一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン感想 19648字   647

レッスン感想   647

 

レッスン感想

ステージ実習感想

 

 

 

レッスン感想

 

最初、ここへ入った頃は、胸でとるということばかり考え、胸で押しつけて出る音を深いひびきだと思っていたが、実はそんなものではないということが、わかってきた。前は、声楽家の先生のクリアな音が、異質なもののように感じていたが、今は腹で支え、下に引っ張りながら体全体(頭も含め)にひびかせて高音を出す、また、低い音も息を流しながらつぶさないで出すということが、ベスト(。)の発声法だということが理解できるようになってきた。

 研究所自体も最終的にはその方向を目指している(研究所が目指しているというのは語弊があるかもしれないが)ことがわかった。まず素直にストレートに出してみる。体の1ポイントをつかんで思い切り浮かせてやる。それでよいんだろうなと思っていたことが、確認できてよかった。

 

伝えることを常に意識してると全力を出すのが当然になる。本物の心は全力が伝えるものと思って、自分の判断基準、目標と今はしておこう。短時間でシーンが浮かぶくらい入り込みたい。入っていないのにその声は出ない。嘘ついて出したくはない。変なクセがつきそうだ。その変わり入り込めるようにいっぱいトレーニングする。とりあえずは全力で伝えようとすること。

 

「息を強く出そうとすればしぜんな高さの声が出る」と先生に言われてやってみると、本当にしぜんに自分のキィで声を出せた。今まで自分は高い音を出すために息を強く吐かなければならないと思っていたが、実は逆である。息を強く吐くことによって、自分が出そうと思った高さの音にしぜんにのせることができるのだ。今まで自分がやろうとしていたことは間違いだということに気づいた。

 

先生が最後の方でおっしゃった「声を出していない間の方がむしろ、体を使っている。日本人にはこういうところが聞けない。そういうところが全然違う」ということばが、今日一番残った。

先生と自分の「聞き方の違い」をすごく感じてはいたのだが、今日ハッキリ教えられた気がした。

 

トレーナーの歌は、ベースラインが見える歌だということ。うまく言えないが、バンドの演奏にしても、ベースがきっちり押さえているコードが聞こえるような感じ。やっぱり体、呼吸が見えるということだろうか。福島先生の聞き方も、自分の体におきかえて、体で聞いているから、ものすごく繊細なところまでわかるのだと思うし。今日、自分がやったフレージングも、しっかり体で声を出していったもの(そのなかに感情も込めるのだが、私にとっては、どちらかというと声をとりにいっている、体に正直に声を出すという感覚)の方が結果的によかった。

 

先生が「声から取りにいくのと、感覚から取りにいくのとありますが、声を身につけるとしぜんとその人のオリジナルなフレーズ、歌い方が出てくるものですよね」とおっしゃっていた。

一流の人たちも、恐らくそんな複雑なことを考えてもいないし、やってもいないだろうと思う。では、声が育つのを待てばよいのだろうか。 発声の上でも問題、課題はたくさんあるのだが、ステージ実習、フレージングでもやっぱり考え込んでしまう。ステージ実習のときの曲へのとりくみ方も考え直した方がいいし(選曲も)。すでに自分のなかに流れてる耳コピーの曲のイメージは、ほとんど間違ってると思って正解かもしれない。1フレーズと1曲と、何がどれだけ違っているのか。自分が、どう1曲を捉えているのか、もっともっとわからないと変えていくことは難しいと思う。

 

「ハイ、アオイ、トオイ、ラララ」2オクターブしっかりと発声するトレーニングをしたが、大きな声で音を上下降させたりするトレーニングは少し怠けていたので、出しやすいことばにも関わらず半オクターブもままならなかった。前述したことばでしっかり出せると自分で判断できるのは、ドを中心として“シドレ”くらいだと思う。ミにおいては、トオイの“ト”のひびきが甘くなってしまう。あとのことばのひびきは統一できるように思ったが、テープに録って聞くと、思ったほどではなかった。もっと太い声をめざしたい。

 

“潤い、つや、若く、元気のある、魅力ある声”がない。特に若さを感じさせるような声の魅力がない。今まで気にもかけていなかった。自分は若者だからだろうか、“若さの魅力”というのがわかっているのかどうなのかさえわからない。その点において、客観的になれない。それは“潤い、つやのある声”ということにつながるのだろうが、それさえもわからない、頭で考えてしまうレベルにいる。また新たな課題が増えた。見たり聞いたりして、体で気づかない限り先に進まないと思うので何とかしたい。

 

レーニング前には体がベストな状態だったのに、1時間トレーニングしただけで元に戻るのに時間がかかった(30〜40分くらい)。まさに自分のすきをつかれたようなトレーニングで、体がびっくりしたのだと思う。皆で発声しているときにトレーナーも一緒に参加していたが、1オクターブ上のドなども、声量、ひびき、衰えがなく、すばらしかった。比較するのも失礼かもしれないが、自分が情けなかった。3度内で歌が歌えるわけない。音域を豊かに、かつ個性的な声を掘り出すトレーニングが足りないのをつくづく感じた。プロのツアーなどは、1日2ステージ、計4時間くらいをこなしているようだが、体力の違いも感じさせられた。

 

発声トレーニングは、20分くらい連続的に行なわれたけれど、中盤からひびきがおとろえていった。あまり長くやるとマイナスになるらしいので、毎日じっくり続け、あとは待つしかないのだろうか、また音量・音域は体が変わらなくては、変わらないと言われた。

 

パヴァロッティは別格として、ライザ・ミネリ、マヘリア・ジャクソンなど男女問わず、パワーあふれる声の持ち主は体格がいい。ただいいだけではなく、ヴォーカリストとして特化された体になることをめざし、待たなくてはならないのは何となく気が遠くなるが仕方ない。しかし、今日はパワー不足を切々と感じた。瞬発力、持久力、両方話にならない。自分はやせ気味だからと体格のせいにしたくはないが、食生活の改善などもトレーニングの一つなのかもしれない。

