一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

合宿特集Ⅲ 2日目 23875字 600

合宿特集Ⅲ

 

2日目 朝

テキスト8

カウンセリング(トレーナーほか)

   昼

テキスト9

福島コメント

 

2日目  朝

 

 

 全体像を追うことを実際にやってみたいと思います。

 知っているからといって本番で消化できてしまう課題ではありません。この後、昨年の夏合宿に参加した人に一通り、やってもらおうと思います。冬の京都の合宿に出た人もある程度の流れはわかっているでしょう。

 

 昨年とは何が違うのかというと、より具体性をおいているということ。それからもう一つは、最後のところまで個人でしめくくる。モノトークは昨夜、読みましたが、いくつか気づいたことを言います。まず一つが皆さんがこれを書く時点でエチュードのことを全然、考えていないということです。このモノトークというのは、エチュードの役割のなかでのきっかけです。具体的に書くようにといったのですが、あまりに個人的レベルのことが多いのです。これを演じた場合に、どうなるかということです。

 

 ちょうど先週、TVの「バラ色の珍生」という番組から、知っている人がいたら紹介してくれと電話がかかってきたわけですが、とても偏った恋愛とかめったにないような話を告白してギャランティが10万円だということです。まさにそういうものに出したらよいと思いました。

 ワイドショーとか週刊誌にというネタが出ています。半分はありきたりで、後の半分は、とても正直に書いていただいています。だから却って、見せられないという感じです。あまりに個人的事情が多すぎるわけです。

 

 みなさん、よくまあこんな複雑な生き方をされていると感心しましたが、やりたいことはそれを消化して出していくということです。「裸になってください」とは言っているけれど、「裸を見せてください」ではないわけです。これは全く違います。

 

 個人の告白で、教会でのザンゲです。だから、どう直したらよいかということは、難しいのですが、はっきりいって、狭すぎます。愛とテーマで、個人の恋愛歴みたいなものです。だから読んでいて、まだ失恋から立ち上がろうとしているなんていうものは、まだよいのですが、彼とうまくいっていて今ウキウキとか単なるノロケにしかならないわけです。表現者でしょう。

 

 そんなものをこの朝の4時半まで読ませるのかということで、私は腹が立つ、ということは、ステージにしても、聞いている皆も当然、腹が立つわけで、舞台にはならないわけです。

 

昨日の自己紹介を聞いていても、デートをやめてとか、愛しい人に会うのを振り切ってここに来たというならまだしも、毎週末会っているから今週はここに来てもいいやという感じでしょう。

それはそれでよいけど、もう少し煮つまらんかい。

 

 まず一つは、愛といって恋愛の告白をやっているわけではないということ。皆の個人的なことを私が知りたいわけでも周囲の人たちが知りたいわけでもない、ということを押さえてください。

具体的な書き直し要請の箇所に、線を引いてあります。

 彼とか彼女とか、~ちゃんとか正直なことはよいのですが、個人のなかに入っていかないことです。入っていってもよいのですが、とり出すときには,表現たる形で投げ出すことです。

 

 聞いている人にとっては、「あなた」「あなた」といわれて歌になるかということです。たとえば敬称を消すだけで相当、違ってきます。抽象化されます。

 もう一つは、年月、私が~歳のとき、それから何年前、これは具体的で、あまりに生々しすぎます。今の皆さんの恋愛状況やそのことで過去に苦しんだことを誰も知りたいわけでもない。ここにいるのは、友達や兄弟ではない。観客です。

 

 結局、伝えるに値することはその事実そのものではなくて、そこで得た自分の心であったり、感覚の方です。だから、最低限に事実を出してもよいと思いますが、現実よりリアリティで問われるのです。日記や感想文の発表会なら,学校で卒業でしょうに。

人前で1分間に凝縮させたときに、それらは余計なことになってしまう。表現には、必要がないわけです。日記と小説とは違う、公に問うことを目的として作品で出すことです。

 

 

 モノトークも作文力を問うているわけではないです。自分の日記を書くわけではない、ということです。真実のことばというのは、ことばが日誌のように正直な記録ではなくて、そのことばのなかに、その意味、あるいは自分がそのときに思ったことが含まれていればよい。自分が思っていればよいわけです。

 

 それを「5年前」とかいう必要はないでしょう。

言うことによって、個人的な事情に限定されます。具体的ゆえに、表現が弱まってしまいます。

 とても難しいですが、トークや楽屋話とは違います。そういうものは具体的であればあるほど、おもしろいわけです。

  トークショーをするのではありません。そういう意味で、歌うわけではないのです。

だから、随分、変な体験とか経験とかをいろいろと書いてあるのですが、その生の感情を、生のことばをそのまま出すのではなくて、もう一段階、抽象化してください。大人になって,いや,表現者になってくださいということです。

 

 いつもは具体的にと言っていますが、今回は、あくまで再生のきっかけにして欲しいのです。だから、失恋であろうが、それが最終的に自分の生きていく哲学や生きがいになっていたり、その歌うことの理由に何か結びついていると感じられるものは、まだ読めます。まわりには不評でも自分のために使えたらよいとも思います。

 

 そうではないものは、先ほど言った通り、ただの言葉の羅列、食事のメニュ表と同じです。

何で歌うの、だからこの声が何なの、この表現が何という具合に結びつかないと、ここのステージでは、存在に違和感をもたれると思います。

 

 この課題にアモーレとか愛というのは、恋愛というのではないのです。

自分の恋愛事情を履歴書みたいに書いても作品にはならないのです。それでよければ、あなたは、間違いなく恋愛作家とよばれます。そんなわけがないでしょう。

 

 プライベートを具体的に書きすぎた人は、その日時、年齢、相手の名前とか説明の箇所には、消してください。詩や歌,台本にしてください。

 それでだいぶ、抽象化され、皆のなかでも、共有されるものになります。個人の記憶を聞きたいわけではないということです。

 

 昨年の合宿に参加した人のなかで、ここで発表したことを後々、言われたという人もいました。ここで言ったことは、私たちの舞台のなかでの範囲であるのに、日常にひっぱっていくのは、タブーです。映画の殺人犯役に、日常の場で殺すのはひどいといっているような愚かな行為です。念の為。

 

 ノンフィクションで書いてきているから、当然、その人の生きざまになっています。開き直りで吐露して、それで再生するというのは、心理的にもやりやすいし、まさに心理療法でも使われています。

 役者の世界のなかでは、現実と虚構が混在したかのようなこともあるでしょう。

 

 でも、私は歌うものとして、そこの部分はもっていながら、そこまで人前で生々しくやりたくないというのがあります。そのために歌があるし、音がついているからです。音というのは抽象化されるわけです。

 

 ことばより、さらに抽象化された世界での感性が必要です。当然ながら、ことばほど生々しいものはないのです。それを、あの人がこんなことを言っていたとか、こんな生活をしているんだって、というそんな下司な勘ぐりをする人もいるのでしょうが、この場のことは、この場で終わらせる約束です。

