一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

鑑賞レポート2 芸術文化 26968字  746

鑑賞レポート2

 

【五代目 古今亭志ん生

 

彼の落後をいくつか聞いていた。なんだか可愛く、ゆるせてしまうキャラクターでことばを聞きとりにくいところもあるが独特のフレーズを持っていて、フレーズの力で笑ってしまう時もある。独自のことばで聞き手の気持ちを引き込み、グッと力を込めて歯切れよく言い放ち、グッと空白を(タメ)作っておいて聞き手のイメージをふくらませ、めぐらせるあたりは歌に共通点がありそうだ。噺を忠実に聴かせる「さくしん派」との比較が解りやすく面白い。一方は演歌の忠実さ、志ん生にはブルースの自由さがある。(つらい生活を笑い飛ばす当たりも)すごいヴォーカリストたちを知るにつれ感じたことがあるが、自分の歌にしてしまう、歌と一体になってしまう感覚が志ん生にもある。ジャニスと志ん生には共通点がある。その瞬間の気持ち、ライブを大切にする人だ。歌を伝えることはもちろんだが、それを通して自分の存在、人間というものを表現する、ということか。

 

貧困だから創造力が育つのか、天性なのか。奥さんの苦労を考えるといろいろと恐ろしいが、芸のためならということばが昔あったのがうなづけた実話だった。望ましいとは思わないが、そこまで芸に人生を賭けられる志ん生の芸人根性は凄い。人生は自分が「よし」としてしまったらそれ以上は望めないしくみになっているように思う。今以上の幸福や成功は有り得ない、なんてことはそうそう言えるものじゃないと私は思う。もっと上がという気持ちが、何かを自分に与えられてどんな方法を取ろうとしても前に、上に進もうとする人間を創るんじゃないだろうか。進む方向にもいろいろあるが、志ん生さんは芸のことでどんどん上へと駆けていったんじゃないかな。

他のことは全部といっていいほど捨てて。しかし、他のものをすべて捨てる(失う)勇気のある人には、後からそのすべてが追うようにしてついてくるんじゃないかと思う。志ん生さんちは死ぬまでずっーと貧乏だったのだろうか。まぁお金がもしなかったとしても、目では見えにくいが、何か強いもので繋がれている夫婦が、家族があったような気がしました。芸だけに没頭できるということは、自分のありのままで生きられるということは、それを支えてるものがしっかりと固まっているということを示しているんだと思います。

それを固めるということは、それ(固い絆)だけを強めようという行動よりも、何か違ったものから生まれるものの方が強いと思います。自分の弟子たちが自分を語り、そして多くの人々に伝えようとしている、この現実を見ても志ん生さんの生きざまや志、信念が残した影響力なんだなぁと思います。自分が自分であることを舞台の上で表現していく。人が受け入れてくれるくれないは、後からついてくるもんだ。そんなふうにしてとにかく一所懸命だったんだろうと思う。作品を創るのと自分自身をありのまま表現する。どちらが楽とか大変とかということではなく、本人がどこに重きを置いて、どう価値を見出すか、というところに見るべき質は眠っているように想う。

 

その人本人がどんな人間でどう生きてきたかは、その人のまわりを見ればわかると思うし、素晴らしい人々のまわりにはどんな人が集まってくるかってことは、本人以上にまわりの人たちも痛く感じることではないだろうか。映像の中で奥さんが「あの人も捨てたもんじゃないねェ」と、はおりをわざわざ忘れに来てくれた師匠たちを見て言ったあのことばがそれを表しているし、奥さんは本人の倍、嬉しかったんじゃないだろうか。何かに一途な人生、素晴らしいと思う。何に誠実に生きるか、それは本人が選ぶことだし、大事に守っていくものも本人がそうと決めていくことだ。これが人生に何か残せたり、人々に何か与えられる唯一の方法じゃないだろうか。自分で選び、そしてそれを自分自身で守ったり、創ったりしていく。そんな一途さが人の心を動かすんだろうと私は想う。

 

最初のステージで二人の落語を聞き比べたとき、志ん生さんの語りは実にいきいきとしていた。ことばはその人間の命が入っていないと伝わらないと思う。命が入るには、ことばを言う人間が生き生きとしていないとだめだ。普段一緒にいて、話していてつまらない人間が何かを表現してもつまらないのはあたりまえだろう。おもしろい人間というのは、サービス精神があるのだと思う。というより本当におもしろい人は天然のもので、ありのままのその人でいることが既におもしろいのだろう。志ん生さんがステージで5分ぐらい本当に眠ってしまった間、皆ずっと笑っていたなんて本当おかしい。しぜんなんだなぁ。

ステージにあがるまではものすごい努力をしているはずだし、いろんなことにこだわり、やってきていると思う。そんなものすべてがステージにあがったとき、志ん生さんという人間の魅力につながっていくんだろうな。どんなジャンルの表現にもつながることだと思う。ステージでしぜんになるためにはとにかく体にいれこんで、いれこんでよくかみくだいて、消化しておかないとだめなんだ。それができた者だけが、観客に伝わる心ある表現がつくれるのだと思う。

 

志ん生さんのステージでの笑顔は何とも言えないほどかわいらしい。恵比寿様のようでこっちまで微笑んでしまう顔。声にも勢いがあって会話の受け答えにリズムがある。何言ってるんだか聞きとれないところもあったけれど、べらんめえ調は味がある。志ん生さんのことばになっているから観客はステージをみているという感覚を忘れてしまうのではないだろうか。その辺の道端で「ちょいとあんた!」と話しかけられてる気がしてくるもの。芸名を16回も変えたというけど余程、気に入らなかったのだろうか。話ではその時代の「落語とはこういうものだ」というものにあわなかったため、売れなかったということだけど、こんなに変えてたら自分の名前がわからなくならなかっただろうか。私も今から運のよさそうな芸名を考えておくとするか。

 

 

 

アンディ・ウォーホル

 

真にオリジナルなものがあるとは思えないが、その人間にしかできないことは必ずあると思う。彼のブレスリーマリリン・モンローの作品を見て誰でもできると言う人はたくさんいるかもしれない。誰かがやった後ならば誰でもできるのはあたりまえだ。最初にやったということに価値があるのだから。かといって自分と全くつながっていないところで新しいものと称して作り出してもそれは続いてゆかないだろう。結局オリジナルというものは、蚕がまゆをつくるように少しずつ、少しずつ形となってゆくものだと思う。そして決して完成しないものだという気がする。表現するということはどうしたって自分をみつめることをさけては通れない。自分の直感を信じて少しでも心にひっかかったことにこだわってゆくしかない。心地よいと感じるものに常に敏感になっていなければならない。

 

私は彼のアート作品より映画の方に興味がある。アートは結果的にかもしれないが商業的なものに偏っているのに対して映画の方は彼自身本当に楽しんでいるという感じがする。視点ひとつ変えただけで見慣れた物が新鮮に見えてくる。物事をあらゆる角度からみる柔軟性は必要だと思う。いろいろな見方の組み合わせが一人の人間の考え方をつくってゆく。彼の場合、その発想のおもしろさと、それに伴った行動力があったからこそ、世の中で形になったのだろう。一つのことに価値を持たせるには徹底してやらなければだめだと思う。彼が銀色に魅かれたように。彼は多くの人間に注目されたいという願望が強かったらしいが、だからこそ時代の顔になり得たのだと思う。自分のやりたいことだけをやっていたようにもみえるが頭の中には、常に大衆をハッとさせられるものは何かという考えがあったのではないか。そして多くの人々が長きにわたって魅きつけられたのは、彼自身の魅力より、作られたイメージの方だと思う。もちろん彼はそこにいたのだが、何かつかみどころのない者に出会ってしまったという気がした。作品にしても人間にしても何かのインパクトがなければ、人は振り向かない。自分のやりたいことをやるには強烈なインパクトをもって大衆をひきつけることができなければだめだろう。それがつくられたものだろうとかまわない。とにかく出なければはじまらない。しかし世に出た後、生き残ってゆけるかは本人の実力次第だ。魅きつける要素が全て、つくられたものならば長続きはしないだろう。その人間の中に一貫したものがなければ信頼できないであろうから。

