一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レクチャー  フレージング考ほか 18665字  132

レクチャー  132

 

 

 

フレージング考

 

最近、人気が復活してきた歌舞伎の話を聞いて、思い当ることがありました。

忠臣蔵」「千本桜」は義太夫狂言といって、義太夫節という音曲を使って上演されるそうですが、これは、歌舞伎のためでなく、義太夫節の人形芝居のために創られた劇曲だそうです。歌舞伎に、大阪で大流行していた義太夫節の人形芝居を移入したわけです。

 

さて、この義太夫節、語りものの音曲ですから、当然、音楽的に歌いあげられる。ところが、高いところと低いところという指定があるだけなのです。つまり、歌い手が自分の音域のなかで自由に高低を設定できるわけです。しかも、小節の長さは決まっているのに、個々の音符の長さは指定されていないのです。

 

上方歌舞伎」で1990年の芸術選奨文部大臣新人賞を取った演劇評論家、水落潔氏の述べていたことですが、「春のうららの」を「ハールのうららの」と語っても「ハルーのうららの」と語ってもよいそうです。この自由さ柔軟さが日本の古い音楽の特徴である一方で、氏は、間と音との重要性を指摘しています。間の巧拙によって、音楽が活きも死にもするということです。

 

私が述べたフレージングのなかでの考えも、ここでのヴォイストレーニングの方法も、まさに、この古い日本の音楽上にあるわけです。どちらかというと、今の日本のヴォーカルに批判的で、世界のヴォーカルやヴォイス発声に忠実にノウハウを構築してきた私に、このことは、日本の古来の音楽にある感性を、むしろ、現代的に活かしていけばよいという確信を与えました。

所詮、根のところに何もなければ、他の国のヴォーカルをいくら真似たり研究しても何にもなりません。しかし、ここに一つ、確かに日本人も日本の音楽をインターナショナル的に発展させていけるルーツがあったわけです。

 

間が悪い、間抜けなど、間というのは日本人にはとても馴染みのある言葉です。

 

昔、ラジオを通じてその語りに芸術的な美しさを感じさせた徳川夢声という名人がいました。氏は、話術の秘訣を、間を十分に効果的に置くことだと言いました。そして、その語り口は、間の芸術としても知られています。休みを十分に取り、時間十分にかけて語るわけです。

 

 

本当によい声とは

 

私がよい声だと思う声は、従来、日本でよい声だと思われてきた声と少々異なるかも知れません。シンプルに世界中、どこでも評価される声ということです。

 

私は、日本人の生声も日本人のプロの歌い手の声も、声においてはあまり評価していないからです。どんな国でも、歌い手の声の魅力は素晴らしいものです。経済的にも文化を取り巻く環境においても日本よりもずっとハンディのある国でも、そこのヴォーカルやキャスターなど、プロとして声を使う人はとてもよい声をしています。分野は、ポップスに限らず、何でもよいのです。

 

本当のプロのヴォーカリストの出す声には、同じような共通の声のイメージがあります。

それと日本の歌い手の声はどうも違うのです。

アジアも中南米もアフリカも、私が聞いた歌い手には、必ず声にしっかりした芯がありました。

音域に関わらず、同じ質の声で揃えていました。

 

 

 

日本で評価されなかった中丸三千繪さんの声

 

そんな時、世界の4大コンクールを制したソプラノ歌手の中丸三千繪さんのインタビューを聞きました。中丸三千繪さんは、ルチアーノ・バヴァロッティ、マリア・カリニア、フランチェスコ・パオロ・ネリア、そしてマリア・カラス国際コンクールと、オペラ歌手の登龍門といわれる世界の4大コンクール全てに優勝しました。(1988〜1990年)

 

その中丸三千繪さんの話です。

「私は、日本でいい声と言われたことは一度もないのに、イタリアでは皆が「ベラ・ボーチェ(いい声)」と言ってくれた。私は、日本にいたときは、先生にいろいろ言われても自分の考えは決して変えませんでした。そのため、全くいじられていない声、それがあちらでは非常によかったというわけです。」

「実は、日本人がいい声だといっているような声は、イタリア人からすると、全然、芯のない声なんですよ、ベルカントというのは芯のあるハガネみたいな声ですから。」

二期会の研究家にいたとき、私が留学してコンクールを受けようと思っていると言うと、ある女の先生に、そんなことを人前で言うと気が狂っていると思われると言われました。」

「私の声そのものは、今も大学の時と変わっていないわけです。」

 

どうでしょうか。これだけで判断するのはよくありませんが、現在の日本の声楽界でさえ、まだこの程度の器量の狭さ、見識のなさなのです。声の善し悪しというのか、ポピュラーを歌う人、教える人、そして、日本人全てにどのくらいわかっているのかというと心細い限りです。

 

日本人には日本人の好む声や発声というものがあるということで終わらせるのは簡単です。しかし、それが、世界のなかで、唯一、言葉と音楽がかけ離れたまま、歌を皆が本当に本心から楽しめない原因になっているとしたら、大きな意識革命も必要なのではないのでしょうか。

 

 

大きな声が出ない現代っ子

 

演出家、山崎哲氏は、現代の若者の声についてこういっています。

「劇団の子達は、相手に対して自分を閉じちゃっていると思うんですよね。彼らは、その上で他人とコミュニケーションしようとしているわけですよ。僕はその殻を破らせようと、もっと大きな声を出せ、相撲でぶつかり合うような気持ちで出せと言っている人です。そうするとだんだん大きな声が出せるようになるんだけど、彼らには、そこまでの経験がないものだから、自分の声を支え切れなくなっちゃうんだね。今の子は、胸部とか腹部が圧倒的に弱くて、自分の声が支え切れなくて、どんどん前のめりというか猫背になっちゃうんですよ。集中するとみんなそうなってしまう。」

