レクチャー 242
〇体から歌えるためのヴォイストレーニングをめざせ
ドラムやピアノなど楽器は、初心者でも、やればやっただけのキャリアになります。しかし、ヴォーカルは、基本的な練習をしっかりと身につけないと上達しません。やっているつもりでも本当のところ全くできていない場合が多いからです。特に声そのものに関しては、ほとんどの人がいくらやっても上達していかないトレーニングをしています。
ヴォーカルは体が楽器ですから、最初にその体をつくらなければならないのに、その段階を経ずに先を急いでしまうからです。すると、練習をやるほどに声が出なくなるなどということが起こります。
せっかく歌を覚えても、声が弱くて充分な活動ができないというのでは、どうしようもありません。
毎日歌っても、歌うのに声の疲れが影響しないという最低限の条件をクリアしていなければいけないのです。
俳優や噺家などはヴォイスをつくるための基本的な練習を長い時間をかけてやっています。せりふのなかで使い込むことで、徐々にプロとして使える声になっているようです。
しかし、ヴォーカルは歌うことを急ぐあまり、基本的なヴォイストレーニングになっていないようです。それでは上達はのぞめません。
それでは、ヴォーカルとして、特に声に関して、本当に身になる練習の方法とはどのようなものでしょうか。
人前で歌う人の場合は、まず何よりも、強い声、痛まない声というのが必要です。ステージが終わっても影響が出ずに、次の日にも声が完全に使えなくてはなりません。美しい声、魅力的な声、個性的な声というのは、その上にできてきます。寝なかろうが食べなかろうが、かれたり、痛めたり、出なくなったりしない強タフな声が必要なのです。
これまで、私はプロのヴォーカリストのレッスンもしてきましたが、多くの場合、基本的なトレーニングをじっくりとやる間がなく、ステージ中心なので、その場その場のつなぎでやってきています。彼らは歌の本番をメインに動いているので、そこに合わせての歌唱が中心で、声の基本的なトレーニングをやるだけの時間がとれません。だから仕方なく声の調整をやっています。
しかし本当に実力のあるプロをめざすのでしたら、これから述べるヴォイストレーニングをお勧めします。アマチュアや一般の人たちを鍛えていくためのヴォイストレーニングは、プロの調整をメインとしたヴォイストレーニングとは違っています。
多くのヴォーカルスクールで行われているヴォイストレーニングというものは、アマチュアに対して、基本である声の力をパワーアップするより、単純にてっとり早く仕上げてしまうものです。そういうヴォイストレーニングでは、その人の声を加工して、うまく聞こえるようにしているだけです。
その人に基本の力がなければ、それ以上のものはいくらやっても出てきません。発声の教則本も、もともと個人レッスンを続け、力のある人がうまく調整できないときのノウハウが多いようです。
たとえば、どんなレッスンマニュアルでも、声を出しやすくするためにリラックスして姿勢をよくするようにと述べてあります。実際は、それだけで声がしっかりと出るようになるわけではありません。
確かに、二十点の人を四十点にすることはできますが、カラオケの中級レベル止まりです。
問題は、それ以上に伸ばせなくしてしまうことです。
基礎がないために限界がすぐにきてしまう、いわゆる伸び悩みです。☆
いつまでたっても体から自由に声が出てこないのです。それでは人前で歌って、聞かせて、感動させるというところまでの技術には到底ならないのです。
私は、初心者もアマチュアの上級者もプロも区別していません。日本の場合、一部を除いて、残念なことにプロもアマチュアも声においてはあまり差はありません。音楽的になんとか聞けるレベルでも、それをお金を出してまで聞こうという気にはなりません。
プロとしてふさわしい声と技量を身につけるために、プロもこのヴォイストレーニングを採り入れてきています。さらに上に行きたいという気持ちが出てくるからでしょう。
ヴォーカルとして歌うために声を自在に扱い、声自体の魅力を高めることの必要性がわかってくるからでしょう。
〇歌うこととヴォイストレーニングの違い
表現すること、つまり歌うこととヴォイストレーニングとは違います。これを混同しないことです。ヴォーカルは、いわば肉体芸術です。
私はよくスポーツ選手にたとえて説明します。すると、プレイすることと、ランニングしたり腕立て伏せをしたりするトレーニングとは違います。
