特別演習課題 受講者レポート 360115 580
「ポピュラーミュージックのためのヴォーカルトレーニング」(リットーミュージック)
本の各章の課題です。やり方はすべてお任せします。
<Ⅱ章とⅤ章>ことばで言う…メロディをつけるときよりは胸に入った声をとることができるようになったと思うのですが、私は非常にイ段が胸に入りにくく、それとサ行も浮いてしまう感じがします。“さびしい”や“そんな”の“ん”の入ったことばもしっかりと胸でつかむことができません。体の使い方、息の吐き方、のどの開きのタイミングをうまくつかみ「できないできない」という頭のなかのものを取り除いて、とにかく練習をして感覚を徐々につかむことが大切だと思いました。
少し前まで私は、胸でしっかりポジションをとろうとろうとして上から押してしまっていて、低い息声というだけで歌う声ではなく、頭では「胸の低いところにポジションをとるんだ」という考えだけで、下に下に力が入ってしまい肩凝りに悩んだこともありました。私のなかでのイメージの視野がとても狭いものだったんだなぁと思いました(今も決して広いというわけではないと思いますが…)。もっともっといろんな角度からのイメージトレーニングが私には必要だと思いました。
体を使った声を出す、私にはまだまだ体が足りません。合宿のときのように“ハァー”というため息から声にする練習を中心に、息から声になるところの感覚をつかみ、それをもっと大きくできるように体を強くすることが大切だと思います。ただ息を吐くことをやるのではなく、これからはそういうことを踏まえた上で息吐きもしなくてはいけないなと思いました。
フレージング・表現
やはり音がついてしまうと、それと同時に上がってしまったり、メロディに気をつけていると浮いた声になって、胸でとることに気をつけてやると音程がぐらぐらになってしまったり統一することができません。音程が上がっていくとその分、体を使おうとするのですが踏んばりきれなくて、気持ちをこめて歌ったつもりでも軽い表現になってしまうときもあります。
本当に1曲を歌いあげ、聞いている人に感動を与えるなんていうことは、ものすごく大変なことなんだと改めて実感しています。表現というものは、頭のなかでこうしょう、ああしようと作り出して行なうものではありません。偉大な歌手の人たちも、そんなふうに考えたりはせず感じるままに歌って、それに体がついてきて気持ち+声で表現(感情)が生まれて、すばらしい曲になるのだと思います。とにかく、もとになる体、芯のある声を身につけるようにがんばろうと思います。
最近、お手本を聞き、そのあと自分で歌ってみるときに、人の通りに歌うのではなく、キーはもちろんですが間や伸ばし方で自分の歌いやすい方法(流れ)がつかめるようになってきたと思います。そのとき、やはりまだ力みすぎて肩に力が入ってしまうことがよくあるので、リラックスしてしっかりした声を出す練習をしなければと思います。そして、胸でしっかりつかんだままの声で私だけの表現がしぜんにできるようになりたいです。
まだまだ何一つ、胸をはってできるものはありません。でも1年前の自分よりは、今、自分にまず何が足りないかということなどがわかるようになってきたのではないかと思います。1年前のように、ただ漠然と息を吐くという練習から、だんだん変えていかなければなりません。できていないことだらけですが、あれもこれもとつまみ食い練習をしていたのでは身につかないし、計画が必要だなぁと思います。
このリットーミュージックの「ヴォーカルトレーニング」は、基本講座などよりも細かくフレージングのことなど書いてあるので、授業のなかでの先生のことばがこの本のなかにそのままあるという感じで、ふと初心にかえるというような気持ちになるところがたくさんありました。ふだんの仕事やそういった生活があって、自分のなかでの練習イメージが狭くなっているというのも感じました。
私の今年の大きな課題は、息吐きで少しは強くなって体を目一杯使って、それを声に確実にするということです。最近、体にのどがついていっていないというか、体はもっと使えるはずなのに声にならないと感じることが多いので、たとえ1音でも今のベストを出せるものをつかもうと思います。来年の今頃はもっと違う、もっと上のことを課題とできるよう、今年1年を大事にがんばっていきたいと思います。
ヴォイストレーニング理論(プロローグ(1))歌になることばをもつこと、そのために深い声、そして息が必要→歌になることばとはどんなものだろう? それは感情、伝達のことば…。クールであっても何らかの意志をもったことば…決して連絡事項の伝達ではないはず…(歌におけるアクセントは別)。それは経験や真剣に一瞬を生きるという前向きな構え、恥ずかしさを捨て、人と違う工夫の表現によってつかみたい。
声を体に宿すというヴォーカリストとしての一番の基本。そしてそこに踏み込むにはアーティストの精神が必要。→強いヴィジョンに対する強い姿勢と生きざまが必要。/その活動を見守らせたいと思わせる力が必要→ときには声かは離れてワクを越えたところで自分の方向分析。/ヴォーカリストには正解はない→自分が正解になるしかない。/その人が一人いると何かが変わるのを力という→この世に生まれ、たった一度の人生で何かを変えることぐらいできないようでは、ヴォーカリスト以前にもったいない。普通の暮らしをしている人々でも、生きるために生きている(努力で)。それじゃ我慢できないなら、突拍子もないこと一つやれないなら、それは「生命活動における死」である。平凡を尊敬しバカにし、芯を抽出して大きなかごを作り編んでいく。
歌を深めていくと個性もそれに伴ってくるはず。そうならないのは結局、歌が自分の歌になっていないからである。つまり、自分で一つの歌はこういうものだというワクを作り、そのなかで歌っているに過ぎないからである。→課題曲を自分なりに深めていく。(シンセサイザーで符割にSTのずれを加えたり単純なことばに対する今までの経験でイメージする色を考えたり、自分に気持ちいい歌に仕上げていき、そして自分の声を下から吐き出せるようになれば、新たな課題が出てくるだろう。ひょっとすると、毎月のトレーニングもV検を照準にするといろんなものが見えてくるかも知れない)。