 

 

よく使われる詞の言葉(ロック)

 

[名詞]あなた、僕、you、I、me、don’t、きみ、心、太陽、月、星、空、海、私、中、人、町、日、恋、愛、俺、おまえ、夢、胸、こと、今、二人、女、涙、雨、風、花、歌、丘、誰、いつ

 

[動詞]love、行く、言う、来る、泣く、好き、忘れる、吹く、歌う、踊る、ない、する、ている、なる、いる、する

 

[副詞]この、もう、ah、wow、よう、あの、そう、ええ

 

「最近は、英語が多用され、心理描写は徐々に排除されていき、現在進行形の行勤中心に詞がつくられる。これは詞の軽視、ビー卜、サウンドの重視であり、歌詞のなかで単刀直入な表現が求められている」とは、堤昌司氏の言葉です。

 

 

発音よりも、情感を入れて読む

 

誰もがよく知っている歌の出だしをトレーニングに使ってみましょう。

その歌の情景をイメージし、1文のなかに雰囲気をかもし出せたら大したものです。

知らないものも多いので、二度目からは、知っているものだけをチェックして繰り返すのもよいでしょう。知らなくても、タイトルを念頭においてイマジネーションを働かせたら十分に表現できるはずです。

次に、歌のタイトルだけを、順になるべく速く読んでみましょう。

五十音順に並べて、苦手な言葉や音をチェックしましょう。

 

 

応用編-変貌自在なこと

 

基本というのは形のことです。形を何度も繰り返していくと、そこに実がつきます。フォームが身についてくるわけです。

その充分な基本の力の上に、応用力がつきます。

 

歌うということは、応用力の上に成り立ちます。状況によって、自分の基本の力の上に、状況に応じて用いられる力、応用力を発揮させなくてはいけません。

これは、歌によっても、歌う場所や客層によっても違います。

しかし、歌い方の根本にあるものは一つです。

心があり、これが基本的な技術の上に、変貌自在に自分の世界をつくり上げていくのです。

 

力といっても、これは強引な力ではなく、理にかなった力、自分の体が最も使いやすいようなフォームにおいて自在に発揮される力のことです。ですから、力そのものよりも、使い方が大切なのです。

 

 

のどにかからない大きな声で

 

レーニングとして、自分の器を広げていきたいのなら、自分の最大限の力を正しく使うことが最も効果的です。

 

離しいのは、力を正しく使うことです。力を正しく使うためには、それなりの時間と経験が必要だからです。正しいトレーニングに基づいた経験が正しい判断を可能とします。

正しく判断された上での正しいトレーニングによってしか効果的に自分の力を伸ばすことはできません。

 

ですから、何が正しいかを知るために基本のトレーニングが大切であり、それまで飽くなく繰り返さざるをえないのです。

 

ヴォイスについては、正しく声を使えるということが条件の上でですが、なるべく大きな声でトレーニングしたいものです。それによって、一つの方向性がみえてくるからです。できたら、専門家の判断を仰ぐとよいでしょう。

 

のどにかからないこと、のどに負担を感じないようにやること。

一言で述べるならば、これが、最も理想に近い声といえましょう。

 

つまり、しっかりと出した声を大きくしていくのが、大切なことなのです。

正しくできないところでは、無理をしてやってはいけないのです。

逆に言うなら、のどにさえ負担がかからなければ、最も大きな声でやってみるとよいということです。

 

 

習得は一段ずつ確実に

 

早く上達したいというのは、誰もの願いですが、ものごとはそう簡単にいかないのです。そうであるほど、大きな価値が生じてくるのです。

 

とはいえ、何事も自分の力に見合った分だけしかできないものです。

最初は全くわからないし、少しずつわかってはきますが、わかっていてもできないのです。

それが芸道というものです。

 

スポーツも同じでしょう。

わかりやすい例で言うと、重量上げのようなものです。30kgしか持ち上げられないときは、30kgのところまででトレーニングするしかないのです。60kgではトレーニングにならないし、肩や腕を壊すかもしれません。せいぜい40kgに挑戦しつつ、30kgを何度もくり返して、フォームやタイミングを習得することが実践トレーニングです。そのための体力づくりをすることが、基本のトレーニングなのです。

 

60kgを持てる人は60kg持てる体を持っているのです。それを知らずして、同じことをやろうとするから無理があります。それぞれ自分の力に応じたバーベルから手をつけ始めることです。20kgバーベルをいくら振りまわしていても、トレーニングにはなりません。

60kgをしっかりと持ち上げる人には勝てません。小技と基本技の違いです。

 

スクールは歌を教えていますが、ここのヴォイストレーニングでは、声そのものが歌に聞こえるところまでを学びます。声の“芸”ということに対する考え方が違うわけです。

 

 

部分を見て全体を直す

 

「ハイ、ラ、ラ」を繰り返すようなトレー二ングでは、「ハイ」や「ラ、ラ」という言葉を言えるようにトレーニングしているわけです。

同時にそれを通じて、声に関するあらゆる問題を解決するように厳しいチェックをしているわけです。

 

つまり、その音域でその言葉が通用するかどうかを聞きながら、違う音域や違う言葉になったときに起きてくるであろう問題までも予め防ぐようにチェックがなされるわけです。

 

本人は今、できることに全力をつくすべきであり、与えられた課題を十分にこなすことに集中することです。

 

