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モノトーク独白〜イラン人の憂鬱 イラン人に似ている私は、よく外国人に話しかけられる。その日も電車の中で、二十代後半の白人男性に、「練馬の駅はここから何番目に降りたらよいのか。」と、突然、英語で聞かれた。話しているうちに仲よくなり、次の日、彼の家へ遊びに行くことになった。
ビールと辞書を持って彼の家を訪ねるとそこはウィークリーマンションという感じの建物であった。部屋に入り彼から話を聞いてみると、彼は、マサチューセッツ工科大学の学生であり、日本の建築会社での研修のために、二日前に来日したということらしい。
辞書を片手に日本の感想とか家族のこと、音楽の趣味などを片言の英語で話していると、彼は次第にだるそうな顔になっててきた。どうやら、勉強と日本での人づきあいで疲れているらしい。私は、ごくあたりまえの気持ちで、「マッサージをしてあげよう。」と、優しく言って、横になった彼の背中や腰、足とかを丹念に揉みほぐしてやった。彼は、恍惚の表情を浮かべ、私に感謝の意を述べると、「今度は君の番だよ。」と言って、私をベッドに横たえた。
彼は、うつぶせになった私の上にまたがって、丁寧に筋肉に沿って指先を這わせていった。そのうちに、ジーンズを穿いていると揉みにくいとか、Tシャツを着ていると筋肉の動きが分かりづらいとか言われて、ついに、私はトランクス一枚の姿にされてしまった。
それから先は、マッサージといっても筋肉をほぐすのではなく、皮膚の上を優しく愛撫するという手の動きに変化していった。特に、尻を重点的に「マッサージ」された。私は身の危険を感じ、それとなく話題をすり替えていき、さりげなく服を着て、2、30分会話をした後、マンションを後にした。
年月の経った今では、彼がホモセクシャルであったとしても、そうでなかったとしても、大した問題ではなかったと思うようになってきた。男が女を愛するにせよ、男が男を愛するにせよ、人が人を愛することには変わりはないと思うからである。帰り際の、彼の眼差しがとても寂しそうだったのを、今になって思い出す。
自分と歌とここに来たわけ 私はずっと、自分の歌は音痴で全然ダメだと思っていて、嫌いでした。音楽は好きだったのですが、歌うよりはアコギでラグタイムの曲や“はっぴぃえんど”周辺の人たちの曲をコピーしては弾く方が楽しかったのです(歌はそんなに重視してなかったのです。弾き語りをしていても)。
大学に入ってから軽音部に入っても、最初はギターをやっていました。しかし、大学二年の夏に父が亡くなり私の精神面に変化がありました。何に対しても感動することがなくなった…というより、わからなくなってしまいました。感動って何だろう?漠然とした大きな膜が私の周りに張ってしまいました。何を見ても聞いても淡々と目の前を通り過ぎていくだけで私の心は何物にも影響を受けないようでした。今まで二十何年か生きていた経験を駆使して日常に対応していましたが心はありませんでした。
ある日、私は姉と義兄(要するに姉のダンナさんです)に誘われてライブハウスに行きました。そこで私が見たものは、私の心を動かしました。固くこわばったものをゆすって何かがブレイク・アウトしたようでした。そのライブでゲストでコーラスをとっていた金子マリさんの歌に私は魅了されたのでした。
「Woo~Ah~」などと声を出しているだけなのに何と全身全霊の力をふりしぼって歌うのだろう。何と力強くてあたたかさを感じさせる声なんだろう。歌をうたうってこんなに大変なことだったの?…大変なものを見てしまった。私の視線は脇役であるはずの彼女に釘づけになってしまったのでした。
それから私も猛烈に歌をうたいたくなり、自分がヴォーカルのバンドを組みました。自分の中に溜っているエネルギーを爆発させたい、それだけでした。そんなことをしているうちに、私の周りにあった無感動な膜は気がつくと消えていました。
私は歌をうたうとき、その世界にのめり込めるだけ入っていってしまいます。そのとき中心にあるのは情念・感覚・感情。メロディや歌詞はその後についてくるような感じでした。ことなどは、ただの記号でしかないものですから、裏にそういうものがないと、歌声などはただお音声波にしかならないと思っていました(いまでもそうです)。
でも悲しいことに私にはその気持ちを表現するだけのできのよいアウトプットがありませんでした。身体の中に“うたいたい気持ち”がガスのようにどんどん溜ってきて、うたうことでガス抜きをしているようでした。でも、いつまでたっても、それがうまくできない。気持ちばかりが先走りをしてしまって自分にがっかりするばかりでした。他人にほめられたいという気持ちよりも、自分自身に納得させたかったのです。自分が自分に一番厳しい審査員だと思っていて、何とかこいつに認めさせたかった。気持ちよく、心と直結したのどで好きなようにうたいたかった。
