技術は精神に宿るもの
よくヴォイストレーニングのハウツーやノウハウを教えてくださいという人がいます。
しかし、本当に身につけたいのなら、こういう考えほど愚かなものはないのです。
特に、器用に歌をこなせる人、最初からうまく歌えた人に、この傾向が多いようです。
それと日本の教育のシステム上で、頭がよいと評価され、よくも悪くも、自分に自信をもちすぎている人です。この頭のよさは、与えられたものごとをいかに要領よく吸収し、その通りに繰り返せるかということで、すでにできあがっていることを疑問なく受け入れる力、しかも、頭のなかでのことに過ぎません。
これは、本当の素直さではありません。
たとえば、スポーツのトレーニングをやった人は、一つのものごとが、いかに頭で考えて、やってもだめなことを充分に味わってきたはずでしょう。
ものごとを習得するには、基本があり、無我夢中になっている状態があり、わけもわからず、うまくいかぬことがずっと続いて、いつ知れず、できてくるということを。
本当に素直ということは、すべてに対して創造のエネルギーを秘めつつ、無心に受け入れ、自分自身の心身をもって試していくということです。
技術やノウハウは、いくらお金を出しても買えません。成果物は買えても、編み出す力は、手に入れられません。だから、価値があるのです。歌を歌える力、つまり、自分の世界をそこに創り出せる力に価値があるのです。
皆さんは、その可能性に、価値があるのです。
可能性を探求することもまた、創造だからです。
頭がよいために伸びぬ人は、たくさんいます。こういう世界で求めらる頭のよさというのが、違うのです。価値観も違います。現実の世界では、頭でものごとは運ばないのです。
何かを知っていることではなく、何かを生じさせる、生み出すこと、続けていることが尊いのです。知っていることや、伝統というのも、新たに生み出す力になってはじめて、意味をもつのです。
本当に自分自身のことば、感情で語れるかということです。
自分の名前でできるかということです。
自分一人の魅力、実力が問われるのです。
技術やノウハウは確かにありますが、それに触れただけでは学べません。
味わうにも味わいがわかるまでの時間が、まして、それを理解し、さらに自分のものとして出せるようにするには、それなりの時間が必要なのです。
それは、それを自分の身に受け入れる精神を熟成させる時間といってもよいでしょう。
その精神に技術が宿るのです。
人間を説得し、感動させているのは、技術でなく精神なのです。
本当に歌が好きなのか?
人はパンのみで生きるにあらず…
精神、ポリシーなどなくとも歌えます。楽しくやれます。
歌えるけれども、歌わなくてもよくなって歌わなくなります。
歌わなくてもすむからです。そこに単に自分が目立とうとするだけの我欲しかないと、遅かれ早かれこういう終末を迎えます。
呼吸のように歌がなったら、歌うも歌わないもなく、私たちは歌い続けるでしょう。
息をするのは、生きる、歌うことが生きることになり、生きることが歌うことになるからです。
25歳を過ぎたら、安易に自分には歌しかないなどとは言わないことです。
歌が安易に目の前にあり、ほかに何も見えない狭い視野で生きているから、そう思っているだけです。それは、他のものより歌がよさそうだという程度のものであり、選ばれた歌、そして選ばれた人ではありません。
本当は、あなたが選ぶのでなく、神がヴォーカリストを選ぶのです。
あなたは神に選ばれるように歌を、そのまえにあなたの歌を聴いてくれる人を、人間を愛さなくてはなりません。
今、歌っている歌は本当に自分の歌ですか、
誰かのファンクラブの代表になった方がよいのではないですか。
本当に歌が好きなのですか。今一度、己の心に問うてください。
もちろん、歌が好きでなくてもかまいません。
声が出すのが好きでも、人前に出ることが好きだとか、
努力するのが好きだということでも、トレーニングをしてみるとよいでしょう。
本気で取り組めば、何年かのうちに、ごく一部の本当に努力をした人のみが、
神の答えを自分のなかで見つけることができます。
答えを求めて、可能性を区切るな
技術やノウハウは、時間と忍耐のレベルで与えられます。
ただ、あるレベルまでいきつく人は、絶対にヴォーカリストになりたいといった人の100人に1人でしかありません。