トレーナーは先に生じるであろう問題にまで注意を払い、チェックしておかなくてはなりません。できた、できていないのレベルなら、あえてトレーナーが言うまでもありません。

こうすればできていくであろうといったことを読めてこそ、他人の指導ができるのです。

しかし、そういうトレーナーは稀の存在といってもよいでしょう。

 

 

レーニングしているようなトレーニングはだめ

 

本当のトレーニングができるようになるまでは、ちょいとばかし格好よく人前で歌うことよりも難しいでしょう。本当のトレーニングは、見ていて感動するほど、真剣味の入った鬼気迫ったものです。

一見、楽しく明るい表情のなかに鋭いまなざしと何か何でもものにしようという意気込みが入っていて、初めてトレーニングといえます。

 

いわば、トレーニングといえども、いえ、トレーニングだからこそ本番なのです。人に見せるための装飾を省いた本筋がそこでは現わになり、人間の力の限界への挑戦が行われるわけです。

 

歌っているような歌はだめといいましたが、似た意味で、私はいかにもトレーニングしているようなトレーニングはだめだと言っています。

 

本人の自己満足では、だめなのです。

高いレベルへの挑戦と明確な目的意識があって初めてトレーニングといえましょう。

 

その人のトレーニングをどこでも、5分見れば私には大体、その人の歌への情熱から取り組む姿勢まで、そして実力も、およそわかります。

高い技術をもってしぜんにやること、これに勝るトレーニングはありません。

そのためにも早くプロとして声を使える特化された体をもっことが必要です。

 

 

声を殺すな、生かせ

 

車は何キロ/hまで出せるかというと、ジェットエンジンをつけたら、何千キロでも出せるかもしれません。しかし、実際上はそういう車が実用化されることはありません。なぜなら、曲がれないし、ブレーキも効かないからです。車はブレーキがきく速度以上に早くは走れないのです。スキーでもころび方から習います。

その人の可能性の挑戦とは単に限界を試すのではなく、可能性そのものを明日へ維持してコントロールできる範囲を広めるというべきでしょう。

 

声を出すにも最大に出せることは、ヴォーカルにとって絶対の条件ではありません。むしろ、のどをこわさないように出せること、常にコントロールし、自分の思いのままに出せることの方が大切です。このことを知った上でトレーニングするべきです。

 

 

ブレスによるフレージングとリズムの習得

 

声がうまく出ないうちにヴォーカルの基本トレーニングをするには、ブレス中心で行うことをお勧めしています。例えば、一フレーズを息だけで感情を込めて、歌ってみてください。

何十日も何百回もやっていくと、曲に対してどんどんと深い感情移入をして感情表現ができるようになってきます。フレーズやリズムの感覚を先に覚えていくのにも効果的です。

声がうまく出ないと声によってトレーニングが限定されてしまうからです。

 

 

三秒という長さを感じること

 

わずか三分でもボクシングの選手には、長すぎるほどに思える一ラウンドの時間です。

歌い手にとって三分は一つの人生を演じるのに十分に長い時間です。三分を演じ切るのは大変なことです。その長さをしっかりと捉えてみましょう。

 

音楽は時間のなかの芸術なわけですから、ヴォーカリストは時間に対しては、とても細やかにならなくてはなりません。一瞬一瞬、一フレーズ一フレーズの勝負の結果が歌なのです。ボクシングのように三分のなかにいろいろな展開がくり出されます。

 

好きな曲、一曲を無伴奏で歌ってみて、その長さを計ってみてください。

そして、3回歌って、ほとんど時間を狂わせないようにしてみてください。

 

好きな曲を無伴奏でちょうど一分のところでストップしてみてください。

2番が同じところでストップするか確かめてください。

 

好きな曲を10秒のところまでやってみてください。

 

好きな曲を5秒のところまでやってみてください。

(できたら、サビの箇所で)

 

好きな曲を3秒のところまでやってみてください。

(できたら、何ヵ所か取り上げてみること)

 

 

 

外国語の抑揚練習から入る歌のメリハリ

 

歌をメリハリをつけて聞かせるということは、わからない人には、どうしてもできないようで一本調子になります。そこは、大きなネックです。

大きな原因は、イメージとそれを実現する声の力の欠如です。

 

多くは、これまで声の統一ということを考えずに声を出してきたためです。

声が高低にわたり統一されており、言葉がしっかりと処理できていなくては、歌にメリハリがつけられず、歌が流れてしまうのは当然なのです。

 

もうひとつは、日本語そのものからくる欠点から、抜け出せないために起こることです。

これは日本人である限り陥ってしまうのですから、少し別の面からアプローチしてみた方がよいでしょう。

 

海外のアーティストの曲と歌い方をコピーするというのも一つの手です。ただ、いつまでもコピーらしさが抜けず、その人自身のオリジナリティがでてこないと、歌の説得性はでてきません。

 

そこで、言葉から入るやり方を勧めています。日本語にメリハリをつけて読むことです。

いっそのこと、外国語から入ってみてはどうかとも思います。

できたら、イタリア語あたりが入りやすく、しかも効果的でしょう。

 

声を効果的に使っている人は、ヴォーカルに限らず、深い声でぐいぐいと相手に迫ってきます。

ディベー卜という議論の応酬法がありますが、これも単に論理ではなく、間合いなど、声の使い方も含めて、学ぶべきものです。

 

