一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン感想   24641字   557

 

レッスン感想

 

 

 

初めて個人レッスンを受けた日に、何が何だかさっぱりわからなくなっていたことが、少しずつ見えてきた。どの声が、正しいしぜんな一本の声なのか。真実であるたった一つのポジションと息の通り道はどれなのか。そして少しずつ当たる確率が高くなってきた。そこをいつもいつも使うようにしようと思う。その声が、運良く当たってくれたときの、体(特に腰)の力の感じを覚えよう。それ以外の声をなるべく使わないようにという先生のことばを、しっかり頭に叩き込んでおこう。

 

何のためにことばを先に読むのか? よく考える音声イメージでフレーズを捉える。踏み込むところと離すところを表わす。表現する。どういうふうにフレーズを表現したら、他人が聞いていて心地よく感じるのか考えてみる。みんなに回しているなかで、ときどきできている人がいる。それを聞き分ける。

 

声を出すときの体の使い方をあれこれ考えたり、試したりしているが、「さぁ使うゾー」ってやると、ムダな力が入ってしまって、結果的にはよくなかったりする。今日も気づいたらそうなっていた。いったん全部、忘れて出して、リラックスさせ、必要なところだけ動く、力が入るようにしてやるといいようだ。体の使い方を間違えないようにしないといけない。

 

100回に1回できるような体の使い方、声の出し方を50回に1回と、徐々に確率を高くしていきたい。先生が今日おっしゃっていたようにできたとき、一番よく出るところのその出し方を他に応用していくようにしたいが、一度できても、ちょっとたてばすぐに忘れるレベルなので結構難しい。とりあえず思い切り出しても、のどにきていなければ体が使えると思うことにしている。思い切り出していると、間違うとのどにくるので、わかりやすいかもしれない。体を使うことは単に力むことではないとわかってきた。力を抜きつつ、力を入れるというようなことだと感じてきているが、本当に難しい。ちょっと見えてきたと思ったら、またわからなくなったりする。それでも以前は、今よりもっとわからなかったから、今は少し楽しくなってきたかなと思う。

 

練習はMAXの力でやり、本番は練習によって鍛えられた体と声でリラックスしながら表現する。フレーズに対してわいてくるイメージがはっきりしないことが多い。ウラを強調する感じが出にくい。

 

私は、今回3回目だったのだが、1回目の人と2回目の人、さらに3回目の人でどこが違うか考えてみた。私が思うに、回数重ねるごとに余計な飾りが少しずつとれてきているような気がする。慣れもあるのかもしれないが、自分をとりつくろってよく見せようとすることが、却って何も伝わらないことになるというのを無意識に体が覚え込んでいくのだろうか。私ごときが見ていて回数の差を感じるということは、先生から見れば、たかが3回目の私をみたところで、まだまだ余計な飾りをおもりをたくさんひっつけているように見えることだろう。一体、どれだけ先生の前でつまらない姿をさらすことになるのだろうか。2年間を長いと捉えてのんびりしていると、一生かかってもきっと今と変わらない。いつも「明日こそは!」と思いながら臨んでようやく、先生のことばのようにスタートラインに立てるかどうかの世界であることを忘れないように過ごしていこう。

 

何にも毒されていない声を、たったひとつ見つけられた。“たったひとつだけ”というところが、本来なら絶望的なのだろうけど、私自身、実は満足している。今後トレーニングしていくスタンスの取り方が、ハッキリ確認できたから。誰しもの身体(心)に眠っているピュアなもの…自分ひとりの力では、なお見つけ出しにくい。ちっぽけで、だけどその人にとって大切な魅力や才能、そういったものに自分で気づかず、他人のものがやたら大きく見えたりする。

 

今まで歌ってきた人の歌を聞き、なぜあんなふうにできるのだろうかと落ち込み、私もまた上っ面だけを自分の体に押し込もうとしたことがあった。所詮、人の真似ごとだとは思う。何の道でも、どこかに自分のモデルがあり、そこに自分の理想や個性を加味しながら、外へ打ち出していくものなのだから。だけど、核は、絶対、自分のなかからでしかない。そんなあたりまえのことを、改めて実感させられた日だった。

 

自分自身をみつめて解放してあげることの必要性。自分のことがよくわかっていないのに、他人に何かを伝えようとしても本当に伝えたいことは出てこない。何だか漠然としているが、流してはいけない。

 

今の自分がなぜここにいてどのように生きているかというのは、母親のなかに命として宿って最初に感じたことがすべての始まりで、そこから行動が生まれ、それが周りに影響し、また周りの力を受けて何かを感じて…その繰り返しが絡みがあった結果なんだと思う。自分を解放してあげるということは、それを一つずつほどいてあげることだろうか。逃げたり嘘をついたり汚い自分が確かに存在していて、そんな自分に遭遇してしまった瞬間に、どう対処すれば先に進めるのかもわからない。許してあげていいのか、めちゃくちゃにけなすべきなのか。合宿までの間にいろいろ考えてみようと思う。

 

今日は、いつもと違って不思議な神秘的な世界を体験させてもらったが、今ひとつどっぷり入りきれない自分がいたことは確かだった。周りをうかがっているのではなく、まず自分が動く勇気をもてるように努力すべきだと思う。思っているだけでなくやろう。

 

感情のなかで声を使い尽くすこと。歌うとき、肩から上だけしか動かないというきはおかしい。不協和音を正確にとる。パッと集中して短い時間のなかでも自分の世界に入り込み「悲しい」なら「悲しい」気持ちに自分が入ってしまうこと。自分の課題は自分の世界でびっくりするくらい小さく狭くおぼろげであることを克服すること。もっと豊かでおおらかで大きい広いイメージをもつ。「豊かな悲しみ」というのもあるはず。ことばでなく。

 

失われた声を取り戻すため。自分のしぜんな声をつかむために。声を出していくうちに歌になる瞬間をつかめるように。感情がないと歌にならないし、感情にひたりきっていても歌にならない。つかんで離す。離した状態で何かを伝える。あるいは伝わってしまう。これは「芸術」の領域に入ってしまうのではないかと改めて頭を抱えてしまいました。めざすものは、遥か遠く足もとは暗くというのが現状ですが、信じて続けるしかないのでしょう。

 

 

声、体を解放すること。前回の福島先生の特別授業でやったことと似ている。声の波、揺れを感じる。呼吸するように声を出す。好きなように音を変える。スッキリした状態で気持ちよく出せるのは、頭が働き出さない、ほんとにわずかな間だけだ。

