一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン感想  16467字  667

レッスン感想   667

 

 

いろんな人の声やレッスンに対する姿勢がみえる。「魅力」というものはとても大切なものだと思う。一人の人間からにじみ出てくるものはさまざまだが、表現することのなかにその人なりの生きる姿勢や考え方が全部、出てしまうんだなと思った。声を手に入れることは基本中の基本だが、それはほんの一部のことで、歌い手というのはトータルなものだということを強く感じた。世のなかには、一流の表現者たる人がたくさんいる。歌だけではなく、それ以外の人々を知り、本物を吸収しよう。

 

ことばから攻めていくトレーニングもある。ことば(歌詞)そのものがもつフレーズをつかむ。歌ったとき、そのフレーズのもつ力を失わない。ことばを音に特化させる。朗読したら鼻をつまみたくなるようなクサい詞でも、すんなり耳に入るように。福島先生が15歳の少女の恋を歌ってもふしぜんでないように。発声にことばを当てはめて歌に置き換えても無意味。まず、ことばがあり歌がある。

 

発声がはじめにあるわけではない。何もできていないことを悟る。表現するための自分の基準をもつ。基準がないならつくる。つくるための基準となる歌(声)を聞く。息づかいと身体を自分のなかによみ込むこと。悟るしかないことを悟る。大量に書き込まれた先輩方のアテンダンスシートを拝見しました。「すごい量だなと思ったら負けているのだ」と福島先生がおっしゃいました。負けております。必要を感じたのは、次の2点。①先生のことばの整理と、そのことばの体系化 ②自分の現状(発声時の感覚など)と疑問点の記録。

 

先生の言っていることをあたりまえだと思えるレベルでのとり組み。伸びる人はやるだけのことはやっている。伸びる人、できる人との練習量の差は2~3倍どころじゃなく、20~30倍ぐらい違う。

 

楽譜通りに歌うなとは、よく先生が言うが、楽譜通りに歌えないこととは違う。しっかりと楽譜通りに歌える訓練は必要。プロの歌を聞いて体と声の結びつきや音の世界を知る。発声「ハイ」の実践レッスン→声の芯がとれないのは、口先やのどで何か邪魔をしているから。声がなかなかできてこなくても、支え(体)の部分だけでも鍛えておく。そのためにも(そうでなくても)常に全身から声を発っせられるように心がける。今は首から上しか使われていない。

 

特別ライブ実習に出演した人のアテンダンスシートや月末レッスン報告書を見せてもらい、何よりも圧倒的な字の量におどろいた。書けばいいというものでは確かにないが、何はさておき、書くということが重要であると感じた。的外れでもくだらなくても、とにかく量を書くということを今年の課題とし、「研究所への財産」への一歩にしたい。体を使って声を出している人は姿だけ見てもわかるということ。

 

先生が「こういう歌い方は日本人でやっている人が多くいる。私もできるがやりたくない。」とおっしゃって見本を見せてくださった。歌い方を聞いて、菅原洋一さんや淡谷のり子さんを思い出しました(美輪明宏さんもそんな感じですね)。親の世代はそういう歌い方が好きらしく、「本当にうまいねぇ」とほれぼれして聞き入っています。でも私には、どうもくせがある感じが気になってあまり好きではないのですが…。やはり日本人の歌い方ってくせがあると感じました。

美空ひばりさんは、演歌だけでなくいろいろな世界をもっていて、とても好きですが、ミルバの歌う「昴」と比べてみると、いろいろな声を人工的に加工しているような感じがしました。ミルバの方がしぜんに(外国語なのに)心に入ってくるような感じがしました。

 

美空ひばりとミルバの“昴”を聞き比べた。ミルバの方はどの高さになっても声質が変わらない。ストレート直球というイメージがする。その上でしっかりと表現されている。好みでいえば、美空ひばりの方が好きだが、声を学ぶ上ではミルバの方を参考にした方がいいんだろう。伝えようとする気持ち、もっと言うなら聞いてくれ!という想いで声を出す。しかし、音程や発声、リズムに不安があると表現しようという気持ちがどこかへとんでいってしまう。

 

今まで9割方、発声の練習ばかりやっていたので、そろそろ音程やリズムのトレーニングもバランスよくやっていかなければ。そのツケが如実に表われた、今日は。要は「ハイ」とベターな声で言えたときの感覚を歌にもっていけるか。体から声を出し、それによって体が鍛えられ、そこに音楽が宿るように。ワンフレーズでいろいろと試してみる。口先の歌は伝わらない、飽きやすいということを先生は言っていたが、確かにそうだと思った。

 

こんなにいい曲、いい詩で雰囲気もいいのになんでこの人の歌は飽きてしまうんだろうと思うことが度々あったが、考えてみると、みな声が軽い。最近では小室ファミリーの人たちなんかがそうだ。「夜もヒッパレ」という番組でマリーンという歌手が華原朋美の曲を歌っていたが、ぶっとんでしまった。パワー、スケールの大きさ、ノリなど、どれをとってもものすごい。圧倒された。まさに全身で歌っていた。

