「初心」を失いかけたあなたへ、一度だけ、おくる詩- 701
そのとき、君は大きな勇気をもってここを訪ねた
そして、君はまっ白になって、すべてを貪欲に吸収しはじめた
誰にも負けないで、
そしてじぶんにも負けなかった
でも君は、勝てなかった
うまくならない、
できない
そして君は、自分をもてあまし始めた
大きな欺瞞の心が君を支配した
こんなことして、何になる
こんなことでうまくいくのだろうか-
自分に向けていたまなざしが、他のものにうつりはじめ
君の心は染まりはじめる
ときに、一つのレッスンに、一人の人に、一つの声に
洗われることがあっても、
君は君の心を自分で汚しはじめた
グレることを大人になるのと
そんな大きな勘違いをして…
何といっても、誠実で素直でないことほど悲しいことはない
君は知らなかった、
何もないところで踏み出す大きな勇気より
ちょっとつまづいたときに
そこで一歩踏みとどまる小さな勇気の方が
その積み重ねこそが、何事をなすにも大変で、
それゆえ尊いことであることを
誰よりもすごいことを成した人は、
成したことではなく
超えたこと、不屈の精神でやりとげたことで
なんでもないことをすごいことにした
初心を抱き、貫き通せることは、大変なことだ
声も歌も音楽も、
その大変なことを貫いて生きている人への
神様の報酬なのだよ…
君は、勇気をもってドアを開け、そして君を大きな声で
伝えなくてはいけない
いつも、機会あるごとに、
君の存在、生きざま、そして君の作品を
まわりの誰もが一目おき、君のその努力、苦労、
一つのことを成せる力を手に入れたことへの賞賛を
その耳に、体に、心に、全身であびる日まで…
やめるのは簡単だ…その「言い訳」が君にとって
君の初心にとっても納得のいくものならば…
ただ、ここを見切るというなら、待って欲しい、ここにも
わずかに、だが、皆に惜しまれ、涙を流させ、感動させ、
歌を、声を、作品を
残して“卒業”していった人がいることを
貸スタジオや10畳のちっぽけなスタジオだったときでさえ
君は何のために、ここにいる、
何のためにここにきた
自分が自分であろうとするために選んだ、
そのときの自分の心を大切にして欲しい、
何かをやり遂げた人は
ただ一つ、他の人よりも、
自分のそのときの心を大切にしつづけた
もちつづけた、
歌や音楽や人を愛するのと同じように
そして、学びつづけた
今一度、ここにきたとき、そして、すごした日々、
そのときよりもずっと大きなものをたくさん学んでいるか、
つくり出しているか問うて欲しい
君の心はまだまっ白か
もっともっと学べるほど大きくなったか
そして、何も学べていないことを学び、
もっと学べる幸せを感じて欲しい
世界中のアーティストが、
どんな思いでこんなにもすばらしい作品を
わずかな一生の間にあんなにもつくり
残していったのか
素直になること、耳を心を傾けること
君の心臓はもう、君のものではないのか、
動かないのか
君の体は心は、歌は
あきらめず、あきらめず、ただあきらめず…
人生で一番、大切だった、
そのときを
忘れず、忘れず、忘れず
離さないで、死ぬまでずっと握りしめて離さないで
歌がもし、あなたの恋人なら
あなたが歌にふさわしくなればよいだけ
歌は裏切らない
本当だ、それだけは信じて欲しい
いつも裏切っているのは、あなた
もっと、そばによって、ほおをつけて、
その息づかいにまばたきに
しびれてごらんよ、キスしてごらん、
そして眼をあけて、勇気を、
あのとき、あなたがあなたであろうとしたとき、
のように
今、ここで
それがいつもすべてにおける最大の問題で
そして答えなのだよ
ー
改革案 36010
方針は方針として、訪れる人に合わせても対応していく方向で考えています。
研究所でやりたいこと、できることは一つしかありませんので、それは変わりません。
研究所内でよい刺激がお互い受けられるコミュニケーションをはかることができればありがたいと思っています。
音以外のコミュニケーションは考えていませんが、昔より前向きの懇談が少ないように思います。
昔は、ライブ実習、ステージ実習などの出席者が、ライブのあと懇談する流れがありました。
音楽や歌について、批評しあったのです。
しかし、この懇談の機能が失われていきました。それが会報で補われているのかというと不充分と思います。
研究所で伝えたいことが、皆さんにどのくらい伝わっているのかということをもっとチェックし把握しておく必要があると思います。
