一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

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ステージ実習コメント2

 

 

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自己紹介ライブ1

自己紹介ライブ2

ステージ実習個別コメント

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自己紹介ライブ1  360824

 

                                                                                                                                                                                                                                                        いつも考えて欲しいのは、私は教えようという気はないのです。

劇団とかミュージカルとかでしたら、平均的なベースを上げていかないといけないのですが、

それはここでは、無理があって、特に最近はいろんな人がいろんな目的で利用しているので、

それぞれの人が自分で絞り込みができるようなものとしてあろうと思っています。

 

 まず一つが、この場に基準を合わせないでください。それでは少なくとも私がイメージしている基準のでの運営にはなりません。誰でも受け入れているからあたりまえですが、まわりの人と同じレベルでできているから、ここで期待されているカリキュラムが順調に進んでいるとは思わないでください。

 

はっきりいうと、全く足りないのです。大半は、初歩の条件から欠けているのです。どこでも場が基準になってくるのは仕方ありません。レッスンでも集まる人たちを基準にメニュを与えます。

 

どんなによいメニュでも、相手次第です。

その人がたとえば5メートルも泳げないのに1キロメートル泳がすのは、よくありません。その人がもし、1キロメートル泳ぎたいというのはよいのです。ただ、自己流で泳げると、泳げる気になっているから、伸びないのです。多くの人はフォームから直さなくてはいけないないし、まして初心者の人は顔を水につけるところからスタートです。

 

歌の場合はやりたければ、どんどんやっていけばよい。一番困るのが、日本人の感覚のまま、つまり、まわりの人がほとんどそうなのですが、こういう場の標準のレベルのなかに埋もれていくことです。

10人いると2人くらいは、はみでてしまいます。はみでるというのは、「ここの場はこんな場か」と自分の評価もできないうちに、自分の方はもっとできている気になって、うぬぼれたり不安になってしまいます。それは、実際に他の人よりできている人、器用にこなせてしまう人の方に多いです。

 

全然、基本ができていない人、全然音楽も知らないとかいう人たちはよいのです。これは時間がかかるだけの問題で、とにかくここ以外のところにいったら救われないから、ここで2年つんで2年つんでまた2年つんでいけば何とかなるかもしれません。

 

場を大切にするのは、その中間にいる人たちいかんで、これが埋もれてしまうとよくないことになります。結局、10人のうちの1人、上をめざすとともに表現と本質的なものをつかみ、それを破ろうとしている人しか発声や歌は身につかない、表現としての声を宿していくということがなかなかできないのです。

 

だから、それを破るために特別講座や合宿など、いろんな刺激を与えているのです。しかし、本来はレッスンのなかだけでも、ここで伝えたいことはすべてやっているつもりです。ただ、いろんな形で同じことを伝えないと、天才以外はできない。だから多くに学んでください。

 

 

 声の基準に関しても、歌の基準まではっきりとレッスンのなかで、最初の時期から入れています。

本来であれば2年たってからやるべきことも、それがはっきりしないがために声の基準もはっきりしないと困るので、いろいろなものを見せたり聞かせています。基準というのをはっきりともって欲しいからです。それがもてない限り、本当の上達が難しいからです。

 

逆にいうと、ここでやれているということ、ここでやれたレベルでやっているということは、何が足らなくて何で抜け出せないかというふうに考えた方が早いかもしれません。

 ここでは、少々うまい人も苦手な人というのも、まとめて何の意味もないということでは同じという見方をしています。

 

 表現でいうと、一瞬を捉えて一瞬を出す芸ごとです。

その一瞬の扱い方がわかる人とわからない人がいて、これは別に歌ってきたからとか歌っていないからということよりも、そこでの感覚です。

 

研究所にはいろんな人がきています。

歌う理由をつきつめたり、合宿に行っても過去からフィードバックしてみるとか、いろんな理屈をつけていますが、本来、歌に理由がいらないのです。☆

やっているうちに理由がついてくる。

ところが多くの人にとっては、なかなか理由がないと学べないので、そうしているだけです。

 

理論もトレーニングも同じことです。私も「何でこういうことをやっているのですか」とよく聞かれますが、やっていることがすべての理由であって、そこに理由があってやるということではないのです。

その境地は確かに周りからみたら、地獄にいったり、鬼であったり、修練やトレーニングを積んでいるのですが、それは、まだまわりにいるからそうみるだけであって、自分たちにとっては、いわゆる三昧の境地というか、好きなことに打ち込んでいるだけです。

 

気づいてみたら、すっかり時間がたってしまったという感覚のなかでの時間をつくり出す。それがわかりにくいのです。

 

研究所という場にいて、そこの意識に早く達するためにステップを踏むのです。結局は、それぞれの取り組み方です。最終的には直観の世界なのですが、あまり自分の感覚だけを信じすぎていくと、まがったときにわからない場合もあり、とても難しいです。いろんな選択をしていかなくてはいけなくなって、その選択の判断基準というのが難しいのです。

 

ただ、最終的に人前で歌うということが目的の人は、その活動が実践できているかできていないかよりも、まずどのレベルでできているかです。単に人が集まっているとか、単にコンサートが開けるとかいうことだけではなく、それがどうなっていくというところのプロセスがみえていることは、大切な気がします。

 

1、2年とばしてぱったりとあきらめてしまう人は、それはそれでよいと思うのです。しかし、長くコツコツとやっていないとわからないことの方が多いです。

 

時間の感覚を捉えてから、たとえばことばの表現をしていかないと、雑になります。体を使うのも息を吐くトレーニングも1~2ヵ月目でできることは初歩の初歩で、それで歌に反映することなどは期待すべきもないことで、どんな人でも1~2ヵ月はやります。

 

ただ、5年10年とやらないからできないのです。5年10年やって身につかないとしぜんに使えません。

1~2ヵ月でできる人は一人もいないのです。

 

自分の寸法での表現をするというのは本当に難しいことです。その体のなかにすべてが満ち足りていて、出せたらプロ、過剰にならないと表現というのは出てこないのです。それがないから何とかハングリー精神のなかからとりだして、それで通用させるときもあります。

そこから自らとりだすようなパワーがなければ、全部が満ち足りるまで待っていたら、何年たっても無理なのです。そこの体の感覚と心の感覚がないと、レッスンだけ出てきて、帰っただけになりかねないです。

 

ここで何かをやったということは、当然やったという実感がそこで伴うものです。そのことを本当は楽しまないといけないのです。失敗するからうまくなれるのです。何かをやり終えたら、そこからまた頑張ればよい。だから、その土俵にのるということがとても難しいのです。

 

 

 まず、多くの人は、やっていることに対し、言い訳をつくっていきます。それから自分の枠を先につくってしまいます。そんなこと何もしなくてもよいのに、わざわざ自分のなかで枠をつくっていくために、下手するとトレーニングを積んだり勉強するほど前にでられなくなってしまうのです。

 

たかだか歌ということも、どこかで思っていないといけないのです。それを前に出していく姿勢に力が伴ってきます。ただ、そこを見た上でたった一つのことばをいうときにも、そのことばのなかにことばの意味も力も、音の動きも感じていないといけないのです。

 

特に最初は少しでもより大きく結びつきをもって出していこうという方向にいかないと、せっかくここでやっても先がみえないのです。可能性がみえるということは、とても大切なことです。

本人もそのときには実感でき、見ている人も相当、鈍感でない限り、みていてもわかるはずです。

 

何か変わったというので終わるのかどうかです。「変わったけど」とそこに「けど」がつくかどうかが、可能性です。誰でもわかるし、あたりまえというのはあまり期待できないのです。波にのれても波を起こせないから、やがて止まってしまいます。大体、そのまま2年くらいたった人が多いです。なまじ形をもって守っているとそういうことになります。

 

今だけでなく、これからの自分に誠実にあり続けることが難しいです。やっているうちに、課題はわかってきても、簡単にはできません。だから課題です。課題がわかっている、みえているうちは伸びます。そういうふうにみえるとわかりやすいのです。みえるということは、落ち着くところに落ち着いているものがあり、要は確信みたいなものを捉えている。そしたら後は大きさであったり、方向性の問題です。

 

最初に歌を歌わせないのも、そのときに核をつかんで欲しいからです。音や伴奏が入ったり、歌になってからは、そこまでにしっかりやってきた人しかつかまえられません。

 

だから合宿も集中講座も繰り返し繰り返しモノトークをやっているわけです。モノトークのたった1行なら、そこのところで体と一致して、自分と同じ寸法だけ表現が出る。プロに近い感覚となるわけです。ただ、その感覚の延長上に歌の世界というのもある。それを踏まないうちに歌の世界に入ってしまうと、やはり後から動かせないのです。

 

 

 最初にマイクを渡したり、エコーをかけたら嘘になってしまいます。ごまかしが効いた分、とても粗っぽく嘘になるわけです。そこで学べなくなる。カラオケなんてまさにそういう装置です。だから技術とか基本をやる場合は、気の長くなるほど職人芸みたいにコツコツとやっていかないといけない。さらに大きなイメージを思い浮かべないといけないのです。

 

10年に1人とか5年に1人を育てるということで、ここをやっています。月に大体6〜8ステージあると、200人以上のを聞いていて、課題曲に自由曲、年間に、私はここだけでも5000曲ぐらい聞いているわけです。

 