 

大したことがないと感じる他人の歌も、自分自身にフィードバックしてみると、全然できていない→自分自身に何が足りないのかを知る手がかりになる。声や体がそう違わない人の歌も、うまいと思えるなら、そこから学べる。歌=音楽の世界、ことばがわからなくても伝わるはず。

 

一瞬に集中して出し切ることの難しさ。学んで習得することの難しさ。もっと練習しなくてはと思った。体を使って発声すると、のどにほとんど負担を感じない。先生の声でのお手本。すべてだと思った。体全体を使って表現しているのを聞くと詞が何を言いたいのかが本当に伝わってくる。常にパワーが情熱が必要だと思った。

 

自分では音感、リズム感がよいと思っていたのに、プロとはずいぶん、差があるなァーと実感しました(口に出してみて)。できないことがわかりました。声というのは、思った以上に微妙で体調に左右されるなァーと思いました(体調が今日よくないので)。発声が全然ダメ。腹の深いところから深い息でノドをしめずに…と思っているのですが、単に大きく出しているだけで、のどがビリビリします。これは第三者が聞いて魅力的に感じないと思います。

 

お正月に実家に帰り、先生の本の初歩の本を読み、(自分では)忠実にそれに添って発声してみたら、「あっ、これか」と目からウロコ状態だった(感動しました)のですが、コンディションを整え、実家の日本舞踊のおけいこ場と発声に恵まれた状況で、ようやく一語「あ」とか「い」とか1文字のみ「あ、これか」と感じることができました。

それが「あい」→「愛」ということばには全くならず、「あ、い」でした。早く「ア、イ」ではなく「愛」と正しい発声で言えるようになり、それから「愛してる」→「愛してる あなたを」など展開していけるようになればと切に思います。そうなったとき、今日のレッスンを受けられる資格があるのでは、と思います。表現は、さらにその先にあると思いますし。また、息を吸ったり吐いたりする練習をしたのですが、そのとき頭がクラクラして妙に疲れたのにはびっくりしました。自分では体力も運動神経もよいと思っていたのですが、考えを改め、レッスンと、レッスンの空き時間にボクシングジムに通い体力をつけ、筋力をつけようと思っています。

 

小さく歌う(弱く表現する)場合は、頭で強く踏み込んでおく。フレーズの頭にパンチがあれば後半は失速しても(意図的に弱めても)場が持続できる。盛り上げていく場合(多くは音がかけのぼっていく場合)は、フレーズの最後で拡散させないよう留意する。声を収束させる。

 

先生がよくおっしゃっている「握って離さない」あるいは「投げ出したら確実に受け止める」ということ。練習に慣れて感覚を鈍らせないこと。耳の痛いことだ。歌い手のステージを観るとき、あるいはCDを聞くとき、もし自分だったらどうするかを常に考えながら聞く。歌い手がどういう感覚で声を出しているかを考える、感じる。身体と息がどのように使われているか。そのパターンを自分の身体によみ込む工夫が必要。

 

歌うまえに心の準備と息の準備をしておくと、最初の音から深い息の声が出ると言われ意識してみたら、前よりもなんか気持ちいい声が出てうれしかった。瞬時というわけにはいかないけど、なるべく心の準備と息の準備が早くできるようになりたいです。先生に、一つひとつのことばを切って声にするのでなく、ひとまとまりのことばを全部つかみ、声にしていくみたいなことを言われて、私はひとまとまりのことばを早く言ってしまったけど、そういう意味じゃなくて、体の深いところまでひとまとまりのことばをもっていくことだったんだなと気づきました。

 

ミルバやエディット・ピアフなど、ことばで言ったまま歌に変える。高いところこそ、より体を使う。体と耳を鍛える。体と一致させる。トレーニングなので体を使っていかなければ何も変わらない。日本語を音楽的に捉えていく。

 

「アルディラ、輝く星」、「アルディラ」の「ア」は、日本語の「あ」でなく、音楽的な「ア」でもっていくこと。息を聞くくせをつけること。日本語特有の音を数えるくせをやめていく。表現であること。今は小細工せず、大きく前に出していく。表現である限りはいつも前にだしていくこと。テンションも前へ。体の原理を素直に使えるのが一流の条件。ポジションを変えない! しっかりつかんでおく。一流が、どれだけ同じところでキープしているかをしっかり聞く。

 

感覚にいつも気をつけていること、とおっしゃっていたのがすごく耳に痛かった(福島先生の授業中、少し感覚が敏感になっても、家に帰るとすぐ鈍感に戻るので…)。“かがやく星”音をつけたとき、全然これではない!と思った(アルディラの方がマシだった、と自分では思った)。

