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レクチャー1
この研究所は、表現するために歌うときの声と技術を身につけるための研究所です。
プロになれるとか、2年いれば声が完全に身につくというのでは、ありません。
たとえば、高校を卒業したらデビューするので、半年で歌をまとめたい人、早くテレビに出たい人は、向いていないと思います。そういう方向性を目指すのなら、音楽事務所に入る方が早く試せるでしょう。
プロになることと、技術を身につけることは、全く別の話です。
技術とは、声の技、歌について学ぶことで、
プロとは、日本のヴォーカルに関しては、メディア、伝え方の手段を得ることなのです。
研究所では、基本的な技術を2年でマスターしようという趣旨でやっています。
ただ、入る時点で、かなりの差があります。
すでに活動してきている人と、音楽というものにはじめて接する人とがいますから、個人差はあります。どちらの場合も同じクラスからはじめます。
プロレベルで活動してきた人でも、日本の場合、歌が歌えても声のことは全くできていない場合が多いからです。
却って、ヴォーカリストよりも10年くらい役者をやって主役をはって一人舞台をやれるような人が、この研究所が行なっている条件を満たしていることの方が多いです。
私のここでの役割は、教えることではなく、学ぶための一流の材料を提供することだと思っています。ここは、世界中のよいものを紹介している窓です。
その材料をどうくみとって自分のなかに入れていくかを手ほどきします。でも,それをどう汲み取れるかが、その人の能力です。貪
欲に汲み取っていこうという気概があれば、ここは求められる以上の価値のある自負はあります。
ですから、そういう気概をもって伸びていける人に利用してもらいたいと思っています。2年たったらプロになれるなどとは言いません。2年たったら、基本的なことがわかる。2年で基本を身につけようということは、365日、1日も休まずトレーニングし続けるということが大前提です。そういう気構えのある人にいらしてもらいたいと思います。
ヴォーカルというのは、人から教えてもらうものではなく、メディアも表現もすべて自分一人でつくっていくものです。この研究所があるのは、声に関してわからない部分が多く、トレーニングを独力でやることは困難だからです。
声に関して、将来どんな声になっていくのかは、経験がないと判断が難しいのです。ここは、ヴォーカリストとしての価値観は押しつけず、ただ、型、ものごとの基本的な考え方を提供するだけです。そのことによって歌唱に効果を出すよう補っていくための場です。
つまり、今のベストの声ではなく、将来的にベストにつながる声を伸ばすことをしているのです。
そうするためには、型からはじめた方が早いということです。
2年間で、考え方、音楽観、表現の世界観が大きくできれば充分だと思っています。そこから声、歌、フレーズを宿せるヴォーカリストとしてのスタートラインに立てることが目標です。
年齢制限などは問うていませんが、20代、30代またはそれ以上の人には、10代の体力をキープしておいて欲しいと思っています。結局、何かを伝えたいというパワーがコンスタントに出ているところに、技、歌、表現が宿ってくるからです。そのパワーが保てれば、トレーニングはやればやっただけ、必ず身につくものです。
一流のヴォーカリストの曲をたくさん聴いて、その感想を書いてください。
声のこと、歌のことなどをたくさん書き出していきます。
書き手になるつもりではないと思うかもしれませんが、画家でも音楽家でも、何か一つ芸として身につけた人は、必ず自分のことばをもっていて、書くことも話すこともできます。
世に出る人は、作品をもって人に言いたいことを伝えなくてはいけません。当然、それは多くのものを学び、多くのものを表現するプロセスで身についてきます。書くことによって、判断基準が身につき、自分にフィードバックできるのです。「書く」ということは、その当人がそれだけのことをやっていなければ書けないのです。確実に上達していくためのコツともいえます。
また、自分のトレーニングメニューをつくっていきます。最初は、わかりづらいので、ここのテキストや例を参考につくってもよいのです。少しずつ、自分専用の教材をつくるようにしましょう。
その教材、トレーニングメニューを、自分の進度に合せて変えていきます。
その人によって、声もことばの一つのことばに対するイメージも違います。表現も違います。他人のことばで勉強しても、あくまで「お勉強」にしかすぎないのです。自分のことばに置き換えて学んでいかないと「芸」にはならないのです。
声のトレーニングに関しては、今皆さんがもっている声はどういう声で、どのくらい歌えているか確認するところから始めてください。こうなりたいという目標を明確にし、そのギャップを知り、どう埋めていくのかがわかることが大切です。そのギャップをトレーニング用のメニューで埋め、さらに高い課題に向かって積み重ねていくのです。
トレーニングは、やれば必ず身につくものです。そうでなければ、トレーニングとは言いません。それには、早く目標と使命感をもつこと。たとえばオリンピックに出場しなくてもそこを目指してもらった方がもっと楽にできるようになるということです。やってもうまくいかないというのは、まだまだ足らないということです。
他の人との差とは、量からしかつきません。できる人とできない人の差は、その考え方の差です。1000回トレーニングして、1000回もやったと考えるのか、たった1000回しかやっていないと思うのかということです。
芸ごととは、普通の人ができないようなことができることを言うのです。あたりまえのことをやっていても、普通の人との差はつきません。それでは、誰も感動するわけがありません。すごいだけの理由となるものを、その人間がどこかにつくっていなければならないのです。
一流といわれている人たちは、どんなに天才だといわれている人でも、きちんとやるべきことをやっています。その天才といわれている人に近づくだけの練習量を積まないことには、才能も出てこない、いや問えないのです。問えるところまでもっていくのが、ここの最低目標です。☆
とにかく何かがやれている人たちは、考えもつかないケタはずれの練習量を積んでいます。量は、基本をリピートすること、質はリピートにオンする何かをつかみ、一段、高いレベルにあがることをいいます。トレーニングは、この両方が必要です。
次に「量」を「質」にすることが、とても難しいところです。発声、歌の場合、「質」にするためには、判断基準をもっていないと自分にフィードバックすることができません。その判断を養うために、一流のものを聴いて「耳」を養うのです。
世界の一流のヴォーカリストの声を徹底して自分の体に叩き込んでいることが必要ですが、それには、かなりの時間を要します。それが自分のなかにあれば、その声のイメージに対して技術をきちんと磨いていけます。それを突き詰めていく間に、いろんな矛盾がおき、そこで自分独自のスタイルというものができあがってきます。それが、その人にとってのオリジナルなものです。
そもそも、外国人と日本人とでは、なぜこんなに声の差が出るのでしょうか。外国人ヴォーカリストの曲に一緒に合せて歌ってみると、ほとんどの日本人の声は細く、か弱い声になってしまいます。
これについては第一に、日本の風土、環境、文化の問題があります。
日本では、大きな声を出すこと、表現することが、マイナスとして受けとめられる社会です。そういう社会に生きていると、音声表現に無意識のように制限がかからざるをえないのです。
外国では小さい声でボソボソしゃべっていても伝わらないし、黙っていたら無視されたり敵意をもたれます。
一般の人が声をよくするためには、海外で生活することが早いかもしれません。声を出すことの快感が損なわれていては、どうしようもありません。
もう一つは、言語、ことばの違いです。日本語という言語は、口先で浅い息でも話せる言語です。そのため、話す声はのど声に近いところになります。しかし、外国の言語は、深い息で成り立っている言語で、どこかに強いアクセントがついているため、しゃべっているだけでリズムがつき、そのまま音楽ののりが出てくることになります。
それに対し、日本語の場合は、外国人のもっている根底の深い息、体自体の共鳴がないため、いくら声を出しても限界が生じてきます。どんどん声量が細くなってしまいます。まるで、10しかない力を10の音に分けて使っているようなものです。
外国人は、胸のひびきが100くらいあって、そこで少しひびかせたら、1オクターブくらいの声は、頭のひびきを使わなくてもしゃべる感覚で歌えるのです。この違いは、とても大きなものです。外国人は、歌っていくなかでヴォイストレーニングができていますが、日本人は歌えば歌うほど、声がかすれてきて、のどに負担をかけてしまいます。
ここから考えても、日本人は声において、同じ土俵にのれていないのです。そうしたら、単純に考えて、一音でもよいから外国人と同じ音質、ヴォリューム感を捉えるところから始めると考えてみます。そのために深い息、強い体を身につけるのです。
日本人の場合は、マイナスからのスタートになるため大変ですが、日本ではこれだけ声に関心をもち、トレーニングしている人はほとんどいません。このことを身につけられるだけで、日本では人に大きな差がつけられるでしょう。
体から声を出す、太い声を出す、声量をつけるというとき、その問題を日本人は日本語として解決しようとしています。それを何十年とやっているのにも関わらず、他の国なら一般の人でも出せる声を日本人は出せない理由とは何かということです。
年月がたってもキャリアにならないのは、それを求めていないか、求めていても違った練習をやっているからです。正しいことを年月をかけてやっていけば、何ごとも必ず身につくものです。
皆さんの声をきちんとしていく方法は、体の原理に戻ってトレーニングすることです。
それには、今の器でつくるのではなく、器そのものをもっと大きなものにするというように根本から考え方を変えることです。
まず、「ハイ」と言ってみましょう。体、腰中心で体の原理に基づいて一音でシャウトできるようにします。その声に変なクセがつかないように、いえ、すでについているクセをとらなくてはなりません。
口のなかでつくろうしないこと。一つの声を、3分間、同じようにリピートできることが基本です。「ハ・イ」と二語に別れてしまったり、音色が変わったりしないように一つで捉えられること、これが簡単そうでなかなかできないのです。
1分間、完全にコントロールすることが、歌うためのベースです。
この「ハイ」をまず一音、そして半オクターブできるようにすることです。体がきちんと使えて、声をコントロールできていなければ乱れてきます。
技術とは、このように突き詰めていけばとても単純でわかりやすいのです。声のコントロールが完全にできてさえいれば、ハスキーであろうがダミ声であろうが、そこから表現は出てきます。そのために、ヴォイストレーニングをするのです。
「ハイ」という点で押さえられるようになったら、今度はその点と点を結ぶ線をコントロールできることです。それがフレージングです。
音楽は、点ではなく線の世界であり、それをまた立体的に現出していく世界です。
たとえば、外国人が「イエース」と一つに捉えていうところを、日本人は日本語の感覚で「イ・エ・ス」と3語に捉えてしまいます。すると、そのようにしかいえなくなります。この感覚のイメージを変えていくこと。これが、早く身につける方法です。
具体的に、1年目は役者、外国人のしゃべるレベルに、2年目はフレージング、音楽要素を加えて一つにすることを目標にしましょう。2年間で一言「つめたい」と体からシャウトできれば、身についてきていると考えてください。
音声をきちんと出すということは、体から声を捉えシンプルに一つに捉えるということです。体で聞いたことを、自分のなかで瞬時に捉えて、その一瞬を歌のなかで自分で表現していく。それだけのことです。そういう観点でトレーニングしていかないと、いくらやっても身につかないのです。
