鑑賞レポート 346
【 California Screamin Vol.1/The Mamas & The Papas, Jefferson Airplane, Santana and MORE】
サンタナの演奏を聞いて、リズムのノリが大事だとわかった。
自分はリズムのノリが悪いと注意されるので、よく参考にしたい。
【 The Doors In Europe/The Doors】
ドアーズを見て、まず感じたのは、ジム・モリスンが全てをさらけ出して感情を表現しているということで、それが見る側(聞き手)にも充分、伝わっているということだった。
決してうまいわけじゃないとは思う、彼のヴォーカルも、感情が表現されていることによって、とても活き活きとしたものになっていると思う。彼の感じたこと、いや生活の全てが、彼の表現したいことであって、それが彼の音楽であると強く感じた。果して自分も、あれだけのオリジナリティと強い感情、感性をもっているだろうか?、と問いかけられる内容だった。
【ディープパープル】
大音最の演奏に負けないヴォーカリストのパワー。くたくたになっているのを、よくやっていると、ほめるような弱々しい世界ではなく、動物の本能に近い迫力は非常にすごいと思うた。
洋楽で、いつも思っていることですが、極力、他の真似事ではだめで、自分たちの文化や、今、現在の社会性から生まれる叫びみたいな後ろだてがないと、海外のハードロツクには勝てないと思いました。
【ジャズ、ロック、ビートクラブ】
体全部で音を表現していて、音量もリッチで前向きである点は、本能的に人間が求めるものだと思え、ある意味で、音楽の本質を演っているんだと思う。外国の人は、日本に来ても、自分の国のことばを使い、日本人はその逆であることが多かったり、政治関係のニュースでもリードしているのは、どうしてもヨーロッパやアメリカの方だったりと、そういう日本人の村社会からくる感性が、日本の音楽をチーブにしているんであろうから、いつまでもそういうものにもこだわっていられないだろうから、混合の配分をどのようにして自分たちのこれからの音楽を創っていくかは、永遠のテーマだと思う。
ときどき、外国の人も日本のよさに魅かれて永住したり、そういう人の気持ちななとは、無視してはいけないと思う。ラモスと曙ではパターンも違うので、いろいろ意見を知りたい。また、中野浩一とか、世界で勝ったことのある人などのことばなども参考になると思う。
キンキンしない高音が印象的でした。男性の運動置の割には、声がぶれていないというところ。これら以外にはこれといって、とり上げることのないものでした。ヴォーカルにパワーが感じられない、リズムが単調である。
“ギミー、ギミー、ギミー”“ダンシングクイーン”の2曲のみ、小学生のとき、よく聞いていました。“ダンシング・クイーン”を聞くと、アバの存在を教えてくれた親友の兄のことを思い出します。白血病で死んでしまいました。
【 Tublar Bels2 Live At Edinburgh Castle/Mike Oldfield】
私は、Mike Oldfieldをまったく知らず、最初はヴォーカリストがいないんだと思いなから見ていたが、ところが、このバンドというよりオーケストラは、まったく飽きさせないどころか、音楽のもっている力を私に見せてくれたのである。何か、映画か何かを見ているかのごとく、いろいろな場面が私の頭に出てくるのである。
アメリカの西部劇に出てくるところに行ってみたり、アフリカの原住民が出てきたり、何かいろいろな場面を私に見せてくれた。あらためて、音楽の力というものは、私が考えている以上のものである、と言う発見をした。とても素晴らしかった。
【Yes songs/Yes】
一番、強く感じたのは、彼らの音楽は、何か新しい音楽を創りたいという「あがき」なのではないかということ。演奏というより、新曲の着想を得るためにとりあえず、みんなで音を出しあっているのを、そのままステージにもってきた、或るいは、ただひたすら試し弾きをしている、という感じがする。正直言って、声なり歌という次元で得るものは、ほとんどなかった。
要するに「何か新しいものを創りなさい」ということなのだろう。まさに今、私はその最中である。そのヒントがどんどん蓄積されてきている。ちょうど、原子星ができる前のガス星雲のような状態だ。ガスの密度がどんどん高まってきている。でも星の核の最初のひとつぶがなかなかできない。重力は確かにはたらき始めている。世界に問える日本人による日本のポピュラーソングを確立しなければならない。焦らず、怠けず、悩んでいくしかない。ヴォイストレーニングと声探し、歌探し、自分探し…すべてが並行して自分の中で起きている。もしかしたら、自分はそれだけのことを成し遂げるに値しない人間なのかもしれない。だとしたら、それはそれでいい。そう、納得できるまで、悩みきればいい。
