鑑賞レポート 666
【マリアカラス 】
彼女の声には人を興奮させる何かがあるというのが第一印象だ。息をひそめて見てしまう。この声は本当に彼女が出しているのか。どうやって。超音波でも出してるんじゃないかと思うくらい、どこからこの声が出るのか不思議で仕方なかった。全身に寒気が走って、何度もゾクゾクした。
誰にも、こんなふうには歌えないと思った。トスカの舞台で恋人を殺されそうになり、泣き叫ぶ姿がとてもかわいそうで私は一瞬、カラスのトスカに恋をしてしまったようだった。観客の誰もがトスカに感情移入するに違いないと思った。疑似恋愛状態に陥る人もいるだろう。カラスは愛を感じられたのは舞台の上だけといっていたそうだが、つまり演技ではなく、舞台の上で本当にその役を生きていたからこそ、感動的な歌、舞台になったのだと思う。「歌に生き恋に生き」は純粋無垢なトスカの哀しみあふれた美しいアリアだった。
【フラメンコ フェルナンヌ・デ・ワトローラ、レモート・デ・ヘルエ、カマロン・デ・ラ・イマジ】
人が歌っている口の中をあんなにアップで見たのは初めてだった。舌が下に押さえつけられ先端が緒ュしくぼんでいる状態。まさに息を吐き出しきって声にしているという感じだ。吐いて吸っての繰り返しのなかに、生(せい)を感じる。唇の形もさまざまに変化し、感情と表情が一体となっている。ことばはわからなくても、誰がみてもすごい声だと思うだろう。
すべて椅子に座って歌っていたが、姿勢がよいというだけではあんな声は出ない。あの口とのどを見ていたら、なんだか吐きそうな気分になってしまった。吐き出す息がどこにもひっかからず、外に出てくるイメージがもてた。とにかく、うまいとかそういう次元ではなく、すごいの一言だ。そして、まわりにいる人々も歌いはしないけど皆、自分が歌っているような表情をしていた。
人間には本来、リズムに合せて歌ったり踊ったりしたいという欲求があると思う。だから、あの人々は実にしぜんだ。日本を考えると、どうもそういう欲求に対しては不しぜんじゃないだろうか。なんだか体も心も固くなってしまった人が多そうだ。体を動かすことや歌を歌うってことは、日常的なことでしぜんなことじゃないのだろうか。真面目な人はたくさんいる。けれど、素直な反応ができる人は少ない。心も体もやわらかく生きていこう。そうすれば、きっといい声が出ると思うから。
【エディット・ピアフ(仏版)】
僕は、エディット・ピアフというおばちゃんについては何一つ知らない。シャンソンのプロ中のプロだと、普段その手のものは一切、聞かない僕でもわかるすばらしい「声である。不思議なもんで、彼女が歌っているときと平常時は、まるで別人みたいである。普通にしているときは、日本にもいそうな森光子みたいな顔してる、ただのおばちゃんなんだけど、シャンソンが流れた途端に顔が引き締まり、歌った途端に本当に魅力的な女性になれてしまっている。このギャップには心底おどろいた。
NHKの演出家の勝田氏が言ってたけど、人はジェスチャーで体一杯、表現することにより、声まで変わるという。彼女はそれをフルに活かして美女になれる(って言うと“いいすぎ”なんだけど)のである。本当に歌のうまい人間とは、こういうことだと思った。それと、フランス語で対訳もないのに、内容が理解できた気もした。これも表現力の成せる技か。
【ジャイアンツ・オブ・ロックンロール】
一番おどろいたことは、皆、若くもないのに、ものすごいパワーとエネルギーをもっているということ。BBB本物のヴォーカリストは、やはり普通じゃない。化け物だ…。今の私には「hey!!」ということばさえ、人にまともに届かないだろう。内に秘めたものでも外に出しきるものでも、人間はパワーをもたなきゃと思った。というより、自分は人前に出ていくことを選んだわけなのだから、気だけは負けずにやっていこうと思う。
レイチャールズはすごかった。座りながら体をあんなに揺らし、しかもマイクからかなり離れているのにいろんな声が届いている。笑い声、絞りきった声、悲しそうな声、歌を歌っているという感じじゃない。リトルリチャードのお腹はたるんでるように見えたが、声が出ることとは関係ないのだろうか。触らせてもらいたい。自分のステージが終わったとき、次の人を紹介することばもプロだと思った。音楽の世界にはドロドロしたものもたくさんあるだろうけど、一人ひとりの世界を認め、自分は自分の世界を高めていくというところに魅かれる。同じ世界にいながら交わることはあっても、くっつくことはない。一人ひとりが輝いている。
【ザ・ヒストリー・オブ・ロックンロール/ロックンロールの誕生】