 

先生がおっしゃっていることはわかる。スーザン・オズボーンや、前回聞いた、先生の声から感じられる。歌は叫びなのだ。すばらしい役者のあの感情移入、歌に必要だとなぜ思わなかったのだろう。クサイ歌やストーリーに一番心を動かされるのに。歌を歌おうと歌ってしまう。そうではないはずだ。

 

以前いた会社で最後に行ったカラオケで、その頃はもうここに入っていたので歌うのが嫌でごちゃごちゃ考えすぎてしまっていて、自分の歌を聞きたくなくて…という状況だったのだけど、いざ歌うときに真っ白になった。とても素直にしぜんに歌に入っていった。音程もリズムも気にならなかった。そのとき初めて、皆に“うまい”(あんまり信用していない)以外のことを言われた。「あなたがやりたかったのはこれだったのネ」と。「ちょっと感動しちゃった」と。キツネにつつまれた感じだった。「何が伝わったの? 何も思ってなかったのに」という感じだった。入り込んでしまえば歌はしぜんに歌ってしまう、先に流れてしまう。声はしぜんに出てくる、そのことばにメロディに、一番合った表現するための声が。

 

これまでの生き方が自分によろいを着せて、感情を抑えて、表に出さずに…というものだったから「心を解放する」のは、とても難しい。恐れすら感じる。私の人生のテーマがそのまま歌のテーマ、壁なのかもしれない。今、歌をよくしていく上で、自分のめざす歌を歌う上での大きな壁が見えてきた感じだ。

 

福島先生との距離を感じる。あまりにも遠い。「旅にでも出て人間的に成長して出直します」という感じだけれど、そんなことしないでも、24年分の想いがあるわけだから、なんとかしたい。海外のアーティストは、皆、福島先生のレベルなのだろうか?感じているところは、私も一緒だと思うのに、歌うとき、声を発するときに違う。感情を込めるということを勘違いしているようにも思う。これをつかまないと、いつまでたっても本物の歌は歌えないかもしれない。トレーニングすること以外で、「何て大変なことを始めちゃったんだろう」とすごく思わされた。

 

シンコペーション→強拍の音とすぐ次に続く同じ高さの強拍の音がつながって(スラー、タイetc.)一つの音になり、アクセントの位置が変わったもの。とりあえず声の出る域の確認。声区がしぜんにチェンジするポイントが自分でわかっていない。それをつかんでおけるように。シンコペーションのリズムは、楽譜で(頭でいろいろ考えて)覚えるより、もっと感覚でつかめた方がいいと思う。フレーズ感を感じる。

 

歌を歌う機会があると普段やっているトレーニングの大切さとかもっと努力しなければならないことに気づかされる。でもそんなとき、ふと思うのは、私は歌うとき出したいだけ声を出しても、今思っている表現をしたいだけしても、平気な(のどが)のようになればいいということだ。今までのようにのどに遠慮して、あるいは思うように働いてくれなくてできなかった歌い方ができればいいということだ。でもそうすると、表現したいその型が、ある程度決まってしまっているように思う。器が決まっているということではないか? 表現の器、感性そのものを変えていく、より大きくしていく必要があると思う。そっちの方が大変な気がする。

 

歌のときは多少のど声になっていようと、のどさえ平気で、その方が表現できるなら全然かまわないと思っているし。体はできるだけ強く柔軟に使えるようにしていきたいし、そのためにトレーニングをしているけど、それはやっぱり自分のやりたいこと、歌いたい歌のためにならないと意味ない。「こんなはずじゃなかった」なんてことには、ならないと思うけど…。どこでまとめるかは、本当に本人が決めることだと思う。歌う場所、お客にもよるし、その音楽にもよると思う。でも思うのは、まとめるのはいつでもできるということだ。

 

ひびきを深くとったまま、音程を動かすということ。体のなかに一本の線をとるということ。胸のひびきは以前よりはっきり意識できるようになったが、体のなかの一本の線の感覚がいま一つ、実感できない。ほんの少しの部分はできるような気がするので、それを開いていこうと思う。

 

子供が「おかあーさん」というのを福島先生が真似て言ったとき、本当の子供みたいだった。で、弟や妹が小さかった頃(ほんの数年前なのでよく覚えているのだが)のことを思いだしながら帰途についただが、そういうときの子供の体って、つないだ手がビリビリするほど振動してたんだよな。で、その呼びかけは、伝える力が大きくて、無視するのは大変だった。

 

ハイやアオでとれているところをまず深め、強く太く確実にして、そこからことばをそのレベルにひきこんでやっていく。上っ面で言ってもそれはたとえ大きな声でも歌に使える声ではない。「実際のことばどおりでない。ヴォリューム感」というところがまだ、自分にはできないが、すごくよくわかった。豊かで、たとえ悲しい歌でもふくよかなものを内包する声にとても魅かれる。「あ」とその声で言えるまで、あとどのくらいだろう。すべて自分次第だ。

 

 

 

課題曲レッスン感想

 

高音のところで張らずに中音のところで盛り上げるというのはとても難しかった。村上進さんのを聞いてイメージは入っていると思ったのに、実際に声を出すと勝手に高音のところ強めてしまう。結局、山をつくりきれない。フレーズとしても、どうしても切れる、分かれてしまう。それほど長くない課題だったのに難しい。村上進さんは、本当に聞きほれるいい声をしている。難しく聞こえないのにやってみたら全然できない。プロとの差だ。

 

今日は周りのみんなの声を聞いていて、皆、胸についた声、体の入った声を出していて、①のときとは違うなと思った。私も最近、体が使えるようになってきて「よしよし」と思っていたのに、自分だけではなかった。半年くらいやれば皆、変わってくると知って、ちょっとがっかりした。特に男の人たちは胸にしっかりとひびいていてうらやましかった。

 

村上進さんのよいところや、日本語のクセ。決めるところできちんと決まっていること。単調なリピートを、どんどん盛り上げていく。ことばがとても自由に動いていた。イ、ウの深さ。「愛の讃歌」は感動した。声の力だ。自分のやっていることが、どんなに小手先のことにすぎないかを感じさせられた。とても深くてシンプルだった。

 

エーデルワイスにコードをつけていくので、自分は主にセブンスのコードができなかった(セブンスをつけないコードにしてしまった)。こういうふうにみていくと、楽譜というのは本当にいろいろなことがつまっていて、おもしろいと思う。あとは何度も接して体が覚えていくしかなし。

