レクチャー 142
ヴォーカリストの基礎とは?
たった1オクターブの間の発声でも、きちんと出すのは大変なことです。
「あおい」の3語を同じ強さで、上のドまで言える人さえ大変少ないのです。
本来ならば、歌の表現は、上の音に行くほどヴォリュームが増していかなければならないはずです。しかし実際には、下では言えた言葉が、上では言えなくなってしまいます。
日本人の場合、言葉をしっかりとつかんで歌うということは、至難の技です。上に浮かすくせのついた声で、2、3オクターブ持っていようと、それは何の価値もありません。
そればかりか、そのために下の1オクターブまでもが使えなくなってしまいます。
日本人は、外国人が本当にシャウトしている声にあこがれて、上に響かせるなどの無理なやり方で声をつくっています。しかし、ヴォーカルの練習においては、できないことをやってはいけません。
10回のうち3回しかできないことを、そのままでき右ものとして放置しておいてはだめです。できる回数を5回に、7回にと增やし10回できるようになったら初めて次た進めるのです。
確実に身についてもいないのに、先へ先へと急ぐことには意味がありません。
どんな言葉であっても、きっちり1オクターブ言えるというのがヴォーカルの一番のベースの力となるのです。
足りないものをはっきりさせ、自分の中にそのたりない要素を入れ、今持っている力をきちんと使えるようにすることが本当の練習となるのです。
なぜなら練習と技は、今日のためでなく明日のためにするものだからです。
今日のベストの歌いこなし方よりも、
将来のベストのためにトレーニングをしていく、
何かを変えていくというところにポイントがあるからです。
人に合わせるな
表現というのは、まずは、人を振り返らせるものです。そうでないものはやってもしかたありません。言葉や発声練習のつもりで、棒読みのようなことばかりを1、2年やっても、キャリアにはなりません。
そういう意味では、ヴォーカルのトレーニングは、人と一緒にみんなでうまくなっていこうというものではありません。まず、自分でしっかりと主体性をもって取り組んでいくべきものなのです。
ここでもグループ練習をやっていますが、常に他人と合わせるなと言い間かせています。当初は人に合わせると余計な気を使うので、表現に集中できないし、力をセーブしたりして自分の表現もできなくなってしまいます。
カルチャースクールのようなヴォーカル・スクールへ何年間も通うと、欠点を直されて、よくも悪くも魅力のない当たり前の人になって終わりとなりがちです。ヴォーカリストになりたいのに、これでは意味がありません。
アーティストになりたいのなら、まず、悪いところや欠点を許せるようなところまで、誰も文句言わないところまで、自分の長所を伸ばせばいいのです。
誰かの言うことをただ真面目に聞いていても、仮に歌が上手になったとしても、ヴォーカリストにはなれません。
スクールは、ヴォーカルを、歌を上手に聞こえるようにトレーニングしています。しかし、本当は、その人の個性をオリジナリティとして抽出し、インパクトのある表現力をつけさせることが、最も大切なことなのです。
ヴォーカルには、これが正解というものありません。だからこそ、練習は自主的に自分で判断してやっていかなければなりません。
ここでは、そのペースメーカーとして利用してください。自分一人で練習ができると思っても、本当のノウハウは、そのレベルになってから、初めて教わることができると思ったほうがよいでしょう。
その価値を知ることか大切です。すると、1〜2年では、わずかな部分しかできないのですから、やめられないはずです。
ここでの2年間は自分用のヴォイストレーニングをつくるための期間です。要望があったらどんどん言ってください。
マニュアル本の使い方
優れたヴォーカリストのためのマニュアル本を読めばヴォーカルがうまくなるということは決してありません。マニュアルの優劣が問題なのではなく、それを個人個人がどういうイメージで実践していくかが問題なのです。ヴォーカルの練習方法を述べてある本を一冊読んだところで、何もできるようにはなりません。
私がヴォーカルの本を出版したのは、自分一人で努力している人が、その努力のために逆に声が出なくなるということを防ぐためです。上記のようなことが起こるのは、みんな理屈を知らないまま、がむしゃらな練習をしてしまうからです。本というのはそれに対するリスク防止のための安全策です。
日本人の声に関する考え方は、スクールで教えていることも含め、非常に歪んでいる部分があります。そんな状況下で、あの本を読んだために、逆に声が出なくなってしまう人が出るということがあってはなりません。
