一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レクチャー 日本のヴォーカリストの立場ほか 15694字  162

レクチャー   162

 

日本のヴォーカリストの立場

 

残念ながら今の日本の音楽界、芸能界には、本物の力をつけた人がやっていける、あるいは力をつけながらやっていける部分が、あまりありません。ほとんどが商業主義、コマーシャル主義に陥っています。そういう考え方のいい面も認めますが、ヴォーカルに関しては嘆くべきところも多々あります。

 

例えば、三十代、四十代で、でっぷりと太っていて、身なりもよくないけれど、歌だけはすばらしいという人がいるとします。しかし、そういう人が活動できる場所は、日本にはあまりありません。

他の国ではそういう人は、容姿など関係なく、ヴォーカリストとしての力で評価され、ファンもつきます。日本の今の音楽界では、簡単に言ってしまえば、ルックスがよければいいとされています。その辺を考えると、こちら側に発信の場を一つ持っておかなくては、と思うのです。

 

80年代の後半から、世界の音楽が、様々なところから出てきました。日本は残念ながら、ワールドミュージックを発信していませんが、その日本の中でも、タンゴのブームがあったり、カンツォーネがコマーシャルに使われたり、ブルガリアン・ヴォイスのようなものがヒットしたりしました。

 

私は、そういう現象が起こる前から、本物へのゆりかえしがくると思っていました。日本の場合は、楽器の製造技術は世界一に近く、それを活かしたテクノで世界に出ています。それはヴォーカルをあまり必要としないジャンルです。

しかし、時代の流れを見ればわかるように、そういうジャンルが行き着くところまで行き着けば、今度は、生の声やアコースティックな音色の方に二―ズが来るはずなのです。

実際、いくつかのそういった動きはありましたが、大きくなりませんでした。

 

今後とも本当に声の魅力で聴かせられるヴォーカリストが、日本で必要とされる時代がくるかは疑問です。もしかしたら、もうそういう時代は来ないかもしれません。そこには、一人の天才的なヴォーカルの出現が必要となるでしょう。

 

そのことのよしあしは别として、そんな時代にこそ、ここで自分たちの拠点を持っていなくてはいけないと思うのです。昔は貴族が、アーティストのパトロンになっていました。いまではその役割を企業が担っています。それは所詮,商業ベースのイベントです。スポンサー、プロダクションがつき、商品マーケットに合う層にアピールするタレントに投資をしているだけです。

 

売れたヴォーカリストは、テレビ業界で俳優,タレントとなり、その視聴率、つまり知名度でツァーを回るというパターンに陥っています。そういった商業的な操上に乗れないヴォーカリストがだめなのではなく、むしろそこにこそ、人材がいるのです。しかし、歌で稼いでライブハウスが持てるわけでもないので、経済的には成り立たないのです。

 

しかし、一人でできないことも、この場に百人、五百人と集まっていけば、できるようになるでしょう。ただし、それが成功する条件として、そこに世界レベルの人が育っていなければならないことが挙げられます。

 

ただ,人を集めて,ライブをするだけなら,どこのスクールでも専門学校でも行なっています。知り合いを集めたら,何百人のお客になるからで、それこそ文化祭,単なるイベントです。ここで行う意味はありません。

 

三十、四十才になったとき、ヴォーカルのステージとしては、ジャズやシャンソン、ラテンなどの世界か確立されてきました。その層にふさわしいファンがいたからです。本当にその歌や音楽が好きで、一万円でも出せる客が来てくれるからです。高齢化していくので、お能のようになりつつあります。

 

とはいえ、ヴォーカリストの成長と共にファンも成長するし、ファンの成長と共にヴォーカリストも成長できます。これを歌い手として、一番理想的なことです。

ヴォーカリストの拠点とする意味は、そこにあります。

 

まわりの人に対し、歌という表現手段を使って伝えていくのです。そのとぎに、厳しい評価をする多くの客が不可欠なのです。そこが日本では,細分化され,確立できないまま,流行り物に流されてきました。ここでの仲間内やメンバーこそ、潜在顧客です。

ここに理解されないのに、他の人に広く深く理解されるということはない、そういう場づくりをしているのです。

 

 

自分の力で人を引きつけろ

 

今、商集的な音楽が求めるスタイルと、皆さんが、ここで身につけたり、自分なりにオリジナリティーを出して歩つけていくスタイルとは違うものです。

ざっくりいうと、二十才でできる音楽とそれ以降にやっていく音楽との違いかもしれません。

 

