一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レクチャー  27234字 702

レクチャー  702

 

 基本講座          360923

 オリエンレッスン 360706

 入門クラス とり組み方

 心構えと音イメージ

 シャンソンカンツォーネを使う

 

 

 

基本講座 360923

 

 一流の見本のなかにすべて答えはあります。それは、自分自身で感じとっていかなければなりません。答えを、人の言うことばや本のマニュアルで理解しようとするから間違えてしまうのです。

 

芸ごとをことばで考えようとすると、伝える方が正しく伝えるつもりで教えていてもどんどん違う方向へいってしまいます。自分で考え、自分で文章を書いていき、いきつくところまでいけば、体に身についてきます。今日のレッスンは、そういう機会だと思って臨んでください。

 

 ヴォーカリストとして、1.ヴォーカルトレーニングとヴォイストレーニング 2.体と呼吸づくり 3.声の鍛え方 4.ことばを音楽的にする 5.フレーズで表現するなどを身につける必要があります。

 

そのなかで、体と呼吸づくり-ヴォーカリストの体、呼吸とは何かということが、最初のレッスンの中心です。毎日のトレーニングでの体づくり、姿勢、フォーム、腰での感覚、意識をつかんでいきます。

                                                                                                                                                       

                                                                            

1 音楽を聞く

 まず、音楽をかけて体と心を解放していきます。体を動かしたり、音楽に合せて声を出してください。ただし、目的は歌うことではありません。のどをつぶさないように、またすべて歌おうなどと考えないようにしてください。ディスコにでもいるような感覚で、体と心を解放していってください。

 

 音楽がかかると無意識に体を動かし、音を口ずさみます。海外では、街の中、生活の中にそういう感覚があります。ここが、日本人との大きな差です。そういう意識に、24時間しておくことが、ヴォーカリストとしての意識、体、精神の状態です。

 

つまり、

(1)音楽を聞く

  (2)音楽がなくとも音楽が聞こえる 

 (3)音楽をつくり出す 

このプロセスを経ていくことです。☆

 

 最初は、体が動かない人もいるでしょう。しかし、どんな形でもよいから、無理に動かしてみてください。音に身をゆだねるのです。リズム打ちから入るのも、よい方法でしょう。そのうちに、動いてくるはずです。

 

もし、最後まで体が動かなければ、ヴォーカリストにはなれないと思ってください。これは、そのくらい重要なことです。それだけの柔軟性をもち、対応してください。

 

体を動かすコツは、まず心を動かすことにあります。頭の中の世界で考えないことです。気持ちのよいことを気持ち悪くやっていたら、人前には出てはいけないということです。なりふり構わずやってください。

 

音の世界に慣れていない人は、4拍子の曲なら4拍子で歩いてみる、手拍子を1拍ずつ打ってみる、1拍、3拍目を強く打つなどしてみてください。リズム打ちから入るのも、よい方法でしょう。

 

 歌舞伎の世界で、舞台中にタイミングよく声をかける人がいます。タイミングがぴったり合せられるのは、どこで声をかけるのか知っているからです。ジャズのコンサート中も、誰も何もいわなくても拍手がおこる箇所があります。それは、そこで拍手が出る理由がそこまでの音楽にあったからなのです。

 

それがわかるためには、頭で覚えるということではなく、何回も聞いて感動を体でつかむことです。その世界がわからないと、よい観客にもなれません。ましてや、表現する方に立てるわけがありません。

 

 ヴォーカリストの歌を聞き、自分で歌ってみます。そのとき、なぜそのヴォーカリストはそう歌うのかという感覚を感じてください。息だけで歌ってみたり、コーラスの部分だけでやるだけでも、息、声の出し方の勉強になります。

 

 その他に、同時にヴォーカリスト以外の音-ドラム、ベース、ギターなどの楽器の音も聞いていくことが大切です。本当のヴォーカリストであれば、舞台に立ったとき、それぞれの楽器の音の動きもわからなければいけません。音の世界とは、そういうすべてを総合して成り立っているのです。

 

 アレンジも、同じフレーズを5回くり返していたら、なぜ3回ではなく5回なのか。自分が合せて歌ってみると5回できているのか、5回しかできないのか。これが、5回できないと表現が伝わらないのか、3回の中で伝えられるのかということを煮つめてください。

 

自分は、そこで何回くり返すのがベストなのかを知ること。自分の一番、伝えられるやり方を、自分のベースのところできちんとつくっていくこと。それも、オリジナリティの部分です。時間をかければよいのではありません。どれだけ伝えて残すかです。

 

 

2 瞬間をつかまえる

「つめたいことば」(ラシドシシシラ)

「はい つめたい」(ことばで)

 

 一番大切なことは、最初の出だしから、自分の感覚、体の状態を調整して出せることです。このことを修得するのに、もっとも時間がかかります。

人前に立って表現しようと思っていない人は、いつまでもできません。その「瞬間」をつかまえることです。そのために、体をきちんと動かしておくこと、体と心の準備をすることが予め必要なのです。

 

 「ハイ」だけならよみ込める人も、少し違うことばになったり、歌になると「ハイ」のときの意識と違う方向に意識がいってしまう人が多いものです。その表現意欲に裏づけされた「意識」をもちこむことです。

 

 「ハイ」と呼吸をよみ込んで、自分の呼吸に合せていってください。そして、「ハイ」のなかで「つい、めい、たい、いい」と一つひとつよみ込みます。

次に、ことばを「つめたい」と一つで捉えてから、置き換えていってください。

 

その呼吸の深さをよみ込むことが大切です。それによって、声が深くなります。一流のヴォーカリストの歌には呼吸が聞えてきます。その深さをよみ取れず、表面だけまねると、一般のレベルから抜けられなくなります。耳で聞こえない世界を体でよみ取ってください。

 

 「つめたい」の「つ」のところまでに体をよみ込んでおいて、呼吸を整えて声にします。そこから、ここで表現する世界を大きく伝えていくのですが、乱れて大振りし、体を使った気分にならないように気をつけてください。キレ、シャープさでのひきつけが大切です。

 

 ことば一つ、発声一つとっても、常に「表現」というものを考えてやるようにすることです。体だけ使ってもだめだということです。だからといって、体がすべて離れてはいけません。両立させていくことが目標です。ただ、両方できないときは、どちらかだけ考えて、徐々にミックスしていってもよいでしょう。

 

 

 まずは、半オクターブそろえることが基本です。ドレミの3音そろえるだけでも相当、体の力が必要です。その感覚を意識しつつ、腰の感覚でとっていくことです。動きが一つにならないと捉えることができないので、そのことをトレーニングでやっていってください。一つに捉えられれば、自分で感覚がわかるはずです。

 

 そして、ことばの寸法と同じ寸法で歌うことから始めます。まずは長さの寸法をそろえることです。

 「はい つめたい」を体すべてでよみ込めて、全身で汗びっしょりになれれば、それ一つで芸になります。本当の技術は、そのことから始まります。このことを、2年とはいわず、4年、5年と考えて体になじませていけば、自分が歌いたいように声の方がおのずと動いてきます。

 

そうなれば、その動きをどう集約してとり出すかだけの問題になります。そこまで単純化することです。メロディも、最初は単純に大きいポイントでの音で捉え、声を握ってから展開していってください。

 

 体で「ハイ ラララ」と入れることができたら、同時に「ひびき」も意識してみてください。押し込めることをトレーニングしているわけではないのです。楽にひびかせることができるように、離さずもっていられるところをとっているのです。その「芯」がないと、横に浅く広がっていってしまい、完全なコントロールができなくなるからです。浅いところでのどをしめて音に合せていこうとしても、無理です。それでは声の動き、感情も死んでしまいます。

