投稿 178
「泉谷しげる」 グロムイコに眠い…そして…マイケル・ジャクソンは帰ってしまった。喜納昌吉&チャンプルーズを見そびり、スタイリスティクスを見のがし、サルバトーレ・アダモも見に行けなかった(ガンズはもともと見るつもりがなかった)。
で、“泉谷”である。泉谷といえば、今やWOWWOWでCCガールズのかたわらにたたずみ、焚き火の火をベニヤで煽っているだけのただの“泉谷ジジイ”として、お茶の間で広く親しまれている (というより“富田靖子”の親父として有名かもしれない…いや、一時期、泉谷の出てるそういうテレビドラマをやってたんですよ…悪かったな、そんなの見てて)が、実はその昔、“フォークの神様”と崇め奉られて、後に“名球会”に入ってしまったところの“杉下茂”の向こうを張ってしまうほどの大物であった…
まず、何より(まあ、いきなりでなんだが) “泉谷”は、小児麻痺!である。自ら名乗る“スーパー身体障害者”である。あの引き播った脚で、ステージでジャンプするのである。映画“吉展ちゃん事件”では、階段を二段跳びで駆け上がるのである。かの “スカイ・スクレイパー”デイヴ・リー・ロスとは、もはや、その基本線からして存在を異にしているのである。
そう、“見せる”という事に関して…。これは、もう完全に泉谷のひとり勝ちである。一種、卑怯なくらいである。そこにある、にじみ出る優しさは、包み隠された痛みの、形を変えた現われである。
何より“泉谷”は過激である。もちろん志茂田景樹の“カゲキ”とは違う。泉谷の“過敏”はポーズである。別にそんなことは、いまさら言われなくたって、みんな知っている。にもかかわらず、泉谷は未だに過激である。その過激が…心地よい。素晴らしいことのように思えてしまう。もちろん、それは、ただの錯覚でしかない。けれど、これが、見る人の琴線に触れたりする。過激は心温まる。何ものにも代えがたい。そう、それが“泉谷”の魅力…。
客に向かって、十年早ぇやバカ野郎、悔しかったら身障者手帳もって来やがれ…と毒突いておきながら、本当に身障者手帳を持ってこられると、素に戻ってしまって、一瞬、顔こわばってしまう可愛い泉谷。某音楽評論家に批判されるのが死ぬほどいやなのに、どうにも、それを(それが本人よく知ってる音楽評論家、某“渋谷陽一”であるにもかかわらず)、直接、当人に言えずに、ただの子供と化して、イジけてしまうシャイな泉谷。ステージから客席に向かって吐き掛ける水に、ちゃんと“六甲のおいしい水”を使ってしまう気配り上手な泉谷…“節度ある乱暴者”このキャッチフレーズの日本一似合う男、泉谷しげる。払底している日本アイドル音楽業界にあって、このおじさんの存在は貴重だ。いつでも叩きつけるような曲の中に抗っている隠しおおせない優しさが、見る人の心を捕えて離さない…そんな、おっさんが少なくともここに一人はいる。何にしても、これは、侮ってはいけない。
「黒人霊歌」ゴスペル 太宰府天満宮…マーティン・ルーサーキング牧師。今、流行りのマルコムXと、その主張において、双璧というより対極に位置した、アメリカ公民権運動の父といわれる人である。
そのキング牧師、生まれた日がアメリカの国民の祝日になっている。
キングって人はアメリカ人にとってそれほど偉い(ていうか、“象徴”的な)人ってことになる。
今回は、アメリカは黒人の方々のお祭りの見聞録。
処は(もちろん、本場USAへ行くほどの…はない。やはり、日本国内でお手軽に米国を満喫しようと思えば)“米軍基地”である。 が、ちょっと待った«。一部黒人米兵のグルーピーと化したイエローキャブ印の女の子、でない我が身としては、そう安直に、“のー・ぷろぶれむ”でゲート(検問所。“関所”ともいう)を通過することは叶わない。なんとなれば、ゲートの向こうは、そこ既に“海外” (地続きだけど)なのである。さあ、なんとする…が、 そごは謹厳実直、質実剛健、堅 実無比の私である。準備万端怠りない。既に 二ヶ月前から手を打ってある(いや、元を辿れば、半年前から、既にその活動は開始されていた、といっても過言ではなかろう…それほど、私は“他に比ぶる者のない”ほど“堅実”なのである…ったく全然、役に立ちゃしねえ)。とにかく、関係各方面に頭を下げ、コネを手繰り、菓子折りを持参し、礼状を出し、クリスマス・力ードを送り、ろくに(いや、全然)喋れん英語を駆使して基地に電話をかけ倒し…努力したのである。そして、ついに、ついにその甲斐あって、見事、“パス” (通行手形…まあ、『入り鉄砲に出女』というところでしょうか)を手に入れることができたのでありました。めでたし、めでたし。…ハハ、なんだかね。
