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ステージ実習①「知床旅情」
ステージ実習① 360523
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ステージ実習①コメント「知床旅情」
課題曲に関しては、以前は歌い方とか細かい点、解釈のことも含めていたのですが、最近はトータルで受ける印象を大事にコメントしています。あまり細かいところにこだわるよりも、そのときどきの目的、もっと大切なことがあるからです。それに気づいてもらうためにコメントしています。
この曲は、フレーズの課題です。大きなフレーズがあるので、力のある人だとかなり大きな歌になるし、力のない人になると、そこまで入り込めないで終わってしまうでしょう。そういう意味では「愛のわかれ」ほどではないですが、自分の力を確認するのによいかと思います。
加藤登紀子さんを模範にしてきた人はそんなにいなかったようですが、彼女は歌唱力も声もありますし、低いところも日本人のヴォーカリストとしては安定していますが、歌い方は最後の語尾を全部抜いています。日本語の処理の仕方としての一つの顕著な方法です。
しかし、最初からまねない方がよいでしょう。普通の人がまねるとポジションが変わってしまい、次の流れが(彼女みたいに戻せる人はよいのですが)、狂っていきます。どんどんと声が出にくくなってフレーズが小さくなります。1番のフレーズより3番のフレーズが小さくなってしまうのです。それを破ろうとするのは大変ですから、最後に浮かすのではなく、きちんと入れていくところを学んでください。
全体的に安心してみていられるように早くなって欲しいものです。終わったときに、評価基準が狂うことはありません。誰がみても、でき具合ははっきりしているものです。その基準をもって欲しいのです。
今日は何となく土台にのれているというのが2.5人くらいです。歌そのものの完成度ではないのですが、そういう基準が何を意味するかをわかってください。問われているのは可能性です。大きくすることです。人の見方によってとか、好き嫌いによって違うようなものでないことを、わかってください。きちんとした基準があるのです。これは説明するのに難しいのですが、少しずつわかってきていると思います。
そのことを、歌に対して出せることは、また少し違います。声に対してわかるということも違います。声の方が難しいという人もいますし、歌の方が難しいという場合もあります。後は意気込みとか準備のかけ方とかそういったものが出てきます。ややもすると、うまく完成しているようにみえる人ほど、表現的にまねている部分が多いのです。当人が最後までわからないので、それには気をつけてください。
リズムや音感をあまり注意されない優等生は、そのまま何も歌に宿さずいってしまう場合があります。こういうのをキャンパスヴォーカリストというのです。何となくヴォーカリストっぽくやれてしまう。本当のヴォーカリストが、その力が100あって、50ぐらいでステージをやっているとしたら、その50をめざして5のことをやって満足してしまう人のことです。
カラオケでもそうです。100ある人が50でまとめていくのと、5の人が5でやるのは全く違うのですが、ややもすると音響やマイクのエコーの助けをかねるとそういうふうに錯覚していきます。それは通じる、通じない以前の問題で、単に消化しているというだけなのです。できれば入門から①にいる間に、そういう域から出ていって欲しいと思います。
声も体も、もっともっとさかのぼっていかないといけないです。音楽観も表現もです。自分が今までやってきたことは、20年どっぷりひたって生きてきたという人なら、20年のキャリアとしてもよいのですが、日本で育った多くの人は集約してみたら音声表現に関しては1年ぐらいのものでしょう。
そうしたら、音楽に関しても、自分の表現に関しても、もう一度、根本から疑い、果たしてどんな土台があって組み上がってきたのというのは、このぐらいの時点でチェックしていくことです。
その人のものでなければ伝わらないものを築いていくというのが最終的な結論です。ここでみているのもそれだけです。歌がきれいに歌えているとか、うまく歌えているのはみていません。その人のものが出てきているか、体から出てきている、声から出てきている、息がみえている、音楽が出ているということです。
リズムや音感に関してもです。私よりリズム感がよい人もいます。それは、私よりリズムをつくる力がある人です。ピアノでもそうです。ただ、間違えずに弾ける人はいるでしょうが、仮にもプロのピアニストといったら最初の出だしのところで一般の人と違うことができます。
最初のドレミレドを弾いてみたら、それでわかってしまう。そういう基準というのは、好き嫌いではなく、早く弾くとか遅く弾くとかいうことではないところで、その違いを支えるものが技術なのです。
もっとわかりやすいことばでいうと、思想があるかどうかです。ここで、一流の人をみて、そこから学びなさいといっているのも、思想、生きざまを学ぶのです。必ずそういったプロセスを踏んできた人とか、できている人というのは、行動を支える思想があるのです。
画家であってことばを使わない、文章を書かなくてもよい人でも、一流になった人はそれだけのことは話せるわけです。そういう人の書いた本や発言集を読んでみればよいです。そのへんの評論家なんかより、よほど自分のことばできちんと自分の世界を組み立てています。
自分の世界を知るためにもがき、他と区別し、自分の世界を確立するプロセスで考えていくとは、ことばとして発されてくるのです。そのことばが、その人の世界を支えるからです。そういうのが一気にできるわけがないでしょう。その世界が人に伝えるときに、わざわざ話したり聞いたりしなくとも、その人の専門であるメディアを通して出てきていると考えた方がよいわけです。
この場合のメディアとは、歌や絵や小説です。そういうのは生き方の問題なので、1年でつくれとか、この研究所で学べということでもないのですが、ただ、何らかの形がすでにあると思って、そこに固執していると、その分、遅れてしまいます。
自分が、人並み以上に語れてないのに、つくった(というつもりの)世界が人の心を打つわけないのです。ここでやっていることが歌や声であると思ったら、そこから出られなくなってしまいます。あくまで私が10分の1ずつ材料を出し、10分の9は、皆さんが書き込めるところを残しています。それを書き込むことがトレーニングです。書き込む力がつくことが上達です。それを間違ってしまうといけないです。
BV座もつまらなくなったら、私は出ません。もう一度行ってみて、またつまらない思いをしたら0放り出します。自ら、つまらない人生を選択すべきではないでしょう。そうやって生きないと、いつまでもつまらない状態でしょう。多くの人は、そこで妥協して拍手する。しかし、妥協したくなければ、自分でつくり出せばよいのです。
ここでやらせていること、あるいはおいていることというのは、私がつまらないと思ったら、私という一つの価値観から、必要のないものはおいていないのです。必要ないと思った時点で、私はやめています。アテンダンスシートも冬休みの課題も、歌うために何を書き込むかというところもそうです。そういうところのものをきちんとこなすかどうかが、トレーニングの期間に差をつけていきます。
それは言うべきことでもなく、当人がとり組めばよいわけです。ここで納得しても、その日の行動、次の日の行動に映らないと何にもならないのです。ノウハウがあるとかないとかいうことよりも、どうせ集まるなら、退屈な時間、場所にしないように一人ひとりががんばることです。
パワー×時間×心です。2年たって身につかなかったからもっとやりたいという人には、私は「では、今度は目を開いて、2年過ごしなさい」と言っています。目を閉じている人、目を開いているのに見ようとしない人ばかりで、それなのに見せてくださいと言われても困ります。いつも見せているのですから、それを捉えることです。そうしなくては、次のものを見ても見えません。
たとえば「知床旅情」の歌の課題でも、一つの仕事として受けてみてください。それをプロとしてやるのであれば、自分のお金を出して知床まで行ってその風にあたってくるくらいでなくてはなりません。お金もかかる、時間もかかるかもしれませんが、そうやって一つひとつのことをこなして力をつけていくために、トレーニングの期間があり、練習があるのです。
実際の現場に行き、活動に入ったら時間なんてないのです。そこのなかで、基本があった上で応用をやるわけですから、今、忙しいといってやらずにいつ、やるのかを問いたいのです。基本に使える期間のときに、どこまでそれにこだわれるかが、あとのことを決めます。徹底して他の人と差をつけ、自信をもっていくかです。そこでできなければ、それに代わるだけのことを自分なりにやっていかないといけないのです。
自分が歌う音楽の世界はこうだとか、ここにある課題は自分には必要ないなどと言って、場に関わらないでやっていくと、何も吸収できなくなり、結局、何年たっても自分が思っただけの世界でしかありません。世界のつくり方というよりも、皆さんの意識のなかにある歌の世界はこうだという思い込みを早く壊し、そのなかを整えていこうとするのをやめ、根から新たに提示する力をつける方が大切です。それに人に学ぶことが必要となるのです。偉大なことを成し遂げた人で、一人でやった人はいません。
