ステージ実習コメント 384
「My Way」 340409VA
どう歌うのかというヒントは楽譜に出ている部分が多いです。ヴォーカリストから考えると、歌を耳コピーして楽譜におこすと書き方によって違ってくるものです。そこに、書き起こした人の意志も働きます。すべてが楽譜で書き表せないどころか、ほとんど表せないものなのです。
どの音符にするか、三拍目の裏からにするのか、それとも二拍三連で、三拍目からとるのか、というのも、一番と二番で変えたくないから、書くときにそろえてしまう。
ヴォーカルは気ままに感覚的に歌っているようですし、それでよいのですが、譜面はそうならない。同じ曲で2種類の楽譜を持っている人は比べてみるとよいでしょう。相違点によって歌い方も変わってきます。解釈が違うからです。フレーズも大きく4フレーズでとっていくか、分けて2フレーズでとっていくかということでも違ってきます。
ここでの2~3分間、歌一曲の間で、ピアノに流されるのではなくて、そこでどう踏みとどまれるかということです。歌の1コーラスでも、その1コーラスを聞かせられないと3コーラスをもたせることもできないはずです。
一発勝負でも、一度、人前に立ったら、自分で踏みとどまる自覚を養ってほしい。それと共に、20名出たら20名のステージになるわけですが、それぞれいろんな特徴で、もたせていると思うし、いいところもいろいろ表われているが、ただ一人ひとりが、20分の1にならないで、全てくってしまう、あの人のステージだったと言われることをめざしてください。
そのためにどうすればよいか、何でもたせればよいかを研究してもらえばよいと思う。全部、ものにすると、一人で一つのものに完結する、それでよいでしょう。
モノトークは、1分間のアピールの場所、ということで、声がない、リズムがない、音程もダメ、それでも、カバーできることがステージではできます。そこの部分を出してほしいのです。
外国に行ったとき、一人の大人のヴォーカルとして認められるために、どういうスタンスでここに立たなくてはいけないのか、どういう顔をつくらなくてはいけないのかを求めて欲しいのです。
1年過ぎた頃というのは、本当に自分のよいものが少し見えてくる。ただ残念なことながら、1年から1年ちょっとたったときに一番よいのが見えていたのに、次にしぼんでしまう人が多いようです。
せっかく毎日の絶え間ないトレーニングでそこまで追いこんだのにもったいないことです。だから、ここで2年間で終わるというよりも、2年で、できたら最大の出力(ピーク)のところにしておいて、離れたあともそのペースでやってほしい。
1年目よりさらに、2年目が大切でしょう。1年目は基本ということでは、とても大切だが、何となく周りの流れにのってやっていけるところがあります。
今、半数くらいの人が声を動かせるようになってきています。声が体に宿り始めてきている。これは他のスクールなどとここの一番大きな違いです。
要求していることが違うので、こうなります。別にここが秀れているわけでなくて、目的を声そのものにおいているからでしょう。
声が体に宿るようになってきたら、今度は声が体を動かすようになってきます。声に体が同調するようになります。
体がこうあって体を鍛えたら声が出るようになったというのは、ちょっと違います。その声が一番ベストに出るようにからだが今度はしぜんと動いてきます。
歌というのはその上にのせたもの。ポピュラーの場合は特にそういうものでしょう。
そういう感覚になったときに、体を曲げなきゃいけないとか、ひざを何とかしなきゃいけないとか、マニュアルにとらわれすぎないことです。そこは自由にしてよい。その切り替えが難しいのです。
結構、できてくると手を抜く人が多い。何となく出席率が悪くなったりするので油断する。そこできちっとやってください。
集中力もより問われるでしょう。1分間のなかで、どこまで集中できるかが問われます。
結局、全ての問題になってくる、
こういう世界は、どういう形でいえばいいのかわからないが、その1分だったら1分、10秒だったら10秒、集中力が歌える人にはあります。
