ステージ実習コメント 704
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ライブ実習コメント
ライブ実習コメント②
ステージ実習コメント②「誰もいない海」
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ライブ実習コメント 360909
ライブ実習は、声そのものをみるというよりは、トータルとしての舞台としてみています。ですから、自分自身で、楽しんで場に臨んで欲しいのです。ステージは慣れが必要ですが、少しずつこの舞台のようなところでの勝負に勝っていく経験が必要です。小さな舞台ほど大きな勝負となります。つまり、一人がすべてを動かすことが問われるからです。外での勝負で勝ち、このなかで負けるのも、よい勉強になると思います。
まず、表情が固いのでどうすればよいのかわからない人は、とにかく笑ってみてください。どんなに悲しい内容の歌でも、歌い終わったときは一つ区切りをつける意味でも、そうしてみてください。場をのむことです。歌っている3分間だけが舞台なのではなく、その場に存在しているあいだ中、あなたは特別な人として「特別な空間」をつくらなければなりません。
今日の出演者のなかにも参考になるような人もいました。人のやっている姿をみて、よいと思ったところはどんどん盗んでください。また、常にアーティストのライブやビデオをみて、歌っている以外のこと-目線、歌う前の準備段階など、よく観察して学ぶことです。客観的にみることができるということは、とても大切なことです。自分が歌になりきっていれば、自分の体もしぜんにそう動けるようになります。
舞台に立ったとき、マイクスタンドを使用しないのなら、どかしてください。自分が歌いやすい環境に整える自由を使うことです。基本的に自分のペースをつかむためには何でもありです。
スティービー・ワンダーがコンサート中に後ろにひっくり返って、スタッフに起こされるということが日本公演中、連続しました。これは、日本の客ののりが悪いために、のりをつかむためだったのでしょう。スーパースターの芸人根性に見習ってください。でも、ひっくり返っただけで歌が盛り上がらないなら、ただの恥の上塗りです。
自分が歌の中でのりが悪くなったときも、どこでどのように自分のペースに戻すのかということが、とても大切です。歌の場合、体で戻したり、ちょっとした表情、表現で戻せます。しかし、どこでつかみ、どこで離れているのかを舞台の感覚を体でつかんでいかなくてはなりません。
自分のペースへ戻すという試みは、トレーニングの舞台であるこの場でやって構いません。どんどんチャレンジして「ノリ」をつくってみてください。「ノリ」をつくり出すということが、特に1曲くらいで勝負しなければならないときには、歌よりも問われることなのです。そのためには、モティベートとテンションを自分でコントロールすることです。
自分のペースにもっていくこと、また歌をコントロールできるようになるためには、その場で急にやろうとしてもできません。とっさに対応するには、やはり常日頃からの準備(トレーニング)が必要です。基本の練習、そして歌う曲をどこまで練ってきたかによって、差が生じます。そこまでの下地をつくってきていれば、もし調整ができなくても明らかに間違っている方向にはズレないのです。
課題曲に関しても、これだけ大きな曲をこのリズム、感覚でのせてやろうとすれば、そうとう練り込まないといけませんし、体をもう少し動かさなければ人には伝わりません。体が自分の心からの表現とが一体になり、その表現を出すために体がそれだけ使えていないと表現が出てこないのです。歌の大きさ、リズムに振り回されてしまいます。技術が足りないからといって、より伝えたいときに体が動かないのはおかしなことです。
人の心を動かすことのできるヴォーカリストは、何か一つその人が勝負できるものをもっています。私が、1年のうち皆さんの歌を聞いて心を動かされることが3、4回あると言いましたが、それも勝負できるものが一つあるという基準です。
それには、パワーでも感情でも人間性でも何でもあり、です。これだけは人に負けないというものを場に打ち出してください。それがステージです。今はまだ、トレーニングの段階でトータル的なバランスはくずれてしまうでしょう。ただ、練り込んできていれば、ステージでたとえできなくてもわかります。何かを人の心に残すことはできるのです。
一つの勝負できるものを打ち出すことができたら、他のもの(音程、リズム感など)も最低限、必要なレベルまでは体に入れて出すことが必要です。他のものとのバランスが必要です。歌は音楽ですから、音楽的な要素は不可欠です。
音の世界で表現するには、音程をとるといった単純なものではなく、三次元の空間を表現できなければなりません。音の世界は、一つの次元で成り立っているのではなく、もっとも純化されたところを含め、音、ことば、リズムと、三層が重なり合った世界です。その感覚を少しずつ、つかんでいくことです。
音の世界の中で勝負するためには、ベースのトレーニングと、技術が必要だと考えてください。また、音の世界のなかでの構成上、はずしてはいけないポイント、定石といってもよいものがあります。このことをわかった上でアレンジするのはよいです。
しかし、つかんでいないうちにこのポイントまで動かすと、本人が気づかないうちに単調になり、そこから脱することができなくなることがあります。このことも、一流のアーティストから学んでもらえればよいでしょう。
ヴォーカリストとしての技術が必要な理由として、技術があればこそオリジナルな力を根底からとり出し、見せることができるからです。技術も一つの型なのです。それを踏まえて抜き出すことで、10の力を20、30にみせることができます。