快晴。米海軍横須賀基地、チャペル・オブ・ホープ、礼拝堂。 うーん、鮮烈だった。カッコいいんだ、これが。みんな素人なのにさ。 ゴスペル…歌っちゃうんだよ。始まりは、こう。ざわめいている堂内。一瞬の静寂。キーボードの演奏。開く後ろの扉。気が付くと、一列になって、声を和しながら、各基地から集まった、協会のお揃いの聖歌隊衣装を纏った人たちが、一歩また一歩、おもむろに進んでくる。既に、始まった途端、もう“ブルージー”だった。歌いながら、舞台の上の席につく。最後の一人。舞台の上は、もう人でいっぱいだ。 女の人が、檀上に上がる。ハレルヤ。最初は子どもたちの歌だ。エーメン。たいしたもんだ。ジーザス。 途切れることなく続く霊歌。赤、青、黒…色とりどりの衣裳。皆お揃い。いれかわり、たちかわり。ハレルヤ。壇上に立つ従軍牧師。シュプレヒコール?…ハレルヤ、・エーメン。かさにかかって聴衆を煽る。ほんとにこの人、牧師さん?エーメン。盛り上がる霊歌。いきなり、何の前触れもなく、歌い叫びながら堂内を走り回り、そして、卒倒する婦人。ハレルヤ。強烈にステップを踏み、舞台中央で踊り狂う若い女性。そのかたわらで、嗚咽を漏らしながら抱きついて泣いている二人。立ち上がる聴衆。そこも、かしこも、有無を言わせず、人みな総て“J.B”状態。興奮の坩堝…
三時間だ。まったく、休みなく。終わって、外へ出て…思ったね。しばらくコンサー卜には行けんな…。金払っても、あんだけのもんは、見られないよ。まったくね…。完璧な“ショウ”だった。何の批評も、ましてや分析なんてもんの入り込む余地など微塵もない。自らが参加し、自らが作り上げる、本物の“ショウ”。俺もその一員だ。日本人であることなんて何の問題でもない。かりに唯一欠けているものがあるとすれば、それは“信者”でない、洗礼を受けてないってことぐらい。ただ、それだけだ。
帰りに会った一人の人物 日本人でただひとり、“ショウ”でサックスのソロを吹いた男。四十を過ぎてバリバリのサーファー。白髪まじりの長髪をかきあげながら、言ったね。続けることさ…
ロックという名の宗教 ~愛を教義にしたジョン・レノン 世にエゴイストと呼べる人は多い。「物理学は方丈記」だと観た湯川秀樹、「愛を教義」にしてしまったジョン・レノン、「茶道を儀式」にした利休etc、彼らはみな夢を見る人であり、リアリストだった。夢を形にして いく難しさを想うこの頃、
週刊少年ジャンプの編集後記にこんな文があった。ジョンは形式化、神格化されたものを心底嫌うリアリストであった。抽象化され、絶対視されたものは、それ自体何の責任もなくなり、かつそれに従うことを強制してくる。
現在のビートルズの地位を想像してみれば それがわかるだろう。ロックの創始者として 以後の音楽評論は、「ビートルズはすばらしい」という前提から始まり、それを認めないものは常識がないかのような論調である。もちろん、ビートルズ自体にその責任はない。しかし、そのような傾向(権威主義)こそ、ジョンが批判したかったものなのだ。「私はビートルズを信じない」と彼が言うとき、そこに新たな宗教(権威)の誕生を見ていたのである。
彼は「GOD」で歌う。「わたしはイエス・キリストを信じない」そして神格化され、権威となったものをつぎつぎに否定していく。聖書、タロット、ヒトラー、ケネディ、ブッダ、ヨガ、王の名をもつもの、プレスリー。そしてビートルズを全て「信じない」と。