あなたが今の歳まで生きてきて聞いた歌、発したことば以上に、日本人を超えたところでの深い声、息、体を使っていけば、おのずと変わります。
トレーニングは休んではなりません。1日休んだら1週間戻ってしまうのです。年中無休でやって2年でやっとスタートラインに立てるかどうかのレベルなのです。何かを一つ築きあげようとしたら、それはあたりまえのことです。
普通の人と同じように生きていても、何も出すことはできないのです。10代の人には、ここにくる前に武道やスポーツをやることを勧めています。それは、体を使って一つのことを身につけるプロセスが、結果からわかりやすいからです。
自分の集中力が切れれば、そこで負けてしまう世界です。はっきりと突きつけられる世界では、スキや油断は出てきません。
ヴォーカルの世界もそれと同じことです。歌に一秒のスキもあってはいけません。そしたら、それを支えるトレーニングは、もっと厳しいものでしょう。
技術的に身につけて欲しいのは「声」のことですが、それは歌うための手段の一つであり、大切なことは、伝えること、表現することです。伝えたいことがその人にないのなら、歌う必要はありません。
ですから、この研究所では歌は教えていません。
歌を教わらなければ歌えないヴォーカリストなどありえないでしょう。わからない人は、一流のものをすべて聞いてきたなかで、自分でつかんでいかなければなりません。ポピュラーは、声でなくて表現が正解ならば必ず、人に伝わっていくのです。
どんなに声がなくても、その人の表現が人の心を打てば、私は認めています。
その人の歌が人を感動させるのであればよいのです。
しかし、自分の表現したいことがあって、声がないためにそのことをより表現できない人のために、この研究所で確実な技術をつけるべくトレーニングをするのです。
やっていく順序を間違えないで欲しいと思います。
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レクチャー2
最初に、ここのトレーニングの考え方を、その後は、呼吸、体、声のことで、イメージがつかみにくいことを述べていきます。スタジオをつくって、BV座をたちあげ、発信もしていかなければいけないだろうということで、放送局仕立てにしています。
私自身、今のところ、日本の音楽業界とやっていくつもりはありません。しばらくは日本の音楽業界と、ここを分けています。本を出したり自分で発信できるのも、いろいろな関わりがあればこそなので、私個人の活動と研究所は分け、全部とコネクトをとった上で、自分の一番やりたいこと、やるべきことをやっているのです。自分のやりたいことを理解してくれるところとは、協力していこうと思っています。私が自称しているヴォイスアーティストというのは、あくまで黒子で、人をメディアとして伝えていくのです。
ここにあるものはすべて材料として捉えてください。材料としては、なるべく一流のものを出しています。私も、ここに来る人も材料の一つです。
結局、同じようにやっていながら、人によってずいぶん、違うわけです。ここに来て、アイドルになりたいとか、タレントになりたいといっても、私たちは、そのセッティングはしないのです。興味がないからです。そんなことで、この場の価値をつけようとしたら、あまりに簡単なのでやるだけ馬鹿らしいのです。
ここから有名な人たちが出て、CDを出して、1、2年、ちょっと歌ってまわってドラマに出ても、俳優になったとしても、何のプラスもないのです。歌ってドラマに出て、俳優になったとしても、音楽界にとってプラスはありません。
5年10年と歌っていって、広く活動をしていく人において、ここでやっていく意味があると思っています。
よくプロダクションとかが、ここに来て、高校を終えるとレコード会社からデビューが決まっているから、レッスンを受けさせて欲しいと。そういう人は、受け付けないのです。そういう人は、そういうことがうまい人についてやっていってくださいと言っています。私でなくてもできることはやりません。これはやる目的が全く違うからです。ここのヴォイストレーニングの考え方を、象徴していることです。
塾とついているのも、基本的には統一した方針もないからです。それだけの歌を歌おうとするのであったら、いくつも学ぶことがあるんだろうと講師をおいています。5人くらいピアニストの方に手伝ってもらっています。
だから、入るにも、手続きが要ります。本を見て、地方から上京し、突然、研究所の前で待っていたりする人もいるんですが、必ずレクチャーに出て、ここで得られるものを自分で欲しているのかどうかを判断してもらわないうちは入れません。
広告はうっていますが、それは、2~3年、他のスクールなどを回ってからこちらに来る人がいて、早く知りたかったというので、この研究所があることを公けにしておく必要を感じているからです。
育つ人以外、採ってはいけないと思っています。育つ人というのは、才能があるということとは全く関係なく、それだけことをトレーニングに割けるかどうかということです。
研究所の紹介をするのは、入ってくださいというのではなく、入ることが本当に自分に必要なのか。 ということを確認して欲しいからです。研究所では、私がカリキュラムを設定できます。時間割も、ここのスタジオも、ここの考えに基づいています。
インターネットに対応して放送局にするように造りましたが、私がやりたいことは、自分の活動とともに同じコンセプトに基づいた歌い手との活動です。歌をどう歌うかについては教えませんが、ただそういう人たちをここで磨くために造られています。
音楽スクールに行っていたり、独力でトレーニングしている人も、声そのものは、大して変わりません。何をやったら力がつくのかというのは、修行の世界なのです。
いくら、よい歌を聞いても何にもならないでいるのです。そうではなく、そのまわりと自分との間に何があるかを私はみせています。
プロのステージを見る、あるいはそういう人たちの作品を聞くことは大切です。しかし、そこまでになったプロセスのノウハウは、とれないです。
その人たちがそこに臨む前に、何時間も前から、どういう体制でどういうふうに精神状態を整えて、どういう用意をして来ているのか。そちらがノウハウです。
2年間、何をやるのかを全て、言います。
自分でやっている人は、そういう考え方も含めて、判断力をつけ、応用してください。
私はヴォーカリストは育てられるものだとは思っていないのです。ただ、発声という技術は与えられる、だからここで歌唱指導は、ないです。2年間で、その基本をつけるようにと言っています。それは、自分で歌がわかるようになれということです。
どう歌いたいかわからないヴォーカリストは、認められません。人にこうやれと言わなければいけないヴォーカリストは、人前に立ってはいけないのです。もし、その要素がないのだったら、それを勉強しにきてください。
歌は、個々で違うからです。その一つのケースとしてタッチを、一流のヴォーカリストからの一つの共通したルールを知ってもらいます。
ステージは音楽である以前に、コミュニケーションです。そういう部分を勉強していくというふうに捉えてください。なかなか身近にいいヴォーカリストがいないし、こういうことをしっかりと勉強しようという場は限られています。
自分の活動の方がだんだん忙しくなってきますので、両立も認めています。V塾は、2年制をとっていますが、体ができるということと、耳ができるということが、2年分、ヴォーカリストに近づくのです。
ステージ、舞台に耐えられるような声と使い方を身につけるのが目的です。
最近、役者や声優が多く入ってきています。そこでもプロになれる人は、限られているので、絶対的な差をつけたい人が声を求めてきます。他にアナウンサー、ナレーター、いろいろな人がいます。
さまざまな観点でいらっしゃるので、これを舞台で生で通じる声にします。ライブということです。そこで、最低限のライブスペースとして利用しています。
最初、マイクを使ったり、バンドをつけたりして歌わせていません。ここで最初に歌えるのは、3~4ヵ月目くらいからで、1年間はマイクなしです。2年目になって、3ヵ月に1回、ピアニストをつけてソロで舞台をつくっていきます。3年目から毎月、ピアニストをつけてソロで歌います。半分くらいの人は自分で演奏しています。現状です。
私の考え方は、あたりまえのことをあたりまえに言っているだけなのですが、それができている人とか、ものになる人が日本では少ないので難しいのです。ことばで捉えないで、実際に私がやることをみてもらえれば、もう少しわかりやすいと思います。それでは本題に入ります。
最近、私の述べることは、体と心、精神的なことが多くなってきました。能書きをいくら書いても仕方ないのですが、こういう芸ごとの学び方がわかっていないと、何ごとでも習得が難しいからです。
多くの質問は、本当はあまり意味のない質問です。意味のないというのは、できた体ならそれは意識しないでできるけど、できていない体だと、それをいくら意識してもできないからです。
スポーツなら、プロとアマチュアが区別されるので、アマチュアはプロのアドバイスで、より楽しめばよいでしょう。
しかし、歌は、誰でもいくつからでもうまくなれるのです。
プロのレベルになるのに必要なのは、プロに見合う努力ということは同じです。
たとえば今、みなさんに一人ずつ声を出してもらい、ここが悪いからこうするようにというのは、その日の成果になります。それは、今日の舞台を目指しているときは必要な力です。
しかし、私が短期でとらないのは、付け焼き刃になるからです。本当に一つの芸ごとやスポーツを根づけようとするなら、できあがりの形でなく、基本を徹底して学ぶことが必要です。
カラオケをうまく歌いたければ1週間で、ちょっとしたコツを教え,うまくすることができます。歌が聴きやすくなるかもしれません。
そのことが何になるのかというと、長期的にみた場合は、マイナスなのです。
自分でできなかったことが人に何か言われてすぐできたとしたら、それは悪いクセをつけているだけなのです。プロの体という条件をもち、その耳をもっている人にしか、真のアドバイスはできないのです。
表現したいことを音楽で捉え、それに歌詞を込めるというのが、よくあるトレーニングの仕方です。
たとえば、プロの人、役者を10年も20年をやって初めて歌のステージをやるという人に対しては、ある程度、できます。それは歌のうまさでやるのではなくて、そこまでのキャリアを歌でどう見せるかを問えるからです。
知名度があり、歌もそんなにヘタでない人へのトレーニングというのは、プロの人にやるべきトレーニングで、プロになる人のやるトレーニングではないのです。舞台を支えている力も違うわけです。
歌の力とかキャリアではありません。
アイドルとかタレントもその顔が出て、そこにいるだけで価値がある。そういう人たちの歌はヘタでなければよいわけです。そういう場合は、音楽スクールや多くのトレーナーがやっている通り、間違いだけを正していけばよいわけです。
こういう人が,今は、ヴォイストレーナーと呼ばれるようになっているのです。
一声出しても、普通の人と変わらないような人は、ヴォーカルアドバイザーと名乗って欲しいものです。私のところにも「ヴォイストレーナー」についたけど、効果がないし、やらない方がよいと嘘ぶく人がやってくるからです。
初心者の人は、万能のトレーナーがいないことを知っておくべきことでしょう。
その人が育てた人をみるまでもなく、その人をみたらわかるはずです。
ヴォーカルアドバイザーなら、リズム、音程を直す、ことばをはっきりさせて、マイクの使い方を直して、後はステージで、音響の力で、どうカバーしていくのか決めればよいわけです。
ここの研究所に来る人は、今はアマチュア、初心者も増え、業界から見ると、ルックスもスタイルも、必ずしも恵まれているわけではないのです。少なくとも、その辺を歩いていてスカウトから、声もかけられない。