つまり、人間が鬼神になれるのです。オリジナルをもっている人は、何を歌っても自分の形として出せます。体の寸法と感覚を曲に巻き込まれず、自分の方に引き寄せる力があります。
技術をつけて、下地をつくっておけば、そこではじめてオリジナリティは出てきます。オリジナリティがあるかないかは、観客にとってはその人を最後に信じられるかどうかという説得性の問題になります。
このことは、ヴォーカリストにとって大切なことです。プロデューサーにかたちづくられたものでなく、自分でつくることです。
また、10のものを20、30にみせ、しかも20、30の力を定着させるためにも、技術は必要です。そして、定着できるようになったら、今度は20をめざすのではなく、40をめざすというように、自分のレベルにくみ込んでいくのです。つかむことは大切ですが、それを定着させることが本当に難しく、私はせっかく一度は出せても定着できずに終わった人の例を多くみてきています。
10の力を10あるいは15で歌っている人は聞けますが、30、50の力があるのに、この場のレベルの高くないところに基準をおとしてしまうようでは所詮、何者でもないのです。
自分で常に自分の「個」としての基準をもち、絶対的に「超」えてあることです。やり続けなければ、実力はどんと落ちてきます。まわりの色に決して染まらないようにしてください。
何のためのトレーニングかを、いつも考えてください。うぬぼれたら最後です。そのために二流、三流にも学ぶのです。また、トレーニングのなかに、はまったまま歌を歌わないように、舞台でそこから脱してください。脱するには、パワーが必要です。
自分を信じ、素直に歌うこと、素直にとり込むことです。
今は、はめをはずしてもよい時期です。器としての下地をどこまで大きくつくれるか、どこまで大胆になれるかが勝負です。ライブとは、トレーニングのなかではわからなかった感覚をつかむ場です。この場でもっといろいろと試してみてください。
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ライブ実習②コメント 3606.10
ライブ実習は、このクラスでは、ほとんどの人が初めてではないかと思いますが、ステージ実習はアカペラですので、自分勝手にとにかくやってもらえばよいです。ライブ実習も基本的にはその線上でよいのですが、マイクがついてピアニストがついています。
あんまり自分勝手にやっているとお客さんの方も勝手にやればという感じでみてしまうので、そのへんで少しコミュニケーションの能力が問われてくると思います。
ステージ実習にしろライブ実習にしろ、いつもの授業の延長上でやっていますので、思いっきり冒険してもらえばよいということでは変わりはありません。だから課題曲をライブ実習用にとかステージ実習用にとか変える必要もないと思います。
まず、課題曲の方からいうと、この歌詞自体は古いものですから、実際そのことばをよみこんでことばを伝えるということは期待していないというより、念頭におかなくてもよいと思います。イタリア語でやった人の方が有利だったと思うのですが、日本語でも音声的なイメージで聞いていましたので、もし歌詞で勝負しようとか、他の要素でやっていこうとする人であれば、いっていることが具体的にどうこうというよりも、雰囲気なりこの曲がトータルとして伝えようとしている内容が伝わったか、伝わっていないかということでみてください。
男性にはこの歌詞は取り組みにくいし、変えて構わなかったのです。プロの歌の通り「私もあげるわ」といわれて欲しいと思わせるような歌になるかというと、日本人の感覚と向こうの感覚は違います。だいたいステーキを何口かで食べるような国の女の人が迫ってきても日本の男性は逃げるように思いますので、そこは音声のイメージで勝負すべきだったと思います。
構成からいっても歌詞は今回は度外視して聞いてください。音の流れとくみ立てだけでやっていくことですから、ライブ実習の課題としてはふさわしかったと思います。ただマイクをいれたことによって、プラスになっている点よりマイナスになった点の方が、多かったようです。
それから感覚です。イタリア語と日本語の曲を両方で取り上げているのは、やはりその中から音声に対する感覚を学んで欲しいからです。2曲ぐらいかけた中で、リズムの上にタンゴの甘さというのをとっている部分がありました。
タンゴというのは1曲の中で1ヵ所、少しメジャーな範域に逃げるところがあるのです。そこがものすごく心地よくて、むこうのことばでいうとドルチェという感覚です。そういうのは最初に聞いたときは全然感じなくとも、プロはそこの感覚を出している。
タンゴのリズムがとれるか、とれないかということではなくて、感覚です。これは日本人が向こうのものを歌うときに難しいことです。ジャズやゴスペルを歌っても結局入りこめない部分です。ただ学んでいって近づくことはできますので、そういうジャンルをやっていきたい人であれば、そういう感覚をもつことは大切なことだと思います。
音声のところで何を感じるかというような部分です。それがライブ実習になると、かなりはっきりしてきます。音声として声を使い切るというところです。そうでなければ、このヴォイストレーニングで音のこと、声のことに関心を持たなくてもそれなりにやれると思います。だから全体的なイメージとして、ピアニストの音のイメージと、皆さんの音のイメージがうまく融合されてでるのが本来、理想なのです。
練習でやったことを忘れ、本番の場合ではその感覚に応じてやります。そこまでは練り込むしかないので、とりあえずピアノを超えることです。どちらが伴奏でどちらがメインなのかわからない。はっきりいってピアノを超えて聞こえてきたのは2、3人です。
