一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

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随想千秋‐ヴォーカリストに学ぶ自己‐ ニヒリストを気取って自分の弱さを売ろうと試みるヴォーカル志願者は多い。彼らの感覚はその弱さゆえに実に繊細である。体育会系の獅子共には思いにもよらないような事に逐一おびえたり傷ついたりして生きてきた彼らは、嫌でも自分をとりまく社会や人間の在り方に対して敏感にならざるをえなかった。カモシカやレイヨウなどといった弱い動物が厳しい自然界を生き抜くために鋭い観察眼や演技力を手に入れざるをえなかったのと同じ理屈である。

そんな彼らは、部屋に引きこもって窓から外界を観察し続けるなんとかの令嬢と同じで、感受性には秀でているといわなければならない。花を愛したり、さみしそうに遠い風景を眺めたり、うすい紙に詩を綴ってみたりなどということに関しては職人芸を発揮するのである。

そして、集団の中には必ず自分のようなデリケート人間が数割いて、このセンチメンタリズムに共感するものなのだ、ということもちゃんと知っている。

忘れてはならない。彼らはバカではないのだ。あなたが気にもしない事まで考慮にいれて命をひきずっているのだからバカであろうはずがない。しかし、同時に指摘しておくべきことは、確かに彼らは利口であるかも知れないが、懸命なのではないということである。特に以下の3点を挙げておかねばなるまい。

 

彼らは非常に傷つきやすく悩みやすい。しかし、そんな彼らの特質は生まれつきのものであるというより、単なる運動不足のせいであることが多い。米国の歴代大統領の多くは激務の間をぬって友人と十数キロのランニングにこうじたりするが、二廻りも三廻りも若く二倍も三倍も自由な時間のある彼らの運動量は、それに遠く及ばないのである。

 

彼らの美点は、精神活動のこまやかさであるが、これと表裏一体をなしているのは、「怠慢さ」である。彼らの精神は普通以上に働きつめているので、それを宿している肉体もろとも普通以上に休まねばならないのである。この傾向を経済的社会システムの視点から眺めて見たとき、彼らの在り方は怠慢であるというほかないのである。

 

彼らが音楽活動に興味を持ち始めて、因果なことにヴォーカリストの道を選びさらにはプロ級の力と技術を求めたならば、それは丁度、宝くじの確立に挑戦するほどの険しい目標となるだろう。なぜなら、彼らは、よっぽどのことがない限り、生まれつきアドレナリン値が高く過去の貧弱な自わからとっくに脱却しえて、なおかつ将来の表舞台を凝と見据え、ギラギラと今年も来年も再来年も緻密に燃え続ける数万人のライバルの相手さえならないからである。極めつけパワー連中の巣なのであり、この連中の多くは、強くなるために散々と自分の弱さをも思い知ってきたツワモノ達なのである。本来、千の弱みがそなわっていようとも、連中は一つ一つに正面から闘いを挑んで勝利してゆくことだろう。連中は誰かに勝つのだとか自分に勝つのだとか云々いう以前に、たった一日の生き様が勝利的なのである。

 人は、勝利の姿、成功の姿、達成の姿に金を払う価値を感じるものだ。我々は、スポーツ戦や医大な建築物などの在り方を通じて、それを知ることができるであろう。(歌唱力のない人気歌手が軽んじられるのは当然のことである。しかし、歌えないのに魅力を放ち人を集めてしまう彼らの力を過小評価してはならない。たとえ、どんな技術を苦労して獲得しても、そこに金を払うに足る魅力がなければ、30年がんばっても人は集まらない。確かに、「勝利」は魅力なのであるが、以上のような観点から考えてみると、「魅力」そのものが「勝利」であるということもできるのである。

 

筆者は、十四ヵ月前から現在に至までおよそ六十以上もの一流アーティストと身近に接触する機会を得た(その中には、「美女と野獣」「アラジン」などでお馴染みのピーボ・ブライソンや、「スタンド・バイ・ミー」の本元ベン・E・キングなども含まれている)。

彼らすべてに共通するイメージは「タフさ」である。例外なくヴォーカリス卜はエネルギーの花形なのである。魅力的な顔の表情、しっかりした首の筋肉、安定感のある強い足腰。感覚的に言えば、彼らの肉体が放つ覇気にはまったく弱みがない。体が強いというだけでプロになれるほど甘い世界ではないが体が強くなくてプロになるほど甘い世界でもないようである。

