投稿 648
友だちの披露宴に行った。こじんまりとしていて暖かく、皆が二人の結婚を祝っていて、とてもよい宴だった。それぞれの友人たちはもちろん、宴を盛り上げるために頑張っていたし、親族の方々も、二人を大切に思っている気持ちがにじみ出ていて、とてもよかった。新郎新婦のご両親のまなざしの優しさに感動した。いい式だった。
サックスプレーヤーの友人が亡くなった。心臓まひの突然死。30歳だった。2月に結婚したばかりだったのに......。人間はいつか必ず死ぬ。だが、明日死ぬだろうと思っている人はいない。いつ死ぬかなんて誰にもわからない。死なない保証はどこにもない。「今日一日が人生の全て」「今この瞬間を生きる」この気持ち忘れず生きて行こうと思う。今死んだら悔いが残る、そんな生き方はしたくない。自分の時間を大切にせよ、人生を大事に生きよ、友人は自らの死をもって僕たちにそんなメッセージを残してくれたと感じた。
宮大工の修業をTVで放送していた。親方になぜ、新人にカンナのかけ方を教えないのか聞いていた。彼は言った。「教えたって、その通りにできるわけない。何度もかけて自分でわかるしかない。」これって、先生がヴォイストレーニングについていつも言っていることだ。とにかく今は、練習するしかないのだ。
元ビートルズのジョン・レノンは、彼の妻でありアーティストでもあるヨーコ・オノに対し、彼女の音楽は10年、先をいっている、まさしくNEW WAVEだといっていたことがあった。彼女の歌は決してうまくはないが、何かを確実に表現していると思う。サウンド、歌、詞、すべてが一体となってアートになっていると思う。まさしく彼女の歌は(うまくはないが)一つの作品であり、アートであり、聞いてくれるお客さんがついているし、すばらしい彼女独自の表現だと思う。だから、本当の歌とは、うまいへたじゃなくて、表現できているか、否かなのだ!!
読まず嫌いだった夏目漱石と戯曲を読み始めた。戯曲はゲーテの「ファウスト」読みたさに、その肩ならしとしてシェイクスピアから読み始めた。「ハムレット」を読み終えたがおもしろい。小説りも展開が早いからどんどん読める。読み終えたときのすがすがしさは、起承転結がハッキリしているからだろう。歌もそうではないのか。だから展開が見えないとつまらないし、歌にならないんじゃないのか、聞き終えたときに満足感のある歌。見えるところは見えないとダメなんだ。流れ、ストーリー。
今日は、昼は鑑賞、その後ボクシングのレッスンと、とても充実していた。不思議とよく声が出て、びっくりした。久しぶりに別居している私に「お姉、声のトレーニングとかしているの。 話し声が違うよ。」と聞かれ、びっくりした。
この間、バイト先(酒屋)に外国人さんが来て、おもしろいことを言ったのでつられて笑ったら、ものすごく深くて大きい声が出た。自分でこんな声が出るものかとびっくりした。
「夜ヒットin N.Y.」いわゆる「小室ファミリー」という人たちを中心に、日本の歌手がN.Y.の街角で歌っていたが、見ていてアメリカの人たちは、あの日本人の歌をどう思っただろうか。若くて実力もないのにリムジンに乗り、高級な店に群れる…。本当に向こうの人と並んで負けてないのはASKAとドリカム(ちょっと緊張していたが)くらいだったと思う。「あ〜飛行機代がもったいないなー」とがっかりする企画だった。
Love is Art, Struggle is Beauty-愛は芸術なり、相剋は美なり-
会報の「ドラマティック・ミルバ」を読んで、ふとあることを思い出した。
“If you wait until the numbers, you'd be lost in the numbers... ”これはカルカッタのマザー・テレサのことば「一度にたくさんの人に与えようとしても、数の多さのなかで自分を見失ってしまう。 何か人に与えたいならば、まずあなたのそばにいるたった一人から始めなさい」という意味ではないだろうか。逆に言えば、私のとなりにいる一人の人にすら、何も与えられない自分には、多くの人に何かを与えることはできないということ…。
最近、仕事の忙しさにイライラして、周りの人を思いやれない自分が描けない。どんなに疲れてても、つらくても、いつもサービス (serve=奉仕) できる自分でいたいと思う。 まずは、会社のなかで家庭で、誰かの心に喜びを投じることができれば、今より少しはましな歌が歌えるかもしれない。「今の自分に不平不満を言っている時間があるなら、黙って努力を続けること。周りに明るい空気を送り込むこと。」 これらを忘れないで、これからも歌を続けていきたい。
私のなかに「深い海」がある。それは、変化を恐れる気持ち。もうじき30になるのに夢を明確な形にしていないという不安。私がいくらがんばってみても、周囲は私を認めていなくて、一人でとんでもなく空回りしているのではないかと、突然おそってくる焦り。だから「高い山」が必要だ。夢や希望、明日への光のようなものへ向かって、一歩一歩進んでいくことが大切なのだ。不安はある。常にある。このままものにならなかったら? でも、あきらめてしまえば、夢はそこでおしまいだ。どんなに高い山だって自分のペースで登っていけば、いつか頂上につく。歩くこと、変化することを止めたとき、私は私でなくなるだろう。