 

 つまり、結果としては何を言っても構わないでしょう。ただ作品としてみたときに、作品にならない、皆がそれを演じるときによい台本になっていないものに関しては、省く、その計算を働かさなければならないということです。

 

 歌に関しては、ストーリーとか詞でもっていくものもあるし、バンドでもっていくのもある。ですが、今回の場合はヴォーカリストとしての表現力の部分でもっていきたいと思います。

 詞やストーリーとしてよくても、今回のエチュードのなかでの役割としてみたときに、望まれる効果とか表現が必ずしもでない。

 

だから、原本は、私の胸に秘めて忘れます。私は忘れっぽいですから、明日には忘れています。もちろん、後日、アンケートや感想文,脚本は,勉強のために会報などで公開しますが,必ず編集して作品集とします。いつも、関係者個人に迷惑がかからないように編纂しているのはお分かりでしょう。ここが大きくなってからは,匿名にしつつあります。

そう,ここでも同じく、編集して作品にするのです。

 

 確かに作文は、事実で、隠しようもないものです。具体的なことだし、ウソ、偽りもないのだけれど、事実を事実として伝えることによってリアリティが出るのではない。

多くの場合、事実は実際に起こったこと以上のものではない。見たいのは、真実、リアリティで、それは事実そのものではない。まだ,材料,下書きで,台本になっていないのです。

 

 とり出さないといけないということです。ノンフィクションでも、自分の事実をそのなかでもう一度、深いところで汲んだことばとか想いであってこそ、伝わる。それが創造力です。

想いのところで、伝えて欲しいです。具体的すぎることばというのは、じゃまになってしまうと考えてください。

 

 かなりセンセーショナルな書き出しも多いし、えっと思うようなものもありましたが、それでは、ただのゴシップです。あなたが他人であったら、おもしろくも何ともないわけです。

基本的には、他人に通用しないものは認めません。人に言うものでないことを、この場で言って昇華できるのであれば、使って構わないですが、周囲の人はあまり聞きたくないことで、ただ痛々しくなってくるだけです。皆さんも,これまでさんざん経験してきたでしょう。

 

 山が本当に好きだと言うだけなら、こちらでも解放されるわけですけれど、皆のには、そしゃくと救いがない。それが消化と昇華です。発言する人は再生のきっかけの舞台でやるのであり、周囲の人たちの再生も助ける、あるいは見ている人にもそこから這い上がるというような想いを伝わるものに結びつける。だから、ことばで限定される部分を逆に外してください。あまりに事実そのままです。

 

 つまり、正直なのはよいのですが、こちらが読んでいて恥ずかしくなります。自分を消費していくのならよいでしょうけれど、それはヴォーカリストではないし、ましてやそれを見てもしようがないわけです。そんなレベルのことはしたくないと思います。

 

 それぞれの人の事情はバラエティに富んでおもしろいですが、やりたいことは音の流れのなかでそれぞれの役割があり、それを動かしていくその心の動きに集約したいです。そこからの叫び声が作品です。

 

 

 一番よくわからないのは、その恋愛とか愛が、歌に結びついていないことです。なんにしろ、愛というと、いきなり恋愛、失恋と捉える人が多すぎます。それ抜きで語れぬ事情がある人は、それでよいと思いますが、もう少し、そこで見つめて消化したら、もっと大きな力が動かせるはずです。

 

 そうしたら、やはり大きく見てこなかったのではないか、という感じがします。だから、煮つめられていない感じがします。つまらない恋愛はないとは思いますが、どんな恋愛もそのまま取り出したとしたら、それは作品でないのです。

 

 書くことにも慣れていないし、どうやればよいかということでは、難しいことだったと思います。しかし、もう少し愛ということで大きくつくってきたら、それが歌へつながってなくても、自分の生き方とか想いとかが出やすかったでしょう。そこで歌がつながっていないと、どうしようもないですけど、歌は、生きることとつながっていくものでしょう。皆の生活のなかにある、そういう大きな意味の愛とかのことで、だからといって彼、彼女のことを書くなとか、人類愛とか社会愛に切り換えなさいとか言っているわけでもないのです。その描き方の問題です。

 

 ○年○月から恋が始まって、これはいつ終わった。そして次の恋はいつ始まっていつで終わったと、それは単なる事実の羅列です。それでは何もならないです。それだったら、その一つだけでよいから、そこからつかんだ想いとか、感じたことを取り出して表現してください。

 

 赤裸々に告白してもらっても全然、私は驚きませんし、構わないのですが、せっかくこういう原稿を書くのですから、書き方を工夫してもらいたいと思います。腹をくくるのも、ある人にとっては大きな進歩です。だからこそ、その上を求めます。

 

 逆に抽象的すぎる人は、具体的にしてみた方がよいと思います。かなり漠然としたまま最後までいってしまっている人がいます。たった一つ、何を言いたいかということに絞り込んでいくことです。

こういう人は、腹をくくることです。

 

 聞きたいのは、そのことばを通じて出てくる音声なり想いです。その想いが悲惨なものであろうが、幸せなものであっても、どちらでもよいです。それに想いが込められていたら、個人としての自立になり、そこで再生というのも感じられます。

 

 

 まず、言い訳はいらないです。そして、歌に結びつけられるのであれば、結びつけてください。ひんしゅくをかうのは、ただの恋愛自慢です。こんなに私は恵まれていてというだけなら、この人は何でここに立っているのだろうという感じになってしまいますね。その時間、どこかでデートでもしていればいいのにとなってしまうでしょう。

 

 不幸な人もたくさんいますから。作品自体が共同性をもつところからは、成り立ちにくくなってくると思います。だからここで恋愛を語るわけではないのです。この愛というのはあくまで人間の感情が生まれてそこで苦しんだり痛めつけられたりということです。エチュードでは同じ世界だけれども、光とか闇があるとしたら、闇の世界で今まで見えていたものが、一つの想いで光がさして、そこでみえてきたということのできっかけです。

 

 それはあなた個人の勝手な考えだよ、別にそんなこと関心ないよと言われることを省くのです。すると、ちょうど皆さん2~3分で書いていますから、1分くらいになると思います。省いたところを匂わせることばでもよいし、それをたとえているようなものでよいから、煮つめていく。

 

 「じっとネコの顔を見ていた」といえば伝わるのに、その後に「それで彼と別れてその彼とは今はどうこうで」というのは、いらないわけです。自分のイマジネーションのところで伝えていたら、聞く人の方がイマジネーションを働かせてくれます。聞く人のものになります。

 

