一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

課題曲レッスン 47395字  662

課題曲レッスン  662

 

ーー

「アルディラ」 360100

「TAXI」

「恋は水色」360116

「恋人たち」362

「夜は恋人」

「二人でお酒を」

「ろくでなし」ほか 360430

「愛は限りなく」360514

 

「恋する瞳」 360516

「わかっているよ」360703

「空と海と太陽」 360703

「アモーレスクーザミ」360803

瞳はるかに」360831

「愛は限りなく」360906

 

「メケメケ」③

「君に涙とほほえみを」

「コメプリマ」①②

「恋する瞳」③④

 

 

ーー

 

「アルディラ」

                                

 

     日本語の訳詞では珍しく「アルディラ」の訳詞はうまくはまっていますので、日本語のトレーニングになると思います。見本のことばのポジションの深さ、体から動かしてつくっているところを自分に入れていってください。中間音から高音のバランスも、スタンダードでわかりやすいです。

 

「アルディラ デルベーネ ピュウ プレッツィオーゾ」

(ドーーーー ドーーーーー ドー ドーーーーミ♭ード)

 

 まず、聞いたままことばでよんでみます。そのとき「ア・ル・ディ・ラ」とならないよう、なるべく大きく一つにとります。そして、音にのせますが、カタカナのことばの数だけの音数をとらないようにしましょう。「アルディラ」から「プレッツィ」まで同じ音なので、音が動いても一つに捉えやすいはずです。

 リズムと音の感覚でもっていき、単語でまず、ことばを最後までもっていき、言い切ってください。

 

デレステーレ ティセイトゥ アルディラ ティセイトゥ」

(ラ♭ーシ♭ドーー シ♭ーラ♭ーシ♭ー ラ♭ーソーラ♭ソーファソー)

 

 「ディレテーレ」までのぼりつめていくから次の「ティセイトゥ」までおりてこれるのです。そして「アルディラ」とまきます。大きなフレーズの流れを感じてください。

 「デレステーレ」の「テ」に次の「レ」をのせていく感覚です。「ステーレ」の「テ」を動かし、そのなかに「ティセイトゥ」を入れてフレーズに巻き込みます。一気に大きくして一気に縮めます。

 「デレステーレ」は、その前の「アルディラ(ラ♭ーシ♭ー)の「ラ」で体をいれないと踏み込めません。そこで踏み込めないと、次から展開ができなくなります。

 フレーズをつくるということは、平面的にせず立体的にするということです。ねばり、よみこみが大切です。

 

「なんて あおい ひとみ じっと」

(シ♭ラ♭シ♭ ラ♭ソラ♭ ソファソ ミ♭ーファ)

 訳詞です。強弱のアクセントでのせていきます。音楽の基本的な要素を捉えた上に「のせていく」ことと「裏切っていく」ことがあり、同じことを繰り返すとき、どこまで繰り返すと観客がひきつけられるのか、飽きるかをいつも考えてください。「なんてー」を歌ってしまわないようにしましょう。ことばの要素で失われた分以上に、音の要素でプラスにするのがヴォーカリストの技術です。

 

「ペルメ ペルメ ソルタント ペルメ」(ミ♭ーファ ミ♭ーファ ドーミ♭ー レ♭ミ♭ミ♭)

 音のリズムの一拍目と三拍目にしるしをつけてみると、リズム感というのがわかりやすいと思います。その部分を中心に、フレーズを組み立ててみることができます。前のフレーズの勢いがあると、歌いやすいです。

 

 まず、最初ことばでいってみて、そのままのフレーズを音にしたときものせることです。音にのせると、ことばがブツブツと切れてしまいがちです。フレーズとして一つにイメージしてとっていきましょう。日本語は特に高低アクセントなので、メロディが加わると乱れがちですが、ことばの段階で徹底的によみこんでおけば、振り回されなくなります。

 

最初は、ことばをよんだ通りの長さで音程に合せてみましょう。ことばより長く伸ばしたり高くとったりしないことです。そのことができて、さらに表現しようとしたときに、より息と体を使うようにします。表現のトレーニングの段階では、音をつけたときにはことばより数倍踏み込んで、そのうちの3分の1くらいをひびきにもっていくと、他の要素が入り解放できます。自分で流れをつくり、動きのなかにのせて、自分も動かされていれば、歌が成り立ちます。

 

止めたら流す。入れたら解放する。この感覚をつかむことです。その動きを捉えるために、声や体が足りないのなら、その部分をトレーニングすることです。

 

 まず、ことばからよみこみ、ことばの意味をとり、構成し、自分のことばで出していきます。そして、表現として伝えることをやっていってください。すべてを伝えようとせずに、自分が絶対、伝えられるところを一ヶ所でもよいからつくってください。

 

 

 

 

「TAXI」

 

 

「タクシーにてをあげて」

 「てええ」とそのまま広げていくことです。「てーぇーぇー」と考えないでください。あとの方でヴォリュームをつけていく。きっかけが足らなければ、「ハイ」を前につけてもよいでしょう。歌になったときに一本調子だとか、メリハリがないとか、構成がなっていないとか言われるのは、ヴォリューム感が出せないからです。

ヴォリュームを体を使ってそのままおしてしまうと、当然のことながら長さの方にヴォリュームがいってしまうわけです。出しすぎたということは絶対にないのですから、歌も感覚的には相当、大きく出しておくことです。1・4・9ぐらいでイメージして、実際は1・2・3ぐらいしか出ていないものです。

 

「てーぇ」

 「あげて」の「て」のところで一つ広げる形です。体でおすだけ、息をより吐くだけです。上のひびきを使ってもよいし、体を使ってシャウトでも構わないです。流れないようにしてください。「て」と入るところでは、ずりあがりに近いのです。特に演歌とか日本の曲を聞いて育ったら、それがついてしまうのです。それはよほど気をつけて直さないと難しいでしょう。

 

 「てーぇ」となる前の「て」をきちんと出さないといけないです。インパクトというのは、一つは切り込み方です。一番よい声、うまく使えているときの声というのは、鋭くやわらかい感覚なのです。それを「てえを」となるのは鈍いわけです。やわらかいかもしれないけれど、鈍いわけです。いきなりとらないといけないわけです。その上でひびかせてもよいし、ひびかせなくても構わないのです。

 

「てをあ」

 「あ」でもう一度、入り込んでフレーズにしましょう。音をとる方を重視したい人は、「てをあ」から、これを一つのフレーズにしてください。歌に近づきたいなら、流れをキープした上で、ことばを切っていかないとだめです。

 

こういう練習のときには、のどを痛めているときや体力のないときは別ですが、ひいてしまわないことです。まっすぐに前に出していかないといけないのです。その鋭さに対して体がついていないと、口先だけになってしまいます。そうかといって、体だけでやっていたら、前に出なくなります。

 

両方の要素が必要です。捉えていかないといけないのと同時に、離さないといけない。一つの流れのなかできちんと「てをあげて」というのをとらないといけません。言えていないといけない。だから、最初はことばでいえることを、音楽的なことばで言えることにもっていく。

 

ことばで言えたものを音楽的にしていくことです。そこでは、あまり歌わない方がよいのです。歌っていたら仕方がないわけです。歌わないようにしたものを、歌として聞かせるためにどうすればよいのかというのを考えてください。歌うとカラオケみたいになるのは、体が泳いでいてフォームがないからです。のどをしめる方向にいってしまうのです。それは、最初は仕方ないわけです。

 

 「てをあ」と大きく言ってみてください。これは「げて」と同じ音です。ちょっとした差です。そこは音感とリズムだけあれば、その体の問題ではないわけです。「てをあ」と言えていたら「あげて」のところまで言えるはずなのです。それをもし、歌になったときに上で歌ってしまうとしたら、それはイメージの違いなのです。イメージを歌にのせる方にもっていっているからだめなのです。歌でのせるのです。歌で歌いあげすぎてしまうからだめなのです。

 

 歌がうまくないのに歌で人の心を絶対に捉える人、あるところでハッと思わせる人とかがいて、それが歌の不思議なところなのです。安定しないときれいにみえないし、かといって不安な要素も、もっていないとだめなのです。安定して堂々と歌っているのは、何回も聞いているとつまらなくなって、「まじめな人が一所懸命、歌っているな」となると決まりきっていておもしろくないのです。

 

スキーでいうと、バランスをくずしているような危うさも必要です。挑戦するとそうなります。ただ、それでバランスをくずして転んでしまったらだめなのです。「おっと」と思わせるようなところも必要ですから、常に冒険する。それを怖がるとだめです。くずしそうになったとき、本能的にバランスをとろうという感覚によって働くのが技術です。

 

だから、歌をやっているなかでは、どこかでふみ込まないと人に伝わらないところがあるわけです。自分が立っているところでやっているのは、トレーニングですが,その床板がけりとばしてふっと消えたときの感覚でしょう。

 

 今やって欲しいことは、音色を自分で見分けられるようにしていくことです。音の色、つまり耳の世界の色です。それから、自分の色を増やしていく。配色をどうやっていくか、それを頭で考えるのでなくて、なるだけ音色として聞いたものを自分の体の細胞に入れていって、それを移し変えて出していくことです。

 

 基本的なことが足らない人が学ぶためには、ベースの部分のものを聞いていればよいのですが、それが完璧にできたところで音楽は宿ってきません。一つのアプローチの方法です。音感もリズム感も全然ない人には聞くだけでなく、それを体になじませることが必要です。読譜以外に、よみ込む時間を相当とらないといけません。

 

レーニングは、体自体を変えることであれば、息を吐くことなど、みえないところに力をつけていくこと。一番わかりやすいのは、「ハイ ラオ ラララ」とやってみて、体に宿っているかどうかは、判断できるはずです。発声がわからないとか、声がわからないというのは、それはそこまで悩んでいるだけで、やっていないということです。やったら絶対、わかってきます。

 

できないところはできないので、やって待つしかないのです。体に宿ってくれば宿ってくるほど、高いところで間違ったりできなくなるわけです。体がついてきたら、高いところは出るようにしか出ないわけです。自分の体の条件であるところにおとしていくことです。それがなければ、また基本に戻していくしかない。

 

 自分の直観が頼りで、それを磨くことによってのみ、間違えをさけられます。人からとやかく言われるよりも、自分が体で出し、声がハスキーのようでも、これはこのままやっていたら使っていけるというようなところにねばれるか、ねばれないかです。

 

ほとんどの人は3年ぐらいで放棄してしまうわけです。ねばれないわけです。ねばる必要がないから、そうなるのです。だから、3年はやるべきです。2年いて、あと1年ぐらい頑張る人は多いのですが、本当に勝負になってくるのは5年やってからでしょう。

 

まず5年、やってごらんと私は言いたいわけです。5年やっている人は少ないものです。そうなると、いろんな意味で普通の人と違う体になります。だから、ここで2年でできた人というのは、どこかにここで3年やるようなことを、その前に10年ぐらいやっているわけです。

 

 ヴォーカリストの場合は、なかなか自分の力がわからないわけです。楽器みたいにキャリア何年といっても、日頃から声を出すようなところで育ってきたら、それはキャリアになっているわけです。ここでやっていることというのは、イタリア人みたいに日頃から大声でたくさんの量のことばを言いまくっているような人たちが、20歳までやったことを2年くらいで何とか取り戻せるところまでで、それでも全部は取り戻せないわけです。

 

美空ひばりが3歳のときからやってきたことを、もし2年でできたら、皆さんの方が天才なわけです。ただ、言えることは5年やったら、さすがに普通の人と同じ体ではないです。どんな世界でもそうです。ただ、正しくやっていくことです。ヴォーカリストというのは誰もみていないし、試合みたいに何かあるわけではない。誰でも歌えるわけです。その志を高くもつことが、しぜんに歌えるようになる秘訣だと思います。

 

 

 

 

「恋は水色」 

 

 

「こいはみずいろ そらとうみのいろ」

 

 ここがテーマであり、サビのところです。一番、気になるのが「こいは」のところのメロディです。まず「こ」の入り方です。「い」のところで開けないこと。体に入れておくこです。一番、気になるのが「こいは」のところのメロディです。

 

まず「こ」の入り方です。「い」のところで開けないこと。体に入れておくことです。同じ音質のところでキープしておく。そのために「こ」の深さが必要です。もし入りきれない人は、アフタービートでとっていけばよいと思います。処理しやすくなるでしょう。

 

本当は「は」のところにアクセントがくるのですが、日本語として乱れるので「は」は殺します。もしフレーズをつけるとしたら、「こーいーはー」というより、「こーいは」というフレーズです。「こーい」のところで入れておいては「は」のところでもう一つ踏み込む。踏み込んで殺す。「い」から「は」に移るときにも開かないことです。それをもう一度、配分し直すのです。

 

 「みずいろ」も同じです。「ずーい」のところが6度上がります。とんだときに「い」のところをはずさないことです。この「い」のところで勝負できないとだめです。

 

この大きなフレーズに対して、「そらと」の方は小さくおとしてもよいわけですが、それでも「そらとー」「うみのー」のところは、メリハリをつけていかないとだめです。

「そらと」の「と」がそれやすいです。音感的にも少し不安定になるし、それからフレーズの流れから切れてしまう人が多いです。そのあたりを気をつけてみてください。

 

 聞いていたらわかると思いますが、「みずいろ」の「い」のところにかなり入れています。そして次の「いろ」の「ろ」のところできちんとまとめる。「そら」の「そ」のところは音色を変えています。微妙な点で音感を変えています。

