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12月のある一日に「とんでもなくこれは完璧だ」と思える声を出せた日があって、安心しかかったら結局、わからなくなってしまった。胸に点がコツンとあたって息の力次第で音量が出せる感じだった。あれは何だったんだろう? と悩んだあげく、結局「完璧」っていうのは「点」だということに気づいた。要するに瞬間(点)が完璧なわけで、それを維持することは「無数の点という永遠」だということ。完成したガラス細工を壊さないことが永遠ではなく、壊れても炉に入れて何度でも完成品をつくることができるのが、永遠ということ。それが声であり、時の流れであり生命であって、すべてはエネルギーだということ。胸のポジションを見つけてなくしたことで、こんなことに気づくことができて(ちょうど、いろんなことに気づいていた時期でしたが)、感動的だった。ちなみにその直後に教育テレビでピカソのことをやっていて「完成したらおしまいだ。だから破壊し続けなければいけない。」と言っていて、それの代表がゲルニカらしいのですが、「おー、この前私が思ったことと同じだー!」とまた感動した。結局は創造と破壊のド真ん中にある瞬間という点が永遠に続いていく…ということが生命のすべてだと思った。
授業中に福島先生が「あなたが思っているほどまわりはあなたのことを気にもしていないし期待もしていない。」といっていた。ショックだけど、やっぱりそうなのかなぁと思ってしまう。しかし、いつか誰か一人でも、自分の声と歌にひきずりこみたい。そのためには声をはじめ、心など、いろいろなものを磨いていかないといけない。
走る前にこのワクワクがなくて練習するのと、ワクワクがあって練習したときとでは、同じ内容のことをやってもワクワクしているときの方が吸収できることが多かった。私はいつのまにか声が出るのがあたりまえだと思っていたけど、世の中には、声を一生、出せない人々もいるわけだから(ましてや私は歌も歌えるわけだし)、もっと喜びをかみしめて声を出すべきだと思った。声を出せると考えただけでも、ニヤけてしまう現在の自分のこのワクワクを忘れずに、声という素晴らしい楽器を磨いていきたい。
本当にやるせない思い。どこにぶつけたらいいのかわからない怒りというものを感じることがある。
先日、大学の講義で、あるビデオを見せられた。タイトルは「人権小国ニッポン」。さまざまな事実を淡々とつづったビデオなのだけれど、私にとってはすごい衝撃だった。たとえばAさんは無実なのに警察の取り調べをうけることになってしまう。普通、警察署で調査できるのは3日間だけで、それ以上は拘置所におくらなければならないという規定がある。ところが、昔は拘置所が一杯で使えなかったときのために、警察署内に「代用監獄」なるものを設け、警察官はそこで思う存分、取り調べをしていたのである。現在、この「代用監獄」は大変、悪用されており、多数の拷問や冤罪事件が発生している。無実の罪をきせられて20年後にやっと、罪の疑いが晴れた女性がいった。「警察は犯人か否かを調べるところではなく、犯人であることを立証するところだ」と。警察は事件を解決したいあまりに、勝手に調書をつくりあげ、拷問によって“犯人である”と自供させ、サインさせてしまう。真犯人などどうでもいいのだ、犯人さえみつかれば。警察は素晴らしくよくできた小説をつくりあげ、そこに誰かふさわしい人を悪い人としてあてはめる。初めからすべては決まっているのだ。こんなへたくそなつたない説明ではきっと、何のことやらわかってもらえないかもしれない。ただ私が言いたいのは、自分たちの知らないところで苦しんでいる人が数多くいる事実があり、私たちはそのことを少しも知らない。「知らない、気づかない」は罪なのだ。一人で社会のしくみを変えることはできない。だけど、私たちがいろいろなことを知ろうとすることで、少しは状況がよくなるように思う。情報に流されることなく、自分なりの判断をもてるようになりたいと思った。
