一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

ステージ実習コメント   624

ステージ実習コメント

 

ステージ実習コメント ②     360120

モノトーク実習コメント      360223

 

ステージ実習コメント ②     360120
 

 

難しい曲にアプローチするときは、自分で相当、解釈、構成しなければだめだということ、表現のための解釈というのは、歌詞とかリズム、音程とかよりも、どこで歌を伝えるかというところをつかむこと。それがみえないと、結局、歌にならないわけで、そのポイント、決めどころというのがあるわけです。

 

自由曲に関しても、いえると思います。構成上の落とし込みが、ほとんどなされていない。何回か見ていますが、今日ほど何の工夫も考えもなくやられたステージはない。取り組みの問題だと思います。誰か少しはきちっと取り組んでくれるとは思っていたけわですが、そのまま終わってしまった感じです。

 

曲、リズム、構成と、この曲を歌うために、特に男性は、歌える人でも苦しんでいました。ただ、苦しんでいるということがこちらからみえるということも、苦しんできたということでしょう。苦しんできたのに、何で苦しんできたかという自分が出せないのでは損です。

 

こんな曲をどうにもできないというところで、どう変えて、どういうふうにやってきたかというギリギリの姿がみえるわけで、それが一つの見どころであり、おたがいが勉強できるところです。

 

勉強できるということは、それなりのレベルでもギリギリのところをやってきたということです。そこがみえないと課題曲が課題にならないです。果たしてそのくらいまでしかできなかったのかということで、考えてみてください。後は、その人その人のねらいがあるので、そのねらいが今日、実践できたかできていないかを、きちっと復習してもらえばよいです。

 


 はっきり言って、歌という形でまだみえていません。たぶん、こういうことをねらったのだろうという、そのことがどの程度、実践できたかどうかというようにみているくらいなので、そんなに難しく考えなくてもよいと思います。

 

今の時期、なるだけまとめる方向より器を大きくすることを考えて欲しいと思います。感情表現にしろ、器が小さいところにいくら感情表現をのせようとしても、限度がきます。ミルバでもピアフでもすごい感情表現をしています。でも、器が大きいから、そこで統一性をもち、作品になるわけです。後で大きな世界を創ろうとしたときに、どうしても最初の器が小さいと乱れてきます。

 

だから今日も、感情表現の方に走ってしまった人というのは、走るというのは結局、統一できていないということですから、乱れの方が見えてしまうわけです。それを支えるものは、技術的なものとか、声とか息とかもありますが、やはり音の感覚、音の流れを自分で握っていることです。

 

自分のなかで、ある意味では計算ですけれど、それを意識していることです。それが全部、くずれてしまったところで、単にことばを歌っても、音楽は現れません。表現ということだとまた別の評価になると思いますが、歌ということでこだわりたければ、歌の線というものがあって、その展開というのは全体を握っていないといけない。あるいは当人が握っていなくても、それが見えていなければいけないです。


 歌にも表現にもいろいろありますから、あまりこちら側で決めつけたくはありません。握ってもっているとき、その感覚があれば、体も顔もそう動いているはずなので、そこで判断できます。ある程度、歌える人たち、今まで歌えてきたはずの人たちの今日の作品は、とても低いレベルだったといえます。

 

全然、集中できていません。流れています。集約されていないし、凝縮されていない。10の人が10しかできないのはよいです。来年、10、20とやってもらえればよい。ただ、50とか100の力がある人がその分しかできないというのは、どうしようもないわけです。こちらの方が伸びようがないわけです。

 

あなたの役割を、それでは果たせないし、それからその人たちが勉強するということにおいては、何かを身につけるとかつけないということよりも、10の人が10レベルでできていることを、50もっている人は50レベルで出していくということが、最低限の課題です。

 

一番、おもしろくない歌というのは、うまいとかヘタではないです。過去によりかかっている歌です。前にこういうことをやった、だからできるだろう、あるいは歌い込んで作品に仕上げた、そんなものはすでに腐っているわけです。先に生きようとする人がうしろ向きに歌ってはいけません。それに、だまされるほど、一般の人も甘くはない。気をつけた方がよいと思います。