そのうちよい歌が3曲もあればよいと思っています。3曲あれば意味があると、完全に開き直っています。その3曲は、2年たたないと歌えないということではないのです。

大体、ここで1年半ぐらいのときが多いようです。そこで期待するのですが、それが定着できないのは、本人が満足して、そこにとどまるからです。歌よりもステージに関心が走る場合もあります。

 

レッスンや合宿では、何かできるのです。できるというのは、感情からすべて解き放せるようなことがあるからです。

 

たとえば、皆が笑っていたら、そこで笑うのは簡単です。音楽でも同じです。そこのところにベースのものが流れていて、自分がのっかる。ところが、ステージでは、1人でつくらないといけない。自分1人でつくれない以上、その環境がないところではやれないということです。1人立ちしてやれないということです。

 

それをどうつくり残してくるかということを、プロセスを全部みせていくように会報を出して伝えています。

やっていることは変わらないけど、皆さんの感覚とつかみ方の問題です。

 

自分が解放できないのは、過激に過剰にならないということです。怒っているときに歌を歌えないが、胸ぐらをつかむくらいの怒りの感情があれば歌えるのではないか。日本人にそういう感覚自体が欠如しているのであって、どなりまくっているほど、表現力のある歌というのはやらないわけです。

 

 外国で生活すると否応なしに体からの音声を味わえます。夫婦喧嘩ぐらいでそのぐらいのヴォリュームを出します。声を張り上げて拍手を得て、相手をしどろもどろにしてしまった方が勝ちというような文化があります。

 

そこのつっかえ棒を早くはずせといっても、それができないからきついのでしょう。そうする必要がある人と、ない人がいます。それはその人の生き方なり、人生観ですから、尊重します。

 

その歌い方によっても違います。いろんな人がきている、そのいろんな人に対して、どう対応すればよいのでしょう。

 

人というのは基本的に、仕事についても歌に関しても、あるところにあるべき存在を強制されてしているわけではないのです。ここにいる理由がその人自身にあるのです。

が、きっととり出していないものが、とても大きいと思います。

 

歌う理由とか歌える心というのは誰にもあって、それを意識的に作品にとり出さないといけないから、アーティストというのはトレーニングが必要なわけです。

 

しぜんにしようとかリラックスしようというのは正しいのです。正しいけれど、ここにまっすぐ30分間しぜんに立てるかといったら、それだけでも一般の人にはとても難しいのです。

ましてしぜんに声を出せるかといったら、余程それがしぜんになっていないと出せないわけです。

 

何かをやろうとしたときに、必ずふしぜんになるものです。ましてや音がついて、リズムがつく。そうしたら音もリズムも全部、しぜんに入っていないといけない。そうしたら、やるにはそれだけの量がやはり必要なのです。

 

レーニングをやっているときの弊害というのは、どうしても狭くなって入り込んでいって歌い込まないといけない。体に教え込んでいくというプロセスをはずしてはいけないけれど、ただそのことによって視野が狭くならないようにしましょう。

 

本当はいろんなところにぶつかって打たれないとだめです。美術館にいってすごいと感じたり、これは音楽でどうなるのだとか、他の一流の人にも学びましょう。「でも、どうしてだ」から「はあ、なるほど」と、そういうふうに叩き込んでいる時期があったらはねかえって出てくるものです。すると声も歌もしぜんに出てくると思うのです。

 

昔と違ってケンカができなくなってきたり、思い切り笑えなくなってきたり、そういうことがトレーニングや音楽を遠ざけているような気がします。

 

最近、私が書く本には、体を解放するとか、心を解放するとか、歌とは関係ないようなのですが、そこが越せないまま2年どころか5年といってしまう人もいます。私もそれを越せさせられないのです。

 

 まず時間の感覚が全然、違います。戦争にでも行った人とかは、究極の状態で、いろんなことを成し遂げているわけです。感覚が鋭い。だから、ここが戦場とまではいいませんが、そのぐらいのつもりで。

 

全てが犠牲になったって徹底的な犠牲にまでなったとしたら、そこまでのことがプラスに働くぐらいに思っておけばよいと思うのです。逆にその方が大切なのではないかなと思ってきました。

 

私も運動部や押しつけられたような仕事がきていたような時期、自分を殺していたときがあるのです。奉公という時代があったのですが、こうした体験が、ある時期、病気でもそうですが、貧乏やボランティアとかもそうかもしれない。遠回りですが、無駄ではない。

 

レーニングを休んでそういうことをやったら、どうでしょうか。

何もない人にとったら、そういうふうに1回、自分を殺してしまって、そこから生かす、ということがどういうことかを考えるのは必要かもしれないです

 

すると、きっと過剰になってくるのではないかなと。舞台がちっぽけにみえて、ここは大きくみえて欲しいのですが。

自分がやるときは小さくみえる。その自分を飲んでいって欲しい。自分の寸法の大きさに芸がでてくるというのは、いつも自分の寸法を感じていないといけないし、体で感じないといけない。音の動きも感じていないといけない。出てきた歌の世界の方が大きくないとだめです。

 

 芸には、あたためる期間というのが、どうしても必要です。曲でも2年後の曲を、今つくっていないと、間に合わないのです。

 

ベースがあれば、その月々に与えたものに何とか自分のもっている力を総動員して対応していくということができます。

課題曲に合せて歌おうと考えていたら、1ヵ月では間に合いっこないわけです。そんなに甘いものではないです。

それをきちんと積み重ねていく人にとっては、こうやればよいのだというのがみえてくるはずです。

 

研究所に依存しないでください。ここがたいしたことを一つやっているとしたら、時間を待っているということ、当人がわかるまで長く待っているということぐらいではないでしょうか。

 

いろんな材料をおいています。だから逆に難しいのでしょう。

でも力があるということは、それをこなせるということです。

あとは本人の責任感です。

 

それをもし仕事にしたいとか、舞台にしたいということであれば、他の人の10倍ぐらいの責任感を感じているかです。

人と関わらないところで歌っていきたいとか、自分のなかだけで技術を高めたいという場合はそうでなくともよいと思うのですが、少なくとも人前に出ることを前提にするなら、人並みにできても仕方ありません。次の仕事はきませんし、何倍もできてあたりまえです。

 

プロは期待に応え、奇跡を起こせてあたりまえ、手加減はできないのです。もうよいということはないと思います。

 

レーニングを楽しんでください。それが上達の秘訣です。

そのトレーニングを楽しめるように自分をうまくコントロールする。

 

人前で歌うときは、他のことに頭がいってしまいがちです。トレーニングのときというのは自分で考える通りに自分で好きなだけできます。

そのときの方が神様とは近いような気がします。

 

舞台でそんなにうまくいかないので、妥協せざるを得ないことも出てきます。

両方大切なことなのです。

ここはいつでも舞台として踏んでいてください。

 

 

 

 

 

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 ステージ実習に関わらず、ここは舞台、常に練習の成果を問う場なので、プロセスと成果をみせて欲しいと思います。

 

1人1曲というのは、トレーニングを10できる人が実際舞台に立っても、100にできる場合と、1になる場合とあるのです。力がないけれど、力以上にみせられる人とみせられない人がいて、それはやはり力以上にみせられた方がよいのです。

 

力がなくても舞台にでて常に力があるようにみえたら、それが力であるわけです。そういうことで、ないものをいかにあるようにみせるかということは勉強してください。

 

正攻法で実力そのものを100%みせるということでもよいのですが、それで通用する人は、ここにくる必要ありません。すぐ活躍してください。

 

基本に時間がかかると応用がうまくいかないことが多い。基本を完璧といえば一生かかるからです。

声や体が身についたら、今度は歌をやろうというのではなくて、なるだけ早くからそれを結びつけてください。もともと一つなのです。使う必要まで、基本があれば、あとは両立させてください。

 

とにかく外に出る力を利用して、日頃、練習をやっているからといって引かず、それでもどうかと表に出していく。失敗してよいから、アウトプットから導いてください。

 

いつも言っているのは、立体的でリアリティのあること、そこに息吹というか命が感じられるような歌であること。ことばの世界もあるのですが、音楽の場合は、それに頼ると難しくなります。

歌にしたら最後、音をつけたら最後、ことばや表現が全部、死んでしまう場合の方が多いのです。

 

アカペラですから自由な分、厳しい場だと思ってください。最初の半年ぐらいに関しては、なるだけくせをなくしていくということ。タレントそっくりに歌えたり、今歌っているヴォーカリストっぽいところで歌うと伸びません。

 

基準があいまいなときは、うまくみえるのです。みえるけれど、私は実際のタレントやアーティストもアカペラでも聞いてきていますから、その質が違うことがわかります。

はっきりいってそれと同じくらいにうまくてもどうしようもないです。

 

中途半端にうまい人ほど、何年たってもそこから抜けられなくて、結局そのうち、それがへたということになってしまいます。カラオケチャンピオンのその後の歌を聴くとよいでしょう。

 

タレントやアイドルをめざしている人以外は、なるだけそういうくせを抜かしていった方がよい。口先の発音やフレージングでカバーしている部分がネックになって、いつまでたっても本当の意味でヴォリューム感が出せないし、音色も単調なままです。

「い」や「う」のくせをつけて覚えていると、声域とか声量が後で伸びてきません。

 

 今やって欲しいことは、後で伸びてくる器をつくって欲しい。ヴォリュームに関しても音域に関しても、しっかりと基本にそったところから結びつきをていねいに捉えていくことを意識して欲しい。

 