こういうことを体験していくと、言葉を一つ一つではなく、フレーズとして捉える感覚が身についてきます。すると、バラバラの単語がフレーズとなり、センスとなります。

そこでのメリハリをしっかりと学ぶこと、これが一見遠回りのようにろえて、歌の上逢の秘映なのです。

 

 

レーニングは、明日のためにやるもの

 

練習というのはうまくできると嬉しいし、あまりうまくいかないと落ち込んでしまうものです。しかし、落ち込むことが発声にとっては、しばしば悪循環への入口になることがあるのですから、その日のでき、不できはあまり考えすぎないことです。

 

練習は試合ではないのです。力を発揮するのではなく、力をつけることが目的なのです。うまくできたというのは、力が発揮できたかどうかという観点からみているから、うまくいったとか、いかなかったとか思うのです。表面的にはうまくできても実のところ、練習になっていないということも少なくないのです。

 

レーニングというのは、それを続けることによって、根本的な力、基本的な力がついていくということです。体が変わっていんということです。ですから肝心なことは、一年後、二年後に、体がプロとして使えるように変わっていっているかどうかということなのです。だから発声のトレーニングは専門家につかなくてはいけないのです。

 

今の力がもう十分で、それを調整していくだけのトレーニングでしたら、ステージなどで実際に歌うこと、つまり実践していくことが練習にもなります。

 

しかし、基本を身につけていく段階で、もっとも大切なことは、今日ではなく、明日にうまくなるために練習するということです。100の力を120にするのでしたら、何をどうやってもよいでしょう。しかし、100の力を400、500にしたいと思うのでしたら、徹底的に体から変えていくことを、まず考えることです。

 

プロのスポーツ選手が、どうしていつも試合ばかりをしてないのか、おわかりですか。試合は力をつけた人たちの勝負であり、ゲーム運びを学ぶところなのです。どんなスポーツにも、力をつけるためには必ず別の練習メニューがあるはずです。

 

ステージは見せるところです。それに対して歌を歌うことよりも、声を磨いたり、その扱い方を拾得することを覚えていくことがトレーニングであることを忘れないようにしてください。

 

 

体を変えることとコツをつかむこと

 

私は、トレーニングの課題を二つに絞り込んでいます。特に初年度は、体を変えていくことと、声を出すためのコツをつかまえていくことに重点を置いています。体を変えていくこととは、体の力をうまく声に伝えられるようにすることです。これはアーティストとして人に何かを伝えるための力とパワーになります。体は誰でも、時間をかけていけば、相当に強くなっていきます。

 

それに加えてもう一つは、コツをつかむこと。つまりトレーニングの中から、大切なポイントを身でもって捉えていくことです。これは声のつかみ方、使い方の部分です。

どんなに体力や気力があっても、それをプレイに結びつける力がなくては、本当の力は発揮できません。その人なりの独自の方法、うまくやるためのノウハウを同時に見つけていくことです。

 

コツという言葉が適切かどうかはわかりませんが、量をこなしていく中で、少しずつ質をよくしていくということです。

さまざまな角度からアプローチをして、どのトレーニングが有効なのか、どういう時にはどのように対処するかを覚えていくこともこれに含まれます。

 

野球選手が何百回かの素振りを毎日するとします。すると、フォームが少しずつできてきます。バッティングマシンで実際の球を打ってみると、最初は空振りばかりかもしれません。しかし、そこでボールに当てようと小細工するのではなく、正しいフォームを守って、当たるようになるまで待つことが大切なのです。タイミングがわかり、コツが捉えられてくると、少しずつ当たる確率が高くなってきます。

 

これを急いではなりません。何度も索振りをしていると、実践でもバットとボールが近づいていくのです。そして、徐々にビッチャーの投げる生きた球にバットを合わすことができるようになってくるのです。右や左へ打ち分けたり、ヒットをねらって打ったりするのは、しっかりと基本がマスターできてからやるべきことなのです。

 

これをここのヴォイストレーニングに置き換えますと、素振りは息読みにあたります。息と声をつなげるところが、バッティングかもしれません。息で声にあてること、それを確実に行う最も効果的な方法は、毎日、息読みのトレーニングをすることです。できるだけ深い息でやると、少しずつ体と声が結びついてきます。

 

 

正しいことをやらなくては生き残れない

 

F1のレースでは、ハンドル操作やブレーキのわずか一瞬のミスが、死につながります。ですからレースに出られる人は、少なくとも相当の実力があり、しかもその力を常に正しく使っているといえます。

それに対して初心者の運転は、まわりに迷惑をかけるような、つたない操作で、スピードも遅いものです。そのときは、車を動かすことで頭がいっぱいで、とてもまわりを気にかけるなどということはできません。そこで事故が起きるのです。

 

ここから、二つのことが分かります。連転という一つの技術が手先が目だけでなく、体の感覚で捉えられていないのにレースに加わるということは自殺行為があるということ、そしてある程度のスピードやパワーがなくては、逆に技術は身につけにくいものだということです。

 

また逆に、ある程度パワーが出てくると、中途半端にはやれなくなります。すると少しずつ、習得したいことが身についてくるのです。F1のレースは、確かな運転技術の上にしか成り立ちません。

 

ヴォーカリストにも、このくらいの意気落みを持ってやるものかと思います。F1のレーサーたちも、命がけだから上達するのです。ハンドルの切り方よりも、まずは、走らせ方と止め方を覚えていくこと。ヴォイストレーニングでも同じです。歌い方よりも、声の出し方、切り方を覚えていくことの方が大切なのです。

 

 

発声を聞かせるな、表現を聞かせよ

 

歌は、発声のうまいへたではなく、表現力を問うものです。声が出るようになったからといって、声がずっと一本調子になっているようなものは、歌ではなく発声練習にすぎません。