 

レガートでできるだけ長く発声することを続けていると、キープできる力がつき、体がつくられる。「あぁ」「Ah」などのことばにメロディがつき、「あー」「Ah」と一つではなく、「あーあーあー」「AhーAhーAh」など、いくつかに分かれている場合でも、本当は一つの「あぁ」「Ah」なので、音程が離れていたとしても一つに捉える。

 

メロディに単にことばをのっけない。ことばのまま、語りのままを歌にしていく。ろうろうと歌うだけが歌ではないということを知る。歌ってしまうと、途端に嘘になってしまうなら、ことばだけで充分である。はずしてはならないポイントをつかんで離さず他をそろえるだけでも、ポピュラーならば通じる。しかし、必ず責任はとる。解放したものは終わらせる。深くえぐったら、もどる(体の動きにはさからわないこと)。

 

「Ah Parigi avoite」の部分が気持ちいい。えぐりにえぐって、深く踏み込んで、フッと戻る感覚は、体ができればもっとさらに気持ちよくなるのだろう。それを聞き手の体にもしっかり訴えかけられたら、感情を生むことができる。

 

“ハイ・アオイ・トオイ・ラララ”の発声。しっかりとシャウトできてるか、かすれないか、ひびきの統一、のどが痛くならない、疲れないを目標とした、いずれも前と同じで低音域の拡張、高音域時の脱力をめざしてがんばった。もちろん中音域でのヴォリュームアップを図った上のことだ。

中盤はことばのトレーニングに入った。母音、子音のトレーニングから、ことばのトレーニングへという考えをしていたので、前者がどうしても重点的になり感情表現がまるでだめだ。

 

ことばをトレーニングしていても、発音がベースになっているため、録音したテープを聞いてもつまらない。ことばが最初にあり、うまくいかないところを抜き出して、発音トレーニングをしようと思う。感情表現は、その人が出るから大事なのだろうけれど、自分が歌ったのを聞いてもつまらない。何にもわき出てこないのは、こういうところからきているのだろうか。

 

また発音も並び換え、配置がえをすると全く別になることもあると教わった。つまり、“アオイ”の“オ”はきれいでも、“トオイ”の“オ”もそうだとは限らないということ。その規則性を捜して、自分なりのメニューをつくり、苦手なところを徹底的につぶしていきたい。基本を忘れないで、それを深めつつ、いろいろなことができるようにしたい。

 

ジャズに名曲なし名演のみ…とかいうことばがあるらしいが、どんなささいなもの、つまらないものでもドラマティックに仕上げることができるのがアーティストなんだ。もっとつまらなくしたり、よいものをだいなしにしているのが今の私だ。

 

マヘリアジャクソンのsilent nightが流れていて「もう1年たったんだなぁ」と思いました。去年はフレーズの大きさ、そのなかでのことばの踏み込みなど、全体的な大きな内容の授業だったと思います。今年は声をしっかり胸でとるという一番、基本になることでした。

去年は、とにかくマヘリアジャクソンを聞き“すごいなぁ”ということでいっぱいで、私自身もとにかく声を出す(大きく・強く・深く)とそれだけだったと思います。でも、今年はいろいろなことを考えすぎてしまって“ストレートに歌うこと”ができなくなってしまっているのではないかと思いました。へんなごまかし方を覚えてしまっているような気がして、気持ち的にも去年の方がよいものが出せているのではないかと思いました。もっと、がむしゃらに無我夢中にやっていた何にもまわりがわからなかったころのような、すごく大切な気持ちを少し忘れかけていたと思いました。

 

ライブ実習の練習で歌うことばかり(マイクで)練習していたので、声が胸に入りにくくなっていて、そのこともあって初心忘れるべからずということを身にしみて感じています。ライブ実習もすごく一所懸命、たくさん練習して出たつもりなのですが、結果的には先生のおっしゃった“無難にこなした”というものになってしまったと思います。一所懸命、練習したと思っていても、それはものすごい自分のなかの甘えであって、実際はちっとも前には進んでいなかったんだと思いました。

トレーナーの歌を聞いていて、自分の弱さをすごく感じて苦しくなりました。もっともっと自分に厳しく強くならなきゃだめだと思いました。

 

「ハイ」は確かに体と結びつけやすい音だと思った。でも、一番言いにくかったのは「ハイ、とおく」の「く」だった。へんに声を使ってしまうとか、口に力が入ってしまうというか、自分として不快なものだった。また「ハイ、ハオ」の「オ」は、「ハ」のあとに続けると口の中が丸く開いたままでとても言いやすかった。

 

今日の授業の冒頭で先生が言っていた「歌い出し」について、私が一番印象的な歌い出しと言えばイヴァザニッキの「心遥かに」です。あの一声で聞いている人は歌の世界のなかに引きずり込まれると思うし、息、ソウル、音色、すべてが一つとなってすごいインパクトを生んでいると思います。

 

福島先生のフレーズのことばのおき方は音楽的で、表現を前に出すところはすごく気が前に出ていた。グレコみたいだった(私が見たことあるなかでは、グレコが一番近いと思った)。ことばを音楽的に言ってみて、息の流れをつかむ。

 

体の強化トレーニングではないので、出ている自分の声だけに意識してればいいだけではなくて、出す前の工夫、練り込みに意識を向けなければならない。

 

