表現とトレーニングの本質における関わり 741
「だけの人間」
3人ライブを終えて
自分を語れ 迷える子羊へ
研究所のあり方について(きっと最後の他人のためのアーティスト論)
ラスト・レッスン
10年たったら、見てごらん 371212
ーー
表現とトレーニングの本質における関わりについて
まねしない(オリジナリティ)、かくれない(前に出す、出る)、群れない(壊す、新鮮、緊張)
体のキャパシティを広げる
感性を磨く
横の流れ(t-時間軸)に縦の踏み込み(e-インパクト空間凝縮・拡張)を入れること。
のどに頼った歌い方から、ボディ主体の息からの表現にすること。
「上虚下実」が基本です。上体を脱力して、その重みを下半身におとして安定させることです。のどやその周辺に力が入り、うまく声が出せないのは力みがあるためですが、これは、心理的な要因とともに、他人の形をそのまままねよう、他の型をうつしかえようとして体がうまく使えなくなるためです。
脱力することで、姿勢、フォームより、感性に重きをおき、内部での動きを感じられるようにすることが大切なのです。形を教えることは指導ではありません。
内実に気づく契機を与えることが必要です。
一流の人の歌は声にも動きにも個性があります。声は、鋭くもやわらかくコクも切れもあるという一見、矛盾したものを包み込む包括力があります。まさに、感性を大切にとり込んでいるから、そうなってきたのです。そして、誰も他のアーティストのまねはできません。
感性は誰にでもあるのですが、それがレッスンやトレーニングで鈍らされてはなりません。それを磨き、さらに体が動くように結びつけていかなくてはいけません。
10代なら、形から体に入れ、そこから感性を働かす方法も有効ですが、20代からは、心から入るべきです。心がやわらかくなくては、何ごとも身につかないのです。
ところが多くの人は、頭で自分の狭い価値観や考えだけで判断するのです。心から入るには経験も大いに役立ちますが、そのなかの本質のものを捉えなくては、邪魔をします。それでできるのでしたら、もうとっくにできているのではないでしょうか。
声も歌も作品という結果が問われる以上、できていかないのは、やはり自分の何かが定まらないみえていない、狭いのだと考え、少しでも先達やまわりの人から学び気づく努力をすることが大切です。こういう芸事は、誰も一人では絶対に成し得ないのです。新たに経験し、出しつくすことで、とり込む場が必要です。
それとともに、少しでもできている人をもっと認めることです。自分の考え方をもつのも、一つのことに長く関わっていることは、確かに何もないよりもよいのですが、同時に自分を今の自分に制限しているものに気づくことです。他人だけでなく、自分をも常に疑い、真実を求めることだけが、あなたの器を広げ、不可能を可能にしていきます。出された作品は、正直ですべてを語っています。しかし、いつも目を洗っていないと、それがみえなくなるのです。
体の器、キャパシティを広げ、感性を豊かにする努力は、並大抵のものではありません。ものごとの中枢よりも末端、隠れた本質よりも表に出た現象ばかりを人はみて、まねようとします。いくら一流をまねても、まねたものは二流にさえなれないのです。そこでは、中枢で捉えたことで末端が、本質で捉えたことで表われた作品が、どう変わるのかが問われているからです。
これは体も心も、声もことばも同じです。私はステージの歌から歌の出てくる心を、トレーニングでは、体のなかからいずれ出てくるであろう声や表現をみています。それとともに、その人の表情やことば、意志や意欲を、五感で感じています。所詮、私の心にさえ働きかけないようなものは、どこでもやっていけるわけがないのです。一つくらい、人の心を動かすものをもちなさい。そこから、表現の、そして自分の出し方のヒントが生まれます。
蛇足ですが、“今のままの私でよい”といった類の本を読むのはやめなさい。そんなものから得た自己肯定の自信など、何のパワーにもなりません。
だいたい、それを書いた人は、決して今のままの私でよいと思って生きなかった時期があるから、そう思えるようになって書いているのですよ。
(結果だけまねてもだめです)。今のままの私でよいなら、なぜその人は、何百枚も原稿を書くのですか。
誰でも電柱のようにボーッと立って、社会の役に立っていたら、それはそれでとても偉いことなのですけど、あなた、電柱になれますか?