ですから、私の書く本は全くレッスンに来れない人が、間達った方向に行く危険を減らすといった程度の役割を与えています。そして、その補足を、こうしたレクチャーで行なっているわけです。
音感があって、リズム感があれば、後は感性がヴォーカルとしての問題となります。最終的に行きつくところを見極めるのが、ヴォーカルにとって一番難しいことです。ヴォーカルの理想像というものがはっきりしてないからです。
ギターなどの楽器は、18歳であろうと、30歳であろうと、弾けなければ、そこからスタートということになります。
しかし、ヴォーカルの埸合、25年間生きてきたらそれだけで、歌っていた、歌っていないにかかわらず、声の部分ではすでにそうとうな差がついています。
そういうことをすべて包括したマニュアルは存在しないし、存在を期待するのはおかしいと言えましょう。あくまで、基本的な考え方とトレーニングの課題かあっても、それを使いこなす自分のサイドでものを考えて、確立していかなくてはいけないということです。
ここのヴォーカリスト観
ここでは、今まで自分がやってきたものがどうであったのかを再把握し、これからどこに行けばよいのかを考える場です。ヴォーカルとして完成に近づくには、必ずしも声が十分条件ではありません。
しかし、声は、きちんと練習を積めば、確実に成果が得られるものであることは、確かです。ここで教えているのは、ヴォーカルの条件の一要素である、声のことに関してと、その使い方のみです。歌はすべて表現力の面から捉えて、基本を固めるために使うだけです。
また、最終目的のイメージを持てない人は、うまく伸びていきません。ここでは、日本のヴォーカル観を否定している面も多々あります。それは、日本のヴォーカルを真似して歌っていると、不自然な発声が身につき、2年ぐらいで伸びなくなってしまうからです。
ヴォーカルは肉体芸術なので、スポーツと同様に、どうしても体に覚えさせなければならないことがあります。腹式呼吸の発声も、体で覚えなければ、いくら頭で考えていても肝心なとき、つまり、歌うときにきちんとできません。
歌う際の理想的なフォームも、スポーツと同じで、基本的なフォームはありますが、それを自分に合ったやり方で応用していくことが肝要です。自分の体、生活を知ったうえで一つのフォームをつくっていくのです。
マニュアルは、書いてあることができるようになった人が、「ああ、こういうことだったんだな」と頭を整理するには便利という程度のものでしかありません。
基本的には「ドレミレド」を練習素材として、5年間、自分の練習ができれば、その人は立派なプロレベルと言えます。
ヴォーカルになるのは、そんなに難しいものではありません。自分かあり、感情があり、それを表現できる世界があって、その手段として声や音楽があると考えたらよいでしょう。
そうすると、歌そのものよりもオリジナリティーやポリシーなどがヴォーカルにとつての本当に必要な条件なのだということがわかってくるはずです。
そういった前提があって初めて、声が生きてくるのです。それをまず知らなくてはいけません。
ヴォイス・トレーナーの役目
私がみんなより唯一優れているであろうところは、いろんなヴォーカリストをヴォイストレーナーとして長年、見てきたという点です。多くの人を見てきましたが、だいたいみんな同じような過ちをしています。そのときの処方箋が前もってわかるというのが、私の立場です。
今みんながベストだと思って使ってる声、また、歌うためやむを得なく使っている声と、今は商品にならないけれど、発展性のある声との区別は、本人が判断するのは難しいかもしれません。そのお手伝いをするのがヴォイス・トレーナーです。
したがって、発展性のある声を、歌に使えるところまで持っていかなければなりません。
日本人ほど、歌と、日頃やっている発声練習がかけ離れている民族はいません。
感情表現やフレージングを、カラオケの本に書いてあるように、頭で考えてしまうからいけないのです。
ヴォーカルは体で覚えるものです。
頭ばかり使っていると、自己陶酔型のスケールの小さいヴォーカリストになってしまいます。
でも、体だけで無闇に出してても限界がすぐきます。
発声の基本の原理が体に身についていれば、本当は歌うときの姿勢などはどうでもいいのです。ただ、この基本の原理を覚えるために、基本の姿勢が便利なのです。
ヴォーカルは肉体芸術です。体がーつにぐっと、まとまって、それが全部開放されて表現されるものです。