 

 

先生の「今やっていることが半年後の正解ではない」という話は、以前はちんぷんかんぷんだったが、今は妙にうなづける。以前、相当ムリして体を使わないとできなかった、出なかった声が、今はそれほど意識しなくても出る。そこでもっときつく使って…とやってしまって、変な力を入れたりしないで認めてあげることも必要だと思う。もちろん、もっと強く、深くをめざすけれども。不必要な力が抜けたからひびくようになってきたし、余分なところがとれてよくなった部分が大きいと思う。でもよくなってきたと思うのもつかの間で、山のような課題を目の前に、また気持ちを引き締めていこうと思う。

 

今はストレートに伝えることをやる。鋭さ、ことばを伝えること、音声のイメージ。ことばのなかの強いところ、引くところを線上でやること。一人でやっているとこういうことが見えなくなってきてしまうことがあって、何かそれていってしまう。今日、先生に大事なことをたくさん言われましたが、却って整理され、はっきりした。ひびきをそろえたなかで1フレーズやっていく。それがオリジナリティになる。

 

自分は声にムラがある。ものすごく違ってしまう。こんなに力んでしまうこと自体、おかしいのではないか。肩に力が入るとわき腹は使えない。声の線、ひびきの統一が、最大の課題。こらえなければいけないこともある。体からそらさないこと。それているのは自分でわかるのだから、雑に判断しないこと。もっとまっすぐことばを伝えられるはず。1フレーズでいいから、自分のことばになった自分のフレーズが欲しい。足りないことがあるだけでない。捨てなきゃいけないことを私は山のように抱えてしまっている気がした。ちっとも自由でない!

 

口の中が狭いとひびかない(押したような声)。レガートで「アーアーアーアーアーアーアーアーアー」(ドレミファソファミレド)のトップ・ノートで押して出すと息の流れが止まってしまう。→いかに押さないで、声のラインを保つかが大事。体の支えがないと歌として声として成り立たなくなる。発声のときの第一声目が弱い(浅いところから入りやすい)。→強く入ろうとすると、のどにかかってしまうような感覚がぬぐえない。

 

すごく楽しかった。ここにいると、歌はおろか「あ」もしっかりいえないので、ついスタートだった歌の楽しさ、歌える喜びから遠ざかってしまいがちだからだ。単純に嬉しかったし、楽しかった。

 

ピアノでの指の動かし方。初心者の左手のくせ。手首でポジション移動すること。右手は案外スムーズに運べる。左手は手首がかたい。両方とも薬指がキツイ。要点を押さえてくれるので、短時間にいろいろ学べてよかった。

 

千日以上、自分の練習に対してつけた日誌があり、それが財産になっているそうだ。練習を具体的な形にして確認する。そこから具体的な答えが出てくるということだと思う。

 

ハイ、ラ、ラでレッスンするときに、ハイとラ、ラのひびきの深さが違ってきているというのが実感できました。その状態で音程が上がっていくと、ノドがしまっていくのも実感しました。

 

 

 

合宿を振り返った。合宿一日目に一人ずつ歌ったときはタイクツしたのに、最終日、一人ずつ歌ったときは、最後まで聞けた。聞く方も歌う方も一つになっていた。カラから解放されて感情が歌に入っていくかんじ。大切なものは体だけじゃない。ヴォーカリストならば精神的なものこそ解放できなくてはいけない。「感情を声に練り込む」って感覚をもっとつかみたい。

 

心-体-勢いが一つにつながった感情を声に練り込み、それを解放し、流れに乗せる。感覚として天の声を聞き、自分自身の声を越える。そこに意識の解放がある。体が集中し、解放されている場合、たった一つの音に対しても体が反応してしまう。体と心と自分を無にしたとき、はじめてベストな状態へともっていける。風になる感覚をつかんだのなら、その感覚を手放さずにやっていかなくてはいけない。その場と一体化してしまう感覚。自分自身から自分自身を解放することによって、一段上の世界へと越えていける。

 

今まで自分はどれほど嘘で塗り固めていたか痛感させられた。今まで感情だと思っていたものさえ、どこか空々しく、カラ回りしていたように思える。本物の感情とは、体が熱くなり浮いてしまったように思えたり、どこかで自分を観ている自分がいるように思えたりとさまざまだが、しぜんと体が動いてしまうものである。そして細胞の一つひとつが確実に息づいていることを感じとることができる。意識は無へと導かれ、自分としての意識は深い眠りにつき、無意識が突然、そしてしぜんに動きだす。自分自身でありながら、自分ではない自分が動き出す。声、それは心であり地であり、天であり。そのすべての扉を開けることのできるカギである。いったいどれだけのよろいに身をかためていたのだろうか? 

自分の呼吸さえ、こんなにもしぜんなものと思えたのは初めてだった。心を閉じ込めないように、心の動きに耳を傾け、解放し続けなければこの道は開けない。全く奥の深い道だが、それゆえにこの道を歩き続けたい。

 

今やっていることは、ボートに乗ってオールを水面でバシャバシャやってるだけで、深く水中に入れてない。何かわかんないんだけど「本質」がない。足りてないものがたくさんある。練習も根性もアーティストとしての意識、伝えよう表現しようとする気持ちも。

 

口の開け方が悪いとのどに落っこちてのどがざわつく(開き心地がよくない)。軟口蓋が落ちると狭くなって声が通りにくい(体ものども開いてやる)。せっかく軟口蓋を開けて吸っても、声を出すとき落としたら意味がない。

そこでしっかり吸気をキープする支えが必要になる(イメージしてやってみるとよくわかる)。低音だからといって、軟口蓋を落とさない。レガートかなんかで切るとき、フラットしやすい人は、上昇するイメージをもつ。声が揺れるとき→支えが動いてゆるんでいる可能性(一ヶ所でキープ)。高い音を出したとき、のどの奥に当たるとき、その感覚を覚えておく(その音は出る可能性がある)。第一声目から腹式でとる→上からとるとくせになる場合がある。→支えを平らに声のたびに変えない(腹をかすって出す感じ)。

 

顔の表情も声に影響してくる。ムスッとした顔をしているとノドもしまってしまう。ほほえむように頬を少し上げぎみにして口を開けると、ノドの奥も開く。いい香りをかぐように息を吸うとノドの奥も開く。

 

あと感覚で3倍、体が強くなればいいと思いました。3時間、息を吐きまくっても大丈夫になれば、一つの資格をパスすると思いました。一つの方向性が見えて、とても重要な気づきを得てよかったです。強いタフな体づくりをめざします。