相当、体力も消耗する。そしてそれが、長くなってきます。1年くらいでつけた集中力で足らず、2年、3年と、集中力をさらに強くもっていくということができるように,そういう人というのは見てみると少ない。まあ何とかできる、となったとき、大体、終わってしまいます。
昨年よりできたつもりでいながら、いつのまにか元に戻っていって、せっかく1年目につかみかけたものが、モノにならないのです。一瞬はモノになるが、それを確実にモノにしてキープできるかどうかが勝負です。ここに来なくても、5年でできるというレベルのことなら仕方ないでしょう。
こういう芸事をやる人にはモティベートが大切です。こういうところに来るのも一つのモティベートのなす技でしょう。そのモティベーションが欠けてしまうとやってはいけません。才能とかどうこうという以前に、人前に立つというのも体力がいるし、何か歌うということも気力がいります。
“My Way”に関しては、もう少しかけひきができればよかったでしょう。ことばとメロディがいろんな形で展開しています。
かけひきというのは、ピアニストのかけひきもあるし、お客さんとのかけひき、それから自分自身とのかけひきもあります。どこかで強く出したら、どこかで弱く引いていくみたいな、一連の流れをつくりながら、考えているとつくっていけるはずです。
楽譜の読み込みは、規則を見つけていけばよいのです。ここは全部、付点がついている、ここは全部、3拍のなかへ入っているとかいったものです。
そこから例外的になっているものがあります。そしたら、そこにどんな意味があるのかを、自分なりに考えてみます。
例外、規則はずれのものは何かを主張しているのです。たとえば、二拍三連や、4拍の裏に始まるというのはどうしたいのかとか、そういうことが段々、わかってきます。必ずしも正しい答えはないのですが、感覚として、原則はあります。
まずは、ここでベストを出せるようにしてほしいものです。ここでベストが出せなければ、他で出せないくらいに考えてください。ここでベストが出せるのであれば、他のところでは、日本の場合、大甘でしょう。外国に行くとモノが飛んできたりするが、ここは安全です。だから、ダラダラと歌える。よくないことです。そのうち皆に投げるモノを持たせようかと思っています。
方向性が見えてきたら、それをよい方向に引っぱり出してやる。自分の一番のものに、できたら自分で気づいていきたいものです。人に聞いてみてもよいのですが、自分が気持ちよいと思うこと、その線上に正しいことがあるのでしょう。
一人ひとり、皆、自分の人生があります。それを人間が動いて表現している、そういう場にここがなればよいですね。いつもここにいると、20人のを続けてみると、さすがに長く感じます。それを短く感じさせるように演じてもらえればありがたいのです。
そうするためにはどうすればよいのかを考えてもよい時期でしょう。最終目標、つまり、どうすれば人の心は動くのだろう、ということです。声はいろいろ出せるが、それは声にすぎません。
逆に考えて、自分の心が動いたのは、どこにどう動いているのか、と。鑑賞が欠かせません。
それは音楽だって歌だって何だってよいのです。そしたら、自分の歌だって、ここでもしかしたら、人の心が動くのかもしれないというところをつけていけば、構成も見えてくるし、歌い方もスンナリ決まってくるはずです。技術的な要素以外にも、臨場感、本番という場を、ここにどうつくり切るかです。
欲をいうと、いろいろなものをもってきて欲しいのです。自分が世界で一番よいと思う場と時間をここに提供しに来てくれたら、よいのです。ここに立つ、そこでこの世界が変わらなくては、です。
最高の歌い手がここに来たら、ほんの1分か2分で皆を幸せにしてくれるでしょう。
それと同じ力をもってやろうという欲はあってもよいでしょう。条件が悪いとかマイクがスタジオが音響がという以前の問題です。そこの部分で見ていくことです。
耳もよくして、聞き方をつくっていってください。せっかくこれだけの人、つまり材料があります。一つの目的で集まっているヴォーカリストがいます。どこかのオーディションに行ったり、プロのバンドに入っても、これほどの機会はありません。
力をつけたり判断力を磨くのに、こんなにすぐれた場はないのです。“My Way”なんて、マイク使えばそれなりにこなせる曲です。マイクを使わないで聞けるという場は、ないでしょう。そのなかで今述べた観点で聞いてください。