だいたい私は、同時に聞こえたらヴォーカルを聞くのですが、今日はピアノの方が聞こえている方が多かったです。ということは何も伝えてないということです。ピアノの表現力というのは抜きにしてヴォーカリストである限り、それを使って、さらに効果を高めていかないといけない、曲と伴奏を押さえていかないといけないのです。ピアニストを動かしていけた人は、2人ぐらいだったと思います。
歌の世界ですから、声なり音楽なりを媒介にステージの世界に入り込むことです。お客さんが入りこめる前に自分が入りこめないものに対して、人様は入りこめません。まずここに立った瞬間(というよりもでる前)からそこに入り込んでいる感覚を、その中で音の感覚を少し意識して欲しいということです。
それから相変わらず方向違いがあります。方向違いというのは、聞いて退屈するからすぐわかります。もっと単純にいうのなら、そのへんのタレントさんが代わってできることをやるなという話です。
そういうことに対しては、タレントさんの方がうまいです。
技術的に音域が狭いとか、声量がないとか、そんなことはこの研究所でやっていくことです。今日の歌というよりも明日に対しての可能性を大きくしておくところの部分として問うていることですから。大切なことは嘘のことをやらないということです。それが一番、難しいです。
退屈するというのは、だいたい、借りものの場合が多いわけです。選曲を考えても、皆さんの選曲だとかなり難しいのです。本当の力がないと自分が出てこない。曲のよさとか曲のストーリーを客が知っているので、もっている。そうすると、本人にとってはあんまり意味がないです。カラオケとかでやるのならよいのかもしれないのですが、ここで聞いているのはその人がつくりだすところの部分です。
サウンドの中に本人が埋まってしまったら仕方がないわけです。それと、どう創り出しているかということよりも、それにのっかっているというふうに聞こえます。音ということが本当にわかっていないからです。サウンドという形でできてきているものにはトータルなものがありますから、新しくいろいろ変えようとしていても、前のものがなかなか破れないという壁があります。
だから破る試みをしているのはよいのですが、ただそれを歌いこなそうとしている人には、曲のよさから差し引いて聞くことです。曲がよいのはあたりまえです。大ヒット曲ですから、それでもっていても仕方がないわけです。また、サウンドでもっている人たちの曲を歌おうとすると、音の線とか感覚に対してもっと鋭くないとだめです。コントロールも、もっと完全にしきれないと表現が出てこないです。
今の皆さんにとって課題曲の難しさに対抗するには、思いっきりやって何とか通じさせるということです。何をやってもどこが間違っているかわからないという完成度からいうと簡単なのです。節回しに自分のものを出せても、普通の人は心地よく感じません。
そうかといって見本のとおりに歌ってみても、何の表現もできていない。それを、つくりかえていってシャウトしても、単に自分は音楽は全然わかっていないのだというだけのシャウトに成りかねない。マイナスのアピールになってしまいます。
選曲に関しては、歌える歌を選んだらどうかということです。音域が狭いとか、そのへんの人たちでも歌っているというのが優しい歌だとは限らないです。逆の場合の方が多いです。大曲は、音域が広く盛り上がりのあるので、よほど優しいものです。曲のつくりが、メリハリ、構成を助けてくれます。
まず3分間、きちんと押さえることです。3分間、自分の手の中にきちんとおさえて1回つかんでくる。それが、まだバラバラという感じがします。3分、本当に通じる体力とか気力とか、そういったものがもてているのかが、初歩的な段階で問いたいことです。
表現というのは、最初はそれを出そうとしない限り出てきません。ビートとインパクトをつけ、表現を出すのです。そこからの展開を考えないともちません。課題曲と自由曲の意味は、課題曲でおさえておいて自由曲を聞かせるでも、課題曲で勝負するでも好きなように歌ってください。
ただ、今皆さんに自分の評価、他の人の評価までさせていますが、やはり後でのびる人をみていると、最初はうまくはなくとも、評価の目がきちんとできてくる人です。これは一つの条件だと思うのです。日本の場合どうしても外にでると甘くなります。ここも厳しいのでなくあたりまえで、外国なら最低基準です。
日本のプロの歌い手が向こうにいったらまずおどろくのは、これからやろうという人のレベルの高さです。そこで、自分のレベルを越しているか同じというぐらいです。層の厚さとそれから最低限のレベルの高さにおどろかされます。それはどこの国でもそうだと思います。日本はそういった面では特殊ですから、その中で自分の基準を身につけるというのは、難しいことなのです。だから最初は、他の人の歌を聞きながら、そういう基準をきちんと身につけていくことです。
それからどこでまとめるかということですが、日本人の場合、スタートラインに立てるのがもう2、3年以上たってからだと思いますので、マイナスからニュートラルにするところまでは、歌を大きくすることだけを考えてください。声を大きくしていくとか、音域を広くするのではなくて、歌の世界を大きくするということです。
大きくしたところで起きてくる失敗は正しい試みであり、失敗ではないです。ステージならともかく、こういうところでやる分には大歓迎です。当人が失敗と思ったりするかもしれないですが、失敗というのは、そういうことが試みれなかったこと、勇気をもてないことです。
試みようとしたが、そこで瞬間につかみきれなかったことでも、つかみきろうとしていたら失敗ではないのです。だから一番、まずいのは、そらすこと逃がすことです。そのくせがついている人がいます。そんなものは、本当のヴォーカリストがきたらふっとびます。