 

彼の生き方をうらやましいとは思わない。人に認められなくてもいいというとそれでは意味がないといわれるかもしれないが、私は自分の心の動きに誠実でいたい。それで作られたものが認められないならば仕方がないと思う。自分のものをださないことこそ意味がない。結局表現するということは、どう生きたいかということにつながってゆくことだと思っている。アーティストの世界は人間は皆、感じ方も考え方も違うということを認めあっている世界だ。あれは良い、これは悪いということ自体おかしな話で、本人が満足さえすればいいと思う。いつでも自分を見つめていきたい。

 

 

 

【ウェイニー顔面気功】

 

見ながらやってみた。必ず始めるときは手の平をひざの内側でこすりあわせて暖かくしてから患部にあてる。なぜあんなに温まるのだろう。膝に全身の熱が集まりやすい。密着して温めたい手の平を置ける場所がたまたまひざだったということか。でも、なぜあんなに温まる。身体のぬくもりが移るのか。とにかく不思議だ。また、温かい手を当てると、当てられただけで非常に気持ちいい。なぜだろう。これは、でも個人差がある気がする。ヒンヤリした手を気持ちいいと思う人もいそうだし。病気の人が具合の悪い所へ

 

ある看護婦さんの手をその患部にあてがわれただけで痛みがおさまった、という話を聞いたことがある。手には力がある。ことばを持っている。使い方では拒絶も愛情伝達にも、どうにでも。やはりことばだ。手にしか語れないことばがある。ステージでどう動かすも動かさないも自分次第だ。アカペラなら2本の、2つの手、マイクを持っても1つの手がある。声、顔、手。ずいぶん語る手段はある。生かし切れてない。落ち着きのなさは“気”を丹田におろす気功で何とかしよう。一日を始める前にだ。

 

 

 

永平寺

 

苦しむことのできる幸せ雲水とは仏の弟子である、と。だからそれなりの覚悟と態度が必要である、と。覚悟とは。態度とは。曹洞宗大本山永平寺740年、修業の第一道場、大本山。740年。修業。道場。伽藍の数70。最初の関所。修業の心構えをたたきこまれる、という。最初の。という事は後にまだ関所がある、という事。修業とはただすればいいのではなく心構えが必要なのか。しかし、たたき込んでくれるのか。「山ではな、声の小さな奴は駄目なんだ」。なぜだ。

 

道元は13歳で仏門には入った、という。中学一年生だ。いわく「我見を離れるべす」。我見とは狭い自分だけの考え、と辞書にある。そして我を捨てなければならない、と。我とは、執着すること、とある。そして、人間は元々仏である、と。ではなぜ修業するのか。それは修業する姿そのものが仏だから、と。顔を洗う習わしを日本に取り入れた人だという。形の中に仏の姿が現れる、という。道元のおかげで私は毎朝顔を洗いさわやかに一日を始められる。普段あたりまえに何気なくしていることの中に凄いものが含まれている。息も然り。地蔵院から永平寺山門へ。覚悟を問われ続ける。

「お前やる気あんのか。覚悟はできているんだな」と。「何があってもうだうだ言わないな」と。許されるまでの零下5度の中でひたすら直立不動でたち続ける。やる気のないものにはその場で帰ってもらうためだ。随分と違うもんだ。私がここに入る時と。ここは暖かく暖房がきいていて椅子まであり、先生は怒鳴らず丁寧なことばで話して下さり、しまいには質問まで受け付けてもらい、その場で答えてもらえる。そのかわり帰り道は心が凍てつきそうだったけれども。結局山門で立たされて問われ続けたことを時間差を持ってどっちみちやらなければならなかった訳だ。

道だから。その道はどこへ行く道。顔を洗う作法。その意味はものみな全てを荒い清める意味があるという。確かにこの人の顔を洗う姿は美しい。どこが。無駄がない。動きが流れるようだ。時が止まる。見ているだけで何かがサッパリする様に感じる。これはどういうことなのだろう。行いの全てが天地の全てにつながっている、という。この美しい顔を洗う動作のどこが天地の全てにつながっているのだろう。そういう事なのか。信心一如。身全体が心、心全体が体。二つに分けない。体が真っ直ぐなとき体もまっすぐだという。わかりますか。わからない。宿題。朝3時半に起きてから夜9時に床に就くまで、雲水とはまだ、みられない。ひたすら我を捨てることを求められる。

掃除、追い立てられるように、駆けるようにしていく。鉄則:時間を無駄にしてはならない。これはなぜだろう。神様からいただいた命の時間という意味だろうか。必ず来る終わりの日から逆算しての心して一分一秒を生きるべし、という事だろうか。なぜだろう。しかし、時間を無駄にするということは、生きることを無駄にする、ということか!生きる人生と無駄に生きた人生と。そう考えると恐ろしい。

そしてこの大事なことは本人にしかわからない。でも、どんなに護摩化そうとしても本人だけはわかっている。与えられた命。どう生きるかは私が握っている。与えられた環境の中でどう生きるか。無駄に生きちまった、と思いたくない。笑って「まあこんなもんでしょう」と言いたい。いや「上でき!」と言いたい。生きたいなら、するべき事はわかっているつもり。やんなさい。涙で目があかない青年。夢で泣くか。夢で泣いたことはあるけれど、ヴォイス塾に入ってからじゃない。まだまだ余力がある、という事だろう。別に泣かなきゃいけない訳ではないけれども、そういう事だ。

 

暗いトンネルの中に今はいるけれども、ここまで行けば明るい色が見えるのでは、と思える、という。どうだろう。私は違う。大海原に小舟を漕ぎだした、こぎ出せた感じか。やっと自分のこぎ出すべき大海原を見つけた。寄港地でそこのどんな素晴らしい風景、素晴らしい人々、素晴らしい文化、素晴らしい食べ物、素晴らしい笑顔、それらみんなに出会えるかは私次第。その寄港地が一つの歌であり一つの曲であり歌い手でありその人を支え培ってきた風土であり歴史であり生きること全てか。出会いたいと思っているか。思っている!こぎ続ける覚悟はあるか。ある。体力は。今作っている。漕ぐオールの一かきの質は。駄目だ。私よりずっと高い質の一かきする人がわんさかいる。イヤだ。思ったらやるの!船旅の友はいるか。いる。笑い笑顔、先輩、友達、自然(日太陽風とか)。航海地図はあるか。ある。私は幸せだ。こういう風に生きれるんだ!生きることは旅か。

人を創っていく工法の一つだという。一度自分を一つの型の中にはめ込む。はめがたいものもはめ込む。その時にゆずれないものだけが見えてくる。今の自分に当てはめるとどういうことか。出されている様々な課題は最初に枠決めせず、とにかくその中に身をドボンと投げ込むということだろうか。当然もがいてできることとできないの結果が出て、そしてできないことの中に次につながる糸口を見つける。ゆずれないものとは。いろいろできない所があるけれど、ここは何よりも第一に手にしたい。例えばそういうことか。そうだとしたらそれは何。

聞いてていいなあと思える声量。聞いてていいな、と思える音色。無理じゃなく自然に出てくるなあと思える声。さ、どうする。息吐き。息吐きを聞き取れる耳。耳は一流の音、声を耳を澄まして心を澄まして聞く。体に問いかけながらの息吐き。どこかに力が加わってないか。

只管打座。外に向かう心をおのれに向けるために壁に向かう。向き合うべきはおのれのみか!音のない静かな修業。外に向かってばかりおるなあ。おのれ。修業中の身。一生。おのれの声にのみ向かっていく。そうすれば必ず自分の中の素晴らしい声に出会える。必ず。法戦。ことばによる修業。主座のみが挑める。主座は模範にならなくてはならない。3時半みんなを起こすために駆け抜けてる。必死だ。3年目で念願の主座になれた、という。念願のだ。イメージしてきている。こうなりたい姿を。だからできた。彼曰く「言われたことを精一杯やることが修業。人の言うことを聞いて規則通りやる。年とってからそれが何たるかを感じたい」と。このあたりまえに聞こえる事がなかなかできなくて四苦八苦している訳だ。でも彼はやってる。なぜだ。法戦をしている時の面構えは凄い。相手と戦っていない。自分とだ。すさまじい形相とも言えるかもしれないが、むしろ神々しい。自らと戦う姿は神々しいのか。絶対やりきるんだ、という気迫か。彼を支えているものは。