 

正しく体を使えないとき、たちまち呼吸が乱れて音が変わってしまうこと。正しいところをつかんで上がったり下がったりしているときはいいけれども、何かの拍子に狂ったり疲れてくると、お腹が緊張して息を吸い込めなくなる。力が抜けて体が使えるとき、声が全身の骨にひびく感じがした。突然できなくなったり戻ったりするときの体の感じがわかってきた。

 

呼吸がつかめている状態の時間を長くしていく。体力不足。体をまっすぐに起こしたとき、低い音は楽だが、やはり体が使いづらくなる。肩のあたりに力が入る。急にことばにしたとき、力が入らなかった。ひびきが変わってしまうときは、必ず体に力が余分に入っているとき。もっともっと体が強くなったら、声が自由になるのだろうという感覚がある。体の内側を押し広げていく感じ。ベーシックなトレーニングをきっちりやる。

 

今日の授業は私にとってハードでした。20秒のガーとかギーは、もう体がついていけなくて、声が上に逃げてしまいそうだったので、あえて大きな声を出さず小さい声でやりました。やっていて、全然、納得いかなくて、却って自分に腹がたって仕方ない授業でした。なんかイライラしてしまいました。いつも思いますが、体力が全然ありません。どの授業でもまわりの人は結構、平気な顔をしてるのに、私はすぐ汗だくになってハーハー言ってます。私の今の一番の課題です。

 

体が疲れているときは、それだけ体を使うことがきつくなる。今日はもう前半で疲れ切ってしまって、体(特に腰、背中)に痛みが感じられた。ことばを言う練習でも、うまくいくのは最初だけでその後はどこかに力が入ったりでうまくいかない。息の流れも止まってしまう。入った頃から繰り返し聞いてきたカンツォーネシャンソンの声のイメージ。そこには息が流れている。そこで強弱をつけていると感じられるのにできない。へんにかまえてしまうのかもしれない。「呼吸するように歌う」ベースのない自分、そうしてこなかった自分には、何て難しいんだろう。

 

プロの歌は音の高さを感じさせない。1フレーズ聞いて「これで6度ある」とか言われると驚いてしまいます。高低でなく強弱、メリハリ、感情を表現している。声の幅はコツコツ積み重ねた努力の結果、得られるものだろう。まだまだ道ケのりは長い。体の弱さ、体から声を出そうとするとものすごく疲れる。腰にくる。先生の言っていることが、よくわからなかった。でも、本当にわかるのは、声が出るようになったときだと思うので、気にせず、“なんとなくこういうことなのかな”っていう気持ちを信じていこうと思う。頭で理解できなくても、耳と心を頼りにがんばる。

 

息の抵抗、声の抵抗を感じる。口でつくらない。顔の筋肉に力を入れない。声のしっぽをしっかり捉えておく。腰に力を入れて胸に口があるイメージ。声の道を毎日、少しずつつけていく。出た声で判断する。体を使うが、のどは痛めないよう注意する。強くということばに巻き込むようにする。ことばでいえるようにする。何度やっても同じように言えるように。発声はできなくても表現はできる。よい手本をたくさん聞くこと。感性を養う。他の人の声を聞いて自分にフィードバックしてみる。

 

下手だ。何にもわかってないナァ。ウジウジしてても仕方ないし、今できなくてもできるようになってやろうという前向きな気持ちをもたなくては。やるしかないや、毎日毎日やるしかない。“感性”私にはないだろうか。今まであると思っていたものが、結局、邪魔になっていると思う。表現することは何て難しいんだろう。何でできないんだ、どこが違うんだ。もうくやしい。落ち込んだって仕方ない。くやしがってやってみるしかない。

 

他人の声を聞くことは本当に勉強になると思う。普段は自分の順番がまわってくるまで人の声など聞かず自分の練習をしていたが、他人の声を聞いて自分と比べると、自分の欠点がよくわかる。

 

音やことばよりも感情が前に出るようにもっていく。こういうフレーズの練習をつめていけないと、先に進めなくなる。同じフレーズでも、音の高さによって違ってくる。発声より表現でとっていく。ここに入ったばかりの頃「こんな歌詞はやりにくい」と思ったことがあったが、今やっているようなことがわかっていなかったためだと思った。

 

4分の4、2分の2で音をとりながら歌った。こういったおそらく基礎の基礎、基本的なことをしっかりやることは、大切なことだと思う。自分で音程やリズムがとれているようでも、とることなど簡単に思っていても、実際やるときちゃんとできていないのがわかっていい。やはり高音でフラット気味のときがあるといわれる。楽典のことは頭になかったが、楽譜が読めるようになりたいので、とてもよい。

 

「この歌手はみんなほど『歌っていない』というのにはショックを受けました。私が「歌おう、何かを出そう!」と思ってワーってやってしまうと、それは歌いあげて(あがってはいませんが)しまって、それでもこの歌手みたいに歌えなくて、抜けば抜いたでフワフワになってしまうだけで、ア~アという感じです。しゃべってるみたいに、しかも彼女としてはおさえて歌っているところも、私が一所懸命、歌うよりもいい感じで、全くなんてことかしらという思いです。

 

コトバを重視してフレーズをつくると音の長さをコトバに合せるので、短くしたり話すように音を置いていたが、体があってフレーズさえつくれれば音を長めにとる。楽譜通りの音にコトバをのせても、コトバが伝えられるということ。←しかし、これはすごく体がいるので大変。心の解放ができていなかった。邪心が入った。自分でもっと前に前に気持ちをもっていけないとダメだ。気持ちが後ろに下がると歌に表われる。歌が止まる。

 

カンツォーネのフレーズセンスは、ヘヴィ・メタルに通じる部分がたくさんある。カンツォーネ(今日みたいな課題)をもっと自分のものにしていきたい。個人的には、今日みたいな課題をレッスンでやってもらえると大変うれしい。

 

オペラで、福島先生がこの歌が1曲あれば、満足だといった曲、最高でした。すっごくとりはだになってしまった。欲しい。とっても。

 

そろそろ[i]の音の処理を身につけないと、課題に全くついていけない。今日すごくいけないことをした。レッスンの前、人としゃべっていて準備体操と息吐きをしておくのを怠ってしまった。いきなり、声を出せるはずもなく、ポジションがとれないまま1時間が終わり、息もれした声になり、のどを痛めてしまったように思う。情けなさでいっぱいだった。