それをこの場で考えたら、歌としてはくすんでしまいます。そこまで予めやっておく。そこをギリギリで表現する。カラオケで仲間とやっているようなノリでやっても練習にならない。そこを何とかギリギリのところでつないでいくということです。これが難しいです。

 

最初の段階というのは、ことばがイメージのなかにもないわけですが、そのうち音の線というのがでてきます。そこに乗るのです。それが歌の線に聞こえる場合もあります。そこまでのものがみえてくれば、後はその人の大きさになってきます。

 

もっともっと大きく歌っていく練習をしていく。

何でもよいのですが、課題曲としては大きく歌える可能性のあるものを出しています。音域がある場合もあるし、大きく歌わないと本当の意味で消化できないような歌を取り上げる場合もあります。できたらそこに挑戦して欲しいからです。

 

いろんな挑戦の仕方があるとは思うのですが、その大きさのところに入ってくると、今度は集中力が足らないとか、体力が足らないとか、突きつけられるでしょう。

たとえば最初の5行ぐらいはもつけれど、6行目からは集中力で負けていると。2番になったら歌の方にひっぱられているとか、そういうのがみえてくるわけです。

 

すると、それを支える集中力、体力、気力、声のコントロール力。それから、それが狂ったときにどう戻すかです。

単に聞いているだけでは仕方がないので、そこは半分、認められるものはないかと聞いています。

本当によいものは、そういうことも感じさせないのですが、とりあえず今は評価でみれてしまうところが困りものです。

 

 自由曲に関しては、これから1曲入れていくことになります。さまざまな曲がありますが、その曲のよさを捉え、曲の中でのストーリーやアレンジ、伴奏にあまりとらわれなようにしてください。とらわれないようにというのは、まず音声で声できちんと表現するところにできるだけ重点をおいて欲しいのです。

 

選曲に関しては、何でもありです。

スタンダードでは、誰が歌っても名曲に聞こえるもので、それは自分の力ではないのです。借りもののままの提示は不要です。そういう意味で選曲は注意してください。自分の力がなるだけみせられる曲を選び、一致させていってください。

 

それ以外の感覚とか、あるいはスタンダードなものをゆっくりと歌いたいとかいうのは、自分の練習の中で勉強できるものと思います。

 

まず、勝負できる一曲からです。曲のよさやストーリーのよさで認めてしまう業界では、その人のヴォーカルとしての素質、素の力というのは見えにくいわけです。ただ、私はそこを聞いています。

 

作詞、作曲やステージングでの才能があるというのも、本当はトータルでの実力ですが、ステージ実習といわれるところでは、あまりみていない。それを問う舞台設定でないからです。ライブ実習になってくると、アレンジとかの要素も入ってきます。

 

 好感のもてるステージをやっていってください。人と全く違うことをやるのであれば、人の何倍もやってこないと、それは伝わらない。その準備をしてください。

 

人と違うことをやってください。違うことをするということでなく、人の10倍やってきて違うこと、変なことをやってくれたらよいのです。それを人並みの努力のところでやっていると、当然のことながら好感はもたれない。

 

結局その人が違うことをやったときに説得力になるのは、「こんな変なことをやるために、これだけ時間をかけ、仕上げたのだ」「これだけ伝えようと思っているのだ」という思いです。

そこがみえないと単に変な人、変なことをやったというだけで終わってしまうのです。そのへんはまっとうにかまえてください。

 

このステージは真っ正面で受けてください。それが皆さんのためになると思います。

やってはいけないということはなくて、いろんなことはやって欲しい。ただ、それを伝えられるレベルまで練り上げた上でやることが条件だと思います。

 

そうしないと説得できない。そういうことがあればどんなへたなことをやっても、どんなおかしなことをやっても、人は好感をもちます。次に期待をつなぐこと。それがもてないとしたら、それを支えるべき力がなかったり、判断力、センスの悪さのアピールにしかならないのです。

 

 ライブ実習だとマイクが入るからMCもうまく使えば効果的です。外国語の曲とかの場合は一応、歌の説明をして聞く人にイメージをいれてから、音声で働きかけた方がよい場合もあります。ただ、基本的には歌の中でなるだけ完結していくような習慣はつけてください。

 

ステージ実習でも狙いをわかってもらうために必要であれば、MCで補足してもよいです。ただ、語りすぎないことと、最低限にするということと、MCで表現したことを振り付けとか衣装とかと同じく、実際に歌の中で実行しないとだめです。そこをきちんと一致させる。声として表わすということです。

 

できたら、解釈から声の中でも表現をかえてください。

別に私もカンツォーネシャンソンを聞きたいとは思っていませんから。これが現代的に皆さんの感覚におきかわったときに、どんなものがでてくるのかということです。

そうではないと単に、今にないものがここに流れているだけで、「何て時代錯誤のことをしているのだろう」ということになるのです。

 

本当でいうと皆さんが歌ったら新しくならないといけないということです。だからってはずしてよいとこと、はずしてはいけないところがあって、そのはずしてはいけないとこをはきちんと押さえつつやっていくということです。

 そのステージをみていて、「5年後に何かやってくれそうだな」と思わせるような力を出してもらえばよいと思います。

 

それから何だったら負けないかということも知る。同じ曲をやっているので、他の人と同じように歌ったら、当然、埋もれていくわけです。そのときに自分の武器となるものが何なのか。ある人はリズム感かも知れないし、表情もそうでしょう。

すべてのものを総動員にしたときに総合力で勝てるよりも、最初は絶対的に勝てるものが欲しい。

 

それがわかってくるのは少し時間がかかると思います。だから、舞台らしくしてください。舞台は、ここで人間がすべてを賭けて演じている、芸人が芸を演じるから成り立つ。

観客は観客としてきちんと評価して、笑いたければ笑えばよいし、怒りたいときは怒ればよい。笑いたくないものに笑ってみたり、笑いたいのにまわりみて押さえてみたり、そういうことをする必要はないです。

 

なるだけしぜんな形でやりましょう。ただ、ここは不しぜんです。

この舞台で通用できる要素は何かというように考えればよいわけです。

ここはここで一つのライブの場であって、こういう客がいて、そうしたらここで通用するものは何なのか、ということを徹底して考えるべきだと思うのです。

 

すると確かな、歌なり、技術なり、感じでできるものを出さないといけない。私を客にするのですから、そういうのがなければ通じない。ではどうすればよいのか、お笑いでも、他の才能があれば、それを総動員して出してもよい。

 

できたら日頃やっていること、1ヶ月やったことの結果をここで出してみて、足らなかったということに気づいて、そこのギャップをきちんと埋めていくことです。普通のステージは、そこで終わりで打ち上げですが、ここは終えたときに始まります。

 

 

 

 研究所として100%以上使ってください。私とか講師からは、よいところだけをとってください。悪いところをとることはないと思います。よくいうのですが、グレードの違いは、うまさではない。歌をコンスタントにうまく歌いこなせる人は、どこにもいる。しかし、1回でもよいけれど「こいつ、もしかしたら何かやるのではないか」と、私をだませたことが、キャリアです。

 

年間に12回ステージがあって、音程が悪かったり、リズム感が悪かったり、自分を知らなかったりして、ほとんど5点とか0点だったかもしれない。ところが1回でも70点を出せたというのは、何かやれる可能性があるということです。毎回30点をコンスタントにとる人よりも、私は認めているのです。

 

というのは30点ばっかりずっととっていっても、最後まで30点だということになってしまいます。ところが毎回0点、5点、でも2年に1回だけは75点とれたとしたら、10年かかるでしょうが、それを定着できればそれは何らかの才能であったり力となるのです。

 

音感もリズム感もよく、平均点をとれば総合点は上でも、表現できていなければゼロです。

舞台に関しては、コンスタントに表現をとりだせないといけない。その一瞬をきちんととりだせること。歌としては3分間の中で一つ、つかむ。

 

自分の中でつかんだと思ったことではお客さんが聞いていてもわかります。そこの評価基準で私が皆さんと違うことは、さほどないです。ただ、皆さんのように寛容ではないだけです。違うとしたら、正直さです。

 

評価しないのは、本当の意味で一つも出てなかった、何もなかったというだけです。出ればそれはわかります。それを1曲で構成するのは、さらに難しいことです。ましてや何曲にわたって出し続けるということは至難です。

 

まずは、1フレーズでよい、それ以外、全部こわしてもよいから、1フレーズを活かすというのが、ステージ実習です。

全部をならしてどこも聞かせられず、無難だったなというステージはやる必要はないです。

 

 それからオリジナルです。

シャンゼリゼ」いろいろ聞いてもらいましたが、その音楽が入ったままで消化できていない人はすぐわかります。うまく歌えている人ほど、そうみえます。うまいのとすごいのというのは全然違って、うまく歌えるような歌い手をめざす必要はないです。

 

タレントでうまい人はいくらでもいます。すごいといわれるのは、うまくみえるようなところを抜かないとだめなのです。テクニックで消化するのはよいですが、消化した後、自分で取り出したものが出ないと、曲にのってしまって終わるだけです。歌としては、もちます。ただ、何も伝わらないです。つまり、歌ではない。薄められてしまいますから、その人の個性もなくなってしまいます。そこを勘違いしないでください。

 

どういうふうに変えてもよいです。ただ、アレンジして変えたとしたら、変えただけの理由を自分がそこで出せないのならやらない方がましです。それならきちんと歌った方がよい。

それだけの理由をつくるのがトレーニングです。

 

