一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

鑑賞レポート    386

鑑賞レポート    386

 

【ナットキングコール】

 

とにかくゆとりがある。声に、表情に、態度に。ゴシラみたいな顔でにこにこ笑って、余裕しゃくしゃくで渡っている。ガンガン張り上げるわけではなく、シャウトをかますこともなく、感情をむき出しにすることもなく、ニコニコ笑って、終始ゆったりと歌を聴かせてくれる。かといって、手を抜いている印象はまるでない。ゆったりとした安心感、そしておそらく彼の人柄なのであろう、温かさに満ちている。彼の声、歌を聞いていると、何とも幸せな気分になってくる。演っている本人も共演者を含めて)実に楽しそうだ。演奏する喜びがあふれている。

 

こういうスタンスの方がうまくいくのかもしれない。歌に特別なメッセージを込めたり、社会性、時代性を取り込んだり、己の生き様を世に問うような歌い手なんて、耳障りなだけかもしれない。本人が楽しくて、見ている人をも楽しくさせることができれば、それで十分なのかもしれない。彼の歌が、人生の一場面と結びついている人も、世界中にたくさんいるに違いない。でもそれは、彼だからこそ、許されるスタンスなのかもしれない。実際、力のないものが、彼のようにニコニコ楽しく歌って、同じだけのゆとり、温かみを出すことなど絶対にできない。だったら、力がないなりに、誠心誠意、カッコ悪いくらいひたむきにやった方が、たとえ小さな小さなものであるにせよ、何かを残せる、訴えられる可能性があるというものだ。

 

 

ニューオリンズゴスペル】

 

ゴスペルはもっと肩の凝るものだと思っていたが、自由に感じるままの音楽だった。バックのコーラスもいい声だったが、メインヴォーカルはもっとソウルフルで、J・Bやオーティスがたくさんいた。彼らのルーツと偉大さを再確認。しばらくR&Bなどに凝りそう。

 

まねをすることはできても、日本人にはあのような「神」がない。パワーがすごい。圧倒。

 

 

We Are The World

 

それぞれのオリジナリティがすごすぎて、圧倒された。当たり前だけど、誰も音程をはずしてなかった。特に、スティービーと、シンディ・ローパーダイアナ・ロスと、レイ・チャールズは、アドリブがめちゃくちゃかっこよかった。

 

 

 

【アポロ劇場50周年記念コンサート】

 

外人の声の魅力はすごい。インタビューされているときの普通の声が全然違う。歌い回し、アレンジなどの豊かさがある。J・ブラウンの観客をのせるうまさ。

軽く出しているけど、すごいボリュームがあって、圧倒される。

 

スティービー・ワンダーや、ダイアナ・ロスボーイ・ジョージくらいしか、私の知っている人はいなかったが、自分の知らないヴォーカリストにも、こんなにすばらしい人たちがたくさんいるのかと驚いた。声の出し方は、お腹から体を使っていて、私もトレーニングを積んで、あのような声が出したいと思った。最後にスティービー・ワンダーが言った言葉、「この世にはまだ、飢えた人、ホームレスが存在し、憎しみ、アパルトヘイトも存在し、私たちは愛の歌を歌い続けなければいけない」が、強く心に残っている。タップダンスも見ていて楽しかった。

 

パワフルで感動!声と胸とついているのがよーく分かった。パワー、パワー、パワー!そして、よく動く、動く。これをどんどん自分のものとして吸収していこう!息を吐こう!体を開こう!

 

リトルスティービー・ワンダーがよかった。パティ・ラベルの声はものすごい。私もあれだけ歌えれば、楽しいだろうに。ニューヨークには是非行きたいので、そのときには、アポロシアターにいってみたい。

 

鳥肌が立ってしまった。声のパワーがすごいのと、体中から音楽がにじみでているという感じがして…。いつのまにかアポロシアターにいる気分になっていた。

 

やっぱ、アメリカは偉大だ。音楽を愛している。音楽のテンションと生きてるテンションが一緒の国なんだなとつくづく感じる。昔のモータウンのステージとかもやっていたけど、やっぱ「古き良き」を振り返るのって好きじゃない。音楽の刹那性を無視している気がして、飽きる。

 

あれだけ声が出れば、さぞかし気持ちいいだろう。声を出すときに、自然に体も動いていた。

 