自らがんばり抜き、火中にその可能性をつかんだ人のみ、すべてがわかるしすべてが変えられる。→日々のささいな誘惑に対し、自分が本当に欲しているなら、楽しみ、少ししか欲していないなら切り捨て、自分の向上にあてる。
楽観的でポジティブな取り組みも必要。緻密さ完全さをめざす徹底したこだわりも必要。歌が好きなら自分の歌を歌うことである。
日々のトレーニングにおいてブルーな気持ちのときに、ただやみくもに量だけのトレーニングをこなしても、結果としてマイナスになるかも知れない。先を見据えて細かく自分を探り、楽観的になることもときには大事。バランスだと思う。自分のことばとは? 自分の歌とは? 突き詰めていきたい課題である。
その人の器、常にそれを破壊し大きくしていこうとする創造、生み苦しみを何度も経てきて輝いてくる産物。
(プロローグ(2))あなたはトレーニングの場を踏み台として自分の世界を自分自身でつくっていかなければ意味がない。/「ア」がちょっと出るために、口先やのどで加工するクセがついて体を使わなくなり、その人のヴォーカルとしてのより大きな可能性をつぶすことになってしまう。
外国では歌と日常会話が非常に近いところにある。
声をよくするためにヴォイストレーニングをやるのはよいのだが、それは歌をやる上で声という一つの武器を得るため。常に有利に歌う状態になるためと考えること。ヴォイストレーニングでできるのは、ヴォーカルの要素の10分の1に過ぎない。
あくまでもここを利用すること。どっぷりつかるのではなく自分のスタイルや自身を内にしっかりともった上で、鋭く利用すること。声にとらわれたらワクができるし、声だけでは人を一生、引きつけることはできない。
肝要なのは、自分がどのレベルまで行きたいかである。
本当は汗びっしょりになり、疲れて座り込むぐらいでなければレッスンにはならない。
家でのトレーニングでも気をつけたい点だ。
ヴォーカリストは全身で表現しなくてはならない。
ヴォイストレーニングの最終的な形は、歌うことそのものがヴォイストレーニングになって歌うことによって声がどんどん伸びていくようになることである。そして調子の悪いときの調整や本番への調整を確実かつ自由自在にできるようにすることである。歌っているときの声とヴォイストレーニングをやっているときの声は、初めは異なる。それを少しずつ一致させていかなければならない。
何を歌うか何で歌うのか、自分にとって音楽とは何なのかという問題と真剣に取り組まなければならない。音楽自体が生活のなかに入っていないと続かない。
常に自分に問うていたい。
歌は自分の思いを自分のスタイルで歌うからこそ、意味があるのではないだろうか。→そこに自分の生きている存在理由がある。
音楽はクリエイティブなので「あっ、変わった」と思わせるようなもの、従来、見られなかったものが求められる。
ことばで言えば30分かかることを3分もしくは一瞬に伝えられるから歌なのです。だからこそものすごい緊張と技術、感情が凝集された世界である。
山で大きな声で「ヤッホー」と1時間、言い続け、次の日にも同じことができるようになること。
体の内側から声が出てこないと伸びない。またそこにその人の個性や主張が出てこないと表現するに耐えない。
基本の習得 間違えないで歌えたら終わり。これでは何も身につかない。せめて半オクターブをしっかりした声でキープできるまでの練習をしなければいつまでたってもレベルは同じである。
プロレベルにするには、まず一つの表現を声に出して言ってみる。それではっきり通じるようになったら、そこに1音つけて声にしてみる。そして半音ずつ上げていく。
練習とは、自分で課題を見つけることです。1オクターブ歌えるようになったら、また元に戻ります。ドの音1音だけでも1時間の練習はできる。本当に身につく練習とは、1曲歌ったら神経的にも身体的にも参ってしまい、倒れ込んでしまうような歌い方までトレーニングするということである。声はつくるのではなくできるまで待たなければいけない。共鳴させるのではなく、ひびくようになるまで待つことである。
自分の音楽が要求するところまでしか伸びていかない。だから一流、本物に接さなければならない。→家にいてもなるべくいい音、声、曲を聞く時間をとる。
子供が危機にひんして助けを求めて「お母さん!」と叫んだときは、日本語のわからない外国人が聞いてもすぐさま振り返るだろう。それはそこに表現があるからである。これこそが表現を伴う発声なのである。
外国人はやたら伸ばさない。それは深い息、体を使っているからである。
大きな声を出し続けることによって体が早くでき上がる。
思い切り歌えるからこそ口先で出したり柔らかく表情を変えて効果があがる。思ったまま声の配球ができる。
ヴォーカリストにはものごとを他人と違った受け止め方をして、そこから何ができるのかということが問われる。
それこそが個性でありオリジナリティであり、人の前で歌うことを軸として生きていく者の資格であろう。
誰も気づかないのに自分が変だと思ったものに徹底的にこだわるべきである。そこにあなたの存在が意味になる。それがあなたの個性、キャラクター、魅力へとつながる。そしてヴォイストレーニングも結びついてくる。考えさせられるし、これから必ず感じていくこと。
まず、スタンダードなナンバーをどれだけ歌いこなせるか、そのなかでどれだけ自分を表現できるかに挑戦してみよう。
自分を構成している要素をつなぎ合せて何人もの人が歌ってきた歌を歌い、そこで自分を確立する。やってみたいこと。
ここのヴォイストレーニングはその場を提供しているが、ここでも自分で伸びていかなければどうにもならない。自分でつかみとっていくしかない。→とにかくレッスンに集中し、自分で最低一つは身になることをつかむ(体の使い方、呼吸を変えたり工夫して新たな面を)。
テープに録音し、聞いてみていやだなと思った人は、体の上の方、顔や口の内でつくった声で歌っている人である。完全に体に入れた声というのは誰が聞いてもいい声と思える共通のものとして、誰でももっている。
本当の声を見つけだすのも感性の力である。
練習は相手にきっちり伝わる声を出すこと。
