京都特別レッスン~天の声・地の声~
このレッスンは、ことば、感情の方に声を超えさせていく部分です。
感覚を解放していくとい「うことです。一番難しいのは自分の体を一つに捉えること。
これはスポーツでも同じです。スキーをやっている人が泳ぎをやったら、すぐに一つになれるかといったら、自分の得意なもので一つになることが、なかなかならない。やはり、筋肉のつき方やイメージが違うからでしょう。
ヴォーカリストの場合は、それを歌の中でやらなくてはいけない。ただ、歌では、なかなかそのようにならないからことばや、ことばも使わない音だけのものでやっていきます。非常にシンプルなのですが、基本の中の基本のことといえます。自分の呼吸を感じ、その中に音を感じ、それをだしていく。そのことがしぜんにできる。
しぜんにできることは難しいのですが、それを何か感覚で捉えられるように考えてみてください。心を一つにしていく、体を一つにしていく。集中力もいります。何かをやろうという意志と、そのために体と心を解放しようということで、力を抜くということが最初は反します。
自転車に乗れるようになるプロセスを考えてみましょう。難しいところではなくて、それを全身でやれるところからやってみます。それが歌の世界までつながっていけばよいのです。そのためにトレーニングが必要です。
最初は非常に単純にします。息をしぜんに吐くということです。吐ききったらしぜんと入るのを感じるということです。体を曲げてでも、まっすぐでもよいです。吐ききったら戻ります。目一杯吐くときつくなって入ります。
そのときに余計な力がなるだけ入らないように、徐々に息を深くしていってください。段々音の世界に入ってきます。余計な意識がなるだけ働かないようにしましょう。他の人の息とかに耳をすまして、どんどん耳の世界に入ってください。
ダンボの耳になりましょう。目はつぶっても構わないのですが、集中するには、人によっては見開いた方がよいときもあります。できればもっと長く、もっと強く吐いてください。
体の中心だけで捉えて、肩や首とか頭とかの意識を除いてください。体の方が動くようになってきて、息が吐けるようになってくるところ、これを深いため息にしていきます。最後ぐらいのところで息を吐ききると深くなります。
のどをつめるとよくないので、のどは開いたまま吐いていって、10分の1、10分の2、10分の3と後半の方から音にしていく。勝手に音になるところをとるような感じで、音にしようとあまり意識しないでください。ほとんどの人はうまく音にならないと思います。女性や胸に入りにくい人は体を曲げてみてください。いびきみたいな音でよいのです。
ただ、鼻の方にひびかせようとするのではなくて体の方にひびかせます。なるだけ長く深く。でにくい、よくわからないという人は「あーぁ」という、ため息だと思ってください。短くではなくそれをなるだけ長く、徐々に声にしていってください。
息から声への効率を100%にしていく。ヴォリュームを少しずつあげていく、長さも少しずつ長くしていく。のびる人は15秒~30秒ぐらい。体がなれてくるとはききったら、一瞬で息が入ってくるようになります。一瞬で空気をいれて「あー」と吐いていく。歌うという感じではなく、念仏みたいなものでもよいです。
地の声というのは地響きみたいな声です。自分の一番低いところの声よりもう少し高いところで足の方にひびいてくる。それをつなげていってください。少しずつあわせていってください。声になってきたと思う人は大きくしていってもよいです。長く大きく。
すると、しぜんとビブラートとひびきが入ってきます。今の3倍くらいの長さに、それをさらに大きくします。「ラ」でも「ア」でもよいです。体に力が入らないように、体と心を一致していく。どんどん解放していってください。
(終止)
「だんだん息にしていってください。そして最後に息だけにしていく。徐々に深呼吸にします。ゴールを走り抜けたあとの助走のようなものです。少しずつ止めていきましょう。」
今は低い音のところでやりました。声をだすことに意識が集中するときには耳を解放していく。他の人の声のあるところへ出すと、声は共鳴ですからのりやすくなってきます。そういうところで調和やハーモニーを感じます。
これからしぜんにキィをあげていきます。今は動かないで、姿勢もくずさないでやりました。今度からは少し動いてもよいでしょう。自分を表現の中で感じで欲しい。壁にむかってやるという方法もありますが、できるだけまん中に声のうずみたいなものをつくっていきましょう。
かわるがわる適当にまん中に出て、歩きながらそういう声の感覚を感じてください。声をあびてみてください。ここのところに音があふれているわけです。
私の方で声をあげたり、ピアノの音があがっていったときは、一つの感覚として上昇させていってください。最初は指揮しますが、指示しなくてもあるときに一つの感覚で、全員の声がシンクロナイズしていってあがっていくときがあります。
何回も何回もやっていたら、皆さんの意識が集中していったら、そこで少しずつモチベートがかかってきます。そうしたらそこにどんどんのせていってください。皆さんの体の中に息が生じて、音が生じて、音をだすことから心が生じ、その音自体が動きだしてきます。動き出したものを「こうだ」とか決めつけないで、その音に身をまかせながら、そこにのっかるだけではなくて、ある意味では自分で作品をつくってみてください。
音をずらして構いません。ただ、計算して音楽的に歌いあげようとはしないでください。トランペットで鳴らすことを音だけで楽しむ感覚で声を扱うとよいです。中音域ぐらいのところまでいきます。どうしてもたまらなくなったら、高音域にいっても構わないです。半オクターブぐらいまでの音域もみてください。それから長さはどんどん長くしてください。
自分の1メートル四方ぐらいまで動いてみて、あとは適当に感覚のままに一人ずつまん中にでてきて声をあびてきて戻ってくるというような感じです。高まって何かが終わったと、皆さんが思ったらピークというのはでてきます。