思いきりのないような歌は、人前に並べられません。力もないのに、小細工で近道をとろうとするのは、やめさないということです。今から安全を買ってどうなるのかということです。外でちょっと歌いだしたりプロの活動をしたりすると、こういうくせがついていくる人が多いのです。
外のところよりここの方が普通の基準でいったら、本当の力をつけていくための、ライブの場が成り立っていると思ってください。安全を買うというのは後ろ向きです。今までやったことをみせようということは実力がトップにある人はよいですが、キャリアもついていてそうではない人にとってみたら、先がないということになります。
今の皆さんの段階で、後ろをみていてどうなるかということです。重たいものや遠回りを避けたくなるのはわかりますが、歌ってしまえばそれなりに歌えるつもりでも、本当に音とたわむれたり表現を出すということは、そんな甘いところから出てくるものではないのです。やはり形を徹底してやっておくことです。
日常が音楽になっている世界と、歌うことがステージという国とはまったく違います。歩いていたらリズムをとっている、口ずさんだら歌になっているというのはあたりまえで、そこから特殊な才能のある音の世界の住人を歌い手の資格、第一歩と考えている国と、そこまでのことをやったらもう最高レベルだと思っているところとは違うのです。形というのは結局そこまで音が宿るところまでのことです。
皆さんのまわりからうまくなったと評価されるのは、私からいわせたら無難に歌えるようになったというだけです。全然、評価の基準が違う。無難にまとめているくらいなら、どんなタレントさんも同じことを同じレベルでだいたいできます。それで比べてどうかということです。その人が表われていないのは、意味のないことです。
自分のベースの上にしか表現というのは出てこないです。ですから、自分を歌のなかに煮つめていくことです。自分のだしを出し、味をつけることです。ベースの上にでてくる表現力は買えますが、表現の方に先走っているようなものは伝わりません。
このレベルでやっているから何となくうまいとか、気持ちよいと思いますが、音をはずさなかったり、最後までそれなりに歌いきったら、それだけです。もう一つ上のレベルの歌の圧倒的な存在感、個性からは、ふっとんでしまいます。
まとまりのよい歌を今からめざすのは、やめた方がよいと思います。当然ステージですからどこかでまとめないといけないのですが、本当に欲をいえば大きく大きくしていく中でまとまって、それで口ずさんでも歌になったなとか、楽にふわっとだしていてもそれが歌えると思った段階でまとめればよいのです。
まとめなくても、いつでもまとめられます。後でついてきます。いつかまとまってきます。今、器用にできないとか、ここで甘く出したいのにとか、いろいろ歌としてまとめる方が効果的だと頭で考えてしまうことがあると思うのです。ただ、それを頭で考えた通りにやったら、一つ上のレベルでは通用しないです。それは待った方がよいと思います。
とにかく大きくつくっていたら小さく、強くやっていたら優しくできるのと同じに、あるとき、できることがあるということです。全力でやっていて、あるとき力の抜きかたがわかってくると楽になります。最初から力を抜くことを考えても、本当に力が抜けるようになるのは無理です。
それは、どこで捉えていくかということを知るのです。それができないために基本ができない、形ができないという人が多いです。だから気をつけて欲しいのは、歌うことに急ぎすぎないことです。本質的なところをきちんととらえていくことが大切だと思います。
歌の結果はスポーツと違って、勝ち負けとかはないですから、自分がセッティングしたお客さんに対して、それが有効だと思った場合は、そちらの表現を重視することが必要になります。客あっての歌とは言いませんが、ヴォーカリストが勝手にやっていても伝わらなければ仕方がないわけです。
場によっても変わりますが、ただ、形とかトレーニングの基本ということのグループの場は、まっとうに考えていってください。そこで取り組んでいる歌に関しても、ここではストレートに歌っていく時期が必要です。逆にこういうところではそういうことをやっていて、自分の場にできるようなところでは変化をつけてみるなり、違う意味で試みればよいと思います。
人のフレーズでやるのは、なかなかわからなくて難しいのです。力がついてくればくるほど、何となくそういう感覚になって、それを音との戯れとか音楽的なフレーズと勘違いするのですが、上になればなるほど半分の人がそこで逆にわからなくなったり伸び悩んできます。単純な話です。音楽や歌を学んでいないからです。
私もコメントや気づいたことを一人に対して一言ずつ書いていますが、こうして聞いている人間のペンをとめられるかというだけの話です。
そのペンをとめられないなら、表現できていないぐらいに思えばよいです。
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ステージ実習②コメント「誰もいない海」360120
消化不良なのか、その消化の意味が、わかっているのかわかっていないのかというレベルの問題です。消化できないのは言うまでもなくて、当然トレーニングでやりなおすしかないし、プロセスでの発表会ですから、できるところまでで、あとは気力でやるしかないのです。
だから、いつもコメントするときは、できないことをやれとかできないことに対して下手だとか、全然だめだということは言っていません。2年先の一声をめざし、歌はその先においています。ただ、声以前の問題というのが、その段階その段階で、確かにあるから指摘しているのです。