今、マスでやっている音楽は、前の方の音楽です。ティーンエイジャーを主たる聴き手としています。二十代後半以降になった人が、その層にアピールするのは難しいでしょう。

日本の業界で、歌手に年齢制限をつけていることが、そちらを向いている証拠です。本来はそんな制限はあってはおかしいのです。

 

そういう業界に、ここのメンバーを紹介していってもしかたがありません。ですからプロヂュースなしです。コンテストで受かっても、一時のフォローしかありません。そういったオーディションの合格者に、その後、残っている人がいないことからもわかるでしょう。

他のコンテストでも似たようなものです。それは一年くらいしか、バックアップのお金がもたないからです。その間に、無理なスケジュールで全国を回って、調子を壊すのが関の山です。

 

そういう人たちが一年しかもたないのは、大手の宣伝力をバックに、本人の実力で集客しているわけではないからです。自分で見つけた客百人の方が、広告がつれてくる一万人より強いのです。

 

今は音響技術がどんどん発達しているので、歌う人は、本当のヴォーカリストではなくてもよいわけです。実際、その例はたくさんあります。そうなれば、タレントとしてのヴォーカルの立場は弱くなります。

 

プロダクションと交渉するときにも、自分で百人の人を集められるということが評価につながります。百人の人間が集まるということは、千人の人が自分の歌を聞いていないと、不可能です。

年に一度ならば、百人集めることも、それほど難しくありません。しかし、それを週に一回にしようとすると、来てくれると言っている人でも、毎回、来てくれるのは、その約二割いないでしょう。自分で百人、三百人動かせる人間と、それがいない人間とでは、相当、条件が違ってくるのです。

 

歌は、めくらめっぽう歌っていてもだめです。誰かに対して歌うのかを明確にする必要があります。デビューした時点でできあがってしまうと、そこから上達するところがなくなってしまいます。

 

 

スタンダードナンバーの必要性

 

日本のヴォーカルの難点は、プロになってから歌唱力そのものが磨かれないことです。技術を磨きたいと思ったら、外国にいって修行を積んでくるしかなくなってしまいます。

プロの力が最低限ついた後に、切磋琢磨する場もなければ、そういう人が集まっている場もありません。これでは、どんな先生がいても、どうにもならない問題です。

 

ジャズの場合は、スタンダードナンバーが、何十曲もあり、それを何年もかけて、みんなでやっていきます。同じ素材をやっているので、プロ、セミプロ、アマチュアに毛がはえた程度と、実力がはっきり分かれます。演歌の世界でもそうでした。ただ、一流の実力者がいないと、よくわからないようです。

 

プロであれば、いくら歌ってこなかったといっても、二、三百曲のレパートリーをマスターせざるを得なくなります。昔から多くの歌手が、同じ歌を歌っているわけですから、実力の差がわかりやすいでしょう。オリジナリティーも、はっきりしてきます。

 

ここでは、歌のステージまでは、やりませんでした。なぜなら、歌というのは、どんなに変なものでも、その人のものです。本人が突き詰めていって、一つのものにしていく。それが唯一、価値のあるものとなるからです。

 

それが市場に受け入れられるかどうかで見るプロデューサーと、私とは、かなり異なります。

プロデューサーが評価するのは、簡単に言うと、学園祭で一番、受ける、拍手をもらえるヴォーカルです。しかし、そのヴォーカルはもって二、三年でしょう。

それは、自分のオリジナリティーではなく、そのときの流行している音楽からきているからです。

 

一人のヴォーカルとして、一つの世界を築く、そうしたければ、その価値を自分で作っていかなければなりません。

 

ロックにも、こだわらないことです。ロックで新しいものを作っていきたいのなら、ロック以外のものも相当学ばないと、まずロックかわからないし、ロックをこなせません。

 

ここをライブハウスにするとして、一番簡単に人がくるのは、エスニックな音楽やオールディーズなどのジャンルを扱った場合でしょう。レパートリーが狭められていて、常にそこに来れる人たちがいるからです。その愛好家が厳しい批評家の耳をもっているとはなりません。

 

そういった意味では、これからはロックにもスタンダードナンバーが必要でしょう。

ここでも、六、七割の人が英語で歌っているようです。そういう人は英語の語感や英語で表現していること自体が、外国人と同じになっていないと、たちうちできません。

 

英語の生活をしていないと意味はないのです。それは英会話ができる、できないといった問題ではありません。その言葉を発したときに、その人の頭の中に、どれだけのバックボーンとしてのイメ—ジがあるかが問題になるからです。

言葉と同時に,それ以上に何かを伝える技術こそ、ヴォーカルの根本になくてはならぬものです。

 

