鑑賞レポート 646
【3大テナー 】
ずうっーと釘づけ状態だった。耳もさることながら、目でずっと彼らの表情を追っていた。とても感情表現が豊かで、魅力的な顔をしている。顔の筋肉が日本人と違ってフニャッとしる。イタリア語の歌詞は、意味不明だが、その豊かな表情と歌声で、すっかり彼らの世界に引き込まれてしまう。歌っている間は、全くスキがない。こちらが息をするのを思わずためらってしまうような緊張感、張り詰めた空気の流れを感じる。それが大きい声であろうと、ささやくような小さな声であろうと変わらない。すごいの一言につきる。彼らの歌い方をみると、全身をフルに使って声を出しているのがよくわかる。特に一番小柄なカレーラスは、伸び上がって全身を震わせて歌っていた。それでも他の二人と比べると、声量が小さくて、見ていて少し気の毒に感じた。やはり共鳴体は、大きければ大きいほど、いいのだろうか。
ホセ・カレーラスについて、カレーラスの幼少期のエピソード、三大テノールの実現について。自分の立ちあったすごい瞬間、歌を意識した年などを語るホセ・カレーラスが白血病から奇跡的に復活して、三大テノールの競演という夢のコンサートが実現したこと。立ちあったすごい瞬間や歌を意識したのはいつの頃か、過去にいけるとしたらいつにいくか、など普段あまり意識しない質問をされ、それについてしゃべるのを考えたとき、自分でも気づいていない自分のことを知ったような気がした。
みんなの歌を意識した年やそのエピソードなどを聞けておもしろかった。メーキングオブ、1回見たが、解説付でまた断片的に見ると、違った感じでおもしろい。もらった資料の“ローマの歌合戦”というコラムを読んで、“そういえば、この3人が仲よしなんて簡単に思ってたけど、そんなわけないよなぁ”と納得…また、このメーキングオブをみたので、3人の雰囲気を深読みしてしまった。何もわからなかったけど。偶然、この本をいま読みかけていたところでした。「私がみたオペラ名歌手名場面」、なかなかおもしろいです。
ホセ・カレーラス 三大テノール。白血病から奇跡的に立ち直った彼を心から祝うために、3人のテノール歌手の意志で行なわれたカラカラコンサート。ライバルであるはずの3人の歌手が同じ世代に世の中にテノールとして存在する喜びを歌を通して表現し、その空間を共存しあう。なんてすばらしいのだろう。もっともっと上を見なければ…。決して順序を抜かして走っていくことは許されないけれど。自分の求める世界はただ一つ。そしてその世界は、「自分」という原石が磨かれて変化しているのだ。今日の三大テノールを改めて見て、甘えている自分の感性を捨て、汚れをとっていかなければと思った。この世には、私の知らないもっともっと大きなスケールの感動の瞬間があることを信じて。
【ジャニス・ジョブリン Janis Joplin Comin' Home】
どうしてこんなに辛く哀しい気持ちにさせるの。ジャニス、あなたは激しすぎた。あなたの歌を聞いていると、とても重たい気持ちになるんだ。この世bフ中にはいろんな歌があるけど、あなたの歌をさらっと聞きながすことはできない.それは歌のすぐ裏にあるあなたの人生が見えてきてしまうから。あなたの心と声には境目がない。嘘がない歌だと思う。死んでから20年以上の時が流れても今なお人々を魅きつける、そんなあなたのように歌えたら、すごいことだと思う。だけど私はあなたのようには決して生きたくはない。あなた自身もきっともう1度「ジャニス ジョプリン」に生まれたいとは思わないのではないだろうか。なんだか芸術って哀しいものだね。言いたいもの、痛いもの、そんなものをたくさん背負った人の方がすごいものを表現できる気がする。“いい歌だね”とあなたの歌を評価するのは軽々しい気がする。好きなシンガーとも言えるし、嫌いなシンガーとも言える。だけどそれはその裏の人生がどんなものであれ、それが直球で激しすぎる熱情をぶつけられた歌であることは確かだ。あなたほど歌の中で素直になれたシンガーはいないのではないだろうか。