トレーニングを続ける限り、少しずつ上達せざるにはおれないのです。
たとえ本人が気づかなくとも、上達しています。1、2年では大したことなくとも、4、5年では明かに違ってきます。
私のところでは、本当の基本の存在に、1、2年で気づいてもらい、2年たって、自分でトレーニングできるようになれば早い方と言っています。
そのなかにも、わかった気になったり、できた気になって、せっかくの練習を放棄して、我が道をいく人もいます。結果として、よくなっていません。人間、忍耐と謙虚さが必要だと思います。
その人の欲が、そして頭のよさ(特に本物を見分ける耳)が、その人の伸びるレベルを決めます。1、2ヵ月や半年で何とかなると思う人は、それだけの音楽性しかもちあわせていないのです。
それでも、たくさん刺激を受けていれば、もっともっと大変であることがわかってきて、さらに深いところを求めていくようになるものです。
どんどん難しくなっていくことが、当初は正解なのです。
どこかでわかったり、簡単になったとしたら、習得したということよりも、結局、頭で伸びが止まり、老化に入ったことを疑うことです。
ときには、うぬぼれも、自信をもつという点では大切なことです。それを完膚なきまでにぶちこわされることを繰り返してのみ、力はついていくのです。
そうでないのに、大勢の拍手に迎えられて歌うようになったときには、もう器はいじれません。
そのことを知ると、最初の2年の大切さがわかります。
常に初心であること、なんて難しいことばなのでしょう。
なんて怖いことばでしょうか。
そして大切で重きことばなのか。
常に自らの心に問うてください。
自信にあふれるステージのどれだけが慢心と偽善に満ちたものか-。
歌にすべて現れます。
その人が、本当の意味でまだ、伸びられる可能性に満ちあふれているのか、
巷に氾濫する商業音楽の片棒をかつぐone of themになって、
時代の波に顔一つ出せず、流され埋もれていくのか…。
それは精神が決めるのです。
だから、歌がうまいだけで何もない人よりは、
精神のある人に歌で表現してもらいたいと思っています。
そこが、聞きどころなのです。
伸びる人伸びない人
こんな人は伸びない!!
長年、多くの人をみていると、伸びる人と伸びない人がいます。
同じ期間、同じ条件におかれても、なぜ、そういう違いが出てくるかということは、明らかです。すべては本人の心構えしだいだからです。
アーティストの場でありながら、なかなかすべてにそうならないのは、残念です。
困るのは、全くアーティストの精神に反しており、しかも他の人に迷惑をかけているのに、それに気づかない人です。まあ、どんな人がいても、それも場ですから、私はかまわないのでですが、その人にとって損なので、少し述べましょう。というか,こうして文章で述べることは、場に持ち込みたくないことなので,大体が,そういう人に同じことを繰り返しているわけです。
たとえば、あるとき詰めに詰めてきて、すごく伸びるときがあります。そのときに、おごるか、初心を保ち、謙虚に持続していけるかというところにきます。
トレーニングがわかった気がして、自分でやるといって、やらなくなるのも、その頃からです。
もったいないと思っても、本人が望むまでの世界ですから、なすすべはありません。
特に大きなところでやりたいとかレコード会社に行きたいなどというのは、もはやワンオブゼムのヴォーカリストになり下がった証拠でしょう。そういう人たちとやるなら、私は、大手プロダクションのタレントなどに時間をさいた方がよいわけです。
とはいえ、なかなか気づいてはくれないものです。
目の前のステージに出ずに,そこに何も残せずして、何がヴォーカリストかということです。
ステージやレッスンに出ない人が、そこに出ている人に判断をすること、闘わない人に闘う人をうんぬんいう資格はありません。ましてや修業中の作品をどうのこうのいっても仕方ないのです。
常に場に出て、よいところを見出し、何かを創り出し表現しているという精神を、おたがいにたたえてやることこそ、アーティストシップです。
多くの人は、ヴォーカリストになりたいといっていながら、歌を聞く耳をもっていません。もっているのは、ここでも一割もいないでしょう。それに気づいていないこと、そして補おうと努力しないところに上達はありません。