結局、一人でそれをやり遂げるのは不可能だと思い、人に付いて勉強してみようと思いました。そうなるまで約二年かかりましたが、必要な時間だったように思います。
ちょっと間のびした文でしたが、以上が私がここに来ている理由です。しばらくたちますが、まだまだ私の情熱は冷めません。一生続くのではないでしょうか。もしも一人ぼっちになってしまったとしても、歌さえあれば生きていける、というレベルになれれば私のもくろみは成功だと思います。
今の歌から抜け出すために 私は就職してからパワーリフティングというスポーツをやっていました。学生のころは、柔道をやっていて柔道にいやけがさしていた私は、それでも格闘技がやりたくて、会社で基礎体カトレーニングを一人でやっていました。そんなある日、一人の男の人が、会社にパワーリフティングのクラブがあるから、体力づくりの一貫でいいから入らないかと誘われ、私はそこでトレーニングすることになりました。私は格闘技もやりたいと思いながら、古傷が痛む、また大怪我をしたり、高校のころいやけがさしたのを思うとふんぎりがつかず、次第にパワーリフティングにのめり込んでいきました。会社のクラブは人が少なく、ほとんど一人でトレーニングしていました。先輩方は優しい人たちで、五年間、一度も練習に来いと言われたこともありませんでした。強くなりたい一心でやっていたトレーニングも、いつのまにかジュニアではトップの座を狙える力がついていました。しかし、
私にはもう一つ夢がありました。それがアーティストです。就職してからですが、プロとしてやっていくことを目指すようになりました。この二足のワラジをはくことは時間的にも苦しく感じました。そして昨年、最後の全日本ジュニア(二十三才まで)で負けたら、パワーリフティングをやめようと背水の陣で試合に臨みました。そして最後の最後に敗北しました。日本一になる夢も世界大会の夢も、もう二度とないのです。皆に私のことを認めてもらうチャンスでもありました。マイナーなスポーツのため、私のガンバリは認めてくれる人がいません。終わってみて、これほどつらいものかと感じました。生まれてこのかた、優勝などしたことのない私、そして一生、優勝のチャンスはないのです。もう一度、私は負け犬のままなのか、一生くやみ続けていくような気がします。
ここに通うのも一年位、悩みました。ただでさえ忙しくて時間が欲しいくらいなのに、往復四時間弱かける価値があるのか?でも今のレベルをぬけ出したくて、人を感動させられるヴォーカリストになりたくて、覚悟を決めました。
ただ今一つ、大きな迷いが出ています。格闘技をやりたいのです。それも本気で。鍛えてきた体がだらしなくなるのがいやなのです。もっと体も心も鍛えて強くなりたいのです。そんなことはムリなのに、私は心の中で言い聞かせるのですが、「二兎追うもの一兎も得ず」と。
能管の音色をテレビできいたら、ぞくっとさせられるものがあった。もともと、神様に捧げられた音で、この笛の音の多くは、人間の耳には聞き取れない高音だそうだが、神秘的で、日本にはこんな音もあるのかと興味をそそられた。能を聴きに行きたいと思った。
会報で、ピアフのカバー曲のCDを聞いたときのことを書いてあるのを見て、大変共感した。私は、自分の歌が、中途半端で作為的な感じがする。何が足りないのか分かっているけれど、うまく言えなかった。それがばしっと書いてあった。
リラックスは大切。
先日、ポンキッキで「Jesus Is Just All Right」がBGMで流れていた。ラジオからはEdwin Hawkins Singersの「Oh Happy Day」が。ああ、神様は、早く私に歌詞と構成を覚えろといっているのですね。
最近の坂本龍一のインタビューを読んで、流行を表面は取り入れているようで、とても奥深いものを自分はしっかりともっていて、曲を創っている人の姿は、やはりわかる人にはわかるというところに帰結した。
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ヴォーカリストがこんなに奥深く、様々な人、ものと戦っていかなければならないものだと入る前に予測できたでしょうか。続けるかやめるかの間を行ったり来たりしながら、もう自分は戻れないかもしれないという不安の中で、やっぱり、今ここであきらめたら自分に何が残るだろう、いや一生何も残らず、つかみ取れないまま、年老いていくのかと、半ばノイローゼになりながら、それでもやっていきたいと言えるのなら、つかむものと捨てるものが出てきてしまうという事実が、楽しさや穏やかさ、たおやかさなどから、私をさらに遠くへと追いやってしまう。