「神とは/それでもって人間が自分の苦悩を計量するところの/一つの測度概念である (にすぎない)」(「GOD」) ジョンのこの言葉は、二―チェの言うルサンチマン(恨み)に通じる。キリスト教道徳主義は具体的生を享受できない弱い人間の恨みによるものであり、あてつけである。生を開放するためには道徳を否定しなければならない。
ジョンはオノ・ヨーコとの愛を通して、具体的生を生きることを知った。だからこそ、実存するため、生の感触を体感するため、全ての神格化されたものを否定しなければならなかった。全ての權威を否定したあとこう 歌う。
「わたしはただわたしを信じる/わたしとヨーコとを/そしてこれが現実である」
「ああ愛する人よ 僕は生まれて初めて/目を大きく開けた/ああ愛する人よ僕は生まれて初めて/ものが見えるようになった」 (「愛を知ってからは」)
古い自分が死に、今まで感じることのできなかった「新しい生」を生きているという感覚—ここで少し考えてみる。その「生」の感覚はキリスト教が持っていたものではないか?現に回心後の教徒パウロにも「キリストを知ってからは—」という言葉がある。そしてそのキリスト教こそ、ジョンが否定したかったものなのだ。なぜか?おそらく問題は「生を体感した」二人(ジョンとパウロ) がどういう行動をとったかにある。ともに言葉で語るしかなかったのだ—筆舌に尽くしがたい生の感覚を。
Love is real,real is love/ Love is feeling,fell is love / Love is wanting to be loved/ Love is touch,touch is love/ Love is reachIng,reaching love/ Love is asking,to be loved/ Love is you/ you and me / Love is knowing we can be/ Love is free,free is love/ Love is living,living love/ Love is needing to be loved.
「LOVE」では「愛についての説明」が淡々と歌われる。愛はジョンにとっては生きたものである。しかし、言葉にした途端、死に変わるのだ。
それはジョンにとっての死という意味ではない。彼にとっては相変わらずリアルなものであったろう!パウロにとってのキリストと同じように。
国というものはないと想像しな/できないことではないよ/殺す名目も犧牲になる名目もないのだと/そして、宗敎というものもないのだと/ただ、人間が/平和に暮らしているだけだと
僕のこと夢想家というのかな/でもこう考えているのは僕一人ではない/いつの日かあなたもわかってくれたらな/そうしたら 世界は一つなんだけどな
そう歌いながらも、彼は殺されてしまった。何故か?
「宗教なんてない」ということすら一つの宗教だからである。「世界が一つになる」ことが人間の理想であるのは当然である。クリスチャンも世界を分裂させようとして宣教しているのではない。神を世界に述べ伝え、世界を神の名のもとに一つにするのが目的であろう。
では、なぜ神によらねばならぬのか?クリスチャンにとっては、神こそが具体的生だからだ。ジョンにとって愛が現実だったのと同じように。しかし、それを説明するためには言葉を用いなければならない。そして言語の機能は意味の固定である。人が理想を想うとき、それは自分の生に彩られ、命を与えられる。だからこそ、それを 形にしようとすれば、十分に言い尽くすことは決してできない。当人にとってはさまざまな形をもつ(いや、形はないのかもしれない)
生きたものを他人に伝えるためには言葉によっていったん殺さねばならぬのだ。 具体的生を言葉で語る。この矛盾がキリス卜教を逃れるべき権威と化し、ジョンの実存の愛の教義とする。まさに「夢を形にしていく難しさを想うこの頃」である。
※参考文献※岩谷宏訳『ジョン・レノン詩集』シンコーミュージック 藤田健治『ニーチェ』中公新書 『聖書 新共同訳』日本聖書協会
アメリカ旅行記 ニューヨーク・メンフィス十泊十二日の旅をしました。行く前の準備や注意点の事で、ここのたくさんの人にアドバイスをいただいたことをこの場を借りてお礼を申し上げます。