人と人の間には「深い海」がある。他人の気持ちを本当に理解することなど、誰にもできない。同じ体験をした仲間だって、受け取り方はそれぞれ違う。「肉親に殺されそうになった私の痛みを、あなたがどれだけわかるというの?」そう言って心を閉ざしていれば、私は今でもひとりだったはずだ。真の理解などありえない。だからこそ、想いとことばを重ねて、人はわかり合おうと努力するのだ。私のことを理解しようと心を傾けてくれる人がいる、それだけでもありがたいことではないか。そして、心を開いて見てみると普通の人のあたりまえの人生だって、充分につらいことがたくさんある。私だけが苦しいのではないのだ。幼い子が人形をなくして泣くのと、もう少し大きい子が友人を失って泣くのと、涙にどれほどの違いがあるのだろう、ということばがある。想いはなか なか伝えにくいものだし、ことばはもっとあやふやなものだ。けれどもあきらめずに、ことば一つひとつの意味を、お互い問いただすほどの努力を重ねていけば、それはいつか「高い山」となるだろう。
クラシックギターの独奏の演奏会に出た。私は「いとしのエリー」を弾いたのだけど、自分で歌ってみて、レイチャールズとサザンの二つを聞き比べて、その上でインストとして弾いたら好評だった。「泣いてましたねギター」と言われて嬉しかった。歌詞に自分の強調したいところとレイチャールズ、サザンがそれぞれ強調しているところをチェックして聞き込んで、その上で歌うような気持ちで弾いてみた。ギターにおいても技術以外のところを重視してきたが、これほどこだわったことはなかったので、まだまだだったのだ。このままどんどん上昇したい。「自分に素直になる」とは何だろう。わかったような気がしていたけど、ウソだった。自分の願望と相手を思いやる気持ちのように相反する気持ちが共存することってよくある。どちらに正直になればいいんだろう。割り切れるもんじゃない。
長いこと、心が震えたことさえなく、感動や悲しみや喜びをまともに受けることを恐れてごまかし、死んだように無気力に、自分の生命に対し怠慢だった私。私が私から生まれようとし、生きようとするとき、自分のなかにあるあらゆる感情も欲望も直視しなければならない。
そのための器づくりに没頭し、噴き出そうと何度も試みる。表現の方法や手段や濃度がどうであっても、たとえ力が足りなくても、この流れを止めることは生きるのをやめることである。きっと私のなかから歌となってほとばしるはずの何かを、美しくないと言われても、私はそれを止めることはできない。
私には何もない、と。この「私には何もない」ということが、私の最大の恥だった。私の内面は空洞だということが。でもそれは、自分を知るのを恐れ、逃げているのと同じことなのだ。だから空洞を突き破って、そこから流れ出てくるものを確認しなければならない。どんなにおぞましいものをそこで発見しても、その苦痛だけが、私が生きている証だから、今は。閉ざすな解放せよ、と語りかけてくる。
日本では美空ひばりさんなんかが芸に生きた人だったけど、愛する人との結婚生活を捨てることになった。夫婦仲の崩壊というより、私はやはり捨てなければならなかったんだと思う。それでも弟の子供を養子にして育て、よい母になろうと努力していたという話を聞いたりすると、痛々しく深い同感も覚える。きっぱり芸を選び、それを貫いたすごい人。でもそのために、女であること、母であることに、どれほど引き裂かれていたかと思うと。子宮の幸せと脳みそに直結した魂の幸せ。日本の風土や結婚制度は、この二つを分けて考えることを女に要求する。現実的にどちらか捨てなければならなかったひばりさん。
作家の岡本かの子さんのように戦った人もいるが、攻撃にさらされボロボロだった。女であることと人間であることに引き裂かれていたことには変わりない。もちろん、そういう苦しみが作品に命を与えるのだろうけど、羽ばたいていこうとする者に対する理不尽な足かせに、私は怒りを感じる。
本当に長い間、女はそういうものを意識してはいけなかった。外に出してはいけなかった。自分の命を解放したければ、発狂するしかなかった。発狂するエネルギーさえ希薄な今時は、グチったりこぼしたり諦めたり、男のせいにしたりするだけだ。だからピアフのような濃厚な表現が、必ずしも私の生きる日本の国で通じるわけではないかもしれない。私のなかで閉ざされてきた血を発散するためにどうしたらいいのか、相変わらず私にはわからない。
奇跡を待って
1人ぼっちの夜
涙が渇いたら
声が聞きたくて
留守電でも構わないから
誰にも電話したくない
あなたを知ってしまったら
誰にも優しくできない
あなたなしではね
ワガママだって叱られるね
いつか一緒になれる。
どうか幻で消えないで
今がずっと続きそうで怖い
Searching for miracle
きっと変えてみせる
だって2人出会えたから
あなたに会えたことが この世の奇跡
Searching for dream
あたしたちはいつだって 奇跡を待ってる
いつか奇跡を起こすために
夢のなかを歩き始める
たとえ道に迷っても 歩きたいの
1人ぼっちの夜 静かだね
終生なる君へ
君がだした結論は君自身の答えなんだ
誰も君を導くことはできない
身をもって友情を示してくれた君へ
勇気と希望をエールにして送ろう
別れる時に自然に沸き上がる気持ちこそ
君に対する僕自身の真実なんだ
だから僕はその気持ちに正直に
感謝を勇気に変えて君に送ろう
だってつらい時にそばにいてくれた
これ以上何を望むのさ。
何て素晴らしい物を君は与えてくれたのだろう
僕の存在を忘れてしまった
こうして語らう喜びを教えてくれた君へ
こうして涙する幸せを与えてくれた君へ
こうして生きることに感謝させてくれた君へ
あの日僕を勇気づけてくれた君へのお返しに
僕の全身全霊を込めて
魂を込めて
終生なる想いを希望に変えて
君を送ろう
土踏まずのアーチ
心と一緒に力強く歩けそう
頭だけではダメなように
体だけでもダメだ
一つとなれ もっと
精神と肉体のバイパスをつなげ
流れゆけ
血よ
どうどうと
めぐり、めぐれ
ー
おすすめ 648
「SOMEDAY」