これは歌でも同じですが、一つの動きがあってどこかで上がっていく。それを続けていったら当然のことながら体力も、気力もロスしていきますから、どこかのところで落ちてくるわけです。それをなるだけしぜんに出し、感じ、終わらせるとよいと思ってください。皆さんが思っているよりも私の方が伸ばすと思います。そにはついていってください。
スタートは同じような形でいきましょう。やや早いテンポでいきます。息からため息あたりから入ってきます。「ハ」でも「ア」でもよいです。
今日やったことは非常に単純ですが、歌や音楽の基本です。声を出したあとの自分の意識状態をつくりあげます。そこに意志をいれるということによって、伝えるものをきちんとつくりだすことです。
技術以前に体が解放される、息が吐いていく、皆さんがもともともっているものをとり出します。
両方とも私が与えられた1時間だったので、1時間終わった時点。59分の時点から60分の間にすべてをかけてみました。そこの1分間の状態が大切なのです。
これが瞬時にとり出せるかどうかが、プロとアマチュアの差です。最初の授業の1分間。それから最後の授業の1分間。その1分間と1分間、そこで何が変わったかがわかる人、あとの1分間を365日、2年間その状態を自分でキープできる人だけが、表現の世界に入っていけます。
これは自分で死にもの狂いになってトレーニングしないかぎり、超えるのが難しいのです。難しいというのは次の日には、また戻ってしまうからです。別の課題がきたり、歌うとのどを疲れさせてしまい、全部ふっとんでしまうわけです。この状態を感じ、そういうところができていく世界なのです。
確かに声は歌として使うときは、音が入ってきたり、照明が入ってきたりしますが、そこで照明がなかろうと、音が入ってこなかろうが、今のようなものがまわりの条件に左右されないで本人の力として出ていることです。+αで音が入る、照明が入る、いろんなものが入ってくるのはよいわけなのです。シンクロナイズします。トレーニングできるところは、そこのまえです。
歌という作品はトータルとしての評価ですから違います。もし声がなくても他の部分の要素があればできます。しかし、私はそういう人をヴォーカリストとは呼びません。
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京都特別レッスン(1) 360321
表現に求められるレベルについては、いろいろな言い方がありますが、その当人がとにかく伝えていることに対して周りが何かの影響を受けることです。必ずしも肯定するだけでなく「あれは嫌いだ」と思ってもよいし、「あれはよいけど、あれはいやだと」と思ってもよいでしょう。
強い印象を与えること、存在感のアピールから始まります。それを相手の心に届け、その心のなかにおき、さらに思い出せるところまでのものにすること、それで、最低限の条件、表現です。
何でも、参加しているにも関わらず、あとで「あなた、いたの」といわれてしまうようなことで終わってしまうと本当の意味がないのです。
トレーニングにポリシーをもちこんだり、こう歌わないといけない、こう考えないといけない、ことばをおぼえないといけないということはないのです。
ただ課題を材料として、それが嫌いなときも、それに対抗する思想や考え方をださないといけない。
もっと単純にいうとことばをだす、音色の表現をしていくということをつきつめて、そこから何かやらない限りあなたのヴォーカリストとしての意味はないということです。
歌詞というのは本当にひとことです。他の人の歌詞を読んで、全部の世界を理解して、こういうストーリーだから、全体の位置づけからみて、自分はこう演じないといけないという演劇とは違います。自分だけの一人舞台です。
「たべるものをもっていないか」というせりふなら、それだけでやってみるのです。何にもないよりは楽でしょう。一つの型を与えられたとき、それをやらなくてはいけないという状況を自らつくり出し、人につくられたという言い訳をしない。
それを超えて本当にこなせるようになったら、何もないところから自分のことばできちんとやればよいわけです。
今、行なっているのは、デッサンです。「ケセラ」も「虹と雪のバラード」も、これを歌うこと自体は意味がないのです。合唱団でもやっています。
そうではなくてこれを与えられたときに、何かを感じ、その思いをもって、それを自分の世界に対して「自分はこうやりたい」といえるものが感じられないとおかしいのです。
何かをつくっていく人間であれば、こなすということをやらないでつくり出すことです。押しつけられたことを表現ではね返していく、そのなかで自分の力を感じていくのがトレーニングです。
トレーニングのための材料だしを私は行なっています。
教えるのではなく、いつも材料だしです。だからその材料をうまくくんでいくことです。すべて吸収して使い捨てていったらよいのです。大切なものは栄養としてあなたの体に残ります。
「ケセラ」や「卒業写真」をレパートリーにするようにといっているのではないのです。ミルバやピアフでも、聞いたらすてていくのです。その代わり捨てるまでにその分、何か自分の方にくみあげて残していくのがトレーニングです。
テーマは憤りやかなしいものや、時事的なものの方が具体化しやすいので、よく使います。歌詞をどういうふうにからめあわせていくかということも大切ですが、論理的に考える世界ではありません。自分で感じていく、その感性の勝負です。
ことばをことばで感じ、それを音にすることを感じ、それから音がつく、その音を自分で感じる、それをどういうふうに歌にしていくかでしょう。ハーモニーも、基本をふまえた上で展開しますが、技巧的なことを問うているのではないのです。
集団では、個人でやるときにできないことをやります。
ここで声自体のパワーを感じてみたり、他の人から学べることはたくさんあると思うのです。
素直になればよいのです。皆さんでこの課題を一緒にやっているのではなく、この中にその課題をどうこなせる人がきているのかということと、ここで今、どういう表現がここにでてきたのかということが大切です。
これでは、あまりに寂しいのではないでしょうか。これだけ人数がいてあわせて三人分ぐらいの表現しかでない。何ですかこれは。私は35人分、注文したのに! 出前なら怒られますよ!