早口すぎたし「や」と「し」がすごく口だけというか浮いてたと思った。「かがや↑くほし↑」みたいな感じ。「死ぬほどさみしくて」おとといやってできなくて、さらに今日一歩も進歩なし。力みすぎてしまう気がする。「死ぬほどさみしくて」2日前にやったことをやり返してくれるのは、とてもうれしい!! 今度(できれば…)3、4回、同じことをやり続けるような授業があったらうれしい。家で復習するのと、もう一度授業でやるのはやっぱり全然違います。

 

仲代さんの二通りの歌い方を鑑賞した。日本人受けする歌い方に慣れてしまっている自分の感覚だけでは、自分自身の声をトレーニングするのは困難だ。耳も鍛えなければ。

 

イヴァザ・ニッキ、ベティ・クルティス、ピアフ、ミルバなど、たくさん聞きました。息をまねしながら聞くと、とても疲れます。声を出して、これを歌ってしまう恐さを知りました。そして、イタリア語はとてもキレイですね。英語よりも、日本人には入りやすいことばなのでは…と思いました。

 

メロディを音に分解しないこと。ことばを文字に分割しないこと。音符どおり歌うことより自在に動かしていくことが大切。そこに楽しみを見出し、そこに表現を宿していく。音と音の間に何を練り込んでいけるかが重要。歌うための肉体の不足を自覚する。音楽を宿すために聞きまくる必要がある。自分のなかのルール、基準を常にもつべき。

 

本物の歌手の歌に合せて息吐きをすることは、イメージトレーニングになると思う。自分のお腹からのどを通り、口まで一本のドラム缶が通っているような気になってくる。その他にイメージトレーニングとして、よい方法はあるでしょうか。

 

今日は、クラスの人数が多かったので、福島先生が「もし次の上のクラスに出たい人は出てもいい。」とおっしゃったのでいいチャンスだと思い、20:00~の②③クラスに出ることにしました。一番びっくりしたのは、これだけ声の大きさが全然、違うこと。正直言って、その声の迫力におどろき、自分がちっぽけに感じられた。いかに自分の声が浅く、口先だけのうそっぱちかを痛いほど痛感させられた。本当に完敗でした。もっともっと声も体も大きくしていかないと、上のクラスでは前に出られないし、目立たない。表現も大きく前に出していかないとだめなんだ! 上のクラスということでプレッシャーと緊張感で一杯でしたが、本当によい体験、刺激でした。そして、これだけ真剣に熱心に声に体に表現にとり組んでいる人たち(同じ仲間)がいるんだなぁと思い、勇気とそして自分も負けないという、いい意味でのライバル感がわいてきた。本当にいい勉強になりました。とにかく、レッスンに対しての真剣さが、とり組み方が、入①クラスとでは全然、違うと感じられました。それだけ、声、精神面で深く追求してるんだと思いました。いかに自分の声がいつわりののど声、生声かを実感させられました。

 

今日一番、心に残ったのは「曲を聞いて、そのおさえるべきところをしっかりおさえて、すぐさま自分のフレーズとして出す」ということ。踏み込むところを常に感知して、とりあえずそこをはずさなければ、曲の流れは出せると思う。問題は、聞き方、感じられるか。サッチモまではいかなくても、あの感覚は欲しいところだ。片寄ってはいるが、洋楽を聞いてきているのだから、ある程度はもっているはずなのだが。

 

踏み込むところ、プロを聞いて大きさの基準でなく音で表われている感じがする。のどの開いた空洞のような声の音、ピアフでもルイ・アームストロングでも、あの独特な声が消えるところ、小さなところもよく聞くと、その音が入っている。もっとよく聞くと迫力ある声が入っている。音の大小で聞いていると、大きなフレーズと小さなフレーズでは踏み込むということが違ったやり方に感じるが、のどの開いた音として聞くと、同じものとして感じる。一つでもできれば息の感じから捉えるようになれる。声でなく息として、イメージでなく具体的に捉えられて、聞くほど離れていく世界を味わえると思う。

 

踏み込んだ感じを自分で出してみようとして最近、やってる練習が、実はヴォーカルトレーニングメニュ100の本のメニュ83、シャウトの練習に一番似ている。その本は、メニュ1からやさしい順に書かれているとすれば、突然、ヴォーカルテクニックの83のメニュをやっていることになる。試みならいいが、毎日できないリピートをしている。これは身につかない練習だ(感覚を変えるのには役立つけど)。だけど難しい練習なんだと捉えて、ベストキィ、言いやすいことばのみと限定するなら、やはり続けてみたくなる。最初にやった頃より、全体的によくなってる気がするから、感覚を風船から矢に変えるのに役立っている。

 