とにかくすごかった。ただただ観客の一人になって楽しみ、感動した。声1つで人をこんなに感動させてしまう。プロとはこういうものなんだと思わされた。当たり前かもしれないけど、自分の声を自由自在に扱っていて、リズムがその人から生まれていて。リズムが生まれるといえばタップ。もう思わず涙が出てしまった。最後にみんなが音楽に合わせてタップを踏んでいるのを見ると、みんなそれぞれに違っていて、即興なんだと気づいた。

 

私にとって、タップを即興でやる、リズムを自分から考え出すということは、本当に信じられなくて、ただ感動するばかり。最初に出てきた女性が、ときどきマイクをお腹のところまで離して歌っていて、涼しげな顔、熱唱とかじゃなく見えるのに、声はパワフルなのには驚いた。彼女がサラボーンだったとは、後で知った。世界を見るということに関して、いろいろ思ったのですが、今日見たものが、そのほんの一部であることを思うと、深く考えさせられる。

 

私はこの映像を、何度、見たことだろう。ステージパフォーマンスの格好いい、溌剌としたロッド・スチュアート。驚かされた、デビー・アレンのシャウト。妙におかしかった、ニュージャージー聖歌隊の登場シーン(ニュージャージーだからか)。

サラ・ボーン。彼女の微妙なフレーズの美しさを、何か楽器の音色を聞くように、じっと耳を澄まして、心ゆくまで聞いた。恐るべきジェームス・ブラウン。彼が登場しただけで、みんな立ってしまった。強烈な個性とパワーだな。誰かは知らないけど、おばあさんの格好をした変な人の漫談。ものすごい顔をして、すごく変だ。不思議なルックスのボーイ・ジョージ。最後の最後のダイアナ・ロス

でも、その度に本当に感動したのは、スティービー・ワンダーパティ・ラベルだった。

 

パティ・ラベル。この人について、何から書き始めればいいのだろう。

初めて彼女を見たとき、彼女は「ユーアー ソー ビューティフル」を歌い、私は笑ってしまった。彼女があまりにもコミカルに見えた。日本人には、私には、こういう歌い方は馴染まないように思った。

でも、何度か繰り返してみているうちに、涙が溢れてきて止まらなくなった。涙なくては観られなくなった。そして彼女の第一声を聞いただけで、泣いてしまう私となった。

初めは、スティービー・ワンダーの感動が伝染したのかなと思った。S・ワンダーの心と情熱に打たれ、彼を観る度に泣いていた私だったから。でも何度も何度もS・ワンダーとパティ・ラベルを観て、S・ワンダーを観なくなっても、パティ・ラベルだけは繰り返し観た。彼女に飽きることはできなかった。私がどうしてこんなに感動したのか、うまく説明できるかどうが。でも私のたりない言葉でも、わかってくれる人はいるだろう。彼女の声は、なんて「すばらしく温かく」力強いんだろう。それでいて、優しさというか、哀愁のようなものも感じる。彼女を見守る人たち、ニュージャージー聖歌隊、バンドの人、他の出演者、そして観客。なんて温かく、彼女を支え、彼女に感服しきっていることか。

彼女が現れて歌うと、その場が時間も何も超越して、一つのエネルギーの固まり、すばらしさの固まりとなった。これが一人の人生を背負った女性が、声を発することによって起こった現象なのか。彼女を知ってから、人間が歌うということ、声を発するということを、前よりも深く愛するようになった。彼女を観た後では、多くのものが小細工に見えた。

S・ワンダーという人は、どのくらい努力をして(しかも楽しみながらそれをやって)、どのくらい多くの瞬間を勝ち得てきたのか。彼は人の心を裸にしてしまう。みんな、家族のように彼を見守っている。彼はとても詩人だな。言葉の選び方がすてきだ。ユーモラスで愛嬌があって、人の心を引きつけて離さない。そして私は、彼が心の中にもっているものすごく激しいものが大好きだ。でも、彼らのような一流の人でも、私と同じように、痛い目にあったり、傷ついたり、たくさん失敗したりして、それでも懲りないのだろうか。それとも、やっぱり人種が違うのかな。

この二人を観ていると、人間の可能性のすばらしさを感じる。そして二人とも、なんて自分自身を、人間を愛していることだろう。人生に情熱をもって生きていることか。不思議だな。本物の人間を一人発見するごとに、世の中が全く違って見えてしまう。世界がますますすばらしく、おもしろくなる。生きる勇気がわく。情熱的に生きたいと本当に思う。