自分の伸びを客観的に見るのも大切です。他の人の伸びとどう変わっていっているか、それを見ていると、人間というのがわかってきます。比べる必要はない。伸びにも個性があります。そういうことがべースです。
なかなか最近、人間を研究するような場もないようです。集中力に関しても、1時間、あるいは10分、5分、3分、10秒、5秒のより強い集中力と、それと共にそれを長く保つ集中力を増やしていく。
嫌な歌を聞くのもトレーニングになります。人生,生涯かけてつながれてきたものをわずか3分にして再現、創造していく世界です。
時間をより活かしていって欲しい。それをエネルギーに結びつけて欲しい。
表現ということになると、いくらがんばっても、やれるところまでしかやれないのですが、そこまでもやっていない。
やりきって空っぽにしたら、何かが生じます。残ります。歌うときにいくら技術を考えても仕方ないのです。そこでのうまい、へたというのは、ある程度、見せてつくっていくのです。つくらなければいけないということではないけど、つくった方がよいです。
一人、ここに立って、自分の人生を今までやってきたこと、“My Way”で語るにはどうすればよいのか、そこでジャンルを越え、歌を越えて何か表現できるものが、出てくればよいのです。
イタリア人なんて、「食べる・愛する・歌う」というのがこれが人生の3大価値だというわけです。まあ、食べると歌えなくなるが、まあ愛したときに歌うか歌わないかが、ヴォーカリストになるかならないかの決め手のような気もします。
声のしなとか、あやとかも“My Way”という曲にあるのではなくて、皆にあるのかです。
伝えたいことがあって、こういう曲を声を媒介とするだけです。
昨日、深夜「蒲田行進曲」をやっていました。見る気が全然、なかったのですが、最後まで全部わかっているのですが、見させられてしまいました。松坂慶子さん一人のしゃべりを見ていても通じているものはいくらでもあるわけですね。
それを見習ってヴォーカルしようということではありません。でも歌わなくて表現できている。役柄のなかで声の使い方、パッとした声の切り方、引き方、場面、場面に表われています。そういうことにも、もっと広く関心をもてばよいのではないでしょうか。
歌からだけではなく、人間の全ての生活のなかで、皆の日常生活のなかで歌は学べます。声というのはどこでも使われているものだから、一番大切なときにも使われています。
役者は、確かな基本の上に個性を開花させ、人の心を魅きつけていきます。ヴォーカリストとも、かなり近いはずです。3分間メロディをつけて演じるかどうかの違いだけでしょう。そういう面でいろんなものを吸収していきましょう。
この歌をどこかで歌うことはあまりないでしょう。これは歌うと嫌われる歌のナンバーでもあり、それだけよく歌われているということです。スタンダードナンバーなので、研究してみるとよいでしょう。歌詞も自分でつけ変えてみると、もっとよくなると思います。
ー
「タンゴ・イタリアーノ」
「ひかりみちて あかるい まちかど ながれくる うたごえは」
このフレージングとヴォリューム感が、日本人のヴォーカリストに欠けています。さらにセンスです。これがそろうとかなりオリジナリティの高いものにできますが、まずは正攻法できちんとした発声で表現して通用させることです。ことばが意味を伝えるところからはずれてはいけません。
ひかりみちてあかるい
これは、ことばのもっていき方です。これを「タラララララララ」
この「ラ」というところの、その「ラ」の線に対して、微妙に情感をおいていきます。
大正時代の歌い方みたいになってきましたが、その頃はこういうのがものすごく得意です。
要は、かすれない、ビリビリしないようにまとめます。
「ララララララララララ」というのをつくっておいて、そのなかでフレーズの進行を加減していきます。そうなると、それをひびきにすべて任せないで、体で握っておきながらやっていくことです。このへんくらいまできちんとやれば、あとはちょっと遊んでもよいでしょう。まあ、遊んでいるというのは情緒を出す方向に神経がいっているわけです。