普通にやってもしぜんに矢の感覚の方に体が動いていく。浅い息で短い息しかない人からすれば、なぜ、そこで体を使ってまで踏み込まないとならないのか、という素朴な疑問が湧いてくる。1フレーズのなかで、なぜその部分で踏み込む必要があるのか。もし質問されたら答えられない。自分でできたら感覚的に答えが出てくる気もするけど。なぜそこで踏み込むのか、他じゃだめなのか、そうしないと歌にならないからか、体からそれていってしまうのか、それも聞かせ方のセンスなのか、リズム的におかしくなるのか、ゴチャゴチャ考えずに、自分でできるようになって、自分でまね、試して答えを出せばよいことなのか。

 

もっとも大切なものはオリジナリティ。オリジナルの声。オリジナルのフレーズ。誰が歌っているかわかる声。他の人が歌っても同じように聞こえるなら、自分で歌う意味はない。オリジナルの声をつかみ、その声を動かしてオリジナルなフレーズをつくる。そのためにトレーニングがあること。規格化された声を出すために練習するのではないことをわきまえる。

 

身体をさぼらせない。身体を使って歌えれば楽になっていく。身体を使わないと表現の手順が複雑になり、声の操作が困難になる。すべてを単純にしていく。小手先の技術でごまかしていくのは結局、大変なこと。シンプルなこと。すべての声を同じパターンで出せることが大切。

 

普段できることが今日のように多人数だとできなくなってしまうことがある。いつ、どんなときでも瞬間的にできるように定着させる必要がある。一般公開レッスンの後の先生が「曲をかけている間に体を元に戻す」と言っていましたが、声を出すときも日常生活と変わらない状態でいる自分には、新鮮に聞こえました。歌うのに必要な体の状態を知る必要を感じました

 

先生の近くにいたので、声を出すときの体の動きを感じとろうとした。先生の声を自分が出しているつもりで、息だけ吐いてみた。やっぱり力が全然たりなくて、想像以上のことがあそこ(先生の体)で起こっているとしか考えられなかった。体をもっと強くやわらかくしなければならない。

先生が「体調が悪い」というようなことを言われたが、レッスンが終わってしばらくして、言われなくても自分の耳でそれがわかっただろうか。わかるはずがないと思い至ってショックだった。あの場にいた、人がそれをわかっただろうか。

 

今日、ジムに出て本当によかったと思う。今日、出られたことで今までのもやもや、迷い、悩みがふっきれた。体から思い切って出す快感みたいなものを忘れていた。最近の自分の声がいかにつくられた声で小手先だけの口先だけのまやかし、うそっぱちだったか、ジムで大きく声を出すことですべて明らかになった。口先の小さな声じゃ、こういう場では前に出てこない。かき消されてしまう。本当に体を使った声じゃないと、自分にフィードバックしてこないからだ。今日の体験で、忘れかけていたものを発見し、初心に戻してくれたと思う。ありがとう!!

 

体を声に特化する→自分の体と対話。時間を決める。一日のスケジュールを見越して、決まった時間にやる。メニュを固定→内容とその時間配分を決める→差がわかる。よりどころとなる本を決める。出した声をチェックする→テープにとる。スポーツを取り入れる。自分のトレーニングは、固定せず、あれをやったりこれをやったりだったので、メニュを固定することから始めたい。

 

本もいろいろと迷っていたので、基本講座で学びたいと思う。音楽的要素、リズム、音程、理論も積極的に勉強したい。あと、やっぱり本物を聞き分ける耳をつくりたい。そして、自分の歌に活かせたらと思う。すごくよい授業だった。何からやらなければいけないかが、はっきりとわかった。あとは実行するのは自分なんだと。しっかり頑張りたい。あと一番、大事なのは、なぜ歌わなければならないのか。の答はまだはっきり言ってわからない。答が出ていないのに歌うのは、間違いでしょうか。いつか、その答が出るまで必死で歌を勉強したい。

 

“ハイ、セイ”と回したとき、「ハイ」の「ハ」より、「セイ」の「セ」が体から抜けてしまった。「セ」はなんかイメージが上がってしまった(自分のなかで)。“サシスセソ”が苦手。すぐ声ではなく息になってしまう。「seimia seimia」のときも、ことばで言っていたときの方が体についていた。

「ハイ siamoguinoi」→「ノイ」で完全に体からはなれて、まるでつけたしたようになった。「seimia seimia」のとき、やっぱりほとんどの人が「セミャー」と聞こえて(自分もだと思うけど)、竿売りの「さおやー」を思い出した。異様だった。

 

「イ」で外国人は深い「イ」を使っている。日本語の「イ」ではなく、使いやすい「イ」を自分なりに、という説明がわかりやすかった。声が出なくなることはいくらでもあるから、これをやれば戻るというメニュを自分でつくっていくことと言われ、こんなこと全然、自分は考えてなかったので、やっぱりまだまだ意識が足りないと思った。

 

楽器の演奏は音だけで成立している。それはなぜなのか。音だけで成立し得る要因を考えていく。歌い手は音楽にことばをつけることができる唯一の楽器である。音を音楽として成立させ、そこにことばをつけていく。今回は、まずことばありきとするいつもの授業とは逆方向の展開でした。要するに両方の考え方(ことば→音楽 and 音楽+ことば)が必要だということ。歌うためには絶対不可欠な筋肉。楽器としての肉体。歌の練習よりも体力の強化が先決である。歌を聞くときに歌い手の息と身体を聞くこと。

