孤を恐れず、個としてあれ 381
クリエイティブな力というのは、仲間とわいわいやっていたり、好きな人と時を過ごしたりしているときに出てくるものではない。一人で孤独に静かな時間の闇に沈んでいくときに湧いてくるものである。
力のついた人が(あるいは、あるレベル以上の人が)、その力の発揮するときには、同じレベルか、それ以上の人とやっていくのは、とてもよいことである。
しかし、それまでは孤であること、自分で一人で悩み考える時間を“あえて”とるべきであろう。そこに自分の存在の源を感じ、源から湧く力を体内にとりくみ、そして、君らが“メディア(媒体,手段) ”として選んだ“歌”に昇華し表現していくためである。
仲間内で刺激を受けるのは、悪いことではない。しかし、それがいつしれず、慣れ合いになり、孤として新たなる世界に挑戦していくことからの逃げ、言い訳になることに注意せよ。
他のメンバーががちんたらやっていたら、それから離れる強さをもて。
ここがそういうところだと思ったら、迷わず出てしまえ。
いや、もしそうなら、その前に私がつぶしてしまうだろう。
私のまわりの人は、ほぼ皆、プロであり、内に厳しい世界をもっているから、多くを語らない。自分の作品や仕事で言えばよいからだ。
研究生とても、ライブ活動はまだ試行錯誤のトントン、大半、普通の人であり、その多くは、プロになってはいかないであろう。
私は、日本での歌は、アマチュア精神にプロの技術があるのが、一番よいと思っているから、アマチュアということには好意的である。
だから、研究所も開放して受け入れている。
そのせいか研究所はよい人に恵まれ、とても居心地がよい。
しかし、まだまだ園児の固まりのような甘さがあるのは否めない。
日本人がクリエイティブたりえず、歌えないのは、第一に個の精神の欠如に由来する。逆にそれを身につければ、人生は起伏に富み、ドラマチックになり、その端役でも、歌くらいは口ずさめる。
ただ、それが多くの人の考える幸せというものではなく、一部の人に課せられた宿命だから、こう語ること自体、無意味かもしれぬ、とはいつも思うことである。
私自身も、過去を振り返ったり、先生づらしている余裕などないが、いつか君らと杯をかわせる日を夢みている。一日も早く、追い越して欲しい。そうでないと、私が歳をとっている意味がない。
合宿アンケートで、私に“理性を脱ぎすて一緒に温泉へ”というのがあり、苦笑させられた。
理性や本能というものは、そんなものではない。私は君らの“安全”のために、厚着をし仮面をかぶらされている。君らに今、親しまれることは、君らの体に毒を盛ることにしかならないし、それに耐えうる人は少ないだろう。それとともに私自身に対して、24時間、君らに望むことと同じ条件を課しているつもりだ
(合宿に関しては、トレーナーに一任したかったのと、偶然、期間中、高熱で注射と薬で押さえていたからで、温泉に入れなかったのは、私の自業自得である。それでも、好奇心で、皆の様子を一目見たく同行までしたのである。加えるなら、合宿の主催者だから責任とって参加したのでない。普通の人なら大ごとらしいが、これくらい何とも思わない修羅場をくぐってきたに過ぎぬ。)
ともかく、言いたいことは、こういう道を極めたいなら、早いとこ修羅場に入り、それをくぐっちまえということだ(抜けられるものではないから、人によりけりだが…)。
入口のまえでたむろして、なかをのぞいたり、引き返してきた人にどうだったなど、いつもぐだぐだしているから、同じレベルのことで悩む。
今、自分の歳でそれ以上できないというギリギリ,限界までの毎日を過ごしてみよ。
顔つきから変わってしまうはずだ。
力はあとから、つく。
自分で自分の修羅場をもてるようになったら、君も一人前だ。
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ヴォーカリストへの道
声の秘密と歌
ここのトレーニングは、最終的に声を知り、声によって歌を知り、声は消え、歌だけが歌として表われようとするための方法です。そしてそれは、ごくわずかの自分に妥協を許さず、歌を真撃に追求している人のおかげで成立してきました。