 

 こういう条件が整ったことができる感覚で体が動いているのをフォームといいます。

 フォームは、最初、慣れないとやりづらい感じがするでしょうが、より多くコントロールできるように、プロのレベルに設定しておけば、間違えることはないのです。

 

 自分の体の寸法を知り、それと音の世界を結びつけることです。このことを自分で決めていきます。そして、正しいところをきちんとつかんでいくことです。1年、2年とトレーニングをしていても、そのなかで本当に正しいことは数回しか出てきません。そのときに、正しいことがわかるために、日頃から感覚を磨いておくのです。そして、そのことをきちんとマスターすることです。

 

歌になってくると、正しく聞く耳のない人には、そのことがわかりづらくなります。正しく判断できる耳、体をよみ込める力があれば、自分でできなくても、体がその方向に変わってきます。そういう方向でやっていくのが快感であることがわかるからです。

 

レーニングする人にとっての快感は、完成度でなくより大きな可能性への直感です。トレーニングのなかでも、気持ちよいこと、快感は失わないようにしてください。イメージが悪いと、そのような方向に体もいってしまうからです。そのために、常によいものを聞き、吸収していくことが大切なのです。

 

 深い息とは、体でコントロールできるところの息のことです。しかし、これを定着させることは難しいので、毎日休まず息吐きのトレーニングをやるようにといっています。これを、5年、10年と続けていくと獲得できる世界が、声の世界です。深い息のコントロールが、定着できると有利です。

 

 

 最初の1、2年は、役者がこの舞台に出て観客の心をパッとつかみ、自分の声をきちんと出していくというトレーニングをやればよいのです。本来は、1年間モノトーク(語り)、2年目が朗読というようなペースでよいくらいです。

 

 レッスンは先に進んでいきますが、自分自身で、自分のなかの目的、現在の課題は何なのか、確実におちてきているものはどの部分なのか把握し、トレーニングしていってください。

 ためや流れのフレーズ感は、音を離すところ、音の展開を自分の体でよみ込み、捉えていくトレーニングが勉強になるでしょう。

 

 日本人が一番、苦手としていることは、体にある声をきちんととり、その声を育てていくことです。今ある声を展開して歌える人はたくさんいます。しかし、これは日本人の声のくせですから、限界がきます。それなら、クセでやっている人がやらないベースまでおとして基本から身につけていく方法をとった方が確実です。

 

 ヴォーカリストを聞くよりも、役者や劇団のよいところを参考にしてみるのも一つの方法です。わかりやすいかもしれません。そういうものを見たり聞いたりすることにより、声や表現力の判断力が身につけば、基準ができてきます。自分の歌の判断もできるようになります。自分の感性を鋭くして判断していってください。

 

 一流のヴォーカリストは、相当量の音楽を聞いています。逆に言うと、それだけの量、質が自分のなかに入っていないと、自分が出すことはできないということです。また、声を出すことに、今まで生きてきた年月に蓄積されたものが入ってこないことも、日本人の弱いところです。日本の場合、民族的な音楽、リズムが叩き込まれていないため、そこから勉強しなければなりません。

 

 ここのヴォイストレーニングでめざす音楽や声とは、国を超えるものです。単純に言えば、舞台で歌っているヴォーカリストの力によって、観客も思わず立ち上がってしまうほどの歌です。そうしたら、その引き込む力とはどこにあるのかということです。

そのような「感動」を味わったことのない人は、まずそういう体験を積んでください。そして、その感覚を全身で理解してください。頭ではなく、体が満たされた状態にすることが大切です。

 

 皆さんの体でも、ある程度のことはできます。ただ、そのベストの状態を常に自分のなかからとり出すことと、組み合わせることができないのです。それには、感性と技術が必要です。技術以前の問題もたくさんあります。

 一流のプロになるには、トレーニング方法の違いではなく、その人の一つの音に対する執着心と目的、目標の高さの違いです。その人が、どのレベルをめざしてどれだけのことを実際にやるかにつきます。なるべく遠く、なるべく高いところをみておくとよいと思います。そして、足もとを固めていけばよいのです。

 

 トレーナーは、その場その場で使っていくというよりも、一緒に3年後、5年後の声を探していくパートナーだと考えてください。今できることは限られています。しかし、それを確実に積み重ねていき、可能性を広げ、表現を絞り込んでいくのです。3年後、5年後にたった3分間、安定させて、表現をつきつけられるようになるために、プロセスをきちんと踏んでいってください。

 

 

 

 

オリエンレッスン 360706

 

 この研究所は、今までに音楽を知らず、人前で一曲も歌ったことがない人でも、入門は許可しています。今までの経験がないことでついていけないレッスン、メニュというものはありません。

 

皆さんの体を楽器としてみて、それをどう使っていくかということをやっていますが、体が楽器として使えるところまでつくっていくところからやっています。体を材料とみて、その体を楽器にするということに徹底して、一年間やっていくという考えでやっています。そして、その楽器として音色が出るようにし、さらに調律するのなかで、音の感覚、リズムを入れていきます。単純に、「ハイ」と1オクターブの音域で同じように言えるようにして、そこから音を結びつけて音楽としていきます。

 

 音感、リズム感というのは、コールユーブンゲンができればよいわけではありません。ヴォーカリストとしての音感、リズム感は、はるかに上のレベルで問われます。耳で聞いて、自分で出して、そのなかに音感、リズム感がうまく表現できていること。気持ちよく、動いていることです。それは、一流のものを聞いて勉強していくしかありません。

 

ことばでは説明できないことです。その上で、どういうものがのってくるかということです。そこから先は、決めつけたくはないのです。自分が体で感じ、こう歌いたいと思った通りやってもらえればよいわけです。

 

やりたいように歌えるために、声、息などの足りない課題をトレーニングするということです。そうなってはじめて、トレーニングに意味が生じるのです。誰かに言われて歌ったり、声を出すものではありません。自分でフィットしていないのにやることは間違っていますし、成長していけません。しかし、伸びていくためには、基本を徹底してやる必要があります。体、呼吸、声づくりと、音楽の基本そして歌を心に宿すことです。

 

 日本の音楽業界は商業主義的な考え方で覆われつつあります。外国でラップが売れると日本でもまねをして、常に売れればすべてよしという考え方です。このことは、業界としては悪いわけではありませんが、一人のヴォーカリストとしては消費されていくだけで何の意味もありません。5年後、10年後、何らかの形になっていかないとつまらないものです。

 

業界は、業界としての結果は出していますが、アーティスト個人の結果が出ていません。流行りすたりで使い捨てされていくのです。歌を歌いたくてヴォーカリストとしてデビューしても、何年後かにタレントやTVの司会者やゲストになる人が多いのがよい例です。歌手でも、コンサートをするためにドラマに出なければならないのが、今の日本の音楽業界の現状です。

 

 新しく一つのジャンルを築くくらいの気構えでやれば、世界に通用するような歌が歌えるでしょう。一人のアーティストは、一つのジャンルを超えるものなのです。プロになってからの技術がなかなか高められません。外国ではプロになってからも、ヴォーカリストとしての技術が、高まっていきます。スタッフや支える客の評価眼が高いからです。日本の場合、観客の聞く耳のレベルの低さと甘さで、ヴォーカリストも学べなくなっています。

 

 

 私は、そういう意味で在籍している人の耳、判断力について厳しくしています。私の耳が厳しいだけでなく、2年3年とそういう判断基準をもって耳を育て、体に叩き込んでいる人たちが、ここにはいるからです。この場のトップレベルの判断基準を満たせば、どこにいっても通用すると思っています。

 