ー
最期のうた
ぼくの のど仏を 誰かが
ハシで はさんで みる日が
いつか 必ず くる だろう
そのとき ぼくの のど仏は
さいごの 音 を
発して くずれ る だろう
それは、きっと 何の
輝きも 深み もない
音だ ろう
(それを ぼく だけ は
やはり 聞くこと が
できない のだ)
(30年先か3日先か、いつかきっとのうたVo9)
ー
「だけの人間」
いつも思う
見ているだけの人間
読んでいるだけの人間
来ているだけの人間
聴いているだけの人間
教えられているだけの人間
やっているだけの人間
考えているだけの人間
知っているだけの人間
この会報でもわかるだろう
読んでいるだけの人間
たくさんの想いを伝えようとしている人間-
その差は無限なのをわからない人間
わかってもやらない人間
ーー
ヴォーカルを学ぶということについて
少しくらい歌のうまい人、器用な人はいくらでもいます。しかし、プロとしてそれを仕事にするには、多くを学び、体得し、人に確かに与えられるようにならなくてはなりません。
ヴォーカルというと、スター性、カリスマ性のもと、早熟な天才たちの折りなす世界のように考えがちです。しかし、スポーツ選手と同様、そこまでには普通の人からみると想像を絶するトレーニングと、いくつもの壁を乗り越える克起心が必要なのです。
しかし、そのことで自分の世界を表現できる喜びは、何ごとにも代えがたいから、トレーニングを楽しめるのです。
さて、私の研究所にも多くのトレーニング志願者が訪れます。
なかには本で述べられたことを実際に体験したいという人もいます。
しかし、大切なことは、表現することにあるのです。そうでない人は、本当の意味では学べません。
プロやプロレベルの人もきます。ある程度の活動をやってきた人は、それをやっていない人よりも、慣れているということではすぐれています。
しかし、それは歌や表現としてすぐれていることとは全く違います。
人は、人と出会わなくては変わりません。
歌は、それを成り立たせる音やことばと出会わなくては変わりません。
そういう人の作品は、その人なりにこれまで経験したり、試みたりしたことでの上に成り立っているのです。
一流や本物に比べて何かが足らないと思ったならば、自分を白紙にして(殺して)学ばなくては、何も変えられないし、それ以上の上達のできないことを知ることで基本をやることで、なくなってしまうような個性や才能などは、その人の力になるのではなく、その人の本当の力を制限してしまっているに過ぎないのです。
話を戻しまして、日本のヴォーカリストは、早熟なタレントと変わらなくなりつつあります。そうではない人にとって、それを手本に学ぶことは困難になりつつあるといってもよいでしょう。少しくらいルックスがあって踊多くのれても、そういう判断基準でいくと、人はヴォーカリストになれる道は閉ざされています。
しかし、基本に戻って考えるならば、ヴォーカリストは、自分の声を音にのせることによって、人に何かを与える仕事です。そのことができれば、人が集まらないわけがないのですから、できていないのは自分の力不足にすべての原因があります。タレントに負けるくらいしか音や声の力を活かし切れていないのですから、あたりまえのことです。
見ていると、少々やっているだけで、人よりすぐれていると思い上がり、基本のトレーニングも固めずに自己流でやり、他から学ぶことをせず、自分を認める仲間内だけで満足してしまうのが、学べない人のパターンです。
本当の力不足を知ったら、やはり自分で思い込んでいることを一度捨てて、トレーニングで自分の可能性をより大きく活かすために、力を練り込む時期を耐えることです。
(このプロが少ないのが、この国の悲劇です)。
絶対的な力の差が出せるところまでやらなくては、もったいないのです。
多くの才能ある人々が、たかだか1、2年で学べなくなるのは、本当に残念なことです。
歌にもスポーツの記録ように、現実の力をつきつけられる場が必要と思って、私は研究所をつくりました。
このスタジオには、こう記してあります。
「あなたがきてここが変わらなければ
あなたってなんだ
君がくることで このときがもりあがらないなら
君ってなんだ