自分の聞く耳のなさを省ずして、部分的な欠点の批判は、ここでとりあげる価値もないのです。
そういう人が気づくようにあえて述べています。
V塾は、発声基準でグレード評価しているように思われていますが、精神的なものをかなり含んでいます。声や歌には、それが表れるからです。
歌い方や音程、リズム、発音などに気をとられたり、声だけでどうこう言っている人は、自分でも同じ場でやってみればよいのです。それをステージで超えて初めて文句を言う権利があるのが、ヴォーカリストでしょう。
本当のヴォーカリストになっていける人たちは、文句はいいません。
歌があり、自分の世界があるのですから、ことばで腹を立てる必要はないからです。歌で伝えられるからです。
どこにも自分でできないのに、あれこれ言う人はいます。できないからいうのですが、それをやめないと、いつまでもできないし、おいてきぼりをくってしまいます。
いずれ、誰も相手にしてくれなくなります。そんなふうになりたくないでしょう。私もそんな人たちが増えても仕方ないから言っているのです。
合宿、ライブや講習でも、先輩風を吹かせ、うんちく話をする輩を情けなく思っています。そういうノイズは、いずれだめになっていく人の間でしか通用しないことを知っておくことです。
生じ器用だったり、頭がよい(ほんとはバカだって宣言しているようなものだけど)人にはよくみられます。
音一つ、声一つ、聞けないで、下らん批評をするな。
その口をふさいで、よく聞くことです。
V塾は声だけだという人には、それを超える努力も怠っておいて、何をか言わんやです。
声以外で勝負できるのなら、それも充分の価値があるので、勝負してみればよいのです。
私自身は、出だし一声がどこの国の人の前でも通じて一人前だという基準でみています。
外国の曲を発音や感覚だけで歌える人が、本場では相手にもされない例を嫌というくらい知っています。
ヴォーカリストが声を使えなくて、何で勝負するのでしょう。
いえ、声の限界を知ってこそ,あらゆる要素を取捨選択して,次の勝負にも挑めるのです。
歌う場全てを自分のステージにできているか。
ヴォーカリストらしからぬ演奏態度は大いに批判されて仕方ないと思います。
人前に立っていながら、もじもじしたり、弁解したり、見苦しい限りです。
そんなことに対し、同情をかっては終わりです。
ヴォーカリストはどこでも人前に立ったら、ヴォーカリストであり、ステージの質を保たなくてはいけないのです。
一声、発したら、何があってもやめられない、走らなくてはいけないのです。
そこで悔やんだりするなら、そのまえに日頃から準備しておくことです。
あなたの信用はくずれ、ヴオーカリストとしての道は、自ら閉ざされていきます。
ここだから、許されると思っているとしたら、絶対に伸びません。
もしそんな人がヴォーカリストになれるのであれば、日本中の人がプロといわれるのではないでしょうか。
ここにも、人前で歌う場はあります。あなたの歌の内容や歌い方よりも、その取り組み方が評価されているのです。誰でも一所懸命やっている人、真剣に取り組んでいる人の歌は聞きたく思います。そうでない人は、歌うまえに終わっています。
欧米では、誰でもヘタなヴォーカリスト程度には歌えます。だから、誰も歌いません。
人前に立って歌うことは、お客の時間をもらうことであり、そこに感動を与えられなければ、単に時間を奪うだけ、気分を害させるだけと知っているからです。
歌が聞くに値しなければ、皆、席を立つし、バンドも演奏をやめてしまいます。
ここでは、試行錯誤が許されます。一般客を入れていないし料金をとっていないからです。
ですが、真剣に、しっかりと最後まで聞いてくれます。
その表情から読み取れなくて、何がヴォーカリストですか。
自分のベストをだせば、たとえ、歌はだめでも、伝わるものはあります。それを積み重ねていくと、必ず未来があります。
皆も期待してくれていますが、ベストを出そうとしない人には、もはや何も残されない世界なのです。
自分に厳しくすること、その厳しさが、他の人を大きく超え始めて、初めて人並み以上の力がついてくるのです。
歌で表現できず、口先でノイズをまきちらす一部の先輩と、いまだスタートラインにもたてぬ人を、私は、ここのお客さんと思っています。
他のメンバーが育つためにここに寄付をしてくれている。それでよいのですか?