しかし凄い声だ。この人の正に今の嘘ののない声だ。あの法戦中の彼の声の前には全ての人が黙る様な、でもこの法戦が終わったところで修業が完了する訳じゃない。幕が切って落とされた、というところか。眠るとき、畳一条を越えない眠り方があるという。6時間の睡眠も修業だと。我身を清める事が世の人々をも清めることになるという。どういうことだろう。反対を考えてみる。自分をより良くしていこうとしないでそのままで生き続ける。書を広めっぱなし。努力し続ける。少しずつ変わる。害の量が少し減る。身を清め続ける人を見る。想う。考える。そして行動する。人々は互いに影響し合う。世に背を向けながらも人々ともに、人々のために生きたいと願う、という。共に生きる。自分の為に生きるのではなく人の為に生きる。鳴々。遠く離れたまるで隔離された様な場所でその身を仏に捧げるかの様な人々が実は人のために生きたい、と願っていると一体誰が想像できよう。世に背を向けてですらだ。背を向けていない自分は。人のために生きたいか。生きたい。なぜ1000%位に愛されたから。私には過分だ。返さなければ駄目だ。どうやって。歌届けたい想いがある。相手に通じるか。通じるところまで持っていかなければ駄目だ。相手は喜ぶか。喜ぶところまで磨かなければ駄目だ。愛されなかったらやらないのか。できないかもしれない。愛することがどういうことなのか愛されたことが一度でもあればわかる。考える:生まれてから一度も愛されたことがない、と思う人間として自分がここにいたら。わからない。でも一度でいい、無条件に愛されることがありさえすれば。過分に愛された理由は、返しなさい、と神様がいわれていることだと勝手に確信している。私も心に光りを念じて眠ろう。わからなくていい。その通りとにかくやってみればいい。その時、必ず何かが見えてくる。人の中に生きた仏を見る。

福島先生の中に生きた仏を見る。全てのつぼみに同じ水を上げる力。ぶつけてくることばを吸い取り立ち向かい無視しひっぱたき、コミュニケーションをとり続ける力。愛し続ける力。なぜ愛するのか。なぜ愛せるのか。神から愛されたから。福島先生という人間を私に出会いと存在そのもので与えてくれた神は私に一体何を学べと、何をしなさいと言っているのだろう。答えはどこにある。歌の中か。先生の声の中か。背中にか。私は。出会いを繰り返す。同じ人に同じ物に同じ歌に同じ曲に新たな、いつでも新たな出会いを見いだせる柔らかい心でいたい。

泣くことすら許されぬ雲水たち。夢の中で泣くことしかできない。若者たちだ。もう、いいだろう。全てやってきただろう。人の為に生きよ!そうしてでしか本当の幸せにはなれない。人の為に生きてですら、生きるからこそが幸せになれるのだから。これ以上の何かを望もう。今だって、この身一つで人のためにできることはゴマンとある。でも全く足りない。力を付けよ!億万、兆万と力をつけよ!普通苦しまないと力はつかない。

 

 

 

パトリック・デュポンの肖像】

 

世界中の人間を全て同時に見ることのできる眼鏡で見たら皆その人なりに必死で生きていると思う。そういう中でも他のことには脇目もふらず打ち込んでいる人がいる。一般社会が光とすると穴蔵で黙々と何かをしている人達。そしてその人たちは突然穴蔵から出たかと思うとものすごい光の中に立っている。光の中にいるのかと思ったらその人間が強烈な光を発していたと気づく。

多くの人間は光を求めて動き回るが本物は光を求めたりはしない。自分がどれだけ輝けるかを求めている。なぜこういう人間ばかりで世の中がいっぱいにならないのか。それはひとつのことに心底打ち込む生き方をしたいと多くの人は思わないということだと思う。

自分はなぜひとつのことにかける生き方を選んでいるのかと考える。人生は長いようで短い短いようで長い。その人の生き方によって感じ方が全然違ってくる。誰もが一回きりの人生なら思う存分楽しみたいと思うだろう。わたしだってそう思うが、どうも多くの人々が言う楽しいことというものは私の心を満たしてはくれない。それらは繰り返しにすぎず何度も同じような楽しみで自分の心の穴を埋めているようにしか感じない。本当の楽しみは自分でみつけてこそ最高の喜びになると思う。私にとっては何かを発見してゆくということこそ楽しみであり大きな喜びとなる。

彼のように常に最高のものを求め続ける人間はどんなレベルにいようと大変さは変わらないと思う。その時々の自分の実力で最高の人の為、自分の為というものを超えて彼自身使命みたいに思っているのではないだろうか。

 

私はこの世に偶然生まれ出た人間は皆、使命を与えられているのだと思う。そういうものを人は「運命」とか「宿命」といったりするけれど自分で人生を選択しているようで選ばされている気がする。そしてどの人間も生きるということにおいては同じように大変だ。彼のようにひとつのことにどこまでもこだわってゆく生き方を選択する人は、生きること以外に大変さを引き受ける勇気をもっていると思う。生きること以外にというより生の中にそのひとつのことが含まれ、膨らみを持っていると言った方がいいかもしれない。完成などないことを知りながら完成を求め続けて生きてゆく。彼の息づかい、指先の緊張、空を見据える瞳、ひとつひとつの動きに彼の生が凝縮されている。肉体を自由自在に動かせるようになったとき、人の心は解き放たれるのだと思う。

 

彼の動きを見ているとそこにどれだけの想いがこめられているのだろうと、彼が想いをこめ続けてきた年月を思わざるを得ない。生きることに想いをこめている人間の命は光輝く。命なんてものは目に見えないけれども心の目はまぶしすぎて目をあけていられないという。世の中の大切なことは目に見えないものが多すぎるな。入間は大半の人が同じ器官をもっているけど心がなければ本当の意味で一生使われずに終わってしまう気がする。彼は自分の若い頃の動きをみて体型がどうとか動きはどうとか他人をみるような目で評価していた。

自分のことを客観的にみれる目は絶対必要だ。自分の肉体を自分のものとして動かす為には自分の体をよく知っていかなくてはできないことだ。彼はあの鏡の前でどのくらいの時間を自分と向き合うことに費やしてきたのだろうか。彼がバレーをはじめた時に才能があったかどうかはわからない。何かひとつのことに打ち込んでゆく時、自分の才能に絶対的な自信をもってはじめる人っているだろうか。こうなりたいという強い想いはあったとしても未来が約束されていることなんて何ひとつない。

情熱を失わずに一つのことをやり続けるって本当にすごいことだと思う。どんなことも、ひとつのことをものにしてゆく過程は似ている。その人間がどの程度のレベルを望んでいるかにもよるけれど、これがだめだったからあれというふうに変えてみたって同じことだ。こういう考え方は結局それをやることで自分の心がワクワクするか。というのが基準ではなく他の人に認められるかどうか、どう思われるかということが基準になってしまうから繰り返しになってしまうのだと思う。

 

自分という人間は本当によくわからないと思う時もあるけど、考えてわかろうとしても限界があるような気がする。どう感じるか、どう働きたいのかという直感みたいなものを大事にしていくしかない。感じることに素直になってゆくことで少しずつ自分というものが明確になって形づくられていくんじゃないだろうか。表現するということにこだわって生きている人はたくさんいる。その人たちはステージの上で「観客を絶対に感動させてやる!!」なんて気持ちで演技したり、歌ったりしているわけではないと思う。

 