これは私の基準ですから、35人がいて35人分の表現ができたら皆さんプロです。だからそれを今は期待していない。期待していないけれど、一人ひとりがそれをやろうとしない限りできてもきません。
少なくともそちらに近づいていくように、もう少しイマジネーションを働かせてみましょう。自分が感動しなかったり、自分が心を動かさなかったり、自分がそうしようと思わないものを、他の人がここでいて組みとってくれますか。
余程その人のことが好きでその人が何をやっても感動するとかという人でない限り、これでは何も動きません。何もしない人に対して人は冷たいものです。いいですか。恋した相手のしぐさにはときめきますよね。聞いている人に恋させること、それがヴォーカリストでしょう。
たとえ、初めて会った人に対してさえ、それができる。そうでなくては、当然のことながら何も動かないです。それを動かせたら皆さんはそこの部分に価値ができて一歩が踏み出せます。
それを1曲の歌にしていく。あるいは一つのことばにしていくという世界に入れるわけです。現地のことばが使えなくても、歌を伝えられるし、ことばは片言でも愛し合えます。
それを伝えたときには、それが伝わったなら自分で感じられるはずです。先ほど自分がやったときに、「伝えたと」これで私が感動していると思えた人が果たしていたでしょうか。それができなかったというのは、この題が悪いのではなくて、ここにアーティストらしい人がいないからです。
ドリアン助川さんなら、二言三言ぐらいのことばで、ここを何かにするでしょう。
常に何かをしようと思っている人でなおと、常に何かを起こせません。
それができなければ、できていると思った人で勉強してください。
このレベルで真似ても仕方がないです。
やぶれかぶれでも、声があろうがなかろうが、表現はできるのです。これはおぼえてください。皆さんが本当に明日死ぬと思って、今日だけしか歌えないと思ってやったら、人の心を打つことはできるはずです。
誰でもそうですが、その境地に普通の人というのは入れないのです。よほどのことが起こらない限り、入れません。ところがプロというのはその境地なり、その環境なり、その意識を常に自分でコントロールしてもってこれる人です。どんなに状態が悪くてもできる。だからこそ、そのことができるためのトレーニングをしないといけないのです。そのまえに流すくせができてしまうとよくないのです。
他の人がダラダラしていてもあなたには関係ない話です。本気でやればまだまだできると思いますから、私はできることについては要求します。できないことに関しては時間を待ちます。
一番困るのは去年できていたのに、今年できなくなってきたという人たちです。それでよいと思う人は、早くここを去ってください。後進のために。技術が宿り、いろんなことがわかるほど、より多くのことを自分で学んで、より感情を働かせて、より表現しようという意欲を大きくもたないと、質は保てません。
カラオケあたりで得意に歌っている10年、20年選手の人たちの「マイウェイ」など、本人は悦に入っているけど誰も感動しない、そのようになりたくなければ、何を学ぶべきか何に気づくべきかを知ってください。
歌は大きな世界だと思います。その人が思いを込めるほどに、大きく深くなっていきます。だから「たいしたことないな」とか、「こんな課題だ」と思ったら、結局たいしたことがない、こんな課題といわれるようなものしか自分もだせないということです。それをどう受けとめるかです。歌も同じでしょう。
いつも充分すぎる材料です。3日間、とりくめれば、何かがつかめます。「こんな程度でよいのか」と思った人もいるのかもしれませんが、そんな程度のものではありません。それは明らかにイマジネーション不足です。その人の取り組みによって大きくなるものです。
ことばの世界、声の世界の上に音やフレージングとか、それが展開していくような世界があって、ヴォーカリストというのはことばも、もう一つ上の感覚のこともやらないといけないのです。そういう感覚をおぼえてください。
「つめたい」というときに、それは同時に「NON SO MAI」であり、そういったものが一つの感覚で捉えられ、それを音的な表現にできるようにということが、取り組みのメインです。そこを抜きにしていくら3分間歌ったり、間違いなくやってみても何にもなりません。
ことばに対する感性、それから音に対する感覚、そういったものを最高までに鋭くすることです。音がきた、それに対してことばがついている、リズムがある。すべてあなたの体や心と同じように動いています。そのことをどう感じてどういうふうに動かすか。心が動いて、体が動かないと表現はできっこないです。
そうならないなら、その状態をどうつくるか、どうイマジネーションしていくか、どう作品まで意識を高めておくかです。高めた意識に対してついてこないのは技量がないからで、これはあとからカバーできます。ただ高まっていない意識に対しては作品は成り立たないのです。声がどんなにあっても、あるいはどんなにトレーニングしてもです。たとえ10年20年トレーニングしても歌1曲、成立しないです。
せっかく3日間あります。私も年に1回、誰か1人の人が、感動させてくれたらいいやというぐらいのあきらめと期待のなかでいつもやっています。
それを何とか裏切ってください。たとえキラリとでも、一瞬でも、ひとつのことばでも、何かを働きかけてくれるのであればやったかいがあったと思います。
誰か1人の1フレーズだけでもよいです。それにめぐりあいたいだけに、私は生きているのですから。ただ、それをやるためには、全力で本当に取り組んでやろうとしない限り、でてこないのです。一瞬のスキも許されません。なりふりかまわずやって叩きこんでいってください。その中でしか気づいていかないです。
まず体が一つになっていない、心が一つになっていない、歌が入っていない、音が入っていない、感じていない。そこから、出てくるわけがないです。真剣勝負でやってください。こういうことはいってどうこうなることではないのですが、ただ一人くらい、一曲くらい、いや、1フレーズ、どうかなるかと、私は、いつも期待しているのです。
その可能性がなくなったら、この研究所もクローズです。集中講座や合宿もそのときだけは、かなりできる人が出てくるのですが、普通のレッスンや日常になってしまうと、なかなかその高い意識が働かない。
集中講座をくんでいるのは、普通のレッスンだと1キラリもできないこと、気づかないことを1つでも2つでもよいから、他の人や先生方からとって、自分でもだしてみる体験をつんで欲しいからです。
自分でだすのが1番大切なのです。ださないとどうにもならないですから、そういう試みの中で消化してください。本当に短いです。あっという間にあさってになってしまうと思います。何かしていってください。できない人は気づいていってください。
ヴォーカリストの心地よさは、私流にいうと、ガケから飛び降りたときの甘美な旋律です。
その一瞬、死の覚悟、勇気、思い切りのよさ、勢い、
たった一人、全身皮膚感覚、生きてきた歴史と血、
そして、そこに風が感じられるのです。
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京都特別レッスン(2)
「ケサラ」の歌詞を読むことから、やっていきましょう。切るところはまかせます。1行でも2行でもよいです。まだこなしきれていない人もいるのですが、
お客様に歌う前に、やる人が寝てしまうようなことをやっていたらだめです。「ケサラ」ということばでなくてもよいです。自分のことばでまわしてください。