あなたがいないことで 何も変わらなければ
あなたってなんだ」
もっとも大切なことは、ポピュラーのヴォカリストであっても、スポーツ選手、ダンサーや舞踏と同じく基本のトレーニングによって、体と感覚を磨かなくては、本当の上達はできないということです。
そのためには、人と音楽との出会いが必要なのです(それを場と私は言っています)。
いや、出会いつづけることがキャリアといってもよいでしょう。
アーティストは、どこかで2年間は、どっぷりとその世界につかり、何やかんや合わせて10年分は、ー努力(当人がそういう言葉で言わなくとも)して、一つの世界をつくり出しているのです。
ーー
3人ライブを終えて
僕は幸せにおもう。
幸せは幸せなりに、悲しいものだ。
人の思いが重なると、重くなる。
悲しいに嬉しいという字をあててもやはり悲しい。
思い出と友だちは、もちすぎない方がよい。
5年でここまでやるつもりが、7年かかった。
あと3年で「日本」を変えるつもりだが、5年はかかりそうだ。
ここの50人が、そうであれば、10年で「世界」を変えることができる、だろうに。
いったい、何をみているのだろう。
そこに幸せも思いもあり、人もいるのに
思い出と友だちをもちすぎないように?
悲しみと喜びをもちすぎないように?
目を閉じて、たまにあけるのが人生のおいしい味わい方かもしれない。
目をかっと見開いて、生きるしかない者にとっては、
何が大切なのだろう。
P.S.
ロビーで会ったあなたは「小心者の海外一人旅」を読んでた。
入り口のよこにいた君は「人生が楽しくなるヒント」という本を抱えていた。
ライブで会ったボクは、メモを離そうとしなかった。
どうして?!
3人の勝手なヴォーカリストとよきピアニスト、
よきスタッフと偉そうな観客たちに乾杯-!
7年越しの亡霊たちにも、花とワインの香を-。
ー
自分を語れ! 迷える子羊へ
私は、月に何誌ものメディアに出ているせいで、いろいろと噂が流れているらしく、それもつまらないことなので、弁明しておく。
また、音楽関係はもとより、芸術や政財界、ビジネスマン、マスコミメディア、いろんなところに人脈もある。ただ、私の人脈は、とりまき連中でなく、本人そのものであるから、そういう人は多くを語らない(私も語ったことはない)。
これは、日本の音楽界の人間の“うすざ”のせいであり、私が本物や才能を求めるから仕方がない。その代わり、単なる血縁、土縁、BV縁などはうすくてよい。
すべて才能縁であり、ここでも、ただの学生、ただの主婦、ただのサラリーマンは、お客さんだと思っている。
歌っていれば、いいってものではなく、歌が問題だ。
短い一生ですべての人と握手はできない。この若さで勝負しつつ、そんな世界に私はいない。
だから、ここでも教えない。ただ走る。明日に向かって走る。
研究所というハンディキャップは、自分の力をつけるために課している。
仕事や親の世話などでハンデイを抱えて、ここに来ている人に負けないように。
うしろは振り返っているつもりはない。
だから、20代でそのへんで歌っている人が現役で、私のことを歌をやめた人と思っている人がいるが、スポーツ選手と同じにしないで欲しい。
私の生涯において、歌は20年たってようやく本当に学べてきている実感がある。
日本の歌い手の多くは、不思議なことに音に出会わず終わってしまうのだから。
人を肩書きで分け、人のことに生きるよりも、自分の肩書きをつくり、自分のことに生きるうにしたらどうか-私なぞを手本にするより、一流の人に学びたまえ。
私のできることは、生きること、それが歌で、表現で、だから精神論というのだろうか-
それ以外の何を学べようか-
私の声は歌であり、体は楽器である。
私が表現するオ能は、音から学んだ、音を伝えるのは何と難しいのだろう。
今も学んでいる。
ここにきている人に願いたい。
自分で考えて、自分で判断せよ
自分を語り、自分を伝えよ
自分で聴き、自分で発せよ
自分の夢や未来に向かい、音楽の行く手を想像せよ
あなたの口から今日出ることばが、生涯のあなたのことば、生涯を決める。
そのことを知りたまえ。
今は、秒生きる時間の感覚が、生涯のあなたの時間の使い方と同じになる。