ここのところ、胸が苦しい日々が続いている。ものごとに対して貪欲でなくてはいけないと思うし、事実、いつも「もっともっと」と思っている。けれど世の中には、どう努力してもどう考えてみても答えが出せないことがある。どんなに思い悩んでも、光が見えてくることのないことがある。でも、それを欲してしまう自分が悲しい。いつもは、大好きなはずの前向きな自分なのに。苦しさのあまり消えてしまいたくなるときすらある。でも、そんなときの自分が歌う歌のなかには、いつもより真実があるように思える。苦しみから逃げちゃいけない。
今日、働いている店でお客さんが血を吐いて倒れ救急車をよんだ。ふだん死や病気など考えてはいるが、現実はリアルでもうその瞬間がすべてという気がした。その人はその日のうちにあいさつに来たので大丈夫だったようだが、すごく負のエネルギーを感じた。久しぶりに動揺した。倒れたその人の顔、形相が目に焼きついてしまっている。
この間、僕の友だちが行っているデザイン学校のパフォーマンスパーティが下北沢であった。みんなアーティストで枠に入っていなくて、ときには何がいいたいのかわからないものもあったが、生きてるってことをアピールしているように見えた。
毎日毎日いろいろなことを考える。レッスンの帰り道、オリオン座のペテルギウスを探す。数え切れない人々とすれ違う。こたつの端で猫背をかかえ、眠りこける。つくり笑顔でその場をしのぐ。父や母や祖父のことを想う。訪れたい島の本を読む。今はそんなふうに生きています。
塾のおばちゃんの反感を買い、トラブった。もう塾講師の仕事もできない。私にはもう舞台しか行くところがない。歌や芝居でものにならなかったらやっていけないかもね。もうほかの仕事はできない。ダンサー(モダン)になるなら男の振付を踊ってみたい。いつか洗礼ヨハネの首をはねたその後の「サロメ」(デュポンの演目)を踊りたい。いつかね。
運動する時間がないので、職場から代々木まで歩くことにしました。近いと思っていたが、一時間かかってしまった。でも、これでも運動になるのだろうか? ちょっとわからないけどしばらく続けてみようと思う。すでに足が痛い。
猫が車にひかれて死んでしまった。私にとって「レオ」は心の友だった。家族だった。私の歌をうるさそうに聞いていた…。帰ってくるといつも「レオ」が待っていた。トイレについて来てお風呂について来て、そして一緒に寝た。「レオ」今まで本当にありがとう。
「Lady day」の演出を手がけた和田憲明さんの書いた文章
そのなかに、こんなのがあった。「役者さんたちは、いつも僕を裏切り続け、自分を裏切り続ける。そしてそこに、生々しい生きた時間が生まれる。そのために必要なのは、ほんの少しの勇気だけなんだ。」これは、歌にもいえること。私も自分自身をいい意味で裏切っていきたいと思う。それが、自分を壊し続けていくことなのだと思うから。
代々木にあるGALLERY とうとう入った。いつも気になっていたけど一人では入りづらかった。でも、今日はとても気になる絵があったので外からジーッとみていたら、中にいた作家の人が声をかけてくれたのだ。すごく雰囲気のある絵だと思った。石版画なのだそうだ。石版画は他の版画と違って、彫ったりせず平面の石(大理石とか)に色をのせて描くらしい(説明してもらったけど、よくわからなかった)。「あなたは絵で何を表現したいのですか。」という質問に、彼は「空気」だと答えた。「自分の絵が今までなかったところに存在することで、見ている人にその絵の空気を感じて欲しい-。」たとえば私に絵が描けて、全く知らない人の部屋の隅にその絵がひっそりと掛けてったとして、少しでもその人の生活の一部になったらおもしろいだろうナと思う。それが歌だったとしたら、全く平面だった人の心にちょっとでも波が立ったら、それが「感動」という波だったらすごくうれしいだろうな。作家の人と話していて、いろいろ思わされるところもあって、ちょっとしたいい時間が過ごせてよかった。
「最奥の声を出す時 あなたは死ぬ」
「死ぬのはいやだ だが最奥の声は出したい 出さないでは我慢ができない」
(『最奥の声』武者小路実篤)