私がみているのも、パワーや勢いです。歌がめちゃめちゃでも何かおもしろいやつだと笑いこけている間に終わったとしたら、それが一つの力です。それがあってこそ、次に技術におちてくるのです。それがないと本当に形だけの世界のなかを、いくらちまこまやっていても誰も認めてくれない、趣味の世界になってしまうのです。趣味としてやっていくのも音楽の道ですが、それを決めつけて逃げてしまわないことです。大切なのは“おじサン”たちのつくった、「音楽界」で受けようなんて浅ましいことを考えず、自分の世界を提示することです。音楽は音楽のなかにあり、音楽界のなかにあるのではありません。
歌なんて永遠にわかりませんし、声も永遠に完成しません。だから、おもしろいのです。結局、自分が出したいというところに伴うところまでくれば、おのずと活動しようかということになるのです。そのときに、高いレベルをめざしていないと、出て終わりになるのです。一つひとつがプロセスの時間です。声に関しても、体に関しても、体の原理まで心の原理までさかのぼることです。音楽に関しても、表現に関しても、その作業をすることがもっと問われるべきです。
そうでなければ合宿であんなメニュはないし、モノトークもここでおきません。昔は必要なかったからやらなかった。今は必要だからやっている。そうしたら、自分には必要ないと思わないで、自分もたぶんそうだと思うことです。20名近くは先の2.5人の中に入っていないということです。
動きということに関しても同じです。声そのものを一つの動くものとして捉えることです。それを動かす。動かしたあとに、また止まる。そして動く。その動きが、音楽を描いているかということです。こういうフレーズのなかにその人のタッチ、もっと言うとその人のつくってきたリズム、音というのが出てこなくてはなりません。
聞いた音をきちんととっていくことだけをいくら歌に出してみても、表現にはなりません。それは表層の部分に過ぎません。今はもっと深いところをめざしてやること。それが基本です。
体の動き、心の動きも、それが止まる、動くとき、それが「知床旅情」になったときにどうなるのかを問うのです。それを自分のイメージや雰囲気だけで流してしまうと、納得させるものでなくなってしまいます。計算だけで頭だけで歌っていると、上すべりのことばだけになってしまうわけですが、そこでフィーリング、感覚が出ないといけません。
ということは、練習のプロセスのなかで、全然ふみこんでいくことができていないということです。フィーリングもタッチもそこを煮つめてこないと、単に歌うならカラオケのおじさんおばさんでも歌えます。もっとうまくそれっぽく歌えるでしょう。
それっぽくならないためには、自分の体と声、そしてそれを使う技術とフィーリングがいるのです。音程がとれなかろうと、途中で歌詞を忘れたり、めちゃめちゃになってしまっても、自分のフィーリングや価値観、感覚をそこに出していくこと。常に出し続ける努力をしないとなりません。
真に出せなければ、それを悔しがって、次のときには、ということで煮つめていかないと、2年でさっと曲を24曲やってしまった、毎日ここに来ることに頑張ったというだけで終わってしまいます。
リズム感、音感を先に問うても、声の方がだめなら仕方ありません。声の方がまだシンプルで、体から出せるので、それからやってください。要は、その人の中に歌が流れているかどうかということなのです。
「知床旅情」では、その感覚のある人が一人だけいました。その人の中に歌が流れていなければ、歌ってみても課題をこなしているだけになります。モノトークのときも厳しく言いましたが、自分でそこで揺さぶられるだけのものをもってこないといけない。そこまでイマジネーションをふくらませないといけない。
日本の歌で、時代は違っても、それで出せないくらいなら、自分の世界などどこにもないです。あれば自分の世界に、もちこんで歌えばよいわけです。自分の音感、リズム感があれば、その歌のなかに出てきます。別に「知床旅情」っぽく、加藤登紀子さんっぽく歌う必要はない。ない代わり、何をやらないといけないかというところをやっておかないといけないでしょう。
ここらで歌うのではなく、本来は自分のなかにその曲の世界が流れていて、ずっと心のなか、頭のなか、体のなかに浸透してきて、それがあなたの「知床旅情」として出てくればよいわけです。知床を見たことがなくてもよいのです。仕事ということで受けたら、足を運んで、そこで勝負していかないといけないでしょう。それを自分のなかでイメージをふくらませ、その音感をどう捉えていくか、リズム感をどう考えていくか、フィーリングをどう捉えていくかと、心にならしておいて、体に流しておいて、声に流した上でとり出してくるのが練習です。
それを全然やらないで、メロディと歌詞だけ覚えてぱっと来て、ぱっとそこから歌おうとしたときに、できるわけないのです。声もポリシーも歌も、その人のなかにあふれていないといけません。何も思わせないで伝えるのがパワーなのです。外に出す力に貧弱さを感じます。今は、それを入れていく期間だと思ってください。
既存の世界の内でやるより、世界の大きさを決めないで、提示していくようにやっていくことです。安心してみていられるというのは、歌がうまく歌えている人ではないのです。その人なりのことがその人の表現として出てきている人です。それを探るためなら一時、めちゃくちゃになってもよいのです。
それだけ葛藤していくと、何かしら、そこから出てきます。それを生活にもっている人もいれば、練習のなかにもっている人もいるし、あるいは頭や体のなかにもっている人もいるし、それはいろんなタイプがあってよいと思うのです。
それとともに、それを続けていくうちに高まっていくかということがあります。ある時期、よしと思える人が、急に失速してしまうような場合があります。心が満たされたり、やりたいことができてきて、目標が遂げられる見通しがつくとそうなりやすいのです。しかし、その期間は、とても大切で、それ以上のこともやっていかないといけません。定着できないからです。
私が研究所をやっているのも、これも一つの勝負事だと思っているのです。一人よがりにならないために、声や顔をさらす。ボクサーと同じです。打たれて強くなるのが学び方です。その同じ勝負のなかでも、その勝負にのっているということ、あるいはのれなかったということがわからないまま、単に才能の差や声の差ということで歌を諦める人はなくしたいのです。
そのためには、まずのっかって欲しい。のっかったところで距離があって、そこまではできなかったというのは構いません。自分にやるような意志やパワーが、それ以上、加わってこなかったというのなら、それはそれがその人の器なのでよいのです。
それが他の人にいろいろ言われ、うまくならないようになってしまう、のどがつぶれたり、声が出ずにうまくならないということであきらめることをなくしたいと思います。せめて、人よりも努力が及ばなかったということで、自分の適性を知る形で終えるべきでしょう。全員が全員、プロになるとは思わないし、なった方がよいとも思いません。
それだけ一つのことに賭けるということでは、犠牲も強いられます。これはあくまで、一つの才能を出していくために組み立てていく生活です。生活までおろしてくると、歌というのはもっと自由にいろいろと違う使い方があります。ノウハウをここでとろうと考えるよりは、一つの学び方があることを学んでください。
歌や声へどうアプローチするのかを学ぶのです。少しでも、私も極力、皆さんの負担を減らそうと思いながら、残さないといけないものだけは残しているつもりです。ならば、残ってきたものを最大限、活かそうとしている、その意味を知ってとり組んでもらう方が、皆さんにとって得だと思います。
一人でやっていってもよいのですが、やっていることが道からはずれてはいけないわけです。結局、人間が相手でやっていくことで、自分の体から表現するのです。そうしたらやはり、人との勝負からおりるのではなくて、まっすぐの道を行くべきで、その一つがこの場だと思うのです。今の日本の音楽界などの方が、声の捉え方では袋小路に迷い込んでいると思ってもよいでしょう。ここは、迷いはありません。体一つで表現するステージだからです。
自分がやったことが正解になるために、実績を残さなくてはいけません。他の人に対して勝負できないところでいくら固めていっても、それは認められないでしょう。認められないでやっていくのであれば、自己流で発声をやって、歌を歌っている人はいくらでもいます。
ただ、絶対にどこかでコミュニケーションをとるということで、それには、正攻法をとらないと仕方がないのです。トレーニングでやっていこうとしたときに、実績を一つひとつ積んでいくことです。その実績の捉え方を間違ってはいけないということなのです。だから、ここで自分と作品を主張するのです。