表現とは、インパクトを与えて、相手を巻き込む力です。これがなくては、誰も魅きつけられません。

 

自分の歌が単に聞き流されているのか、それとも、本気で聞かせているのかを判断することです。声、音程、リズ厶、英語、そういった部分的なものが全面に出ている場合は、歌えているとはいえません。歌が聞こえるよりも、表現が聞こえる、表現が人を動かす、ということになっているかどうかを基準に判断してみてください。

 

歌詞や音程、リズムなどは、最初は、いくら間違おうと、よいのです。表現ができていないこと、なぜ歌っているのかという必然性、人間のパワー、力が感じられない、伝わらないことをまず恐れ、恥じてください。

 

 

やり直すな、常に一回勝負で

 

練習でも本番でも、常に一回勝負のつもりで行うくせをつけてください。よく、咳払いをしてから歌い出す人がいますが、のどのためには咳は厳禁です。途中で、声がうまく出ていないと思って、中断する人もいますが、あまりよいことではありません。

 

相手が気づかなければ、間違いは生じないと思い、とにかく、一回性の勝負だということで言い切る、歌い切ることが大切です。

 

そもそも本当に正しく声を出したり、完璧に歌い切れるなどということは、最初のうちはありえないと思ってください。やるほどに深くなってくるアーティストの分野においては、正解は求めなくてもよいのです。やったあとに、自分の気持ちがしっくりといけば、まずはよしとすべきです。

 

つまり、やるときに考えるな、やってから考えろということです。どうせ、そう簡単にはうまくいかないのですから、うまくいったと思ったものだけを残していけばよいのです。

 

10回のうち3回打てれば3割打者です。そのときに、失敗した7回は考える必要はありません。成功した3回を、何日もイメージで体で反復してみることが大切なのです。ホームランを打とうと考えるのではなく、ホームランが出たら、どういう感じで出たのかをイメージして反復しておくことです。

 

 

できるまで理屈ではわからないものがある

 

ヴォーカルのように体で覚えていく類いのものは、あるレベル以上にその人の体ができあがってくるまでは、どんな質問に対しても、本当の意味では答えられないものなのです。

声楽の教科書にあるような模範的な答え方はできます。しかし、いくら聞いても、いくらマニュアルを読んでもわからないのが、当り前なのです。マニュアルを読んでわかったつもりになるのは簡単ですが、それを実践するのは、並大抵の努力では、ほとんど不可能だからです。

 

その点で、机上の勉強、資格試験などで知識を覚えていけばよいものとは違うことは、知っておいてください。マニュアルを読んですぐできるようなら、誰も苦労はしないのです。人に教わっても、マニュアルを読んでも、一つの芸を本当に身につけるためには、苦労はあってしかるべきなのです。また、必ずしも、誰もが同じように自動的に身についてくるようなものではないのです。

 

しかし、その苦労をどう受けとめるかというところで、その人の力というものの差が少しずつついてくるのは確かです。マニュアルは、それをこなせる力がある人、それだけの努力をした人が感じていること、わかったことを、何とか体系づけて述べてあるものにすぎません。

 

他人のマニュアルを習得したければ、自分でその5倍くらいのマニュアルを作るようなつもりになるしかありません。自分自身のマニュアルのみが、マニュアルとして生かせるのです。人のノウハウはそのままでは、決して自分のものにははりません。

 

大切なのは頭でわかることでなく、体でわかること、他人をどうこういうことよりも、自分でできることです。それだけなのです。歌を歌うのに、マニュアル通りいくはずはありません。マニュアル通りでは、つまらない歌になります。ヴォーカリストが自分なりにマニュアルを消化して、いえ、マニュアルはともかく、うまくできればそれでよいのです。

 

呼吸法や姿勢も、正しく教えてほしいといわれても、その日にできるものはありません。方法を教えることはできても、歌に生かすためのものは、あくなき繰り返しの中で、自分で習得していくしかありません。

 

「どうすれば歌がうまくなりますか。教えてください。」と聞かれても、それは、「ホームランの打ち方を教えてください」と言われているのと同じです。

バッティングのフォームは教えられても、それを身につけるのは、本人の努力によるしかありません。それがヒットになるかホームランになるかというのは、結果にしかすぎないのです。

 

同じ打ち方を教えても、ホームランを打てる人と打てない人がいます。それまでの努力や修練によっても、相当違います。いくら、教科書を見ても書いていないし、書いてあっても、誰もができるものではありません。そういう質問は、少なくとも相当なトレーニングをして、確実にヒットを打つ力ができてから**るべきではないでしょうか。

 

よく、すぐに理屈で、「これは正しいのか間違っているのか」という質問をしている人がいますが、そういう人は、一度、頭で考えることをやめてみることです。

何度も同じことを繰り返しやっていると、体か教えてくれるはずです。

 

それだけのことをやらないから、いつまでもわからないし、不安なのです。頭ばかりで答えを求めようとしているわけです。

しっかりとやっている人は自分の体が何かしら、つかみかけていることを知っているだけにそう安易に人に聞いたりしないようです。

 

 

体をつけて、のどをはずし、本当の声を引き出す

 

「ヴォイストレーニングをすると、自分の好きな声が出せるようになる」と思っている人をよく見かけます。そういうことも不可能ではないし、それを専ら教えている入もいますが、私はそのことが、ヴォーカリストとしてやっていくための基本トレーニングにおいては、意味のないことだと思っています。

 