「昴」も「サントワマミー」も、自分でフレーズを歌って、あまりにかっこ悪いんで「何て難しいんだろう」と改めて思わされた。頭で計算したものは見事に全部失敗してた。もう見え見えだった。あぁかっこ悪い。ドンクサイ。1フレーズを取り出して、こうやってやってみれば、自分がどうやるのか、それがどうなのかわかるのに(まぁ、他の人と比べられるせいかもしれないけど)。1曲になると、何でわかんなく気づけなくなっちゃうのかなぁ。

 

「かっこ悪いこと」死ぬほどやってるんだろうに。そこまで(1フレーズのレベルで)煮つめてやれてないっていう証拠だ。曲のサビなどで聞く人を引っ張り込めないとダメということも、あたりまえなんだけど意識できてなかった気がする。「見せる」ということ。「歌う」という感覚とそれはイコールのはずなのに。私のなかでもそうだったはずだし、カラオケでもそうだろう。「ただ歌う」みたいなのはどうにかしないと。皆のフレーズを聞いてると、ものすごくハッキリ見えるのに。

 

聞いていてフレーズになっていると思う人と、何か変だなと思う人がいる。その違いは何だろう。体の問題じゃない。それから、その日によって参加する人たちによって、あたりまえだけど場の雰囲気が変わってしまう。自分たちがつくっていくんだと感じました。

 

グループの場に出せるものをもちよる。歌を大切に、歌に恩返しをするつもりです。体のなかから歌いたくなったら歌えばいい。自分なりに本から取り出して研究すること。これまでは先生方から与えてもらったことをただこなすだけだったが、自分の体に本当にあったやり方は自分でつくり出さないといけないと思う。

 

単調なくり返しのメロディ、その分、歌い手によっては歌詞の意味がずんずんと伝わってくる。三次元的に表現しないと、全く退屈な歌になってしまう。「おまえが生まれたとき」から「いじらしさ」までを何度も幾通りにも読んでみることで、自分に最もしっくりくるフレーズが見つかってくる(これは家での練習で)。

 

他の人の歌を聞いて、思ったこと、太くて統一された声だけれど、何も伝わってこない人、必ずフレーズの最後をビブラートでひびかせてしまう人。また、以前はただ前にぶつけるだけのように聞こえていたある人の歌に、この頃、生命が宿ってきている。その人のとり組みや思いが見えるようだと感じた。悪い見本やよい見本がたくさんあるなと今さらながら感じた。そしてそれを自分の歌に置き換えて考えてみる。

 

胸でしっかりと捉え、捉えたまま動かしていくこと。日本語をはずして「ラララ…」なり「ダダダ…」なり、原詞なりでやってみろと言われ、さっそく「ダダダ…」でやってみた。驚くほど体が疲れた。フレージングの練習が非常にわかりやすい形でできる。いかにいままで、ことばのひびきに体が逃げていたかということ。この練習法にいままで気づかなかった自分が情けない。

 

これまでことばの発音のしにくさから敬遠しがちだったフレーズでも、存分にトレーニングできる。最近ようやくフレージングについて、とっかかりがつかめてきた気がする。キーワードは“一つの音、その音を次にどうつなげるか、それがすべて”先生がよく言われていること。ちょうどそんなタイミングのよさからも、今回のレッスンはわかりやすかった。

 

フレージングの要素 音色…一つの音色における明暗・濃淡の変化。音色そのものの切り換え。イントネーション…高低→高低の段差が目立たないように、なめらかに音をつなぐ。装飾音をつける。長短→音の伸ばし方、切り方。強弱→基本パターンは三つ。>、=、<。リズム…前打ち、ジャスト、後打ち。

 

大切な二つ。オリジナルの声を自分で見いだして育てていく。自分のフレーズ(節回し)をつくっていく。音声による表現にしていかなければいけない。息だけ吐ければ100通りのものがある。より正しいもの、よりよいものをとっていく。音楽(センス)、声を同時につくっていくこと。声を出すためには音楽的感覚が必要。音楽を完成させるためには正しい声が必要。トレーニングは太く、強く、大きくあまりつくったりしないこと。最初は体を曲げてやってみるとよい。

 

姿勢、福島先生になおされたらすごく声が出しやすくなってびっくりした。姿勢一つでこんなに違うなんて改めて気づいた。と同時に、自分でトレーニングするときも鏡の前でやるとかして、いつも姿勢をチェックしながらやらなければ結構いい加減になっているので、気をつけなければと思った。

 

声、体(楽器)を使える状態にする。使える状態にしていくためのトレーニングとステージとは別。見ている人がいる限り、ステージでは働きかけなきゃだめ。トレーニングではステージでできないことをしておく。トレーニングのメニュは個人個人でみつけていく。何ができていて、何ができていないのか。何のために何をやらなきゃいけないかわかっていないとできない。

 

イメージをもつ。イメージからしか変わっていかない(声、体、呼吸、音を動かすとはどういうことなのか)。感覚を知る。一流のものから学ぶ。学べている人から学ぶ。一流といわれるもののなかで嫌いなものをやっていく。嫌いでも認めるもの。そこから学ぶ。生のヴォーカルを聞いて感動する機会を多くもつ。作品になってるものとなっていないものの間には、すごい差がある。それは何かを知る。

 

自分の基準は甘くしない。それができてない、ひどいってことを自覚する。自分を知るということ。そのときそのときで、必要なことも変わっていく。「Hai」と同じように「Cest si bon」「だきしめてる」が言えるように。一つに聞こえるように。息にのせていく。わからない人は息でやっていく。息を吐く。去年よりも質がよくなっていくこと。

 

嫌いなものからやっていった方が学ぶものが多いかもしれないと最近、思うようになりました。好きだと聞いてるだけで気持ちがいいので、私はそこからなかなか抜け出せない。聞き方が悪いのかもしれないし、何度も何度も聞けばいいのかもしれないけど、嫌いなものの方が冷静に聞けそうな気がします。苦痛だけどやってみようと思います。

 

