一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン感想3 15814 707

レッスン感想2    15814    707

課題曲レッスン

ステージ実習

勝田特別講座

 

課題曲レッスン感想

 

カルメン・マキ「六月の詩」は私にわかりやすいことばの(表現の)運び方をしてくれている(村上進も本当にすばらしい)。この問題は、今後ずっと注意して聞いていきたい。しかしながら、聞いていると“詩・心”がまずあって、思わず口からこぼれてきたらメロディにのっていたと感じさせる優れた作品ばかり。良質のミュージカルなども昔はそういうものがあった。そうか、歌は本来そうだ、そうでなくてはいけない。そして、音を聞いてから歌い出しているという演歌は、本来、心をぶつけていくもののように思うが、謙虚であることが美徳とされる日本人ならではの手法として固定してしまったのか、ただ音感が伴わないのか疑問である。

 

岸洋子さんの歌を聞いたときには「あー大きな呼吸で歌っているなぁー」としかわからなかった。ニコラディバリと比べて聞いてみると、歌い方が全く違うのに気がつく。日本人受けする高低アクセントは耳に心地よく、まわりからそっとこちらの気持ちを盛り上げていくような感じだが、ニコラディバリの声は瞬時に相手の心をぎゅっとにぎってゆさぶるような迫力がある。語尾はあまり伸ばしてはいないのに、途切れ途切れになることはなく、大きなフレーズで歌っている。踏み込んで離した後、すぐにもとに戻って次のフレーズに入っているからなのだと思う。そのコントロールする力 or 集中力はすごいと思う。

 

美輪さんの「老女優は去りゆく」が恐ろしかった。セリフのところが特に。衣装や化粧道具が置かれ、花束で飾られた少し古びた楽屋が見えるようだった。そして、たった一つのライトが消え、音楽が止まった…そして永遠の闇に包まれる。

 

「マリー(HOP)という(STEP)娘と(JUMP)」という感じ(サビに入るために)。

「マリー〜暮らし」というフレーズを考えてみる。表現というものにしていかないといけない。練り込んでいくこと(今は、与えられた課題に対して、そのフレーズがすべてと思ってよいので)。オリジナルの声のポジションをつかむ。入れ込む。ここでやることは、つくるよりそこまでの器は体、心が動いてきてからフレーズをつくるプロセスを出していくこと。どこの部分をにぎっていてはなさないか、それをわからないではなさないこと。「マリーという娘と」の「と」で体から離れてしまった。抜けたら抜けたで“悲しい”で入れないと!と先生は言っていた。私は“悲しい”もバッチリ抜けていた。見事だ。②のクラスにうつってからフレーズを練り込むより、ずーっとそれ以前の問題で、音程をキィを合わせることに精一杯です。ついていけるようになりたい。すごく緊張する。声がうわずる。「ながれよ それは 私の心」(急流)のフレーズ回しでは、声ができている人とそうでない人の差がはっきりしていた。このフレーズがよかった人と「マリー~」のときのフレーズがよかった人があんまり一致してないのにおどろく。つくづく声だけではだめだと思う。今日の自分は両方ともいつもより悪いのが、自分でもよくわかった。

 

岸洋子の「ギターよ静かに眠れ」、「ここは日本語の発音で歌ってる、こっちの出だしはきちんと出てる」と言っていたが、違いがちっともわからなかった。ドメニコモドゥーニョの歌唱は、その深さがわかった。イヤートレーニングのレッスンを受けて耳を鍛える。

 

Georgia On My Mind」は死ぬほど歌いたい曲だけど、死ぬほど歌いたくない曲でもある。だって、“Georgia”が日本人には絶対言えないことばだとずっと思っていたから。そしてこの日、“Georgia”だけでなくすべてが死ぬほど難しいと思った。「腰にくる」というのもわかる。レイ・チャールズがとても柔らかく歌っているが、あれはすごい技術なのだね。

 

「心遥かに」は1オクターブある。ことばだけでなく、音のイメージで伝える。息はずっと流れている。「私の胸にだけ∨いきつづける」ブレスしてまた戻れること。1、2ヵ所、見せ場をつくり、後はつなげる。つなげることも実力。横の線で伸ばさず、縦線で。リズム、音の高さで入れてよいところが決まる(人によっても違う)。自分の呼吸と合わせる。なぜできないのか考えて、欠点の勉強、パターンをつかむ。テンションの高くなるキィの設定。高ければ体で支えたら揺らしやすい。逆に下はできないのでことばでやる。効果的な間、大きくあけることで次に強く出ることができる。

 

ミルバ「タンゴイタリアーノ」曲調の変わる部分のなめらかさ。

 