(強さとは、弱さに甘んじている証明である。強さとは、弱さと対決し続けてきた勇気の証明である。弱いことに救いはない。)

プロ中のプロと呼ばれるような連中の強烈な独自性の向こうには、共通する一本の「真実線」なるものの存在が感じられる。もっと言うなら、それは線というよりむしろ点であり、直腸の上部あたりに位置する神秘的なエネルギーの特位点なのであると筆者は感じている。ここで是非とも提案してみたいのだが、あなたは今、ほんの二分ほど、覚醒しきった精神をなだめてから目をつむり、この特位点の存在を自分の中に確認してみないだろうか。(この試みに成功すると、人によっては大脳が頭蓋の中ではなく骨盤の中にあるかのような錯覚を起こすだろう。)もちろん、今は、この特位点が単に想像上の代物であってよいのである。小手先の思考や行動の在り方に一石を投ずるきっかけとなりさえすれば、特位点を両足のかかと付近に発見しようと、それは成功なのだと考えよう。この特位点の発見は、以後、私達の「在り方」に大きな革命をもたらすものと思われる。他人の視線が気になって返上の行動パターンを失うようなことがあろうと、この特位点され知っていれば、いつでもそこに立ち戻って居座ることが出来る。顔の表情や、口調など、小手先の技術を駆使して他人とのコミュニケーションをのり切ろうとする習慣のある諸氏は、これによってずい分、救われるはずだ。

「円滑な人付き合い」や「自分をいつわらない生き方」などを主張する方は、主張せねばならないだけあって小手先の生き方をしてきた人が多い。本来の独自の在り方とは、そういったロゴスの分類などではとても処理しきれない深遠な領域にあるものだと筆者は最近つくづく思うようになった。(たずねられもしないのに自己について語るのは、危険である。なぜなら、ほとんどの大人は、聞かされる内容に関心のあるそぶりを示しつつ、同時にその行動を非常に子供じみた浅はかなものと見なすものだからである。このように、人間は、他人の「在り方」には相当、敏感なようだが、今回の試みは、その敏感な感覚を自意識に向けてみようとするものである。)自分が、自分であると思っている今の自分の「在り方」というものは、案外、対人用に設置した「コマーシャリズム」の集合体に過ぎないかも知れない。自己について簡単な形容詞で述べられるなどというのは極めて浅く、そして価値のない行為なのであるし、我々がそういった些細な行為によって自己を見失っているのは確かである。

一切をつきつめてゆけば、それは真水の性質そのものであったり、大木の姿そのものであったり、卵割の過程そのものであったり、宇宙の成り立ちそのものであったりするものではなかろうか。

たかが声のトレーニングを通じて、想うところあれこれである。

今年も夏がちゃんと過ぎて秋が来た。思考にふけるのもよし、散々、栗を食らうのもよし、である。

 

 

求める声 「ヴォーカルをやりたい」と思い始めてから何年が経つだろうか。今までに、いろいろなバンドをやってきました。最初は、歌うのが楽しい、ただそれだけでした。

しかし、そのうちに、なぜこんな歌しか歌えないのか、なぜこんな声しか出せないのか疑問を持ちはじめ、自分なりに試行錯誤して歌ってきました。そして、納得のいかないまま、バンドをやってきました。

そして、自分の声がわからなくなってきたときには、バンドで歌うことが重荷になり始め、ステージに立つのさえ苦痛に感じました。このまま、バンドを続けても自分自身に納得のいかないままで、終わってしまうだろうと思い、バンドをやめることを決意しました。もう一度、原点に遐って、一からやりなおそう。自分の歌を、そして、自分の声を見つめなおそう。今は、そういう思いでいっぱいです。

常に求めてきた、外国人のような抜けのいい声。その声をものにするために、お腹から声を出して歌えるようになりたい。

これに尽きます。

 

 

「アーノルドシュワルツネッガー 中編」

鏡に自分の姿を映してごらん。自分が将来、どんな人間になるかあかるから。

アメリカに渡ったアーノルドは、そこでできた友人との初対面のときにそう言った。果してその頃からアーノルドは現在の自分の姿をすでにその鏡に見いだしていたのだろうか。ボディビルダーとしてだけでなく、映画スターとして、世界を馳せる偉人になる事をすでに予見していたのであろうか。彼はジムでトレーニングをするたびに、鏡張りの壁に自分の姿を映し、そしてじっと眺め続けていた。