簡単に言うと、1フレーズのことを確実にやろうとしているところです。そうすると1フレーズ目の「いまは」といったときの「いまは」が伝わっていた人は一人もいないわけです。これはよくないでしょう。
いつもレッスンで聞いていると、だいたい20人いたら5人ぐらいはいるわけです。それが結局、消化不良なのか、それとも消化ということがわからなくて歌ったつもりだったのかを問いたい。
歌詞を覚えるというだけでは、何の意味もないわけです。ことばやメロディを覚えるというのは、最低条件の一つにしかすぎません。何をやろうが伝わる分にはよいというのも、表現ができていたらという条件がつきます。
徐々に舞台にも慣れてくるでしょう。最初は、本当に一割の力も出せないものです。全部、覚えてきても立ったら真っ白になって、ドキドキしたりします。今もそういう状態の人もいますが、その状態のなかでも少しずつ、こなせるようになってくるところをみています。
気をつけないといけないのは、トレーニングをしているからといって、歌に対して鈍感になったり、音に対して感受性が働かなくなっていくのなら、どうしようもありません。トレーニングを一所懸命やるということは、あくまで、もっと歌、声、音が繊細にわかるためにやっていくことなのです。
体を使うとか息を吐くとかで一時、そういうふうになるかもしれないのですが、それは安心感、逃げ、さぼりで、それがここに出てしまうのは怠慢です。
まず、その一つが体でとる間と呼吸がバラバラであることです。これは、リズムや音感の問題ですが、基本的なテンポ感、タイムというより、パルスがありません。体内のメトロノームのことです。
アカペラでやったときは乱れてもよいということを想定でやっていますが、それは自分の呼吸でやるために、よい方に自由にずらすということであって、曲のなかでいい加減に変わるのは、だめです。今回の曲はゆっくりな曲で、自由曲もゆっくりな曲、やわらかい曲が多かったので、ことに目立ったのかもしれません。
今の段階では、歌の完成度は問わないのです。今日も歌をうまいとか下手といった基準では、みていません。ただ、やろうとしていた目的に対して、何を出しているかをみています。それが、ステージ実習の目的です。
そのときに、いろんなものは忘れていってもよいけれど、歌というものの流れとフレーズだけは忘れないことです。もし2年目、3年目に何かをオンしていくのだとしたら、最初に一つだけとりたいものが流れです。だから、その流れやフレーズにはある意味で、完成度が欲しい。
構成にしても、フレージングにしても、1曲を大きく捉えたときにどこでどうなって、どこで何をやってといくら頭で考えても仕方ないのです。完成というのはわかりにくいことばですが、だからといって考えなくてよいわけではありません。鏡をみて自分でおかしいなと思うような表情で、一番よいときの自分ではないとわかるような形で歌っていかないことです。
これでは、ステージの表情ということ以前に、声が出なくなります。体も使えなくなります。そこの問題でつっかかっている人というのは、5年たっても10年たっても、素人のカラオケ大会から抜け出せないでしょう。
だいたいうまくできているときというのは、外からみて美しいわけです。それは、顔がきれいだとかいうことではなく、動きそのものが調和して、その結果、その人の顔が輝き、ひきつけられるのです。鏡を見て、どこかに力が入っているとか、入ってないとかいうことも大切です。全体的なフレーズや流れというものが身体のなかできちんと理解されて動き出しているかどうかです。
昔は、勢いだけでも大きな声だけでもよいから思いっきりやってくれと言っていました。それも一理あります。要は、トレーニングですから何でもできない経験で打ちのめされて気づいていった方がよいわけです。中途半端でやったり、器のなかでまとめていくだけでは、気づけないことだからです。
トレーニングになっている、なっていないという前に、今は、気づいていくトレーニングをしているかチェックして欲しいです。そのトレーニングは今日、歌ったことでいろんなことが気づけるだけの歌い方ができたのかどうかということです。
他の人のを聞いてみても、今日は反面教師になることが多かったと思いますが、それと同じことを自分もやっていないのか問うてください。これは最低限のレベルで必要とされる耳のことです。
それから、先ほど言ったテンポについては、ずらしたり変えてもよいのですが、その前提として正しいパルスをもって歌っておく、そこできちんと基本をふまえておくことです。
器を破るには、型(定型)が入っていないとできません。自分で流れを曲を理解した上で、とっておくことです。詞のなかではずしてはいけないところはとっておき、そこまでの作業をしてから破っていかないと、とんでもない破り方、一人よがりのものになるだけです。
技術の確かさというのも問うていきたいのですが、崩れたときのリカバーでわかります。崩れるのはよいのです。1曲通して、完全に技術をみせられるとは思っていませんから、崩れたときにどう巻き返すかということです。
もちろん、崩れているかどうかに正しくそこで気づくということが前提です。これには、常に敏感になってやることです。聞いている人がしらけているかどうかのまえに、自分のなかでノリがよくなくなったことで気づくべきです。そして、終わってきていると思ったときに、どうすればよいかということです。つくるのです。音を、そして歌を、それがヴォーカリストでしょう。
サッカーでも走ったり動いているのが選手ではなく、プレーしているのが選手です。課題曲と自由曲の間で、何かを変えること、それを歌で説明しなくてはなりません。本当は、歌が違うだけでも大きく変えないといけないのですが、ほぼ一直線にそのまま同じようにいってしまう場合が多いのです。
