一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

合宿特集Ⅱ  初日

合宿特集Ⅱ  初日

 

Ⅱ 

初日 昼

   夜

テキスト3

福島コメント

テキスト4〜7

 

 

初日 昼     360712

 

 

 今期の合宿の概要とここの利用の仕方、その他の注意を簡単に申し上げます。時間とか細かいことに関しては、班長を通じ、適時お伝えします。変更が多くなると思います。連絡します。

後は、スタッフに聞いてください。

 

最初にとりあえず、メンバーの紹介を。スタッフより自己紹介。

今回の参加者のなかには、私と初対面の人もいますし、

今まで来られなかった通信講座の人もいます。

ですから、そういうことで、まず、あいさつをしましょう。

 

 

本日に関しては、当研究所だけが使いますので、全部の施設を自由に使えます。ここが第4セミナーハウスで、昨年からできたところです。ここより少し小さいですが、我々の人数からいうと充分な広さの第1セミナーハウスが先の右側にあります。それが、明日明後日、メインに使用する練習場所です。それからその隣にもう一つあります。

 

今回は3班構成で進めます。メインの練習場所は、その第1とその隣の場所です。先ほど皆さんが荷物を置いたところの一番手前の会場ですが、これらをかわるがわる3班で利用します。部屋割りなどに関しては、男女別に2つずつとってあります。

今日の予定は、天気のこともありますので、先ほど決めたところです。

 

 

この後、どんな人が来ているのかを、我々も知る必要がありますし、

皆さんも知っておいた方がよいと思いますので簡単に一人ずつ自己紹介をやります。ヴォーカリストの自己紹介ですから歌が一番よいでしょう。

 

これだけの人数が一度に歌うと、時間もかかってしまいますので、班ごとに歌ってもらいます。

最終日になって慣れ親しんだところで歌うと、その人をもっと早く知っておけばよかったとか、話もしておけばよかったとか、そういうこともありますので、全員まわします。

 

一人一曲歌う、本当に簡単にで、結構です。

大曲を10分も20分もかかっては困りますので、一応2分くらいで何とかまとめてください。時間を計ってカットさせていただくかもしれません。こういうことをやると、絶対、延びるからです。

 

 

 今回の合宿のメニュー

今まで新しいものを毎回、チャレンジしていましたが、質的によくしたいということで、昨年のを繰り返します。一昨年まではミュージカルをやっていましたが、それも形だけで終わりがちでした。

昨年もかなりよいメニュをやりましたが、合宿から帰ると、そのことが繰り返せないということがあるので、今回は少々変えました。

 

 みなさんにもここに来るまで随分、考えてきたと思いますが、やはり自分にとっての歌というのは何なのかということ。

 皆さんも今までそれなりに生きていて、それぞれの年齢で考えることというのは、いろいろあると思いますが、3日間、今までの生活を離れて、ここに完全に缶詰めになるわけです。

 

だからこの機会に、自分のことを掘り下げて考えられるようにメニュを考えています。

 メニュとしては、他の人たちの材料にもなるわけで、今までは歌とか音楽とか、声のことに徹底してやってきましたが、その声のことを考えなければいけないということに付随して、声以外のことで大切かつ効果のあることを加えています。

 現実に戻ったときに、また現実のなかでここで得たことが失われてしまうのであれば、もっと根本的なことを考えなければいけません。

 

 あまり皆さんの生活にはない3日間、自分で一人でとろうとすると3日間というとなかなかとれないわけです。ですから、実質、この前の京都の集中でもやりましたし、昨年の軽井沢合宿でやったことを、もっと密度を濃くして、それで正味6時間くらいのメニュになると思います。

 

ただこの時間を本当に充実させるには、60時間くらいかかるだけの、あるいは一生かかるだけの内容があると思います。

 そのメニュのポイントは、一つだけだということです。歌詞を覚えたり音程を覚えたり、そういうものをすべて省きました。皆の体一つ、心一つ、それとこういう環境のなかでどのくらい凝縮した上で解放できるかということです。

 

 ほとんどの人の生活は、朝起きて勤務して、17時か18時で疲れ切って、疲れたところで研究所に来て、そこでいきなり音楽に切り変えて、それで歌をやっているようなことが多いと思います。だから、それから切り離されたところで、ここで考えついたこと、思ったことを大切にしてもらって、研究所というより自分の歌なり人生に対する考え、何を歌っていくのか、どう歌っていくのかということを含め深めていけるよう、充分に時間が与えられるように考えました。

 

 いつもは本当にあわただしく、次は食事だとか風呂だとか、忙しないです。この3日間も、結果として、そうなると思いますが、なるべくゆったりさせたいと思っています。

 

 時間がもったいないので、班分けおよびメニュの方を進めていこうと思います。最初に班ごとに分けて説明します。少しでも親しみがわくために班長に名前を呼んでもらいます。(各班、班長による点呼)

 歌う順番も決めておいてください。客席をそちらにつくります。

 

 

 今日の予定は18時まで動きます。それから18時から夕食、18時半くらいから19時半くらいまで順次、入浴をして、その後メニュというようにになっています。それは体調とか、中には疲れている人もいますから、ここで音楽を聞かせたり瞑想をしてみたり、いろいろなことを試みています。

 

 だから、オフメニュという形で、21時近くまでやります。調子が悪いとか休んでいたいという人は、でなくても構いません。それで、今日は21時から22時まで、先ほど渡したエチュードを徹底してキャプテンを中心にやっておいてください。

 

 当然、ノートに今日の予習をやっていると思いますが、そのことに関して語り合って、明日からの作品づくりを正確に、きちっと組み立てていくということです。班長は今までの経験とか、今回やるメニュに1回以上、出たことがある人です。このメニュの意味が全然わからないという人は、班長にアドバイスをしてもらってください。

 

 それから、今回、単純に女性を班長に、男性を副班長に選びました。何の意味もないです。交流という意味で副班長は関西の男性に決めました。最初に自己紹介をして、自己紹介は10秒か20秒くらいで、それから歌に入ると、これで約半数が終わります。

 

 それから外の散策メニュを設けてありますので、それが終わってきてから、後半の半分の人の自己紹介です。一通り、今回、参加している人がどういう人なのかはわかるようにします。たぶん、遅れて来る人も随分いると思うので、それはその都度、全員の前で自己紹介をして、歌ってもらいます。

 

 

 

 すぐにメニュに入りたいと思います。では、各キャプテンに一応、司会をしてもらい、とりあえず最初に自己紹介つきプラス発表会です。自己紹介のときに、言って欲しいことが2つあります。

 ここにきて何年になるとかよりも、2つテーマを入れてください。

 

 一つは、もし合宿に来なければ、この3日間、何をしていたかということを話してください。10秒くらいでよいです。それからもう一つは、ノートを書いて気づいたこと、単純にいうと、どの項目を自分が最も考えたということです。何日から何日くらいまでつけたのか、どのくらいのページ数やったとか、ここに工夫したとか、そんなことでもよいです。

 

 合宿に限らず、研究所のメニュというのは私たちが与えるというより、お互い影響しあっていくことを重視しています。皆さんのなかのメイキングオブを知ることで、作品がよりよくできると思います。

