一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

アーティストのためのヴォイストレーニング、富田浩太郎氏の話ほか 20261字  281

アーティストのためのヴォイストレーニン

富田浩太郎氏の話

学び方と方針

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アーティストのためのヴォイストレーニン

原点に戻ってスター卜すること

 

多くの人は、口のなかで声を加工し.ています。まず、これをすべてやめることです。

すると、よほどキャリアがある人以外は、声が、うまく出なくなります。

しかし、それでよいのです。これが本当のあなたの実力なのです。

 

本当に力があれば、体の底から声が出ます。それがないから、基本を身につけるトレーニングを必要とするのです。何もないところ、つまり、ゼロからのスター卜でよいのです。

 

くせで発声している限りは、将来的な可能性からすると、マイナスなのです。

この判断を間違えると後で伸びなくなります。部分的な加工から入ると、芸は大きくなりません。

基本がいうまで経っても身につかないから、技術や表現がその上にのらないからです。

 

ー、二割、うまくなればよいという人は、口先で加工していくとよいでしょう。

しかし、二、三倍うまくなりたい人は、基本の基本、つまり、声を出すこと、声を扱うところという原点に戻ってスター卜すべきです。

 

 

 

体を声に結びつけ、使うということ

 

体から声を出すごとは、私たち日本人にはとても難しいことです。

しかし、一、二音なら、少しトレーニングすれば出ます。

要は、それを最大限の音域、音量を高め、固定化していく(いうでもどこでも使えるものにすること)努力を続けられるかどうかがポイントなのです。

これに何年かかるから、逆にキャリアとなって、他の人に差をつけられるのです。

 

         (A)  (B) (C)

体・・・・・・・・・〇   五   十

息・・・・・・・・・一   五   十

声・・・・・・・・・一   三   十

ポジションの深さ  一   五   十

説明するのは至難の技ですが、プロのヴォーカリストは、体を使っています。

息も相当ストレートに吐いています。

そして、それをすべて声に変えて歌として表現する技術をもっているわけです。

 

それならば、体も息も彼らと同じように使えるようになることが、基本の一つであることは明らかです。たとえば、アマチュアや日本の多くのヴォーカリストは、(A)のように、ほとんど体を使っていません。声も、それだけでは、むこうのヴォーカリス卜に劣ります。

それを息を吐ける体に鍛えていくと、体から声が伝えられるようになります。

そのポイントとなるのが、のどをはずして、胸にしっかりと声となるポジションをもつということなのです。

 

 

 

器を大きくすることとまとめること

 

体はいくらでも強くなるし、どんどんと深く吐けるようになります。しかし、相当の時間がかかります。

ですから、自分が表現したいものに対し、どのくらいまでそれを欲するのかを判断しつつ、歌にまとめていく(声を表現上効果的になるよう使い分ける)ステップに入っていくわけです。

 

このレベルをこのヴォイストレー二ングでは、一オクタ—ブ(C-C)としています。一オクターブまで、しっかりとした胸声のポジションがキープできれば、少なくとものどにきたり、歌ったときに全く体から離れてしまうことはしぜんと防げるのです。

しかし多くの人は、そこまで基本のカをつけずに歌うので、体の力によって上達するという最も確実な方法を活かせないのです。

 

 

 

うまさとすごさ

 

一オクターブを完全に体で捉え、声として表現できるというレベルになると、誰が聞いてもすぐにわかる「ヴォーカルの声」となります。体が離れないのですから、そこで何をどう歌っても、全身から感情が伝わろうと動き出してきます。その人のソウルが体内から伝わってくるのです。

 

このヴォイストレーニングは、そのようになるまで、意識的に体を使わせることによって、少しでも習得に要する期間を早める効果をもっています。つまり、初歩の段階を終えると、体と声とを一致させて本当の練習ができるようになるのです。のどにかからず、一曲を歌うだけで全身、汗びっしょりになるほどの強化トレーニングができるところから、力がついてきます。

 

所詮、声を出すときに体を意讖しているようでは、修行中の身、人前で歌えるわけがないのです。トレーニングを長く続けることにより、少しずつ無意識に声に体が便えるようにしていきます。

 

そもそも、自分がもてる限りの体と息を使って、それを声として表わそうとすることは、すでに高度な技術なのです。思いきり怒ったり泣きわめき叫ぶところで、のどを全く痛めないように声を出すのは大変なことです。さらに、体も生きを吐く力も強くしていきながら、それを声にしていくのですから、技術的にはどんどん高度になってきます。

 

腹の底から笑うことは、案外とよいヴォイストレーニングになるのも、このためです。多くの人は、二分間、腹の底から大きな声を出し続けながら笑いころげられないでしょう。つまり、ヴォーカルとしての体と声のコントロールの技術をもっていないのです。笑ってお腹が痛くなる、それで鍛えられて強くなる方が力を伸ばすには確実です。

 

歌のうまさは、声によって感情をまとめて見せをつくることですから、直接には声量と関係ありません。自分のもっている器なりに、うまく演出できます。長くやっていれば誰でもそれなりに上手になります。しかし、歌のすごさにはなりません。

 

 すごいといわれるためには、本当のヴォーカリストと絶賛されるには、もっと根本的な迫力が必要です。ここには、すでに有名なライブハウスなどでうまいと認められている人がたくさんきています。何を求めてかというと、歌の本当のすごさをもっと求め、自分の身に感じて表現したいためだと思います。

 

力ラオケのうまい人でも、心情のきびなどは、うまく表現しています。しかし、プロのヴォーカリストは、それを超えます。ことばもメロディもリズムも超え、何を出そうとしているのでしょう。所詮、ことば、メロディ、リズムは手段です。声も歌も音楽でさえも、同じく手段といえるでしょう。何の手段でしょうか。

 

すごいというのは、絶対的なパワーをもちます。一つの世界をそこに現出し、私たちを魅き込まずにはおれません。そこでは一つの歌に、一人のヴォーカリストを通して、全ての世界が象徴的に現出してきます。歌やリズム、ジャンルを超え、人間の深みが真理、メッセージが出てくるのです。