基礎的なヴォイストレーニング、つまり声の部分での完成度を求めることと、歌の部分で完成させていくことは違うわけです。ヴォイストレーニングとして、ある程度、声を使いこなせるように伸ばしていくことと、歌の中でその世界をまとめていくことは、当初は真逆とさえ言えます。☆
感情を込めて本当に歌おうとしたら、声は朗々とは出ません。しかし長年かけて習得した声を扱う技術がそれに耐え、そこにアーティストとしての表現である歌が現れてくるのです。
ヴォイストレーニングは器を広げますが、ヴォーカルトレーニングは器をまとめる方向です。
共通することは声をコントロールし、使いこなすところです。だから、歌っているときに、声に関して全く気にかけなくてもすむようにわざわざヴォイストレーニングという場をとって、やる必要があると考えるべきでしょう。
日本人は、歌うときに発声しようと考えてやるので、歌がダイレクトに伝わりません。外国人は、何か感情を出そうと思ったら、そのときにはすでに声があって、それがそのまま歌になるわけです。
日本人は歌いながら声をつくっているとでもいってよいほど、声を出すのに苦労しています。そのため、歌に声の制限から大きな限定がかかります。
歌うときには声のことを考えないで、専ら歌に感情移入できるようにするためにも、ヴォイストレーニングが大切なのです。
ポピュラーの場合、声と歌以外にも、バンドやステージという見せる部分があって、それぞれやっていく目的や方法が違います。自分が今、何を中心にやらないといけないかを考えましょう。ヴォイストレーニングだけでも完璧にしようと思ったら、相当な時間がかかります。
それに対し、のど声であろうと、どんな声であろうと、最高に表現効果を盛り上げて、お客さんに満足してもらうことを考えなくてはいけないのが、ステージです。そこでやりたいことがきちんとできるためにヴォイストレーニングをしておかなくてはならないのです。
その人の目的やかける年月によっても、最終的に到達する段階は違います。歌で専らレコーディングをやっていく歌い手、身振り手振りを交えて、ステージアクションで勝負していく歌い手など、ヴォーカルのアピールにも、いろんなパターンがあります。それによって、勉強するものも当然異なります。
もちろん、全部できるのにこしたことはありませんが、確実な力の差となるのはヴォイスを安定させることです。その上で自分がどういう方向に行くのかを考え、どの程度までヴォイストレーニングを完成させていくのかも決まってきます。だから、ヴォイストレーニングの期間に個人差があるのは、むしろ当然だと思います。長くやっている人ほど、歌の表現の可能性も大きくなっているようです。
ヴォイストレーニングは、歌を歌ったり、何かを表現するときに声という武器をよりうまく使おうとするものです。声が楽に広音域で音量も自由自在に大きくも小さくも使いこなせる技術を身につけていくためのものです。
ポピュラーの場合は、クラシックのように理想的な声があって、それに向かって声を磨いていくというものではありません。徹底的に強い魅力となるもの、その人だけの個性を生かした世界を創ることが優先します。
ヴォイストレーニングに専念している時間はあればあるほど有利です。しかし声に関して、ある程度、身についてきたら、未熟でも、ステージや歌に入ってもよいでしょう。いや、積極的に表現にチャレンジすることです。声の完成だけでみたら限度がないからです。
そこで自分の出していきたい表現に必要だからヴォイストレーニングをしていくという形で捉えていくのです。☆
声の必要性は、そこまででよい、それはあなたが自分の表現する世界から決めていくのです。☆
声がしっかりと使われているかどうかの判断はすぐできます。
自分のベストの声をさらにパワーアップして使いこなせるようにしていくために、ヴォイストレーナーにつくとよいでしょう。
〇発声がヴォーカルの力の基本
たとえば、私は声を聞いて、皆さんが十ぐらいのレベルで判断しているところを、その数百倍のレベルで判断しています。
皆さんも少しずつ高いレベルで判断できるようになっていきます。これもヴォイストレーニングの重要な目的です。このことによって、他人の声を判断できるようになります。やがて一流のヴォーカルの声も判断でき、そして自分でも出せるようになっていくのです。実力のある人も歌や声の出し方を自分の体でわからないと力もつきません。
どんな歌い方をしても、ヴォーカルは自分が出した声に責任があります。その声全てに神経が行き届き、しかも、頭ではなく体でコントロールできないといけないのです。プロの音程やリズムが少しも狂わないというバックグラウンドにはものすごく大きな鍛錬があります。