 

旋律をきちんとよみ込んでいったらできるはずです。コードを知っている人はコードで微妙に変えています。だから、そのずれ方とかずらし方がポイントです。リズムというのは何回も聞いていたら大体わかります。それから最後の「いろ」は、ことばにしています。ここのところまでフレーズをきちんとつくっています。

 

 このぐらいのフレーズをもたせようとしたら、数をよみ込まないと退屈になってしまいます。日本語でやるのは無理があるのですが、雰囲気だけ捉えて勉強してみれば、フレーズや声を勉強するのには、よい課題だと思います。

 

 何百回も聞いて、自分のなかでわかっていくまでやることです。旋律を聞いて楽譜を見ただけではわからないので、一つのヒントとして歌い手の歌い方があると思ってください。これは見本というより、こういうタッチがあるということです。聞いたときに、なるだけそこからよみこんでいく。

 

そして少しずつ、その歌い手の個性やくせを抜かしていく。この歌もくせがありますが、比較的少なく、スタンダードな体のある人のもっていき方です。大きくみせることでは、共通的なやり方をもっています。それをまず理解することです。自分で聞いていくこと。(このなかでも8割を理解している人、2割も理解していない人がいます。それが1フレーズやるだけで、はっきりして出ています。)

 

やりたいという方向性というのがあって、個人としての個性とかオリジナルの前の部分に、こういう旋律がきたときにどうこなすという基本は、やはりあるわけです。そのノウハウは、考えるよりは聞く方がよいです。伴奏も感想もプロの演奏は大きなヒントです。その音を自分でたどっていて、それに呼吸を合せてみたときにどうなるかです。

 

 それからもう一つ上になれば、たとえば「そらと」の「そら」はどういうふうにこなせばよいかという日本語の問題が入ってきます。フレーズと日本語の両方をやるのは難しいのですが、何回もやっていたら出てきます。そこまでやって欲しいのです。それは本場の感覚のものとは違ってきます。

 

このままベースのところにきちんとおいていっても、それで歌になると思います。歌はメロディがきちんととれていればそれらしくは聞こえます。ただ、体がもっていないと、それらしくの歌で終わってしまいます。

 

 歌詞自体には、説得性も何もないです。のんびりしたよい歌詞だということで、それっぽく歌ってみても、余程、能天気ではないともたないでしょう。だから、それを歌として仕上げるときに何を入れ込まないといけないのか。つまり、その人の音色を入れないといけないのです。

 

 本場のシャンソンあたりには、本当に不思議な声がたくさんあります。特に、女性で地声で歌っていきたいような人には参考になると思います。ゴスペル、ジャズ、シャンソンになると、音色が違います。ただ、体の使い方は同じで、へんにひびかない。コントロール不能のところにもっていかない。しっかりと言い切るということです。そのまま押していっている歌い方です。現代の感覚からいってまじめできつすぎるように聞こえますが、体をつける分にはこういう歌い方の時期があってもよいと思います。

 

これと同じ歌い方をしていたら、体は相当つきます。体の強さが違います。そのなかにどう展開していくか。そうしたら、そこまで引っ張っていて音色をどうみせていくか、どういうふうに盛り上げをみせていくかというのは、歌のなかに全部ノウハウが入っていますので、自分でみつけていってください。

 

 フレーズの練習に使うとよいのではないのでしょうか。こういう歌も、少しやっておけばよいでしょう。今の日本のなかでは、こういうパターンの曲は少ないです。ことばを入れ換えていくとよいと思います。

 

「こいはみずいろ」「そらのいろ」は、きちんと音を発音までできないととても難しいですから。「ハイ ラオ ラララ」と、それで1年ぐらい歌っていたら、かなりポジションが安定してくると思います。そうでなければ、ここに振り付けをつくって、手でお陽様を書いてみて、ルックスでもたせる方向でいくかのどちらかです。自信のある方向で人様にみせられたらよいですから。

 

 

 

 

 

「恋人たち」

 

 

「あなたは いつでも えがおで こたえる 

こいに おびえる わたしの このむねに」

 

(ラソファ♯ファ♯ ラソ♯ファ♯ファ♯ ソ♯ファ♯ミミ ソ♯ファ♯ミミ ファ♯ミレ レファ♯ミレ ミレド♯ド♯ ド♯ミレシ♯ド♯)

 

等拍になっているので、つめたり伸ばしたり自分でフレーズを動かすトレーニングになります。間隔をいろいろ変えてみるとともに、音をたてによみ込むことも考えてみましょう。

このフレーズを等拍でいくと、聞く人に先を読まれてしまいますので、おもしろくありません。表現を入れて働きかけてください。

 

 「私のこの胸に」は、離す部分で自由にできるところです。

こういうところでヴォーカリストのセンスや感覚が問われます。

 

 「あなたは」も一つにつかんでおかないと、等拍が強調されてしまいます。

「あ<なた」とフレーズをつける前に、ことばで「あなた」といえるところをもっておきましょう。

 

「あなたの あかるい わらいは ふたりの こころに あいの うたを」(ラソ♯ソ♯ファ♯ ラソ♯ソ♯ファ♯ ソ♯ファ♯ファ♯ミ ソ♯ファ♯ファ♯ミ ファ♯ミミレ レーミー)

 前半の部分をつめて、後半をひきのばし、全体のリズムのテンポを合せています。弾き語り、ピアノ一本で歌うトレーニングとして、このレベルのことをやっておくとよいです。

 

 「あいのうたを」で次のテーマに入りたいから、「笑いは」と「ふたりの」をつなげています。「うたを」の「を」は、息を流しています。息を流すためには、それだけはやく一瞬のうちに息を吸わなければなりません。それは、体の条件です。声を離してもよいですが、息は離さないことです。息を離してしまうと、聞く人の心も離れてしまいます。しかし、全部の息を声にすると、今度はだらだらして間伸びしてしまいます。動かす力-センスが必要です。

 

 「ふたりの」の「ふ」、「こころ」の「こ」、「うた」の「う」は、ことばとして離してよいですが、あまりことばをつくらないことです。つくってしまうと、流れからどんどんはずれて浮いてしまいます。ポジションで捉えた上で、音を動かしていくことです。

 音程に左右されないようにしますが、押さえる音というのはあります。その音を押さえた上で、自由にセンスよく一致させれば歌に聞こえます。

 自分の呼吸で歌うことです。センス、感覚、音を展開しようとする意識が必要です。何千回、何万回とよみ込めば、自分の感覚もつかめますし、自分にも余裕が出てくるはずです。

 

 

 

 

「夜は恋人」

 

 

「わたしの こころに しのびよる」

(ラーシラ ドシラシ ミファミレドシラ)

 このような課題が役者レベルの課題です。音をつけようとせず、ことばで捉えることです。

 

「よるは すてき いとしきを いついつの ひまでも」

(ファミレ ドシ♭ラ ファミレドシ♭ラ ラレミファソ ファド♯ミレ)

 

 1フレーズが4つに分かれてしまわないように、一つに捉えましょう。三連を感じます。

 大きな流れを捉えることです。「すてき」の「き」、「ときを」の「を」でフレーズが動き出します。あとは、その人のセンスです。

 細かく切れないようにするのが前提です。日本語でていねいに歌えば歌うほど、大きな流れが切れてしまいます。また逆に、大きな流れだけにしてしまうと、日本語の意味が伝わらないと矛盾が生じます。このバランスを保つことが大切です。自分ならどう表現するのかをもとに、練り込んでください。

 

 今は息を流そうとしてください。声の線をつかんでいれば、音やリズムが多少はずれても聞くことができるし、呼吸があれば展開していくことができます。歌の場合、伴奏がつくことでリズム、音が限定されてしまっている人が多いのです。

 

自分でフレーズを動かせる力がないと伴奏に振り回されて終わってしまいます。ですから、最初、アカペラでやっているのです。伴奏からはみ出る声、表現をもっていないと音楽のなかに埋もれてしまいます。この研究所では、トレーニングの期間として埋もれず、目一杯、はみ出ていくよう努めてください。

 

 ベースからことば、音、リズム、情感など人によって何を入れていくのか、それともすべて入れるのか違ってくると思います。ある一定のレベルは保たないといけませんが、あとはその人のバランスです。バランスをとって表現するには、器自体を大きくするしかないのです。自分ならどうするのか、考えてみてください。

 

 完全に耳でとってそれを体に入れて、自分なりの節まわしでオーソドックスなところも踏まえてやりましょう。英語のくずしかたのように読んで勉強ィでとってそれを体に入れて、自分なりの節まわしでオーソドックスなところも踏まえてやりましょう。英語のくずしかたのように読んで勉強をしているだけではできないところの部分です。 

 

 結構、発音は正確ですが、正確なゆえに英語に聞こえなくなってきます。歌の英語であっても、英語の歌に聞こえなくなってくるわけです。音をズラしたり浮かしたり動かす方が歌には大切です。線で捉えていかなければいけないわけです。その感覚がなくなっている気がします。

 

今の日本のポップスを聞いていますから、外国のリズムとか、洋楽のダンスとかに影響されているのに、そのヴォーカルを聞くとヴォーカルは入れていないことがわかっていないわけです。バンドが出せない分、バンド同様にヴォーカルは、リズムも音感も担当していなくてはなりません。

 

だから成り立つものですが、そのぶん楽をしているからだめなのです。体の原理から考えたら、やはり、一つで捉えていった方が同じ呼吸の中で置いていくわけです。課題は、それぞれわかりやすいところを取り出してやっています。

 

 

 

 

 

 

「二人でお酒を」

 

梓みちよさんは、「こんにちは赤ちゃん」のヒットで桂三枝とかと新婚さんいらっしゃいもやっていた人ですけれど、相当な歌唱力を持っています。そこだけ覚えてもらったらよいです。うまくいくと次のフレーズまでいきます。

 

「それでもたまに」

 いつも言っていることですが、この線を見るように出してひっぱっていくことです。「それでもたまに」これだけで歌にはなります。線に勢いがなく、たどれるようだとカラオケで歌っているオバさんと同じになってしまいます。これがなぜカラオケに聞こえないかというと、この線があるからです。

 

「それでも」ここで体を使えているわけです。これは自分で使いやすいところで使ってよいわけです。この歌は「それでも」とこれにまき込んでいますが、「それでも」の「それ」に、ここで入れるとか、「でも」で入れるとか、結局そこまで入っていけばしぜんにこうなるわけです。それを日本語として使えるために、完全に離しきっていないのです。

 

 それから、プロがプロでないか、基本ができているかできていないかの見分け方は「たまに」の「に」です。「に」のところで入るか入らないか、ここで離れてしまいます。今の歌い手の多くは、そうでしょう。

 

「さみしく」の「し」とか「い」です。イ段というのは一番ひびきやすく取りやすい声です。ノドが開いてきたら閉口音ですから中でひびくくわけです。たてに通って一番高い音とかが出せます。だから、そういうところにいやがおうでもアクセントがつきます。そういう音が揺れてきます。ビブラートがかけやすいしひびきやすいのです。

 

次のところまで聞いてみましょう。

「それでもたまに」だけでも、「さみしくなったら」だけでも、「なったら」だけでもよいです。

 

 いつも歌ってはいけないと言っているのは、言いかえると横に平たく広がる線が見えてはいけないということです。

 

 「それでも」(平面的)と歌ったら聞いている側の方は「たまに」とやるんだろうと思ってしまうわけです。そうすると当然、聞こえてくるのは遅いから退屈してしまうわけです。「それでも」(平面的)とやったら「たまにさみしくなったら」といくだろうと、みえてしまうのです。カラオケの歌い方がまさにそうです。

 

こういう表現というのは、それを聞かせられないです。いつも横の線より、縦の線と言っています。横の距離「そ」からですね。この距離が50cmだとすると、縦の線は1mくらいあるようなものが通っているわけです。

 

「さみしくなったら」を一つの呼吸でブレスが入っても構わないです。捉えないといけないです。だから、とても単純に言うのであれば、ここまでのところは2回くらい思いきりパンチをかましてやっていればそれでよいわけです。思い切り「それでも」で一回、「さみしく」で二回です。これだけの勝負なのです。

 

ここの所で、あまり細かいことをやっていると、見ている方が退屈してしまうわけです。ただそれが体と一体になるというのは難しいです。まず、イメージのことがあります。そして、それに伴う技術がなければダメです。

 

だからまずことばのなかでやってみたり、音のなかでやってみるということです。ことばでやるよりも音楽的にやった方が案外はやくにパッとできてしまう人もいます。ただイメージができていないと難しいです。

 

「さみしく」の「し」あたりのところをどのくらいふくらますかということです。そこに体が伴って息がともなわないと難しいです。ことばでやってみましょうか。

 

 「それでも」と言って「それでも」あるいは「それでも」とふくらましてみたりする。それでもぜんぜん違いますね。ちゃんと歌っているわけです。そこまではことばであるわけです。

 

そしてサビのところというのは、それが立体的に前に出てくるわけです。そこまでが線だとすると、今度は立体になってくる、あるいはそこで展開する、それがないと歌の場合メリハリとならないし、一本調子になってしまいます。

 

「なれているのよ」

 「それでも」とこのまま歌ってしまうとその線から飛躍できないわけです。そうすると、飛躍するしかけを作らなければいけなくて、地面をけとばす場合もあれば、上にのっかってから降りてくる場合もある。違う感覚を持たないといけないわけです。

 