この旅の目的は本物の音楽に接して自分の歌へのヒントをつかむ事でしたから、現地のツアーを利用して積極的にライブを見に生きました。
NYに入って最初の夜に「アポロ劇場ツアーに参加しました。每週水曜日はアマチュアナイトといって、NHKのど自慢のようなショーをやっています。でも、挑戦者の評価をするのは全面的に観客で、観客が聴いてへタだ、全然良くない!と思えば遠慮なしに「Boo!」と叫び続けます。場内ブーイングの嵐になるとピエロが出てきて、挑戦者を追い出してしまいます。逆に観客がうまい、すごくイイ!と感じれば、会場は拍手で湧き上がり、フィナーレで優勝者を決める時も観客の拍手の大きさを司会者が判断して、というシビアなショーです。それだけにここからプロデビューする歌手も多いそうです。最終選考をみていると入賞者のレベルは高い所でのせめぎ合いですから、その中から観客によって選ばれるのは、観客に「好きだ」と思わせることに成功し、さらに「この人を優勝させたい」という強い拍手をかき出せる魅力を持った人のようでした。
でも劇場は、終始楽しい雾囲気に包まれていました。司会者がしゃれた言い回しやストーリーをつけて挑戦者を紹介するし、ピエロとコントをやったり、ショーの中間にファッションショーが組み込まれていて、観客を飽きさせません。黒人は貴金属(特に金)やビビッドな色を好むそうで、劇場に豪華な華が添えられていました。また、もう何年もの間、毎週欠かさずに来て一番前に座り、気に入った挑戦者が出ると 舞台に上って踊り出す「ミス・アポロ」と呼 ばれるおばさんが、この日も来ていて、挑戦 者に抱きついたりしながら願ってくれました。 また、ラッブにのせたダンス等のパフォ—マ ンスをするグループも多く、あっという間に 時間は過ぎました。
この国のエンターティメントにかけるエネ ルギ—とレベルの高さに圧倒された三時間でした。
「ジャズツアー」まず「シルビア’S」というレストランでソウルフードを食べます。奴隸時代に主人の残した食べ物を温め直したり、煮込んだりして食べた料理をアレンジものだそうです。味は好きずきです。このレストランはハーレ厶で最も繁盛している店で、有名人もよく来るそうです。アニタ・ベーカーがCD売り上げの記念パーティーをやったり、ホイットニー・ヒューストンがニュージャージー州からわざわざチキンを買いに来るそうです。
食事が終わると近くの「snowmans’CAFE」に移動します。ここではテナーサックスとキーボードとドラムのトリオ でスタンダードジャズを聴かせてくれます。始まるまで気を散らしていましたが、最初の何秒かで、その世界にひきつけられてしまいました。
キーボードのソロでラブソングを聴いている間中、鳥肌が立ちっぱなしで、まるで歌を聴いている錯覚に陥りました。その人の息使いまで楽器が表現している気がしました。六十歳近いという黒人の小柄なドラマーは何気なく全く普通に淡々とたたいて曲をこなしている中に、その人の実直さ、運命をありのままに受け入れる悟りにも近いような物静かさ、喜怒哀楽を越えた何かを感じました。五十歳半ばの体格のよい黒人のテナーサッグスはきっと敬虔な信者であろうという感じを受けました。確固とした何かを持ってはいるのだけど、それを主張しようとも表現しようとも押しつけようともしていない。ただ、その人の生きてきた人生が、演奏している背後から立ち上がっていく感じがしました。高い技術に裏付けられた三人の演奏は何か神妙な波動を発しているようで自分の心も透明になっている感じでした。
日曜は朝十時からゴスペルです。アポロやショーマンズツアーでは見る事のできない昼間のハーレム案内もこのツアーの目玉です。日本のTVが取材するドラッグの売買はハーレムの極々一部での事で、大部分は善良な温かい人々が平和に生活しているそうです。高級住宅街は小ざっぱりしていてゴミー一つ落ちていません。でも、定額所得者は家賃の安い市営住宅に複数の家族で住んでいて、狭くて不潔だそうです。小高い丘にさしかかるとガイドさんが、ここが『A列車で行こう』で出てくるシュガー・ヒルだと教えてくれました。ちなみにシュガーとは「お金」のことで、昔はそこ一帯にお金持ちが住んでいて、眺めもよく、黒人たちの憧れだったそうです。