佐野元春さんがちょうど私の年齢くらいの時の曲だ。私はこのあと元春さんがやっていた‘元春 RADIO SHOW’というのをずっと聞いていた。それは別にいいのだが、「SOMEDAY」の中の<若すぎて 何だかわからなかったことが リアルに感じてしまうこの頃>というところに、とても共感を覚える私の今日この頃だ。
Third World 「Reggae Ambassadors」Third World の2枚組のベスト盤
とてもよかったです。
オルネラ・バノーリ
暗い音色だが、とても引き込まれる歌い方。呼吸、声の響き、太さ、反射神経。
「プリティリーグ」
本当にいい映画だと思います。何回か観ましたが、同じところでいつも泣かされそうになります。それと「男はつらいよ 48作目」渥美清さんの最後の作品なのですが、寅さん最後にふさわしいあったかい作品だと思います。死を予想させない寅さんの演技にグッときます。今になって思いかえしてみると、今年一人で寅さんを見にいったときに、となりに座った老夫婦が「渥美さんも歳をとったねー。寅さんももう終りかねー」と言っていたのを思い出します。本当に亡くなってしまったんですね。とても残念です。やっぱり死んでも本物は心に残っていくんだと思います。
美輪さんの銀巴里ライブの「アコーディオン弾き」
すごく感情が強く伝わるし、アウトプットの力が大きい。ビブラートや声を浮かして伸ばすところを除けば(コトバの部分)、しっかりした歌い方なのだろう。越路吹雪よりずっとピアフに近い。ピアフのすごいところは、最後まで歌が体から離れていないところだと思った。美輪さんのビブラートはピアフのまねなのだろう。やはりマネはヘンでふしぜんだ。リズム感はよいと思う。
The WINANS
4人の男性グループがあります。彼らはもともと、ゴスペル出身で、かなり昔から歌っているのですが、最近というか、4~5年くらい前に復活しました。最近の3枚のアルバムは、とっても都会的でかっこいい。最近はやりの若いコーラスグループよりも、ずっと若々しく、さらに歌も格段にうまい。昔のやり方にこだわらず、若手のプロデューサを起用したり、たえず前進している。こういう、兄弟でずっと歌を歌っていけるのって本当にうらやましい限りです。
赤坂BLITSでThe MODS
私が中学生の頃、めちゃめちゃ狂っていた
マライア・キャリーのMTVアンプラグドショー
ゴスペル隊をひきつれて会場もすごい盛り上がりです。日本の大ホールよりずっと生き生きして声も伸びやか。表情もとてもすてきなので見習いたいです。
立花隆の「ぼくはこんな本を読んできた」
とてつもない読書量に圧倒される。乱読していくなかで、自分なりの本の読み方をつかんでいくことしかないのかなと思った。音楽の聞き方も、そうしようと思っている。
ハリス・アレクシーウ
フジTVのドラマ「白線流し」
すごくよかった。映像もきれいで「園子」という女の子の純粋さにとても感動しました。
矢野顕子のライブ
迫力のある声としては彼女の歌、声は好きではないけれど、「彼女の世界」ということでは、とても強いものがあると思います。また、歌いながら笑ったり、しかめっつらしたりなどの表情も、とても堂々としていました。
ビリーホリデイの伝記
あまりにもすごい生き方をしているので驚いたが、この激しい生きざまが、あの声を生み出しているのかとも思えた。
ジョーン・オズボーン
CDも聞いたことがなく、屋外ライブで初めて聞いたのだが、強烈な印象だった。屋外に、大きくいえば地球上にひびきわたるかのように発せられた第一声で、いきなりひきつけられてしまった。彼女のパワフルな声に、すっかりひきつけられて、ファンになった。
カサンドラウィルソン
私は、彼女の歌を聞くためにと言っても過言ではないほど、生の彼女の歌が聞きたくて、ニューオリンズのジャズフェスティバルに行ってきました。やはり、ものすごい人気で、イスには座れず、最前列の柵の前にしゃがみこんで、かぶりつきで彼女が出てくるのを待ちました。スタートから10分ほど遅れて、彼女が登場したとき、大げさな言い方かもしれませんが、天使が現れたのかと思いました。その場は、彼女の天使のようなほほえみで、彼女の空気一色に変わったのです。歌を聞く前から、涙があふれそうになったのなんて、生まれて初めてでした。そして彼女が第一声を発したとき…その声は深く、低くひびいていて、マイクにはうまく入ってきませんでした(始め、だいぶ低い音から始まる曲だったので)。そんなことはどうでもいいのですが、彼女の歌は、彼女の息使いと共に唇からあふれ、私の体の中に、心の中にしぜんに溶け込んできました。思った通り、よくマライアキャリーや他の黒人歌手が使うようなコロコロと声を裏返ししたり、こぶしを入れたりというようなテクニックはほとんど使わず、体の太い声で、ときには優しく、ときには悲しく、そしてまたよろこびにあふれた様子など、さまざまに表現していました。人間が歌う姿ってこういうことなんだ、本当に美しいんだということに、彼女は気づかせてくれたのでした。
ミルバ
“一曲で満足させてしまう”本当にすごいと思います。聞かせるところはしっかり聞かせてくれて気持ちがよく、時にハッと思いもよらぬことをやってくれたときの驚きというか新鮮さがとてもよい。
GENE RICE
男性ヴォーカリストがいます。今まで、2枚のアルバムが出ています。彼はハスキーな声ですが、ことばをとても大切に扱っていて、フレーズをくずさず、一つひとつのことばをはっきり発音するので、とても聞きやすいです。もちろん、歌唱力はバツグンで、1stのキャロルキングの「It's too late」もかっこよくカバーしています。やっぱり歌はオバサンとかオヤジに限るなと思います。