 

 

 

歌で食べていくには

 

このスタジオを一拠点として、あらゆる実験的な試みをしつつ、アウトブットの場にしていこうと思っています。

 

ここは二年制だと言ってきましたが、四年、六年と、少しずつ延長もしていきたいと思います。

ここは、負担のかからない形での発信拠点にしたい。

ライブハウスにしたら投資して今のお客を集める方向に寄っていかなければならなくなってしまいます。学校経営と同じで、集客メインになりかねません。

 

あまりお金がかからなければ、何回もできます。習作の場ですから、客数を気にせずに続けられることが優先です。それよりも客の質、歌唱に徹底的に厳しい客が少数でも欲しいのです。

ですから,私の耳をも与えていきます。プロの声と共に耳も鍛え抜くのです。

そういうホームグランドが大切なのです。

 

ヴォーカルとは、例えば難民キャンブで降ろされても、そこで人々に歌で表現することで、彼らの時間を有意義なものに変え、価値をそこに生み出せる人のことです。

そういう人が何人かいたら、そこに多くの人が集まってこない方がおかしいでしょう。

 

そういう勝負のできる場として、持っていられたらと思います。

バンドでやらないとつまらないという人が多いようです。でも、本当の力がついたら,なんでも自由です。そのうえでバンドに戻らなくては意味がないと思います。

 

いずれは、力のついた人は,歌で食べていけるような場をつくっていきたいと思っています。今のシステムでは、ヴォーカルをめざす人の多くは、趣味になっていかざるをえません。

優秀な人は、同じ才能があれば、音楽ではなく、他の方でそれをいかそうとしています。そこが海外とは異なるところです。

 

層が厚く存在すれば、そこから才能のある人はセレクトされ、しかも残っていきます。しかし層が元々ないところでは、その層を増やしながら引っ張っていく人が出てこないと、どうしようもありません。ヴォーカリストに関しては、数はいますが、層を成していないのです。

 

ここですぐに拠点を構え発信するのは、まだ難しいので、しばらくはどこかのライブハウスで、歌だけで勝負する場を作りたいと思うのです。ピアノやベース一本をバックに、または弾き語りで勝負するのです。そこに客が増えていけば、よいでしょう。

 

要は、ヴォーカリストを育ててくれる客か欲しいのです。それはロックの中ではまだまだ難しいようです。二十才までは,あまり好きではない人まで見に来てくれますが、そういう人は年とともにどんどんいなくなります。

 

これは本来は逆でなくてはいけません。つまり、二十才のときは力がないので、客がいなくても、その後、力がついてきたら、客がどんどん増えてくるのがあるべき姿です。そういう環境を作りたいのです。

 

千円で来る客を多数、呼ぶのではなく、一万円で、一曲が聞きたいと来る客が、ヴォーカリストを育てるためには必要なのです。今の日本は、そういうことに疎遠になっています。しかし、ヴォーカリストの実力があり、巻き込めるカを持っていれば、そんなに問題はないでしょう。

 

今の日本のライブハウスに行って、本当によい歌を聞かせてくれるかというのは、甚だ疑間です。しかし、歌が滅びないものである以上、本当にいいものをやっていけば、評価されるでしょう。

スクールやライブハウスでやるとチケットを売るようにノルマを課せられますが、ここでは実験的な試みで、誰も連れてこなくとも,増えていくようにしたいです。

来た客一人が三人もつれてくれば、動きができてくるはずです。

観客がいないときは、仲間内で聞いているのもいいでしょう。

 

 

芸事の学び方

 

ここである程度、共通的な課題をやっていきたいと考えています。これまで私は発表会などをやりませんでした。それができなかったのです。

それは、それぞれのオリジナリティーが異なる方向を向いていたからです。それを揃えることはやりたくないというのが、私の考えでした。

 

しかし、今の段階では、例えばビートルズ特集、といったようにスタンダードのナンバーの発表会をやっても、何かが生まれて来ると思うのです。ライブで経験を積んだ生徒が多いからです。

 

そこで将来のための叩き合いをやりたいと思っています。叩き合いをする場が、ロック、ポピュラーを歌う人にはあまりありません。歌って終わりというのでは、ヴォーカリストは育つわけがないのです。

 

一番よいのは、家元制をとることです。力のついた人は、それを見にくる人の観客料や契学金などで生活できるようにします。それより下の人は、力がついたら、そういう待遇が待っているのだから、ということで勉強料を出してもらいます。人が集まってくるし、育ちます。

 