 それをわざわざ狭い世界にもっていく必要はないわけです。ただこれが自分だ、こういう形でやった方が自分が表現できると思う人は、今のままでよいです。

 芸を見せて欲しいということです。1枚2枚脱いでいく踊りの方を見せて欲しいということで、最初から素っ裸でパッと出てしまうと、どうしようもなくなってしまいます。このままでは、そういうことが起こりそうな気がします。

 

 そうならないように組んでみてください。

では夜までにお返しします。それがモノトークですね。

 

 

 

具体的にやっていきましょう。

 

 ため息から声にしていくことをやりましょう。

 深い呼吸をイメージしながら、それを声にして伸ばしてふくらませてみてください。

誰かが息を吐くのにのせていくとよいと思います。誰かが出したらそれで省く、その気になってきたら自分が演じ切って、この集団のなかにとりあえず自分の声を問いかけてみる。息を吐くことから始めます。どこか自分のきっかけのなかで、どこかで声になっていきます。(全員でため息から声へ)

 

 

 

エチュードの見本)実演

 今のが形です。ところどころ止めようと思ったこともありましたが、ギャラリーが止められないということは、作品になっているということなわけで、そういう評価をしてください。

 これが一つの叩き台になると思います。

 

 昨年参加して今年も参加するというのは、こういうことが好きな人ですから。そう言ったら失礼かもしれませんが、また全然違うメニュを期待してきたかもしれないですが、そういう面では、独立して劇団でもつくってみれば食べていけるかもしれないですね。

 

 ただこういうことの好き嫌いは人によってありますし、私は、ここで劇団にするのは好きではないし、劇団をやるつもりはありません。

 

 感情移入できない人は、皆の作品だと考えないでください。自分の作品だというふうに考えて、自分に役立てるためにこの場と時間を共有するということです。

 だから、本気にならないと損だと思います。皆の作品ではないということは劇団でもどこでも同じですが、自分のプレーをまっとうすればよいだけです。

 自分の作品をきちっと創っていたら迷惑もかけないし、作品自体もオーライになります。そういうふうに考えてみてください。

 

 よく分ける人がいます。あのなかの一員になりたくないとか、私は違うとか、それは自分を番外においただけで、そんな人は一生、表現の場に立てないし、何度か立ってもまっとうできません。10年か20年たったらわかります。

 

 自分の作品だと思ってみてください。よかったところ、悪かったところは、だいたいの流れから捉えてください。。作品として見るのは、こういう経験のない人には、とてもよいと思います。

 

 だいたい好きな人であれ再び参加するということは、そこに深めたい何かがあるということで、昨年は深くできなかった、あるいはできたけどまた取り戻しにきたわけでしょう。できても戻ると忘れてしまうわけです。その感覚を出せなくなる。そういうことで参加する分には、そこにつかまなくてはいけない何かがあると思ってください。

 

 ストップがかけられない、いきおいがあるのは作品になりつつあるということですから、そこに何かがあると思えばよいです。そうしたら、その何かをどこでつかむかという話です。だから、ここでつかめれば一番よいと思います。

 

 皆には特殊でも、私にとってはこれが日常です。3日間、遠方から時間をかけ、参加しているわけです。つかむ価値はあるということです。ただ、それは皆の捉え方なので、これ以上、細かくは言いません。

 

 

 

 今のものを叩き台としてみると、前半の方はあまり文句はないです。そのまま取り込んでください。あまり解放されていなかったところが、最後の部分です。

 これは舞台の使い方にも問題があります。解放されたところから、エチュードのところです。円はもう少し大きい方がよいです。

 

 それから、お客さんがこちら側にいるのであれば、少し開いてやった方がよいでしょう。クローズしてやっていた人たちが天上に上がっていく感じだと、そこまで開かれていたものが切れてしまいます。そういう演出があってもよいと思いますが、何となく締め出されたような感じもします。

 

 だから、全体の舞台がここだということは、各班で考えてください。全部、使ってよいと思います。場の設定はとても大切です。それから声の解放と気持ちのノリです。

 

 このへんは午後に、もう少し解放させたい。声を意図的に出しているという意識よりも、しぜんに楽に声を出します。昨年やった人は最後にやった天の声を思い出してみましょう。全く力が抜けていたはずです。しかし、声は透き通っていた。それは集中と弛緩を同時に心と体でできていたからです。

 

 早い時間で切り換えていくので、難しいと思いますが、捉えて欲しいことは、先ほど言ったこと、つかみたいのです、何かを。もし皆が見て好きであれ嫌であれ、目を釘づけにされている時間があったとしたら、そのなかにある何かを取り出してください。

 

 感情を練り込むというところから始まって終わりまで、私から言わせれば、こういった舞台をはじめ、すべての歌も、人前でやるものの構成のエッセンスが全部、入っています。短い時間のなかですが、とても単純に入っています。

 

 もしわからなければ、昨日の歌を全部、ここに置き換えてください。歌からみたら少し長い時間で、舞台からいうと、とても短い時間で単純ですが、全部が入っています。それを学んでください。

 

 人前でやるものとして価値が出てくるものの、その形まではつくっていないのですが、必要とされる表現技術の精神的なものから基本の線は、この脚本のなかで押さえていると思います。それを理解してください。舞台に限らず、演劇に限らず、歌のなかでも同じです。

 

 歌はこれからやることを3分に凝縮するだけです。それからいくつか気をつけて欲しいことは、昨年もけとばしたり体に触るというものがありましたが、こういう状態になっていると、結構、心身が自分のものであってそうでないようになる人がいるので、力は手加減してください。

 

 普通の力で出すと本当にころんだり、ぶつけたりします。芸ごとでの、身体が接触するしないは、雰囲気が出ていたらよいもので、細かくは言いませんが、普通の状態ではないということは考えてください。

 

 

それから、苦悩のエチュードのところで、皆、座り込みます。そのときは苦悩の表情をもって座り込むわけです。これはできていたと思います。

 

そして次の憎しみのエチュード。これは顔を上げるところでスタートします。この顔を上げたときに憎しみの顔になっていて、このときは、完全に立ち上がっていなくてもよいです。

 

 そういう状態から、次のエチュードに入る間に、半円状になって、立っていくところで、憎しみ、非難、嘲りの声をぶつける。この表情のところで一回押さえてください。

 

本当は感情で移っていくのがよいのですが、決まるポイントというのがあります。そのポイントのところの表情は、あの程度、区切りをつけていった方がよいと思います。時間が限られていると、全体のなかでやる感情を待って動けなければ芸になりません。どうしても全体の流れの遅れをとっていってしまいます。自分一人でやっているならよいですが、そうではないからです。

 

 同じように、希望のエチュードのところもモノトークのあと吹っ切れていると、この吹っ切れが足りなかったです。絶望のなかでやってきて、そこから再生するための告白をしにいくというときの出方と、そこでそれを言い終わった、それが終わってパッと帰ってしまうなんてことはないわけで、当然それを感じていたらゆっくりになる。それを感じたら言い終わってもすぐにパッと終わることができる。歌と同じです。終わったらパッと、これで帰る人はいないですね。そういうのはノド自慢かカラオケ大会です。