 

 

 

マディ・ウォーターズ

 

R.STONESの名前の由来は、「Mannish Boy」のB面に収録された「R.STONES」だったのは知っていたけど、たっぷりと聴いた。ブルースハープ吹奏者が印象的。マディのVoも力強かった。フロリダやカンサスの風景、人の話し声が浮かんでくる。アーティストもオーディエンスも、あまりにも日本と土壌が違う。自分の表現形態を、どうしようかと考えさせられる。普通の会話が歌になり、独自のノリを醸し出すのは、日本の民謡に当たるだろうし、本当の姿だろう。

 

話すように歌う、ブルーズの巨匠は、たぶんかなりいい年だと思うけど、若い世代を酔わせるグループをもっている。ブルースハープが良かった。かなり腹式でやらないとうまく演奏できないのに、あれだけすごい演奏ができるのは、かなりの熟練者とみた。

 

コードを弾いてしゃべっているだけで、なぜこうもかっこいいのだろう。自分は歌になると構えてしまうので、しゃべるように歌うということができない。

 

 

【カリフォルニア・スクリーミング】

 

ライ・クーダーは歌は下手だったけど、ギターはすごかった。やっぱりジャニスはすごい。何だか知らないけど、涙が出そうになった。

 

共通しているのは、みんなある種の「うるわしさ」をもっていること。自分にとって好きな音楽でなくても、歌っている人のうるわしさでいいなと思ってしまう。自分の音楽をみんなに分かってもらうためには、ヴォーカルの自分が、もっとそういううるわしさをもっていないといけないと感じた。

 

ジャニス・ジョプリンのパワーはすごい。リンダ・ロンシュタットが若くてかわいかった。サンタナの顔がすごかった。でもかっこよくて、一番気に入った。

 

エストコーストロックといっても、私はイーグルスぐらいしかピンとこなかった。しかし観てみると、その当時の雰囲気がすごく伝わってきた。ステッピン・ウルフもウエストコーストとは知らなかった。でもジャニス・ジョプリンの声を聞いたときは、鳥肌がたってしまった。

 

 

SEX PISTOLS Rock'n Roll Swindle】

 

自分のスタイルを作るということを学んだ。行くとこまで行ってしまったものの説得力がある。歌自体にも、音程がしかりあるわけではないけれど、言葉の一つ一つは、彼の体と一体なものだった。シャウトすることの基本を来たような気がした。タイトル自体がSwindleだし内容も「偽りのものをいかに本物にするか」みたいな、人をあおり立て、そうだと思いこませたがための成功みたいな感じで、「本物」というのをキーワードにして毎日がんばっている者としては、心にもやもやした、すっきり割り切れないものが残って消えない。でも、彼らのいた、テンションの高い世界に憧れる。

 

内容がいまいち把握できなかったが、パンクという音楽のジャンルを商品化しているというか、非難しているように感じた。歌や詞の内容は別として、ファッションなど、自分を表現しているという面でポリシーを貫いていてすごいと思うし、めちゃくちゃで社会に反するような歌を歌っていて、あれだけ人気があったのだから、そういうことを考えれば、もっと評価されても良いのではないかと思った。

 

 

【フレディー・マーキュリー追悼コンサート】

 

デビット・ボウイとのデュエット曲はよかった。

 

 

TAKE6

 

すてきなハーモニーで、幸せな気分になる。後は彼らの姿勢というか、生き方、考え方には、今の私は反省させられてしまった。やっぱりTAKE6は最高!

 

 

【SWING TINE】

 

昔のあの手の音楽は、CDで聞いているだけだと、音質が悪いせいで、つまんない感じに聞こえてしまうことがある。そこに映像があると、それだけでずいぶんダイナミックになるものだ。「見せる」ということは、印象を強める大きな手段なんだ。サラ・ボーンをみた。見事に声をコントロールしているなと感心。でも、どうなんだろう、彼女は声よりも、雰囲気が先に出ていたかな。観ていて、聞いていて、「ああこの曲は、幸せな曲だな」と思えて、こっちも楽しくなれる。曲を自分のものにしているんだなあ。

 

 

【サ・プリンス・トラスト・ロックコンサートVOL.2】

 