「夢を見るのはいいけれど、夢を達成するための土台を築かなくてはいけない それは日々の生活を目的意識をもって送ることを意味している。」
(マイケルジョーダンのことば)
ゴールデンウィーク集中特別講座を受け終えて 今回、私にとって大きな収穫だったのは、ブルースとの出会いだった。この世の中にあんなにも自由気ままな音楽があるなんて知らなかった。私は思うほど、自由には歌えなかったけれど、自分を壊す、自分を開放していくきっかけを何か見つけられそうな気がしている。今は、あんなにも手のつけられなかった欲求が、少しだけ穏やかにもなった。最後の集中講座を受け終えた頃、祖母が亡くなった。息をひきとるときにそばにはいられなかったけれど、この何日間か毎日会って、手を握りながら歌を歌ってあげていた。ほとんど意識がなかった祖母に聞こえていたのかいないのかはわからないけれど、ときどき手を軽く握り返してきたあの感触は、今でも残っている。お茶(江戸千家)の先生をしていた祖母は「いくつになっても勉強することは山ほどあるんだよ。私はこの歳になっても努力しているんだよ」と私によく言っていた。祖母から教え伝えられたたくさんのことは、同じように芸事を始めた今の私には、とても貴重なことだ。
しぜん、自然、なんと難しいことばだろう。「しぜん」読むだけならば簡単なこの3文字が、私の肩にオモクのしかかる。このことばが、私の頭を混乱へ導く。はたして私が生きてきた24歳と数カ月、いっときでもしぜんでいれた自分があっただろうか。
「自然」これは私の勝手な解釈だが、本当の意味で心が「平安」に満ち、ありのままの自分でいれること。心のどこかにいつも不安があり、この不安が緊張を生み、体をガチガチにする。しぜんに歌えているつもりでも、何かが足らないと気づいた瞬間、体に緊張が走る。最も単純なはずなんだが、この世で生き続けているうちに難しくしてしまった。この私自身がある。私が歌うとき、このことがありありと反映される。何百、いや何千回といろいろな曲を歌ってきただろう(これは大ゲサだ…)。そのなかで私がこの「自然」という最高の状態で歌えたことが果たしてあっただろうか。もし万一、あったとしてもほんの1フレーズ、いや一言、二言程度のものであろう。みなはきっと、そんなこと考えること自体、ばかげていると思うかもしれない。しかし、私にとってもこのことをクリアしなければどうしようもないように思えてならない。いや、こんなことを考えていること自体が、もうすでにふしぜんなのだ。ふしぜんにふしぜんを重ね、極めたときにこそ、逆にしぜんな自分というのがやってくるのかもしれない。何をするにも頑張ってやってきた。いつもどこかリキんでいた。自分の信じる道をみつけたときでさえ、どこかつっぱっていた。頭に混乱がやってくる。自分はどこへ向かっているのだろうか? なぜいつもリキんでしまうのだろうか? 人と接するときでさえ、ただの会話にすぎないときでさえ、どこかリキんでいる。本当の意味で「自然なる自己」が訪れたとき、そしてその最高な状態で歌えたときこそ、私の歌い手としての第一歩ははじまるだろう。それまでの私はいつまでたっても歌い手志望。この「志望」の文字を消すためにも、「自然」という消しゴムが必要である。そして今、最も重要なポイントにさしかかっている。一流はみな「無理」がない。そして「無駄」がない。私はまだまだ、この「無駄」と「無理」という鎖につながれている(ここでの無駄はリキみのこと)。たとえ無理しているとしても、一流はみなそれを決して見せない。「演じている」のかもしれないが、それをやり通すことで超越し、「自然」なアートを表現してくる。泥沼をはう小さな虫が空に向かって戦いを挑むようなものかもしれない。「越えてやる」必ず…。誰もが皆、きっと真実と向き合うときがくるだろう。その真実を受け入れるとき、あなたは無理してないだろうか? それはあなたのなかの「自然」だろうか…。