 

 当然、そこからの反響を一身に受けることです。よきにしろあしきにしろ、やったことは自分の責任ですから。判決を待つ歌い手が自分はここまでのことをやったんだとそこに立ち、感じてくれ、ああ感じてくれたなと、それは拍手であったり視線であったりしますが、それを浴びたくて皆、人前に立つわけでしょう。そこを逃してしまうというのは何のためにやるのかわからないわけです。だから、これも同じです。皆のソロの舞台といっています。そこできちっと感じる。

 

 

 それから一人ひとりのエチュード、希望のエチュードも同じです。もう少し、円を大きくしてあげて、真ん中の人が動きやすくすることです。考えてみれば世の中で私でも、10人の人から本当に祝福される瞬間というものは、そんなにないわけです。

 

 毎日、誕生パーティをやっている人は別ですけれど、そうしたらもう少し、そういうことを感じてみてください。今は、早くやってくださいと言いましたが、自分の瞬間です、本当に。自分が主人公になって周囲からの10人の瞳を見ている。するとこれは練習から現実になります。

 

 明日も本番、今日の練習も本番、それは、現実に人間がいて、少なくともその感情で迎えてくれるわけです。たとえシミュレーションであっても。そしたら、そのことをもっとしぜんに感じれば、きっともっとしぜんに表情ができると思うし、いろいろな感情がわいて声も解放される。体も解放される。息も楽になるはずです。音楽を聞いて歌い手になりきって練習すればよいと言っていますが、それだけではなかなかできないので、全身で捉えるようなことをここでやっているのです。

 

 それは、今はわからなくても、とても大切な瞬間だと思ってください。もしかすると、10人に祝福されるというのは、これで最後かもしれないです。本当です。明日、死んでしまうかもしれないし、死んで祝福される人は別ですが、あるいはこの後70年くらい生きたとしても、生きた分、皆からの、ののしりしか受けないで終わってしまうかもしれないです。一生で一番よい時間になるという可能性もあります。

 

 冗談であればよいですが冗談ではないかもしれません。もっと素直に喜んでもらえればよいと思います。それだけで、ここまで来る価値があると思います。

 

 

 それから考えて欲しいことは、今まで入っているもの、まず皆が人間として体で受け継いできたもの、息で受け継いできたもの、そういう部分を意識する。次に皆が今まで聞いてきたなかで経験して受け継いでいきたいものがあるはずです。それから昨日や今日の材料のなかからも受け継いできたものもある。そういったものを組み立てて出すということです。

 

 その作業はいつも全然、間に合っていないです。いつも間に合わない、ということがいつまでも間に合わないことになりかねない。一所懸命やっていて、今回はこれでよいですが、明日やる作品に関して、昨日感じたこととか今までの自分の歌のなかの想いとかを、まさにこの現場だけではなくて、ずっと引きずられてきたもの、自分のなかに入ってきているものを出せるようにする。だからもっと、音を感じて欲しいし、もっと空気を感じて欲しい。この場のリズムとか風を感じられる余裕も欲しいのです。

 

 これだけ広いところでやっているわけです。もっと広く考えて、ここから、全世界、全歴史に心を広げて考えてください。ここに身を置いているということで、もっとたくさん取り込んで、それを出すという作業をできる限り、して欲しいと思います。

 

 呼吸も軽井沢の、浅間山の、関東の、日本の、地球の、宇宙の呼吸になる。空間、時間、それを牛耳るということです。それは時間を集約して出していくと、だからイマジネーションを働かせなければいけません。舞台だけしか見えていなくて、足もとしか見えていないところから、飛び立つのです。

 

 

 

テキスト8

 

今回のテーマは、風です。

 

 

“風”の声

 

地球、世界中の音、リズム、声を聴き

人間の体に宿すとともに

日本古来の感情、心、音、感覚を

自分の血のなか、体のなかに感じ

風、心と体を洗い、自分のなかに風を通し、

風にのせて声を届ける

 

私は“風”、世界を飛びまわる

私は“風”、日本に生まれ育ち

私は“風”、どこに行こうとするのか

 

この夏 

 

 

 

 

 

1.自らを活動して他を働かしむるは水なり

2.常にこの進路を求めて、止まざるは水なり

3.障害にあい、激しくその努力を百倍し得るは水なり

4.自ら潔うして、他の汚れを洗い、清濁併せ容るるの量あるは水なり

5.洋々として大洋を充し発しては雲となり雨となり雪に変じ霞と化し、

  凝りては珍瓏たる雨もその性を失わざるは水なり

 (水月 八十八翁)軽井沢合宿所の食堂の書

 

 

 

 

カウンセリング(トレーナーほか)

 

 

Q「表情と声の不一致」歌の詩と心の一致がうまくできない。口の形がぎごちない。口と声が分離していて、本当のことを歌っていない(気持ち、心が入っていない)みたいに見える。

 

一致させましょう。何年かけても。

 

 

Q「体でひびくこと  声の場所」自分とは明らかに違って声に音の圧力を感じる人がいる。同じ人間の体をもっているはずの私に出せないはずないのに、私の体のなかのどこにその声があるのか。

 

 個人的にレッスンを受けてください。

 

 

Q「フレーズをつくる、練り込んでいくという作業について」  しぜんに体から出てくるようにはならないんです。どこか、自分を見ているもう一人の自分がいるような感覚もあって。これは、自分が本当にその歌を歌いたい、伝えたいと思っていないから、思いが薄いから、という理由なのでしょうか。

 

いろいろと原因は、あります。

 

 

Q 頭部にひびかせるという感覚がよくわかりません。胸部のときのように確認する方法があるのでしょうか。あるのなら教えてください。

 

方法は、人によって違います。

 

 

Q 天の声をやるとき、どうしても体に力が入ってしまいます。キープしたまま力を入れない感覚がつかめません。よいきっかけのつかみ方はないでしょうか。

 

心身のリラックスから集中しましょう。

 

 

Q 私は過去のことを語るのを避けているのです。たぶん意図的に。私は体と精神がひきちぎれるようなときがありました。それを語りたくない、見たくないというのではなくて、そのものを見せたくないのです。語ってわかってもらえるようなものではないのです。自分もリアルに話せないと思います。それを多くの他人のまえにさらけ出すのが怖いのかもしれません。

 

歌うのに関係ありません。とらわれないように。

 

 

Q スポーツの稽古ではかなりキツイことをやれてきたのに、毎日のヴォイストレーニングではどうも集中できないし、消化不良で終わってしまいます。スポーツで感じた、キツイけど充実する感じが出てきません。練習がつまらないものになっています。先生はどうやってきたのですか。このままの状態では未来が見えてきません。やはり修羅場をつくっていかなければいけないという気がしています。先生はどういう方法でつくってきたのですか。