授業の前に、これからの勉強の仕方、その他について、先生より説明の時間がありました。私も復習のため、箇条書きにまとめます。オリジナルな声、オリジナルなフレーズを見つける→2年間でやれることは、体と息が結びついているかということ。体が強くなっている、息が深くなっている…これが2年後に効果が出ているか→大切なことは、それらの練習ができる状態を(精神力を)もつことができるか…ということ。

 

だんだん、歌(声)に対して、自分で自分のチェックが甘くなってくる。それに充分、気をつけること。力を入れて練習すれば、時間がたつと力がしぜんと抜けてくる。それを待つ。自分で、あるときびっくりする瞬間が、必ず何回かでてくる。それを気づいた人だけが続けていける。2年後に積み重なってることが大切(質がよくなっているか)。プロセスを埋める、深める。トレーニングとは、本番というものを意識し、だけど、本番ではできないことをするもの。

 

我々が何かに打ち込む前にその意味を考えようとすれば、意気消沈し無意味に終わってしまう。何も考えずに、まず行動する。自分の体でやってみることだ。それから意味はしぜんに後からついてくるだろう。

 

スポットライトのあたる場をみたとき、こんなに観客に近いところでやるのかと慌ててしまった。そして人前に立つのと、それを見ているのとでは全然、気持ちが違う。この場に来るまでどれだけ自分のテンションを高め、そしてここで自分の番を待つまで、どれだけ気持ちをつくっていくか、とても大切なことだと思う。自分一人の力で挑戦していく。まるで外国に一人旅しに行った気分だった。どんなことが起きても、自分一人でどうにかしなくてはいけない。一度きりしかない舞台。この場にくるまでまず自分の言いたいことは何なのか考えた。というより、どういったことが自分を一番表現できるか考えた。

 

書いたものを読んでも口先でしか言えない。何度も言っているうちにことばはどんどん削られ、長いフレーズも飾ったことばも言えなくなってしまった。気づいたら自分の気持ちと重なって腹の底から声が出ていた。そしてとても苦しくて、2分間、体と集中力がもつか不安だった。自分のことばは何だ。 とこんなに真剣に考えたのは初めてだった。自分を表現したい、表現したいと思っていたら、それが子供が話すようなことばだとしても、自分にとって一番いいことに気づいた。

本番では話しはじめ、緊張して自分でなかった。そして一度、自分を出しただけ。まだ私のことばではないものがあった気がする。自分のことばを話したとき、本当に感情が入るんだなと思った。ただ表現したことが他の人に伝わったかどうかはわからない。本番前にたくさんのことを考えさせられた。そして自分を出していくということの快感に足をつっこんでしまった気がした。そして、一番感じたことは、ステージでは絶対にものすごいエネルギーとパワーが必要だと思った。決して大声を出すとかではなく、何かを伝えようという気迫みたいなものがないと、何も人の心にはひっかかりはしない。ひとり生きていく強さをもちたいと思った。

 

こういう場で上の人に混じって、自分を前に出すにはかなりパワーがいる。よっぽど大きくフレーズをつくらないと、全然目立たない。小さくまとめ音程をきれいにとりにいったんでは(その場の)みんなは聞いてはくれるが、強い印象は与えられないだろう。深い息とパワーで、とにかく大きく前に前に出して、みんなの耳の中に押し入れるくらいにやらないと、自分という存在をわかってもらえないだろう。その場の空気を打ち破るくらいにやりたい。

 

ちょっと不思議に思ったのは、世の中に出ている曲というものは、必ずスケールの音の並びの通りにつくられているのかな。 ということです。たとえば、旋律短音階でつくられた曲はサビの部分で盛り上がって下降してくるとき、必ず自然短音階になっているのか、またマイナースケールを3つ使って曲はつくれるのか。

 

ピアノを弾くより、運んでいる状態。本来の目的である歌詞の内容を表現し、伝えるということが忘れられているので、ことばが入ってこない。コントロール力の前に集中力、意志力がないともたない。日頃から訓練をすること。

 

大きなフレーズのものを聞く。その方がわかりやすい。感覚を聞く。どこでことばになっているのか、どこで動かし、どこでつかみ、はなしているのか。体がどう動いているのか、どこで読み込んでいるか聞く。浴びるほど聞く。何だって自分の聞き方一つ。イメージをする。ヴォーカルである限り、音、音の流れに敏感に。フレーズが一つに聞こえるように。でも一つひとつのことばに役割を与える。何かが違う。体を使おうと自分ではしているし、もっと深いところでつかみたいと思う。それは全然できてないけど、それだけじゃないと思う。今のままだとフレーズも動いていかないし生きていない気がします。

 

一流の人を聞くと、体以外でも何か違う。わからないので、もっと聞くしかない。息も全然、足りない。もっともっと体を使っていかないといけない。「聞き方一つ」とおっしゃいましたが、本当にその通りだと思うようになりました。よっぽど敏感な人は別でしょうが、普通は聞こうとしないと聞き流してしまうと思う。でも、じっと聞いているだけでもみえてこない。自分でいろいろ想像してみないとだめなのかなと思います。少し聞いたぐらいでわかるわけないし、何度も何度も聞くしかない。聞いてもわからないことの方が多いけど、知りたいと思ってくると楽しいです。

 

結局、送り手と受け手が同じ感情、イメージを共有するために、声、音楽、音、ペン、絵筆、コンピュータ、肉体、時間、空間といったものを媒介にするしか方法がないということ。感情、イメージといったことは瞬間的なことなので、永遠に続いたり反芻して味わうことはできないが、何らかを媒介にすれば、その世界を理解できる可能性もある。というのが今の僕の考えです。「人生=歌」というピアフに、ジャニス・ジョプリンにも負けないようなロック的なものを感じました。視覚障害の人が大きな風船を抱いて音の振動を感じとり、リズムを打つというのを聞いたことがあります。