教会では、ところどころに聖歌をはさみながら神父さんの説教がすすみ、コミュニティからの連絡事項が終わると突然、ゴスペルが始まりました。でも、時間の関係で私たちはコットンクラブに移り、ソウルフードを食べながら、プロのゴスペルシンガーの歌を楽しみました。これこそ、プロの歌手というステージでした。すごい迫力の声で客を高揚させたかと思うと優しさに満ち、静かな歌を聴かせたり、その日の午後はホテルに戻ってもそのステージの余韻で何もする気が起きず、ボーッとしてつぶれてしまったほどでした。ライブのない昼間はマンハッタンの街中を地下鉄やバスを使って歩き回りました。地下鉄は$1.25でトークンを買って構内に入ると何度でも乗り換え自由で便利です。夜でも中間の車両にポリスが乗っているので、その前後なら大丈夫です。よく道に迷いましたが、皆快く教えてくれました。困っている人に積極的に手を差しのべる光景にもよく出会 いました。
テネシー州メンフィスでエルビス・プレスリーの生家で、スーパースターの抜けがらをしみじみ味わい、その足でサン・レコーディングスタジオを見学しました。自分の大切にしているエルビスのレコードがここで録音されたかと思うと古い機材や壁の色がピカピカに見え出しました。そしてビール・ストリートまで歩き、「ラ厶・ブキ・カフェ」でブルースを聴きました。プレイヤーが白人という偏見もあってか、期待したほどではなかったです。ミシシッピ州に沿ったフロゴ・ストリー卜にはたくさんの木綿卸業者のビルが軒を並べていました。数少ない通行人のほとんどが黒人で、すれ違うときに「ハロー」と静かに微笑んでくれたのがとても印象深かったです。 また、教会も多く見られました。
同じアメリカでもNYとメンフィスでは随分違いました。
まず、NYでは街の人一人ひとりが自分というものをよく知っていて自立しており、「私は〜だ」と自信を持って歩いているようにみえました。いつ一人にされても大丈夫で、自分に対して責任をもって生き、必要な時はいつでも自分を表現、主張できるような印象です。自分と社会や他人との関係が正常なのだと思います。自分が社会の一員であり、他人と協力して生きていくことを知っているが、決して社会に依存してはいないように思えます。また、創造的な空気が漂い、アー卜が高い評価を受けていて、街から新しく、より洗練されたものが次々と生まれる雰囲気がありました。そして、アメリカンドリー厶、成功への野心があふれている印象です。人々のべクトルは外に向かっています。
対してメンフィスは保守的で、キリスト教の人々への浸透の度合いが強く、毎日の生活に神々を感じながら、その意志に従って、着実に生きてゆくという感じがしました。人々の心の中には奴隸時代の傷跡がまだ残り、生きる妨げが大きくて今の生活を維持する以上の発想が生まれないのではと思いました。人々の気持ちが内に向かっていると思いました。比較のために私は日本人は微妙なものに趣を感じ、急激な動きを嫌うという印象を持っている事をつけ加えます。それゆえ、自分の隣の人とは違いたいのだが、出る杭になるのを恐れるジレンマを内在している。そして、周囲や社会に依存する甘えが根本にあると捉えています。心の中で小さなベクトルが乱反射していると思います。
外国を見て思ったのは、日本人には自分が一人の日本人であることを相対的に気付かせる対象がないということです。自分はどこから来て、どこに、なぜ、どうやって生きるかをつかんでいないので、自分を愛おしむ気持ちが育ちにくいのでは-と思います。
歌で自分を表現することは、自分自身を愛し、大切にし、だからこそ他人をも大切にすることであり、同時に自分が生きていることの喜びの表現でもあるのではないかと思いました。そのためには本当の自分の中からの叫びに素直に年を傾け、正直に自分をごまかさないで行動することが必要ではないかと思います。それから、もう一つ思ったのは、ゴスペルというのは外と内と両方のベクトルを持って いて、黒人は歌を歌うことで自分自身を“神”に対して表現しているのではないかということです。「自分はこういう人間で、ここにいます。」と天に向かって叫び、そして神の愛を受けたいと求めているような感じがしました。
