鑑賞レポート 546
【スーパー・ロックエイド Vol.1 コロンビア】
コロンビアでの災害に対するチャリティコンサート。コロンビアに限ったことではないが、毎日、多くの人々が自分の意志とは関係なく、その命を奪われていく。ではなぜ、それほど「生」に対して執着心をもっているとも思えない自分が、いまだに生きのびているのか。というようなことを考えたりもしたのだが、先日、近所のスタジオで個人練習をしているときに、ふと「明日も歌えるとは限らないんだよな」と思ったら急にものすごくさびしくなって涙がとまらなくなってしまった。「歌が歌えない」というより「自分の歌にもう会えない」と思ったら、こんなにさびしいことはないという気がした。自分の歌(声)が社会的に価値をもつようになるのかどうかはわからないが、生きている限りは、一所懸命、歌っていこうと思う。
【フレディ・マーキュリー追悼コンサート 】
フレディの超サービス精神旺盛な姿に大笑いしました。途中、そっくりさんが客席に見えたと、母が「あら、またあんなところに、おもしろい人だね」と言ったので私は「いや、この人はそっくりさんで、本人はもうエイズで死んじゃったんだよ!それの追悼コンサートなんだ」とちょっと言いづらかったけど、その後、母は「えーっ、そうなの?」と一言言ったあとは何もしゃべりませんでした。
本当に悔しい死だと非常に強く感じました。エイズなんかどうしてこの世にあるんだろうと考えると、とてもやるせない思いになります。多くの人々が追悼の場に集わせ、多くのミュージシャンがフレディの追悼とエイズ撲滅の祈りをこめて歌うが、果たしてエイズが完璧に解決される希望が湧き起こるだろうか。最後にエリザベステイラーが登場して演説をする構成は、歌による内的夢とトークによる外的現実がミックスされ、全体を通して説得力のあるものに仕上がっているところはすごいと思いました。
私はこのビデオを観て、一つだけ全く希望を感じなかった部分があります。それはフレディがエイズで死んだ事実。それをもっと入ってみると、彼は自然体でいるのが一番だとインタビューで答えてました。もしその「自然体」ということばの中にエイズを肯定する思いが含まれていたらどうでしょう。彼は自然体の生きざまで、結局、エイズを肯定したんだから、彼自身は幸せだったのではないかと思います。
しかし、このコンサートの主旨は「フレディはかわいそうな、そしてあなたはエイズにならないよう自分の身を守ってくださいね」という感じで、フレディがどんな気持ちであったかをこの観点から考えれば、彼は不幸な思いで死んでいったと思われます。彼の生き方のどこかに無理が生じた結果だと考えられます。
そして、エリザベステイラーが語ってた中での「セックスの際はコンドームを…、どうか自分の身を守ってください」などのことばも含めて、まるで決して過ぎ去ることのないのはわかりきってる嵐に対して、どうすることもできなく、ただ家でじっとしていてくださいということを大きな声で叫んでいるようにしか感じられませんでした。誰もが心のどこかで気づいていることだと思います。このことの延長上には、自分がエイズにかかることはおろか、人類自体が必ず滅びることは言うまでもありません。
私はエイズの仮体験があるので、髪の毛が白くなるような心情にかられ、そのなかで一つの答えを出しました。「もう一度、もし生まれ変わったら、自分は純潔を貫くんだ」と神に誓いました。実に古くさいかもしれないけど、純潔を貫いた男性と女性が結ばれる世界には、ホモもフリーセックスも、不倫も離婚もあり得ないから、エイズは必ず撲滅するでしょう。それが本道だと信じてみやません。誰かが何とかしてくれるのを待ちながら、毎日の仕事をして生活するよりも、純潔を貫く生き方がいつの日か世界を平和にするのを固く信じていくことの方が、より自分らしいと最近、強く感じます。これは、一つの失望を私に与えることによって、より純潔の必要性と、燃える魂を啓発されました。