タレント志願の人たちでも結構、器用で、それなりに人前にも出ることも知り、やる気、向上心もあるし、小さい頃からバレエや演劇など、いろいろとやってきているわけです。そういう人たちと同じになったところでステージに出ていけないということは、わかるはずです。わかっているなら、ここでそんなことをめざしても、仕方がないわけです。
大切なことは、ヴォーカリストというのは何で価値付けられているのかを知る,その手段を得るということです。それは、音程、リズム、ことばがはっきり言えるレベルのことではないはずです。もっとヴォーカリストとしてベースの部分で、もっていなければいけない部分があります。そのことをここでは学ぶわけです。
声だけではありません。声が出たらヴォーカリストになれるわけではないのです。ヴォーカルとヴォイスの部分は分けて考えています。
タレント性のあるキャラクターでもっていたり、よい曲をつくれたりするというのは、一つの才能です。どこかがプロなら、アーティストの活動はやっていけるのです。作詩、作曲というのも、一つの武器でしょう。ただ、その分野になってくると、実際、そんなに育てられないはずです。
というのは、たとえば、作詩、作曲を、2年間でプロに育てられるとは思えません。今まで何十年もつくってきた人のノウハウやキャリアを同じ量と時間なしに学ぶことはできないのです。ことばのセンスとか曲のセンスがあります。
一方で、自分の曲を自分の声で歌う人に、私がケチをつける必要もないわけです。やっていて、やれている人たちは、それでよいのです。
私は日本のヴォーカリストを、批判しているようにみえますが、そうではありません。そういう人たちは、そういう才能があってやっているからよいのです。どんな声でも、それでやれたと、バンド組んだら曲がヒットして活動しているなら、認めています。
問題は、そうでない場合、どうするかということです。
それらは、研究所のトレーニングの目標や手本になりにくいのです。
学んでいないのにやれてしまっている人から学ぶのは難しいからです。
基本がない、声も音楽もスタンダード(規範)でないからです。
見本にならないというのは、そのアーティストを否定しているのではありません。むしろ最大の肯定でしょう。
ここで同じような人をつくっても、価値がないからです。同じ歌い方になるなら逆に困ったことになるわけです。
研究所をPRしているのは、あとになって、ここにくるのだったら、最初からこちらに来てもらった方がよいからです。他のところで学んで、くせにくせがついてしまう。業界よりになるほど、そのスクール、その先生の、ヴォーカリストのスタイルの価値観が入り込んでしまいいます。基本として大切なことをやらず、どうでもよいことばかり覚えます。
私のところは、ヴォーカリストに対しても声に対しても、どういう声がよいというよいな外からの価値観はないです。その人の最高のものが出せることだけです。その声とか技術に対しての基準を、世界と同じレベルできびしくもっているということです。
ヴォーカルで判断して、よいとか悪いとかはない。
ただ、人に価値を与えられるくらいすぐれているかどうかは、はっきりとしています。
そういうところは日本にほとんどありません。
声楽家は、ルイ・アームストロング、ジャニス・ジョプリン、ブルース・スプリングティーンなどの声や歌は、理解できないし、その声を出すこともおぼつかないようです。土俵が違うからです。
ロックを実際に動かしてきた人というのは、シャウトしまくりしわがれた声でバーッと出しているわけです。つまり、ポピュラーは人によって正解が違うということです。
勉強の仕方も、いろいろと違うものです。
基本的に人間の体があって、この人間の体というのは、共通している、その上で一人ひとり違います。
みなさんそれぞれ、身長も違うし声帯も違う。
やってきていることもやりたいことも違います。感情も表現も違う。
ところが、ベースの部分では同じです。顔も口も、のどもついています。どこの人種にも、あるところを元とする。違うところというと、日本人と外国人は違うけど、人類で、ということになると同じになるということです。
この問題がとても大きいのです。ここのトレーニングというのは、日本人や日本語という部分では解決できないことを、人間の体、人間の声、表現ということに遡れば解決できるというものです。
そこの部分に戻って習得するのです。
ですから、外国人が日本語で歌っていたものとか、外国語に日本の詞がついたものなどを研究して使っています。アクセントとか、イントネーションも違うのですが、技術ということでみれば、日本語もそのように音楽的に処理できるということです。
私が使っていることばも、「音楽的日本語」といっています。真のヴォイストレーニングは、とてもシンプルです。一言、声を相手の耳に入れて、これが伝わるかどうかです。要は、そういうオリジナルな声で話しているくらいで、歌えればよいだけです。
外国人は、しゃべっているように歌っているわけです。そこに発声法などは、誰も感じさせないです。それでよいのです。そうであるべきなのです。
日本人は、声がないから歌いあげて、そのための変なくせを覚えてしまいがちなのです。いかに、それがふしぜんなものかは、日本のミュージカルをみれば明らかです。
トレーニングでは、歌の声が変わって、日常の声もプロとなってきます。日本のヴォーカリストは、なかなかそうなりませんね。
うまくなっている人は、共通して、年を重ね、声が太くなっていきます。
声質は好みの問題でも、このことは声を伸ばす基本に関わってきます。基準をしっかりととることが声を伸ばす基本に関わってきます。
いつも考えておいて欲しいのは、トレーニングと本番のステージは違うということです。たとえば、大きくできる人は小さくも出せるし、強くできる人は弱くもできる。太くできる人は、細くも使えるわけです。
トレーニングは可能性の大きくなるのを目指すためにやります。目先のことばかりやっていくと、情感ばかり、いくら込めても、表現のパワーが出ません。カラオケもうまい人がいるので一概には言えませんが、それはプロと全く違います。
通りで100人くらいを集めてコンクールをして優勝した人なら、文句なしにうまいわけです。ただ、その歌は、プロと違う、この違いを知り、ギャップを埋めることこそが、トレーニングなのです。
音程やリズムが合っていて、ことばを言えているだけでは、何も表現できていないという基準に立つべきです。というのは、一流のヴォーカリストなら、何を話しても、あるいは一声、フレーズをやっても、プロだとわかるものをもっているからです。
カラオケの人たちはわからないし、できないことが、絶対的な差です。それは、トレーニングをした期間の差だとか、年月の差だけではなく、スポーツと同じく、基本のところでどこまでこだわって、どこまで深い判断力をもって、それをきちっとのせてきたかということなのです。
以前は、ジャニスとかフレディマーキュリーみたいに、向こうのものを徹底的に耳に入れてきている人が多かったから、それを誤解を外して、体に入れるトレーニングをすれば、ある程度、わかってもらえました。
ところが最近は、歌唱力のないヴォーカルしか聞いていないので、耳ができていないのです。たとえば、「ララララ」と歌っている自分の声が、正しいかどうかで迷っている。こんなのは、一流の人のを聞いていたら絶対にオリジナルのものと違うとわかります。そのギャップからだんだんと身につけていくものなのです。
ところが、みなさん、わからないのです。声さえ出していたら、上達してくると思っています。
今の日本のヴォーカリストの声は、トレーニングの目的にはならないということです。だめではなく、難しいのです。
声そのものは、アーティストの価値とは、違います。世の中に出て、何らかの働きかけをやって支持されているものは、それでよいのです。それと同じレベルのことを習得させて、その人がやっていけるかというと、とても難しいことです。
この研究所はトレーニングの研究所ですから、トレーニングの成果を出すことが目的のです。一つのことを全力で取り組み、結果が出ないトレーニングなどありません。トレーニングという以上、目的は結果を出すためにやるわけです。その結果が出ないことは、おかしなことなわけです。
ヴォーカリストが結果が出るか出ないかを賭けてがんばっているとしたら、それは、間違ったトレーニングという以前に、何もトレーニングになっていないのです。
みなさん、スタジオとかライブハウスでがんばっているわけです。しかし、やればやるほど、声がガラガラになって耳が聞こえなくなって、ヴォーカリストから、遠くなってしまう、それは間違いとしか言いようがないです。
役者とか声優の方が、5年、10年たったら、こういう商売している声をもっている、そのことがわかってくるわけです。
ここになぜ役者とか声優が来るかというと、私自身、ヴォーカリストの声の技術が一番、高いと思うからです。しぐさとか演技がどうとか、高低アクセントとかはなくとも、ヴォーカルというのは、2オクターブにわたって3分の作品を連続して声だけで表現するのです。
そのギャップを詰めることをトレーニングでやらなくてはいけない、そこまで声を使いこなせるヴォーカリストに声の最高の技術がないわけがない。
日本の場合、どうしておかしくなったかというと、最初は歌をシャウトしてやっていましたが、どこからが音楽の志向かサウンドという形になっていく、日本語でロックを歌うか英語でロックを歌うかの論争もあったりしたわりに、その後、そのサウンド志向のなかで、声のサウンドというか、声のパワーだけ落としてしまったのです。日本人の特性でもあったのでしょう。☆
サウンドは、欧米並にレベルが上がったなかで、ヴォーカリストの声については、日本人が求めなかったし、できなかったのです。サウンドといったとき、声は力やパワーがなくてもよいとなり、ストレートにヴォーカルの力を声に出さなくなってきました。
しかし、欧米のヴォーカルは、体や声は昔から同じだけの条件はそろえていて、使い方を変えているだけで、ここに大きな違いがあるのです。
私が見本に聞かせるヴォーカリストは、素直に体から精一杯、出して歌っているものが多いです。シンプルな声の力がわかりやすいものです。
ヴォーカルのヴォイストレーニングからいくと、そういう人の方がわかりやすく学びやすいからです。アーティストとしての価値とは、別の評価です。
60年代のイタリアの作品やライブ、10代のデビューの直後ぐらいのものがよいです。それが過渡期でプロセスがみえ、よみ込みやすいからです。音楽も詞も、サウンドも古いですが、学ばなければならないことは、基本です。声、息、体なのです。
今のCDは、声そのものまで加工され、どうして歌い手の条件が習得されているのかを学べる材料が少なすぎるのです。欧米に限らず、日本のものでも、昔のものは加工がない分、生の体から細かいところまで学べます。
今のヴォーカリストがダメとかいうことではないのです。ただ、外国であれば使い方が変わっただけなのに、日本は歌の価値観が変わってしまったみたいです。目一杯、高いところまで出さずに、もっとしっかり歌っていたのが、音響技術の発達もあり、ヴォーカル重視よりサウンド重視に変わってきた。
声を音にあて、エコーでつなげるようになった。
そのため、日本のヴォーカリストもまた、キャラクターを問われるタレント性が売りものとなり、歌がパフォーマンスとして消費されるようになっています。それは、ともかく、全身全霊で神のつくった体に声を宿し歌いあげる快感は失われつつあります。
私が体や声にこだわるのは、全身で歌いあげてこそ、充実感があり、快感だからです。時代流行に左右されず、個として歌いあげる理由があるからです。ヴォーカリストがそうでないのに、どうして聴いている人が気持ちよくなるでしょう。
外国人は、ドからドまで完全に声でもって使えている人たちです。昔は、そこで歌っている人たちは、今、同じ体があったら、今は上のソとかラまで出して使っているわけです。
間違ったらいけないのは、その体があったからこそ、そう歌えるわけで、
日本人のようにその体なしに、単に音としてとっているのとは違うわけです。
外国人が語るように歌っているのを、いくら日本人がつぶやくように真似てみても、そのままでは同じレベルに音にできない。つまり、トレーニングにもならないわけです。