 

 修羅場の向こうには、未来より地獄のあるばかりに見えることもあります。でも、修羅場というのは他人からみたら「よくやるなあ」というもので、本人にとっては、極楽三昧、つくるもなにも、どんなにおもしろい映画や本、おいしい食べものよりも楽しいことでしょう。あの人とつき合えば修羅場といわれても、本人は楽しいから続けるのでしょう。例が悪いかもしれませんが、日本のスポーツや旧来の組織での充実感は、ややもすると軍隊と同じく、連帯感、大義名分、奉仕、犠牲に基づく快感です。しかし、アーティストの充実感は、自立、自信、個として解放されたものにあると思うからです。

 

 

Q 母音の発声について 発声練習のアエイオウと、実際の歌詞のなかでのアエイオウ(たとえば、愛、家e.t.c...)の発音の仕方は同じでよいのでしょうか。特に「イ」がうまくいえません。

 

発声と歌詞の読みは、最初は一致しにくいものです。がんばりましょう。

 

 

Q「素の声に戻る」しぜんな声の判断基準は何か。人によってしぜんな声も違ってくると思う。

自分のしぜんな声の発見は、まず耳でわかるようになるのか、体でわかるようになるのか?

 

両方でしょう。

 

 

 これらの詳しくは、レッスンで、お答えしていきます。

 私がアドバイスしているのは、時間がまてなかったり、楽しさのなかで安易に流されぬよう、目的を見失わないで、より高いところ、厳しい条件にチャレンジしたり、そうすれば必ず起こるうまくできないときに耐え、やめないで続けること、もっと大きな喜びを手に入れるのに必要な勇気を、少しでももつためです。     

 

 

ーーー

 

2日目 昼

 

 

テキスト9

 

メニュの解説 エチュードスクーリング

メニュープロセスでのアドバイス

 

■息のエチュード

 1□誕生についてのイメージを一人ずつ話してもらう

 

■悲しみのエチュード

 1□誕生した魂におこった悲しみとは何か

  (自分は何がおこったから悲しむのか)

 

■絶望のエチュード

 1□悲しんで悲しんで決定的なことがおこる

   →この決定的なことはなにか?

 

■憎しみのエチュード 苦悩のエチュード

 1□真ん中になった相手は自分にとってどういう人間か?

  (なぜ憎む?)

 2□真ん中になるとき、憎しみ隊がどういうことをしているから、

   自分は苦悩しているのか?

 

■モノトーク

 1□どういうことを言えば、この課題の流れにあうか?

 2□ここで上昇の矢印を描く設定だが、マイナスからプラスへ転換するすごいパワーを出すために、モノトークで自分がいうべきことは何か

 

■息のエチュード

 1□再生 いつ自分で自分が生きるのを選んだか?

 2□1回目の息のエチュードとどこが違う?

 

■喜びのエチュード

  □再生した魂におこった喜びとは何か

  (自分がどうなったら喜ぶのか)

 

■やさしさのエチュード 希望のエチュード

 1□真ん中になった相手は自分にとってどういう人間か?

  (なぜ優しさをおくる?)

 2□真ん中になるとき、やさしさ隊がどういうことをしているから、

   自分は喜んでいるのか?

 

□あなたの班では この課題を通して、何を伝えたいのか?

 

 

 

 今までみて、少し足らないところがあります。入り込んだとき、すべてを忘れてしまっています。それは、あたりまえの話ですが、ただ声を「はぁー」とやっているときのこの空間、時間を感じて欲しい。そのときの感覚というのは、もし昨日とか今までのことのなかから取り出せるのであれば、時間を止めてそれをつかんでいく。

 

 一瞬を永遠に、リブ・フォエバーということ。一つは何かこういう感覚上に動かして欲しいということと、やはり、全体のなかで個人が埋もれてしまっています。主体的な動きがあるべきです。

 

 なかにいる人が、憎しみとかを浴びせる人たちにこっちへ行っては突き飛ばされ、こっちに行ってけとばされ、結局、皆にけとばされているといったように、何もしないで虐げられるというよりは、他人のパワーにはねとばされる、何かを求めて行こうとすればするほど強く拒まれるといったような、ポジティブに主体性をもって個人が動くところが欲しい気がします。

 

ただ、まわりがいきなりつかんだりハードにやるのではなく、個人が目立つようにやりたいのと、先ほど言った演技のなかに入っていくのはよいけれども、そうすると、この場のなかでは入れなくて、結局は残れないことです。

 

 昨年、一昨年、一番の反省点は合宿から帰ったらやったことが消えてしまうということです。残すことをやっていきたいので、今回はプロセスをもう少し明確に意図していこうと思っています。

 

 当然、エチュードという練習曲を練習ということでやっています。班ごとに書いたものをまとめさせようかと思いましたが、それはやめて、個人個人でソロのステージをやってみて、せっかくあれだけのことを書いてきたので、そういう人たちがさらに気づいた点、自分が書いたのはどういうことだったのかを気づかせるために、先ほども2時間とりました。

 

 多くの時間をさいています。それを確実にモノにしないとそのまま素通りして、明日も今日みたいなステージになりかねないでしょう。夕食、入浴までに仕上げておいてください。見ながら言っても構いません。班長を中心にまとめ、それがグループのコンセプトだと思ってください。

 

 班でまとめると無理があると思うので、個人で、ただ読むのではなく、モノトークと同じように発表という形をとります。今日、言った注意を忘れないでください。本当は本番、モノトークもこちらに変更したいくらいですが、せっかく書いてもらったものなので、1分くらいにまとめてください。

 

 去年はここで私がカウンセリングで見ましたが、練習していて一人ずつ抜けると集中した練習ができなくなるので、今回はやめます。モノトークを具体的に一人ひとりに直すよりも、こちらの方を優先させますので、1分くらいでまとめ、夜に一人ずつ発表してください。

 

 ノートをもとに組み立ててください。イメージのこと、それから個人として動く、皆の作品をやるのではなく、それぞれが主役であるというところをきちっと見せるということを意識してやってください。

 

 特に人のを見て終わらないように、その流れにいろいろなものを持ち込んで出すという形です。20分くらいのエチュードになりますが、もし3分、1分、もし10秒で表現しなければいけないとしたら、そこに全部入って、全部出すべきです。そういうところをエチュードで味わうつもりで、一つひとつでできるのであれば、やってください。

 

 

 なぜ合宿のときにはできて、戻ったらできないかというと、合宿のときは、周囲が助けてくれるわけです。環境も人も力をくれます。皆が笑う、そうしたら自分の方も笑顔になってくる、そういう感情が起きてくる。皆が泣く、皆が憎む。憎んでいくとその感情が渦巻く。そのなかに自分も投入できる。そうしたら憎しみの境地にあるそういう声が出る。そういう歌が歌える。