 基準は、世界も日本も同じだと考えています。日本だからこの程度でよいと思うのは大間違いです。日本の基準、ヴォーカリストの水準が低いために、あれだけ日本のなかではミリオンセラーになりながら、一つも世界には出ていけない、通用しないのです。これは、あたりまえのことです。歌、曲がよいというのはありますが、ヴォーカリストとしての技術がないからです。

 

 だからといって、日本人のヴォーカリストをけなしているわけではありません。活動している人は一所懸命やっていますし、その歌を聞いて元気になる人がいる、世の中に大いに貢献しているのです。

そのことが悪いわけがありません。

ただ、「ロック」とは、新しいものを常につくり続け、問うもので、既成の業界にのっかってやるものではない。それなのに、ロックのヴォーカリストになりたい人が、デビューするために力をつけるよりもペコペコ頭を下げること自体、おかしな話です。気概をもって、表現していって欲しいと願います。

 

 声のトレーニングは、スポーツと同じように考えてもらえばよいでしょう。スポーツによくないことは、ヴォーカリストにとってもよくないということです。自分の体を使って表現することです。ダイエットをするということも、あまり声に対してはよいことではありません。

 

タバコを吸わない方がよいでしょうかという質問を受けますが、もう皆さんは大人ですから、生活の干渉まではしません。タバコを吸ったから声が出ないと思うのなら、そんなことで悩むのなら、自己管理をすればよいということです。

 

スポーツ選手は、そんな生活はしないでしょう。そんな生活でプロのスポーツ選手になれるとしたら、まだ人材のいない甘いレベルでできるスポーツだからです。私も、そういう生活はできません。自分で満足できないステージになることは許せないことです。常に24時間、プロというものは、いつでも歌える状態に体をキープしているものです。トレーニング中なら尚さらです。

 

 

EX.「ハイッ」

 日本語の発声で考えず、一拍、一音で「ハイッ」と言ってみます。「ハ・イ」とバラバラにならないことです。一拍で捉えると、体が使いやすくなります。「ハ・イ」と分かれてしまうと、体が使えなくなります。使う必要が生じないと体が動かず、のど声になりやすくなります。ことばの練習は、滑舌のトレーニングではありません。口はほとんど広げず、しゃべれるものです。発声にとっては口を大きく開いて動かす方が難しいのです。

 

 体で一つに「ハイ あおい」と捉えるところから始めてください。そのヴォーカリストがどこを使って声を出しているかみてください。口のなかでつくった浅いひびきは、横に広がった「ハイ」になります。まず、お腹からのストレートな声を引き出します。

 

 なるべく大声でやりましょう。体の使い方をみるときに、小さい声だと自分でもわかりづらいからです。ここでトレーニングする「ハイ」以上の声量は、歌うときには出ないと思ってください。同じように音域もチェックできます。

 

 順番がきたら、まわりの目は気にせず自分のベストを出し切ってやってください。その場の低いレベルに合せる必要はありません。遠慮していると、自分もその低いレベルに染まってしまいます。おたがいに高めるトレーニングをめざしてください。

 

 一番自分の出やすい音程で音をつけて「ハイッ」と言ってみます。まず、今出している音より2音くらい下げて、声の芯をとるトレーニングをしてみましょう。姿勢は、胸の位置を少し高くして、肩を下げる状態にします。

 

 声が、体からはずれていると、一見、声量があるようにみえても、下からぶつけて出しているだけなので、自分でコントロールできているようでも、実際は、できていません。だから、何回もやっていると、のどが疲れてきます。「ハイ」と思いっきり出していても、体はリラックスしていて、肝心なところには力がみなぎっている状態が理想です。この感覚を、体で覚えていくようにしてください。

 

 最初は、まっすぐ立った状態で腹式の感覚、腰の感覚をつかむのは難しいので、体を前に曲げて息を吐いたり、声を出してみてもよいでしょう。

 「ハイ」と捉えたところに声をのせていく。それだけのことです。

 

それをやるために、もっと体が使えるよう、息が使えるようにしておくことが、基本の強化トレーニングなのです。体や息は、トレーニングすれば必ず強くなり使えるようになります。声を出すのは、声帯で出しますから、無理な出し方をすると、その部分に負担をかけてしまいます。鐘と同じで、つくところは一つで、まわりに力を入れず、集中してひびく感覚を体でイメージし、覚えていってください。

 

 「ハイ」や「ララ」は、空手、柔道でいう「型」です。あとは、この型を応用していくだけです。歌っていて、できなくなったら、また「ハイ」に戻ればよいのです。

うまくいかないのは、基本の型がまだ不充分だからです。そして、また「ハイ」で克服したら、歌やことばへいけばよいのです。

 

 

EX.「ハイ ラララ」

 一拍ずつ「ハイ」「ラララ」と二拍でとり、できるようになったら「ハイ ラララ」まで一拍でとれるようにします。単純に全く同じことを10回なら10回ともできることです。それが「技術」です。「ラ」は浅くなりがちなので、注意しましょう。

 

 日本人にとって一番難しいのは、呼吸を使って声の支えを保つことです。浅いところで、日本語を発声してきているので、どうしてものどでことば、声をつくってしまいます。

 

 一緒にやっている他の人の体をよみ込みましょう。お互いのレベルが近いとわかりやすいと思います。あの人はのど声だったとか、この人のは口の中でつくったとか分析して、耳と判断力を鍛えていくのです。そして、自分に置き換えてみてください。

 

 「ハッ」は比較的、日本人が体を使いやすいことばです。のどが開きやすいからです。それを「ハイ」にしたのは、「イ」の克服が目的です。「イ」は浅くなりがちで難しいです。「ラ」も、日本人が口の中で加工して浅く出してしまうことばなので、型を「ハイッ ララ」にしました。

 

 「ラララ」という一つのフレーズでも、どういう音色でやっていくかを徹底的に追求することです。それが、最大のノウハウなのです。頭のなかだけで考えても仕方がありません。体でつかんでいってください。

 

 

EX.「つめたい」(ラシドシ)

 まず、ことばで言ってみます。今までの「ハイ」や「ラララ」を踏まえて、「つめたい」と言えるようにします。「ハイ」と「つめたい」は、同じポジションで言えるようにします。

 

音程は、気にしなくてもよいです。最初は、音、音程、リズムがはずれても、体から声で表現できていればよいと言っています。音程をとろうと頭で考えると、のどが閉じてしまうからです。キィは、自分のやりやすいところに移調してください。ことばで言ったあと、音程をつけてみてください。そして、音程がついた方が表現も声も大きくなるようにしてください。

 

 最初の「つ」が浅くならないように、日本語で捉えないようにしましょう。始まる前に、体、息、呼吸の準備を充分にしてから入ってください。

 

 「つめたい」の4語を一つにまとめて展開していきます。

ピアノを1本の指で「ド・ミ・ソ」と弾くのと、親指、中指、小指の順で「ドミソ」と弾くのとの違いと考えると、わかりやすいでしょう。3本の指はつながっています。

歌の世界も、正しくその音にヒットするというのではなく、楽器としての音をどう出し、つなげていくかが問われているのだと考えてください。

 

 

 

 

 

 

 

入門 とり組み方

 

 いろいろと学ばないといけないことがたくさんあります。ことばで聞いていくと全く反対のことを言っているようなときがあるかもしれません。

 

テンションが下がってきた場は、よくありません。たった一人で、何百人ものテンションを高めることが問われます。キレがないのです。キレというのは、ある意味では思いっきりよく前に問う姿勢です。リズム感も、音感もあっても、そこで声をあてたところだけが何とかぶつけて切っているのではキレにならないのです。包丁であてて切るように鋭くというのはあたりまえの話で、それ以外のところでキレていないといけない。真空切りではないのですが、あてるまえにキレていて、どこでキレたかわからないぐらいの鋭さが必要です。

