初期のグループレッスンの説明
課題曲レッスンなどで、カンツォーネ(シャンソン、ラテンなど含む)を使う理由について
イタリア語や歌曲での発声、共鳴がわかりやすい
音色に耳を傾け、音楽面での曲の構成、展開を捉えられる
研究所の専属トレーナーの多くが、声楽出身で、イタリア語やオペラに精通している
(1)イタリアの歌曲を使うメリット
1.日本人の言語感覚を切ることができる
2.日本人の身体感覚を切ることができる
3.洋楽、つまり、伝統音楽ではない今の日本の歌全般にストレートに入れる
4.声楽の方法に沿いやすい(全世界で、教育の成果をあげている声楽を踏まえられる)
「真のヴォイストレーニング」に、ストレートに入りやすくするために、
カンツォーネ#を使うことがよくあります。
イタリアの60年代を中心に世界に先駆けてヒットを量産していたポピュラー曲です。
オペラより新しいのと、あらゆるポピュラーソングの基礎となるリズム、コード、構成、展開などが入っているので、また、世界的にもヒットし、映画やドラマ、CMなどに使われ、スタンダードナンバーがたくさんあります。
日本でも今も巷に流れているため、親しみやすいことでしょう。
カンツォーネのヴォーカリストには、さまざまなタイプがいます。
全体的に歌唱のレベルが高く、特に発声に関して見本にとりやすいでしょう。
ナポリターナ歌手やオペラ歌手もいます。
1.ポップスの感覚(メロディ、リズムパターン、コード、進行展開、アレンジ)のベース
2.オペラに比べ、短くなじみやすく、
歌のエッセンスやリズムパターンが多彩に入っている
(2)イタリア語の曲で音色に耳を傾け、曲の構成、展開を捉える
日本語はもとより、英語よりもイタリア語を発声に使いたいのには、
いろいろな理由があります。
第一に、声が使いやすい、第二に、意味がわからないのも好ましいのです。
音声を楽器レベルで使おうとするのに、歌詞やストーリーにあまりに重点がおかれると、
音色とフレーズのデッサンという音楽的奏法への関心が失われます。
ただでさえ、日本人は、詞やことばに傾倒しやすいのです。
特に歌のおいては、顕著です。
その上、欧米から近代音楽を輸入し、ほとんどがコピーすることをメインとしてきた経緯もあります。
その洋楽ポップスの原点にあたるのが、カンツォーネです。
(もう一方に、ゴスペル、宗教音楽があります。)
ともかく、日本の歌では音色での表現(成り立ち)が、あまりにも問われなかったのです。
そのためにレッスンに、積極的に取り入れたのは、カンツォーネの、しかも大曲でした。
つまり、声域や声量において、素人離れした歌唱力を要するものです。
そのことで、声の力のなさを知ることで、
トレーニングの目的やその目標レベル、必要性を高めることができます。
「コンコーネ50」といった発声教本とともに、「イタリア歌曲集」、さらにナポリターナ(ナポリ民謡)も含む「カンツォーネ曲集」が教材です。
(これはその後、シャンソン、ファド、ラテンなどの歌曲につながります)
日常レベルを超えて、2オクターブ近くを全身から
ヴォリュームたっぷりの声で歌い上げるなかで、
プロとしての身体やのどの条件をもってくるのが、
ヴォイストレーニングで鍛える声のあり方として、わかりやすいのです。
聞くだけでは、歌詞の意味がわからないからいいというのは、
音色やフレーズ(節回し、メロディ、リズム)から推察し、
感じていくことを求められるからです。それこそが演奏、音楽の世界なのです。
一見、逆のようで同じこととしては、歌詞を全てわかりすぎているからよい、
というのもあります。
落語の定番の噺のようにストーリーがわかっていれば、どう演ずるかに関心がいきます。
そこで声や表現といった技量の差、真のオリジナリティが出ます。
同じことを比較してみて、初めて感覚も判断力も深まるというのは、私の根本的な考え方です。
訳詩でみて、イタリア語で歌うのがおすすめです。
日本語詞も英語の歌に比べると、うまくついています。
