一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レクチャー1〜3ほか  351106 552 555

レクチャー1  351106

 

 発声の技術で声をきれいにひびかせるだけが目的ならともかく、ポピュラー音楽をヴォーカリストとしてやっていこうという場合、ひびきだけそろえることをいくらきれいにやっても、本当の表現力にはなりません。

 

日本人は、声を体の芯で捉えていないところで歌おうとするために、のど声になってしまい、つぶしたり、くせをつけたりしてしまいがちです。それをそらすために、ひびかせることに発声のポイントをおくのですが、ありのままの声を磨かずしてそのような技術も身につくはずがありません。


 まず、歌を歌おうとするまえに、声や表現を腰で支える、腰に中心がくる感覚をつかむところまで、戻す必要があります。他のスポーツなどを例に考えてみてください。

選手は常によいコンディションにもっていくために、よい成績を残すために、走ったり、柔軟をしたりと一見、競技とは関係がないように思われる基礎トレーニングを積んだ上で、競技に入っていくのです。習得過程においては、ヴォーカルも同じことです。

 


 ヴォーカリストの多くは、声域が広いこと、高音域を出せることがよいヴォーカリストだと思っています。でも、そのようなことは、基礎のトレーニングからいうと目的でなく結果、副次的効果にすぎません。声そのものをコントロールできることが重要です。

 

また、ポピュラーの場合、気迫と素質-その人の歌が人々の心を動かす、聞いている人が聞き込みたくなるとか、一緒に歌いたくなるといった要素も必要です。

 

歌をまとめるまえに、もっと根本的なこと、体からあふれるパワーを出すことが必要です。日本の場合、ヴォーカリストよりも、役者、声優の方が声そのものは出ますし、歌えます。彼らは、最初から、ことば以上の声の表現を問われるからです。

 

そのようなことから考えてみても、笑ったり、怒ったり、のどにかからないようにことばを叫ぶということから入った方が、歌を歌っているより、根本的なところで伸びることがわかります。


 声を体の芯から捉えられるようになるために、声についての判断力を養うことです。そのために、一流の作品を聞いて耳を鍛えます。耳を鍛えて、自分が自分のヴォイストレーナーになることが、確実に伸びていくための道です。

 

自分の発声の応用性は、今、出している声で何時間、歌えるかを問えば、ある面においては、わかることでしょう。間違っていれば、のどを痛めて歌えなくなります。特に、高音の発声になるほど、体全体の力と脱力の技術を必要とするため、それでのどをつぶすようであれば、間違っていると判断できます。つまり、間違えようがありません。

 

ただし、きちんと歌っていればのことで、元より声域獲得の発声のくせで歌うのであれば、痛めないでしょう。声量がほとんどない声域獲得だけの声でもマイクで歌になるので、そこで誤解する人も多くなりました。ヴォイストレーニングの技巧のようになってしまったのです。

 

 


 体の中心に一致させる、耳を鍛える、この二つを身につけ、体の条件さえ整えていけば、一流のヴォーカリストのもつ条件に一歩、近づくことができます。
 もう一つの一流のヴォーカリストの条件として、「表現力」があげられます。

 

一流の人たちを実際聞くと、その人の何をもって感動するのかがわかるはずです。それは、声域や声量、声の長さではありません。体と表現力の両方が伴って、はじめてヴォーカルの歌の世界が築いていくことができるのです。

 

体で歌おうとすると感情がとんでしまい、感情を入れるとのどがしまってしまうので、これを両立させるだけの技術がいるのです。
 初めは表現力よりも、体からことばを言えるようにし、次に音をつけて声により豊かな表現を宿らせるようにしていくとよいでしょう。


 一曲を通して歌うよりも、1フレーズを一流のレベルに近づけるように、何度も徹底してトレーニングすることが大切です。その1フレーズができなければ、その曲一曲のなかでどこにもプロと同じヴォリューム感など出すことはできません。

完全に体でつかみ、音声のイメージをもち、それを一瞬のうちにきちんと伝えられるように出していくことです。とことん執着してやっていきましょう。

 研究所では、キャリアやレベルに関わらず、最初は入門科からスタートします。ほとんど年中無休に近い状態でレッスンを行なっています。自分に必要だと思われる材料をもとに、吸収していってください。

 

そして、自分は何のためにトレーニングするのか、自分が求めているものは何なのかをよく煮つめてください。入れば何とかなるなどという甘い考えでいるうちは、意味はありません。