 

 声の要素というのは、ポジションが深いとか、体でコントロールできているとか、強いとか、さまざまな要素がバランスよくコントロールできてはじめて、技術となります。日本人の日常の生活の感覚とは違うのです。感覚自体がもともと入っていないから、出そうとするときに生ぬるくなってしまうのです。

 

 古賀メロディなど日本の昔の歌を聞くと、声をきれいにひびかすクラシックのように感覚が強く残っています。母音中心にレガートしてひびかせていくわけです。柔らかく出していく感覚は私たちにもずっと受け継がれてきているのです。

そのせいで、キレた表現にならないということがあります。それも、きちんと正していないとだめだということです。童謡唱歌みたいに歌っても、表現は伝わりません。歌は伝わっても、その人の表現や歌は聞こえてきません。すると、ポップスといえなくなります。

 

 リズムと音色でたたみ込んでいくようなのが歌です。半分は、気持ちとか考えとかイメージとかの出し方の問題に負うところが多いのです。それがあって技術が鋭くなってくる、キレ味がよくなってくるものです。武器や刃物ではないから音楽的に柔らかくというところから入ってしまうのでしょうが、そこで一番、間違っているのは、音をやわらかくおいているように聞こえる歌い手が、いかにその柔らかい音をおくために、息や体で支えているかということです。優雅に浮いている白鳥の足はみえないのです。

 

 自分の声、ことば、サウンドを、あたたかく歌いたいといっている人たちが目標として聞いている歌の裏を全然、見ていないのです。表面的な作品が優しく聞こえれば、その人が優しいのだと思っている人も多い。人前で何かできる人というのは、そんな単純なわけはないのです。

厳しさ、強さを乗り越えたところにある優しさしか伝わりません。そうでなければ、本当にボランティックな精神で、人々を集めてふれあいコンサートをすればよいのです。これとは、作品のレベルというより、目的が違うわけです。

 

 だから、大きな勘違いです。それでやっていける人もいるのですが、少なくとも一流の世界でそういう感覚で出している人たちというのは、皆ものすごく一つひとつの音づくりに執着していて、声を出すときにも、その集中力といったら、勢い、パワーとか体が、人の数倍あるわけです。そうでないと、人に伝わるわけがないのです。

 

 

 今、磨いて欲しいのは、もっとストレートなところ、もっと切り口の鋭い表現です。そこまでの強さを出しておかないと、優しい歌は歌えないわけです。こういうのは、感情表現や歌詞の内容よりも、本当にヴォーカリストのセンスのところで歌っている歌です。

 

いろんな思いを込めたり、いろいろ歌おうと試みている人が、何でもたないかといったら、精神的な違いです。トータルで受けとめる力も必要です。そこからいろいろと彩をつけたりもっていったりするわけです。難しいのは、そのテンションと、その精神的な状態で歌を歌い出せる状況を、常に自分につくってやることです。それをやった後にできないところは、これは技術を待つしかありません。体や声は所詮、表現を助けるだけのものです。まっとうな人が聞いてみたらすぐにわかるのです。

 

 「どのくらい体を使いますか」「どのくらい声を使っていますか」と言われても「そんなの使っていない」「調子が悪いときに少し意識する」くらいでしょう。そうなった人はそれでよいのです。

結局、そこに頼るだけでは何も出てこないということは間違えないようにしてください。

 

表現を出そうとしたら、その分の力がついてきます。本当に歌を伝えようと考えたら、発声はついてくるものです。それを発声から考えると難しくなります。歌の中では、発声は関係ないことです。声がうまく出るときほど、怖いステージはありません。

 

声に頼ったときから、ステージは壊れます。声が出ないときの方がまだ安心できます。「どうせ声が出ないのだから、開き直って伝えるしかない」となります。結果として歌うことではなくて、伝えることがステージでは求められるわけです。そのときに声がつっかかるくらいのことは、本人が少し気持ち悪いというくらいのことで、お客さんには全く関係のない話です。逆に、そういうところがポピュラーの歌の味、その人の人間味になったりします。その人自身のもち味が大切なのです。

 

レーニングをやると、純粋に完全なものをつくっていこうと思うのですが、完全なものはないわけです。方向を間違うと難しくなってきます。発声練習でも歌でも、一言セリフを話しても、全部が表現になっていればよいだけです。それを伝えようとして頑張るときに、体は使われます。そういう感覚で捉えていった方がよいと思います。

 

 

 

 

 

心構えと音イメージ

                                                                                                                          

何が違うかを感じていけば、うまく歌っていけるようになると思います。ただ、ほとんどの人が何年やっても、結局、このレベルで歌っていくわけです。帳尻を合わせ、表面上に分けていくような声の使い方が、とても多いのです。

 

日本のプロの人が来て歌ったときに、私がどう評価するかを考えてみると、わかりやすいと思います。プロがここに来たら、やはりうまいし、安定しているイメージを抱くと思います。演歌でもそういう人たちもいますし、それはそれでよいわけです。つくられた安定が問題なのですが…。同じことをやりたい人にはよいでしょう。

 

 次の歌い手は、ミルバと共演した日本人ですが、向こうの人たちがどういう感覚で選ぶかという一つの基準になると思います。日本では、評価がそれほど高くないのです。かなり低音域で歌っていますから、わかりにくいかもしれないですが、声を動かすところで、他の人と歌い方が全く違うわけです。

 

声の深さだけではなく、歌の感覚が違うわけです。歌というのをどう考えてどう動かしていくか。ミルバが何でこの人と共演したのかというと、そこに惹かれるものがあったのでしょう。それが、インターナショナルな基準だと思えばよいのです。勉強するには、こういう人たちはいろいろな意味でよいと思います。

 

私は退屈なものは、ここでやりたくないのです。自分でも他の人のライブでも相当退屈しましたから。ただ声ということについて知るには、よい材料になりました。

 これは、上のドの音ぐらいまでしか使っていませんから、男性でいうと、低い方です。感覚の違いもあり、日本人離れしている深さがあります。向こうの人たちは、それで出します。本場で声を動かすとか、声を宿らせるとか、音声表現にできるというのは、結局そういうことです。

 

ここでよく歌うなといっているのもそういうことです。

今ので上のドのシャープまでいっています。男性でいうと、中間から高いところに入るところです。テノールになると、そこから1オクターブ上のHighCまで歌います。今の日本のロックとかも、かなり高くなってきてHighCに近いところまで出しています。ただ、出しているといっても、合てているだけで、裏声のような使い方ですから、全然、違うわけです。彼らの1オクターブというのは、日本語ということばの感覚だという点です。そこにエコーがかかっているのです。

 

 皆さんの発声練習がせいぜい1オクターブです。高いところでドまでです。1オクターブ、体に入れるというのはそういうことです。確実に声量をつけたいとか、声量や声域を伸ばしたいというのであれば、イメージしてとっていけばよいわけです。

 

無限とはいいませんが、声は体が使えるところまで伸びていきます。バランスとパワーの両立は難しい問題です。歌はまとめれば歌えるわけです。まとめようと思ったら、そこで終わってしまう世界です。それなら体を使ったらどのぐらいまでできるかを問いつつ、バランスを整えていきます。パワーもないとだめです。

当然のことながら、どの人の呼吸にも、限界はあります。徐々に3年、5年、10年とやっていけば、大きくなりつつも、まとまっていきます。正しくやらないと、まとまらないで、それたところで離れていくわけです。

 