 

それに対し、うまさとはややもすると、ガイダンス的で歌というジャンルの一つという部分的な性格から抜けられないように思います。歌が聞こえるが、その人、人間、そしてソウルが現れ出ないと、そうなります。

ここでは三流の声楽家のようになるなと言っています。声を聞かせても、それは歌ではないのです。あなたの歌ではなく、あなたを皆、聞きたがっているのです。

 

 

 

器を壊す

 

体の底からシャウトしてみる。すると声も音楽もめちゃめちゃになるかもしれません。しかし、そこに残るハー卜は、何かを人に伝えるはずです。

レーニング中は、それを表わせるだけの技術がないから、どうしても部分的(声だけ、音感、リズム感だけ、歌詞だけ、口先だけ、気分だけ)といった感は否めません。しかし、そこに体でこなす技術が身についてくると、それがストレートに表面に出てくるのです。

この内面(ソウル)の提示がなくては、聞いている人には何も伝わりません。なかで燃えたものが、外に提示されて、初めてアー卜なのです。この内と外の違いがトレーニングとステージの差ともいえましょう。

 

アーティストであろうとすることは難しいことです。常に自分の勝ちを得たものをかなぐり捨てていく。そして、捨てきったところに残ったものが、さらに大きなものを得るため手だてとなります。それを繰り返していくことをキャリアといいます。

 

このヴォイストレーニングは、その実験の場であるのです。どんなに野球が好きといっても、野球部に入らなくては、野球の力は伸びません。そこで体や筋力をつけつつ、それを一つの技術として高度にコントロールしていけるようにならなくては、使いものにならないのです。

 

本当のアーティストなら、常に自分の限界、そして可能性に挑戦をしつづけます。技術、内容、表現する世界を盛り込んだ器を何度も壊し、さらに大きなものを手にしていく。一度、手にしたもの、固定したものを失うことを恐れない。

 

日本のヴォーカリストが伸びないのは、小さな自分だけの世界ができ、少し認められると、すぐに守りに入ってしまい、創造の陣痛をほとんど体験していかないからです。ヴォイストレーニングも発声も、これでよいという限りはありません。

 

しかし、自分の内面とそれを提示できる技術が磨かれていくと、自分なりのものがそこに決まってくるのです。表現としてアウトプットしていくと、自分の独自の世界が定まっていくのです。ヴォー力リストというのであれば、音楽や歌が楽しいというのは、本当はこのレベルの楽しさでありたい。

 

このヴォイストレーニングに関しては、体と息がパワフルになったらもう間違えようがないのです。いうまでもわからないのは、やっていないからです。体や心が直観的にあなたの歩む道を教えてくれるようになるのです。五〇パーセントもっている(と思っている)ものをかなぐり捨てて、一〇〇パーセントになるリスクを犯して、一〇〇パーセントを目指すことです。すっぱだかになって、何もかもぬぐいさってやれない人は、そこまでの人です。

 

アーティストとは、そういう人生を自分で引き受けていこうという人です。

ここはアーティストの集まりの場といっています。

 

アーティストでありつづけるのは、ライブをやっていればよいというものではありません。そこで自分がそれまでに創り出したものを単に売っているだけでは、消費にすぎません。自己の内面的な葛藤を常に抱え、創造への努力を惜しまないもののみが、その名に値するのです。

 

ここでさえ、誰一人感動させられないものが、ライブに出ることにアクセクするのはどうしてでしょう。どこに出ているとか、何回、人前で歌ったとか、それらはそこでどのぐらいのことができたかということの上で、価値をもってくるのです。

今すべきことは、器をまとめることか、つくることか、これを間違うと、先はありません。

願わくば、ここで毎クラス、まわりにすごいといわれるアーティストになって、そこから大きく世界へ飛び立って欲しいものです。

 

 

 

ーー

 

研究所を考える

 

 

ここにいると、ときどき涙が出るくらい感極まるときがある。それが、あと二年、あと二年といいながら、唯一この活動を私が今も続けている理由である。

とにかく本物だけを伝える場、いやそれを皆で発掘できる場として発足して、レッスンそのものに感動があるよう努めてきた。

早く同じだけのものを皆から返してもらえたらと願ってきた。

ほんとうに少しずつ報われはじめている気がする。

 

ここでは、よいことも悪いこともできる限り大きく強い剌激として正面から受けとめてやっていってほしい。こんちきしょうと思うこと、がまんならないこと、理不尽なこと、悔しいこと、嫌な奴、目ざわりな奴、変な奴、そのなかでもまれ、いったいなんでこんなところに時間をかけて金をかけて、こんな奴らとやんなきゃいけないんだと怒り、心頭に到し「もうヤダー」と心底から叫んでほしい。

 

それでもやる、何を求めて。そこにアーティストになる大切な鍵がある。

 

私が危惧するのは、よいメンバーがそろってきて、ここがユートピアになりかけていくことだ。

修業の場は地獄でなくてはいけない。

 

切に願う。各人が己の心のなかに鬼を住まわし、自ら地獄に身を投じ、餓鬼となって本物を極めていって欲しい。仏の顔の下に鬼の住んでいる者だけの集うユートピアだけが本物だと思うからだ。

 

 

 

暮らしやすい日本に

 

日本人というのは、どうして考えが甘いのだろうとは、今までにもよくよく考えさせられてきたことである。私は、海外の若いアーティストをたくさん知っているが、技術そのものよりも、精神で負けている。

個としての自我の確立のないところに、アーティス卜の活動など成り立たぬ(ヴォーカリストは声が出ればよいというものでなく、声は十分の一、音楽的基礎は十分の一、残りの十分の八も高めなくてはいけないのだとは、常に私が言っていることである)。

 

物質的豊かさが育つ環境を貧しくしてしまったとは思いたくない。しかし、多くの人は、集団意識、他人依存体質から抜けきれない。「あーあ」という感じである。でも、まあ、だからこそ、ここでもまれ、たくましくなってくれよと言いたい。

 