彼らは出そうと思えば、もっと大きな声が出るのを、音楽的な表現として今の形を選んでいます。声が出ない人がやるのとは違います。音楽もここのトレーニングも同じで、表現から入ります。
声楽家というのは、声そのものにも求められる最低限のレベル、役割が決まっています。基準があるのです。テノールだったら、どういう役柄でどう出てきて、どんな声が要求されるかが決まっています。キーも移行できないし、ピアニッシモでも遠くまで聞こえなくてはなりません。
レガート唱法が基本となります。歴史上に名を残した人たちが手本になって、近づけば近づくほどよいとなるわけです。もちろん、その上に個性は出てきますが、生来の声のよさが欠かせません。
こういう人間の体で最高の声を西欧風な価値にあわせて求めていくわけです。
そこで、素質とともに、文化や表現も向こうのものを学ばなくなります。たとえば、声と体のつくり、体なども、ウエストも1mくらいあって、首も太いような人たちの方がよいわけです。
ポップスの人たちは、やせて小さい人でも、そこにマイクがありますから、そのなかでできればよい。だから、ここのトレーニングは、時間や目的からみて、そこまで声楽的に特化せず、特にフレージング、高い音は、自由度を大きく与えています。
基本のトレーニングは、声楽のレベルで徹底的にやりますが、それよりもポップスのなかでの表現を優先させています。いわば、声楽家がポップスを歌ったときに、声楽家であるがゆえに欠けてしまう要素を徹底して学ぶのです。☆
トレーニングのメニューはいろいろとあります。実のところ、いろいろな材料を出すだけで、実際のメニューなどは、その人がつくっていくというスタンスを徹底しています。
常に言っているのは、ポピュラーは正解がないということです。
それを自分で求めていくために研究所は材料出しをするということです。材料は古今東西、最高のもの使い、一流のヴォーカリストのものを聞いて、そのフレーズをやるという方法をとります。
ここで述べていることはすべて、私の価値観というより、トレーニングをやるとき、どちらで考えたらトレーニングになるかということで決めています。実際に歌うこととトレーニングとは、全く違います。
たとえば野球の選手が、腕立てとかランニングをしていること、それが打つときにどう関係するのかということが、別なことであるのと同じように、でも,深いところで関係して支えているのと同じように、ということです。
基本的にトレーニングは、それぞれトレーニングの目的があるわけです。腕立てやランニングをしてすぐに打席に入る人はいません。実際の試合というのは、勝つため、そしてそれを人様に見せるものです。
そのときにそれを意識していたらダメなわけです。
たとえば発声は、意識してお腹を使って声を出すとかいっても、そんなのをステージで考えたりやっている人はいないわけです。それを分けなければいけない。
特にトレーニングのメニューをやることに関して気をつけなければいけないことは、息や声を出すときに、トレーニングのようにお腹がどう動くのかなどという愚問にとらわれることです。
実際にどうなっているかというと、何も動かないときがあれば、動くときもあるのです。
それはあくまで声や歌という結果に対して自由に体が伴っていればよいことで、みなくてもよいわけです。
声が出ていること、出ている声が、歌に対応していればよいわけです。トレーニングのときに、息を吐いてお腹をふくらませたりへこませたりするのは、どちらが正しいということではなくて、動かすことによって動きやすくなったり、その状態をキープする力をつけるということが、トレーニングなわけです。
結びつきまでを歌やステージにおいてつくれないから、別に部分的に強化トレーニングをしておき、それを実際の歌や試合のときに結びつきやすいようにしておくわけです。
腕が強くなることと打てることは、目的が違うわけです。しかし、トレーニングは、そうやって対応できる力をつけていくわけです。
トレーニングと実際のステージは分けて、トレーニングでやることは自分はこうなりたいというスタイルづくりのまえに、基礎的な要素をつけるために体からやるのです。
常に自分は今、ここまでしかできないというギャップを知り、そのときに何をどう組み立ててやっていけばよいかということで、はじめてメニューができるということです。
さらに独習が難しいのは、その日のうちに解決すべきメニューと、それから1年、2年かけていくべきメニューがあって、ほとんどの場合、長期的に体で覚えることよりも、その場で対処できるメニューを優先してしまうため、誤ってしまうということです。
結論から言うと、ここのトレーニングというのは、一流のヴォーカリストが今すぐここで完全にできるのに、すべての人たちが全然できないことに対し、取り組んでいくということです。☆
本当に歌えているというのは、基本が完全に身についているわけで、そんなことはすでにこなせているのです。それなのに、多くの人たち、特に初心者の人たち(日本ではプロとよばれる人たちも含みます)が、一番わからないのは、自分たちが一体どこにいるのか、つまりうまいのかヘタなのか、何が足らないのか、何ができていないのかということです。
ということでは、プロの耳がないのです。わからないから苦労しているわけです。基本というのは、はっきり言って、正しく何回繰り返していくかということです。自分の実力がつくのは、耳で聞くのでなく、体で聞く力、そしてそれを出す力をつける、その判断力が厳しくないと伸びません。絶対、満足できないから、力がつくのですが、それには目指すべき表現と欠けている条件、さらにそれを克服するメニューがいるのです。
研究所に来ると、すべての問題が解決されると思う人がいます。しかし、仮に10年分のことが2年で解決できたとしたら、10年分の苦労を2年でしょいこむことですから、苦しいものです。
完成というのもない世界です。わかってくれば、わかってくるほど、心と体と声が同じになるのが大変で、力がつくにつれて大変なのです。ステージに立つまえに最低限、解決しておかなくてはいけないことが、これほどたくさんあるということです。
音やリズムもとれているだけでは、全然、表現できているのでないこともわかってきます。しかし、まずはそこまでの最低限の条件を整えることです。
たとえば、メルセデス・ソーサとかエディット・ピアフ、アマリア・ロドリゲスなど、その国の女王とか王様といわれるような人たちのなかにあるリズム感、音感というのは、とりようもないでしょう。とれなくともよいのですが、そういうレベルを手本にしたメニューで磨くと、本当にすばらしい力がつくわけです。
声に何にでも対応できるくらい、柔軟性がでてきます。ただ、まな板にのせるのが大変なのです。
私もリズム感はよい方ですが、私よりよい生徒もいます。それは、才能です。それはリズムがとれるとかとれないかということではなくて、自分のリズムをもっていて、リズムをつくり出せるということです。
たとえば、マイケルジャクソンが踊っても、みなさんが踊っても、踊りの振り付けは同じにできるわけです。しかし、彼は、プロのダンサーの中に入ったとしても、自分の踊りをアピールできるでしょう。そこが芸や価値になるかどうかの判断基準なのです。
コンピュータでいうと、私たちは2~3色しかもっていないけれど、天才は、何万色も自分にもっていて、自由に表現できる。そのくらいの差です。多くの人たちは1色ももっていません。
音程もリズムも一つにあてていけばできたと思っている、そんなものではない。一流のヴォーカリストの歌がすごいとはいえても、わかる人にしかそのプロセスや、本当の差はわからない、それをわかると、上達できるのです。深い世界です。
ヴォーカリストは楽譜を声におきかえられるわけではないのです。コンピュータで測定して、正しいものを出しているわけではないのです。出すのは表現です。人間が出す表現は、必ず狂っていて、ただ、そのズレを聞く人に心地よくつくることがセンス、才能です。
というより、楽譜では正確に表現できないから、それをもとにすると、狂っていて、表現からは楽譜に書けないくらい正しいのです。
その基本もまた、どういう音や感覚がどれくらいその人に入っているかということです。
声を統一するということがヴォイストレーニングの最大の目的です。統一とは、制御、コントロールすることです。音の世界でヴォーカリストは声を完全にコントロールし、最後まで責任をもって使い切らないとなりません。声を統一するために深い息が必要であって、それが腹式に支えられているということです。
だから、呼吸法とか姿勢から考えるというのは、あくまでテキストにはそうとしか書けないからで、歌うときに、全部できている状態をつくり出すしかないのです。ステージのところで自分が思うように歌えていたらよい。イメージ、表現を音の世界でどうつくり出すかです。それを考えたとき、呼吸や声のコントロール力がなくては、どうしようもないからやるのです。ステージのところで自分が思うように歌えていたらよいのですが、そこでイメージ、表現を音の世界でどうつくり出されているかです。
結局、学ぶ、育つというのも、たとえていえば、100m泳ごうと思って、100mだけを週に何回か泳いでは疲れたといっていては、100m泳ぐときだって、フォームもタイムもよくならないでしょう。
その人が、オリンピックに出るつもりでやれば、10kmぐらい泳げるようになるわけです。するとフォームができないわけがない。100mなど、簡単なわけです。
だから、どこまで先で見れるか、どこまで感じられるかというところがとても大きいのです。このことが、スポーツ以上に難しいのです。スポーツは勝ち負け、あるいはタイムが伸びてこないと自分の思い込みのミスがわかりやすいでしょう。それでも、トレーナーがいるわけです。
ところが、ヴォーカルの世界は、自分が満足すれば、そこでもうよい世界なわけです。本人もそれでよければ、そこで上達が止まる。止まるということは、おちていくことです。
だから、常に今以上に伸びたいという思いが、必要です。確固たる基準がなくては、その思いは貫けないのです。
みなさんの欲がどこまであるかということで、欲がなければ伸びないし、伸びる必要がないわけです。もともと、歌う必要があるのかも問われてきます。
今、日本ならカラオケに行って楽しむ方が、歌との楽しい関係をつくれる人の方が多いのです。ここで求めているのは、体から変えていって、プロの体、声となり、最高の表現を手に入れることで楽になるということです。自由に解放された歌であってこそ、他人の心を捉えるわけです。他人と比べるレベルなどになく、絶対的に優れるものであってこそ、その人の歌ということです。
アマチュアとプロのやり方が違うのでなく、表現へのこだわりの差です。仲間の内で認められたいか世界のプロと張り合いたいかの違いのようなもので、私はどうせなら、最大の可能性を追求して欲しいと思うのです。日本人だからできないのではないのです。ただ、環境の差は大きいといえます。
体、耳が、そういったレベルに対応しているかどうか、そしてトレーニングの基準が、そこまで要求しているかで問われます。
たとえば、「ハイ」ということばだけを100回言うようなメニューがあります。そこまで、歌の3分のなかにある一言、それをおきかえた「ハイ」を出すところにこだわれるかどうかなのです。そこに意味がないなら、ヴォーカリストはやめなさいと言いたいくらいです。
というのも、基本の技術とはそういうことだからです。一流のヴォーカリストなら、これを一回もはずしません。それをはずすくらいなら、すばらしい歌を歌えっこないからです。
普通の人なら、私の基準でいうなら、10回どころか1、2回もうまくできません。たとえば、「アオイ トオイ ラララ」この3つと私は簡単に言えますが、そのことがプロのレベルでできる人というのは、一般の人のなかには多分、一人もいないと思います。
ここで1年くらいの人と、50人くらいで合宿に行くのですが、できる人が5人いれば、かなりよい方です。