 

腹式呼吸は誰でも眠っているときに行なっていることだが、その呼吸の動きをより大きくしていく。横隔膜が下がっている状態を体で感じて、声を出すときや歌うときにその横隔膜の動きを操作できるようにトレーニングしていく。とてもリラックスしているときは、体(お腹)の深いところに息が入る感じがする。このイメージを大切に腹式呼吸の機能を高め、声を出すときにこのイメージで体が使えるようにする。

 

汗をたっぷりかいている人がいた。本当に体を使えて発声できていれば、あたりまえのことなのに、私は汗をかいていなかった。1時間のレッスンで、集中できている時間が短いのか。レッスンにただ出て参加するのではなく、集中して必死にやらなくては。やっているつもりだっただけに、考えてしまった。

 

レッスンには練習に来るのではない。ただの発声にしてはいけない。何かを表現する、作り出す。ラララでも歌になる、通じるように。“イメージ”“音色での表現”

 

首の後ろに力が入ってしまう、声がかたくてつまった感じ。

 

体をつくることと同時にプロのものを多く聞いてイメージを育てること。呼吸の聞こえやすいヴォーカルのものを聞く。プロの呼吸の使い方に近づけるように。ことばでいえるようにする。メロディに流されない(「うつろな」一つのことば)。上だけのひびきで捉えず、きちんと下で捉えておく。下でつかんだままだと歌にならないが、上だけになってもいけない。音が高くなるほど体でコントロールする。体をつくることだけに目を向けない。

 

ヴォーカルとしての音声イメージやリズムなども育てる。音が高くなっても、同じように出せるようにする(「ハイ、ララ)」。今のうちにどんどんいろいろな音楽をとりこんでおこうと思う。絶対こうしたくないと思っているものに、歌ってみるとなってしまう。自分のイメージと出るものが違いすぎる。

よい女性ヴォーカルの歌を聞くと「同じ人間で同じ女性なのに、何でこんなに違うんだ」と本当に思う。どこをどうすればああなれるんだろう。もっと、あんなふうに自由に自分の声を操りたい。自分の声なのにっっ! 早くヴォーカルとしてのスタートラインに立ちたい。

 

体を使うことだけを考えるのではなく、いかに芸術的に聞こえるようにつめることを考える。「ラ」一つにしても、表現しなければいけない。いろんな人たちの音楽を聞かなさすぎる。自分の好きなジャンルだけ聞くと、歌い方の幅が狭くなる。息がよく聞こえる人の音楽を聞き、表現したつもりではなく、自分の力を出しきるまで突き詰めていくこと。

 

体を使おう使おうと思っているときは、そちらばかり神経がいってしまい、歌を表現するこことはできないはず。自分のフレーズ、歌い方、くせなどを一度すべて壊して、それから声、体、心をつなげて表現していく。音声イメージ←イメージをもつことはとても大切(声に関して、正しい判断基準がつけられるように)。その後、自分のスタイルをつくっていけばよい。

 

プロの声(呼吸)を聞いて、自分とはどこが違うのかを突き詰めて考えていかなくてはダメ。それにはわかりやすい人の歌をたくさん聞くことが一番!! ことばを発する(歌う)とき、たとえば4度離れているとしても、同じポジションで言えなくてはいけない。「はいらー」と言い換えてみるとわかりやすい。たくさんのことが一度に自分のなかに入ってきて、今パンク状態。整理して、順序をつけていかないと、立ち止まってしまいそうになる。浅いところで理解しているような、わかったつもりになっているような。

 

 

三連のリズムをくずさずにしっかりのること。ときに一拍目でしっかりつかむところ、三連の2音目から入る音など、しっかり頭に入れて歌わなければ、ちょっとのずれで三連の流れはくずれてしまう。歌ってしまうところと、経過音的に流すフレーズなど、フレーズ分けをしっかり頭に入れる。サビの部分、盛り上げようとすると、つい大きくしすぎてことばの意味をなくしてしまうことがある。気をつけなければいけない。三連のリズム、歌いすぎないようにと考えると、すぐくずれてしまう。しかし、三連の流れがしっかりのると気持ちいい。

 

「自分の声をよくしたいと思う気持ち」を持ち続けることが大切だとおっしゃってた。どんなことも、やり続けること、思い続けること、長い期間、持続させることは、本当の意味でのパワーが必要なのかもしれない。それは瞬発力のようなパワーより、偉大なのかも。

 

個人個人で「アエイオウ」と「イエイオウ」で発声してみる。声を出すとき、お腹に抵抗感を感じるのが一番よい(ポジションの位置を考えるより、体で実際感じる方がわかりやすい)。「イ」の音→のどをしめてしまっている。横ではなく縦のイメージで(本当は発音しやすい音らしい)。高音にいくに従って、のど声になってしまう。高音のとき、特に意識してみる!

 

声、体・感性、感情をこめる。ここでのレッスンは、何かを与えてもらうのでなく、自分から材料をとりにいく姿勢でなくてはダメ。将来の声に対する判断(自分がどういう歌(世界)を歌っていきたいのか  心のなかで自分の音をみつける)。歌ったとき、どこまで伝えられたか、どこができなかったのか、どこで体が離れてしまったのか、それを考えなくてはダメ。歌うときは、体を意識してとか考えていないハズ。常に無造作には歌うな!! 誰にも負けない声が欲しければ、誰にも負けない練習量が必要(あたりまえのこと)

 

歌うことへの欲求。音楽の世界は表現の世界なのだから、日常の世界とはやはり違うはず。今まで聞いた音楽で、誰のどんなことばに感動したのか、そしてそれに対しての自分の解釈が、どう変化していくのかをみつける(その曲を聞き続けることも大事)。一流の人たちの歌を聞いて、自分とどこが違うのか、明確に判断し、自分で実践してみる。その上で、自分はどうするのかを考える。自分で解釈し、構成しなおして、表現していく(摸倣ではダメ)。

 

あらゆる点において、相当のイメージ力と一つの練習に対して深く取り組む(考える)姿勢(つまり相当意味ある経験を積んだ人の姿勢)がないと、一人で練習するのは無理だとわかった。イメージ不足。一つの練習に対してこんなにも深さがあるのかと1年経ってやっとわかった。

 

無意味な方向に突っ走る。壁にぶつかるまで気づかない。一回大きな衝突をしないと視野を広げようとしないところ。今日の授業はとてもおもしろかった。はあー、ここは奥が深いなと思った。それにしても入ってからのこの深さに気づいていた人と僕の違いって、いったい。

