参考DB BVトレーニングを支える理論根拠 290
「言葉に忠実に」の嘘 音節と拍
日本の歌は、山田耕作氏によって、基礎が成立したといわれる。山田氏は、ことばのアクセントをもとに、メロディをつけていく読みをした。日本語は、高低アクセントであるからと言って、ことばのアクセントに応じて高い音、低い音を割り当てていった。
これによって、言葉とメロディの高低が一致して、言葉の意味が聞きとりやすくなった。日本語ではアクセントが逆の形(高→低)と(低→高)で意味の変わる言葉も少なくないし、意味をなさなくてることもあるからだった。日本語は音は同じでも、文宇が違えば、別の言葉だとう意識が強い。
同じケイコ(Keiko)でも恵子と桂子は全く違うと思うわけである。場合によっては、一番と四番の言葉のアクセントが違うためにメロディを変えることさえ行なわれた。作詞家と作曲家が手を組んで協力したのである。
この試みは、大きく評価されているが、私に言わせたら、歌い手の力を過少に評価したための苦肉の策といえる。演歌の歌手は、言葉を高低アクセントを感じさせずメロディにのせて伝える技術をもっている。残念なことにポピュラーの歌い手は、ほとんどそのレベルに到っていないが。
つまり、山田氏以来の日本語に忠実にメロディをつける試みは、歌い手が楽譜に100パーセント忠実に歌うことを前提にしたときに生じる問題への解決法に過ぎない。
歌い手が大きなフレージングとメリハリをつけ、言葉をしっかりと伝えられる力があれば、歌のなかで消化できるのである。
即ち、音の高さによって、音色の違うような発声でなく、全く同じ太さの声に音域内で統一して使えればよい。音の高さによって、発声が変わらない声を出すことで済む。これには太く強く大きく、音色を統一させることが必要である。
もう一つは、言葉を伝えるために言葉のフレーズをつくり、それに忠実にメロディを処理することだ。
日本語では、俳句にみられる五・七・五などの文字数で分けるバタ—ンを音数律という。この文字数を拍(モーラ)という。
拍とは、パン・パンと手を叩きながら言葉を言うときに、いくつ打つかということである。それに対して、音節(シラビーム)は音の数である。
たとえば、音楽は、ホン・ガ・クで三音節(四拍)、共同はキョー・ドーで二音節(キョ・ー・ドー 四拍)、日本=ニッ・ポン、二音節(四拍)、こいのぼり=コイ・ノ・ボリ、四音節(五拍)といった具合である。
拍の意識は、日本人に強く、外国人に弱い。日本を、二・ポンと二音節に言ってしまう。そして、ここで大切なのは、拍よりも音節の方が、強弱リズ厶をついて、音楽的なのりのでてきやすいことである。
Jin gle bellsというのは、原曲では三音節だから、音符三つで済む。ところが日本人にとっては、ジングルベルと六つの拍で数え、六つの音符を必要とする。
jin gle bells
ジン グル ベル
ジ ン グ ル ベ ル
これを従来の訳詞では、一音一章主義でやってきたために、原曲での詞の豊富な内容が、日本語の訳詞をつけると、半減以下になるという愚をおかしてきた。
ベルとなっているところに、「ベ」とつけて、次の立曷に「ル」をつけていたら、いくらうまくつけても、内容は半分以下になる。本当は、一音節に一音でなく、いくつかの言葉をつけていくべきなのだ。
つまり、音節と拍を混同しているのだ。ジン・グル・ベルに、ジ・ン・グとつけるようなことをやったわけだ。本当なら、ジングゥベェでよいはずだ。この場合は、外国語を言葉としてカタカナ訳せず、音としてもつてきたから、ジン グル ベルと3つに収まったわけだ。
つまり、言葉を音として捉えた。しかし、そうすると外国語はすべて音なのだ。日本語もそのように聞くべきであろう。
そうでないから、日本語の歌は間のびしてしまう。
ミュージカル、日本語オペラも退屈で、いかにもわざとらしくふしぜんなのは、歌い手の技毆とともに、この一音一音符主義のせいである。
言葉に忠実な歌というのは、一音に一拍を当てはめることだということになると、
「ハ・ル・コ・オ・ロ・オ・ノ・ハ・ナ・ノ・エ・ン」
「カ・ラ・夕・チ・ノ・ハ・ナ・ガ・サ・イ・夕・ヨ」
これが歌のはずがない。言葉に忠実なら、