減点法で歌を捉えても、仕方ありません。何を、どれだけたくさん、そこにオンできるかということで、しかも今よりも将来的に対してオンできる方向に、今やっているかどうかということです。ここを卒業した人から、声の勉強よりも生き方や人生、社会人として勉強になりましたとかいう礼状がきます。ありがたいことですが、それもおかしな話で、そうしたらその人にとっての歌は何だったのでしょう。人生とか社会の勉強になったものをその人は、歌として出していく道を選んだからヴォーカリストなのでしょう。そのことを分けていること自体、おかしいと思うのです。
その人の生きていく道のなかに音楽や歌が流れていないから、ここで私が言っていることが、社会勉強とか会社の仕事をやるために役立つのです。むしろ、平穏な社会であることがストレスになるぐらい、自分に歌の世があるから、社会で虐げられていても平気だというぐらいのものがあってしかるべきでしょう。
もし、歌や音楽でやっていくというのなら、対社会、非日常としてベクトルは向けるべきです。もともと歌も芝居も、お上に喜ばれるような社会的なものではないからです。今日の話でもここでは歌のことと、声のことと、声をきちんと表現として使っていく方向でアドバイスしているわけです。
私は、処世術を言うつもりもないし、皆さんの生き方に影響を与えようとは思っていないです。歌がよくなり、声で表現できるために必要なことを述べているだけです。そのへんも、少し勘違いが多いようです。
上達するには、一流になった人をみるのが一番よいと思います。司法試験みたいに、やるべき範囲が、とりあえず決まっているものもあります。しかし、それは最低限のきまりで、社会にある多くの問題に対して頑張らなくてはいけないでしょう。
歌には資格はありません。資格を取ったからといって関係なく、何ができるかという世界です。入るまでのことはあまり関係なくてよいのです。入ってから何をするかということです。ややもすると、ここに入ると、もうやっていけるというつもりになる人がいます。自分の世界をつくっているような仕事でしょう。そのままでは、今までの人のコピー以上のことはできないでしょう。
一流になった人というのをみていくと、その理由というのがあります。自分の語ることばをもっています。そうしたら、そのことばというのは、どこでつくってきたのでしょうか。皆がアテンダンスシートを書いていたわけではありませんが、多くの人がノートをつけていました。
私は1日も欠かさず、つけていました。もし、同じ才能だったら、永遠にそういう人に追いつけないということです。やっている人は、それ以上のことをやっています。そのきっかけとして、シートを皆さんに出し、返ってきたもの全部に目を通しています。それが、コミュニケーションです。声や歌でアピールできない人の学ぶ手段です。どちらもできるくらいのパワーはあるでしょう。
もう一つは、一瞬の完全さにどこまでこだわれるかということです。「知床旅情」のなかのたった一つの歌詞にどこまでこだわれるかというくり返しも、その世界をつくっていくのです。そのこだわりがなければ、歌でやっていく必要はありません。歌を歌おうということ自体も、こだわりなのです。それがないと、食べられないわけではないです。
そこにこだわれるか、こだわれないか、そのこだわりがどこまで続くかということだけが、ある意味では(才能というところを抜きにしたところでの)プロの世界と、そうではない世界です。そのこだわりをここで出さないと、単に歌を、何か与えられたものとして、ここで消費してというようでは、カラオケマシーンみたいになってしまいます。
ここで、自分の可能性を出すために、どういうステージをすればよいかというものを考えてください。今の皆さんのちっぽけに完成された世界を見たいというのは、誰もいないです。誰もいないから皆さんは皆さんの舞台に対して、お金を払おうとは思わないのです。そうしたら、やらないといけないことは、それは完成させていくことではなくて、それを大きくする。大きくなる可能性を、ここで出していくことです。
その可能性を自分がやってみて、1フレーズから自分の可能性に気づくことです。これが2段階。そうしたら、気づいたらそれをきちんと出していけること。これは全部に関してです。声に関しても体や心に関しても、歌のタッチ、音感、リズム、ばらばらにいろいろありますが、それをまとめてくみ込んでいくことです。
それから、歌は正直ですから、今日歌ってみたらどれだけのことを執念こめてやってきたのかが出ます。あがったりして実力を出せなかった人もいるのですが、やはり底力と思い入れはそれなりに出ます。途中で止まろうと失敗しようが何をしようが、どれだけのことをそこで煮つめてきたかが問われます。そうやってここの場を動かします。この雰囲気を変えないと、前と同じような場の雰囲気のまま現われてきて、そのまま終わったら結局、何もあなたは出せていないということです。
だから、流すことをやめること、体の中心からしっかりと捉えること、そして、もっているだけでなく、つかんだら前に出さなくてはいけません。何かをそこで出さないといけない。声を通じて表現する何か。その何かというのを常に自分に突きつけていかないといけません。それが出てきたら、場が動きます。
常にオーディションと考えてください。ただ、それを奇をてらわないこと。ああいう雰囲気にやろうと自分を投げ捨てて、受けねらいにのせてしまわないことです。それをやると早いのですが、あとまで器用なだけで何も出てこないということになってしまいます。
声優になろうとしている人のつくっている声も、そういうものが多く困ります。アテレコというのは、漫画のキャラクターの動きに、声をあてていくわけです。口をパクパクしているところに、いくらあてても、その人物は動き出しません。アニメの動きが本当に動き出すように見えたら、やはり自分がその人物になりきって、その感情をもってやらないと命が吹き込めないわけです。だから、音にあてているだけの歌というのは、まずやめることです。それを動かすために、自分の方ではどうしないといけないかということを勉強していくことです。
3分というのは、非常に長い時間です。きれいに歌うことよりも、ここで存在感を出すためにどうすればよいかということを、毎回、試していくことです。まず、自分で動かしていこうと意図することです。そして、この場を支配していきます。
トレーニングの力が抜けたときに何となく出している声が歌になって聞こえてきたり、感覚が音楽と一致してくるようなことはありませんか。そういう体験を何回も一つの歌で体験しましょう。1ヵ月でまとめることは無理でも、今、数千回やっていたら、1年後か2年後にこの歌をやったときに、何か気づきます。別の意味で気づくでしょう。
要は、今は動かしていることが、次には動かされるような感覚になります。それが歌うための勉強ではなくて、歌を歌うための勉強になります。トータルにいろんな面において、それだけのとり組みをしておくことです。
曲をたくさんこなしても、それだけでは何の意味もありません。一つの曲で、たくさん理解していくことです。そのために、いろんなリズムや音感の入っているものの方が、勉強になると思います。自分の好きな曲ばかりやっていると、ひたってしまいますので、気づきにくいものです。
どう歌ってみても、曲が好きなわけですから、自分の力がなくてもよく聞こえるわけです。そういうところも一度、裸になってやってください。
あとは、自信をもってやっていくしかありません。1年後、2年後の自信は、たぶん素人なら人の3倍やれば少し自信が出るでしょう。もしプロでやっていくのなら、人の10倍ぐらいやらないといけません。やってきた人ばかりのなかでやっていくのですから。10倍ぐらいやってはじめて、一つの自信になるというような感じがします。
全部を材料にしてください。他の人を自分のために使ってください。自分の出番はわずか3、4分ぐらいです。でも、一瞬で永遠をつかむ時間なのです。他の人が、時間を割いてやっているときも、自分に置き換えて、そこから気づいていくことです。
自分で一人でやるときの方が勉強になるのなら、一人でやればよいのですが、それを続けるということは大変なことです。研究所を利用すると、刺激を受け、気づくということです。長くいると、一人でやっていたら、どうしても気づきが少なくなってくるからです。
ですから、ここに来たときにどれだけのことを気づいて、そのマニュアルをつけ加えていけるかということを考えてみてください。真剣にとり組めているときだけ、学べます。
学べている人かどうかというのは、わかります。まず、学べるようになって欲しい。これにはノウハウはないと思うのです。その人が絶対それでしか生きていけないとなったときには、しぜんとそれが身についてきます。
いろんな生き方、いろんな時間の使い方があります。学べるようにするノウハウというのは、学んでいる人がいたら、その人をみることです。それが一番よいでしょう。
皆さんにとってみたら、身近なのは、講師やもう少し先にいる人たちで、きちんとできている人です。たくさんレッスンに出て、たくさんのものを書いています。
それ以上のことをやっていれば伸びます。レッスンをみても違います。新しい人たちは座って待っているだけです。早く来たらどうするか。柔軟体操をすることも含めてノウハウです。切迫感、目的意識のない人に、うまく学ばすことはできないです。