【Making of 3大テノール世紀の競演 】
インタビューや練習風景など、場面がコロコロ変わるが、4人の芸術家たちの誰かがその場に現れると華やかになる。ふざけたり笑ったりしていると、知らずにこっちも笑ってしまうし、次に何を言うのか、何をするのか、待ちかまえてしまう。オペラ界の大スターといっても、私はこのときのコンサートのCDを聞いているだけで、他に何も知らないのである。歌がうまいからというだけで、こんなふうに人をひきつけるわけじゃないということ、そのことを改めて思った。場にいるだけで空気を変えるくらいのエネルギーが満ちている、そういう生活をしていることが、ステージを支えることになるのだ。そして、とにかく明るい。いつも笑っているとかいうことではなくて、圧倒してくる空気とか、この人たちの体が発しているものが、明るいというか力があった。
ステージ実習で先生に暗いと言われるが、思い出すと、ああホントに暗いなと思う。これも人前に立って、突然どうにかできるものではない。パワーや明るさの種類は、きっと人によって国によって、いろいろ違うのかもしれないけど、その強さ自体がないのでは、誰も見向きもしないだろう。この体を動かしているもの、それを発散させているような人たちだった。
急に思い出したのは、昔、学校の宿題か何かで読んだ「オオカミに育てられた子」という本。オオカミに育てられた人間の子が発見されて、救い出されて(救ったと言えないと思うが)、人間の生活に戻そうとしたときの記録のような本だった。そのなかで、その女の子たち(5才くらいと12才くらい)にことばを教えようとするところがある。ところが、オオカミの遠吠えはすごくうまいのに、ことばどころかまず、人間的な発声が全くできないというのだった。「あ」とかそういうことができないらしい。苦心して訓練の方法を変えながら続けたら、5才くらいの小さい方の子は少しだけ、人間の発声に近づいてきて、確かコトバまではいかなかったが声を発することはできるようになった。でも大きい方の子はオオカミとしての生活が長かったせいか、全くダメだったということだ。人間でもオオカミとして暮らしてきたら、立派な遠吠えをする。
当時は読み流していたことだが、突然、思い出した。12才の子は、もう人間の声をイメージすることができなかったのだろう。生まれてから育っていく環境が、声に与える影響のすごさを考え、ぞっとする。もちろん、この子たちは味覚も臭覚もオオカミになってしまっているので、料理のニオイなんかに全く感心を示さず、生肉や生のじゃがいもしか食べなかったらしい。12才くらいにして、もう取り戻すことができなかったというのだから、影響の深さは測り知れない。そんなことは知らずに、のほほんと大人になってしまった今、一流の人たちの歌、声を、浴びるほど聞いてもまだ全然、足りないということがはっきりわかる。体を変えるということが容易でないこともわかる。こういう芸術家の育つ国の環境をうらやんでいても仕方がない。
まず第一声は感動した。こういう共演を実現させるまでにも、きっとさまざまな苦労があっただろうと思う。リハーサルに入ってからも、この映像には出てこない問題も当然あったハズだ。そういったあらゆることも本番ではその成功の喜びを増幅させる力になる。リハーサルでピアノだけで3人が声を出している場面があった。200人のオーケストラも、もちろんスゴイが、あのピアノだけでちょっと歌ってみようかな、というくらいのとき、あれだけの声なのだ。それだけで感動してしまう。3人は絶えず陽気で積極的で意欲的で協力的だったという。そのメンタル・コントロールの部分も見習うべきだと思った。鳥肌がたってしまったところも多数ある。でも何といっても、サッと舞台の中央に歩み出るその瞬間のあの何とも言えない表情、とてもワクワクした。一つのショーを創ることの喜びも伝わってきた。