全国巡業 生まれて初めて、俺がレコードを世に送り出したのは今から十七の時だった。当時、主流であったブリティッシュ・ハードコアの流れに繊細なメロディと圧倒的なテクニック(ホメすぎだな)に裏づけされたサウンドがケッコウ話題になった。(ような気がする)
いつ頃からか、そのイギリスの寒々とした 気候や曇り空を想わせる音がダメになり、一見、脳天気に見えるアメリカンパンクを好むようになった。
-一九七四年八月、NYシティ。バワリー街の住民逹はクイーンズのフォレスト・ヒルズから来た“奴等”がマンハッタンのロワー・イースト・サイドにあるCBGBというクラブに入っていく姿を見届けていた。このクラブのオーナーであるヒリー・クリスタルは、皮ジャンにTシャツ、裂けたジーンズにスニーカーという出で立ちで現れた“奴等”が一体何者なのか見当もつかずにいた。さもなくば、不良達が楽器を盗んで逃げ込んできたか…。四人はステージに上がり、一曲を演奏し終える。ヒリーはそれでもなお、“奴等”が本 当にバンドなのか、単なるゴロツキなのかわからない。
“奴等”の曲はどれも騒がしく、とても短く、テンポが速い。彼はとりあえず、“奴等”を店に出してみることにした。が、その結果は芳しくなかった。“奴等”のデビュー・パフォーマンスは新聞はおろか、テレビ、ラジオなどで取り上げられることもなく、総勢五人-バーテンの犬をいれれば六人—の前で淋しく行われたのだった。しかし、懸念することはない。この瞬間から、ロック界は二度と同じ過ちを繰り返すことはないだろう。偉大なる哲学者マルクスは、かつてこう語った—革命は理想を持つことに始まる。
“奴等”によって、火をつけられた“パンク”という革命は公民権を剥奪された四人の若者が、音楽と文化について初歩的な理想を交わし合い、ニュ-ヨークから世界へ広める勢いを持ったことに始まった。
“奴等”の名は、「RAMONES」
イントロが長くなってしまったが、世界中のアーティスト達に影響を与え、俺の人生まで思い切り変えてしまった“ラモーンズ”が遂に東京公演を果たした。アホ面下げて、腰振ってるガキが多い中、俺ぁしっかり瞼でシャッターを切り、脳髄に焼き付けてきたぜ。
1stからEMI移籍第一弾の「モンド・ビザーロ」まで、俺達の期待に応える選曲、オープニングからラストまでの流石ともいえるテンションの高さ、6フィー卜3インチの ジョーイ・ラモーンのヒステリックな声。どれをとっても俺には鼻血の出そうなファッキン・グレー卜・ライブであった。
イギリスのパンクスの様な、キッズと一緒にコブシを振り上げるというアクションこそないが、電気ノコギリの様なソロ・パー卜なしのギターサウンド、ユニゾンで押しまくる爆撃ベースライン。“純肉100%、添加物一切なし”有無を言わさぬドラミングの3点からなる直撃音攻勢が、瞬速ファイヤーボールの如き、輝きを発していた。
前座は、俺のダチが演っていたが、見劣り(悪いっす)していたのは言うまでもない。 「ロックン・ロール・キッズ」で見逃している奴は、もしやいないとは思うが、万が一、いたとしたら、それはサイフを落とし、ステディの家に行ったら見知らぬ男が出て来て、家でヤケ酒飮もうとしたら、開けたばっかのジャック・ダニエルのボトルを割ってしまった時よりBADな出来事だといえるだろう。
皆さんはフラメンコという踊りを(まあ本当は一に歌があって、二にギター、そして三に踊りという順なのですが)知っているだろうか。去年はオリンピックの影響で巷はスペインブームだったこともあるので、何度か目にしたり聞いたりする方も多かったことと思う。それでも知らない人はちょうどその頃テレビで放映されていたな“マメスナック ジャック”のCMにハデなフラメンコ衣装で“マメ〜ッ!”とポーズをとっていた人の姿を思い出していただいても良いだろう。