「もうだめかもしれない」には小さい頃から慣れっこで、故に、楽観的に考えられるはずだったのに、放出することの責任、放出することによって変わって行くであろう様々なものに、これほどまで、自分が敏感になってしまうとは思わなかった。これから先、自分が歌を続けていこうとするのなら、放出することにいちいちこだわっていられないというのに。
今日の「もうだめかもしれない」は根深いもので、自分の27年間の人生が切り刻まれていく恐怖さえ感じてしまい自分ともう一人の自分がフォローし合うこともなく、ダイレクトに自分にきた。それを受けとめる自分も存在しないのは、やはり社会の仕組みの中で、機械的な作業を続けていたせいだろうか。
憎しみや怒り、悲しみは、受け流すことが善行であると信じていた私が、こんな告白をするのは、ただの偽善者に成り下がったということだろうか。
モノトーク、その他、嵐のような行事の中、行動力と意識が分裂し、自分が崩れてしまいそうだった。他の人にも迷惑をかけてしまった。もう人前では歌えない、自分を信じられない人間に、人の心が動かせるものか。強迫観念の中、それを乗り越えられない自分が悔しかった。近年にない暑い夏、ただひたすら考えて、自分の将来その他のことも考えて、このまま続けても幸せになれないと答えを出しても、でも切り捨てられないことが恨めしくもあり、いとおしくもある。そんなに大げさなことではない。そう考えれば気も楽になる。時間はかかるかもしれない。でも歌い続ければ、歌で結果を出せば、今私が悩んでいたことなんて、笑い話になる。そんな日が来ることを、私は信じることにする。
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「チャンスの神様」チャンスの神様には、前髪しかない。つかまえようと思ったら目の前にいるとき、その前髪をつかまえなければ。のんびりしてると通り過ぎてしまう。ちょっといい話だと思ったので、書いてみました。
私は小学校の頃、鉄棒が得意で、「オリンピック選手?」ときかれるくらい、難しい技もマスターしていたが、それはすべて、すごいと思う人の技の見よう見まねで、自分で毎日鉄棒にぶら下がりながら、失敗しながら、自分の体重(重心)の位置などを感覚的に計算して、マスターしていった。今でいう、トレーニングみたいなことも、本能的に行っていた。あの感覚が今、必要だなと、ふと思いだした。
このあいだ豊島園に行ったら、アメリカから来たホラーショーのステージをやっていた。1回目はミュージカルコメディー、2回目はちょっとこわいモンスターのショーで、子どもも大人も楽しめた。歌を本当に歌っていた人もいて、結構うまかった。それよりも、ダンスや芝居的な「観せる」要素に、「本物は違う」と感じた。動き、表情など、見習うべきところはたくさんある。何より楽しくてこわいので、時間とお金のある人はどうぞ。すげー美人のお化けもいる。
劇団本公演が終わった。BVを少しでも役立てようと思ったが、身についていないものを使おうとするとケガをする。早くBVを使いこなせる体質に変え、声などに無駄な神経を使わず、芝居そのものに集中できる土台を作るためがんばろう。
S&Rマガジン見ました。私はプログレは大好きです。
高校時代の友人にあった。彼女は中、高とも学校の聖歌隊のソプラノをやっており、高2の時には、ソロをもらえるほど声の出る子だった。その子がいうには、全盛期の頃、歌うとき、体がタルになった感じで歌っていて、空気の流れが自分でよくわかったそうだ。彼女はその声と体を5年かけて作り上げた。焦らず、じっくりやっていけば、何とかなる!
最近、ヴォーカルと他の楽器を同じに考える見方は間違っているように思えてきた。身体が楽器、歌声を音色に当てはめても、その人の心、あるいは人となりはどう扱えばいいのだろう。もちろんどんな楽器を弾くときも、心を込めて引くのだろうが、ヴォーカルほど(特にいわゆるポピュラーヴォーカル)その人の感情、思想、過去といったものまで、楽器の音色は反映しているだろうか。ただ単に自分に聞く耳がないだけなのだろうか。
僕は、やはり歌と、他の器楽曲には、一線を画すべきだと思う。歌声と楽器の音色を同一に論ずるのはおかしいと思う。そしてこのやっかいなものを、自分なりに突き詰めていこうと思う。大きな喜びと大きな苦しみ、その両方を味わいながら、結局そのことで、僕自身が魅力的になっていけると思う。一番大切なのはそこだ。僕自身が人として充実していくことが、最高に価値のあることなんだ。歌なんてのは、ほんの付加価値にすぎない。そう言えるようなところまで、いきたいものだ。