所詮、皆何かが足らないから、ここに来ているのであり、それに対し、私も自分の無力を痛感するから、これを続けているのである。それならば、にぎやかにいろんなことが起こるのもまた、人生の一興だ。

第一に、仲間に対してなぜ完全を求めようとするのか。皆、立派になっちまえば、あとは天国に行くだけだ。これから苦労して伸びていく同士だろう。これから、なんだよ、皆。

 

ここを続けるのもやめるのも、長い人生からみたら、どうってことではない。嫌だから居心地悪いからってやめるのだったら、いうまでもどこにいっても、そうなってしまう。

闘うんだ、誰とでもなく、自分とだ。

結局、自分の力をつけるしかないんだ。

 

ここにはとてもいい人が集まっていると私は思っている。だから、ここは続いている。こんなちっぽけで、世界中の誰も知らないところに、宝物がたくさん埋まっていると感じている。

 

これは、私がつくってきたのではなく、ここに来ている真剣な人たちが、私を介して本当のもの、真実を導き出してきたわけだ。皆がいなくては、このヴォイストレーニングというのもありえなかった。そうやってものごとはできていくものなんだ。

皆も若いし、僕も若い。変えようじゃないか、日本を。

暮らしやすい日本に!

 

 

 

夢と人間とステージ

 

 日本人が世界に通用するようになるためには、まずは声を克服しなくてはいけないと思って随分たつ。オペラ、演劇、ミュージカル、ヴォーカリストと国際的に通用する内容がありながらも、それを伝えるパワーや魅力が声そのものにないために、言葉の壁を超えられないでいるのが、日本人のヴォーカリストだ。やらなくてはいけないことはあまりに多いのに時間がたつのは早いものである。

 

日本の豊かさからそうなったのか、最近の若者の本人も気づかぬ甘えをみるにつれ、ときたま絶望的になる。

アーティストとは、自分の力で自分の世界を自らの手に入れていく。力がなければ力をつけることが先決であり、力以上のものを望んでいても仕方がない。

ヴォーカリストになれますかと言われても、力以上のものは、手に入らぬのが当然であり、逆に力が伴えばしぜんと求めるものは手に入る。そういう人たちはどうして、ステージに出ることばかり考え、力をつけることを大切にしていないのかということである。

 

アーティストの世界は、人間の思いと切り離せぬ。何の思いもなく、スポットライトを求めるだけの人にいったいどうすれば人の心を打つ歌が歌えるというのか。力強く自信に満ちて、かつ繊細に心を表現できるヴォーカリストには、決してステージだけで化けられるものではない。

 

今までにも多くの人をみてきたが、結局、伸びる人、ひとつの世界を築き上げていった人は、最初は徹底して自分に厳しく、やがてそれが人への思いやりや愛として出てくる、ちょうどそのときがトレーニングから自分のステージの移行期のように思う。

しかるに、全く自分を甘やかし人並みのトレーニングしかしないで、人様の前に出ていこうなど大それた考えを抱くから、あとで伸びなくなる。ワンチャンスで世界中の人を感動させられるような力を、常日頃からめざして欲しいものだ。そして、その情熱と姿勢を次代に伝えていって欲しい。

 

日本の音楽界が仮に早く変わったとしても本物のアーティストの時代が本当にくるのは二十一世紀を待つことになるだろう。

そういう眼から最近は個々の人をみる。レッスンでは同じことを繰り返しているようだが、同じことを繰り返しているから、一人ひとりがどのくらい伸びているか、力がついているかがはっきりとわかる。ヴォイストレーニングも他の芸事に劣らず、正直な世界である。一年でその差は相当なものになる。そこでは他にライブ活動や発表の場をもっているなどということは全く関係ない。トレーニングをどれだけやったかという差である。

 

これが、二年目になると、一年目死にもの狂いでやっていた人でも半分以上が手を抜く。せっかく身につけたものを完全にものにしてしまわぬから元のスタイルに戻っていく。こんな大切な時期に他のことにうつつを抜かしているのでは仕方がない。特に、こうなるのは、最初からうまかった人、器用な人、センスのよい人に多い。所詮、自分のカラを打ち破れずには新しく強力なものを手に入れられないことを知っておこう。

 

私自身は、全ての人にすばらしいアーティストになってもらいたい。というより、なってもらわなくては困る(カラオケ業界の振興のためにこんなことをやっているわけではない。お金もすべて研究所に入れ、使い道も皆の預かり金と思い真剣に決めている。二十一世紀に向けて、研究所は動いている)。まあ、皆に好き勝手言いたいがため、皆をお客さんにせぬようにしているわけだ。

 

人間として、魅力的になること、素直さ、あいさつひとつできないようじゃだめだ。ぐちと悪口、文句は口で出さず、体に押し入れ、表現として体で出すこと。厳しいトレーニングを自分に課すところから始めて欲しい。しっかりしたことをやれば、自信がでてくる。他のことがよくみえるようになる。世界や歴史、すべての人間の関わることに関心、興味がいくようになる。

 

豊かな日本に生まれ、自分の好きなことを選ベ、皆は幸せなのだ。それを低い次元での自己満足(いかに君らが自分たちは貧乏だと言っても、世界の大半の人からみたら、これも金持ちの道楽になる)におわらせるか、逆に世界の人に何かを与えられるほどのものに高め、原石である自分から本当の価値を自分自身で発掘し、研磨していき宝石として輝かせるかは、君たちの努力しだいである。

 

最近は、フードレストランなどでも他の国からのアルバイト生をみかける。きっと祖国の家族のために働きにきているのだろう。いうも、なぜかしら、頭の下がる思いがする。きっと日本に来れることからみて、祖国ではめぐまれた家柄の人で、教育のレベルもそれなりに高いだろう。時代が時代なら、もっと自分の才能を生かせる場を得られたかもしれない。彼の子供たちはそうなるだろうか、などと考える。

 

どこの国も、こういう人が一所懸命、働いて、働いて、次の世代に引き継いでいく。日本とても例外ではなかったはずだ。ゴスペル、ブルース、フォーク、ジャズ、人間の歴史から離れたところにどんな歌が出てきたというのだろう。