というわけで、最近メジャーになりつつあるフラメンコであるが、私が始めた四年前はフラメンコなぞやる者は“変わり者”という目で見られていた。だいたい、フラメンコというのがどういうものなのか分かっている人も少なかったと思う。“フラメンコをやる”という私に“エッ フラダンス?”と聞き返す友人もいたし、私の弟などは完全に“フラミンゴ” と混同していた。彼は私が行川アイランドに修行に行くとでも思ったのだろうか。しかし、そんな誤解にもめげず、この四年自分でも驚く程コツコツと練習してきた。ここ一年ばかりはやっと人前に出て踊れるようになったし、足代ぐらいはいただける身にもなった。
そして今回、先生の公演に一緒に出ることになり、会社に休暇願を出したというわけである。一月二十九、三十日は新宿のスペースゼロ、三十一日は大阪毎日放送内にあるギャラクシ-ホールで計四回の公演を行った。一月半ばからはスペイン人アーティスト 踊り子一人に歌い手二人も来日し、本格的な練習が始まった。
これまで、日本人、スペイン人を問わず、プロの公演は何度も見てきた。しかし、それを作り上げていく過程を見ることはなかったし、ましてや参加することは初めてであった。そして、“そのご感想は?” と聞かれるならば、ただただ“圧倒”と答えるしか私にはできない。
彼らの練習している姿には他人を寄せつけないような真剣さがあるのだ。わずかな時間と空間を見つけて、芸とワザの研究に余念がない。う〜んと唸ってしまった。“う〜ん、すごいっ”いつまでもうなってばかりはいられないので、一応真似して練習をしてみる。しかし、私がするとどうしても練習をしているフリになってしまう。続かない。
“自分一人で(ギターの伴奏や見てくれる先生なしで)練習できるようになってから、本当の練習が始まるんですよ。”という先生のコトバを思い出した。あー先は長い。
でも、ここでもう一つのことを思い出した。何だ、歌についても同じではないか。そう考えるといろいろと共通点が思い付く。やはり、一つの芸を身につけるという意味においては、基本的なところで変わりはしない。また、肉体、あるいは声で表現することにおいても、自分のかかえる課題が根本的なところでは歌においても踊りにおいても同じだということに気付いた。
だから、踊りにおける自分の課題を一つ一つ昇華させることによって、自然とそれが歌にも反映されるだろうし、また、逆のこともいえると思う。もちろん、全てきちんとした基礎があっての話だか…。
ということで、あれこれと考える機会を与えてくれた何週間であったが、公演自体は無事成功し、お客さんの反応も大方好評であった。
最後にフラメンコの歌についてちょっとだけ。恐らく皆さんはあまり聞いたことがないだろうが、好き嫌いに関わらず、一度聞いてみると良いと思う。あの声量、息の長さ、荒々しいくらいの感情表現には圧倒される。(ただし、本物の歌を聞かないとタダの民謡を聞いている気分になるので注意のこと)
今回の公演の為に来日した歌手のうちの一人(女性)なんかもスゴかった。練習中に試しに彼女の歌っている隣で、息をはいてみたけれど、三分の一はおろか四分の一ももたなかったような気がする。あれで五十ニ才だというから、ただただ“おみそれしやした”と言うしかない。しかも、すごい声量。表現力。やはりプロ。蛇足だが、彼女の口からは一回も“のどを痛めた”という言葉は出なかった。そのかわり、一回歌い終わると頭に血がのぼってボーッとするから水を飲まないと落ちつかないとよく言っていた。本当、体で歌っている。やはりプロは違うと感激。非常に有意義な数週間だった。
この曲は卒業をテーマ、ピアノの引き語りバージョンとバンドバージョンがあります。時々ライブで歌うのですが、結構評判が良いので(てまえみそですが)ぜひ一度、皆さんにも聴いてほしいと思っています。)横浜ビブレにてChance′Iという私のバンドがライブをやります。ポップなオリジナルやカバーを歌います。
チューニング方法とその条件 エレキであれ アコギであれ チューナーに頼らず、音さで持てよ
どこの世界でも音感が正確で、チューニングできる人は多い。Aの音をしっかりと覚え、5弦の5フレットをしっかりと押さえ、4弦のDを含わせていくのが理想的なチューニングだと思う。