実際に日本では、日本語詞で歌われてきました。
また、両方の言語で歌われる場合も多く、比較の材料としても、とても豊富です。
日本語で吹き込む外国人のカンツォーネ歌手、シャンソン歌手も少なくありませんでした。
世界に数多くあるスタンダード曲とは、歌詞やストーリーは皆、知っている曲です。その上で歌うのなら、歌い手には楽器としての音楽の演奏としての表現力が問われるのです。
初物で、誰もやっていないからオリジナリティだ、などという安易な海千山千の世界よりも、
早く質の世界に入れるのです。
大切なのは、そこで自分の音と使い方(音色とフレーズ)を発見することです。
つまり、これを通して歌唱だけでなく、作詞や作曲、アレンジ、音楽理論、語学まで学べるわけです。
日本でも、邦楽や演歌には定番曲があります。ミュージカルも同じ曲を違う人が歌っています。レベルアップしやすい状況ではあったのですが、残念ながら、真似てしまうことが、必ずしもプラスにはなりません。
「声」という特殊な分野においては、たいして人材は育ちませんでした。
日本の聴衆は、ビジュアルやストーリーを重視する傾向にあるので、なおさらです。
さらに、時代は、日本だけに限りませんが、ダンサブルに、
ステージパフォーマンスといったヴィジュアル面ばかりが発展していったのです。
もちろん、音響技術や演出技術とともに。歌手も曲や詞が、新しければ何でもよいとなりがちですが、むしろ基本を学びにくくなっているのです。
その他のレッスンについて
同曲異唱の比較での学び
研究所では、トレーナーもまた、同じ曲を異なる歌い手が歌った場合の評価をレポートして、公開しています。公開していますので、研究所のブログなどを参照ください。
参考 日本でも同曲異唱が比較できる環境があった
音楽著作権がまだ整っていなかった昭和の半ば頃までは、同じ曲を違うレコード会社専属の歌手同士、同じ時期に競作してヒットを競うこともありました。
それとは、すでに異なる状況下でしたが、私が覚えている最後の曲は「氷雨」でした(日野美歌、佳山明生の歌唱)。
また、フォークなどの台頭期では、かぐや姫などでも、ほぼ一曲だけを繰り返すステージをやっていました(「好きだった人」などが、その代表曲。フォークは歌詞の力が大きく、即興の詞づけにも長けていて、必ずしも、ヒットが曲の力とは言い難いところもあります。)。
日本では、50年代から70年代にかけて、ロカビリー、ロック、ポップス、ジャズ、カンツォーネ、シャンソン、ラテン、ボサノヴァまで、すべて、日本語の訳詞をつけて歌う時代となり、同じ曲での歌手同士での比較が容易になったのです。今は、昔のヒット曲をあたりまえのように、他のプロ歌手がカヴァーしています。
当初は英詞の訳にもよいものがありました(この一連のヒットで、出版社をつくったのがシンコーミュージック創設者、漣健児氏でした。「悲しき・・・」のタイトルで始まる一連のシリーズが有名)。多くの歌い手が同じ曲を歌ったため、比較することで、秀劣や個性がとてもわかりやすかったのです。この頃の歌い手は、個性的な音色がありました(笠置シヅ子、弘田三枝子、坂本九など)。
日本人の英語熱もあって、ジャズは英語のまま歌われる方が多くなり、日本語の訳詞は、あまりすぐれたものでなくなりました。
それに対し、カンツォーネやシャンソンは、日本人には、フランス語、イタリア語がわかる人が少ないせいもあって、よい詞がつきました。越路吹雪さんの歌を訳詞した岩谷時子さんや作詞家のなかにし礼さんなどは、シャンソン畑です。
歌詞で伝えることの成立を日本語で問う
歌詞がよいことは、原語と日本語との両方で学ぶための一つの大きな条件です。
特にカンツォーネは、日本詞がメロディも踏まえてうまくつけられているものが多いのです。
(ただし、この頃の詞は、一音節(モーラ)に一音の日本語をあてていたため、原詞の内容の半分から三分の一しか伝えられていません。どうしてもストーリー性、また原詞のもつ素朴さ、わい雑さは、薄くなります。)