(それを何もふまえずに、ジャズとかブルースなどと歌うこと、これが、歌全般にわたって1970年代以降、日本の歌謡界で行なわれてきたため、今の若い人は、ヴォーカリストになりたいのに、歌が全くわからず声も出ないというハンディキャップを抱えるようになったといってもよい。もちろん、一流のヴォーカリストを学ばないという勉強不足のためで、本人の貴任であるのは、もちろんだが…。)

 

自分だけが表舞台に立つことを(それも力をつける努力もせぬうちに)考え始めたときから、表現力を失い始めたのではないだろうか。少なくとも、多くの人が望んでいるのは、確かな技術の上にのっかった洗練された表現であり、それは地道なトレーニングの上にしか成り立たないものである。

つまり、人は歌を聴いているようで、ヴォーカリストの人間を、そしで、そこに費やされた努力(少なくとも、自分たちにはそこまで打ち込んで高められないというだけのもの)を感じとっているのである。

 

声だけ、大きく出るようになっても仕方がない。音楽について、とことん学ぶことだ。それだけでも足らぬ。それを通じて、人を生活を世界を歴史を人類全てが関わっているものを巻き込んでいける大きさに君自身がなって欲しい。

 

 

 

ここでできること、とは何か

 

「確実に声が.出るようになるか」とか「プロのヴォーカリストになれるか」という質問に対して、私は今までは、そのように自分でやらずに相手に頼ろうとする質問をするのは、一つのことを体得する姿勢がないから、無理だなどと答えていた。

しかし、アーティストのアの字もない日本の教育をまじめに受けてきた優秀な人たちのために、ここではっきりさせておきたい。

独習やスクールとの比較にもなろう。

 

 

次の十項目が、ここで掲げ、かつ与えていることだ。

(1)一流のヴォーカリストを知ること

(2)プロとして通用する声に接すること

(3)今のベストの声と将来のベストの声を見分け、将来に対して伸ばすこと

(4)ヴォーカリストとして必要な体となること

(5)ヴォーカリストとして必要な体を声に完全に俾えるようになること

(6)声が本当の歌を表現するのに使えるようになること

(7)緊張感のある場をもつこと

(8)よい仲間から剌激を受けること

(9)実験場としての発表の経験を重ねることにより、本当のキャリアを得ること

(10)音楽の基本、センス、表現を徹底的に磨くこと

 

(1)は基本中の基本だが、ここでは、自分の好きな分野しか聞いていない多くの人に全世界の一流ヴォーカリストを紹介する。相当やる気かあれば、独習できないこともない。しかし、質量とも、ここが選んで与えるものをベースとするとよいだろう。身体への入り方が違う。

 

(2)は,私をはじめ、他の研究生の生の声がリアルタイムで聞ける。

これを何度となく聞くことが、声を理解する最大の効果となってくる。

 

(3)が、このヴォイストレーニングにある。これはどんな優秀なヴォーカリストにもわかりにくい。この上に、(4)(5)(6)がのってくる。しかし、そのためには(4)が欠かせない。

 

このヴォイストレーニングの秘訣というなら、(4)は、やり方は数えていても、トレーニングは各人でやるべきことである。一人でできるが、その必要性を常に意識して徹底につきつめられるかの勝負であろう。毎日一時間トレーニングして確実にヴォーカリストに近づく体になっていっているか。しかもそれは汗びっしょりかくくらいのハードなトレーニングなのか。基本の九割はここで決まる。

 

(7)場が人を育てる。そういう場には、エネルギーが満ちている。アーティステいうクなものは、そういうところからしか育たない。だらだらしたところで人生を無駄にするな。

 

(8)どんな仲間でもよいのではない。どんなときにも、あいつらがやっているからいうときも手を抜けないといえる仲間でなくてはいけない。よいものはよい、下手なものはだめだとはっきり言えるような仲間でなくてはいけない。よいものはよい、下手なものはだめだとはっきり言えるような仲間がいるところでなくては成長できない。

 

(9)ライブよりもそこに立つのが恐いというレベルの高い発表の場があること。そこで通用したら、どこに出ても恥ずかしくないとわかるだけ基準のしっかりした場が必要である。

 

(10)音感、リズム感がよいといっている人が多いがいかにいい加減にやってきたのかに早く気づき、発音もセンスも表現もすべて出直し、徹底してやり直すこと。いくら声があっても、これがなくては歌は安心してきけるものではない。

 

 

 

富田浩太郎氏の話

 

声を身につけるということについて

 

私の尊敬する富田浩太郎氏の話である。

(声を身につける上でも大変に参考になる話だ。冒頭に出てくる故児玉好生先生には、私自身、ステ—ジで励ましていただいた経験があり、懐かしい。)

 

<著名な声楽教師、児玉好生先生から、実技を見せて頂きながらくり返しお聞きしたところによると、イタリア語は、その日常語の中に気管内圧による声の制御という、音声のコントロールの習慣を多分に持ち、そのために音声器官群に無理な緊張を加えない、自然で美しい声の特色が多いということでした。

これは呼吸法上の大きな長所であり、クリコイドと声門との間の気管内圧によって、特に力を加えることなく呼気を声門に送ることが出来るので、ちょうどアコーディオン、あるいはパイプオルガンのような操作をごく自然に行なう結果になるわけです。私たち日本人の多くがのどを使って音声表現をコントロールするために、強い声を出す時のどをしめつけるのに比べると大変なちがいです。

このイタリア語の特徴は、ほかの国の言葉に比べて非常に美しく豊かに澄んだ光沢を持っているので、それを基盤としてイタリア・オペラなどの劇的音声の豊かさ美しさを創り出したことが充分うなずけます。またベルカント唱法が、歌声のみならず話声の基本としてさまざまな国でとり入れられている理由も充分うなずけます。

ところでフランス語は、その言葉のなかに共鳴音が多分に含まれています。フランス語が全くわからない人にも、音として耳にすれば、共鳴音を聞き分けることが出来るはずです。