名前の分からないアーティストがいたけれど、「あれ、あんな人が出ている」というような人が、バックメンバーで、何人かいて気がついた。2番目に歌った若い男性は、結構アイドルっぽい(トム・クルーズ似)容姿をしているので、きっと知っていても聞くことのなかったタイプの人だと思うけど、向こうでは、アイドルといっても、日本とは大違いで、歌唱力がなければ間違っても歌手とは呼んでもらえないんだと強く感じた。

 

 

【これがオペラだ】

 

たくさんのオペラをまとめたLDだった。実はこれを観るのは2度目だったので、ストーリーの語られる字幕をほとんど見ずに、聞いてみた。歌い手の表情は、役者のように感情を表すこともあったが、歌の方は、演じるというようなかんだ感じはなかった。が、ちゃんと、悲しそうなシーンでは、悲しさが伝わるように歌われる。歌の感情表現のカギは何だろう。音色をコントロールするということだろうか。

 

 

ケイト・ブッシュ

 

曲ごとに彼女は全く別人のようで、表情も一瞬ごとに変わっていく。本当にあの表情の豊かさには、目の開かれた思いだ。私は日頃、あまり表情が豊かではないので、その分特に気をつけていたのだが、彼女を観て、感情だけでも表現するということは、こういうことなんだと思わされ、自分は本当に甘かったと思った。またそれとともに、表情や肉体表現は、仮にそれらがなくても、声だけで十分に表現できるからこそ、相乗効果となって生かされるのだと気づかされた。

今の私は声で表現できない分、無意識に表情に逃げてたり、表情でごまかそうとしているのではないかと思う。でもいつか、私のうちから自然に歌(声)も表情も肉体表現も1つのものとなって溢れてくることを信じて、想像して…そして、やっぱり息吐きなんですよね。

 

彼女は無機質で、人間味を感じさせない。まるで人形のようにさえ見えるのに、なぜかどんどん引き込まれてしまう、魅力的な人だ。どうすれば自分が魅力的に見えるか、表現の仕方を心得ている人のよい例ではないかと思う。他の人が彼女と同じことをしたら、少しグロテスクで、ともすると不快感を与えそうなのに、彼女がやるととてもさわやかで、両極端にも思える2つの表現を、見事に融合している。「リラクゼーションミュージック」というものがあるが、まさにそれに近い感覚が残る映像だった。歌声そのものより、自分をよく理解することが、いかに大切かということを教えられた。

 

コケティッシュな小悪魔といえば、私はありがちな女性像(まあ、何パターンかはストックしているが)を想像し、古今東西、よくもまあ、すたれることもなく、注目を浴びるもんだなあと感心するのが常だった。しかし彼女の手にかかれば、こんなにも狂気で、危なく、不思議な「女」というコケティッシュな妖精が生まれ、体一つで表現してしまう彼女に、羨望と嫉妬の念がふつふつと湧いてきてしまった。もちろん、私は彼女のように天才ではないし、容姿端麗でもないので、こんなことを書くのは生意気であるのを承知の上で書かせてもらうが、私のやりたいことの半分以上をすでに世の中に放出されてしまったようで、すごく悔しい(初期の彼女は、私の基本コンセプトと合致していたので、いい勉強にはなったけど…)

 

子宮で考えているというコメントも、日本人が発言すれば、淫靡な印象が持たれるのに、彼女だと、全宇宙を手繰りよせる女神の言葉のようで、妙に納得してしまうし、日本人が「女」を表現すると湿っぽくなったり、Play Boyに出てきそうなライオン姉ちゃん的なセクシーになりがち(?!)だが、彼女の目から見た「女」は、男の放った種を受け、生命を形作る生まれながらのアーティストであるのではないだろうか。そして一般的にいわれる「女」という概念は、実は男性の偶像であり、欲望であるのではないかと非常に考えさせられた。

 

有名な人なのに、名前しか知らなくて、何がそんなにすごいんだろうと思っていた。最近出したアルバムを聞いたときも、あんまりピンとこなかった。初めてビデオで見て、自分で考えていたイメージとあまり違うので、ビックリしてしまった。この人はあまりライブをやらない人だということだが、このような映像の方が伝えやすいからだろうか。パントマイムをやってたそうだが、その表情の細かいところなどは、ステージでは再現しにくいだろう。

 