それぞれのクラスに対して、サロン的な機会づくりをやっていこうかと思っています。
もう一つは、合宿での3日間で得られるようなものをメニュにくみ込むことです。
通常のレッスンは、毎日のように行なわれているにも関わらず、365日で合宿での10倍のことさえ与えられているとは思えません。
あの合宿での3日間を月に10回くり返す体制がとれないかと思っています。
もちろん、皆さんの方がその体制がとれないでしょう。
少なくとも夜、復習に予習と準備をし、次の日に発表していくスタンスでは、ほとんどの人は学業や仕事を投げ出さなければならなくなるからです。
ただ、忘れて欲しくないのは、本当に身につけていっている人というのは、それに近い生活をしているということです。そういう毎日を選べるか、近づいていけるかの勝負です。
自分の生活を支えていくことと、何かを得るということを時間がありあまるなかでやっている人などいません。
時間的なものではなく密度を得るために、連続で何かできないかと思っています。
レッスンをして思うことは、「音楽を聞き、体に入れている絶対量が少ない」ということです。
あるレベル以上、聞く耳をもっていくこと、2時間、聞くレッスンというものも取り入れていこうかと思っています。
ことばで読んだり聞いたりするよりも、よいもの、一流のものを直接、吸収する方がわかるでしょう。
ー
年頭所信 370107
判断基準をどこにおくかを、ここのところ考えています。
基本のことをやることと、プロデュースのことをやるのが日本ほどかけはなれているところは、世界にはないからです。
ここに来てはじめて歌をやる人もいるのに、そんなところで2年でプロデュースできるわけはないでしょう。ところが日本では、2、3ヵ月トレーニングしてデビューさせているのですから。この国を考えると判断基準のおき方が難しいのです。本来、オリジナリティ(新たな価値)とメディア(伝達力)はある程度、一致していくはずなのです。
世界で流通するしないということになれば、アメリカが強ければアメリカに合った形のものがよいということになります。メディアをもったところというのは、オリジナリティを組み込む力があるので、それは世界のレベルで見ると一致するのですが、ただ日本の中では相反して話題先行で動いているので、そこが難しいです。
メディアにのらせようとすると、のっていくほど、仕掛けをしなければいけなくなり、うわべをとりつくろわなくてはいけません。そういう世界が確立して、また壊れていくのでしょうが、しばらくの間、常にそれにさらされている状態です。テレビをつけたり、今の音楽を勉強すればするほど、くもらされていく。変な話なのですが、実際に質が高いものがメディアとしてのっていて流通していたら、それが勉強になるはずです。
だから、勉強の仕方として、ここでは昔のものとか他の国のものを取り上げています。本当はそれだけ学んでいては足らないないわけで、今、ここに生きているものを吸収しなくてはなりません。ただ、それは自らが生きることでしか学べません。
ポピュラーであるからには、今を認めるべきです。他人のことをとやかく言うのでなく自分が批判するもののレベルにさえ、劣っていることを自覚することです。
カンツォーネやナポリターナをそのまま歌うのは、ゴージャスな趣味です。そのままいくら取り出してみても、それはオリジナリティには根差していないわけです。生きている時代も違うし、世界も違うということです。その上でつくらなければいけないからこそ、もう一回、戻らなければいけないということで学んでいるのです。
だから、力がつけばつくほど、歌がゆらいでくるというのはよくわかるのです。
最初、今の日本の歌しか聞いてこない人が、ここに入ってきたら、わけがわからない、180度転換させられた気になる。それでも基本の力がついてきて、ある程度、歌えるようになって、どこかに出ていこうと考える。考えるには、今のお客さんや音楽の風潮を勉強しなければいけない。
本来は、そこに対してオリジナルなものをつっこんで出していけば、力があれば認められるはずです。その力がないというのが決定的なことです。ヴォーカルとしての評価は別として、そういう技術を身につけたときに、メディアを考えなくてはならなくなったときに、どこに焦点をおくかということが難しいのです。
大切な歌さえ一度つきはなして生きなくてはいけないときもあります。今を疑わずに次代はひっぱってこれないのですが、単に流行にのることしか考えないから、流行にものれないのです。