 本当はあんなことができるのは、どんな努力していたのか、どんな工夫をしたのかを後で聞けばよいですが、最初にメイキングオブを言ってもらいます。この項目、二つは必ず入れてください。

 

 歌と合せて、2~3分のなかにまとめてください。あまり長いようでしたら、キャプテンの方からストップをかけさせます。そういう形で後はキャプテンに司会をゆずりますので、早速開始しましょう。

 

それから、合宿の場はこんなところなので、遭難とか事故とかは発生しないと思いますが、他の団体とも一緒です。先ほども全部のドアが開けっぱなしで、いかにもうちらしいですけれど、鍵はかかりませんが、一応、戸締まりをしてください。

 

 壇上は4つどこを使っても構いません。全部のステージを使っても構いません。左右に大きく動いても構いません。ただ、柱のかげに隠れないようにしてください。座ろうが寝ころぼうが、好きに使ってください。柱で見えない人は適当に移動してください。それでは、盛大な拍手で迎え、なくてよいです。終わったあとの拍手だけしてください。終わらせるためです。

 

 

 

 

 合宿は大変な作業だと思います。ほとんどの人が仕事を休んで参加しているわけです。いつも言っているのは、仕事というのは現実なんですね。その代わりにお金をもらいます。ここは逆に、皆さんがお金を払ってきている。何をやってもよいというより、現実から離れている。歌というのは現実をどこかで越えないといけない部分があります。

 

 ここでの作業を何で見なければいけないかというと、芸術がある意味ではのみこんでいくことのプロセス、それは決してきれいなものではない。いろいろな活動がある。こういうところに来ると、いろいろ解放されてユートピアみたいになって、気持ちがよくて声が出るというのでは歌にならない。

 

 「しょうか」というのは二つ意味があります。普通の生活をしていく、ものごとを消化していく、食べていく、それは課題です。その時点までに充分な栄養を貯えておくこと。そして、昇華です。

 

 

 今回はここを使っていきなり歌うのではなくて、すでに一つの大きな戦いは終わっていて、その歌を契機に、ここから第二弾ということになるわけです。ステージというのも同じです。だから、その準備をお願いしていたわけです。

 いつも3日目くらいに盛り上がっても、盛り上がった感覚に切り換えるのは大変だと思います。遅れてきた人が、入るのと同じくらいに、皆さん、この時点で遅れてきたくらいに思ってやる方がよいと思います。

 

 今回は以前みたいに細かくモノトークのように原稿を提出などということはしません。会報などにオープンにするときも、全部、無記名にします。

 ただ、自分の名前でやるのは、別に恥ずかしいことではなく、堂々と出していけばよいわけです。そこが表現の世界ということになるので、当然、日常生活と別の形になるわけでどちらがよいということではないです。その人のタイプにもよりますし、そこまでして表現したくないという人もいます。

 

 

 こういったものの場合、できない人とやらない人とがあいまいです。たとえば課題をやってきていないというのは、私たちの世界でいうと、台本を読んできていないということです。できると思っているわけでしょうが、本当にできるのであれば、結果オーライということです。ただ、力はつきません。周りに比べてよいとか悪いという話ではないです。

 

 それと、3年もいる人が、1年目の課題のレベルでやっても仕方ないわけです。プロでやっている人たちのレベルでやろうとしないないから、いつまでたっても上達しないわけです。

 準備しないのはプロではありません。その人がその人を限定しているわけです。それは自分のなかでできると思い上がっている人です。世の中や、自分のめざすべき世界を見下しています。だから見切られてしまうのです。次の時間、その作業をしてきていない人は、やっておいてください。

 

 準備に1カ月かけてきたり、寝ないでやってきた人もいるわけです。だから、そうやれということではない。他の人よりうまくできることよりも、昨日の自分に勝てないところで、すでに負けているのですから。声が出るだけでその人たちと同列だとは思わないです。

 

 歌というのは、歌がよければよいというわけでもないです。結果的には歌がよければよい。ただ歌だけを歌のなかだけでやれるという人間の歌なんて、果たしてこの世の中にあるかということです。 

 ここで聞いている人は、何がこの歌でよいのかというところを考えなくてはいけないです。自分のなかでどうということでなく、人前に出たいのであれば、表現に対し、評価するのは、常に他人です。

 

 他の人が、評価するわけです。みんなのなかで、全然ヘタでもお客さんに、よい、聞きたいと言われるような人は、ヘタにうまいだけの人よりも、活動ができるわけです。

 

 ただ理想を言えば、やはりみんなのなかで歌ということを限定させないで欲しい。いろいろな才能があるわけです。それを歌に込めていって欲しい。ただ他の人は、それをどう取り出せばよいかはわからない。その人がキラリと輝く時間を2年間で見ることもあるし、合宿に参加したことでもわかることはあるのですが、わかったからどうすればよいのかというのは難しい。

 

 

 だから、まずそこに自分の意志でいるということです。それはもしかして歌ではないかもしれない。仕事でないかもしれない。しかし、すべてを口にすることです。研究所では、いろいろな音楽をやります。

 

 最初に言っていることは、今まである音楽が絶対好きでやろうと思って生きてきたと、でもそれにとらわれず、一度新しい無地の心で全部、聞いてみよう、昔からの音楽も世界各国の音楽も全部、聞いてみる、そのときにこれが好きだと発見したものはあなたの才能への新たな気づきで一つの作品になるわけです。

 

 だから、何か、一芸をやってきた人は結局、広い器をもっているものです。昔から世界中から大なり小なり、いろいろな影響を受けているわけです。また、そういうパワーがなければ、芸の世界は成り立たないわけです。皆のなかには一人ひとりに絶対に才能はあります。

 

 これは皆のなかといわなくても、世の中、すべての人がそうです。何か与えられているものがある。それに気づき、とりだす労を惜しまないことです。

 ところが、本人が目をつぶっている場合はどうすればよいか、ややもすると音楽や歌が好きという思い込みでごまかされている場合もある。ものすごく好きだと思うのと、人前で歌っていくのは全く違います。そしてそれはその人の才能を一番、生かした形の歌かどうかはわからない。

 

 たまたま時代とか、人間がそういうふうな形で集まっていく場があるということにも左右されます。だからまず、聞くということ。心の声をです。わかっているふりをしない。それからたった一つの問題でも気づいたら徹底してつきつめること。そこから違ってくるのです。

 

 

 

 そして、表現。ここにきたということで、それは研究所に何年いるかということではなくて、時間空間を越えられるか、越えられないかということ、あることができているかできていないか、それらは体の動きでわかります。振付けではなく、ここに立った時点で、その歌が、歌になっているか、表現として練られたものかどうかがです。

 

 その人が歌ったときにどこがよいのかというのは、歌がうまいということよりも重要です。音楽がそのなかで奏でられているかどうか、バックグラウンドにあるものがそこに聞こえてくるかどうか、とても総合的な要素です。しぜんな環境のなかで音楽をやる。しぜんな体が楽器です。その時点で捉えられないと体は固くなり動きません。最近、ヒーリングとかいろいろな音楽が流行っています。人間の心とからだのバックに音楽はあるわけです。