小さな声で人を感動させられるのも、大きな声がそれを出せる技術があって凝縮しているからできるのです。
自分の歌のレベルと、次にどの段階にいくのかをつかんでいること、さらにそのギャップを埋めていく方法がわかっていなくてはトレーニングの意味がありません。
ヴォーカル教室に行ってたら、そのうちにうまくなるだろうなどというのは、もってのほかです。トレーニングは、続けると必ず効果が現れるものでなくてはなりません。
たとえば、山に行って、のどを全然痛めずに体全体で「ヤッホー…」とシャウトできる声が出せますか。それが第一の条件です。ヴォーカルの技術などと言うのは、その上で初めて開花するものです。
それさえできない、そこでのどにひっかかるというのでは、伸び悩むのもあたりまえです。こういう人は自分の声の器を伸ばしていくためにヴォイストレーニングをやるべきです。
歌うことは、自分のもつ声の器のなかで表現をまとめていく作業です。百の器しかないのに二百の力を必要とする歌を歌うのは無理です。それをやるとのどを痛めてしまいます。そういう練習は、一時、伸びていっているような錯覚を起こしますが、実のところ全く伸びていないのです。
このまえできたことが、いつでも全く同じに再現できないということは、身についていないからです。これでは、本格的な活動どころか、まともな練習もできません。だからこそ、そこで基準ができ、トレーニングで克服していけるのです。☆
音程、リズムなどが不安定だという場合も、発声からくる場合が多いようです。音程やリズムをいくらやっていても、発声が安定しないと根本的な解決はできません。
たとえば、小学生がある曲を何百回練習して弾くより、プロが初見で弾くほうが、やはりうまいのです。間違えないで最後まで弾けるというのはあたりまえです。小学生でそれができたらうまいのかもしれないけれど、それでお金はもらえません。
一つひとつのタッチや全体の構想にその人の世界が出てきて初めて感動できるのです。ヴォーカルがリズム、音程が正しく、最後まで間違えずに歌えたからといって、そこで終わってしまえば、小学生と同じです。
ところが、そこを目標にしている人が少なくありません。コピーや真似ができたからといって、そこにどれだけの価値があるのでしょうか。
「ヤッホー」が体の底からきちんと言えるようになってきたときには、音程もリズムも、練習するとそれほど難しくなくとれるはずです。声が自由になると、かなり難しい音程でも、とっていけるものだからです。
音程やリズムをうまくとるために声を出していくのはおかしなことです。ヴォーカルは、まずは声の魅力、パワーで聞かせるわけですから、声を鍛えることが第一です。それにプラスして音程やリズムを学んでいくと考えたほうがよいでしょう。
〇自分のヴォイストレーニングをつくること
いろんな教本や教材が出ていますが、結論を言うと、自分のヴォイストレーニングは、自分でつくらなければなりません。私の教材なども、最初は、ここでのアドバイスを受けて使っていても、最終的には自分流に使いこなすことが大切です。
体一つ考えても、人によっては、骨や肉の付き方、共鳴腔、声帯も違うのです。自分自身でどれだけ厳しい判断基準をもっていけるかが勝負です。まず、基本のフオーム、ブレス、声の出し方、これらをどういうバランスでとるのかということをつかんでいくことです。
そして、その先は自分自身のヴォイストレーニング作りを、自らが自分の最良のヴォイストレーナーとやれるレベルになっていかなくてはなりません。☆
たとえば、野球の強打者は、必ずしも教科書通りのフォームで打っていないかもしれません。基本のフォームでの体の働き方やバランスをしっかり押さえた上で、自分の特性を活かします。普通の人ができないような部分での技術を高めているのです。しっかりした独自のトレーニングのメニューを作り、人の何倍も練習して、創意工夫しているのです。
姿勢についても、声が出やすいという基本の姿勢はあります。それができたからといって、出来上がりではありません。出来上がりは、その人が力を十分につけてステージに立ったときの姿です。
そこがマニュアルと実践との違いです。それは自分の体験でわかってきます。最終的には、座っても、寝ころんでも揺るがない声ができてきます。
私の教本は、間違って使っても声が出なくなるということがないようにという限定(安全策)をして書かれたものです。