価値観は持ってなくてはいけない。ここで基準としては与えていますが、それは個々にバラバラなものです。私やここの価値観が皆さんのヴォーカルとしての価値観と違ってもよいし、またそれを叩き台に、それと相反するものをつくり出していけばよいでしょう。
ただ、その価値観が単に一人よがりの思い込みで自分をくもらす場合も多いのです。これに気をつけなくてはならないと思います。
その人がその人であることというのは絶対的ですから、誰も文句をつけようがない。だから、それが出ていたら、どんなに歌が下手だと思っていても、そこに対して何もいえなくなる。そういう一つの存在感の上に歌を築いて欲しいです。
その存在を伝えることが一つの歌ということです。ただ、歌ということで、くもらせている場合がとても多いのです。コピーから入った場合、そういうことが往々にして起きますし、カンツォーネやシャンソンやゴスペルを歌ってみたりしても、自分をのっとられる場合が多いのです。
これが好きでやっているうちに、知らないうちに足もとをすくわれてしまうわけです。思想やイデオロギー、宗教、洗脳、すべて似たようなものです。ことばで区切るのでなく、現実の生活を、その上に立って闘って生きているがそのかさの下にあぐらをかいているのを見るべきです。
ポリシーというのは、表現しなくてはいけないことなのですから、それを歌のなかで表わしていけばよいのです。ただ、思想がその人をくもらせてしまう場合があります。ビジネスも宗教も、こういった設備も組織も、捉え方によっては同じことがいります。
だから、常に自分で自分を白紙に戻さなければいけない。最終的に私が考えるのは、生理的に快感であるか、本質が宿っていて働きかけるものがくるか、そこです。
考えるなら、考え尽くすしかないのです。それがその人にきちんと合っているものであれば正しいものだろう、というふうにみて待つのです。
歌という表現一つにしても快感というのが人によって捉え方が全然違いますし、その日の気分によっても違ってきます。しかし、そこで生理的に不快なものは、どこかで限界が見えてきます。音楽的にずれてくる場合も多いです。体の原理、もう少し深くいうならば、人間、自然の原理に反しているからです。
コピーのままでいってしまったり、あまりにいろいろな世界の音楽に影響されてしまったりしている場合です。それは、そのまま表現しても、洗脳され、のっとられた歌です。神にのっとられるのは至上の快感ですが、神らしきものにのっとられているから、皆さんの歌は不快なのです。
影響を受けたら、もう一度、足もとを見つめなおして踏んでいかないといけない。歌の限界というのは、そういうところから出てくるのだと思うのです。
もっと困るのは、人間的なズレです。歌い手であれば、自立しなければいけないでしょう。考え方がズレてくると、存在がズレてくるので、音楽のズレよりもひどくなってきます。それを正していくためのバランス感覚が必要です。
これは、人とうまくやっていくようなものではなく、極限でハンドルを切って死を回避するような感覚です。体に声が身についたら絶対に間違わないようになるというわけでもないようです。ただ、深い声は調和やバランスをもたらせます。それを感じられるかどうかです。
たとえば、これがスポーツの選手だと、続けていくうちにどこかでスランプになるわけです。レベルが高く人間が全能力を捧げて勝負している世界だと、それは結果としてつきつけられます。そこで、基本に戻ってこれを調整するわけです。
ヴォーカリストの場合は、試合でなく歌でズレます。歌でズレたときにズレたということに気づかない場合がほとんどです。何かに似てくると、うまくなっていると思いがちです。それが、その人のなかで絶対的であればあるほど、ズレてきます。それで足もとをすくわれていることが多くて、そのときにやはり、自分の心のなかのものを聞くか、全く違うところの一流の声から、時代とか空間を超えられるうなものを聞いて、そこでもう一度、判断基準をもたなくてはいけません。だから、比較することが大切なのです。
いろいろなことができればできるほど、価値観がついてきます、耳もよくなってきます。そのことが、他の人に対しては対応できるのだけど、自分に対して対応できなくなることも多いような気がします。何が正しいのか、よくわからなくなってくるのです。自分が自分であるための歌ということなのに、です。正しいものというのは、つかめると思うのですが、つかみ続けているということは難しいのです。