 

のどに負担のかからない発声の仕方=息が声へと変わる地点を深くすることは、自分で試行錯誤しながら身につけなければならないという話が役立ちました。(自分の体だから他人にはわからない(自分が一番よくわかっている  当然といえば当然ですが…)。自分の体と一番長く一緒にいるのは、もちろん自分なのだから、自分で判断を下しながら、自分の一番しぜんな声を見つけて、伸ばしていきたい。30分~1時間、声を出し続けると、自分の声の感覚が、より鮮明につかめてくるなと思いました。

 

ことばに厚みをつくる。線をだんだんと太くしていくイメージ。息を吐くと渇く感じがする←息を送りすぎると渇く。うがいもよしあし(やりすぎは)。ポジションとかことば(説明)で判断するより、実際に出ている声で判断する。その声を自分はどう思うのか、将来的に発展していく声か、次の日の状態はどうか。

 

ことば(フレーズ)のとり方を耳で覚える。サックスやトランペットはイメージがわかりやすい。またイタリア語もよし(ニニ・ロッソ、フラッツ・ドミノ)。フレーズのとり方がめちゃめちゃ。強弱、メリハリなど、歌う前にどこでつけるのかイメージを浮かべなくてはダメ。

 

自分の体が、トレーニングを積んでいない体だということがイヤというほどわかった。いや、それは元々わかっていることだけれど、あまりにひどいのでショックだった。いろいろ頭で考えているうちは、すごい声なんて出ないかもしれないと思ったが、考えて頭と体をフルに使ってやらないと、そういう過程がないと、声が出せるようになんてならない。今はいろいろやってみて、一つひとつ手探りでつかんでいくときだから、どっしりかまえて、あせらず、でも確実に進んでいきたい。

 

ここに来るようになって、音楽に対する自分の向かい方が変わっている。一生歌っていきたいし、本物になりたい。自分の考えるホンモノになりたい。“誰かのように”ではなく、より自分らしくなりたい。ものの見方も考え方も変わってきている。1日のうちでムダに過ぎてしまう時間がなくなったように思う。とにかく前向きに。

 

ポジショニングを変えない。2オクターブ半の練習。ためておく(保持する)こと。「ハ」の発声がポイント。日本語と言語の入れるところの違い。流さないこと。エンディングの組み立て。「い」の発声→「ハイ」を深める。曲全体を構成する力。そのフレーズが曲のどのあたりなのかを考え、たとえ取り出して練習するにしても、自分のなかに、そのフレーズの曲のなかのポジションを理解させる。母音をただ強調すればよいのでなく、それが悪影響を及ぼすこともある。母音の練習の強化。

 

あえいおうの母音の発音をはっきりとする。「あえお」のことばは開きやすいが、「いう」は、しまりやすいので気をつける。あと、等間隔で吸って吐くこと(10秒吸って10秒吐くなど)。「あえお」は出しやすいけど「いう」は普段のどをしめた発音のままで会話してるので、すごく変な感じがする。日常から、ことばをはっきりしゃべるようにしたい。発音が悪いことばは、相手に伝わりにくいときがある。個人的な意見ですが、前よりもとてもわかりやすくなった気がします。演習の前に、一つひとつ手本をみせてくれるので、感覚をつかみやすいです。

 

シャウトしてもシャウトしても、へこたれない体。ムリなくいつ叫んでも叫び続けても伝えたい人に思いが伝わるかどうか。スタミナ、体のスタミナ、心のスタミナ。2音が限界だ。1音の深みも足りない。新年にかけて2音を強化することで、1音を深める方向で取り組みたい。何でも一流のもの、プロのもの、本物のもの、美しく輝いているものにはムダがない。ムダな嘘は単なるまやかし、ムダな真実はうざったい。シンプルな嘘は華、シンプルな真実は鋭いナイフ。

 

曲の拍子を当てる時間は半分以上、間違えた。2拍子と書いたものが4拍子であったり、3拍子と書いたものが8分の6拍子であった。先生に2拍子について尋ねたところ、マーチなどがそれに当てはまるとのこと。

 

④の人はすぐ歌になっているような感じ。私はといえば、声がこもってしまう。フレージング以前に、声が出ねば…と思う。吐くようなイメージというのは、とても参考になった。なぜ、もっと深い声にならないのか…と思ったとき、使ってやると少し深くなる。

 

発声のとき、ノドをはずすという感覚がハッキリわかった瞬間があった。お腹の底の反応、お腹の動きと発声の関係の明確さ。それはノドのところにあった弁が一つはずれた感じ。すべて体だけで声を扱わなくてはいけないこと。その後、「ゲーッ」というのからノドを外すのをやったが、これも大変わかりやすかった。そういえば、お腹の底から「牛の鳴きマネ」をやるというのも体で声を出す感じを実感するにはよいってことを思い出した。

 

一番基本的なことを学んだ。先生はベースのベースとおっしゃっていた。自分は一つの課題に対して、こんなに深いところでやってないことに気づいた。基本中の基本のことなのに、しっかりできなかった。福島先生がすんなりとやっているのを見て、とても参考になった。

 

体が使えていない。そして力が深さが足りていないことを痛感した。今の自分にとってのもっとも大切な課題が見えたような気がした。そしてもう一つ、声が安定していないこと。一つのレッスン中でも、すぐに支えがとれなくなったり、声にならなかったりと、ひっちゃかめっちゃかになってしまう。基本的なことをやる(ベースのベース)練習と説明は、とても参考になりました。

 

6度音程、アウフタクト。CH…パートナーの声を聞いてみよう「遠き山に日は落ちて」コーラス。一つの音を聞かないとドレミがどこからかわからないので、6度音程の前に音感をしっかりしたい。コーラスは少数だと、かえってやりやすくきれいにハモった。でも後で聞いてみると、まわりを忘れると音程が合ってても、なんとなくとけ合ってない感じがした。コーラスを今までやってて、振り返ってみると、声を出す以前にお互い意識して“心”を合せるような姿勢でなければ、きれいなハーモニーは生まれないと思った。

 

自分の出した音に自分の感情をのせ、出した音がはねかえって自分に入る。ハッキリとしたことばや形がなくとも、音に自分の気持ちや感情を表わすことができる。体と心を解放して声を出す、もっと自由に。そうすればしぜんと体も動くはず。不思議な空間だった。暗かったこともあるかもしれないが、一瞬ゴスペルのようだと思った。