効果的な方法というのは、効果的なほど、諸刃の剣です。
上達は早いかもしれないけれど、よほど注意しないと、初心者が独習するには危険です。そういう意味では、やはり時間をかけていったほうがよいのです。
そこから自分にあったものを見つけて行かなければなりません。その手引き書として教本があるのです。
ヴォイストレーニングは、自分で作っていくものだし、ヴォイストレーナーは、それを手助けしていくのです。だから、皆さんがヴォイストレーナーを自分のために使うことができるようになることです。
声を出すためのトレーニングをしっかり身につけていけば、声が出なくなるなどというトラブルがあっても、戻すやり方がわかります。
ヴォーカルにとって大切なのは、自分の楽器である体を手入れして、いつでもベストで使えるための技術を身につけていくことです。そのベストの状態で練習しなくては本当の練習はできません。
ステージの日にべストが出せないのではしかたがありません。聞く人はそこに出たものしか見ないし、そこで歌ったその歌しか聞けません。スクールに何年通っていたとか、何曲レパートリーがあるなどというのは、実力と何も関係ありません。
ヴォーカルの歌は、幸いなことに小説や絵のように評価があいまいなものではなく、一曲、いや1フレーズ歌えば、誰もが瞬時にわかります。だからこそ、なおさら声やその使い方の基本を身につけておくことが大切なのです。
〇オリジナリティの必要性
私のところには、たくさんのテープが送られてきます。たまにうまいと感じる人はいますが、その人が必ずしも有望とはいえません。なぜかというと、二、三曲聞くと必ず、どこかのバンドの亜流だというのがわかってしまうからです。それは、単に演奏技術がうまいだけです。亜流ならば、元を聞いていたほうがずっとよいわけです。本当にプロになりたいのなら、コピーや物まねで満足していてはだめです。自分の表現をもつことです。
極端な話、もし、演歌ですぐデビューできるというのなら、そこでデビューしておいて、後でロックに転向してもいいのです。プロとしての自分の城を持ってしまうことが先です。プロのヴォーカルだって、すべての曲をプロ並みに歌えるわけではありません。自分の分野で誰にも負けない力さえあればよいのです。いつも、それが何かを考えなくてはなりません。
オリジナリティのある音楽ほど、最初に聞いたときはわからないものです。その人の個性と結びついているからです。「なんだこの音楽は、変な奴、変な声」と。それで一年後ぐらいたったとき、もう一度会うと、何だかわからないけどすごいと認めさせられてしまう。そして、四、五年経っと相当なものになっている。そんなものです。単に上手だけではだめです。それは、すぐにそれが理解できる既存の音楽の流れの中にあるわけです。ロックでもないのです。ロックとは、習って受け継いでいくものではなく、今までのものに我慢ができないからこうなんだと打ち出すものです。それが、その人がステージに立つ意味です。だから、自分にしかできないことにまで深めてやるべきです。
歌に限らず、自分だけが変だなと思うところに、とことんこだわってください。その人の才能の一端がそこに表れているのです。それをつきつめて使えるものにできれば、それがオリジナリティであり、自分の世界を作っていく上で、一番の武器になるものだからです。
今の音楽や歌が全部よいと思っているのなら、歌う必要はありません。ただ、聞いていればいいのです。自分がつくる音楽が自分にとって一番気持ちがよいはずです。ただし、それが自己陶酔で終わっていたり、何かの亜流だったりすれば、意味はありません。
それではオリジナリティとは何でしょうか。プロは同じ曲を十人に歌わせても、みんな違うように歌います。ところがアマチュアではほとんど似たような歌い方になってしまうのです。歌を創り出すのではなく、単に楽譜にのっかって口を合わせるだけだからそうなるのです。アマチュアをプロの中に混ぜても、十一番目になれません。それは、楽譜を歌っているだけで、その人の世界が何も出てこないからです。隣の人と同じことをしないというのが、プロの条件です。同じ曲を歌っても、そこにその人だけが輝いてくる独自の世界がある、これがオリジナリティです。そのためには表現力とそれを支える技術が必要です。そのためにヴォイストレーニングを行うのです。
〇キャリアをつけたいなら、まずパワーから