 

 そして戻ってしまうと一人になる。そうするとできなくなる。どんな環境でもどんな人のまえでもとり出せる、つくり出せてこそ、アーティストです。常に壁を破らなくてはなりません。一人でやるためには、イメージが必要です。アーティストを支えるものというのはイマジネーションです。イマジネーションをもってくるためにことばをキーワードを使うわけです。

 

 ですから、ことばと音のなかに自分の感情を入れてとり出すために、昨日まで見たいろいろなVTRとか、音楽とか、そこでの歌詞とかそういったものを全部、引き寄せてくる。それから今まで生きてきたあなた自身、ノートのなかにたくさん書いたもの、それをもってきて、自分のイマジネーションで自分を自立して出せるようにするということです。

 

 だから、個人の自立ということをきちんとここで体験してみる。自分が空間も時間も牛耳って支配していくことです。皆の作品、皆の舞台ではなくて、自分の舞台、自分がそこで演じているということをやるわけです。そうすれば、帰ってみて周囲がいなくなっても一人でできる。

 

ソロのヴォーカリストであれば、一人でやらなければいけないということです。そこに過去のシーンが動いてくるのです。その体験が自信になります。

 

 

 

[苦悩のエチュード

 

(トレーナー)誕生、悲しみ、絶望、ついそれがうっ積して憎しみ、仲間にとりつくように苦悩、となります。そして、モノトーク。ここでは、それまで下降していったのが上昇の矢印を描く設定といった、今まで出してきたマイナスをプラスへ転換、そのすごいパワーを出すためにモノトークで自分が言うべきことは何か、一番、追い詰められたところで。今の状況で15秒ぐらいの一言。メッセージをどうぞ。

(グループ一人一言ずつ回す)

 

自分自身の力でマイナスからプラスへの転換が行なわれました。息のエチュード、1番、2番合せて再生、いつ自分で自分が生きることを選んだのか、自分が生きていくことを自分でいつ選んだのか、一回目の誕生のエチュードとどこが違うのか、乗り切れなかった人がいたら、どうしてか。目を閉じてゆっくりと息を吐く、そして念じて、自分がそのプラスを選ぶのかマイナスを選ぶのか、感じてください。

 

[再生 生徒一人一言]

(トレーナー)喜びのエチュード。プラスの精神に、これが脳一杯にノックして完全な勝利。もう既に一個人の喜びでなくて、それは同時に100万人の人たちとわかち合える喜びになっています。歓喜な状態、再生した魂に残った喜び。

 

 

[喜びのエチュード一人一言]

 

優しさのエチュード、希望のエチュード。悲しみのあった部分全部、喜びに変わっています。勝利の確認をしながら、その余韻のなかで皆に質問をしたいと思いますので答えてください。

 

Q なぜ優しさを送るのですか。自分は喜んでいますか。

(一人一言)

 

 

 

 

 

福島コメント

 

 お疲れさまでした。胃が痛くなりますね。私はまんまえで一身に憎しみを浴びていたので思わず、坐禅を組んで仏様に手を合せてしまいました。キツイですね。

 しかし、スイッチを入れて、いつまでも同じレベルのことでないように、リピートにオンをしていかなければいけないわけです。

 私にとっても余力でやっているわけではなく、ギリギリのところでやっています。だからいつも、その場に応じて変わります。皆と同じ立場だと思ってください。演じる心境にそんなに大差ないです。

 

 いくつか明日の課題に関して、簡単なコメントを述べておきます。先ほど言った通り、昨年までは一瞬をつかむことをやってきました。今回は軽井沢に一瞬をつかみにと書いてありますが、やはりつかんで軽井沢に置いてきたり、離してしまうと何の意味もないので、離すなということをかなり意識しています。

 

 離さないために支えるものとしてイマジネーション、あるいはことば、これはイマジネーションを出すためのキーワードになりますが、そういったものを皆の頭のなかにキープして収めるということを言いました。収めておいて欲しい。収めておいてくれたら何のときにもパッと、そのことばから取り出せると思います。イメージもです。

 

 歌い手は、毎日毎日、その気分になっているわけです。歌っている間にそれが取り出されるわけです。ノートを必死に書いた人は、多分、今日そういうことが取り出せたと思います。ただこれで「よし」と思ってしまうと、その瞬間、抜けてしまいます。キツイことですよ。

 

 私も、もう日も暮れたからとチャラチャラと何か楽しい歌でも歌って、夜通しカラオケみたいにやっていたいのですが、これをやらなければいけないというのはキツイけれども、ただ、そのキツイことを目をそむけて自分の嫌なことから目をそむけたら、もうそういうことをきちっと見て生きている人たち、そうやって生きていこうとしている人たちのまえで表現する資格はないし、恥ずかしくて表現できないと思って闘っています。

 

 研究所にはいろいろな人が来ます。講演にも声楽家やプロとして何年もやった人も来ます。その人たちよりも、必ずしもこちらはキャリアがあるわけでもない、ただ毎日、何かオンしていっている、ギリギリの姿勢で生きていることで出すしかない。

 

 そういうことが、うまくできた人は、伝わったのではないかと思います。皆のなかで心と息と体が一致したかどうかです。何も大きな声を出せばよいとか、がなればよいということではない。そうではなく伝わった人たちもいます。だからことばで伝えることも、歌で伝えることもそんなに変わりないと思います。

 

 ただ歌になったときは、もっと大きな世界がありますから、当然、それを支える技術が必要です。ただ考えて欲しいのは、やはり表現したいという思いだけでは無理です。表現するものが自分のなかで生きているのはあたりまえだし、優しい人、愛しい人に会いたいというその感情だって同じだけれども、それだけでは芸にならないということです。

 

 だから悪いけれども、私はやはり芸として見ています。ここに来ているどんな人の恋愛だって、安っぽい恋愛はないし、ヘタな恋愛というのもなくて、全部、全部、嘘はありません。ただ、それをもし歌う立場として人前に出すのであれば、それは芸として出さなければダメなわけです。その基準で見ているから、誤解される場合もあります。ただ、一所懸命だということだけで認めてしまったら、自己啓発セミナーと同じなわけです。皆それぞれ生きているんだ、ありのままでよいし、がんばって仕事をやろう、毎日生きようと、それは前提で、その上にもう一つ必要だということです。それがちょっと特別な世界なわけです。

 

 だからやはり、重たい表現となります。最後までちょっとキツかったです。皆のなかにも、そこはまだできあがっていないということですね。優しさのエチュードが本気で地でできていたら、たぶんトレーニングなどやっていないでしょうね。天使みたいなもので、そこらへんを歩いていても、たぶんここに来て歌ってくださいとか、赤ん坊をあやしてくださいとかまわりの人に言われますよね。

 