自分の経験の中で自分はただただ必死にやっただけなのに、それをみて、何だか感動して涙が出ちゃったよ。と言われたことがあった。それはスポーツをやっていた時のことだけど練習しても練習してもゲームに出れずにそれでも毎日同じ事を繰り返し、やっと出ることができた時私の思いとは又違った思いでみていた人がいたということだと思う。ステージの上の表現とか人の心を動かすものとかはステージに上がる前までにその人間がどれだけの想いをこめてきたかが全て出てくるのだろう。そういうものは頭で考えて評価しているわけではなく、やっぱり心が感じてしまうのだろう。全ての人がそういう見方、感じ方をするとは思えないけれど、感じる人は感じるのだと思う。全くわからないことばかりなのだが自分の感覚に忠実に動いてゆくしかない。そういうなかでしか私という人間、人々の深いところにある感情をは触れ合えないと思う。

 

 

 

【36歌仙】

 

美しい。36人の歌人たちは、今、何をつぶやき、離ればなれになった他の歌人に対して何を語りかけているのだろうか。月並みだが36人揃って一本の絵巻になっているものこそ価値があろうかというものだが、この絵巻は一人一人の完成度が高いせいか、ばらばらになって又新たな生命を持ったような気がする。別れた隣人にテレパシーでも送って近況報告でもしているのではないか。所有者もそんな関係に興を覚えているのではないか。こんな風に考えるのはロマンチシズムに偏り過ぎだろうか。ともあれ、本来先祖の偉大な文化に対して、いくら生きるためとはいえ手を加えるというのは冒涜であろう。しかし、第2次大戦中だったらどうか等、時代の波に逆らうことができないこともあるかもしれないと思うと、何とも複雑な思いである。

 

重要文化財認定制度ができる以前のこと、財閥の手に所蔵されたのは、それでも幸福なことだったのかもしれない。芸術は、金は無くとも心ある。理解と造詣の深い人に所有されることがその作品にとって命輝くことになるのかもしれない。作品を所有していること自体がステイタスになるというのはやはり悲しいことだ。何人もの過去の所有者達が登場したが、昭和電工の会長にその気配があったのが悔しい。逆に愛しんで来た人もいる。国が国宝なりにして、回収(。)することはできないのか。いやこれは回収ではなく、各々から買うことになるのだろうが、又36人勢揃いさせてあげたいと切に思う。せめて七夕のように、一年に一回でも顔合わせができないものか。そして、一般に公開されないか、切に望んでしまう。仏様などでも日本、又海外まで巡って大切にされているものもあれば、悲惨な末路をたどってしまうものもあり、時代の波に翻弄されるのは、人間だけでなく、その人間が生み出した芸術も同じである。人間が生み出したものだからこそ、その作者を替え尊重すべきであると同時に、自由にされてしまう運命を伴ったものなのかもしれない。修復士によって、新しい時代の命をえているたくさんの芸術がある。先祖への畏敬と功績への感謝だ。金銭と芸術は切っても切れない関係にあることは、これからも変わらない。しかし、この絵巻のような切断ということを今後許してはならない。36人、みな元気で、ともかくは良かった。それにしても、斉宮は美しい。··

 

 

 

【日本柔道物語】

 

世界が目標の人は、目が違う。空気が違う、発するエネルギーがとても大きく豊かだ。目指す事が大きいと小さい事は自分をマイナスへ引っ張る要因にはならない。そこがその人の強さの部分だと思った。地味な練習の繰り返しが試合とかそういう一瞬の部分にきっちり出てくる。この恐ろしさを皆体でわかっているんだと思う。だから手は抜けない。気が抜けない。集中する。集中してない人の動きはきっと周りの人がすぐ気づくと思う。空気とか目とかそういうもの全てが体から外へ放たれてると思う。

自分もトレーニングへの取り組み方や授業の受け方、今という時を使う過ごす自分を判断すればすぐそこにその「気」の状態がわかるはずだ。そこで自分を引き締めるかどうかが自分の器という力にかかっていることだと思う。

 

自分と戦い(闘い)世界を目指した人、目指している人の深さはやはり素晴らしい。小さな事に負けそうで立ち止まりそうな自分が恥ずかしい。そんなことはあってあたりまえでいい。あるからって困るな。不安が在るのは生きてる証拠だ。傷みがあるから強くなれる。そう思えることが本当に有り難いことです。

 

山下さんや斉藤さんがにこやかに自分の瞬間を語っているのを見て、自分は自分の瞬間を語れないまだまだ未熟者。という事を実感しました。その道のプロは、意識が流れていてはダメだな、と。深くなってゆこうとする自分ならば、今を全て先へつなげてゆこうとする自分と、今が全て先へつながってゆくんだという意識を持っている自分をどんどん見つめてゆく事が大切だという事。そしてそれをどんどん具体的にしてゆく事。具体的にしてゆけないのは本当に見つめきってない証拠です。とは言い切った自分だけれど、まだまだそんな深いレベルに居ません。その現実は確かですね。それを受けとめて心して進むこと。求め続けること。自分の一瞬一瞬を大切にしている人は、その一瞬を後の方に活かしてゆけるんだな、という事をとても感じた。私もその時の輝きを大切にしてゆくことで先が明るくなっていくんじゃないかってことを思います。だから今よりもっと今への意識を強めてゆこうと思うわけです。

 

武道においては、武技を駆使しての命がけの勝負にその本質があるが、ヴォーカリストにおけるステージングにおいても、主観的には勝負そのものといってよいのではなかろうか。それまでにつちかわれてきた全人格を賭してのステージングを行う。それぐらいの覚悟がなければとても人を感動させることなどできぬのではないか。武道と言わぬまでも、スポーツの世界における試合に臨むまでのプレッシャーに打ち勝つ精神力や、試合における集中力などは大いに学ぶこと大であろう。武道における勝負は命がけ、つまり負ければ死であり、求められる精神力は大変なものである。

 

ヴォーカリストにとってのステージでは、負ければ(とちれば)死ということはないが、平時から「歌わなければ生きていけない」「生きるために歌う」といった精神状態に自らを追い込む必要があると思う。そのぐらいの気構え、心構えがなければ、歌に人生が、人格が投影されないのではないだろうか。私の歌に対する取り組み、姿勢はどうであろうか。おぼっちゃんの遊びにならぬように自らを追い込もう。

 

 

 

【久保田一竹】

 

一竹さんの存在を知ったが、とんでもないおじいさまが居るもんだ、とびっくりした。まず60近くになってからのデビュー、成功、80の今でも100まで頑張って布を染めると言い切るこの前向きさは凄いと思った(だって、時代、60才になったら無理矢理人生の墓場へおいやられるような世の中、って感じなのに)。

 

一竹さんのことばで3つ印象に残ったものがあって(1つは100まで頑張るお話)、まず“赤を赤でかかずあとで見た人にあれは赤だったのでは、と思わせる”というのと、“痛んだ筆を捨てず、ためておいてお礼を言ってから処分するのが筆に対しての礼”と言われたことです。これがすごく心に残った。

あと最後、SymphonyoflightとBurningsunをみて、Burningsunの方はまるで太陽の中でシヴァ神がDanceをしているかのように見えた。シベリアの夕日の美しさ、一瞬私も感じられた様な錯覚を受けた。

 

 

 

アイルトン・セナ

 

人はいつの日か必ず死ぬわけだが彼らは自ら生死の舞台に立っている。彼らの顔を見ていると自分のやっていることからもう離れなれないという顔をしている。何の迷いもない何もかもそぎ落とされたような顔。きっと心もそのままなのだろう。一つの世界で生ききっている人間には隙がない。自分音能力の限界に腸炎するとうこは自分自身でラインを決めなければ底なし沼のように闘いは永遠に続いてゆくのだろう。どんなことをやろうと生きることは苦しみやつらさを伴うものだ。生きるといこと自体塊のようなもの。命というものは自分で握りつぶしてしまわない限りいつ失くなるかわからない。彼らは自らの生死の中で生きているけれど、他の人間だって皆意識しないだけで舞台は彼らと同じなのだ。レースの為にこれ以上できないという準備をし極度の緊張状態に自分を追い込み、そんな中でも冷静に自分を見つめている。ふつうの人間はそういう生活をというより生き方を選べない。選びたいと思っていても選ばないということは選べないということだ。彼らがそういう生き方をするのは、やっぱり生きている充実感がそこにあるからだろう。