今回の集中講座の目的は、焦点が散漫になったら何もできないということを知ることです。歌というのは本来、山でなくてはいけないです。谷ばかりやっていると、くさっていきます。ただ深い谷がないと大きな山というのはできないのです。だから、谷を掘るトレーニングをやるのです。
間違ってほしくないところが、トレーニングの意味です。トレーニングは器を大きくし、力を充分につけるためにやるということです。何も明日、公演を控えた集団を前に私がディレクションとしているわけではないです。
入ったばかりの人もいれば、『歌とは何ぞや』と、ここに入ってから長く勉強してきた人もいます。それは私の中では、区別しています。でも、始まれば、白紙、とったもの勝ちです。
これから力をつけるためのトレーニングであり、今は見せることはあとまわしです。
10の力があるのに5しかださなかった人に対しては、頭からはずして、参加費も寄付金だと思っています。5のことしかできないのに、何とか8とか10にしようとやった人をみています。
この中で表現力があるとかないとかというレベルでやるのではないのです。ここは、皆さんがずば抜けた才能や力をもって、入ったわけでもないし、優れている人ばかりでもなく、集まっているわけです。
で、他の人に比べてどうこう言うのではなく、とにかく自分の前の年より優れることだけをいっています。前年よりよくなれば続いていく。とにかく昨日の自分よりよければよい。去年、今年と考えてもよいし、そうでなければ昨日、今日、明日で考えてもよいでしょう。
だからそこで自分の中で狭い枠をつくってしまったり、このぐらいと考えた人は、そこまでです。特に2年ぐらいいてそのことがわからない人は、もう自分の考えでやっていきなさいということです。別にすべての人がきちんと歌がうまくならないといけないとも、思っていないです。ましてや歌い手にも、いろんなことがあります。ただ、いろんな可能性のある日々を、少なくともここにきて過ごすのであれば、しっかりやることです。
結局、人の前に立つことでしょう。そこで人をひきつけることでしょう。この時間がきついなら、皆さんが目指しているのは、何なのかということです。
この人数の前で歌うということでも、大変なことです。それをきついと考えないだけの力があればよいのですが、なければつけていく。どこであれ、出たら、みている人をひきつけていくしかないわけです。
それが日常のトレーニングにない限り、本番でできる方がおかしいのです。この場を見下す人は、この場にいる自分も自分の歌、表現も同じ程度に低くしか考えない人です。
だから、いいたいことの一つは「人の後ろに隠れるのをやめなさい」ということです。立つ位置ばかりではなく精神的なことでいっています。精神的なことが、立つ位置にそのまま出てくる場合もあります。
もう一つは、「周りを気にすることもやめなさい」と。周りと合せてやっているその周りが、どの程度のものか。半分以上が東大合格というのと同じように、皆さんの半分以上がプロだったらよいですが、そうではないから、ここでダントツであってあたりまえです。
はっきりいって、それで最低ラインのところです。ここでダントツになるのに努力しないといけないのに、周りの人をみていてどうなるかということです。トレーナーのレベルと皆さんとは、今は雲泥の差がありますが、そこを最低ラインにして欲しいということです。
2年いる人は2倍できてあたりまえなのです。本当は2倍できないと困るし、3年いる人は3倍できてあたりまえです。周りの人よりできても何にもならないのです。だからこの中にいても、この中だけでやるなということです。
初めての人は、慣れてください。厳しい雰囲気とか、怖いというのは、あたりまえであって、今いっているようなことはいっているだけで甘いことなのですから、すぐにでも自ら厳しく切り替えることです。
そして、楽しんでください。
本当のプロの世界なら、注意もしてくれないでしょう。トレーニングや芸事みたいなものというのは、そこの時点に立たないと入っていけないものです。
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いくつかヒントを表現の中からやっていきましょう。まず一つ、「ケサラ」を課題に選んでいます。
仲良くやるのはよいですが、もう学園祭をやるのはやめましょう。コーラスでハモって、それでどんなものかということです。この京都のスタジオでも、20年も30年も歌っている人たちがコーラスをふきこんでいます。それに対して勝るとか、それよりも美しくということは、到底考えていません。できません。
合宿でミュージカルをやっても、そのミュージカルでそのへんのミュージカル劇団よりうまく演じられることはありません。「ケサラ」のコーラスでも同じです。皆さんにハーモニーやコーラスとか、音程がとれること、間違えないで歌うことなど全然、期待していません。
この3日間の取り組む目的は違います。それは、1時間、授業を無駄にして、3日間が無駄になってはいけないと思って話したのに何にもわかっていない。
1曲がきれいにカルチャー教室に通うおばさんぐらいに歌えるようになって、この3日間、何になるのかということです。音をとるのも一所懸命でよいし、周りとあわせるのも一所懸命でよい、皆で楽しかったというなら遊び、ごっこになってしまいます。
遊び、ごっこを3日間やってみると、そういうことを日常生活の中にもっていない人にとっては、よい3日間でしょう。
その延長で最高のものができても、カルチャー教室の1年がかりの発表会でおばさんたちがやっているのにかなわない程度にしかできないなら、それを目指してどうするのですか。ならば…。
皆さんで、何かやったのではなくて、問われるのは、個人で何ができたかということです。
昨日ビデオをみせて、話をして、それで今日、何で「ケサラ」をやっているのでしょうか。そこで、何で皆さんで声をセーブしてだしてあわせようとしているかということです。練習のやり方が違う。
コーラスだからみんなでやらないといけないとはいえ、きれいな声をださないといけない、あわせないといけないといって、人の後ろに隠れる、周りを気にしてやることしかやっていない、それでどうなりますか。そんなに、よい人にならなくてもよいから、もっと一人ですぐれていて欲しいのです。
一人ですぐれて欲しいというのは、周りとあわせようとして自分の力をセーブしないでやれということです。全部だしたってたかが知れています。そのなかにうまってどうなるのだということなのです。これで三流の合唱団ができたって仕方ありません。
ハーモニーというのは、本当は、一人ひとりがすごい力をもっている人があわせるからすばらしいのです。力のないものが、その力をセーブしてどうなる。
まずあわせないといけない、音をとりにいかないといけない、リズムをあわせないといけない。コーラスとして周りの人と声をそろえないといけない。
そのことは、今まで、ここでは教えてきたことではありません。やったこともないからやっているのではなくて、ここでのトレーニングをふまえてきたら、どうやらないといけないかが、もう少しわかってもよいはずです。
読ませてみたら表現できる人がいます。しかし、表現できた人でももっと表現できるはずなのに表現しようとしていないから、自分の力以上にだしている人というのはほとんどいないわけです。全然煮つまってきていない、昨日から今日に対して、歌も心も表現ということに関しても何の進歩もない。
音がとれたとか、リズムがどうこうということはどうでもよい。
何を目的にするのかというと、この3日間で自分の感覚を捉えて欲しいです。一人でやったことに対して周りがどうこうということより、一人の自分の体がどう動いたか、心が動いた-どう動いたか、どの感覚に追い込まれたか。それが原点です。