私から学べるものは、歌であり声である。日本人を超えた楽器であり、感覚である。
世界に通用する耳であり、音の創出力である。
私の表現は、ことば、声。
洞察力、判断力、企画力、人脈は、すべて、それに付随したものである。
神の与えた音の残響のようなものであるから、深さが違う。
私は、自分の体のなかから、皆と同じく、神が与えてくれ、
自分がともに磨いた身体で、声をとり出し、発する。
それが私に、世界を解釈させ、人間を理解させ、
自分の行為をときに糾弾する。
声が出ても歌がうまくても、それではやっていけないし、
やっていくなら、そんなものは大して必要ないかもしれない。
自分を知ることは永遠の謎だが、自分の才能は自分を知るきっかけになる。
しかし、多くの人は器用に人より早くできることを才能と思う。
歌い手は、人よりも100倍時間がかかっても、
何倍かわからないほどすぐれたものとして歌えたらよい。
すると、何百倍も時間をかけられることが才能となる。
才能がなくて、誰がたかだか声や歌に何百倍も時間と精力をかけられるものか。
表現にならないのは、表現になっている人よりも、それが足らないというのが、99パーセントの答えである。
できないのは、努力が足らないという真実、それを音で出会うのが音楽であろう。
声や音に出会いにきた人が、そのドアも開けずに戻るのはさみしい。
しかし、重いドアを開けるのは、選ばれた人たちだけなのだ。
誰が選ぶ?
自分だ!
ーー
研究所のあり方について
(きっと最後の他人のためのアーティスト論)
トレーニングですから内輪でよいのですが、だからこそ意識は外に問うていなくてはいけないのです。意識とは、現実よりも大きな想像の空間を自由に飛びまわり、そこから現実を見据えます。
観客に一般の人を入れたら刺激されるなどという人がいますが、同じ人間なのですから、内も外もありません。そんなことで左右されるレベルでは、何も生まれようがないのです。
ライブハウスでも日本では一般には、結局、内輪の顔見知りが店の客でしょう。友人や、ちょっと知り合った人に無理に来てもらって、仲間で群れているところに、表現も批評性も存在しないのです。
結局、作品でなく、人をみにきて、それをつまみにしているのですから、暇なことです。それしかないから、何の必要性もなく戯れ遊んでいるのでしょう。
飲みニケーション、あるいは主婦がちょっとご自慢のお菓子をつくって食べてなどと押しつけているのにすぎません。だから、誰も文句をつけず、楽しかったというでしょう。
研究所内は、同人誌でよいのです。習作の場ですから、やれる力と自信をつければよいのです。内も外もありません。自分の基準もあいまいなまま、外に出てもこの日本ではさしさわりのないおべっかか、本音に達しない無難な賛辞といったあいさつことばしか返ってこないでしょう。
誰も本当の意味では、言ってくれない、みてくれない、わかっていないのです。
本物のプロの批評家がいないからです。いや、いなくなりつつあるからです。
本当は、誰にどう認められているかが、何よりも大切なのです。
だからこそ、ここは厳しい場としてあらねばならないのです。
認めるところは大いに認めても、それをきちんと判断するべきでしょう。
世界やアートにつながっている意識をもてば、厳しくなるのはあたりまえです。
音楽は、その名に値するなら、時代も空間も超えるべきです。
「内輪だから応援してやればよい」そうですか。
本当の応援とは、誰もみれないこと、まして言いたくないことを言ってやることでしょう。
これから伸びたい人に対しては。一。
そして、まだその土俵にあがっていない人には、いい加減な応答で迎えにいかず、黙して待つべきです。
だから、ここを出た人はやっていけばよいのです。
やっていくしかない。どう、場や時間を活かすかも含めて、その人の才能です。
問えばよいのです。
ただ、一般に問うということでやるなら、それはメジャーなことですから、何千人と集めているアーティストと競うことになるでしょう。
研究所でも、100名のライブは、すぐできます。
それ以上のこともできず、外で問うているなどとは言えないのです。