そのための練習ができているでしょうか。
本当のヴォーカリストを知っていて、発声練習がそのヴォーカル像の同一線上に結びついていたら、そういうヴォーカリストに近づくことができます。
そうでないとトレー二ングによって声が出るようにはなりません。
常に何のためのレッスンなのかを考えることが大切です。
自分にこだわれ
ヴォーカルの力は歌の出だしを聞いたときに、聞き手に「すごい」と思わせるかどうかでわかります。英語がうまい、音感がいい、リズム感がいいなどと言われるヴォーカルは大したことがありません。そんなものを聞き手に聞かせてはだめです。それは歌の後ろに隠れて見えなくなっているべきものです。
歌から伝わってくるのは表現、人間、作り出した世界、感動、センスでなければいけないのです。
単に口先でいくら技術を凝らしても、体の底から出てくるものに勝てません。
特にロックやポピュラーなどは、自分が主体になって新しい定義で、作り上げていかなければならない分野です。
考えるまでもなく、ロックで他人に習おうなんていうのは、とんでもないことです。自分なりに行き詰まるまで突き詰めてからでも遅くありません。
憧れでこの世界に入ってくるのはよいのですが、憧れのままいってしまうと、オリジナリティがなくなってやっていけなくなってしまいます。憧れていると近視眼的になり、その世界しか,見えなくなってしまいます。ロックの常識を破りたかったら、ロック以外のものをやらなければいけません。
そういう意味では、変人というのは伸びます。変なところに自信を持ちましょう。妥協してはいけません。
先生の言う通りになるなどというのはもってのほかです。先生の雛形をつくっても仕方がありません。その人間の実感、考え方に裏付けられた歌の世界つくらなければ生き残っていけません。先達を参考にするのはよいのですが、そのまま、後追いをしてはいけないのです。
自分に対して、どこまでこだわれるかが、ヴォーカルの成功の要です。
ヴォーカルの立場は、バンドのなかで弱いことが多いのが実情です。バンドの曲を最優先にせず、キーを下げても、ヴォーカルを生かすような曲をやっていかなければ、バンドもヴォーカルを育てられませんから、プロへの道は遠いでしょう。
自分の変なところ、変わっているところを突き詰めて、一つの商品価値がつくところまで掘り下げる。それをやって初めて、声ができてくるものです。
ヴォーカリストとしての正解は、その人間の中にあるのです。
ただ一つの共通な正解というものはありません。
私が言うよい、悪いはその人にとっての声の使い方に関してのことです。
個性に関してのことではありません
日本人の声
ある意味では、町で誰もが振り向くくらいのルックスを持っていれば、ヴォーカリストとしてもなりたつわけです。いわゆるアイドル系ヴォーカルといった類です。
しかし、そういうものを持っていなかったら、頼りになるのはヴォーカリストの場合は声でしょう。
ニューミュージックなど、日本語の歌詞がわからなければ、なかなか歌として聞けるものではありません。
でも、外国の歌は、英語がわからなくても、聞いていて感動することができます。
このように声の魅力というのはインターナショナルなものです。これを有効に利用しない手はありません。
多くの日本人は生まれてから現在に至るまで声を使ってないようなものです。
ヴォイス・トレーニングは、その分の声を使って、普通の声にするというレベルのものです。
ここでは、相当のステージをこなしている人でも、声の出し方、言葉の使い方から否定されることかままあります。それは、まずは声の面で見ているからです。音楽性を否定しているわけではありません。
ここで否定している声は、限界がみえてしまっている声です。そういう声で歌っていると、いつまでも歌の中で常に声に気をかけなければならないし、声をこう出そう、ああ出そうと考えなければなりません»そういうことにこだわっていると、その分、歌のもっと大切な要素、特に表現力が損なわれてしまいます。
声楽の世界では、呼吸法が本当に身についていなくては、通用しません。しかし、日本のポピュラー・ヴォーカルの世界では、腹式呼吸ができていることと、プロの世界でそれが使えているかどうかは残念ながら別のことのようです。
要は歌として表現でぎていればよいのです。しかし、そのためには基本をしっかり身につけることが大切で、そこに呼吸のマスターも含まれるのです。
どれかよくてどれがだめだと、韻で考えを固めていくこと自体が、間違いだといえるでしょう。
プロのヴォーカリストの体を解剖したところで、ヴォーカリストの理想像はわかりません。