難しいかもしれませんが、昨日、私は話をしました。話をしたあとにもう一度回さなかったのは、もう一度やってみたら多分そこまでの技術や力がないから、話のことが無駄になると思ってやらせなかったわけです。
もしできたとしたら最後に声をばっとだした状態です。その後にセリフをいわせてみたら今みたいなものでは、なかったでしょう。
だから合宿というのは、今日も含めて、あの2分間を、できたら、今日も明日も続けましょうというためのものです。そのことによってこの集中講座が終わったあとも、皆さんの状態がそうなるようにというきっかけなのです。
本当によい人たちばかり、にこにこやりながら上面だけをさらっていると、この後も多分そうなってしまうと思うのです。そこをもう一度押さえてください。
本番というのはそれだけのプレッシャーがかかって、人前でやらないといけないのです。その気持ちでやっている人もいなければ、自分一人が人前に立って100人の前でやろうという意気を思ってやっている人もいない。そんなときに、ハーモニーをやっても何にもならないのです。
今皆さんが読んだのと同じです。与えられているし、与えられているものに対して全力をつくしているようなところをみせようというのがみえみえなわけです。場に入りきれていないし、歌の中にも全然同化していない。何であろうが、その瞬間をつくりだせる、その場をもってこれる人がヴォーカリスト、アーティストであって、トレーニングはそれをつくりだすことなのです。
1時間の中で早くその深さまでたどりつかないとできないわけです。何もわからない人は、昨日は何か入り込めなかったけれど、皆さんが声をだして何か知らないけれど「なったな」というような感じでもよいでしょう。それは多分、わからないと思うのです。だから一人で本番をやる意識で常にやって欲しい。
コーラス団をつくるつもりはないです。三流のものを真似て五流をやってみても仕方がないわけです。
例えば私と常に直でこうして接していたら絶対、慣れっこないはずですが、集団となってしまうと、どうしても慣れあいになるわけです。
講演会でこういう話をして、その話が終わったときに、何かが動いて皆さんはここにきたはずです。
何かが動いても、ここにこないで自分でやっている人も当然います。そういう人たちは一生に1回の出会いです。
皆さんの場合は、2年間で私と24回、会うかもしれない。それでもたかだか24回です。時間にしたら24時間ぐらいです。
それが、いくら多くても何だということです。その中にある一瞬をつかまない限り、その一瞬を自分がもってこれないし、もってこれない限り作品の中にそれがでてこないから歌にならないのです。
だから、まず裸になることです。昨日の状態になったところから練習をはじめることです。それを周りの人たちと協調しながらやるほど、まだ余力はないです。合せようとしたところで、流されるだけです。
ピアノにあわせる、周りの人とハーモニーする。練習というのは、どういうふうに形をやるかということではなく、一人ひとりが自分のパートを責任をもってやればそれでよいわけです。
へたにコーラスで声をあわせようとして浅くして、そのへんのおばさんたちにもかなわないようなものをつくるよりも、余程おもしろくなると思います。それが調整できるか、できないかというのは明日の問題です。
結局、ここの結果を公演をやらなくてもすむメリットというのは、トレーニングの期間中、誰にも迷惑をかけないということです。お金を払ってみてもらうわけでもないですから、皆さんが得しないと意味ないわけです。
それを私に気にいられようとか、先生方に迷惑をかけないようにということでやらないことです。そんなところで声をあわせても仕方ない。
怖いのはそのへんで他の人と声があったからそれができたとか、それが作品だと思われてしまうことです。そのレベルのことは、幼稚園や小学生から全部やっています。親戚とか、お父さんお母さんには価値があるかもしれませんが、普通の人には何の価値もないです。
そのこだわりをもう少しきちんともっていって欲しい。
フィクションでよいが、声の部分をつかんでその声の部分をださないといけないわけです。だから言い方を間違えても、歌詞を忘れても、それでも構わないわけです。
見ている人間にはわからない。伝わるか伝わらないかです。
だから単にそれがいえたことが練習だと思ったり、作品だとは絶対思わないようにして欲しいのです。もっと自分のこだわれるところとか、そういったところを中心に動かしていくわけです。
それがこの歌詞の中の読み込みのなかで、できていない。風景をつくりだすとかいうことではなく、今までの自分が何を歌いたいのか、何をだしていきたいのかが、みえてこないとだめです。
技術的な問題の前にそうやろうとしていない。核をとりだしていないのです。加工して、とりだすのに技術が足らなければ、昨日みたいな状態になるしかないわけです。
あの状態というのはそれこそ非常に危ない状態ですが、あそこまで周りに影響されたり、周りの空気を吸い取るような状態に体や心をおかないとその人間がだした表現も全部うそになってしまいます。
でるべき人はでてきます。この中でもでてくるでしょう。ただ全員がでてくるということは絶対にないでしょう。少なくともうちの研究所のレベルでは、出る人は一人ででてきます。だからその一人たるべきことをやってくれればよいわけです。いつもロビーで人と騒いでいるような人が伸びるようなことは絶対ありません。さっさと帰ってトレーニングすることです。
「秀吉」も竹中直人をみて視聴率が上がっているわけです。それは彼の力です。彼は、今までのどんな主役の役者よりもとにかくNHKをかけずりまわって打ち合わせもすれば、朝から役づくりに没頭しているわけです。24時間それに打ち込んでいるわけです。
プロの中でさらにプロと認められるようなことをしていたら、仕事はだまっていてもくるしだまっていてもその世界は開けてきます。普通の人はそれができないわけです。あれが演技過剰だとか、どうしてあんなとこまでできるのと思ってしまうかもしれませんが、そこで徹底してやらなくて、どこで楽しむのですか。
少なくとも歌の世界というのはああいう世界ではないかもしれないけれど、その裏側にあるものは同じで、その状態をこういうところでつかまえないでどこでつかむのかということです。
ドリアン助川さんは、演劇や放送作家をやっていたから、そのへんはわかるわけです。皆さんがわからないからそういう状態を昨日みたいにつくっていたわけです。やったこととか、生きてきたことというのは隠せません。歌にも素直にでてきます。そうしたらその生きている部分をつくらないといけません。
もっと皆さんが会社とか学校とか以上に生きられる部分というのが、このトレーニングの場であるはずです。そうでなければもっとたくさんの人数の前で歌おうとしている人は、その責任を自分で引き受けないと仕方がないのです。そうしたらいつ引き受けるかといったら、今この時点で引き受けないとだめです。そういう場が与えられたときに、いつでも引き受けられるかということです。
プロデューサーに認められたら3万人の前でコンサートできるから早く認められたいといっている人には「今日、認めます」といったらできるかということです。
それでできないというのなら、結局いつまでもできないわけです。
芸がなくても、やっている人がいるわけです。皆さんは芸がなくてでられないし後々もたないから、本物をつけていこうということで、ここでやっているはずです。