これは私たちの日本語のように、共鳴させることが表現内容とはほとんど無関係な言葉とちがい、発音そのものが共嗚音を伴うようにつくられているわけですから、明らかに発声上の長所であり、それだけ表現を豊かにする武器をもっているということが出来ます。

 

さて、日本語ですが、かつて久保栄先生からたびたび救えられたことを紹介してみます。

「日本語は、子音と母音とが交互にくる場合が大部分であるために、鼻をつまんでしゃべっても音が完全に欠けおちることがなく、曲がりなりに発音することが出来る。このために集中発声の傾向をもつ人が多く、使える機能を部分的にしか用いない。君たちはそんな誤りを打破し、口中をかけめぐる統一発声を会得しなければならない。」(久保)

 

この先生の教えを、私の考えでもう一度整理すると、日本語は一面では子音と母音との交替のために構音が容易だという長所を持ちながら、反面では、英語、ドいう語のように子音や母音の連続による弾力性が乏しいうまりリズム感に乏しいという一面を持っている点。

またこの子音と母音との交替という特徴が鼻をつまんでも曲がりなりに発音できることから、すべてを口音のみで発音したり、すべてを鼻にかけたりするという部分的な発音となりやすく、それがさらには口の先や唇の片方やのどの奥に集中させた集中音声になりがちな傾向を持つ点。主にこの二つにまとめることが出来るように思われます。

 

このように私たちの日本語は、呼吸、発声へ発音のすべてにわたり、無法則性に近い有通無凝の性格を持っていて、一面ではどのような外国語の長所をとり入れることも可能でありながら、一面では使い得る機能を部分的に使っても、あるいは一部分に集中させても通用するのです。

このことから俳優が、自分の音声器官の特微にまかせた集中音声を、あたかも個性的な長所であるかのごとく錯覚する傾向が生じます。先に述べたように、口唇やのどなどの一箇所に集中した音声、すべてが鼻にかかった音声などがそれですが、それらは決して個性的な長所などではなく、一部分に集中した音声上の欠陥なのです。

私たちはこのような日本語の特質を逆に武器として、日常語のなかで豊かにするだけでなく、劇的音声としても、ぜひともさまざまな国の言葉の長所を活用することによって、使い得るすべての機能をあます所なく活動させる《統一音声》の誕生を目標にすべきです。>

 

 

「モノトーク」の必要性についても、ついでに同著より引用しておきたい。

 

<ある体験に対して、自分がどう対処したかを語ることを通して、自分の感じ方、考え方、そして生き方をあらわにすることです。いいかえれば、自分のというより人間そのものを結果的に浮き彫りにすることなのです。そのためにこそ、自分をよりいうそう裸にすることなのです。

繰り返しますが、裸になるということは演技を成り立たせる上での極めて重大な要素の一つです。なぜなら、自分のすべてを知ることの出来ない私たちが、自分の都合のよいところだけを演出家や相手役に見せながら演技を積み上げていくことが不可能なことぐらい、多少の演技の体験がある人にはすぐわかることだからです。

そしてもう一つ大切なことは、その裸にして見せる体験そのものの問題です。一つの役を演じる時、私たちは役を生きた人間として肉体化しようとします。そしてその役の性格は、遺伝や環境や教育といった要素を土壌としながら、その人物の過去の体験の集積によって大きく規制されています。ですからその役の性格を把握する鍵の一つは私たち自身の、その役と類似する過去の体験なのです。

さらにもう一つ大切なことは、私たちはその役が劇の進行中に体験するものを自分自身の体験として出来る限り生きることも目標にしようとします。そうでなければ演技が形だけのものになるからです。

 

こう考えてみると、役の性格を観念ではなく感性として、しかも正しい論理に裏付けられたものとして把握するための最大の基盤は、私たち自身の体験、それも単なる量ではなく、質であり、それによって自分がどのように人間として形成されて来たかを、また形成されつつあるかを、虚飾を捨てて確かめることにある、といってもいい過ぎではないのです。

私たちは過去の体験を、過去の名によって葬り去るべきではありません。過去は自分のなかにいまも生きています。ですから過去の自分の行動のなかで都合の悪いものを正当化したり美化したりする人は、自分の人間形成のあり方から目をそらし、自分のありのままの姿を知ろうとしない、むしろ知りたくない人であり、役の創造への正確な目を養うことが困難な人です。

過去をふり返ることを誤りと考える人がよくいるものです。その人たちは未来にこそ目をむけるべきだといいます。つまりその人たちは過去をふり返ることを単に後悔したりこだわったりすることだと考えるのです。こんな考え方は俳優にとっては、実人生上の処世訓と、役の創造の論理とを混同した考え方なのです。

くり返しますが、私たちの目標とする演技は、ある感性された形を内容を抜きにして再現することではなく、生きた体験として行動することです。その根底となるのは私たち自身の現実での直接的な体験、さらに読み、聞き、見ることによって養われる間接的な体験、さらにまたそれらに支えられ開発される類推能力です。

これは別の見方をすれば、《精神の自由》にもつながる問題です。つまり自分に対してだけではなく、他人に対しても固定観念や一般通念に左右されない自分の目を持つことにもつながる問題です。

ここまで問いうめると、先に誤解の一つとして述べたのぞき趣味とは根本的にちがうことが明らかになって来ます。のぞき趣味とは人との比較であり、自分より不幸な、あるいは劣る人を見て安心する感覚ですから、究極的には日常的な差別感に根ざすものです。

 

言葉の表現在妨げるもののなかで、表現の技術以前の問題、つまり音声器官の使い方にしみついているくせ、あるいはその未発達、といった問題、これらを解決するのが、いわゆる基礎訓練といわれているものです。つまり、音声器官のくせをこわし、未発達のところを開発、補強し、さらに感度を鋭くするための言葉に直結した訓練、ということが出来ます。

この訓練過程で特に重視しなければならないのは、心と体の解緊(リラックス)ということですが、その自由さが豊かになればなるほど、繊細な統御(コントロール)への道が開かれるのです。

この訓練は、声楽や謡曲などによる間接的な訓練と協力し合って、心にたたえられたものをあますところなく反映される音声の実現を最高目標とするわけですが、この関門で初心者の大多数は脱落するのが、いままで私の目撃してきた実状です。