そうしたらバラバラすぎて、同じテンポで、こういう歌い方が皆さんにあっているはずがないわけです。それを一つにつかんできて、この場で3分を一つに感じさせて、出せるという、その感覚をつかんできてもらえばよいと思います。

たった一つが伝えられないのに、何をたくさんやろうとしているのですか。

 

後は真っ正面に取り組んで欲しいです。歌をななめに構えて捉えてしまうと、いくらでもよけられます。「あれはへただから勝負しないよ」といったら、「あっそう  ならいいよ」とそれだけの話です。

煮つめてください。

 

それから、まだ音楽になれていない。歌になれていない人はやはり、自分が本当によい歌を聞いた状態のときにどういう状態になるのか、どういうふうに自分の胸が打たれたり、ひきこまれるのかを感じること。

 

その一瞬というのが、わかっていそうでわかっていないです。それはその人の心境にもよるもので、何でもない曲がものすごくしんみりしたり、よく聞こえる場合もあります。だからそういう毎日の中で、いろいろな曲を聞いて、きちんと体を開いていたら体に入ってきます。

 

 

 目標をなるだけ高くして欲しいということです。こういう課題曲を与えたとき、いつもレッスンで言っているとおり歌い流すのではなくて、自分を表現すること、できるとかこなすではなく、その中でつくることです。

 

与えられた3分の中で一瞬でもよいし、表現で何か一つ、自分のオリジナルな声でもよいし、センスでもよいし、それを前に出すことです。それがどの曲でもできるようになれば、その人のものが宿ったことになると思います。

 

それからヴォイストレーニングはバランスが大切なのですが、表現に関しては、まとめようなんて考えないで思い切りやってください。次第に、否応なしに体の限界からまとまってきます。そこまで思い切りやっていく。声をこわしたらこわしても勉強だと思うことです。

 

本当に表現が身についた人とは、発声もていねいにやっていくというより、かげで結構めちゃくちゃなことをやって、そのときに危ない橋もわたっているのですが、そういうこともふまえて身についてくることが多いのです。

 

それ以上、練習をやってはいけないとか、風邪だから寝ていなさいとか、医者にいって安静にしていなさいといっても、本当に後で身についた人はそういうときもやっていたり、熱だしてもこういうところにきていたりしています。そうしなさいとは私からは言えないのですが、結局バランスを整えようなど小さく考えないで、思い切ってやってください。その方が正解に近づくと思います。

 

バランスをこわそうとして表現していても、バランスがとれてしまうような体にならないとどうしようもないのです。結局、自分のカラを破れぬ人は、どんなに音楽を学んでも表現者として一流になれません。解放するために歌とか声のことをやっているわけで、それを制限つけていってトレーニングに枠を設定して、どんどん引きこもって、人前で出せなくなるなら一体、何のためにやっているのかわからないです。

 

自信をもつためにもやって欲しいし、やっていったら自信はくずれてきますが、もっと前向きにパワフルに取り組んでください。

 

 大きくなりたければ大きい場に立っているイメージを、ここにもってこれればよいわけです。ここに5万人いるとしたときに、どのぐらいの大きさで歌えるかということです。それを続けていたら、よけいなことを考えなくても技術は宿ってくると思います。イメージの力というのはとても大きいのです。

 

今の時期は常に結びつきをつけながら、大きくしていくということをやってください。大きくやっていたら小さく使えるのです。しかし、小手先でまとめてしまうと伸びなくなってしまいます。今は大きくする時期だと思ってください。

 

それは、最初にしかできないのです。コンサート活動に入ってしまったら、そこから大きくというのは難しいですね。全然違う意味での大きさになります。

体とか息とかということからいうと、こういう課題の中でいかに大きく息を使えるかです。そんなに大げさにやらなくても、というぐらいにやっていて、その人にぴったりにあってきたら、それは舞台としても表現でもつと思うのです。

 

 

 

 

京都「取りくみ方」. 360611

 

 

 声のなかの多様性ということをテーマにやっていきたいと思います。ロックも、クラシックも、西洋からきたもので、声を特殊化させて出しているやり方です。

ポップスの場合は、いろいろなヴォーカリストがいて、必ずしもベルカントで、ひびかせて歌わなければいけないというようなものではありません。いろんな出し方、音色に、それぞれの可能性があるわけです。

 

しかし、現在の日本のポップスの場合は、かなり偏り、特殊です。日本にもいろいろな高度な使い方が昔からありましたが、最近は欧米のもののうわべだけをとって、皆さん同じような出し方で、向こうとは全然、違うレベルでやっているわけです。

 

だから歌の分野が一番、声のノウハウがなくてやっています。ここではそれを取り戻していくようなテーマでやるというように考えてください。

 

 私が皆さんの年齢の頃は、お金をはたいて借金してまで海外を回ったりしていました。たぶん、時代が違うというか、エネルギーが違うのでしょうね。たかだか軽井沢や東京であっても、遠いという。何だかわかりませんけれども、ぜいたくになってしまったのだと思います。

 

私より昔の人は、もっと海外に行くのが大変だったのに、何かを求める人たちというのは、何ヶ月も船に乗った。なりふり構わず行動しているわけです。そこまでの行動をした人というのは、だいたい結果として、そういうものがついてくるわけです。つかざるを得なくなるわけです。それだけ時間も犠牲にしますが、それだけの決意でやっていくわけですから、人生の賭け方、覚悟の違いです。

 

 軽井沢で行うというのは、いろいろな意味があります。私は研究所の生徒のなかで一割くらいの人にはヴォーカリストとしての可能性があるのではないかという見方をしています。

別に欧米のヴォーカリストとか、今の日本のヴォーカリストと比べてということではなくて、価値観をもっている、声で人前で表現して食べていくことに賭ける執念、こだわりにおいてです。

そういうことを考える場として、考えている時間があるかどうかわかりませんが、実際、日常と切れたところで音のなかに浸りこんでみるというのもいいと思います。

 

 3~4年くらい前は、平均としてなら関西のレベルの方が高かったです。今も東京の方ができているとは思っていないですが。年数だけでなく、意気込みがものをいいます。

 

少なくとも、一日も練習しない日はないという人が少なくなってきたのは確かです。一日も欠かさずやっているということは、トレーニングのベースで、これなしにオンするものはありません。

顔つきを見ていてわかるわけです。やっている人は顔に宿ってきます。そうでないと歌が少しくらいうまくても、人前でやっていけないわけです。

 

そのへんは、人数が増えてダメにならないように、自覚をもってやってみてください。今までは、東京が関西にあおられていたんですね。会報を見ていたりすると、そのあたりの経過がわかるわけですが、最近どうもよくない感じがしています。

 

全体的に、徹底的に量が足らないといえると思います。聞き込む量、それから練習量は当然だと思いますけれど、それがあって技術が宿ってくるのがあたりまえで、ヘタに発声の技術を身につけようとか、発声をどうやるのか勉強しようなどというのを頭で考え出したら、歌にならなくなってきます。表現にならなくなってくる。まとめることは考えなくてもよいということです。

 

本当のことをやろうとして、今、まとまるわけがないです。もし、そんなに簡単にまとまったとしたら、ウソだと思えばよいです。声もなくて、フレーズも通用しないのに、歌が作品としてまとまることはありえないのです。

1年、2年とまとまりきれないくらい体を使っていくわけです。そうしたら使いきれるところまで使いきれたら、後はまとまってくるわけです。

 

誰もかれもがパヴァロッティみたいになっていけるわけではなくて、どこかで自分の体の限界というのはきます。心の限界もきます。そうしたら、その時点から作品としてしぜんとまとまるのです。

まとめることを考える必要はなくて、いかに自分がまとまって小さなところでやっていて、その殻を破れないでいるかということを知り、そこから出てみないと仕方がないわけです。

それをことばから捉えてもよいし、音声から捉えていってもよいです。けれど、まず自分の体のなかにそれを叩き入れ、そこで表現を考えていってください。

 

 それでは簡単に発声をやった後、課題をやっていきましょう。

「ラ」でも「ア」でも何でもいいです。自分が一番出しやすい声でどうぞ。

 もう少し単純にいきましょう。「ハイ」だけで。

 

 いろいろな段階があって、それぞれ違うわけですが、まず絶対そうなって欲しくないところ、発声もどき声にならないことです。何の意味もないです。それらしくはなりますが、三流の声楽家がポピュラーを歌っているみたいになってしまいます。

 

イメージとして間違っています。表現に関してはまえに出ていなければ、間違っていると思ってください。ただプロセスにおいて、まえに出なくなることもあります。

結果としてまえに出るために、一時、声が引っ込んでしまうとか、あるいは体を使おうと思っている部分のトレーニングのために、意識的にこもってしまうとかがおきるのは仕方ありません。ただ最終的な到達点のところで、もし引くことを表現と考えていたり柔らかく音にあてはめていこうと勘違いしていると、声自体、体と結びつかなくなります。

 

 もう一つ、部分的に使っている場合、これはだいたいの人があてはまってしまいますが「ハイ」のあたりでまとまって、つながりが切れている場合です。ピアノでいうと、音が並んでいてその音に対して鍵盤を押しているだけです。こういうところは全部、イメージのところでの間違いとなります。

 

ピアニストがピアノを弾くときに、そのフレーズの出せる感覚というのは全部、頭のなかに入っている。頭というか心のなかに入っていて、そのイメージというので手が動くわけです。私はピアニストでないですから、そういうことはできないわけです。

 