 

感情は解放しようと力めば力むほどできなくなる。ずっと集中してやっているうちに、無心になればできるかもしれないが、それを感じようとすればもう、自分につかまってしまう。“かなしい”という気持ちらしきものをつくることはできると思う。“かなしそう”なら。でも“かなしい気持ち”を探そうとすると、どんな気持ちもなくなってしまう。それほど痛切に“かなしい”と思ったことがないのか? そんなバカな…。もっと時間が欲しかった。もう少しやっていたかった。声を出していて息つぎをするときに、何か途切れてしまった気がする。

 

先週のレッスンに出た次の日から、「呼吸」が全くできないのに気がついて「実践」の腹式呼吸のトレーニングを毎日しました。ほんの5日で胸が動かなくなり、のどから力が抜けました。嬉しいです。ただ、このレッスンで、小さな動きにも細心の注意をしていたので、思い切り「ハッ」と吐くトレーニングで、どうしてもおそるおそるお腹を気にしながらになってしまいます。次はランニングしながら声を出したり、そのようなトレーニングをやります。

 

精神面を強化したい。たとえば弱いままでもいざというとき、奮い立たせられるところをつくりたい。

 

 

 

課題曲レッスン感想

 

 

ミルバの日本語の歌を聞いて「声で表現」ってこんなのなんだ、「声で伝える」ってこうなんだと思った。たとえば、核となる声の色が白だとすると、歌によって染色が変わる、けども基本の白はそのまま、ことばにすると言いたいことと離れていくので嫌なんだけど、そんな感じがする。

決して役者がセリフを言うように歌わないんだけども、伝わるんだよね、何かが。「音」で伝わる、感じる、声を出して、それが空気中の分子にのっかって余韻のようなひびきのなかに表現があるように聞こえた。もしも、プロと呼ばれる人がこんなふうに歌ってるなら、その人たちは何も練習しないで先天的な能力でやってるのか、それとも鍛錬の末に身につけたのか、どっちだろう、何か先天的な気がする。

私が感覚として思ってて、ことばにできないことを先生は言ったりするので、気持ちいい、すっきりする。

 

今日やったフレーズを本当に自分で表現できたらと思うと、練習せずにはいられない。考えただけでドキドキする。CDで聞くと、入り方、ひっかかり、ズレに気持ちが入っているのを感じるが、自分でやってみると、大変さというかプロとの差の大きさがわかる。今日、同じ課題の3回目で、1回目のときから家でも「アモレアモレアモレ」とやっているが、難しい。本当にズレてしまうとか、体がもたずに流れてしまいやすく、張れる方がまだ楽な気がするが、音が上がると声が離れていってしまう。今さらのように読み込みの大切さを感じる。1フレーズ歌って、そこに表現できることは本当にすごいことなんだと思った。いくらでも、私は粘ってみせる。

 

「ミルバ」「ピアフ」のような一流のヴォーカリストを聞き、体に入れて呼吸や間や声の深さ豊かさを感じとる。できるだけたくさんの一流ヴォーカリストを聞くこと。歌の本当にうまい人は、3次元で歌えていることだと思う。音程、リズムが2次元(平面)とすると、呼吸や声のつや、表現力、体と声が一つになって歌われる音声が3次元、つまり歌の立体感を表わすものであり、聞かせどころだと思う。

 

ミルバの日本語がすごかった。深い。俺は1フレーズさえ満足に歌えないのに、1曲歌えるわけがねーぜ。お笑いよ。でも、自分が間違ったトレーニングをしてるのでは…という不安は少しずつ消えてきた。まれにいい声もある。それから歌とトレーニングをわけて考えるようになり、楽になった。

 

「タクシ-」の「タ」で大きくフレーズをとる。そのとき声の芯もはなさない。「タ」の中に「ク」や「シ」を入れていくように。「タ」で広げた音ケ声のなかに次のことばをきれいに入れていく。線の中に入れていく。フレーズというのは一つの統一された線のなかに逃がさずことばを入れていくことである。理屈ではわかっていても、いざ声を出すとうまくいかない。個人の練習のときに10回、100回やってみて、できるだけ確実にヒットするようにする。

 

音楽は耳や頭だけで聞くのではなく、体全部、自分の細胞にしみこませるということ。体で聞くということは、しぜんと体が動いてくる。心が動く。息使い、リズム、その人のパワーを受け取る素直な心で、いろいろなものを聞きたい。

 

「ターテーアー」と言ったときにそれが音楽に聞こえてこなければならないということ。そのことがすごく大切である。気合いがまだ入っていない。周りの人に合せている自分がいる。もっと大声を張り上げたいのに、感情を抑えている。また、自分の声に迷いがある。不安がある。それでも、一つひとつのレッスンを大切にしたい。今もっているすべてをぶつけて表現をしていきたい。

 

線をそろえる。強く出したいところで、そのまま強く踏み込む。今まで気にしてなかったのだが、確かに、線をそろえて強く出す方が力がいる。細かいところにも注意がいってなかったことに反省。こーゆうことは、先生に言われる前に、自分で気づかなきゃいけないのに…。取り組みの甘さを反省。流れを大事にする。ことばを言い切ったら、休みにしてしまうと流れがぶつ切れになる。次のフレーズまでは“休み”ではなく、“間”なんだから、その“間”でも流れを切らない。

 

皆の抱負を聞けたことは大変、参考になった。自分を含め、どんな進歩があるか楽しみに思えた。

 

課題曲が私にとってはイメージをつかみやすい曲だったため、いつものように緊張でガチガチになれずに歌えた。同じように歌っても3連のリズムを感じながら歌うのと、そうでないのとでは、全然印象が違うと思った。ただ流して歌うだけでなく、曲の流れを考えながら、盛り上がるところ、力を抜いて歌うところのメリハリをつけないと、一本調子になって、ただ声を出しているだけになってしまうと思った。

 

“all is calm”で3つの単語をなるべくそろえようとすると、all と is が直線的になってしまう。まるみを出したいのに、ただ伸ばしてるだけ。コントロールする力がもっとあればもっとまるみが出るんだろう。力強く声を出すことよりも、まるみを出すためにコントロールする方がぐっと力がいる(というか、力の使い方が少し違う)。

 