【アダモ 】
エンターテイメント性とは何なのだろう。アダモの舞台を観ていると彼の神経の細やかさに感じるところが多い。どうしてそこまで...。と何度も思った。日本語も話してみせる、花束をもらう度にキスをする、歌のイメージに合わせておどけてみせたりもする。しかし彼のそれは口先だけのものだはない。体全体で演じている。楽しませようという精一杯の努力をしているのが伝わってくる。
相手と一体になって動きというか、うねりのようなものをつくろうとすることはあまりない。ともすると自己満足的な舞台になりかねないということだ。エンターテイメント性といっても、いろいろあると思う。それは人それぞれの個性によるものが大きい。これからの私の課題の1つになるだろう。
【アマリア・ロドリゲス】
貧困とか戦争とか、どんな不幸な状況にい「ても、人間はそこから笑いも喜びも見いだすことができるのかもしれない。逆境を生き抜いた人の逆境を笑い飛ばすような計りしれない強さ。すべてをなくしても、人間である限り人間の想いが笑いも涙ももたらす。そういう一番深い部分を民族音楽は伝えてくれる。暗さの中の明るさ、たくましさを私はとても美しいと思った。その民族独特であるはずのものが、人間はみな同じだということを教えてくれる。
この歌詞の世界は私とは何の縁もないような情景なのに、アマリアの歌がそれを結びつけてくれる。いわしの歌なんて私は大笑いして嬉しくなってしまった。人間はたくましい、しぶとい。歌に限らず、語り継がれてゆくものとは、こういうものなのだ。百武すい星を探したくて、じっと空を見ていたときに私は思った。私は星占いなんてバカにしていたけど、星にまつわる話や、神様がいるとかいないとか、今でも言われ続けているのは、太古の昔の人々が、間違いなくそういう宇宙のものと交信できていた証拠じゃないだろうかと。残念なことに、快適さがその能力を殺してしまう。苦しむほど、人間の神経も魂も、ピリピリと澄んでくる。いろんな運命とか事情があってその域に達した人は、今でもそういう能力が使えて、それが歌とか絵とか、その人によって違うけれども、魔法のように私たちに作用するのかもしれない、というようなことを思った。
アマリア・ロドリゲスには、力を感じた。だいたいこのライブの時点で70歳近いというのに、おばあさんに見えない。宇宙的な何かをキャッチできる人に違いない。それが妙なオカルトではなく、人間に作用するものでないと意味がない。アマリアの場合は歌だったのだ、きっと。自分が努力次第でこういう人になれるとはとても思えないが、そんなことを私は気にかけない。続けていけばピグミー族の人やエスキモーの人とさえも話ができるようになるかもしれない。そのために後どれぐらい下へさがっていき、また上にあがっていかなければならないのか見当もつかない。
アマリア・ロドリゲスも「ファド」というジャンルの予備知識もまったくないが、とても「情熱」を感じさせるヴォーカリストで、ときに優しく語るように、ときに激しオくふり絞るように歌を表現していた。あれだけの熱唱をくりかえしても、息が上がることなど1度もなく、2時間にも及ぶステージなのに疲労をまったく感じさせなかった。年齢は60代だと聞いて驚いてしまった。20歳は若く見えると思う。「本物」と呼ばれる人はヴォーカリストに必要なものをすべて凝縮して魅せてくれる。まさに「ファドの女王」の名に相応しい貫禄のステージだった。
【イヴ・モンタン】