歌の心地よさというのは崖から落ちていく気分なわけです。その気持ちよさは、銭湯でぬるま湯につかっているようなものではないのです。それを瞬間、自分にもってこれるかもってこれないかどうかということです。そのために筋肉とか神経とかを鍛えていくわけです。耳もです。

 

だからハズレてもハズレなくてもよいのです。ことばでその後に歌で「それでも」と、どこをのばしてもよいです。やってみましょう。「そ」が、難しいです。違うことばにしてもよいです。「あれでも」「これでも」とか。

 

 ことばでも「それでも」と小さな声でいうと、4つにバラバラになってしまいますが「それでも」とかでいうと、一つにどこかになるはずです。フレーズがつかめていて、そのときに声が出ていてもいなくても、息で「それでも」となっても構わないわけです。こうなっても、それが一つになっていればよいわけで「それでも」では、伝わらなくなってしまいます。

 

表現になったときには、当然、音程もついて、リズムもつくわけですから、もっと、大きく体が使えなければいけないのです。まず、そこの部分からです。「それでも」と言って「それでも」と、そうしないとその音程が入らなくなってきます。それから、こういう歌い方は、皆、海外の影響を受けていて、日本語の感覚でそのままやってこんなに大きく歌おうとは思わないわけです。この当時の人は、皆、向こうのものを聞いていますから、そこから入っているわけです。

 

 

 

 

「ろくでなし」

 

「古いこの酒場で たくさん」

まで覚えてください。

 

アダモの曲もいろいろ、たくさんの人が歌っていますが、あまり聞かせられるものはないです。

シャンソンの歌い手はどうしても、日本人の考えるフランスふうにきれいにもっていきます。もっとドロくさいものですが、きれいきれいになっています。美輪さんの「よいとまけ」とか「メケメケ」とかは、勉強になるかもしれません。しかし彼の場合、裏声を女性的に使いますから、難しいかもしれません。

 

 頭のところ、「古いこの酒場で」ここが踏み込みです。「たくさん」が、浮いてくるところです。「たくさん飲んだから」ここまでが一つのフレーズ「古い/この/酒場で」これは正しいのですが、ここを強く歌ってはダメです。日本人の歌い手だと、だいたいそうなります。「古い/この/酒場で」という形になります。やるのはよいですけど、インパクトと動きが全部、消えてしまいます。「古いこの酒場で」ここまで入るから「酒場で」「たくさん飲んだから」と、もう歌わなくてすむのです。

 

 強弱から捉えてください。日本語で「この」に入れるのは難しいかもしれないから、もっと後でもよいです。どこかに入れればよいわけです。「酒場で」全部、入れようとしたら大変ですけれど。それから最初のところから「古い」、こちらの方にいかないようにすることです。「古いこの酒場で」それが伝わるように、そこで音を助けにして、そこまでよみ込んだら「たくさん飲んだから」とこうはならないです。

 

後はおいていけばよいわけです。声自体は。だから、そこで歌っているようになると「古いこの酒場でたくさん飲んだから」と全部つながってしまいます。そうすると、音楽にならなくなってしまいます。メリハリがなく、一本調子になってしまいます。よみ込んでみてください。

 

とりあえず、やってみましょう。

 そこで体を使う、声を使うという前にイメージのところでどのくらい捉えておくかというところです。「古いこの酒場で」そして、これによって違うわけです。ここの呼吸というのは、皆、違うわけです。「古いこの酒場でた…」と入る人もいれば、「たくさん飲んだ…」「たくさん/飲んだ…」と入る人もいる。だから、それが歌のなかで呼吸と一致して呼吸が聞こえている以上、ハズれないわけです。

 

 ただ、リズム感、テンポ感はとっていないとダメです。基本的には歌の呼吸があってよいし、その呼吸からズレてしまうと絶対にリズムも音感を出てきません。だから、その音感を出したり、リズム感を出したりというのは、リズムも音感も自由にズレなければいけないのです。自由にズラすために、その通り道として、ブレスという線をつくっておかなければいけないわけです。

 

「古い」も同じです。「古いこの酒場で」といって、このようにするのが歌だと思ってしまうのと「ふるい」というのでは、また違います。基本的に声の線上だったら、よいわけです。

先ほどの「ふたり」の後です。「お酒を」の後が「さみしくなったら二人で」がそうです。「二人で!」とは言っていないわけです。そこのなかでリズムで自分でズラしていくわけです。それはやりたくなったようにやればよいわけです。

 

「古い」のところは、声の線を先にとらないといけないから「ふ」でも「る」でも「い」でも、とれないから「ふるい」というのをおいて「ふるい」とは入れないです。かなり鋭く入ってはいますが。

もう一度、やってみましょう。いろいろなフレーズが出てきているみたいです。ただ、それを聞いている人は、その人の呼吸が聞こえるかどうかを聞いてみて、呼吸と合っていたら歌らしく聞こえるはずです。ただ集中力をもっていないとダメです。

 

 いろいろなフレーズがあってよいと思いますが、日本語で歌うとしたら「ふるいこの酒場」ここまでの踏み込みです。「ばで」ここで踏み込むと助詞に強アクセントをつけてしまいます。向こうのことばであれば最後にアクセントでよいですが、日本の場合はだいたい「ば」ではやめないとダメです。

 

「酒場で」もう「ば」ははね返りのところです。そこでインパクトを与えることによって、次に語り続ける権利が与えられるくらいに考えてもらえばよいと思います。

「古いこの酒場で」ここまで歌って「たくさん飲んだから」ここでは言えるわけです。ことばとしての表現を。人によく小さな声とか感情を込めて聞かせているようなヴォーカリストがいますが、まともな歌い手はその前後に大きなフレーズをつくっています。

 

そうでないとお客さんがそればかりではつまらないから許さないはずです。日本のお客さんは、ちょっとずつしゃべっても許しますが、感覚的に、それがつながらないのは、歌ではないのです。うまい人の歌を全部、聞けばわかりますが、「たくさん飲んだから」デクレッシェンドで抜くような終わり方はしていません。デクレッシェンドの後にクレッシェンドをまた入れます。客がポジティヴであれば、そうでないともたないわけです。

 

だから、構成を考えるときに、踏み込むだけ踏み込まないといけない。踏み込んだときに一つの空間ができます。私の感覚だとバンとやったとき、ここにワンクッション、ここで遊べるということです。だから、ここでひびきを使ってみたり、音を止めてみたり「たくさん」といわないで「たくさんのんだから…」と違うことをやってみたり、方向を変えてみたりします。

 

ただ、それが口先になったり技巧になってくると、おかしく聞こえてしまうし、つくったものになってしまいますから、最初につくったこの線上にもっていくことです。これが、左や右によったりすると、今度は聞いている人の方が不快に感じてしまいます。

 

だから、一つの大きな流れというのがあります。その大きな流れをどのくらいの落差でつくれるかというのが、ヴォーカリストのイメージの力とともに技術の力です。ただ、皆の場合、技術の力は後で伴っていくので、まずはイメージの力の方で聞き込んでいかないとダメだと思います。

 

 たとえば、ことばの「ふるい」の「ふ」がいえないとか、「る」が言えないということであれば、一度、捨てて、「あおい」とか「ラララララララ」とか、何でもよいわけです。とにかくその線のところに先にメリハリを出して表現を出すことを優先します。そのなかにことばが後で入ってきます。それに対しては日本語は、あまり歌に向いていないから、カンツォーネとかシャンソンとか、あちらのことばから入ったものの方が聞きやすく、体が使いやすくなります。

 

たぶん「いい日旅立ち」を日本語で歌うときれいに歌って、山口百恵さんのような形になります。あれはあれでとてもまとまって、歌唱力のある時期のものなのでよいですが、ただミルバのものでやってみて、トレーニングに使う。トレーニング用ですね。本当に。

 

だから、それを日本のお客さんにぶつけると、何なんだあれは、思いきり歌って荒っぽいな、というような評価しかきません。雑はよくないのですが、粗いのはパワーがあるためで、可能性です。

だいたい、できていく人というのは、最初、粗野でメチャメチャで、ひどかった場合が多いです。

 

そういうことでいうと、その期間は長くとった方がよいです。後でまとめることはできますが、先にまとめたら後で伸びません。だから、皆に今やって欲しいことは、こういう音の感覚自体を日本人でいままで楽譜で考えてきたこととか、歌だと思っていたことを全部、打ち破って、格闘技みたいに捉えてもらえばよいと思います。

 

やすし・きよしの漫才は、元気が出ます。そういうものをみるとよいでしょう。あの人は、漫才は喧嘩だと言っていた人です。天才といわれた芸人さんもどんどん死んでいきますので、少しでもみておきましょう。

 

 ミルバのものばかり勧めるわけではないですが、ただ各国で一人ヴォーカリストで王様とか女王様はいて、皆がもう10年、20年たったら、世界中にほとんどいなくなると思います。

中国とか、インドから出てくるかもしれないですが。だいたい文明の発達の貧しい時期から、立ち上がる時期に、そういうヒーローは出てきます。そういうことでいうと、歴史を創った人たちは、日本では、美空ひばりさん、でも、もういません。私は実際にビルラを見ましたが、亡くなってしまいました。村上進さんもです。

 

漫才と一緒にするわけではないですが、ただ舞台芸ということであれば、何かを天才といわれるレベルでやったという人たちを、見てもらえればよいと思います。そのテンションの高さを見習って欲しい気がします。それがないと次に、お呼びがかかりません。

 

こういう世界は技術よりも、パワー、技術というのは、ある程度、若さという年齢はカバーできますから、後、5年経ったら見てくれといえます。ただテンションないと思われたら、うまくなったと思われても、誰も呼びに来ません。そういうところはやはり気をつけて、人前に出た方がよいと思います。

 

 

 

「愛は限りなく」 

 

 

 村上進さんの「愛は限りなく」。真似しないで欲しいところもありますが、半年前にできなかったことができるかもしれませんし、技術の方も大きくよみ込めると思います。

 

「くもが ながれる もありますが、半年前にできなかったことができるかもしれませんし、技術の方も大きくよみ込めると思います。

 

「くもが ながれる そらを」

(ソーー ソーファソ ラ♭ーー)

 「く・も・が」と一語一語分離してしまわないようにしてください。そして、高低イメージをはずして、強弱イメージにおきかえてみます。強弱に捉えることにより、フレーズが動いてきますし、一つに捉えることができます。

 「くもが」の「く」が難しいです。「く」で押さえられないと、「が」で離せません。「く」で入れることです。

 一番よくないのは、どこにも踏み込まないことです。一つに捉えて出す。しかし、一つに捉えたまま、最後まではもちません。そのためにも、どこかでフレーズをつけるのです。

 

「あなたの むねの」

(ラ♭ーーー シ♭ラ♭ソ)

 「むねの」の「む」は真似しないようにしてください。自分のなかで捉えて、共通してよみ込まなければいけないところは勉強するというスタンスでやっていってください。見本は、「あなたの」で開いて「むねの」で閉じています。日本語のところで「むねの」と言おうとしているのです。

 

「しろい ハンカチのように」

(ソーー ソーーファソラ♭ーー)

 この部分も、のせているだけです。ここも、見本を参考にしないでください。しかし、この次の「そのしろさが」で踏み込んでいるから、ここがのせているだけでもよいのです。ですから、踏み込まないと浮かせる権利が与えられないと考えればよいです。逆に浮かせたら、どこかで踏み込まなければ、聞き手は飽きてしまうということです。

 

「そのしろさが むねにしみる」

(ラ♭ーーーーー ラ♭シ♭ラ♭シ♭ソー)

 「そのしろさが」で踏み込みます。そして、「むねにしみる」できちんとしめています。インパクトからフレーズをおこして、「しみる」は少し音楽的に処理しています。次に入るための伏線(あとの展開に備えて前もっておいておくもの)です。

 

「そのしろさが」と体でいったとき、「むねに」とはねかえります。つまり、深く入れれば入れるほど、間がとれるということです。深く入れないと、次をすぐ歌わなければ間のびした、ただの空間になるので、表現が宿りません。この間の開け方やリズムは、計算しないことです。深く入れればよいだけです。

 

 「しろさ」の「し」、「しみる」の「し」が浅くなるので注意しましょう。前のことばと一緒に「のし」、「にし」と何度もつながりをチェックするトレーニングをしましょう。

 「そのしろさが」とことばでいったら、そこまでは動かさないようにしましょう。

 「そのしろさが」の「が」が、「が<」と広がってしまわないようにしてください。<>と、すぐディミヌエンドをかけるか、とにかく間伸びさせないことです。次にポジションをとるために浅くしないことも大切です。

 

 「むねに」は、縦の線で伸ばすのはよいですが、横に広がってしまわないよう注意しましょう。

 メリハリをつけるためにも、自分で配分を考えてください。たとえば、「むねに」に10のうち9使って「しみる」は1にするなど、何か変化をつけてください。

 

「このしあわせを」

(ソーーードシ♭シ♭)

 「この」の「の」のあと、「し」が浅くならないように、「の」のあとのポジションをキープしましょう。「のし」とトレーニングして確認してください。

 この部分は、発声とは少し違うところです。「この」は、そのままことばでとってよいです。「しあわせ」は、単純に息が流れているところにのせていく感じです。あまり、押しつけないようにします。

 

「むね いっぱいに」

(ソー ドーーーー)

 「むね」の「ね」のひびきのなかに「いっぱいに」といってしまう感じです。つくらず、深いところでとります。

 

「あいは かなしみ」

(レーー レーファミ♭)

