一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

一人の人間の深みとをとれ  191

 

一人の人間の深みとをとれ  191

 

芸の学び方は一つ、

一人の人間を捉えることである。

何人もの師につくのはよいが、いくつものスクールに行くのでは仕方ない。

結局、そのスクールに雇われている講師の個人としてのレベルの問題になる。

私は、両方を兼任しているが、自分のところでと、他人のところでは、

スタンスがかなり異なる。私の場合であるが、、。

家元であれば、内弟子と一般の受講生に対するスタンスに比せられよう。

 

 

まず、一人の人間のノウハウを最大限に吸収せよ。

一流のアーティストをみても表面的な飾りのところでなく、

その根っこ、人にはみえないところのその人の強さをみることである。

それに対して、真っ向から挑んで勝負していけ。

 

いつまでも傍観者になるな。

私が文句を言っている人を嫌うのは、

本人が行動していないから、そうすることを知っているからだ。

まわりに害をなすだけでなく、何よりも本人のためにならない。

 

全てが完全であれば、君の存在する意味がない。

不完全だからこそ、やることがいくらでもあるのではないか。

若いんだから、はっきりさせればよい。

 

よいヴォーカルがいない。

みんなへただ。

どうにも救われない。

何、考えて歌っているんだ。

 

だから、だめなのではなく、だからこそ、君がよくなればよい。

私もここも講師もスタッフも完全とはほど遠い。

あたふた動き回っているからだ。

 

むしろ、完全を嫌ってさえいる。

これがよくない、こうしてほしい、ああしてほしい、

 

そう思って文句で済ませるのでなく、

こうすればよい、こうしましょうと行動して欲しい。

 

よいヴォーカルになればよい。

君一人が本当に優れたヴォーカルになればよい。

それが最もよいことだ。

 

一人の力が十万人の力にも勝る。

表現して表現して表現しつくせ!

そしたら、誰かが認めてくれる。

 

世の中、いい加減なようでも、みている人はみている。

君の動作の一つひとつ、

課題のでき不できで判断するのは、学校であり、

アーティストのオーディションではない。

 

慢心さやおごり、勝負の弱さ、気の張り方、そういうものがみられている。

それを人のせいにするくらいなら、自分一人で一つの世界をつくっていけばよい。

 

オーディションも、何とか受かってやろうという人では入れない。

受かって何をやれるかというところがみられているのだ。

 

一所懸命やっていなくては、そのうち自分さえ信じられなくなる。

やっている人はやっている。モクモクとやっている。

 

私も、こうしたい、ああしたいというのは考えている。

しかし、やってみてできていることが、今の段階のことである。

 

いろいろと注文があるのはわかるが、言いだしっぺがやっていって欲しいと思っている。

手伝えることはする。

 

いつもこう言っている。

「認められたい、それは結構。それでは認められることは何か?」

それだけである。

誰もが同じである。

 

会うだけで応援したくなる気迫、そして魅力があふれていたら誰でも応援する。

そのことによって与えられるもの、そして、得られるものがあるからだ。

 

ところが、テイクばかりしようと考えていると、誰にも見向かれなくなってしまう。

それだけの条件を整えるために、ここはあるのに勘違いしている人が少なくない。

 

金を払えば何かが得られるわけではない。

何かを得るのに金、つまり、君の労力が役立つこともある。

 

こういうことが天性としてわかる人と努力してわかってくる人との差はない。

しかし、きっと一割の人もわかっていない。

 

本当によい歌を一所懸命聞かせてくれたら、

誰でも喜ぶ。

要はそれだけその力をつけることなのだ。

 

力がないのにいくらアピールしても無駄な時間、いやマイナスとなる。

人には勝負すベきときがある。

それさえ、わからないで、芸などできるものだろうか。