少しわかりやすくすれば、「ひかりみちてあかるい」ぐらいでやってみましょう。
「ラ」の方がよければ、「ラ」でもよいし、「タララララララ」の方が遊べるかもしれません。そのつなぎを「ひかりみちて」ではなく、「タララララララ」といった感じの線を体で出していってほしいものです。
結果としてひびいてしまっても、体から直接、出ていても構いません。かすれてもかまわないでしょう。ただ、そのつながりを、要は音楽的、メロディックにするということ。こういう歌に対して、言葉だけでもっていこうというのは難しくなってきます。
「ひかりみちて あかるい」ここまで一つのことばのなかに10個入ってきます。それを一つのフレーズのなかにおいていきます。このおき方を、自分で向きを変えてみるのです。「ひかりみちてあかるい」ではなく、「ひかりみちて あかるい」など、いろんな出し方があります。それをあまり、作為的にみせないことです。
「ひかりみちて あかるい まちかど」は、予想外にうまくいっているほうですね。要は、そこをそれ以上、歌ってしまうとよくない。皆、表現しようとすると、体を離してしまうが、歌である限り、基本的にそこは絶対にキープしていなくてはいけないところです。それをよりヴォリュームアップさせてみたり、展開を変えていくのが、歌の基本です。
フレーズをつけようとすると全部、消えてしまう場合は、体力不足であり、息のコントロール不足です。今のが絶対に踏まえなくてはならない基本ラインで、ここのところにさらに感情表現やことばのあやつけをやっていかなければならないのです。
ところがその線を流さないうちに、先に感情表現をやってしまったり、ことばで切ってしまったりしてしまうからよくないのです。感情はあとからついてきます。歌である限り一本通さなければならない部分があって、それを通した上でより多用に展開できるように、ここは音域が広くないので、ことばのあやという点でいえば、比較的、日本語をうまくはずせるのではないかと思います。
次に「ひかりみちて あかるいまちかど ながれくる うたごえは」、
「うたごえは」あたりになると、大分、テクニックも必要となってきます。ことばでなく、声の感じをよく聞いて自分なりにアレンジしてみてください。
「ひかりみちて あかるいまちかど ながれくる うたごえは」
そこまでもっていきましょう。長くなっただけの人もいます。まずは、一本通すということです。ここから、できればこのくらいのフレーズをきちんと通せるような方向を示してやります。
よく歌の方向性がわからないというときがあるが、そういうときは「ひかり」と言ったときに、この「ひかり」からどう行きたいのかが、本人自身が見えなくなっている場合です。
それから、細切れをなるだけなくすことです。これは声を統一するための条件でもあります。
「ひかり/みちて/あかるい/まちかど」と4つになってしまうと、旋律的なものは大きくは出てこないので、おもしろみがなくなります。つなげていくところから何が出てくるかが大切であって、音をおいていくこと自体が目的なのではありません。
そして、「流れくるうたごえは」で変化します。変化して、次につながらなくてはなりません。「歌声わあ」となってしまうと当然ダメです。「うたごえは」とひきます。
ここでなぜ、ひかなくてはならないかというと、次により効果的に落としこむためにです。このへんは、日本語がついた曲と、イタリア語がついた曲とでは、一番最後か伸ばせるか伸ばせないかで違ってきます。日本語には制限がかかります。それをどこかで帳尻あわせに移行させてとっていかなくてはならないときもあります。
「とおいひのおもいで さそい むねに深くきざまれた」
ここまで一つか二つのフレーズでもっていくとよいでしょう。ブレスしても構いません。ブレスは「ひかりVみちて」では、よくないでしょう。基本的には、ブレスをするというよりも、フレーズでつくっておいて、ギリギリで言い換えをしたいところで、ブレスするのが一番よいのです。
「ひかりみちて あかるいまちかど」
どう考えてもここになります。「ひかりみちてあかるいまちかどながれくる うたごえは」とつなぐわけにはいかない。そういうことを自分で試しながら、もう少しブレスが必要になるかもしれません。