メイキング・オブということもあって、歌唱そのものはそれほど多くなかったが、アーティスト精神というものの何たるかを、かいま見た気がする。それは、3大テノールたちからだけではなく、周りのアーティスト、関係者たちからも伝わってきたと思う。一つの芸術、ここでは舞台を成し遂げるのに要する数々の力。まず体力。歌唱そのものを立派にこなすための体力はもちろんのこと、自分の歌唱を人々に披露する準備をする体力。そして忍耐力。頭ではわかっていたことだが、アーティストの舞台裏を見て、アーティストであるためには、そのアーティストであるということに対する準備が山のようにあることを再確認した。ごくごく簡単に言ってしまえば、日々努力あるのみ。日々アーティストでいるということ。なかの人々の声の深さ、すごい。
【3大テノール世紀の競演 ’94】
久しぶりに本物の歌を声を聞いた。画面ながらもそこには、時代や国境を超えた音楽があり、アーティスト精神の溢れる人々がいた。すべてが一流であり、そこから誰一人がかければ、きっと完璧には至らなかったはずだ。
“歌は万人のものであり、自分の好きな歌を人に強要したくはない。パバロッティのことばだが、私はすごくそのことばに感動した。そして彼ら自身を表したものだったと思う。音楽が好きであれば、誰もがきっと彼らの舞台に声に感動し、賞賛するだろう。そして、もっと音楽が好きになるだろう。
【4大オペラ歌手の競演】
女声オペラ歌手4名がスタジオのセットの中で順にオペラを演じるというものであったが、何というか「うっとり」と見入ってしまった。かなりごついオバサンたちで、しかも凄い化粧で、さらに非常に安っぽいセットであったにもかかわらず、である。圧倒的な歌唱力なのだが、そういうものを見る側には全く感じさせず、まるで映画でも見ているような気分だった。見ていて一番、素晴らしいと思ったのは、黒人女声歌手と指揮者とのトークだった。「話すように歌う」という考え方があるが、彼女の場合はまさしく「歌うように話す」であった。口から出てくることばがすべて音楽になっている。素晴らしいの一言。とても印象的でした。
【サンレモ音楽祭】
ひびくひびく! 若い頃のかわいらしいミーナからこの迫力ある声。歌おうとしなくても歌が思わずこぼれ出し、それを自分でどんどんふくらましていくように歌っている。体のことを気にせず、自由に思うように声が出たらどんなに素晴らしいことだろうか。本当にうらやましいと思った。体つきもほっそりしていて私と違うところなんて、そうは見当たらない。同じように歌えるはずだ。このミーナのイメージを忘れないで近づけるように声を出したい。
【ラ・カンツォーネ】
インタビューしていきなり歌い出す陽気なおじさん。「これが素人!?」プロと同じような声だ。イタリアでは国民すべてが、あのフ声の出し方をしているのか!?
だとしたら、少し高い声が出るからといって、すぐうまいプロとみなされてしまうような日本と違って、普通の人とプロの区別はどうつけるのだろう。やはり、それこそ「歌心」が問われるのだろうか。
日本に比べてなんというレベルの高さ。日本の歌手でそこまで問える人が一体、どれだけいるのだろうか。自分の声をどこまで使えるかということもプロの評価の一つかもしれない。
日本の「のど自慢」ということば、イタリア人にぴったりだ。これでもか、これはどうだと挑むように声を出してくる。まずあの迫力で聞衆をつかみ、その後も離さないようにあらゆるその人なりの技術、表現をしている。特にミーナの歌からは最初から最後まで目が離せなかった。魅せることを心得ているし、こちらも思い切り魅せられてしまった。
岸洋子さんなどがサンレモ音楽祭で入賞されたことがある。ということと、ミーナやイヴァザニッキ、そしてクラウディオビオラなど、昔のイタリアの名歌手はみんなこの音楽祭に出ている。そんなことしか知っていなかった。話によると、サンレモ音楽祭のはじまりは、ただお金持ちなどが集まって、酒飲んだり話しをしたりしていたが、そのうちにものたりなくなって歌を歌わして自分たちが楽しんでしまおう、という気楽な考えが年を重ねるごとに歌がすべてというこの音楽祭に変わっていってしまったということだ。