「Angelita」と一つに捉える。先生の「血にまみれた」ということばは、ことにイメージがあって伝わってきました。先生のラストの「Angelita」はすごい気が出ていて、そういうとき声がどんなでも、きれいな声より通用すると思った。何人かは感応していた。そういう一瞬で変わるノリって大切だと思う。

 

浅川マキさんの「夜があけたら」という曲は、確かに好きな歌ではないし、もっとはっきり言うと嫌いな世界だ。しかし、圧倒的に訴えるものがある。それがわかるのは、少なくとも「嫌だ」と感じるし、言っていることが“わかる”から。これが福島先生の言うところの“ヴォーカリストは失敗はあり得ない。その人の中に入っているものだから”ということなのだろうか。これは、その人の中から出てくるものは何が出てきても“その人”しか出てこないから、失敗とか成功とか、そういう区別が存在するものではないと僕は理解しているが、ではもしそうだとして、“その人”というか“らしさ”とは、いったい何なのだろうか。表現というものの原点がそこにあるのだろうか。もし、そこに表現の原点・本質があるとして、それではそれを取り出す方法は何なのだろうか? 息か? 体か? 心を使うことか? 心と体と息の統一ということが、そこに出てくるのだろうか? 聞く絶対量が不足しているのだろうが、今はわからない。しかし、何とかつかみたい。何をやっても「自分がそこにいる」となるのは、自分が出すぎているようであまり好きではないが(好きではないというのは己を純化しpureにしたところで歌ってみたいから)、そのまえにそこまでいってみたい。

 

渡辺真知子さんの「迷い道」を聞いているとき、同じポジションで展開しているということを感じた。“動かす”ということにつながるのだろうか。狩人の「あずさ2号」をこんなに大きな音量で聞いたことがなかったが、こんなに息を使っているというか出しているとは思わなかった。やはり息は歌うということの基本の要素なのだろう。頭で考えるのではなくて、体で考える。頭を使うのは、どう体に入れていくとか、どう使うとかいうとき。→自分の体の原理を知っておく必要がある。体の中にある音楽を見つける必要がある。次に、その音楽を取り出す必要がある。

 

クラウディオ・ビルラは、どこまでイメージしているのかわからないほど大きなフレーズをとっている。彼の体もまた、それについていけるのだけど、イメージがあるからこそ、そうしたいという思いで体をつくっていくのだともいえる。イメージさえもっていれば、それに向かって少しずつでもつくっていくことはできる。ワンフレーズの息のコントロールの仕方、声の使い方にこだわっていくことは大切だけど、全体の流れをみていくということも大切なのだ。

 

フレーズの距離感を感じる「Napoli」の「Na」を出すときは「Napoli fortuna mia」の「mia」の終わりまでの距離感を感じていなければならないし、もう一つ大きなまとまりで言えば、その次の4小節くらいまでも含めたところまでの距離感も感じていなければならない。

「恋は水色」は、ちょっと鳥肌がたった。フランス語(かな? シャンソンだから…)があんなにパワフルに聞こえたのは初めて。それに、このヴォーカリストのフレーズ(個性)、センスに、とても心ひかれました。

 

ドリスデイ、ふと聞くと「サラリ」と歌っているようだが、全然違う。私は英語の歌をよく歌う自分が、この深さ、3次元の感覚をすべて出せていないのだと思い知らされた。この立体感は、声量とは関係ないものだ。家に帰って改めて、アニタオデイやクリスコナーなど、白人系の女性ジャズヴォーカルを聞き直してみた。皆、あたりまえだが、立体的であり、さりげなく歌っているうよだが、しっかりつかむところはつかんでいる。「わかっているつもり」って恐ろしいと思った。彼女らが当然、立体的なのはわかっていたけれど、でも本当のところで、自分との違いをよりつめてはいなかったのだと思う。今日のレッスンは、そういった意味でも、とても役立った。

 

「恋人たち」はとてもいい歌だと思った。やっぱり愛がなかったら、歌えないと思った。現実の愛は壊れやすかったり不確実だったりするけど、歌の中に瞬間に真実が永遠に残ったりする。でも変わっていく人間も、またいとおしいものだと思う(私には複雑すぎて、人間はまだまだ難しい)。すばらしい歌に出会ったとき、人生が輝いたりする。

 

「その日から」は本当にすばらしかったです。何か、一つのkeyをもらえた気がします。私の疑問は“自分で歌うとき、感情に溺れてしまわないか…”ということ。表現どころではなくなってしまいそうです。ちゃんと体をつくって、耳を育てていくと、頭と体と口と…ちゃんと表現できるようになるのでしょうね…。また泣いてしまってもいいのかな…? そういえば、美空ひばりも「悲しい酒」では、いつも泣いていました。私は泣いてしまったら、歌えそうもありません。いろいろ大変そうです。

 