そういう人は、単に長くやっているという唯一の理由でそれを続けているのであり、それは「長く」という価値、これこそ内輪で同時代を生きたという経験の共有でしかないもの、時空に限定され埋もれてしまうだけのものなのです。
日本のライブがライブたりえない理由です。
だから、多くの人は10年ももちません。ファンがファンをよんで増えていくはずが、先細りしていく。待っている人がいないから、出たがりだけでは、その気力が失せたときに終わるのです。
こんなものはアーティスト活動でも何でもありません。
最後まで勘違いできる幸せな人以外は、もっと内面を見つめることです。
そういう人がアートとか表現を全くの素人に語るから困るのです。
そういう人は、自分の世界で一人で自己満足で作品をつくっていればよいのです。
それも、最高のぜいたくの一つでしょう。その代わり、自分の仕事を全力でやることです。
歌というのは、本当の力がなければどこかでまとめなくてはなりません。
神が手をさしだし、まとめてくれるまで努力しなくては、本物になりません。
そんなことさえ、わからないのでしょうか。
そこまで問わないのなら、誰でも歌えます。
あなたでも、ちょっと優秀なプロデューサーとバンドとスポンサーがつけば、CDも出せ、ライプもできるでしょう。しかし、それだけのものです。
ところが多くの人は、それだけのことしか考えられないし、それだけのことでさえ、すべて他人に頼ろうとするから、そのチャンスもそれだけのものもきません。
それなら働いて貯めたお金で自主制作している人の方がましです(ましというだけで、当人以外に意味がないのは同じですが、ただ自分にも意味がないことをやっているよりも、ましということです)。
自分を超えたところに意味をもつように意味が宿ってくるように意味をつかんでいないし、つかもうとしない、だから、クローズになるのです。
おのずとまとまってくるまで、歌に精進した人だけが、やがて自分の歌を歌えるのです。
同じように、プロはどこかがプロのレベルにあればプロの活動はできるのですから、自分で見極めたところに才能の出口をもってくるべきです。
私は、ここで日本のアーティストの可能性を限定したくありませんから、そして世界をみてきたことより、少しは世界との差がわかるつもりですから、日本人の歌や音声表現に理想を、ある意味では確信をもっています。かつてのモータウンのように、新しい時代は、こういう確信の重なりがもたらすのです。
人材がいないのではなく、音の世界でトレーニングをつんで、人材がでてくるように、しかし、誰もがそうなりたいと思っているようであって、本当にそうなろうともなれるだけのことをしていない、だから、つかめないでいるだけだということもわかっています。
どうしてなれる努力をしないかというと、自分とその才能を知らないからです。それをここは、本当にわかりやすくオープンにしています。ものにするには、それなりの意志と力が必要です。
それにしても、昨今のアーティストをめざす人の、ポリシーのなさには閉口します。
自分の意志、ことばをもたない人たち、口から、ステレオタイプのことばしか出ない人は、頭の中も同じなのでしょう。力がないのに無理に力を求めたり、働かせようとする(だいたい、そういう人は一人でできないから群れます)より、自分の絶対的な力をつけることを考えないのはどうしてでしょうか。
問わないのはなぜですか。力って、何ですか。
きっと、アーティストはアーティストとして生まれつくもので、なろうとしてなるものではないのでしょう。あなたの毎日の表情、口から出てくることば、内に煮つまる思考がそうでなければそうではないのです。
それなら、まず、自分に与えられた仕事を300パーセントすること、それがプロを知るためのきっかけです。
努力をすればプロにはなれます。
力も金も、普通でない生き方も、そしてそんなつまらないものよりも、真実や本質を自分の本性を表現をもってとり出そうとしていれば。
でもそれもしないで、デビューやステージを求めるのにタレントの素養もない人っていったい…。
もっと考え、もっと行動し、もっと叫びなさい。
-しかし、人間ってちょっとやったつもりになると、自分は違うと思ったり、人を見下したり、先生ぶってきたり、愚かなものですね-!