 そこまではなかなかいけるとは思いませんが、そういう人も歌い手のなかにはいます。とりあえず表現、それだけ重いものを背負うのであれば、それを3分間に凝縮し、つき離して歌いあげなくてはいけない世界であって、だからこそ技術も必要だし日々のヴォイストレーニングも必要だというあたりまえのところをまず考えておいてください。

 

 それから、私は顔を見ないで音声の世界で聞きましたが、やはり、えっ誰?あの声は、とか、あのセリフは、と思わせる人はいるわけです。顔を見てガッカリというよりも、それでよいわけです。現実はどうでもよいわけです。芸の世界ですからイマジネーションされた世界でよいわけです。

 

 そのときにその表情ができていて、一番、映えていて、昨日言った通りですね。日常はそのへんのおじさんおばさんのなかにまざっていてもよいわけです。ここにスッと立ったときに、その世界を凝縮して出して、一番、魅力的ならよいのです。

 

 誰が一番魅力的で、一番魅力的な声を出しているのでしょうか。歌うとき、表現するときにそうであればよいのです。逆が困るということです。ほとんどの人は逆になってしまいます。技術がなかったり慣れていないと、何とか一瞬くらいはもっても、それがなかなかキープできないのです。皆のなかでもかわいいなとか惚れたとか、抱き寄せたくなったとか、そんな感覚になったことがあるでしょう。これはコンサートのなかでもそういうものが凝縮されているからです。

 

 それからことばに関しては、しゃべり過ぎている。そして、そのうち日常も伴ってきます。だって日常のなかでそういう意識をもち、トレーニングしているのですから。皆も今日は気づいたと思います。ここでやめておけばよいのに余計なことを説明してしまっているために、台なしになったというのもありました。そこが芸と違うところなわけです。

 

 必要最低限のものが最大を語るということです。1、2、3、4伝えなければいけないことがあったら、できたら1、2、3でやめておくこと、もっとよければ、1、2でやめる。もっと上手だったら、1だけ出して、それで2、3、4は伏せておくわけです。奥行きが出ます。

 

 うまくできていた人もいたと思います。そのことばがパッと浮かんだり、それにイメージがサッと出てきたりするのも、ライブならではの楽しさです。勝負の終わった後にしゃべりすぎている人がいましたが、それは鈍いからです。

 

 ことばのもつ意味で想いを伝えるのか、そうでなければ音声で肉声で伝えてもよいです。両方が合えば、一番よいと思います。3分間に凝縮しなければならない歌の場合は、このエチュードをこのまま踏むわけです。

 

 ドラマでもそうです。何の障害もなくドラマに成り立つことはなく、その内に葛藤があって、それが昇華していくプロセスを見ます。歌の世界は、わずか3分でやらなければいけないから、とても難しい。それを芸、技術として高いレベルで取り出すということを、高いレベルの作品から学んでもらえればよいと思います。

 

 

 

 前半はまだ簡単です。なぜ歌い手がこちらから入るのかというと、ドラマになりやすいからです。だいたいの歌は悲しいとか絶望とか悲哀から入ります。その方が、簡単といえば簡単なわけです。なりふり構わずにやっていけば、感情は、悲しみ、憎しみ、絶望と出せます。そこから入っていくというのは練習のなかで感情を込めるのによいと思います。

 

 喜びの感情からやると、とても難しいと思います。そこでドラマ的に考えてみるのです。泣いたあとの笑顔はすばらしい。後半の部分がもたないのは、感謝とか誠実さが出てこないと、ウソになるからです。

 

 泣き顔よりも笑い顔が難しい。歌も同じです。皆の自分のなかで深いレベルでの問いを発して、それに気づいて解決しなくてはなりません。いつまでも、引きずっていれば、そう見えます。だからモノトークでも、1分のなかで何がしゃべれるのかと思うかもしれないですが、1つ2つ言いたいことをまとめておけば充分です。饒舌に話しすぎないように。

 

 

 

 (私のものはとても抽象的で、全然、よい例ではないですが、エチュードを合い間にやってみました。単純にです。これは私にとってということなのですが、誕生というのは私にとっては空気、悲しみのエチュードというのは壁、絶望のエチュードというのは血であり、憎しみのエチュード、これは私の場合は親です。

 それから2の方は、これは縄ということばで代表させました。モノトーク、これは脱皮と変体、すごいパワーを出すために、これはなぜか、蜘だったわけです。育ちにもよるかもしれないです。

 

 それから息のエチュードです。これは海水でした。一回目の息のエチュードとどこが違うのかと考えると、水を飲み込んだ、おぼれる、海中に出たいみたいな気持ちが何となくあったのでしょう。

 喜びのエチュードというのは、これは人間との関係になってくるようで、私の場合、プールの壁のタッチ、皆にはわからないと思いますが。それから一番目の優しさというのは難しいですが、一番目は健闘です。二番目の方は、とにかく認めるというか、認ということです。

 

 これはまだ私はできていないと思うので、自分で優しさのエチュードというのは今後も変わっていくような気がします。

 

 あなたの班ではということでは、私の班では一人しかおりませんが、何を伝えたいのかということですが、福島班では汗か何か、ひんやりした、そこから皮膚の体温みたいなもので、ずっと縄というのを引きずってくると、そこに泥というのが見えて結局、脱皮とかもあったので、これは蛇なんだなという感覚です。わからなくてよいです。)

 

 

 

 具体的になったことばをというと誰のがよいということはなく、その人にとって、たぶん本当だったんだなということならよいでしょう、私にとって私にも本当に聞こえてイマジネーションが発したというところ、ことばでいうと、モノトークのところ、ここでは「満月」ということばが私にはひびきました。

 

 私にはトレーニングの行き帰りの冷たい自転車というのが、その月の光からきて、何となく再生のところに入る一つまえの段階、中立というような意味ではピタッときたんですね。

 

 息のエチュードでは、これもことばで残るのと音声で残るものがあります。たとえば音声で残るというのは「ありがとう、ありがとう、ありがとう」ということ、これはある人が言うと残ります。そして他の誰かが言うと全然、残らないわけです。

 

 これは音声の力です。同じことばだけれども、「ありがとう」自体にはそんなに意味はない。何を言っているかはわかりますが、こういうところでやると、嘘っぽくなりやすいものです。だから、人の心を打つように聞こえた人というのは音声で表現できているということです。

 

 後は自分のことばであるかないかということで、そんなに難しいことではないです。結構ヤクザなことばもありました。いいですね。それから「もう知らねえ、歩くしかねぇ」とか「結構、捨てたもんじゃねぇ」とか「こんなこともあったんだなぁ」とか、それがことばだけではなくて、その人の音声とキャラクター、何か表情を見ていなくても、それをピッタリ合ったときはやはり、その人の本音のことばですから、そこから伝わるものはものすごく大きいわけです。

 