歌と同じで、言うだけなら誰でもできます。しかし、この「アオイ」というのを、自分で完全に統一して出すことは、たかだか3回でも、同じように出せない、それだけのコントロールしかなくて、一流の歌が歌えるのかということなのです。
たった3分しかない歌は、出だしで入り損ねたら、もう終わりです。同じことのリピートがきき、確実にできるから次に一つ上のことがのってくるわけです。
スポーツや芸事をやったことがある人は、どうやって習得していったか考えてみてください。一見、つまらない基本のくり返しが、いかに大切なのか、それができない人は先に進めないのです。
体が得ていくにつれ、感覚が変わります。得られていくときには、必ず同じような感覚があると思います。
たとえば、スポーツをやっているときに、最初に、だいたい部分的に負担がきます。スキーだったら足やひざにきます。そして、できたときは、それがなくなるわけです。意識がなくなったところで体が動かないと、できていることにならないわけです。その感覚は腰を中心に使わせます。ピアニストでもギターでも、頭で考えて弾いたり、手で弾いたりしているときは、全部、嘘,不自然がみえるのです。
歌に対しても、声はしぜんに使われなければいけないわけです。しぜんに使われえるために、ふしぜんなトレーニングをして、しぜんにしていくわけです。☆
トレーニングというのは、ふしぜんなものです。それがしぜんにできたら、ステップアップしますから、そのくり返しです。
何もせず、普通に生きていても、ポップスくらい歌えるようなものですが、日本人の日常の声は、ふしぜん極まりないわけです。この理由は、拙書の「人に好かれる声になる-ヴォイスパワーの秘密」(NONBOOK)で述べています。
外国人の声の捉え方や出し方と日本人がいかに違うのかということから、日本人の声が、体から出ていないふしぜんなもので、そのため、通りにくいこと、ふしぜんに感じられること。
全世界のなかで、日本の風土、日本語という言語という二大要因のため、日本人がかなり特殊になっているのです。
みなさんでも、英語の方が歌いやすいし、声も出やすく、のりやすいはずです。
たとえば外国人なら、ヴォーカルでなくてもそれなりによい声をもっています。歌っても、歌の技術はないかもしれないけれど、声そのものは、もっています。日本人で自分の声を吹き込んで聞いてよいと思う人はあまりいません。私が目立つくらいです。この差はとても大きいのです。
というのも、最初に言語を覚えるときから、彼らは発音とつづりが一致しませんから、何回も聞かせられ、発声させられるわけです。日常でも学校生活でディスカッションをはじめ、音声で表現する、しかも自己主張のため強く表現することを覚えます。
そうしないと、以心伝心の尊ばれる日本のように単民族単一言語でないから、伝わらないどころか無視されたり、あるいは敵意をもたれたします。
外国に行ったら日常会話も大きな声になります。これは、風土も含め、文化、価値観の違いに根ざします。つまり、彼らには豊かな音声表現の世界、音の世界がバックボーンにあるのです。音の世界に幼い頃から生きているのです。個を表現するために音声を使うことが、日常のなかにあるのです。
それに比べ、日本の場合、ほとんど音声表現は制約されています。声を大きく出し話していたら、まわりからうるさいという感じで見られると思います。声の感覚そのものも違います。私の声は、共鳴しているのです。こういう感覚が日本人にはないのです。
みなさんが外国映画をみたときに、声がハスキーだとか、太い声、そして、低いと思い、好感をもちません。しかし、日本人の吹き替えの声が浅く、表現や表情の弱いのはわかると思います。
何が一番、違うかといえば、彼らは体から息を出さないと、言語にならないわけです。
日本人の英語発音は正確になってきましたが、いくら、滑舌とか発音トレーニングをやっても、体からきちんと息が吐けていて、その上に声がのっていないと、アナウンスのトレーニングにすぎないのです。ファーストフードの店員同様、はっきりと聞こえても、正しく伝達するだけの声です。
声がないから口をパクパクさせて発音のトレーニングをしているわけです。伝達にはよくとも、表現できる声ではないのです。その音をクリアに発するための声です。そこに強い感情を詰め込んで表現してはダメなのです。
キャスターやパーソナリティになってくると、もう少しその人らしい表現は許されてきますが、日本には変にくせをつけ表現効果を盛り上げようとして高く出す人がやたらと多いのです。
たとえば、今、私は口をほとんど開けないでしゃべっています。そうしていても、何を言っているのか伝わりますね。日本語というのは、舌や唇を噛んだりしなくてもよいので、こうした形でもしゃべれてしまうわけです。
外国には、口を開けないような形で歌って、すごい声を出している人が何人もいるわけです。日本の合唱団の口パクパクは、ひなのようにかわいい、というより、まさに異様なロボットのようにみえます。口をはっきり開けないと声が出ないというのは、また別なわけです。これは調音の問題です。
ステージなどでは、無表情な顔は伝わらないので、より伝えるための表情づくりでの表現の問題で、声のための発声とは違ってきます。あごを引いたり、舌を盛り上げないのも、そこで邪魔するからです。
みなさんが使っている声も、今の体でもっている声のなかでも間違っている場合が多いわけです。特に女性の場合、日本ではまわりから要請されてきた声につくりますから、もっとふしぜんな声になります。
表現すべき必要のある音楽や芸能界にいる人が、ふしぜんにつくっているわけで、本当に困ったことです。
歌手デビューした人や、声優をやっていた人など、悪い手本としてわかるくらいに、ふしぜんにつくられているわけです。基本をきちんと身につけた人が声を使いわけるのはよいのですが、そうでない人は身体での発声原理に戻ることです。
発音は応用技術なわけです。基本がないところでつくった場合、その人自身のオリジナルな声に反します。たとえば、女の人が子供の声を出そうと思って出す声などです。強い表現を抑えたための、くせ声です。こうすると、絶対にひずみがくるわけです。
一般の日本人の声は、どこかに力が入ってしまい、その声で日常会話をしているのです。体で使うことを覚えてこなかったからです。
しかし、いつも間違っているわけではありません。スポーツした後とか、体が柔軟になって深い息が吐けたときに、楽に声が出るという経験があると思います。それが最低限、とり出すべきターな声なのです。
多くの人に歌ってもらうと必ず、声やのどを意識します。そういうものは、あってはいけないわけです。すでに体で捉えられていなければいけないのです。
私が、話しているのは、体に宿っている声を使っているわけです。私の意識は、あえていうならお腹にあります。だから、一番聴いて欲しいのは、私の声です。しぜんな声で、表現に使いやすい声です。ポップスに関しては、これが必要条件です。
それを口先でつくってしまうとダメなわけです。私が、しゃべっているのは、基本的に体から声が出ていて出てきている声をパッバッとしゃべることばに直しているだけです。体に声が宿るというのは、そういう状態です。そういう状態で歌えるだけのパワーや音域を捉えていないといけないのです。それができないので、トレーニングでその条件を身につけていくのです。
しかし、多くの人は、それを、いちいちつくろうとして、発声のトレーニングをやっています。これは、音感とかリズムトレーニングと同じで、間違いです。捉え方というのは、声のなかで全部捉えないといけません。呼吸を通じて、体のなかで捉えることです。
どんなに速いテンポで話しても、私の体には瞬時に息が入ってきます。これが呼吸です。音楽もすべて生の場のなかで成り立ち、後で楽譜ができてくるわけです。
だから、最初に体と呼吸と声をことばで表現することを徹底してやるとよいでしょう。楽譜に合わせて歌ったものなどは、カラオケで流れているものを声に翻訳しただけで、歌とは思わないことです。
歌は表現です。よいヴォーカリストの歌を聞くと、楽譜をみても、絶対にわからない魅力が加わっているはずです。それをつくりだすのがヴォーカリストでしょう。
その価値がつくり出せる技術と表現の練習をしなければいけないわけです。楽譜を正しく読むように、間違わないように弾くということは、それが目的だったら何の意味もないわけです。
最初は声が正しく使えることを身につけていきます。ただ声だけとか息だけのことでやっていても、なかなか気がつかないでしょう。毎日、息だけ吐ければよいと言って、世界一流のヴォーカリストのものを全部、聞いてといっても、学べないから、この研究所があります。
息だけでも吐いていたら、少しは早くスタートできます。ただ結局、その意味がわからないから、そのことがやれない、続けられないわけです。だから、場が大切だと言っています。
場に来ることによって、そのことが常に意識されます。常に一流のヴォーカリストと歌そのものでなく、それを支える条件を比べてクリアしていけばよいのです。同じレベルで歌える日まで課題は尽きないはずです。そのことが意識できる人は少ないです。
自分は歌をこのレベルまでやりたいと本気で思ったら、そういう人たちはその条件、つまりプロはこれだけの息をもっていて、自分の息はこうなんだわかれば、息だけ吐くのに、10年かかったとしても、それがムダだとは決して思わないでしょう。
ところが普通の人は、こんなことやっていて何になるんだろう、前と変わらないと成果ばかり追い求め、迷いと焦りのなかであきらめてしまうのです。だから、技術そのものよりも、精神的なことを言わざるをえなくなります。
資格試験のようにノウハウを順番に学んで、1、2、3と習得できると思っている人が多いのです。しかし、すべては本人が気づいて執着したものしか、ものにならないです。
私のことばをこのように読んで、私のことばをしゃべれても、何の意味もないでしょう。そこで自分の今までの経験が、何かを身につけたというプロセスがあれば、これはこういうことだとイメージでき、そして体でできなければ仕方ないから、モクモクとやり始めるでしょう。
少なくとも自分がそこでイメージをおきかえられたら一つ入れるわけです。音を大きくかけて息づかいから、ヴォーカリストの歌を聴くことです。歌が好き、声がよくなりたい-そんなことは誰でも思うことです。ただ、ヴォーカリストは、それを実現するプロセスをひきうけ、実行する人のことなのです。
感性を高めていくために、皮膚を薄くしましょう。音楽のなかに完全に入り込み、ヴォーカリストの体のなかで声やひびきがどう使われていて、それがどういう感覚でうごめいているかが感じられるようになりましょう。するると、同じ世界に一歩、入れるのです。
そこまでのことがわかれば、できることできないことがはっきりしてきます。そうでないと、いくらコピーして真似て歌っていても、それっぽく聞こえるだけで、通用しません。日本では、それでも通用してしまっているので、本当に困りものです。
たとえば私が、野球の選手が空振りをしているのをみても空振りをしたとしかみえないのに、一流の選手ならパッと見て、肘の角度がこうなっていたからだとかわかり、ことばで指摘できます。それは見てわかるわけではなくて、自分の体におきかえるから、自分の体で完全に理解できるわけです。声や歌も、そこの部分、がわからなくてはいけません。
声の統一について述べます。たとえば、私の声をどんどん小さくしていきます。小さく小さくしていっても、たぶん後ろの人まで聞こえているはずです。
ヴォーカリストというのは、ときにこれよりも小さな声を使います。私がこうして小さくしているときは、普通のときよりも3倍くらいの体の力を一所懸命、使っています。だから、伝わるわけです。
これだけで汗をかくくらいです。
だから、小さな声とか、低い声で音程が狂いやすいとか、リズムがとれないとかいうのも、それを部分的に直すことではなく、こういう体のベースで解決を待たない限り、本当の表現力を得られないということです。何回も何回も基本を繰り返して、体が覚えるまでやるのです。