 「あい」の動かし方を表現してください。皆さんの「あい」は愛と聞こえません。一語を何千回もやって、いろいろな音(音色)を研究してください。そうすると、他の曲でも使うことができます。何色かもっていると、色が出せるので表情がつきます。ことばや読みのなかで感じたところで出していくことです。

 音色のイメージでとり、どこでふくらませ、どこで閉じるのか考えて表現を出してみてください。

 

「つばめのように じゆうにそらへ それがあいなの」

(ミ♭ーーラ♭ーソラ♭ ラ♭シ♭ドレレミ♭レ ソラ♯シ♯ドレミ♭ー

 

 見本が10の力があってそのうち6で歌えているとしたら、皆さんは3あって6出すことを試みてください。どれだけ息が吐けて、体が使えるかということです。

 

このフレーズを、皆さんはノンブレスでいかずに、3フレーズくらいに分けて、それぞれを10ずつ出せるようトレーニングするとよいでしょう。そうすると、体が足りないことがわかります。歌い手の技術をみせるとしたら、コントロールするというより、普通の人が3しか吐けないところを6吐ければインパクトとしては大きいです。

 

 「それがあいなの」は、言い切ることです。その部分を言い切りたいために、その理由として「そらへ」のところでつないでおきましょう。ここがどのくらい大きくつくれるかで、サビの盛り上がりが変わってきます。

 

1フレーズ、1フレーズ前のフレーズで、次へいくためのひな形(基本型)をつくっています。それを、徐々にフレーズごとに拡大していくトレーニングをしていくとよいでしょう。そうすることによって、声も使いやすくなるし、発声のこと、コントロールのことを歌のなかで試すことができます。

 

 「つばめ」はことば的には難しいですが、「のように」で線が出るようにすればやりやすいと思います。

 「そらへ」は、踏み込んで踏ん張るところです。

 この部分は、配分を考えるというよりも、すべてに10の力を出していってください。

 

ここができれば、ここだけ聞かせて1曲もたせることができます。普通の曲はそうです。

一番、難しいのは、自分の感情のピーク、歌の旋律のテンション、フレーズの感覚が一致することです。そうなるためには、自分の練習で1000回、2000回と繰り返してつかむことが大切です。

 

 

 一つひとつの音のなかに、きちんと体を入れていくようにしてください。皆さんは、まだ体に余裕を残してしまっているようにみえます。体に入れたら、入れた分だけきちんと跳ね返ってきます。そうすると、次の動きが出てきます。それが、自分の呼吸になってくるのです。その呼吸の大きさ、使い方が人それぞれ違い、同じにはならないのです。

 

 外国語は、わりとアクセントが2拍目、3拍目にきますので、メロディにことばをのせたとき、1拍目がずれて弱起になることが多いので踏み込みやすいのですが、日本語は、発音しないと意味が通じづらいため、はっきり発音すると第一音節を頭打ちしてしまいます(「くも」の「く」、「ながれる」の「な」など)。なるべくそうならないために、2番目、3番目にヴォリューム感をつける練習をしてみてください。しかし、助詞にはヴォリューム感やアクセントをつけない方がよいです。

 

 1000回、2000回とトレーニングしていくと、フレーズの大きな流れがわかってくるはずです。ことばの世界というのは、ことばをきちんといっていけばよいですし、そういう歌い方もあります。しかし、外国人のヴォーカリストなどは、音声イメージが豊富で、音のつながりを意識しているので、むしろ音のつながりのなかにことばを入れていっています。ことばそのものが音のつながりをもっているので、ギクシャクしません。これは、息の流れというよりフレーズのなかでつかんでいっているということです。

 

 歌の世界につくりあげていこうというのであれば、今の皆さんの体力、フレーズのなかで配分してまとめていかなくてはなりませんが、今やって欲しい練習としては、まとめることではなく、一ヶ所でよいから大きさの感覚を感じて欲しいということです。

 

自分の器にない大きさのイメージは感じて、今できなくてもそれに近づくべくトレーニングするということです。自分は3秒しか吐けないけれど、ここで6秒吐けたら作品になる、または密度のある6秒にするということです。ただ意味もなく長く伸ばすことはできるでしょう。

 

ひびきに逃げることもできます。しかし、難しいのは自分の出している声で聞き手に音楽として感じさせることです。そうなるには、世界の頂点に立っているヴォーカリストを聞いて、音のつながりをすべて徹底して自分の感覚に入れていくしかありません。

 

 日本人にとって難しいのが中間音、低音のヴォリューム感をつけることです。そういうトレーニングをするにも、今日の見本はトレーニングになると思います。イメージ、歌の構成、音楽の総合的理解力が問われる曲です。音域にそれほど幅があるわけではないので、声がなくてもある程度はカバーできます。

 

しかし、徹底した作品にするには、声がないとできませんし、技術も必要です。見本の村上進さんは、いくつかポイントをはずしていますが、それをくつがえすだけの技術を打ち出しているから作品としてみれるのです。

 

 外国人は、あまり年齢とともに衰えません。プロになればなるほど絶対、押さえなければいけないところはきちんと押さえ、それ以外は浮かしたり抜いたりしています。

これは、ある時期、ことばを練り込んだり、歌の感覚をつかみフレーズの大きさを捉えた人ができることです。フレーズの大きさ、インパクトをつかむことができる人は、調子の悪いとき、あるいは年をとったり体力的に苦しくなったときに、押さえるポイントを全盛期のときより強めに出します。

 

その部分があれば、歌がもつからです。一流の貫禄は、そういうところからくるのだと思います。歌がうまい、ヘタということはどういうことかと問うたとき、決して声が出ることではありません。

ただ、最初に最大限のことをやっておかないと、わかることがわからないのです。だから、トレーニングのときは器を大きくしたり、声が出るようにしておくことが大切なのです。

 

 

 

 

 

 

 

「恋する瞳」

 

 

「なにも いわないで」                                                                                                                

日本語でやると「な」「に」「も」とバラバラになるので、「なにも」をなるだけ感覚的に処理する。日本語がうまくついています。リズム、音の長さ、音の感覚をよく考えています。問題は、そこで表現ができているか、できていないかということなのです。

 

ほとんどの人がイタリア語でいっていても、日本語でいっていても点なのです。線が出てこないことがまず一つ。一番悪いのはひいてしまう場合です。大体、人様に何かを伝えるのにひいて伝えるというのはないわけです。思い切り出した後に、その反動でひくというのはあります。

 

出したくないならやらないことです。出だしですから、そんなに強く出すわけではないのですが、そのなかに声を完全につかんでいないといけないということ。

「なにも いわないで」と基本的にはそれを一つに捉えないとだめです。

曲を聞いて、その感覚の相違を埋めていくことです。

 

「なにも いわないで そっと みつめて」

 ことばで言ってみてください。フレーズのつくりやすいことばです。ここでどうフレーズができるかをそれぞれみていてください。表現できている人、あるいは聞こえたなと思った人は、何かを動かしているはずです。そうでない人の場合は、聞こえないです。どちらになるかです。

 

ことばでやる場合は、「そっと」のおき方でだいぶ、変わってきます。これは音がついていて、頭が出せない音なのです。イタリア語の方がわかりやすいので、踏み込むところが「ノロソ」の「ソ」のところです。踏み込むのと同時にとまらないといけないということです。

 

「ケコゼラモ」の「ゼ」、「マケセ」の「ケ」。日本語でいうと「なにも」の「も」のところです。「いわないで」の「ない」、「そっと」の「と」です。だから頭のところは全部、アップビートになるわけです。ここが一番、難しいわけです。

 

「なにも」こう考えた方がわかりやすいです。そうすると、3拍目に「も」や「ない」がくる。日本人にはその感覚がないですから、「そっとー」とやってしまい、全部がバラバラになってくるわけです。

 

結局、ダウンビートとアフタービートが大切なのというのは、基本的に次のフレーズに全部つながっているからです。流れが出てくるわけです。逆だとだめです。つくらないといけなくなり、大変な作業になってしまうわけです。だから、それは根本的な感覚ですが、伊東ゆかりさんは、そのあたりの感覚をもっています。

 

 体の動きと呼吸の動きと、実際に声の出ているところというのは、必ずしも一致するわけではないわけです。体が踏み込んでいるから声を出しているわけでもないし、呼吸を出しているからといって全部が声になっているわけではないです。声楽とは違います。

 

呼吸というのは流れになっていて、声を出していたら「アップビート」という感じで、声が動き「アップダウンしていく」と、またそう動くのです。「こうだして、ここで終わる」というような出し方で動かそうとしても、絶対、音楽的になっていかないわけです。感覚的な問題です。

 

それに対してメロディがついて、音のリズムがついて、日本語的にうまくできているというのは、「んーなにも」のところで一つになりやすいです。「ないで」「ん」「い」は踏み込みやすいのです。一番よくないのは、流れてしまっているものです。

 

「なにもー」「いわないでー」それで表現になるのですが、結局どこもとめて動かしていないから、インパクトがないわけです。そうかといって「なーいで」とやるとやりすぎですが、そこで体をつくった方がよいという人はつくっていってもよいと思います。正解というのはないのですが、呼吸と一致することとともに、そのなかに一つ動かすところと止める点をきちんとやっておくことです。

 

もしわからなければ、ことばを言ってみればよいのです。いろんなことばをやってみて、どの体の使われ方が一番相手に伝わるのかを考えてみればよいわけです。その部分から音になったときに失われる要素をとってくればよいわけです。

 

そうすると、歌う意味があるわけです。そうでなければ、ことばで言っていた方が伝わるわけです。そこはとても微妙な点です。特に日本語は、よほど力がないとメロディか詞かと選ばさせられますので。しかし、この曲は一致しやすいです。

 

「なにも いわないで そっと みつめてて」

 聞く人は聞いてみればよいわけです。「そっとー」となっている人もいれば、「そっと」と止めている人もいます。音楽ですから伸ばしたらだめだということではないのですが、止めた方が効果がある人もいるし、伸ばした方が効果がある人もいます。

 

そこには、その人にとっての正解があるわけです。ただ、そのことに対して「この人はこうやった方がよかったのに」というのは、はたからみるとわかるもので、自分でやっていることが一番わからないからやっかいなのです。

 

 今日の課題のメロディの音程やフレージングは、ことばで言うのならそのままでよいわけです。音声ではなく、コントロールしてことばの方で伝えている。それに対して伴奏がついていたら、それをどこかで頭で入れておいて線を出していく。それをどこかで感じながらことばをあてはめていくということです。

 

この音声イメージは、人によってものすごく違いますから、正解というのはないのですが、いろんなものを総合判断してみて、感覚で決めていくのです。私がやったことばの音声イメージというのは、あくまでベースの形です。ことばと同じところです。それを違う感じに加工しようとして、ことばの要素を30失って、50ぐらい音声イメージがフォローすればよいという練習だと思ってください。

 

本当は、もっと音声フォローしてもらった方がよいのですが、結構難しいです。大体ほとんどの人が「いわな」ぐらいのところで集中力が落ちている。次の「そっと」でもう一つ盛り上げないといけない。声は大きく出す必要はないのですが、もっと凝縮させてやらないといけない、それをだらっとしているから、「みつめてて」の「て」のところで決まらなくなってしまうのです。そこでは離れているわけです。

 

 

 忘れて欲しくないのは、今のでも6、7割の人は、そこの「なにも いわないで」である程度、表現も出ているし、「なにも」あたりに関しては、かなり完成された表現でできているわけです。「そっと みつめてて」は確かにくずれてだめなのですが、本来であれば、ここのことができていたら、それでステージ実習で出して私も心から満足することが、はしばしには出ているのです。

 

出ているけれど、それが定着できないまま、終わってしまう。それは、やはり本人のなかでわかってないわけです。今の「なにも」なら実際にステージ実習に出てきてそこでも伝わるわけです。ところが実際、この歌あるいはこれに近いような歌で、出てきたときに最初の出方のところから、もう狂うのです。そこのところを気をつけて欲しいのです。

 

できていないことではなくて、やはりそこがわかっていないと固定できない。固定するのは難しいのです。発声でも調子のよいときは調子よいわけですが、ただ練習というのは何かというと調子が悪いときに調子がよいところにすぐもってくるということと、調子よいところでやらないとだめなのです。

 

こういうのも表現できたと少しでも感じたとしたら、それをとりだしていって、それが3分間、高密度にキープできるような練習をやらないと、歌の練習にならないわけです。こういう課題を1フレーズやらせたら、それなりの表現は出ているわけです。

 

ところが1曲になると、そのヴォリュームがもたない、全体の構成ができないということよりも、その1フレーズをどこにも出せなくなるわけです。みんなの段階でいうと、「ハイ」と声が出るけれど、曲に入ってしまうとその声が全く違う声になってしまう。どちらが本当なのかというのは、自分たちでもわかっているわけです。

 

わかっているけれど、それに固執してとりだそうという努力をしないから流れてしまうわけです。練習というのは、特にここでやっているようなことに関しては、何も声が大きく出たのがよいのではないのです。何が自分のなかで宿ったとか、このフレーズかなというところがあったら、それが気づきだし、それをきちんと自分でいつでもとりだせるようにしてやる。そうしないと、永遠にそこから抜け出せません。

 

 ここは実験しながらやりたいので、私は今までやってきたものをそのまま使うというよりは、皆さんに応じて皆さんが進めるようなら進めるし、そこでもっと煮つめたらいろいろよいものが出てくるようなら留まって待ちます。