才能とは努力をどれだけ惜しまず続けるかということだと思った。歌や振付けにも完璧を求める姿が素晴らしい。完璧にするた彼の何度とない練習が目に浮かぶ。そして努力は、人を輝かせ本物にしてしまう。家にシャンソンのCDがある。その中にピアフとイヴ・モンタンが入っているが、この2人が共に時を過ごし、こうして1枚のCDに歴史に残る歌を歌ったことが驚きだ。自分の短所を感じさせないくらいに長所を伸ばすこと。そして歌う前の緊張は歌に対して真剣に思っているからであって、そのことを悩む必要はない。勇気づけられてしまった。
なんだか懐かしい感じでした。学生だった私は、学校の後輩の部屋でこのビデオを観ました。シンディ・ローパーが若くて可愛らしい。ダイアナ・ロスの声が本当に美しく、ちょっとソロをとっただけで、はっとさせられます。レイ・チャールズのあのダンス。どこでリズムをとってるのかわらないのにカッコいい。スティービー・ワンダーの伸びやかな声。首をくねくねさせても歌えるのが理想なのだなと、何かにつけ首や肩に力を入れて発声している自分の歌い方に反省したり...。あらためてスゴイメンバーだったんだなと思いました。皆が楽しそうな中でボブ・デイランとポール・サイモンが所在なさげに見えて気の毒でした。サイモンの「みな傍観者にはなりたくないからね」ということばが、意味深長でよかった。アフリカは本当に救われたのでしょうか。
「哀しみがあるから歌える」もうこれは歌ではない。いやもしかしたら、これが歌なのかもしオれない。歌うピアフと表現された歌の間に隙間がないことに驚いた。歌の世界に陶酔しているのではないと思う。歌とピアフの心が同じになっている。決して体が大きいわけでもなく、美人なわけでもない。だけど存在感がある。それは悲劇に近い人生を、明るく生きていこうとしていた彼女の“気”のせいではないだろうか。
ピアフという人間を語るとき、その悲劇的な人生を抜いては語れないと思うが、もしこの世の中が“喜び”だけの世界だったら、歌も絵も、表現される必要はなくなってしまうのではないだろうか。“哀しみ”“苦しみ”があってこその喜びだし、哀しみがあるから“怒り”も生まれる。“哀しみ”があるから表現の欲求が生まれる。
ピアフは言っていた。「歌ははけ口だ」と。「叫ぶことによって救われる人もいる」と。歌は何よりも単純な表現だと思う。自分さえいれば道具は何もいらない。だからそれだけ、中身が重要になる。ピアフの破滅さは見ていて少し怖いけれど、あれだけ純粋に人を愛する心は本当に可愛いと思ったし、その純粋さが歌にもストレートに表れていた。
彼女の人生を思うと、泣けて仕方がない。束の間の幸せも彼女には奪われるためのものでしオオオかなかった(破滅型の性格というが、あんな人生だったらそうなるしかなかったと思う)。歌うことができたから何とか生きていられたのだろう。幼い頃から歌うことやステージ以外、楽しいことなんてなかっただろう。歌っている間だけ辛い人生を忘れられ、そんな彼女に束の間の美しい世界、夢を見せてくれたのが恋だったのだろう。ピアフとは恋と歌なしには生きられなかった女のことだろう。決して美人でもなく晩年の歌う姿は痛々しいばかりだけれど、彼女の存在自体が何ともいえずロマンティックだ。彼女が歌えば人々は甘い愛の夢に酔う。彼女の人生自体が物語のようにドラマティックで胸を裂かれるような事件の連続だった。彼女は実人生の痛みや哀しさと、彼女を救う愛を歌い、それが大衆の心を慰め、彼女の歌というよりその類まれなる愛する心に、人々は拍手を送っていたのだと思う。ピアフの真実の“おもい”は、きっと人類共通の誰の心の奥にもある“おもい”だったのかもしれない。
ピアフはシャンソンの教祖のような存在だ。ピアフに憧れてシャンソンの世界に入る人がほとんどではないか。稀有な歌い手として敬愛してやまない。人は皆、ピアフの歌を聞きたいというより、ピアフの創り出す愛の世界に浸っていたいだけなのだ。