ヴォーカルで食べていけるという見通しは、今の日本にはないので、不安のままに流れざるを得ないのです。しかしヴォーカルで食べていきたいという層と、それを支えようとする層が現れてきています。

 

ヴォイストレーニングには興味はないが、ヴォーカルの捉え方、考え方としては、賛成だという人は、います。そういう人も、ここでの活勤に巻き込んでいけたらと思います。

 

その旗揚げは、皆さんそれぞれが行なってほしいと思います。様々な人間が出入りするようになるでしょう。いいかげんな人が入って来れないくらいのクオリティーを保つべきです。

 

もちろん、ヴォイスのトレーニングではなくて、ヴォーカルの勉強だけやっている人やステージだけやっている人がいてもいいでしょう。

要は、歌うためのヴォイスと捉えるのではなくて、表現するためのヴォイスと捉えることです。

表現されたものが人の心を動かかさないと、それが価値になって戻ってきません。そこに焦点をあてていきましょう。

 

旗揚げは皆さんでやってほしいといいましたが、間違ってはいけないのは、一人では何もできない人が、集まっても、何もできません。できても続きません。

一人で何かをできる人が集まって、初めて、一つの世界が成り立つのです。

 

ここは二年制ということになっていますが、今までは、その中から自然と選択されるシステムがありました。やっていることに、意味を見つけられない人はやめていきました。ビジネスやスクール形態でやっているわけではないので、やむをえなかったのです。

 

個別アドバイスがほしいとかマニュアルが欲しいという人もいましたが、ここはカルチャー教室ではないので、そういう方法はとりませんでした。

私は約十年、いろんな先生に師事していました。ある先生には話するのに三年かかったくらいです。

 

私はまだ若いので、皆さんに対してもたくさん話すし本も書いています。でも、本当の部分はそこからは受け継がれません。受け継がれるのは、場からです。

その場に行くと、新鮮な感じがし、緊張感があり、深さがあり、そのように感じさせる人がいて、仲間がいて、という状況から学べることはあります。

マニュアル自体から学べるものというのは、通り一遍のうすっぺらなものです。 

 

アーティストの世界というのは、表現行為、すなわち芸事です。芸事の学び方は、いやというほど基本を繰り返すことしかありません。

皆さんの興味関心を買おうと思ったら、次々と新しい課題を提示すればいいのですが、そういう先生と生徒という関係では芸事は学べません。

 

ここには相当のノウハウがあると自負していますが、それを取り入れて利用していくのは皆さん自身です。そして、答えは皆さんの中にしかありません。

私があらかじめ答えを持っていて、それを出し惜しんでいるわけではないのです。

 

自分の受けたレッスンを思いおこすと、二十回、先生のところへ行って、一つ何かが得られたら、その日は大変うれしいものでした。その一を元にして、次に何かができていけばいいのです。

今日は、これを得られた、次の日は、あれを得られた、というのは、知識習得型の勉強で、芸事の世界には通用しません。

 

芸事は自分が気づいていないときに伸びていくものなのです。どうしてもロングのスタンスが必要となります。そういう意味では、ニ年でと、区切ってきたのはよくなかったのかもしれません。二年で学ぶ体制ができるのかを自分で問う期間とみてください。

 

もし、アーティストとアーティストとしての対等の関係であるなら、何かをしてくれと依頼する関係は成り立ちません。それでは皆さんが借りを作ることになってしまいます。

 

皆さんの質問に対し、私の返答がないと、「先生には興味関心がないのか」と思われることがあるかもしれません。しかし、それは、興味関心を呼び起こさない力しかないアーテイストの方の責任です。

 

 

 

太陽の力を育てる

 

大切なのはそういう行為をし続けることです。一つ、聞いてくれなかったら、一年間で100でも送ってみることです。それをやることによって、何かが自分の中に貯ってきます。

相手がだめと言ったとか、ほめてくれたとかで,いちいち判断していたら、自分のものができてきません。

 

自分の中にそうした蓄積での貯金ができるかどうかが、一般の人とクリエイティブな価値を作っていく人との大きな違いです。アーティストの世界では、全ての責任は自分の帰するし、自分が望めるところまでいけます。

 

一番恐いのは、モチベートがかからなくなることです。ですからモチベー卜がかからなくなるようなことは、あまりやってはいけません。

 

自分が何かを持っているかどうかは、やってみないとわかりません。

皆さんの中には、光と熱を出す太陽の力があります。それを最大限、発揮して、自分の虫眼鏡を通して、どこかに集約していきます。そこから火が生じます。

 