歌は、それなりに誰でも歌えるのですが、なんかウソっぽい、気持ちよくないのは何からくるのでしょうか。歌える人がある程度、オリジナルを踏んできて、少しずつ認めさせ、次に、それを守るためにわかりやすく伝えるように、舞台を考え出したために、そうなってしまった。広く伝えるためのメディアを使って、自分を失っていた。これも、皮肉ですね。
たぶん、そういったものは日本のお客さんには受けやすくなってきて、私には不快になってきたんだろうと思います。だからそう思ったら、ここを出て活躍するにはよい条件かもしれません。ただ、たぶん同時に限界もみえると思います。
もっと器用にそれをやっている人たちがいるということを対極においてみると、確かにプロのヴォーカリストたちというのは、それなりにプロの技術をもっていて、あてはまるところで要求されることをこなしていけばよいと思うのですが、それだけでしょう。
日本の今の状況はおかしいのです。本物を認め、育て、ときには罵倒する人がいないから、プロになって甘くなる。プロ同士でほめあっている。客はもっと甘いのです。日本人らしいですね。
間違いなく、日本のように話題とかメディア受けが先行してしまうと、それが価値とすりかえられてしまうわけです。
いろんなことを考えていけばいくほど、マイナーであり続ける努力が必要とも思うのです。
それは基本的に何事にも人を巻き込んではいけないことだからです。
メディアを使って伝えることが、自分の歌の本質を裏切ってしまう。
その状況では、活字や声のイマジネーションの方が表現に適しているからです。
日本人の音声に対するイマジネーションが最低でも一昔前くらいには高まらないと、音楽として歌うことが表現の自殺行為となるのです。
ですからここでは、基本のことをきちんとやるということです。ここでやるオリジナルそのものが私が見たいものかということであれば、必ずしもそういうわけではない。ただ、以前、言ってた通り、美空ひばりであれば、欧米の人でも他のアジアの人でもわかる。ところが今、日本の人が歌っている歌はわからない(カラオケ的に流通している部分はあるとしても)。
そこの違いをくんでいく必要があります。それは私もわからないルーツとしての、日本人ということでしょう。世界的にみると、日本人がジャズ、ゴスペル、カンツォーネやシャンソンを歌えたからといって、だからなんだという話になってしまうでしょう。
かつてのオペラのように、啓蒙期で日本人がもの珍しさで見たがっていたときはよいです。今、現地にいくとみれる訳です。しかし、イタリアでさえカンツォーネやナポリターナはなくなり、フランスでも昔風のシャンソンはなくなってきている。
だから、それを取り出すのでなく、そこにあった人間の存在そのものからくる表現力を、どう取り出すかが最大の課題だと思います。まあそういう意味でも、プロデュースというようなところと、BV座のオリジナルな部分をどこかでわけていかないといけないと思っています。
今のことと日本のことをやろうということと、世界に通じること、オリジナルにやろうということを、同時にやると、あまりに今の皆さんなら混乱します。だからそれは皆それぞれに選んでいけばよいと思うのです。
ただ、マイナーで深くやっていこうとしたら、自分の客を自分でつくっていかなくてはならない。私のように。でも、それは本当はあたりまえのことでしょう。
客を育てなくてはいけない。10年、20年がかりで、自分の歌や芸が理解できるレベルにまで育てなくてはいけない。これには大変な努力が必要です。
今、CDを買ったりコンサートに来る客の大半は、今のメディアに迎合しているだけですから、そうして得た客というのは、新しく出てきたものの方にすぐ行ってしまいます。歌そのものの力ではなく、生活のシーンにかかっているという歌だから、身近かにあるという理由だからです。
それに、そういう分野での勝負は、この研究所に来る人にとっては不得意で、もっと得意な人たちが世の中にたくさんいるのですから、そこでは勝負にならないでしょう。
とりあえず、今の日本は変わっていくと思います。このあたりのことは、さんざん言われてきています。一つのものがたくさん売れるということが間違っているのではなく、他のものも同時にそれぞれ売れていくというのがよいのです。