プロになれないのは、体として、手が基本フォームで動かないと、耳にピアニストとして聞いた何万もの音が入っていないからです。そうしたらヴォーカリストの場合は自分の体が楽器となってそのイメージで動かなくてはならない。

 

「ハイ」というのは「ハ・イ」、こういうイメージだとこういう声しか出ないわけです。「ハあイ」とこうなってしまいます。だからこれはイメージの点での間違いです。そしてノドを締めるというのも、これがイメージのなかで解放されていない場合におきます。

 

だからこれを、たとえば部分的に調整しようということなら、口のなかをどうするとかいったことで解決しようとすると思いますが、それは小手先、一夜づけの処法で力となりません。まずイメージを間違わないこと。もう一度「ハイ」でいきましょう。

 

 難しいのは、トレーニングのためのトレーニングになってはいけないということです。たとえば体を使おうとする「ハーイ」「ハイ」とかいろいろなことが起きます。ふしぜんです。それは、トレーニングと表現とを混同しているわけです。

 

たとえば息を吐くこと、体を使うことを、そのままで歌う人はいないわけです。腹式呼吸で歌うといっても、舞台に立って腹式呼吸で息をしようなどと試みていたら、もう終わりなわけです。

 

レーニングも、この場でやるときに体を使うこととか息を使うことは、できない人は意識しないといけないけれど、それだけをやっても仕方がないということです。どんなに体を使っているといっても、それを見せても仕方がない。ただ、それが声として出たときに、それがついていれば伝わるわけです。

 

だから使っていなければいけないけれど、使おうとして使うわけではなく、使おうとしなくとも使えるまで体を変えておくことです。

 

スポーツでも、正しいものは絶対に部分的に働くことはないです。バランスが欠けるのは、本当の意味で力が入らないで、どこか別のところに力が偏って入ってしまうからです。

のどに力が入ってしまう、あるいはお腹に入ってしまう、全部バランスを欠いているわけです。ただどうしても、お腹が使えないとか、のどに引っかかるというので部分的にそこをトレーニングするというのはあります。

ただそれが「ハイ」ということばになったら、これはこのまま、歌のなかで一つのフレーズで最初にくると考えるわけです。だからそれをひずませていかないことです。

 

 

 トレーニングすればするほど、鈍感になっていく人が多く、敏感になっていく人は少ないなら困ります。自分に求める基準が上がっていかないから伸びないのです。難しいのは基準を上げていくということです。判断力を上げていかないと「ハイ」というのができるようになっても、それを定着させないと、前にくせをつけてやっていたことが、今度はできなくなるのです。「ハイ」ということば自体もできなくなってしまいます。

 

「ハイ」と「ララ」だけ言ってみましょう。これはプロセスということで、この場でできていることを私が求めているわけではないということを知ってください。まわりの人をみて、合せようとしたら間違えます。彼らが正しくできているとしても、それに合せようとすること自体で間違えます。

 

自分の体のなかできちっとよみ込んでいくことと、それからはっきり言うことになるとほとんどの人が間違っています。他の人をみて皆さんの方も「ハイ」とか「ララ」とかやらなければいけないと思ってそうやってしまっているのかもしれないけれど、そこの時点で間違ってしまうわけです。

 

 大切なことというのは、正しくやること、正しくやれている人は少ないのです。そのために体を解放すること、それから声のイメージをきちっとつかんでしぜんに出すことです。トレーニングというのはふしぜんなものですから、どうしてもどこかに力が入ってしまったり、慣れるところまでうまく動かないですけれど、それも自分の頭のなかでその状態をそのままイメージを固めてしまわないことです。

 

素直に考えてみて、聞いているとおかしいと思いませんか。日本人の生声というのを、はずしていきますから、日本人の声を聞き慣れている人にとってはよくわからないかもしれないですが、そんなことも全部、抜いて考えてください。本当のことが一つできているとしたら、その人の体の中心と腰や背骨の動きが見えます。

 

それから、そこに何を込めようとしているのかという心のところがわかります。これは歌も声も同じです。そして部分的にしか動いていない部分に関しては、ひっかかり、不快感を感じます。声が出るときにどこかにあたったり邪魔されていると気持ちがよいとは思わないです。皆さんもそのはずです。

 

自分自身が気持ちよくてはじめて、まわりの人も気持ちよくなっていくものだからです。それを普通の人の器でそのまま出すと、のど声になってしまいます。だから完全に、わざとらしい作り方はやめることです。それによって、もっと全身で大きく捉えるためです。だからそのイメージを固めないこと、他人の声を聞いたり見本を聞いたりしたときに「ハイ・ララ」というのは、そう聞こえたら浅い声でもよいと思ってしまうのです。

 

それでは「ハイ・ララ」からどうやって歌えるのか、イメージはもっと大きく、遠くにおくことです。今できなくても構わないから、正しい方向に向けて一段階でも二段階でもいいから近づいていくことです。ただ、今の課題というのは、体を使うことが要求されているということになると、トレーニングのなかのトレーニングになってしまいます。

 

ここで勝手に、トレーニングはこんなものだと決めつけ、ここのトレーニングで要求される声はこういう声ではないかというふうに、皆さんが決めつけていくとズレてくる。場もズレてくるというのは、皆さんが同じようになったらおかしいと思えばよいのです。共通の基準はあります。

 

皆さん、体も違うし、歌いたいものも違う、それから習得の段階も違うし、体の強さも違うわけです。そうしたら同じものがでてくるはずがないです。

 

 

 体を曲げてみて、ちょっと動かしてみましょう。まず多くの人に一番、欠けているのが心身の一体感です。スポーツでもピアノでもそうだと思います。

剣道でも腕で打っている分には絶対に的をはずしていますよね。自分の体自体がきちっと使えていない。使えていないことのいくつかの原因というのは、まずふらふらしている。ピタッと定まっていないということです。

逆に定まりすぎているという具合に、体自体が固まりすぎていてもダメです。動かなくなってしまっている。そんな感じで声が出るわけではないです。

 

フラフラしていて、目線が定まらなかったり、まばたきばかりしていたり、首がグラグラしていたら、こんな状態で何か絶対できるわけがないです。だから、リラックスさせること。リラックスしている状態というのは、体の状態が一番、楽なときです。そして集中していることです。

 

 だから発声トレーニングをやっていけばいくほど、体が固まっていく人は逆にマイナスになっていきます。声の状態はよく整えていくことです。そこで出さないとトレーニングはできません。逆にのどを痛めるトレーニングになります。

 

 息だけでやってみましょう。体は曲げてみてください。体を一つにしてください。皆さん、自分の体をもてあましています。自分の体の寸法にまで、なっていないわけです。体の一部分だけでしか動いていないです。そこが、問題です。

                                                                                                                                                                                                                                    トレーニングは、音声表現をしようとしている人のためにあります。そういう人たちにとっては、吸収できる材料はたくさんあると考えてください。ここでのメリットは、私やトレーナーの声を聞けるということ、どこでも手に入らない古いライブや一流のヴォーカリストが見られる点です。

 

 

 なぜ、ここを希望する人に向け、レクチャーをするのかというと、この研究所のやり方に合っている人に入って欲しいということと、他のスクールを回ってもどこがよいのかピンとこない人のために、その見分け方や、世の中にこういうところもあるということを知ってもらうためです。

 

ここには、気力があり、伸びてくれる人に入ってもらいたいのです。ここに来たらどうにかなると思われても困ります。そういう考え方の人は、他のスクールに行った方がよいと思います。藁をもつかむ思いで手に入れようと必死になっている人のみがついてこれる世界で、持続してやっていける力がなければなりません。

 

 2年で基本を固めようとくる人と、2ヵ月でプロになろうと思っている人とでは、基準のとり方が違います。ですからトレーナーの教え方も異なります。

ここでは、2年を基礎固めの期間と思える人に入ってもらいたいと思います。タレントやアイドル、カラオケの上手な人のようになりたいのであれば、ここは不向きです。

 

 ヴォーカリストには、教えられるものはないと思っています。ですから、ここでは、教えることはせず、材料を提供しているだけです。ポップスのヴォーカリストが歌唱指導をされなければならないのなら、それはヴォーカリストとは呼べないのです。自分でどう歌ったらよいのか、どう歌えば人に感動を与えられるのかがわからなければ、人前に立つことはできないのです。

ここでの2年間は、その基準をつけるための2年間だと考えてください。

 

 自分の歌、声は、基準がないと自分でわからないし、一流との差も把握できませんから近づけません。まず、己の力を知り、一流にはできて自分にはできないことを知ることです。トレーニングとは、そのギャップを埋めていくためにメニュをこなしていくためにあるものなのです。

 

 一流のヴォーカリストのなかにも、それぞれの好みは、あると思います。しかし、彼らがここで一声出せば、明らかに皆さんとは違うということ、優れた技術をもち合わせていることは認めざるを得ないでしょう。ここでは、そのことを身につけていくのです。

 

 この研究所にいらしたら、すべて一度、白紙に戻してください。たくさん文章を書かされます。それは、自分自身の学んでいくプロセスを確認していく勉強になります。ここで扱う一流のヴォーカリストの歌を聞いて、そのことについて厳しく批評を400字詰原稿用紙に10枚書けるようになっていれば、それなりの基準が身についているということです。どうでしょうか。

 

 

 声については、まず息が深く吐けるようにします。自分の今まで生きてきたなかで一番、楽に声が体から出て、のどに引っかからなかった声があれば、それをベースとし、その声を完全にコントロールして使える声にしていきます。日本人は日本の言語、文化の影響で息も浅く、声もうまく出ません。浅いまま音をあてて歌っても、表現としての価値を支えられる声は出ません。