自分で体験していって、体で覚えたことのみが、確実に伸びていく要因になるのです。
そのためにも、最終目標であるイメージをはっきりさせていかなければならないのです
最初の2年間でやるべきこと
最初の2年間でやることは二つあります。
一つ目はどんな声であっても、それを1オクターブの中できちんと揃えることです。バラバラな声をいくつ持っていても、結局はどれも使えないということになります。自分でコントロールできない声は実際には使いものになりません。
二つ目は、ーつの声を出したときにその声がきっちりと出るようにすることです。自分の表現を、ある程度のヴォリューム感を保つて、相手に伝えられるようにすることです。
毎日のトレーニングで行っていくことは基本的なことです。
特殊なことはやっていないので、誰にも効果が出るのは当たり前です。
基本を確実にできるようにすることです。できないことはやる必要はありません。その代わり、以前はできていたのに、できなくなったことに対しては、厳しいチェックをすることです。
練習ではたくさんのメニューをやればよいということではありません。実際の勝負は1曲、一フレーズの組み合わせです。1曲3分間はかなり長い時間です。プロは3分間の曲を、1曲歌ったら全身くたくたになるぐらいの歌い方で歌い切ります。それを5、6曲持って、初めて人前に出ていくのです。
持ち曲を20曲持っていても、何にもなりません。本当に精魂こめて歌ったったら、歌1曲で十分に満足できるはずです。全力を出し切ってしまうと体が持たないし、ステージも楽しくないから、ステージではそれをコントロールしながら10数曲を組み合わせて歌うわけです。
本当は、まずそれだけのものを1曲に入れ込んで、体全体から歌って、相手に聞かせないと、普通の人は次のフレーズを聞いてくれません。それがわかってくれば、カラオケ的な楽な練習が大して何の役にも立たないこともわかるでしょう。
ヴォイストレーニングというのは、疲れるものです。疲れないのなら、体ができているということになるので、もはやプロレベルになっているということです。
まずは、体をきちんと使っていかなければなりません。それかトレーニングにおけるプロとアマチュアの意識の差です。そして、そういうことをどれだけ理解できるかが、その人のキャパシテイということになります。
とはいえ、ポピュラーの世界で声ばかりしかトレーニングせずに、マニアになってもしかたがないので、ここは2年間に期間を区切っているのです。
どんな芸事も、やみくもに練習をして、体を変える期間を持たなければ成長は望めません。歌とは、芸事なのです。
単純なことを飽きずに続けられるかどうかが成功への分かれ目でしょう。
それができれば、1曲を精魂こめて歌えるようになるでしょう。1曲飽きずに聞かせられるようになったら、後は何曲でも平気です。
自分の声をまとめること
歌にはまとめる力が必要です。アイドル歌手が、10点のカ、特に声ということについてしか持っていなくても、それを9割まとめることを教われば、9点になります。反対に40点の力を持っている人でも、それを1割にしかまとめられなかったら、4点になってしまいます。
どちらが商品価値を持つかといえば、当然アイドル歌手ということになってしまいます。
また、みなさんが、持ち点の10点をまとめて9点にしたところで、アイドル歌手のような容姿、強力なプロダクションの後ろ盾がないかぎり、ヴォーカルだけの勝負でみると、決して商品にはなりません。
声が強くなればなるほど、それを使いこなすのも難しくなります。それを練習を重ねてなんとかまとめあげ、毎年器を大きくしていくことが、たった一つ、自分の器にかかる制限を広げていくことになるのです。
体と息と声との結びつきは、体を相当強くし、声と体との結びつきが理曜できるようにならないと使えません。これが理解できないうちに生声でリズムや腹式呼吸、音程の練習をやってもあまり意味はありません。
プロとしての体を使うために必要な練習をしていたら、体がそれに対応してくるものです。ですから、まずはどういう方向にもっていくのかというイメージを明確にすることが大切なのです。
のどで歌っているような歌であなたが我慢できるなら、そのままでもいいでしょう。早く仕上げるには、小手先(ここでは、のど)を使うのが最も早く、一見うまくなるのです。ただしそれはカラオケの世界です。
それでは嫌だと思ったときに初めて、のどで歌うことがだめだとわかり、体を使うようになれる方向へ行くのです。バンドをバックに歌っているときは、音程やリズムに引きずられるので、特に声だけに専念して、行なう練習の場が必要になるのです。