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出れるものは全部出るという目標で取り組んだ。急にいっぱい詰め込んだので、今日帰ってから、自分でもう一度取り組んで、学んだことを自分のものにしていこうと思う。少しずつ、色々な疑問や葛藤が生まれ始めている。練習と反省と勉強で、それらを乗り越えていこう。
「君は感性も個性もイマジネーションも、すべてこの仕事に向いていない。改善できないなら辞めてくれ」と言われ、無職に。オモチャ屋の店員を4年やってきましたが、こんなに厳しい資格がないとできない職業だとは夢にも思いませんでした。あたしが気に入らないならそーいえばいいじゃん、このタヌキ店長め。
今日公園を散歩していたら、外人の家族がいて、その会話している声のかっこよさに驚いた。女の人の声が低い。自分の母親の声と比べてみたら、同じ立場の人でも、生き方が違うとしみじみ感じた。いつもアンテナを張っておけば、学ぶところはいっぱいある。
会社に、ほとんど毎日佐川急便の兄ちゃんが荷物を取りに来てくれる。このくそ暑い中、汗でどろどろになりながら、いつも元気よく挨拶して入ってくる。このあたりの担当らしく、外でもときどき見かけるけれど、いつも走っている。自分の仕事を真剣にやるのが当たり前だけど···。いつも「本当にごくろうさまです」と頭を下げたくなるのと同時に、昨日は私、トレーニングのとき、この人くらい汗を流してやっただろうかって、確認してしまう。
ある作家が、小説を読む人は、二次元で書かれたものを読むのだから、それを書く人は同じ次元ではなく、もっと高い次元で、鳥が空から地上を眺めるように、書かなければダメだということを書いていた。最近、参考になっている言葉です。
雑感 今回、初めて自分の曲を楽譜にしてみて、いろいろ気がついた。3曲並べてみると、やたらと符割が似ている。まったく同じコード進行があちこちにある。日本語を音楽的に処理する上で、かなり無理な部分が少なからずある。歌うたびにフレーズが変わる(変えたがる?!)。相変わらず、高音域へ音域を欲ばる。その割には、全体の音程差はせまく、メロディの起伏が小さいといった点があげられよう。そして、それらを踏まえて同時進行で吹き込んだテープを聞くと、よく言えば「氷見節」とでもいうべき方向性が見えつつあり、悪く言えば、どっぷりとワンパターンにはまりこんでいる。ことばを優先する傾向が強く、メロディが死んで音楽が断ち切れてしまっている。常に操作が加わっていてくどい、聴きづらい、出ない音を狙って無理していのがミエミエ。楽曲自体のウネリではなしに自分の思い入れみたいなものでフレーズを動かしていて、歌うのも聞くのも疲れてしまう、といった点を指摘することができよう。
結局のところ、ヴォーカリストとしてもソングライターとしても、未熟で貧弱であるといえる。それでも、まがりなりにも、人を魅きつけているのは、単なる勢い、ハッタリみたいなものが多少、功を奏しているからなのだろう。実際、楽曲そのもの、声そのものをほめてくれる人もいないわけではないが、歌っているときの私の様子、表情、雰囲気みたいなものに魅力を感じてくれる人が多い。「ヴォーカルは人をみられるパートである」という見地に立てば、喜ばしい反応といえなくもないが、そんな虚勢に頼っていても不確実だし不安だし、一音楽家(ちょっとおおげさ?)として、しかるべき評価をうけているとはいえない。そして、もちろん譜面やテープでは、そんな虚勢をつたえることは不可能である。ゆるぎない、確実で安心できるペースをつくっていかなければならない。そのために、もっと仕入れをしなければならないし、もっと育てなければならないし、もっと外へさらさなければならない。しっかりしたペースを築いた上でかましてこそ、ハッタリも本当の意味で生きてくると思う。
実際、音楽に限らず表現において一番、人にアピールするのは表現者の勢い、熱意みたいなものなのではないだろうかもちろん、確かな技術と高いセンスで支えられた上での話だが)。人を動かすのはやはり、人であると思う。曲のノリ、声を通じて、聞く者に訴えかけてくるその人の色、味、匂い温度、…何といっていいかよくわからないが、そういう「得体の知れないもの」が、案外、一番、重要ではないかと思う。その媒体として我々は歌を選んだということになると思う。人がことばを生文字を考え、紙をつくり、絵を描き、写真を撮り、録音、録画するようになったのは、そんな「得体の知れないもの」をなんとかしてつかまえたい、人に伝えたい、記録に残したい、後世に伝えたいという願望からだと思う。記譜や録音することによって、自分の音楽、あるいは自分が感動した音楽を残したい、伝えたい、ひいては、そういう自分あるいは演奏家がいる、いたんだということを残したいといったところが、そもそも始まりだったのだと思う。しかし、そういう「得体の知れないもの」は、今日の高度に発達した録音、録画技術をもってしても、捉えることはできない。やはり生で聴きに出かけなければ手に入らない。およそすべての芸術は、そんな「得体の知れない「もの」をつかまえたいという人のもつ願いの表われなのではないだろうか(どっかで聞いたことあるような話になってきたなあ)。使っている媒体が違うだけで根っこはみんな同じだと思う。