 

 

 私が話しているなかに、鳥の声が聞こえたりしたら、鋭すぎますが、何もそんな難しいことを言っているわけではなくて、一回ここまで心を開くということです。そのために、一つの空間とか時間のなかで捉え直してやるということと、プロにしていきたいということであれば、自分のものに気づいていくということです。

 

 先ほど、才能ということで言いましたけれど、たとえ変に見える状態であっても、人から変だねと見られても、それが一つの才能かもしれないということです。変だと思うことはなかなかできないものなのです。だから、まずそこから一つ捉えていくということです。ただし、捉えることで単に変という域を出られなくなり、逆に心や体が制限されていくようなものは、見込みありません。それはこうしたリラックスした場において、行なうとよいのです。

 

 

 まず課題を練り込んでいくということが、今回の第一段階だと考えてください。感情を練り込んでいくということです。歌声できれいに歌おうと考えるより、パワーです。人というのはコンプレックスがパワーになります。確かに今日、こうしたいと思ったことができなくても、人から評されるようなこともなく、我々は生きていけます。

 

 しかし、イマジネーションがそういうエネルギーの根源になるパワーを吹き出す方がよいわけです。コンプレックスは、変なところを徹底して活かしていく。歌のことがすべてわかるなどということはたぶんあり得ない。私もわからないです。ただわからないから試みなくてよいということとは、また別なわけです。わからないけれど、それに取り組んでいくからおもしろい。その取り組む姿勢を出すということ、それがその人の歌の切実ななかに音楽の表現と、また別の意味で力になります。

 

 だから負の感情を感情レベルで表現する。今回はことばで捉えました。それを表現は音でやっていく。徹底して考える。悩みごとなんてあっても考えなければ仕方のないことで、考えたら切れます。キレるというより、結局、考えても仕方がない。

 そうすると今度は感情面が入ってきます。負の感情でよい。それにことばを否定されて、憎しみをやらなければならないとかなると、具体的にそれを落とすということ、表現していくということになってくる。ここから伴奏が聞こえてきたり、自分が出てきます。そして昇華されます。作品として独立していくものが出せるのです。

 

 

 

 

初日   

 

観客との呼吸があります。皆が必死で演技をして息をつめているときは、お客さんもみんな息をのんでいます。その空気がここを支配しています。それからみんなが呼吸をしはじめる、そこから再起して再生しているとき、当然、お客もそのペースで一緒に呼吸をしています。

 

 このくらいの人数だったら、慣れたら感じられるはずです。よく聞いたら感じられます。やっているときは一所懸命で次に順番が何番だとか、そちらの方に目線がいってしまい、なかなか聞けないですけれど、ずっとやっているとわかってきます。

 

 なるだけ聞く努力をしてあげることです。本当は見たくないものです。観客も見たくないし、周りの人も見たくない。自分の足もとだけを見ていたらできますけれど、それはアマチュアのカラオケと同じで、聞かれていない。聞かれていないのですから、コミュニケーションがとれていないということになります。そこも感じて欲しいところです。

 

 みんなで作品をつくるというより、自分の作品、自分のプレーをまっとうしてもらうだけでよい。歌はソロです。ソロの流れがこう組み立てられて、まわりからは自分のためのバックコーラスが入ってくるんだというくらいに考えて、自分の時間を大切にして欲しいです。

 

 全部、自分の時間ですけれど、特にみんなの視線が集まるというのは、少なくとも2回あるわけです。それ以外も、ずっと魅きつけてという人もいるかもしれないですが、それはちょっと別の才能、タレント性だと思います。

 

 

 後半のモノトークは、声の解放とか全体的な仕組みというのは、天の声を中心に、キャプテンに各班回ってレクチャーしてもらいます。皆の方でやっておいて欲しいのは、イマジネーションとその作用です。この課題の次は悲しみだ、次は苦悩だというように進めるのではなくて、その悲しみをせっかくノートにつけ、いろいろと準備してきているわけです。しぜんにとり出すことです。

 

 そうでなくとも、今まで生きてきているわけです。それは全部、舞台のための準備なわけです。ヴォーカリストですよね? 昨日の作品を見たことでも、それをその場、その場だけで取り入れたのではダメで、みんながここで表現するのだから、そのチャンスに、それを少しでもよいからここにもってくることです。もってきて出すという力が必要です。

 

 いつも言っていますが、民族にある音楽は強いというのは、もうそれが血に入っている、リズムも入っている、音の感覚も入っているからです。私たちはそういうものをなかなか受け継いでいない、あるいは受け継いでいてもそれを切り離してしまって出てこないからです。

 

 だからそういうことで言うと、世界を学ぶことが必要です。その上で舞台でも歌でも何と捉えてもらってもよいのですが、ここで、こういう場が少しできたところで、自分をきちっと出せる快感を深い意味で味わってください。こういう所に住んでいて、こういう生活を毎日やっていたら、里に出ても何も怖くないわけです。ステージであがったりしなくなると思います。

 

 ただ、それができるかできないかということになると、実際やるかやらないかではなくて、イマジネーションの世界だと思います。私もそこで暮らしています。だから、今日のなかでも自分を主人公にしてみて、組み立ててください。ただ主人公というのは、他の人よりも長く時間をとるということではないです。印象です。

 

 モノトークを長々として、それで印象に残るというのは、もう見たくないという印象でしょう。もう会いたくないとか、来年は来ないで欲しいとか。こういう印象は残さないでください。

 でも、何も残さないよりはよいですね。

 

 捉えて欲しいことは一つです。人間の肉体として出てくる肉声ということです。今回に関しては、それをどう使うかということをもう一回、体に戻して大地に戻して考えてみるということです。

 

 班ごとにまとまって、どこの箇所になるかわかりませんが、順がまわって来たときにそこまでに思っていたことをその音声を通じて伝えてください。これが明日の伏線になっています。

では、その歌詞のところに入るまでを読んでいきます

 

 

 

 

テキスト3

 

1.シミュレート能力

 

 『わたし』が『この歌』を『歌う』

 もしもだ

 もしも、この軽井沢にまもなく大地震が来て

 あなたはまもなく死んでしまう、としたら

 そして、最後に一曲だけ、歌を歌うのを許されたとしたら

 あなたは、なんの歌を歌いますか?