それが、絵であっても、小説であっても,なんでも結情です。ヴォーカリス卜にとっては、たまたま歌だということです。

太隔が発している力が大きくならなければ、それをうまく自分で取りまとめなくては、何も燃えません。育てるべきなのは、その熱、そして、炎です。

 

田舍で真剣に農作業をやっていたとか、企業の社長で十年苦労したとかで、自分の太陽が輝いている人が、そこから歌に入った方が、案外,うまくいっています。

歌だ、歌だとただ十年、二十年やっている人よりも、プロの世界では早く通用するようになります。

 

どうやったら人は集まるかとか、どうすれば感動するかとかいった、根本の要素がわかっているからです。それは若いときにいくらマニュアルを読んでいても得られません。

客も馬鹿ではないので、本物か偽物かを見抜く目は持っています。

 

「うまかったね」と言われ、拍手してもらって、それで終わってしまうのはアマチュアの世界です。プロならば、聞き手に、次にまた来たいと思わせなくてはなりません。この動員の再現力を出せるか否かがプロとアマチュアの差です。

 

こう考えてみると歌というのは、単にそのときの形式、フォーマットとして使われているにすぎません。動員する力の根本の魅力ということです。

 

アイドルが通りを通ったら、見ている人はかわいいなと思っていってついて行きたくなります。それをシステムにするために、アイドルに歌わせています。すると、そこにもっと人が来やすくなるし、アイドルも伝えやすくなります。

 

アイドルの場合は、プロダクションの力と合わせた関係があるので、必ずしもそう言えませんが、人を集める力は、その人自身になければならないのです。

そこの部分を自分で磨いていくことです。

 

それを誰かがしているとその人は伸びません。いや、誰かがしたくなるほどに、皆さんが一つ一つ、自分の魅力で人をひきつけていかないといけないのです。

それができたときには人の助けはいらなくなります。

そうなって初めてこちらも喜んで手伝うことができるのです。

 

人とどこかであって話をする。それも一つのステージです。そこで認められれば、どこかが切り開けていくかもしれません。そういう場面で認められる人は、別のところでも認められていきます。これは音楽の世界に限ったわけではありません。

 

アーティストの世界では、力があれば思うようなことができるし、なければできません。その力には様々な要素が含まれています。歌がうまいということだけが、力ではありません。

他の人間が感動したり、その人間に対して興味を持ったり、そこに集まったりするというのは、その人間が一所感命やっていることに対してであって、歌が上手だからという技術レベルのことではありません。

 

ヴォーカリストも、一見、歌のうまさを見せているように見えるかもしれませんが、本物がみせているのはそういうものだけではありません。歌の技術は、手段、媒体です。

 

人間的な魅力をすぐにつけろというような難しいことを言うつもりはありませんが、その場、その場で勝負していく懸命さは必須です。その積み重ねさえできていれば、世の中は、時間がたてばたつほど有利に働くし、それができてなければ、時間がたてばたつほど、不利に働いていきます。

 

同じことができる三十才と五十才の人間がいれば、三十才の人間の方が絶対に有利です。何か積み重ねていけるものがなければなりません。

 

いろんなところにいって失敗ばかりしていると、

がんばればがんばるほど世の中が狭くなっていきます。

まず、ものごとの取り組み方を学んでください。

 

一つのものを自分のものにすることです。

一つのステ—ジをきちんとものにしたら、次の活動につながります。

アーティストの世界の切り開き方は、そういうことになります。

 

 

基本の力をつける

 

プロダクションや商業社会の価値観は、あくまで投資したものを早期に回収できるかどうかということであり、残念なから、五年、十年といった長丁場ではみません。

会社の社員なら、社長も会社の評価や立場があるので、簡単にその人の力をはじいたりしないでしょうが、商業的な音楽は、売上で評価されるのです。

それは、その時に売れた点数で評価される週刊誌の編集員と同じです。

「この人は、いい作家になりそうだ」と思っても、編集者は自腹を切れないし、会社の方針を曲げて本を出すこともできないのです。

 

売れ線に合わせたいヴォーカルはそうしていけばいいし、そうでない人は、あえてその線を求めることはないでしょう。後者の勝負は、自分の世界をわかってくれる、または共有しているレベルの高い客を、何人もてるかにかかっています。それが一人でも二人からでいいのです。

 

ここも、二人が歌って、それを見ているのが二十人、でも、それが一番厳しい場所なのかもしれません。そういう場で認められたら、ヴォーカリストとしての力は一番つくのではないでしょうか。

 