その覚悟については、本当はここで今さらいうべきことではないのです。毎日そういうふうに生きてトレーニングをしていて、それがここででてこないといけないのです。できないと思うのは才能がないということよりは、トレーニングをしていないということです。
それからおしゃべりが多すぎる。何でそんなにごちゃごちゃ周りと話さないと決められないのか。自分の意思表示ができないのか。周りと話したら何ができるのかということです。
一体昨日から今日までいくら話しているのか。与えられたパートを割り振ったら自分のパートだけ責任もってやればよくて、コーラスだからといっても、音楽というのはきちんと順番が決まっているわけですから、自分がきたときに責任をもってやればよいわけです。
自分をだしてそこで変えればよいわけです。
それ以外の何も私はみたくもありません。それぞれが40%や50%に力をセーブして、声がもっとでるところを弱くして、それでとなりの人とあわせて、そんな中途半端なものは何になるのですか。おかしくなるだけです。
やるべきことは、話し合いでなくトレーニングです。合唱ということでとまどいがあるならそれはこわしておきます。少なくとも最終日にそろえばよい。そのプロセスの1日目、2日目に完成させようなんて考えないことです。
音がとれないとか、不安がその表現を妨げるというのはありますが、表現しているところで周りの人に迷惑をかけることなんか考えてもらわなくてもよいです。
グループでどちらかが優勝したら皆さんでハワイに行かせるとかやっているわけではないですから、一人で考えてください。3日間、それでぎりぎりの時間です。何かをつくるのには全然足らない時間です(どうして、その切迫感がないのだろう、ここは)。
どちらかというと全員でつくるために一人のものがでなくなってしまいます。これは、この研究所に限っては、一番意味のないことです。だからもっと自分で考えないといけないのです。家で考えてくれると一番よいのですが、ここにきたときに今与えられている歌詞はどういうことなのか、どういう意味なのか。
実際は何もないです。皆さんがつけるしかないです。それがあらわれたものが作品になるか、ならないかもわからないです。だからそこまでこだわってください。自分に与えられたものはつまらないかもしれないけれど、ただそこのもので何かださないといけない。
今回の場合は皆さんが選んだわけではなく与えられたのですが、ここにいることは、それを選んでいるわけです。だから裸になっていくこと。そうでないと自分の虚飾、うそばっかりがでてきます。それを完成させる必要はありません。
何らかの精神性とか、ポリシーや生き様が問えればよいわけです。劇団なら最初のストレッチと同じです。素っ裸になること。そこからはじまります。ただ、結局それを支える思想とか、精神性とか主張がなければそれは消費されるだけなのです。
みんなにあきられてしまうだけなので、それを芸にしていかないといけない。芸にするために技量が足らないからトレーニングをしていくということです。常にお客さんは何人いると考えなくてもよい。私一人でもよい。そこで満足させられるかということです。
皆さんの若さであれば、そこをすべてかけて勝負していかないといけない。まわりをみることよりも、まず、体力、意志でとにかく勝らないと仕方ないわけです。できなければでれないということです。それは最低ラインで、そのレベル以上のことを少なくとも意志の力でださないといけないです。
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今回のポイントはいろんな材料の中から自分のイマジネーションを働かせて、そういった状態に入ることです。あなたが、そういう感覚に入れるかどうかです。
昨日の2分間の再現です。それだけでよいです。その一瞬をとにかく味わえるだけ味わって欲しい。それをつくりだせるのなら本当につくりだして欲しい。
ライブの中でも間違えないようにとか、周りの人に気を配れるようにとか考えなくてもよいです。その場を与えられたところでの時間がありますから、そこでそれを突き破れるかどうかというような実験をして欲しい。これはお客さんがきて、人前に立っていたらできないことです。だから今できるだけやっておくことです。
自分の中でそれだけの危機意識を自分でイメージして、追い込んでいけるかです。入ってくるとピーンとわかるわけです。私はいろんな場にでてますから、プロの人間のいる場というのは、そこに殺気がみなぎっていたり、ものすごいパワーがみなぎっている。
ここは「あぁ、平和だな」と思わせないように。くつろいでいるのはよいけど、一所懸命やるだけなのです。ひどい場合は、何もできていない場合もあります。だらだらと、単におしゃべりだけしていたり、時間だけ過ごしているというレベルでは、もう仕方がないわけです。
ただ、一所懸命やっているのではなく、新しいものを自分の手でつくろうという意識の状態を一人ひとりがつくりだしていくと、全然違う場ができるわけです。
昨日の声をだした状態、あれでも半分ぐらいの人は入りきれていないと思いますが、3分の1ぐらいの人たちが入っても、あれだけ自分の表現を伝えることに、まわりを巻き込んでいく。そうしたら他の人たちも巻き込まれる。声をだしたくないと思っていた人も声がでてきたりする。そういう力が働かない場は、結局人もひきつけないし、作品もでてこないのです。
それをヴォーカリストというのは、本当は一人でやらないといけないわけです。そうしたらそういう状態に一人でもっていかないといけない。だから自分の表現を伝えることにこだわらない限り、それはでてこないのです。今回のテーマはそれを画面から与え、セリフから与え、ありきたりのものから与え、皆さんがどうだしていくかということです。
ドリアン助川さんにインタビュアーがこういう質問をしていました。
「そんなの一人で考えて重くないのですか」
-それは重いわけです。ただ、ヴォーカリストや人前にでる仕事の人は、それを選ぶわけです。選ぶということは、他のものを全部捨ててそれを選ぶわけですから、ある意味でいうと、やるしかないわけです。やらなければ終わりです。
要は、叫ばない限り何もわかってもらえないわけです。その叫ぶ場というのは、皆さんの場合、もしかすると何年後かにくるかもしれない可能性があるということですが、もし、くるとしたら今叫べている人にしかこないわけです。
皆さんの後ろからも叫びたいという人はくるわけです。別にポリシーとか社会的なことを考えるというように、何かということはいわないけれど、何かがあるのならそれをもつことです。本を読むのも芸をみるのもよいです。
彼は、「それをやらないでなんぼの人生か」と答えました。そこからでてくるものが歌であったり、表現です。誰の中にもあるのです。あるのに、それがとりだせない限り、芸にはならないのです。
今の世の中、自らのなかでなく、外に求める人が多すぎます。人のつくったステージや業界で歌おうなんて考えているとものにならないのです。自分で取り出すことです。その場でとりだせるということをおぼえていかないといけません。
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今回は3日間ありますが、普通のレッスンだと1時間です。その1時間の前にとりだしておかないといけない。そこの取り組みから問われます。
昔は基本講座1冊しかなかったけれど、それをぼろばろになるまでどこに何が書いてあるところまで読み込んでいる人が伸びたわけです。それをやったから何になるということではないでしょう。でも、少しでも手がかりになりそうなものなら、むさぼるように食いついていき、ほんの少しずつでも吸収していく、それが若さでしょう。