ただし、ハッタリは所詮、嘘だ。できないくせにできるようにしているだけだ。「得体の知れないもの」を伝えるふりをしているだけだ。自分の音楽はまだまだからっぽに近い。容れ物さえまだまだ怪しい。あらゆる意味における自分のなかの真実に根ざした上での勢い、熱意を曲や声にのせて人に届けられるようになりたい。確かに絶対的な真実なんてものはないかもしれない。ただ、そういう方向性だけは常にもっておく必要があると思う。似たようなことを何度となく言ってきた気がする。そして、その割に何の進歩もしていないのもまた事実である。いっそこのまま、ハッタリシンガーで行けるところまでいってみようかと思わなくもない。「一生、嘘をつき通せば、それもまた真実だ」なんて暴言を吐きながら…。きっといつか破綻するだろう。きっと心よりも先に身体が耐えられなくなるだろう。そこまでいかなければ、目覚められない程、ミエっぱりな人間なのかもしれない。意識を変えることなど、一瞬でできるはずなのに、何も変わっていない。でも、それが人というものなのかもしれない。虚と実の間を行ったり来たりして、どちらの核心もつかまえられないで揺れているだけ。歌もまたそうなのだろうか。だんだんわからなくなってきた。
「僕」と「私」の間には···常々思っているのですが、どうして日本語には、「ぼく」と「わたし」の中間くらいの言葉がないのでしょうか。「わたし」にはちょっとかしこまった、他人行儀な尊大な感じがあるような気がするのです。といって「ぼく」だと、なんだか子どもみたいで、青白い文学青年のような「線の細い」印象があるのです。考え過ぎでしょうか。まあ、評論家や学者先生、作家がTVのインタビューで、よく「ぼく」というのは、何だかかっこよく聞こえるのですが。
皆さんは自分のことを何と呼んでいますか。「ぼく」「わたし」「おれ」…。意外と用語が少ないと思いませんか。外国語に比べれば多いのかもしれませんが。目の前の人を何と呼びますか。「あなた」「おまえ」「きみ」くらいでしょうか。
歌詞を自分で作る人、または外国の歌を日本語に訳して歌う人は、そこら辺のことをどう処理しているのでしょうか。歌とまでいわずとも、詩を書いている人はどうなのでしょう。その人の生活環境、人生観、恋愛観が如実に現れてくる問題なのかもしれません。
そういえば、昔の文学者が外国の詩を翻訳するときは、どうやって人称を決めたのでしょうか。やはり役者のセンスなのでしょうか。私の好きな現代フランスの詩人、イブ・ボヌフォアの日本で出ている本は、同じ詩でも役者が違えば、違う人称・文体になります。「私には思える 今宵 星空がひろがりながら私たちに近づいてくると」が、「…と、僕には思える」となります。かのポードレールなんか、文語調あり、口語調あり、人と時代によって翻訳が違います。
人称は、歌っている人、または歌の主人公の性別・人物像をあぶりだします。「ぼく」「おれ」を使ってしまうと、男歌に決定です。(例外・松本ちえこの「ぼく」)。女が「君」と男に呼びかけるのは、今では俵万智の短歌ぐらいでしょうから、「君」「おまえ」という言葉が出てくると、まず男歌と思われます。でも「わたし」が主人公だと、断定はできなくなります。場合によっては、男が自分を「女」の立場で歌っているとも思われます。相手が「君」と出てくると、男歌とわかるのですが。はたして性別を決定することが大事なことなのかは何とも言えませんが、日本語は男言葉と女言葉の間にかなりの違いがあります。外国では、特にヨーロッパの言葉には、名詞にも性別があって形容詞や動詞の活用を見れば、男歌か女歌かが分かります。
それにしても、昔から疑問に思っていたのですが、日本ではどうして、男が女の立場で歌うことが結構あるのでしょうか。かぐや姫、さだまさし、演歌でも。その逆は少ないんですね。むくつけき男に、切々と女心を歌われても、みんな感動してしまえるんです。どうしてなんでしょう。これは、かなりいろいろな学説が出てきそうです。あまり外国の歌では、聞いたことがありません。外国では、わざわざ代名詞を変えたり(彼を彼女にしたり)、人称や形容詞を変えて、異性の立場では歌わないようにしているようですが。一つには、日本には歌舞伎の伝統があって、男が女になりきることに違和感がないからだ、という説があります。どうなんでしょうか。