「Let's stay together」(ロバータフラック)息の音がすごくよく聞こえる。吸うときはもちろん、歌のフレーズの出だしとか区切りとか、強い息がみえる。「then tell…」という部分で、「フンッ」という感じでりきんで聞こえるところがあったが、のど声ではないそうだ(そう聞こえてしまうが)。強く踏み込むと、そういう声になるのだ。ゆったり聞こえる→フレーズ感が大きいから(リズムにも遅れていない)。私が同じフレーズをやったら、フレーズにだらっとしまりがなくなる。もしくは、かくかくと途切れ途切れになる。踏み込み、放しで、フレーズを大きくつくること。縦のラインを大きく、さらに踏み込み、放しの力で前へ前へと進めていく。「セ・シ・ボン」(イブモンタン)「セ」の音、深い。深さをまねようとすると、単に強く大きな声になる。この歌でその出だしだと、軽いテンポが壊れてしまう。あくまで深い「セ」、りきんでいなくて息が流れている。→やってみること。「タンゴ・イタリアーノ」(ミルバ)曲調が変わるところ、流れをスムーズにつなげるために踏み込み、放す。フレーズ感をもつ。それを支える強い息の力。「ゴ」で踏み込んでいる。次の「イタリアーノ」をやわらかく言うため。常に先を先を読んで踏み込んだり離したりしている。そうやってフレーズをつくっている。まだ、踏み込んでいる場所を全部、聴き取れていない。→やってみる。「パダン・パダン」(エディットピアフ)3拍子に聞こえない。→この歌が聞けていない。ほんとうはちゃんとリズムにのっている。自分でやってみたら、3拍子の感覚をまねできないだろう。→やってみる。「アコーディオン弾き」最後の「やめて!!」心の叫び→やってみる。ここまで聞いて、自分が歌を音楽として表現として聞いていないと気づく。楽しんでいないし、入り込んでいないし。でも入り込むと、技術の細かいところを聞き逃してしまいそうだ。ちゃんと聞くのは難しい。「群衆」セリフ(気持ち)→強弱→フレーズ、リズム、音。今日のクラスに出て一番よかったのは、ピアフとクイーンの3拍子の歌を聴き比べて、相方に共通する一流のフレーズ感に気づけたこと。2曲とも、まるで違う種類の曲だし、クイーンの方は伴奏やコーラスで派手に飾っているが、ヴォーカルの部分には共通性があった。かくかくとした3拍子になっていなくて、きちんとことばの意味を考えたフレーズになっている。それがきちんと3拍子におさまっているのだ。そのおさまり方を細かく説明することはできないが、きっと3拍子の連続の中で、ここの部分だけはかっちり拍子に合わせるべきだというポイントがあるのかなと思った。そこさえおさえていれば、他の部分は自由に動かせるのだろうか。そのポイントは、踏み込みによって生まれるもののような気がする。

 

 

一流と二流の差は大きい。一流は込められているものが違う。ジャンルに関係なく、わかるものがみつかる。(「その日から」オペラ セルパンティア(?)より)歌の背景、貧乏な娘(ルイーズ?)は、詩人志望の男性に恋していたが、その仲を親に反対され、ついに二人はかけおちして幸せな日々が訪れたときの歌。マリアカラスと中丸三千繪を聴き比べてみる。

マリアカラス→ドラマティックな歌い手と言われている。聞いてみて、出だしはとても丸みのある声で始まった。中盤の体からふり絞るようなヴォーカルは、愛を貫き通す娘の堅く強い決意、やっとの思いで勝ち取ったこのときを、どんなことがあっても守るという心境が感じられた。激しい激しい愛情の表現。その後の深さは、最後の方に抑えたフレーズで、感極まる感じだ。私も、目頭が熱くなるのを抑え切れなかった。

中丸三千繪→リリカル(叙情的)な歌い手と言われている。(福島先生も“日本人離れした深い声”と認める。声だけ聞くと、日本人だとわからないほどだという。)はっきりと美しさが伝わってくる歌だ。マリアカラスの愛情に比べると、中丸さんからは“恋心”を感じた。心踊るような希望に満ちていながらも“好きで切なくてたまらない”“幸せすぎて怖い”という娘の気持ちが、切々と伝わってくる。とても繊細な表現だ。自分が一緒に歌っている気持ちになると、泣きそうになる。本当に泣いてしまいたい気持ちを、必死でこらえながら聞いていた。神にその愛の確かさを誓い、祈りを捧げているかのようにも感じた。日本人のアリアを聞いて、こんなに感動したのは初めてだった。

この歌は、マリアカラスよりも、ずっとずっと私自身に近い気がして、すっと音に入れた。というか、もう完全にぐいっと引っ張り込まれた。何という表現力だろうか。声、歌だけで、ここまで私は心を動かされてしまった。これこそが歌、音楽を表現するということか…! とにかく、気持ちがこもっている、迫力があった。

この曲を中丸さんが練習していたときのことを話していただき、またまた感銘を受けた。指導された先生が中丸さんに歌って聞かせたとき、たった一つのフレーズで、中丸さんはその場に泣き崩れたという。彼女は、その1フレーズですべてを聴き取ったのだ…!