 

日本人のお客は何も言いませんが、結局、感じるものがないということはそういうところに出てきます。前向きに出せるパワーをつけるために、トレーニングがあるのです。


 それから、できたら型に実を伴わせていきたいということです。これも抽象的な表現になってしまいますが、自分のなかでコントロールされていなくて、統一されていないものをそのまま表わしたところで、やはり芸にならない。今のねらいがそこにある人は、それでもよいと思います。一年くらい、そういう実験をやってもよいし、だから人から遅れるということではない。満足がいくところまでそれをやるべきだと思います。

 

ただ、練られてきていない、それが練られていかないということに対してのぶざまさというのがあります。声もよしあしでなく、練られていない浅はかさがあるといえばわかるでしょう。それは、その人がその人のなかできちっとそのことを、たとえばライブハウスから出演依頼がきたら、やるべき最低限のことをここでやらないとしたら、作品にならないのはあたりまえです。


 ここはステージとしてみて欲しいということは言ってあります。練られてきていないものというのは、いくらベテランであっても声が少々出たり、歌が少しうまいというような人であっても、ぶざまにみえます。いや、生じやっているからこそ、だからこそぶざまにみえます。「もっとできるはずなのに、そこまでしかやっていないな、おまえっ」というところで皆、見ているわけですから。成り立っていかない。いつしか自信が慢心になっているのです。

 

ここの場というのは、①も②も、③だって、そんな大したものだと思っていないので、そこに基準を合せてしまうと、できている人ほど、スケスケになってしまいます。超えてあたりまえ、ダントツであたりまえのところで、頭一つも抜けられない力を恥ずことです。

 

あまりできていない人は、とにかくそこに対応できるようにがんばってもらえばよいです。次の年で力として伸びます。

そうでない人は、きちっと自分のなかで基準をもたないと、歌なんて手を抜いていたら、いくらでも抜けますから。そうであれば、もう歌わない方がよいです。じっと歌わないで、歌いたくなるまで待っていなさい。そんな取り組みでは、歌が消費されてしまいます。どんどん雑になってきてしまいます。歌がかわいそうです。そんな仕打ちをして歌と友人になったり、一体になれるわけないでしょう。それで、ダメになった人を何人も見ています。ここは、それに気をつけるよう警報を発しているはずなので、気づいていってください。

 


 コピーを徹底してやるということも、ねらいと実践ということで、段階ではよいと思いますが、できるだけオリジナルに持ち込んで欲しい。やはり、自分の武器は何かを考えて、課題曲、自由曲が何でもよいですが、歌のなか、声のなかでの武器を出すことです。表情とか踊りとか、いろいろな武器があってもよいと思いますが、できたら、歌のなか、声のなかでの武器を考えてみてください。

 

だからといって、放射、発散だけしているというのは、どうしようもないわけです。私も悪いときの話や歌は、そうなりますが、時間がなくて、たくさんのものを伝えなくてはならないというときに、本当は全部を捨てて、一つのものだけを言えばよいのです。

 

ただ、いろいろな役割があって、いろいろな人がいろいろなレベルで聞きにくるので、全部に対応しようと思うあまり、一方的に全部を放射してしまい、何も伝わらないことも多かったように思います。何事も、引きどころというものがあるわけです。これが今日は本来、できるはずの人が全然できていないので、とても不満に思っています。

 

より大きく出すために引くことが大切なわけです。ということは、引かないで終わってしまったという人は、より大きく出せなかったということです。全部を5のレベルで最期まで歌い切って、しかも、間とか感覚とか、そういったものをなくしたときには、もう結局、モノトーン一色で、5のレベルで最後までいってしまっているという感じです。そこのところに波も起こってこないし、相手の気持ちをほぐしたり、上げたり下げたりということもできるわけがないです。直線でずっと最後までいってしまっている感じなわけですから。