 難しいのは、最初からまとめようと思ったらこのままいけるわけです。しかし、声の伸びが止まってしまうのです。ところが、ここでパワーとバランスが一致してくるわけです。歌っぽく聞こえるのはバランスを知っているからです。そういう勉強も大切です。

音の感覚は、声があろうがなかろうが、必要だからです。体のところでやっていたら、パワーはどんどんついてきます。それに伴って、バランスは狂っていきます。ここに来て、だんだん歌えなくなってくるわけです。というのは、パワー優先のためのアンバランスがでてくるからです。

どこかのところでまとめないと作品にならないわけです。自分がここだと思ったら、そこまでのパワーで限定してそこでのバランスで限定してまとまってくるわけです。だから、くれぐれも将来の可能性を考えるのなら、急いではいけないのです。

 

 本当に2年ぐらいでまとめてもよいのかといったら、本当は、もっともっとできるわけです。その人が、1オクターブを同じにそろえようとしたら4~5年かかるわけです。そのときに、バランスがくずれてしまうので、思いきる勇気がでないのです。

自分を全部使っていないのに、やろうとしたらバラバラな方向にいってしまうからやめてしまうのです。だから、トレーナーが必要なのですが、悲しいことに日本では、トレーナーがまとめてしまっているのです。結局、体が教えてくれるのですが、多くの人は待てません。

 

バランスをとっていくレベルのことというのは、頭でやっていることです。頭から体に戻すと、次の段階で心が決めていくのです。ブレスヴォイストレーニングというのは、人間が本来もつ体や心にまで戻ってやることです。バランスとパワーというのは、イメージがなくては、とても難しいことです。体の原理にそってそれを素直にひき出す心の素直さが必要です。

 

 

 これは、日本のと違って、歌っているときにバックコーラスが線を出しています。合唱も違います。線を出すということが基本です。

 

「あなたは いつでも えがおで こたえる」

 

 いつも線を出せと言っていますが、線を流して、その線を変化させて、音をとっていくという感覚です。日本人に欠けているものです。ただ、普通の歌い手の音楽というのは、そういうことを指します。

 

 2年たってもわからない人も多いのですが、歌というのは、ことばを音程やリズムに合せて読むことではないのです。表現したものが、音やリズムの理にあっていて、音楽が奏でられていて歌というわけです。ことばはついていても、トランペットみたいな音色だけで自分で出した声をどう展開させていくかです。相手に伝えることができていればよいわけです。そのイメージが大切です。

 

 たとえば、この曲も、ことばは意識していないわけです。意識しているのは音の世界です。歌い手のイメージが伝わります。考えて欲しいのは、どこを歌というのかということです。

これがわからないから、声が出てこない。わからないままに声が出てくる人もいますが、トレーニングからいうと、効率が悪いでしょう。結局、その先にいけないのは、その必要性を自覚できていないからです。

 

表現の大きさについていく声がないのはよいのです。いつも言っている通り、それはつけていけばよい。技術がないのもよいわけです。ただ、イメージがないのはどうしようもないから、そのイメージは勉強しないといけない。そのために聞かせているのですが、聞いても入っていないわけです。これは、これまでそういう聴き方で、聞き慣れていないから、仕方ないわけです。

 

外国に行って、知らない国のことばを聞いているのと同じで、一体何が何で何なのかがわからないまま聞いています。聞くことができていないことを、まず自覚して欲しいということです。一つの単語も文法もわからない国の言語のように、何も聞けていないのです。

 

ヴォーカリストを5人かけました。どれから何をどう学べばよいかということがわかっていない。それを一つずつ勉強しないといけないから、一つずつやっています。発声を身につけても歌にならないわけです。ただ、その人のなかに歌があれば、発声は身についてきます。それから、声も出るようになってきます。

 

勘違いのところでやっていると、伸びません。プロにはキャリアがあるわけです。キャリアがあり、そこから自分のところで器を固めてしまったら、そこで歌えてしまう世界です。学びつづけている人が少ないのは残念です。どこを学ぶかということを最初に考えなければ、体を使っての歌ということにはなってこないのです。

 

 

 「あなたは」だけ、やってみてください。

 

歌というのは、10人いたら10様の歌い方があります。しかし、基本の条件は共通しています。その部分をやっていかないとヴォイストレーニングというのは成り立ちません。どういうフレーズにとっていくかというのは、100人いたら100人のパターンがないといけません。今のだと、せいぜい2パターンぐらいです

 

「あーなーたーは」これで、誰が聞く気になるのでしょう。何を言っているのでしょう。ことばも聞こえなければ音も聞こえない。何も変化していないです。

 

捉えて欲しいことは、たとえば「ハイ」というのを、今までは口先で「ハ」「イ」とやっていました。それを体のなかに「ハイ」と入れます。入ったものを「ハイ ララ」として、これを展開します。皆さん、一つのことを言っても、一つのことしかわかってくれなくて、その一つのこともわからないから何回も言わないといけませんが、同じことしかやっていません。フレーズも声での考えと同じです。

 

 「あなたは いつでも えがおで こたえる」と一つで入れなさいということです。

「ハイ」と練習し、15音のことばまでつくっています。何のためにつくっているのですか。それは滑舌、早口の練習でやるのではないのです。

 

15音までのことばを一つでつかむための課題です。当然、1年ぐらいで全部、つかめられないでしょう。3音か4音ぐらいでも充分です。6音ぐらいつかめれば、早い方だと思います。ただ、そのことを自分で考えてチャレンジしている人と、そのことさえ気づかないまま2年たっている人は、全然違うわけです。だから、歌の土台がどこなのか。勝負できるステージがどこなのかということを明確にしていきましょう。

 

 私が強く言うと怒っているようにみえるのでしょうが、それは説明しているのでなく表現しているわけです。怒っていたら、何も言いません。わからないから言っているのですが、これを何回も何回も言ってばかりいたら、授業になりません。あげくの果てに巻頭言とか文章で、別の時間をとって答えなくてはいけなくなっているわけです。

 

一つのことを言われたら、何のことかを少しは想像力をつけて考えてみなさい。何でこの曲をかけて、次に曲を探して、この組み立てをしたかぐらいわかるようになりなさいということです。個人レッスンもグループも同じです。もし学べないのであれば、そこのイメージが学べないからだと思います。

 

最初は学べないから、その学び方を勉強する。学び方があるということを知ること。それから、自分は学べていないということを知ること。学べている人と何が違うかというところをみるべきです。

 

「あなたは いつでも えがおで こたえる」

これが、すべて入っていないといけないです。できる人でないとできないのが何なのかということです。

 

「あなたは」まででよいです。そういう方向性で勉強をつめているかということです。

「そういうのは教えてもらわなかった」と言ってもだめです。盗めていないわけです。

 

そして、何回やってきたかということです。レクチャーから同じことを教えています。それがわからないということは、結局、だめだということで、変わらないと何年いてもだめだということです。今わからないことが、じっとしていたら、いつかきっとわかるという世界ではないのです。わからない人は最後までわからないかもしれないのです。

 

 そのことを真正面で見ていないからです。真正面でみてわからなければ言わないです。それは、素質ではなくて、学んだり続けていくところの感性とか、ものごとを自分の身につけていくところの基本的なことができていないということです。だから、ことばだけの質問が私にくるわけです。日頃、人の何倍もやらずに学べるわけがありません。

 

 「あなたは えがおで いつでも こたえる」が入っていればよいわけです。ここまで、ことばでは皆さん、言えるわけです。そのまま展開をしていくのです。やっていけない例をあげ、聞いて、さらに悪い見本としてみせているのに、それと同じ以上にひどいことをやっています。

 