しかし、いまだ一部での個人的ノウハウの域を出ず、そこを超えて、各人の世界を展開するには、時間を要すようです。
欠けている点は二つ、音声を司どるイメージの構築とそれを支える体の強さです。つまり、楽器の確かさとそれの奏で方という、あたりまえの結論となります。
その過程に呼吸を深めることがあるのです。息を吐くことが声となり、声を出すことがことばとなり、ことばが歌になる、歌うのでなく、歌になることば、声そして息が必要なのです。
声や歌の技術に関しては、私もトレーナーも完全からはほど遠いでしょう。まだまだ深められる余地があると思います。研究するに値するテーマです。
すべてのヴォーカリストがそうであったように、声を聞かせる技術は磨かなくてはなりません。それは、声が体に同化し、体から離れて動き出すことからです。息とともにダイナミックに表現を伴ってきて、完全にコントロールされるに至ります。やがて、そのコントロールを超えて輝き、つやが出てきます。
ここで二年でやっていることは、その序章、せいぜい声を体に同化させようとしていることに過ぎません。しかし、それは、声を体に宿すというヴォーカリストとしての一番の基本です。その上にしか、本物の歌唱芸術は成立しないのです。
そして、そこに踏み込むには、アーティストとしての精神も必要です。たとえ、ヴォーカリストとしての技術がなくとも、人前で歌ってプロと認められている人の多くには、これがあります。アイドルでも人気ヴォーカリストでも、私と話して、半日は相手になるだけの何かをもっているから、その地位を得られているのです。
中途半端な技術は使えないから、ものにしつつ、精神を深めなくては、人々の胸に届く魅力は出てきません。結局、ルックスも含めて、多くの人にそばにいたい、その活動を見守らせたいと思わせる力が必要なのです。
むろん、みてくれはどうでも構いません。その代わり、ヴォーカリストなら声を一声、聞いたら、しびれてしまう、気持ちよくなってしまう、好きになってしまうということでなくては困ります。
ヴォーカリストに正解はありません。ただ、人間的に魅力がなく、冷めていて、やる気のなさそうにみえるヴォーカリストはいません。誰もそんな人を必要としないからです。
その人が一人いると何かが変わるのを力といいます。能力でいう表現力です。そういう人を魅力があるといいます。同じく、そういう声で表現されたものが歌です。
その人のパーソナリティとしての魅力と、それを体現しまた声の展開が、歌の魅力となります。歌を深めていくと、個性もそれに伴ってくるはずです。
そうならないのは、結局、歌が自分の歌になっていないからです。つまり、自分で一つの歌はこういうものだというワクをつくり、そのなかで歌っているに過ぎないからです。
こういう歌は少しくらい技術があっても、結局は通用しません。その人にとっての趣味に過ぎず、生きざまになっていないからです。カラオケでまわりからちやほやされて、うまいと思う、それだけの力しかないのです。
プロと同じように歌えても足りません。たとえ一流のヴォーカリストをコピーできる力を認めても、結局、それではヴォーカリストではないし、歌を表現したことにならないのです。
歌には全てが出ます。その人の全て、たとえ完成されていなくても出ます。
だから、私も最初から、およそわかっています。この人はこうなるだろうと。
ただ、それを裏切るだけの奇跡をその人が努力して起こすのを待つしかないのです。
その可能性を自ら火中につかんだ人のみ、全てがわかるし、全てが変えられるのです。
「天は自ら助く者を助く」
楽してできるかどうかは、本人の気のもちようです。
大らかさ、楽観的でポジティブな取り組みも必要です。
歌が好きなら、自分の歌を歌うことです。そのためには、それなりの歌との対話も、場合によっては格闘も必要なのです。それから目をそむけ人間から逃げてばかりいると、結局、いつのまにか、ちょいと歌えるおじサン、おばサンになって、人に講釈をたれるようになってしまうのです。