「ハル コウロ—ノ ハナ ノ エン」
「カラタチノ ハナガ サイタヨ」
つまり、三つの音符くらいで処理してもよいはずである。
さらに、これまでの日本の歌は、一音節に一つの音をあて、(これをシラビックという)一音節に多数の音符をあてて(これをメリスマティックという)こなかった。
トン ハイ 一音節
ト ン ハ イ 日本
Ton hai 外国語
トン ハイ
つまり、一音節に対し多数の音をとることも多数の音節に対し、一音でとることも少なかった。昔は、産字(声明で一字一字を長く伸ばし、メリスティックに歌うソロ)というのもあったそうだ。
歌は楽音ではない
楽器は、すぐに音となるために、そこでど、どう表現するか(歌うか)が問われる。ピアノやヴァイオリンでもっと歌え(歌心を入れよ)という注意をする。ところが歌は、人間が歌うので、単に歌えたら歌だと甘くみられがちである。
特に最近は楽器に合わせて歌おうとする傾向が強く、声そのものが楽音化しつつある。そこに音声の力が求められればよいのだが、逆にヴォーカルがBGM的に処理されてきているようである。
催馬集にしろ、三味線の歌にせよ、楽器と不協和音でもぶつけて味を出していたものだ。西欧の平均律や和声理論などは、たかだか二、三百年の歴史であり、それにとらわれる必要などない。
考えてみれば、ジプシ—の音楽、ヨーデル(スイス)などもこれらとは相いれないところが価値である。民族独自の音階も、楽器もあるはずだ。
ストレス(強勢)とアクセント なぜ日本人は三拍子に弱いのか
日本語.は、at—at—atという言葉を速読して発音すると、日本人は、ta-ta-taとなる。これは日本語が母音で終わる音節構造であるからである。
英米人やドイツ人なら、ta-ta-taをat—at—atと聞く。むこうの言語は多くは子音終わりだからである。
柴田武氏によると、ポーランドのマズルカが弱強弱となるのは、ポーランド語が末尾から二番目にストレス、アクセントがくるからだという。
日本語は、単綢であり、強弱でリズ厶を出さないため、字余りや字足らずで出そうとするのだと思える。そうなると、五七五七七は、休符も入れて、エイトビートと考える方がよい。
ただでさえ、日本人は農耕民族、鋤や鍬を一、二の三、四(イチニノサンシー)と偶数の拍でとってきた。騎馬民族の馬のリズム(ダーンダダ—ン)ワルツの奇数拍ではない。
ビートたけしの「赤信号みんなで渡ればこわくない」は、六+八+五(+一)。テンポが早くなると、休止がなくなるとみればよい。
だから、日本人は、リズムに弱いのではなく、奇数拍と強弱リズムに不慣れとみるべきである。
人間の骨格の差は、少なくとも人間の使うどの言語の話すことを制限するほどのものではない。
日本人の両親から生まれても、環境さえ移れば、どこの国のネイティブとも変わらぬ言葉を話す。
赤ん坊のときの喃語には、世界のあらゆる音声を発している。
それから、六歳から一三、四歳くらいの言語形成期にさしかかると、ほとんど発音できなくなり、母国語の発音をマスターすると、他の音を口に出さなくなるのだ。
R・ヤーコブン博士によると、言語の獲得は母音と子音の分化から始まり、母音に子音pが最初であるらしい。そこから、子音のpとt(もしくはpとm)、母音のaとi、uの区別が生じる。
だから、papa、mamaは、幼児語としてよく使われるのである。
外国語の発音は方言に学ぼう
英語のhatは、エとアの中間音だ。
私が個人的に、強い言葉と思うのは、関西とともに広島弁である。
関東の言葉に比べ、関西弁はやわらかい。
城生氏は、前者を子音優先型方言、後者を母音優先型方言とよんだ。
カッテキタ コーテキタ
アカクナル アコーナル
マッシロ シーロイ
つまり、江戸のベランメエ調は、ギスギスした子音ノイズでタン力を切るにはよい。
しかし、商売はやはり、やわらかい母音の続く関西弁であり、それゆえ関西弁は比較的、音楽的な言葉のように思える。
日本語感をくずす、未来型卜レ—ニング
「Dr・スランプ・アラレちゃん」
(1)ンチャ、バイチャ
「カバ丸語(伊賀野カバ丸 亜月裕)」
(1)ぐわんぶぁって くわんぷぇきっつな
(2)につぷぉんぐおを はぬぁすおーつつつ!