スーパーエキセントリックシアター(SET)の芝居
あの金額でよくここまで観せてくれる。さすがです。
第三舞台の芝居
すごく楽しみにしている作品です。
日本のジャズライヴ
日本のジャズはやはりヴォーカルが弱いです。ジャズは大好きですが、日本からもいいヴォーカリストが出て欲しいものです、と切に思います。仕事の関係で、ジャズ浸りの日々。ヴォーカルはエラ、ビリー・ホリデイ、サッチモ。マイルス・デイビス、ウエザーリポート、ジャコ・バストリアス、マイケル・ブレッカー、コルトレーンのCDを買い、さらに自分ではスタン・ゲッツ、フランク・シナトラを聞いてみたいと思う日々。本当は、コルトレーンは大好きですが、ディキシーやスイングのスタンダードのもの、ビックバンドを聞いて楽しくしていたいのですが、私がイベントでプロモーションするアルバムは、難しいジャズなのです。
トム・ウェイツのBIG TIME
アルバムを買った。正直いって彼の声にはおどろいた。以前から彼の曲は聞いていたが、今回買ったアルバムは、ライヴ版ということもあり、かなりハイテンションで歌いまわしもかなりくずしている。しかも、あの怪獣の雄叫びみたいな声でしぶく歌いあげる。太く、ラフで息が荒々しくすごい。まさに芸術である。この作品は彼だからできる。これを聞いて、何か自分の足りないところがみえた気がする。
ボズ・スキャッグスのウィ・アー・オール・アローン、ハーバーライト
今、一番自分の心に対してよくひびいて訴えかける音楽だと思う。もっともっと、心をえぐりとるようなきついものをたくさん聞きたい。
以前、鈴木雅之のために書いた「ガラス越しに消えた夏」という曲を大沢がアンプラグドの曲にアレンジしなおして歌っているのを聞いた。何がよかったかと言えば、詞と曲のつながりもよいし、歌声に強弱があること。そのくり返しくる波のような強弱がとても心地よかった。これが“リズム”を感じ表現することなのかな?!と思った。
“CHARA”
この人を友だちに勧められて聞いてみた。変に幼稚な声で嫌いだったけど、聞いてみると感情をいろんな方法で表現していることにハッとさせられた。また詞も決まりを破ってとても自分に忠実に書かれていて新鮮だった。曲も詞にムリヤリつけられたものでなく、間のとり方とかが新しくて、何か発見できそうな感じがしている。
「Ellie/Bitch in zion」
ラブタンのときから日本人離れしたヴォーカルはもっていたけど、ソウルなこのアルバムを聞いたとき、その声の音色のすごさにおどろいた。タイトル通り、詞が全部Hなもので、たぶん処女は聞けない内容なんだけど、それを巧みに歌いこなせる彼女のセンスに脱帽した。久々に試聴器で少し聞いて即、買ったアルバムだった。
Nhno Bettencohrt!
ニューアルバム ドラムから歌から、とにかく全楽器を自分一人でやって、曲、ミックス、e.t.c...。とにかく全部ほとんど一人でやっています(本職はギター)。これだけクォリティの高い作品でも、彼にとってはたぶん、ほんの一面だと思います(ちょっとNhnoにはうるさいです)。歌詞から何からのコンビネーション、そして表現(演奏)の天才が、それをトータルでやっているので、聞いていても、どこから手をつけて(注意して聞いて)いいのかわからなくなります。この本物中の本物と同じ時代にいて、リアルタイムで聞ける(ということは、またライヴにも行ける)幸せを神に感謝します。アートに対して、表現に対して真剣で、既存の自分の地位もがんがんゼロにする姿勢がとてもすごい人です。エクストリームというバンドをやってましたが、それもすごいです。、(3枚目がすごい。オーケストラスコアも書けます。)
Painterは、これだけの機能がついているのはスゴイ。とてもおりこうで賢いソフト。
ジョーン・オズボーン
絞り出す声が特徴だが、とにかくあまり聞いたことのないような声だ。よくあんな声で表現をつけて歌えると思う。お腹から息にのっているからだろう。私は彼女のような挑戦的でエネルギーとパワーにあふれている声が好きだ。
ハリス・アレクシーゥ
女性ヴォーカリストのCDを買いました。ことばはわかりませんが、感情の表現がストレートでよかった。
マヘリア・ジャクソン
以前から気になっていたのでCD買いました。SONG FOR CHRISTMAS。1年に1回じゃなく毎日まねできるようにすると、いい“運動”になるかも。すごいパワーである。
白人ブルース「ジョニー・ウィンター」のギター
ものすごいことになっているので、彼のCDを聞いてみても損はしないと思う。また、とても聞きやすく覚えやすいのでいい。
映画「12モンキーズ」
予言者の孤独、自分をおかしいと思い込んでいく。「彼が最適だが態度に問題あり」のコメントが笑えた。主人公は結局「起きたこと」は変えられなかったけど、ルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界」を聞いて、20cの音楽の美しさに涙する。私たちは音楽のすばらしさがまだまだわかっていないので、アーティスト(をめざす者)として恥ずかしい。ブラッド=ピットの異常者の演技がおもしろかった。華のある人だ。
バンドネオンの音は好きだ。情熱的だけど、どこかもの哀しい感じがする。聞いていると胸のなかで枯木がざわざわしてくる。バンドネオンをバックに歌ってみたい。
「アマンダ・マーシャル」
こういう強い声の女性アーティストは好きだ。彼女自身、相当骨のある人に違いない。歌って本当に人間だなぁ。
「ジャニス」