「ルーツ」の一言につきる。ストーンズにしても、B. スプリングスティーンにしても「ルーツ」がある。それは、ロックをしているからロックの「ルーツ」があるというのではない。ロックをしているミュージシャンの多くが、ブルースやカントリー、ジャズなどに影響を受けている。彼らは、私の想像以上に音楽を学んでいる。また彼らは、幼い頃から街頭、教会、家庭でしぜんに学んでいる。残念ながら、日本は環境面からいって劣っている。だからこそ、「ルーツ」を聞く必要がある。
「ルーツ」を聞いて、身体で感じなければならない。今の段階では、彼らのよさを理解できないこともある。B. スプリングスティーンは、H. ウィリアムスについて若い頃は何となくよさがわかったが、本当に彼の偉大さがわかったのは27歳くらいのとき、と言った。今、私が聞いてもわからないものもあろう。それでも長い期間で理解していく必要がある。
エルヴィスの歌をずっと聞いていた。なんて大きな歌い方をする人なんだと思っていた。オペラの影響を受けたとも聞いていたから、その影響かと思った。エルヴィスのステージは、歌を聞かせるという感じでもなく、かといって客席と一体となってという感じでもない。本当にしぜんにそこにいて、歌い踊っている。魅力というものは、つくられていくものなのか生まれもったものか、どうなのだろうか。魅力がありすぎて(うらやましい)、彼の歌や演技が正当に評価されなかったということがあるかもしれない。彼は歌うことよりも演じることの方に魅力を感じていたのだろうか。演技派俳優と言われるまでいかなかったのは、彼があまりにも国民的スターになってしまったからだろう。求めるということは、きりがない。でも、自分には力があると信じる人ほど、自分の可能性を試したくなるのかもしれない。
監獄ロックのスーパースターは、意外と謙虚だった。人気絶頂のときも自分を冷静に見つめ、周囲への気配りを忘れなかった。プレスリーの夢は、ハリウッドで一流の俳優になることだった(歌は踏み台だったのか…)。歌も演技もすばらしいし、セクシーさとアイドル性まであるのだから、名を残したのは当然というべきか。プレスリー本人の才能と、パーカー大佐のマネジメントが成功を生んだ。
歌手がステージでは自分しかいないが、プロジェクトとしてみた場合、一人で一から十までこなせるわけではない。優秀なスタッフと組むのは大切なことだと思う。歌手として絶大な成功を収めたプレスリーだが、ハリウッドでは大成しなかった。売れることを優先して演技力の必要な役をもらえず、キャリアを積めなかった。他人の言いなりにならず、自分で道を選んでいれば違う人生になっただろう。恐ろしいことだ。
【テイク6 オールアクセス】
CMで聞いたことはあったが、実際、見たことはなかった。なんて気持ちよさそうに伸びやかに歌うんだと見ている私も、青空の下、寝転がっている気分になった。いろんなジャンルの音楽があるけれど、そしていろんなメッセージをもっているけれど、聞いて気分が暗くなるようなものではなく(そういうものを好む人もいるかもしれない)、「よしっ、今日もがんばるぞ」と思えるような音楽がいい。
6人がそれぞれたくさんの音楽の影響を受け、それらがいい形で自分たちの音楽につながっていると言っていた。私には今まで音楽に関して蓄積されたものが非常に少ない。これからたくさん、ためこんでいこうと思う。
ミュージシャンというと、どうも酒やドラッグというイメージがあり、私生活は退廃している気がするが、この人たちは違うようだ。そのへんは、メンバー全員がキリスト教だというところにポリシーがあるらしい。自分のためにやるというより、神のためという考えをもってやっているもの。音楽をやっていくには孤立してはだめだけど、孤独の精神はもっていなきゃだめだろう。そのへんのバランスは、自分というものをしっかりともっていないと難しそうだ。苦しみのなかから生み出されるものかもしれないけど、それをどれだけ楽しんで表わしていけるかだと思う。
【モータウン25】
ステージと観客が一体となって歌のエネルギーが溢れていた。歌というものは、時代、社会、国民と大きく結びついているbセなと思わされた。自分たちの出ていく場を求めて求めて、その出口がモータウンとなった彼らのパワーはものすごい。メッセージも、自由、希望、夢、生きるというものが多かった。今、この時代にこの日本で何を発信していくのか考えた。世のなかが便利なものにあふれようと、夢や希望や勇気は忘れて欲しくない。あまりにも情報の多いこの日本は、迷い子がたくさんいる。どうしたらいいかわからない人、とにかく人の流れにのってみる人、いろいろいるけど、本当に手に入れたいものは自分の足で探さなきゃみつからない。テレビを見てたって雑誌を見てたって、みつかりはしない。もっと生きているものに触れなくてはいけない。日本は島国だからこそ、もっと世界に出ていかなければと思う。受け身で得るものなんて、何もないのだから。