ジョン・アンダーソンってライブを見ていると、そんなにうまいとは思わないのですが、レコードで、はまった歌は本当にすごいな、と思わせます。世紀の曲がり角“Turn of the century”など。LPの「究極」だかに入っている。大学時代のプログレサークルで、見たライブのようなバンドがたくさんあった。本当にうまい人々が集まった(大げさでない、その手の本などにはときどき、紹介されていた)所だったが、イエスはジョンのヴォーカルをできる人がいなかった。ときたま、声の高い男が入っては、担当していたが。上のCやDくらいまで出せないと…。
私は、キングクリムゾンの初期がやりたくて入ったので、イエスその他の「重い、暗い、長い」プログレはあまり好きになれなかった。クリムゾンもだんだんロマンを失くしていった。それで、だんだんシャンソンに私はスタンスを移していった。今日のイエスは、あまり歌の勉強には向いていなかった、と思う。楽器の名人芸が目立った。
プログレの先駆者だと何かで読んだことがあったが、プログレというものを知らなかったので、不思議な世界へまき込まれたような気がした。フラメンコは、地をはうような雰囲気がある(カンテも同様)が、イエスというのは、すべての曲において、天に向かっているような気がした。天から光が地(もしくは、海へと、下の世界はわからないもの)へさし込んでくるような曲や、嵐がおこっているような曲、雲が空を流れているような曲と、空、天が主題となってつくられたのではないかと想定されるような曲が多いと思いました。
【Exit Stage Left】
三人だけで、これほどの音をステージで出しているのがすごかった。今はコンピュータでどんな音だって作れるが、やはり人間がその技術と想いでたたき出す音には、すごい説得力があった。ドラムの人のまわりにはジャングルみたいにさまざまな打楽器が置いてあり、木魚からグロッケンまでフルに使って宇宙的なイメージの音を出していた。たびたびメンバーの人のことばが出てきたが、自分がやっていることに対しての姿勢が明確である。
ドラムの人が「ドラムと作詞は似たようなもの。ことばのもつ構造は、リズム、シンコペーションみたいなものだ」と言っていたのが心に残った。MTVがはやって、コンサートへ行かなくても、いろんなアーティストを見ることができる。映像の技術もよくなつだので、何でもできる。ビデオクリップなどでは、それなりにさまざまな表現が可能だけど、ライブでなければ伝えられない何かが絶対にあるはずだ。便利な機械を使わなくそも、伝えられるだけのもの。そういう力を強く感じた。
【 The Manhattan Transfer In Concert/The Man-hattan Transfer】
「目的としてのハーモニー」ではなく、「結果としてのハーモニー」でなければならないということ。ハモらせよう、ハモらなくっちや、はずしたらどうしょう、なんて考えではこんな気持ちのいい音になるはずがない。自分のパートを思いっきり歌った上でのハモリでなくてはならない。集団の和を犬切にする日本人の音楽に、ハーモニーの要素がなく、個々人の個性を尊重する西洋人の音楽にハーモニーが発達しているのは、一種、矛盾のように思えるが、上述のことを踏まえると、当然の結果なのだ。実際、ソロパートを聞けばわ かるが、彼らは一人ひとりが相当「歌える」人間のユニットなのであり、ただ単にオシャレで格好いいハーモニーをキメてやろうなんていうレベルでやっているのではないことが、うかがい知れる。
残念ながら、彼らの演奏はあまりにもエンターティメントしてしまっていて、もの足りない。ショーパブみたいなところでのライブ収録なのでそういうメニューにしちゃったのかもしれないが、ときどき、苦笑してしまうようなクサい演出が見うけられる。私のような偏屈者は逆に冷めてしまった。まあ、好みの問題もあるだろう。実際、観客はみんな大喜びしちやってるわけで、ステージの上の彼らの大勝利であることは否定できない。とにかく裸になることだ。テレもミ工もいらない、ましてやビビったりなんかしてちゃ論外だ。観客を自分に引きこまなくてはならない。会場の空気を自分の気で変えて埋めつくさねばならない。アーティストの力量とコンサート開場のキャパの大小は比例して当然なのだ。