 

フレーズと感情移入、今すごくぶち当たっています。「歌にうそがあってはいけない」と先生がよくおっしゃっていますが、本当にその通りだと思います。家で50音の練習をするときに、ことばをイメージして気持ちを出すように心がけているものの、まだ「うそ」でいっぱいのような気がします。まだ練習する回数が少ないのかな…。それと、練習に入る前の「雰囲気」づくりも大切なんじゃないかと思います。心と体をリラックスできないことには、やっぱり「うそ」になってしまう気がします。落ち込んじゃうけど、やっていくしかないですね。

 

声、一万語。使えない声は消えて使える声だけが残る。だから、このとき心目一杯、入れてやれば正しくない使えない分の声は消えていってくれるんじゃないかなぁと思った。

声と心が一致してくれる練習。喜び、やさしさ、憎しみ、怒り、絶望、悲しみ、何でもあれ。難しいな、かなり。精神がもつところまでにしとく。のどがまずい。マイナスになりかねない。

 

たくさんのやりたいことと、やらなくてはいけないことに追われて忙しい街で生活していると、だんだん「余裕」がなくなってくる。「バランス」がとれなくなってくる。高校生の頃から私を知っている人が「最近、すさんできたね」と言った。島で生活していた頃の「何か」がどんどんなくなっていくと言われた。「今はインプットの時だから、忙しくてもどんどん何でもとりこんでいくんだ」と余裕のない自分の言い訳をしたが、内心、ドキッとした。

 

目を閉じて瀬戸内海を思い出した。心を静かにして沖縄の海や軽井沢の空気を心に感じた。そういえば、最近ゆっくり自分を見つめる時間さえなかったなあ。何かを求め、いろんなことを取り入れていこうとしながら、いろんなものを置き忘れてきていた。どんな状況にあっても、鋭くやわらかく、そして私でいなければ。

 

時間はかかるかもしれないけれど、自分の体を一杯に使って汗をかいて、疲労や努力や思い通りに動けないはがゆさを積み重ねて、力をつけていきたい。この24年間、怠けてきたものを取り戻したい。私のなかにつまった「毒」を吐き出したい。日々を生き、本物になりたい。

 

私は石にかじりついてもデビュー!! というタイプではないが、やりたいことを深めるのなら、自分の金と時間とエネルギーをつぎ込むのなら、本気で一流を目指すつもりでやった方がよいと思っています。趣味、自己満足で終わらせるくらいなら、こんなことしない。楽しく本気で焦らずあきらめずってところですか(これは私の考えなので、他の人が何を考えてやっていても構いませんがね)。誰が聞いても「あ…きれい」という、のどのあいた声を出せたときほど、自分でも気持ちいいものですからね。聞き手を意識しない歌い手は、一人で歌っていればいい。

 

今回、福島先生の顔が説明会から見てきて初めて、やわらかく感じられた。言っていることは同じなのに、とってもプラスに受け止められる気がした。少しでもよいところがあれば、そこから見よう! という姿が嬉しかった。“待つ”ことだけは、どこよりも充分にやっていると言われて、ああそうかと心から納得した。ああ、ありがたいなあ、もったいないなあ、もっともっと大きくならなくてはなあ。

 

私はここに来て、今まで知らなかったことを聞いて、もっと知りたくなって、カルチャーショックもあって、シャンソンやらブルースを聞きにいったりして、ああでも歌の心は一緒だと感じて、心がふるえて、世界が新鮮で、本当によかったと思っています。ありがとう。歌のレッスン以上に、聞くことや感じることで、自分の伝えたいもののイメージを創っていくことの必要性を感じています。

 

 

やっぱりず~っと闘い続けなきゃダメだなぁと年末にきて疲れ切った私は、尚もそう思うのである。歌い続けなきゃダメでしょう。舞台に上り続けないと、生きていくことそのものが、何やってようが戦うことだと思うから、死ぬまで戦いだけれど。今年もいろんなことがあって、もう歌やめようかなと思ったから、常に思うから、だからこそである。歌わなきゃいけない…のではない。やめちゃいけない…からでもない。それがしぜんな欲求である。自分が好きなことを好きなようにやるだけ。歌うことで輝く人に私はなりたい。絶対的な私の居場所をステージの上につくりたい。歌うことが必然だと思われるように、私はなりたい。

 

黒人に唯一、認められそうな声の可能性がここのトレーニングにあるのだと思った。

 

合宿のとき、福島先生が「プロセスを楽しむ」という話をされ、ずっと気になっている。野球界の長嶋もイチローも将棋のハブさんも「ちっとも努力してると思ってない、楽しいし好きだからやっている」という。努力を苦とも思わない人こそ天才だなと改めて思う。今の私は、トレーニングと歌と私の三つがバラバラだ。先のことばかり思い描いてプロセスを楽しんでいない。それでも、のどを壊して半年近く休んでいたときよりは、幸せだと思う。たとえ、苦しいと思ってやっていても、苦しいことができない方が苦しい。

 

最近、近所の犬のスタッカートとレガートが偉大に思えてきた。特にスタッカートが…。

 

自分で自分の感情の説明ができればいいと思う。毎回、必ず涙の出る瞬間がある。「泣く」っていう行為じゃなくて「泣く」という状態みたいな。自分の頭より先に心が動くとき、私はまだ大丈夫だと思う。でも、その心を理解できない自分ははがゆい。もっときちんと自分と向き合えば、わかるのだろうか。そうすれば、もっと隣の人をみてあげられるだろうか。自分の想いをもっとうまく伝えられたら、文章でも体でも歌でも。まだ力不足、自分不足だなぁ。

 