 グループレッスンの目的として、自分と同レベルくらいの人の声を聞いて判断する力をつけるということがあげられます。一人でトレーニングをしていても、声は、判断力がないとわかりにくいからです。耳を鍛え、自分自身が最高のヴォイストレーナーになるためです。


 グループレッスンにも、息を吐くだけ、1フレーズを徹底的にする、ヴォイストレーニングを歌唱に活かすと、いろいろな内容があります。自分に必要なものをピックアップして取り組んでください。

 


 

レクチャー2   351202

 

 基本的にポピュラーを歌っていこうと思っているのであれば、のどに負担がこない発声であればよいでしょう。奇妙な声を出していようがファルセットを使っていようが、作品として評価されるものとして、歌のなかに表現ができていればよいのです。


 海外の一流のヴォーカリストを聞くと、どのように思われますか。

外国人は、日常会話レベルで、すでに声に深さとひびきをもって声を使っており、その上で音楽的に声を表現できる人が、大半です。

 

日本人の場合、日本語という言語、日本の風土など、どれも声のためには恵まれていない環境にあります。そのため、日本では、声を美しく、きれいな方向に整えていく傾向にあります。

しかし、歌で人に何かを伝えたいと考えたとき、どうしてもパワー、深い声、大きな声が必要だと思う人もいるでしょう。

 

パワーという表現に不可欠なものを考えたとき、外国人と日本人との差が根本に大きくあるのです。そのベースの部分、体の部分まで戻って勉強していこうというのが、このヴォイストレーニングの当初の考え方でした。


 声一つで1フレーズ、それでどこの国へ行ってもプロのヴォーカリストとして伝わるし、感動させられるようになるということを目標に、声を身につけていくのです。


 当初、ヴォイストレーニングの考え方として、2年たったとき、声のベースができるようにする、世界のヴォーカリストのベースのところまで、体に入れていくということを目標にしていました。

 

もう一つは、自分一人でトレーニングができるように、耳を鍛え、判断力を養うことがあります。一つのフレーズ、一つの音を徹底的に一流のヴォーカリストと同じレベルでできるようにするのです。

 

声と体とを一致させてコントロールできるようにしていきます。スポーツと同じで、体はやった分だけ、器を大きくすることができます。


 そこから、声の器を大きくするとともに、グループレッスンで人の声を聞き、一流のヴォーカリストを聞いて、本物を見抜く力、耳をつくります。

耳の判断力がついてくると、自分の出している声の判断もできるようになり、やがて一人で正しくトレーニングができるようになります。ここまででも、とても大変なことなのです。

 

 


 研究所では、体をつくることや、耳を養うことを身につけるための材料をたくさん提供しています。一人でトレーニングしていたり、他のスクールで10年やっても出てこないレベルの問題も、ここでは、

、1、2年で問題として生じてきます。

 

多くの人は、行き詰まるようです。大きなギャップを実感していくからです。

しかし、それに負けずにトレーニングをしていくことで、耳もでき、トレーニングも一人でできるようになります。体を変えて、一流のヴォーカリストに近づくことができるようになります。トレーニングで、一流の人との体のギャップから埋めていくのです。


 ヴォーカルの世界は、本人がここまでよいと思えば、そこまででよい世界です。だからこそ、本当に上達したいなら、差を明確に把握していくことが、正攻法です。

 

音楽のイメージを体に入れてふくらませていないと、表現というものは外に出てきません。外に出ない限り認められないのですが、内にどんどんたまっていく時期も大切なのです。

 

とにかくたくさん一流の歌を聞き、自分の体も耳も一流のヴォーカリストに近づけていくような生活を送ることです。この意識をもち続けて長くやっていけるのかを、自分に問うてみましょう。

それだけの時間をかけることができると信じられたときにスタートするのがよいと思います。

 

誰よりもうまくなりたいという欲をもってください。それだけ挫折を繰り返せます。高い目標がないと、伸びていくことができません。


 体がこなれるまで特化していく、体の中心にまで声をもっていく、そのためにトレーニングをします。トレーニングをあたりまえのように考え、量、質ともトレーニングしていこうという気迫をもつことです。

 

一つのことをプロの世界にまで極めようとしたら、それなりの時間をさき、毎日のトレーニングが不可欠となります。自分の欲しいものは何であるのか、欲しいものがどこにあるのか、習得する期間がとれるのかをよく考えてみてください。

 

 