頭で調整してやっても、それは根本的な解決ではないわけです。作られてしまった分、声が体に結びつかなくなり、解決できなくなります。ビブラートも、つけようと思ったときには間違いで、いくらひびかせても通用しません。
ヴォイストレーニングを間違えないで欲しいのは、できた人ができている感覚を、その感覚からとれないということです。プロセスから学ぶしかないのです。たとえば、ここにひびかせてみなさいと言われて、できている人は、ひびいている声をしぜんと捉えているわけです。それを体の条件も音の感覚もない人が無理にひびかせるところで間違うのです。
10年かかってそのことができた人と、初心者がやろうとしたときに、楽器が全然、違うわけですから、どうにもなりません。練習できる体にするのに同じ時間がかかります。時間をさくのであればそんなことをやっているよりも、その条件を同じにすることです。まず、やっていける状態にする方に精力をさくことです。
たった一音だけの「ハイ」「アオイ」だけのことを1年かかっても、やれた人は同じ期間に何十曲もレパートリーをつくった人よりも確実に一歩、進んでいるのです。
これがわからない人が多いのです。
他の人からみるとつまらないようにみえることが、基本です。しかし、本人がなにになるのかがわかっていないと、熱も集中力も入らないと思います。だから、私の述べているような理屈も必要なのです。
理屈はいくら覚えても仕方ないのですが、イメージづくりの助けとモティベーションになります。本当はそのことをやるだけです。トレーニングというものは毎日やらないと意味がないのです。そのうち理屈がわかってきます。
耳や体に関しては、1日休んだら7日戻ると思ってください。音楽スクールに週1回通って、できると思う方がおかしいのです。自分でやることが大切なのであって、場に来なくてはいけないということではないのですが、優れたトレーナーは必要です。そこまでの耳と体をきちっともつまで、それを学ばなくてはなりません。
20代で始めるのは、遅いのではとか聞かれますが、声についてはそこからです。自分がもう遅いと思ったら遅いわけです。まだだと思ったらやればよい。
誰が決めることでなく、自分で決めるのです。自分を制限しているのは自分なのです。
たとえば、誰かができたから自分もできるという世界ではありません。できた人は、それだけやっているのです。声優であれば、力があってもコネクションがないと、仕事がこないので、事務所に入ることも力です。しかし、ヴォーカルの場合は、絶対的なものです。その人がいないのであれば、他の人を使えばよいというなら、その人の価値がないのです。その人がいなければ成り立たないところまでやるには、とても大変なわけです。
ここで力がついた人も、私が人を育てたのではなくて、当人がここで育っていったわけです。中身で問いたいのです。誰かが出たから私も、といって、くる人は伸びません。まだ、価値がついていないところに自分で信じてものにしていける力こそ、才能です。
その人がもし一人でやっていくのなら、真に最初から、既製のものに頼るなどというのは、とてもだらしないことでしょう。権威に身をゆだねるのと同じです。芸能界のやり方と変わりません。
私は、自分でできることを出すだけです。それを取り入れられたら、その価値があると思う人がやっていけるということだと思います。2年、3年とたって、一般の人と変わらないのでは困ります。
ここは、劇団みたいに拘束して身につけさせることはやらないです。ポピュラーヴォーカリストは、ソロなのですから、本人たちの自覚に最大限、任せています。
入ってくるときに、必要性のある人に入って来てもらわないと場ももたなくなります。
今、ヴォイス塾という形でグループにしているのも、みなさんさんが私の声だけでなく、他の人の声を判断する材料を与えるためです。音声の世界に敏感になるためです。
他の人が声を出しているとき、体から声が出ているとか、口のなかでひっかかったとか、そういったことを学べます。自分の声よりわかりやすいのです。
体を使ってやっている分には、誰でもどんどんと伸びていきます。やった分の差がはっきりと現れます。やらない人は、あたりまえですが、伸びません。
それが身についたときに、プラスα、出てくるのが才能でしょう。だから、才能の有無よりも、ヴォイストレーニングの力によって、しっかりとした声の技術をつけていけばよいのです。
人と違う声を人と違うだけ出していれば、それだけである程度、歌はもつわけです。日本の場合は、深い声が出る人さえ大したいないわけです。できることならば、技術が身についたときに、プラスα、その人のキャラクターやオリジナリティが出ること、その人が誰よりも歌が好きとか表現したいという気迫などがあり、歌うことによって何かが伝わってくることです。
音域も声量も、気がついたらついているという程度でよいのです。歌えることの方が大切です。それらは、ポピュラーのヴォーカルの有利である条件の一つにしかすぎないのです。
声域も声量もないのに表現ができるヴォーカリストから学べることも多いはずです。高音を出そうと自己流で悪い発声を固めていくことがいかにムダなのかがわかるでしょう。
声をコントロールして表現ができない限り、仕方のないことです。
音声での表現ということで判断します。歌がうまく表現できるレベルとは、人を楽しませたり考えさせたり、ともかく人に何かを与えるのですから、たった一人でもやっていけないはずがありません。
私の「イ」とか「ウ」とかという音のは、日本語でないところです。外国語には、多くの母音、そして深い母音があります。歌うときは、その深いところをとっているわけです。とったうえで浅く声をおいている場合はあります。浅くおいているのを、そのまま浅い声だと解釈し、柔らかく歌っていると判断してしまうのですが、それは感情表現のスタイルであって、すでに体というのはそこまでよみこまれています。だから、音色も変わらないのです。
日本人のジャズヴォーカリストと向こうのジャズヴォーカリストを比較すると、そのブレスの音の違いだけですぐにわかります。音色の豊かさ、太さも全く違いますが、日本人は、ブレスの音がほとんど入っていないです。それだけ体に一つにしてつかまえていないわけです。それと息を聞いていないのです。
日本のポップスが、不幸にも声楽家、音大出身の人が主導でやったため、ひびかすことだけで、子音が中心でつくられたことばの息の表現を聞けていないのです。☆
どのへんでつかまえて、離しているかが、違うのです。向こうの人たちは完全に体に入ってから、離しています。それが、フレーズの迫力、パワー、心地よさの差になってきます。
ことばで「ハイ」というトレーニングは、「ハイ」というトレーニングで日本の「イ」が、殺している音を、体から生き返らせているわけです。なま声を生きた声にしています。「イ」も「ウ」も、殺してしまうと、そこで本当は歌えないわけですが、歌えないところにくせをつけているわけです。そして、口先で「イ」「ウ」とつくってしまうから、なおさら歌いにくいわけです。声域も声量も制限されます。このように、どこかでつくってしまうと他の「ア」とか「エ」もそういうふうになって浅くのど声になるからです。
のどを開けて歌うというのは、のどが開くわけではなくて、実はのどのところに力を入れない状態で、声が出せるようになることです。バットを腕だけで振らないのと同じです。本当の技術はとても単純です。それを支える感覚と体をもつまでが、大変なのです。
一つの音をきちっと出すということが、ヴォイストレーニングです。私がピアニストになれないのは、譜面をピアノのキーで音に変換することができても、プロの人たちは、そこで勝負しているのでもないからです。全体の構成、展開から、弾くときの腕の感じ、そのときの音の準備に対する感覚、そういったものが入っていないし、ピアニストが弾いてきた作品をずっと聞いて何度も感動してきた経験をしていないからです。その入っていないで感覚と体とを結びつけるのは、無理です。
音、音楽というのは、音を次の音につなぐことです。どんな曲も、この繰り返しです。だから、一流のピアニストは、一つの音をどう叩くのか、それからこれをどう次の音につなぐのかということを徹底して練習しています。これを全部つなげたものが曲なのです。
だからここのトレーニングも、この一つの音が違っていれば、次には進めないのです。それから、歌ということであれば、これがどうつながれるのか、それがフレーズです。
ここでのデッサンで表現や技術が生じないものに対して、いくらやっていっても、限界がすぐきます。
歌うには、歌詞、曲、アレンジ、バンドなど、いろいろなことが助けてくれますが、体からくるもので説得できるものにはできないわけです。
ことばの統一とは、全部の音を同じところで発することです。体を使うにも、一つのところで捉えないと、体というのは使えないわけです。最初から高い音と音程、リズムをとりながらことばもていねいに、さらに踊りも入れてという具合にやって、体一つに捉えられるわけがないでしょう。
そこで、比較的、「ハ」がのどを開き、体に深く入りやすいので、「ハイ」を第一の型にしています。「ラ」も浅くなるので、ネックになってしまうわけです。
だから、「ハ」に「イ」をつけて「ハイ」、次に「ララ」とします。
このインパクトが不足してはなりません。大きな声で腹の底から返事をした「ハイ」の感覚を歌にまで応用していくわけです。できないのではなくて、使ってこなかったから使えないわけです。誰でも、「ハイ」と言えるのに、それが歌えるレベルに深まっていないのです。外国人は日常で使っているわけです。
もっと単純なことを言うと、声を出すときに「ハイ」の「ハ」をとったとき、そこに「ハイ」と、より体を使って歌にしているわけです。歌に近づけば近づくほど、よりいろいろな要素が入るわけです。
いろんな要素が入るものを、よりコントロールしてもたせなければいけないので、より体と呼吸が必要とされるわけです。
日本人の場合は逆に、声を出すときの「ハ」を、口先でつくってしまい「わたしは」と、ことばにし、「ラララララ」と歌にしていくにつれ、余計に体から声を逃がしていくわけです。そうしたら、いつまでたっても出せないわけです。体は変わりません。
なるべく強く表現しない方がよい、きれいに歌唱しようという感覚がありますから、日本の歌というのは、そういうふうにそろってきてしまうようです。
ことばの次に音の高さを統一します。たとえば音をそろえるということは
「ハイ、ハイ、ハイ、ハイ、ハイ」(ソラシドレ)
この半オクターブを同じ音色でとるのです。
「ハイ、ハイ、ハイ、ハイ、ハイ、ハイ、ハイ、ハイ」(ミファソラシドレミ)
これで1オクターブ、
両方で1オクターブ半です。
これを普通の人がやると全部、発声しているポイントが移っていき、声が、か細くなってきます。向こうのヴォーカリストには、合せて歌ってみてください。自分の声が細くなることがわかるでしょう。
トレーニングとして考えたとき、どちらが有利かということです。太くしっかりした声の方が声量も声域も伸びることがわかります。体についていたら、その体から離すということは自由にできるわけです。
ただ、ついていない人はそこでシャウトするとか、ヴォリューム感を出すことがいつまでたってもできないのです。日本人はすぐ上のひびきにもっていってしまいます。今の体でできないから、歌の方のひびきで回してしまうのです。全然、体は使わないから、何も強くなっていないわけです。上の方まで出していても、その音は、コントロールできないから、結局、使えないわけです。
向こうの人たちは、息が深くて、同じ音色で「ハイ、ハイ、ハイ、ハイ、ハイ」という感じでできるわけです。こうやって体を使っていけば、体も強くなり、声も出るようになってくるわけです。その音をきちっと捉えていて、体が使えるようになれば体が変わってくるわけです。
ドミソミドでも、音程でなく強弱を感じさせます。シャウトのように、体を使うと息がまじった音になります。日本でブルースとかゴスペル歌っている人は、間違ってのどをしめて使って、そういう音色に似させているのですが、本場のは、もっと深いところの息と声なのです。