 そう、あなたの『生のおたけび』をたった一曲の歌で表現しろ、と言われたのなら

 どう歌いますか

 どんな顔して、うたいますか

 

□1秒ごとに歳をとる

□この一瞬は二度とかえらない

 このことは恐ろしいことに事実なのだ

 ほら、今だって

 大地震が偶然にくるのを待つ必要もなくね

 

 

 

ーー

福島コメント

 

 よくある疑問ですね。軽井沢は地震よりも火山の方がまだ危ないですが、本当に大地震がくるかもしれない。火山が噴火するかもわからない。一昨年は雷がきましたね。本当に怖かったですね。傘をもっていくと傘に落ちるとかいわれましたけど、本当に近くの自動販売機に落ちましたからね。

 

 こういう現実味のある体験を今年もできればよいです。自然と遊ぶだけではなくて、夜も肝試しにしようかと思いましたが、ちょっと恐すぎる音源(恐山)をみんなに渡してしまったので、事実になってしまうと取り返しがつきませんので、やめました。

 

 ただ、それをイマジネーションの力で起こしてください。イマジネーションで現前に生じしめる力をもつ、大地震が偶然にくるのを待つ必要はないです。自分のなかにおこせばよいわけです。舞台では皆が神です。日常生活でも同じです。1秒ごとに歳をとるし、この一瞬というのは帰ってこないし、ただそんなことを考えたら、生きていけないから考えないわけです。

 

 ところが歌は違う。こういう表現ではないですが、私はよく言っているはずです。

そんなことを考えていたら、いつだって大地震のはずだと。

 

 

 一曲の歌をあまりにも不用意に歌ってはいないか

 大地震がくる、たった一曲の歌

 そうしたらあなたはその歌に自分のすべてをつめこむわけです

 その一瞬を永遠にするために…

 

 村上進さんの歌を、彼が亡くなった今も、使っています。私のプロデュースする力も、彼が命の時間を制限されてから出した思いに負けてはならないと思っています。

 たった3分間、その一瞬を永遠にすること。これがいつできるかという勝負だと思います。ここから、クエスチョンです。

 

 

 

 

テキスト4

 

 質問します

 『あなたが歌う歌=あなた』と言われたときに、困りませんか?

 『いや、本当の私は、もっと…なんです』と

 弁解したくなりませんか?

 

 もう皆、一曲歌ったわけです。これがあなたですかと言われたときに、あなたは困らないかということです。その後に、いやさっきは歌ったけど、本当の私はこうではなくて、もっとこうなのですとか、何かつけたくなりませんか?

 私のことはこの歌を聞いてくれたらすべてわかる、私が語る以上に私がわかる、そういうヴォーカルでありたいものです。

 

 あなたの容姿も

 あなたの表情も

 あなたの人生も

 あなたの心も

 あなたのすべてを使って

 歌うのです

 

 裏切ってはいないか?

 容姿で、表情で、歌を

 

 皆の容姿も表情も、すべて人生で心から感じ味わってきたものを含めて、歌として歌っているわけです。歌い手であればその後に「いや本当は」とか「もっとこうやるつもりだった」とか、それを言ってはいけないわけです。

 そこで出たものが、仮に歌い上げたもので、自分と違うとしても、見ている人にとっては、あるいは聞いている人にとっては、それがその人自身だということです。だから、ヴォーカリストなわけです。

 

 表情で、歌を-

 人生で、歌を-

 心で、歌を-

 裏切ってはいないか?

 

 それを正していくのが、今の課題です。声のことばかり求めていて、表情のこととかステージングのこととか、そんなことは考えてはいない人が多いのではないでしょうか。そういうのは、心が宿ったり声に何かをこめようとしたときに、しぜんと出てくるもので、無理してつけない方がよいのは確かです。

 

ただ、歌に対する想いとか、それを何か伝えようとしたら当然、表情に出てくるわけです。人生で歌を歌う、心で歌うものだからです。歌ったときに、ウソと本当の部分があり、本当のことがなかなか出てこないから、裏切ってしまうのです。それではまだまだステージは遠いのです。

 

 

 

 『おれの靴に足をいれてみろ!』

 ということわざがあります

 おれの身になってみろ、という意味なのですが

 歌を歌うには、この作業が必要になります

 

 歌詞の文句

 あなたはそれを『歌う』のです

 あなたはそれを『表現する』のです

 あなたの容姿をもって

 あなたの表情をもって

 あなたの人生をもって

 あなたの心をもって

 その歌は、あなたなのです

 

 人様の前で歌うということは

 『私が叫ばずにいらないことは…』

 という前提が、いつだってついているのです

 

 ことばの効果も、歌詞の効果も

 歌い手自身がちゃんとしらなくて、はねえ

 

 『他人事』を『自分事』にしなければ

 消化しなければ

 表現などできません

 

 

ーー

 

 

 今、渡した3つの曲の歌詞は、みんなにとってはまだ他人のものだと思います。全部を読む時間もないかもしれないけれど、自分に与えられた1、2行の歌詞、そこで何か試みて、試みたことから気づいてください。それは世界の断片です。でも、そこからしか世界は見えないのです。そこから集中して、ありったけのものを読み込み、表現することです。そしたら少しは、自分のものになります。その繰り返しが大切です。

 

 ここはお客の待つ発表会ではないですから、まず歌詞の世界に、その靴のなかに自分の足をゆっくりと入れてみるということを試みてみましょう。(こうやって、とうとうと話していると私も退屈するので、少し実習をしながらやっていきましょう。いつもみたいに回していくと単調になるので、今回はここでスパッと分けていきます。)

 

 1曲目から続けて5曲目まで、プッチーニの「星は光りぬ」、トスカの有名な歌で多くのオペラ歌手が歌っているものです。これをBGMでエンドレスに、一人ひとり、全部回るまで回しておきます。

 BGMとして小さくかけてみます。聞いたことはあると思います。最後の人にいくまでに全部、終わったら頭に戻ってお願いします。では、自分たちのペースで回していってください。

 

 終わったらそこに座ってください。

こういう世界に慣れると思います。

 

最初がカルーソーです。これはちょうど、1900年に初演されたものです。私はプラシド・ドミンゴのトスカを見て、役者的な要素も加わり、昔、感激したことがあります。

 プッチーニ1924年に死にました。多くの人から愛され、何万という人が、この歌に足をつっこんできているわけです。

そこから何か感じてもらえたらと思います。

まずカルーソーですね。カルーソーの出したレコードは、これよりも性能は悪かったと思います。

でも伝わった。何が、でしょう。

 

 

 

 

 

テキスト5

 

プッチーニ:歌劇「トスカ」より「星は光りぬ」(第3幕)

1900年1月にローマで初演された「トスカ」は、ジャコモ・プッチーニ(1858-1924)のオペラのなかでも劇的な内容をもつもので、1800年のローマを舞台にした全3幕のオペラです。

 その第3幕、サンタ・アンジェロ城でのこと、歌姫トスカの恋人で画家のカヴァラドッシは、友人の政治犯の逃亡を助けた罪で捕らえられ、ローマ警視総監スカルピアから死刑を宣告されます。処刑されるというその日の夜明け近く、輝く星を仰ぎながら、トスカとの愛の日々に思いを馳せて歌う、カヴァラドッシの名アリアです。

 

 

<訳1>

 星は輝き、大地はよい匂いに満ちていた。

 

 庭園の扉が軋み、

 歩みは、軽く砂地を掠める。

 あの人が、かぐわしくはいって来て

 私の腕の中に倒れかかる…

 

 震えながら、あの人のヴェールをとり去り、

 その美しい姿をあらわしている間の

 あの甘いくちづけ、あの悩ましい愛撫!

 

 私の愛の夢は、永久に消えてしまった。

 時は去りゆき…

 絶望のうちに私は死ぬのだ!

 今まで、私はこれ程生命をいとおしんだことはない!