ここを練習場と思っている人は、いつまでも練習場から抜け出せません。
一言、いや,一音、残さず聞き、すべての材料から、最大限、自分の力がつくように貪欲に吸収してください。
全てのものに意味を見出して、自分のパワーにしていっている少数の素直な人たちを見習ってください。
そういう人は、こうしたバラバラな材料、こうした下らないことからも、自分の宝を発掘していることでしょう。人間の勉強です。
アテンダンスシートを見れば、2年後がわかる
精神が、人間の形になっている、意識も。
そして、それを人間が歌の形にする、声で。
時間を止め、時代を超えよ。
空気を止め、空間を超えよ。
感動…身体、心に直接的に受ける
感性…感情の奥にある本質を捉える力
体験により、その共通な本質をとり出し、組みあわせつくりあげる能力をヴォーカリストの本能というのではないでしょうか。
何かに感動したときは、自分の感情の分析、反省をしてみるとよいでしょう。
(アテンダンスシート一つ、まともに書けぬ人で、歌えている人がいないのも、確かです)。
最初は多くの一流のものに接し、深く心を動かすことでしょう。
そのうち、そんなに多くのものを必要としなくなります。
少ないもの、平凡なものから、感動をとり出せる感性が備わってきます。
分野を問わず、宇宙、しぜん、そして人間から心を動かせるようになります。
それを表現できる手段-歌と、場-ステージのあることは、最高のことだと思います。
しかし、歌が歌であり続けるために、ステージがいつもステージであり続けるために、学び続けなくてはいけないのです。
吸収するとともに、もっとそれを強い力でアウトプットする方向に、力が働かなくてはなりません。
吸収することのみに満足するのは、単に受け身なことです。
行動や実践、表現していこうという意欲があって、
その勢いでものごとが吸引されていく、
それが本当の身につけ方のように思います。
ー
BV上級編テキストより(出版予定)
トレーニングというのは、意識的にやるのですから、そもそもふしぜんなわけです。効果のあるものほど副作用が多いというのは、どの世界も同じで、そのことを踏まえた上で、目的と優先すべき課題を明確にしなくてはいけないのです。
ヴォイストレーニングをしたために、ふしぜんにしか歌えない人もたくさんいます。
発声トレーニングのような歌い方になっていく人もいます。それが、さらなる目的の過程なのか、方向違いなのかをしっかり踏まえることです。
今まで歌っていて、その上で、一から本格的にヴォイストレーニングをやりたいという人は、ヴォイストレーニングを受けるごとに毎日、うまくなるというのはありえないと思います。なぜなら、体づくりや声の習得は、歌の世界と少し目的が違うからです。
歌にはいろんなまやかしも必要です。
幻影に酔わせる世界であり、虚のなかのリアリティの勝負です。
それに対し、ヴォイストレーニングは、自分のもつ肉体の最大パワーアップをめざすのですから、歌よりも違う意味で確かであり、大きな器をめざすものです。
それによって、いつでも声が出せる、しかも、最高の声であり、出しても、壊れない。
声量、声城とも最大限で、どんな歌を歌うにも、しぜんと流用できる器にしておくわけです。
歌うのにギリギリ必要なヴォイストレーニングよりは、歌うときに声など、まったく気にせず、出せるくらいのヴォイストレーニングをしておく。
スポーツの基本技術とその応用の場(状況のなかで瞬発的に使うため)の試合との違いのようなものです。
表現を理解し創造しつつ、一方で基礎としての身体、声の楽器づくりをしていかなくてはいけないのです。そのことをわかっている人は、まだまだ、とても少ないのです。
ー
「BV座」
合宿につづき、BV座と、例年よりも早いここの夏の終わりを感じている。
打ちあげの席にいなかった人のために、コメントを伝えておく。
「終わったことは終わったこと。」
「BV座は、そのパワーを次に活かしてこそ、価値のあるもの。
一部、新しい人は、ピアノ一本でよくもたせた(初回というのは、なぜか案外、よいのですね)。
二部、ゴスペルは、先生に感謝、ライブハウス内がさらに一つの舞台となった。