 

「なにも」だけで1時間やることもあります。皆さんに合せてやっていますので、自分のなかで自分を気づくこと。あるいはそれがわからなかったら人のを素直に聞いてみて、よいと思うところから始めてみればよいと思います。

 

大体、ポップスのヴォーカリストというのは、こういう共通の課題をみんなでやるという場に恵まれていません。昔の人たちは同じ曲を歌ってますから、どのぐらいうまくてどのぐらいへたなのか、自分がどこにいるかとわかりやすかったのです。

 

曲が違うと比べようがないけれど、優れているのと優れていないのは、はっきりとしていますから、こういう場というのは貴重なのです。

1フレーズのなかでこれだけの人数がやるわけですから、判断力がついてきます。それをつけていってください。

 

 

 

ヴォラーレ

 

 

「ほんとに不思議な夢をみるの 窓から空がしのびこんで」

 

 この課題を音楽的に捉えていくということをやってみます。音楽的に捉える前には、徹底的にことばの読みをやっておいてください。ことばは歌い上げるところではないところで、7、8割できるわけです。ことばと声のところが体と結びついていないと、その先もできないでしょう。

 

 

 

 常に考えて欲しいことは、ステージの練習をしているときでなくとも、役者だと思ってください。この2行しか役がなくて舞台に出たときに、そういう読み方をするのでしょうか。できるのにやらないのは困ります。

 

研究所のトレーニングの目的は、その上にあります。そのテンションに高まらないし、本当にその場に出されたら、もっと表現できる人がしないのは、練習となりません。皆さんが100の力がありながら、研究所で80の力まで出すことしかできないなら、意味がないのです。ここに来るより舞台に立っていた方がよいわけです。

 

 

 

 

「わかっているよ」 

 

 

     詞は6通りありますが、メロディは繰り返されている、単純な曲です。覚えやすいと思います。声を感覚にとり入れていってください。

 1オクターブの音域で、1年目の課題です。何ができて、何ができないのかをよく知り、普段しゃべっているときのクセをつけている声をはずし、根本のところで声をつかむようにします。「ハイ ララ」で体と結びついている声と同じポジションで歌えるようにしましょう。

 

「わかっているよ ジュルヴァ ジュルヴァ」

(ファーーミ♭レドシ♭ シ♭ーラ♭ソ♭ー ラ♭ーソ♭ファー)

 

 まず、最初はことばだけを大きな声で言ってみます。ことばの時点で体に結びついていないと、メロディをつけても浮いてしまいます。

 次にメロディをつけてみますが、ことばで言ったポジションに音がついただけというイメージでやり、一つひとつの音程はとりにいかないようにしてください。

ことばで「わ・か・っ・て・い・る・よ」とは言わないはずです。ことばに忠実にのせていってください。メロディに足を救われないことです。

 

 ことばより歌の方が、音の長さも長く伸びますし、音程がつく分、体が必要です。横の線が見えないように、縦の線を意識し、緊張感をもつようにしてください。

 

 最初の「わ」からどこまで深いポジションのまま声をひっぱっていけるのかやってみます。「わ」のところから動かさないようにしてください。1フレーズで「ダァ~」のなかにことば、メロディの高低が入っているイメージで、一つに捉えてください。

 

 表情をつけようとして演技はしないことです。つくりものになってしまい、心も体も入らなくなります。演技は、はずしてください。

 

 「ジュルヴァ」の「ヴァ」が、横に広がって開かないようにしましょう。縦の線で捉えてください。「ヴァ」は「ボァ」に近いです。

 

「きみの こころの なかは すべて」

(シ♭ード レ♭ドシ♭ラ♭ シ♭ラ♭ソ♭ ラ♭ソ♭ファ)

 

 育っていない声でクセをつけて歌っていっても、2、3音なんとかなるかならないか程度のことです。一度、すべてを白紙に戻し、体の芯で捉えることです。すべて同じポジションでとるトレーニングをしてください。音楽、歌になったときは、にぎった後、離しますが、今はにぎることだけを意識することが大切です。

 

 「なかは すべて」は、音が下行していく部分なので比較的、やりやすいと思います。こういうところで一つに捉えるトレーニングをするとつかみやすいでしょう。

 

 ことば、音の長さ、強さを均等にしないことです。だらだらと、ただ伸ばすなら切ってしまった方がよいです。線をはっきり出してコントロールしていかないと、つまらなくなります。

 

「わかっているよ いくら かくしても きみを だれより あいしているから」

(シ♭ーーーラ♭シ レ♭ドシ♭ ラシ♭ラソファ♭ シ♭ーー シ♭ーラ♭シ♭ レ♭ドシ♭ラ♭シ♭ラ♭ソファ)

 

 「いくら」の「く」、「だれより」の「り」は、拍の頭でアクセントはありますが、いきなりその音(ことば)だけを強く打たないようにしてください。とび出さないようにしましょう。「あいして」の「い」のアクセントは、「い」が入れづらいので、「あ」から入れて「あ」のなかに「い」が入るような感じでポジションをキープしてください。

 

 まず、ことばのレベルできちんと言えること。そして、メロディがついても流されないこと。音楽になったときの方が、ことばのときより緊張と解放感をもつこと。そして、技として、一つひとつのフレーズが心と体の一致によってつくられること。以上のことを体で覚えていってください。

 

最初は難しいかもしれませんが、頭ではなく体で捉えて体で出す、耳で聞くのではなく体で聞けること。ここがスタートラインだと思ってください。

 

 

 

 

「空と海と太陽」 

                                                                                                                                                                                   

 

 

  私は、歌を教えるということはしていませんし、課題曲をそのままマスターさせようとしているわけでもありません。一つひとつの音程をいくら、なでてきれいに歌っていても、何回やってみても同じことです。表現するという目的が完全に食い違っています。

 

皆さんの歌う心なしには、この場もつまらないものになります。普段やっていることをそのままやればよいだけです。応用でもありません。「ハイ ララ」で捉えていることを、そのままやればよいのです。

 

なぜ、発声であれだけの大きな声が出ているのに、歌になったらこじんまりとしてしまうのですか。

なぜ、声をきれいに整えて歌うのですか。

何のために、見本を何度も何度も聞かせているのですか。

 

ことばで説明するよりも、本物から感じとって体で聞き取って欲しいからです。見本との基本的な差を埋めていくのがレッスンなのです。声が出ない、できていないのはわかっています。

 

しかし、もっとできるものをなぜ出さないのですか。歌うために入ってきたのなら、発声トレーニングのときよりも、歌のときにそれ以上の表現を出そうとしなければ仕方がありません。まわりのレベルに合せて、力をセーブしないことです。そういう心構えのままだと、5年、10年たっても何も変わりません。

 

 一人で、もくもくとやってください。皆さんの一人ひとりが力を出し切れば、今日の課題は20分で終わるはずです。しかし、今日は1時間で1フレーズも終わりません。何かをやろうとする人間は、一番最初の瞬間から力を出し切る力と心がないといけません。

 

このことは、入門レベルでの問題でなく、覚悟の問題です。出そうと思わなければ、出るはずがありません。前に出さなければ、何もやっていないことと同じだと思ってください。

今は、皆さんの音楽を聞いているわけではありません。皆さんがここにいるという存在を聞いているのです。それを、声で表現してもらわないと仕方がありません。技術以前の問題です。

 

 会報でもレッスンでも、自分一人にいわれていることだと、自分の身で受け止めてください。何か、全体のこと、他人ごとのように受けとめているようにみえます。また、受けとめても変わらなくてはどうしようもありません。

要は、まわりを気にせず、あなた一人が、一人でがんばればよいだけです。

 

 まず、量をこなす前にその部分にモティベーション、テンションがなければやっても無駄です。もっと、気持ちを集約させてやってください。

 

 見本の音楽の部分にごまかされないようにしてください。軽く歌っているようにみえても、完全にコントロールできる体をもっていて抑えているのです。体は使っているのです。

 

音の表面上のイメージで捉えないようにしてください。表面だけで歌っていないから、この歌は歌として成り立っているのです。自分が思っているよりも何倍も大きくつくってもつくりすぎることはないくらいです。もっと、イメージも体も大きく捉えていくようにしてください。

 

 

「だれも しらぬ こいの おわり」

(ドレミ ドソラ レミファ レラシ)

 

 今やって欲しいのは、「ハイ ララ」といっているところと同じところ(ポジション)に、どこか一ヶ所、一音でもよいから一致させることです。これが入門科の課題です。すべてに出そうとしても、今はできないと思います。縦の線でとっていき、横に広がってしまわないようにします。

 

まず「だれも」の「も」、「こいの」の「の」を出すようにしてみてください。もし、「だれも」の「だれ」で広がってしまったとしても、「も」で体が使えていれば、その人の音色がその部分に出てきます。捉えて欲しいのは、そういうところです。

「だれも<」となると、歌にはなりませんが、そこまでできる力をつけておけば、次の機会に大きな線がとれるようになります。

 

 「だれも」で1使ったら、次の「こいの」で2使わないと音色はキープできません。1、2、3と体のイメージとして強くする感覚をもってやるようにしてください。

発声うんぬんというよりも、音の感覚とイメージの問題です。こういう表現のリズム、音感がないと、前に伝わらないのです。この課題は、同じリズムの繰り返しで、音が上行しているので、体づくりのトレーニングとして適しています。感覚もつかみやすいはずです。

 

 音楽というのは、どこかのポイントまでピークをもっていって、煮つまり、そこから解放していく、そういう動きがあります。その動きを、声の音色のなかに出していくのです。

 

 今、やって欲しいことは、「ハイ ララ」で少しでも声の芯が捉えられるのであれば、レッスンでのフレーズで同じものを出すこと。そして、自分のなかの音色をつくること。そして、その音色を展開することです。1オクターブくらいの曲なら、誰でも歌えてしまうでしょう。しかし、音色をキープして歌えるかということなのです。

 

今の皆さんが、音色をキープして歌おうとしたら、もっと重たい声になるはずです。浮いた軽い声にはならないはずです。その重たい声をひっぱっていく。

そして、そのなかで自分の呼吸、リズム感、音感に合せていくのです。バラバラにならないように、同じ線にそろえていかないとトレーニングになりません。深いところをより深めていくことです。

 

 なぜ、レッスンで楽譜を渡さず曲を流すだけにしているか。それは、音程だけをとりにいってしまうからです。見本を聞いたとき、声が違うのだと思うのではなく感覚が違うのだと思ってください。同じようにできなくても、それはあたりまえです。

 

しかし、音程の高低で捉える世界ではないということは知っておいてください。見本を聞いて、声や息が足りなくても、その感覚をもっていれば、表現は見本に近いものが出せます。その感覚を見本から学び、体で聞くようにしてください。

 

 のどで歌う感覚を取り除き、呼吸、体でもっていく感覚で捉えてください。そうしないと、のどがしまってしまい、のどに負担をかける原因になります。芯を「ハイ」と捉えたら、それを呼吸でもっていくのです。そのために、息吐きをしているのです。

 

外国人は、体から声を出す人たちのなかで育ち、そういう人たちの歌を聞いて育ってきていますので、自分が歌を歌うときもしぜんと体がそのように働きます。日本人は逆の作用が動いていますので、それを取り除いていくことが、一番、簡単に成長する方法なのです。

 

 

 

 

「アモーレスクーザミ」

 

                                                                                                                                                        

   「あなたの そのむねに ほんとうのことを どうしてもいえなかっった バカなわたしなの」

(ミファソド レファレーー シドレーシラソミ ドーーシラソーーラーー ミーーレドドラド)

 

 「バカな」の「バ」の音の最高音で、この4フレーズは2オクターブ近くありますので、難しいフレーズです。次のフレーズの「アモレスクーザミ」は、歌い方を変えているので高く聞こえますが、音域は高くありません。

 

 最近、モティベートがないと言われます。技術的にできないことは、ここはそのために学びにくるところなので、そのことについて言うことはありません。しかし、ここでやっていることのレベルの高いうんぬんではなく、そのことに対するテンションの高さ、心構えのあり方の問題です。

 

レッスンも、一回一回が勝負の世界です。そこで、常に瞬間をつくり出せるかどうかで決まるのです。一回でできなかったら、もう一度というチャンスはないと思ってください。一回目でできなければ、終わりです。そのくり返しでつかんでいくのです。

 

 その瞬間を出せる人というのは、才能があるからということではありません。どのくらい、その瞬間に真剣に集中しているか、一音も聞きもらさないという覚悟で一回目から聞いてきているかなのです。そういう態度で聞いていなければ、できないのはあたりまえです。

 

もし、この曲を覚えるとき、ステージで歌うときは、100回でも1000回でも聞いて覚えればよいでしょう。ただ、その回数、聞くことがあたりまえだと思ったら大間違いです。一回で聞けることが、ヴォーカリストとしての最低条件だと思ってください。そういう姿勢でとり組まない限り、いつまでたってもできるようにはなりません。自分に言い訳をつくらないことです。

 

 大きな勝負をするために、そこに必要とされるだけの緊張感とモティベートを保ってトレーニングしなければいけません。そうしないと、トレーニングそのものが器を小さくしてしまいます。1年もたてば、この場にも慣れるでしょうし、トレーニングは誰にでもできます。

 

集中しないで行なうトレーニングなどは無意味です。少なくとも、本番と同じ集中度で息を吐き、体を使うこと、そのことに対して、すきがないだけのトレーニングを積まなければいけません。

 