 

 「愛の讃歌」をミルバで聞いたのは初めてだった。彼女もまた強い表現をする。最後の方の朗々と歌い上げるところは、強い愛の誓いをしている感じを受ける。低く、弱い部分で、またぐっとひきつけられる。エディットピアフ→初めてこれを聞いたとき、私は頭をガーンとなぐられた感じだった。そのときは、声のよさと何ともいえない雰囲気が、私をすごくひきつけた。今日、聞く意味を確認しながら聞くと、本当に切なくなった。録音状態があまりによくないのも、哀愁をかもし出す助けとしている。“讃歌”なのに、悲しい。その身をかけて、その真実を愛に求めるピアフの気持ちが、歌そのものとなっている気がするからだ。“いつか、その身は滅びても、そしてそのときは悲しくつらいけど、この愛だけは永遠のものとたたえるべきもの”そんなふうにピアフが歌っている気がする。

 

テネシーワルツ」

フレーズまわし。「I was waltzing with my darling」キィ設定、低かった。出だしって難しい。サビの部分の方が声を思い切り出せる分だけやりやすい。出だしは深いところから息を流すように心がけてみよう。決して力まないこと。「waltzing」と「darling」で、もっと踏み込みたかった。だらーっとした。縦のラインの深さとしぜんに前へ押し出されるような勢いをつくりたい。自分が歌っててつらいとき、客はもっとつらい。型にはまらず、しぜんに歌を受け入れて表現すること。難しい!! 人のフレーズを聞くと、型をつくってることがわかる。気持ちの動きが伴わないこと、個性でなく型になってしまう気がする。「さりにし夢 あのテネシーワルツ」後半で息浅くなり、リズムが崩れた。余計な力が入っていて、息がちゃんと入ってこない。力を抜いてブレスするトレーニング強化。「さっりにっしいー ゆめぇ~」とやるとダサイ。口先、口中での加工(ひびき)はやめる。マイクに入らない。そんなものに頼らない。体全体で言いたいことを伝える。

 

 

「タンゴイタリアーノ」

「クエストタンゴイタリアーノ」(ミルバ)今日は、フレーズをまわしても、自分の声の判断ができてない。「こう表現したい」というのがまずない。気づいたと言えば、肩に力が入ったことくらいか。あとは、ミルバの表面的なことをまねてみようとしただけ(音程とか、言い回しとか)。その奥にある、厚味や体の使われ方をイメージしなかった。そこをイメージできなければ、本物に近づけない。「ほんとに今の歌い方でいいの? 自分で納得・満足できるの?」という問いかけは、声を出すたびにしていきたい。抽象的な問いだし、答えは即座に「NO」としか言いようがないことはわかりきっているのだが。自分がまだまだ、一流の歌い手からも私の理想からもかけはなれた位置にいることを絶えず言ってやらないと、私はすぐ手を抜く。「こんな程度までやっとけばいいや」と思ってしまう。ほんとに今のでいいの?→いやよくない→どこが? 自分が今一番、とり組まねばならない課題は何か(たくさんある課題の中で)。トレーニングを真剣にやっていればわかるはず。それを深く突っ込んでやる(by トレーナー)。フレーズまわし、自分の順番できっちり入り込む。思い切り出し切る。勝負に出る。音に溶け込む。伝えるんだという気持ち。まず今は、「思いっ切り」やってみよう。少々、肩に力が入っても、姿勢がくずれても、声が裏返っても、まず思いっ切りやる。思い切り声を出す。思い切り歌の中に入り込む。思い切り伝えようとしてみる。それでできなかったところを、一つひとつ課題にしていこう。レッスンでかける歌。なぜその歌を聞く必要があるのか、その歌のどこを聞かなければならないのか考える。

 

 

 

 

 

ステージ実習感想   

 

 

私が“歌”について、いつも感じているあるイメージを詩にして皆さんにお話したいと思います。このイメージをご紹介する方が、実際の経験をお話しするより、皆さんはもとより、私にも多くを語ってくれると思うからです。日本から、東京の代々木、このCスタから地球の中心を突き抜けて、ブラジルまで皆さんが毎日毎日“穴”を掘り続けている、そんなイメージで聞いてください。

 

「ブラジル行きのマンホール」

ブラジル行きのマンホール 僕は今日もせっせと掘っている 

ブラジル行きのマンホール 僕は今日もせっせと掘っている 

 