遠くにいろいろものを求めて、あたふたしている人もいるようですが、本当の原点は何なのかを考え直さなくてはいけません。いろいろなことをやるのもいいですが、固めなければいけないのは基本の力です。基本の力がきちんとできていれば、チャンスや機会は近づいてくるものです。

媚びる必要も、向こうに合わせる必要もありません。そのかわり、納得させられる力を持っていないと、何の発言権もないでしょう。

 

ですから基本の力をつけることを第一に考えてください。

歌っていくことが、その人の生き方に結びついていれば、ヴォーカリストになれる素養があります。また、逆にそうでなくては、歌がうまくなっても、活動を続けていくことはできません。

一年たったから、どうなった、こうなったと言ってくる人がいますが、一年というのは、短い期間です。問題なのはかけた時間ではなくて、その人を何人の人が認めるかということです。ここでもそれは問われています。それは技術的なことだけではありません。

 

 

自分の器とバックボーンを作る

 

ある人を世に出すのを手伝うことは、総合的に相当な力をもっている人でなくては、結果的にその人自身をも裏切ることになってしまうと思います。いい人がいれば紹介してくれと言う人たちはいくらでもいます。しかし、プロでネットワークされている社会で誰かを紹介するのなら、紹介した人が、紹介先と利益が一致する場合でなくてはできません。そこが難しいのです。

 

晋通でも、誰かに紹介したいと思わせる人にはどんどんと紹介がきます。人が人を呼ぶのです。ただ、アーティストの世界では、業界がそこまで成熟していないので、また,問われる個性が違うので微妙です。どこでも同じですが、器用でなんでも卒なくこなす人の方が受けがよいからです。

 

「こいつは若いけれど、何かをやりそうだ」という見識をもって、他の人に紹介してくれる人もいなければ、広げていく人たちもなかなかいません。それをアウトプットする場所も限られます。

 

とはいえ、自分の箱を自分で作っていき、そこで勝負するのが、アーティストの世界です。人の箱の中で勝負する場合は、その人に箱を借りているのだから、その人が何かの価値を得ることかができなければ、本来,成り立ちません。

 

ここを自分の箱を作る場所として旗揚げをし、そういう人が集まる場にして、何かが起こっていくことを希望します。優れた人が集まっていれば、しぜんと優れた場でそういう動きになります。

 

ここで私が、その集団に先生としてついてしまったら、一人、二人の世界になってしまいます。劇団の主宰者のようになれば、基本トレーニングより演出に労力が割かれるでしょう。

一人ひとりが活性化して、何かができるような世界にはなりません。社長と社員や先生と生徒のような関係を築いてはならないのです。

 

各人が自分の力で物事をやっていく強い意志がないとだめなのです。

杜長と社員の聞係においては、会社の組織とシステムがあるので、社員が会社に依存していても,しばらくは大丈夫ですが、アーティストは一人一人が社長、オーナーなのです。自分の判断、見識、実力で勝負していかなくてはなりません。その勝負にはごまかしはきかないのです。

 

歌うのが好きで歌っている人よりも、歌がなければ人生生きていけないという人の方が、ロングのスタンスで見ると強いです。本当の力はロングの勝負で効いてきます。歌をとったら死んでしまう人になれとは言いません。歌と人生を一致させていければ、それがヴォーカリストとしての最高の幸せといえるでしょう。

 

歌をやろうか否かや、歌が身になるか否かを考える前に、人生を生きるのに歌が必要であれば、充分です。それが本当なら、切迫感や説得性、人の心を打つものが歌の中に現れないわけがありません。

 

「もうステージだ、大変だ」とステージに上がっては、日常生活に戻り、また「次のステージにあがらなければ」と切り替える。この繰り返しで歌っていると、「もうステージに上がるのをやめようか」で終わってしまいます。

その点、歌が人生と一致していれば、こんなことで終わってしまうことはないでしょう。続けるかやめるかなどという問題は起きない分、集中できるからです。

 

たとえ何かの事情で、しばらく活動を停止しなければならなくなっても、気にしないことです。体力があり、きちんとしたことをやっていれば、ひとまず、このの世界を切り、他の仕事を一生懸命やっても構いません。それで、2、3年たち、本当に歌いたくなったときにまた始めた方が、上達は早いかもしれません。

 

ただ歌っているだけではなく、そこでどれだけ自分の力を凝縮できるかに挑戦すべきです。もしヴォーカルの分野でそういう場をもてないのなら、スポーツやその他の分野でもち、自分にとっての凝縮されたものを築いてからヴォーカルに入った方がよいかもしれません。

 