市場自体が大きくなるのは、よいことです。選択の自由が本当の豊かさです。メディアが変わって、テレビもこんなものではなくなっていくはずです。そこに関してはいろいろ考えていくべきだと思います。
結局は、人であるからです。
学び方の環境というのは、結局、皆さんのなかで切磋琢磨していくべきものです。私の意見は私の意見で、一つの基準に過ぎません。これが2年ではなく5年くらいの単位になってくると、かなりストレートに伝わるようになってくると思うのです。
同じくらいキャリアがある人でも、音そのもので聞く場合と、体や息の使い方で聞く場合があります。音の感覚だとかひびきとかで判断します。でも、そういった価値観は越えたいのです。単に一部にちょっと受ける歌だったら仕方ないからです。
私も日本のものを授業に取り上げ始めましたが、まだよくわからないところがあります。しかし、日本で日本人とやっているわけですから、無視してはよくないと思うのです。日本で長く残っていくような歌を取り上げたいです。
今の業界がプロデュース主導になっているのでは、やや困るわけです。きちんと勉強した人が出ていく場所がないのでは、目標を見誤るからです。
私もですが、作詞家や作曲家の方がそういうことはもっと強く感じているでしょう。どんなによい詞や曲をつくってみたって、今は売れないのですから。
しかし人間はアナログな存在ですから、絶対的なものは残っていきます。
ただ、従来、歌の心といわれたものが、歌から抜けていってしまいました。歌とともに、さまざまな悲哀を味わう生活はなくなったわけではありませんが、生きて活かすことがなくなってきたのです。
私はかつて、こういうことを述べたことがあります。
「壁にずらりと掲示してあるLPレコードのまんなかに、美空ひばりの顔を描いたものがあった。きっと誰かが、当時は高かったこのレコードを買ってきて、何度も何度もこの顔を見ながら、プレーヤーにかけたに違いない。そして、歌のなかから、さまざまなことを受けとめた。何百回も聞いているうちに、その人の心のなかに、生きる力となって聞こえていたメロディから何かが生まれ、育っていった。そのなかには、本物を見る眼、味わう感性もあっただろう。今、氾濫するCDではこうはいくまい。
嵐山の、おもいで館にある、昭和三十年代を中心とした雑誌を見ると、当時、スターでしか味わえなかったことを、私たちの多くは若くして“体験”していることに気づく。それなのに、あふれるばかりの情報や機会も本当に体に経験された“体験”となっていかない。創造のエネルギーとならない。スターを壊してまで、生活レベルを上げたつもりが、不平不満だけが残っていく。
こういった情報を素通りさせるだけの情報化社会もテレビや雑誌も東京もくそくらえ。
嵐山のつれづれ亭で、本物の味のおぜんざいに舌づつみを打ちつつ、この味に感動するほど貧しくなった生活をぼやきたくなった。」
カラオケの氾濫する現在においても、誰でもうまく歌えたほうが楽しいはずです。何か伝えたいからです。ですから、本当に声や歌を深く愛し、うまく歌うことのできる人が一人でも多くでてきて欲しいというのが私の切なる願いです。
アメリカなどでは、相変わらず、年々よい曲がでています。というより、たとえ認められようが認められまいが、既存のロックを脱する試みがくり返されています。内心から本当に歌いたいなら、そうなるはずです。
何を歌いたいかはともかく、どう歌いたいのかが宿らないのはどうしてでしょう。日本でも、歌い手個人の力が近づけないだけで、全般的に風潮は、以前に増してアメリカに近づいています。
メディアは近づいていくのに、個人が自分の判断に責任をもって発言していく、責任をもってそれを背負っていくというようなことにならないと変わりません。
ヴォーカルは、それの最たるものです。自営業をやっている人もそうでしょうし、サラリーマンも、これからそうなってくるでしょう。全部がそうなってくるはずです。
私に伝わる歌は、個として生きる人の心を打つ歌です。
日本でヴォーカルの活動だけで成り立っている人はあまりいません。ほとんどの人はテレビというメディアにくいついて生き残っている。メジャーになってもそんなものです。
ここがどんなに小さな場所であれ、ここで歌ったときに、予備校生でも女子高生でも誰でもよいのですが、その歌を聞いて疲れを癒したり、生きていく活力を得たりできればよいと思います。
その人が何か与えられれば活動は成り立つわけです。