展開もないのでは、あなたはどこへいった? と問われます。歌のなかでも変えないといけないというあたりに敏感になってください。全体的に雰囲気にのまれてしまう場合があるのですが、できるだけそれを破れるようにしてください。皆さんで同じように上達していくはずがありません。この閉塞状況を自分が破り、自分が断ち切るのだというつもりで、力をつけ、出すようにしてください。
最終的には、音域、音量をつくることより、自分のフレーズ、節をつくることです。自分の節がある人というのは聞けます。演歌であろうがゴスペルであろうが、何であろうが、独自のフレーズがあります。ところが、その節を本当の意味でつくるためには、フレーズは、息や体を理解していないと出てこないのです。いくらよいフレーズだといってまねしても、自分の節にはならないわけです。
いろんなものを体でよみ込んでいくような作業をしていくとわかってきます。長く伸ばしたり、高くしたりすると、大きなフレーズほど体の一体感がないと、聞いている人がついてきません。
お腹から切っていかないと、居心地のよいところでどうしても違ってくるところがあります。落ち着くところへ落ち着けてもらえず、聞く方が無理したり気を使うわけです。音程やリズム感の前に、体とか呼吸とかにこだわってください。
このまえ「メロディ」というだけで1時間やりました。そういうレッスンからきちんと応用してください。吸収をしていく時期に、その吸収したものをどういうふうに歌のなかでみせていくかということです。これは、外に出すときの力も必要です。歌は誰でも歌えるわけです。そうしたら、自分はどう歌うのか、その、どうをつけていかいなと意味がないです。
ステージ実習やライブ実習というのは一つの区切りですから、恥をかいても何か一つ、その回に試みたことを、自分のなかで消化試合にするのでなく、残していくことです。課題をどんどんつくって、一つの実験の場としてください。ここのなかでは数少ない、自分一人で5分間を自由に使える時間です。もっと心のなかで葛藤して決着をつけてから、その課題をもってきてください。
1週間前ぐらいに与えられても、はねのけられるぐらいの力は欲しいものです。自分のパターンにもちこんでやったら、すぐに一つの作品になること、場をくうぐらい、ものにできることです。
ジャンルを超えるというのは、技術のある人の共通の特徴だと思います。アーティストとしてのものをもっていたら、ゴスペルの歌を歌おうが、ジャズを歌おうが、同じことです。歌えないということであれば、それは基本的なところできちんとやっていないから入っていけないからでしょう。
皆さんの場合も習いに来ているというより、仕事だと考えてください。1曲与えられたら、これをきちんと仕上げるのが、ヴォーカリストの仕事です。それができなかったら、次の仕事はこないのです。
そのぐらいの意識でやれば、曲が好みではないというのは、振りきれるでしょう。同じ土台でいろんなことを勉強していくのに、課題曲は必要です。
BV座では自由に伴奏をつけさせてやらせていたのですが、どうもはずれてきているので、それならば同じ曲でやった方が勉強になります。
1曲にもっと時間をかけていってください。前の課題曲とか自由曲を、この場でやるのはよい試みです。本当は、半年に一回くらい、そういう試みをやってもらうと、何ができて何ができなくなっているのかがわかります。
トレーニングですから、その目的のために何かがある程度、犠牲になるのは仕方がないと思っています。音域を早く得るために声が犠牲になるよりも、声や体をつけていく時間がかかる分、音、リズムの感覚が磨かれる方がよいからです。その人の意識とやっていく方向性によって、いろんな仕上げ方がありますが、どこが仕上がりというのはないものです。正しく上達する方向であればよいのです。
声が全然足らないことについては、特に日本の女性の場合は大きな声が出る人は少ないものです。体が強い人は最初から声が出ています。これは2年をベースでやるのは無理で、音に5年、かかってもよいでしょう。その代わり同じヴォリューム感は保っていかないといけません。
声のない人は、5年かかっても構いません。ただ、他の人の2年のレベルを5年でいくとき、3年分たくさんのことを考えられるようになることが大切です。声ができたときに、よりたくさんのことをいれて歌えるようになるようにして、その年月を活かします。
そういう考え方をして、ゆっくりといけばよいのです。2年でやった人は、5年でやった人より歌うのが有利かというと、5年かかった人の方が絶対たくさん入っているわけです。年齢でなく本当のキャリアが大切です。歌というのは、そういうところが出てきます。
1曲を100回で歌えた人では、同じことを仕事でこなすとしたら普通の世界では100回でやれた人のの方が得でしょう。ところが芸ごとのプロセスにおいては、1000回やっている人の方が得なのです。一つのフレーズ、一つの曲に込められる怨念が違います。
ここでは、同情して聞かないことです。よいものはよい、つまらないものはつまらないのです。結局、そこで自分がどこに位置するのかということをつかみましょう。人や歌に点数というのはつけられないのです。その人のなかでつけるのです。
目をくもらさせないことです。大きく見開き、正しい基準を求めていくことです。自分に求められなかったら、最初は他に求めてもよいと思います。それをいずれ、自分の方にもってこないとだめです。何か一つでも、確実にプラスオンしていきましょう。ただいるだけでは、意味がありません。