役者のように、ヴォーカル以外の世界から入ってきた人が、結構歌がうまいのも、きちんとしたバックボーンがあるからです。自分がきちんと足をつけて歩んできたことが出ます。

人に接し自分を認めさせてきた自信、誰よりも練習をしたという自信でしか、勝負はできません。

また、そういう勝負をしている人は、その自信が当り前のものになっていて、その上で声や歌の技術云々を問題にしているので、レベルが違うのです。

 

歌の評価に関しては、誉めたり煽てたりしてやっていく方向もありますが、シビアに自分の評価を知っていく方がいいでしょう。一番厳しい評価というところを知っておかないと伸びません。

 

往々にして、歌を聞く客の評価は甘いものです。例えば、カラオケ好きな人から「私の歌はどうでしょうか」と聞かれたら、「お上手で」と答えるしかありません。

それは他者の関係にあるからです。

アーティスト同士の関係であれば、やたらに人を誉めるべきではありません。

 

そういう意味では、よいと思うところも慎重にみるべきです。きちんと伝えることです。

本当にその人かブロになろうとしている場合は、相手が誰であっても、それはアーティスト同士の関係となるものです。

 

誰でも、お客さんには、厳しいことを言っても恨まれるばかりだし、立場もあるので、悪いことは言いません。それを勘達いしてはならないのです。

一所聽命、努力しているものごとに対して批判されるのは、精神的にとてるこたえることですが、それは人格を否定されたわけでもなく、そのときの不できを指摘されたことに過ぎません。

 

そういう意味で、ここでは参加者相互でも、切磋琢磨できるようになるとよいと願っています。残念ながら、日本人ではなかなかそれができません。すぐに馴れ合いや上下関係,同調圧力に支配されるのです。

 

私がこの業界にずっといるかどうかは別にして、こういう職種のギャランティー面ではアップしていく方向で考えています。当然、トレーナー料もヴォーカリストの出演料もアップしていくべきだと考えています。音楽に対する価値をもっとつけていきたいものです。。

 

英会話の外国人講師が貰えるくらいは、音楽を教えている人も、とらなければなりません。なぜなら、他のところで、吸収したりや勉強したりできる余裕が出るからです。その勉強で成長し、生徒に与えて続けることができるのです。

 

今の日本では、プロの歌手になると食べていくことができなくなります。アルバイトしていれば、ある程度のお金は手元に残るのに、プロになったら、それも充分にできず、安定収入が得られなくなるのです。スケジュール第一優先で、他の仕事はできないし、経費、衣裝代などがかかってしまいます。

 

その問題にも焦点を当てていこうと思います。今の一部の劇団には、かなり理想的な形態を採っているところかあります。オーディションに通った人は、レッスンが無料で受けられ、獎学金や交通費が出ます。その分、自分をより高めることは、個人として責任を持ってやるというシステムです。

人様のお金でやる分には、どうしても人様の価値観で動かされるので、自分たちのお金でうまくやっていく方法を考えていきたいと思っています。

 

 

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交流の場としてのオープンスペース

 

皆さんの中でやりたいことがあれば、なんでもとりあげていきます。

発信することに対しては積極的にやっていきたいと思います。

交流の場として、皆さんの意見を聞いていきたいと思います。何かきちんとしたことをしていきたいと岑えています。その企画があったら、どんどん出してください。

 

例えば、一人ではコンサー卜ができなくても、ここのメンバーが集まれば可能になるでしょう。集団の力というものは確実に存在します。それは力のある人にもメリットになるし、力のないうちはそれもそれ以上にメリットになるでしょう。

また、ヴォイストレーニングとは切り放して、ヴォーカルだけに照準をあわせたクラスを作りました。そこでも何か生まれる可能性が見えてきたからです。

 

今のところ、考え方をしっかりと確立できている人が集まってきていますが、いずれは、誰もがそういう人に育つ場にしたいと思っています。そのためには、私だけが旗を掲げて説明するというのではなく、しっかりとした考えを持った人がいつもその場にいて、励まし合うことが必要です。

 

必要なのは、愚痴を言い合ったり、傷をなめ合う関係ではありません。怠けたいと思ったときに、「あいつがいるから、かんばらなくては」と思えるような関係です。

相手の一つのよいところから、十個も二十個も学べばいいのです。悪いところを見て愚痴を言っていてもしょうがないのです。積極的によい方向だけに目を向けましょう。

どんなことを自分が考え、それをどこまで深められたか。それが自分の力になるのです。

 