真夜中になると 僕はマンホールの底に寝ころんで

夜空を見上げる

 

白い満月 白い三日月 白い十六夜

降りそそぐ星の光 三万年前の星の光 三億年前の星の光

 

だけど本当は何もない

冷たい闇、無限大の闇、真空の闇、虚空の闇

真空の虚空に逆さまにぶらさがっている地球

真空の虚空に逆さまにぶらさがっている僕等

本当に何もない

 

僕は深呼吸をして目を閉じる

静かに目を閉じてみる

そして耳をすます

失意を越えた場所 敵意を越えた場所 悪意を越えた場所 善意を越えた場所 喜劇を越えた場所 悲劇を越えた場所 わたしを越えた場所 あなたを越えた場所 人々を越えた場所 記憶を越えた場所 忘却を越えた場所 時間を越えた場所 空間を越えた場所 宇宙を越えた場所 果てしない闇を越えた場所 

そんな場所へ僕は耳をすます そこでは誰かが歌っている(泣いているんだろうか)

そこでは確かに誰かが歌っている

小さな声で、本当に小さな声で

ささやかな声で、本当にささやかな声で

誰かが歌っている

 

僕は目をあける、そして立ち上がる そしてまた、穴を掘り始める

朝も昼も夜も朝も、春も夏も秋も冬も

ブラジル行きのマンホール 僕は今日もせっせと掘っている(有留)

 

「飛び込んで行こう」 私が生まれ、およそ十億秒という時間が過ぎ去った。確実に、その一秒一秒を生きてきたはずだ。なのに、この十億秒という時間は、まるで私に試タ感を与えず、実体のない風のように、私という実体を追い越して行ってしまった。実体である私は、自分が新たに作り出した偽りの時間の中で、もがきながら生きる。必死で手を伸ばす。何度か、あの風のような時間をつかみかけたかと思った。けれど、あっという間に、風は私を吹き飛ばし、更に更に、光へとかけ抜けて行ってしまう。偽りの時間だけが、実体の私の中に積み重なった。偽りの時間には限界がある。自分で限界と決めたとき、それはやって来る。偽りの時間にピリオドを打つとき、あの風のような時間は、すぐ近くに吹いて来る。さぁ、その中に飛び込んで行こう。今まで、もがき苦しんだのは何のためだ?生きる実体としての自分が、本物の時間の中で生きるためではないのか?

 

今、あの風のような時間は、私のすぐ近くを吹いている。ようやく、ここまでたどりついたんだ。

何をためらうことがある。何を遠慮することがある。さぁ、飛び込んで行こう。飛び込んで行こう。

 

私にとって、つかみたい本物の時間とは、歌に関わる時間なのです。

 

 

「レモン哀歌」朗読 

朗読を選んだのは、ことばをどれだけはっきりと深い声で人に伝えられるか試してみたかったから。

第1回目のモノト-クとは全然違って、人の世界を表現することの難しさを知った。何度も何度も読み、情景をうかべ、どういう気持ちのことばか考えてみた。レモン哀歌という、詩の中のことばは感情を表すものより情景を表すものの方が多い。だからさびしいとかうれしいとか感情を表すことばがあったなら、そのことばに感情をこめて言ってしまったかもしれない。でもそういうことばがなかったから自分のイメ-ジする情景をうかべながら一つひとつのことばや詩の流れをあらわそうと思った。

表現するってどういうことだろう? この疑問は常にあった。

先生が「私の今話していることなんて半分は嘘ですよ」「歌手はもうひとりの自分が後ろで操っているような感覚」といったこと、

テレビで美輪明宏が「歌っているとき涙ながしてるのは嘘泣きよ、そりゃ感情はいってるから全部嘘ってことはないわ」いったら、和田アキ子が「じゃあ私は泣くと歌えなくなってしまうのだけど…」といったとき、「それはアマチュアよプロじゃないわ」といっていた。

ドリアン助川さんがステ-ジにあがる前にものすごい量のことばをいれこみ、ステ-ジが終わったら忘れるといってたこと。

舞台役者が「セリフはステ-ジで忘れるために覚えるもの」といっていたこと。

といろいろあるが、表現する、人に伝えるには自分の体の中にすべていれこまなければ出てこないのだと思った。自分のことばになるというよりも自分の中に入りこんで自分になってしまうぐらい読み込まなければ出てこないのだと思う。

第1回のモノト-クは、自分のことばと感情が一致して、もう一人の自分が後ろにいるという感覚はなかった。私そのものがそこにいて演技するとか表現するとかというより、ただ目の前にいる人たちに伝えようという気持ちだけだった。読みこんでことばが自分の中に入り込んだ先に何があるのか。