 

なぜ歌うのか。どういう歌を歌いたいのか。今から探していかなければならないこと。もっと真剣に自分に問うていきたい。

 

今、発音の勉強中なので、英語で歌うことの難しさを改めて感じている。本当に発音しようとすると、体や息を必要とする。子供の頃からそういう言語を使ってきた人の歌声と、日本語のように口先だけで発音できる言語を使ってきた人の歌声に違いが出るのはもっともなことだ。だからといって、諦めたくないので、発音のトレーニングを始めた。これは、ここのトレーニングと通じることが多くて、深い息、深い息をお腹から吐けないと、ネイティブの話す発音には決して近づかない。(2/12③④  神近)

 

ミルバ「愛の讃歌」-ミルバは体をしっかり使っているように聞こえる。聞いているとお腹に力が入ってしまう。小さく弱めのところは息みたいに聞こえる。かたい感じがする。大きい感じ。ピアフ-普通にしゃべっているみたい。しぜんな感じ。ミルバとピアフ、同じ曲なのに違う。ピアフの方がやわらかいというか、歌っているというより話している感じがします。

 

わからないことはわからないと認める。教えてもらってわかった気にならない。自分の感覚としてわからなければ、わかったことにならない。わかったことにしない。テキストに書いてあることはやる。歌詞を想像してみたり。聞ける耳をもつ。何度も聞く。自分が知りたいと思うかどうか。気になったり、わからないことがあったら、その曲を聞き込む。まわりの人と比べない。自分ができればいい。

 

説明を聞いてわかった気になってしまうのは怖いことだと思います。でも、そうなっているときもあると思います。授業を受けて「そうか」と思い、その曲とかをもう一度、聞いてみると、もうわからなくなっている。わからなければ何度も何度も聞かなければいけない。今までは聞く量(回数)が全然たりなかったと思います。

 

今日、この授業に出て感じたことは、結局、やるかやらないのかの違いではないかということです。やれるところまでやらないで「わからない」とは言えないと思いました。また、そこまでできるのは、うまくなりたいという意志がないとできないし、本当に好きでないとできないと思いました。今の私の歌には、歌が好きということさえみえてこないし、気持ちも引いてしまっていて、何か足りない気がします。この授業に出てテキストもちゃんと読もうと(読むだけでなく)思いました。人がやっていないことをやろうと思います。いろいろ不安に思っていたことも聞けて本当によかったです。

 

カンツォーネを聞いていると、話しているのがそのまま歌っているのに、日本人の歌だとそうは聞こえないのはなぜ? と思っていた。先生の本でも、何度も日本語は高低で捉え外国語は強弱でとっているからと書いてあったし、自分も何度も読んでいたはずなのに今日はじめてはっきりと理解した。

自分の頭のなかにある「歌」というものイコール、日本人の歌う歌だったから、カンツォーネなどを聞いたとき(エディット・ピアフビリー・ホリデイも同じ)、歌に聞こえなかった。あまりにも自分の頭、感覚のなかにあった歌と違ったから。

 

岸洋子さんの歌を聞いたが、彼女は日本人受けするように、ああいう歌い方をするのか、それともああいう歌い方しかできないからなのか、疑問に思った。ことばを強弱で言うとき、本物の歌手からは何かが伝わってくる。私がただ単に強弱をつけて言ったとしても、体の底から深い息にのせてことばを発しなければ伝わらないだろう。伝えるという気持ちは本当、大切だ。息も心も足りなさすぎる。息がついていかなかったら、想いだけでも出していかなくてはと思った。

 

今日は、ずいぶんとたくさんの人がいたが、声にはその人の考えていることとか、どのへんまでやろうとか、どんな意識で臨んでいるとか、みんな出てしまうんだなと人の声を聞いていて思った(先生ならば、そこに立っている姿勢だけで見抜いてしまいそうだ)。

もしここがなかったら、福島先生がいなかったら、自分はどうやって歩いていくのだろうということは、常に考えながらやっていこうと思う。「ハイ」ということばの発声と同じように、他のことばも言えるようにする。いろんなことを並行してやっていかなくてはいけないと思うが、自分にとって、今はことばの発声はとても大切だと思う。歌に必要なことって本当、たくさんあるんだな。

 

2音から15音のことばのトレーニングは大事なことだ。先生が言われているように声があり、ことばがあり、歌がある。昨日、今日、明日と少しずつしか変わっていかないだろうし、目にみえないかもしれないけれど、自分が今できることを確実にやっていこう。ことばで言ってからメロディをつけて言ってみる。ことばで言った声がそのまま歌の声となる。日常生活で使っていることば、声、発声の仕方がよくなっていかなくては、歌う声はできてこないのではないかと思っている。