楽器なら、三年習ったといえば大体、そのレベルはわかります。しかし、ヴォーカルで何年やっていると言われても、そのキャリアは何年前から始めたということしか示していないように思います。確かに長くやっている人のほうが器用に歌いこなせるようになりますが、それだけの場合が多いようです。
すぐに歌っても案外うまい人もいれば、長年やっても進歩のない人もいます。どちらにしろ、その間、意味のないレパートリーが増えているだけです。一曲も通用しないのに、レパートリーが何百曲もあっても、仕方ありません。本来ならば、こんな無駄をやっている間に一年でも二年でも本当のキャリアをつけていかなくてはいけないのです。
スクールのヴォイストレーニングでは、リラックスして余計な力を抜けば声は出るといわれます。しかし、単にリラックスすると声が出てくるものなのでしょうか。その声は何千人の前で歌い続けるのに耐えうる声なのでしょうか。
野球でも、私のようなど素人がプロの選手の中に入って力を抜いてやったら、通用するわけはありません。アメリカのプロのバスケットボールの選手と試合をしたいと、教本を読んでルールを覚えて、ドリブルやシュートの練習をいくらやっても、実践では彼らの体に圧倒されてしまって、ボールの三メートル以内にも近づけないでしょう。
となると、まず最初にやらなければならないのは体力づくりです。体力があって、その上に必要とするスポーツに特化した強化トレーニングがあり、さらに調整するトレーニングがあります。このヴォイストレーニングは、いわば、この強化トレーニングにあたります。
声について考えてみましょう。
鐘を突くことにたとえれば、まず中心を強く突けるようになることです。鐘はどうついても鳴りますが、まわりを強く押さえていては壊れてしまいます。
声もよく似ています。声の中心を捉え、パワフルに声を出せるようにしていくことから始めましょう。ナイーブな曲、シャレた曲などはパワーをつけた上でやっていくことです。トレーニングは、より楽に大きなこと(広い音域、大音量)を完全にコントロールできるようにするために行います。
新しい世界で人に認めさせるためには、パワー以外のものでやっていくというのは、難しいことだからです。何か衝撃を起こさなければ、誰も認めてくれないのです。もちろん、すごい才能があれば別ですが、ここでは、トレーニングでの克服で述べています。☆
そういう意味では、ヴォーカルが人よりも大きな声を使いこなせなくてはいけないというのは、あたりまえのことでしょう。
声がパワフルに出せるようになったら、そのために鍛錬された体で支えて初めて小さい声でもきちんと歌えるようになります。パワフルにしつつ、声にじゃまな要素を除いていくことです。そして同じ力で二倍ひびくようにしていくのです。
そのためには、一曲歌っただけで全身に汗をかき、心身とも疲れ切ってしまうほどの練習をしなくてはなりません。
役者の練習でも十五分も真剣にやれば、相当、体に負担がきます。三十分練習したら、終わってもそのまま立てなくて、しばらくそこで休んでいるというようなハードな練習を毎日やるから力がつくわけです。だから、役者さんのほうが声の扱い方がうまいわけです。マイクを使わずに一語一句残さず言葉を相手に伝えるのですから、当然です。
それに対し、そこまでのレベルのことさえできないヴォーカルがほとんどなのです。だから伸びないのです。
〇本当に大切なものを身につけること
声のパワーをつけ、完全にコントロールしていくこと、さらにその声に自分のうちにあるものを、表現して伝わるように出していく練習が大切です。
人は歌や音楽を聞いているようであっても、それだけではありません。声のパワーやそこから出てくるその人のセンス、雰囲気を聞いているのです。
ですから、ヴォーカルは自分をより大きく表現するために声や歌を使うと考えたほうがよいでしょう。
ヴォイストレーニングがヴォーカルにとって、とても大切なのは、声が自由に出てくるようになると、そこから歌というもの、音楽というものが、より深くわかってくるからです。ファンから表現者として身体で捉えられるようになるのです。☆
いい加減にしか出ない声や普通の人並みの声しか出ないままで歌い続けていくのは、それを補うだけの並外れた才能がないと難しいでしょう。
ヴォーカルは、その声の中に律動、パワー、一つの流れ、つまり感動させる要素がなければ、その表現は伝わりません。言葉で伝えてすむことならば、言葉で伝えればよいのです。
言葉で表現することの限界は、どんなに大きな声で表現しても、言葉がわからない相手には伝わらないことです。ヴォーカルの特権は、言葉がわからない相手にもストレー卜に音色やその動きで伝えられることです。これは音楽だからです。