はっきり言って、本番はリラックスしてやるものです。トレーニングでそれ以上のものを出しておかないと、トレーニングが本番につながってこないのです。そうしないと、本番をだめにするトレーニングをしていることになります。

 

 トレーニングにすべてを準備してとり組めとは言いません。皆さんにとっては、日常の生活があって、そのなかでこの研究所に来ていると思います。ただ、その場に立ったらどんなに具合が悪かろうが、やる気がなかろうが、切り換えなければいけないということです。

 

 今、声が出なかったり、歌が歌えない気持ちもわかりますが、それを自分で言い訳として認めてしまったら一生、歌えません。やっていける人というのは、今のレベルがどうであろうと、今の力をすべて出しきれる人のことです。すべてを出し切るから、逆に力がないことがわかり、今後の課題もいつもクリアにみえてくるのです。

 

 課題を一曲出したときに、その一曲で何時間もトレーニングできなくてはなりません。音楽の聞き方をもう少し勉強してください。一流と自分の差をわかり、つめていくことです。何でできないのか。それは、トレーニングしていないというより、気づいていないからです。プロフェッショナルなヴォーカリストのトレーニングは、本当に厳しいです。トレーニングがプロだから、彼らはプロなのです。

 

 

 たとえば「つめたい」(レミファミ)」という課題があるとき、一般の人は、一つひとつあてはめて加工して「つ・め・た・い」とあてていきます。しかし、ヴォーカリストが楽譜にそう書いてあるからといって、そう歌うのかということです。

 

ただ、正しい音で歌えているというだけで、その歌を聞いて感動する人など誰もいません。これは、一番、最低なレベルのこと、はずしてはいけないラインなだけであって、完成形ではありません。そのラインから何をつくるのかということが表現ということです。勉強しなければいけないのは、そこまでのことではなく、その先のことです。

 

 「つ・め・た・い」となってしまうのは、歌っている人が「つめたい」というイメージをもって歌っていないからです。そうすると、「レ・ミ・ファ・ミ」と音程が聞こえてしまいます。声、体を使うトレーニング、表現の勉強をするには、一流のヴォーカリストのような感覚で捉えないといけないと考えた方が、声が出るようになるのです。

 

 基本では、声というのは「ハイ ラオ ララ」の部分に結びついていきますが、それはあくまで「型」であり、そのまま歌にあてはめようとするのは間違いです。そのままあてはめていくと、どんどん音楽から離れていきます。見本を聞き、どこで声をつかみ、離し、そしてどこで音楽を捉えているかを学ぶことです。

 

 「つめたいことばきいても」だけで、半オクターブあります。しかし、見本のヴォーカリストの半オクターブは、一つの音のなかでの展開くらいにしか聞こえません。どこも上がってないし下がっていない。高低イメージでは捉えてないからです。

 

そういう1オクターブの感覚がない人が、1オクターブの曲は歌えません。「つめたい」と一言、きちんと言えるようになるのに一年かかってもよいのです。このフレーズができるようになれば、1オクターブの歌が歌えるということです。しかし、このことまでが、いかに難しいかということを考えてください。

 

 音の世界、メロディの処理が入っている外国のヴォーカリストは、「つめたい」とことばで言えば音楽になります。「レミファミ」と音はとっていても、そのまましゃべっているだけなのです。そう言えるためには、「つ」「め」「た」「い」のことばがそろっていないといけません。

 

それをコントロールするのは体であって、口先でコントロールしようとすれば、バラバラになります。そこまでのことができて、声のコントロールができたとなるのです。ここまでが、声優、役者のレベルです。

 

口先で部分的な処理をするクセをつけてしまうと声、音域、声量をつくる妨げになります。のど声になってしまうのです。そうすると、のどを壊してしまいます。まず、そのクセをはずし、体からコントロールすることです。

 

 ここまでのことができたら、ヴォーカリストはそれにフレージング-自分の節をつけていかなければなりません。日本人の場合、浅い音色で出していきますが、声の技術がきちんとできているところの上のフレージングをつくるのが、一流のヴォーカリストです。

 

自分の節をつくるのは、ジャズのヴォーカリストでなくても、ポピュラーのヴォーカリストなら、もあたりまえのことです。体で音色を出していく。それがヴォーカリストとしての技術で、逆に役者にはないところです。

 

 一流の見本の曲を聞くとき、聞いてもらいたいことは、発声の芯の部分-発声の前の声、息をことばにする技術の部分です。そして、音程より前の音の感覚です。一流の人のオリジナルなところ、個性は勉強しても仕方がありません。

 

なぜなら、オリジナル歌手と同じようにできたとしても、オリジナル歌手を上回ることはできないからです。あこがれることはよいことです。トレーニングは歌ではなく、基本を学びやすい人から学んでいくことです。

 

 観客として終わるのであれば、ただ聞いて「よかった」でよいですか。自分が学んでいき、人前に出てやっていきたいのであれば、それの何がよくて何が足りないのかという判断が自分でできなければなりません。その判断力、価値観が向上していかない限り、自分の活動、技術も向上していきません。

 

 この研究所にいたら、どうにかなるとは決して思わないことです。ここで自分が表現できれば、何かになると思ってください。

 

また、トレーニングで伸びるということは、トレーニングをやらなければ伸びないと考えてください。

 

毎日のトレーニングメニュについての質問がよくありますが、そういうことよりも、意識の問題です。ヴォーカルなり声のことを24時間、考えていること、そして体の面をいつも表現に対応できる体に整えておくこと。この2点から始まると思ってください。

 

 

 

瞳はるかに」 

 

 

「ロンターノ ダーリョッキ ロンターノ ダコーレ エトゥセイロンターナ ロン」(ラ ラシーー ソソーラーシーレード シーラーソラシー)

 「エトゥセイ ロンターナ」の「タ」が浅くならないように、深く捉えてください。流れがあるところを壊してしまうと、体もうまく働きません。ヴォリューム感を保ち、そのなかで「タ」をもっていくことです。

 やって欲しいことは、母音をそろえる、浅くつくらず、コントロールするところは体で捉えて出す、音のイメージを体に入れる、見本と同じ密度を一ヶ所でも一瞬でも出すということです。ポジションがとれない場合は、ポジションをとることに専念し、ポジションがとれたら、離さないことです。

 見本を受けとめ、見本の質感、量感、ヴォリューム感を感じてください。

 

 体の余計な力を抜き、バットでボールをミートするイメージで声の芯をミートしてください。そして、曲のフレーズではずしてはいけないポイントを、絶対はずさないことです。

 

 音を感じたら、自分のなかで組み立てていきます。それを助けてくれるのが、心、感性の部分と体の部分です。表現したいことを助けるための技術、耳を養っていってください。

 

 まず気づいて欲しいのは、他の人の体を知ることです。見本の体は差がありすぎてわからないと思います。目の前にいる講師の体の動き、また一緒にレッスンを受けている他の人の体の動きをよみ込んで、自分の体に置き換えるのです。

 

 それから、音程は音楽である以上、とらなくてはなりません。音を一つひとつ高低でとっていくように言ってはいますが、聞き慣れていない音、音楽はとれません。声ができても、音楽にする以上、表現の素材を体と感覚のなかに入れておくことは避けられない問題です。

 

また、音がとれないことで、自信がなくなり、声もしっかり出なくなります。歌い手は、音の世界に関しては自分でよみ込めないといけません。現段階で自信のない人は、1年のうちで3年分のことを勉強する気力が必要です。

 

 声以前の問題として、前に出そうという気力が必要です。前に出さなければ、トレーニング、ノウハウ以前の話になってしまいます。やってみてできないのは、今はよいのですが、やろうとしないのでは、そこに何も出てきはしません。感覚、場に自分のテンションをもってきて、のせていってください。

 

 やって欲しいことは、正確に、きれいに歌うことではありません。自分の声、体をつかむことです。そして、体、声を実際に動かしていくこと。ここまでを、トレーニングで確認して欲しいのです。そして、皆さんが10やりたいが3しかできない、そのギャップをはっきり知ることが、トレーニングの土台にのる第一歩なのです。

 

 

「ロンターノ ダリョッキ ロンターノ ダコーレ エトゥ セイロンターナ ロンターナダメー」(ソーーーラ ラシーーー ソーーーラ ラシーー ソソーラーシーレード シーラーソラシー)

 

 「ロンターノ」の「タ」、「ダリョッキ」の「ダ」が横に広がらないことです。そして、どこかでふみ込むところをつくり、バラバラにせず、一本通してフレーズをつくります。

 

「エトゥセイロンターナ ロンターナダーメー」

(ソソーラーシーレード シーラーソラーソー)

 

 1回目と「ロンターナダメ」の部分が違い、音が下がります。エンディングの感覚を「エトゥセイロンターナ」から予め匂わすことです。そうしないと、どこで始まり、どこで終わるのかがわかりません。

 

「エトゥセイロンターナ」の「ターナ」で山を一つつくって、次で落ち着かせます。ここで、慌てないようにしましょう。しかし、急がないからと、始めからゆっくりしてしまうと、間伸びしてしまうので、注意が必要です。

自分の呼吸に合せて流れをつくり、一つ表現して一つおとすということです。要は、音の密度の濃淡を感じるということです。

 

 大きくゆっくり歌っていく歌は、特に自分で動かしていかないと難しいです。フレーズの大きいところは、声を出すことを優先してことばに振り回されないようにします。

音とフレーズがとれて、声の線がきちんと出せてれば、ことばはやりやすいことばでよいです。

ことばは、流れを消してまではっきり言わなくてもよいと思っても構いません。音楽的な線を出してください。

 

 

 

 

「愛は限りなく」

 

 

 

 まず、ことばを呼吸に合せ、それを音声にし、音の世界にもっていくことが課題です。三人の見本の歌手が同じ曲を歌っています。三人の共通しているベースの部分をとらえてください。

 

「くもが ながれるそらを あなたのむねの しろいハンカチのように そのしろさが むねにしみる」(ドーードーシ♭ドレ♭ーーレ♭ーーミ♭レ♭ド ドーーーーーシ♭ドレ♭ーー レ♭ーーーーレ♭ レ♭ミ♭レ♭ミ♭ドー)

 

 「くもが」でふみ込みます。また、「く・も・が」や「くーもーがー」とならないように「くもが」と1フレーズで捉えてください。

 

 ことばを呼吸に合せることは難しいかもしれませんが、それなくして歌は歌えません。体を使うためには、なるべく単純に捉えることです。そして、声を動かすためには、どこかにアクセントを入れ、体を入れることが大切です。

 

常に「ハイ」と声をつかんでいる芯のところでことばを捉えていってください。そして、曲に応用していくのです。声がつながり、フレーズができてきたら、その感覚にのせていきます。

 

 まず、ことばをよみ、体をつけていきます。そのとき、体は出し惜しみしないでください。また、のどが閉まってしまったり、痛めたりしないようにはじめは高音部でトレーニングせず、自分のもっとも出しやすいキィでやってください。

 

 ことば、呼吸が一致してきたら、「ハイ」と言った点を展開させて動かしてみてください。呼吸が大きくなければ、歌を大きくすることはできません。

 

 「むねにしみる」の「に」、「し」は発音的に難しいですが、息の深いところで言えばよいでしょう。「ハイ」と同じポジションです。フレーズをきちんととって、一回一つに入れておいてから、置き換えていけばよいのです。

 

 

「あまいくちづけ」

(レ♭ードーーーー)

 

 「あ・ま・い」とならないよう、最低でも「あまい」と「くちづけ」の2フレーズでとれるようにしましょう。2音のなかに入れてしまう感覚です。二つに捉えられたら、次にフレーズをつくってください。

 

クラシックの場合、声をひびかせ聞かせる要素もありますが、ポップスの場合は必ずしも必要ないでしょう。ことばで言えたところにアレンジを加えていけばよいのです。ただ、フレーズが自由になるためには、きちんと体に声が通っていることが大切です。

 

 音程はとらなくてはなりませんが(音楽ですから)、音程が隠れてしまうくらいの強さ、太さ、ヴォリューム感が欲しいのです。高低アクセントではなく、強弱アクセントのイメージを常にもっていることです。

 

 見本の歌手は、高い声も執拗なまでに握って離しません。それができる上で、離したり浮かしたりしているのです。まず、与えられた課題に対し、自分の体をベストにもってくることです。

そして、そのベストを一ヶ所、一瞬でもよいから「場」に出すことです。表現をする前に、心、体が表現できる状態にあることが大切です。そのためには、事前の準備が必要だということです。

 

 自分の体のなかに、音のイメージがないと、それを自分が出すことはできません。曲を聞いて、すぐにイメージに入っていけること-それが今、問われている勉強です。自分の出しているものは最初はわからないものです。

 

グループレッスンで、他の人の声をよく聞き、見本とどう違うのかを知り、そして、自分にフィードバックしていくようにしてください。今なぜ表現にならないのかを考え、その差をつめていくようにしてください。本やレクチャー、会報でいつも言っていることがレッスンで問われているのだと思ってください。言っていることは、常に一つです。

 

「くもが ながれるそらを あなたのむねの しろいハンカチのように そのしろさが むねにしみる」(ソーー ソーファソラ♭ーー ラ♭ーーーシ♭ラ♭ソ ソーーーーーファソラ♭ーー ラ♭ーーーーラ♭ ラ♭シ♭ラ♭シ♭ソー)

 