 

24時間、ヴォーカルの意識でいるということは、自分の声や発声の仕方に、常に意識しているということではないか。姿勢も大事なことだ。意識するってことは、他の誰かにやってもらうことではなく、自分にしかできないから、自分の望んでいるものの強さに比例するのかもしれない。こうなりたいという思いが強ければ、常に意識していると思う。

 

岸洋子さんの歌を、50代ぐらいの人は、いいという感覚をもっていると先生は言っていた。アイドルの歌を(歌だけではないだろうが)、10代、20代の人はいいと思っている。歌のうまい人たちは、声楽からおりてきていると言っていたが、私が歌によって自分を表現していくとしたら、どういう立場に出ていくのかと考えた。

 

ここに来るまで、カンツォーネシャンソン、オペラに耳を傾けたことはなかった。今でも聴ける耳はもっていない。でも、何がなんだかわからなくても心にひっかかるものがある。感情に触れるものがある。そういうものを、私もどうにかしてつくっていきたい。“日本人は聞く耳がないから外国に行くわ”とかそういうのではなく、やっぱり日本人に向けて歌いたいものがある。ちっぽけな人間でも、何かを変えていく力は皆、もっていると思う。人間の感情は、大人でも子供でも馬鹿でも利口でも男でも女でも、国が違っても、そんなに変わらないと思うから。

 

歌というのは、歌うことのまえに大切なことがたくさんあるのだということを知った。伝えたいという強い意志、どう表現するか、何を使って表現するか、誰に表現するか、そしてなぜ表現するのか、その表現をするのは自分でなければならないのか、他の人がそれを表現するのではなく、なぜ自分が表現するのか…。僕は何を誰に表現したいのだろう。僕の人生において「オレの存在はこれだ」と言えることは何なのだろう。そんなことを真剣に考えさせられる授業だった。

 

「ただ歌うだけなら、子供にもできる」という福島先生のことばが頭の中に浮かんできた。僕はこれからも自分をどんどん純化して追究していきたいと思う。ときには一歩も進まないことがあっても妥協せずに追究してみようと思う。「自分とは何なのか」この大きな大きな命題に、一人の男として、一人の人間として真っ正面から素直に、素直に、素直にとり組んでみたいと思う。そして、それを表現していきたいと思う。

 

歌えるようになったら誰に何を歌うのか、叫ばずにおれないものは何か。一人の歌手の後ろには、大勢の人の精神、文化が隠れている。逆に言えば、一人でできることはしれているが、大勢の人の思いを背負い込むことでパワーが生じる。

 

重いテーマの歌は、心の奥深くまで入り込んでくる。普段は眠っている感情を呼び起こす。ものをつくる人は、やはり常に問題意識をもち、人の気持ちに敏感にならなくてはいけないのかと思った。けど、自分は本当に弱っているとき、重いテーマの歌を聞くのがいやだ。BGMのような軽い歌に救われる。直接的なことばより、間接的なことばを選ぼうとする。激しい感情にワンクッション置いて、自分を相手に伝えようとする。相手がひいてしまわないように。そういうのは、やっぱりよくないのかなと思った。

 

体の準備をとり、体の支えをつくる。フレーズを歌うまえの「ハイ」は、自分の声のひびき、深さを確かめるため、このフレーズを息、声、体でつなぎ、一曲に仕上げる。体の処置の仕方に気をつける。押さえつけない。まっすぐにあてる。くしゃみ、せきのときのような生理現象と同じ効率で発声できるように。力を入れるフレーズよりも、リキまずしかも体を使い、しっかりと息を流すという感じのフレーズの方が難しい。吸った息を全部、使わないと気がすまなくなっている。

 

裏声は、母音、アより、イ、ウの方が歌いやすい。発声練習では、自分の声のノイズが気になったが、うまくファルセットが出せたときの、のどや息の状態を地声に活かせば、ノイズがとり除けるような気がした。

 

表現として出すまでが勝負。ただし、集約したままをゲボッと出すのではなくて、もう一段階上のレベルで見せていく。場を用意してくれた人の期待を裏切らないように準備すること。あたりまえのことをあたりまえにできるようになるには、それなりのことをしなければならない。他の人を越えた価値を自分に見出すこと。自分で必要度を感じて自分の価値をあげていくこと。サンバとかボサノバとか、一つの曲をいろんなリズムで演奏しているのを聞くのはとてもおもしろいです。「森の熊さん」や「春の小川」が小中学校時代の唱歌というイメージから、あんなに崩せるなんて、楽しくてしようがない。

 

体、呼吸、音、リズムと扱っていたので、リズムのあたりで曲にのせる呼吸、リズムののりによってメロディによって、その拍の頭の前にどういう状態を自分が用意すべきなのかが、いつもよりよくわかった。ことばが正しい呼吸にのり、体を使うと歌になるのだということが一区切の時間のなかで捉えられた。

 