一つの方法として、一人称を使わない、というのがあります。もともと、日本語が一人称をあまり使わないようにすると締まってくるといわれ、一人称をよく使うのは外国語の影響をよく受けた人、もしくは自己中心性の強い人なのだという説があります。なるほどと思わされる意見です。源氏物語なんかほとんど主語がなく、敬語の使い方で誰がしゃべったのか分かるようになっています。余談ですが、「ペレアスとメリザンド」というフランスの戯曲の最近の翻訳等で定評のある仏文学者の杉本秀太郎氏が、92年発表したフロマンタンの美術評論「昔の巨匠たち」(白水社)では、「彼」という人称代名詞を使わなかったそうです。「翻訳臭さが嫌いだから」と杉本氏は語ったそうです。
さて、ここでまた、よく私の言っている「普遍性」の問題に行き当たります。たとえば私は、自分の作った詩が、日本中・世界中の人に愛されればいいと思っています。少なくとも、そういう気概で作っています。世界のどこかの子供が、私の詩を読んで、日本語を勉強してくれたら。で、日本語には、男言葉と女言葉に大きな違いがあります。では、なるたけ男でも女でも歌って違和感のないような歌詞にするべきでしょうか。昔の童謡・文部省唱歌はそうです。外国人が日本語を勉強するときには易しいかもしれません。しかし、そうではなく、男言葉、女言葉を使いすぎるほど使って、こんなこと、日本語じゃないと言えないというような表現を使った歌詞、そういう「特殊」であるほうが、より日本語としての普遍性を獲得するのでしょうか。より民族的であればあるほど、世界性を獲得する、そういうことが人間の文化の中には確かにあるのです。だからこそ、王朝時代のままの十二単の雅子様と皇太子殿下の結婚式を、世界中に誇ることができるのです。もちろん明治までは、宮中では結婚式はなかったのを承知の上で。
さて、皆さんはどうしていますか。
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東京12chで古賀メロディ特集
最後に古賀さんが「想い出の記」という歌を自分で歌っていて、涙が出た。思わず大全集12巻を買ってしまおうかと思った。
尾崎紀世彦さんが出ていた。声に聞きほれてしまった。いずれはああなりたい。
10/25コーネリアス
ダイナワシントン。マリア・ベターニア
「ライオン・キング」
8月中旬にレコーディングをして、10月頃、インディーズからオムニバスCDが出る。(Helpをしているところのバンド)
劇団「急旋回」
劇を観てきた。劇団の人は、せりふの発声や劇中の歌など、歌を専門にやっているわけではないのに、すごく声が出ていた。
ヤマハのMQコンテスト
本選会だったので、プロの卵だったらしいが、あまり魅力的だと感じた人がいなかった。(うまい下手の問題ではなく)
エリック・マーティンが大好きなので楽しみ。
山野BIG BAND JAZZ CONTEST
やっぱり生音はいい。音楽に愛がある演奏とない演奏は、本当に一発でわかる。
最初の1曲を聞いただけで、感動して涙が出てしまった。
ジェニファー・ブラウン
ブランニュー・ヘビィーズ
アシッド・ジャズの好きな人なら知っているでしょう。
2週間アメリカを外遊。街にリズムを発見したのは、劣等感にどっぷり浸った私です。
10月か11月、WHITE SNAKE
12月 イーグルス
サリナ・ジョーンズ「I'm Gonna Laugh You Right Out of My Life」
Mr. BIG
アコースティックライブ
みてきた。アマチュアだったが、みんな歌心のある歌い手で、なかなか感動した。
B.Bキングのライブビデオ
あの体のしなやかさがみれる。
マイフェアレディ
幕張の方で教会の礼拝を大きくしたような集会で、ソングアシスト(コーラス)をする。
「Oh Happy Day」などもやる。(コーラスといっても、会衆が歌うときにリードしていく人の、アシスト的にメロディを歌うもので、ハモルわけではない)
そこで教わったのは、人は何か一つ信じられるものが必要なんだ、そこからすべてが始まるんだということだった。私は何のために歌うのか。私には神様などいない。平和を願ったこともない。ただ気づいたことは、自分なりの表現のしかたが、手段が、歌だったということだ。私にとって信じられるものは、歌そのものだった。歌うこと自体に休息を得ていた。こんな人間は、世の中に出たって、誰一人慰めることはできないかもしれない。だけど私だけは歌と暮らしていく中で、昔の自分が信じられないくらいポジティブになれたし、嫌いなところ、悪いところも、素直に認められるようになった。歌うことってすばらしいのに、他の人に、信じることが人間に必要なのかを、どうやって伝えていいのか。
エレファント・カシマシ
12/10 シンディー・ローパー
去年も観に行ったけど、とても小さい人なのに、ものすごく迫力のある
声だった。今回も楽しみ。
10月、Hard Rock Typhoon!!