言葉がないトランペットの音色でも、人は感動します。ヴォーカルは言葉も大切ですが、その音色、つまり声の魅力そのものを磨いていかなくてはいけないのです。
私たちが英語の歌を聞くときに、必ずしもその歌詞を理解しているわけではありません。しかし、日本語の歌以上に感動して聞くこともあるでしょう。そうさせるのは、音楽的な要素、特にそのヴォーカルの声の魅力に負うところが多いのです。歌うことによって、かえって言いたいことが伝わらなくなってしまうなら、歌う必要はありません。
言葉のトレーニングでも、誤解されていることがあります。口を大きく動かして発音練習をしている人ぱかりです。しかし、いくら口をはっきりと動かすことで、きちんと言えるようになったとしても、それはヴォーカルのトレーニングではないということです。
それを何年もかけて徹底してやっているアナウンサーやデパー卜のエレベーターガール、フアーストフードの店員が歌がうまいとか、声が魅力的なわけではありません。言葉は伝わっても、心が伝わるのとは異なります。
お腹の底から声を出すのではなく、口先で声をつくってしまうからです。
アエイオウと言葉を五つに分けていくこと自体おかしいのです。表現というのは、根本的には一つなのに、それをどんどん複雑に分けていってしまうから、かえって歌うのに難しくなってしまうのです。
高い声が出せないなら、口をちょっと開けるようにといったレッスンを受けて、そこで「あ」を出せても、同じ場所で「い」や「う」が出せないようでは、何にもならないどころか、そういう癖をつけてしまうと、普通に発声していれば伸びていったはずの声も伸びなくなってしまいます。
そういう方法で、音域が三音上がったなどと喜んでいても、すぐに伸び悩むようになってしまいます。そういうヴォイストレーニングが蔓延っているからです。
その声が通用する声、自由に使いこなせ、人を感動させられる声かどうかをチェックしてください。
ヴォイストレーニングにおいては必ずしも教える人が当を得ていないことが少なくないのも問題です。その場かぎりの上達をめざす人が多いからです。
まずトレーナーの声をよく聞いてみてください。
本当のことをするためには、基本を身につけるのに時間がかかるものです。
だからこそ人の助けがいるのです。
その日にすぐできてしまうようなことは、単なる小細工です。
人前で通用しないことなどはやらないほうがよいと思うべきでしょう。
〇体から感情を表現することの大切さ
のどで歌っていると、声が疲れてきて、うまく伝わらなくなってしまいます。体から声を出すことを覚えると、のどが楽になります。そのためには本当に歌うことを欲して、のどでだけは間に合わない、だから体が必要なんだということを体にわからせてやるのが一番です。すると体が使えるようになってきます。私はその習得過程を次のような例でよく説明します。
ピッチャーになろうとする人が、的にボールを十発当てようとするとき、最初は手先で投げたほうが早いし、実際に何発かは当たるでしょう。けれども、それを続けてやったときにはどうでしょうか。
そのまま投げ続けていたら、練習するほど、手首や肩を痛めて、壊れてしまいます。
逆に、ふりかぶって大きな投球モーションをつけて投げた場合は、体を大きく使っている分、最初は当たる確率は減ってしまいます。しかし、やがてスピードがつき、普通の人よりパワフルに投げられるようになります。そして的中率は十発十中にとなります。腰から投げているからです。
体を使う必要性というのは、そういうことです。それはどんな分野のことであれ、ある一線を越えるには必要不可欠なことなのです。
スポーツでも武道でも舞踏でも、何でも人間の体を使うものの基本は、腰です。
「肩の力を抜け、腰に力を集中させろ」といわれます。
バッティングでも「腰で打て」とか、お尻のでかいのが強打者だとか言われています。ヴォーカルも同じです。
しかし、ヴォーカルだけがそれとは反対の方法でトレーニングしているのが現状なのです。これでは、のどを壊すばかりです。
そういう人は一流の声、一流のヴォーカルを聞くことです。そのステージ、映像をみることです。自分の姿勢と比べるとよいでしょう。
英語で歌う日本人ヴォーカルの発音はよくなってきたのですが、口先で歌っている人が多く、向こうのヴォーカルには声の魅カや、そこから感じられるセンスという点でかないません。