それであんた、いったい誰に求められているんです?
どこへいこうとしているんです?
ー
ラスト・レッスン
年に2~3人ほどだが、ここをやめるラストのレッスンで涙する人がいる。
声はひっかかっても、なんて美しいことなのか。
その美しさを僕はねたみ、眼を熱くする。
もちろん、2年いたくらいでは、涙なぞ出ない。
それ以上にがんばってきた人たちの眼だ。
ここに思い出を与え、ここをつくりあげ、
そして変えてきた人たちだ。
他人ごとではない。
君らもやがて、退くだろう。
僕もやがて退くだろう。
そのとき、こんなにも美しい涙を流せるだろうか。
やりつくした涙か、後悔の涙か。
どちらにせよ、
それは生きてきた証であり、
生きている証だ。
かわいた瞳で生きるよりはよい。
もう一度、自分に問おう。
どこで生きるのか。
いつ生きるのか。
クライマックスは、
いつも、今、このときだ。
同じところにいて同じ空気を吸っていて、
そして何も感じられない、
鈍感なその他大勢の人たち、
君らはいつ目覚めるのか、
いつまで寝ているのか。
いずれ、僕らも人生から退くときがくるだろう。
そのときを
ラスト・レッスンにしたい。
できるだろうか。
ー
10年たったら、見てごらん
どうして本質がみれないのだろう。
権威や名に負けてしまうのだろう。
ここにあなたが入ってきたのも、本やレクチャーのことばのためだったのか。
思っていたのとは違うとか、合わないとか。
それを正し、合うことにしていくのが、あなたの修行だろう。
遼う本が出たら、その著者のところへいくのか?
そんなのは出会いでも何でもない。
ここでも僕と出会っていないのだから、別れもない。
どうして僕と(客と)出会う努力をしないのだろう。
僕はいつも聞こうとしているのに。
僕がみても身につく能力はもっているのに、自分で身につかないように邪魔している。
群れとレッテル貼り大好きの日本人から抜け出すことに負け、
アーティスト精神をつかめないから、いつまでも他人の歌を他人のふりして歌っている。
これだけを覚えておいて欲しい。
身につく人は、必ず一ヵ所に一つのことを残してきた。
だから、次のチャンスもくる。
いるところにすべてきちんと足跡をとどめてきた。
そこにいるトップレベルの人よりもできていないのは、まだまだ学べることがある。
そこで詰め切れない。いや、詰め切らないのだ。
だから、そんな人生だ。
だから、10年たっても変わらない。
それを変えるために来たのではないのか。
それが、たった2、3年であきらめるなんて。
ここで一曲も人を感動させずに、やった気になるなといいたい。
全力を尽くしていますか-
朝から晩まであなたが、これまで一番がんばったときよりも、
今日をもっとがんばっていますか。
あるレベル以上のことをキープするには、
それがあたりまえにならなくてはいけないのに、
他のせいにして、他を頼ろうとしていませんか。
なぜ、先人を乗り越えようとしないのか。
先人の教えはそのためにあるのに、
なぜ日本人がすでに限界だったことを二度追いするのか、
昔の才能のあった歌い手でさえできなかった過ちを追うのか。
彼らは、その才能で成功したゆえ、見えず、日本を超せなかった、
超える必要がなかったからだ。
それに比べ、君らは超えない限り、どこにも出れないのに。
なのに、どうしてそれを頼るのか。
すぐに聞いたらわかる“声”のことさえ
(ここに入るときはわかったことがわからなくなり、本質とは関係のないよけいなことばかり学んだ(ふりをした)がために、見えなくなる。
自分に厳しかった分、初心が正しかったなんてことでどうする。
ここが世界で評価され、日本で権威づけられ、メジャーになり、
ライブハウスができ、お偉い人にこぞって、評価されたら、君らは僕につくのか。