音声イメージを大きくもつ。イ行のことばは体に入りにくいので、その前のことば(母音)で大きくとる。発音だけにとらわれない。原曲のものをよく聞いて研究する。原曲のマヘリアジャクソンのものを聞いて、イメージ的にはものすごくスケールの大きなものが頭のなかには広がっているのに、いざ自分で歌ってみると、途切れ途切れの小さなものになってしまって、特に“All is calm”の“is”の“イ”、“Sleep is hevenly peace”の“Sleep・peace”の“イ”がぽんと浅くなってしまいます。

 

最近よく感じることなのですが、盛り上げる部分、ここだというときのふんばる力がたりなくて、へろへろなものになってしまい、声を胸の深い位置でとるということと、それ以上に体を鍛え、ふんばる力、声量を広げていかなければと、とても感じています。

 

美空ひばりの歌うジャズを、以前TVでみて、とてもうまいのに驚いた記憶がよみがえってきた。演歌の人だと思っていたが、とてもカッコよかったからだ。今日、改めて聞かせてもらい、声の深さとノリのよさに感心した。注意して聞くと、ひばり節が入っているが、言われなければ美空ひばりだとは、わからないかも…と思う。

 

Annaの「アン」の部でしっかり体に入れる。その呼吸に「ナ」を練り込む。Heroの「ヒー」と「ロー」が決して別々のことばにならないように気をつける。いかにフレーズに呼吸を入れるか? そして見せるか? 歌い出しの頭のことばで、受け上がらずに体に入れることができるかが、一つのかぎとなる(曲によるが…)。そして歌い出しが体に入ったらそれを離さずに語尾の音までヴォリュームを保つ。

 

キィの設定を少し高くとると、もう体から離れてしまう。そして、下から押し上げる感じで高音にもっていくために、のどがつまってしまう。ひびきの独立も少し考えなければいけない。息の流れが途切れた感じがあり、体だけでもっていこうとすると、バラバラに切れたことばのようになってしまった。やはりプロとの差を実感。やはり彼らはギリギリで勝負しても、体をもっているということを感じずにはいられない。この差をどんどん埋めていかないと、ここで立ち止まってしまう。日本のあの頃のアーティストも、決して、あなどれない。

 

レーニングの段階で、感情ののった声を出すことの大切さ。息の深さや体に縦の線が通ってるかということに関わりなく、想いののった声にはハッとさせられる。今の私の声は、まだこの世に二つとない声になっていない。

 

グループレッスンでは、耳をつくっていくこと→改めて意識を痛感した。体に入ったことのないものを発することができない。たくさんの色を感じて少しでも多くの色を発していく。「ヴォリュームはマイクで調節できるから、歌い手は完全に歌をコントロールできればよい。その声の方が人々を説得できる」というお話には、目が覚める気持ちだった。

 

「迫力」の意味を勘違いしていたと思う。もっと研ぎ澄ませて、体にあるエネルギーを集約させないと、もっともっと。「つづかないと」の「と」から「でもなぜか」の「で」にいくとき、「と」から「で」の間で息や想いやポジションを離してはいけない。自分の歌がぶつ切れで、投げやりになっていたのは、こちらに理由があるのではないか。

 

 

サロンコテのテは、ことばとしてはっきり出す。息をきっちり流すだけでなく、語尾なので発散させない。中にあることばは、流れにのせればいいけど、語尾はそこで終わりなわけだから、流れにのせつつしめくくる。語尾で気を抜くことがよくある。息は最後まで流さないと、そこで流れが壊れてしまう。流れを保つようにできたら、ふくらましたりも自由にできる。1文字たりともムダにしないこと。

 

弱い声で20秒出していたときに気づいたのだが、しぜんな呼吸で息を出しているときに声を出し、それが終わったら息が体に入ってくる。このとき出す声が、とてもしぜんな気がした。体のすべての力みをはずし、深い息を探る練習を、授業で取り上げてください。

 

 

福島先生から、これからの構想など聞かせていただいた。頭ではわかるのだが、そのなかで私自身が魅力あるソフトとして活動している姿をイメージすることができない。自分の行きたいところは何となくわかっている(何となくではいけないのだが)。でも、最初の一歩をどの方向に踏み出せばよいのか、まだつかめない。今年の7月に2年になる。そのときには、その一歩がきっちりと見えているように突き詰めていこうと想う。その先で、福島先生の描いているものと、少しは接点のもてるソフトであれればナーと思う。

 

今日のレッスンで取り上げられた「美空ひばり」「サラヴォーン」を聞いて何かをつかもうと思う。

 

沈黙。いつも先生の授業の後は「あししよう、こうしよう」という無責任な思惑よりも、今までやってきたことが何であったのか、今まで何をしようと思ってきたのか、という自問と沈黙だけが心に残る。

 

 

ステージ実習感想

 

また抜けてしまった。頭で考えた。表面だけでこなしたという感じ。考えて歌って、結局、曲のなかに身をゆだねることができずに、1曲歌う間中、ここはああしてこうしてと考えた。今日のはもう歌ではない。感情を計算が上回ってしまった。気持ちよくない。気持ちが入ってないから気持ちよくなりようがない。また一からやり直しだ!! もっと緊張感もなきゃいけない。考えてつくるとたいていこんな結果になる。一人の練習では気持ちよくなれたのに…。くやしすぎる内容でした。

 

低音がやはり途中でなくなる。間のとりすぎ。歌のポイント(聞かせどころ)をしっかり絞る。語尾をしっかりしめる。声をふるわせないetc.…。アゴをあげない。思ったほど、息が入ってない。やっぱり声に重量感がない。

 

今日はとても大事なことを忘れていた。曲の構成に頭がいっぱいで、歌いはじめる前にまわりの空気や場の雰囲気を充分感じることをしていなかった。勝手に自分の壁をはりめぐらしてしまったかんじだ。体中に力が入って、外に出たい出たいという力(感情・ひびき)がミュートされるばかりで、カタルシスが得られなかった。客席や、場と共振する感じも得られなかった。何度、同じ間違いをするのかと、自分でもくやしい。

 

「うまく歌えているかどうか、その人の気持ちが表情に出てくる。自信をもって歌えていないなら、聞き手の心をつかむことなどできない」福島先生のこのことばが身にしみた。

 

 

他の人たちを見ていて、やっぱり声量などの問題じゃなく、ホントにホントに表現し、心なんだと。ホントにそれしかないのだ。

ビデオ上映も含めて、歌にはその人のすべてがホントに表われるなと。何だか自分の性格そのまんまに歌ってるなと思った。表現とは自分を出すことだとも。いい意味で自分が伝わるようになりたいと思った。