実際、かなりの息を吐いています。音色が違っても、声の条件は同じです。ジャンルは、スタイルの違いで、それは同じ音でもどう使いたいのかによって変わってきます。どれに関しても自分の体で捉えていて息で出せていたら、間違いないということです。これが体から離れていては、歌は表現力を失うわけです。二流、三流の声楽家の人たちのように、発声らしくできていても、です。
それはふしぜんだからです。体を使って、ギリキリのところでの表現になっていないからです。体から出す息のフレーズに人間というのは魅きつけられるわけです。それは、ポップスの大きな要素です。息使いに体が入っていない限り、歌は死んでしまいます。
では、みなさんにそれができないのかというと、結局、そういうところに意識がいっていないし、表現がそういうことだと知っていないだけです。せりふが棒読みになってしまうのは、自分の体で心を伝えることができていないからです。
小学生も学校で本を読ませると、何も表現できません。しかし、本当に表現しなければいけないことは、日常生活のなかでいくらでも表現できているわけです。
たとえ、小さな子供でも、人の心を動かすから、生きていけます。ころんだら「お母さん」と大声で叫ぶ、叫ぶ。そのときの声はのど声であっても、人を魅きつけます。それは、自分を伝えようと思って表現しているからです。
そのときの条件を考えれば、声がかすれても、お腹は使われ、体から息が深く吐かれているでしょう。「おーかーあーさーんー」とならず、「おかーあさん!」というように、プロミナンス(強弱アクセント)がつき、どこかで伸ばして言い切っています。
ただ、技術と違うのは、それを100回やろうとしても、途中でたぶん、のどがかすれ、同じ声ではもたないわけです。技術がそこにあれば、同じことばを100回くり返されても、心地よく聞けるわけです。聞かせるように展開できるのです。パッと魅きつけられるだけで、リピートがきかないわけです。その上にオンするものがないから、これは芸ではないのです。
考えてみれば、歌とか声の原点は常に伝えることにあって、そこに結びつけていかないと、ヴォイストレーニングは意味がないでしょう。作品から表現らしきものを学んでも、結局、自分から発するプロセスのところが見えないから、それを踏んでいけないのです。
表面に出てくるのは、音感とかリズムですが、すごい歌には、こういったものは表だって出てこないです。リズムとか音程、発音、声のよさが目立った場合は、他に何も聞くところがないからです。歌も表現も、そんな浅いものではありません。リズムや音程が間違えたとチェックされるくらいの歌というのは、他に何の聞くところがないし、説得できていないわけです。歌の方に魅きつけられていたら、そんなこと誰も思いません。
だから、そこまでのことを本来、要求すべきトレーニングで、表面的なものだけをやっているからだめなのです。ことばより、声と息とのミックスとか、声の彩、つや、表現をより伝えるための声をどういうように使っていくかということこそが、課題です。
外国人の歌を聞いてみたら、ことばとか音程で歌を捉えているわけではないことがわかります。本当に歌える人がステージに立つためにやってきたことは、ひたすら、耳から体で聴き込み、それに対して、一つの表現を体から声として出してきたわけです。
何回も何回もやってみて違う、違うと、やって積み上げてきたプロセスにあるわけです。確かにリズムや音程も勉強の方法としては楽譜で音符くらい読めるようになった方がよいのですが、それは全く表現とは違います。
ヴォーカリストの耳がなくてはヴォーカリストの体がつきません。その耳がもてるようになったら、声というのは出てきます。それを頭で捉え、今日できたとか、できていないといって捉えていくと、最も大切な感覚を鈍くすることにもなりかねないのです。それがわからない限り、トレーニングはものにはならないです。
スポーツの場合は、数をやっていけば、体でわかるようになってくるわけです。ところが、ヴォーカルの場合はのどは筋肉であっても強く使えないから、つぶれてしまうわけです。そういう意味で、のどを外した声というのを自分で実感していくというプロセスをとっていくことです。
声の判断基準は単純ですが、耳のできていない人には難しいです。だから、レッスンのごとにノートをつけることです。こういうトレーニングで身についた人たちは、すべてをメモして、声やそのスタイルに関心をもって判断力をつけていくわけです。
たとえば歌を聞いて、感想を書くとしても、最初は何行も書けません。ところが本当にトレーニングができている人なら、自分の体におきかえていけますから、一曲に対して、その声だけで400字で10枚くらい書けるようになります。それが勉強ができているということです。
ヴォーカリストだから歌えればよいわけで、別に文章は書けなくてもよいといっても、何かが身についた人は、自分のことばをもっています。人前で何かをやっている人が自分のことばをもっているのは、そうではないと、自分の判断力が人並み以上につかないからです。そういう人たちが、皆もっているものをとり入れていくことが学ぶ方法です。
ライブを見るだけではなく、その声や歌、ステージをどう聞くかが問題です。そのことを毎日、書いていくと、ただ聴いているだけの人と、大きな差がついてきます。そうでなくて学べる“天才”もいますが、トレーニングとして身につけるためにそういう方法があり、つづけていること、その内容がよくなってくることが、自信になってきます。
メニューも材料を参考にして自分でつくるのです。たとえば、私の本を1冊渡して、これについて書いてくるのが課題として出すと、書いてくる人は本1冊分くらい書いてきます。
普通の人は、10ページくらいで精一杯です。出さない人もいます。
それをやらないとヴォーカリストになれないというわけではなくとも、学べることがどのくらいあるかを知るのがとても難しい分野であるだけに、そうやって取り組めることが一つの才能だということが言いたいのです。そして、これは努力と意志でアプローチできるのです。つまり、プロと同じような体、耳になってこないと、学べないまま、何年過ぎても、何も変わらないということです。
なぜスクールでまともなヴォーカリストが育たないのかと聞かれます。
最初から頼ってしまうところからスタートするからです。先生のことばや判断に頼るところで芸が育つわけがないです。それで結局、何年たっても一つも自信がつかないのも、やった実感が伴わないから、あたりまえです。それっぽい顔で器用に歌えるようになったというだけで終わってしまいます。
だからギリギリまで突き詰めて、本当に本気で自分に価値があるものは何だということを知り、とり出さなければいけないのです。それを見つける作業がトレーニングです。
いろんなヴォーカリストがいて、なかにはうまい人もいますが、自分がやって、そういう人たちとは全く違う価値が出せるということです。ヴォーカリストは、その人の体つきから気性、感情、気質がすべて総合されているものですから、それが出てきたら、誰でも納得します。
それを節、フレーズといっています。どんなに有名で一流のヴォーカリストが隣で歌っても、惑わされない本当の価値ともいえます。
つまり、それが歌そのものを教えられない理由です。ポップスですから、すべて、その人のオリジナルなら許されるわけです。
ただ、許されないことは、人間である以上、人間たる一つの原理があります。
ヴォーカリストというのは、2オクターブ近くをあれだけの声量で使って聞かせる技術の上に成り立つのですから、そのことに反することはやってはいけないわけです。そこが基本です。
これを日本語と外国語の違いから考えてみます。
たとえばことばで「冷たい」と言ってみましょう。それにメロディをレミファミとつけると、外国人の感覚だと「つめたい」とは言いませんが、音をつけ「つめたい」と言い切るだけです。それで音程がとれているわけです。
日本人の感覚だと、これを「つーめーたーい」(レーミーファーミー)と音程だけをとって歌いあげていくでしょう。そんなふうに歌いあげている人は、向こうにはいません。
日本人の場合は、高低アクセントで同じリズムでとっていくのに、向こうは強弱です。だから「た」に強アクセントがつき「冷たーい」という感じできます。線が出てきます。だから、自由に音を動かせるのです。
歌も、強拍と強アクセントが一致していますから、ことばを言っているなかで、歌えるのです。日本語は、外国の人たちから言わせると、機関銃のように点で聞こえるわけです。
日本人の歌は、楽譜のように音の高さだけを表わした点といえます。
外国人は「しんじゅーく」と、どこかに強アクセントがつき、伸ばします。すでにフレーズが出てくるわけです。それが音楽に入っていくフレーズのもとになる、ことばのフレーズです。
これを私は「メロディ処理」と言っています。
日本人は頭しか打たないわけですが、伸ばすときも均等に伸ばすと、等時性という法則があります。俳句のように、五七五七七と数えられるのもそのためです。
向こうの場合は、発音を強アクセントのつくところのみ、はっきり体から出し、後はあいまいです。
しかし、強アクセントが第2音節、第3音節と、いろいろとつくから、そういう言語を日常で扱うだけでも、ずいぶんと音に敏感になります。
自由に体や息を使えるようになる理想的なヴォイストレーニングを踏んでいることになります。彼らみたいに出したくても、聞こえていなければ、出てこないということです。
カタカナ英語といわれるものがあります。Childrenを「チ・ル・ド・レ・ン」と聞くと切ってしまう、「チ・ル・ド・レ・ン」としか出てこないわけです。英語にはならない。Yes、「イ・エ・ス」と「Yes」は違います。線と点との感覚の違いです。「ハイ」も同じです。日本的な感覚で、音楽になると「ハアイ」などと歌う。どちらかが音楽的に有利かというと、残念ながらすべて向こうの方が有利なのです。
「冷たい」とことばで表現できたとしたら、これを音楽的に「冷たい」と言うのに、よりきちっと深く捉えて、体を使わない限り、表現を伴うだけのものになりません。「冷たい」をレミファレをつけて歌ったとき、体から浮くと表現になっていないので、冷たいとは感じない。それでOKを出すのが今の日本の音楽界です。
いろいろと加工もできるし、価値観以前の問題ですが、字幕がでないと歌詞がわからないなどということは許されないはずです。演歌の方が、よほど日本語で聞こえるノウハウをもっています。ただ、演歌は、日本的なものであるだけに、体から歌っている人が多いとはいえません。
トレーニングをしたときに、体がついてこないと、体から声が出てきません。もし言い切れない場合は、もっと短くしてでも表現効果を弱めないことです。歌うのはやめ、表現することです。声がよい人ほど、歌ってしまいます。それでは退屈になります。表現に退屈はいけません。声よりも伝える気力の欠けていることが、日本人の大きな問題なのです。
そこでことばでまとめてしまうとよいのです。
「冷たい! ことば!」と、歌らしくなってきます。
役者なら、呼吸で間をとって、ことばで短く言い切って、そこに音をつける方が伸ばすよりよほど歌になります。そこまでが声に関するところです。
ヴォーカリストには、さらに声を大きく動かしていかなければいけないわけです。動かしていくということは、たとえば「冷たい」を「つーめ・たい」とか、「つめーたい」とか、「つめたーい」といったようにです。音楽的な処理をするので、「フレーズ処理」といっています。
ポピュラーでは声が悪くても、声量や声域がなくても、低いところでも、マイクをつければ聞こえるわけです。声になっていなくても、きちっと体を使って息を吐いてやっていればよいのです。
音楽的感性の違いから、日本でやるときには、どうしても小さなフレーズになりますが、トレーニングでは大きなフレーズをやるべきです。
音の線、強弱で捉えると、レミファミで、音程など全く感じさせないでできるのです。基本的に感情をつかまえて出している流れのところだけで表現します。これを日本人が聞いて歌ってみると「つーめーたーい こーとーば きいてーも」となるわけです。