「私の歌」合宿の題材のなかに「絶望」を表現するというのがあったけれど、私だったら私の感じるところのそれはどんなだろうと思った。私は一度だけ、今まで生きてきて一度だけ、絶望したことがある。実を言えば、そのとき音楽は止まっていた。普段いつも絶え間なく何かしらの音が、メロディが流れているのに、そのとき何も聞こえなくなった。だからとても変な感じだった。「死」ににているように思う。何も見えない、聞こえない、感じない。
私にとって歌うことは「生きる」ことだ。生きていくから歌うのだ。たとえばつらい道になってとしても、地をはうようなことがあっても、私が生きることで私の周りの人たち、家族に勇気を与えたい。「あんなに苦しくても生きている」と。歌は私の生き方そのものだと思うし、いつか歌うことで皆に勇気を生きる力を、愛を与えたい。思いを伝えたい。私の歌は私からかけ離れたところにない。私に密着している。私そのものだ。そうでなければ、私にとっては意味がない。最終的な夢は、天の父に届くような歌を歌うこと。遠いけれど、とても遠いけれど、いつか伝えられる、届けられる。そんな歌を歌える日を信じている。
[ヴォーカリストになるための必要な科目]<メイン>
①言語…朗読(本を読むとき、なるべく声を出して読む。感情的に強弱をつけて読む。息を感じながら読む。50音表や、ことばの練習帳を活用する)。
②音楽的理論…和声(コードの勉強を楽器(ピアノなど)を使ってする。音をよく聞いて耳で覚えていく。たくさんの曲を利用し、コードがピアノなどで押さえられるようにする。しぜんに体のなかに入るまで。)
③発声法…ヴォイストレーニング(毎日声を出す。息からだんだん声にする練習をする。深い息と声を意識する。自分でメニューをつくってとにかくやる。)
④音楽的基礎…リズム(日常生活のなかでいろいろな音やリズムを意識し、感じる。いろいろな曲を聞くとき、体を動かす。)
⑤鑑賞…ライブ研究(多くの人のビデオを観てよかったところや気づいたところなどを書き留めておく。いつも自分に置き換えて考える。その人の魅力を見極める。)⑥体力づくり…柔軟(毎日柔軟体操をする。少しでもよいから続ける。)
<サブ>①楽器…ピアノ(小学校時代やっていた。また始めて1年になる。)エレクトーン
③ダンス…ジャズダンス(始めて半年になるが、いろいろなものが要求されるので音楽にはとてもよい。)
⑥作詞、作曲…(すぐにメロディや詞が浮かんでくるが、譜面を書くのがイヤだ。時間がかかる…。最近はぜんぜんつくっていないが、前に10曲くらい譜面を書いてある。これもならすしかない気がするし、本当に自分の言いたいことや伝えたいこと感動したことがあれば、時間がなくてもできるはずだ。)
[音を即興で立体的に捉える]心のトレーニング…「音楽と心について」確か中学校の音楽のとき「音楽は自分にとってどういうものか」という課題が出て、何か一生懸命書いた覚えがある。私は音楽によって何度も助けられている。そしてこれからも助けられ励まされることだろう。日常生活のなかは、音楽でしぜんとあふれている。テレビ・ラジオ・駅・電話・鼻歌etc...。何をとってみてもいつも私たちの周りには音楽がある。たとえば映画のなかやドラマのなかには、必ずクライマックスやこれといったときにはメロディが流れ、ものすごい音響効果をもたらしている。そのメロディを抜いて観た映画やドラマは違うものを観ているかのように色あせてしまうと思う。また怖い話でもそうだと思う。人間の心は音楽によってものすごく左右される。不幸な気分にもすごく幸せな気持ちにもなれる。パワーが出る。生きる力が出る。勇気をくれる。優しくなれる。温かくなれる。愛が伝わってくる。素直な気持ちになれる。強さをくれる。人生で大切な何かを教えてくれる。いやなことを忘れさせてくれる。楽しませてくれる。人間の感情をストレートに表わす。いっしょに悲しむ、人間らしくなるetc...。
たくさんたくさん助けられ励まされ、私の心は音楽によっていろいろなものを吸収していく。そして大きくなってゆく…。もう私のなかからは、一生離れることはない。あとどう生きても、百年は生きられないこの人生で、音楽はこれから先も、ずっと私の味方をしてくれる。そして素直なままでいられるような気がする。音楽=心だから、これからも仲よく一緒につき合っていきたい。
聞感覚トレーニング 暗い夜の雨の音が何となく好きだ。落ち着いていやなこと悪いことを洗い流してくれるから…。優しく包み込んでくれるようなシトシトと降る雨音が私の心を潤してくれる。私の家には犬2匹猫2匹リス1匹がいるが、その鳴き声は人間顔負けである。動物はとても素直で、一番よく鳴く声はお腹が空いたときである。すごく訴えるし甘えるし、すべてで自分をアピールする。散歩に行くときは待ってましたとばかりに喜んで大声を張り上げるし、抱くと嬉しそうな顔をしながら(これは視覚だ…)ゴロゴロ言う…。リスの声、聞いたことありますか? 「チュン」「キャン」って鳴くのです。小鳥のようです。あまり鳴かないけれど、今度はどんなときに鳴くのか研究してみようと思います。
即興で音をとる「タクシーに手をあげて…」「本当の幸せ教えてよ…」メロディまで変えてしまっているような。変化に乏しい気がする。気持ちの上で変えてみる。いいかもしれない…!?
コードをイメージ化する…メジャーコード→明るい感じ/マイナーコード→悲しい感じ。でも好き。
[読譜力をチェックする]「幻を止めて」
①リズムを叩く②音階で読む(移動ド)#ド=ラ
③音階をとる(階名)
④リズムと音階(メロディ)をとる⑤歌詞をつけて歌ってみる「ねえ何見てる あなたの瞳は もう戻らない あの時の2人 さらならと言う 言葉の裏側に 本当のあなたを見る あの日の夕暮れの街角 出逢ってしまったことに それはうそじゃない 予感と出逢った自分をせめる」
[聞感覚とイメージ能力を伸ばす]今は夜中の2時です。時計の音、石油ファンヒーターの音、ときどき通るトラックの音がする。シーンと静まりかえっているようだが、確かに一瞬が過ぎてゆくのを肌で感じる…。今、働いている人が浮かぶ。運送屋さんのトラックのなかのラジオお音。少し眠っている人がいる。セブン・イレブンで働いているアルバイト生の眠そうな目。冷たく肌を刺すような空気、月と星のきれいな夜。それに照らされた雪がやさしい色で輝く。木から雪が落ちる。鳥の足跡。雪の降る街、それは静かにシンシンと…。地球の生きている息…。宇宙の神秘。海・緑・土・大きく膨らむイメージ。月から見おろした地球と私の小ささ。地球上に住む人々の生活の音・朝の音・夕焼けの色・砂漠のラクダのにおい・エジプトの人の瞳の深いやさしさ・熱い太陽・繰り返す毎日・深い悲しい目の青年・赤ちゃんの泣き声・銃の音・爆発音・怖さに眠れない震えた手・病気と闘っている人。そしてすべてを包み込むようなやさしいやさしい声になりたい。強くすべてを幸せにできるような歌を歌いたい。