 それと自分とのコミュニケーションがとれるかとれないかです。その日の状態によっても違うと思います。それから皆それぞれによっても違うと思います。だからその日によっては、「できるわ、俺でも人に与えることができる」というのを聞いてピーンとひびくときもあれば、あまりひびかないときもある。

 

 「ここにいていいんだね」というのがものすごく一瞬にわかるときもあれば、わからないときもある。それは総合的にこの場を含めて、あるいは自分のなかで判断をしていって、取り込んでもらえればよいことだと思います。本当か嘘かは、他の人はわからなくてもよいですが、やはり本人にはわかって欲しい。本人が言ってみてわかるかわからないかです。

 

 書いてみたときの感覚とはまた別です。書いてみたのを自分で言ったときに「ああこれ入っていないな」とか、「ああこれ嘘だったな」とか、音声をすべて入れてみて表現して、フィットしたかフィットしていないかということです。

 

 その感覚を出しておいて、それを歌というのは3分間に凝縮して維持していないといけないから、歌はとても大変なわけです。今皆が一人あたま15分しゃべったとしたら、そのなかの一番よいところだけを全部集めてみて、果たして1分になるかどうかです。それが3分、もっているということは、どのくらいいろいろな問いを発して、そこでつかんでいるかということだと思います。

 

 

 

 それから具体的かつ抽象的にということについて、今日もいろいろな具体的な例が出ましたが、必ずしも具体的なものが人を魅きつけるわけでもない。そうかといって抽象的なもの、理屈めいたものが出てくるとダメですね。

 

 愛とか優しさとか、そういうことばというのは抽象的ですから、安易に使うと難しいです。音声でもかなり表現を入れないと難しいですね。具体的すぎてもいけないし、抽象的すぎてもいけないということです。そこで理屈を言うのが最悪です。

 

 理屈っぽいことばだけが聞こえてしまう。人のことばを単に並べているだけとか、意見を言ってしまうとか、こういったものは自分では本当のイメージをもっていない、でも言ってみたいから言ってみたとか、自分が思ってみても納得できない、あえて納得させてという無理が出ているから、やはりそれは無理なわけです。それは使わないようにしないと、言い訳とか逃げとか、そのことばに逆に逃げ込んでいることに、なりかねません。

 

 ただ伝わったものがあったということは、何名かのいくつかの作品は自分のことばだったということですから、そういう判断で自分のモノトークを組み立てていってください。結局、簡単なことです。

 

 「ありがとう」と言ってみたとき「えっ、そんないいことがあったのかな、何が?」と聞きたくなるか、「おいしいんだよ」と言ったら、その後に「何が、そんなにもおいしいものがあるの?」と、聞いている人がそこまで引き込まれるかどうかなのです。単に「おいしいの、おいしいんだ」と言うと「じゃあ食べていれば」と、そのくらいの表現だと、もうそこで終わってしまうわけです。

 

 「何が」という問いが起こるということ、聞き返されるということは、そこに反応が起きているわけです。だから歌い手というのは「ありがとう、ぶどうくれてありがとう。おいしい、それにこのポテトはおいしいね。おなかいっぱい。」と全部、言ってしまったら次にお客は来ないです。舞台というのは「ありがとう」と言って「おいしい」と言って、次に客が「何が」を聞きたいとしても、出さないのです。そこで、全部が見えてしまうと、つまらないわけです。お客のイマジネーションを刺激しません。そういうことは先々、考えてください。

 

 ことば2つで終わればよかったものを、4つ5つ言っている人がとても多いです。1分弱くらいで充分でないかという気がします。だから自分のなかで声を出さなくてもよいです。息で読んでみて、1分、計りながらやって、間を入れて1分です。ずっとしゃべり続けての1分ということではないです。呼吸もとって、間も入れて、心と体と一体になって1分で、一言でもああいう状態になったら伝わりますが、一言で表現といっても、やはり歌というのは一言だけの歌はあまりないでしょう。

 

 1分くらいなんとかことばでもたせる音でキープさせるような感覚はもってください。私も先日、見習い声優みたいなことをやってきましたが、1行目は全部、OKなんですね。それが20行くらいになってきたら、やはり10行目くらいからこちらも負けてきて、離れてしまいます。

 

 だからそういうことでいうと、1コーラス1分くらいはもたなければいけないということです。今日のものは、いろいろな材料になったし、苦しかったですけれど、見ていてよかったと思います。問題は後半です。息から喜び、優しさにどうもっていくかということですね。

 

 

 今日も班を回って言いましたが、とても難しいです。今後の課題になると思います。深いところで問いをつくって、それをどんどん消化していくようにしてください。セリフもありました。モノトークに関しては、もう一回読んでみて、今日のような場で言ったとき、あるいは舞台で言ったときに、できたら一つのセンスをもってことばを選んで欲しいし、一つの凝縮した感覚でやって欲しい。

 

 一つの「お月さま」ということで残りの3つを伝えるようなところでよいわけです。これは、芸事は皆そうです。抽象化してシンボルで表わしていきます。そういうことを歌でもやっているわけです。難しい人は、そのまま語ってもよいです。あまり、ダラダラとなってくると、つまらなくなってしまいますので、そのへんをまとめてください。二言ぐらいで伝わればよいです。それをいくつか組み合わせていけばできるのではないかと思います。

 

 後は抽象的すぎることばばかりを使っている人、「愛」といったら、いつも「愛、愛、愛」としかいえない人、そうしたら具体的に愛ということばを何かに置き換えてみたらよいと思います。また逆に具体的すぎることばかり、事実として箇条書きにしている人は、それをまとめて、そこに想いだけのものを表わすものを出してみましょう。詞は自分の気持ちを貝殻に例えてみたり、波や砂で例えたりします。そこで共感できるものをおいて、一段昇華しているわけです。

 

 そうすると、聞いた人が先ほどの「満月」みたいなもので、そのままでは、他の人には伝わらないかもしれないけれど、伝わる人にはそれを通して、その人がまたイマジネーションを喚起させて、とても広い範囲で伝わるわけです。しかも、ことばより、音の方がその抽象化のレベルが高いわけです。そしたら、それにあたる自分のキーワード、そのイメージを引き出すワードや音の感覚やリズムは一体何かということです。

 

 先ほど言った私のものだと、縄とか変体とか、こんなものを組み合わせて海水とか汗ひんやりとか、泥とか蛇とか血とか、ロクなものではない人ということがわかりますけれども、これをもう一段、くるんでみて、何でもよいわけです。チョコレートの壁とかワインの血とか、こんなふうにやったら、歌う詩ができるんでしょうね。それで伝わるということです。

 

 

 それでは班ごとに個人的にもいろいろなことが今日は随分と、わかったと思います。

周囲のメンバーも、そのなかの舞台の一員として役割を果たすという立場でやります。

(明日も同じの時間に食堂に集合してください。その後の予定を伝えます。他の団体と一緒なので、気配りしてください。お疲れさまでした。)