か→くわ ス→しゅ ダ→でぃ
ダジャレ
囲いができたよ、ヘー、カッコイイー
おはようございます。
オハヨーゴザイアス
ゴザ—マス
コンニチワ、
ウユース、
チワーッ
ロツクの発端
植草甚一氏の「ニュー・ロックの真実の世界」では、ロックの発端をアルバー卜・ゴールドマンの「ロックの出現」でー九五四年、オハイオ州クリーヴランドのDJ、アランフリードが黒人向けの「レイス・レコ—ド」を白人に聞かせたところ大反響になったところに求めている。
卷上公一氏 シャウト(叫びとは、「ギャー」とか「イエー」とか叫ぶだけで、「あーロックね」と頷かれるほどロックに定着した手法である。
元々は、黒人の「ワークソング」から脈々と継がれているものと、ハリウッド映画のサウンドステージでの工夫をただ取りしたもの。簡単なフレーズを叫ぶことで歌となる。ラップなどは、これだけで一曲できあがってしまう。
これはしゃがれ声とは違う。日本人のなかには、のどを無理につぶして歌っている人がいるが、本当のシャウトはのどで歌うものではない。
価値観
日本人は、不調でも聴衆に義理立てして歌う。そして、結果が悪くても称賛される。
外国人は、不調で歌うのは聽衆に失礼と感じ、最高の条件で評価されるように歌う。聴衆もキャンセルを容認する。
私が舞台で歌う歌曲は、公演のたびに新しい解釈を加えます(フィッシャーディスカウ 52才)
話とは、言を舌に乗せて出す
Tongue(舌)は、本来、言語という意味で、Languageは、ラテン語の舌(Lingue)にもとづいている。
日本語の音楽的要素
(「日本語への希望」大修館店刊 金田一晴彦著)
カ、サ、タ、ハ行の清音が美しく、ガ、ザ、ダ、バ行の濁音が汚いと一般的に言われているが、音声物理学では、Sやkは噪音で、gやZの方が楽音だという。よって、何を示すか誰が使うかということからきている。
金田一春彦氏は、濁音は京から離れたところでよく使われていたからではないかと述べている。
本居長世氏は、大正十年頃、歌詞のアクセント問題に取り組んでいた。
山田耕作氏よりも早く、さらに決まりきったアクセントではなく言葉の調子によっても変わることなどに対応させた。日常会話では、語尾がだらだら下がるから、メロディがアクセントに反してそうなっても構わないという進んだ考え方だった。
さらに高低低低のアクセントをメロディにのせるときは、四分の二拍子の曲なら、第一、二拍とも高くても歌いやすいなどと述べていたらしい。
これは私の提唱する高低の変化を強弱の変化によってのみこんでしまおうという日本語の音楽的処理方法に近い。
日本語は高低アクセントが中心で昔から強弱アクセントは強くなかった。英語などの強弱アクセントの言語では、語尾の母音がよく落ちるのに日本語はあまりそういうことがない。しかし、これからは母音が落ちていくだろう。今でも「そうです」が「そです」「そす」となってきている。
すると、強弱がつきやすくなる。いや强弱のリズムをつけていごうということでこうなってきているのである。声楽家はよく、高い音でひっぱるところはaかoでなくては難しいというが、これは怠慢でしかない。
日本語は同音語が多く、無意味な多数字の暗記などには強い。円周率四万ケタのギネス記録をもつ友寄哲英氏の偉業も日本語の利点を生かしたものである。
ルー卜2=1.141421356、、、
ヒトヨヒトヨニヒトミゴロ(一夜一夜に人見ごろ)
π=3.14152 653 58979 32384、、、(妻子異国に聲さ 子は苦なく身ふさわし、、、)
日本語は発音の単位が少なく、全部で百十二くらいしかない。どんなことばでもこの百十二に分解できるから、小さな子でも何でもかける。海外の言葉でさえ書き写せる。
日本人が外国語を覚えるのが下手なのは、言葉の捉え方の感覚が違うからである。逆に外国人も日本語は難しいという。
日本をニッポンと四拍で言う感覚がよい。ニポンとなる。つまり、日本人が四つの言葉に分解して、それを均等に四つの拍においていくのに対し、むこうは、ジャ パンという二つの音で捉える感覚と同じに知覚する。
日本の着物が、二ポ(ン)ノ(ウ)キモ(ウ)ノ(ウ)となる。
しかし、考えて欲しいのは、この方がニホンノキモノより、音楽的に(強弱がついてリズミカルで)表現しやすいということだ。
討論会というと、卜(ウ)ロ(ン)力(イ)で、日本人の六音が、三つで捉えられてしまう。多くの言語は、catと子音で止めるが、日本語はcattoと母音をつけないと止められないのも、AIUEOを主に構成されている五十音表をみればわかるだろう。
イタリア語などは母音で終わるので日本語に似ている。イタリア語が音楽的なのは、母音で終わるからであると言われている。そういい意味では日本語も美しいといえる。
ところが日本語には、のどの奥の方を使う音が多いから、美しくない。
明治のときに向こうから入ってくる言葉に漢語をどんどん使ったためか、ガ行が多い。ドイツ語や英語もそういう点では美しくない。
だから、私はイタリア語の感覚をもって声を眞することが、日本語でよい声を出すにも早く効果的という立場を早くからとっている。
日本語がイタリア語に劣る点は、こういう言葉の問題のほかに、強弱のアクセントのないところである。そのため、中国の南方の言葉によく似ているともいわれる。
これはとても音楽的である。
アフカディオ・ハーンは「町を行く人の日本語はすべて歌のように問こえる」と書きとめたが、関西以南の言葉、特に京都などにはメロディックな美しい感じがよくでている。
外国人の声楽にヴォリュー厶かあり、声がふくらんでおり、日本人はどうも平べったい気がするというのに対し、金田一氏は、外人が日本語を使うときにもふくらんで聞こえるので、日本語の発音のせいではなく、発声の問題だと見過ごしている。
私も同じ考えで、第一にめざすべきは、外人が日本語を使っているときの発声であると述べてきた。もちろん発音やシラブルなど日本語らしくない点は全てのぞき、純粋に声の点のみ学ぶのであることは言うまでもない。
そこで、外国人が日本語で歌ったむこうの歌、日本の歌をよく聞かせている。