[鈴木松子・訳]

 

 

<訳2>

 星は輝いていた。

 そして大地も香しかった。

 果樹園の戸が軋み、砂地の上に軽い足音がし、

 彼女がやってきた、甘い香りをただよわし、

 私の腕の中に崩れ落ちるように入ってきた。

 ああ! 甘い接吻、やさしい愛撫、

 はやる心を抑えている私の前で

 着物を脱いでその美しい姿を現わしたのだ!

 私の愛の夢はもはや永遠に消えてしまった、

 時は去ってしまった。

 私は絶望の中に死んで行く!

 今ほど私は自分の命を

 いとおしいと思ったことはない。

[永竹由幸 訳]

 

 

 

2番目が、カルロ・ベルコンテェ

3番目がマリオ・デル・モナコ

4番目がカレーラスです。

 この歌では、私は一番好きです。

最後はルチアーノ・パヴァロッティ

 5人のを聞いてもらいました。

 

 何か自分でもできる気がしているとしたら、そのイメージを大切にしてください。今回の合宿では彼らがやったことをやって欲しいわけです。先ほどやったことを、彼らもやってきたわけです。彼らが特殊な人間ではなくて、努力をした上で出てくる何らかの素質があったわけです。

 

そこを今すぐ、この合宿で問う必要はありません。ただ、受け継いできたもの、同じ人間の同じ体、同じ心で感じてください。

 

 当然のことながら、この曲はトランペットとかエレキギターとか、ピアノでやるよりも、人間の声でやるなかに高まり、受け継がれてきたわけです。こういう人にしか歌うことは永遠にできない。そうまで言ってしまうと誤りがあるかもしれませんが、体を楽器として使ってきたわけです。ここに立って同じ舞台で、その土俵上にあると思ってください

 

 誰だって0才から歌っていたわけではない。よく言うのですが、50年も100年も、まあ50年はいるとして、100年努力してきた人はいないわけです。120才という人は別ですけれど。

 パヴァロッティは若いとき、プロのサッカー選手から転向しました。その運動神経や反射神経がきいているといわれる場合もありますが、遅いということはないのです。

 人間の体をもっている限り、心をもっている限り、ただやっていくかいかないかです。これはできると思った人はやっていくでしょう。だからできる気がするというのはとても大切なことです。同じ作品でなくてよいから同じ土俵に立って欲しいというのが、今回のねらいです。

 

 

 次はもう少し、みなさんの方が入りやすい曲でやってみましょう。

「リブ・フォーエバー」

これも聴かせたことがあると思います。これの歌詞をもとにストーリーを組み立ててみてください。どういうときに人間が、どういう気持ちになるのか、この歌詞が言いたいことを一人一言で言おうとしたら、どうなるのか。それからこの歌を、もしみんなが歌うとしたら? 

 

 レクチャーでは、この歌をかけています。ジョルジアのでかけています。

もし皆が、この歌を歌う気持ちになったら、この歌詞に相当する気持ちになったことがあるかどうかを問うことでしょう。この歌を歌うのだとしたら何が必要でしょうか。

このパヴァロッティにジョルジアは、同じステージで一歩も引けをとりませんでした。

 

 

 そのことばを叫ぶものと同じというより、同じ土俵上にといった方が誤解がないと思いますが、そのスタンスで歌うということです。そのことばを叫ぶものと同じスタンスで歌う、それからこのことばを叫ばれるものと同じスタンスで歌う。どちらでも構いません。

 

 叫ぶものとなるのであれば、どういうイメージが必要なのか、真しにひたむきにやっていくということが必要でしょう。それから叫ばれるものとしても歌うのであれば、その愛しいもののことばに喜んだり、苦しむものとしての役を演じなければいけないということです。

 

ただ、他人の役を演じるのではなくて、あなたが自分のことを、自分の顔で、そして自分の表情で、この歌詞を表現するわけです。この表情というのは今回のポイントです。

 

 

大河ドラマで秀吉役の竹中直人さんが若いころ、私が最初に知ったのは、怒った顔で笑う人とか、笑った顔をしながら怒る人ですが、とてもアンバランスなことで、やろうとすると難しいです。やってみましたか?

 

 実際、笑い声が出ているときの顔は笑っています。悲しいから泣くのではなくて、泣いているうちに悲しくなる。まわりの人の影響も受ける。皆が泣くから自分も悲しくなる。もらい泣きする。

 そういう一体感は誰にでもある。要はそこで一歩入り込み、取り出し、表現できるかどうかです。

 火中の栗を拾いにいく、その勇気、力があるか。いつでも瞬時に取り出せるか? 

 リブ・フォエバーのなかでいろいろなことを考えてみてください。

 

 

 後でちょっとした質問をします。タイトルと内容をよく考えてください。そうしたら、先ほどと逆でいきます。最後に終わった人が、最初で逆回りでいきましょう。

 

(リブ・フォエバーの歌詞、朗読も一行ずつ回していく)

 英語で読むと、もう少しわかりやすいですが、英語を使わないのは、素通りしていくからです。意味は英語で読むとわかりやすいと思います。

 

タイトルは、「リブ・フォエバー」内容は一見、永遠を否定しているように見えます。誰も永遠に生きられないというあたりまえの話です。ただ永遠に生きることも同時に言っているわけです。

 

 One Sweet Moment Our Todayという表現があります。これをつかむことこそ、本当のフォエバー、もっと簡単に言ってしまうと一瞬ということです。永遠というのは時間のなかだけでなくて、その瞬間瞬間のなかにある。よくある主題になっています。

 

 この歌詞も今回の課題の伏線のなかに入れてみてください。何で帰りつくことがあるフォーエバーなのか。そうでないと言っていながら、なぜそうなのかということですね。

 私が叫ばずにはいられないことということを、先ほど言った通り、このことばを叫ぶもののスタンスから考えてもよいし、叫ばれるもののスタンスで考えてもよいです。

 

明日は皆にそれぞれ二つの役が与えられます。自分が叫ぶ立場と叫ばれる立場を両方使い分けます。

使い分けというよりも、その場面、その瞬間の感じ方が違ってくるはずです。それを全部、受け止めて欲しいです。

ーー

 

テキスト6

 

(ジョルジア『リブ・フォエバー』)。

 

Who Wants to Live Forever

 

There's no time for us,

There's no place for us,

What is this thing that builds our dreams,

 

yet slips away from us.

 

Who wants to live forever,

Who wants to live forever.....?

There's no chance for us,

It's all decided for us,

This world has only one sweet moment

set aside for us.

 

Who wants to live forever,

Who dares to love forever,

When love must die.

 

But touch my tears with your lips,

Touch my world with your fingertips,

And we can have forever,

And we can love forever,

Forever is our today,

Who wants to live forever,

Who wants to live forever,

Forever is our  today,

Who waits forever anyway?

 

リヴ・フォーエヴァ

 

僕たちには時間がない

身の置き場もない、

僕たちの夢を築いているものが、

 

この手をすり抜け逃げていく。

 

誰が永遠の生を望むだろう、

誰が永遠の生を望むだろう.......?