[声について知る]ことばとして聞こえるのではなく、リズムや流れを感じ、音楽のようなメロディを感じる。流れがとてもなめらかで無理に出していない(しぜんな息と一緒に出ている)。感情が声にそっくりのっていたり、逆に抑えることができる。聞いていて楽しい気分になったり悲しくなったり、いろいろな声が使える。キャスター、アナウンサーなどは、正確さがとても大切である。事実をそのまま伝えなくてはならないので、どの人も同じようなテンションである。こう考えていくと、ヴォーカリストが一番、大変でものすごい技術や3分という時間の勝負、そのなかでの感情をどれだけストレートに出せるか、リズムももちろん、いろいろな要素を凝縮する人間性が問われる。すごいものである。
[感動した曲を聞き直す]記憶のあるなかで私が一番初めに覚えたのが「北の宿から」と「津軽海峡冬景色」である。よく人の前で歌ったものだった。
歌の好きな先生がいて、いろいろ歌った。そしてクラスの歌を一人ひとりが作詞作曲した。
のど自慢に出たときの歌が「花の子ルンルン」で5年生のときが「氷雨」だった。
徳永英明が「輝きながら…」を歌っていた。今まで聞いたこともないその美しくも悲しい声に私は初めて歌に感動して震えた。涙が続々と出てきた。自分とその徳永英明の歌が出逢った。波長と波長、私のなかの心の波長がピッタリと出逢ってしまったのだ。画面に映っていた本人(外見)には特に魅力を感じなかった。地味なおじさんという感じだった…(今は外見も好きだが…)。
あまりテレビを見ない私だったので、この人誰? という感じだった。きっと天使の歌声に聞こえたのかナ…神様の声に聞こえたのかナ…。とにかく涙がこぼれて仕方なかった。あれ以上の感動(歌の出逢い)はない。それ以来、私は徳永英明の曲しかほとんど聞かず、そしてその人以上の人を見つけられず、今日に至っている。
ここに入ってから少しずつ世界が広がっていく。これからの出逢いも大切に、私のものにしていきたい。
[発声法のイメージを歌からつかむ]「川の流れのように」声が私の場合、薄くて不安定である。ひびいてこない。美空ひばりは声の質・太さ変わらず、安定している。「あぁー」というところ、私の場合、力でもっていっているので、聞いていても気持ちよくない。ひびきが美空ひばりの場合、ある。出だしからして景色が浮かんでくるようなものがある。私の場合、ぶっきらぼうで声がよく出ない…。盛り上がりに行く前のところと盛り上がりのかけ引きのようなものがよい。私の場合、棒読みでガサガサだ…。声がこもっているような気がする…そろっていない。どうしてこうも違うのだろう…。美空ひばりの場合、なめらかにしぜんに流れているのに、私の場合はぶっきらぼう。
「歌に出会った日(私のおいたちと出会った歌)」いつも歌っていた。TVの歌謡曲がほとんどだった。まねをしては風呂のなかで部屋のなかで口ずさんでいた。小学校3、4年ぐらいのときだったろうか。友人2人が給食台の上に乗っかり、ほうきを持ち(ギターのつもり)、歌おうとしていた。が3人組らしく1人足りないということで、みんなに声をかけた。僕はしぜんに手を挙げてステージ(?)に上がった。歌った曲は覚えてないが、このときの気持ちは今でもはっきり覚えている。あれほどしぜんに余計ななことを考えずに“歌いたい”の一心で歌ったことは、今自分が一番、必要としている気持ちだ。
大人になっていくにつれ、純粋な気持ちを邪魔するものが出てきた。恥ずかしさ、勝負していないのに自信をもてない気持ち、逆に過度のおごり、さまざまな気持ちがあのときのストレートな気持ちを遮断していた。今は、余計なものを取り外すこと、同時に絶対的な“力”を蓄えたい。いつでもあの“歌いたい”と思ったあの気持ちで、歌い続けるために…。
「大好きな歌と好きなヴォーカリスト(その理由)」大好きなヴォーカリストは、スティーヴィーワンダーだ。1年ぐらい前に実際にコンサートで観てから、自分のなかで彼は特別な位置にいる。とにかく圧倒された。一声歌い始めた瞬間から釘付けになり、全身はひどく昂揚していた。“本物”を観た。全身から発される声に会場は震え、会場の人々の心を揺らしていた。とにかくすべてが超越していて書けない。理屈じゃないし、理屈はいらない。音楽で全身から溢れてくる声であのパワーで教えてくれた。語りかけてくれた。あの感動はいつまでも大切にしたい。好きな歌は彼の曲だ。あれほど誰もが楽しめる曲をつくれる人はいないと思う。その証拠に、彼の曲をカバーしている人は数多い。人間、自然、地球に対する大きな愛が曲を包み、溢れている。いつまでも歌い続けて欲しい。
「誰にどんな歌をどこでどのように歌いたいのか」僕は一人では生きてゆけない。たくさんの人たちとお互いに支え合いながら生きている。くじけそうでどん底のときにも励ましてくれる友だち、いつまでも暖かく迎えてくれる家族。今まで自分勝手すぎた。無意味なプライドやエゴイズムのために自分が大きな存在かのような幻想を抱いていた。まるで“一人でも”生きてゆけるかのように…。そんなときに、生まれた歌はなかった。今、僕の創造力の源を探る。それは“愛”だ。誰にも侵されることのない絶対的な“愛”だ。だから愛する人のために一生懸命愛を込めて創った歌を歌いたい。何かうまく言いたいことが書けないが、ことば以上の気持ちを歌にのせて愛を求めている人へ、僕の大切な人たちへ愛を送りたい。
「…だから、私は世界でたった一つ、自分の歌を歌える」僕はいったいどういう“存在”なのだろうか。この大きな無限に広がる宇宙のなかで、地球という空間のなかで。また、生命が誕生したときから流れる果てしなく大きな瞬間のなかで。以前このことを考えたときには、強烈な脱力感、無力感にさいなまれた。だが、今は人間というはかなさ、無常の生に美しさを感じるようになった。だから、自分も可能な限り、美しく輝いていたいと思うようになった。自分にしか創れない曲がある。誰にもとって代わることができないことを証明したい。世界で自分一人しか歌えない歌を創る。創造とは、自己のアイデンティティの証明と、自分自身とは何か探し続ける旅のような気がする。