 

一つのことにかけている人間というのはブラックホールが凝縮されてものすごい質量を持ったようなものに見えてくる。強烈に燃えている一つの塊。人間は生きている間に実にたくさんの事をやるけれど結局自分が満足できればいい世界だと思っている。だから人の生き方に対してそんなもので満足していいのかという気持ちはない。でも自分が死ぬ時、この世からいなくなる時、自分の生にありがというというには今思いをこめて生きなければできない。それはどんな結果を出したということではなく、どんな思いをもってどういうふうに生きたかを大切にしたい。

 

結果が出なくては意味がないという人もいるが、他人から見れば社会的に認められることがひとつの結果だと思うが、やっている人間にとったら自分の思いが全て結果だと思う。彼らの仕事は回りの人間の支えと力がなければ成し得ない。ひとつのことを完璧に仕上げる為に一体どのくらいの人間の思いがかけられているのだろうか。人間の能力とか心の素晴らしさに胸が熱くなる。1ミリや100分の1の世界で生きている人のこだわり、集中力、思いは予想以上にものすごい。

生死につながっている分妥協は許されないメカを設計する人間、作業する人間、デザインを考える人間、ボルトを作る人間皆自分のやるべきことに力と思いを全て注いでいる。ドライバーは主役かもしれないが一人では絶対に主役にはなり得ない。もちろん主役になるには才能や能力、その人間の正確とか気質とかいったものが関係してくると思う。誰もが表舞台に立てるわけじゃない。かといって裏舞台を影とも思わない。やっている人間にとってそこが表舞台なのだから。

 

 

 

丹田開発法】

 

自分の体という呼吸力の極意ものは今もって謎が多い。腹式呼吸を意識してするようになってから皮膚が薄くなり柔らかくなった。感覚というものは自分が体験しないと本当の意味ではわかったことにならないようだ。なんだかとても不思議な気分でまじまじと見てしまう。一流の歌手が若々しく見えるのもたくさんの空気を食べて吐き出しているからだろう。呼吸なんてあまりにも日常的で意識しないことの方が多いがそういうあたりまえのようなことの中にこそ奥深いものが秘められている気がする。世の中はあまりにもサイクルが速い。朝に夜のことを考え、今日ではなく明日のこと、老後を考える。ゆっくりと呼吸することもないのだろう。自分の呼吸に神経を集中していると心の中が冬の夜空のようにビーンとはりつめてくる。そして自分の意識はあるのだけれど呼吸が主人になった気がしてくる。それは全然嫌なことではなく結構気持ちいいものだ。

 

呼吸について考える時どうしたっても自分の体と心について考えざるを得ない。体というものは今まで記憶したことにあまりにも従順で新しいことに対して反応はするけれどすぐ忘れる。教え込むには時間がかかるけれど動物に芸を教えるように繰り返しやっていけば必ず覚える。でも自分の意思で正しくやろうとしなければ体は「ああこんなものでいいのね」と楽することに慣れてしまう。こんな時自分の体といものが自分勝手な子供のように思えてくる。「上虚下実」ということばがあったがこれは今もってできていない。気がつくと必ず方に力が入っている。多分それはここでいう丹田への意識、集中力が足りないからだということだろう。お尻の筋肉がゆるんでしまうと当然丹田周辺もリラックスしてしまい、その結果上半身が緊張するという逆の型になってしまう。これはどうにかして自分の意志の力で自然にできるようにしていかなければならない。自分の感覚に敏感になり、できているのかいないのかを知ること、そしてできたらそれを何度も何度も繰り返すことが大切。自分の体のことは自分にしかできないのだ。この呼吸法を見ながらやっただけでかなり息が深くなるのを感じた。丹田に意識を集中するとじぶんの目も一転を見つめるようになってくる。腰は要ということばは本当にその通りだが意識せずに動けるようになるには大変だ。腰が入っている人の動きはとても自然だし美しい。基本というものは習得するのに時間がかかるし、完璧になるということはあり得ない。どんな分野でも動きが美しいという裏にはその人間が長い期間繰り返して身につけた基本というものが必ずある。基本は自分がこだわろうと思った分だけやれるものだけれど、基本がなけりゃ何の発展性もないと思う。

 

自分でトレーニングをしていてもそれが歌につかえるかつかえるかの判断はやっぱり基本ができているかどうかだと思う。自分にあったトレーニングの形は人それぞれだと思うが続けなきゃ意味がない。でもこの続けてゆくって事は本当に大変なことで、何か強い思いを持っていなくてはできないだろう。繰り返し何かをやるということを「なぜやるんだ。」と考え出すと芋づる式にどんどん疑問がわいてくる。歌をうたいたい。本物のうたを、今やってることが歌にどうやって表れてくるのか。それは私にもわからない。結局スポーツと同じだと思う。基本練習をたくさんやる。ゲームを想定してあらゆることを部分的に強化する。ゲームが終わった時何ができていて何ができていなかったかを知る、そして又トレーニングをする。どんなこともそういう繰り返しをしていくことでしか身に付かない。情熱って形としてみえないけれど歌をうたってしまうとその人が赤く燃えているか青白く消えかかりそうか見えてしまう。いろんなことを考えるけれどいつも行き着くところは「私は私の人生を生きたい」ということ。それで生きているようなものだ。

 

 

トキワ荘

 

(創造万歳!)西陽がよくあたる路地裏だったのか!いつも集まっていた求心力がったということか!手塚氏の「色紙とは文字を書くためにある。間違ってるんだ、日本だけだ、こんなことやってるのは」こう思って書いていたのか!送り手の気持ちを考えたことがあったか。否!電車が来るギリギリまで子供たちにサインを書く藤子不二雄。鳴々!有名人は辛いヨ、ということか。この二人にみる不思議な人と人との出会い。|漫画少年」は表現させるスペースだったんだ。表現させたかったんだ、表現する喜びを与えたかったんだ!こういう有形無形のエネルギーが手塚治虫につづく漫画家たちを創り出していったのか!そのエネルギーの核をなすものは何か。漫画界の発展か。子供たちへの深い愛情か。「漫画少年」がなかったら絶対、漫画家になっていなかったという二人。絶対ということばを使うまでのことなのか!自分の命を自分の力をどの世界のために尽くすのか!宿題!「漫画少年」に載る手塚氏の漫画を読むのが儀式だったという。まるで神との会話じゃないか!動かない絵が動く!音のない絵から音がする!手塚氏の中に絵があり確かな音がまずあり、そしてそれを確かに伝える腕力があったということか!そこは映画。読み終えた後、身動きできなかった二人。二人のその感受性は何だ!送り手と受け手の交信。これも創ることの醍醐味!笑う手塚治虫、弾けるように笑う手塚治虫!しかし、赤塚氏のところの猫は素晴らしい!石森氏の膨大なビデオ(映画、ドキュメンタリーなど他人に撮ってもらってでもみたいという気持ち)、瞑想室、創り出すための創意工夫。転じて森安氏。日給8000円、妻子に逃げられる。「25年のブランクは取り戻せない」何ということばだろう。簡単に言っているように見えるかもしれないが、何と苦汁に満ちたことば!その対極にもがくような「取り戻したい!」がみえる。