 

なぜならば、普通に行なわれる演技の訓練だけではとうてい打開することが出来ない難問題ばかりであるために、徹底的な反復訓練によって新しく習慣づけること、つまり第二の天性とすること以外に身につけることがほとんど不可能な問題だからなのです。

そしてもう一つ注意すべき点は、私たちの表現する言葉が生き生きとした魅力を持たない理由を、多くの人は表現の巧い下手のせいにしてしまいがちですが、実は多くの場合、もっと基礎的な音声器官の使い方の悪習慣や未発達に起因するのを知るべきだということです。

そんなわけで、その面倒な基礎訓練は、訓練に対するあなた方の誠実さの度合いに対して、リトマス就験紙の役割りを果たし、口先ばかりで行動のともなわない人たちを、どんどんおき去りにしてしまうのです。そして、このようにおき去りにされた人から、常に持ち出される論議も、また、きまり切っています。

 

そのなかで最も有害なものが、新しい演劇論を持ち出した基礎訓練の否定論です。確かに現代の演技そのものが問い直されている時代です。従って演技も、またそれを支える基礎の問題も、もう一度確かめ直さなければなりません。しかし演技を、見る側と演じる側の人間の関係としてとらえる限り、技術は不可欠です。また、それを支える基礎馴練も不可欠です。(「俳優の音声訓練」より引用)>

 

 

 

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学び方と方針

 

ここでの学び方と方針について

 

◯カリキュラム制について

 

昨今、振り返って感じたことは、ここに集う人の多くは、厳しさを求めているのだということである。最近は自由、独立、創造の精神をうたい、外向きの活動を奨励してきた、ここの役割を発足時の「初心」に戻すべきときにきたと思う。

そこで厳しい力リキュラム制をとることにした。

 

所詮、ここのカリキュラムが負担であるくらいなら、先は開けない。時間的、精神的にも苦しんで欲しい。

このカリキュラムは、他のスクールのような達成感を少しずつ与え、一、二割、力が伸びているという錯覚のもとに長く生徒を在籍させ、安定運営をしようというものではない。

カリキュラムは、芸を習得するのに必要な型としてある。

豊かな物質的社会で、「うたうもの」の希薄な諸君へのプレゼントである。

精神的なハングリーさ-それを二四時間つきつけられた状態で歌に昇華していって欲しい。そうでなくては、そこに何も出てこないであろう。

 

「自分でやる」それはあたりまえである。このカリキュラムとて、自分でやるなかで、こなせなくてはならないのである。カリキュラムにのっかっても、その先は何もない。

だから、自分自身のカリキュラムをつくるためのべースとなるカリキュラ厶として、捉えるようにして欲しい。

それと同時に、ここにまずは二年でよいから全力で取り組んで欲しい。毎日の、ただ毎日の差である。半年続く人はいるが、二年続く人は、果してどのくらいいるのだろうか

ここは原則、二年制で、その途中でやめる人は、全くといってよいほどいないのだが、ここで問うのは、意識面での厳しさのことである。

それに対して、強制的に型にはめる。そのためのカリキュラムである。ーこの不快さにより、早く、芸が深まり、それよりも、まず、広まるからである。

 

 

◯グレードについて

 

ヴォーカリストに、グレードなどはない。

だから、ここでグレードをつける意味は、クラスの質的充実のためである。初心者も上級者も、同じレベルの者同士でやる方が、共に学べるところが大きい。こちらもカリキュラムを組みやすい。

進級させるためのグレードではない。より大きな剌激と考えるところを得るためのグレードである。

その意味は、徐々にわかってこよう。

 

 

◯V、W、Lについて(ヴォイス,音楽基礎,ライブ)

 

守破離という。Wは守、Vは破、Lは離である。

Wは、今までのベースを受けつぐこと、これにじっくりと時間をかけて欲しい。そして、Vで破、自分の今までの器を破り、さらに大きな器をつくることだ。

ヴォーカルは声を媒介にして、自らに気づき、自らを変え、自ら、化していく。

そして、Lでは、一人立ちする。オリジナリティをもって、自分の世界を創り出し、同時にそれを表現するのである。

 

 

◯鑑賞について

 

歌うためのバックグランドは、容易に形成されない。芸をするよりは、まず、芸を観ることだ。声を出してスッキリし、歌って楽しいのは結構だが、まず、自分の体で歌、そして音楽を捉えることである。

一流のものを浴びるほど観ることが、底力となる。後々に効いてくる。

ヴォーカルの世界も、結局、自分の好き嫌いや、感情の問題となってくるが、それも、最初は食わず嫌いをせず、自分でいろんなものに触れてみることだ。

特に、自分の知らぬ分野、嫌いなものを見ることを勧める。

そこで一つでも、何かに気づくことができたら、幸いであろう。

それとともに、おすすめするものは、一代記、ヴォーカリストの信条や生活の表現されている場面が出てくるものも少なくない。舞台裏、発声トレーニング、そして人間性…。

さまざまなものを作品そのものから学んで欲しい。

たくさん観た人が、後で伸びる。

伸びる人は、それがわかるから観るのである。

 

 

◯会報、レポートについて

 

ヴォーカリストは、アーティストであり、表現者である。自分の世界を築くために、さまざまなものを武器としていかなくてはいけない。ただの人が歌っているというのではない。

学びながら、歌うことを深めていき、ヴォーカリストというスペシャリストにならなくてはいけない。

そこに必要なのは、繰り返すまでもなく、アーティストの精神である。

アーティストが、歌うことを武器としたとき、ヴォーカリストとしてよばれる。それだけのことだ。ヴォーカリストにとって、音楽は手段でなくてはいけない。このあたりまえのことがわからぬ人が、どれだけ伸び悩んでいるかということだ。

作品を観て、感動するだけでは、一ファンに過ぎぬ。そこで自分に出会わなくてはいけない。そのための最もよいことは、書くことである。書くことは考えることであり、表現することだ。ヴォーカリストとしてのポリシー、信条となっていく。