「私にとって歌とは何か」歌っているときが僕にとって“生きている”瞬間だ。自分を表現するさまざまなもののなかで、やはり一番に“歌う”ことがくる。離すことが苦手でもどかしく感じること、文章が書けなくて苦しんでいることが、そのことにより拍車をかけている。歌の魅力は、理屈じゃないところ。スポーツが好きな自分は“できた”か“できないか”で決まる、実力勝負の世界を歌にも感じた。そんな世界で勝負を続けていきたい。
「歌に出会った日」父は「古賀メロディ」のアルバムを大事にしていた。特に「別れの一本杉」が好きだった。母は童謡をレコードに合せてよく歌ってくれた。私は「小鳥の歌」がすきだったが「七つの子」を聞くとなぜか悲しくなったのを覚えている。私が寝るときはいつも子守歌を歌ってくれた。父は「ねんねんころりよおころりよ…」母は「夕焼け小焼けで日が暮れて…」だったかな。物心がついた頃には、父がクラシックのテープをかってきた。私は「子犬のワルツ」といろんな行進曲が好きで、いまでも国体などの入場行進の場面でマーチングバンドを見ると鳥肌が立って涙が出そうになる。それから幼稚園の発表会で合唱した「大きなのっぽの古時計…」はとても悲しく感じた。こうして振り返ると、たくさんの歌に囲まれて過ごしてきたのがよくわかる。
「好きな歌と好きなヴォーカリスト」日本では谷村新司の温かい声が好きで、特に「陽はまた昇る」と「さらば青春の時」が好きだ。落ち込んだときに聞くと勇気づけられる。マイナスの気分にしみ込んできて、安心できるような気がする。今はオールディーズに興味がある。マイナスの気分に落ち込むことがほとんどなくなったからか、プラスをより増大させてくれる明るいリズミカルなサウンドがうれしい。特にブレンダリーの「ダイナマイト」が心に引っかかった。1957年、彼女が11か12歳のときに歌ったものだ。声にはまだ幼さが残っているが、「ダイナマイト」という最初の一言の力強さにすっかり魅せられてしまった。リズム感のよさや伝わる迫力も勉強になる。デビュー時代から現代までを聞き比べて、声の移り変わりなど、研究してみたいと思う。
「誰にどんな歌をどこでどのように歌いたいのか」私が今、描いている将来の夢は、夫となる人と一緒に世界中を歌いながら旅をすること。聞いてくれる人がいれば道端でもどこでもいい。病んでいる町では勇気づける歌を、活気のある町では一緒になって楽しい歌を。また歌うだけではなくて、その土地の音楽を聞いて勉強したりして、歌を通して人間として生きていることを実感したり、何のために生きているのか考えてみたい。まだ漠然としているが、何かを世界中に伝えたい。なぜそうしたいと思ったのかも確かではないが、これから意味を考えていきたいと思う。そこで、その出発点として、まずウエディングライブをやりたい。結婚するときに両親とこれまでお世話になった人をできるだけ大勢招待して、感謝の気持ちとこれからの決意を歌で伝えて楽しい時間を過ごしたいと思っている。ただ、夢だけはどんどん広がるが、私と人生を共にしてくれる人がなかなか現われてくれないのが、大きな問題だ!! 同じようなことを考えている人がどこかにいることを願っています。ただし、今すぐ現われられても私の準備がぜんぜんできていないので、今は自分を磨くことに専念しようと思う。
P57/EX.2-2…この正月の間に基本をより深く、そしてものにしていこうと思い、これらの課題を選んだ。まず単純にリラックスしてやってみると、意外に大きな「ハイ」が出ることに気づいたが、力をむやみやたらに入れると、鈍いこもった「ハイ」になった。この時点では、まだ息は浅かったので、自分のできる範囲で深くした。そして少し高低の音をつけたらかなり体が必要になった。そこで本にも書いてあることだが、高いところにいけばいくほど息がほとんど流れていかなくなることに改めて気づいた。
そして自分の発声はまだまだダメなことがよくわかった。そこで音を半音ずつ下げていって、声が出なくなるところ(声の原点?)の深い息を意識してやってみた。すると高いところにいくにつれて体がメチャクチャきつくなった。それだけ今までが甘かったことに気づいた。10日間繰り返したら少しだけ息の流れを高音においても感じるようになったが、本に書いてあるように、体と声を結びつけることができるようになるのは、まだまだ先であることを実感した。
P58/EX.2-3…とりあえず胸にひびかし「ハイ、ラオ」とやってみた。自分は前から上から下へ押しつけているようなので、胸の中心を意識してみた。そうしたらあまりひびかず声がこもってしまった。以前にトレーナーに頭にひびきを逃がすように注意してもらったので、頭にひびきを逃がしてみた。すると今度頭の方ばかりひびいてしまい胸の鳴りが少し減ったように感じた。要するに胸の方も頭の方もまだ課題に対してのレベルが低いことに気づいた。音を低くしていって声の出るぎりぎりのところではさすがに胸が中心でひびいているけど、高くなるにつれて頭の方でひびいてしまう。まだまだ胸の中心に声は宿ってきそうにない。
P58/EX.2-4…今までもそうだったが自分は母音が苦手なので、この課題はこの正月で一番やった。まず息で出すのと同じ感覚で「ア・エ・イ・オ・ウ」がでない。理由は「ハイ」と同じところで「ア・エ・イ・オ・ウ」が言えていないからだと思う。そこで「ハイ」の後に「ア・ア・ア・ア・ア」にしてみた。先の「ア・エ・イ・オ・ウ」よりはずっとうまくいっているような感じがするので「ア・ア・ア・ア・ア」でやることにした。自分なりに練習をして気づいたが、深いところをつかもうとすると体が緊張して首・肩・あご・に力が入ってしまい、声がグチャグチャになってしまう。だからまず、上半身をリラックスさせておき、深いところをつかまえておくことからこの課題を始めた。
「ア・ア・ア・ア・ア」になれてきたので「ア・エ・イ・オ・ウ」に戻してみると「ア・エ」まではなんとかなるのだが「イ・オ・ウ」はまるでダメだった。「イ」は特にダメで、鼻にかかったりしてしまい声にならなかった。また高いところでは息の流れを少し感じられたが、やはり深いところで同じように言うことはまだできないようだった。