心と体のもち方は、最近かなりトレーニングのなかでいっていますが、技がある前にその心の部分や体の部分が定まってないと、無理です。たとえば、その曲をひろってきたときに少なくとも歌詞の意味は叩き込んでおく、さらにその時代、背景、何でそのリズムやメロディが使われていたかまで、こだわっておかないと、やはり思いを込めても表現として出てこないのです。
それを知った上で、今風にあなた流に仕上げるようにしましょう。芸人なら一つの芸です。声よりも一つひとつの表現に、その歌が一つの表現に宿っているかどうかみたいなところにこだわりをもつことです。そのときそのとき伸びる人がいます。最初にばーっと伸びた人とか、はじめは大したことがないけれど、後からぐっと伸びる人とか、結局、あとに伸びていけばよいのです。自分との勝負です。ただ、歌うために背負っているものは、きちんとしてください。
トレーニング中に、うまくできないのはあたりまえです。トントンと調子よくいくトレーニングはないわけです。そうだとしたら、力のいらない低いレベルのトレーニングで満足していることだからです。うまくいかないのはあたりまえだという条件を受け入れて、それ以上の悪循環につくらないということです。
のどがおかしくなったり、うまく声がでなかったりしても、一つの点に戻ればよいのです。風邪をひいてばかりいても(本当はそれも管理しないといけないのですが)、そのぐらいで左右されるような精神力だはだめなのです。すべてのマイナスをプラスにするだけの力、プラスに転じる力を信じてやっていくことです。
一流の人というのは、ストレスとかプレッシャーを常に受けて、何度もスランプになり、それを何回もはねのけてきたのです。それが歌にも現われてきますから、何事も前向きに受け止めることです。つまらないことでも、たくさん悩んで、早くその次元を抜け出した方がよいと思います。
歌にもよるのですが、比較的、簡単に楽々と歌っている人に対しては、私はやはりその人自身から出てきたものではないような感じがして、訴えかけられないのです。プロらしい雰囲気はあるかもしれないし、ある程度、歌いこなせているから慣れているかもしれませんが、土着しているところ、根のところ、土のところがみえないから、本当に人の心は動かないのです。
たとえば、自分の好きな音楽だけではなく、今まで嫌いだったもの、聞いていないものを全部、聞いてみるというのも、自分の根のところの確認になります。若いときから自分が好きなものだけを聞いていくと、歌とか音楽をこういうものだと、狭い範囲で決めつけてしまいます。
それにこだわっていても、それは本当のこだわりではなく、どこかで与えられたものを何か盲目的にコピーしているみたいなものになってしまいます。底にあるものが本物ではないものということがみえてしまいます。それを一回、解放してみることです。
一番、正直なのは自分の感情であったり、心であったり、体そのものです。ところが感情や心でさえ、素直に表わすには努力が必要です。口先で歌っていても、歌という世界は成り立ってしまうので、見分けるのが難しいのです。それでは、歌もあなた自身も安っぽくなってしまいます。流行しているものとそっくりに自分で描いてみて、これが私の作品だといっているようなことになりかねないのです。
そして、自分の作風は、そういう世界だと思ってしまうのです。街の絵描きとして、それを皆に安く配ってやるとか、それなりにそのことで誇りをもてば、それでよいのですが、そこに自分が完成されているとか、うまいとか、一つの世界をもっていると思ってはだめでしょう。その人は、そこで止まってしまいます。アメリカのまねをしてオリジナルだと思っても、それはアメリカ人の佐渡おけさで、友好、紹介ではあっても、芸術でない。このへんが非常に難しいところです。
特にポップスは、何をやっても自由なので、1回ことばとか歌とか音をすべて疑ってみればよいと思います。あなたが何を伝えようとしているのかというところです。
課題曲で、一番見えなかったところは、その人にとって「海」とは何なのかということです。「夢が破れても」といっても全然、悔しくもないし、どうでもよいような夢でしかないというのでは、思い入れも何もそこで伝わらないのです。他の人が聞いても同じでしょう。一つひとつのことばでもよいし、メロディでもよいから何かを伝えなければ結局、その人が歌っている歌は何なのだということになります。
今、声の技術からみた声優さんの本を頼まれて、何人かの声優さんに会っています。アテレコというのがあり、これはアニメのキャラクターとか吹き替えとかで口を合せて動かすことです。音楽と似ていることは、何かに合せてことばをのせて、あてただけでは絶対に伝わらないことです。
とても感情移入もできないような動きでも、アニメのキャラクターの声を吹き込むことによって、息吹が入り、命が感じられるようになるのです。うまい人であれば、のことです。すると、その人は当然、命を感じていて、自分の呼吸をもっている。その呼吸をもっていながら、登場人物の口の形にあてるから、非常に難しいわけです。
単にあてるのではなく、自分の呼吸をもっていて、それから自分の表現をもっていて、そこに命を入れていく。そのキャラクターが後ろを向いていたり、口の形がみえないときにアテレコするときにも、力の差が出てくるわけです。
そのときは、口に合せなくてよいので、好きに間をとってよいからです。そうしたら、口に合せるときにも口がないところで表現を組み立てておいて、それから声に命を吹き込んでいくようなことをしないといけない。もちろん、プロはこれを1回で同時にやってしまいます。
そうしたら、ことばとか声だけのところで表現力をつけていく方がわかりやすいのです。歌のなかに入ってしまうと、何でも許されてしまって、何をやっても正解みたいなところがあるので、よほど基準をしっかりともっている人以外は、歌えているのかどうかとか、消化できているのか、できていないのかを知ることさえ、難しいと思います。だから差がどういうところでつくのかを、いつも考えることです。