ここで一番伸びた人は、ここにたくさんのものを与えてもらった人ではなく、ここに一番、多くのものをもって働きかけた人である。二年間の修業中は、こういう信条をもつことが、自分を伸ばす秘訣だ。

私自身、なぜ書くのか、表現して皆を動かすこととともに、自分をみつめなおすためである。

ポリシーも考え方も、そして、オリジナリティもそこから出てくる。

だから、ここではたくさん書くことを勧めている。自分の意見をもたぬ人には何も歌えないからだ。

 

 

◯エイ・プレヴォイショー

 

テレビもときたま、よいものを放映する。エドサリバンショーは、よい。

だから、ここでもやろう。

とりあえず、エドサリバン役は僕がやり、二、三百人の観客も集めよう。

テレビ局も乗ってくれるだろう。

 しかし、果して、連続何回放映できるか。世界に流せる楽譜像となるだろうか。

そこがここの抱える第一の問題だ。

若き出演者に言う。まだ十年ある。でも五年くらいにしたいものだ。

まあ、近いものは(といっても、あまりに遠いが)、ここで早々とやっていくつもりである。

ここ版エドサリバンショー、題して、エイ・ブレヴォイショー、なんとか、連続もたしておくれ。

人ごとではない。あなたの問題だ。

 

 

◯メディアについて

 

ある番組にカルメン・マキさんが出ていた。

「私には音楽は手段だった」そう言っていた。

この番組は、私も団塊の世代の人に、ソウルのあったことを改めて考えさせた。

あたりまえのことが、彼らの口から新鮮に出てきた。

 

「歌は歌う人が伝わってこなくてはだめだ」(早川)

「僕が歌っているのではなく、歌が僕を選んだ」(岡林)

「世の中を変えるより自分を変える歌」(岡林)

「歌いたい人はいるが、歌心のない人ばかりだ」

「芸は進歩しなくては消耗していく」

「誰かみたいなら、自分は必要ない」

「メディアを必要とする。伝える方と求める方が必要」

「その後は、日本語の伝わりやすいという本質、甘えにのっかってしまった」

「言葉やメロディではない。言葉にのっかるときの声のカンジだ」

 

 

早く、僕も君らの君自身の言葉を聞きたい。

メディアは、先の工イ・プレヴォイショーに加え、現在のあのオンボロ会報をボロを着てても心は錦にすること。そこに、質の高いヴォーカル観や、皆の情報、皆のライブ評、エイ・プレヴォイショーの結果、すでにそれが発進できる内容をもち、ファンがつくようにしたい。

さらに、モータウンのような自主レーベルを発進しなくてはいけない。客をつくるのと同時に皆が十年後、二十年後、歌っていける環境を日本につくらなくてはいけない。

 

でも、何よりも大切なのは「心」、僕自身は、急がない。ボロスタジオ、ボロ懇談会、ボロ会報、それがどう変わっていくのか、今が一番おもしろい。

幸いというか、スタジオは四月から最高のものを便えるようになり、CDもつくれる。ここの必要とするメディアは、すでに最低限のものは用意したことになる。

ボロ合宿でも、あれだけの心があり、そこでの感想文にも、それなりのものが光っており、一〇〇名を超すヴォーカルとやらがいて、あと必要なものは何だろう。

 

 そう、ボロヴォーカルじゃいけない。キツイようだが、言っておこう。歌声喫茶じゃない。日本を震撼させたフォーク世代(GS)ではない。日本より先に世界に出ていこう。

そのための課題は、メディア、そして、日本人ということに集約される。

これは、僕自身も答えをここに実験していくしかない。日本人がブルースやゴスペルを歌っても所詮、日本人である。それを超えるオリジナリティとは何であるのか—。日本人風にではなく、堂々と世界にぶつけられるものをいかに築き、それはどういうメディアで発信すべきなのか。

 

それをボランティア慰問団のレベルでなく(ここでも人を楽しませたり、感動させることはできる)、芸、一流の世界として展開するには—単に、日本人としての声の器を壊し、大きくするだけではないだろう。きっと音楽も歌からも壊し、創っていかなくてはいけない。そこを考えていかねばなるまい。

 

自分という個の人間が相手の心に何かを与え、動かすメディア、そこに表現できるだけの自分をつきつめていく—その手段とは…。

そう、先の番組で、こう言っていた人がいた。

—歌いたくないときに歌わないのも、歌っていることだ

 

ロックでもジャズでも、一つのものを築いてきた人は皆、こういった根源的な問いに対し、こたえてきた。それが彼らの作品であり、それゆえ、有史に残るものとなってきた。

 

全て、ボ口でよい。ボロが恋しくてもよい。体裁をつくろっている間などはない。

ただ、心に錦を—--そのためには、カをつけることだ。

実験場、アーティス卜の集まりの場としてのここの煮味をもう一度、ここでつかんでおいて欲しい。

君の心が輝いていなければ、ここは光を放たないのである。

 

 

 

◯改革について

 

研究生からのアンケー卜、希望などの結果を踏まえ、研究所の方針を下記のようにする。

 

《基本方針》

1)初年度と次年度は、実力で、Z、A、B、Cでグレードを区別する。

2)最初の二年間の成績をみて、以後の在籍を許可する形にする。

(Bクラス以上を本科生とする。それまでは、研究生とする。)

3)ライブ活動の支援は、本科生に関してのみ行なう(ちらし公示など)。

4)本科を卒業したもののみ、研究所の卒業生と認める。

 

 

《検定桔果の感想》

声をのぞく分野(音楽的基礎、センス、體)にも大きな離があり、早急に改善がのぞまれる。

 

《アンケート、その他に関する解答》

生徒の投稿は、それがおたがいの刺激や励ましになるという前提の上で全面的に協力してきたつもりだが、必ずしもよい結果になっていない。

 

自分のライブへの強要、安易なコミュニケーション、このようなことからくるクレー厶は、ここの関知するところではない。

(皆さんのアドレスは、厳重に管理し、公開しないようにしている。

電話番号を聞いている人がいるそうだが、教える人の責任である。)