日本に言霊ということばがあるが、ことば一つひとつの意味、本来の意味を考えて声にのせていくと、日本人の心の振動に合う表現ができるのではないかと思った。平均というか、自分では精一杯、自分のなかに取り込んで消化して練り込んだつもりでも、声自体が、自分の出し癖の範疇を、いつまでも出ない。もっと壊して更地にしてからフラットに出さないと、先に進めないと思う。リズムにのったりしていると、先生のおっしゃっていた“自分が気持ちよいだけ”の見本のような状態(本人は楽しくってしようがない)で、実際の声自体への注意が散漫になる。。

 

「森の熊さん」のセッションは、すごく楽しかった。あまりにのりすぎて、アドリブいんちき英語で歌った。本当、自分を出せた気がした。こういう何でもありのセッションを、もっともっとやりたい。愛こそすべて フリーダムこそすべて!

 

どれだけのものを準備してスタジオの場に出すことができるか。音に寸分の狂いもなく感応すること。近頃、音だけのものを聞く方が楽しくなっていたが、ヴォーカルものを聞くときのよい判断材料ができた。「感じて取り出したものを、また見ること」-この「見ること」ができるようになると、表現としての昇華へつながっていけると思う。頭に血がのぼっただけの押しつけるような表現を越えていくキーだと思った。イメージの世界の大切さ-実際に体験していなくても、音に感応して映像や体感を得ることができる。

 

ムリヤリ頭で構成を考える必要がない。“はじめに音ありき”と思ってしまう。これを応用すると、逆に“これを表現したい”と思ったとき、どんな音をつくればいいか、見えてくる気がした。

 

何をするために学ぶのか。どこまで練り込んでできているか。何ができないか?(自覚)自由に表現するために「体」と「心」を自由にする。集約し離す。よみ込んだものをそのまま吐き出すのではなく、一段階上のレベルのもの、自分の価値を挙げていく。それを周りに納得させていく。場が高くなれば高くなるほど、たくさんのエネルギーが必要になる。楽しんでやり続けていくしか方法はない。

 

「赤とんぼ」をみんなで回したとき、それぞれ個性が出ていておもしろかった。同じ教材を聞いて瞬時に自分の世界をつくっている人も何人かいて、すごいと思った。「ポルトガル」を聞いたとき、ことばの意味はわからないにも関わらず、何だかとっても悲しくなって涙が出てきてしまった。これが音声による表現なんだと思った。相手にことばの意味がわからなくても、音楽で聞き手の感情に訴えることができる。でも今の自分が、その世界に入り込めたとしても、それを自分の口からことばにしたときに嘘になってしまう。自分の入り込んだ世界を50パーセントも再現できていない。せいぜい涙声になる程度だ。これでは表現者ではない。観客のうちの一人の存在に過ぎない。きっと、よみ込みがまだまだ浅いのだと思う。自分の体にとり込んで、練り込むということがどういうことか、まだわかっていない。自分が受けた感情を集約する作業が、まだまだ足りていないということだ。

 

 

体-呼吸→音→リズム→音楽感覚→ことば→学び方を学ぶ。「赤とんぼ」いろいろなものを聞く。表現ということを考える。最初に「赤とんぼ」を歌って、この授業が終わったあとにどれぐらい変わるか(それで変わるのが学べているということ)。やってみたとき、何が足りなかったかを考える。どの人がどれくらい表現できたか考えていく。

 

詩の朗読…自分のなかで理解していて維持することをやらないといけない。大切なことを自分におきかえて、または象徴として捉えて再現していくこと。自分の価値をあげていく。自分を認めさせていく。自分に必要不可欠なもので、ないとものにはできない。こう大勢いると、いろいろなフレーズがある。

 

最近、声と表現力は全然、比例しないことがよくわかってきた。そして、どちらか片方でも全然、訴える力がないこともわかってきた。こういう特別は、いろいろなグレードの人がいるので、それがわかって参考になる。

 

「たった半音の違いで、音とはこんなにも違った音色をつくってくれるのか…?!」ファから7度下のソへと、ファからソ♭へ。私はファとソ♭のひびきが好きだ。とても深みのあるドラマチックな和音だった。今日の音程はほとんどが2度、または3度だったため、所見はちょっと怪しかったけど、2、3度聴けばとることができた。しかし、たとえ2度音程であっても、やはり休符が間に入ると、ずれてしまうようだ。シンコペーション、16音符は、だいぶ慣れてきたという感じがした。

 

今あるものを急に大きくはできないので、これまで丸く出していたものを縦方向に楕円に伸ばしていくイメージで発声してみる。横に広がってしまうからといって決して奥に引っ込めるのではなく。

 

アドバイザーの方は、自分自身の経験から、とてもていねいに熱心に教えてくださるのでわかりやすい。このクラスに出なければ私はきっと、ぼんやりしたまま、あっという間に2年間を過ごしていただろう。

 

 

 

 