イメージの問題もあります。皆さんはいろんな仕事をしたり学校に行ったりしています。講義を聞きながら歌のことを考えろとは言いませんが、そういうときに、どうしているかでしょう。
皿洗いしているときに皿のことしか考えてない人と、そこに音楽が流れていて、そこでリズムをとっていて、いろんなことが気づける人と、差があります。
ヴォーカリストの場合は、今、それで食っていくとか資格試験みたいに何月何日デビューとかそういうものがないから、モティベートがつきにくいのですが、そこは自分でつけていかないとだめなのです。
だから、ここの2年も、2年たったらデビューというステップを一応ふんでみる。2年でできなくてもよいが、やるつもりで本気にとり組む。ただ、2年たったら、甲子園の決勝に出てみるつもりで、今から野球を始めてみるような緊迫感とか緊張感というのはもっていないとならないでしょう。
舞台に出たときにお客に見放されてしまいます。人をひきつけるというのは、難しいです。
まわりから学ぶにも、どのレベルで学ぶかということです。なるだけ深いレベルで学んで欲しい。今は、ことばだけで学んでいる人が多いですから。
たとえば、息を吸うときは口からなのか、鼻からかという質問を受けます。ことばで言うと、鼻から入れることなのですが、実際、息を入れるということは、ヴォーカリストのなかにはないわけです。
トレーニングなら、鼻からと答えるのですが、基本的には体が動いていて、入るところから入っていっているだけなのです。
鼻から入れているのなら、鼻がつまったときには歌えないということです。そんなことで不自由になりません。そういうことを自分でみるのではなく、体からよみ込んでいくことです。
それをことばで受け止めてしまうからだめなのです。
当人が吸っているという意識はなくて、鼻から入っているのは、吸っているわけではないです。説明を求めたりトレーニングのメニューにしたりするから、そうなります。
体でよみ込むというのはそういうことです。本から読むときにも、ひっかからないために、自分で書いてみることは大切だと思います。
ここにきていろんなものを提出しないといけない、なぜ書かないといけないのか。
今は歌がうまいとか下手ではなく、下積みでしょう。
一つの課題を与えられたら3枚しか書いてこない人もいたら、50枚ぐらい書いてきている人もいるのです。50枚も書いたら損だと思ってしまうのですか。まず書けますか。1曲を100回で覚えられる人の方が得で、1000回歌って覚える人の方が損だと思ってしまう。学んでいるときには逆なのです。
どんなに不器用であってもよいから、1000回やれた方が、100ページ書けた方がよいなのです。一つのきっかけで大切なものに気づきますが、その一つにめぐりあうのに機会は多いほうがよいでしょう。
そのあたり、あんまり器用にいかないことです。こういうことに関しては、何でもやってみないとわかりません。やっただけのものがでてきます。それを出せるところまでやらないといけないのです。
不器用な人は時間がかかるかもしれないですが、結果は必ず出てきます。続けていたら出てきます。
そういう意味でいうと、今考えて欲しいのはもう一度自分の体や精神、心のところまで戻ってみて歌のところまで汲み上げていくようなことです。自分の体でみないといけない。それを相手の体でみて、もう一度自分の体であてはめていかないといけない。そういう分野です。
ことばだけの質問がよくきます。わからないのがあたりまえの話で、ことばで受けとめているからだめなのです。それぞれの人が違うイメージのものをどんどんつくっていくことです。リズムでも音感でもそうです。楽譜に書かれたものではない。楽譜に書かれていないところを伸ばすのが活動です。
それを教えられるかといったら教えられないです。こうやってイメージを喚起させるか、一つの例をみせて、その一つのタッチから自分で自分のタッチが何なのかを問い詰める。これが自分を知るということです。
1年目に関しては自分を知ることをやって欲しいです。みんな自分と違うと思うのです。今まで使っている自分が間違いとはいわないですが、それを1回放り出してしまうことです。
これは何回もいっているのですが、全部すてたところで残るものは残って、その残ったものは裏切らないです。あとのものは邪魔をしている場合が多いです。
自分がこういう人間だと思ったり、たまたま何かの時期に聞いていて好きになっただけの曲で、他のものを全然聞かないで決めつけている場合が多いわけです。そのぐらいの柔軟性をもつことです。
課題曲はいろいろです。みんなには、合わないもの、腑におちないものも多いでしょうけれど、目的があります。そのぐらい巻き込んで、一つの自分の世界を出せるぐらいの力をつけてやることです。それが一番ここの場の勉強になり、わかりやすいと思います。
音がついてくると、バンドのテンポとも合わせなくてはいけなくなる。だんだん皆さんの自由度がなくなってしまいます。助かるとしたら、誤魔化しているのです。ですから、それがわかるまでは、アカペラです。
基本というのは何かというと、自由度がなくなる前に自分の自由にできるところを全部つかんでおくことです。ピアノが入ってきたらリズムがついてくる、それにあてて歌っていたら絶対だめなのです。
そうなりがちなので、今の自由なときに、できるときにリズムや息のことを学んでおくこと。自分のものにしておく。そうしたらピアノがそういっているものに対して、それをふまえた上で自分でつくり出すことができるようになってくるのです。
なるだけ体一つでやる期間というのは大切にしておいてください。バンドがついてステージになったら、こんなレベルでの注意はできません。音がはずれているとか、ことばが聞き取りにくいからもう少し口を開けてとか、になるでしょう。基本とは、そんなことではないのです。そんな注意を受ける時点で何らできていないのです。
うわべを直すときに器を大きくするのは無理なことです。
最初こそがもっとも大切な時期なのです。
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ステージ実習①コメント 360523
声が出る人はいるのですが、発声が表立ってみえるというのは、表現としては嘘だと思ってください。もし自分で歌っていて「発声で歌っている」とわかっているなら悪くはないですが、のど声であろうと、声そのものに関して、きちんとコントロールして表現できているなら、そんなに細かく言わないようにしています。
技術がみえるというのは本当ですが、もっと本質的ものがあります。技術というのは正面できちんと受けて返していかないと、みえてきません。もっとも単純なことで言うと、フォーム、美しさが出てきます。
これは何事でも言えます。発声というのは、この場限りでいう発声です。発声がみえるという意味での発声ということなら、それが前に出て歌が遅れをとっているということです。
自分が人前に出ていける力をつけていくことから表現が前に出ていないとしたら、それはうさん臭いものです。自分が人前に出ていける力をつけていくことからそれていると思った方がよいでしょう。多くの人が、これで間違っています。自分では歌っている感じがありますから、よくないことなのです。
はじめに押さえていかないと、それで3年、5年棒に振ってしまうこともありますし、一生そのままいってしまう人もいます。声が出てくると気をつけないといけないのは、そこの部分です。
たとえば、発声が技術のところまでいっていたら、今回の課題でいうと「アメリカ」のところ、「おとこ」のところは全部、踏み込めるはずなのです。森進一さんのでも、まっとうな人のを聞いてもらったらわかります。絶対に表現が一声に流れていないでしょう。
そこが一つ、結局、自分がくるくるまわっていて、軸になっていないというのは気にかかります。集約しないといけないです。一つの表現を集約して、それで方向性をつけて出していかないと、相手には伝わらないのです。自分でくるくるまわって何を伝えたいのか、自分でわからなくなってくるのは醜悪です。
新しい人たちは、よくわからないままに、わからないというのは何かあるだろうと思って聞いていましたが、今日の評価は、久々の最低です。
フリートークよりも歌の場合というのは、もう少し楽だと思っていませんか。ステージに立った時点、立つ前から勝負は始まっています。そこから自分のところに集約していかないとだめです。
その場の雰囲気に感じて、まず出せる状態をつくり上げてやることです。そうしないと、1曲終わっても、終わったという感じにならないです。ここで勉強しなくても、まわりの人と比べなくとも、出てきたときにその人がプロなのか、聞く価値のあるという判断は、ほぼついてしまうのです。
歌う前につきます。そうでない人が歌ってうまかったとしたら、それはまた一つの威力だからよいのですが、やはり格みたいなものが備わってくるのです。格を備えるためにここに来ています。少なくとも意識して前に出さないといけないのです。
それから、歌のなかで自分で転じていかないとだめです。流れないということは、同じような形に歌というパターンにはまっていくからです。
まっとうに歌っている人、あるいはそれを自分で出している人というのは、微妙にそれを変えています。同じフレーズでも変えている。型にはまってきたら、その効果を狙っているとき以外は、必ず転じさせます。