やれないのはよいのですが、やれていないことに気づいていない、あまりに鈍すぎます。それが自分でわかっているうえで、どうしようもなく他の表現が出てしまうのならよいのですが、結局、何の意識も働かせていないから、しぜんとそうなるわけです。自分の意志で動かさないと意味がないわけです。声を発して音をとるのではなく、表現するのです。

 

 「タタタタ タタタタ …」これは音符の世界、それから「あなたは」「いつでも」はことばの世界です。課題というのは、それを音を点としてあてていくなということです。体で捉えて、それを動かしていかないと表現にならないのです。

 

「つめたい」でやったことを、聞いていてもできなかったとしたら、それができるための2年間です。そこにチャレンジしてもらわないと意味がないのです。「あーなたは」とやって4フレーズになろうが表現にはならないです。それを皆さんができないのは、皆さんのイメージのなかにないからで、そのイメージはつくってもらわないと仕方ないわけです。

 

イメージをそのまま与えることはできないわけです。そのまま、まねてみても間違いだからです。創り出そうと思わないとだめです。伝えようと思わないといけません。トレーニングは、明日のためにやるのですが、しかし、いつまでもというよりは、今日、死して満足という気力でやらないと身につきません。

 

ことばも音も握ろうと思わないと、単なる表面的な課題にしかすぎなくなってしまいます。課題のまま終わってしまいます。きれいに歌えるだけで、人に何の感動も与えずとも歌えたらよいと思っている人は、それでよいです。そこで、とりくみが違ってきます。

 

 「あなたは」を言うにも、いろいろなやり方があります。「あなたは いつでも えがおで こたえる」と目一杯、表現してみたい、伝えたい、言いたい。そうしたら、どう言うでしょう。音をとるというより、ことばをはずしなさいということです。気力、パワー、感情移入は、どこにおいてきました。もっとも豊かなイマジネーションの問われる歌において、こんな貧困なイメージでは、歌えないわけです。音を叩いたというだけです。

 

何回も何回も一つのフレーズを聞かせている。その前後も聞かせている。その前も聞かせているというのも、そのイメージを創らせるために聞かせているわけです。ところが、心のなかに入っていかない。顔も体も自分のものになっていないのに、声が自分のものになりますか。

 

 まず、それを覚えて欲しい。次にそれをどう展開するか。くずすということではないのです。何十回、同じことを注意しても、それが自分のことだとわからない。音楽教室の幼児ばかりという感じでは困ります。基本の通りであって、基本を破るものが欲しい。

 

その基本さえくずれている。表現の意志がない。これであなた方は満足できるのでしょうが、私は満足できません。まず歌っている人がそのことに対して、表現を込めようとか、満足できるようにやろうとしない限り、仕方ないのです。何がいつも課題なのかということです。

 

ここでやっている課題というのは、2オクターブもある曲を30分も歌いなさいとやっているようなものではないです。今日の課題もこれだけです。だから、これが何で課題になってしまうのか、今日、出された課題なのか、突き詰めるべきです。このくらいとり込めなくては、何年やっていても歌えないです。

 

 

 

 「おかあさん きいてよ」とでも、言った表現レベルのことからやれということです。おかあさんが振り向くように。それを「あなたは」ということばで、まして、音がついているから難しいわけです。難しいけれど、それにチャレンジしないと、いつチャレンジするのでしょう。

 

入門と考えないで欲しい。グレードが上がったら、何か違うものが入ってくるわけではないです。私の授業に関しては、レクチャーも含め、そこにすべて入っています。ここに来なくても、レクチャーでわかる人はわかります。ほとんどは、わかった気になっているだけでしょうが、1万人に1人ぐらいはいると思っています。

 

私の歌一曲聞かず、声の素振りだけで皆さんは違いがわかった優れた人たちと思っていたのですが、そのことに一つひとつの授業で気づかないといけない。同じことで、ずっとやってきています。

技術が伴ってきたり、声が出ているのに関わらず、そのことに気づかない人が多いのだということに気づいてきてください。

 

結果オーライの世界ですから、声が出てきて歌がそれなりに迫力をもってきたらよいのですが、それでもまだそのことに気づいていない人がいるとしたら、そもそも、その人にとっての音や歌の世界は何なのだろうかということです。

 

 

 人前でやることは、伝えることがあればこそ、もつのです。音の感覚がどうやれば伝わるかを考えてください。そうしたら、「あなたは いつでも」を棒読みする人はいないはずです。「ラララララ」と発声しているのが歌と思っているのと同じです。とりくみようがあって、伝えようとして初めて、体が動く。初めて声のポジションが解放されて表現が出てくるわけです。

 

発声練習では、そのままはできません。表現しようとするときに足らないから、息を吐いたり、体を鍛える。いろいろなトレーニングも大切ですが、そこを忘れたら何にもならないです。発声練習だけで発声や音感やリズムが身につくというのは大きな間違いです。表現に技術が巻き込まれてくるわけです。

 

声も息もないよりたくさんあった方がよいわけです。あってもよいけど、100分の1くらいに過ぎないです。皆さんが、100分の99の表現をする意志がなければ、ひきこまれないです。技術も同じだと思います。技術をつけようと思ったくらいで、技術が身につく人はいないです。

 

仮についても、表現には使えない技術です。本人にとっての声だけ気持ちよく出るという技術であって、ヴォーカリストというのは歌うのです。ポピュラーのヴォーカリストは、声を気持ちよく出す職業ではなく、伝えることです。

 

 一つの課題がポンと与えられたら、すぐ結果を出すことです。それは、2年間のなかでプロセスでよいのですが、結果としてプロセスでよいということです。私たちは明日、死んでしまうかもしれないのです。ここで結果としてプロセスでよいということは、2年たってみて身についたら、この当時やっていたことが全然できていなくても、それはプロセスだからよいのであって、今日のあなた方であったら今日が結果です。

 

今日の結果を常に出さないとだめです。今日、出ない結果は明日も出ません。全く逆のようなことを言っているようですが、同じことなのです。今日のなかに入れ込まない以上は、明日、入れ込むことはできないわけです。ましてや、昨日を入れ込むのは終わってしまったことですから、今しかないわけです。

 

そのときに「あなたは~」を与えられたら、そこに自分が何か入れて創り上げないとだめです。その創り上げる要素が、ここでやっているトレーニングの、「ハイ」や「ララ」と一致してこないといけないのです。今への瞬発力、集中力、ねばりが足らない、生き方がうすいのです。

 

 

 トレーニングが身になるのは、それができた瞬間からです。そのあたりはものごとができていく人と、できてこない人との差です。桑田投手でも野茂投手でも、他の人たちも同じ練習をやっています。彼らの練習量が少ないみたいに言われていますが、彼らは一つひとつのところで相手を想定して、すべてのイメージを構築しているということを忘れてはいけないです。

 

バッティングの素振りも同じです。振った結果、「今のは空振りだった」とか、「ジャストミートだった」と素振りをしたごとにわかってやっている人と、振っていることが練習だと思ってやっている人とは全く違います。そこは、自分のなかで解決すべき問題です。ただし、それが完全にできるのは、イマジネーションとそこまでに積み重ねて入れたデータの再現力が問われます。そこでの問題は、すごく大きいです。だから、ここではゆっくりとわかりやすくやっています。

 

 昔は表現したい人だけがここに来ました。最近はそうではなくて、声を出したいとか、発声を覚えに来ているみたいなところがあって、それはそれでよいのですが、そんな甘さでは、本当の発声も身につかないということです。あなた方のなかに表現するものがあれば、発声が身についた時点で、それは歌になるはずです。「外国人の発声」で伝えたでしょう。

 