いつも心に穴があり、もやもやしていて爆発しそうな感じだった。たぶん、頭で思い描いている自分の理想と現実とのギャップがあまりにも違いすぎて、それが「不安」という波に変わり、やるせなさを抱きかかえることになったんだろう。自分の悪いくせは、時が経つにつれ欲望がふくらみすぎ、小さな努力を手に入れる喜びを忘れて大きな希望にあせりを感じてしまうこと。けれど自分でもわかっている-小さなつみ重ねの大切さを理解しなければ何も始まらないということ。私は動きたいし始めたい。小さな努力の喜びをいつも責め続けてきたかわいそうな心にゆとりをあげたい。目の前にあることから一歩一歩、失敗してもいいから素直に拾い集める。くだらないプライドは捨てて、近道ばかり探さず、たまには休憩して自分自身をつかみたい。あせらず、ゆっくりと…。
モノトーク 6年前まで私は、音楽鑑賞の好きな普通の主婦だった。ところがある日、一人の女性歌手のコンサートに足を運んだことで、私の生活は変わってしまった。翌朝、目覚めた私は彼女の歌にとりつかれていることに気づいた。彼女の歌を聞かずにはいられなかった。一日平均10時間くらい。半年間、聴き続けた。私のなかに歌があふれ、ほとばしった。歌いたかったけれど歌えなかった。それでヴォイストレーニングをしてくれる学校に行った。そこはすばらしい環境だった。最高の先生、最高の仲間、最高の音楽に出会えた。1年半で個人レッスンに切り替えたが、そこでも充実した学びが得られた。何よりも一生の師というべく人にめぐり会えたことが大きい。しかし、あまりの心地よさに甘えが生じてしまった。自分に対する甘えはアーティストを志す者にとっては禁物である。意識をニュートラルな状態に戻す必要も感じた。「彼女の歌」との出会い、「師」との出会い、そして何よりも私にとって歌うことは何を意味するのか、私は本当にヴォーカリストとして召し出されているのかどうか知りたいと思った。
そのためには自分をある種の極限状態に置かなければならなかった。甘えの通用しない場で自分を試したいと思ったのだ。「師」とも相談して「この場」を選んだ。
もちろん「この場」がそれ以上の意味を持ち得るものであること、そして新しい貴重な「出会い」をもたらす場でもあるということを知っている。
俺は本を読むのが好きだ。頭のなかならどんな勝手な想像をしても人に説教されることはない。だいぶ以前に作家の松本侑子さん(赤毛のアンを翻訳した人)のエッセイを読んだことがあった。そのなかに「恋愛は精神のバトルだ」ということばがあった。
本を読むのが好きだ。頭のなかならどんな勝手な想像をしても人に説教されることはない。
だいぶ以前に作家の松本侑子さん(赤毛のアンを翻訳した人)のエッセイを読んだことがあった。そのなかに「恋愛は精神のバトルだ」ということばがあった。
アーティストは孤独であれ。それ故にアーティストなのだと思う。そんな考えにとりつかれて何年もの間、自由に感じたい自分と孤独であり続けなければという自分を毎日毎日、右往左往していた。さまざまなことに傷つき果て、人間の持つ感情をすべて知り尽くしたような顔で。けれど、自分のなかでわかったつもりのことでも、他人に言われてハッとすることというのがある。ああ、もうそんなことわかり切っていたはずなのにと愕然としてしまう。たしかに人間は生まれ、死ぬときそしてその人生のなかでさえも本当の意味では孤独からは抜け出せない。けれども、それならなおさら、命ある限り感じ続けなければ。孤独でいることと、心を閉ざすこととは意味が違う。
「恋愛は精神のバトルだ」そのことばを思い出して日曜の朝からいそいそとデートの道程を考えよう。くだらないロードショーを見てからくだらない話をして馬鹿だなと心の底から笑ってみよう。そして本気で相手をなじり、憎しみの涙を流してみよう。傷つけられてぼろぼろになってみよう。横目で流し見ながら馬鹿にしていた恋人たちのような、弛みきった表情をしてみよう。毎朝ニュースを見て世界のどこかで日本のなかで果てていく命を、同情という役立たずの感情を旗にして許せないと叫びながら歩こう。心のなかで自分じゃなくてよかったと胸をなで下ろして。ああ、日本でよかったと自分の行動範囲内の平和に満足し、その愚かさに抱かれて眠ろう。そして疑い続けろ、君の心と自分に歌おう。もう一度、何度でも。歌が人に何かを伝えようとするならば、その「人」と関わらずにいったい何が見つかるというのだろうか。一番つらいことは、一番必要なこと。誰かを強く想い続けることは、独りを見つめ続けること。この世の中の総てのものが「対」のかたちをなしているとしたら、俺は一生、迷い続けるのだろう。愛すまいが生きまいが、ただ黙々と時を刻んでいるこの世の中で、感じたくて輝きたくて、望んでもかなわず先に逝ってしまった者たちへ、俺は確かに生きているぞと伝えたい。