だから、同じのりでいくというのではないです。微妙に自分できちんと組み立てていって(音声で聞いている人にですが)はじめて、表現の意味が生じるし、それから伝わるのです。
だから、ギターでもコードの中だけで弾いていたらそれっぽく弾けますが、流れてしまうのです。ピアノでも、少し速く弾いたら、素人は流れてしまうのです。どこも止まれなくなります。これは、基本の力がないからなのです。
プロの人は、そこでふみ込みます。ふみ込むと共に、浮かします。そこの動きのなかで一つのバランスをとっていくというのが音の表現の世界です。それに気づいていくことが必要です。
歌のなかで流れを止めないこと。流れを止めてよいところは、本当にブレイクするところだけです。どこかで切れて、切ったということをみせるところ以外は、ある意味ではその都度、終わっていったら、その都度、新しく歌を歌い始めないといけない。
すると、1曲の歌でありながら、10曲の歌であったり、5曲の歌であったりということになります。1曲の歌はやはり1曲の歌のなかでけじめをつけます。そのなかで構成して、どこかにピークをもっていって、そのピークに対し高めていく、そこから落としていく。
それを音の世界でやるときには、結局、この空間とか時間に対して、それを動かすということと止めるということをやらないといけないのです。流れは止めてはいけないけど、空間や時間は動かさないといけない。
これは表現の基本です。演歌でもトークでも同じです。呼吸に合せて、その人の体や心の動きに合せてということです。だから、そこで徹底して自分の時間とか空間の出し方を覚えていかないと、バックやピアニストがつくと巻き込まれてしまいます。
ピアニストは演奏しているし、表現している。ところが、ヴォーカリストが単にそれにのっかっているだけで、逆はあまりないのです。逆になってこそ、歌は聞えてくるのです。だから、表現しきっていくことです。そうしてなるだけ、音の世界に近づいていけばよいと思います。
発声がうさん臭いというのは、結局、単純に日本人の感覚から、違うのかもしれませんが、最初は抜くというところはないと思えばよいです。表現の仕方だと抜いているようですが、抜くのではなくて吐くか吐き切る、吐き捨てる、その反動ぐらいの感覚で捉えておく方がよいです。
そのようにやっていないと、そこの部分というのは、ゆるんで弛緩した退屈させる部分になります。ただ、日本人のなかでは、それをやって、次にふみ踏むという形でもたせて構成している人もいます。
どちらにせよ、なかなか大きな線が出てこないです。その結果、大きな意味で歌にひきつけられたり、感動したりというのがなかなかできないのです。ひびかせるとか当てるとかそういう感覚も、歌のなかでは除いていった方がよいと思います。吐き捨てる、言い捨てていくぐらいの感覚で表現していく、伝えていった方がよいと思います。
伝えるというのは、相手に作品を渡すのですから、べったりしがみついていないことです。これは、メロディックな曲に関しても同じです。声自体は浮かしているかもしれないけれど、それを支えている息や体に関しては、遊んでいるわけではないのです。
当然、そこに何か込めているわけです。感覚的なものです。だから、体を使うこととか、息を吐くことで疲れるのではなくて、その感覚を集中させることで、かなり疲れるわけです。強靭な気力にパワーがいるのです。
それから、歌のモデルというのは、あるわけですが、誰かが歌っているとしても、そこから表向きのものをとってこないことです。そんなことをして歌から制限されると、元を歌っている人たちよりも、器が小さくなるのはあたりまえです。
そうならない前に、その歌を元に、自分の出し方を組み立てていかないといけないし、それを表現しないといけない。その歌い手のくせとかやり方を全部とっていくと、結局、その歌い手より小さくなって、あなたの世界を提示することができなくなってしまいます。安っぽくみえてしまいます。
まず、自分を知ることと、自分が何を表現できるのか、あるいは自分の武器は何なのかということです。そこにその歌をもってこない限り、いろいろとやるほど醜悪になってきます。
カラオケで歌っている人が、勢いか何かで自己満足していればよいというところでは歌えていますが、ステージの場合は、あくまで表現ということ、あるいは歌ということで問われます。その人が出てこないと、その人のフレーズとかその人がどう歌を解釈して、どう伝えたいというのがなければ、全く意味がないです。つまり、その人が歌う必要がないということになるからです。
基本の力がつくというのは、自分が何を伝えるのか、そのために何をするのかということがわかってくるということです。これがわかっていないと、技術も身につかないからです。
いろんな伝え方があります。一人の人間が前に出たときに、それにアクション、表情とかいろいろなもので加えますが、ここで問いたいものは音声です。音声がない部分は、他のことで補っていけばよいわけです。徹底して音声の可能性を広げていくことに時間をかけていきたいというスタンスです。その上に加えるのです。日本で多くの人が安易に他のものの力に代えてしまっています。それをせずに、まず、音声を一本、通すのです。
価値を加えるためには、自分の魅力を知っていないとだめです。どうやったら醜悪と見られて、どうやったら魅力的に見えるかということ。それは別に顔がよいとか、スタイルがよいとか、衣装がよいという、そういうレベルのことではありません。
一つのものを表現したときに、どういう顔なら一番相手に伝わるのか。どうしたら空回りしてしまうのかということ。顔、声の表情です。それが一つになっているかなっていないかというのは、みえるはずです。ステージでは、いつにもまして魅力的でなければならないのです。
本当に本質的なところから体と心をとってきてやっていく。皆さんが今やっているのは、柔道や剣道を習い始めたような形のぶきっちょな部分がみえて、美しくありません。たまに、すーっといくところが出てきて、やがてそれが形としてぴたっと収まってきます。すると、フォームが実際歌っている姿そのものが歌っているように見えてきます。
そうでない人は、立っているとしかみえません。ステージをみるときに、音を全部とめて聞いてみたらよいでしょう。そうしたら、その人がどのくらい大きく歌っているのか、小さく歌っているのかわかります。
体で表現されて一体になってきますから、口の形をみなくてもわかります。その動きから勉強するのは難しいのですから、体は自由にしておいて、自分の体のなかに音が宿ったり、歌が宿ったときにその動きを制限しないことに気をつけてください。
振りつけは、もっと伝えたいということの動作での表われであったわけです。形から真似していくのでは全然、声と体と合いません。アイドル歌手をみていたらわかります。いかにもとってつけで、歌の流れと伴奏と振りが一つになっていない。こういうのをアイドルでない人がまねることが醜悪だということです。とても安っぽいからです。
アイドルは別の要素でもちます。まっすぐ立って歌っているよりも、いろんなことをやった方が、かわいさが倍増するし、トータルでのイメージ、印象で勝負をしているからです。望まれる振りつけというのがあって、その振りつけによって、一つのはめ方というのがあるわけです。
それは、彼女たちの特性を一番、活かすということで、彼女たちが知っているかわかりませんが、少なくとも、まわりの優秀なスタッフたちは知っているわけです。ただの女の子をどういうふうに化粧してどういう髪型にして、どういう衣装をつけてどういう振りつけをすれば一番、魅力的にみえるのか。そこまで徹底してやって、伝える素材ならよいのですが、そうではない場合はやめるべきでしょう。
それ以前の問題もあります。ライブというのは聞いている人の気持ちを考えなくてはいけません。ここは勝手に何かやってもらって自分で汗かいて帰ってもらってよい。それは、お客さんからお金をとっているわけではなく、皆さんが無料で立っていますから、それでよいのです。
もしプロでやっていきたければ、やはり一刻も早く、ステージに立つ資格を得るべきだと思います。たとえ、いくつであろうが、プロとして活動している人はいくらでもいるわけです。そういう人たちに熱意やテンションでさえ負けていたら、永遠に勝てないわけです。
力がついているとステージに出るごとに力が伸びてくるのですが、ほとんどの人は消耗していくのです。ですから、それは気にしなくてもよいのです。
今できることをやらない人は、私の目には入らないです。レベルは問うていません。今、精一杯やらないで、それでいつかできるなどということはないからです。
将来的にできるまで待ちます。ただ、今できることをやらないで、明日やろうとか、次回のステージ実習のときにはこうやろうとか、これからトレーニングでどうしようなどと、ここで考えている人は、もうすでに遅れをとっているのです。やることがあたりまえのことをやらないというのは、そういうことです。ほとんどの人がどこかの時点でやらなくなってきます。できないのは、それだけの問題です。
精一杯やらないで聞いてもらえると思うのが甘いと思います。プロをめざす人で、そういう人が出てきたら、はっきり言います。「何しにここに来たの」何ともならないのです。
