルソン、ブライス、テバルデ他】

 

オペラというものをじっくりと聴いたのは初めてだった。どこかで敬遠していた。あの声、歌い方、理解できないことはすべてに。今回、そういった先入観をなくして、オぺラを鑑賞してみた。私にはまだ、「よい声」がどんな声であるのかがわかっていない。頭で理解している最中であるが、耳の方はさっぱりである。そこで、今回は歌を聞くことより視覚的なことを意識して見た。

歌っているとき、体のどの部分が動いているのか、どんな姿勢で歌っているのか。二番目の黒人の人は、お腹がよく動いていた。三番目の少し太った人は、お腹より胸が風船のようにふくらんではしぼんでいた。その女の人は、小さな頃から母親の歌を聞いて、それをマネて歌いながら育ち、音楽を肌で覚えたと表現していた。これから、よい歌い方、表現がわかる耳をつくっていくだめに、私も肌で覚えるくらい、いい音楽にひたっていかねばならないのだと感じた。