お腹から声を出すのも、ただ大きな声が出ればいいというもので誌ありません。100出そうと思ったときに100出せることも必要ですが、2.5を出そうと思っても、2.5でうまく声にならない、つまりセーブができないというのでは、歌にメリハリがつかなくなってしまいます。
ただの腹式呼吸でよければ、スポーツ選手がそのまま優れたヴォーカリストになれるということになってしまいますが、そんなはずはありません。腹式呼吸は声を出すのに使えて初めて、意味があるのです。
トレーニングの初期において、まず息を使っていく利点は、声帯を痛める危険性が少ないことです。人ややり方にもよりますが。
腕や足の筋肉は使えば使うほど使ったところが強くなっていきますが、声帯にはそういった意味での筋肉がないので、強くするにも限界があります。ですから、練習に応じて内部感覚的に伸びていくところを锻えなければなりません。
例えば、高いところを出したかったら、人が力を出すときに、体がどうなってるかを考えるといいでしょう。スポーツでも、肩や腕に力が入っていると、そこを壊してしまいますね。力を入れるべき中心は常に腰です。ですからここを鍛えるのです。
この基本が頭に入っていて、体でわかるのなら、その上にいろいろな振りつけなどを自由につけて、自分なりのスタイルをつくることが可能となるでしょう。
ここで日本のロックの道を作る
ロック・ヴォーカルそのものに関しては、他人に教えられるものではありません。
歌を教えるというのでは、カラオケ教室になってしまいます。
歌を使うのなら、歌でなく、歌い方を、そしてそのように歌えるためにどうすべきかを伝えることです。ヴォーカルにとって、一番大切なのは表現力とオリジナリティです。声はその中の一つの要素にすぎません。
ということは、ヴォイス・トレーナーがお手伝いできるのは、ヴォーカルの全要素のうちの約1割です。
つまり、ここは、役者の世界で言うと公演を目的としない、入団テストを受けるためあ実力養成学校のようなものです。
ですから、重要な役目の一つは、そこに集まった人かクリエイティヴな活動ができるように場を整え、そこに旗を揚げていることなのです。
そこに様々な人が集まれば、自然とロック観も葬わってくるでしょう。一世代前の人は、ある程度の年になると、ロックをやめて、ジヤズやラテンなどの方へ方向転換していきました。
しかし、あと何年かしたら、ロックのファン層も相当しっかりしたものができるのではないでしょうか。20代、30代と長く続いていく道のない芸は発展しません。
ロックは本来アバンギャルドなものですが、これからはそれなりに確かな道がついていくでしょう。日本にも、1、2人の天才は、出てくるはずです。
プロの条件
ロックヴォーカリストのなかに多いのが、プロデビュー後、巡業を始めて、すぐに声の問題にぶち当たって、声がつぶれる人です。
オーディション用のテープは、1年がかりで拭き込めばいいので、ベストテイクを人に聞かせることができますが、本当の実力は、過酷なライブのスケジュールの中でこそ発揮されるのです。
これは、野球で言えば甲子園のようなものです。予選では、日程が詰まっていないので勝ち抜いていけますが、決勝が近づくと、中何日も入れないで、試合を続けなければなりません。そうなったときに、昨日と同じか、それ以上のものを出せるようにならなくてはならないのです。
そのための力がデビューする前にあるかどうかということなのです。
日本人が声を出すということ
戦後、ますます日本人の声は弱くなってきているようです。昔の軍人や一般の社会人のほうが、声に関してはよく出ていました。今までの日本社会では、言葉をはっきり相手に伝える必要性がなく、何をしたいと明確に言わなくても生ぎていけました。
その点では、声の間題は、これから日本人が世界各国の人々と、国際的に交流していくときにふち当たるものと思われます。また、声が出る、出ないというのも、文化的に深いところにある精神的な問題に根ざしていると言えます。
ヴォーカリストになる前に、アーティストになるという考え方と個人主義的な生き方、
それらがないと、声はなかなかうまく出てきません。
オリジナリティがロックの命
ヴォーカルについて、今の世代でそれを評価するレベルと、私が先の時代に向けて評価するレベルとは当然違います。これからの音楽は、私たちの世代には基本的にはわからないというのを、私は前提としています。そこで基準としているのは、わからないものだからこそいいものだ、今までと違ったものだからこそ価値があるという価値観です。