歌には技術が必要です。しかし、歌は技術ではないのです。
その人の器、常にそれを破壊し、大きくしていこうとする創造、
生む苦しみを何度も経てきて輝いてくる産物なのです。
ヴォーカルとここのの行方
秋は秋、来年はどのような芽を出そうかなどと考えつつ、何年にもなってしまった。ここの幹は太くなったか、枝分かれして少しは繁れるようになったか…。
ここがどうなろうと、世のなかは動き、世界は変わり、変わらぬものは残されていく。
昨年から二度、移転に踏み切れなかった。諸事情はあるが、すべて整っていたのに、断念した。得られる設備やイメージのよさに対し、失われてしまう心や魂が心配だった。多分に過保護だと自嘲している。
より恵まれた環境下でのレッスンを望む人には、すまないと思っている。ただ、昔のように毎日、皆に接することのできなくなった私は、ここの受講生が塗ってくれたへいや玄関の戸、古びた家スタジオ、それを通じて語りかけるものを捨てて、新しいものからそれ以上のものを得る自信がなかった。
いろんなアーティストが集まって、ここで汗を流し、それが、私を通じて今の皆が受けているレッスンのエッセンスとなっている。
早晩、安心して、ここを離れることができる日がくると思う。
精神は人に宿るものであるから、目立たぬところにこそ、大切なものがある。
私が一番に気にかけていることは、ここによい仲間を参加させること、
そのためにも一人ひとりがここで自分のオリジナリティ、勝負できるものを見つけ見極め、育てることである。
自分の可能性を追求しつづけることへの厳しい姿勢を楽しめる器となること、それがここの唯一の存在意味である。
必ずしも歌や声として結実するだけが、その意味ではないと思っている。
もはや、業界のオーディションに合格してのレコード(CD)デビューや、全国ツアー、テレビに出たり雑誌にのるのを、ヴォーカリストとしての成功と考える時代ではない。CMかドラマに選ばれるかどうかで消費される商品になること、そんなものに若さを賭ける値打ちがあろうか。
最近、私の口車にのせられ、この日本の歌についての絶望的な時代、業界を嘆いている人を見かけるが、そんなノスタルジーに浸って、勝負せぬことこそ、アーティストの風上にもおけない。
人のステージで踊らされるのでなく、自分のステージから生み出すことだ。
その陣痛こそ、芸の最高のこやしなのである。
常に世のなかにアートは新しいメディアやツールとともに現れた。それが最大の真理である。それに対して声と体は、実体の伴わぬ精神に真実を与えてくれるところで価値をもつ。
体に宿る絶対的な価値、それを人は、ハートとかソウルとか血とかいう。
本質的なものは、どう表現されても、美しくパワフルで人々を魅了する。しかし、本能むきだし、磨き、世に提示するパワーは、自己修練めいたヴォイストレーニングとやらの比ではない。どうして、そこへ皆のエネルギーが向かないのか、私は不思議である。
音楽や歌とやらに踊らされるな。
その形式も歴史も、一時代前の人のつくったものだ。
自らその形式を壊し、新しい歴史をつくり出すことだ。
そのために迷わないとしたら、闇に放り込まれないとしたら、嘘であろう。
とことん迷い、深い闇のなかから真実の光を自分自身の手でとり出せ。
そして自灯明、自分の光で自分をてらせ、といいたい。
君らの好きなアーティストも皆、そうだったはずだ。
アーティストと呼んでよい人ならば、すべて。
ー
ライブ
毎週に何十人の人と接する、
このなかで真のレッスンのレベルになっている人は、
何割いるのだろうかと思う。
音を身体と心で感じ、まとめて、心と身体で音に表現する、
それを呼吸という。
観客は、君の呼吸を聞きにきている。
他の参加者もトレーナーも
観客にしてごらん。
レッスンは、ライブとなる。
伝える
吐くことをフレーズといい、
吸ってためることを間という。
そこに構成展開が表われ、
君のオリジナルが、
オリジナルの君が現れる。
歌ってごらん、君の歌を。
君の声で歌ってごらん。
君の想いを伝えてごらん。
伝わる想いを君のその口から。