 グループレッスンは、毎回一回完結制です。その日の課題、1フレーズを聞いて、一人ずつフレーズをまわしていくという方法でやっています。音はやや低いところを中心に、体をきちんと使い切って言えるようにします。この1フレーズをきちんと伝えることができなければ、その先を歌っても意味がないという厳しいチェックでやっています。


 ことばでいうときよりも、音やリズムがついたときの方が体の力が必要となるのが普通です。高い音へいったときの方が声が強くなっても、のどを使っていなければよいという基準です。
 声は体を使いコントロールして、息が通っていたらよいのです。

 

体の力が強ければ、力を抜くこともできるし、ひびきにも、もっていくことができます。目標としては、5年くらいのキャリアの役者の声が出るということです。同じポジションで1オクターブできるようにし、ことばをしゃべっているように歌うことができるようにします。

 

音を高低でとらず、強弱のアクセントで処理します。音をとりにいくような発声とひびきのトレーニングだけでは表現が出てきません。なるべく大きく器をつくっておいて、その上で繊細に出していきます。ここまでできて、やっと音楽表現からフレーズのトレーニングに入ることができます。


 まず、やって欲しいことは、自分のめざすレベルの設定と、声を聞く耳の向上です。この上で、オリジナルな声をみつけ、それを展開させていくのです。


 自分に一番、必要なときにいらして欲しいと思います。仲間を求めにくるのではなく、自分がこのなかで断トツに成るべく気概をもち、ここのすべてをもとに、世界中の音や声を吸収し、それを破って世界にはばたいて欲しいと思います。

 

 

 

レクチャー3   福島特別   351202


 

今年はいろいろ感じたことが特に多い年でした。

昔と比べて、声に感情を練り込んでいくというプロセス、自分自身でこのヴォイストレーニングにある材料をつかみとって組み立てていくというポジティブな気力、声、ことばへの執着心が、やや希薄になった気がしています。


 発声や音楽の基本技術が、歌にとって10分の1くらいというのは、表現力ということを考えたときに、その程度のものだという意味です。歌に表現力をおとしていくときに、その手段として発声や音楽の理解、技術が必要であると考えてください。

 

自分が欲する表現力をもとうと思ったときに、発声、音感、リズムなどの要素がおのずと伴うのです。発声、音感、リズム感がなくても、人の心を動かせたり、感動させたり、影響力を与えることができればよいのです。

 

しかし、聞いている人の耳にしっかりと届くように伝えるために、インパクト、パワーは、必要です。耳をひらかせ、理解してもらうこと、そこからすべてが始まります。

さらに気持ちよく魅了するために、音やフレーズが必要です。

体と感性を両方兼ねそなえるために、それを結びつけるための声だと考えることです。

 


 ここのヴォイストレーニングで出しているのは「材料」です。私は、歌を教えようなどという気持ちはありません。自分が歌を愛し声にこだわっている姿勢が伝われば、充分だと思っています。そして、私も一人の人間として皆と同じ時間、同じように曲に集中しています。

 

自分で、自分に合う「材料」をくみとっていくのです。「与えてもらうもの」ではなく、「もぎとっていくもの」なのです。そういう気迫がすべての原動力と思います。

いくら与えてもらっても、自分からとりにいったものでないと、自分のものとなりません。本質を見極めないと、本物にはなれません。


 以前よりことばでの説明、やりとりが多くなりました。昔は、半年も経つと、トレーナーが何を言っても、自分ができていない、わからないから仕方がない、と、もくもくとトレーニングを積むしかないと悟り、それぞれでがんばっていました。

 

トレーナーによって教え方が違うという質問も、皆さんのなかでコミュニケーションも増えて、いろいろと話題になることもあるようですが、自分がどう考え、どうやっているのかだけが問題なのです。

 

誰が何を言おうと、自分が違うと思ったら、そういうことをなぜやるのでしょう。自分の体で感じて、実践してみないことには何もわかりません。できるようになる第一歩は、わからないことをわかる、何がわからないのか、何ができないのかをわかることです。

 

ことばでいくら納得しても、それは本質からそれていくだけです。ことばは、無力ということをわかって欲しいと思います。その上で、ことばも使いよう、なのです。だから、レッスン以外で、これだけ語り、公にしているのです。ことばを使わないために使い切っています。いわば、雑念のようなものです。☆

 