学園祭で一番うまいヴォーカルは、ロックの亜流の亜流。いくらうまくコピーできていても、学内の評価と、プロとしての世界を持っているかどうかは180度反対のことだと思ってよいでしょう。
プロはまず、オリジナルを見抜く目、そしてそれを評価する感性をきちんと持っています。今の日本のヴォーカリストは、声の技術で評価される部分が非常に少ないものです。歌以外の要素で人気が決まっています。しかし、それを逆にいえば、あなたにタレント的な要素がないのなら、ヴォーカルになるにはむしろ、歌う力でやっていくしかないのです。
アイドル歌手、もしくはそれに準ずるような人よりもうまいと思うといって、いくらテープをプロダクションに送ってもだめです。アイドルには巨大なバックとそれを支える市場があるのですから。
日本の場合特に、人気がある人と実力がある人は一致していないので、なおさらです。そして、トレーニングとは実力を伸ばすためのものです。
ヴォーカルの本当のカ
ヴォーカリストとしての力量自体で評価されている人は、日本では非常に少ないです。ヴォーカルの実力とは、いくつかのスタンダード曲を与えた時、そこでどれだけカの差がでるかということでもわかります。そこで共通なベースの力がついたら、どこでやっても通用します。
もちろん、アイドル的な人気であろうと、エンターテイメント性で評価されていようと
、聴衆に認められている時には、そうとうなパワーかあるということになります。
今の日本の芸能界では、レトロといわれるナツメロか主流です。
単に、ロック的な部分だけに徹底的にこだわっていくと、なかなか認めてもらえません。まずは、パワフルなステージをやって人を引きつけないと、歌がある程度うまくても、プロとしてはやっていけません。
そのためには、声を強くしておかなければならないのです。声に関しての私の評価基準は、
「これなら2週間歌いっぱなしにしてても平気だな」というところにあります。歌や音楽の前提にそういうタフな力があるのです。
世界的に見ると、ヴォーカリストの地位は、政治家と並ぶくらい高くてよいのですが、日本では役者よりもずっと低いものとなっています。仕事のギャランティーもヴォーカルよりも役者のほうが高いようです。
ヴォーカルを育てないこの日本の土壌のせいで、ヴォーカリストとしての阉の厚さか外国とは全然異なってしまっています。しかし、これからそれも徐々に変わっていくでしょう。
声は国境を越える
あらゆる国の音楽が、ワールドワイドなヒットチャートを賑しているのに、日本の歌がチャートに食い込めないのは、言葉がわからないと、音楽として聞けないからです。日本のロックは、まだまだ音楽になっていないのです。
英語圏のロックは、英語がわからない人にも受け入れられています。それは英語を聞いているわけではないからです。聴き手が聞いているのは、音楽によって表現されたもののよさなのです。
音楽はメロディーや感情によって、国境を越えることができます。演劇も、言葉がわからなくても、ある程度身振り、手振りでわかりますか。
音楽ほど完全には越えられません。英語かわからないからといって、ビートルズの音楽を聞く場合の感動が、英語をわかつて聞いている時の感動の半分になることはありません。
そもそも、言葉を言うだけで通用することなら、言葉でいえばいいのです。大きな声でしゃべって相手が感動するのなら、それで十分なのです。音楽で、そしてヴォーカリストとしてやる以上は、ただ朗読するだけでは伝わらないことをやる必要かあるのです。
声は、一声飛び込んできただけでも、聞き手がそれに多大な興味を抱いたり、ものすごく感動したりする要素を持っています。それが声の本質です。その声の楽器としての完成度を高めていかなければ、プロの道は遠いでしょう。
役者は言葉の処理が、非常に巧みです。それは基本的な言葉をこなす発声能力を持っているからです。ですから、歌を首葉で処理する能力は、役者にも少しずつ備わっていきます。
ヴォーカリストも、声としての部分では、役者として通用する部分を持っておかなければなりません。役者の声、歌い方は、言葉をていねいに発音するがために、フレージングができていないことが多いものです。そのため、彼らは言葉でつないでいくシャンソンは歌えても、メリハリを作り出すとこうの多いラテンやカンツォーネは歌うのが苦手なのです。
ヴォーカルはメロディックな部分も伝えなければならないので、自分の体の力を感じ、さらにそれをいかに聞き手に伝えるかというようなことの勉強をやっていかなければならないのです。
自分にあった体の使い方