見るまでは、もっと豪華なステージなのかと思ったが、実際にはとても暖かみのある、客と一体しているような、すごくよいステージだった。自分たちがものすごいものをみせてやるからよく見てろ、というような強い人の感じではなく、あくまで自分たちの人間性や歌の素晴らしさを一緒に楽しみましょう、というやわらかい感じがした。しかし、何かわからないけれども、そこには大きなオーラというパワーが感じられて、とてもひきつけられた。日本とは違いヴォーカルもお客も本物が何か、ということがよくわかっているようで、本物を見極める力のない私から言わせてもらえば、お客もすごい。
私が生まれる20年以上も前のカンツォーネが観れて嬉しく思う。
人間はいつの時代もいつも進化している。たとえばマラソンにしても、新記録が破られ、どんどん速くなってきている。それなのに歌というと、そういう昔の人たちにはかなわないものがある。体だった進化してきているのに、どうして日本人は追いつけないのだろう。カンツォーネは、生活のなかに溶け込んでいた。生活の一部に、いいえ生活自体になっていたように思う。ことばがわかればもっと楽しかったと思うが、そこには人間らしさ、人間臭さがあった。私と同じ人間なんだ。先は遠いかもしれないが、私も話すように歌いたい。歌うように話したい。もっともっと人間らしく…。P.S.椅子をそっとどかしてくれた、先生のやさしさが嬉しかったです。
常に前へ進もうと「今」にできるすべてをするというコルトレーンの音楽への姿勢が、そのまま生きざまになっていた。とことん音楽に向かっていく。誰かが、チャーリーパーカーもトレーンもサックスをサックスでないように吹く、あたかもピアノを弾くように、と言っていた。映像で出てくる彼もずっと吹いていた。本人の、肉体との、精神との闘いは想像を絶するものだったろう。私はこの映像から言い尽くせぬ精神を学んだ。そのために必要なたくさんの研究や練習も莫大なものだ。
「すごい」と。一言で感想を言うなら本当にすごいと思う人の一人だ。“めくるめく”とでも言おうか、演奏を聞いていて、私はこの初秋に見た韓国の金石出(キム・ソクチュル)の金属打楽器による演奏を思い出していた。キムさんの演奏は、永遠にも思える長さで、入りこんでいくと魂のレベルにいってしまう。トレーンは東洋の音楽も研究していたそうだから、つながっているかもしれない。キムさんはシャーマンだ。真実の具現が音、ということばも心に残っている。
福島先生の「ロックヴォーカル実力派宣言」という本を今、読んでいたのだが、そのなかで、ことばは何もわからなくても声だけで感動することがある、と書かれていて、ジョンコルトレーンのサックスは、ちょうどその意味に似てるなあと思った。
画質も悪いし、録音もよくないし、国も違えば人種も違う、なのになぜこんなに伝わるものがあるのだろう。不思議に思いながら見ていた。最後の方でその答えがわかったような気がした。ハートだ。いくら音程やリズムが正確でも、きっと人は感動しない。何に感動するかといったら、やっぱりハートだろうという。音に魂が宿っている。福島先生が自分に声が宿るまで…というようなことをよく言われるが、その意味は、このことなのかと気がついた。
楽器がプレイヤーの手によって、自分の音を奏でることができるのはスゴイと感じた。ムダな音がなく、それでいてすべての音に意味があり、音の高低、長短が表現として生きているようだった。厳選されただろう音は、音階は同じでも、他に同じ音がないかのようにあり、それらがおりなされることで無限の世界が広がるようである。4人のプレイヤーが楽器で生み出した音は、まるで4人がおしゃべりするかのように、生き生きと遊んでいる。ウエスモンゴメリーは、独学でジャズを学び、親指だけで弾く独自の演奏方法を生み出したことで、独特の音を奏でているが、そうした、自分のために自分らしくあり続けようとする姿勢は、とても勉強させられる。