2回目のモノト-クではわからなかった。ことばは私の中にはいりこんでいなかった。表現するということは、見ている人、聞いている人の心をどんな形であれ動かすものだと思うし、自分がそれをできたかどうかはわからなかった。一番前の列に座っていると、ステ-ジにいる人の息づかいや表情、声が真っすぐにとんでくる人と、どこか違う方にそれていってしまう人がいるのがわかる。人のステ-ジをみていて「私はあんなかんじなのかな」と思ったりもした。自己陶酔して感情も声もステ-ジでとまった人、何か伝わってきそうなんだけどステ-ジの上からでてこない人、声がこちらにひびいてくる人。たぶん、プロとして表現している人たちは自分の声が表情が感情がみえているのだろう。自分なのだけど他人みたいにみているのだろう。そういうことが後ろで操っているということなのかなと思った。自分の声をもっと鍛えて自由自在につかいたい。お腹から息がでても、それに声がのっていくというのはなかなかうまくいかないものだ。自分の出しやすいところならできても、感情が強まったりすると口先だけの味気ない声になってしまう。吸った息が全部声になってグワ-ンとでていったらどんなに気持ちいいだろう。そのためには本当に少しずつでもいいから前に進んでいけるようやっていきたい。

 

 

今回のステージで、私の一番の目標は「自分の100%を出し切る」ことだった。出せたろうか? いや出せてない。中途半端をやった。「これくらいでいいだろう」と自分で自分に線引きをしていた。ステージの大きさ、客の数など、実際のAスタの規模以上のものをイメージしていなかった。自分の表現の理想イメージも、私のずっと先にある最高目標をイメージしなかった。イメージとしては、自分の100%どころか、500、600%をイメージしなければ、100%は出てこない。自分の「これぐらいでいいだろう」グセは、根深く私の中にあるが、これがある限り、自分の100%以上は伸びないということだ。100%に満たないかもしれない。自分で自分の限界を破っていくこと。制限を取り払っていくこと。100%を出し切ることさえできない私が、500、600やってみようとするのは無理だが、イメージをもつことはできる。本物、一流のものに触れ、500、600の世界を知ること。自分と比較して、そこへの距離を実感すること。500、600になるのに、あとどれだけのパワー、息の力、人間的魅力などが必要か、その必要性を肌で感じていきたい。CDを家で聞いても、なかなか一流のすごさがわからない。ヴォリュームのせいか? だからとにかく、ここで流れている歌、レッスン中に流れる歌を集中して体に入れよう。あとで家で買って聞けばいいやと思っていると、体に入らない。その場で、そのすごさを感じる。それと、このクラスにたくさん出よう。足りないところは、ビデオレンタルで補う。ビデオは、家で聞くより、一流のすごさを実感しやすい。

 

先生の「客をくどくためにステージがある」ということばが印象に残っている。自分のことは棚上げして、他の人の表現を見ていると、つくづく「魅力」ということについて考えさせられる。その人にしかない魅力。その人が思いきり体ごと表現したときの、その人だけの魅力。たとえば、他の人がかっこつけてたり、自分に酔っているだけだったり、型にはまっていたりしているのを見たときは、あんなに白けた気分になるのに、なぜ自分がステージに立つと、同じような恥ずかしいことをしてしまうんだろう。自分を客観視するのは難しい。いつでも丸ごと自分のままでいたい。さらに自分を超える魅力をイメージして、そこに挑戦していきたい。

魅力という視点から、今回の何人かのステージを見ると、ステージ前に隣の人と話しているときの方が、よっぽど魅力的だなぁと思う人が少なくない。ステージだと思うと、その人の頭の中にある「ステージ」という型が幅をきかせて、本来の魅力をすみへ押しやってしまうのか。また「印象に残るステージ」と「魅力あるステージ、もう一回見たくなるステージ、その人と握手したくなるステージ」は少し違うなと思った。

たとえば、声を張り上げれば、一瞬びくっとして印象には残るだろう。涙を見せたり、体を震わせたりすれば、それはそれで覚えていると思う。でもだからと言って、ステージのあと、その人と個人的に親しくなりたい、話してみたいとは思わない。その人の魅力にひかれて覚えているわけではないからだ。逆に、何も飾らず、淡々としゃべっていた人に妙に好感をもったりもする。つくっていない、その人のオリジナルのキャラクターが前に出ているからか? まぁ、魅力にはいろんな種類があるし、そのうちのいくつかがミックスされてできる魅力もあるだろうし、変に限定するのはよそう。ただ、感じよう。体に入れよう。私の魅力について考えよう。本人は感情移入を目一杯しているつもりなのに、伝わってこない人がいるのはどうしてか。あれが「前に出ていない」ということなのか。自分の中にこもってしまっているんだろうか。それとも感情移入していると錯覚しているんだろうか。本当に感情が表現にくっついたときというのは、すごくしぜんな印象を客に与えるんじゃないだろうか。大げさなとかハデなという印象が目立ってしまうときは、まだ本当に感じられていないのだろう。先生の「ことばに肉がついている」ということばの意味がよくわからなかった。いくつかの言い換えをして説明してくれたと思うが、耳に残っていない。たぶん、私がそれをできていないから、理解できないのだろう。「ことばに肉をつける」とはうどうすることなのか。ことばと気持ちを一体化させるということだろうか。メリハリとか構造ということか。いろいろ考えてみる。