よいヴォーカルはど、意識的には自分の体を離れていくものです。わかりやすく言うと、自分
の体を媒介にして、何か大きな力を人に伝えていこうとするということです。
ある力を自分の体で一度疑縮させ、それをエネルギーの形にして外に出していく。その時に、下手に自分勝手な力を入れたり、体を動かしたりすると失敗します。その点では武道と同じと言えます。
ヴォーカルも、人間の体、そして自分の体をまず知らなければいけません。王選手のように、教科書通りのフォームでなくても、成功したのは普通の人が2本足で打つ時以上の強さを1本足で持っていたのです。
要は自分の骨、筋肉、性格、すべてに合わせ、最も有利に使えるフォームを作り上げることが必要なのです。その際には、声を出すために働くカは非常に理想的に働いています。
自分の体を通じて、大きくエネルギーが出せる体の働かせ方は、それぞれにあります。背の低い人は小さい声しか出せず、大きい人が大きい声を出せるわけではありません。
しかし、そういう理屈を理解せず、下手な力を入れてしまうと、がんばればがんばるほど、自分の体を壊してしまいます。その力をうまく生かさないと、進歩はないということを、まず認識してください
声をつくっていくうえでの心構え
ヴォイス・トレーニングは、我が出ると失敗します。また、急ぎすぎても失敗します。まずは発声技術、呼吸法のことに関してが大切です。ここである程度理想的な声がつくれたからといって、それで満足してはいけません。そこから後の9割以上のヴォーカリストとしての要素を、つくっていくことが唯一の道だからです。
声をつくっていくことと、それを使いこなすこととは、まったく別物です。そして、100のものを使いこなすには、20のものを使いこなす、5倍以上の苦労をしなければなりません。ですから、技術、実力がついてくればくるほど、どんどん新しい問題点が出てきます。むしろ、問題か解決してしまうと、アーティストとしては終わりです。そうなったら、ほかの分野に転向しなければならなくなるでしょう。
音楽の分野でずっとやっていきたいのなら、より高い課題が出てきても、それを喜ぶような価値観を持たないと、いつまでも欲求不満が解消しないまま、そのうち疲れてやめることになってしまいます。
続けているところからしか、何も生まれてきません。では、続けるためにはどうしたらいいのでしょう。それには、去年よりうまくなったという実感が持てればいいのです。しかし、基本がないと、5年前の声が出なくなってくるので、やめざるをえなくなってしまうのです。
若くなくなると、無理な発声で出していた声は、どんどんだめになってしまうこともあります。だから早くから専門的に考えることが必要なのです。
日本のロックの現状
歌の中で日本語的な発声からくる弱点をつぶしていくには、言葉の練習をしなくてはなりません。それを口先でやってしまってはだめです。
現在になっても、1950、60年代の素晴らしい音楽がたくさん残っています。あのころは楽器、スピーカー、テープの全てが悪かったのに、それらの歌がこれだけ聞き続けられているのは、それだけヴォーカルの力が大きかったということです。そこまで一度、戻ってみるのもいいのではないでしょうか。
日本人が好むヴォーカリストと、本当のヴォーカリストの間には、まだギャップがあります。今までは、プロとしてやっていくためには、日本人の聴衆の好みにそって歌わなければならなかったので、プロになってから、器が小さくなった人が少なくありません。
大きなスタイルを持ち続けている人は、向こうの影響だけを受けて、つっぱねて歌っている人だけです。尾崎紀世彦、カルメンマキさんらの辺りで、ヴォーカルのベースとしてのカ、フレージングに関しての考えなどは、止まっています。むしろ、伴奏やマイクもなしで歌ったときの本当の実力は、昔よりもずいふんと弱くなっているような気がします。
ティナ・ターナーのようなヴォーカルは、向こうから来たら認められていますが、日本人の中から出てきたらきっと認められないでしょう。日本はそういう国です。しかし、本物を聞いていたら、共通の実力とは何かということが見えてくるでしょう。
スタンダードで通用する力をつけたうえで、自分の世界を作り出すことが大切なのです。そして、ヴォイス・トレーニング、つまり、声をうまく扱っていく技術に関しても、本物のヴォーカリストからしか学べないし、そこから学んだことしか通用しないのです。どのように歌いたいとか、歌い手の好き雄いは自由ですが、今、何を間いたほうが自分のヴォイス・トレーニングの上で、よいのかをしっかり考えておくことです。