三部、Bクラスの人には、二年目は、一年目の二倍、三年目は三倍、練習しなくては通じないといっておく。本日の舞台は、伴奏、司会、事務スタッフの協力あってのもので、感謝を忘れるな。
このほかに、この三倍、今日は出られなかった人がおり、遠くから通っている人もいれると、さらにその三倍いる。つまり,10分の1。
皆は、仲間に恵まれている。おたがいによいところを、とっていくことだ。歌よりも気構え、精神を上の人には習って欲しい。
先日、ステップウエイの音響ではだめだ、見にきた人ががっかりしたと、
ライブを辞退した人がいたという。世間体、ヴォーカリストというかっこだけの名にあこがれてやっている人は、こういう言い訳で、ヴォーカリストのヴォの字も知らずに終わる。
ピアニストが三人ともプロだったので救われていたが、確かにピアノそのものの楽器は、よくなかった。しかし、彼らは自分の力でフォローし、舞台を引き立ててくれた。与えられた状況を最高に誰よりも生かせてこそ、プロであろう。プレーヤーでさえそうなのに、ヴォーカルならなんとでもできよう。
その実績と実力で結果として、次のよりよい舞台、そして最高の機材とスタッフを勝ち得ていくのである。
プレーヤーから比べると、ヴォーカリストは、どんな状況であれ、まさに己の力が全てであるといえるのではないか。この自明のことが、今回は確認できたのではないか。
同じ曲をやって、バンドがついた方が必ずしもうまくいったか?否。
今日のよしあしが、音響やギターなどの腕の差だったが、否。
歌がうまくまとめてミス一つない人がよかったか、ミスした人がだめだったか、否。
あたりまえのことが、まだまだ多くの人はわかっていないのだ。
日本の音楽業界の未熟さと商業主義は、多くの間違った価値観を与え、それをこわすのに、今や、二年では足りないようだ。(つまり、世界に出ていけず、1年ともたず、毎年、何百人とデビューしては消えていく仲間になることを、ヴォーカリストの成功と捉える類のこと)
私は、レクチャーのときに、世界中のどこにいても(たとえ、難民キャンプでも、日本を全く知らない人たちのところでも)通用するレベルのヴォーカリストをめざし、その研鑽の場にしたい。その心(精神)とヴォーカリストの体(と技術)をつくるのが、ここだといっている。
たとえば今回のライブでBから出ている人たちのように、歌の完成度やまとまり、確かな演奏技術、声のよさや使い方の技術、そんなものが全くなくとも、一所懸命やった人に対して失礼かもしれないが、少なくとも当人たちは、わかっているよな、ステージでの現実、結果が全てであり、私のこの正直さこそ、愛情だということを。
場が動いてしまう人をヴォーカリストだと思っている。
歌はパワーと情熱あってのものだってこと。
でも、少し甘くいうと、時間が余ったからといって、ぶっつけ本番で、語りやアンコールで間をもたすというのは、大変なことなんだよ、新しく入った人は、一、二年後はそのくらいできるようになれよといっておきたい。
いくら歌をまめに美しく完成させたって、外国人のヴォーカリストがここにきたら、そんなもの吹っとんでしまう。吹っとぶようなことを日本という狭い井の中でやっていてもしゃあねえだろ。
(ところが、こういうヴォーカリストをどこもかも評価する風潮だから困る。この違いがわかる人は、ここでも一、二割、(業界を始め)ほかのところには情けないほどいない。ところが、日本人以外は、皆、知っていることだ)。
世界中にあなた一人しかいないから、それがあなたの世界だから、歌う意味があるし、価値がある。
一人ひとり、人間は誰でも違うし、価値があるのは言うまでもないが、それを歌で伝えられるから、ヴォーカリストなんだよ。
ヴォーカリストは歌を伝えるだけでは単に、歌うだけではないんだよ。
なぜ、一部の終わりが、ーーくんで、三部の終わりがーーくんだったか。
とりあえずはお客は評価できないからである。他人のものさしで評価されない価値に気づいて欲しい。
少なくとも、今回、Bから出た人の半分は、業界が認めるとか、お客がくるこないとか、音響やバンドがどうこういうまえに歌っているし、そんなことがどうであれ、歌いつづけていくだろう。