トキワ荘のメンバーの現在の活躍に対して「スタートを知っているから、うまいと言えばうまいし、へたと言えばへた」半分は確かにそうだろうだが半分は。裏腹なのではないか!だが彼にはこういう一見残酷なまともな。アホな。質問にできうる限り体の中心から答えていこうという強さがある、腹をくくった姿がある、つき抜けた明るさ(残酷なまでのしたたかな)がある。それは一体何なのか。わからない。そして水野女史。徹夜2日目。顔洗わず風呂入らず、食べていられない。家族は。徹夜4日目、何にもしたくない、とりあえず寝たい!息子は一体何を思う。夫は一体何を思う。編集者も格闘!新人を励ます赤塚。うわっずべりの「賭けて生き抜くことは素晴らしいと思います」のことば。そして森安氏と赤塚氏。「天才とまともにつきあえるはずがない」と思い、でもそこで逃げずに踏みとどまって「そこから僕の人生が始まる」と、このとき語れる赤塚氏。その強さ。仕込みが違うんだ、圧倒的な量と質の仕込みがあるんだ。身銭を切った膨大な創り出すための材料があるんだ。再び新人。賞をとっても仕事なんかない。いつだって誰だって揺れてる!大事なことは踏ん張れるかどうか!手塚治虫の意志の強い口角のあがった唇。「あと一作みせて!是非お願いします」漫画界全体を考えている、ということか!トキワ荘の頃は新人漫画家に光なんか当たらなかった。でもそれは創るという面から言えば幸いなのかもしれない。5年10年20年と描き続けて欲しいと祈らずにいられないどんどん消え去っていくのか!生み出すために苦しむ赤塚氏。細かい場面設定、編集者とブレーンとで絞り出すように考えあぐねた末のゴーサイン。題材は家庭内暴力。社会に、今にアンテナを鋭く自分なりにはっていなければ出していけない。トキワ荘に入るにあたっての寺さんの長い手紙。同じ志を持ったもの、それはただいい漫画を描きたい、というその一点。寺さんがいたからトキワ荘はある意味でエネルギーを持てたんだ!空気が濁らなかったんだ!祭りの日々をそこで過ごせたんだ。こういう形の漫画への情熱の表現の仕方があるのか。一体どんな手紙だったのだろう。熱中して書いているとき、自分でも感動する一瞬の素晴らしい絵が描けたと思える時間がある。それが忘れられないから今でも描ける、という森安氏。これこそが創作の喜びか!トキワ荘とり壊しに際し、ビデオをまわす藤子不二雄。記録せずにおれぬものがここにあるんだ!いつも笑顔の手塚氏。なぜだろう。編集の人が来るとよく飛び降りたという窓。何という修羅場!10何軒目で逃げる手塚氏をやっと見つけた編集者。刑事が高飛び寸前の犯人をつかまえた喜び、またつかまったかと笑う手塚氏。まさに闘いの場で笑う手塚氏に空気が一瞬和む。なぜ何年も経って笑って会えるのか。まさに生きていたからか!好奇心を持ちながら食べる手塚氏。寺さんが気弱なことをいうと慮るみんな。寺さんは15年前に漫画をやめた。「まんが少年史」を自費出版、漫画に対する気持ちは一貫しているトキワ荘のメンバーに対して純粋に子供のために100%思っているとは思わない、と言う。この人にとってトキワ荘とは、漫画とはなんなのか。この人にとっての漫画への闘い挑みとはどういう形で今この時あるのか。空気を濁らせまいと志を抱いていた人がこうなる。人間の重さ、人生の重さ。10年間発表し続けるのは奇跡に近いとのこと。森安氏、漫画をみてもらいたいと持ち込む。描き続ける森安氏。闘い続ける森安氏。「長い」と門前払い。あきらめず次へ持ち込む。20数年間のギャップは取り戻しようがないと自ら語る森安氏。励ます少年ジャンプの編集者。本当にいいものをささえる志、本当にいいものを育てる志。その視点。「やっててよかったと思う」森安氏の一言。笑みの中で号泣!ふるい立ってるしぜんとふるい立っている、イヤ、しぜんとじゃない、イヤ心の底からふるい立って立ち向かっている。ギャップをものとしながらものともしない強さ。頭が下がる。崇高ですらある。何ちゅう男だ!何なんだ!一瞬の喜びに賭ける、理屈じゃない。これは物を創り出す喜び、苦しみ森安氏が主人公の話だ。

 

 

 

金子みすず

 

この酒井大岳さんの金子みすずさんへの惚れ込み方はすごい。この人自身が「私に惚れられたら恐いですよ」と言っているくらいだから。確かに恐そうだみすずさんが生きていなくてよかったかもしれない。世に広められた作品や人間の裏には必ずといっていいほど「こいつを世に出さなくては」と思う人間が存在する。たとえばその人がアーティストではなくても、本物を見る目をもっているからわかるのだろう。人間、本気でどうにかしようと思えばどうにかなるものだ。どうにもならないのは本気で思っていないからだ。多くの「なんとなくいい」と思っている人に認められるより、「これは絶対、世に出さなくては」と思っている一人の人に認められることの方がどんなにいいか。金子みすずさんを最初に認めた人は16年間も山口に通い続け、出版にこぎつけた。16年間もだ。何てあつく強い情熱をもった人なんだろうと思った。こういう人間に認められたら生きてきた甲斐があったというものだろう。彼女の作品は、人間がなくしてはいけないなと思えるようなものがたくさんある。子供の頃っていろんなことに興味があったはずなのに、いつからなくなっていくのだろうか。学校で学んでいることって生きることに役立っているのかと考えてしまう。ひとりで生きられない人間を増やし、協調性は個性より重要ですと教えこまれ気づいたときに「私って生きているのだろうか」なんてことになる。みすずさんはひとりの時間を本当に大切にしていたのだと思う。考えることというより感じる心を大事にしていたみたいだ。ひとりでばかりいる人間にむかってまわりの人間が言うことは、「人間はひとりでは生きていけない」ということばかなり的外れなことなのだが、この日本ではひとりでいることや考えごとをしていることが孤独にみえるらしく、どうもいいようにはみてくれない。何かを感じることは、ひとりでないとできないのだ。他人が存在することで自分の感覚に集中できなくなる。人は段々と心からの感動をなくしていく。それは本当にさみしいこと。たぶん、生きていることがあたりまえと思うことが、すべての感動を奪っていってしまうのだろう。今、生きていることほど不思議なことはないのに。いつの間にか自分の視点からしか、ものごとをみれなくなってしまう。みすずさんの視点はすべて自分じゃなく、まわりのものの気持ちと同化している。酒井さんがものを深くみつめて考える「観る」という見方のできる人」と言っている。ものを深くみつめて考えることは誰にでもできるものじゃない。これは詩だけに言えることではなく、表現していこうとする者にとって必要なことだと思う。絵心があるとかないとかいうけれど、それは物をよくみつめているかいないかの違いだと思う。よくみない人の絵はいきていないから中身がみえない。平面に描くわけだから、それが平面のまま終わってしまったら描かなくてもいいのだ。りんごを描くとする。じーっとみつめる。触れてみる。転がしてみる。食べて中身をじっとみる。一緒にねてみる(。)とにかくあらゆる角度からみつめて、はじめて中身のある絵が描けていくのだと思う。絵に例えてみたけれど、いろんなことに言えることだろう。表面だけみることは誰にでもできる。目があるのだから。心の目はたぶん、瞳の輝きとして表われてくるのだと思う。目は誰もがもっているけれどその人の瞳をみればすべてがみえてしまうくらい恐ろしいものなのだ。いくら目薬をさしたり、目にいい食物を食べたり、化粧したって瞳は誤魔化せない。話題を転ずるということは難しいことかもしれない。人は人の話が大好きだから話しだしたらきりなく話している。そもそも黙っているということができないのだ。じっと座り黙っていることなど不可能に近いと思っている人が多そうだ。なかなか本当のコミュニケーションをとれる人間がいないのは、さみしいことだ。自分ひとりで楽しむことができないものだから人を求める。求められる人も求めているからいいのだが。どうして、こんなにもひとりの人間として、立っている人間がいないのだろうか。ひとりで立つ人間は、その人の精神的なものが表に出ているはずなのだがみえない。「人間はひとりでは生きてはゆけな「い」ということばの意味を間違えている人が多すぎる。アジアの死生観は、死後また生まれ変わるというが私はそうあってほしいとは思っても、信じているわけではない。死んだら星になるという考えの方が好きだ。死んで土にかえっていくのだけど、私は天に昇りたいな。そして宇宙から多くの人々をみていたい。どんな人間も必ず死ぬ。どんな死に方とかいくつで死ぬかなんてわからないが必ず死ぬ。死んでから考えればいいのだ。それは無理か。