僕たちに勝ち目はない、

黙って運命に従うほかはない、

この世でよりどころになるものといえば

いつの日か訪れる至高の一瞬だけ。

 

誰が永遠の生を望むだろう、

誰が永遠に愛そうと思うだろう、

愛は必ず消えて行くのに。

 

君の唇で僕の涙をすくってくれ、

その指先で僕の世界に触れてくれ、

そうしたら 永遠に生きられる、

永遠に愛しあえるんだ、

僕たちにとって 永遠とは今この時、

誰が永遠の生を望むだろう、

誰が永遠の生を望むだろう、

僕たちにとって 永遠とは今この時、

誰が永遠に待とうと思うだろうか?

 

ーー

 

 考えて欲しいのは、何を見て歌っているか、どこに向かって歌っているかということです。要するに彼女だけから学べということではなくて、歌い手はみんな何をどこに対して歌っているかというのがあるわけです。

 

 もっと単純に考えてください。もしみんなが人に魅かれるとしたら何に魅かれるのか、ということです。今回の会報のなかに年配の女の人だけれども、演ずるやいなや、どんな若い女の人よりも可愛らしさを感じるというのがありました。それは芸とか演技ではあっても、そこで出てくるひたむきな表情というのは当然、若いわけです。

 

 歌い手というのは、10才、20才若くみえますね。もっと若くみえる人もいます。ミルバを見に行って、何で可愛く見えるか。歌っていないとき、単にインタビューに答えているとき、そういうときも可愛く演じられるわけですが、そういう味に加えて音楽が入って歌声が入る、そこの舞台のなかの表情というのは、とてもひたむきで誠実なものが伝わる。

 

 だから歌を選び、歌で生きているといえる。それが女性の場合は可愛さと言われるのかもしれないが、男性でも色気となる。ただそういう顔をみんながもっていないのかというと、違うでしょう。

 

 モノトークを聴いていても、ここに来なければ甘い時間を過ごしていたような恵まれた人もいるわけだ。しかし皆は、自分の表情や歌を探しに、あるいは、そういう顔ができるこの場を選らんでここにきた。そうですよね。

 

 仮に歌い手であれば、何よりもうれしいことが歌であって、人前で歌うことです。そこで一番、大切な人にみせる。とびきりの表情と同じかそれ以上のものが本来、歌うところで出るべきでしょう。きちんと消化できていたら、出てくるものであるはずです。

 

 これは歌の技術とかいうことではないと思います。

 だから、これも表現する人間にとって必要な技術です。年齢とともに表情が変わってくる場合もあります。気迫とかノリといったものも関係します。ただ人に何かを伝えようと思ったら、わかって欲しいと思ったら、日常生活の中でも、ポケッとした表情はしないでしょう。

 

 声だけとか口だけが動いているような動作はしないですね。自分にとっても、そんな態度で歌ったら失礼だと思うはずです。ただ歌のなかでは、音楽にのってしまったり、バンドがついたりするので、とんでしまっている場合が多いわけです。これが一番、基本のものです。ここからやってみたいと思います。

 

 イメージは、皆の日常のなか、イマジネーションのなか、モノトークのなかにもいろいろな材料がありました。愛しい人と会っているとか、別れなければいけない、その背中を見つめる、行って欲しくないと、そういうときは、そういう表情をしているでしょうね。

 

 ではなぜ、歌のなかでそれがでないか、現実の生活のなかの日常になっているものさえ、自分でそこをつかんでいないからです。歌のなかでもそうならないと、いや、それ以上でないとおかしいのではないかということです。生きていたら、同じことです。

 

 

 リピートということを昼間、言ったと思います。その顔を見たら相手が帰らなくなる、よい舞台というのは、その日の内に友だちをたくさん連れて見にいきたい、あるいは友だちなんか連れないで自分だけで一人占めしたいということで、とにかくもう一回、足を運ぶでしょう。

そこで満足させられ何かよかったけど、次は1年後というのであれば、やはりそのくらいしか魅きつける力がないわけです。

 

 そしたら自分の顔を見たら相手が帰られなくなるような、とびきりの表情を今日の夜でも明日の朝でも出してみましょう。セールスマンは、ミラートレーニングをやっていますが、表情だけでできること、日頃から、そういうことを考え、そういう表情をしようということを、やってみてください。いろいろな表情をしなければいけないと思います。

 

 表情のないままやっている人もいますけれど、表情で語りかけている部分がとても大きいです。もちろん声の表情も含めます。舞台の上で一言ごとに移り変わる表情、優しい表情、ひずんだ表情、憎しみ、怒り、歌がよいとか悪いということでなく、そういうことでさえ人の心を捉えられる。その人をファンにする。あるいは見続けたい、見守ってやりたくなる。5年後、10年後どうなっているのかと思わせる。それが生来的にできる人もいます。でも、やり続けるなら素質よりも素養があることです。

 

 舞台で問われるものを自分のなかでシミュレーションして組み立て出していくということが大切です。コンサートとかライブになって、人前に出たとき笑えること、歌のなかでは笑わなくてもよいです。歌によって違いますから。しかし、終わった後、一つの戦いが終わった、そこで笑えること、それがパッとつくれるには日頃から精一杯やっていなくては無理でしょう。

 

 とってつけたような笑顔でなく、本当に魅力的な顔をつくれるとしたら、その人はそれだけ修羅場を踏んでいるわけです。客を目の前にして笑うというのは、そう簡単なことではないです。お客さんが魅かれるのは、歌い手が怒っている表情ではなく、可愛く安らいでいるところに魅きこまれていくわけです。

 

 役者の学校ではありませんから、あまりクドクドは言いませんが、これから勉強する上で見ていくときに、人が何に魅かれているかを、自分が人を魅きつけようとする商売をするのであれば、そこを勉強すべきと思います。

 

 

 明日も全身で全霊を込めてやってください。全身から体で動いていく、そういう感情になり切ったらそういう表情が出てくるはずです。そうでなければ、表情が裏切ってしまいます。歌っているのを見ていたら何かうそっぽい、そうしたら伝わるわけがないです。とても大切なことです。

 

それが一致するということ、心と体と息と声も、それが当然、表情に出てきます。先ほど述べた通り、演じるもの、表現するもの、表現されるもの、あるいはことばも叫ぶもの、叫ばれるもの、あらゆるものについて両方のことをやります。この二つのことを取り出してくることです。

 

 あなたに大切なものがあって、それを自分から奪い去るものに抵抗していく。それを失っていく痛み、そういったものをすべて計算、あるいは感じた上で表情でやる。声がなくても、技術がなくても表情がカバーします。その間に感情も技術も補っていきます。技術というのは表情も含めてのことです。

 

 技術と切り離すとヘボ役者になってしまいます。演じている、なんかとんでいる、この人が言っていることは本当みたいだけど、でも伝わらない。そしたらやはり、ダイコン役者なのです。

 このリブ・フォエバーというのは、概念的、抽象的なので、もっと具体的なものをやりましょう。

 

 

ーー

テキスト7

 

アコーディオン弾き」

 

これは少々、長いです。ストーリー性に富んでいますので、ストーリーも一緒に捉えてみてください。どっぷり入ってください。

 

 

「街の女の彼女はとても美人だった」

から始まるように

まず歌い手のスタンスは『語り手』です。

 