勉強している間は、なるべくブレスをとらない方が流れの感覚がつかめると思います。言い切っていくときのやり方というのは簡単だが、なかなかフレーズがうまくつながっていかない。
それに対し、流していくことによって、高音域とヴォリューム(音量)をとっていくのです。音量は出なくてもよいが、マイクを通して聞いたら、聞いた人が聞こえることです。そのためには、声を逃してはいけません。
「ラ」にしても「ラーラーラー」となってしまうと、それだけロスするわけです。聞いている人にとっては本当に聞こえて伝わる部分が少なくなってしまいます。2割3割しか聞こえなくなります。そうではなくて、100パーセント、声にしていくということが、一番大切です。
「ひかりみちて あかるい まちかど」のところで、最初は、「タ」でも「ラ」でもよいが、「ラララララララ」とそれにシナをつけていきます。アヤをつけるということ。もう少しフレーズを大きくとってみて、「ひかりみちてあかるいまちかど」でも「ひかりみちてあかるい」でもよいでしょう。
この旋律のメロディをきれいに完成されたものと捉えておいて、そこにおいていきます。だから、さっきいったように「ひかりみちてあかるいまちかどのようにはなりません。いろんな形で展開できると思う。歌のなかであくまでも処理するという形でやる。
「ラ」だけで歌ってみて、「ひかりみちて あかるいまちかど」が浮かんでくればよい。
「ララララララララララララララ」
特に「まちかど」のおとしこみは、ものすごくセンスが表われる。聞いている人が聞いてみればよい。
隙のなさとか緊迫感の密度が違います。まず、それを完全に体でつかんだ上で遊ばないと、フワフワしたものになってしまう。どっちかしかできなくなってしまう。緊迫させることが、逆に全部が押したり抑えたりしていないか。
このレベルにくれば、これだけの題材でやってみれば、わかりやすいと思う。ことばでやっている部分には、うまくできている。この歌の最後が「ラ」だけで歌っているので、そこのところを聞いてみて終わりましょう。
今やってほしいことは、何のために声を鍛えているのかということです。いろんな装飾をはずしていって、なまみのなかで歌を握っていって、それを動かしていって、もう一度、再構築していくことです。ヴォーカリストの場合はそれだけで、出したもの自体が即、そのまま結果ですから、そこのところで合わせていくことです。
聞く耳をもつことです。最初は「ラララ」と聞いてみても何がよいのかわからないものです。そこで、耳を先にとっていくのです。そうしないと、どうしても世界ができていかないのです。
なるべくよいものを聞いて、そこの差を捉えてみることです。音域・音程・リズムの差もないことがわかるでしょう。そしたら、そこに対して何を必要とされているのかを感じることです。
今の皆さんのレベルでは、こういうトレーニングが一番よいでしょう。自分ができるところでより完璧にすることです。それをやりながら、出にくい音域とか、音量とかは別に鍛えていくと考えた方がよいでしょう。
そうかといって全部ができてから、歌に入るといってもなかなか難しいから、今の完成度の一番高いところでも、まだ完成でないことを知った上で、それが何なのかを常につきつめながらトレーニングすることです。
そうすると、体が必要だというのは、わかってきます。頭でなく体で感じてきます。それがうまく使えているとか、できた、できていないという判断も明確についてきます。
そこのレベルで歌えたか歌えてないかと、とぎすまさないといけません。単に歌えるというのであれば、カラオケがうまい人の土俵におりて変わらなくなってしまうからです。
根本的に何が違うのか、そのへんを自身におきかえてやってみてください。
ー
Q&A トレーナー
Q.こぶしってどうやれば身につくのでしょう。
カラオケで演歌を歌うおじさんがやっているのと一緒なのですか?
ゴスペルを練習すればよいのですか?かっこよくこぶしが回せるようになりたい。
A.テンポを落として、ゆっくり練習すれば、いくらかやりやすいかもしれません。あと、よく聞くこと。いやというほど聞いて覚えること。演歌のこぶしとは確かに似ているけれど、フィーリングは全然違うものです。