 お腹の動きなども部分的に考えても仕方ありません。できている人のもつ感覚を自分の感覚に移し変えていく、そして、待つという作業を、一人で黙ってもくもくとやっていくしかないのです。

 

講師も時折、実際の声を出しています。それを感じずに、ことばでわかろうとしても無理です。自分で気づいたもの、感覚をつかんだものでないと身につきません。その機会を得るために絶え間ないトレーニングが必要なのです。

 

1年目、2年目で起こることは、はっきりいうと、そのときの上達にあまり関係ありません。土台づくりだからです。細かいところにこだわらず、ひたすらトレーニングすることです。

 

まだ体や声が強くなっていないうちは、本当にのどを壊すということもないのです。☆

中途半端に迷ってやっているより、間違えに行き着くところまで行き着いて、わかっていく方が余程、ましと思います。最初は、間違いなど生じないし、続けていけば間違いなど消えるから気にするだけ無駄です。☆



 自分の声はわかりにくいし、どれが将来に使える声なのかという判断はつきにくいとは思います。しかし、自分で判断できないと、体も身につきません。自分がどう思うかということを、学んで欲しいと思います。その自分の判断レベルを深めるために、一流をみて学ぶのです。

 

鑑賞レポートなど、多くの材料を提供しているのは、そのためです。声の判断を人まかせにしないようにしてください。自分がどのように歌っていくかは、自分で決めるべきことです。

 

グループレッスンも、少しでも早く、判断できる耳がもてるようにするためのものです。一つのフレーズ、一つのことばに執着して何度も繰り返しトレーニングするための材料も提供しています。


 要は、頭でわかった、わからないの問題ではなく、体でできさえすればよいのです。しかし、できるためには体がわからないといけないのです。体がわかるとは、身につくことです。それは、程度の問題だから、間違いはない、足らないだけです。

 

努力しろと言われなくても、自分よりレベルが上の人がやっている以上のことをやるのは、あたりまえでしょう。そうでなければ、いつまでたっても距離は縮まらないのです。人の10倍やって、やっと人の2倍になれるということを、心得ておいてください。


 努力をたくさんしている、がんばっている、たくさん出席したといっても、効果が表われるまで続けなければ何の意味もありません。実力の世界なのです。実力とは現われた力のことです。

 

声、体のベースの部分については、やればやっただけ身につくものです。しかし、それだけではなく、音楽的センス、感覚、表現力がなければ、ヴォーカリストとしての魅力は出てこないのです。この2点を自分自身で常に探求し、つくっていくようにしてください。


 たかだか2年という期間ですら、気力、やる気がもてない人もいるようです。合宿でつかんだものを、3ヵ月もたたないのに、離してしまっている人も多いようです。

気をひきしめ、つかんだことを持続させ、学び続けてください。

 

最初、誰もがやっていたこと-アテンダンスシートの提出や会報への投稿は続けましょう。

私も続けています。1年2年と経ってきて、ようやく判断基準もついて、いろいろなことが書けるようになるのに、もう必要ないと思ってやめるから伸びないのです。

 

人に対してコメントをしようと思ったり、書こうとすると、細かい判断基準でみます。スキがなくなり、ツメができるようになります。そういう一つひとつの行動が巡り巡って、すべて自分の身につきためになるのです。書けないことはわかっていないということです。


 いろいろな刺激に対して自分は何を感じたのか、それについてどれだけ自分のことばで語れるのかも、オリジナリティとなります。実際、歌えるヴォーカリストは、話せるし、自分のことばというものをもっています。

 

自分のことを語れない人で歌えているという人は、いないと思います。自分を語れない人は、もちません。何か一つのことを成し遂げた人というのは、皆さんが思っている以上に、内面に秘めるもの、すごさを支えるバックグラウンドがあるのです。

 

歌だけで勝負するという形で、いつまでも内面が磨かれていかないと、歌を歌うということが大変、難しくなってくるでしょう。技術に人間が負けるからです。

 

魅力的な人の魅力的な声を魅力的にみせるのが歌です。その人の生きざま、精神は、声つき、体つき、顔つきにも表われてきます。そのようなことが、ヴォーカリストとして、アーティストとしての奥の深い魅力となるのです。舞台で自分の世界をもったときには、そのような魅力が出ないと続かないのです。輝いてこないのです。


 アーティストの世界、歌の世界というのは、本人にモティベートがかからないと、その時点で成長も、その人も終わってしまいます。いつも、自分のテンションを高めておくことが、最大のノウハウです。常に何かに触発されているように、自分ですばらしいものに触れる機会をつくることが大切です。