ヴォイストレーニングとは、声をアレンジすることではなく、その人の最も魅力的な部分を引き出していくことだと考えるからです。

 

そのためには、

体をつけていくこと、つまり体から自由に声が出るようにしていくことと、

のどをはずすことが基本となります。

もちろん、声のイメージを正しく捉え、自分の声を探求していくことも必要です。

 

ヴォーカリストとして歌うためには、並の声では難しいわけです。それなりに広い音域を豊かな声量で縦横無尽に歌いあげていかなくてはなりません。そのときに大きな声を出したいと思うと、どうしてものどが邪魔をします。そこで大きな声が出るように声を鍛えてことと、のどをはずしていくことは、同時に習得していかなくてはいけないのです。

 

声が体から出る感覚がわかってきますと、のどは使われていないことが実感できます。神様が与えてくれた声を自然に生かすこと、これがこのヴォイストレーニングの究極の到達点です。

 

そのときにあなたは声に身をゆだねる快楽を感じつつ、その誘惑に負けず、声を下僕として使いこなすことによって、あなた自身の世界を作り上げていけるでしょう。

 

 

ヘッドヴォイス(頭声)と声区のチェンジ

 

ここのヴォイストレーニングは、徹底して言葉と、低音・中音発声をトレーニングとして、メロディや頭声が自然とこなせる器となるまでを待とうという点で、独特かもしれません。

低・中音域の上に高音域がのるわけですから、低・中音域がある程度使えるまで、高音域のトレーニングをしても仕方がない、むしろ悪影響の方が大きいと思っています。

 

これは、私は自然の理にかなっていると思うのです。

スクールで習っている人やヴォーカルを独習している人は、高音域ばかりを急いで伸ばそうとしています。そのために中音域を中心とした1オクタープ(ド-ド)のなかで声区のチェンジをして、性声質を変えてみたり、やたら低いところから、頭声、裏声に頼ろうとしています。

 

すぐに頭の方へ抜くことは、歌を音楽的に処理をする点では、最も早い方法かもしれません。ただ、単にその音に届くだけで、本当にシャウトしたり歌いこなしたりはできないままで終わってしまうのです。

 

なぜなら、いつまでも体がつかないからです。体全体で歌えず、のど先か頭のてっぺんでしか声が出さないからです。そんな声で人に感動が与えられるわけがありません。

しかも体がついてこないので、いつまでも100パーセントのコントロールができず、不安定なまま完成していかないのです。

 

プロの高音発声は似ているようにみえても、息と体にしっかりと支えられたものであり、完成された低・中音域の上にもあることを知るべきでしょう。

 

 

ことばにフレーズをつけるトレーニングの効果とねらいについて

 

ことばにフレーズをつけていくことは、ことばをよりしっかりとらえ、表現することができないと無理です。そこで、ことばとしてしっかりと営えているかどうかの確認となります。

 

私たちは安易にことばを扱いすぎてすぎていますから、ことばに対する感覚を鋭くし、しっかりと伝えられる技術を身につけることが大切です。

 

そのことばを使って、フレーズの上降トレー二ングを繰り返すことは、ことばで表現できる音域を意図的に広くしていくのと、同時に音感やリズムに対する感覚も鋭くします。

短いセンテンスを何度も読んだり、短いフレーズに音をつけて歌ったりすることが、基本的なトレーニングになります。

 

バッティングの素振りやシャドーボクシングと同じで、短い時間に同じことを数多く繰り返すことが、基本を身につける最も早い方法です。

ですから、このヴォイストレーニングでは、一曲すべてを歌うことは、最初からは、しないで、まず、一つのフレーズを一曲歌う時間に何回も繰り返させるのです。

 

つまり、こもスヴォイストレーニングは素振りやバッティグのようなものです。

しかし、四、五回しか打つ機会のない試合に出ることよりも、力がつくのはあたりまえだといえませんか。

 

 

メロディに参るな、歌詞に負けるな

 

姿勢を正していくことをフォームづくりという形で習得していくわけですが、ここには外見のみならず、歌のスタイル、その人の表現形式も含まれてきます。ことばやメロディを口先で捉えるのではなく、体の芯で捉え、自分で抑えていくことです。

 

ことばやメロディに声を合わすのではなく、声で言葉やメロディをこなしていくことが大切です。自分の体に歌を抱き込んでいくことです。

 

水泳のうまい人は、大きなフォームで泳ぎます。腕をしっかりと伸ばし、目一杯、進んでから、手でかきます。小さくフォームを作っても、伸びませんし、進みません。

 

ヴォーカルのフォームも同じです。大きな空間を全身の感覚で捉え、足の下から天井までの大きなスケールの中に自分を位置づけ、声を出してください。

そして、表現をしてください。

ことばやメロディに足を救われたり、ただのっかるだけでは、何も伝わりません。

 

 

ヴォリュー厶(肉)づけ

 

声がうまく出るようになってきたら、声のなかに一本の線が通っているようなイメージで捉えるとよいでしょう。そして、その線を少しずつ、太くパワーアップしていきます。

そのときに、のどがピリピリとなったり、声がかすれたりしないように気をつけてください。

 

そして、その線が切れていなければ、歌は生きているのだと考えてみえください。

よく言葉のなかで、声の線がとぎれたりメロディを歌うとぼやけてしまうことがあります。

そうならないように注意してみてください。

ヴォリュームをつけていく、そして、歌う線を太く強く、肉をつけていってください。

 

 

全体感覚で声を捉える

 

声を体に結びつけた感覚で捉えていくことか大切であることは、何度も述べてきました。息も声も歌もすべて、体の重心で捉えるようにしてみてください。

 