そして友人たちに何度も何度も自分の最終ゴールについて熱弁をふるった。彼の最終ゴールとは、「世界の王座」につくこと。全ての面で王座につくことが彼の究極のゴールなのである。誰もが彼を尊敬し、誰もが彼に憧れるような、そんな姿を目指していたのだった。当時、彼は夜間学校に通い、サンタモニカにある質素なアパー卜で当時の彼女、バーバラと同棲をしていた。そんな誰もがしている様なありきたりの生活をしている若者が、とてつもない願望を語ったところで、誰も本気になどしない。むしろ、そういった事を熱弁をふるいながら語る若者を友人たちはある意味で変人だと思っていた。

「将来、どんなことをしたいのか、何になりたいのか、それを決めるのは自分自身だ。そして、ひとつの分野で頂点を目指そうと思うなら、たくさんのことを犧牲にしなくてはならない。十才になると私は「最高」に憧れ始めた。そして自分が生まれた土地を、国を、憎んだ。何がなんでもオーストラリアを抜け出し、アメリカに行くことだけを夢見ていた。そして、アメリカに行きさえすれば、自分は「最高」になることができると信じていた。みんなと同じような経験、似たような境遇を私は嫌った。人が経験しないような生活、考えも及ばない生活に私は憧れた。そう、特別な存在でありたかったのだ。私は頂点を目指した。頂点に達するまでは絕対後戻りはしないと誓った。そして、いつの日か「最高」になることに夢も希望も感じなくなったとき、私はそれまでの道を振り返るだろう。そして、忘れていたもの、見失っていたものを取り戻すに違いない。おそらく時間はたっぷりあるだろうから、それでも間に合うだろうから…。」

自分が望んでいるものが何であるかをはっきりと知ること。なぜなら目標や願望がはつきりと定まっていたならば、ただそれに向かってっき進めばよいからである。そして、これが、どんな事にも耐える忍耐力を養う重要なステップとなるのだ。

 

 

 

FIRST TRUE LOVE AFFAIR 何だかもの凄え台風が来たり、今頃んなって署い日が続いたりと、どんうなってんだ状態の近頃ではありますが、みなさん如何お過ごしでしょうか。

 

 

やっと正式にドラマーが決まり、「さあ、行くぞ」という矢先、ベースのが、「俺、L・Aに行く。L・Aでバンドやる。だからブラッツやめるわ。」なんて言いだすもんだから、さあ大変ですよ、アンタ。何が大変て…。とにかく色々大変なんだな。まあ三日としないうちに新しいベーシストが決まったんだけど。これ書いている今だって大変の真っ最中で、猫の“ロック”は、ゴハンの皿をひつくり返すわ、干してたシャツは風で飛ばされるわでもう凄いんだから。と言うわけで、又、原稿遅くなりました。関係者の皆様、言い訳につき合っていただき有り難うございました。そして誠に申し訳ありませんでした。かしこ

さてと…今度は書くことが思い浮かばん。ところでコレ読んでる奴っていんの?ウンともスンともないんだけどさ。ま、みんなとは会わないから無理もないんだけど。白えとかつまんねーとか、今度アレ書いてとか、バンドの方はどーだ?とかさ、何かないモンかね。誰か励ましのお便り下さい。さあ思い浮かんできた。今回は「東京ライブハウス情報ー!!」「ゲ、又こんなんかよー」と思ったヤツ。テメェ後でブッ殺す。

というわけで以前ライブハウスへ行こうというのを書いた気がするが、あれから行ってみたかい?家で貧乏くせえメシ食いながら、スットコドッコイなドラマ見てる位なら、ライブハウスで大騒ぎして、3リットルの汗をかいた方がよっぽど世の為、人の為ってもんだ。understand?それにあの音の洪水の中なら、「あおい」とか「ハイ」とか言っても誰も気になんねーぞ!! ちなみに僕はやってないけど、こいつぁーいい考えだ。練習熱心な諸君にピッタリ。歌が聞けて、楽しめて、しかもトレーニングもできる。まさにスペシャル・ファッキン・グレートスペース。やっぱライブハウスって最高って感じだ。