派手でハスキーなシャウトばかりに目がいっていたが、今回は語りやささやきのスゴさにおどろいた。シャウトがなくとも通用するのではないかという、パワフルさとリアリティのある語り。見てしまう、聞いてしまう。ハッとする、心が動く。胸のなかで何かが回転する、方向転換する。これが表現か。これが表現になっているかどうかの基準か。MCは決して間つなぎではない。まして「休み」でもない。MCも曲である。歌を語りかけるのと同じ感じだ。彼女は歌っているときに瞬間と一体になると言っていた。それがあのテンションをもたらすのだろう。役者もびっくりだろう、あのセリフのリアリティには。ピアフとの共通点を感じた。自分自身を爆発させている。
ー
中島みゆき“激情”
歌の1フレーズが昨日からずっとひっかかっている。「輝く星は身を焦がして光ってる」スッと歌えてしまうけれど、よく考えれば考えるほど、深いフレーズだと思う。
ロンドンで行なわれたミュージカル「レ・ミザラブル」
10周年の記念の番組を見ました。コンサート形式で「レ・ミザラブル」を上演したのですが、歌い手の力量が日本の東宝の舞台とは全然違い、同じ曲なのに全く違う曲のように聞こえました。催しの最後に世界の十数カ国より、ジャン・バルジャンを演じた役者さんたちが、1曲を1人1~2小節ずつ歌っていきました。その曲は行進曲で、他の国の役者さんたちは皆、力強く、迫力があったのですが、日本人が歌うのを聞いてビックリしました。何というのか…他の人と異質なのです。メリハリがなく、やわらかすぎて、他の人と比べものにならないと思いました。その異質さは当時の私には何と説明したらいいのかわかりませんでしたが、今ここに入って、高低アクセントで歌ってしまっていたのか、ということがわかりました。
中国琵琶コンサート“唐華(Tung Hua)
ヘレン・メリルのライブ
やっぱりすごい!! “ニューヨークのため息”は衰えるどころか、ますます魅力的でした。リラックスして力んだところがないのに、すごいパワーとヴォリュームのある、サキソフォーンの音色のような声が体からあふれでるのです。人間、年をとったら衰えるというものでもない、そうでない人たちもいるんだと、二人のステージを観て感じました。そして、ヘレン・メリルの発声は、これがここというものではないかなと、ここというものがよくわからないけど思ってしまいました。また来日したら、是非いこうと思っています。
「インド舞踊絵巻」
圧巻でした。なかでもインドの舞踊家の二人が印象的。力強いリズム、繊細な指の動き、豊かな表情、優美な姿、正に洗練の極み!! どの瞬間も美しい姿でその瞬間、瞬間がつながっていて踊りになるというのでしょうか。それだから、まばたきもしないで、ジーッと見つめていたいくらいでした。
ライブに行くのは5回目だが、見るたびに違った面を見せてくれる。しかも、どんどんうまくかっこよくなっていくのは驚きだ。ファンにもとても愛されている。CDもアコースティックで素晴らしいのに、ライブは100倍もっと素晴らしい。彼女が出てきただけで、空気が変わる。体も呼吸もとても強い。ヴォーカリストのなかのヴォーカリスト、アーティストのなかのアーティストだ。
アコースティック一本、アンプとモニターだけで、何千人という客を圧倒するのは見事。世界のロックのトップとして、声、表現が音にのっていた。うすっぺらの高音域はかりにとらわれる日本人とはやはり違っていた。
アートスフィア「マリアンヌ・フェイスフル」
“20th century Blues”と題したライヴで、ベース、ピアノ、声とシンプルな音構成。ミックジャガーと破滅的な恋におちて、聡明な声をつぶしてしまったという。痛々しい声からどんなメッセージが送られるのか楽しみだ。
ヨッヘン・コヴァルスキー(カウンターテナー…女性のような声をしたオペラ歌手)
<談>「歌うこととセックスは似ている。なぜなら歌うことは上半身だけでできるものではなく、下半身も含め、爪の先まで全身を使って歌うからだ」
「歌手にはスランプというものがあるものだ。今まで楽々とできたことが急にできなくなったり…そして、焦って練習して余計、悪循環になったり」
「私は今までで自分の歌に満足したことはほとんどない。特にCDで録音したものを聞くと、自分の理想とあまりにもかけ離れていて、ピストル自殺したくなる」
.彼がテナー(。)を勉強していたが、全く上手にならず、下手な女生徒の代わりに高音のパートを歌ったことがカウンターテナーを始めたエピソードというのはおもしろい。要するに、個々に合った声を取り出すことの重要性を感じた。2.彼がとても、音楽やその曲の時代背景などについて詳しいのにおどろいた。
ムーンライダーズのコンサート
メンバーは日本の音楽界の“先生方”なのに、楽曲はいいのに。歌ってすごく難しい。音のパワーはすごいと改めて考えさせられた。何を言っているのかもわからなかったので、1曲目からしらけてしまい眠りそうになったのが、ギターのディストーションでグッと目が醒める。詩はセンチメンタルで訴えかけるものはあるのだが。
「太陽が死んだ日」アートスフィア
近頃、芝居を見ることが多い。ことばの勉強にもなるので…。この舞台は「アマデウス」のピーター・シェーファーの作品なので、見ごたえのある舞台になるのでは。
私も彼女のエナジーに触れて元気になった。力づけられた。彼女の前向きな生き方は、とてもたくさんの人を動かしているように思う。
舞台やミュージカルをこなす彼女なので、声にも期待しています。
パントマイムとはことばがないだけに、観客側にも集中力と想像力が必要でした。動作というものだけでメッセージを送るというのは、とてもすごい観察力をもってして成しうるものだと思います。また人々のなかにある共通の動作を抽出していく作業だと思いました。“表現する”ということは、普段、あいまいにしている事柄や心のなかを、一つひとつハッキリとさせてゆくことなのではと思いました。また、マルソーの世の中への批判精神が表われていたステージに共感するところがありました。