体を使わなければ伝わらないです。体で捉えるには、「つ」や「た」が口先ならつながらないわけです。音が違っても、ことばが違っても、そこに段差ができず、「たーい」同じところで言えなければ動かせないわけです。それを口先だけの流れとひびきで、メロディとして歌いあげると音色が変わり、うまくつながらないのです。
だから日本語が一様に不利だというのは、「美しい」とか「知っている」などを、正しい日本語のことばとして伝えようとすると浅くなり、声として動かせるところの発声を犠牲にしなくてはいけないからです。ところが向こうの人たちだと「(しっ)てーる」と言えて、表現になるわけです。日本語だと「しいている」というようになります。
これを上のひびきでまとめることでうまく回避するノウハウをつくっているのが演歌です。細川たかしさんのようにノンジャンルで歌っている人のは、わかりやすいでしょう。日本人の好感のもてる声で、ひびきのところからまとめてきます。
それに対して、向こうの人たちというのは、基本的には体のところでことばがシャウトできるポジションでまとめた上でひびきで出している人たちが多いです。日本人がこれを歌うと、「しいている」と「ている」あたりの流れが、ガタガタになってしまいます。簡単なトレーニングとしては、「て」にアクセントをつけて、この後に出てくる流れの上に音をとっていけばよいでしょう。
次に、日本人が苦手なのは、アフタービートなどの感覚によるつなぎができないことです。「つめたい」は言えるわけです。ところが「つめ」の「めえ」や「たい」の「たあ」などの感覚によるつなぎができないのです。「めーた」にも、メリハリやフレーズが出せない。
そこにビブラートというのが、ある意味では音を効果的に聞かせるためについてきます。これは、技法ではないわけです。クラシックのように、生で多くの人に聞かせるためにひびかせるのと、ポピュラーとは違います。
クラシックは絶対、ひびかせないといけない。kissを「キイスー」と言わなければいけない。ポピュラーは「キッ(ス)」でよいわけです。声が消えてもマイクがあるので、息を拾います。
日本人は高音が出ないといいますが、中間音のヴォリューム感を比べてみたら、向こうの人が中間音でどれだけ盛り上げられる声をもっているのかがわかります。
そこでも私たちは声を全然、扱えていないのがわかると思います。それなら、「おかあさーん」と叫ぶことでも、ずっとトレーニングしていた方がよいわけです。
「…わたしは知っている」一つに捉えておいて置き直すことで、日本語は処理していきます。「わたしは」も、「わ・た・し・は」となりがちです。ところが一回、「私は」と捉えておいて「わーたしは」や「わたーしは」とおきかえ、ズラしていきます。その音の動かし方、ことばのおき方の感覚が結局、ヴォーカルのセンスです。
どこに何を入れ込んでいくのかが問われます。伝えるべきことを、入れ込み、最も効果的に出さないと表現にならないのです。それを、意識しないでできるようになれば、はじめて体ができているということです。プロの感覚が体に入ってくるのです。
リズムや音感とのトレーニングは、世界中の一流のあらゆる音楽を叩き込むくらい聞いて、すべてのパターンを入れ込んでいくことしかありません。それだけ聞けば出てくるという点で、とても単純なものです。それがないところで、音程やリズムをとっていても、歌には結びつかないのです。
あくまで、音大受験用のようなリズム、音程練習はチェックにすぎないのです。耳があって、その耳で聴き込んで、体におきかえることができたら、声として出てくる。その上で歌というのは歌わなくても出てくるものです。歌ってしまうとダメなわけです。
そこが一番、感覚の違うところだと思います。日本人で歌をやろうとする人は、すぐに歌ってしまいますから、とても聞き苦しくなってしまいます。技術があると、それなりにもちますが、最終的に、この技術も前に出ない方がよいと私は思います。
地声と裏声のつなげ方のまえに、地声の見直しを徹底してやることです。今の地声というのは、あくまでも今までの体でやっている地声にすぎないので、やれるところまでトレーニングすることです。体が変わり、使い方を覚えるとやれることが全く違ってきます。
特に女性の場合は、声区のチェンジなどということで、ごまかしています。習っている人は要注意です。シャウトさえできないトレーナーに、本当の地声はわかりません。声区などといったややこしいことで声が変わるなら歌えません。
自分の地声のところで、まず1オクターブがとれるということを徹底してやってください。その上に裏声をのせるというくらいです。高音というのは、体がついていたら間違えません。間違ってやると、のどをしめ、つぶしてしまいます。その前の中間音が開いていて、キープできない限り、高音はできないのです。
普通にしゃべっているよりも、より体を使わなければいけないのはいうまでもありません。それと、ポピュラーの高音というのは、表現から決まるものです。2年間くらいは、中間音までと、低く使ってこなかった音を捉えましょう。
たとえば「ハイ、ララ」というようなところで徹底するのです。高音になると、スタイルによって、大きく違ってきます。中間音以上に自由度が大きくなり、変わってくるからです。ひびかせたい人、それを押さえたい人、それからもっとハスキーにしたい人など、ポップスの場合は、結局、歌から決めなければならないということです。
声楽家のようにひびく高音がポップスに使いにくいのは、声を伝えるのではないからです。たとえば、伝えたい表現から、いろいろなことができるようになったとき、それを選んでいくということです。それが体に支えられているということです。
オールディーズなども基本として知っておけばよいというくらいでやっています。ただ、正しいレッスンからは、それます。正しいレッスンは3分の1くらいで、後は遊びごとをやっています。音や歌を体にしみこませるためです。合宿とかでもあまり関係のないことを中心に、好きなことをやっています。そういうメニューも入っています。
ただ特別な場が必要かどうかということは、不問です。自分でやること、そのスタンスでここが利用できるのであれば、利用すればよいといっています。そうでなければ他でやろうが自分でやろうが、スクールでやろうが、どこでも同じだと思います。
ただ、日本はトレーナーには恵まれていないことは知っておくとよいでしょう。ここは、基準は絶対に下げないでやっています。求める基準を下げるのであれば、ここをつぶそうと思っていますから、他の人から、どんなにわからないと思われても、続けてやっていきます。
続けてやっているというのは、自分の判断のところでやっています。その基準は、今の日本にはないのです。外に出れる基準です。それは守っているつもりです。真から出る声というのは、感情表現と音楽的表現さえできれば、発声というものは正しくなくてもよいのです。
泣いても怒っても、その感情のところでギリギリに煮つめると声もしめられてきます。それを飛び抜ける技術があれば、それを出せるということです。本来は感情を歌で表現することだけを考えていたらよいわけです。こもるとか滑舌とか発音とか歯並びが悪いとか、いろいろなことは、一切、気にしないのです。
鼻にかかるというのも、どうでもよい。そういうことで聴かれないのであれば、もともと何も聴かれないのです。歯が全然ないヴォーカリストや、かすかすの声の人も、それでも説得力があれば、ファンがついています。ただ、そういうものが日本にあまりないということです。異色なものを受け入れないのですから、あなた自身もそうなってはいけません。
ヴォーカルとして、その音楽性レベルの高いヴォーカルを私は、きちっと評価します。声楽は、人類の遺産みたいなものをきちっと守っていかなければならないのですが、ポップスの場合は、もっと自分の出せるものを出していくことです。
もう一つ違うのは、長期的な視野に立って、欠点の修正のトレーニングはやらないことです。「イ」と「ウ」が出ないとすると、そうしたら、出るようになるまではやってもトレーニングではないのです。そうであれば、「ア」とか「エ」で正しく声になり、それに巻き込まれて出るようになるのを待ちます。そういう状態になり、「イ」「ウ」が正しく出たにも関わらず続けて出せないときに、トレーニングの上にのせられるようになるということです。
一つひとつに応じていたら、キリがないです。日本語が50音、音声では112音、外国語も何音もある。それを全部、チェックするより、一つだけでも絶対的に正しければ、他のものはそれに寄ってきます。苦手なものや、そろわなかったりするものは、やらないのでなく、やれないのです。
「ハイ、ララ」というのも同じです。普通だと、「ララ」とかという具合につくってしまいます。「ハイ」というところでできたら、Haのaは、同じ「ア」で口先が違うくらいなわけです。それをアナウンサーのようにバラバラにつくっていかないということです。複雑にすればするほど、捉えにくくなります。体が動かなくなります。それが基本ということです。
ここで、他のスクールと違って、与えているものがあるとすれば、型があって、その型を与えているということです。そして、その型を身につけなさいというのではなく、その型に照らし合わせてチェックしなさいということです。普通に歌ってみても、あまりにチェックできないからです。歌えるというところでいくと、誰でも歌えるからです。それで文句もつけようのない世界ですから、その基準をどうとるかということです。
タバコ、お酒に関しても、スポーツ選手と同じ体力勝負です。25才を過ぎたら、自分で決めるように言ってあります。ただ、声の要素が少しでもややこしくなるのであれば、全部、除いていった方がよいと思っています。いろいろな意味でトレーニングする期間です。ただベースのことまで身につける期間です。
どちらにしろ、日本のヴォーカルの基準をプロと考えると、とても甘くて、もしそのことで通じるのであれば、要はそれだけのレベルでしかない業界ということです。自分で決めていってくださいということです。日本と欧米のヴォーカリストの違いというのは、言語と環境に根ざします。
ここのテンションがとても高かったというようなことがいわれますが、みなさんのテンションとか体力が高くなければどうしようもないことです。体力づくりをやることです。芸能界の人たちでも、残れる人は朝から走っています。
年齢は関係ないですが、ただ体につけるトレーニングですから、心の方は助けてくれますが、体の方に関しては、やはり10代の体をもった方が有利だと言うことです。保たなければいけないのは、体に身につくものである以上、体をきちんと解放して、ここに来て声を出すというような感覚でなくては身につかないからです。
自分のコンディションをどうつくるかということです。ヴォイストレーニングで大切なことは、“毎日、どういうことをやるのか”とか“どうするか。”ということを学んでいくこと、365日、正しい状態をキープするということが大切なのです。
起きたては、のど声です。そして、そのまま夕方までいって、のどが疲れる。そこでレッスンする。朝一番に柔軟をして、声に関しては負担のないところまでやれるだけやって、一日を送っていくことの違いです。
私にとっては、他の人と話すこと自体も、ヴォイストレーニングになります。今も体から声を出していますが、これも一つのトレーニングです。そうではない時期は、中途半端な声は全部、マイナスになります。そうすると、トレーニングを週1回くらいやっても、何にもならないのがあたりまえということがわかるでしょう。
だから外国人と同じくらいの体をキープし、役者でも何か表現している人と同じだけのテンションと、それから体の状態を保つということです。私の場合、肩は凝らないです。そういうものもノウハウです。
そういう状態ではない人が、いきなりここに立ってすごいことができたら、その方がおどろきですね。
だから、それが日常になるかならないかというところで問われるのです。
今までスポーツ経験がなく、いきなりやろうとする人は、スポーツや武道とかの勝負ごとから始めるとよいと思います。油断するとやられてしまうということで、体の感覚が研ぎ澄まされ、集中力も高まります。