発声が身についてくるけれど歌にならない人というのは、もともとそこの部分がないわけです。それは勉強しないといけない。その必要性を感じていないと上達しません。音楽が入っていると思っているのです

 

小さな子が「おかあさん」と言って人々を振り向かせる表現レベルでは、皆さんのなかにあります。それさえ今までとり出してこなかったから、とり出せないということです。自分を裸にできないからです。そうしたら、永遠にカルチャー教室の発声教室で終わってしまいます。

 

 これで本当にすべてです。

「あなたは いつでも えがおで こたえる」ここまでに、その人に関して、音に関して、どのぐらいの表現力があるかというのは、すべてわかります。

それがプロとしてよいとか悪いとかではなくて、プロの最低基準を満たすものがそこに宿っているかどうかということです。

 

技術は後で助けてくれます。声も深くなってくるし、大きく出せるようになる。ただ伝える必要がないものはやるなということです。そこを煮つめてください。そういう形で歌とか声に接していないと、時間をかければかけるほど、ここに通えば通うほど、おかしな方向に行ってしまいます。

 

もしわからなければ、そのへんの声楽家の演奏会などに行って来てごらんなさい。感動しないはずです。新しい人をみて、もし本当に心から感動したと言える人がいたら私に紹介して欲しいぐらいです。そこで、技術だけでは何がだめなのか勉強してください。

 

彼らが10年やったことを、皆さんは2年でできないです。音大生は何千人といます。20年、30年やった人もいます。30年、やっている人の歌にも、感動しないのは、どちらの問題なのでしょうか。素直に感動できなくて、うまいことはうまいというなら、もったいないことです。その人がそこにいて、1時間ぐらいもつようなことはできるから、それはプロです。

 

表情もある。それからその人のいろいろなことをやってきたとか、よくみえないけれど後ろにいろいろなことがあるのだろうとか、人生として歌は組み込んでいけますから、自分の想像力で深くふくらましながら、おいしく聞けるということです。

 

日本のプロにも、いろいろな人たちがいるのですが、ここで取り上げるのが何で向こうのものになってしまうのかというと、学びにくいからです。日本では、その人の人間性に負ってしまうところが多いからです。皆さんの人間性も出てくると思います。

 

ここに徹底して通っていたら、それなりに迫力も威厳も出てきます。それだけではだめなのですが、それも必要です。人前で表現するというのは、それだけやったというところから伝わるものがあります。それがまず、聞かせるまで、ひきこむまでの前提条件です。

 

 ただ一番、大切なことというのは、芸術が芸たるものになっていることです。音として捉えてその音をどう展開しているのかを何回も何回も聞いて欲しい。まともな歌は全部、入っています。音符通り読んでみても全く違う。その違う部分を創りなさい。

 

それを創るために体や感情を出し惜しんだらできない。今はそれを一致させる。一番、原点のところでよいです。大きなところで一致させようとイメージしつつ、できるところをやります。すべては部分に過ぎないということです。私の授業も部分です。

 

だから、材料だと言っています。トータルとして全部、受け止めても、あなたがトータルとしてなければだめです。私ができることというのは、道の方向性を示し周辺の穴があるところとか、バランスがくずれているところを補修するぐらいのものです。

 

 最初に学ぶスタンスとして、ステージを観たり、いろいろな音楽を聞いたら、そのときに何を学ぶかということです。そして、自分でやってみることです。その試みを絶やさないこと。そうしたら、一つのものをパッと与えられたときに展開できます。その力をつけ、そこから学んでいくしかないのです。自分が出したところから学んでいくしかないし、自分が出したところから学んでいくのです。知識の記憶とは違うのです。

 

 私のレッスンも、下書きを書いて、同じように教えるというようなものではないわけです。ここで出たものに対して自分が何をやるのかが問われます。ライブでやっている自分がおもしろいわけです。おもしろくない自分をやらないために前書きはあっても創り出すわけです。そうしたら、そのときに出たものがすべてなわけです。皆さんもそのときに受けたものがすべてです。

 

ライブは再現できません。成り立つのは基本や技術の上にです。ヴォーカリストの世界というのは結局、そういうものです。だから、1曲を創り上げるときに、曲をやるだけやるのはあたりまえですが、早く完成させて、歌っていこうなどとは考えないことです。基本のことを叩き込んでおいたら、その場でライブに出たときに出たものが、あなたの世界です。だから、ライブというわけです。

 

日本人のライブを観ていると、レコーディングでの加工がごまかしを助長して、そのため、それがあぶり出されるのです。同じレベルで歌えないのは残念です。向こうのライブを観たら、CDで聞いてつまらないと思っているところまで、全部すごいのです。それだけ自由になるわけです。お客さんのエネルギーを受け、そこでの感覚で思う存分、変えてきます。

 

場に応じて変える力が結局、歌う力です。結果として音が変わったとか、ことばが変わったとかいうことがなくても、そんなものが変わらなくても表現が変わるわけです。皆さんでもそうでしょう。おじいさんが聞きにきているときと若い人が聞きに来ているときと小学生が聞きに来ているとき、同じ歌を同じように歌うのは日本の文部省の唱歌みたいなものです。違ってよいはずです。そういう力をつけていくのに、声とか表現が必要なのです。

 

 

 

 

 

シャンソンカンツォーネを使う

 

シャンソンは、日本人が向こうの歌を解釈して歌っている世界の例です。

英語の歌を日本語で歌っている人は、あまりいないし、歌詞もよくありません。日本語のなかでも演歌とかニューミュージック、フォークや歌謡曲になってくると、ずいぶんと声にくせがついているのです。すると、声と音、体と心の接点がわかりやすいものは、シャンソンカンツォーネでしょう。日本語の詞としてもうまくできているし、スタンダードとして受け継がれています。それからある程度、音に対する意識があって、これはなかなか、おきかえができないのです。

 

 シャンソンで勉強するというだけで、時代も歌うことも違います。それ以外の要素を、そこからとってください。曲調や伴奏なども、学ぶとよいでしょう。

もっと単純なことで言うと、シャンソンはフランスの音楽ですが、いろいろな国から歌い手が入ってきました。いろんな音やリズムが入っており、豊かで、かつ欧米の一つの基調になっています。

 

カンツォーネは、歌が大きく発声やフレーズの好見本です。北欧のものやイギリスのものもよいでしょう。そういうところに共通してある、それぞれのポリシーが、日本に受け継がれたときに何を失ってきたかというような部分を知ることです。それが、日本人の好みを知るヒントになります。

 

 世界のなかで切磋琢磨してプロとして勝ち残ってきた人たちは、最低限の要素を満たしています。音程やリズムは狂わないし、ことばもはっきり聞こえます。そこまでは、学ぶ以前に得ています。

 

日本人は歌の移し替えを急ぐあまり、犠牲にしてきたものがありすぎます。音大主導で欧米の音楽が輸入された功罪も問われてよいでしょう。その欠けた部分こそ、ここの研究所で一番、補いたいのです。

そのために、日本の野球でなく、大リーグのベースボールから始めるのです。

 

 日本というのは、宝塚も他の劇団も声楽も含めて、声のない部分、体で出せない部分を、いろいろなテクニックで補っています。アカペラで歌っても、普通の人たちよりうまくないという人たちも多いです。だから、補っている要素がどんどん増えてきています。

 

何が困るかというと、プロになったあとに、全然、伸びないわけです。しぜんな体の動きや声を妨げて、芸をつくっているからです。プロで出たときまでに、普通の人たちよりもうまくなっているのですが、そこで器が形でできてしまって、つまりは、くせをつけている歌い方で、そこで限界になってしまいます。

 