カラオケでも、今はうまい人は本当にうまいから、ここで伴奏とか余計なものをつけて成り立つレベルでは価値はつけません。そんなものがない場合に、ここに立ったとき、ここに来た不特定多数の人に何かみせられる。
ということをやるためにどうするかを考えて欲しいのです。
たとえ、アメリカの大統領やハリウッドのスターが来ても、伝えられること、
その上で、歌を選んでいかなければならない。
そう、世界の一流レベルのプロ、プロであるがゆえに感動することをやるべきなのです。
マジック、手品なら、わかりやすいでしょう。歌のコピー以外で、たとえばゴスペルなどの民族的なものは私たちがやるとアメリカ人の佐渡おけさみたいなもので、余興にはなります。今、ここでやっているようなものをやってみたって、しらけてしまうでしょう。それは、当人がまだ表現をつかんでいないからで、プロセスとしては悪くないのです。歌というものの限界というものも、先ほどの詞や曲と一緒に考えなくてはならないのです。
でも、それも変な話ですが、それを活かすような道をつくっていくしかないのです。ここでいうのであれば、ここに来ている人と同じような観客をきちんとつくっていくということだと思います。価値観をもっていて、それを聞きたくてやってくる人たちを育てるのです。
難しいのは、音楽にいろいろなジャンルがあるということなのですが、研究所では歌はジャンルを越えるという考えですから、聞く方に理解力が必要となってくるわけです本物は、すぐわかる。歌は誰にでもすぐ通じるというのは、正しくもあり、間違いでもあります。また歌う側が、その歌で泣けることとも違います。
私はある程度、聞いているつもりです。ここにいる一定のレベルの人が聞けるということは、枠が取り払われているということです。入ったばかりの人から見たら、上のグレードを見ても、ちんぷんかんぷんで、なぜこういう組み合わせになっているのかと思うでしょう。しかし、そうではない世界が音の世界なわけで、全世界、ある意味では共通なわけです。
伝えるだけの技量がないから伝えられない。そうであれば、伝えられるだけの技量を、ここの研究所で、そして自分のなかで学んでいかなければいけないのです。しかし、それは技量でなく、技量を押し出す精神と意思なのです。
私のグループの授業で得てきた人たちを中心に、切磋琢磨していけばよいと思います。それぞれ皆、いろいろなジャンルの音楽を知っていることでしょう。2年たっている人は、自分の音楽をそれなりに聞いてきていますから、それをこの場で還元していくことにします。
ブームに走ってしまったとしても、ブームはブームで大切です。追いかけているから情けないので、先を走っていればよいのです。
ここでは、声ということの基本のことをやっています。実際、今の歌や音楽というのはコンピュータを中心としたデジタルを駆使した音響と光のマジックショーです。映画の世界も、技術の進歩で同じようになっていくでしょう。しかし、誰でもできるということは、誰がやってみたって意味がないということなのです。よほど優れていたら別ですから、優れていないと意味がなくなります。
一方で、ハリウッドでつくられているものは大金を費やしていますから、昔は恐竜映画なんか、私らが学べばジオラマか何かでつくれたかもしれませんが、今だと金銭的に絶対につくれないです。観客がそのレベルにいっていますから。あれだけの特殊効果を出そうと思ったら、何億円あったって足りないわけで、そうなったら昔の8mm映画みたいなものをつくって、全く違う面で訴求しなければならない。
昼間、昔のバットマンを見ていたのですが、あの頃のいかにもプラモデルといったものが使われていて、話の筋もパロディかと思ったほどです。でも、テレビが普及した頃は、ああいったものがおもしろがられたのでしょう。今では、パロディだからということでおもしろいわけです。
その頃は、つくる方もおもしろかったでしょうね。アイデアをどんどん出していって、手作りですぐ対応できた。
そういう意味でいうと、今は不幸といえば不幸です。日本のゲームやアニメは、次代のハリウッドになりつつありますが、ディズニーに対抗するなら、箱庭くらいに、日本に戻らなくてはいけない。
ここでやっているのは、手作りのものです。マイナーなことを浅くはやりたくないから、深めるしかない。基本の習得ほどメジャーなことはないのに、ここがマイナーであるといっても、ここを中心に考えると日本のポップスの方がマイナーなのです。