 

確かに、そういう歌い方もないわけではないです。ただ、それは体がやっているわけです。意識のなか、声のなかでは全部がそういう型になっていても、体自体が大きくバネとして使われているときには、確実に引きどころ、あるいはどこで出して引いているかということは、体の方がやっているはずです。それがやれているかいないかというのは、ビデオを見たときに気づいてください。

 

声の力だけで荒っぽく押していこうとしたら、伝わらないわけです。もうワンクッション必要です。スポーツと同じです。ボールを力一杯、投げれば、それで押しきれると思っているところではボールは伸びないし、それからコントロールもきかなくなります。力をより大きく効率的に働かせるのに、ワンクッションおかなければいけない。自分の体のなかにも、その空間の感覚のなかでもです。

 

だから、歌を大事にして、強く抱き寄せるとしても、いろいろな強くというものがあって、そのなかで一つストレートにそれを崩してしまうような抱き寄せ方とか、強引だけのアプローチというのはよくない。そこに愛情を抱けというわけでもないですが、そこをいたわっているところから出てくる意味での強さ(優しさでもいいです)が必要です。

 


 ものすごく抽象的かもしれませんが、何となく今日のものは全員、通して一色で、最後までザアーと引きずってしまった。本来はもっとバラエティに富むはずです。流しているわけではないとは思いますけれど、たぶん、出し方の問題、それから出すところまでの今日のステージに対する練り込み方の問題だと思います。

 

どれがよくてどれがよくないということではなく、全体がそんな感じになって、全く差がつかなかったような気がします。差がつかないというのは、よいことではないです。うまいとヘタとの差というよりも、レベルに関わらず、それぞれ顔とかその人の色とかスタイルが出てこないとダメです。

 

一見、型としては、それなりにもっている人はいます。それは出たことは出ましたが、ただ、実=身がともなっていないので、その型が頭だけで伝わってこないままに急に終わってしまったような気がします。練り込まれて、その練り込み方が中途半端なまま放射してしまってという感じです。自分の曲を聞いて、反省をまとめておいてください。全体的には、そんな印象を受けました。


 私のコメントについても、作品として歌としてよかった悪かったと受け止めないでください。自分は今日はこういうつもりでこの場を使うために来て、そのことができたということであれば、それでよいと思います。

 

それとは別に、私はトータル的に見ることが必要なので、だから2年後、3年後のために私のコメントも参照してもらえればよいと思っています。今やって欲しいことは、何でも試みて欲しいということです。

 

何のためにこのステージを使うのかという目的をもって、その目的に近づくために使っているならば、私からもあるいは周囲の人からも、全部、理解されなかったとしてもよいと思います。その実験を繰り返していく、ただ同じレベルでやらないでください。

 

今回はこうだった、次は何のねらいでという形で使うなら、それはそれで、ここの大きな役割だと思います。そういった実験の場というのは、他ではとれないでしょうし、自分たちのステージとかお客さんとか、親しい人のまえでそれでやるわけにいかないし、だからそれでもよく、でもパワー、気迫をもって、自分を旬でみせていないものはいりません。

 

ねらいをきちっともって、きちっと使うということで自分のなかで評価してもらえばよいです。私の全体の見方というのは、あくまで全体の感想です。ただ、お客さんの代表ということで、言わなければならない役割です。

 

 

 

モノトーク実習コメント      360223
 

課題を与えられたとき、それを「課題」としてこなしている姿、あるいはこなしたものなどは誰もみたくはありません。そこでその人が何をつくってきたのか、つくろうとしているのかがみたいのです。
 今は、フリートークは、内容、ことばについても、自分で考えられるはずです。これが、詞の朗読になると他の人のことばが入るし、歌になると、リズム、音程が入ってきます。さまざまな要素が入ってくればくるほど、より自分でつくる力が要求されます。それらにのっかるだけでは、本当のあなたの作品にならないからです。