最愛の恋人を事故で突然失ったというその後に“モンデュ-”や“愛の讃歌”を歌う姿が一番印象に残った。激情の放出。エディットピアフといえば「恋に生きた女」ということになっている。ピアフ自身、生きるためには恋も歌も必要だと言っていた。それは芸術家でなくても、充実して生きたかったら誰でも必要とすることだと思う。知的創造的何かをもつことと、情念の充実と。でも実際、女がその両方を求めるというのは難しいことだ。ピアフは劇的な人生を送った。それだけに受けた苦しみも悲しみも大きかっただろうが、“両方”を求めることに何のためらいも感じられない。
歌ははけ口だと、ピアフは言った。狂喜と美しさの入り混じった顔。あんなに裸で生きて、破壊的な部分を秘めていても、本当に発狂しなかったのはギリギリのところではけ口だと言った歌が、バランスをとっていたからだ。自分のなかに渦巻く激流を止めるなんて、ピアフは考えもつかなかっただろう。ドン底を知らない私は想像さえできない。ピアフの悲しみ、喜び。だからとりつかれたように歌う姿に圧倒されてしまう。
1度として同じ表情がなかった。自分と歌の物語を通じて起こる喜怒哀楽に、素直に打のめされ何度も何度も生まれ変わっていったのだろう。胸の奥が震えているような、絶対彼女とわかる声。一曲の中で、いや恐らく毎日の暮らしの中でナ決して歌を離すことがない。彼女にとっては小さな頃から生きることが歌うことだったのだ。体に宿る芸人の魂が舞台上のあらゆる空気の変化を見逃さず、的確に反応しているのがわかる。
『私の神様』を歌う姿が強烈だった。これまでの歌の概念がくつがえされた。今まではショウビジネスの世界を通して音楽の世界を見てきたにすぎなかったのだ。勇気と回復力を最期まで失わなかった“piaf”「愛も大切だが歌もなくてはならない」と語るあなたは、すべての瞬間まぎれもなく“Edith Piaf”であるために、うらやましいとも思わない。“Edith Piaf”は、これからどれほど時代が巡ろうと決して色あせることはない。
【エンゲルベルト・フンパーティング】
広い音域でムラなく声が出る。力みが感じられない。MCを聞く限りでは、彼の地声はバリトンややバス寄りといった感じ。それでいて高音域を楽々出している。あの歌声は天性のものなのだろうか。それとも平凡な器を磨き上げてきたのだろうか。
シャルル・アズナブールは歌の登場人物を演じ切るところがあるが、エンゲルベルト・フンパーティング(なんて長くて覚えにくい名前!)は、シャルルほどの技巧は感じられない。感情移入はしつつも、声いっぱいに歌っているイメージ。これは技術の違いというより、性格の違いなのだろう。お客との間合い、呼吸がとてもいい。お客をノセていくにはどうしたらいいか、感覚として身についているのだろう(少なくともステージの上では)。彼はとても陽気で、歌う事を心から楽しんでいた。
声が凄い、その一言によってその世界に引き込まれるかのようだった。CDで彼のベストアルバムを持っているが、またCDで聞くのとは別物の凄さがあった。アレンジの方はCDのものとは違って、割と現代向けのアレンジになっていた。僕はどちらのアレンジも好きだが、やはりライブでは、ノリとかを出すために現代向けのアレンジでやった方がよいという印象を受けた。
一つ気づいたこととして、ユーモアあふれるエンターティナーであるということ、そして客や会場に彼という人間の親しみを与えている。そしてひとたび歌が始まると彼は、一流の、人を感動に巻込むア-ティストとなる。そしてその声により会場の心は、感動という一つの線で結ばれていた。まさにアーティストの名にふさわしい声とステ-ジングである。僕が最も尊敬するヴォーカリストの一人である。そしてその考えはこのライブで更に深まった。
【キング・クリムゾン 】