今年は、アテンダンスとの闘いだった。でもそのおかげで、いろんな自分を発見しつつあるし、毎日の積み重ねが苦手だったことに少しだけ自信がもてた。一言でいうと「嵐の前の静けさ」かな…。ふつふつと自分のなかでマグマが煮えたぎってる気がする。もっともっと自分を知りたくなるきっかけを、たくさんの人から気づかせてもらって、とても感謝しています。

 

 

 

 

 

ステージ実習感想  

 

 

 特別ライブ実習観覧者アンケート 

一番、気に入った歌とその理由を教えてください。

 

 

カンツォーネ」聞いてのとおり。

 

「生命をかけて」のストレートな声質が私の好みに合っている。初めて聞いたが、よい曲だと思った。

 

「昴」が一番気に入った。歌もそうだが、何よりもその顔の表情…そして目の表情によって、より深く、その歌の世界に引き込まれた。これは他の歌にもいえることだけど、「昴」には一番それが出ていたと感じられました。

 

「どんないいこと」どうだろうという気持ちもあったが、人を魅きつける表情と無駄な動きのない振りで、全体がよく表現されていた。

 

愛のメモリー」深くてやわらかい。つもった雪のようなイメージだった。

 

サボテンの花」後半で、すごい冬を感じた。ことばにできないほど、長くつらく厳しい冬。自身のなかにあまりにも力強く、根をはってしまった冬をどうしたらいいのか、切実に春を願いながらも、それをどう迎えていいのか…というようなストレートな叫びみたいなものを感じたから。

 

「Drunk on Love」も踊りたくなるくらいよかったけど、「エンドレスゲーム」は聞き入ってしまう感じでした。すごく曲が短く感じたというか、時間を感じなかった。引きずり込む(ちょっと変な言い方ですけど)パワーがあって、本当によかったです。

 

「いちご白書をもう一度」…マイナーな曲なのに、最後のフレーズ「二人だけのメロディ」このあとで観客の拍手を求めて盛り上げるとはすごい。そして「どこかでもう一度」のフレーズで終わったが、その間の「間」も絶妙だった。

 

「SOMEDAY」、あの低音を最初、すごいと思い、最近はそうでもないと思っていたが、こうして歌のなかで存分に使われると圧倒される思い。あの容易に真似できない声の力のまま、速いテンポをたたみかけていくと、こちらがニヤリとするくらいすごい。ずっと魅きつけられた。

 

「悲しい色やね」とてもうまく仕上がっていた。音色がきらめいている感じ。

次点「いちご白書」ハートがこもっていた。

 

「悲しい色やね」曲もいいけど、じーんときました。ことばというか、気持ちがストレートに入ってくるように思えました。他の曲とは違う感じがしました。私はこの曲が一番よかったと思う。語りかけられてる気になってしまいました。

 

「悲しい色やね」情感あふれていてよかったし、「愛が生まれた日」こういう歌い方ができるのかと感心したし、なんとなく感動した。「心遥かに」もプロ並みでよかった。歌う姿勢がプロっぽい。

 

「昴」歌詞の間違いを感じさせないパワーはさすが。

 

「春よ来い」いろんな意味で春を待ち望んでいる私自身に、どんどん入り込んできました。

 

サボテンの花」愛が終わったことよりも、何かを捜し出したい思いが強烈に伝わってきました。

 

「エンドレスラブ」細い体からパワーを絞り出している感じ。歌に対する姿勢は見習いたいです。

 

「SOMEDAY」最初から最後までパワーがバンバン出ていた。とっても楽しかったです。

 

「Drunk On Love」バーシアの曲はすっごく難しいと私は思うのですが、カッコよく歌いこなしてスゴイと思いました。あの曲の空気感が感じられました。

 

バツグンに心に残りました。悲しみとか切なさを昇華したものと、ここまでくるトレーニングの道のりとか生きざまとか、いろんなものが移ってきて泣けました。

 

「昴」登場した瞬間、全部もっていった、という気がしました。

 

サボテンの花」最後のブレイク。「はっ」とした。ピタッと私の心にはりついて、あとはひたすら切なかった。

 

「悲しくてやりきれない」地味な歌ですが、何かある、そんな気がしてなんだか気になる歌でした。

 

バーシアの曲。存在感とセンス。しぐさの全部もビビッドだった。歌は血が躍るような気がした!

 

「You Make Me Feel Brand New」原曲は果てしなく美しい声とメロディをもつ天の歌で、これを歌おうとする者は、そのイメージを脱却できないことが多いと思う。そのイメージを破る演奏だった。でも決して壊れていなくて、より力強く私に訴えかけた。特にサビのアレンジには、ひどく感心してしまった。彼女だけの歌になっていたと思う。

 

サボテンの花」歌詞の世界(場面)が伝わってきたので、イマジネーションをかきたてられたところでサビのメッセージがくるので感情移入してしまいました。一昔前の失恋の歌だけど「この長い冬の終わる前に何かをみつけて生きていこう」というメッセージは、案外、空虚感を抱えた今の日本の高校生ぐらいの人にも何か伝える要素があるのかもしれない、などと考えました。

 

「悲しくてやりきれない」外国語の曲が多いなか、日本語のことばを大切に歌っていたのが印象に残りました。声、表情、身振り、すべてがことばの表現を活かすように働いていて、その一つになったものが訴えかける力をもっていた。はじめ、終わりのおじぎのときの笑顔がとてもよいのも印象的だった。

 

「SOMEDAY」最低限、人の前に立ち歌うのなら、ああいう状態でなければいけないというものが出ていた。モニターで見ていても、はっきりわかった。

 

普段あまり感情的に歌いませんが、大きくて揺れるフレーズに感情がみえるとき、どきどきしました。

 

「ラ・ノヴィア」体のなかのすべてを吐き出すかのような歌、プロが本気を出してステージングしている。全身にトリハダが立ってくる。金を払ってでも、もう一度聞きたい。

 