ニッキー様、デビ・カバ様、エリック様、ビリー様、愛しのdudeたちよ。待ってるわ
曲はとてもいい。
Toshi(X JAPAN)のNewアルバム
ゴスペルアルバム5枚
「Contribution」MICA PARIS プリンスも曲を提供している、英国の女性シンガー。
「Time Waits For No Man」MAVIS ASTAPLESステイプル・シンガーズのメイヴィス、プリンスプロデュース。
「In Performance」DOMY HATHAWAY男性シンガーとしてすごく手本になる。
「I Never Loved a Man The Way I Love You」ARETHA FRANKLIN
「Love Sexy」PRINCE 僕にとってのプリンスのベストアルバム。
Primal Screamの新譜。RCの「ラプソディ」
FIGHT/WAR OF WORDS。
吉祥寺「プレシオザウルス」
ビール100種類、カクテル300種類。私はアメリカのヌードビールを飲んだ。
クリームのジャック・ブルース、ジンジャー・ベイカー、そしてゲイリー・ムーアという夢のトリオ
「かえるたち」で名取さん
プロだと思った。普通の人と違って、普段の声の方がドスが利いている。歌声は渋い。
Blue(パディ・ガイ、マディ・ウォーターズ、ライトニングホプキンス、ロバート・ジョンソン他多数)
シールのセカンド
タモリ倶楽部の後にやっている「Show bizz」というCNNのスタートピックス
「HIP」は水着のお姉ちゃんを見たい男の子にもおすすめ。情報番組で、どちらも深夜です。
デイヴ・リーロスの昔の歌
聞いて、あんまり格好よくてしびれた。ワイルドでセクシーなパワーがあふれている
Mr. BIGのエリック・マーティン
本当にシャウト一発で人を感動させる。LIVE盤のDADDY…の一発目は本当にすごい。
近藤房之助のVIDEO「Anytime Anyplace」
私は最近、ゴスペルを歌い始めたので、参考にと思って観たが、すごくよかった。「Happy Day」とコンクールの曲(曲名は忘れてしまった)を全員が歌ったところは、感動して涙が出てしまった。歌によって、閉鎖寸前の学校、気力のない生徒が生まれ変わり、みんな輝いて、本当に歌の力がすごいなあと思った。ソロの歌も、お腹から声が出ていて、うらやましい。この映画を見て、ますますゴスペルが好きになった。
アングラ/エンジェルズクライ
ピーボ・ブライソンのニューアルバム。
かっこいい。Count Basieばっかりきいていたが、すばらしい。
出てくる2人組の女の子が歌う「His Eyes on the Spallon」はものすごくよかった。
先日、ディビット・シーのライブ
日本ではまだメジャーではないが、実力派で、最後のソウルマンといわれている人。歌というのは、その人の生き様が現れるものだと改めて感じた。
西荻窪の「イザック馬ぐろ」
沖縄料理の飲み屋。
ケイトブッシュみたいな感じ。きれいな裏声してるから、はじめ女の人かと思った。「GAIA」が1番のおすすめ曲。幻想的です。
ロバート・クレイの2ndアルバム
ちょっとダーティーなロバート・クレイ。でもクリアすぎるサウンドよりも、肉体的でよかったりする。ブルーズの傾向が少し強い時代のものです。
Primal Screamのライブ
演奏が下手なわりに、パワーが見てとれた。ヴォーカルの内面からわき出るものが感じられた。
スティーブ・ルカサー
サイモン・フィリップスのDrをはじめ、これだけいいLiveも久しぶり。
久々にニューアルバムをリリースした。曲が少しおとなしくなったかなという感じ。聞き込まないと善し悪しがわからないかも。
アマゾンズ
日本では数少ないコーラスグループだと思う。三人のハーモニーはすばらしかった。
J-WAVE深夜1時からの“Across the View”
月、火曜のモーリー・ロバートソンが好き。
Atlantisというインディーズバンドのビデオ
観たけど、よかった。
新宿ルミネのタワーレコード、GOSのCD
たくさん並べられていた。かなり古い録音の古典的な曲が多かったが、とにかく声がすごい。上手いとか下手の問題ではなく、パワーが違う。
スティービー・サラスのCD
なかなかしぶくてよい。
新宿リキッドルームでロカビリーバンドのロカッツ
みんな歳をとったのに、声なんかCDそのものだったし、ロカビリーというマイナーな世界だが、本当にかっこいいものを観た。
NOFXのNew CD。
「ミュージカル・アニー」の映画
小学生の映画館で観て、えらく感動し、サントラレコードまで持っている。
レ・ミゼラブルのCD
よく聞いている。(もちろん日本のキャストではない)I Dreamed a Dreamがよい。
あんなに楽しそうに歌えるなんてすごい。歌いたいように歌っているという感じで大好き。
ゲイリームーア「スティル・ゴット・ザ・ブルース」
サス・ジョーダンの「RATS」
すごい。ライブを観に行った次の日にドラムを叩いたら上手になった。(すぐに戻ってしまったけど)
伊藤君子「トリーネ・レイン」
7月に日本デビューアルバムが出たばかりですが、人気は上々のようです。
ヴァレンシア(アーティスト)
CUT(雑誌)
ジョン・ウェットンのソロアルバム
CHARLES MINGAS
戦っている。挑戦している。
NNEANA FREELON
私のやりたいことに結構近い。JAZZ Singerというと、まだまだスタンダードを歌うというイメージが強い。私はもっとインストのみで、たどりついて極限に近づきたい。
あなどれない。歌詞でだじゃれを作って、ミニコント風のビデオを流しているのだが、ディクテーションが悪いと、本当にそんな風に聞こえかねないなと思うネタをときどき見かける。笑っている場合ではない!