そのときは、およびじゃない。
だって、最初に(この2年に)わからないこと(できなくともよいが)が、
ここで詰めることを放り投げてしまったのに、実現するわけがない。
基本なくして、力はつかない。
もったいないことだが、所詮、それはその程度のものでしかなかったのだ。
10年たったら見てごらん。
自分で研究すること、そのためにここを利用すること。
自分が自分になるために、歌や声に学ぶ。欧米人と日本人を研究しつくした基本この型の意味が、
どうしてここに入ってまでわからないのだろう。
ゼロからはじめたものだけが、何もないところから打ち立てたものだけが、
時代を学問を超えられる。
そこに立ち会いつづけたものだけが、栄誉と次の時代を切り拓く。
その若さで、傍観者になってどうする。
10年たって悔いないよう、権威と名にこびる生き方を改めよ。
(僕も僕の内ではなく、うしろにあるものに出会おうとする人を嫌う)。
10年たったら身についていた、日本で稀有(ゆう)の体現をした人間のことを、
少しは本気で信じてみたら、どうだろう-。
そういう人は、やりもせず自分にはできなかったのだという言い訳で、
長い余生を歩む。
悔いてやり直すことさえない夢のない人生。
何が違うかって、原点が違う。
僕は20年生きて与えてもらったことを、あとの20年で与えて生きようと思った。
5年ほど、余計にかかっているだけだ。それでもたった5年のオーバー、
人生の1割くらい余分にかかっても、どうってことあるまい。
早く原点に立つことだ。
声や歌をやるとは、そういうことだと思っていた。
まさか、声や歌自体を高めようなどと思ったことはなかった。
それって単なる趣味じゃないか。
英語が身につく人は英語が好きな人ではなく、それを使う人だろう。
使ってなんぼじゃないか。
10年たったらみてごらん。
100年たったらではない。
あと50年ももたな肉体や声を少しは惜しみたまえ。
世界で一流、本物とは、30年からの評価であり、
いかなる天才も10年の仕込みなく世に出た人はいない。
ここで僕が本当の意味で卒業を認めたのは、3名しかいない。
彼らの狂信的語録を再録する。
「福島の言うことのすべてを疑い、消し去れば、真理のあることが、おのずとここに、みえてくる」
「『ハイ、ララ』は、天才的発想である。」
「福島は“鏡”である。期待せず、ハサミも入れず、根のはるのを写し出す」
身に余ることばである。
これは私の自慢でも何でもなく、私と出会ったことの意味を活かせてもらえた実例である。
10年たつ必要のなかった人たちである。
人は真理のためには、殉ずることができる。
人に“期待せず”わがままな私が、命を預けられる先をみつけられ、幸せである感謝で、ここは続いている。
ちゃんと卒業してごらん。
皆に惜しまれつつ。
それがアーティストだろう。
教えて欲しければ、与えられたければ、精一杯、与えようとしたらよい。
そのことこそが教えであり、そのことにおいて、すでに豊かな果実だ。
育てずもぎとろうとするだけのその精神の貧しさが、あなたの今の力、顔、歌、声に現われている。
だから、できないだけだ。
誰よりも一所懸命やること。
それを胸張っていえる人は、No.1の努力は、どこでもNo.1ゆえ一人であり、
あなたがそうであるかどうかだけなのだ。
そう生きていることが、まわりを勇気(元気でもよい)づけ、
あなたの本当に欠けがえのない財になる。
そしたら、おのずと声も歌もほほえみ出す。
ー
アテンダンスシートへの返答
(このなかから答えを捜してください)
ゲーム世代
ゲーム基盤の上での攻略法をオリジナリテイといって競っているようでは、あきれてしまう。
それをつくった人の手のひらでおどっているだけなのに、読者も読んでいるつもりが、考えることさえ踊らされていては仕方ない。