今、可能性を閉ざそうとしている者たちへ、常識という骨組みのない壁に囲まれ虐げられている者たちへ、それでも輝いてくれと伝えたい。かつて自分がどん底にいて救いを求めていた頃を思い出して。いつかそんな歌を歌いたい。そんなふうにまた、勝手な思い込みをつくりながら、たった一度の自分なら好きに誤解して生きてみるのも悪くないと想いながら、今日も活字を目で追っている。俺は歌のまえにことばが好きだ。完璧ではないけれど、それ故に愛しい。だから、今日も本を読む。
雪の夜
あたしはうれしかった
出会った頃みたいに
あなたが優しかったから
あたしはうれしかった
あなたのほほえみが
私に向けられたから
外は雪に変わったけど
あたしの心はあったかい
セーターの胸で安らぐように
真夜中の校庭を
1人歩いてみた
真っ白なフィールドに
私の足跡だけ
くっきり浮かんでた
今夜は雪で
あなたとは離ればなれ
でも寒くないよ
あなたがあたしを忘れてないから
あたしは今も
あなたの心をあたためてると思うから
ー
おすすめ
田中利花さん「Lady day」
ビリーホリデイが亡くなった年に行なわれた、ニューオリンズのエマーソングバーズのライブの一夜という設定。ビリーの曲をすべて日本語詞にして歌うのを聞いて、日本語がいかに難しいか、フレーズのつくり方とイメージ(雰囲気)を壊さないで歌にすることが困難かを感じた。いかにも「体を使っています」といった感じはぜんぜんしないのに、出てくる声はきっちりと体を使っている声だった。表情も豊かで、酔っ払いながら歌う感じ、突然怒り出すときのテンションの切り替え、2時間のステージはあっという間だった。ビリーホリデイのをもう一度、ゆっくり見たいと思っている。
一度行ってみたいと思い始めたところへ、ちょうどチケットをもらった。偶然にしても恐ろしいほどタイミングがよかった。「また逢う日まで」あり物まねあり、トークありの楽しいコンサートだった。汽笛の音を何度も真似したりして“あんなことしてのどを痛めないのか”と私はハラハラしてしまったが、プロですごいプロになると、あれぐらいのことは問題ではないのだ。とても自由な心の持ち主だった。車イスに乗っていたしカゼをひいていると言っていたし、声を出すごとに事故で負ったキズに激痛が走ったと思うが、2時間、テンションを高いままキープして、ゆうゆうと歌いきっていた。悪条件が重なってあれぐらいというのを考えると、ベストコンディションのときはどんなふうだろう。プロのステージだった。
アダモ
シャンソンのコンサートは初めてだったのだが、こんなに高年齢層しか来ていないとは思わなかった。若い人はほとんどいない。時間ちょうどに始まったのだが、最初、音響が悪く声が割れてしまって聞けたものではなかった。が、いつのまにかそんなこと気にならなくなっていた。このところ、リズムとか歌う姿勢を気にしていたので、彼はどんなふうにしているのかと見ていると、すべての歌に足できちんとリズムをとっていた。両足を交互に踏むような、ちょっと変わったステップなのだが、彼の歌には合っている。歌によってくるくる回ったり体を揺らしたりしているけど、腰から上は基本的にまっすぐという感じだった。親日家らしく、ときたま日本語を折り交ぜながら歌ってくれる。
アダモ「雪が降る」