ところで、この間、バンドを初めて観た。腰抜けた。すいません、ウソです。ウソだけどマジで、年寄りなら抜かしたに違いない。とにかく凄かった。客電が落ち、暗い中、次第に空気が張りつめていく。それを切り裂くように、空気中に走る亀裂。圧倒的な音圧で空気を振動させる強力なリズムセクション。ハンマーで脳天をガンガンされてるかのごとき強烈なリズムが、うねりながらのしかかってくる。様々なビー卜、リズムを呑み込んで、それを奔流のごとき勢いで吐き出す。とことんパワフルでヘヴィだ。そして何よりもたまげたのがヴォーカリスト。こいつの求心力っつーか何っーかとにかくこんなヤツ初めて見た。何となく“レッチリ”のアンソ二ーを思い浮かべたが、そういう何っぽいという安易な形容ではとてもくくりきれない。とにかく久しぶりにVocalist然としたヴォーカリストに出会ったという感じだ。声は、何というかココで言う良い声っつーのとは違う気がする。でもいい。なんかいい。俺の思うところの都会の少年の、どことなく中性的な響きのする、何か少し青春っぽさも感じてしまう、そんな声。言葉にすんのって難しいな。ま、百聞は一見にしかず。金払って自分の目で、ね。ライブにしても音、聞くにしても、しっかり金、払わなきゃダメだ。たとえ知り合いのライブでもそう。汗水垂らして働いた金を払ってそこで初めて“音楽”とのつき合いが始まる。レコードだってそう。好きなアーティス卜のヤツならなおさら。きちんと自分の身を削る。そしたらそこから色んな感情が湧いて、つき合いが始まる。音とつき合うとはそういう事だ。楽しちゃいけないよ。わかるかい?

 

 

ヴォイスへの道 毎年、大晦日に一年を振り返り我が身を反省し、新年に向けての目標と希望を見つけるように、この場を借りて思い出してみようと思います。

福島先生の本に出会い、とにかくただ毎日ひたすら読むだけでした。昔から本と活字の嫌いな私は、一冊の本を何度も繰り返して読むことができないので、そのとき出版されていた本を全部、揃えました。そして、順番に読んでいきました。似通った内容にもかかわらず、この方法で飽きずに読み続けることができました。頭に叩き込むためにアンダーラインを引いたり、ノー卜に書き出したりと、まるで学生の様に…肌身離さず福島先生の本を手にしていました。

しかし、福島先生の本を手にしただけでは声が出るようになるはずがありません。声のしくみがいくら頭で理解できていても、体とのつながりは実践しないことには解らないのです。

それから私は、近所にあるスタジオに行きました。スタジオ代も馬鹿にならないので、個人練習で入れるときだけトレーニングをしました。(家では一切やりませんでした。というより、部屋は誘惑が多すぎて集中ができず、自分の部屋を練習場所として切り替えることが不可能だと思ったのです。)初めて発声練習を目的としてスタジオを借りるときは正直、恥ずかしかったです。ほとんどのスタジオは音が漏れるので抵抗がありました。“キチガイ?”と思われるのではないかと不安でした。が、人の目なんか気にしていたら何も始まらない。とにかくやるだけ。そして、私はスタジオに入るようになりました。

最初はスタジオに入っても何をしていいのか解らず、薄暗いその空間を持て余していました。とりあえず、ピアノの前に座り、今の自分の音域を調べることにしました。一オクターブ半は軽く出せたと思いますが、Breath Voiceでいう声ではありませんでした。何も知らない私はトレーニングの必要はないのではないかと思いました。家に却って聞いてみると何も変わっていないのです。当たり前です。今のままの声で歌って自分が満足できるならトレーニングの必要はないでしょう。でも、今のままじゃいけないと思ってスタジオに入ろうと決心したのだから先生のいう声と今の自分の声との違いを自分で知る必要があるのです。私はもう一度、本を読みなおしたのです。でも、やっぱりよく解りませんでした。それから、過に二回ペースでスタジオに入りました。ぜんぜん成長しないのでもう一度、本を読みました。そのなかに書いてある、“一日休めば三日戻る”この言葉に引っかかりました。スタジオに入り、一時間八百円で例えば三日練習して二千四百円。四日目、休めば二千四百円が水の泡。一所腰命、働いたお金を無駄にしていいわけがない。それよりなにより自分の感情のままに自由に表現できるだけの声が欲しい。一日休めば夢まで三日遠ざかる。二日で六日。三日で九日。四日で十二日…。事の重大さに気づいた私は、心を入れ替える為に、その週末、腰まであった長い髮を切り落としました。(この髪が腰まで伸びる頃には声も少しはマシになっているだろう。髪が伸びるのと同じように自分の声も成長してやるんだ)そして切った髪は長いまま持って帰り、落ち込んだときなどに見ています。