私でも、学生時代に声楽などのあらゆるものを全部集めて全部読みました。何にもならなかったけど読みました。本当に何にもならなかった。何にもならないということがわかった。それが1つの財産です。それだけ読んだという自信にもなった。何も私の本を全部読めとはいいませんが、そのくらいのことをなさずにどうなるのでしょう。そうしたものをきっかけに、自分の精神とか気迫を高めておかないと他の人と大した差別化もできないでしょう。
ここでやって欲しいのは表現です。表現というのは聞いている人間を動かしてなんぼのもの。心を動かす、その人間が元気になる、今日から何かをしようという気になる、そこまでできてはじめて表現です。
認められたいなら、人が認めるということは、どういうことかと考えればよいわけです。そうしたらヴォーカリストなり、何かわからない作品なり、なっていけます。それを自分で選んでいけばよいわけです。
CDをだしたいとか、TVにでるということは、本当の意味で人が認めるということとは、違うわけです。そこでだしたものに対して、人がどう認めていくかということが大切で、それはメディアがないからできないということではありません。
伝える手段は、それはそれで考えないといけないです。しかし、当人が伝えるものを持たない限り、それを選択し磨かない限りでていけないのです。
そうしたらすべての物事に対して、もっといろんなものを感じないといけない。
この場におかれて、誰かと出会う、何かを与えられる、まして音がつく。そういうところで自分のイマジネーションは高めていかないといけない。
他の人がだらっとしらけていて、そういう生き方が嫌なら、違うところで生きていくしかないのです。普通の人は普通に生きて普通に死んでいく。誰でも自分の心の中にどろどろとしたものがある。体だって開いてみたらどろどろです。それだけの存在でしかなくて、それも必ず死んでしまうわけです。
あと80年もたったら、私も含めて、ほとんどいないはずです。昔いろんなものを残していった人たちだって全部、もういないわけです。そこでなりふりかまっていると、いつまでもなりふりかまっていて、表現がでてこないまま終わってしまいます。
この世界を選ぶということは、そのどろどろしたものを直視することです。それはもう今ここでやるしかないわけです。いつも自分の体に戻ってくれ、心に戻ってくれと言うのは、こういう表現の世界において生きていくために、どろのなかからキラリと光るものをみつけて、とり出すためです。
皆さん生きているし、全力で生きているのはどんな人でもどんな人生選んでいても同じです。誰もが、苦労して生きているわけです。
しかし、アーティストは表現において、うまれること、産み出すこと、そうしないと死んでいけないのです。本日に限り、具体的にいうと、それを一瞬きちんと自分で捉えること。それを3分で提示できることです。
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ヴォイストレーニングはそんなに難しくなく、そうしたいと思ったら身につくのです。身につけなくても歌えるでしょう。その人が望んでいる程度にしか身につかないものですが、だからそれを望めば身につくわけです。逆にいうと自分が思っている程度にしか身につかないということです。思う程度が難しいのです。
何事もそうなりたいと思わないと、マスターしたいと思わなければ身につかない。そのために普通の人には理由がいるわけです。
皆さん、そんなことを否定する理由ばっかりつけます。学生だから時間がない、お金がない、社会人だから忙しいと、それは、どうでもいい人がつけている理由です。いいわけにしかすぎないわけです。そのぐらいの程度だから、そのぐらいの程度にしか身につかないし、そのぐらいの程度で終わってよいのです。
仮に皆さんがそれを破りたいと、皆さんの中でもそれを破りたいと思う瞬間があって、その瞬間のために生きていきたいのであれば、そこまで自分の意識を24時間の中で保っておかないといけない。
全く誰が人生において、限りない自由な時間と大金などをもって歌を学んできたというのでしょう。
身体が拘束されても心は自由なのです。それを縛っているのは、あなた自身ではないのでしょうか。人や場でなく、己の夢のための奴隷となるべきです。
ヴォイストレーニングでも、ただトレーニングしても仕方がない。1週間に1回やっても仕方がない。毎日30分やっても、あたりまえのこと。24時間その意識とその体の状態を保っていて、はじめて2年たったらかわってくるのです。誰でも同じことだと思います。
それなのに、カラオケとかそのへんのバンドとかで、いい気になって、トレーニングを疎かにしているのでは、身につくはずがないです。
でも、やりたいことをやればよいわけです。仕事でもそうです。仕事とどちらをやるかなど、いろんなことで迷っているようですが、ただ、一所懸命やればよい。
一所しか命を懸けられないので、おのずと選ばれてきます。やってきたことにキャリアがついてきたら、自分で選んでいけばよいわけです。
歌うことを本職にしないからプロではないとは思いません。生活して、その生活の中から汲み上げたものを歌って欲しいと思っています。現実の生活の中にこそ材料があります。
芸能界みたいな一見、派手な世界でどっぷりとやっていける人はそこでやっていけばよいのです。ヴォーカルをや役者はすばらしいことにすべてが糧になります。逆にトレーニングが社会にも役立ちます。迷ったり、目指すことがおかしいとも思うのです。
考えて欲しいことは、誰かのではなくて、過去に歌った歌い手や、あるいは作詞家、作曲家のものではなくて、自分のものをだして欲しいということです。その思いだけが作品をあなたの作品たるものにしていくのです。
カレーライスやかつ丼は何十年と生き残ってきています。ライバルをけやぶって残ってきているのです。それだけ優れたものなのだから、頭を下げて食べなさい。
あるいはその壁紙でもよいです。私たちのまわりにあるものは、人間が必要だと思って、その必要性があって、誰かがそれを欲したからうみだされて、継承されてきたものなのです。それを考えた人がいなければでてこなかったものです。周りは全部それにあふれているわけです。
このスピーカーでもピアノでも多くの人のすごい努力が積み重なっているわけです。まさしく人間の思いの表れなのです。
たった一人の人間ではたいしたことできないと思っているかもしれませんが、そう思ったらそうなってしまいます。一人の人間がすべて始めているわけです。そして、価値が認められたものだけが受け継がれてきているのです。
その試みを今からやるのです。
声楽家で、30歳ぐらいからはじめて20年がかりで名をあげた人たちがいるわけです。
自分が思って挑んでいかないと仕方ないでしょう。
そういうふうにせっぱつまった人の方が伸びます。
本物かうそかというのは、すぐにわかるわけです。皆さんには、まだわからないかもしれないけれど、私にはわかります。もしきちんとやっていたら、出てくることです。
そのうち、皆さんにもわかるようになってきます。
それは許せる表現、認められる表現というのがあって、素人だからということではないのです。素人でも1回だけだったら、そういう表現はできるし、1曲だけなら、よいものが歌えたりもします。何かの切羽詰まったときなどです。ビギナーラックがあります。
しかし、プロというのは、常にその状態にもちこめる人です。そこで1曲で差をみせつけられる人です。それだけの違いです。人間である限り歌は歌えるし、ことばはいえるわけです。