たとえば、ことばの世界と歌の世界、音楽の世界というのは違います。「のどをしめて、のどの筋肉をゆるめる」という注意は、私にはわかるのですが、多くの人にはわからないでしょう。のどをしめるとか開けるというのは、現実的に考えると、のどをしめて声は出るわけです。
ただ、それはトレーニングの結果の感覚なのです。トレーニングのプロセスで声を身につけた人というのは、のどがあいて、高い声ほど低くイメージしているわけです。その上で何か表現をするときに、感情を入れるからとか、この音色を出すためにのどをしめるという段階をふんできているわけです。だから、プロセスでやることを、結果からもっていくと間違いになってくるということです。
できた人にとってみては、その音はあてていると感じているのですが、それができない人にはそれを感じるためにいろんなところに力が入ってきます。全く逆のことをやることになるのです。だから、ことばで教えてはいけないのです。ことばは言わないといけないけれど、そのことばから裏にあるイメージの方を知ることです。
イメージ、感覚、姿よりも音のイメージで捉えることです。要は、自分の体でそれをみることです。わからなければ相手の体でみてみるのもよいでしょう。それをもう一度、自分の体にあてはめます。そのときに、ことばがキーワードとなり、イメージのマップのように、自分にとって新しい感覚の図が描かれていくのです。
自分にあてはめようとしたら無理がきます。前提の条件が違います。その条件を整えていくのがヴォイストレーニングです。これは、リズムや音程でも同じで、読譜していくまえに、正確なパルスをもっていないといけません。必要なのは、リズムの練習をするまえに、60秒に60をきちんとカウントできるかどうかです。
それが狂っているところに、リズムはのらないわけです。音程の練習も、ドミソミドと音にあててみるだけでは何も生まれないのです。その下にリズムならリズムの感覚があって、正しくカウントされている部分と、その根底にビート感が流れていることで、そこは全部、無意識のうちに入っていて、実際の楽譜のなかには出てこないのです。ことばだけを受けとめていくと、トレーニングにはなりません。
結果というのは直球がくると思ったら、カーブがきた、だからバットを少し下げて打ってヒットにできた。そのときの使い方がよいのか悪いのかわからないが、それでヒットだったらよかったというところにあるわけです。その場で何が起きるかわからない。何が起きても自分の力を応用できるのが基本の力なわけです。
その場で起きていることに対応するのです。そのために、トレーニングというのは、直球がきたら直球をきちんと打つということです。そして、大切なのはそのときに筋をきちんとみて、よめるようにしておくという部分です。それを同時にやろうとすると、難しくなります。そこがプロと初心者との違いです。
一つのプロセスがあって結果が出る、その結果が次のプロセスになっていて、さらに次の結果があってと、そういうふうな組み立てです。それを一つひとつのトレーニングでうまく組んでいくことです。
自分のなかで相当なことを凝縮してやってみないといけません。たとえば、一つの授業のとり組みにおいて、トレーニングの中で椅子に座ってしまうときに何をしているか、頭の中のイメージは自由ですから、何か将来的なことを考えている人も違うでしょう。モティベートも時間の感覚も一人ひとり全く違ってきます。そういうとりくみの態度が表情とか表現に、やがて出てくるのです。
学べている人かどうかということです。学べている人になることが大切だと思います。そうでなければ、学べるようにしていくこと。それでもわからなければ、学べていると思う人をみることです。その人がどういうふうにやっているかを盗んでください。
学ばすことも教えることも、本当はできないのです。何とか学べるようにするところまでが、私のできることの精一杯のことです。
今、たくさんの本が出ています。本から何を読むかということ。以前の人は、一冊暗記するくらいの読み込みをしていました。では、自分ならどうしていくかということです。読むだけでなく、自分で書いてはじめてわかることもあります。全部、そうだと思うのです。だから書きなさいといっている。福島英の技術が欲しければ、同じだけ語り、書けるようになることが必要というわけです。
ここでいろんなことがあって大変というより、ここの与えていることをすべて吸収しつくすくらい、飢えていて、もっとたくさん欲しいという形でやっていかないと伸びません。課題もとりくみ方で差がつきます。そのちょっとしたことが日々の差になってきます。
ここに一日、出ないことは、とり返せない遅れとなるのです。ここでは必要ないと思ったものは、どんどん切っています。皆さんに与えれば与えるほど、私自身の勉強になってきます。全部、目を通してみているわけです。無駄なことならやりません。
このこと自体、確実にやらない人との一つの差をつくっていくし、それによって活字やことばの限界がわかってきます。スポーツと同じです。やってみてはじめてわかるのです。そのときにどうしても、ことばや意識が邪魔しているのは、とり組み方に問題があるような気がします。
それだけのことをやっていたら、ステージの態度や自信とか表情に出るはずです。
歌う内容よりも、その方をつくるのが大変です。でも、そうなれば、その人の語ることばが歌になるのです。頑張っている人がここで頑張るから、自分はそれ以上のことを出そうとしてください。その人たちがいて成立する場ということでつくっているので、それに対応できるだけの基本の部分は、きちんとやっていくべきでしょう。