 自分の呼吸に合わないと、先走ってしまいます。余力があるとそうなってしまいます。ここでいう余力とは、ピークに体を使いきれず、あまってしまったという意味です。一つひとつの「くもが」「ながれる」などは、フレーズとして捉えられていますが、「むねに しみる」までを1フレーズとしたときの構成ができていません。少なくとも、「むねにしみる」までで二つの要素が入り、ここまでで一つ歌が終わる感覚です。ただし、歌いあげてはいけないところです。

 

 「そのしろさが むねにしみる」は、一つの盛り上げ、盛り下げのところです。ここを、きちんと決めないと流れてしまいます。

 

 「あなたの むねの」のふみ込みがもの足りない感じです。ここで、フレーズを体に入れて、そのあと解放させてきちんと支えます。そして、体をより使って「しろいハンカチのように そのしろさが」を言い切って、最後「むねにしみる」できちんとおさめます。声量でみせるのではなく、支えていっていくことが大切です。

 

 この課題は、訳詞がうまくついているものの一つです。自分の呼吸とあってきたら、フレーズの構成もきちんと考えてみてください。

 

 

「あまいくちづけ やさしいことば しあわせすぎて こわいくらいなの」

(ラ♭ーソーーーー レーーーーファミ♭ ミ♭ーレーーーー レーーーファミ♭レー)

 

 「ことば」の「と」、「こわいくらい」の「く」が圧倒するようにしてください。また、キィは「ことば」の「と」が出ればよいのです。「と」に合せて設定してください。

 

 「あまいくちづけ」と「やさしいことば」の間の緊張感がないと、フレーズが切れてしまい「やさしいことば」へ盛り上げていけません。どんなに音が上降していく構成になっていても、四つのグループに切れて聞えてしまいます。立体感がない、一本調子の原因になるところです。

 

「やさしいことば」に、すきや密度のゆるみがあってはいけないのです。そのために、方向性を定めてください。

 

 次の「ディオ コメティアーモ」は、音域が同じでもテンションをおとしています。「こわいくらいなの」までのところとは、表現しようという内容も緊迫感も違います。

 

「あいはよろこび あいはかなしみ」

(ラ♭ーーソーーー レーーーーファミ♭)

 

 「あいはかなしみ」の密度が、先を暗示しているのです。ですから、「あいはよろこび」とは、対比をはっきりつけることです。日本的に考えると「かなしみ」ということばから、かなしみを押さえて歌いますが、見本のように「かなしみ」の方を盛り上げていくやり方の方が、音楽の流れとしてよいと思います。

 

 「あい」の「あ」で、ポジションを深くとっておかないと、次の「い」でもっと浅くなってしまうので注意しましょう。

 「あいはかなしみ」で勝負すべきところで、日本語のことばがネックになってしまいます。

 

「しみ」が難しい人は、「かなしみ」の「な」で「あ」の母音をキープして、そのなかに「しみ」を巻き込んでしまうのも一つの方法です。

 「かなしみ」の「し」より「み」が広がってしまわないよう気をつけてください。また、「み」の方が音量が大きくならないようにします。

 

 このフレーズは、ポジションをきちんと押さえて、そのまま高音へいってもキープしつつ、解放してひびきをつける音です。その音色のもっていきかたを勉強してみてください。「あいはかなしみ」が、一つになるトレーニングをしていけばよいです。

 

 トレーニングでやっていくことは、まず、①体をつくる ②ポジションを離さない ③声に余計な邪魔を入れず、きちんと解放してあげてひびきをつくる ということです。

 

自分にとって音色がとれる音、フレーズをトレーニングしていけばよいです。音色がとれるようにするには、体、呼吸を使うしかありません。そして、離していくのに必要な音声イメージを描くことです。そのために、一流の人の音色を聞いて、自分の体のなかに蓄積していくのです。

 

離していくには、結局、前へ出していかなければならないし、一つ上の世界をつくっていかなければなりません。そうでなければ、役者のことばでの表現のレベルにさえ達しないのです。

ヴォーカリストは、音色で音楽を表現できなければならないのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

「メケメケ」

 

「こいのむすばれた あさを」

 

 「こいの」の「こ」をきちんといれること。「わすれた」の「た」は、しっかりと出さないと広がってしまいます。基本は、「た」と「あ」のポジションを同じにすることです。そこのところの展開を自分の中でつかんでください。ポジションが入っているのが基本です。

 

あとの展開のところがばらばらになったり、構成がつけられないと勢いがなくなってしまいます。「た」から「あさを」まで、クレッシェンドしてデクレッシェンドする。自分の体で覚えておくとよいのは、「た」と切ったら呼吸がとまってしまわないようにすることです。

 

基本的には吐くけれど、自分で展開しきっておわったという感覚で、体の戻りのところでデクレッシェンドをかけるのです。次が「あさを」ですから「あ」のところで確認できると思います。これはおいていることばですから、どうでもよいのです。その前までにきちんとできていたらもちます。こういうところで表現しようとして、いろいろややこしくやると、却っておかしくなってしまいます。

 

「むすばれた」のところで勝負しておかないとだめです。「たー」と大きくつくった分だけ、「あさを」の間がもてるということです。もう1つのポイントは「こ」のところです。結局「こーた あさをー」となるフレーズです。

 

「こいのーた あさをー」

「ばれたー  あさをー」

 

 これが「あさをー」と同じに「ばれたー」となると、表現にならないからできるだけ「ばれ」のところでいれておいてください。これをつなげると「こいのー ばれたー あさをー」です。「い」と「ば」は同じです。階名でいうと「シドラ ドレミ ミミド」です。

 

その配分が均等になってしまわないように、それをずらしこんでいかないとだめです。

 

課題は、音を巻き込むということです。その音をどう巻き込むかというところから線が出てこないと、ことばがいえても伝わらないのです。それをどう出すかというところが表現の練習です。

 

 「たー あさをー」か、「ばれたー あさを」かどちらか入りやすい方でやってください。フレーズはもっと大きくとって構いません。リズムは意識しなくてもよいのですが、リズムを意識してやるのであればおきかえてみてください。体の線を出すことと、直接、出ていると声量というのは違うのです。体の線が出ていたら声量を抑えてもよいのです。

 

 課題として与えているのは、「てぇぇ」のクレッシェンドのトレーニングと同じです。「ばれた」の「たー」で入れておいて、ここの中から「あ」をだすような感覚です。ここで息がすっとはいってこないと難しいので、これだけの大きさをつくっておいてやるわけです。

 

そうしたら次のところから入れるわけです。この中でうまくできている人というのは、「たー」で「あ」のところの音が次にきていないということです。「た」をいっているところに「あ」が入っていて、「たー あさをー」となるわけではない。

 

ことばと同じです。次の音を巻き込んで、横の線よりも縦の線をだすということです。

「た」で出していて「あさを」をまいていくのです。続けず、切ってもよいのです。

 

むしろ切った方がよいのですが、切ったときに次に間があかないことです。感覚的なもので、時間的にストップウォッチで計ってやるというのではないです。要は聞いている人がそう感じられるかどうかでしょう。

 

 

 

 

「君に涙とほほえみを」

 

 

「セ ピアンジェ セリーデイ」

 

 自分のものはわかりにくいでしょうから、他の人のものを聞いてください。それが「セ/ピア/ンジェ セ/リー/デイ」と6つに分かれていたら、これは日本語と同じだと思えばよいです。「セ ピアンジェ/セリーデイ」二つだったらまあ小さなフレーズが二つできているということです。

 

きちんとできている人であれば、「セ ピアンジェーセリーデイ」その流れのなかで一つに全部やっています。なるべく、一つに聞こえるようにするようにすればよいわけです。声質とか、あるいは声を体でつかむより、もっと簡単なことを言えば、表面的に「セピアンジェ セリーデイ」をどこで歌っているかということを見ればよいわけです。

 

体で歌っている人というのはとてもわかりやすいです。別に体でみようと思わなくて、こちらの体に入ってくるというのは、それだけ息を吐いていなければいけないし、体を使っていないと人に伝わらないからです。

 

誤解されるのは、「セピアンジェ セリーデイ」これがきれいで正しければよい。しかし、それはまだ、表現とはいえません。それよりも息の力の方が強いのです。「セピアンジェセリーデイ」、と息の方が人間の本能的なところで反応してしまうので、その息をきちっと入れていくのです。そのために、体を使わないといけないということです。

 

 判断して欲しいのは、先ほどことばで言っていて体から言えていたり、あるいは何かを伝える意志がなくてもきちっと体が合理的に動けば、伝える力というのはあるのだけれど、その部分が全部、消えてしまって全部、嘘になってしまっているわけです。

 

今、皆さんがやったことを仮に1オクターブ半でできたとしても、全然、歌にならないということです。それを歌ってしまっているからです。とても難しいかもしれないですが、先ほどまでやっていたことというのは、「セピアンジェセリーデイ」でもよいし、日本語で「たとえどこに」これでよいわけです。これで伝わる。

 

これが「たとーえどこーに」となってしまうと、もうそれで歌から離れてしまうわけです。皆さんのイメージで今まで歌わされてきたこととか合唱とかで歌ってきたこととか、そういったことは全部、歌いあげることなわけです。だから、そこから歌が生じない。

 

それをまず原点まで戻して、そして伝える要素をつけた上で、今度は音楽的に処理していくということです。難しいかもしれないけれど、素直に聞いてみればわかるはずです。先ほどことばで言ったときに歌になりかけた、あるいはことばが歌だった人たちまで全部、つられてしまって足をひっぱられて歌にならなくなっていました。

 

 

 もっと簡単にしましょう。「たとえ」と言ってみる。「たとえ」これだけにしましょう。ここに「たとーえ」とこんなことをしてしまうから、ダメなわけです。リズムも音程も狂っても構わないです。思い切り「たとえ」と言ってみて、それよりも体を使って「たとえ」と表現します。この曲が壊れるとかこの曲のイメージに合わないということと別にです。キィは上げても下げても構わないです。

 

 わかりますか。だいたいことばでも捉えられていない。ことばのレッスンをやるべきです。ただ捉えられていないなりに、半分とか3分の1できていたことが歌になったときには、もっと捉えられていないなわけです。

体から離れてしまっている。空回りしてしまっている。言えなくなっている。音量までなくなってしまっている。だからそれだけ本当のものではなくなっているわけです。

 

少なくとも、ここでのいろいろな歌にはそうなっているのは一つもなかったはずです。歌にした方がそこにメリハリがついてより体が使えて、体に完全にひきつけてもっているわけです。音がつかなくとも単に2回目を強くしようとするとできていて、その強くしたときに音もリズムも巻き込まなければいけないと、単に「たとえ」ということばの練習の方が練習になっているということです。

 

 イメージの違いというのは直すのがとても難しいものです。たとえば今このくらいの力で「たとえ」と言えたとしたら、これをもし歌にもっていこうとしたら、これを並べてみて、さらにふくらませて支えをもっておいて、そこでここの部分を言うのはよいけれども、このままこうなってみてもそれは絶対、歌にならないです。だいたいこれよりも薄くなってこれと同じ質量があればよいくらいで、これだけ厚くするために、これよりも使うためにより高くしたり強くしたりするわけです。

 

 たとえば、歌で「たとえいまは」でも歌にならないのです。均等に使っているからです。一つに捉え、息と体を入れた上で、そのようにことばをおくのはよいのです。日本語だと「たとえ」頭のところにしかアクセントがきませんから、「いまは」とこうなってしまうわけです。

 

当然、音楽ですから「たとえ」あとの方に入ってくるから、フレーズが出てきます。だから、そこで体を使うことが将来できるようにしていかないと、体もついてこなくなってきます。ここが、役者さんとは違うところです。

 

役者さんの場合、思い切り、バーンと突き放して言ってしまえばよいのですが、ただ言える人はそこに音が入ってきても音も巻き込めます。(セピアンジェ)こういうふうにふわふわさせているところが、フォークらしいところなのでしょう。飾りがあっても、本質的な部分はつかんでいますから「ドラーイ」というようにやってみても一応、ひびきも体もついているわけです。

 

普通の人がやると、間伸びしてしまい、上だけになってみっともないです。だからそれだけのものをもっておいて、音になるところで自由にはずしていけばよいということです。しかし、発声からいうとあまりよくないです。よくはないですが、それで通じてしまうだけ、核心の部分は全部にぎっています。他のところはボケていても「ロリベ」の「ロ」のところで入る、だからそれは離れないだけのものがあるということです。つかんでいる上で浮かしているということが、違います。

 

 

 もう一度、日本語でやってみましょう。「たとえいまは」、最初、セリフでやって「たとえ今は」と声にして、そのまま入ってください。ことばで言ってことばでフレーズをつくってみることです。ことばの世界でやるだけやってみて、それで自分で聞いてみれば一つに捉えられているかというのがわかると思います。それから歌になったときに、そこにスキが出てきたり体から離れるところが出てくると、当然、作品としては成り立たないわけです。

 

 ことばを変えてみましょう。「だから あなたの」こういうところの感覚を日本の「だから」こちら側におくのではなくて「だから」そのままでよいです。「あなたの」こちら側にいかないで「あなたの」の「た」で入れないと「の」が浮かせられない(今は浮かなくてよいです)。

 

高いところが一番、強いという感覚でもよいでしょう。アクセントからいうと、そのまえのところの音の方が強いですが、「だから あなたの」の「あ」、または「か」と「た」にアクセントがつく形になります。

 