アーティストであれば、相互に各人の自覚と責任の上で対応して欲しい。

いろんな人がいる場でありたいし,それを許容している。

 

要望は、レベル分けと、指導をより厳しくして欲しいとのことが多い、これには対応していきたい。

 

 

《余計な注意》

 

最近、自主企画とこことの関わりが明確でないまま、研究生として混乱することが多いようだ。

たとえば京都の合同トレーニングは、ここのカリキュラムではなく、自主的な企画であり、京都レッスンの日程上の都合で、一部はレッスンとして行なうようにしたものである。(したがって、宿泊、交通、食事など、レッスン時間以外のことに、ここは関与していない。)

 

正規の授業のある日の自主的活動(ライブなど)に、他の研究生を勧誘したりしているようだが、ここは集客の場ではないことをわきまえて欲しい。

たとえば入って間もない研究生を誘うにも、たとえ本人は善意でやっていても、強く勧めると、こういう世界では後で顔を合わすときに嫌な思いをせぬように、と結果として強要となることは知っておくことだ。

レッスン日にも誘っているようだが、そのようなことでこちらに苦情がきたときには、事実確認の上、しかるべき処分をする。(いくつかの相談があった。)

誘われても、それを自分の意思で判断することを望みたい。

「〇〇さんのライブのため、レッスンに出席できなかった」などというのは言い訳にならない。

 

コミュニケーションも大切だが、その時間に力をつけるために必死になっている人がいることを肝に銘ずべきだろう。

同じ時間,同じ金なら,一流のステージをみるか自分のレッスンにあてるのを優先だろう。

 

 

内的充実、初心に戻り原点をみる

 

今年は、私自身、猛省すべき年となった。

ここ四、五年は新しい音楽環境創出の布石として、多くの文化的理解のある企業や研究所に関係をつけていた(私の勉強のためにも)。

が、昨年から、ここの内部を整えられるよう、最小限の仕事に限り、請け負うようにしていた。

しかし、その割に、多忙を極め、再三にわたり体調を壊したり、事務所へ戻ってこれぬ事態になり、迷惑をかけてしまった。三十九度の熱で、ニ度ほどレッスンをやったときもあったが、これとて、ためになったはずがない。

人数が増えたので、合宿やライブなど集団でのトレーニングをやってみたが、思ったようにはいかなかった。

研究生に対し、全てが、プロではない,その心構えがないというあたりまえのことを度々つきつけられ、限界というのを感じた年でもあった。

 

内部に力を入れることに専念したい。

専用スタジオもできたが、一人ひとりの力をもっと高めなくては、外への発進もありえない。

 

浮き足立ったままの人には、厳しく対処していきたい。

現在、各人の抱える問題は私からみると、とてもはっきりしている。

五人から十人集めて、ヴォーカル一人前といったところである。声だけ出る人、センスだけよい人、共に半々に持っている人という具合で、全てを兼ねそろえている人が、まだまだ少ない。

 

ここも初心に戻ることにする。二年まではきちんと見て、力をつけてもらう。

ステージ実習もカリキュラムに入れる。

少なくとも、研究生には、ここのレッスンを優先してもらいたい。

 

二年の時点で本科に進む人と研究科をもう一度やる人、退所してもらう人を判断する。

本科を出たもののみ卒業と認め、バックアップする。

 

寄稿も、皆の力をつけるためのものであり、その必要性を理解して欲しい。

来年度は、個別に厳しくみていきたい。。

私の力を平等にでなく、少数精鋭に対して重きをおく。

 

ここも規範縮小、内容充実にして、自分に対して甘い人は二年に限ったつきあいとさせてもらいたい。

 

急な方針変更であると、あわてる人もいるから三カ月、猶予したい。

※尚、1〜3月は、トレーナー渡米のため、少なくしてある。

条件つき進級の人は、条件を満たすこと。

 

 

 

関西の運営に関して

 

1)レクチャーについて 研究所主催で行なう。

2)時間割に関して 担当のトレーナーが決める。

(事務所にて変更は、受け付ける。)

3)関西代表はおかず、クラス制にしてクラスの長をおく。

4)二年以上(あるいは、それに近いもの)は、別クラスとする。

5)自主練習は延期する(京都、名古屋)

代講できる者を東京より派遣する予定。(トレーナーを予定する)

6)京都を月3〜4回体制にする。

それに伴い、名古屋、広島、福岡に支部をおきたい。

 

事務およびレッスン内容他についての問い合わせ、

その他の意見は、直接、東京事務所へ連絡すること。

 

ーー

 

方針について

 

♢グレードとクラスとカリキュラムとの対応について

認定されたグレードの一つ下のグレードのクラスまで出席できます。

 

♢グレードについて…

グレードとは実力による判定のことです。(入)→A→B→C→Dという形でグレードがあがります。

このうち、グレード入、Aは研究生、グレードB以上を本科生とします。

現在、6つのクラスがあります(Z、AⅠ、AⅡ、BI、BⅡ、C)。

入るとAIクラスとなります。

全くの初心者は、Zクラスから始めてください。

以後、出席回数と実力により、順次、上へあがっていくことになります。

 

♢クラスについて…

それぞれのクラスにグレードがついています。

V、W、Lのなかで自分が認定されたクラスを受けることになります。

たとえば、AIクラスの人は、始めにVA、WA、LAを受けます。

その後、WAが終了すれば、WB、LA、が終了すればLBに進めます。

総合グレードは、ヴォイストレーニングでのグレードと合わせています。

V(ヴォイストレーニング)、W(ヴォーカル基礎)、L(ステージ、ライブ実習)を中心にクラスがあります。

単位の補充は、選択、自主トレーニング、集中トレーニングで行なえます。

 

  

(毎月単位)           VC       VB         VA      VZ

Vヴォイストレーニン      2 4 4 4

Wヴォーカル基礎        4       4 4

Lライブ・ステージ実習    2           1 1

              

CHコーラス〔選択〕            

GOSゴスペル〔選択〕   

         

会報原稿投稿 末日メ切(400字)

自主トレーニングジム