 

 

 

大山倍達

 

教えている時の気迫・真剣さ・緊張した空気がすごく、見る方へもそれが伝わってくる程だった。そこの場にいる人、一人一人が師に近いテンションで練習しているが、70歳近い師の迫力にはかなわない様だった。一人で何十人も相手に戦っている雰囲気だった。

 

空手のことは何も知らなくても、一度観ただけですごさに圧倒された、この気迫!いるだけでパワーを出せるようになるのだったら空手を習ってみたくなる。意外だったのは、師の人間らしい弱さを持っている所を人前で語っていたことだった。空手階のNo.1になってからの孤立や、心の中の恐怖、プレッシャーなどと戦うことが、人間にはどれだけ大変なことであるのかを身を持って語っていたと思う。どの場面でも真剣に人と接し、真剣に取り組み、真剣に語る人であり、そこにはすごい説得力が生まれ、多くの人の心をつかんだのだと思う。海外で師はたくさん崇められ、そして賞賛されていた。このことをしっかり捉えなくてはいけないのだ。

 

 

 

【詩人 坂本真民】

 

午前3時30分。大宇宙の波動が最も強いときだという。波動、というくらいだからやはり強い時と弱い時がある訳だ。字宙のうねりか、いや、大宇宙のうねりだ。確かに宇宙でなく大宇宙で見えてくるものがある。確かな広がりと確かにいだかれる実感か。未明混沌の一時。悪魔の声、神の声、阿修羅の声、生命に満ち、生命に溢れる時、だという。そういう時があるのか。素晴らしい。

坂村氏はそれを感じることができる。混沌の素晴らしさ。それは何かを生み出すための必然の形なのか。人間は生身なんだからいつだって混沌としている。じゃあいつでも何かを生み出せる状態にあるのか。そこに何を加えれば、何を引けば突き抜けて生み出すところまで行けるのだろう。川の流れの音から何を訴えようとしているか聞き分けることができる、という。川が自分を育て作り上げてきたと生命の川だと。自然に教えられる。自然が親。自然がことばを持っている。風のことば、土のことば、川のことば、海のことば、空のことば、雑草のことば、植物のことば樹木のことば、形あるもの形ないもの、全てがことばを発している。問題は自分の心。心はどこにある。丹田にある。私の中の太陽。いつでも私の中にある太陽は光り輝いているだろうか。本来ある、神から今までを生きた人々から頂いた力を使って本来やるべき事をやっているだろうか。

 

太陽は、暖かい。暖かい、と思える距離にいてくれている。まわりを暖かくしているだろうか。こういうことだ。やるべき事はいつでも無になれ。いつも白になれそうできた時に自然のことばが聞こえてくる。人間の想いが伝わってくる。冷たくされても罵倒されても無になれ。必ずそこで見えてくるものがある、と思う。子供はいつでも無だ。世界と素早くごまかされないでいい意味の折り合いを付ける。あの集中力。お手本は子供だ。やわらかく豊かな子供。私だって子供の時があったのだから、どこかにその感覚が残っているはずだ。呼び覚ませ。貪欲に楽しく生きる腕力を。海からの風を粋に行こう、海に吐き捨てよう、母の父の香りがする、大いなる人の教えがある、古くなった袋に新しい風を取り入れよう。何て素晴らしい詩だろう。子供になって、謙虚に海の前にたたずんでいる姿だ。しかし、海は懐が大きいんだなぁ。吐き捨てても許してくれるのか。甘えさせてもくれるのか。しかってもくれるし。大事なことはどういう自分で海と向き合うか、ということなのだろう。タランコタランコしてたら相手にしてくれないし何も言ってもらえないかもしれない。でも自分が生きていれば優しいんだな。福島先生は海のようでもある。太陽にしたり海にしたり忙しい。でも、そう思う。「念ずれば花ひらく」それをへそのある石に彫る。東向きに太陽のあたる方へ置く。いつしかその石を人々が拝むようになる。そりゃそうだろう。念ずれば花ひらくのか。言い切っている。信念か。ひらいた方がもちろんいいに決まっているけれども大事なのは花ひらかせようと念じることではないか。

 

素晴らしい花を傷だらけになって血みどろになって見せてくれる人もいる。結局ひらかけられない人もいるかもしれない。でも大事なことはだれのでもない自分の嘘ではない花をひらかせようと念じ続けることなのではないか。続けること。ただ生き続けること。そういう熱さを胸に持って。一つのことを念じ続ける。しかし、何故石にへそをつけたのだろう。風は感動を運んできてくれるか。そう思えたことあるだろうか。風には笑いに似たものを感じる。虚栄を笑う。悲嘆にくれる様を笑う、喜びを一人のものにしない。耐えろ、と吹き付ける、転換、分かち合い。風には確かに力がある。微風にも強風にも、ことばがある。

そうか、あのチベットでの賢明に高い美意識の中に今生きているあの人々のそこここで吹いたのと同じ風がこの日本のこの私にも吹き語りかけてくるのか。風でつなげてもらっているのか。風は自由で力があるんだな。人間を包み込むような豊かな瞳のチベットの人々。学びに行きたい。午前3時30分の風の中に立てば会えるだろうか。声が聞こえるだろうか。山は父だからそこに厳しく立っていてくれればいい。川は母だから体をすっぽりつけて抱かれていよう。いい詩だなあ。にただただすっぽり抱かれたい、と思う時がある。人に厳しくたちはだかって欲しいと思うときがある。それはこういうことなのだろうか。人間はいつでも父や母を求めているのだろうか。自らを育ててくれた川へ感謝をする。

 

坂村氏の表現の仕方。自然に感謝する。私は一体どうやって今多くのことを教えてくれている自然に感謝できるだろう。思いだけか。自然の楽しい声を聞くのは何といいことでしょうか、か。川と呼吸を合わせ、私の心を伝えるであろう、か。そうかこの人は自然の声を聞くだけでなく話しかけるのか。樹に風に川に空に雲に花に全てに。何と豊かな人だろう。幸せだろう。

「ハイ」何にもかえがたい程美しいことばだ。という。日本の美しいことばだ、と。美しい返事だ、と。本当にそう思う。相手の前に謙虚にたたずむ姿が見える。清濁併せのむ度量が見える。こらえるけなげさが見える。たった二文字。無限に広がる。暖かさが。ことばは素晴らしい。長年連れ添った妻が思い病にかかる。「死なせてなるものか」。病に挑む。一人にみんなが力を合わせる。

 

映画「クレヨンしんちゃん暗黒タマタマ大追跡」の中で、ひまわり一人を両親、兄、オカマ3人、サタケが命を掛けて助ける。身を挺してだ。「死なせてなるものか」。死んでは駄目だ。生きよ。ほうの木の下で祈る。手と手が重なり合ってる。手は重なり合えるものだ。手にはそういう力がある。手には命がある。計算ができるようになった事を3人で乾杯するという。生きることを知っている3人。豊かに今を生きる3人。「青ホウ人形」何とたおやかで暖かい表情だろう。生きて話をしてくれる、という。「多くの人を幸せにせよ」と。多くの人を幸せにせよか。多くの人をか。そして念ずれば花ひらくか。それができたらどんなに幸せだろう。

四国は仏島だという。88ヶ所の札場が巡りつないでいると。大師の徳を今も伝えている喜び、安らぎを与えている、と。そうか、今をどう生きるかは自分の子供だけでなく、綿々と連らない明日を未来を生きる人々に関わってくるのか。未来に向けても私は一人ではないんだけ。一遍上人は素足か。鳴呼、生きるとは、こんなにも豊かで厳しく喜びに満ちているものか。生きる。坂村氏のつややかな子供のような顔、忘れまい。

 

 

 

福島泰樹寺山修司 追悼短歌絶叫コンサート】

 