優秀な人ばかり選んで、才能があふれんばかりの、ハイレベルのトレーニングをやっているわけではないわけです。一日も欠かさずトレーニングをやることによってのみ、何とか可能性をつないでいるのです。
すぐれた他の人たちの差をうめて、越していくのは大変です。
タレントとかの他の才能でやっている人たちよりも、後でのってくる部分でやれるようにしようとしているわけです。
真の実力をつけ、そこから存在価値を強烈にPRすることでやっていくしかない世界として選んできたはずでしょう。
そこはもう一度、考えたらよいと思います。本当に、今日やったことが全力なのかどうなのかということです。これは、私にはわかります。皆さんも、1、2年たってくるとわかります。
最初の1年くらいは、ここであがって全然だめだったり、その日の体調によってくずれたり、いろんなことがあります。それも経験です。自分を表現するのは難しいことです。
私たちもそうですが、自分が思うことを自分に正直に取り出すことを精一杯やることです。大体の人は、大人になるにつれて、嘘とか飾りが大きくなって、どんどん洋服を着て着飾って、重くなって、動きがとれなくなってきてしまうのです。裸でやっている人がうらやましいと思うのと同じです。思っても、やらなければ、やれません。
表現は、自分がおもしろくなってくればよいのです。自分の日常がおもしろい、自分の考えていることがおもしろい。生活がつまらなくても、イマジネーションで克服できます。そうしたら、それを表現すればよいわけです。
ただ、勉強して基本的にそういうものが体に入ってきて出せるようにつくっておかないと難しいです。外人というのは幼い頃から徹底して音声での自己主張、表現をやらされるわけです。小学校、中学校と自分の思っていることを他の人と違うように、違うことばできちんと言うこと。
表現のことは人前に出たら何か笑わせようとか、何か楽しませようとか、何か意味のあることを伝えようという生活のなかで生きています。ウィットもジョークも、それが、他の人へのサービス精神です。日本人にとっては難しいのですが、そうして過ごしている自分がおもしろくなるのが一番よいと思います。
「自分がつまらなかったな みんなにも悪かったな」というようなことを考えるのです。自分が何をするのかというのが結局、一番おもしろいわけです。
だから私は、何も組み立てないでやっています。そのときにおもしろいことができれば、私の力だけではなく、皆さんの力も引き出せたわけです。そうしないと、つまらない一日になってしまいます。それがライブだと思っています。レッスンもライブも同じです。皆さんが客か主人公かというだけです。☆
決まりきったことをやるのでなく、決まりきったなかで自由にやるのです。応用を自在にできる力がなくてはできません。
今の音楽業界を動かしているのは歌い手ではないし、劇団も役者ではない。プロデューサーが動かしていて、誰が歌ってもよいわけです。誰が仕掛けて誰が動かしているかの方に、焦点があたっているわけです。だから、どんどん変わっています。
皆さんが音楽を捉えたり歌を捉えるときにも、どうしたら主人公になれるのかを考えないと、安っぽく歌っているだけでは、主人公の気分になっているだけの人になってしまいます。
社交ダンスみたいに、おじさんやおばさんが、年をとっても健康とストレス解消のために、年に何回か美しい衣装を着たりすることを楽しみに、よすがとしてやっていくのならよいでしょう。
自分がそれでよければ、誰も文句はつけないでしょう。
そのレベルの人がとても多く、あなたもその一人かもしれないのです。違うといっても、そうとしか出せなければ同じなのです。
間違ってはいけないのは、人前でお金をとる、人前で価値を与えようという人がそのレベルで考えているなら、それはお客さんに失礼、いや見放されるということです。
今日、出てきた人もそれを反省して同じ過ちをしないようにしていかないといけないということです。そうでないと、次の仕事はきません。
私もそうです。講演でも研修でも、歌のステージでも同じです。
一回歌うのは誰でもできるわけです。しかし、是非次にも来てくれということがあって、リピートがあってはじめて仕事になるわけです。
なぜ、内面的な価値を高めて外に出せるようにしろというかというと、そういう人が少ないから、そうなっている人はひっぱり上げられるというだけの話なのです。自分にこだわってきちんと基本をまっとうに返している、正面に受け止めて返している人がいないから、それでまわりの人がそういう人がいたら、やはり世に出さざるを得ないと思うのです。
そして、そういう人たちが集まってくるわけです。だから、デビューとかCDとかライブハウスでやるとか、そんなのは、一つのプロセス以上の何でもありません。
今でも日本で毎年700名ぐらい、CDを出しています。1年もたたないうちに、その中で残る人はいなくなり、9割以上の人は歌い手そのものから退いてしまうのです。デビューが死なのです。それは難しいからではなく、単にそういう必要性もないのにまわりがその気にさせて出してしまったというだけの話ですから。だから、そういうのは続かないです。
どこかのグラビアを飾ってデビューできたとか、テレビに出してもらっただけで成功したというのと同じで、誰でもよいわけです。誰でもよくない、あなたでないとだめだという理由になるものをつくっていくことが、やはり自分の世界をつくるために積むべきキャリアでしょう。
それに時間をかけることです。そのためには、今から将来にかけてできることをやらなければなりません。今できることをやっている人はいくらでもいますから。
この研究所は、歌を歌っている人たちのなかではまじめで厳しいほうですが、劇団をやっている人とか、あるいはもう少し高いレベルで、ダンスでも踊りでもアメリカあたりで通用することをめざして日夜やっている人に比べたら、甘いもいいとこです。
私のことばが少しでも厳しく聞えるのなら、自分が甘いと思えばよいです。そこで甘くなくなったときには、出ていけると思います。
さらに、それが何カ月、何年もつかということです。入ってしばらくの間というのは、その気分がもっているのですが、少し声が出てきたりすると自分自身に甘くなって、そこで完全に身につけられないままで終わってしまうのです。
それぞれの人の人生なので、どれが正解とかどれが間違いかというのはありません。しかし、せっかく可能性があるのですから、その可能性をきちんとしたキャリアに変えていくように毎日を過ごすというプロセスをここでは与えています。必要ならとりなさい。
ここに来ているのも、ステージ実習に出るのも一つの節目です。ボクサーでも一つ落とせば終わりだと思ってやっています。一つも落とすまいとやっている人がいるわけです。そのなかから落ちているようではだめです。これから頑張ってください。
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ステージ実習③コメント 360624
課題曲は④と同じなので、どうしても④と比べながら聞いてしまうのですが、皆さんが思っているほど悪くはなかったです。ただ、相変わらずガタガタというのが素直な印象です。音の流れが今一つみえてこないのが物足りないといえば物足りない。しかし、③の方が緊張感があったという人もいました。
このまえ④をみて熱くならないし、若くない、年をとったよ、と言ったのです。
確かに3年、4年たってくると慣れてきます。ここの客をのむということを覚えてきます。それはよい方に出る場合もあるのですが、同じメンバーでやっている場合に、どうしても悪い方に出て、この場の緊張感が欠けることもあります。
この場を相手に考えるからで、この場の向こうに何もみていないからです。
出ている人の緊張感もありますが、この状態では、皆さんは結構よいお客です。
どこかに慣れた心が出てしまうと、それで自分のステージで甘くなってしまう人が出てくるのです。
それはもう、悪い客、出演者なのです。自分に勝てるかだけなのです。そこからが難しいのです。つまり、勝負は、少し歌えるようになってからです。
BV座も、よいところと悪いところを取り混ぜ、③と④と一緒にやってみたら、もう少し差、彼らが皆さんの時期にもっていたけれど失ったものに気づくかもしれないし、両方とも悪い方に出てしまうのか、何回かやってみようと思っています。
若い人も入ってきていますし、ここを全日制的に利用している人もいるので、そういう人たちに対して2年間でやるべきものとは、一体何なのかということをよく考えます。よい客であったはずの人たちが2、3年たってみると、あるいはここを出てみると、必ずしもよい客であり続けられないのです。
これは、日本の場合、ヴォーカリストのレベルが低いし、ステージのレベルも低いということから、それをクリアしたような気になるのです。一度できるのと定着できることの力の差を知らないのです。そして、落ちていくような傾向があるのです。
ただ、日本で一流の人が向こうに行っても、一流の人ほど、向こうとこんなに差があるのかということに気づきます。異口同音に「何でこんなに違うのだろう」ということで帰ってくるわけです。