ちゃんとあなたがあなたでいて、それでよいのかはあなたの心が伝えているのだろう。
僕が声を選んだのは、何よりも確かに歌い出すからだ。あるときは歌よりも。
美食
めしをくう。何を食べたいーたった一日に数回しか食べられないのに何かを選び、同時に他のものを捨てる。これもオリジナリティだ。
ただ、料理人は、他に満足できぬところが自分をしてつくらしめることになる。自分でこだわるものを研究したりつくるときは、めしも抜かしているかもしれない。それこそ、生きるための、めしだろう。
材料の切れはしで5分でつくったからといって、めしを粗末にしているのではない。他のものを命をより生かすために食うのは、人間だけではない。
存在と感覚
私であることが同時に伝わることを存在感という。それをもつものを表現者というが、その手段を人は見た眼、ジャンルとレッテルを貼り、分類し言い逃れる。
見えないものが見えないまま伝わる世界をことばは垣間見せるだけにすぎない。
ブランドとオリジナリティ
僕は結果として、某ブランド(3つ)の服が多いようだが、その店で買おうとしているのでなく、服と出会うとその名がついているだけだ。
メーカーなどどうでもよいと思っている。
ファッションには全く凝っていなくとも知識もないし流行もしらない)
他のことと同じく、みているなかで必然の出会いが必ず起こる。
コムデギャルソンであろうとなかろうと関係ない。
出会えば、その辺におちている枯葉でもつけるだろう。
まず、それが何かを主張していること、そしてそれに働きかけられた自分が、それをより生かせること、それを生かしてやることで、自分もより生かされる。
すると、枯葉もファッションとなる、歌となる。
(わからない人は、主張も生かすも「かっこよい」とでもおきかえてみたら。活け花でもやってみたら。)
人間が服を着ているのであり、服のなかに人間が入っているのでないのだ。
こんな程度のこと(コムの服に他のものをアレンジすること)が、オリジナリティなわけがない。
癒しの本
スタジオの個々のものを選ぶ自由は否定しないし、いろんな人間がいるようにいろんな本やものがあってよい。でも、一つのことばにいろんな意味があり、“彼ら”を上からみても仕方ない。その時点が始発点になっていないことを問題としているのである。
つまり、出発点とは行動のきっかけになってはじめて出発点という。
結果、その人は変わる。幸せになる。運やツキもまわってくる。
それをトレーニング(修行)ができているという。
そうならないのは、すべて自分に原因がある。
出発点も(よく転機などということばでかっこつけて逃げる人ばかりだが)他を選べばよいという浅はかなものではない。
読書
読んで元気になって(なった気分で)おわり、また来年の同じ頃に同じことを繰り返す。僕は、アーティストの顔や眼をしていないのはアーティストでないし、幸せな顔をしていない人は、幸せでないと思う。何かをやっていることにおいて自分を生きている人は誰でもアーティストだし、アーティストだった。
しかし多くの人が、自らそれを放棄するのは、その方が楽だからだ。
もう一つ、本でどんなに読もうと対話しようと、現実にそれが生かされていない、そういう生活ができていないのなら、それはやはり“違う”のではないだろうかー。
鏡を見、心を見、内なる神の声を聞く。しかし、そのためには目を洗い、五感をとぎすますことだ。
部分と全体の完成
全体は部分であり、部分は全体である。矛盾するものではない。
私は、フレーズの完成の条件として、完結せず、方向性、構成、展開、音色を条件としている。
全体の流れを大切にしても、部分の完成度をいい加減にしているかどうかは、その歌で、わかるだろう。
ー