こういう音楽もありなのだな、と思った。自然に耳をすまして、そこから取り出した音を一つずつ重ねていく。氷の割れる音、木々がうねる音、静けさが耳に残す張り詰めた空気の音、ただそれをなぞっていく。突然はじけるように飛び出したリズム、彼らは力強いテンポで踊りだす。それは頭で捉える音楽ではなく、体が感じて思わず動きだすタイプの音楽だ。彼らは楽しそうに音とたわむれて見せる。声ひとつとっても、震わしたり伸ばしたりスタッカートをかけたり、まるで楽器のように使っている。まとまりをもった曲というよりは、一人が出した音に次の人も重ねて、変化させて、リズムを変えて、遊んでいる。見るからに楽しそうだ。笑顔が浮かぶ。本来音楽というのは、こういう側面を持っていたはずだ。そう確信させてくれるような演奏だった。ああ、世界は広い。でもとてもシンプルなものなのだ。
【アル グリーン】
「良心の声」一度、アル・グリーンは女遊びしすぎたのを反省して、牧師になったんだというようなことを誰かに言われたことがあって、ずっとそう思い込んでいた。確かにそう言えなネくもないだろうけれども、反省ということばでは決してかたづけられない。人間には、純粋な良心の核のようなものがあって、生きていくうちに、服を着るように様々な体験を重ねて、思想をもつようになって「成長」するのだけれども、その核に矛盾するものもたくさん身にまとってしまう。それらもひっくるめて「人間」なのだが、自分の養分になるもの以外は、とっぱらってしまいたい、もっとよりよく生きたいという欲求がある。彼は、その欲求に自ら答えたのだ。生まれたままの姿ではなく、それよりももっと透明で純粋かつ栄養いっぱいの核になったのだと思う。「神の声」を聞いたのかもしれない。おそらくそれは自分の「体の声」、「心の声」だったのではないだろうか。
【シャルル・アズナブール 】
小柄でやせた、初老の人だった。だが目はやけに鋭い。まるで観客をにらみつけるかのように鋭い。bbサれでいてどこか哀しみの表情をたたえているそんな彼の目に、私の目は釘付けにされた。最初はいつもこんな顔をして歌っているのかと思ったら、そうではなかった。ラストの方で愛する人と甘いダンスを踊る、という内容の歌を歌っているときには目をとろんとさせ、甘いささやきを混じえて、さも楽しそうに一人で踊りながら歌っていた。そう、彼は身振り手振り顔の表情といった体全体を駆使して、自分の歌の世界を演じているのだった。前奏が始まってから最後の音が鳴り止む瞬間まで一時たりとも気を抜くことなく、全神経を集中させて表現しているのだった。曲の合間に時折見せるホッとした表情。そして前奏が始まるとまたグッと歌の中に入っていく。彼がステージの上で見せてくれた態度は表現する者の姿勢、そして厳しいプロの精神を充分に物語っていた。
シャルル・アズナブールには円熟ということばが似合う。彼の生い立ちなどはよく わからないが、おそらくあきらめないで牛のようにキャリアを積んできたに違いない。彼は美男子でもなければ声もよいとはいえない。しかし人々を引き込んでしまう何かがある。最初の軽く流した2、3曲に比べて後半の盛り上げ方はどうだ。プロとしての威厳すら見せつける。そして彼の歌には年齢を重ねて初めて歌うことのできる歌がある。昔を懐かしむ歌、娘を想う歌など、彼が歌うと歌詞が説得性を帯てくる。歌は年齢を重ねれば歌えるというものではないのかもしれない。どのように歳を重ねたかによる。ライブも終わるという頃には彼の顔は輝き、とてもいい顔で笑った。
まったく新しいタイプの、誰にも似ていない人間が形成されるには絶対的孤独は必要条件なのかもしれない。親や周囲の影響も最低限しか受けず、完全に自分自身になることはアーティストなら重要だろう。グレコは自分の小宇宙をもってどこにも運んだという。