「いちご白書をもう一度」大して動かない踊らない。他の歌い手の方が動いていたくらい。それでも自分の心を激しくゆり動かすのは圧倒的な声の技術とことばで表現しまくっているから。この曲は特にそう感じます。

 

「エンドレスゲーム」自分の世界をもってきて、それを伝えることのできた歌だったと思う。声はこれから課題になるかもしれないが、こういう歌の心をもつ人には、必要な声は時と共についてくるものだろうと思う。また聞きたい。

 

「悲しくて」いつも思うことだけれども、自分にとってよかったと思える歌って、理由とか根拠を捜すのが難しい。ただ共通するのは、歌い手に世界があって、それを声や体やリズム感などを最大限に活かして、もっている世界をこちら側に伝えてくれているということだろう。

 

「どんないいこと」オーディション後のVTRを見て、一番聞いてみたいと思っていた。彼女は完全に彼女の歌にしていた。アイドルグループが歌う歌というイメージ゙は全く消えていた。リズムに気持ちよさそうに体をのせて(それがたとえ計算されていた動きだとしても、私はそうは感じなかった)いて、その表情も含め、とてもしぜんにみえた。彼女が歌っているのを見て、自分で歌ってみたくなった。帰り、早速CDを買って聞いてみたのだが、原曲を聞き直して、また聞きたくなった。これってすごいと思う。

 

カンツォーネ」指先まで歌の世界が入っている。妖艶な雰囲気がたまらない。

 

「Night and Day」一番音楽的センスがある人だと思います。ほとんど聞いたことのないエラ・フィッツジェラルドを聞いてみたくなりました。

 

歌とか声とかいうより、圧倒的な存在感があった。正直言って、歌のことはあまり覚えていないのだが、あまりのカッコよさに見とれてしまい、釘づけになってしまった。

 

ハスキーヴォイスがステキ。久々に、私のなかの「女好き」の血が騒いだ。私の好きなダイアン・リーヴスディオンヌ・ワーウィックホイットニー・ヒューストンe.t.c...に感じる「少年っぽさ」があると思った。

 

「悲しくてやりきれない」切々と歌っていて哀愁が感じられた。大人の歌になっていた。

 

悲しい色やねん」私はこういうコテコテしたベタベタした歌は聞きたいと思うことはなかったです。そうやっていままで避けてきたからでしょうか。きっと力強いけれどときに優しい切ない声を通して向き合っていくうちに、背中に何かが走るのです。ジリジリしてきてジンジンしてくる人です。何なんでしょうか。これが歌を通して伝わるということの本当のところなんだろうか。

 

カンツォーネ」ステージでスポットライトを浴びているというそのことが、一番似合っているというか、体から全体から発しているものがあったように思います。歌自体も、私自身が好きなものということもあったけれど、それ以上に歌のなかで入って生きていたように感じました。ステージ上でのあの何ともいえない眼と笑顔と指先が印象に残りました。

 

 

観覧者の感想

 

みなさん、とてもいい顔をしていた。何か涙が出そうになった。歌っている人たちのエネルギーを受け止めるのがつらかった。この場にいることに幸せを感じた。

 

声、声量という点では完璧だね。たぶんここで言われる音声表現ということでも、できてるんだと思う。でも、もっと奥深いところにあるもの、感情も含めて、みんなが一番見たいと思ってるものが出てきていない。それが表出されないと、せっかく磨いたすばらしい声も、本当の意味で活かされないと思う。もっともっといい歌が歌えるはずだと信じてるし、期待もしてるよ。これからはもう少し「ミュージシャン」としての感性、センスも磨いていってください。

 

今日、ステージに出ていた方は皆、はじめて会った人のようでした。もちろん、本当にはじめての人もいたのですが、よく見てみると、階段などで入れ替えのときにチラッと見かけたりする人たちが結構いるようでした。でも、明らかに別人だったのではないかと思います。スポットライトや衣装のせいという以上に、ステージという場の魔法のような気もします。でも、本当に魔法を使っているとしたら、ステージに上がる方たちの歌に対する想いがその種なのだと思う。今の私はエラそうなことを言えないけど、その想いというか、何かをしてやるんだという意志の面では、一歩たりともひけてはならないと感じさせられた。

 

日本語の歌。私はことばに関心があるせいかもしれませんが、外国語の歌は聞いているときは楽しく心地よいのですが、後になって印象が薄れていくように感じました。ことば以外の要素で強く伝えるのは、それなりの作戦が必要なのではないかと思いました。

 

はっきり言って、一人の本物のシンガーがいれば充分だということ。こんなに手の届きそうなところでプロの歌を聞いたことが今までなかったので、ものすごい感動に包まれています。声の技術、ステージングから表現方法まで、勉強する材料をいっぱい観せていただきました。

 

通して見て考えたことは「声」のことであった。今日はレッスンではなくステージなのだから、「歌」を楽しもうと思って来た。いつものように、声やリズムなどは考えないで聞くようにつとめた。けれど、こうして帰ってきて思い返してみると、それらのことは度外視できない。声を重点において、きっちりとにぎって歌おうとしていた人、声ではなく歌全体として仕上げようとした人、その中間の人と、ずいぶん違ったように思う。聞く側としては、まとまっている方が心地よく聞ける。が、それはこじんまりとしてしまう場合もある。何に的を絞り、何を自分の武器としていくのか、そんなことを考えさせられた。

 

顔のインパクト、次に声のインパクト。一途さが伝わるステージ。チェックのパンツスーツの着こなしと魅せるステージング。その3つが特に印象に残りました。印象に残るというのは、ライヴでは大事なことだと改めて思いました。そして、印象に残るのは、歌の上手下手とは違う要素だと思いました。

 