寺山修司氏に対する考察や自分の見解がなくても伝わってくる、飛んで来てくれることを期待していたが、難解になってしまっただけだった。ならば、この寺山氏に対する“想い”がつ伝わるかとも想ったが、それは構成や短歌のならびを考えれば分からないでもないが、“表現”声にして、自分の中にあるものを外に放り出すという作業においては感じられなかった。

なぜなのだろう。叫んでいるからだと私は思う。叫びたい所はストレートに叫ぶべきだし、でもその他の“ひだ”のような部分においてはもっともっといろいろな表現があって良いと思う。それに合わせて曲が止まっても良いし、しゃがみこんだって良いと思う。

ささやき、うめき、笑い、涙等々。ただ個人的には、この福島さんの自分勝手な感情(本当にそうなのかどうかもよくわからないが)を、「私は寺山さんが好きだ〜」という気持ちだけで渡されても、“そうなんですか、それで。”で寺山さん自身の詩の意味とか中原中也を捧げる意味とかが曖昧で分からなくなる。例えば、パンク、セックスピストルズスラッシュメタル等々も私は聞いてみたいし、叫ぶ詩人の会も知っていて云っている。だから、福島さんにとっての寺山氏は“そういうことなんだ-”と思うわけで、寺山氏自身を観客に訴えるものではないのなら、これでもいいのかも知れないし。

しかし、それが私のように寺山氏の作品を、氏を、どう料理して出してくれるのかと思っているものには重すぎてしまう。いずれにせよ、私自身がもっと寺山修司を研究しない限りこのコンサートに近づくことはできないと思った。また、"語って"くれる方がわかりやすいと思った。歌でも語りでもない部分が効果的である部分もあったが、まずは何をいわんとするのかわからなければ、こちらも受け止められない。云っている“ことばがわからないのではなく、“語り”もしくは“歌ってしまう”方が伝わりやすいと思う。シャンソンがいい例のように思う。何となく美輪明宏氏の「老女優は去りゆく」のシーンが流れ続けていた。(以前TVでやったのを録画して持っているのですが)ものは違えど、鳥肌が立つのは、美輪さんの方。これは個人的な好みだろうけれど。更に中原中也の「生い立ちの歌」については、一過言持っている私としては、「ああ、こういう叫びの部分があっても面白いかも。いつもならば昼夜のじめじめした心理描写を別の箇所でしっかりとやった方がいいかも」とも思った。その方が“叫び”が生きてくることも考えてのこと。さて、このビデオは今の若い20歳ぐらいの人はどう思うのでしょう。かんばみちこさんは、どんな人か知らない世代(私だってリアルタイムではないが)にとっても興味があります。聞いてみたいです。

 

 

 

宮沢賢治

 

見ている最中も、映像の世界へ引き込まれていくとても不思議な空間と雰囲気。宮沢賢治の物語だったからこんなかんじだったのかなとか思うが、あの化学の実験カラーの鮮やかなことといえば、本当に幻想的でした。自分の創る世界にどんどん人を引き込めるというのは素晴らしい。そして凄い。簡単じゃない。最初の方に草野心平の朗読があった。日本昔話以上の深さを感じた。とても切なく、そして生きてきた長い道のりを感じさせるような芯を感じさせる声。優しく暖かい世界のような、不思議な感覚だった。いるだけで価値のある人とは、こういう何かオーラを発している人。存在感のある人。宮沢賢治はどう生きたのだろう。草野さんの「とてちてけんじゃ」のリズムやひびきがとても心和むものだった。ああやって読むのか。と感心しました。字だけでは何のことだか、何を表現しているのか方言なのかさえわからなかったから。宮沢賢治の原稿をみて、健闘した様子を見て、「生きてるなぁ」というふうに感じました。ものを創る人間はああやって自分と作品と闘うもので、長い闘いを繰り返していく中で本当にそれが意味するものを、探ることは、とても深い。最善をみつけることや、より以上のものに変えていくことは、創る側の苦痛とそして喜びとを両方抱えている。どちらを選んでいくかは、本人次第だ。どういう自分がどういうものを選んでいくのか。深いものはたとシンプルでも人の心の奥に残り、時や国境を越えるんだということを改めて感じました。あ、シンプルだからですね。余計なものがないということは実は凄くて、やろうってすぐできるもんじゃないのと、余計なものって一体何かということを判断できる力があること、その力をつけることがとても凄かったりすることを考えても、シンプルって偉大です。目指すに値することだと思います。常に思ってはは実行しなくては、本当にそういう生き方や人間へ向かえない。感覚の鋭さがより要求されるんだと思う。シンプルなものは、素材をより活かす方法であったりもするし、質の部分が見えていないと、どうも成り立たない。宮沢賢治の作品にもっと触れてみようと思いました。彼の創る世界に触れてみようと。ことばだけで見えない世界や、見えないけど感じる感情を伝えていく(イラストや絵も入っているけれど)、このことの重さは宮沢賢治にもよくわかっていたことだろう。しかもこの重さに気づきだすと、妙に慎重になったり、ただひたすらに思慮深くなったりする。裏目に出るのは怖いけれど、この重さ知らずして筆は持てないだろうと思う。いろんなことが意味ありで、それでいてしぜんなことは本当に美しいと思います。ジョバンニの銀河をもう一度、活字で触れてみてその美しさにひたってみよう。

 

 

永平寺

 

私は一つの訳で20の解釈があるといっていた。など一つの解釈も1フレーズでも出せないのに、一体どのくらい差が離れているのか。まず、一つ出すことが課題か。お腹の動きがよく見えた。出し切って息が入るときに一瞬ゆるむ感じがして、またぐ一と力が入ってまたすごく姿勢がいい。それには声を出すということの力みがないし不安もないからか。腹から声が出ているのがあたりまえで、これができないとフォームのことなど気にできないのか。体のことだけでいうと、まず息が吐けて、それが声になり、その声をいくら使っても大丈夫なフォームができてくるのだろう。それと同時に表現を出していき歌にしていく。サザーランドという3人は3~18才の時点で15年もしていて、そういう人に追いつけないまでも同じ土俵に立つにはもっととにかくやるしかない。

 

(命を賭けて望むもの)凄まじい。何をそう思うのか。失敗したら死ね、という不文律があること。どんなことがあっても休んではならないこと。命を賭ける。命を賭ける。なぜ。どういう理由があるにせよ命を賭ける。命を賭けても手に入れたいものがある。今日一日、無事に過ごせるかが最大の関心事になるという。万一のとき、自然に溶け込んで生きたいというこの世での営利栄達と全く離れたところにいる。本当に欲しいものだけに命を賭ける。その中にも一日だけ人のための修業の日がある。それはなぜか。やはり生きた仏様に思えるだろう。それはなぜか。命を賭けて極めているからか。このためなら死んでもいい、と思えるもの。いったい何なのだろう。とにかくこの人は極めている。とにかくやっている。そして成し遂げた。そして今、日本国中のために拝みたおしたいという。こういうのも欲というのだろうか。他人のために生きる。彼に掃除・洗濯・子守に6年間を費やした小僧時代があることが大事な気がする。

 

 

 

【お水取り]

二月堂で、世の平安と人々の幸せを祈っていたとは。世の平安と幸せを祈ったことがあるか。ない。祈りとは段階を踏んで成り立つもの。それをすべて引き受けてくれる人がいる。自らの務めとして。燃え上がる松明の火の粉を頂く身になりたいのか、炎を創り出す人になりたいのか。すべて万事間違いなくいくわけじゃない。声明も若い僧が間違えるのを直されながら覚えていく。直す僧も昔は若かった。

僧が頭数そろえばできるというわけでもなく、様になる人々が大きく小さく支えている。どれ一つなくなっても駄目。互いに支えあっている。人々がいるから幸せを祈りたいと思う。無人島ではこういう形になれない。祈ってもらえることに感謝する。支える。私も日本の国の一人として祈ってもらっている。私はどう生きる。どうしようもないものを抱えながらも平安を祈らずにいられない。同居している。自分にできる祈りとは。