EX.2-6…この課題に対しては、普段の授業でやっているのでイメージでよくわかった。ただやはり高音になればなるほど、深く息を入れるということはまだできないようだった。体を使う課題はやはりまだまだやらなければいけないと実感した。また、深く上下に縦にまとめるようにイメージをして練習をしたが、まだ身につくまで時間がかかるようであった。
心のトレーニング「音楽と心について」自分が音楽に初めて激しく心を動かされたのは、小学校の頃に聞いたチャイコフスキーの白鳥の湖だった。悲しみと情熱の入り交じったその旋律を聞くと、必ず同じことを思った。それは物語りのワンシーンのようなものだ。中世の西洋で男が愛する人を守るために別れを告げて戦いに行くことを決意する。しかし戦いに行くことは死を意味する。男が自分自身を犠牲にして愛する人を救うという物語だ。これは全くの空想だった。白鳥の湖を聞く度に同じ空想にふけり、その空想にふけりたくて何度も白鳥の湖を聞いた。自分は主人公の男になっていた。白鳥の湖は心を別世界へトリップさせるタイムマシンだった。
聞感覚トレーニング“夏の夕暮れ時に聞こえるひぐらしの鳴き声”ひぐらしの鳴き声というのはなんと夏の夕焼けの空にぴったりなことか。耳障りでない音とだんだんゆっくりになっていくあのリズム。涼しさと安堵の気持ちを与えてくれる。しかし現在となっては都会で聞くことなどまずないために、一番になつかしさを感じて幸せな気持ちになる。
聞感覚とイメージ能力を伸ばす(暗闇でウィリアムアッカーマンのアルバム「パッセージ」から、ザインペンディングデスオブザヴァージンスピリットを聞いて)風がふいている。風がふいている。背の高い草が覆い茂っている。見渡す限りの黄色の大地。空はどんよりと曇っている。小川に沿って道が一本。一頭の馬に引かれた古びた荷馬車がその道をゆく。納付のような老人が手綱を握っている。老人の色黒な顔は白いひげと彫りの深いしわで覆われている。風はこれからやって来る厳しい冬を知らせるかのように吹き続ける。あれから何年たっただろう。息子は戦争に行ったきり…生きているのか死んでいるのか。おばあさんは昨年、亡くなった。最期まで息子の帰りを待っていた。凍るような寒さの冬の朝、なつかしい古びた木の扉を開けると、自分の写真を握りしめたまま、父さんは冷たくなっていた。老人のその表情は笑っているかのようだった。
<ヴォーカリストになるために必要な科目>語学、朗読…「声とことばのレッスン」を録音してチェック
和声、楽典…「ポピュラーミュージックのための和声学」
ヴォイストレーニング…②、V基、V声の授業による習得
ヴォーカルトレーニング…福島先生の授業による習得。
ピッチ、視唱と聞音、リズム…Wの授業による習得
ライブ研究…鑑賞
柔軟…毎晩20分
体力…毎日、腕立てと腹筋
運動神経…週一回のテニス 楽器(ピアノ)…週2回のレッスン
作詩作曲…週1曲のペースで曲作り、本にて勉強
<音を即興で立体的に捉える>心のトレーニング「音楽と心について」パチンコ店で流れる軍艦マーチ。もしこれがショパンの別れのエチュードだったらなんか似合わない気がする。やっぱり軍艦マーチだからいいのだ。あのリズムとメロディが人間の心を興奮させる。「よし、ここで一儲けしてやるぞ!!」という気分にさせる。ときには人々の心を興奮させたり、ときには優しくさせたり、音楽はとても不思議だ。不思議な力をもっている。
聞覚トレーニング「心ひかれる音」教会のパイプオルガン…心にしみわたるようだ。エリッククラプトンのギター…「いとしのレイラ」のイントロはとてもかっこいい。気持ちが高ぶる。ユーミンの「ノーサイド」のイントロ…たぶんDX7のエレピの音だと思うが、この音がなぜか切なく感じる。波の満ち引きの音…誰もいない海、浜辺で寝ころんでしずかに波の音う聞く。ストレスだらけの日常から開放された気分になれる。アコースティックピアノのアドナインスの音…ドミソの和音にレを加えただけで、どうしてこんなにオシャレになるんだろう。
即興で音をとる…「ふりかえるといつもきみがわらってくれた」(TRUE LOVE)譜面通り→「ふりかえるーと いつもきみーが わらってくれたー」意味が伝わりやすく→「ふりかえると いつもきみが わらってくれた」シャッフルで→「ふっりかっえると いっつもきみっが わらって くれった」
コードをイメージ化する…1.「ドミソシ(CM7)」おしゃれな感じ 2.「ドミソラ(C6)」明るさと暗さが入り混じった感じ 3.「ドミファラ(FM7の転回系?)」緊迫したイメージ 4.「ドミファラ♭」早く落ち着いたコードへ移りたいイメージ、切ない感じもする
音を動かし構成する 自分が好きだった進行 1.→2.→3.→4.→3.→2.→1.
<聞感覚とイメージ能力を伸ばす>[SOUND SPACE]電車に乗って椅子に座り、うたた寝をしていた。電車の車輪がレールとレールの間のつなぎめを通るときのあの独特の音。「ガタン ガタン ガタン ガタン」あのリズム、とても正確なテンポで刻まれていく。「ガタン ガタン ガタン ガタン」ずっと聞いていたら、心臓の脈打つ音に聞えてきた。「ドックン ドックン ドックン ドックン」だんだん大きくその音は迫ってくる。なぜか俺は病院の手術室のベッドのなかで眠っている。右上には輸血用の点滴がぶら下がり、血液の流れる音が「ドックン ドックン」と耳障りなほど大きく迫ってくる。俺はここで死んでしまうのか…やり残したことが多すぎる。父親や母親の顔が浮かんでは消え、浮かんではきえていく。いつのまにか「ドックン ドックン」の鼓動が時計かタイマーかわからないが「チチチチチチチチ」の音に変わっていた。その音が早くなる。時間がない。爆発する。早く逃げなければ…うあー!! 爆発する。逃げようと思うのに手足が動かない。金縛りにあったように手足が動かない。額から汗が流れる。体中、汗まみれだ。「ああもうだめだ」ウアー 目が覚めた。1万人以上の観衆の声援が聞える。「キャーキャーワーワー」立ち上がって早く歌って欲しいというコールだ。ドラムがエイトビートを叩き始める。俺は右手を振りかざし、そのリズムに合せてビートを刻む。観客が一段とうるさくなった。肩から下げていたテレキャスターを背中に回し、俺は観客のなかへ飛び込んだ!!