 

 外人は、日常生活から息が深いのです。息を深くするには、息を吐くことができるように多くの量を繰り返しトレーニングするしかありません。そして、少しずつ深い声にしていく。自分の出しやすい音域の音、一音を深くとり、それができたら一音ずつ高さを上げて次の音も深くします。そうやっていくうちに、体と息が一致してきます。そのときに出た声が、そのまま表現に使えるあなたのオリジナルの声なのです。

 

 一流の人たちの歌を聞くと、音が高くても低く太く聞こえます。それは、声が低いのではなく、深いのです。音色が違うのです。この音色で、まず半オクターブそろえていくのが基本です。使えない声で音域を広げても仕方がありません。使えないということは、同じことが繰り返せないということです。たとえば、ここのレッスンで一つのフレーズを学ぶとします。その見本の1フレーズを30回、やったときに、のどがかれてきたり、3回言ってみて、3回とも違ってしまうのなら、その声は使えない声ということです。声を、体と一つにすることがベースです。

 

 体を使う声は、最初、とてもわかりにくいのかもしれませんが、体の中心でこの声を一つに捉えない限り、コントロールできません。そして、次の段階でその声をもとに浮かしたり、ひびかせたりするのです。多彩に使い分けるまえに、まず一つに捉えておかないと、体は使えません。

 

身の入っていないものが人に伝わるわけがないのです。表面上、似せた声でプロと似たフレーズをやっても、単なるモノマネにしかなりません。外人の一流のヴォーカリストを聞いてみれば、ブレス(息つぎ)の深さがわかります。声に対する捉え方も感じることができるでしょう。要は、フレーズ感、ヴォリューム感、太さです。

 

 息が深く吐けるようになったら、ことばを同じ音色で統一できるようにします。たとえば「ハイ」ということばの「ハ」と「イ」が一つに捉えられ、同じ音色で言えることです。

 

口のなかで加工しないことをやっていきます。そして、できるようになったら「あおい とおい ラララ」とことばを増やしても統一できるようにします。この3つをそろえることができるだけでも相当、基本の力があることになります。

 

このことができたからといって、何の芸術的な意味があるのかと考えるまえに、一流のヴォーカリストは皆、それが「できる」というふうに考えてください。ここまでが、画家のデッサン力、ものごとを成すための下地にあたります。

 

 

 私のレッスンでは、1960年代のフランス、イタリアの曲をよく使用します。このころの録音方法が単純であったために、ヴォーカリストの息使い、体の使い方がわかりやすいからです。それとともに、イタリア語、フランス語は強弱アクセントの言語で、体を使いやすいからです。

 

 以上のトレーニングにより、まず表現をするための声の土台をつくり、そこにのせることが基本です。

 日本人が声を身につけることが難しいのは、日本の文化、生活習慣などがあげられます。

 

海外の人たちは、ヴォーカリストではない人、行商のおばさんであっても、深い声をもっています。生活のなかでも、体についた声で常にしゃべっているからです。また、外国人は幼少の頃から発音、発声を徹底的に学びます。何度も音声を聞かされ、何度も発音させられますので、耳と声が敏感にならざるをえないのです。

 

この教育は、特に歌を歌っていこうという人になされることではなく、一般の教育のなかでなされていることです。それに比べ、日本語は、体から息を吐かなくても声になってしまう言語です。読み書きの勉強はしても、発声、発音の勉強はしません。

 

日本人が発音やアクセントを意識するのは、中学校の英語からでしょう。このことからも、海外と日本との差が大きく生じてしまうことがわかります。ですから、日本人の場合は外国人が幼少時に叩き込まれた耳と声の感覚まで戻らないと、ヴォーカリストとしても日本人の枠から出られないのです。

 

このことから考えてみても、ヴォイストレーニングは日本人の場合は、ゼロからの出発どころかマイナスからの出発なのです。マイナスからゼロにするだけで2年はかかると私は思っています。

 

 また、日本の音楽市場は、完全に国内だけに向けられたもので、キャリアもなにもないに等しい20才前後の女の子が一番高く売れるのです。そんなヴォーカリストをつくっている国は、他にはないでしょう。

 

歌や音楽は、本物であれば、ことばがわからなくても海外に通用するはずです。しかし、今の日本のヴォーカリストの歌では、外人が聞いても全くよさがわからないでしょう。海外の3流でも、今の日本のレベルまではならないでしょう。

 

 そして、日本のヴォーカリストが不利な点は、沖縄あたりをのぞいて、民族の土壌になるものがないことです。その国に生まれ、生活のなかに根づいている感覚、体のなかにしみこんできたものがないのです。

 

歌は、その人間が何かの感覚でそうしなければならない必要性があって生まれてくるものです。しかし、それをすべて、形から入れてしまっています。世界のよいところだけをショーアップしているアメリカのポップスを歌っているヴォーカリストたちも、ジャズやゴスペルを聞いて血を受け継いできているのです。日本はさらに、そのアメリカの“二番煎じ”です。

 

 世界に通用するヴォーカリストになりたければ、今まで述べてきた原点に戻ってトレーニングしていくことです。日本人でも一声だけなら、深い声が出るときがあります。

それは、発声のときではなく、何かスポーツをして体の状態がリラックスしていて息が深く、体が柔軟になっていて、声のことなど何も考えずに声を思いっきり出しているときです。

 

その感覚を身につけ、その声をベースとしてまず半オクターブできるようにするのです。皆さんのなかでは1音、2音でも難しいと思います。しかし、ここがクリアできないと、いくら上に積んでいっても、何にもならないのです。

 

 ヴォイストレーニングとは、声をきちんと統一していくこと。統一して使えるようにするためのトレーニングです。声域を広げたり声量を増やすことが目的ではありません。結果的にそうなったらよいのです。

 

声域や声量がなくても優れたヴォーカリストはたくさんいます。まず、歌、表現として価値をもっていることがどういうことなのか問うてみてください。

 

1年目で外人か役者くらいの声を身につけること。2年目でヴォーカリストの要素、つまり自分のフレーズ、オリジナル性を身につけること。それがここのトレーニングの目的です。

 

 ヴォイストレーニングをはじめたら、個性がなくなったとか、ありきたりの声になってしまったというのは、初めからオリジナルなものがあったわけではなくて、なくなる程度のものだったということです。

 

発声のトレーニング以上に自分の表現をつくるトレーニングを怠っていたということです。自分の表現を助けるためにあるのが技術なのです。その技術をつけるための発声やヴォイストレーニングをするのです。この順序を間違わないでください。表現が先にあっての技術なのです。

 

 トレーニングにしても、何かを身につけようと思ったら、一日も休まずやるというのが大前提です。

今の皆さんは、自動車教習所に通ってF1のレーサーになろうとしているようなものなのです。プロでさえ、あたりまえのようにヴォイストレーニングを欠かさずやっているのです。その差を縮めようと思ったら、並大抵の努力では追いつかないのです。

 

世界で一番になるんだというなら、世界で一番の練習量が必要です。そういう気構えで、あたりまえの世界です。誰よりも一番トレーニングすること、誰よりもうまくなると思って入門しないと、意味がありません。年齢、キャリアに関しても、ここは一切、問うていません。自分がもう歳だと思ったら、そこで終わりだというだけの話です。要はすべて自分次第だということです。

 

 2年たったら、全員プロにするなどとは言いません。すごいことができる人は、それだけのことをやってきたという裏づけが必ずあり、それは本人しだいなのです。

それをすべての人に要求するのは無理だからです。

 

しかし、ここですごいことをやり、やり続ければよいのです。ここには学ぼうと思えばいくらでも学べる材料はたくさん用意しています。

きつい人は、ゆっくりめにやりましょう。きつければ休んでもよいです。

2回に1回で吐いてもよいし、後半やらなくてもよいのです。自分で調整しましょう。

 

 

 

ステージ実習個別コメント

 

 一人ずつコメントしていきます。はじめから、いろいろとコメントすると、ことばにとらわれたり、その人に対しての評価であるのに、全体的な中での位置づけを考える人も多いようです。しかし基準は、以前の自分に対してどうなっているかということです。

 

「何で私はだめなのに、あの人はよいのだろう」とか考えないでください。その人がわかっているレベルで述べます。私は個人的に気づいたことを言うときには、なるだけ全体にふくらませることで、その人が受け取りやすくしているつもりです。

 

最初は、こちらが個人の事情まで、よめないこともあります。ビデオでみると声の流れというのは、マイクが入っている分よくなりますが、表情やステージは、まだまだよくないです。前に出ていません。気をつけましょう。その時期の課題に一所懸命なあまり、ほかのことに全く気づかないのでは困ります。

 

 今回は、難しい曲なので、つきはなして歌わないと処理できないはずです。この曲の中にはまっていくと抜け出せなくなります。はまった人はだめでした。へんに感情を込めようとか、自分のものをそこにもってこようとしても、歌詞の意味とか、歌い上げている世界にこだわっていくより、歌としての構成そのものを一つに捉えて、自分のそとにおいて歌い上げることです。

 

 