東京シティオペラ協会公演「魅惑のテノール 宗孝夫リサイタル 優しき愛を歌う」
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猿岩石
香港からロンドンまでのヒッチハイクの旅が放送されているのを見て、二人の日記に書かれた苦しいときや喜びのときのことば、さらに二人のために爆風スランプがつくった歌を聞いて、感動した。人間とは生きるか死ぬかというときになって初めて本当の感情が出てくるのだなぁ…。
「チェルノブイリの子供たち」
衝撃で頭がクラクラした。電車から降りて駅のホームの人だかりを見て、自分だけが別世界にいるようだった。あのチェルノブイリの原子力発電所の事故について書かれているのだが、事故そのものの恐ろしさに加え、人間の恐ろしさ、国家という得体の知れない巨大なものの恐怖が、あまりにも生々しく子供たちの目を通して伝わってくる。あのすさまじさをここにどう書いたら伝えられるだろう。「自分がここで生きていて幸せだ」とかそういうことでなく、「生きていることがどんなに奇跡的なのだろう」と思う。それに対して、権力はなんて巨大なのだろうか。私はマスコミによる情報からしか、あの事故のこと知るしかない。そこでどんな事実がもみ消され、どんなに多くの人間の死が隠されたか。この本を読むまでは、その人たちの悲しみの存在さえも知らなかった。この本は、約7年前に書かれたもので、現在チェルノブイリがどのような状態になっているのか、私には知る術がない。どこかで、あらゆるものを操る者がいて、私たちは常にそいつらに踊らされているんだ。そうやって、あらゆる真実は、今も未来も隠され続けるのだろう。だけど、あまりにもそいつらに委ねすぎて踊らされっぱなしの私たちも非難ばかりはできない。相変わらず、人間は愚かで、その愚かさのせいで、どこかの誰かが苦しんでいる。今度は、それは私かもしれない。今は偶然、こうして生きているけど、私だって愚かな人間なのだ。私が生きていて、好きな歌を歌えるという、この奇跡に感謝しなければいけない。そんな気持ちになった。
桑田佳祐「ただの歌詞じゃねぇか、こんなもん」
「(前略)英語にはたくさんあるわけでしょ、音符一つにつくことばが。たとえばShineみたいに。これを日本式に歌うとシャ・イ・ンになりかねないけど、そうじゃなくてあくまでShineという一つのまとまりなわけ。日本語の場合、音符一つにつくのが助詞の「が」一つだったりする。そのへんが感覚的にひっかかるんですよ。歌を歌うとき歌詞とかメッセージに聞く側もやる側ものめりこみすぎると、語感とか音節=シラブルのおもしろさがなくなってしまう気がする。流れがよくないとつまらない、というか、それがボクらのサウンド指向だと思う。(以下続く)当時は詞の意味とかを考えすぎてる人が多くて、起承転結にまでこだわっている人がいた。そんなことへの反発もあったのかな。全然のってないじゃない、ドライブしてないじゃない、スイングしてないじゃない、っていう。昔の日本のジャズシンガーって、やはりジャズじゃないのね、スイングしてないから。」
久保田一竹氏の講演
聞く機会があったので、お話のなかで印象に残った点を書き出してみます。
やろうと思えば何でもできる/腕に技術をつける/シベリアでの抑留生活からの生還/飢えや寒さ、内地での苦労など何でもない/辻ヶ花染めの350年もの歳月による変化(風化)/絞りのまわりがアクの変色と絹の焼け具合でグラデーションをかもし出す/歳月の壁を技術で乗り越える/古き辻ヶ花の技法と図案は活かしつつも、染料は植物染料から化学染料に切り替える…「柄のまわりに色がにじみ出る」「科学染料の分離作用で斑点をつくる」この2点が一竹辻ヶ花のポイント。
山辺知行先生に作品を認めていただくくだりでは、一竹氏は声を詰まらせて目はうるんでらっしゃるようでした。
ピカソの忠告「日本は芸術家を育てられない」フランスでは、それが外国人であっても、芸術に援助を行なうと税制上の優遇措置があるそうです。日本では同国人に対してさえ、1億円援助しようとすれば実質的に2億円必要になります。その他、ゴッホは生前2000枚の絵を描いて1枚しか売れなかったが、オランダが国の総力を挙げて一流の画家に仕立て上げたとか、さまざまな例を上げて一竹氏はかなりお怒りのようでした。講演のとき、ときたまマイクから顔が離れることがあったのですが、一竹氏の声は会場いっぱいに朗々とひびいていました。正直「負けた…」と思いました。足取りも、20代の私に負けないくらいお元気でした。80歳だそうですが、当分、大丈夫でしょう。本人は「お迎えがきたら、けっとばしてやります」とおっしゃっていましたが、もっともっと長生きして、創作に励んでいただきたいと思います。
山田詠美・インタビュー)
「体験豊富に越したことはないけど、それだけで小説が書けるわけじゃない。それを濾過し抽出して、普遍的なものにする-純度が高くなければ、誰も受け入れてくれないと思う。体験書くだけだったら手記だもの。その意味では、体験の数じゃなくて、実感の深さの方が大切な資料じゃないかな。逆に、小説だから何を書いてもいいわけじゃなくて、嘘を書けばすぐ見破られるよ。実感を大事にして書いていれば、自分で体験しなくても疑似体験できるようになってくるんだよね。私もときどきそういう境地に達することがあるんだけど。物書きは訓練していくと、たとえば人殺すかもしれない自分がイメージできるようになる。その作業ができる人がたぶん、本物の作家で しょうね。なんとかそこまでいきたいけどね、今はまだ首締められるシーンまでかな (笑)。」 (CREA 1995.11号)