まず、音楽の基本をきちんと入れて欲しい。音大に4年いるくらいの音感とかリズム感とかできるでしょう。音大4年生のレベルといっても、10年に1人はすごい人がいるようですが、ヴォーカリストというなら、さほど変わりません。
顔や声の表情をみるとわかります。けっこう間が抜けている人。ただ、そのレベルさえできない人に、それを言う資格はない。
ポップスにはポップスの強いところがあり、それができなければいけないのです。
音楽ですから、声楽とポップスなどで分けなくとも一つになっていきます。
誰がチェックしても甘いと思うレベルを、2年くらいで卒業して欲しいと思います。
読譜力も大切です。一回入れた音を声として再現する力を重視してください。
それと、息です。日本のポップスに限界があるのは、息が入っていないからです。ポップスはことばですから、そういう意味ではことばに息が入っていないとダメです。どうしても、演歌のように鼻先のひびきにかけていって一つの世界をつくるというようになってしまいます。
その世界は、その世界で器用な人がいて、努力で越せない壁があるのを感じます。器用な人、何もやらないでもできてしまう人だけが残って、何年やってもできない人はできないです。
トレーニングをやれるレベルが問われ、声帯そのもののよさ、声のよさも問われます。生まれつきもつ条件で、個人差の大きい世界です。
そこをあてにしていては、トレーニングをメインとする研究所の活動は成り立ちません。逆に二流レベルでの合唱のように、個性も何もない同じ顔や口の形にした蝋人形のような発声法は、日本人に好まれるところですが、勧めません。
皆さんの一人ひとりの人間としての地が出てくること、そのおもしろさが音声の世界に開花するところが、醍醐味なのです。それは、何よりも自分が生きる自信、そして支えになります。
だから、自分の個性を活かす方向で考え、がんばってください。
自分がいることが世の中の価値になることをこの世界でやるなら、必死に学び続けるのはあたりまえのことと思います。
ー
Q ここの仲間だと思っていた友人から、いわゆる「勧誘」を受けています。私がみたところ「自己啓発セミナー」のたぐいだと思います。知っている限りでも何人かが勧誘を受けています。
私は勉強する環境を壊されたくありません。ここにそんなものを広めて欲しくありまん。邪魔されたくありません。「夢を叶える」とか「コネが必要」とか、歌で「成功」するためにやるんだそうです。「それで飯を食う」ためで、自分は「防音ルームに住んでる」し「自分で練習してる」し「CD800枚持ってる」。セミナーに行くことを断ったら(またそういう活動への加入も)、「○○ちゃんの夢ってそんなものだったんだ」と言われました。断っても電話はかかってきます。
私自身でどうにかしなきゃいけない部分は、何とか対処するにしても、ここに来て勧誘されたら、毎日のように通ってる私は、逃げ場がありません。何か策はないものでしょうか?
A.心やさしき人たちへ
特に、索は講じませんが、ここは音声表現を学びにくる場ですから、
それ以外の目的では使えません。
いい加減になった人に対しては、これまでも退所を促しているのは、
おわかりだと思います。
ここのなかで、そういうことはないので、行き帰りにお気をつけください。
再入所も、これまでもこちらが納得するに足る理由のあるケースしか認めてきていません。
一度目は、誰でも入れるのですが、二度目からは難しいのです。
そういうことも、だいたいは知っていますが、私が知らないこともあるでしょう。
しかし、清濁含めて、それも人間の社会だと思っています。
人が集まると、いろんな人がいて、成り立ったり壊れたりしていくのです。
私は、ここに善人ばかりが集うことを望んでいません。
アットホームでセイフティであることには、退屈です。
勝負の場でもありますから、馴れ合いの場に陥るのは避けてきたのです。
あなたやまわりの人に迷惑をかけることを肯定するわけではありません。
そんな空気はここには今のところ、ないでしょう。
人を殺すことを考えても、現実にそれをしなければよい。
舞台でそういう役を演じるのはかまわないのです。
人一人の命は、自分の命をさしだしてもあがなえません
(空想と現実、生活と舞台を一緒にしないことです)。
すべてにおいて、個と個で接していくことです。
友だち同士、ライブへ行ったり談笑したりして、
ここの仲間だというだけで“つきあい”とやらを大事にしているなら、
その“つきあい”で生じることも引き受けるべきでしょう。
私は、こんなに狭いるつぼのなかで、井戸端会議にうつつをぬかしたり、