マンハッタントランスファーの曲は、二、三曲しか(十年以上前に)聞いたことがなかったけど、今日、あらためて耳にすると、以前は気づかなかったが、音程や発声はもちろんのこと、みごとなまでに、自分の声を自由にあやつっていることに、気持ちいいくらい感動した。それと、表現の仕方もとても勉強になる。私!も、彼女たちのような声と身体を手に入れたい。
【ケイト・ブッシュ】
ケイトブッシュってすごいです。精神的に学ぶものがたくさんあります。もっともっと私も自分の心の中をさぐる必要があると思いました。精神分析とかの本や心のなかをのぞくような本を読んで瞑想でもしてみようかと思いました。
【ジョン・レノン】
ジョン・レノンは、思ったより歌がうまいと思った (迫力があった)。
ロバータ・フラックの語りから、いつの間にか歌に入ってしまうような感じがすごいなと思った。
びっくりしたのは、前座にスティビー・ワンダー、ロバッタ・フラックなどが出てきたことである。二人ともポジションをキープしていて、そして、フレージングとしての息がしっかり続いていた。そして、歌うときも、息を吸ったときのような感じのままで歌っているのだろう。そして、もう一つびっくりしたのは、ジョン・レノンの声である。ビートルズではなく、ソロとしてのジョン・レノンのライブを見るのは初めてであった。僕には、ポジションもしっかりしているように聞こえた。
このライブは、けっこう、ぐちゃぐちゃのライブかもしれないが、あそこまで才能がある人がやるからこそ、かっこよく見えたのである。ぼくにとっては、ビートルズというと、確かに夢があり、そして素晴らしい曲を数々と創りあげてきた。僕はその曲が大好きである。しかし、何か作られたものの感じが、少しするのが気になる。こんなことを言ってしまうと、ビートルズのファンに怒られるが、ビートルズのジョン・レノンの方が、何か自由に表現したいことをやっている気がした。
つい最近、“バックビート”というビートルズの前のバンド、シルバービートルズの頃に在籍していた少年の話を映画化したものを見たのですが、その映画のなかでのジョン・レノンは、ただの元気な若者というイメージで、アーティスト的なものは、ほとんどうかがえないような人として描かれていました。実際はどうだったかは、わかりませんが、多分、それに近い人間であったとは思います。このライブでのジョン・レノンは、そんな昔の若者とはかなり違った人物になったんじゃないでしょうか。かなり、ミュージシャンとしてのはくがついた気がしますし、やりたいことを見事にやりのけているような感じもしました。見ていてすごくかっこよかったです。私がビートルズの頃をほとんど知らないせいもあるでしょうけど、ロックを感じさせる人だなあと思いました。
【展覧会の絵】
クラシック、ジャズ、ロック、民族音楽など、あらゆる音楽のエッセンスをとり入れ、それを消化し、自分たちの音楽をつくりあげていく独創性は、大いに見習うべきである。ややもすると、自分たちの狭い音楽感のなかに凝り固まってしまうこともあるので、とてもよい刺激になった。また、各人の実力に裏づけされた、高い演奏技術にも目を見張るものがある。特に、キース・エマーソンには感服させられる。
【ジェネシス】
フィル・コリンズは、ソロとして、また別のアーティストとの共演も多く、それにおいては、ポップな曲、モータウン調の曲もやっていて、いろんな“顔”を持っているところが、興味深い。風貌や立ち振舞も憎めない。また、彼の声は楽器のような独特な“声”というより“音”といった感じで、一度聞いたら誰でも忘れないという気がする。
曲は、その人の感性が最もよく表れるわけだから、よく評論家などが音楽をすぐジャンルに分けるってことは、本当に無意味なんだと思う。確かに、傾向的なものは見えるんだけど、それがすべてではない。だって、人間の性格を一まとめにできないのと、曲の雰囲気も同じことがあてはまるから。彼は多分、クラシックで育ってきてるし、ロックも経験してるだろうし、でも、それだけじゃない。私がわかるのは、あらゆるもの(音楽に限らず)を吸収して、それをはき出しているってこと。きっと、私なんかよりも好奇心が強くて、感情が豊かなんだろう。
おもしろいなと思ったのが、このコンサートが一つのストーリーになっている。途中までしか見れなかったので、このあと、何がおこるんだろう···とちょっと残念でした。コンサートがストーリーになっているのは、The WhoのTommyもそうなんだけど、すごくダイナミックになるか、話がつまらないとしらけるか、っていう、二つに分かれるのみ。何だか、初めから通して見たくなってきた…。