「ナマだ!!」と感激して、歌全体より、つい「どこで踏み込んでいるか」とか「体を使っているか」など意識してしまい、「楽しむ」ことに関して思う存分とはいかなかったのが少し残念。愛を語る歌、平和を叫ぶ歌、人生を歌う歌、詩の内容を歌う前にコーラスの人が教えてくれるのだが、その歌その歌で雰囲気というか表情(実際はよく見えないのだけど)とかが変わるのがわかる。奥さんに連れて来られたといった感じの隣に座っていたおじさんは、初め疲れて眠っていたのに、後半、身を乗り出して一緒に歌い、惜しみない拍手を送っていた。人を幸せな気持ちにしてくれる歌は最高だと、帰りながら改めて思った。
GOMA-LIVE By AJAR
“カルメン”
ミュージカルのようなものは何だかみていてふしぜんな気がして(何でここで歌うの? というのが)あまり好きではないが、カルメンは割とみていておもしろかった。“死”よりも“自由であること”を望むカルメンの情熱的な歌は、まさに自由ホンポウだと思った。
本「17歳のポケット」山田かまち
パトリック=デュポン
(ニジンスキーを越えたといわれるダンサー)。アーティストは人を魅了してあたりまえ。最高のダンサーになれば好きなダンスを仕事にできるのだという。初日の彼の踊りは私の心に火をつけた。今日は初日程じゃない。観客の反応は正直だ。
加藤登紀子のコンサート
ASIAN VIEWという写真展
津軽三味線のコンサート。これを聞いたら絶対、太棹三味線も欲しくなる。部屋はすでに12本のギターやベース、マンドリン、トレスなどであふれかえっている。どうやって寝るスペースを確保するか。
さいたま芸術劇場オペラ+バレエ+モダンの総合芸術
BETTY WHITE
グラディスナイトのCDを聞いている。リズムがよい。型にはまらない歌い方がリズム感のよさを感じさせられる。自分もあーなりたい。今、イメージ、色をさぐっている。私は何がとりえなのだろうか。私の魅力はいったい? のテーマがある
Blue Noteの「ワールドサキソフォンカルテットwithフォンテラバス」
別の日に二度観に行った。観客もミュージシャンもすべてが2日間では全く違っていた。生ってこわい。生ってすごい。誰もが潜在的にパワーはもってるんだ。要は出せるか出せないかだという気がした。
レゲエをちゃんと聞いたのは初めてだっだが、すごくよかった。リズムと声が心地よい。しかし、心地よいと思いながらCDの解説を読むと、政治的、民族的なメッセージが強く打ち出されているとのことで「心地よい」という感想は、何だか申し訳なくなったが、でもメッセージがわからない人が聞いていてもよいと思うのは、やっぱりよいからだと思う。
三大テノールの公演
ブートレッグビートルズのライブ、
アンドリューゴールドのアルバム「デビュー」
ダイアンリーヴス ブルーノート東京
特製にんじんジュース
つくり方[材料:にんじん1本、バナナ1本、はちみつ適当、牛乳1カップ程度、ヨーグルト適当、お好みでリンゴ]にんじん、バナナ、リンゴは適当な大きさに切っておく。そして材料を全部、ミキサーに入れ、20~30秒でできあがり。夏バテしないように一度、ためしてください。
ホイットニーヒューストンの出ている映画のサウンドトラックアルバムのなかに入っているアレサフランクリンの新曲、その名も“ It Hurts Like Hell”。
化け物のような彼女の体の力と、great voiceはさすがです。僕は今、すごくこの曲が好きです。
ホイットニーヒューストン
ポップスをはじめゴスペルなども歌っている。こんなスーパースターと呼ばれている人でさえ、一曲ごとに汗をかけながら思いっきり歌っている。(本当に体を使っている。特にフレーズを長くとっているときはわかりやすい。)なのに、まだヒヨコの私が汗もかかずにトレーニングしていたのでは、いつまでたっても彼女にはかなわない。人間的にもとても暖かく自立しているように見える。
「大地の子」
「大地の子」を見て、残留孤児がどうして生まれたのか、彼らがどんな扱いを受けてきたのか、今なお肉親探しで来る人たちの想いなどをはじめて、現実のこととして捉え、きちんと知らなくてはと思った。戦争を知らない世代の私たちではあるが、今ならまだ祖父母や両親から話を聞くことはできる。そうして、次に産まれてくる自分の子供たちに語り伝えていかなくては。戦争を歴史のお話としてしか捉えられない者ばかりになってしまう次代というのは、とても恐い気がする。今までの自分の無関心さ、知識のなさをかなり反省させられた番組だった。