 そういう意味で、フリートークはもっとこだわってきて欲しかったと思います。最初から、一つひとつのことに、できるだけこだわっていくということです。そのこだわりへの追求だけが、ギャップを埋める力となるのです。


 ヴォーカリストにとって必要があるからやっているのです。大きく伸びるためには、これが原点なのです。はやくそのことの大切さに気づいてもらうためにやっているのです。できるできないの問題ではなく、ここに一つの場があるという意味がわかってください。自分はこの場に何をしにきているのか、その意味を自分に問うてくだい。場を踏んでいくのであれば、何も気づかず足早に通りすぎるのではなく、一つひとつしっかりと強く心に踏んでいってください。


 いつも期待していることは、ここで期待していることを上回る何かを出すことです。段突の人が一人いて、他の人がその差を感じ、しのぎを削ることが徹底して行なわれてくれるとよいのですが、まずあなたが、その一人になって欲しいと思います。それだけ、準備を徹底的にして、より完璧なものをこの場で出すように試みてください。謙遜など必要ありません。もっとすべてに対する姿勢に欲張ってください。ここで通用したら、どこでも通用するのです。


 最初の段階で、楽しんで歌う、心地よさを感じることは難しいものです。そのベースがきちんと固まらないうちは、解放はされないのです。ベースの部分は暗いのではなく、自分のなかに入ってくる分、厳しいものなので、どうしても、のまれてしまうのです。それを、すべて引き受けられれば原点にたてます。自分を一番大切にして、愛すること、その上で、たかだか自分が何をやろうと誰も困るわけでなく、ただ自分でしかないことを感じ、一度、自分を突き放すことです。他人は皆さんのことを見ているようで何も見ていないということもわかります。


 まず、自分に出会うことです。そして、何を与えられようとも自分のものにできる力を養うことです。うまい、ヘタではなく、他人には決して侵されない一つの世界をもつことです。そのために、声や、声をどう展開していくかというイメージと、それを支える技術が必要となってくるのです。


 自分のよいところを知り、煮つめてくるというプロセスが足りないように思います。与えられているものが10としたら、舞台で100を出せるように目指すことです。そのために、90は自分でつくってこなければならないということです。人のことば、人の歌をやろうと思ったら、限定されてしまいます。それを突き破って、自分を出さなければならないのです。曲やことばは10にすぎません。

 


 今日やったことの原点をもう一度、考え直し、与えられたものに対して受け身にならないようにしてください。輝いている人、おもしろい人は、どんなにつまらない場やつまらないものもおもしろくできるのです。
 声が身についたら何かができる、歌がうまくなればできると思っているうちは、いつまでたっても何もできません。そのプロセスのなかで、どれだけの人を巻き込んでいける表現を確立していけるかということです。


 この研究所で与えている課題は、一人では決してやらないだろうと思われるものが多いでしょう。しかし、そういう課題に取り組むことにより、自分のオリジナル性や本当の実力がわかるものです。つまらなく聞こえるのは、その人に魅力がないということです。


 この場に立ったとき、ここの仲間が見ていると思わずに、自分の客として捉えていくことです。やってみて失敗したこと、伝わらなかったことを一つひとつ次のステップにして、より完全を目指してください。そうしないと、基準は上がっていきません。自分で確実に歩んでいる時間を踏んでいってください。聞いている人が一人でもいれば、自分一人でやっているトレーニングとは全く違うこととして区別するプロ意識をもってください。


 この研究所では、二流の舞台役者や声優がやっているような演技っぽさや勢いだけで独特な空間をつくるようなふうこととして区別するプロ意識をもってください。ふしぜんなことはしたくないのです。芝居がからず、しぜんにみえることが大切です。ふしぜんになるのは、基本の力がないためで、おかしいと感じてください。虚のなかにリアリティをつくり出すから芸なのです。


 伝えたいことを自分で確認し、そのことを思い切りやってみたら、足りないものが生じます。それを理解し、そのギャップを埋めていけばよいのです。そのために、しっかりとした技術を身につけていくようにしてください。