 日本のお客さんに対して日本人の感性で、日本語的なニュアンスで歌うから、それでよくないということではないです。ただ、ここでは通用しない。というのは、その人たちをまねしていても、皆さんはオーディションで落とされるぐらいの歌しか歌えないからです。

 

彼らは、違う意味で、感覚や雰囲気を出すようなことも含め、才能があるわけです。だから、だめということではありません。

たとえばお酒を飲みながら食事しながら、こういう人たちが表情とか手とか衣装とかを使い、歌ったら、きっと楽しませてくれるでしょう。そういう基準でいったら、ヴォーカリストとして、当然、プロなわけです。そこはアマチュアとは違います。

 

 私が学生の頃は、ジャズやシャンソンの店が銀座あたりにもたくさんあり、こういう人たちがたくさんいました。日本の歌謡界とは違う分野にたくさんの人がいて、いろいろな人を聞けたわけです。

知名度がなくても、うまい人はたくさんいます。しかし、その中で、感じたのは、多くは退屈だということでした。

 

今よりも退屈だったと思います。その頃、私には、ゆっくりとした歌を聞くだけの心の余裕もなかったのです。でも、その耳が狂っていたとは思いません。

今は、ある程度、ことばで説明できるようになっただけのことです。

 

そうでなければ、こういう人たちが、世の中を引っ張っているはずです。

日本がおかした誤りというのは、日本からロックが出てくるかといったときに、国内市場の方を向いたことです。

 

日本語ロック論争というのがありました。ロックを英語で歌うか、日本語で歌うかということです。そのときに日本語をとったのは、必ずしも悪くなかったのですが、インターナショナルなところに通用する声のパワーまで、なくしたわけです。

 

謡曲もニューミュージック、フォークも似たようなものです。サウンドという名のもとに、声のパワーをなくしたサウンドを創ったのです。

これは音として聞いたときに、全く違います。ことばとしては聞けます。むしろ、音としてないから、ことばとしてきれいに発音しています。

 

それまでは、シャウトするような歌の方が多かったのです。アジテーションみたいな、とにかくシャウトだけしている歌があったのに、そこをサウンドといって、音楽的にそらしてきたわけです。

いろいろな伴奏をアレンジつけて、エコーつけたらサウンドだと、きれいに整えて音楽らしくはなってきました。その延長がカラオケです。

ダンサブルでヴィジュアル面がクローズアップされるにつれ、その傾向は強くなり、今や日本の紅白歌合戦に出る人の大多数に、声がないわけです。

 

 はっきりいうと、足らない声と息だけで歌う方が難しいのです。

歌える人もいますが、普通の人たちが聞かせるように歌えるかというと、それっぽく歌えるけど、いわゆる歌的な世界になってしまいます。○○的というのは、すでにアートではないです。

ジャンルを超越しないものでは、ここは認めません。ノンジャンルです。

 

皆、プロですから、声自体の要素より、それをどうみせるかというものに注意がいきます。音の感覚も空間の感覚も、それなりにもっていれば、声がなくても歌えるものです。これはイメージの問題です。

 

要はシャンソンやジャズを歌っている人たちが本場の原曲を聞いて、そのように歌いたいと入っていたのにも関わらず、浅い声、表面的な歌、つまり、歌的になってしまうことなのです。

早く器をまとめすぎるからそうなってしまうのです。そこに、声の問題が出てくるのです。

 

日本人のお客さんにとっては、ストレートな表現よりは、いかにも歌っているような歌の方がわかりやすいのでしょう。

不在なのは、新しいもの、わからないものをおもしろいと思ったり、認めたりする精神です。

そこに自分が主体的に関わって、いろいろな感情移入をすることを楽しいと思うような人たちと、わからないとつまらないと思ってしまう人との差なのでしょう。

 

音声表現に関しては、日本は劣っていますから、説明しても伝わらないのです。

世界の一流ヴォーカリストを聞いていたら、今の日本の音楽を勉強してきた人ほど、わからなくなるでしょう。絵をしっかり描いている人とか楽器をしっかりやっている人とかなら、わかるのではないかと思います。

一流の人がわからないものが世界的に通用するわけないです。残念なことながら、日本のは当然のこととして、世界に通用していないわけです。

 

 今やっている段階は、一つの音をきちんと叩け、吐き出せということです。なるだけ深くとることです。人間の体のなかで一番、懐の深いところでとります。それがきちんととれたら、実際に体が働いてきます。それをどう展開させるかが音楽の世界です。

 

トランペットで吹いた一つの音、そして、そのひびきのように、きちんと感情をゆり動かす音色をもって出るということが基本です。

その音をどう展開させるかという部分が音楽です。

 

歌が優れているというのは、ピアノみたいに何オクターブもないし、同じ音を出せるわけではないから単純です。その声をどう展開させるかの世界です。

そこにことばがついているというだけです。

 

「ラーララ」でもよいわけです。

これがその人の表現技術を伴っていれば伝わらないわけがないのです。

その土俵に上がらないうちには、トレーニングといえないのです。

 

 

 感覚としては「ファミレレ ファミレレ」にのせる方が難しいわけです。どこが強くてどこが弱いかと考えるより、強く出したいところで出したら他が弱くなります。すると、そこに線がつながってくるはずです。その線を出していくのが歌の世界です。

 

最初の「あーなたの」というところも「あー」と踏み込んでいけば歌になるわけです。どこで入れて、どこではねるかということです。そのイメージは、その人の感覚です。それが線になっていないと、コントロールできないです。バラバラになってしまいます。

 

線をゆらすまえに、まず線をつかむことでしょう。そのまえに「ハイ」とか「ララ」で言えていること。これは3度しかないわけです。「ハイ」と言えていたら「あなたは」とそのまま入れるところなのです。できないのは、イメージが合っていないということです。それと共に、その先の方向性がみえていないからです。

 

 

 読みから入ってください。

「あなたは いつでも えがおで こたえる

を、ことばも捉えていないし、音も捉えていないと、課題にもなりません。

 

ここは課題ではなく、表現する場ですから、このことばであなたを出さないと仕方ないのです。

音楽的な線をはずしてはだめです。きちんと基本をもってまとめるために、しぜんにできるために技術や体が必要なのです。ふしぜんなトレーニングからやっても、目的をもち、先をみていかないと、バラバラになってしまいます。

 

 才能がある人は、ことばや音に対して誰よりもいろいろな要素をとり入れるでしょう。感受して、音に対しても何かを築いていきます。

 

ことばや音に関しては、徹底して訓練します。

日本人の歌を聞いているだけでは、大半の人は、「あなたはーいつでもーえがおでーこたえるー」しか言えないでしょう。これをはずして、ことばとして正しく言えているのは演歌の分野ぐらいです。

 

だいたい、拍のところにことばを言っているだけですから、伝わりません。伝えるもののなかに巻き込んでいくことです。何か宿して戻していくということをやってください。

そうしたら、これをやるためにどのぐらいの体が必要なのかわかってきます。

 

皆さんは全然、使っていないのですから、練習になっていないということです。それでは、2年たっても何にも身につかないということです。

それなら「おかあさん」と2年間、叫び続けた方が効果が出ます。

 

そこに音が宿るのを待ちなさい。そういう形で体が使えるようにするために、トレーニングで変えつつ、変えているだけでなく、タイミングとかコツとか自分で捉えていかないといけません。

 

それを、ここの発表の場でやって、何が「まだできていない」とか「できるようになった」と判断していきます。間違えなかったといっても、何の意味もないです。

そこからとりくんでみてください。読み込んで叫んでみて、それで「ファミレレ ファミレレ」と「あなたは いつでも」と吹き込んでみて、表現になるかどうかを、厳しくチェックしてください。