1963年2月17日ニューヨーク州ブルックリン生まれ。身長198cm、体重90kg、ノースカロライナ大から84年、シカゴ・ブルズに入団。84-85年の新人王、更に91年からのブルズV3の原動力となる。93年、突然の引退表明、ホワイトソックス傘下の3Aと契約したが、95年3月、古巣のブルズに復帰。そして95-96年シーズン、驚異的な72勝10敗という通算成績(!)とファイナルV4達成へとチームを導き、自身もレギュラー・シーズンとファイナルのそれぞれのMVPの他、数々の栄冠(圧巻は8度目の得点王!)にも輝いた(もちろんこの95-96年シーズン、フィル・ジャクソン・ヘッドコーチの下、ブルズ三銃士の後の二人スコッティ・ピッペンとデニス・ロッドマンの活躍も大きいのでしょう(このブルズ三銃士のことをスーパーマン(ジョーダン)にバットマン(ピッペン)にロッドマン(もちろんロッドマン様だ!)と言った人は最高にいいセンスをしてますねえ(笑))が、やっぱりジョーダンの存在が一番大きいでしょう)というのも記憶に新しいところではありますが、実は僕がこのマイケル・ジョーダンという究極のプロフェッショナルそして究極のスーパースターのことを最初に知ったのは、上記の84-85年の新人王の頃でも91年からのブルズV3の頃でもなく、93年引退そして3Aとの契約、もっと明確に言うと大リーグへの途方もない挑戦の頃のことなのです(でも僕みたいな人(特に日本人)って結構多いのかな。)。はっきり言ってジョーダンについて当時何も知らなかった僕には、バスケットボールからベースボールへの転身は単なるスーパースターの気まぐれにしか見えなかったし、野球をやっているジョーダンなんてあんまりサマになってるようにも見えなかったのですが、この大リーグへの挑戦というのが実は不幸にも少年強盗の手にかかって命を落としてしまった父ジェームスの宿願を叶えるためでもあったというのを知って、うーん、マイケル・ジョーダンって本当はどんな人物なんだろう。と僕はあらためて興味を持ったのです。そんな95年3月、長引く大リーグのストライキに嫌気がさして“I'M BACK”という有名な言葉とともにNBA(全米バスケットボール協会)へ復帰するや否や、野球場ではただの人だったジョーダンがコート上では神々しいキングとして再び君臨するという、本来あるべき勇姿を取り戻した様子を「ナンバー」381号(書き忘れるところでしたが先述のプロフィールの特に前半はこの号を参考にしました)で目のあたりにしたあたりで、僕はすっかりこんなマイケル・ジョーダンの魅力のとりことなってしまったのです。
こんなマイケル・ジョーダンの魅力のとりことなってしまった僕をより一層とりことしてしまった本が「マイケル・ジョーダン物語」という訳で、思いっきり分厚い本であるにもかかわらず、遅読家の僕が一週間ほどで一気に読んでしまったぐらい「とりあえず読んでみてください」とだけ言いたいような本なのですが、やっぱりここはいくつか印象的な章を挙げない訳にはいきません。まずは第2章、シカゴ・トリビューン紙の名コラムニストでもあるこの本の著者ボブ・グリーンがコーネリアス少年(ものすごく訳ありな少年なのですが)を連れてはじめてジョーダンに会いに行った時のエピソード、言ってしまうといわゆる社会的弱者と呼ばれる人たちや子供たちに対して本当に心優しいジョーダンの典型的なエピソードのひとつなのですが、ここは何度読んでも胸を打たれてしまいます。しかもこのようなジョーダンの美談は、読み進めていけば分かるとは思いますが、ひとつやふたつではないのです。話は横道にそれてしまいますが、日本のプロスポーツ選手やあるいは芸能人と呼ばれる人たちにこのような美談がウソでも少なすぎると思うのは僕だけでしょうか。 いずれにしてもこのようなジョーダンはプロフェッショナルとかスーパースターとか以前にひとりの人間として僕は見習いたいと思わずにはいられません。第6章ではジョーダンの高校時代の挫折について語られています。実際「どのスポーツであれ、高校のチームからはずされた経験を持つプロのスポーツ選手など、何人もいるはずがない。プロになるほどの人間なら、どこの遊び場でも、どこのクラスでも、どこの学校でも、ずっと最高の選手だったはずである。プロになるほどの選手たちは、そんな経験はしないもの」なのでしょうが、ジョーダンには挫折が確かにあったのです。しかしながら、ジョーダンは「でも、いいんだ」と「よかったのさ、失望がどういうものであるのか身にしみてわかったからね。あんな気持ちはもう二度と味わいたくないということが身にしみたんだ」と言っているのです。また第12章では「これまで試合中に『自分にはできない』と思ったことがあったかい。」とグリーンに尋ねられて「ない」と言うジョーダン「そんなふうに感じたことはないな。試合に勝つために何とかしなくちゃならないときでも、自分にはできるといつも思ってた。これはほんとなんだ。もちろん、それで負けたことだって何度もあるさ。でも、負けるだろうと思ったことはない。必要なことは自分にはできるんだと、いつも思ってきたんだ」、これがジョーダンというプロ中のプロの真髄なのでしょう。そして第19章での90-91年のファイナル、同じMJというイニシャルを持つもうひとりのNBAのスーパースター、マジック・ジョンソン率いるレイカーズとの激闘には大なり小なりバスケットボールをかじった人には読み応えたっぷりでしょう。他にも印象的な章はいくつもあるのですが、後は本当にとりあえず読んでみてください。後半、ちょっとしたトラブルにも巻き込まれて苦悩するジョーダンが登場することも少なくはないのですが、91-92年のファイナルでトレイルブレイザーズを破って優勝するあたりまで読んでみて、このマイケル・ジョーダンという(何度も言うようですが)究極のプロフェッショナルそして究極のスーパースターに、みなさんもじっくりと触れてみてください。