目標も高ければそう簡単にクリアできるはずないのです。そういうことでいうと、2年間、自分に戻す作業が必要です。ここでは、ずっと合宿や集中講座、特別講習のときも含め、やっていますが、それをどこまでやっていかなければいけないのかと思っています。
皆さんがいろんな曲をもってきてくれているのはよいことです。日本語ということも考えていく必要があります。それから、新しいものを生み出していきたいのなら、今、最先端で走っているものに対して、アンチテーゼを掲げていくということが、これから出ていく人は考えないといけないことだと思います。
今の歌で我慢できるのなら、それを聞いて歌っていればよいわけです。それで我慢できないから何かつくっていくわけですから、自動的にアンチテーゼになっていくはずです。それで塗り換えられていくのが、ロックであり音楽です。
次の軽井沢の合宿のために、いろんな教材を聞いていますが、
そのなかに「山城組」というのがあります。世界の音楽をリズムから音からそっくりコピーしています。恐山とかそういったものに対しては、評価できるのですが、そうでないものに関しては、私の心はあまり受け付けません。たとえば、向こうのものをそっくりにやってみて、向こうの国にそっくりだと認められて何になるのかということです。11枚ぐらいCD出しているので、それなりに勉強になるところはあります。
欧米一辺倒になっている今の日本の音楽家が、もう少し日本を考えてみるとか、世界は欧米だけではないのだということを示して調整をとっているといえます。
本当は、そこから何か出してこないといけないということです。それが課題になってくると思います。
最近、古いのをずいぶん聞いています。森進一もジャズを吹き込んでいるのですが、美空ひばりのジャズと違って、日本人がジャズを歌うとこうなるのかというふうな感じです。
何で美空ひばりになれないのか、ポピュラーになれないのかという要因あたりから、日本の歌が世界から分かれてきたような気もします。
今日の課題曲に関して、一言で言うと、思いっきり崖から落ちるのもよいし、表現しようとするのもよいけれど、その仕方が急ぎすぎているような気がします。音楽にバーンとぶつけていくようなやり方というのはあってもよいし、それがインパクトということでいうと、一つはひきつける要素があるのですが、表現にはおとし方というのがあって、少し上に飛んでみるとか、おちるところにもう少し滞空時間を時間としてふくらませるように感じるとかいった問題だと思います。
踏みとどまる感覚というのは日本人にはすごく難しいのですが、ミルバなどを聞いてみたら、そこの違いというのは明らかになってくると思います。
それと今、ステージがもっているのは、本当にギリギリのところでもっているので、それはプロの力でもっているというより、その力で10のうち3を何とか出そうとしている意志の力です。
逆に考えてみたら、プロは10の技術をもっているけれど、出すのは8ぐらいです。ところが、3あって3を出す方のが伝わったり、場としてひきしまることもあるのです。
ギリギリ出すという延長上に4の4、5の5、6の6とやっていくのは相当、難しいことのように感じました。ギリギリというのは素人があたふたして歌っているのと同じで、ある意味での危なさがあり、それは大きな魅力です。
忘れてはいけないのは、プロの技術をもっている人で、人をひきつけ続ける人というのは、そのギリギリのところでやっているわけです。ギリギリでやらないと、その人が出てこないわけです。
簡単なことで言うと、他のことを語るモノトークではなく、皆さん自身の自己紹介のようであればよいと思います。それが歌でもできるというのが一番望まれることです。それは共通語なわけです。外人がいても、ことばではなく、歌でやる意味があるとしたら、国境を越えられるからです。
誰しも人間に興味があります。歌った途端、おもしろくなくなるのは人間が引っ込むからです。1時間も話さなくても、たった3分間でできます。
アマチュアは隠せないので、その人のよさとか、いろんなものを伝えられますが、プロは最も伝えたいことを伝えます。そこで、その人が歌うことで共通のコミュニケーションがとれるわけです。
10人が歌ったら、それぞれ10人が、それなりの自己主張をそこにして、そういう中でいろんな人が出てきたということで一つの盛り上がりになればと思います。
ステージ実習、ライブ実習、BV座、ソロとしてみせる力というのは当然いります。それが集約されてこういう色でやっているという色が出て、そこでコミュニケーションがうまくとれればよいのです。
やはり、自分を出すというというところがとても難しいような気がします。声と歌だけで音楽をやっていますから、顔がどうであろうが、ファッションがどうであろうが、別にどっちを向いていようが、声のなかでコミュニケーションができたらよいというだけのことなのですが、そのとり方が難しいのです。
選曲に関しては、自分で試みていけばよいのですが、あまりスタンダードな曲を選んでくると、難しいものです。嘘になりやすいからです。曲自体がよいものだから、曲がもってしまうのです。物語がおもしろいので最後まで人が聞いてしまうのと同じです。
そうなればそうなるほど、その人がそこでは出てこない。だから、イージーなものとかスタンダードのものを選ぶときには、よほど考え、煮つめていること。自分なりに何かふきこんでこないと、それこそ薄っぺらなものになってしまいます。本物のよさも体もなくなる。
もう一つは、ゴスペルやジャズは、私に限らず皆さんもスタンダードを聞いているわけです。それと比較されるようではだめです。そうしたら比較されないところまで、何かを詰め込んでこない限り、昔の歌とか外国の歌の紹介役にしかとどまれなくなってしまいます。プレゼンテータでは困ります。
本物とにせものの区別というのは単純です。立体感が出ているか、生命感出ているかです。要は、リアリティです。
歌に限らず、絵でも彫刻でもそうです。3次元でみえてくるのがリアリティです。前にどんどん出てくることです。それが主張でしょう。
平面になっていたら仕方ない。それから生命感があるかないか。
それがないなら、選ぶのはやめた方がよいです。なまじ、やっている気になってしまうだけに危ないのです。そうならないために、立体感と生命感を出さないとだめです。
ギリギリというのは、反面、全く器のなかが整っていないことがみえます。そこで押さないといけないところが押せないし、ここで続けなければというところで息がたえてしまう。ステージに出ると練習通りにうまくいかないというより、そういったもので乗り遅れるのです。
それが緊張感みたいにうまく伝わる人はよいです。ただ、それだけでは何曲ももたないのです。そういう意味で、ベースの力は必要です。そこは完全に表に出ます。
3、4年やっている人との差です。
3、4年やっていると、どちらかというとそんなに器用でもないし、音楽的才能があるかどうかは別にしても、体を使わないといけないとか、こういうトレーニングは5年も10年もやるべきだというのをあたりまえにしてやってきた人ですから、やはりその差というのは顕著に出るものです。
それから声でもっていく人は、2、3年、声でもっていって、そこからわかってきてもよいのですが、もし早く気づきたいのなら、やはりモノトークとか内容をそこで伝えることを徹底して勉強すべきだと思います。なまじ技術や声が先行してしまったときに、最後まで気づかないからです。
たぶん、そういう人たちはわからないのです。何でことばできちんと伝えることが大切なのか。そのことばのなかの音色でどういうふうに伝えることが大切なのかということです。
考えなくても結構やれてしまうと思ってしまうからです。
低いレベルからみると、すごいと思ったり、おどろかされたりするのですが、もう一つ上のレベルでみると、本当に空回りのトレーニングというか、それだけを強調していくような形になってしまって、却って音楽に鈍くなってしまう。
早く気づくというのは、2年たって気づいても、4年たって気づいても遅くないと思うのです。歌がみせるもの、聞かせるものであるということに素直になればよいのです。
音楽というのは、板にペンキをぶつけて、それで何かだというものではないでしょう。それではあまりに単純なわけです。やはり、ペンキでどう描こうと考え、描くことが必要です。その前に絵を考えなくてはいけない。構図です。その前にあるのは心です。絵心みたいなものから入っていかないといけない。
歌も語ることとか、淡々と読むこととか、そういうところで時間を待つようなことを入れていく。いつからでもよいのですが、今は声でやれるところまでやっていこうという考え方もよいと思います。
ただ仮に、それがもたないとしたら、そこの部分だけで設定してトレーニングしているため、効果が半分にしかなっていないという人が多いのです。全部、一緒にやるというのは難しいのですが、全員に対しての課題とは、器を大きくすることです。
筋力とか吐く力とか、そういったものはギリギリにみえてしまうのはギリギリでよいのですが、それがカバーできるところをやっておかないといけない。いつまでも綱渡り的な魅力では、やはりだめでしょう。
歌というのは結局、解放されるためにやっていくべきで、それこそがオリジナルであることということです。自分と一致しなくてはいけない。オリジナルなら、それを通して自分が自由になっていかないといけない。歌っているうちに、お行儀よくなって、正座して型どおりに人形となって歌うのなら、その人の歌ではないわけです。