「愚かな女」は彼女の独自の世界を表現していておもしろい。「裸にさせて」なんて恋人と二人だけのときにするような表情しぐさをステージでやってしまうからすごいけど、観客が一番見たいものかもしれない。
「エロティシズムとは目。目で相手に触ることは素晴らしい」という自論は凄い!の一言に尽きる。この女デキル!と思ってしまう。女としても上質だから魅力的な歌が歌えるんだ。その彼女がデビュー当時ヤジられたという。それでも「失敗が私を奮起させてくれる。何度も」とあきらめなかったから、やがて時代が彼女に追いつき才能を認められるようになった。
【ティナ・ターナー】
全編通してティナ・ターナーの芸人根性が感じられた。シンガーである前にパフォーマ-、客が喜ぶためならなんでもやる、それが彼女の最大の喜びである。たとえ歌えなくても踊れなくても彼女はパフォーマーになっていただろうが、その気構えを彼女の声は忠実に伝える。そして、その声を聞いて誰もが感じるのは「パワー」である。パフォーマーはいい歌手である必要はなく、信じられないのはどの歌手であるかが重要な点だ。彼女の内側にあるパワーが歌声やステージ・パフォーマンスを磨かせ才能あるミュージシャンを引き寄せるのだ.映画「ティナ」で描かれているようにアイクの行動がティナを苦しめたが、そのアイクからティナが多くを吸収したことを認め、現在優れたマネージャーといるのも彼女をサポートするミュージシャンが多いのも含めて、「基本的に現在の私の地位は私一人でつくってきた」と彼女が言ったのは、すべて自分のパワーがもたらしたものだ、と言いたかったのだろう。
最初から最後までパワー全開で、5万人もの客、それも満員電車状態で熱くなっている若者に少しも負けていない。ミニでタイトな衣装もバッチリ着こなす鍛えられたプロポー[ションも年齢が信じられない程だ。
ティナ・ターナーのあふれ出るパワーをしっかり刻み込もう。あの独特のステップは底力の象徴だ。私も自分のリズムを見つけ出そう。
一番好感を持ったのは、客に対して媚ない態度。日本人は最後「ありがとう」を絶叫する人が多いような気がするが、彼女は一言も「Thank you」とは言わなかった。かといって高慢さもなく、客と自然に一体化しているように思えた。「Power」をキーワードにしばらくがんばってみようと思う。
ティナ・ターナーが歌うのを観ていると、歌っている曲がロックであろうがブルースであろうがどうでもよくなってくる。実際にノ彼女が歌っている曲の存在さえわからなくなってしまう。つまり彼女のパワーや存在感の方が歌をとびこえて走っているような気にさせられるのだ。私たちの周囲には個性と呼ばれる類のものを頭で考えて作りあげていることが多いような気がする。
ティナ・ターナーをはじめ、外国のヴォーカリストの多くは、個性というものが体に満ちている。だからこそ、それは会場の隅々まで広がり、人の心を踊らせる。存在というものは、きっとそういうものだ。声がトレーニングのくり返しによって体につくように、体にしみついたものでなければ人の心や体を動かすことはできない。
なんてしぜんなんだろう...というのが第一の感想である。普通におしゃべりをしていていつのまにかリズム、メロディがつき歌になってしまった...というような感じで、全然無理がない。私が同じくらいの発声(もちソソろん‘できたとして’の話だが)をしたとしたら、きっといかにも体使ってます、リズムに合わせてます、というふうになってしまうに違いない。
アゴ周辺の筋肉のやわらかさにびっくり。いかに自分の顔がナマっているかを思い知らされた。熱唱型の歌い手とはまた違ったさりげなく、とてもすごいナット・キング・コール。やはり彼は‘キング’というだけあるなーと感心した。それからヴォーカルにリズム感があれば、バックの人々はなんなくそれに乗ることができ、それが本来の姿で今まで自分は「ベースやドラムに合わせて歌う」という認識しかなかったことに気づいた。