 自由曲に関しては、一瞬よいところがみえました。そこをいつも出せるようにしましょう。その目的で積み上げてきたのならよいでしょう。フレーズもよい。ただ、センスが空回りしているような気がします。やはりそれは支えられているものであって、歌でいうとかくし味みたいなところで効いていないといけません。具体的にいうのなら、小さなところのキープ力がないから、まとめるといった意図だけが前にでてしまいます。そして、逆に大きなところの押しが弱められています。これを思いきってやる方が、しぜんとうまくいくのです。ここのバランスをギリギリにとっていかないといけないでしょう。

これが声の技術で支えられるというより、曲を聞いてコピーして自分の体にあてはめるところの作業でしょう。自分の呼吸、体のいわゆる落とし込みの後にどうバックしていくか、どうダウンしていくかというところをもう少しもってこないといけません。曲のイメージはとれています。ただ、曲と呼吸があわないところがでてくると、特に何らかのセンスでもっていこうとする場合には、それが全部マイナス要素になってしまいます。それなら声で大らかに歌っている方が、ストレートに伝わります。

特にアップさせていくところ、ダウンさせていくところでの呼吸が大切です。平坦にやっているところはフレーズがみえるので、そんなに問題ないと思います。普通のところより小さくしたところ、それをキープさせるというところに問題があります。大きなところの押しは、サビのところで一瞬うまく入ったようなことが確実に出せれば、そんなに問題ないと思います。これはここにいる間に解決していくと思います。体がもっと動いてくればよくなります。

 

 流れはとれていると思います。構成をどこにおくかとか、ピークまでどう高めていくかということもわかっているようです。ただ、流れをとっていく中で、最初はよいのですが、聞いているうちに単調化しています。動かし方はそんなに悪くないと思いますが、どうも流れだけが出ています。ただ、流れさえでにくい歌ですから、そういう面では評価してもよいと思いました。このへんは評価の分かれるところでしょう。自由曲に関しては、構成とか流れはとっているけれど、構成に負け、泳いでいます。1曲目のビブラートは気にならなかったし、どちらかというとよい方向にでていたのが、2曲目に関しては悪い方向にでています。大きさに関してはよい方向になってきたと思います。それから全体的な印象として、今は、自分の中で完結してもらえばよいから待ちますが、欲をいえば、もっと聞き手への働きかけをすることです。聞き手を無視しない。そこで歌をもちあげないといけない部分が出てくるということです。

 

 課題曲に関しては、うまくまとまっているというより、まとめすぎています。一番不満に思うのは、内側に入って外側に対する働きかけがたらないことです。もしフォーク歌手でどこかの街角で自分一人の中で燃焼していくという形であれば、それもよいのかもしれませんが、私は可能性をひろげてみているので、つまらないと思いました。さめているというのは歌としては悪くはないのですが、それでも熱く伝えないとだめなのです。さめていることさえ熱く伝える。悲しいことを笑って伝えるのと同じで、そこのエネルギーが感じられないと伝わらないと思います。

自由曲に関しては課題曲以上にそういう面では解放させる必要があります。呼吸や一つひとつのことばのかみしめ方が問われます。なつかしさを表現したいということでしたが、形だけで、心がなつかしさには至っていないような気がします。基本的な力は備わってきているので、それを自分の殻の中に出さないで、殻を破り、もっと自分のイメージを解放して出していくことです。こういうところで小さく器をつくってしまわないことです。その方が心配です。

 

 トラブルはありましたが、そのときにどう対処するかということは徐々に慣れていってください。こういうことは、常に起こることです。せっかくおもしろくなりそうに用意してきてくれたし、おもしろくなりそうだったところまではみえて、声も聞けたわけですが、それが完全におもしろく出せるところまでもっていくのに、何が必要か考えてみましょう。おもしろいというのは笑えるおもしろさではなくて、歌の中であなた自身の魅力がどうでてくるかということでなくてはいけません。

歌というのはある意味では本人を裏切って、もっと大きく展開できてくるとよいわけです。だからそういうことでいうと、本人のキャラクターでもどういうキャラクターがよいとか悪いということはなく、歌ったときにおもしろくなればよいわけです。ただそのためには、素直であることが必要です。そのおもしろさがせっかく出そうなのに、そこまで自分が貫いていないからそれが出てこないのです。自信とか慣れも必要ですが、これではもったいないと思います。何かしらの完成度があるのは魅力です。しかし、プロの舞台としての完成度は全く違う意味で必要です。だから舞台にすることを考えてみればよいと思います。顔つき一つ、あるいは姿勢一つで変わっていくものだと思います。評価できるのはきっとそこからでしょう。

 

 課題の曲に関しては、まじめに歌っていくと、ことばの世界の中でどうしても閉ざされてくるのです。もう少しで音の世界、音楽にうつれたような気はします。基本的な力とか声とかはあるけれど、最後のエンディングに関しては計算できていないことがはっきりしています。結果的にぶっつけ本番という感じになっています。実際、舞台に立ったときお客さんのことを考えたら、声が出ないのなら出ないなりの処理方法というのは、いくらでもあります。それなりに無難にまとめてしまうか、それとも正攻法でぶちあたっていくかの難しい選択です。

ここでは思いっきり冒険せよといっています。ただ、思いきりやって玉砕できればよいのですが、自沈してしまったらどうしようもないのです。そのへんというのは慣れていくしかないです。歌い手は常に最高のコンディションでできませんし、途中のところでこのままでは最後できないとわかるときはあるわけです。そういうときに処理するセンスは必要だと思います。

 自由曲に関しては、曲が難しいことを差し引いて、自分のセンスで選んできたということであれば、単に薄めただけで、全く違います。何か勉強になったということを期待しますが、本当に稚拙に真似してきたというだけで、あなたの歌う意味がなかったと思います。大曲で、こういう3拍子の曲に取り組むというのは、別の意味で勉強にはなるので、今はよいことかもしれません。およそ全体的に光が出てきていないような感じがします。

いつも歌が立体的になって、生命があふれるようにしたいものです。生命感はその人の中でまわっている場合もありますが、それが前に飛び出すように。他人の3分間の時間をあずかるということでは、信用の問題です。あなたに自分の人生の貴重な時間を3分もあずけているわけです。だからそれに耐えるためにここでどうするかというのは、もう少し考えてきてください。

フランス語や新しい曲に取り組んでくる、そういったことはいろいろと経験になるから、今回だめでも何かのこやしになるでしょう。10回やってうまくできてしまうよりは、千回やって全然できなかった方がプロセスとしてはよいと思います。ただ、ここに出ると主人公ですから、その意識はもってください。少し遠慮しすぎているような気がします。もう遠慮できる時期ではないと思います。

 

 自由曲に関しては、基本のことは守っているし、声もよいのですが、やはりそれが埋まっていて、外に出ていません。武器というのは使いながら自分で磨いていくのは無理です。使い方から決めていくべきで、戦場で手入れの時間は、ありません。背中を向けてしまわないことです。プロセスにもよります。これで10年かけるというのなら、この時期これでよいのかもしれません。そのへんは自分で判断してください。ただ、もし舞台として捉えて勝負するのなら、まず解放しないといけないし、表現しようという形でかなり前向きにもってこないと、今回のように飲まれてしまいます。

 

 今はこれしかないのでしょうといってしまえば何にもいえなくなるので、もう少しわかりやすくいうと単調です。メリハリがワンパターンのフレーズの中にすべて入って出てこない。フレーズのつけ方が最初の4フレーズぐらいでみえてしまって、どこかで裏切ってくれるかと思いながらみていても、最後までそれでいきました。そこで何かを展開しないといけません。そのためのフレーズです。

ワンパターンのフレーズというのは、もっと単純な例でいうと、ことばを長くのばすということ、短くするということだけのくり返しです。この曲は大体同じパターンでいっています。ただ自由曲を聞いていても、決まりすぎている感じがします。だから何もないところに勝手にやれといったら、何となくあなたらしさというのは出るのかもしれません。しかし、それがあまりに音楽にならないところで自分で限定してしまっているから、自分のスタイルらしきものとして何となく1曲もってしまった気になるでしょう。それで1曲はやれてしまっている。しかし、もっと深いベースのスタイルが自分自身の中であるはずです。そのオリジナルまで戻さないと、このスタイルで全部歌うとなると、全部が同じに聞こえてしまいます。日本のヴォーカリストにはそういう人たちが多いのですが、このスタイルを音楽的にもっと完成させるのは難しいと思います。

 自由曲の方も、完全コピーからもう一度やることです。その中で、長短のことばのフレーズはみえますが、イメージが貧困です。これは時間かけていかないといけないし、技術も高めないといけません。無理がみえるというよりも、感覚が違うのです。ピアノふうにアレンジされた曲を、ウクレレで聞こうとしているような形の無理だから土台勝負にならないです。それなら、自分はウクレレだというので、ピアノになろうとすることよりも、ウクレレとして自分でアレンジして楽譜を書き直さないといけないということです。もっと自分を活かせるところをよりみつけていって、そこにきちんと落とし込むことを、特にこういう曲を歌う場合はやってください。この曲は非常に難しいです。すべての力がトータルとしてないと歌えません。ただ、自分が自分のスタイルにきちんといれていけば曲というのは、不思議なことに難しい曲の方が歌いやすいのです。

 

 出だしに関しては、一番ストレートに出せていたような気がします。ある意味でつきはなしていたし、それはあなたのキャラクターから出てきたのかもしれないのですが、下手な感情移入を不要にしたところでは、できたような気がします。欲をいえば3番目の展開でのつなぎのところの線がやはり弱いです。1から2の山にいくときのつなぎの線と、特に2から3にいくところの展開のひっぱる線というのをかなり強くもたないと、つきはなして歌ったとそれだけで終わってしまいます。だからつきはなすというのはおいていってもよいけれど、そこでより太いところを、どこかでみせておかないといけません。その部分がこの歌でも何カ所かあります。そこの線を知っていてひっぱっていたのでしょうが、もっと太くしないと、やはり対照的にならないでしょう。構成が際立ちません。