 

 

 

 

 

 

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勝田特別講座感想

 

 

今回は、自分に関する短い話をステージで話すということをやった。心から楽しいとか嬉しいとか感情の入っている話ができれば、そういう空気は見ている人に伝わっていくのだと思った。自分が興奮していれば、しぜんと息も深くなり声も通るようになる。ステージの上はどんなに短い時間でも自分一人の世界だから、思う存分、使わなくてはと思う。声の高低による心理効果を知るというレッスンはおもしろかった。自分の声の高さで話しはじめないと、すべてのテンポが狂ってきてしまうということ。自分の声の高さで話さないと、表情も感情もストレートに出てこない。自分の話のリズムもつかめなくなる。これは、普段から意識していた方がよさそうだ。

人の声を聞いていると、その人がパッと出てくるような声の高さというものがある。そういうときは、体に力が入っていないし、聞いていてとてもしぜんだ。今は、全く自分の自由というより型というものを与えられて、その中で皆、表現しようとしているけど、体の動きに対して、すぐ反応できる人もいれば鈍い人もいる。言われたことや、やることに対する反応は、早い方がよい。早ければ早いほど、それに対して余裕が出てくる。遅いと体の動きはこうで、どういう表情をして何を話してとすべてバラバラになってしまって表現どころではない。

人と同じものを与えられるなかで、自分をどう出すかということを考えなければいけない。舞台度胸は必要だ。ベースが何もなくて度胸だけはあるというのは困るけど、出てしまったらやるしかないという気持ちは必要だと思う。ぶつかっていく中で、自分の一番しぜんな状態を出せるようになれば、演じることもできると思う。引いてしまわず、とにかく前に出ていくこと。

 

魅力ある人ってどういう人のことをいうのか。「魅力ある人は魅力ある人だよ、華のある人だよ。」と言ってしまえばそれまでだけど、常日頃、私もそういう人間になりたいと思っていると、理由を知りたくなるものだ。こういうセミナーに出ると毎回、同じような人が参加していて、前に出たとき、印象に残る人と残らない人がいる。勝田氏が個性や表現力を出していくには、頭や鬼の部分よりも、花と乗りの部分を磨きなさいと言っていた。多くの人にみられるステージに立って、また見たいと思われることが、どんなに大事かわかる。同じつくりでできている人間だけども内からにじみ出てくるものがこれほど表現に出てきてしまうって少しこわい気がする。毎日の生活を一所懸命、生きていかなきゃなと思わされる。人は人なのだけれど、ステージに立つとき、自分という人間を知らないと(全部わかるなんてことはないが)、自分を表現することなんてできない。自然体な自分でいないと立っている姿も仕草も声も表情も、すべておかしくなっていく。話していることが嘘の話しでも、その人が自然体でいれば、ちっとも違和感はない。ステージは、特別な空間かもしれないけど、どこにいても変わらない自分がいるということを知っていれば大丈夫。

 

この人は学んでいない! もし勝田先生が全員にやらせようと気を使ってくれなかったら、俺は座ってただけで終わってた。だから、メモしたことはあるが学んでいない。自分の真反対の課題が出て、トライすべきだった。脇役で終わって3500円払っただけで終えてしまった。この3時間、息を吐いてた方が上達してたと感じるのは、自分が学びとってやろうという心がなかったという証拠だ。自分の真反対の課題が出てたのに、このシートに何も書くべきじゃなかった。けれど、悔しいので、メモから家で反復だけはしておく。

 

「花」「乗り」「頭」「鬼」とりあえず「花」と「乗り」を鍛える。まず自分が興奮すること。アクションがことばより一瞬、先に出る。拍手はもらえるだけもらうこと。手に役割をもたせると、鼻や頭など余計なところを触るくせがとれる。客からチャチャを入れられたら感謝して、誰も傷つかないようにうまく返すこと。これまで表現として出すには、まず中味(頭、鬼の部分)がしっかりつまった上で、あふれ出さなければいけないものだと思っていたが、勝手に出てくるものではなくて、やっぱり自分の意志でみせていかなければいけないことがわかった。「花」「乗り」をどんどん鍛える=「ふり」が身につけば現実になる。私は「中身がまだまだ勉強中で充分でないから」とただ失敗するのがこわくて逃げていただけだということを痛感した。どんどんやってみて、失敗してなおしていけばよいのだから、人前に出ることを楽しみに生活してみようと思う。というより、本当はすごく人前で何かやるのが好きだったくせに、何かのきっかけでやらなくなっただけの話で、ちょっと忘れてたんだ。どんどん自分のあるべき姿がみえてくるようでおもしろい。