こんなことをいうのは、十八才まで今の日本の敎育を受けてきて、個人的な自立がなされていないからです。まわりに合わせる生き方が染み付いています。ひがみ,妬み、嫉妬などが渦巻く。

 

簡単に考え方を変えられる人はほとんどいないでしょう。しかし、一つのことをきちんとやってきた体験を持っている人、本当にやっていこうとする人は、自然とポジティブなことを考えていくことになるでしょう。

 

ここでは様々な実験的な試みもやっていくし、懇談のできるようはスペースにもしていこうと思っています。解放されたスペースにし、情報を得たり、いろんなものが見られたり勉強したりできる場にしたいのです。単に音楽やヴォーカルに特定せず、どんなアーティストもそれ以外の人も。起業家や映像関係の人か来てもいいし、皆さんには、そういう人たちから学べるだけの度量を持っていてほしいと思います。

 

芸の身につけ方は、スクールやカルチャー教室とは違います。その根本にあるのは、あくなき基本の繰り返しです。飽きても飽きても、なおまだそれに執心しているような心があれば、必ずものになっていぎます。

 

普通の人は、その繰り返しができないのです。それは自分の創り出したいもっと大きな世界がその先に見えない,いや感じられないからです。基本の繰り返しは面倒ですが、そのために耐えるのです。すると、これほどおもしろいものもないとなるでしょう。

 

私は、よく、「その声だからヴォイストレーナーになったんでしょう」と言われます。しかし、最初は皆さんと同じ、いや、今のメンバーからみれば最低レベルでした。十年、続けたので、このような声になったのです。どこまで一つのことに馬鹿になれるか。どこまで自分をいじめられるか。それが成功するかどうかの分かれ目です。

 

自分に非凡な才能があり、十八才のときに、すごく歌えていれば、ヴォイストレーニングはやっていなかったし、こういう声を求めるることはなかったでしょう。平凡な人間が、平凡だけれども繰り返しやっていけば、声は当り前に変わっていくのです。私はそれを身を持って体験した上で実践しています。

 

今までは二年で区切っていましたが、これからは、その先のもう二年、さらに二年があってもいいのではと思っています。そのためには発表のスペースがあり、それがモータウンのアポロ劇場のように、ステータスが高く、そこに出るためにがんばるという登竜門にしたい、そういう場を設けて、実力と評価を上げていくというのが理想的です。そこで自分の実力やオリジナリティーが発揮できるような世界にしていきたいです。

 

場というものは、できるかぎり、クローズにするべきではなく、オープンにしていくことが必要です。ここに長くいることはひとつのキャリアとなるでしょう。でも、新しい人の受け入れを嫌だと思うなら、それは精神的に若くなくなってきた証拠です。

 

それを価値に変えられる人と価値を生み出せない人がいます。

アーティストとして、自分の価値を外に出して問うことと、そこからのリピートをきちんと吸い上げていくことを常に心がけましょう。そういった研鑽の場は多いほどいいのです。

ここもその場の一つとして利用してください。

 

大ステージでは実験的な試みはできませんが、ここでならなんでもできます。

生徒の一人という意識は捨て、アーティストの一人として、

「他の人がなんと言おうと私はこれがやりたい」

というものを、稹極的に出していってください。

 

 

 

代々木の一軒家がライブハウスに

 

夜のV塾X′maspartyでは、ここのスタジオが一時、熱気をおびたライブハウスとなりました。これぞアーティスト、ヴォーカリストの力と素直に感動しました。

 

歌のうまいへた、音楽性のよしあしよりも、もっと大切なものがそこにかいま見られたからです。

なぜそこで歌うのか、なぜ歌わなくてはいけないのか感じられたということは、何においてもよいことです。こんなおんぼろ家に生命の息吹を入れてくれてありがとう、と感謝します。

 

動きがこういう形で高まっていってくれたらよいと思います。

時問が押しすぎたため、ケーキを待てず、早く帰る人にはこう言いました。

「アーティストだから、一分の歌が歌えたら充分だ。」

そこにすべてのメッセージが入っているのです。

「代々木の駅前で一番早くおまわりさんに

捕まったであろう人に優秀賞を捧げます。」

 

 

課題曲(「心の旅」)のコメント

ポイントは「ポケットに」の「ポケ」のところ、随分とはずしていました。

こういうときは伴奏に軽くのせるか、逆に強めてぶつけて伴奏を殺すかのどちらかです。

なごやかな雰囲気でよかったのですが、緊張感は失わないように。うまい人には厳しく、うまくいかなかった人にはやさしく、それがアーティストシップというものです。

次回の健闘を期待します。