「親指奇術師・モンゴメリー」 何の脈略もないが、フライドポテトにケチャップをたくさんつけて食べそうだ、というのがウエス・モンゴメリの私の印象だ。この人の指はフレットによくなじんでいて、まるで…言い古されたことばしかみつからない。でも、この30年くらい前のシンプルな編成のバンドの演奏は、新鮮で暖かく、リラックスして、いつもピンとはられた一本の緊張の糸のようなものが感じられる。
ついつい手元に目がいってしまうが、ギターを弾いているその表情は、すごく奥行きがあり、いろいろな顔が見え隠れする。でも、一番根底には、こうして演奏できることに喜びを感じているのだ、という表情があるような気がする。ギターで歌っていた。そしてギターを愛してるんだな、ということが伝わってきた。それは何となく形にはならない波動のような、何かある種のパワーの塊のような形で、フッと心に伝わってきたという感じだ。好きなバンドのギタリストも、よくこの人の名を口にしている。
【エルヴィス】
聞き手の感情をあそこまで高める力というのは、いったい何だろう。まるで気が狂ったかのようにリズムにのって体を動かしている。涙を流している人もいる。ロックのパワーを改めてすごいと思った。自分はあまりにもロックのことについて知らなすぎたと思う。声はとてもクリアーで深くて、わざとのどをつぶして歌っているような日本のミュージシャンとは違う。根本的に違う。アコースティックギターはロックじゃないとか、生ピアノはロックじゃないとか、そんなことを言う人は本当のロックを何も知らないんだ。自分もそんな無知な人々とそう変わりがないことをとても恥ずかしく思った。
一番、嬉しかったことは「自分は普通の人間だ。ただラッキーなだけで、あとはみんなと同じだ」と言ったことである。「名誉や富はあったに越したことはないが、それは大切なことではない。みんなを楽しませるのが好きだ」と。とかく世の中は名誉や富を、また誰が偉くて誰がお金持ちだとか、男だ女だとか社長だ平だとかいって、その人自身を見ようとしない。所詮、人間は人間なんだ。一人の人間としてどう生きるかなんだとよく思うのだが、間違っていない、同じ考え方だったのが嬉しかった。エルヴィスが亡くなる6ヵ月前に、ステージに立ち歌った最後の歌は、自分がこの世にできることすべてを、魂を、汗と一緒に声と一緒に体からしぼり出しているように見えた。そしてそれは美しくもいとおしい最後の最高のパワーだった。そして時を越えて今、私の心にエルヴィスが甦った。
【ティナターナー】
ティナターナーはすごいパワーがある。あれは独立(?)した頃のものだろうから、42歳(?)くらいのライブでしょう。声にも体力も尽きることを知らない人だ。周りで踊ってコーラスしている人より、ずっと踊りにも声にもパワーがあって、くずれない。ときどき入る、彼女のおもしろい声も、変わっていていいです。しかし、あれだけ、全身から声が出せるものかと思ってしまう。普通の人だったら、1曲歌ったら2曲目はないだろう。
【マイルスデイヴィス】
「唯一ということ(オリジナリティ)」 ものすごく圧倒された。存在自体にものすごいパワーがある。もの静かに、ハスキーに語っているにもかかわらず、“叫び”のような気さえした。
H.ハンコックは「マイルスのプレイのなかにいると、エデンズ・ガーデンにいるみたいだ」と話していた。感覚が研ぎ澄まされた人だと思った。一つのところにとどまらない、というより2度と同じことをしないつもりで、一つひとつの音を出しているのだから、その音は唯一のものだ。
マイルスデイビスはむろん、この世に一人しかいなかった。そのマイルスが奏でる音も、そのとき、そこに出たその音しかない。視線もすごく強い。まっすぐ見返すのが恐いくらいだった。たった一人、この世にたった一人しかいない人間が、独自のものを築き、それを維持して、かつパワーアップしていくというのは、本当にすごいと思う。すごいすごいと言ってばかりでなく、そういうところをめざしていきたい。