レーニングを毎日続けることができるようになって、しばらくしてから、本当の意味がわかったような気がしました。“一日休めば三日戻る”この言葉の意味です。毎日、毎日、目にみえる上達はなくても、ほんの少しずつ変化しているのです。良い方向に進んでいたり、悪い方向に進んでいたり、毎日トレーニングを積んでいる人程、細かく、自分なりに見抜くことができるのだと思います。(必ずしも、正しい判断ができているとは限りませんが、あくまでも自分なりに、です。)

関西の佐藤先生が、今年、東京で講習をなさったとき、“一日の練習は半紙よりも薄いが、それを積み重ねることによって、紙が厚くなっていく” とおっしやっていました。紙が厚くなればなる程、破けにくくなり、そして折れなくもなります。これは福島先生でいう、“一日寝て、一つ身につく” という意味と同じです。いくら足早に急いでも、本当の意味の声は手に入りません。“一日休めば三日戻る”“一日の練習は半紙よりも薄いが、それを積み重ねることによって紙が厚くなっていく”“一日寝て、一つ身につく”これを教訓として不動の声を手に入れていきたいと思います。

 

 

“音楽を愛していますか? ”なんて質問を突然されたら…あなたはどうですか。

私は答えに詰まって、そして考えた。

(私は人前に出ることが好きで、stageに立つのが好きで、ライトを浴びるのが好きで、歓声が好きで、歌うことが好きだ。でも、音楽そのものが好きなんだろうか?聞いたことのあるジャンルは限られてるし、楽器ができるわけでもない。そもそも“音楽を愛す”ということって何だろう。音楽って言葉は何を表しているんだ?)

考えだしたら、どうやらきりがなさそうだ。部活の合宿で、新潟の土樽に行きます。四日間ほど歌いっぱなしの日々。その、あいまにでも、自分の音楽に対する姿勢について考えてみるのも、いいかもしれない。

 

フランスにおけるラ・ヴィアンローズや、アメリカにおけるMemories、Tonightの様に、長く歌い継がれていくような日本のスタンダードを確立していきたい。

 

自分が本物かどうか試されている時期に来ていると思う。九月から十二月にかけて、様々なイベントがくり広げられようとしている。これらの催し物に私を加えてくれた人々に対し、感謝する一方、不安、緊張感もぬぐい去れない。そして、情熱も…。ただ、僕としては、どんな大物たちと共演しようが、「自分は自分の音楽を表現するしかない」と思っている。一日一日を大切に、着々と実力をつけていきたい。

 

表現としての歌の素晴らしさ。どんな状況も自分の糧としてしまうバイタリティが、自分の世界を広げる。自分とは何か、何を訴えたいのかを常に求めていく。歌は、生命のほとばしり、その人の宇宙の爆発。運は本人の努力でたぐり寄せるもの。

 

「人に好かれることに注意を払ってきた」E・ピアフ。

ヘロイン中毒で死の一歩手前までいったRチャールズ。彼らは歌なくしては生きられなかったわけだが、歌うことは果して幸福論となり得るのか。

 

先生の「自分がよくなればよい」という言葉を思い出した。

 

E・ピアフ、R・チャールズ、パバロッティたちは、私と同じ体を持っているのに、その体をフルに使って全身全霊で歌っていて、感動した。

 

日本人として、日本を誇れるような歌はあるだろうか。

歌に対する思い入れの深さは、自分の国や文化や人々を思う心に支えられていると思う。

私も、日本を世界で最も大切にしている人々と、「私の歌」を歌っていきたい。

 

二人の伝記的な内容を見て、彼らが非常に苦労して生きてきたことを知った。

 

黒人差別など、そういう苦難を乗り越えたときの歌に、より説得力が増しているようだった。

恵まれた家庭に育った私だが、これからつらいことを乗り越えていくうちに、人間的に成長して、彼らに一歩でも近づきたい。

 

 

 

 

おすすめ

 

「殺戮と絶望の大地」落合信彦著(小学館刊)

 

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