もちろん、実行している人は多い。だから、チューニングできる人は、ライブの時、チュー二ングが狂っても合わせられるし、そうでない人はいつまでたってもAを覚えず、弾き始めず、指が短いだのBossのチューナーは性能が良くないなどとたわ言ばかりほざいている。
こう言われても他人言の様に思っているヴォーカリスト、大体気付いてみれば、自分が堕落したギタリストであることが多いものである。
私は白人至上主義者、いや、黒人至上主義者かもしれない。いや、やはり英語圏至上主義者のような気がする。音楽の面において—。テレビの中に中国人のロックコンサートを見た。格好悪くて笑っちゃうじゃないか。大晦日のNew Year Rockを見てい ると、こちらが恥ずかしくなってしまう人ばかりだ。
ある記事で見たのだが、中国のロッカーが 「西側文化の“精神汚染”」として、追放キャンペーンの的になっているらしい。“汚染”とは云わないが、“洗脳的”であると思う。
例えば、同じコード進行を与えられても、日本人ロッカーとアメリカのブルースマンでは湧いてくるメロディが異なる。自分もブルースマンのような感性でありたいと羡ましく思う。
ロックもブルースも何処かの誰かが輸入してきたものを知らないうちに勧められて聴いているのだと思う。私はジャニスやトムやシドが大好きだ。でも、もう少し年をとった時も相変わらず、「やっぱ、あっちの奴はスゲーよナー。」なんだろうか。洗脳ばかりされて、自分というものがない人間みたいでイヤだ。もっと、実力とプライドを持ちたいものである。今度、第二次世界大戦の勝利国と仮定して、世界のトップチャー卜には、ニッポンナイズされた金髪男が三味線を搔き鳴らしているマンガを書いたら面白いと思う。LIVE予定 渋谷APIA 駒沢ガソリンアレイ。
音楽と私 私はこの間、ピアノで腱鞘炎になった。といっても練習のし過ぎではなくて、ピアノを持ち上げてのことである。以前、一日の練習時間が平均して四時間を超えていたときなどは肘にエレキバンを貼ったものだが、ほとんどヴォーカルに専念してからというもの、私はこの腱鞘炎には縁がなかった。だから、どうしてそうなったのか訳が分からなかった。それで、「全然、練習もしていないのですが!」と言ったところ、「重いものでも持ち上げましたか?」ということになり、持ったことのないピアノを下手に持とうとしたせいだと気が付いたのだった。それも私一人ではなくて、他に二人の人間がいて、私は一番軽い所を持っていたというのに…それもほんの一瞬、持っただけ…。
外科の先生はピアノを持ち上げなくてもいいようなピアニストになりなさいと言ってくれた。いつも何かにつけてお世話になっている先生らしい言葉で、とても和やかな気持ちになった。でも、後で薬をつけるころになって、ふと思った。周りに自分のスタッフをもち、演奏する以外、何も心配しなくていいようになれる頃には、私はすっかり力持ちで、ピアノの位置変えくらい何でもなくなっていることだろう。
音楽とは育っていくのにそれほど長い時間がかかり、それほど人を強靭にするものだと思うからだ。
“夢”があれば生きてゆける! 最近ふと思ったことがある。俺は今までにこんなに夢をもったことがあっただろうか? ふり返ってみれば、特段、夢をみることもないまま二十数年間生きてきたような気がする。 結構、現実主義で冷めていた部分が大きかった人間だった。ただ平凡に成り行きのままに生きてきた。大学進学も就職も一連の流れのままにことが進んできた…そんな感じだ。しかし、その平凡というのが実はクセ者だった。社会人になって、段々、それがイヤなものとなってきたような…。
とにかく、今の俺にはさまざまな夢が生まれ、またそれに向かっていくパワーも相当大きくなっているのを自分の中に強く感じている。やれるだけははやってみよう!すごく生きがいを感じ、充実した毎日を今、送れているような気がしてならない。今までは全てにおいて中途半端だったが、もうそんな俺はどこかへ捨て去り、夢へ向かって生きていきたい! 強い意志をもって…。