ドリアン助川さんのだって、セリフだけみれば、かっこいいセリフで偽善に思える人もいるでしょう。ただ、彼がステージで最後まで表現すると、そこにいる人が納得してしまうのです。というのは、その裏に何か支えるものがあるのです。それは経験や技術でなく、芸、ポリシーと表現です。
自分のイマジネーションを働かせていなければ、うそになってしまいます。こういう世界では、呼吸法や息使いからわかってくるわけです。嘘が眼でばれるのと同じです。息がついていない、体がついていないということでわかってしまうのです。歌も同じです。
声、音、ことばへのこだわりをもつことです。私は本をだしていますが、一冊を何回も書き直しているのです。こだわってこだわって書き直しているわけです。それでも伝わらない。伝わらないけれどそこにこだわらなければ、最初からだす意味がない。
私が1冊書いている時間で、皆さんは100回以上、読めるはずです。読んでくれた人もいます。同じ時間をかけたら、やっとそこで違うものがわかってくると思います。
何でまだ出すのかというと、充分に伝わらないからです。本当には伝わっていないからです。
基本講座を、まだ私自身が超えられていないのかもしれないと思っています。満足したら、ださないでしょうが、全く満足できていません。私も皆さんに学んで変化し続けているからです。
ライブ実習も、私の前で歌おうとか、自分のもちまえで歌うということよりも、いろんなものをつき破ってください。歴史とかあるいは空間をとばすような感じで歌ってください。
結局、そうやって、こういう私のごたくを打ち破って歌ってきた人しかアーティストとしては残っていかないのです。
周りに聞かせ、自分自身が満足すればよいという人もいるでしょう。でも、周りをみて歌った人、ピアノにあわせようとして歌った人、間違えないように歌った人、もったいないです。
この中のせまい中で歌った人というのは、結局、せまい中で、誰かが助けないと常に立てないでしょう。自分でそれだけの表現をださないから、それ以上できないのです。イマジネーションの問題です。
まずは、やるかやらないかです。どこまでなりふりかまわずやるかです。結局、皆さんにとって歌とか、ことばとか、声というのがどのぐらい大切かということです。それをどのぐらい大切に愛せるかということです。
その愛し方というのは、ただ優しく愛するわけではないのです。使えないと意味がないわけです。使うということは伝えるということで、伝えるということには相当なパワーがいります。全力をふりしぼったら何か伝わります。それが常時、ハイパワーでできるようにします。
全力で足らないところ、体力が追いつかないところは、あとでカバーできます。技術でコントロールすることでカバーもできます。そうするのに、これからのヴォイストレーニングや発表の場が役立つでしょう。ただ、大半の人が急ぎすぎてものにならないのです。
だから心と意志とイメージです。意志の話をしました。その後に感情と体の使い方みたいなことを1時間やりました。
私が話すだけでは意味ないのです。今日もこうした話に皆さんの意識が集中する。その意志が常にたるみなくないといけない。私がいなくなっても、ずっともっていられないから、こういったものは身につかない。
場が大切といっても、場はそこにいる人の気構えを反映します。人からいわれてやるものではないです。それから体の状態に関して、手伝っていこうというのが、ヴォイストレーニングです。
だから必要にしないと身につかないのです。まず必要にすることです。必要にするためにはどういう表現をするのかということを、自分でつきつめないと必要にならないです。それなら身についても使えないです。
声がいくら身についても表現として伝えなければ意味がありません。特にポピュラーのヴォーカリストの場合は、これが大切なことです。コーラスでも歌でもよいのですが、表面的にでているものは消化されたものです。
そういうドロドロとしたものは作品としたら、キャンバスの上のきれいな世界なのです。どの世界でも遠めにはきれいです。ただ、それをひねりだすために今のトレーニングがあります。
昨日のように地の声をやって、天の声というのはやっていないのですが、あの後だったらできたかもしれません。皆さんが解放してだしていればよいわけです。
今皆さんに必要なところは、とにかく地の底までしずんでいって自分の感情と、それからことばを常にごちゃごちゃになった世界にまずまみえることです。そこで何かを取り出さないと他の人には伝わらないです。
本当は昨日みたいな中でおぼえていくのが一番よいと思うのです。ああいう中で声がゆれてきた、呼吸がゆれてきた、そういったものがビブラートであって、歌い上げるということは、あくまでそういった伝えることの増幅効果をやっていくわけです。
聞いている人間の感情をさらに増幅させるためのイマジネーションがつきやすいようにするためのものです。だから体としてふるえていて、共鳴していて、その波の中で全部できてくるわけです。それをコントロールするには、ある程度技術がいります。
そのまえに心と気と体を昨日の状態みたいなところに追い込まないと難しいのです。そこで、ことばでやっています。ところが、ことばですでに制限されてしまいます。単純にいうとため息と同じです。
「あぁ」の中に何かが伝わるということであれば、ここはうそではないわけです。だからうそではないところまで戻っていって、それで本物を取り出していき、それがどこの段階までできるかというのが、ここのヴォイストレーニングの基本的な考え方です。
単に「あぁ」でメロディでやれる人はやってもよいし、気持ちでやれる人は気持ちだけでやってください。この中に1つだけ課題を入れます。
「悲しみをいれる。」本当は笑いあたりからやりたいのですが、笑いで支えちれる人というのは余程の人だと思うので、そこまでは期待しません。竹中直人さんだと、がらっと変えられるでしょう。その変えるという力が本当の力なのです。
今は、形からできるところでよいです。音を高くしようが低くしようが構いません。とにかく自分がいるのだとここでわからせるようにする。皆さんが演じられるとは思っていません。演じられないときはどうするのかといったら、素人の場合は感情移入するしかないわけです。
そういうことを思い出し、そういう状態に体をおいてやる。あるいはそういうふうにモチベートをかけることです。
どうして、恋愛の歌を歌うのに、そこにいる恋人が逃げてしまうようなしらじらしい表現をするのですか。
前の人の上に相乗効果がでてくるとよいと思います。今はそれだけ取り出してみるという形です。何の制限もつけませんが、さっきいったようなことは忘れないでください。
とにかく2つだけ覚えて欲しいのは、「人の後ろに隠れるな」ということと、それから「周りを気にするな」ということ。これだけで大分違うはずです。
いろんな物事に、アングラ劇でも何でも、そのときにはまる、はまらないで、好き嫌いはありますが、伝わる伝わらないことでいうと、本物、偽物があります。本物というのは嫌いだけども認めないといけないものもあります。
その状態になったとき、声がなかろうがあろうが、そういう状態のところで1つの歌詞を読んでみる。そのことを自分で感じる。それが、自分で感じられている、だからこう読んでみる。
悲しくてもやらされているなというときは、まだ入り込めていない。やっているうちにわけがわからなくなってくる。悲しくなってくる。歌がぼろぼろになってくる。そうしたらそういう声がでてくる。そういうところに1つの音がついて、それをどう感じるか。それ以上、表現に難しいことは必要ないわけです。
音程とリズムぐらいは必要ですが、ここに、いったいどのくらいの声の圧がいるかという話なのです。
それにマイクをいれたら、ポピュラーの場合、それでよいわけです。