緊張、自信のなさのために、前に開放できない人は、とても損をしてしまうのだと気づきました。それでも、全体的に見て、今まで自分が参加したステージ実習、ライブ実習とは違うレベルのステージでした。一曲にかける気迫、観客への働きかけ、歌の安定度、各出演者のオリジナリティ、スタイルの魅力など…学ぶところ大でした。

 

歌うことはすばらしい。幾万のトレーニングの極意よりも、歌っている人は何よりもすばらしい。TVなんかでいつも日本人は声の出てない人ばっかりって思っていても、声やレベルがどうあろうと今、私が歌ってなくって、どこかに歌っている人がいるのって、くやしい。くやしいというよりも胸をかきむしられる気がする。どんな形でもいいから歌いたいと思う(どんな形で。)…。種々のトレーニング、その正解はないと思ったし、歌わない人よりも歌う人は無条件に正解だ。

 

最初に現われたときは(まあすぐにわかりましたが)、誰かなと思いました。ちょっと宝塚にでもいそうな男役という感じではなかったでしょうか。と、ぱっと見はそんなふうに思えたんですが、それよりも普段レッスンで見るよりも輝いていたように見えたのは私だけでしょうか。歌という世界で、ステージという場で、自由だからなんだろうかと一人で思っていました。他は皆、緊張していそうな人もいたような気がしたけど、思い思いにやりたいと思うことをやっている気がして、うらやましく感じました。それと共に、自分ならこうしたいのにと思ったりして、できる立場にまだいない自分への悔しさみたいなものと、それより大きい、やりたいという気持ちを度々感じました。

 

ステージでは誰もが平等になる。何年トレーニングを続けていようが、先生であろうが何曲目の歌であろうが、私という観客は一曲を見て聞いて、判断をつける。一線上に並んでいるからこそ、突出した力を見せつけられれば心を打たれる、体が興奮する。

 

ステージは何て厳しいんだろう。ここのなかにいる私でさえ、最近見たロバータ・フラック、ラヴィン・キャンベルと同列に見ているのだ。彼らに比べたら、まるでかなわないのだ。

自分自身のこれからのトレーニングについての収穫はあった。今まで私が見てきたアマチュアのライヴと、ステージ実習、ライブ実習は、同列にさえ見れない。それだけは価値がある。

 

継続した努力の下、チャンスをものにした出演者をうらやましく感じてしまった。

息を乱さずに10曲、やはり体の違いというしかない。自分があそこで同じように歌ったとしたら…その差をありありと感じた。ただ、メロディの変え方や声の出だしなどにパターンが見えてしまった面も。

 

表情や振りつけがしぜんで、マイクを持たないとはいえ、何で自分はステージ実習のとき、あんなに無駄に動いてしまうのだろうと恥ずかしくなった。歌にも余裕が感じられ、こちらも楽しさが伝わってくる。自分も(押しつけでなく)他人に何かを与えられるような表現者になる!

 

一人ひとりの歌に対する思いというか、気持ちみたいなものが感じられました。歌を通してその人が見えてきそうな気がしました。歌に対する姿勢、歌を好きだという気持ちが前に出ていると思いました。自分はまだまだスタートラインにも立てていないということがよくわかりました。

今日は来て本当によかったです。お世辞ではなく、ひびいてくるものがあって、とてもよかったです。また聞きたいと思うし、同じ場に立ってみたいと思います。

 

たくさん技術をみせてもらいました。いい歌を聞けたし、なんか感動したと同時に、歌い慣れてる人も、アカペラの方が却ってうまかったんじゃないかなという慣れてなさげな人もいて、自分がもし前に出たら、やっぱり不慣れでまとまってないだろうなと思った。今日出ていた人は皆、まとまっていたと思う。まとめた上で、はずして出すことが難しいこともわかったし、今後ますます勉強しなきゃと思いました。リハでできても本番で出せなきゃイミないし。あと洗練されること(場慣れ。)って大切だと思った。

 

自分がやらないと他人に厳しく見られる(正しく評価できる)。みんな歌が下手だ。何が違うのか。下手というより、おもしろくない、そうおもしろくない。歌自体がすっぽり抜けている。感動がない。歌は詞を伝えることが命だと思う。何も伝わってこないのが多い。声にばかり気をとられているから。

 

聞かせてもらったすべての歌が与えてくれた感動…これが何よりも心に残ったものだ。その人その人によって、歌い方、聞かせ方などは全く違うけど、受けた感動は一つだけ…すべてに涙が出てきた。その人のもつ生き方、強さ、そしてそのなかに見え隠れする人間的な弱さ、これらの要素が声を通じて見せてくれた一つひとつの景色を忘れることはできないだろう。終わったしまうのが惜しいと思うくらい、すばらしいライヴだったと思います。

 

舞台に立ったときの、出てくるときの表情からして違うと思いました。歌っているときの表情もそうだけれど「人に見せる」顔だと感じました。人を引きつけるだけのものがあると思いました。もちろん声もそうだけど、その他に何かもっているという感じがしました。ステージ実習()と比べてしまって申し訳ないのですが、その延長というか、それより上かなくらいに思っていたのですが、想像以上によかったです。あっという間に時間が過ぎ、終わってしまったという感じでした。

 

皆さんまだまだこんなもんじゃないでしょう。ステージで完全燃焼することが、どれだけ莫大なパワーが必要なことかが、よくわかりました。

 

 

*福島コメント

これは、非公開、内部で行なわれた以上、歌い手のみでなく、観客としても勝負の場であった。

期待以上のものを出すことが求められる場で、

日頃より歌に入れたのは「カンツォーネ」、

ステージに入れたのが「SOMEDAY」、

あとは努力不足、出力不足。

学ぶ場で客としてきちんとみれている“お客”はごくわずか。それ以外は、脇役。