ここにいるとか、いたとかいうことでの、つまらない信頼をもとに、
人脈やネットをつくろうなどという了見、
“他人の組織や権威”を利用してしか動けない人は好みません。
たかって生きていくのは、さもしいです。
私はここの生徒のライブにはいきません。
そうでなくとも、強く誘われても行かないのもあれば
レッスン時間をぬってでも行くのもあります。
ここに入ってくる人とは、信用できる保証など、ない現実を知ることです。
それは、どの社会とも同じであることだけ、くり返しておきます。
入って間もない後進への注意、忠告としては、ありがたく受けとめます。
命の危険を感じたら国家権力に頼るなり、再度、こちらに相談ください。
意見、質問、提言は歓迎します。
ただ、勧誘におびえているなら、どっちもどっちです。
自分の考えを主張し、断れない。
「仲間」なら、諭すか、だまされてあげなさい。
それだけのことでしょう。
Q「暗記して発表する」ことという指示で、暗記したからうまくできなかった、フリートークならもっとできたのですが、、、。
A 本来、ジョークのような言い訳で笑っておけばよいのですが、今回に限り、とりあげてみます。
今さらいうまでもなく、いつも、この場で表現できることを問うています。
「フリートーク」と「暗記したものでのトーク」表現者であれば、いうまでもなく、同じことです。
他人の詞をそのまま歌うときでさえ、歌い手なら、それはその人の表現で問われるものなのです。
全く芸になっていないフリートークもこの場で求めていることではありません。
自分のつくったことばを練り込んでいないなら、フリートークでやったとしてもどちらにしても、大して変わりません。暗記したことを間違えずに言おうとしたため、うまくいかないというようではフリートークでも同じだからです。それは表現ではないのです。
原稿用紙に書いたことが、本当に練り込んでこのことばしかないというところまで伝えたいことでなくてはなりません。それを伝えるためにどうするのかという練り込みをやらなくては、ただの作文、棒よみになるのです。
暗記するというのは、トレーニングの場であるからには、フリートークでも暗記でも、そこで徹底して考えて練り込むことがトレーニングで、力をつけるためにやっているのです。
歌い手は、なぜ歌詞を暗記するのでしょうか。
初回の題材は、自分のことばで自由につくるものです。作文力でなく、音声の表現力を問うてください。
自分の意にそわない他人の与えたことばで表現せよということに対し、どうしても、ことばを変えたいという(理由があるの)なら、それも自由であってよいと思います。
しかし、モノローグは、自分のことばです。誰かに作文してもらったわけではありません。
たとえば、時代錯誤の歌詞でもよいのです。それを音声で表現にまで活かすのがミュージシャンなり、ヴォーカリストの力なのです。他の人も全く同じ条件でやっています。同じ問題をみてやるのです。
この場では書かされた作文を一字一句、間違えず棒よみすることを求めていません。
結果として音声によって表現される、つまり人の心が動かされればよいのです。そのために暗記するのです。
フリートーク(この場合は、その場の雰囲気に応じ、即興で表現するということ)なら、もっとうまくやれて暗記したものだから、間違わないように気を使い、うまくいかなかったとしたら、それは全くの勉強不足です。
それは丸暗記でのチェックで、表現ではありません。歌におきかえて考えたらわかることです。
結論は、最初に言ったように、フリートークも暗記も、自分のことを語るのには、自分のものにしたら同じことです。
だから、その場でフリーにてきとうにやれというのでは決してありません。
トレーニングの発表なのです。宿題を形だけにしないことです。
(というより、ここをどう使おうと自由ですから)。
ー
質問があります。よろしければ会報に載せてください。
Q1:先生は、生きることは何だと思いますか?
A1:死なないこと、
殺さないこと、
使命に死すこと。
Q2:先生は、日本および世界は、このままどうなると思いますか?
A2:日本は、このままでは、よくならないでしょう。
しかし、きっともう100年まえからよくなくなってきているので、大したことではありません。
それを騒ぎたてるであろう日本人の醜態は、あまりみたくありません。
何もしなくても、日本は美しいのです。
世界はまだまだ知りません。ここに語れません。