【パトリシア・カース】
まずライブの長さに感心したし、15曲目位までダンサブルで、バンド紹介のときも音を聞くとじっとしていられないという感じで踊らずにはいられない「「「、それほど踊ることが好きで楽しくて仕方ないといったふうだった。そして客席に「もう疲れちゃったの。」ともっとのるように強要するパワーには絶句した。本当にお客を満足させるステージをやりたかったらやっぱり体力は基本ですね。後半のバラードも声はパワフル。本当に疲れを知らない。イメージビデオも交えて彼女はファンの恋人という偶像がコンセプトのようだ。やはり動きが優雅でステージで伸び伸びとしぜんにふるまう姿が魅力的だし、そうできるのも子供の頃からステージをこなしている経験故の余裕だと納得。
【ビリー・ホリデイ】
ビリー・ホリデイが少しずつ彼女自身の表現を明確にしていく様子がとても興味深かった。もちろん、どんな歌でも見事に歌ってのける彼女だが、「奇妙な果実」を歌う頃の彼女はとてもしっくりしているような気がする。その人間にだけしか歌えない歌というのがある。ビリー・ホリデイにとって、あの歌がそうだったのかもしれない。あの歌い方の調子、表情、何もかも一度観てしまったら頭から離れない。私にとってそんな歌があるだろうか。ステージ実習やライブ実習の曲をそういう視点で選らんでいるだろうか。そんなことをいろいろ考えた。
奇妙な果実を歌っているシーンで鳥肌が立った。歌詞をちゃんと見ながら聞くのは初めてで、しかもビリー・ホリディの歌っている姿を見ながらだったので、心に突き刺さってくるような痛みを感じ、歌がうまいというのは音感やリズム感がよければうまいということではない、ということを痛感した。何に対してもパワーとテンションを持ち続け、人に喜びを与えていたように見えた。
その半面、私生活は結婚がことごとくうまくいかないとか、薬づけになったりしてうまくいってないようだったけれども、人前では常にパワーとテンションを出し続け、カリスマ性を維持していたように思う。
価値のまったくないと言われていた月光のいたずらという曲が、彼女の手にかかると名作になってしまうというのは、まさに普通の人の100倍の楽しみ知り、100倍の悲しみも知ったからこそ、心の中からしぼり出てくる泉の水のような優しい歌声が出てくるのではないだろうか、インタビューをうけていた人たちが最後に出したアルバムについて語っていたが、往年の頃の歌声ではないが、今でも聞いている名作だと言っていたのは、そういうことなのではないだろうか。
[グランジ]
発表されたニール・ヤング・ウィズ・パール・ジャムの「ミラー・ボール」というアルバムをお勧めしましょう。94年4月、ニルヴァーナのカート・コベインの自殺という悲劇に特に悲しみ怒り苦しんだのが、このニール・ヤングでありパール・ジャムのエディ・ヴェダーであったというのはよく知られているところですが、こんな両者にどうしても必要だったリハビリ的セッションがこの「ミラー・ボール」に収められていて、オープニング曲「ソングX」(このXはX世代のXでしょう)でのパール・ジャムのリラックスぶりや、ストーンズのようなギター・リフを持つ「ダウンタウン」でのニール・ヤングのリフレッシュぶりは、今年96年に発表されたそれぞれの新作にもいい形で受け継がれています。僕は楽譜を見ながら歌っているというよりも殴り書きの歌詞カードを見ながら歌っているかのようなニールの“うた”がたまらなく好き(そして轟音ディストーション・ギターも)なのですが、そんなニールが「俺は海/俺は巨大な引き波」と歌い続ける「アイム・ジ・オーシャン」は、この曲のパイプ・オルガン弾き語りヴァージョンでグランジの天使カートに捧げられたかのような「フォーレン・エンジェル」同様、大海原を思わせる清々しいナンバーで素敵です。