本当に素晴らしかった。チケット代8000円以上出してもいいと思ったくらい。ライブハウス中がパティの体となり、私はパティのお腹の中の赤ん坊になってしまったかのように、彼女の呼吸がその場の空気を一つにしていた。
映画「黒いオルフェ(Orfeu Negro)」のサントラ。
本編も目を閉じればもうそこはリオのカルナヴァルのただなか。自分も街のかたすみでパゴーヂの輪の中といった感じだが、特によいのはExtra Trackとして入っている1996年Monterey Jazz Festivalで演奏されたメドレー。パーカッションがすごい。
「たんぽぽ」星野富弘
いつだったかきみたちが空をとんでゆくのを見たよ 風に吹かれて ただひとつのものを持って旅する姿がうれしくてならなかったよ 人間だってどうしても必要なものはただひとつ 私も余分なものを捨てれば空がとべるような気がしたよ。
「ラブミーテンダー」を歌いながら、お客さんとキスをたくさんたくさんするシーンは、ものすごい愛を感じた。そしてエルヴィスは歌を通して愛をみんなに与えていたのだと思った。
“Earth Song”“Will You be There”と、どんどんスケールの大きくなるマイケル。詞がわからないのが悔しいけど、キーワードは“地球”みたい。Green Dayというグループの歌ってなんかいい。
マリアカラス
批評のなかで次のようなことが書かれていた。要約すると「カラスの声は汚くかすれており、美声とは全くかけはなれたものである。しかしカラスは、そのなかに作曲家の意図はもちろん、あり余る感情のほとばしりを込めることで、一声発した途端、誰もがカラスのそれとわかるレベルにまで昇華したのだ。」うーん。深いよね。
Mr. BIGの最新作。Hey, Man!
まだ聴き込んではいないが、めちゃくちゃかっこいい。4月のコンサートが楽しみ。まだ読みかけなのだが、ラムサー真・聖なる預言という本を読んでいる。“自分が神様だ”と書いてあるが妙に説得力がある(自分って各々の人ね)。聖なる預言などを読んでおもしろかったと感じた人にはお勧めかもしれない。
「声の魔術師マクファリン」
1月のある夜、NHK。メロディとかリズムとかを全部、自分の声で出していて歌う…というより演奏していた。吹奏楽部の頃、よく何人かメンバーが集まると、それぞれのパートを歌い出して合唱で合奏していて楽しかったことを思い出した。
ボビー・マクファーリンNHK「ときめき夢サウンド」
歌詞ではなくベースもメロディもひとりで楽器のように歌ってしまうというパフォーマンスをみせてくれた。もともとジャズを歌う人で即興は得意ということだが、変わった形の笛を吹いているなと思ったらマイクだった。歌っているというより音を奏でているというイメージ。「体は楽器である」とはこのことかと思った。もっと感動したのは40歳を前に、クラシックを本格的に勉強して、誕生日の日にオーケストラの指揮をしたという話。何でも40歳の誕生日に自分に何かプレゼントをしたいと考えていたら、指揮をしたがっていることに気づいたということだ。自分をとっても大切にしてしてあげていること、いろいろなことにチャレンジしていく姿勢、理論にこだわらない本当の音楽の楽しさを知っていて、それを子供に伝える努力をしていることなど、彼の話を聞いていて素晴らしいと思った。世界中にはこんなことをあたりまえのように実行している人がたくさんいるんだと思うと、狭い日本に閉じこもっていてはいけないと思う。
「犠牲-サクリファイス-」柳田邦男。
「肉じゃがじゃが」のCM。心をさらわれるテンポのよさ。
「謝謝! チャイニーズ」星野博美著/情報センター出版局
こういう本で女性が書いているものは少ないので勇気づけられる。
ISSAC HAYES
太い太い声にオーケストラの美しい音が。不思議なものを感じる。
DRAMATICS。
女殺しのセクシーな声がGOOD!