日本人は、英語に聞こえるように発音を研究して正確に歌うのですが、声が軽く薄っぺらだというそしりを逃れ得ません。これはスピーチでも共通します。
英語圏のヴォーカルは、ネイティブを除いては、歌詞の発音も案外と不正確な英語で歌っているものです。今の日本人よりひどいです。しかし、結局どっちが聞くに耐えるかというと、選ばれるのは彼らなのです。
それは声そのものや歌い方に魅力があるためです。総じていうと、体から声が出ているからです。体から歌っているためです。これを可能にするのが、このヴォイストレーニングです。
高く細く甲高い声で歌うのをよしとしているのは、日本人のヴォーカルだけではないでしょうか。
多くの人が、高い声が出るようにすることがウオイストレーニングだと思っています。それは、高い声が出ない、出にくいからですが、目標とするのは、大きな間違いです。出だしの低い声さえ、もっていないのです。
本物の声をしぜんに使えるようにするというのが、このヴォイストレーニングの主旨です。
多彩な表現ができる技術をつけていくということです。
高い声から始めるというのは、ほとんどの人には、かえって遠回りな結果となります。ヴォイストレーニングをやっていった結果、高い声も出てくるようになると考えておいたほうがよいでしょう。ポピュラーの歌の聞かせどころというのは、そんなところばかりではありません。
ニオクターブもっているので、それを三オクターブにしたいという人もいます。
そういう人は、その前に一オクターブがしっかりと歌えるか試してください。
一オクターブが使えるからこそ、それをもとに高低がある程度、広がっていくことに意味があるのです。そうでないところに何オクターブあっても無駄です。この無駄なことをやっている人がとても多いのです。
私が思うに、日本人は、カン高くか細い声を崇拝しているかのようです。確かに高音はヴォーカルならではの魅力の一つです。でも、そればかりではありません。また、そこが得意な人がたくさんいるのに苦手な人が第一目標として時間をかけるに値するものでしょうか。
海外の一流ヴォーカリストは、高い音をとるにもしっかりと体から声を出しています。だから、一オクターブ上がっても、そんなに高く聞こえないのです。強く感情が表現されて聞こえます。音を高い低いで捉えないことです。
例外はありますが、ぱっと聞いてみて、音が高くなったとか、高いところを歌っているなと聞き手に感じさせるヴォーカルはよくありません。やたら、声を伸ばしているなどと感じさせるヴォーカルも失格です。音質、音色が統一していないし、声がコントロールできていないからです。
表現以外のものが聞こえると、表現の力が弱まってしまいます。声が伸びてしまうというのは、体を使わず、口先で歌っているからです。聞くに値する音質や伸ばした音は、すべて体からの息で完全にコントロールされています。
表現をするためには、体で息を切ること、深い息を使うことが必要です。小さな子に「おかあさん」と紙に書いて読ませると、作文を棒読みで読むときのような読み方をします。それは正しくは言えていますが、表現にはなっていません。
ところが、同じ子が何か大変なことが起こって「おかあさん!」と叫ぶ声の中には、人に訴えかけるものが出てきます。表現がされているので、相手の心を捉えるのです。
同じ子供でも状況においてこうも表現力が異なるのです。ヴォイストレー二ングも、最低限のレベルで表現のためにやるべきです。そういう緊張感や表現の必要性を詰め込んで、何とか一曲にしたものが歌だと考えたほうがいいでしょう。
一つのフレーズでさえもたせられない歌が、一曲、聞いてもらえるわけがありません。だから、私は、まず4フレーズまでを中心にトレーニングするように言っているのです。4フレーズで退屈させてしまうような歌を、一曲聞くような人はいないわけです。
4フレーズだとさびのところでもせいぜい半オクターブの音域内のことも多いです。その中で最も自分の表現しやすいキーで、人に聞かせられる表現をすることです。それさえできない人が一オクターブでならとか、一曲ならできることはありません。
〇日本人の高音志向の弊害
外国人のヴォーカルに合わせて歌ってみてください。ほとんどの人は上の「ド」あたりで音が細くなって、その先の音ではのどをつめてしまい声が出なくなってしまいます。同じ高さの音でどうしてこんなに声の厚み、太さやヴォリュ—厶感が違うのでしょう。
その差は、もともとは声に関する感覚や使い方の違いから来ていると思います。感情を出して、わあわあやっていたら、それが歌になっているというのが向こうの感覚であり、使い方です。