[ドリアン助川]
(前略)「結果的には亡くなってしまいましたけれど、計6回番組に出演した白血病の女の子がいました。すさまじい反響で、彼女への励ましのメッセージが千何百通と寄せられました。亡くなる1週間前に病室でとったテープを流したんですけど、そのなかで彼女は『どうあっても私は死なない 自殺する人がいるなら命をください』と最後の叫びを叫んでいた。そのテープを流したときの若い子たちのリアクションというのは、ものすごかったです。究極のイジメにあって死にたくなる気持ちもわかるし、当然だという気もする。しかし、これだけ死に急ぐ連中が多いなかで、あの彼女の叫びには本当に壮絶なものがありました。(中略)
金になる文字仕事は何でも持ってこいって感じで、多くのライターが経験するように、僕もエロ本から美容雑誌、ゴルフ場のメニューまで書きました。おかげで経済的には不自由しなかったけど、精神的にはどん底が続いていた。ヤケのヤンパチで仕事をしているとき、取材で革命さなかのチェコへ行ったんです。そこでテレジンというところにあったナチ収容所の子供たちが死を待つさなかで書いた絵をみた。家族の絵の横に『もう1度だけ、お父さんやお母さんの手を握りたい』拙い字で綴られている。強烈な印象でした。少なくとも僕は生きている。これからも生きていける。『それなのにあなたはなぜ、自分らしく生きようとしないのか』そんなふうに子供たちがささやきかけてくるようだった。そしてそこには、テレジンの子供たちの絵をみてこんなに感じている自分がいた。ああ! 最後の才能だけ、たった1個だけあった! 『感じる』という才能。自分は何をやっても駄目だ駄目だと思いながら、なぜこの思いを何年も引きずってきたんだろう。なぜ未練がましく何かを表現したいと思い続けてきたんだろう。それはきっと『感じる』才能があることを自分がどこかで知っていたからだ。考えてみれば、そうだと思うんです。誰もがもっている才能なんですけど、感じる力がない人間に表現はできないのだから。だったら自分が感じたままに叫んでみよう。そう思ったときに目の前にパンクバンドの演奏がみえてしまった。(中略)
よくメッセージソングバンドって呼ばれるんですけど、僕は音楽、表現すること、ステージに立つことって、メッセージがなければできないことだと思ってるんですよ。ラブソングだってそうだし、インストゥルメンタルなものでも、クラシックでも、すべて伝えるべきメッセージが根底にあってのことだから、彼らにメッセージということばを使われると、間違いではないんだけど何か違和感を感じます。(中略)ステージに立つ人たちは選ばれた人たちです。なのにせっかくチャンスをもらいながら、彼らはなんで何を言っているかわからない歌を歌うんだろう。僕だったら何のための歌なのか、何を歌うためにステージの上にいるのか、それがはっきりわかるバンドをみたい。あのセックスピストルズでさえ、歌詞がちゃんと聞き取れるのに。『叫ぶ詩人の会』をつくったのは一つにはそんな思いもあったんです。(中略)
詩をつくるのはもちろんいいです。でも僕の身体が働いていない。すべての能力を使うなら、自分が体験したこと、感じたことを詩に表わし、それを曲にまで仕上げる。そして全身を使ってステージで叫ぶ。そこではじめて、完結するんです。そこではじめて、何かを伝えることができるんです。(中略)今の流行りの音楽って、それはそれで“あり”なんですけど、何か悲哀が感じられない。いまいち、生きていることの哀しみとか、コクが感じにくいと思うんです。ローリングストーンズとかジャニスジョプリンとか、嫌いなことばだけど生きざまみたいなものが伝わってくるような曲と、あまり出会わない。』