 歌というのは自分がなり切り歌うものと、第三者的に歌い上げるものがあります。こんな物語、こんな物語というように。まずこれは、語り手から入ります。

 

歌が進むにつれ、ストーリーも進んで行く

 

  彼女の彼氏はアコーディオン弾きだった

  ふたりはとても楽しいときをすごす

  しかし彼は兵隊にとられた

  彼女は彼が帰る日を夢見る

  結局、彼は死んでしまった

 

  彼女は彼の演奏していたホールにふらふらといくと

  そこでは別の人がアコーディオンを弾いていた

  彼女はアコーディオンにあわせて踊る

 

  蘇る想い出

  アコーディオンの音

  帰らない彼

  蘇る想い出

  アコーディオンの音

  帰らない彼

  蘇る想い出

  アコーディオンの音

  帰らない彼…

  蘇る想い出

  アコーディオンの音…

 

  『止めて』

と彼女は叫ぶ、音楽を止めてと

 

 

 

この『止めて』をみてみましょう

ピアフは頭を抱え、顔をゆがめて、叫んでいる

歌詞のストーリーが進むのにしたがって

ピアフもまたどんどん『語り手』を離れ『彼女』に同化していっています

自分のものにしています

そして『止めて』のとき完全に『語り手』ではなく

叫び声をあげる『彼女』になっている

 

 だから、アコーディオン弾きの歌ではなく、ピアフの歌なわけです。

 

 

この歌にまつわるエピソードを一つ、

 来日の際、ミルバが『ピアフ』をテーマにとりあげました。

この『アコーディオン弾き』も歌った

ほんの一部だけ

『止めて』の前までをすべてインストゥルメンタルで演奏して

そのときミルバは舞台にはいない

そして、ミルバは突然、飛び出してくると『止めて』と叫び、以下を歌う

という構成だった

 

『止めて』とミルバが叫ぶと、客は笑った

確かにミルバはいつも、それまでのらない、日本の人を喜ばすよう

ユーモラスな行動をとっていた

多くの客はこの『アコーディオン弾き』の歌詞は知らなかったかもしれない

だけど、何かがひっかかった

『もしピアフが、同じことをしたとしたら?』

私は、客は笑わなかった、笑えなかったでしょう

 

 

 ピアフとミルバ、何が違うかというのは、今までも述べてきました。

ミルバの歌とピアフの叫びはやはり、対極的なものかもしれない。

 

ミルバはうまい、疑いもなくうまい しかし

ピアフはこの歌で『止めて』を叫ぶとき、

その体に鳥肌をたてている

全身が苦しみにもだえている

臓器をひきしぼって生まれてきた声だ

だから

ピアフにアコーディオン弾きの恋人はいなかった

それなのになぜ、ピアフは『彼女』になりきれるのでしょうか?

まるで、恋人がなくなったように

 

 ステージで、その「止めて」の一言は、なり切ったではなくて、なっているわけです。

ピアフは「俺の靴の足を入れてみろ」というところにまで入れているわけです。

叫び、呼びかけているのです。

 

 歌も課題も同じことです。歌い手にとって歌はいつも課題だし、課題はいつも歌です。

なのに課題が歌にならないなら、あなたは歌い手ではないのです。

自分のなかで消化されていたら、そのことが叫べるし、そしたら伝わるし残っていくわけです。

その体験を何らかの形で取り出す。

容姿など以上に、心が自分の歌を裏切らないようにしていくことです。

 

 

 

L'ACCORDEONISTE

アコーデオン弾き

 

街の女の彼女はとても美人だった

ほらあそこの街角に出てた

彼女には常連が一人いて

彼女にみついでくれた

彼女の仕事がすめば

今度は彼女の番だ

ささやかな夢を求めて

場末のホールへ出かけて行く

彼女の彼はバンドマン

小柄な変わった男で

アコーデオンをひき

ジャヴァをひかせると大したものだった

 

彼女はジャヴァに耳を傾けるだけ

踊りはしない

踊り場には目もくれない

情のこもった目で

その熱演を追う

バンドマンの長い、固い指の動きを追う

彼女は身じろぎもしない

足の爪先も、頭のてっぺんも

彼女はどうしても歌いたくなる

全身がぴんとこわばって

呼吸をのんでしまう

実際この音楽ときたら

 

街の女は淋しかった

あそこの街角に立つ彼女は

彼女のアコーデオンひきは

兵隊にとられてしまったのだ

戦争から帰って来たら

二人で店を持とう

彼女は会計をする

そして彼はそこの主人だ

そしたら、毎日がどんなに素晴らしいだろう!

二人共王様になったような気持ちだろう

そして毎晩、彼女のために

彼がジャヴァを弾くのだ

 

彼女はジャヴァを聞く

小声で歌ってみる

すると、彼女のアコーデオンひきの姿が目に浮かぶ

そして彼女は情のこもった目で

その熱演を追う

バンドマンの長い固い指の動きを追う

彼女は身じろぎもしない

足の爪先も、頭のてっぺんも

そのうち、どうしても泣きたくなる

全身がピンとこわばって

呼吸をのんでしまう

実際この音楽ときたら

 

街の女はひとりぼっち

そこの街角で

娘達はじろりとにらむし

男達も声をかけてくれない

彼女がどうなってもかまわないのだ

彼氏はもう戻って来ない

永遠にさらば、美しい夢の数々よ

彼女の人生は、すっかりパァになってしまった

それでも、くたびれた足は

しぜんと向かってしまうのだ、あの場末のホールへ

そこでは別のバンドマンが

一晩中演奏しているのだ

 

彼女はジャヴァに耳を傾ける........

ジャヴァに聞きほれる.......

目を閉じてしまう.......

あの固いそして緊張した指先.......

身じろぎもしない

足の爪先も、頭のてっぺんも

そのうちどうしても泣きたくなる

そこで忘れようと

彼女は踊りはじめる

音楽の音につれて、くるくると

.............

止めて!

音楽を止めて

 

 

 

 

 

 では、歌詞を読みましょう。

日本人だと美空ひばりさんや森進一さんのステージを見てもらえればイメージがつかめるかもしれません。二人とも、歌うのではなく歌になり切り、一心一体になれる、日本には数少ないヴォーカリストです。

 

 それでは、最初の順番でやってみましょう。

アコーディオン弾きの歌詞、朗読、回していく)

 

 その場で座ってください。全部で3曲ですね。

それぞれの人が歌というのはいろいろなイメージをもっていると思いますから、こちらからこういうものなのだとは言いません。しかし、今、聴かせたヴォーカリストは、それなりのものを当然、もっている。そしてそれは、受け継がれていくでしょうし、一流の人は必ずそういったものの根底にあるものを受け継いでいるわけです。

 

 トレーニングというのは新しいものを出すためにやるのですが、受け継げるものはできるだけ受け継いでいくべきでしょう。どういう作品にするかは、まだ皆のなかに見えていないと思いますが、見えなくても何かそこで、1分のなかで、今日一日のなかで一瞬でも心に触れるものがあったら、こちらは材料を出すだけですから、自分のなかでこれらの材料をメニュにしていかなくてはなりません。

 