<声について知る>カールスモーキー石井…胸に共鳴したような声だと思う 。吉田美和(ドリカム)…パワーがある。日本人ヴォーカルのなかでは高く評価されている人だと思う。高い音程になるとつらそう。
ホイットニー・ヒューストン…あの壮大なスケール。シャンソンやカンツォーネの歌手よりも声が豊かだと思うのですが。
ジョンボンジョビ…この人の声を聞くたびに、頭だけで高い音を出しても決して気持ちよく聞えないんだと実感する。彼はあんなにハイトーンなのに声の根っこが胸にある。声をよく聞くとそれがわかる。
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<音色の統一>口を開けっぱなしにして、みんな同じようにヴォリュームを出せること。最初の頃にやっていたときよりは、大まかに出せているような気がします。声出しをして、20~30分たったくらいになると、自分の思っている声が出せるなーと感じました。だんだん高かったり、低かったりするところも、ポジションを変えずに…とイメージしながらだと、一声出すだけでもしんどくなってしまいます。
<確実に声にするトレーニング>一番やりやすかったのが「あなたのあいが」です。後の4つはことばにつっかかってしまったり、思うように大きく言うことができませんでした。特に「ひとりぼっちの…」は、すごく言いづらかったです。
<ことばからイメージを思い浮かべそれを声にする>リラックスしつつ集中力がいるなーと思いました。声一つで表情を出さないといけないというのは、すごく大変ですね。感情を出そうとイメージを繰り返して、心でことばを言いながら、さぁ! という感じでトレーニングはしているものの、本当にそれが「表現」になっているのか不安ですけど…。
<声を個性的に使う>全体的に低い声でセリフを読むような感じに言ってみました。「どうして消えたの」は比較的、感じがつかめるんですが、「ひらすら歩いた」は、どうしてひらすら歩いたの? というニュアンスに合せた方がいいのかなと考えると、とっても難しくなかなか納得するものができませんでした。「やがて別れの日があるとしても」は、「またいつか会える…」みたいな感情で言ってみました。3つとも明るい詩ではないと思うので、顔の表情も無意識に暗くなっていました。
E.X.2-1…いつもトレーニングするときは腰で息を吐くようにイメージをしています。最初の頃はとりあえずという感じでトレーニングしていましたが、今はだんだん体がなじんできたのか、その一言でも体が疲れてきているのがわかってきています。
E.X.2-2…おへその下から息→声を出すようにイメージしていますが、イメージするほどに体が疲れていき、今まで自分で出していた声が上っ面だったことがよくわかります。本当の声を出そうとしたら、5秒出せればいい方かなと思います。それに、息と体のタイミングが難しいです。体を使おうと思い込むと息が浅くなり、声も出にくくなります。一度「ハイ」と言ったら、ちゃんと息を吸うことも大事なんだと思いました。ちゃんとイメージをしていかないと、肩に余計な力が入り、口にも力が入ってしまう。やっぱりリラックスと柔軟は大事!!
E.X.2-3…「ハイ」のやり肩と同じような感じでトレーニングしています。でもあまり口を動かさないで、のどを開けっぱなしの感覚で言うようにしています。腰を曲げて骨盤あたりに手をあててトレーニングをすると少しひびいているのがわがくようになりました。以前「ハイ」の「ハ」を大きく言うように「ハイ」の「イ」はつっついているような感じに言った方がよいと書いてあったので、「ラオ」の「ラ」は大きく、「オ」はおまけみたいな感じで練習していますが、日本語で考える「ハ・イ」「ラ・オ」よりも、よりしぜんだなと感じるようになりました。
E.X.2-4…最初に息を多めに吸っておかないと、最後まで体が使えないと思います。お腹でスタッカートをするのは、「ハイ」のときよりも苦しいなと思いました。「ア」と言った後にまた体と息のタイミングをつかんで「エ」、同じように「イ・オ…」と続けなければいけないので、精神的にも保っていかないといけない部分がたくさんあって苦しい! 私がヤマハに通っていたときの「アエイオウ」は、ただ音を正確に保ちながらだけでいいのかと思っていたので、ここの「アエイオウ」は、こんなにたくさんの意味があるのかとびっくりしています。やっぱり歌を歌うことは体が大事なんですね。
E.X.2-4…そのまま「ア・エ・イ・オ・ウ」と入るよりも、最初に「ハイ」と声なり息で出してから出す方がやりやすいように思いました。「イ」は、どうしても口に変に力が入ってしまい、タイミングが難しいので「エ」と「イ」の間のような口の開け方で出すようにしています。深いところの芯を邪魔させないと本では書いてありましたが、高いところにいけばいく程、胸のポジションは変えずに…とそれなりに意識してやっていますが、テンポがゆっくりのときの方が、深く息を入れやすいです。速いと速さだけにとらわれてしまって、考えているうちに終わってしまうので、少しずつテンポを速めてどんなテンポでもしぜんに体に入れられるようにしていきたいです。
E.X.2-5…決して「ラ・ア」となってしまわないこと。「ラァ」と最初はイキで半分出してから、後の半分をだんだん声にしていくというやり方でもやっていますが、息から声にする瞬間にとっても体を使い、腰にひびいてきますね。やり終わったあとは、とっても背中、横腹あたりがしんどくなっています。最初から声で出すときには、前の「ハイ」と同じように音で出すことは考えないで、たっぷり息を使って強く押し出すイメージを忘れないでトレーニングをしていきたいと思います。
E.X.2-6…「レ」から「ミ」にいくときの「ハイ」の体の踏み込みが苦しいーっ! これも「アエイオウ」のときと同じように、息を思い切り吸っておかないと…。一応、これまで自分はそれなりにやっているのですが“縦の線”に本当になっているのでしょうか。ただ胸でひびいているのは確かだと思います。音程を低くして出すとき、ついつい腰での意識を忘れてしまいがちなので、そのところを気をつけたいと思います。
E.X.2-8…カンツォーネ集で聞いたときは何でもなさそうに歌っている感じがしました。日本語の詞では「さりゆくーいまこそーしってほしい」という詞だそうですが、全体的に流れるように歌うことが大切だと思いました。伝えたいのは「さり」と「いま」と書いてあったので、そこを重点的に大きくイメージをしてトレーニングしていますが、「去りゆく、今こそ…」と何度も何度も読み込んでいって感情を宿していかないと、ただ「さり」と「いま」を大きく出しても聞いている人に伝わらないと思うので、歌にするまえに徹底的にことばを読み込んでいきたいと思います。
E.X.2-9…同じポジションで取ろうとすると、表現が怠っちゃうし、表現しようと思うとポジションの取り方のタイミングがつかみにくいし、そこのバランスが難しいと思いました。まあ何も飽きずに、繰り返してトレーニングして、自分なりに「これだ!」というものが出てくれば、やりやすいんだろうけど、そこまで自分がまだやっていなかったんだ!ということに気づかされます。