1つ1つストーリー性のある映像で、怖いくらいだった。表情のアップだけでこっちにぐーっと伝えてくるのは、全くすごい。別に歌じゃなくったっていいんだという感じを受ける。体を全部使って表して、そのために有効だから歌を歌っているだけというふうに。声も、ちょっと変わって独特。CDだけ聞いたときは、何だこれはと思ったのに、ビジュアルと並行してみると、いやに生々しくて、イメージを盛り上げていた。朗々とした声、迫力のある声でなくても、声の中にその人が宿っていれば、それはこちらに伝わってくる。心底怒るときに、「顔色が変わる」というけれど、そういう気持ちを表現してみろといわれても、できるものではない。簡単には。表現として、怒る、泣くというものから、迷い、不安のような複雑なものまで、この人は完全に演じていた。それがいつどこでも、すっと出せること。やはり技術という裏付けがなくてはならないし、曲に対する深い理解がいるのだろう。

 

表面的な捉え方だけでは、芸術的表現にならないことがよくわかる。この不気味なくらいの映像が、すべてこの人の自己表現であると思うと、精神的な深みと、感覚の異常な鋭さを感じた小市民根性で生きていたら、感じることのできないもの…庭の花の隣へ行ってジーッと座っていたら、花の言葉が聞けるんじゃないかというくらいの、宇宙的な感性があるんじゃないかと思った。こういう人が大きく受けているイギリスは、聞き手のレベルも高いんだなあと思う。昔、来日したとき、評判が悪かったそうだが、ついていけなかったんじゃないだろうか。

マドンナみたいに、もろに挑戦的な感じはしないけど(だからあんまりたたかれないんだろう)、本当はやはり挑戦的である。どういうことを歌っているのか、調べてみたいと思う。

 

 

 

[L7]

 

とにかくかっこいい姉ちゃん達だった。ファンキーでワイルドでおせじにも女らしいなんて言えない人たちだけど、あんなに男のファンがいるんだから、そんなのは関係ないんだろう。感想としては、まずドラムがタイト。しっかり支えていて、ドラムを聞いているだけでも妙に気持ちがいい。私が好きなタイプの音だ。重すぎないけど、タイトで適度に派手で。フロント3人はとっても元気で、余裕の笑みを浮かべて楽器を弾きながら歌って(というか、叫んで)いるし、踊ってる。

シンプルな曲は、かえってライブを楽しませてくれる。シンプルで、ヘヴィーだから、自然に頭を振って、ジャンプしたくなる感じかな。

L7はただ曲を気いるだけじゃ、だんだん飽きてくる。ライブを通じて、初めてその曲の良さが伝わってくる。とにかく楽しませてくれるんだ。歌なんてちっともうまくないし、何か怒鳴っているだけみたいなんだけど、不思議なことにきちんと聞こえてくる。前座の日本人のバンドなんかは、何を言っているのかよく分からなかった。言葉も不明瞭だし、歌のリズム感も悪かったからだと思う。L7のヴォーカルは、フロントの3人がそれぞれ曲によってとるんだけれど、みんな楽しんで歌ってる。そこがまたいい。一人一人の技量なんて、おそらくたかがしれてると思う。L7はバンドとして一つになって、ライブでパワーが炸裂する。そのパワーの中に、見に来た客が入れるから、ライブがさらに盛り上がるんだ。

やっぱり、自分自身の技量を自分がきちんと知っており、自分ができることの中で、一つの世界を創っていこうとしないと、人を楽しませるものなんか創れるはずがない。理想をもつのも大切だけど、己の今の状況を知っていることも、自分には必要なんだと痛感した。

ともかくファンキーな姉ちゃん達のライブは、たくさんのエネルギーに満ちていた。客の半数以上が男だったから、予想以上の盛り上がりだった。いつか自分も、あんな大きなエネルギーを放出させられるきっかけになりたいものだ。

 

 

[エアロスミス]

 

名古屋市総合体育館レインボーホールにて。私の席は何と4階席30列目で、ドラムセットは完全に巨大なスピーカーに隠されてしまうような場所だった。が、ライブが始まってしまえば、そんな悪条件も吹っ飛ばしてしまうようなものすごさを、彼らは見せつけてくれた。

彼らのデビュー当時のライブは、ビデオでしか見たことがないが、今ほど強烈な印象はない。年を重ねるにつれ、演奏力は安定していくのに、メンバーの動きの切れの良さは、見る度にむしろどんどん鋭くなっていくような気がする。特にスティーブン・タイラー。彼のヴォーカルは年齢とともに、ますます渋味と艶と表現力が増している。そして何よりも、あのしなやかな体を生かして、ステージを所狭しと動きまわるパフォーマンスには、本当に目が吸い付けられてしまった。瞬きをするのがもったいないと思ったくらいだ。