【ミンガス・ジャズ・ワークショップ】
前回、ミンガスについてのフィルムを見たとき、それはドキュメントであって、ステージのシーンはごくわずかでした。しかし、今回の「ミンガス・ジャズ・ワークショップ」では、全編ステージでよかったです。ミンガスのベースは、よい意味でくせがあり、ドロドロしていて、しかもリズミックでした。
エリックドルフィは、とてもテクニカルで、まるでエレキギターの早弾きを聞いているようでした。ピアノはとてもすごく、よいフィーリングを出していました。ピアノがブギウギになるところなど、とても楽しめました。僕はミンガスに関しては、「ピテカントロプス・エレクトス」のみしか持っていなかったので、とても勉強になりました。一部、音楽性がとても高すぎてついていけないところもありましたが、それは私の音楽性が低いからそうなのです。とても勉強になりました。
エリック=ドルフィの演奏は、音の線があって、そのなかで音を動かしてトいると感じた。楽譜なしで何十分もアドリブで合せているのだろうか。それぞれの音楽性やセンスをよく知った上で、お互いを聞きながら感じたままに絶妙のハーモニーをつむぎ出していくとしたら、ジャズというのはとてもおもしろく、自由な音楽だと思った。私はピアノのスキャットが好きだ。ピアノと会話しているみたいだ。メンバーは自分の楽器を親友や恋人?みたいに愛し、信頼している気がした。「A列車」のエリックのソロは聞かせてくれたが、他のメンバーが負けじとソロを奪ったが、エリックがその挑戦を受けてさらに熱のこもった演奏をみせてくれたあたりは、お互い刺激しあう、おもしろい場面だった。ベースの音ってなんかワクワクソワソワさせられる、祭りの太鼓の音みたいだ。
【モータウン・リターン トゥ アポロ】
「本物の『スター』たち」僕にとっては紅白歌合戦の100000倍ぐらい豪華なメンバーだった。特に、ルーサー・ヴァンドロスは動いている姿を初めて見た。一度は日本に来て欲しいと思う。
パティ・ラベルの声量、スティビー・ワンダーのメッセージ、ダイアナ・ロスの繊細さ、どれもすごいの一言だ。
何より印象に残ったのはジョージ・マイケル。この人は本当にソウルが好きで、ソウルに憧れてこのステージに立っているんだなということがひしひしと伝わってきた。決して体格、声量に恵まれているわけではないが、精一杯、己のすべてを絞り出して歌う姿はけなげで、いとおしかった。軽いイメージしかもっていなかったが、ヤツを見る目が変わった。そして、サミー・デイビスJr.。初めて見た足の動きと音が一体となったタップ。その体のスピードは確かに光を放っていた。力だけでなく、茶目っ気タップリで人間味にもあふれている。まだまだ、生きていて欲しかった。
【美輪明宏】
美輪さんのデビューまで、メジャーになるまでの物語みたいでしたが、苦労されているせいか、ただならぬ歌への想い入れ、プロ根性、ポリシーみたいなものに胸を打たれました。一つの「小屋」への想い入れ。いつまでも、自分がスタートしたその地点を忘れない。歌おうと思った気持ちを、自分のなかにある想い、伝えたいことを。もっと恵まれたなかで音楽をやってきた人だと思っていたのに、何もかもが一からでおどろかされた。
本当に自力で這い上がった人だ。私に、ここまでできるだろうか。そして、ここを銀巴里にできるだろうか。美輪さんに教えられたのは「想い」だ。それに勝るものはないと。それがあればできる、夢は叶うと。シャンソンがもともと、苦しい生活の中から生まれたものだということも知らなかった。歌はそうやって、しぜんに生まれる。人間の叫びなんだ。想いなんだ。
【青森のせむし男】
高校生のとき、学年ぐるみで歌舞伎を観に行くハメになり、何時間も女形の声を聞くうちにすっかり気分が悪くなってしまった。以来、「女は女だけが演じるbノ限る」とかたくなに思い続けてきた。けれど、ヨーヨー・マと坂東玉三郎が共演した「希望への苦悶」をビデオで観て、女形アレルギーが治ってしまった。美しいものは美しいのだ。