それでは最後に、マイケル・ジョーダンの言葉で僕が好きな言葉のひとつを
「挑戦せずにあきらめることはできない マイケル・ジョーダンのメッセージ。」という本(ソニー・マガジンズ)より引用しておきます
「ステップ・バイ・ステップ。どんなことでも、何かを達成する場合に取るべき方法はただひとつ、一歩ずつ着実に立ち向かうことだ。これ以外に方法はない」。以上、マイケル・ジョーダンについて、思う存分書き綴っていきました(ハイ、もう思い残すことはありませんです(笑))。
ターザンの映画
あんな大自然のなかにいれば声も出るはずだ。声を出すということは、もっとしぜんなことだと思う。この日本はそういう点で大声を出すにふさわしくない国だ。せめてここにいるときは、女ターザンになった気分で声を出そうと思う。「アーアァ~」のイメージで。
一瞬、映った。すごい!。一瞬だが、ものすごいパワーを感じる。クリスティーナ・オヨス(スペイン舞踊家)以来です。本物は一瞬でさえ、気を出しているのだ。同じく、本物の役者や舞踊家は、たった一枚の写真でもスゴイのだ。
「シーラという子」(早川書房)
本を読むことに対して、あまり興味をもったことがなかった私にとって、この本はいくつかの驚異を与えてくれた。一つは読むのが遅い私が、空き時間や通勤時間のみで二日の内にこの本を読んでしまったこと。こんなに本に夢中になったのは生まれてはじめてのことだった。そしてもう一つの驚異は、この本を読んで何度も何度も泣いてしまったこと。電車の中でそんな私を見た人は、きっととても変な気分だったことだろうと思う。この本は虐待をうけたシーラという7歳になる女の子と、その担任の先生との実話だ。この本には“愛”というものが、両極端な形で描かれている。考えることもいっぱいある。だけど、たった7歳の女の子のあまりに素直な心と、あまりにまがってしまった心が、ほほえましくも哀しい話だ。
TV「驚きももの木~」で美輪明宏の特集をやっていた。生きることが歌となり、歌うことが生きることになっている。苦しかろうがつらかろうが、自分の信じる道をつき進む。他人は全く関係ない。一人の人間の顔には、その人の生きざまが確実にあらわれる。目に表情にことばに、そして歌にすべて出てしまう。私たちは日本人だということで、声の部分でマイナスからスタートしているが、心の面はどうだろうか。 人にとって大切な心は、国が違ったとしても変わりはない。心あってこその歌であり、声だと思う。毎日の生活のなかにこそ歌があり、見えないところに真実がある。(黒坂)
私の尊敬する雀鬼、桜井章一氏(長い麻雀生活のなかで一敗もしていないヒト)が出ていた。卓越した麻雀テクニックもさることながら、前述している“オーラ”“気”を感じる。氏の「熱心はそこそこである。真剣こそ、我が道を知る」(熱心=ただの入り口、真剣=人の生き方に関わってくる)「感性のレベルというのは努力や工夫を重ねた先に待っているものだ」「『岩』のようなゴツゴツした力いっぱいのものが、いつしか『水や風』のように柔らかに流れるものに変わっていく」…などのことばは、まず「岩」をめざす私にグッときます。真剣に岩をめざします。氏のことばを聞いていると、自分の中途半端さにハズカシサさえ感じるんですよね、ホント。
「ミュージシャンたちの短すぎた生涯 天国まであと3歩」(音楽之友社)
パディ・ホリー、ジミ・ヘンドリックス、エルヴィス・プレスリーその他にも、まだまだたくさんいるが、偉大なミュージシャンは40歳前にほとんどその生涯を閉じている。打ち上げ花火のように強烈な印象を残し消えていった。平均寿命は今や80歳ぐらいというが、その年まで生きたから何だ?!という気がする。いつかは死ぬのなら、スカスカの人生で長生きするより短くても実のどっしりとつまった人生を歩みたい。一番いいのは実のどっしりつまった長生き人生か。どんな人生も自分の思っている通りになっていくと思う今日この頃である。決められないのは生まれることと死ぬことだけだ。
ノートン美術館コレクション
ロダンの大聖堂って知ってます。二つの手首から先の手だけで祈りのようなものまで表わしていて.....現物をはじめて見た。あとトルソーのイル・フランスというのが、実にしっかりした、自信にあふれた女性のヌードのブロンズで、とてもすてきでした。「ストーリーテラーへの道」という本で、ギルド制度のあった頃は、技を伝える、よい仕事をすることが目的だったのが、今や金のために働くようのなってしまったと嘆くものが出てきた。ルートヴィヒ王の催すオペラを職人たちは心から楽しみ、その心の高まりを、みんな自分の作るものの中に注ぎこんだ。美しい経験をするということはそういうことだ。と語るシーンがあるのですが、全くその通りです。感動というのはとても心と体にいいものですね。
前回は“男と女”というテーマで、なぜその両性が存在しているのかということへのアプローチだった。こういうような生物の根本や、人生を考えさせてくれる番組が少なくなっているのが残念だ。
「ミレーとバルビゾン派の画家たち」
まるでバルビゾンの大自然のなかにいるような、そんな気分にさせられます。心が洗われた感じがします。「命がけの表現」と作品紹介のビデオの最後にナレーションが流れました。命をかけることで、雲と空と光と緑と土と水と人々の生活と、心が一つになれるのではないかと思います。人を愛し自然を愛して、愛からはすばらしいものが生まれる。