それにしても20年以上も現役で活動を続け(一時、空中分解してしまったらしいが。だったら復活してここまで盛り返すなんて、なおさらすさまじい)、今なお、時代の最前線を走り続け、新しいファンを獲得し続けているなんて、何というバカ力を持ったバンドであることか。

人を引きつけるパワーをもったアーティストというのは、体からまるで違う。自分を磨く努力を怠ったら、人間は退化していくばかりである。エアロスミスは本当に心の底から私を楽しませてくれただけでなく、次なる課題と活力とを与えてくれた。彼らに許された時間を、いつの日か私も生み出せるようになりたいと思う。

 

 

[マルセル・マルソー]

 

音のない世界でも、音楽を表現できることを知って、驚きと感動だった。芸がすごいのは「神様」なので、当然のことなのでしょうが…でも、何もない舞台でマルソーが動くと、イスやテーブル、波、聴衆など、いろんなものが本当に動く。…ホントです。

若さとは精神のことを言うのだ、と何かで読んだけど、どう見てもこの人が70歳すぎたじいさんには見えなかった。体で表現するものではあるが、これは体力の問題ではない。剣道では、80歳くらいの年寄りであっても、段が上なら、体力では圧倒的にかなわないはずの頑健な人を、子供のようにあしらってしまうという話だ。そういうことと似ているのではないだろうか。年とって、磨きがかかっていくから芸なのであって、そうじゃなかったら「道」や「芸」じゃない。

宮本武蔵が、「一道万芸に通ず」と言ったが、本当だったんだと圧倒されてばかりいた。私にはとうてい追いつきようもないもの、到達した人にしか分からない精神的な境地のようなものが溢れ出ていた。そのような部分をのぞいては、上達は見込めない。どんなに上に行っても、さらにその上があるのだろう。そこまで登っていくには、わけのわからない基本の反復がさけられない。すごい剣士だって、素振りを気が変になるまで繰り返しただろうし、マルソーだって、鏡の前で、一見つまらない基本のポーズをとり続けたり、体を柔らかくすることばかりやっていたんだろう。時間をかけて繰り返した忍耐の上にしかのらないものというのが、きっとあるんだと思った。

前から8列目という近さで、偉大な芸術家の姿を見て、演技も脚本もすばらしかったし、ゲラゲラ笑わされたり、シンとさせられたりした。だけど一番感じたのは、マルソーが半世紀以上もかけて築いてきた、精神のようなものだった。うまく私にはまだ全然わからない何か。「できた!」と思っては壁にぶつかってしまい、後退していくばかりのようだけど、繰り返す。ストレッチや息吐き、「あおい」や「ラララ」。その中にあるものが、こんなに早くわかるわけがないのだった。だから、私は繰り返す。ひたすらやるしかない。

マルソーが舞台で食事する。そうすると、今食べたのは肉で、今のはレタスだというのまで見えるのがすごかった。爪の先まで鍛えられた、パントマイマーの体。計算して、というものじゃなかった。「ハイ」と5分ももたず、へばっているような修行中の人間が、汗もかかずに1曲歌っているなんてと思った。ヴォーカリストの体もない、まだ何もないのだったら、そんな風に流して歌ってしまってどうするんだと思った。目には見えないこういうことが、取り返しのつかない差になっていく気がした。私が日々やっていることなんか数のうちに入らない。だけど耐えて、積み重ねていきたい。マルソーほどの人が、今も謙虚に努力していることを感じた。できたからもういいやって思ってしまったら、そこで終わってしまう。本物とはそんな薄っぺらなものじゃないっていうことを教えられた。

カーテンコールの時もずっと、マルソーは声を出さなかった。言いたいことは、すべて体で表現していた。私はそれを歌で表現しなければいけないんだ。

パンフレットを見たら、ものすごい勢いで、世界中駆けめぐって活動している人であった。孤独な戦い。もちろん、すごく苦労もしている。私はこんなところで、ちょっとのことで、できたのできないのといって、一喜一憂している場合じゃない。

沈黙の人は、沈黙の中で、歌のことを教えてくれた。ああホントに行ってよかったー!これが最後の来日かもしれないと言われているけど、わざわざ飛行機に乗ってでも、もう一度見たい。