E.X.3-1…今思えば、歌ったときは歌いたいというより、歌わなくちゃという気持ちで歌っていたので、表現というものがまるでなかったという気がします。このフレーズは、もう最初から踏み込んでいかないと結構きつくて、そこを大切にしないとなー。もっと時間をかけて煮つめていかないと、イメージ、イメージ、パワー、パワーですね。
E.X.3-2…歌っちゃわないことを心がけています。最近、トレーニングをやり続けて体を使っているのになんで思うように大きく出せないのだろうと思っていたところ、今までそのやり方でやらなかっただけ、正しく使っているとよい声がうまく使えるようになる、と書いてをったので、救われたと感じています。あまり音程は気にしないで「マリア」と「マリーア」を変わらないヴォリュームで言えるようにしています。
E.X.3-3…腰を常にイメージしながら言っていますが、「リーア」あたりになってくると、かなり体を使って言わなきゃと思いながらやっています。「マリイア」とならないようにすることを心がけています。「リーア」のところはどうしても、胸のポジションから逃げてしまいがちで、口にも余計な力が入ってしまう気がします。「マリア」と大きく言ってから「マリーア」と言うと、とてもやりやすいです。自分の最も言いやすい音で確実に出せるように心がけています。
E.X.3-4…基本的なところは、今までのやり方とそんなに変わらないで練習しています。3つとも同じヴォリュームで、歌っちゃわないようにという感じです。
E.X.3-5、7…「まずは音を探さないで、しぜんに出てくるようなフレーズにと思いました。「ハイ」は何とかだいじょうぶなのだけど「マリア、マリーア」が音につられてしまうなー。やっばり「マリーア」は体がいりますね。
E.X.3-6…「マリア」と繰り返して言ううちに、感情が出るような感じがします。特に最後の「マリーア」(ラミレ)は、ありったけのものを全部出す! かなり気合いを入れていかないとただの“怒鳴り”になってしまいますね。こんなフレーズをイタリアあたりの人は何てことのないように、まあーそれなりに力を入れてやっているんだろうけど、どういう体をしてんのかなー。それとも日本人のパワーがなさすぎるのかなー。
E.X.3-8…毎日トレーニングしていることばなので、「マリア」よりはとてもやりやすいです。前の方にもどっかで書いてあると思いますが、「い」を「あ」と「え」の中間ぐらいに口を開けてやっています。入りたての頃よりはポジションが胸でとれているとは思います。でも、この項目の文章で「タン タン タン」(ラシド)で最初に使う力が1だとしたら、次が3、次が5というくらい差をつける。「あおい」と3回言えばよいのだからと力を3等分にしてしまう。それを感覚的に変える、と書いてありましたが、「なるほど」とうなずかされました。ただ、決められたものを決められたように行なうんじゃなくて、それ以上に力を出しきるのが大切なんだと思いました。“一所懸命”というのは、こういうことなんだと気づかされました。レッスンでも、これぐらついの志をもって望む方が、断然、力のつきかたが違ってきますね。
E.X.4…息を吐ききる練習をすればよいと書いてあったのが、大きなヒントになっています。どうしても、声から考えがちなので、息から入った方がより簡単に入れます。ここまでを振り返ってみると、声のポジションはどんな音でも変わらずに、のどを広げことばが口だけで動いているという感覚でやっていくのが目的なのかと思いました。
E.X.4-2…自分でその詩からイメージを読み取ることが大切なのではないでしいょうか。本には「すでに」で先を予感されるように終わってみて…と書いてあったので、自分なりの方法としては、全体的に流れを大きくして「あいの」のところはささやくように言いますが、割とおさえめに言って、そして「ゆめは」で大きく、けれど悲しく…というような感じでつけてみました。もちろん、胸のポジションを変えずにですが、それにしても体と感情のバランス、本当に難しいです。
E.X.4-3…全体的にベターッとしないように心がけています。特に「おもっている」のところは「お・も・っ・て・い・る」というようにならないように、語る気持ちになった方が入りやすいです。まずは詩を読んで、自分が女優さんにでもなったかのように演技をする感じで。それを何回かいろんな女性のパターンで読むこと。まだ、これだ!! というものが見当たらないんで、もどかしいですけど、こういうやり方をやっていくといろいろ考えられて結構楽しいです。
E.X.4-4…この項目でも書いてある通り「すでに」の「に」がなかなかうまくできません。「あ」に近いような口の開き方の方が、体も入りやすいので、その方法でやっています。「あいの」でも「すでに」でもよいから、そこまでで勝負を終わらせること。と書いてありましたが、歌のたった1フレーズに歌のすべてが入り込んでいて、そこを思い切り出し切ればいいと感じています。
(P23参照)可能な限り思い出し、それを書きとめ、音源を入手できるものは、できるだけ手に入れる(もちろんお金もかかるから、そう自由にはならないが)。歌詞もできるだけきちんと調べる。メロディは憶えているが歌詞はあやふやなもの。あるいはその逆。そのどちらもあやふやなものもある。少しでも手がかりがあれば、それを突破口に、執念深く追う。こうして揃えた歌のライブラリーは、言わば、私の音楽史だ。
私の袋のなかにつまっているものなのだ。こんな作業をやって、何が見えてくるのか。歌うことの確信が持てるのか。自分の個性を発見することができるのか。正直なところそのこと自体、そんなに強い碓信があるわけでもない。しかし他に何がある?
ぽんやり考えて答えが出るならそれでもいいが。もちろん、ほんの少しだが見えてきたものもある。たとえば、自分自身に対する思い込みの排除だ。私はこんなタイプの人間で、私はこんな音楽が好きで…といった自分自身に対する固着概念が、「好きな(だった)歌を並ベて一挙に聞いてみる」という作業によって、少し壊されたのだ。自分の意外な面を発見したとでも言おうか。ともあれ、私にとっていま大切なのは、こうした面倒臭い、しんどい、うっとうしい、できることならやめてしまいたい作業を、こつこつとやってみることだと思う。
それができないのなら、私の歌に対する、音楽に対するモチベーションなんて、しょせんその程度だということだ。そして、その程度のものからは、おそらく「個性」など生まれっこないし、そうであるなら、しんどい、ここなんてやめてしまったほうがいい。
何故私たちは悩むのだろう。いや何故考えなくてはならないのだろう。歌う意味を。音楽することの意味を。そうしなければ、歌えないのだ。少なくとも、個性的に歌おうとする限りは。歌がなくても、音楽がなくても生きていける私たちは、せめて悩み、考えることで、かろうじて自分の音楽に、歌に、価値を与えることができるのだ。