感情を表現することが第一にあって、その結果、感情を強く伝えたいところが音として高く上がっていくのです。しかし、考えてみると、そのほうがしぜんのようです。
そもそも、音楽や歌自体が、楽譜からきたものではないのです。曲といっても、それは感情を効果的に伝えるために、一つの形に整ったものです。感情や自分の世界を表現するためにできてきたものなのです。
加えていうならば、今、日本のヴォーカルでニュー・ミュージック系統のほうに近い人たちは、生まれつき高い音をもっている人が多いのです。彼らは、中間音や低音はあまり出ません。
そういう声では言葉を言うのが精いっぱい、声の魅力では勝負していないわけです。
しかし、日本人の中ではうけています。作詞や作曲的な才能が、優れていればそういう道に進むことも可能ですが、普通の声域の人がそういう声を真似るのは、危険なだけで益のないことです。
もし、高いところを出したいのなら、外国人が出しているような本格的な声を作っていくようなトレーニングをしないと、できません。中途半端にでたとしても、いつまでも確実なものにはなりません。
外国人は、声もそれを支える息も深く、胸に声がついたような発声をしています。そういう深い声でやっていくと、出るところまでは出て、もう一音高い音になると出ないというような声の出かたになってきます。そしたら、そこまでを集中的に練習すればよいのです。
すると、少しずつ体ができてきます。そして、一音、二音と高い音ができるようになってきます。その繰り返しで体がついてきます。それに応じて、また次の一音ができてくるようになっているのです。
体だけが使えば使うほど強くなるのです。必ず体で負担を引き受けていくことが、ここのヴォイストレーニングの原則です。
日本人の声は浅いので、鼻にかけて上に抜いてしまえば、ある程度まで高い音域は出せます。そうやってつくった音域は、いつまでたっても本格的には使えません。そんなところの声を何オクターブつくっても無駄なのです。
一流のヴォーカルは、1オクターブ上のところで、深い声でシャウトできるわけです。それが甲高い声にならないのは、体ができていて、のどがリラックスしているからです。
そういうやり方は、日本語では、慣れるまで、かなりのネックがあります。せりふを深い声で出せるようにしていきます。
それを乗り越えて、人間の体の原理に添った発声発音でやっていけば、効果がでます。これがインターナショナルな声です。そのほうがしぜんなのです。
口先のほうで「あえいおう」と変えたりしないほうがいいのも、こういうわけです。調音のトレーニングは、声になって出たものに表情やひびきをつけるために、行うのです。最初は音域や高い声にこだわらないことです。
私は、歌には、日常的に使っている日本語を使わない方向で処理できるようにトレーニングさせています。日本語のもつ浅い発声を捨て、外国人のように深いポジションで日本語を捉えたほうが、早く本当の声が使いこなせるからです。日本語を深めていって歌として使えるところまで、声をもっていってから歌にするということです。
音大でも、日本語の曲は難しいし、フレーズも作りにくいので、イタリア語やドイツ語の歌から入って、最終学年でやっと日本語の曲に入っていくのです。
皆さんも声のことを考えるなら、最初は外国語の歌のほうが入りやすいでしょう。私はジャズ、ゴスペル、ソウルとともに、イタリアなどの六十年代ごろの曲やオールディズをよく聞かせています。音声面では、英語よりイタリア語の方が簡単だからです。
多くの人は生まれてからずっと日本語で声をあまり声の出しやすくないほうにいじってきているので、そこから離すという意図もあります。
私が声の魅力やヴォリュームにこだわるのには、いろんな理由があります。
ふらついているとか、音程が狂っているとか聞き手に思わせたら、その時点でその歌はアウトです。そこまでのことは、人前で歌うようになる前にできるようにすべきことです。
プロのヴォーカルなら、少々音が狂っても、それを聞き手に感じさせません。なぜかというと、彼らは点をつないで音程をとっていくような発声をしていないからです。
深い声で大きな流れのなかで歌っていると、少しの狂いなど聞き手は気にとめなくなります。
音程の狂いがわかつてしまったり、チェックをされているようでは、ヴォーカルと聴衆との間の信頼関係が切れてしまっているということです。
か細い声というのは、そういう意味でも不利なのです。