もちろん、体に力を入れて使えばよいというのとは違います。声となるように息を介して、体をうまく使っていくということです。声があって、息があってこそ、体の力を使ってもよいわけで、体のカだけをのどにぶつけていくような歌い方では、のどをつぶしかねません。

 

体の感覚に心を傾けていると、そこに広さや深さがみえてきます。

かりに、音域と音量を二次元の二軸にとりますと、声の深さや魅カは、三次元となるでしょう。

 

深さとひびきが、歌にメリハリや味を加えます。音域や音程ばかりを気にしている人は、平たく薄べったい歌しか歌えません。アーティストの作品には、深さが必要なのです。

それが余裕となるから、聞くに耐えるものとなるのです。

 

さらに体の深部感覚、神の声がそこに聞こえてきたら、歌はその独自の世界を離れて、もっと深遠なものになるような気がします。

 

四次元の世界であり、人間の力を超えたものが、人間に力を与えてくれているような感じです。歴史に名を残した名ヴォーカリストは、きっと、この四次元の世界で歌っていたのではないでしょうか。

 

 

声(ことば)をまとめている

 

言葉をトレーニングするときに、大切なことは、そこに表現できてけるかということを念入りにチェックしてみることです。

そして、ことばをすべて統一していくとともに、ヴォリュームをアップさせていくことです。

以下、プロセスです。

 

1.ことばがバラバラである。

2.ことばをまとめていく。

3.ことばのフレーズ(一節)を大きく動かしていく。

4.そのレベルをあげていく。より大きく、フレーズを統一して表現できるようにする。

 

 

歌の新三要素

 

歌の三要素というのは、言葉、メロディ(音程)、リズムと言われています。

しかし、この三要素を、ことば表現、メロディ処理、声の深さ(音色)と考えてみるとよいでしょう。

ことばでの表現が、リズムと音程を伴い、メロディ処理されて、表現として大きくなるのです。

 

全てを同じにそろえるという尺度で考えるとよいでしょう。

従来にない厳密なレベルチェックができるのです。

 

このことは誰にでも試せるし、とてもわかりやすいので、

このヴォイストレーニングの最も優れた点の一つだと思います。

 

  1. ことばのフレーズと音色

次の言葉を読み、それぞれ一つのフレーズのなかで言い切ってみてください。

「あー」という感じで「あおい」と言うことができると、

一つのフレーズとして処理できたという目安になります。

 

あおい、あかい、あさい、あまい、あいおああい、おいあ、おあい、あえう、あうい

 

  1. メロディ処理

「あおい」を次のメロディで変化させてください。(階名)

 

ドドド ドレド ドレミ ミレド ミミレ ミミド ドドシ ドシシ ドドレ ドミド

 

「あおい」を次の音をつけて言ってみてください。

ミレド シドシ ドシラ ファミレ ソファミ ラソファ シラソ ドシラ ドレミ ミファソ

 

 

ぺースを自ら作り出せ

 

ことば、メロディ、リズム、歌の全ての卜レーニングにおいて、ヴォーカリストは自分が中心であり、自分が全てを決め、自分が結果の全てに責任をもっことを自覚していなくてはいけません。

何事も、上達した人というのは、ペースを自ら作りだし、まわりをそれにのせていくことで、有利に自分の力を発憚しています。ペース作りも一つの実力であるということです。

 

テニスのうまい人は、自分は動かず、相手を走らせます。

ヴォーカリストなら、メロディやことばにのっかったり、頼ったりするのではなく、自分がそれを動かしてかなくてはいけません。

より表現を伝えやすく、その結果自分の世界が現出するように、核心を抑えて、歌わなくてはいけないのです。

 

 

体(フォーム)の力とリラックス

 

スケー卜でもスキーでも、最初は全てにカが入りすぎ、重心が高く、膝がうまく定まらず、とても不安定な姿勢です。その状態では、すぐに疲れてしまいます。しかし、何度もやっているうちにスタンスが決まり、様になつてくるわけです。

 

すなわち、カは使うべき時にのみにうまく使えて、それ以外の時は、無理に無駄に使わなくなります。いつもリラックスした状態が、基本的なフォームとなり、常に状況に応じて、変化できるような柔らかさが出てきます。

 

ヴォイストレーニングの習得の段階によっては、膝や太ももに力が入りすぎるのも仕方がありません。しかしそういうときは、膝の屈伸運勤したり、腰をひねったりして、うまくほぐしていくことです。

直立不動で声を出す必要はありません。

 

 

強化トレーニングと実践トレーニン

 

力をつけていくことと、その力を生かすことは、トレーニングといえども目的が違います。

体力作りは前者にあたりますし、練習試合は後者にあたります。これを混同しないことです。

 

よく私は、「腕立てをしたすぐあとに、バッターボックスにはいる人はいない」と言っています。

筋肉をつけることと打つことは別なのです。

 

ステージで歌う日には、あまり過度なトレーニングをしない方がよいということもあります。

個人差がありますから一概には言えませんが、目的を常に間違えないようにしてください。

 

 

課題は進まないもの

 

アーティストのトレーニングというのは、答えがないのですから、1から100まで教えてもらってできた、というものではないのです。たぶん1から10までの基本を何千日も繰り返して、型を体に入れこんでいくことと、残りの90は、自分自身で問いをつくっては乗り越えていかなくてはいけないという、大変な仕事なのです。

 