 その一瞬をいつまでも見逃していくと、10年たってもやはり、一つの作品もできてこないのです。たくさんのことに気づくというより、一つのことに気づいていき、それを同じような感覚とはいいませんが、表現するものとしての感覚をどうやって保ってそれで収めていくかということを磨くことです。

 

 課題はとても単純なように思えるかもしれません。単調なジェットコースターですね。下に下がって上にいくだけですけれど、このなかに少なくても8つ以上の歌が入ります。全部の歌を完璧に仕上げなさいとはいいません。しかし、このくらいの人数ですから、どこかにあなたがいたということを伝えてください。

 

 そして、また見たいという期待をもたせることが客を裏切らないということです。「いる」とわかりますよね。出てくると拍手をしたいと思う人と、「あれっいたの?」という人と、そこから勝負が始まってそこで勝負がつくのです。そしたら何で拍手をしたいと思わせるのか、考えてみましょう。

 

 おもしろいから? それだけでもつほど甘くありません。必ずそのまえに実績を残しているわけです。実績を出せるには準備がいります。研究所はそのためにあります。

 その実績というのは、必ずしも、技術とか歌が秀れているということではありません。それは、人を魅きつける要素です。人に待たれて、その人が出てくると何かよろこぶ、何か与えられる、だから当然、あたたかい場が用意されるわけです。

 

そうでないと、永遠に「この人は誰?」「何だ?」の繰り返しになる。そうすると世界はいつまでも開けていかないです。あなたの努力と作品にするまでのプロセスに拍手は注がれるのです。

 

 

 ヴォーカルというのにはいろいろな要素があります。それを全部、今回は課題のなかにつめたつもりです。最初に聴きました。何をやるかではなく、どうやるかを問いたい、それがすべてです。21時からのチェックリストを見てください。

 

 (眠い人とか疲れている人、いろいろな体調の人がいます。だから、22時以降、皆がどうするのかわかりませんが、ひと部屋ずつ、眠い人が眠れる場所としてキープしてください。24時を、消灯にしておきます。)

 

 エチュードのスクーリングは、今までやったことをまとめることです。ノートに書いたら終わりというのでは困ります。今回、具体的に、ありありと、そういう表情を出して欲しいです。それから切り換えていくこと、短い時間のなかで切り換えていくことは、難しいですが、エッセンスを取り出す世界ですから、スイッチの切り換えが求められます。いつまでも悲しみのなかに浸っている余裕はないわけです。ただ、深く入ってつかんで欲しいです。歌も1曲単位、いやそのなかで何度も切りかえます。

 

 

 

 最初は息のエチュード、それから悲しみのエチュード、絶望のエチュード、憎しみのエチュード、5番目でモノトークです。6番目、息のエチュード、7番目喜びのエチュード、8番目やさしさのエチュードです。そこで解放されたところを表現してください。

 

 人前で笑えるためには、こだわりのプロセスがいるのです。ファルセットでも裏声でも低い音でも構いません。力を入れて意識してつかむのではなく、こういう場で人間の空気にのって一つの開かれた場所に対して声をのせていくような感じでやりましょう。

 

 そのへんが全くわからない人は、班長に聴いてください。それが最終的なものです。要はコンセプトを統一して欲しいということです。それぞれ、いろいろなものをもってきていますが、班ごとに発表します。

 

 班のなかであまりにバラバラであると統一感に欠けます。班の色をだすところまでやります。各人の個性が出れば班のオリジナルも出ます。このエチュード自体がうまく線を描いて上がってこないと、時間の感覚もバラバラになって空間も凝縮しなくなってしまいます。歌も一人でやるものではありません。そのうえで、最後に作品が個人個人であるということです。この課題を通して、あなたが何を伝えたいかということです。明朝からこれに対する材料をさらに加えていきます。

 

 

 どうも一日終わってしまうと、一日抜けてしまう人が多いようです。私の本を読んだり、講演を聞いても、8割の人はその日で、あとの2割の人は一週間で、抜けてしまいます。だから、人が一つの芸をものにするには同じところで同じことを何年も修めなくてはいけないのです。

 

 わかったからといってほとんどの人がやめていきます。しかし、ものになるのは、できたということなのですから、わかってからこそ、いなくてはいけないのです。少なくとも師と同じレベルにできて、さらに3年は学べるのです。

 

 材料をとること、復習を忘れないことです。それから、ふくらましてみる。わずかにやったことから、何か気づいたことがあっても、夜にそのことについて考えて、より大きくふくらましておかないと、次の日に全く消えます。

 

 次の日に思い出そうとしても、結局、積み重なっていかないです。だから書くようにといっているのです。書いてつかんだ上に、自分なりにまとめておく。要するに、予習も復習も大切です。

 

こちらで材料を出し、せっかく半分入っているのにそのまま寝てしまって、起きたときには忘れてしまう。アーティスト精神を日常にもたぬ限り、そこまでいかないうちは、絶対に離してはいけないのです。せっかくの材料が全部死んでしまいます。

 

 お客さんであればまた一流のものを聞きにいけばいい。おもしろかったで行けばいい。皆もそれは必要です。ただ、皆がもしそれをモノにしたければ、そこから受け継がれてきたものを確実に受け継いでいくことです。それが一番、正しい方法なのです。

 

 全く何もないものから自分一人で何か創り出せるわけはないです。いろいろなものが世の中に残されています。それを渡そうとして、いろいろなものを出しているつもりです。ここでのメンバーも材料です。この世に残っているのですから。

 

 人によって、段階によっても違うと思いますが、ふくらませてみて、もう一度個人で消化する。グループのメンバーと消化してみる。それとともに、消化から昇華に、今度はクリエイティブに創造してみることです。

 

 

 相手の身になりきる力を問いたいです。

あなた方があそこに出た4人だったらどうやったか、ピアフだったらどうやったか、ジョルジアだったら、あるいは私だったら、自分だったら? 自問して答える。あなた方だったらどう思うのか。答えられないうちはそういう場に立てません。

 

 はっきり言うと、こんな解説は余計なお世話です。モデルがなければ自分たちでやればよいわけです。ただ私は、材料出しで受け継ぐということをやっています。そして何か一つ与えられたら、10個、自分のなかで語れるように、あるいは同じ質問を10個思い浮かべられるようになれば、深まってきます。すると今のレベルのことは、来年越えられます。それをやらないと、越えないと来年になっても再来年になっても、同じことをやっていかなければいけないということです。

 

 

 

 

 

ーー

 明日、7時くらいまでに起きてください。

 今日やっておくことは、もう一度、自分のノートを見直すこと、それからこのエチュードのスクーリングに合せていくこと。

 それから班のなかで今日、全体の流れを、班長がミーティングで説明をしてください。明確にしておいてください。

 

 悲しみと絶望と憎しみと同じだとかよろこびも優しさも何となく似ていて、区別がつかないということにならないように、一つひとつに意味を与えてみてください。人の心をそんな雑な扱いをしてはいけません。

 カウンセリングは、何か質問したいことを書いておいてください。終わってからこういうことを言えばよかったという人が多いようなので、私の前にくると言えなくて終わってしまう人も多いようなので、書いておいてください。お疲れさまでした。

 

 

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