 

芸能の世界では、花(光、第一印象が決まる)、乗り(目線、ジェスチャー、声のメリハリ、間)、頭(観客の反応を見て、アプローチの仕方を工夫したりする)、鬼(やりぬくという気迫、欲望)が必要。まず、花と乗りをやる。いくら頭と鬼があっても、花と乗りがなければ表現にならず評価のしようがない。乗りをよくするには、興奮する。入り口から舞台まで、笑顔で観客を身ながら(目線をやりながら)歩く。大股で元気よく[Look]。そして舞台に立ったら微笑んで[Smile]、話す[Talk]。あいさつが終わって話を切り出すときは、手と足を出す。ことばよりも動作の方が先にくるか同時くらいがしぜん。ジェスチャーにつられてことばが出る。頭の中に描いている情景をジェスチャーで表現する。

 

締めは、これで終わりだという合図をする。出していた手と足をそろえる仕草をしてから礼。頭を下げている間、拍手をもらえる。あまり早くあげない。5つぐらい数えるとよい。頭を下げている間に笑顔をつくっておいて、顔を上げるときは笑顔で。少し会釈してから退場。笑顔で立ち去る。絶句したり言い間違えたりしても、しまったという顔を見せない。絶句してしまったときは、手と目線を変え、その変える間に考えれば気づかれない。言い間違えても、知らぬ顔で言い直す。人の前に立つとあがってしまう。

 

頭で「そうか」と思ってわかった気になっても、実際にやると全然できない。まず、笑顔のつもりなのに顔がひきつったまま硬直してしまう。笑おうとするのに、頬の筋肉がぴくぴくしてうまく笑えない。声も震えてしまう。あがらないふりをするには、かなりの訓練がいると思います。それから、イメージすることがとても大切だと思った。ジェスチャーをしながら話すときに、全然ジェスチャーができなかった。興奮しながら話しているふりをしようとするのに、あがってしまって口はまわらないし、頭の中には何も浮かんでこない。頭の中に情景があるからジェスチャーも出てくるのだと思います。それにしても、どうしてこんなに緊張してしまうのだろうか。情けなくて落ち込んでしまいます。

 

人前に出たら攻め続けること。観客のパワーに負けないように!! 本の引用をする場合のジェスチャーに注意。自分のことばとの切り替えがわかるように。本を閉じて置く動作を入れるだけで、場面が観えてくる。「プレゼンターは聞き手から意欲を引き出し、その実現をサポートする演出家である」自分を売りたいときの自己紹介は、必ずフルネームで!! 意欲的な印象を与える。舞い上がってしまわないように。最初の一歩が自分のリズムで出せればあとはついてくる。話の要点をはっきりさせる。最終的に何が言いたいのかがはっきりしていれば、余分なものと話をふくらませるための必要なものとの区別がつけられるようになる。ウケをねらいすぎると、戻ってこれなくなるので注意すること。本番は、アドリブに徹する。聞き手と何かが通わなければ失敗だと思う。ステージにあがったからには、その時間と空間は自分の責任で動かしていく意欲が絶対に必要!! 

 

人前に出て何かを表現するということは、ステージの外で考えていることと全然違う。緊張するのは、うまくやろうとするからだと前回、言われたが、確かにそうだ。自分以上のものをみせようとするからだろう。そうならないために、力と自信をつけなくてはならない。ステージの上はそこに出るものを皆みて、いいとかよくなかったとか言うわけで、誰も陰の努力をみるわけではない。陰の部分が光になって出なければ何の意味もない。ステージでの勝負だ。本番に強いということは大切なことだけど、自分でこれだけやったという思いをもって、ステージにあがることは自信につながると思う。歌い手のステージはすべて一人でもたせなくてはいけない。お客が一人だろうと何千人だろうと、自分一人の責任で動かしていかなくてはいけないすごい世界だ。

 

一番大切なのは「聞き手への貢献」それには自己のベストを表現することが与えることになる。→何か残すこと。心、行動に何らかの変化、影響を与えることに、人前でパフォーマンスする意味がある。コトバだけでは人の心は動かない。「見える」話をするとおもしろい。そのためのジェスチャーである。ジェスチャーとは、体全体で表現するということ。どんな人のトークも、数十秒でアドバイス、おもしろくしてしまうまでには、いったい何千人?見てきたのでしょう。表現にかけてきた年月、経験は誰よりもケタ外れに多いことでしょう。