なぜ、原語のままではなく、訳詞がつくことが大切かというと、歌は生活しているところのことばで支えられているからです。
器楽曲に対して、歌が決定的に有利なところは、次の二点です。
1.人間の声である
2.ことばで意味内容を具体化できる
日本語で育ってきた日本人の私が、いくらセリフや表現を英語でいっても、その伝わる程度はネイティブほどには判断できません。ですから、英語で歌えれば、英語の発音がよければOKというような評価が、また幅を効かし、表現が忘れられてしまうのです。それ以前に発音に気をとられて、レッスンがその矯正で終わることになりかねないのです。日本人の性格か、輸入物のせいか、とにかく発音、音程、リズムを正すのが、レッスンで、ヴォイストレーニングも声域ばかりで、声量や音色という基本までいきつかないのです。
(→拙著「英語耳ヴォイトレ」に詳しい)
日本の歌でも、事情は同じです。歌謡曲、ニューミュージック、J-POPS、演歌、邦楽などは、なぜ、時代や国を超えて、世界のスタンダードにならなかったのでしょうか。
エスニック(日本語)の音楽だから、ではありません。
表現力で通じないからです。これは、英語圏でないとか、音楽ジャンルとしてではなく、演じる人や歌う人、個人の音声での表現力においてということです。エスニックな曲、西欧はもちろん、英語やイタリア、フランス、ドイツ語以外の世界的ヒット曲は、たくさんあります。
(日本では、坂本九の「上を向いて歩こう」これは、世界中でカヴァーされています。もちろん、YOASOBIなどもヒットしましたが、この時代、もう音響技術加工が凄まじく、歌唱力として歌い手から学べる域を超えてしまったのです。)
もとい、どこでも、一人の天才とそれに続くハイレベルな集団が出て、そのジャンルをつくり、いずれはジャンルを超え、スタンダードにその芸を成立させます。もちろん、歌謡曲や演歌がすぐれていたことは認めますが、デビューしたあと、本人があまりよくなることがないのが日本の特徴です。
歌のまえに「モノローグ(独白)」で表現の成立を成り立たせる
まず、日本人では、話すことばで表現を成立させるところでの基準と習得が必要です。
モノトークとは、モノローグ(独白)を表現として成立させたもので、モノローグ(=独白)がダイアローグ(=対話)に対して用いられている点と区別するため、私がつくった造語です。
あるとき、まだ歌唱の表現力の充分にない人でも、2分ほどのトークでは、それなりに能力を引き出せば、人に伝える表現力を持っていることに気づきました。演劇の役者のレベルで問うということです。
そこで「モノトーク」を必修にしたのです。
どれだけ歌で伝わっているかが、本人にわかりにくいこともありますが、本人自身に、いかに歌では、伝わっていないかということをわからせるためです。
カラオケで褒められる歌唱でも、マクドナルドでの「いらっしゃいませ」程度にしか、伝わっていないことに気づいていないのです。それではトレーニングにもならないし、それでよいのなら、そもそもトレーニングの必要さえもないわけです。
ですから、日本語でしっかりと複数の相手に伝えるところからスタートしたのです。
ここのレッスンが、歌手だけでなく、一般の人、役者、声優に、そのまま有効であったのは、そういう経緯があるためです。
これまでのことをまとめると、学ぶべきことは、以下の点です。
A 体と結びついた発声 (=声楽と類似) ヴォイストレーニングの声づくり、声量、音色、共鳴
B ことばと結びついた表現 (=モノトーク) ことば、せりふ(表現)
C 音楽と結びついた歌唱 (=カンツォーネ) フレーズ、リズム、感覚
カンツォーネをイタリア語で歌うのは A に、 日本語で歌うのは B に近く、ともに C を念頭に入れていくと、トータルとして理想的なトレーニングになるということです。
(参考「読むだけで、声と歌が見違えるほどよくなる本」音楽之友社 編纂)