ジョニ・ミッチェルの「Shadow & Light」
共演のミュージシャンがこれまたすばらしい。必見だと思います。
「Bjork」
ライブを武道館で観た。あの武道館がこれほどの一体感で包まれたのを初めて観た。彼女は間違いなく世界でたった一人の人だった。一つの強烈な個性があの小さな体から解き放たれて、一つのCosmosを形成していた。私はコンサートを観に行ったのではない。一つの宇宙に入ってきた。自分の肉体に正直な動きは、あやしいほどにSexyで、目を離すことができなかった。
MOTOWN「THE MOST PLAYED OLDIES ON AMERICA'S JUKEBOXES」
エデットピアフ“
記念アルバム”の10曲目。
マヘリア・ジャクソンの“マヘリア”、
ロイヤル・ハント“ムービングターゲット”
レインボー“レインボーライジング”
サムクック“The Best of~”
T.N.T“Tell no tails”“Intuition”“~サンダー”
エンゲルト・フンパーティング
クラウディオビルラ
(クラシックっぽい声はいやだけど深さはすごい)が特に気にいってます。
マヘリア・ジャクソン
映画「陽のあたる教室」
感動もしました(感動し過ぎて、なんぼ涙ぐませるねんって感じでしたが(笑))。リチャードドレイファス(※アカデミー主演男優賞最年少受賞者という輝かしい実績を持つ名優。
演じたUFOに取りつかれた主人公が最も印象的です。扮する主人公ホランド先生は音楽の先生なのですが、バッハもコルトレーンもガーシュインもビートルズも同等に扱うことで、音楽のすばらしさを教えてくれる素敵な先生です。特に、ホランド先生が一人息子にジョンレノンの「ビューティフルボーイ」を捧げる(しかも特別なやり方で)シーンには、思わず感動してしまいました(さらには、その歌詞を字幕で読んだときには、ジョンは自分の息子ショーンの成長を見るのを本当に楽しみにしていたんだなということを改めて知って、そのことにも感動してしまいました)。
ジョンの曲は、激動の60年代を振り返るシーンでも「イマジン」(たとえドリーマーであろうとも、平和だけは待ち望んでいたいといったような曲です)が使われていましたが、70年代を振り返るシーンでは、アメリカの良心のようなシンガーソングライター、ジャクソンブラウンの歌う「プリテンダー」(たとえプリテンダーであろうとも、幸福だけは待ち望んでいたいといったような曲です)が使われていて、それもとてもよかったので、今まで何となく敬遠しがちだったジャクソンブラウンのこの名曲を、一度じっくりと聞いてみたいと思います。
で、再び映画の方に話を戻すと、やっぱり音楽はハートであるということと、音楽は人の人生を変える力をもっているのだということを強く感じました。そして、最後はホランド先生の夢は実現したのだと、僕は解釈しています。そしてそして、僕もお世話になっている先生には、いつかきっと恩返しがしたい! とも思いました。
化け物みたいなヴォーカルは、究極のヴォーカルの完成形のひとつではもちろんありますが、ただ単に上っ面だけを真似すると、技巧(技巧ももちろん大事ですが)などに走りすぎたりして、少なくとも最初のうちはかえってよくないような気がするのです、と結局、説明してしまいました。
アメリカの誇るカントリー/フォークシンガー、ジョニーキャッシュ
なぜお勧めかというと、ここでの取っかかりとして深くて太い低音を出すときに、理想形としてアタマに入れておいてもいいのが、このジョニーキャッシュの低音だと思うからです。
特に、95年に日本発売された「アメリカン・レコーディングス」というアルバムは、プロデューサーのリックルービン(RUN-DMC、ビースティボーイズ、スレイヤー、ミックジャガー(ソロ)、AC/DCなど、最高にクールなプロデュース作は数知れませんが、そんななかでもとりわけ、レッドホットチリペッパーズの2枚のアルバム「ブラッドシュガーセックスマジック」と「ワンホットミニット」は、文句なしに世界最強(僕もこんなアルバムを創ってみたい!)でしょう)によって、ミキサーでの音処理の一切ない、剥き出しのジョニーキャッシュが聞くことができて、その一点の曇りのない生声には、ただただ圧倒されてしまいます。とりあえず、ここにとっては“ゆりかごから墓場までモノ”のアルバムであると断言してしまいましょう。
U2「ZOOROPA」
「ステイ(ファラウェイ・ソー・クロス!)」は、天使がそばにいてくれているよう(ヴィムヴェンダースの映画はもちろん観ました)で、僕も大好きです。
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活動
銀座のカナディアンウッドでライブをやります。