自分のおかれた状況で、すべてを自分に活かすことを、歌でできるようになり始めている。何を歌うのか(伝えるのか、どうして歌うのか、どこへいきたいのか、全てが自分のなかにある。他人に全く左右されぬ強さがめばえ始めている。
たとえ、歩いていても、歌ってなくとも、ヴォーカリストは、ヴォーカリストだ。そのように、歌で私に思わせてくれることが、こういう世界の信頼であり、まずは、ヴォーカリストとしての力なのである。ヴォーカリストは自らの歌で、それを名のるってわけだ。
皆が皆、一丸になって仲よく発表会だなんて、そんな気持ちの悪いことは、力がないときに、わざわざやらなくてよいと思っている。でる人もでない人もいるから、ここはおもしろい。
ただ自分でそれ以上のことができていないなら、人前でうたう機会をすべて活かすものだと思うのだが。
いつまでも、ここでチイパッパやっていなくてよい。外でやる人はやり、ここを利用する人はここでやり、そのメリットを自分でつくり、吸いつくしていくとよい。
ただし、出た以上は、ステージでもベストを尽くし、観客としても厳しくも温かい眼差しを向けるのが、アーティストシップである。今回は、それが感じられた点ではよかった。
よいヴォーカリストになるためにも、よい観客となることだ。仲間のうまいことに幸せを感じ、へたなところに一つでもとりえをみつけることで、自分が伸びる。
人の歌をあれこれいう奴は、そんなレベルであたふたしている馬鹿者だから、相手にしなくてよい。
自分の練習していない人ほど口を出すのは、どの世界でも一緒である。やっている人は、自分にプラスのことを得るのに精一杯で、そんな暇はないからだ。
いつもいっている。一人で世界中の誰よりも一懸命やっている人が、何人かでも集まれば本当によい場になる。アーティストは、己の力しか頼れぬ厳しい力だけの世界である。
最初からうまくて、そのまま業界好みのワンオブゼムとして通りすぎていくような人より、どうしようもなかったのに、人前で一曲を体で伝えられるようになった人の歌を聞くと、目頭が熱くなる。
きっと、あたりまえの努力をあたえまえにやったことが伝わってくるからだろう。
(本当に、一人で陰で必死でがんばってきたんだね、この人はまあと、その歌に感じられるものにほだされるからである)
あたりまえのことをあたりまえに長くやっていることは、今の日本の若い人たちの間ではあたりまえではないことになってしまっている
(ここでも、一、二年もたず、実質、ペースダウンしてしまっているのが、大半ではないか)
そういう普通の人からは、“あたりまえでないこと”に、どんな人も感動する。伝わるものがある。なかなか、できることではないからだ。
ただし、これも一、二曲だから通じる。いや、二、三曲で乱れてしまう。だから、まだまだアマチュアである。
プロはこういった姿勢、精神、魂、声、歌に加え、確実に完成された技術とそこからくる自信と奥ゆきの深さ(普通の人には見えぬもの)を、さらに必要とする。これは、はるかに遠い旅であり、だから人生を賭けるのに値するし、楽しくもある。
いずれにせよ、年を重ねて、それが高まらないのは、ヴォーカリストの死である(今の業界は、デビュー=死と私は見ている)。
生き残っていきたい人は、だからこそ二年目は二倍、三年目は三倍、努力することである。せっかく、つかみかけたものを離さずに、さらにどんどん自分のカラを破っていくことだ。
それ以外の人は、早くヴォーカリストとしてのスタートラインにつくことである。
あなたがヴォーカリストになりたいのならば…。
旅を始めることだ。
自分の世界を広く深く魅力的にするために本当の旅を。
注)あたりまえのこと…毎日、歩かなくては、先に進まないこと。
カメのように足が遅く遠まわりをしても、休みなく歩きつづければ、いずれ到達すること。
しかし、それは、ウサギと競争するのでなく、自分のゴールに対して、歩むことによってのみ可能となること。
ここは、今のところ、私が旗を立てている。旗の立て方がわかってきたら、自分の旗を自分で立てることだ。そしたら、きっと、気づいたらヴォーカリストになっているはずだ。
最後に出演者に一言、日本のヴォーカリストのライブとやらのなかでは、楽しい半日だった。
ありがとう。
ー
世界をめざせ!