 

自分の生活で、歌や音楽、そしてトレーニングに時間を費やし、よき人生にしてください。生活、人生が歌となるよう、自分で設定してください。


 音楽の世界を築く人には、当然、日常に暮らしていくだけの世界よりも厳しいものが求められる世界です。しかし、日常に生きていくこともまた本当に大変なことでしょう。

そういう人たちに働きかけられるだけの力なくては、恥ずかしくて人前に立てないでしょう。

 

喜怒哀楽、感情表現を心身を解放しながら、厳しい舞台で、トレーニングでやらずに出せるわけがありません。ましてやステージを楽しめやしないでしょう。

たった3分のなかの1フレーズで、人が感動したり涙を流したり、人生が変わるほど凝縮された世界です。それなのに、伝えることへの徹底した粘りやこだわりがなければ、何のために歌うのかということです。

1フレーズの重さを考え、責任をもち、感覚をもっと研ぎ澄ましてください。時間は確実に過ぎていきます。もっと欲をもち、今やっていることに執着してください。

 

 

 

 

レクチャー   by トレーナー   555

 

Q&A

 

Q ファルセットとは何ですか。

A 仮声(かせい)あるいは裏声という。男声においては声区のいちばん高い音域にある。下から胸声、中声、頭声、これが普通の声であるが、その上に急に細く力の弱い声区がある。これが仮声すなわちファルセットである。女声においては、これは認められずに頭声がもっとも高い音域をなす。[英・伊=falsetto/独=Falsett, Flstel/仏=faussct]

参考…裏声とは ファルセットに相当する、高音域の声をしぜんしぜんな発声でなく技巧的な発声によって出した声。地声に対比して独特の効果をあげる。新内節清元節、小唄などによく用いれる。

 

 

Q 上降していくときに途中からのどに無理がかかり、音質も変わってしまうのですが。 

トレーナーカウンセリングの際に言われて初めて気がつきました。下降のときは大丈夫なようなのですが、上降はポジションも段々あがってくるし、途中のある音から音質、ひびきも変わります。のどがしまってくるので無意識にそうするのだと思いますが。体が段々きつく使えていっていないとか、声の当てどころが変わってきているのだろうとは思っています。でもそれほど高いところでもないので、どうしてもそろえたいです。

上のクラスの人の発声を聞いたら、私なんかよりも高いところまで(もちろん低いところも出ています)、声と出し方のフォームがそろっていました。

時間をかけてトレーニングしていくしかないのでしょうか? 

「高い」というイメージ自体を変えていかねばならないと思っています。変わってしまうところは(早めに切り捨てて)、出さない方がいいのでしょうか? それともその辺りも出してそろえていこうとするべきでしょうか。

 

A  日常会話で1オクターブ出せる人と、1~2音しかない人との差と同じです。音の高さでひびきのバランスは変わりますが、変わらないところで1オクターブ、キープできる人がと、1、2音しかキープできない人とがいます。

後者の場合、口先やひびきにすべて頼らざるをえないので(歌うときに)、その日の正解は声のあてどころで変えることになります。のどに負担をかけないということでは(のどをしめない)、この方がよい場合もありますが、長期的にみるなら、常にその時点で正しくできるところで、心身やひびきのバランス、声、息、体の鍛錬をするしかありません。

 

 

Q 「楽しい歌を楽しく歌わない 悲しい歌を悲しく歌わない」という話は、わかったようで、まだきちんと理解できていない。このところ、コーラスの時間にも何度か「もっと楽しそうに歌って」とか「ちっとも楽しく聞こえない」とか言われて、楽しく聞こえるにはどうすればよいのかを考えていた。

感情移入すること=楽しい歌は楽しく、悲しい歌は悲しく歌うことだと思っていた。声そのもので表現するということが、どういうことなのか。

 

A 私の言ったことばでないので、解釈です。感情がしぜんとこもるのはよいが、押しつけや過剰表現は、拒まれるということ。楽しそうな歌も、伝わらない。しぜんなのかどうか、それを技術が支えるのはよいが、あからさまに出ていたら、マイナス。もちろん、聞く人がそれぞれに感じることです。

多くは、演出上の笑顔や動きで凌いでいるが、そこがわからないと、そういう素人芸でも満足してしまうのです。ドラマでも詩でも、楽しいとか悲しいとか、そのまま出したら、素人です。