歌では「愛している」「嫌いだ」「死んでやる」と何でもいえるわけです。日常のことばでも演劇みたいに異次元な空間に出ていける。そこまでの世界に入り込む分だけ、体が解放されて自由になる。シャツだって脱げるし、パンツでもおろせるわけです。それが、体が拘束されてきて行儀よくなってしまうとしたら、心も死に、生命力とか立体感が欠けてくる。だから、にせものになってしまうということなのです。
プロが、そのあとに静かに歌ったり、リラックスして歌ったりというのは、構成にあるからです。ですが、形から入っていくと、ヒーリング・ミュージックの中途半端なものになりかねないのです。もし、そういう分野をやっていくのであれば、センスが必要です。
外国のものをとり入れるとしても、彼らのセンスは小さいときからそういう血が流れていますから、徹底して勉強しないと難しいです。発音より語感とかニュアンスとか、歌よりもずっと難しいでしょう。そうでないと、当人だけ自己陶酔してしまって、心が伴っていないので伝わるわけがありません。その当人自体に出てこないことを、他の歌の世界に宿らせるのは難しいです。
歌を聞いて自分にものすごい力が必要になって、それがうそになりかねないのです。だから、それを知った上で、これは○○だという形をつくりあげるのは、別のやり方があると思うのです。それが本当の歌だとか、これが私にとって価値のある歌だと決めてしまうのは、中高年になってからでよいでしょう。
そうではないうちは、一度地獄までいって、それで天国をみた方がよいような気がします。なかなか人には伝わらないからです。安易にやっていると、自分のなかで完結してしまうことになりかねないです。
④と大きな差があるわけではないです。よい状態ということであれば、お客としても歌い手としても、皆さんの状態の方が私は好ましいと思います。
ただ、はっぱをかけないと、ふにゃふにゃになってしまって、そんなものなのかなと思ってしまうことが、まだ多いのです。心配させるのでは困ります。
私は2年制といってやってきて、1年半までは自信をもって伸ばせるつもりです。そこではっぱをかけているのです。3年くらいになってくると、私の力での支えから離れるようにしています。
そうしてみると、そういう点での才能のある人は少ないでしょう。
人間の力がない。半年くらいで見抜いてきたものであっても、2年、3年、4年と伸ばしていくのは大変です。黙っていたら、いろんなものが覆い被さってきて、なかなか自由がきかなくなる。
若いときの自由というのは、ある意味で他のことでわずらわしくならない分、冒険できるチャンスです。ここで音楽だけのことをやっていられるというのは、恵まれた境遇です。
ただ環境が恵まれていても、音楽の時間がギリギリ、本当に足らないという心がないと、求めないと宿りません。
人間の底力というものから密度を捉えることです。歌は3分で勝負です。もう少しふみとどまり方とそこからの、音の流れみたいなものが感じられたらよいと思います。
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ステージ実習コメント1
八代亜紀さんの「舟歌」ですね。「影を慕いて」をやって以来の日本人の歌です。これが歌えれば一人前の歌い手かどうかは別として、大人ですね。大人になってもしかたないでしょうが、おもしろい題材です。
「影を慕いて」も、最初にとり上げたとき、何回かやってみるとどうしてそうなっていくのかが、藤山一郎さんのは別ですが、森進一さんの型だと、なぜああいう声になって、声の色がああいうふうに出てくるのかというのが決まってくるのです。
どこにサビをもってきて、どこに緊張感をもってくるとかが、アナログ的にたどれる。
今の音楽はデジタル的に頭からいきなりサビに入ってそれのくり返しですが、体の動きからいうと最初に少し待って語り出し、それから高まってピークに向けていって、そしてピークから落とすという感じの方が、たぶんつかまえやすいでしょう。
当時の歌というのは、だいたいの歌の起承転結を踏んでいたので、そういうものから勉強すればよいと思います。「影を慕いて」は本当に一つはずしたら終わりです。こんなに短い歌で少ししかことばでは言えないところで、そこの中でやれば、かなり密度の高いものができるのではないかと思います。
私たちにないところというより、ヨーロッパにベースとしてあるリズムがあって、その感覚をとっている人ととっていない人とだいぶ違っているのです。それは覚えていくしかないです。
このヴォーカル(ジャバ)はミルバでもピアフでもないのかがわかると思います。2人の間みたいな歌い方をしています。と、いうことはヨーロッパを通じて、そうした共通している要素があるということです。
私たちから見るとこういうのは皆、女の人が低い声でなんとなく同じように歌っていて誰が誰かあまり区別がつかない。それは、黒人を見たらみんな同じに見えるというのと同じで、向こうにいないで、こちらから見てしまうために同じに見えてしまうのですが、向こうの人たちから見ると、逆に日本の音楽の方が1000種類も歌いわけられるのになぜワンパターンだけでやっているのかという違和感があるわけです。
前に私の本の前書きに載せましたが、マリー・ブルボーさんというフランス人が「日本人というのは男性が皆、一つのしわがれた声、女性は皆、子供っぽい声、この2つの声しか使っていない。1億2千5百万人というならば、なぜ1億2千5百万通りの声がないのかおかしい」言っていました。
彼らにはそう聞こえるのでしょう。日本語は機関銃みたいな声といわれているわけですから音楽的にするためには、それの逆のことをしていかなくてはいけない、機関銃は音楽的にはならないのですから。
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これは、ジャバですね。ジャバばかりを集めたものです。シャンソンのルーツらしき感じがわかるような気がしますね。リズムは3拍子でとられていて、歌い手はその3拍子と関係なく入っていくようですが、絶対に決まっている点があって、そこをハズさないように入っているわけです。それはこういうものを聞きこんでいくしかわからないわけです。
ヨーロッパ音楽での4拍子をとるために、3拍子の勉強が必要だと思います。
点ではなく、全部線でとっているのがわかると思います。
後はアコーディオンとかで使うリズムの感覚、こういうものはこのリズムが中心です。
東欧あたりも街の中にこういうリズムが流れています。ランダバとかいったものもこういうところの延長上にあります。雰囲気的にも似ていると思います。マイナーな調から入って、途中でメジャーになるというような進行をしています。
結局、民族ということになると思いますが、かなり広く、東欧から西欧、そしてアフリカからアメリカの方までこういう感覚のものはあります。だから、アメリカのエンターテイメントになったような音楽がヒットはしていますが、それも狭いものであるということです。
ましてや、それを表面だけ受けてやっている日本のものはもっと狭いと思っておけばいいのではないでしょうか。
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ミルバのコンサートに行く人もいると思うので、参考までに。
「ミルバ、谷村新司を歌う」も、ミルバはミルバという感じですね。谷村新司さんのものだけで12曲入っています。イタリア語で歌っています。
旺盛な好奇心で、プレヒト歌うとかピアフ歌うとか、各国の曲でミルバが歌うというように、カンツォーネを飛び出して世界のポピュラーを歌う、その延長上でやっています。
何で谷村さんなのかはわかりませんが、これが日本にとってのどういう歌なのかを、歌詞がどうなのかというよりも、イタリアの歌に完全にして歌っています。
不思議なことに谷村さんとデュエットも、谷村さんがほとんど脇役、ミルバが歌うのですからよいですけれど、谷村さんが全部イタリア語で歌っているんですね。はっきり言って我々がイタリアに行ってイタリアのオ・ソ・レミオを日本語で現地の本場の、それを作った人とイタリアのお客さんに対して日本語で歌うといったような、おかしなことが行なわれているわけです。
それと、CDで見る限り他の「ミルバ○○を歌う」というのは結構、他のアーティストも対等に扱われていますが、谷村さんは作曲家でしょうか。ミルバの選曲のセンスというのか、いろいろな谷村さんの曲から、これを選んだというものは、なんとなくわかる気がします。
もちろん「チャンピオン」が入っています。好きなんでしょう、ああいうふり回せるようなものが。「いい日旅立ち」にしても、こんなに歌い上げなくてもよいと思いますけれど、山口百恵さんが歌っている方が、この曲の主旨からするとよいかもしれません。
比較するところから勉強したいような人にはお勧めです。
「ウナ・セラ・ディ・東京」も、聞いてください。日本語でミルバが吹きこんだものは多いです。それは大変、勉強になります。今回も、一曲くらい日本語で歌ってくれるのかと思ったら、全部イタリア語ですね。時間のある人は見に行ってみてください。