そしたら伸びる!
人間の集まるところ、動めくところ、そして、そこに歌のあるところに価値を感じぬ人にどういう世界が待っているというのか-。
いろんな人がいて、そして、皆、歌が好きで、しかも歌える、そんな素敵なところはないのに…。
その場をだめにしているのは、そこで自分で精一杯のことをするために充分なことをそこまでにしていない人。
毎日、人前で歌って拍手をもらえればいいと願っているはずのあなたが、人の歌がどうだとか、場がどうだとか、何曲も歌えないとか……早くお客さん気分を抜いて欲しい。こんな小さい場さえ、変えられない自分を恥ずところから全ては始まるのではないのだろうか。
どこかのオーディションで合格したり、CDを出したり、ちょっと有名な店で歌ったり、それは結果としてあるだけのことだ(そういうタレントさんとは、ヴォーカリストは違う)。そんなことより、ここで歌うことの大切さが、なぜわからないのだろうか-。
力がなく、売り出すことよりも、力をつけること、力をつけると、ここのプロセスで生まれてくるさらに強い力、その強い力が、本当の力をあなたに与えてくれる。
孤独誰にも理解されず、不信-力は思うように伸びず、不安-この先どうなるのか、どうやっていけばよいのか、劣等感こんなことやっていて何になるのか-。
そのなかで打ちのめされ、もまれ、より強い力が生まれ、それが歌を技術を、ステージを支えるんだよ。
誰よりも強い力は、歌よりもっと大切なもの、生きる力、生かされている力、それが表現の源だ。
そこから出てきたものを歌で見せて欲しいと思っている。
新鮮に生き生きとしたあなたを伝えて欲しい。ポリシーこだわり執念が、あとで考えるとすべてを超えていく。
できないことはない。
やればできる。
人の2、3倍やっているのに、など、ぐちっていても仕方ない。
声の技術など、本当に地に足をつけて、生きたら、しぜんと身につくものだ。
どんなに声がなくて、才能も素養もなくても人の10倍やれば、人から一目おかれるところにはいく。
せっかく、才能も素質もあるのに、デビューとかオーディションで振り回され、今日のちょっとした見栄のため、明日、本当の大きな歓びを待てない人が多くなった。
器用なタレントや事務所の力で売り出してもらうことしか頭にないから、強い力がつかない。
テレビに出れば客はくる。そんなのか-?
そんな人は、何百人も見てきた、僕は。
そろそろ、世界をめざせよ。
年に何百人も出るタレントヴォーカルの、One of themに自らを落としめるなよ。
体力も気迫も、自らの精神力もサービス精神もないから、歌えないんだ。
一曲ももたないんだ。それ自に気づいて、常に真剣勝負をせよ。
そのための道場としてのここであり、トレーニングである。
どうしてこんなにもったいないくらいの生かし方しかできないのか。
もったいないよ、お坊っちゃん、お嬢ちゃん、
魂の固まりに、まずは人間になりなよ。
そしたら、あなたの歌は、人を魅きつけるよ。
あなたはもっともっと自分の歌を、そして自分が好きになるよ。
もちろん、まわりの人もあなたを認め、脱帽するよ。
その生き方、生きざま、迫力、気力、情熱、パワー…に。
場所が時間や人を選ぶのでない、
大切なのは、自分を選ぶこと、
ただ、それだけだというのに…。