 自由曲に関しては曲からいえば、やや力が入りすぎています。それが狙いだったらそんなに問題ないと思いますが、大胆に歌うところに対し、繊細な部分の動きがとまっていないから、そこでの時間の感覚が結局、同じなのです。こういう歌というのは時間が3つぐらいあって、ものすごい緻密な時間、それからゆったりしている時間など、その時間の感覚を歌い手自体が、感じて変えていかないと難しいです。

同じ時間が最後まで支配していると、せっかくピークとかいろんな構成をつけても、繊細なところとか、小さくつくるところでの動きのところがすべて流れてしまいます。声をきちんとつくらないといけないとか、息をしっかりやらないといけないというのは、そういうところで表現の密度を薄まらないようにするために必要なのです。それはこれからの課題だと思います。

色の使い分けというと歌い分けみたいですが、もっと違う色が出ていて欲しいです。特に踏み込みと浮かし方のところです。そこだけみると雑になります。一般的な人はそこだけを聞くのです。悪い例でいうとカラオケの人はすごくうまいのですが、息が浅いわけです。結局、息継ぎのところで呼吸とともに動きが止まってしまう、息が吸えなくなってしまう。それから大きなフレーズがとれない。歌の大きさそのもののイメージングが小さいから、どうしてもうまいけれど2曲はいらないとなってしまうのです。歌が飲み込まれなくなってしまう、通じなくなってしまうのですが、そのへんが気になりました。体の問題でしょう。

 

 今日の中ではややつきはなして歌っている方でした。ひっぱっていって声のフレーズで離しているけれど、これもピークまでのとり方で緊迫させていけなかったのでしょう。表面的には同じでも、密度が違うのです。最初おいたフレーズと、サビの前のフレーズとでは、心の中で準備というのが必要です。動きに関しては、あえて出さなかったのなら不要です。ただ、動けない人が多いですから、ここでは動いてもらってもよいのですが。

 

 流れ、構成はしっかりしてきたと思います。ある意味では、表現を握れるようになってきた部分はあると思います。あとは、音が揺れることは体なり、息を鍛えてキープしていくしかないし、支えをもっと強くしないといけないでしょう。全体的にいうと、まだ音が走っていません。本当のものは、聞こうとしなくても、歌の伴奏がそこについて聞こえるのです。歌を聞くときにもなるだけ頭のなかで伴奏をつけて聞くことです。これに伴奏を入れたらどうなるかと、何もリズムをカウントしたり、音感をとらなくても、体で聞いていたら正しくない、違うというのはわかります。

その音が聞こえてこないのは、今は仕方ないのかもしれません。しかし、その音をつけたとき音を走っている人と走っていない人というのはものすごく違います。その音が走っているということは必要です。ことばだけだといった人は、大体そのことばを重ねて、そこに音程をつけているだけだから、歌として走れないのです。先に音が流れているべきです。構成ができている人というのは、そういう意味でできているのです。音楽の世界ですから音の世界が必要で、その上でつきはなして音を降ろしていく、心に宿し伝えていくということが必要です。

 

 実際だしている声はくせ声でのど声です。もの真似的に聞いていけば、もつかもしれないけれど、その振りにしろ、このように使ってしまうと、せっかく効果的なフレーズのところで逆に流れを殺してしまったり弱めている結果となります。歌っている中で振りをつけていけばよいのです。先に歌の流れをつくって構成をつくってから、そこにあてはまる振りだけがつきます。そこからあんまりはずれてしまうと、今度は体がうまく動かなくなります。その動きでは、非常に難しいです。動きが邪魔してしまうと、息や声も動かなくなるからです。

まず、声の表現でギリギリのところまでやって、表現力をつけていきましょう。場にでたら、そのときの感覚にあわせて動けるようにした方がよいわけです。自由曲に関しては少し前に出ていたと思います。ただ、評価は非常に難しいと思います。悪いことばでいうと、安っぽいピンボールのゲームみたいなところもありますので、保留しておきます。評価が保留されるのはよいことです。それがモノになればよい話です。そこは私が決めるべきではなくて、あなた自身がこれから声をどう伸ばし、歌をどう完成して、ステージをどうやるかということで決めていってください。ただ、今のままではこういう印象があります。だからもっと洗練させる必要はあると思います。ただ、そういうのをプロセスに組み込んでみてやっていくのなら、前に出ているということを評価していきたいと思っています。

 

 

総評

 

 この場の空気を支配することです。それからダンスでも絵でもそうですが、線を描いたらこの線に対して、次にどうおくかという、構図として1枚に捉える。1枚のなかに、強烈な世界があるわけです。絵でも一流の絵と大学生の絵をみたら、立体感が全然違うわけです。

 

相手に衝撃、インパクトを与えていかないといけない、働きかけないといけないわけです。心にみえてこないといけないのです。それが平面上で終わっていたら当然働きかけはない。歌でも同じだと思います。死んでいてはいけないです。音の世界ですから、音も生きていないといけません。できる限り、音の聞き方を、こういうことばでも伝えていきたいと思っています。

 

 呼吸が聞こえるか、伴奏が聞こえるかというのも一つの目安だと思います。歌の世界は限定されがちですから、それを目安にするというのは難しいものです。その上で一つひとつのことばのかけひきがはじまるので、構図が描けていなかったり、線が乱れていないところでかけひきをやってしまうとくせになったり、あるいは悪いパターンになって抜け出せなくなったりします。

 

 そういう見方をすると、日本人の歌は大体、声がないところで、そういうかけひきの形でつくっています。本当のオリジナルの声ではないままに、舞台でもつだけのノウハウをそういう形で受け継いできているわけです。それは少しやると、誰でもできると思うのです。ただ、それをやってしまったら、嘘になってしまいます。

 

オリジナルに戻ると、迫力、重心、安定感がでます。これは個々につけてもらうしかないと思います。だからステージ以前の問題ですが、あきらめてはだめです。月1回これをやるためにきているわけでしょう。それからハプニングは絶対に起きると開き直って舞台をやっていたら、そのうちうまく処理できるようになってきます。たくさんいろいろな経験を積んでください。

 

 ステージで謝る必要はないです。謝ったら負けです。役割というのがあって、歌う前に、出た人間は謝ってはいけないのです。ここに出てくる以上、ヴォーカリストというのは人の心を歌で捉えるという役割を与えれていますから、その役割をまっとうしないといけません。そうでなければ一人で歌っていた方がよいわけです。それから、ここも歌を通しての人と人のコミュニケーションの場ですが、そこにあなたが火をつけないといけません。その力が欲しいような気がします。

 

後は音感、リズム、ことばが雑すぎますが、自分で聞き込んでいて、歌を丁寧に扱うことです。もちろん、丁寧に扱いながらも、大胆に運んでいかないといけません。大胆にしたときに丁寧にできるということは、基本の技術が必要です。だから基本をやるというように結びつけていくのです。

 

 今の時期、何もかもやれというと、全部バラバラになる人が多いのですが、全部一つのことのためにやっているのであって、それを自分の中できちんと入れておくことです。まずデッサンをきちんとしていくことが、ベースです。デッサンというのは共通です。センスというのもあるところまでは共通です。ルールがあります。その上で予期しないファインプレーが出たら本当のセンスといえます。

 

 最初は、ルールを守っていくということ。リズム、テンポ、音程・音感を守るというようなこともありますが、もっと大切なルールもあります。表現を活かすことです。後はデッサンの中で自分のペンタッチをきちんとみていくことです。

 

ややもすると、今まで描きやすかった筆で描きやすいように描いていただけというのもあるようです。それが本当にその人の気質とか声帯や筋肉に合っているのかどうかというと、疑わしいものです。

 

ここではそれを把握するための2年間だと思います。自分の中でぴたっと結びつけていくことです。そこまでできていたら後は好き勝手歌っていれば作品になると思います。いろんなヴォーカリストをコピーしたりする中でやっていってください。

 

元気もうぬぼれも必要だと思います。ただ、それだけでは行きづまってしまうので、それを支えるものをもつことです。歌を流さないこと、きちんととめること。一つひとつことばを考え、大切に扱うこと。

 

カラオケは無神経で、自分勝手に独りよがりで終わっているから満足させてくれません。結局、与えようとしている歌ではないからです。最初から与えるのは無理ですが、自分の中に与えられるようなものを煮つめてくることです。だから今はいろんな歌をやってください。

 

課題曲から、他の人がどう取り組んでいるのか、どう表現しているのか、その中で何を自分が得られるかに気づくことです。

 

歌は、1回ものにしても3年くらいたたないと発酵してきません。歌いたいと思ったら、しっかりとレパートリーにしておかないと無理です。半年前ぐらいから練り込み、3ヶ月で追い込んでいき、残りの2ヶ月で仕上げれば基本的な力がある人は歌えますが、まだ本当の歌にはならないです。

そこからそれを、いやになるまでやってから、寝かしてみて、もう1回そのフレーズが解釈できるかを問います。

時間のかかるものなので、種はたくさん蒔いておきましょう。

声のことだけをやりたいという人もいますが、やはり声を歌に使うためにやっているわけですから。