そんなわけで、美輪明宏さんの舞台も観てみることにしました。虐げられた女たちの怨念が漂ってくるような内容です。舞台の例はやや極端としても、基本的な構図は昔も今も変わっていないかもしれない。女性の本質や情念をよく理解して、それを形として表わさないと、女形はパロディになってしまいます。その点、美輪さんは女の狂気を実に見事に演じていました。男が男の狂気を演じるのさえ大変なのに、男が女の狂気を演じるのは並大抵のことではありません。彼女(?)の力量に感服しました。
【毛皮のマリー】
殺風景で淋しいセット、ついさっきまでそうだった。それがマリーが登場した途端、急に華やかになり、同じ部屋とは思えない。これが美輪さん個人の華だと思った。マリーがご機嫌で歌い、くつろぐと、こっちも楽しくなってくる。全体を通して感じたのは、どの人をとっても演技が本物であるということ。これほど完璧というのかベストの舞台ってなかなかないと思う。
昨年のいしだ壱成と組んだ再演を見たが、形に陥っている箇所もあり、この寺山追悼公演に参加した友人も「再演なのでセリフをナメてる。ドイツの演出家より美輪氏が演出した方がよかった」と評していた。確かこのマリーの稽古中に寺山氏が亡くなったのだと思ったが、それだけにどの出演者も真剣だったと思う。完全に日常から切り離された、マリーのいんびな愛憎、世界を、リアリティをもって描くことに成功している。美輪さんの表現力の豊かさ、“彼女”のもつことばの力は、やっぱり特別だと思う。ことばに創造力があるとでもいうのかな。
【やすし・きよし漫才 】
横山やすしの声は、上ずっていて聞きにくいと思われるが、決してそうではない。普通の人より少しハイトーンだが、声をコントロールする身体、呼吸ができているので通りがよい。もし、彼以外の人が同じ高さでやったら、途中で息があがってバテてしまうだろう。彼は声をコントロールできている。
それとは反対に、西川きよしの声は低い。しかし、やすしと同様、自分の声をコントロールできている。呼吸と身体が安定しているので、穏やかな声から怒鳴り声まで、声で表現できている。二人ともマイクの通りがよい。
最近の漫才師は、何を話しているのかわからず、何を伝えているのかわからない。しかし、やすし・きよしは、マイクから離れていても、きちんと通る。それが、漫才の始めから終わりまで途中でバテることなく続いている。彼らのテンポ、歯切れのよさも見事だ。彼らが本格的に歌をやっていたら、どうなったろう。
【ジョバンニの銀河】
宮澤賢治の世界はとても心地よくて、いつまでも浸っていたい気がした。登場人物はとても心がきれいで現実社会で私たちが忘れてしまいそうな何かを見つけた気がした。ホッとして眠りについてしまいたくなる。彼の遺稿はとても痛々しく、きっと生涯、苦悩し続けたんだろうな、他の人なら何でもないことで、彼は自分の無力さに苦しんだんだろうなと思った。そんな彼の狭い世界(地方の小さな寒村)で、彼が創り上げた世界は、当時の人々から見向きもされなかったように時代から離れていたかもしれないけど、死後、こんなにも有名な大作家として認められ、海外でもその作品が読まれる数少ない一人となったのは、作品のなかに時流とは関係ない、不変に人々の心に染み入るものがあったからだろう。
何かを表現するということは孤独な作業だ。しかし、真の表現者は孤独を不幸とは思っていないだろうし、意識すらしていないのではないだろうか。イメージをふくらますということがどんなに大切なことかわかる。イメージが貧困な者は、感じ方も浅いということだ。宮澤賢治という人は、自分の興味のあることから確実にヒントを得て表現した人だと思う。彼の行動範囲は決して広い方ではなかっただろうし、さまざまな経験をしたというわけでもない。一つのことをどれだけ深く感じ拡げていけるか、経験の差ではなく感じ方の差が、表現者になれるか、観客になるかの違いなのかもしれない。
【檀一雄の最期/奥村士牛】
囹奥村士牛は、色を塗っては乾かし塗っては乾かして、ときには150回、4色を重ねるという。またの名を「士牛百遍」 日本画と染め物の違いはあれど、奥村士牛氏と久保田一竹氏には共通点があるように思える。60歳を過ぎて大成し、何度も色を重ねて作品を創り上げていく。
「写実の極まりは抽象にあり」「まずくとも生きた絵が描きたい」「芸術に完成はあり得ない。いかに大きく未完成で終わるかだ。」日本画に留まらない普遍性がある。
努力は二種類あって、一つは可能性を広げる努力、もう一つは可能性を使いきる努力。氏牛氏は百歳を過ぎてもなお、画家としての可能性を広げようとなさったのでしょう。入れ歯、補聴器を嫌い、しぜんのまま老いていく姿には感銘を受けました(ただし、周りの人は大変)。百歳まで生きられるかどうかわかりませんが、その執念は見習いたいと思います。