一番、上の音を抜いてそのまえの音を強く入れるというのが、音楽の基本です。自分のキィがわかりにくい人もいるので、「だから」と「あなたの」をこのキィで合せてみましょう。「だから あなたの」を日本人向けにやるのであれば、頭の音が強い方が入りやすいので(日本語というのは頭をはっきり言わないと聞けないので)、「だから あなたの」の「だ」と「あ」にアクセントをおく。半オクターブあるとやりにくいので「だから あなたの」、ここでやって欲しいことは、こういう音程練習は誰でもとれるので、音程練習ではなくて、これを一つにとることです。

 

「だから/あなたの」となるのではなく、「だから あなたの」とここでことばを言うのです。なるべく、音楽らしくしないように音楽的になるように。日本の感覚だと上の方は抜くという感じになってしまいますが「この胸に」というのも同じで「この胸に」は、本当は「む」のところで入れないといけない。しかし、「この胸に」という感覚の方が皆さんを支配しています。

 

最終的にはそう歌ってよいです。だから先ほど言った通り、それだけの器をつくっておいて、「この胸に」と言えるようにしておいて「この胸に」という使い方はよいです。ただ、こちらのベースを創らずにここだけやるのならば、カラオケのおじさんほどにも、完全なコントロールはできない。そこで音が動いてしまったり、ふくらまそうとしてもできないし、次に入り込めなくなってしまうわけです。

 

 今やっておいて欲しいことは、やはり高い音というのを同じ感覚で捉えないということです。「リコダセンプレイ」こういうところです。まず、この呼吸を自分でまず捉えてください。「リンダセンプレイ この胸に」でもよいです。手本は少し離しています。

 

体の力がないと高いところが伸びていってしまいます。「このむうねーに」となるのはだめです。これは全部、伸びているのではなく、伸ばされています。結局、体の力がないし、そこの音の感覚がないからです。だからきちっと歌える人は絶対に「この胸に」の「ね」に、ここで止められるわけです。そこを完全にコントロールしなければいけないところの「ね」のところにもっていくわけです。これが6度あります。

 

「ノンセ マイ ソラ」というところが全然、そう聞こえないでしょうが、1オクターブです。日本語だと「いつまでも」という歌詞がついています。「ノン セイ マイ ソラ」あるいは「いつまでも」どちらでもよいです。「ラ」を浮かしていますが、感覚的にこの歌い方は全部、音楽的にやってしまって、ふわふわしているからあまりよくないですが、もしできれば「ノン セイ マイ ソ」この音です。

 

 日本人の感覚で一番、違うのは3拍目の強拍がだいたい日本では「ソラ」だいたいより上を浮かして弱くするために、その音も弱くしてしまって先に上に移行させてしまうわけです。声区とやらにこだわりチェンジをしてしまうからです。ほとんどの人は、「ノン セイマイ ソラ」となってしまいますが、向こうの感覚だと、その上に「ラ」と、これを浮かしたければ「ソラ」こういう感覚です。

 

要は、入れたらその反動で返ってくるわけです。これは体の基本的な考え方です。入ったら抜く呼吸の感覚があります。だからそこをきちっとつかんでいくことです。「いつまでも」日本語にすると、変になりますが、やってみましょう。「ノンセマイ ソラ」もう2度くらい出る人は、「アンケセトゥ」まで「いつまでも このことは」まで、低くして構わないので出してみてください。

 

アクセントの付け方は、先ほど言ったように、「ノンセイマイ」ここの頭を打つのではなくて「ノンセイマイソ」結局、頭にそんなにアクセントはない。ないといっては語弊がありますが、もし「ソラ」と言いたかったとしたら、それまでのところは「ハイ ララ」で言うと「ハイ ラーラ」こういう流れです。

 

「ハイ ララ」となるとこれは全部、頭についていますから、日本語的になってしまう。これを全部、薄く均等に伸ばしていくと、日本の歌みたいになりますから「いつまでーも」こうなってしまいます。どこかで捉えておかなければいけないです。そうすると、また太い線をつくらないと「いつま」とここで捉えられないわけです。「いつま」と音が逃げてしまいます。

 

次のところ、これは3度しかないですから、原曲では少し高くなりますが、下げても構わないです。「このことば」というところ「アンケセトゥ」です。「アン」は入りやすいですが「トゥ」が難しいです。全部だと難しいですから「アン」だけにしましょう。ピアノは単純に自分のキィを捉えるためのものと考えてください。きちっと「アン」を体で言うことです。言えなくなってくると「アーン」と伸びてきます。

 

これは、より大きく出ているわけではなく、体のついた息で切れなくなってきているだけです。スタッカートで捉えないでください。「ン」のところにもってきてしまっても構いません。「アンケ」までいきましょう。「アンケ」と上に抜けてしまうのではなく、同じポジションで捉えてください。「アンケ」と平たくならないように。「アンケ」これで一つです。後で「アン・ケ・セ」と分けても構いませんが、今やっていることは何で音的にとれるかというと、ここで1回つかんでいるものを置き直しているだけだからです。だから「アンケセ」と平たくことばを均等に並べるのとは違います。

 

 音楽は「アン・ケ・セ」と平たくやる世界ではなくて「アンケセ」と、要は表現するところだけ表現すればよいわけです。余計なことをやるのであれば、スキができます。やらなければメリハリとしては何もないということです。そこで「アンケ」と平たくやってしまうと、もうそこで音楽ではなくなってしまうわけです。

 

歌うことは、声を伸ばすことだと思っている人がとても多いのですが、今の皆さんにとっては歌うことは切れることだと思ってください。切ること、ことばが止まること。ただ次にそのことばから流れが出ること、そのプロセスを抑えないと歌い流してしまいます。カラオケのように単にことばにして音にのせているだけではだめです。一回つかみ直さないといけない。つかみ直してもう一度、置き直さないといけないです。もう一度、伸ばすのではなくて、自分の呼吸でまわして合わすのです。

 

 とにかく言えることは正しい練習というのはこういうものです。このくらいでやっと半分くらい練習の場にのれているわけです。だから多くの人がやっていることが一体何なのかを考えたら、それは全く練習になっていないのです。とても難しい判断かもしれませんが、それがわからないから伸びないのです。

 

自分が表現をそこに置いていけるかいけないか、創れるか創れないかです。「アンケセ」これだけでも創れるわけです。そうしたらそのことを3分間、1オクターブでやっていくというのが、歌の世界で、そこにはもっと、複雑な要素も入ってきます。覚えておいて欲しいのは、1フレーズを練習にするとか、あるいはステージ実習とかで1フレーズだけどこかで聞かせなさいと言っているのは、このレベルのことであって、そうでなければ誰でもできるわけです。

 

だから、歌のイメージをストレートにして欲しいということです。自分の一番、なかにあるところに入れたものが、そのまま外に出てくる。最初はそれは飾られていなくてよいです。下手に飾られていると後で大きくならないです。どちらかというと、回りのものを全部、はいでしまって芯だけが出ているような声の方が、一見音楽的でないように思えるかもしれませんが、それでよいのです。

 

バッティングでいうと、大きな振りをつくることです。たとえれば、先ほどの声にしても、そこだけ叫んでも絶対、音楽的には聞こえないはずです。マヘリアジャクスンも、牛の声といわれて出てきたのですから。トランペットでも、うまい人ほど、至近距離で聞いたら、大雑音にしか聞こえないわけです。

 

そのへんのスケールの大きさというのは、先につくらないとダメです。後で調整することとか、まとめることはできます。一つの音を大きくとるようなこと、フレーズを大きくすることは、間合いとか呼吸をとっていくということです。だから今のなかにより入っていく、より大きな呼吸をする。今まで浅いところで歌っていたことを、全身を使ってやっていく。一音でもよいから一音に対して、汗をびっしょりかくようなことをやる。そうしたら体が変わっていくのが早くなる。今はそういう土俵で練習してください。

 

当然、音程とかリズムのこともですが、それだけやっていてはダメなのです。このなかで音を感じていく、リズムを感じていくことです。皆さんの呼吸自体もリズムをもっています。ただ、音の感覚はある程度、勉強した方がよいと思います。音を動かすということも出てきます。

 

だから、聞き返してみてください。本当に荒削りで、今の音楽的とかいわれているサウンドやらの感覚やセンスからいうと、未完成ですが、だから、わかりやすいのです。そこまで力だけでもっていっても歌になってしまうという絶対的なところを、まず獲得して欲しいです。

 

細かいところは、あとからついてきます。どこからでも勉強できますが、根本をつかまないと後で大きくなりません。トレーニングのやり方を考えてみてください。

 

 

 

 

「コメプリマ」

 

 

「コメプリーマ ピュウディプリーマタメロー ペラビータ ラミアビータ ティダロー」(レミファ#ーレ シード#レーシソラシー ド#レミード# ラシード#ーラ ド#シファ#)

 

 流れをつくるとは、一つひとつバラバラに捉えないということです。音をまず「ハイ」と同じにしゃべるところで「コメプリマ」と言えること。ここで違う操作を加えないことです。口のなかであてる場所を変えたりすると、複雑すぎて体がつかなくなります。

 

「ファ#ーレーシ」以外の音をとっていかず、ポイントをとってつなげていく感覚です。イタリア語自体がそういうリズム、流れをもっているので、やりやすいはずです。

 

 強弱アクセントでとっていってください。「コメプリマ」と「コメプリマ」では、意味が変わってきてしまいます。音をとり、音質を変えないで、これだけのフレーズを強弱だけでもっていきます。そこから捉えるために、体をおとしていると考えてください。

 

今できなくてもよいですが、感覚を捉えてください。日本語が難しいのは、アクセントがことばと音楽で一致していないからです。それを、同じように語るには、体の力がより必要です。

 

「オニジョールノ オニスタァンーテドルチェメーンテ ティディロー」

(ソラシーソ ラシド#ーラシード#ーレーシ ド#ーレーミー)

 

 まず、このフレーズを4つに捉えることから始めます。「オニジョルノ」、「オニスタァンテ」、「ドルチェメンテ」、「ティディロ」ということです。「オ・ニ・ジョ・ル・ノ」とならないようにしてください。

それから、1フレーズ一つに捉えてください。そのあと表現していかなければならないので、自分のイメージ、音の世界で構築していくことです。この1フレーズができれば、課題はできます。

 

 難しいからといって遠ざけていくと、却ってわからなくなりますので、やはり一流のものから学んでもらうのがよいと思います。発声ができていくことより、歌が発声と結びついたり、その歌が同じレベルでつかめるためには、音楽、歌の感覚を身につけることが大切です。だから、2年の間に、その感覚を養っていくようにしてください。

 

 音程、楽譜通りに歌うことは誰でもできることです。そうでない歌の「感覚」を捉えていくことです。

 大切なのは、日本人の発声の部分で歌わないことです。一流にはすべて声の芯というものがあります。だから、見本はその芯があるものを題材にしています。日本人が身につけられず苦労しているのは、その「芯」をとることです。

 

 体の力だけでも、もっていけるところをつかんでください。カゼをひいていようと、頭がガンガンしていようと関係なく声が出る根底をつかむことです。体とともに、耳も養っていってください。耳がないと、いくら体が強くなっても、音楽的に表現するために必要な声がそれていってしまいます。

 

 

 

 

「恋する瞳」

 

 

「なにもいわないで そっと みつめてて」

 

 ことばの強さとかインパクトを薄めた分を音の感覚でフォローしてください。30を失ったら30を入れる。本来であれば30失って50か100とるために、ことばを犠牲にするわけです。流れないようにして、きちんと止めるところは止めて自分で動かしていってください。

 

課題の狙いに関しては、少しメロディのフレーズ処理、あるいは音の感覚の方をことばより重視します。そのときに、「なに」のところが2拍目、「も」のところが3拍目、「いわ」のところが2拍目、「ない」のところが3拍目となったときに、1拍目を大きく言う。浮遊感が出ないですから、そのまま入っていくと失敗します。

 

大切なところは、始まるところで1拍踏んでおくことです。そして、アップビートになります。「いわないで」もそうです。一つ踏み込んでアップする。音を捉えるときに体は動いていないといけないし、呼吸は動いていないといけないけれど、声は必ずしも全部、出ていなくてもよいということです。

 

 基本的に何をみせるかというと、この円をみせればよいわけです。「なにも」なら「なに」といえば、これから上がっていくとわかるわけです。これを全部「なにもーいわないでー」とやっていくと線しかみえないです。サビにももっていけなくて、ピークにももっていけないし、声も自分のものにならない。それなら、100出して100出ればよい方です。

 

普通は出せないです。表現が消えてしまいます。大切なことばだからといって、ここで呼吸しないわけでも、体が動かないわけではなくて,体自体は形できちんと動いているけれど、こういうところは前後までいちいち言わなくてもよいということです。

 

そうでないと、上にいったら上にいくほど、声量を出さないといけない。あるいは体を使わないといけないことになりますが、そうではないです。感覚としてそれをもっていたらよいので、実際に出てくる声量とか音とはまた違うわけです。

 

特にこういう曲の場合はそれがいえます。結局、それがフレーズとか節とか、その人のものとなってきます。「も」のとき、どうするのかというと、私が決めるわけにはいきません。

 

伊東ゆかりさんのを聞いていても、これは4つに分かれていないわけです。「なにも」「いわないで」「そっと」「みつめてて」こういう感覚では絶対ないわけです。まず1本つながっていて、それを4つで置き換えているわけです。

 

だから今まではというと、「なにも」と言っていたのを「な」「に」「も」と言わないのと同じです。それを何か変えていかないといけない。そのときに音の感覚をとっていくということです。