フランスのシンガー、エルザ
ささやくように歌う彼女の声は、とてもキュートで魅力的。一見簡単に歌っているように聞こえるけど、とても深い息を吐いているからこそ、あのように歌えるのだろう。
CD「American Favorite Hynds」「Hindu Monk」
どちらも析りなのですが、歌ではないかと。
SOUTH TO SOUTH
よかった。FunkyでSoulfulで、オヤジのパワーを見せつけられた。ハウンドドッグのベースの鮫島氏が見に来ていた。
松本(長野)の各CD店に輸入板
大量に置かれるようになった。しかも安く。ただ、やはり見にくいです。
ANA AEKEN
はまっている。(ミルバの次に好きな声。似ているという説もあるが…)
テキストを買って読み出したら、あまりの量の多さにちょっと戸惑った。でもこれだけやれば、絶対身につくだろうな。
人前で何かをやるということを考えるとき、参考になると思う。···なーんて、理屈抜きに楽しい。ディズニーランドよりおすすめ。
「濱田成夫(はまだしげお)」シリーズ
全部で4冊出ています。感性がハンパじゃない!!
ジョン・セダカ
スティーブ・ルカサー「CANDY MAN」
ライブをみてきたが、超かっこよかった。(ルカサーのヴォーカルに目をつむれば)。セッションに近いバンドは、演奏する側がいきいきしていて、非常に楽しい。
マリリオンのビデオクリップ
「P.コーンウェル」の小説
現在4作目まで出ている。5作目が楽しみ。
オリビア・ニュートンジョンとリンダ・ロンシュタット
初めてアルバムで聞いてみた。ただのかわいい声の人たちではなかった。リズムパターンもこっていて、すごくROCKだった。
TURNINGというライブハウスでみた、CYPHERというバンド
神戸からやってきたというそのバンドは、パワーのせいか、観ながら感動のあまり溜息がでてしまった。
「SEE-SAW」
2人組のアーティスト。テレビでちらっとかかっていた、「素肌」という曲に、耳を引っ張られた。歌で「さわやか」を伝えていた。
アスカル・モレーノ「EL AMOR」
とっても熱い、あつくるしい。疲れているときに聞くとイライラする、
ファントム・ブルーのVo、GIGI
声はすごい。とても女の人とは思えない。いつかあのような声が出せたらと思っています。
リチャード・マークス
アルディメオラの初期のアルバムSKID ROWのブートレグCD
映画「ギルバート・グレイプ」
本当の優しさが見えてくるストーリー。
マイケル・W・スミス
彼の歌を聞いていると、「自由」を感じる。
MISATOアルバム、「Baby Faith」
この人は常に自分の理想の声を夢見て、日々励んでいるが、アルバム一枚ごとに、それに向かって一歩一歩進んでいるのが着実にわかる。ヴォーカリストの鏡だと思う。
LOVE TAMBOLINES
新所沢パルコ内にある「フォーシーズン」
お昼時は、¥1000でシャブシャブ食べ放題 このときほど生きてて良かったと思うことはない!!
BURRN!10月号のクイーンズ・ライチのジェフ・ティットのインタビュー
「アーチ」というバンド
C・Mingusの「The Clown」
マリリオンの「Easter」
ハロウィーンのニューアルバム
PRIDE & GLORY
CDはメチャクチャかっこよかった。ザック・ワイルドはすごくいい声をしている。もともとギターリストのせいだが、歌が荒々しいけど、そこがWILDでなおいい。コンサートが楽しみ。
秋にトイズファクトリーから出るオムニバスに、1曲参加(GRUBBY)。
FOOLS MATEに最近記事やインタビュー、LIVE特集など、載っている。
高円寺20000V
VoとGで、スタジオミュージシャンをバックにデモテープを作成してもらう。4曲予定。その後、自分の曲で、自分のバンドでライブ。私にとって、初めてのオリジナル発表です。
各月1回ライブに出る。