【プリンストラスト'86】
まず楽しんでしまった。たくさんのアーティストがでてきた。私が一番よかったのは、ポール・マッカートニーとティナ・ターナであった。ポール・マッカートニーの声は、とても深く、素晴らしすぎる。ティナ・ターナは、よくあそこまで動いて歌えるなあと思います。これは、どのアーティストにもいえるのですが、やはり、自分の姿勢をもっているからなんでしょう。ただ、ロッド・スチュアートがあごをあげて歌っていたのが気になった。これだけの力をもった、素晴らしい声をもったアーティストが集まるからこそ、あれだけのコンサートがやれ、意味のあるものができるのであろう。
歌は人の役に立たなければないない。聞いた者の気分を高揚させるなり、慰めるなり、「効用」がなければならない。自分の芸術の完成、自分の主張の貫徹も必要ではあるけれど、客に何も与えられなければ、歌う意味がない。むこうのアーティストがむこうで演ったライブを観るたびに思うのだが、むこうの観客の反応は、ステージ上のアーティスト本人に負けず劣らず素晴らしい。歌い出しだろうが、サビの真っ最中だろうが、イカしたフレーズがくると、すぐ反応して歓声を上げ、手をたたき、立ち上がり、踊りだす。みんな心から楽しんでいる。楽しんでいる自分をごくしぜんに表現している。
中丸三千繪がある番組のインタビューで言っていた。むこうで生活していると日常生活とステージとのギャップをあまり感じない。日本ではそのギャップがものすごく大きいそうだ。要するに一般の人々の感性のレベルそのものに、もう差がついてしまっているのだろう。アーティストを目指す者の立場からみると、これはまさしく「差」である。「違い」ではない。
迫力ある歌声と、胸の熱くなるバラードで、常に客と一体になっていた。バラードでは、じっくり聞かせ、ノリのいい曲では、客も一緒になって熱狂していた。私もそのなかの客になったように感動した。
リズム感、声のボリューム感。続けて何十曲も歌い続けるパワーに感激しました。
こんなかっこいい女性シンガーがいたのかと感動していたら、姿を見ると、その数十倍もすごいと思った。ハデな仕掛けも動きもなしに、声ひとつでリズムから感情から全部、表現してしまう。すごい声量なのに、ちっとも「もうたくさんだ」と感じないのは、メリハリがしぜんで、豊かだからだろうか。歌いまわしというか、フレーズが一つひとつかっこいい。じっくり聞いて研究してみたい。
たとえ不可能だとわかったにしても、こういう偉大なレベルを目標にしていきたい。それから、英語のため、ストレートに歌詞がわからないというのは、不利だと思った。今までも、そう思いながら、時間がないし…などと逃げていましたが、実用英検一級とまでいかなくても、歌詞がわかるくらいにはなるべきだと思った。必要なことなんだからやるしかない。
今日のアレサ・フランクリンは、話し方と歌声にほとんど差がなかったこと。しかも楽に出していること(話し方と同じなのだから、楽なのはあたり前かもしれない)。
【ジム・モリソン ハートに火をつけて】
「ドアーズのステージには、盛り上がりが感じられない。」と言った女は、豚のエサになればいい。ジム・モリソンが動いているのを、初めて見た。うつろな目で空を見つめ、しなやかに腰をくねらせている。スキャンダラスな私生活と、ステージでの奇行などから、ジム・モリソンの強烈な個性だけが、クローズアップされがちなドアーズであるが、このLDを鑑賞することにより、その完成度の高いステージ目のあたりにすることになる。
完全にヴォーカルのサポートに回り、幻想的なメロディを奏でているギター。リムショットを効果的にとり入れたリズムで、最小限のプレイに徹しているドラム。サウンドの中心となっているぶ厚いベースと、オルガンを一手に引き受けているキーボード。それらに、高音部でも、低音部のひびき、声の太さ、声量を保ち、高音ということを感じさせないヴォーカルが、語りを随所にメロディにからませて、ドアーズの世界に観衆を引きずり込んでいる。
ジム・モリソンは、死の扉の前に立っているような、鬼気せまる表情で、自己内面の探求をし、それをさらけだすことによって、観衆と一体になろうと試みている。本当に、そのステージで死んでしまうのではないかという、緊張が伝わってくる。素晴らしい。「ジム・モリソンは、真面目に歌っていないから、おもしろくない。」と言った男の心に、火がつく。