勝田セミナー感想

 

自己表現者の必須能力、3つのE。①EXCITE ②ENJOY ③ENTERTAIN まず自分が興奮する(みんな忘れがちだが、冷静にやられるとおもしろくない)。自分が楽しむ(自分が楽しいことは人に移る)。そして最後には、全員を楽しませる、楽しかったなという余韻を残す。

 

自己PRするときは「誰に」「何のために」を具体的にもち、それから自分のPRが始まる。PRに挙げたことは、その場でできるものならばやってみせて、そして最後にキメの一言で終わると印象的。一つひとつの動作の間には“間”をとることが大切(すべて流れてしまわないよう、ピタッピタッと止める)。自分を大きく見せるには、上↑横→へ体も顔も伸ばす感じで。指の力は抜く(そうしないと人の注意は指へいく)。顔は、「ハイ、チーズ」の顔で。

 

手の動作には、とても意味があるんだと改めて思った。手のひらの向きや指の力の入れ加減、手が指し示す方向によって、ことばなくても意志は相手に伝わる。そこに顔の表情(向き)とことばが加わると、とてもわかりやすく、そして無理なく相手に伝えることができる。そして、動作と動作の間の1、2秒の“間”がもたらす効果。これによって、動きにメリハリが生まれ、ダラダラと右から左へ流れてしまわず、相手の注意もそこで止まる。こんなちょっとしたことで見せ方(見ている側としては見え方)が変わるということは、おどろきであった。

 

私にとって音楽とは何なのだろう。このごろ四六時中、そんなことを考えている。なくては生きていけないほどの存在か、楽しみで終わってもかまわないものなのか。他のすべてを捨てても、やりたいことなのか。

 

研究所で変わったこと、身についたこと。声やことばに対しての関心が強くなった。関心をもっていると、その裏に隠れている感情やその人の考え方や生き方みたいなものまでみえてくるから不思議だ。自分の声、ことばを使いたいと思いながらも、なかなかすんなりとはいかない。一度、出してしまったことばはとりかえせないけど、あまり考えすぎると、自分のことばがわからない、自分がわからないという事態に陥ってしまう。とにかく、自分の声と感情、ことばをくっつけてあげたい。そうすればきっと、私の心も喜ぶだろう。トレーニングするなかで、いろいろなことを知る。本当に少しずつだけど、私が私になっていく気がする。

 

お腹から息が出せるようになって、常にではないけれどお腹と口が直結している感覚になるときがある。のどは息が通っていくだけ。そういうときの感覚は、体が生きているという感じだ。自分が楽器になったような気分。自分の声が、確信はないけれど近づいているとは思う。この声で話していると表情も感情も私そのものになる。声を出すことが話すことが、とても楽しくなる。この声をもっともっとトレーニングして歌いたいと強く思うようになった。肉体的な変化も大きいけど、やっぱり精神的なものの方が大きい。ここに来るまえから徐々に変わっていたのだけど、ここに来て、もっとそれがかたまった。一つのことに打ち込んでいく楽しさ。いままでもいろんなことにのめりこんできたけれど、自分の心すべてをかけてもいいと思えるものはなかった。お金が、時間がもったいないと思ったりした。こんなふうに歌に自分という人間をあずけてしまえという気分になったのは初めてだ。私は一人の人から一つのことから、いろんなことを知っていきたい。芸人の感覚かな。

 

いろんなジャンルのいろんな歌い手がいるけど、皆それぞれが最高なのだ。

私も何年かかっても、一生をかけても自分のなかの最高の声をみつけたいと心から思った。

どこから引用したのか忘れてしまったが、私の好きなことばがある。「あこがれという光を目にし、自分に頂いた賜物をみがくことにより、人は自分の内に光を宿し、『世の光』となれる…」私もいつか、小さくても「世の光」になりたい。

 

 

「正しい声にこそ表現は宿る!!」ロビーに貼ってある表現についての質問の答えについて考えた。プロの歌手が表現しようとしていないのなら、表現はどこから出てくるのだろうか。数秒後(時間にして30秒ぐらい)にパッと閃いた。プロは歌ってみたら、その歌詞のことばがしぜんにイメージでき、しぜんに(無意識に)表現になっていたのだ。では、表現力のない素人の自分たちはどうしたら表現できるか。その答えが、ここのヴォイストレーニングであり、フレージングであるのだ。しぜんに表現が出てこないのなら、ふしぜんでもいいから意識的に表現しようと思うしかないのだ。フレージングの練習は、この表現をしぜんに出せるようになるまでのプロセスであり、そこに正しい声の出し方も含まれている。やがて、正しい声がしっかりと定着してきたら、表現もしぜんになるだろう。それまでに意識的に表現の練習をした分だけ、表現力も倍加され大きくなるのだ。たぶん、先生はこのことを何度もしつこく言ってきているはずなのに、自分たちがそれを感覚的に捉えるしかなかったのが悔しい。