ですから、課題が進まないというのは、別に問題はないのです。1から10までいったら、また1に戻り、10までやっていく。それを何度も繰り返すうぢに、1から10まで、最初は10ステップしかなかったことが、刻まれるメモリが細かくなって、1から100になっていき、1から1000になっていくといったものだと思えばよいです。

 

つまり、自分自身のやっていることへの評価やチェックが厳しくなっていくことが進歩なのです。

課題が進むのではなく、課題に取り組む自分が進むのです。

 

もちろん、1から全く進まずに、メモリ(レベル)を刻んでいくこともできますが、それでは少しマンネリ化したり、飽きたりしてしまうので、少々課題を変えたり、新しいアプローチをしていくのがよいといったぐらいなのです。

 

それも、本人が新しい課題を今までやったことに照らしあわせて、逆に言うと、教える人を何度も変えたり、やっている曲を次々と変えている人が進歩しないのも、こういう理由だからです。

 

自分に気づくためのヒントになると考えるからです。1から10のなかで得たことを、それぞれ100倍、1000倍に生かすのは自分です。そこで自分の課題を作り、それを継続し、伸びていける力、最も大切な実力がつくのです。

 

 

「ハイ」のトレーニン

 

それぞれを10回ずつ繰り返します。

  1. 息で(ハイ)と3回言います。(息読み)
  2. (ハイ)(ハイ)(ハイ)と息読みをしたあと、一つおいて「ハイ」と声を出します。
  3. (ハイ)(ハイ)(ハイ)・「ハイ」「ハイ」「ハイ」
  4. 「ハイ」「ハイ」「ハイ」
  5. 4をmf、f、ffの大きさで順に強くしていきます。
  6. 5の形で最大にシャウトしてみます。

単純なトレーニングですが、考えるまでもなく、ここで最大に出せる音量以上のものが、あなたの歌のなかで出てくることはありません。

歌のパワーをつけたければ、これを最大レベルのことを捉えていくトレーニングとしてやっていくとよいでしょう。

 

ついでに、フレーズとひびきのトレーニングもやっていきましょう。

  1. 「ハイ」「ハーイ」「ハーーイ」
  2. 「ハイ」をドから半音ずつ上げて(↑)、シャウトしていく。
  3. 「ハイ」「ハイ」「ハイ」をドレミの音程で(↑)。
  4. 「ハイ」「ハイ」「ハイ」をドミソの音程で(↑)。

このときは、声がのどにひっかったり、かすれたりしないように気をつけてください。

そういう場合は、もう少し低いキーでトレーニングしてください。

 

 

「アオイ」のトレーニン

 

ある程度の音量を、のどをはずし、体からシャウトできるようになると、ひびきがついてきます。

そこからは、「アオイ」ということばで、フレーズの感覚をトレーニングしてみてください。

 

「ア」「オ」「イ」ではなく、「アオイ」と聞こえるように、「アオイ」の三音を一音で出す感覚でシャウトするとよいでしょう。

しぜんと上に共鳴してきますから、そこからは少し、上のひびきを意識して、統一するようにしてみてください。

 

  1. 「アオイ」をドの音を聞いたあとに、その音でシャウトしてください。
  2. アオイ」をドから半音ずつ上げた音につけて、シャウトしてください。(下のドから、上のドまで)
  3. 「アオイー」を少しずつ伸ばしてみてください。
  4. 「アーオイ」(3と同じ)

「アオーイ」

  1. 「アーオーイ」。ことばが統一するように注意してください。
  2. 「アオイ トオイ」

「アオイ ソラニ

「ナンテ アオイ」

 

適当に自分でメロディ、音の高さ、ことばを変化させてトレーニングしてみてください。

 

 

高い技術をもってしぜんにやること

 

日本のヴォーカリストは、ステージの演出をはじめ、振りつけ、衣装といろいろと器用にこなしています。その反面、声の技術に関してはとてもおろそかです。

日本のお客さんが、曲や詞に比べて、声そのものの魅力をあまり重視しないせいかもしれませんが、これではヴォーカリストは伸びません。日本のヴォーカリストがインターナショナルになれないゆえんです。

 

これからは、声そのものの器を大きくし、可能性を追求し、声の魅力を充分に歌のなかに活かせるヴォーカリストの出現が望まれます。ヴォーカルにとって、ヴォイストレーニングは、もはや必修となりました。

 

ここのヴォイストレーニングのような本格的なトレーニングを吸収し、ある程度こなして自分の歌のなかに生かすには、時間がかかります。

誰でもこうした技術をすぐに活かしたく思うのは、わかりますが、それが自然に自分の歌のスタイルと合うまで待つこと、そしてさらに歌に使えるところまで、しっかりとトレーニングすることが大切です。

 

つけ焼き刃では通用しません。

ヴォーカリストとして、自分の魅力、オリジナリテイーがどこにあるのかを声の可能性から考え、追求していく必要があるのです。

 

 

表現は、一つにまとまって伝わる

 

ピアノでドドシと弾いたところが、曲の一部ですとドドシと聞こえますが、伝わっているのは、そこで表現されたものであり、ドドシの音ではないのです。

音を使って何かが表現されたから、曲となりうるわけです。

 

ヴォーカリストの場合も同じです。「アオイ」(ドシシ)と歌ったときに、そこに「青い」という表現が伝わる人はヴォーカリストですが、誰が聞いても「ア・オ・イ」としかならない人は、単に三つのことばを口に出したにすぎません。

 

表現は三つの音にわかれて聞こえるようなものではありません。

ヴォーカリストが自分のなかで一つに感じて、それを表現するものだからです。

体と心で一つに捉え、一つのことが伝わる、それが表現されたということです。