レッスン感想1 747
体が強くなければ、のどが開いてお腹から息がまっすぐ出たとしても弱々しいものにしかならないだろう。一流は皆、強い体をもっているけど、カンツォーネは本当に体の強い人が多い。それも皆、平気な顔して歌っている(あたりまえか)。こう歌いたいという思いと体の差は大きい。この人の歌い方を聞いていると、どこで休むのだろうというぐらい休んでいない。最初から最後まで全力投球だけど、のどをしめて大声張り上げているのとは全然違って、ためこんだ玉を大砲のようにズドーン!!ズドーン!!ととばしているよう。同じような強さで歌いたいと思うが、もうスタッカートの息の強さが全然違うし、深い息を流しながら強くして弱くしてなんてことも全然できない。体が本当に強いということはこういうことなのだ。
のどが開いて声が出たときは、どこにも邪魔されないわけだから、ストレートに腰の方に負担がきて力が入らなくなる。下半身の支えも甘いし姿勢なんてくずれにくずれて、叫ぶことさえまともにできないんだなと改めて考えさせられる。でも!!トレーニングすれば体は必ず強くなっていくという確信がある。
考えるのではなく、やらなくてはみえてこないことがたくさんある。自分の体の感覚は自分にしかわからないし、自分にとっても未知のものだ。私は時間を無駄にしたくない。遠回りしたくないということではなく、トレーニングの一つの呼吸でも、ここでのワンフレーズでも、今、自分ができる最高の力と思いを込めてやっていっても、どうなるかわからないのだから、とにかく全力でわかろうとしていかないと、何もみえてこないだろう。自分の体と心を自由にさせてあげるには、器を大きくしていくことを考えていかなくては。ことばの息読みを徹底してやっていく。
本質に、はまること。(1)音楽の本質(2)体(に入れ使い切る、あまらせない)(3)表現(加工)(4)ここから先が勝負の世界。ここまでいってからが本当のスタート。流れのなかで何が飛び出してくるかイメージを出していく。体とオリジナル体のできること/呼吸にのせていくbut気持ちよさのうち。音を聞くとき素直に。子どものように聞く。同じ体のなかでできないことがある。自分のピークを残すとか考えてやるのでなく本能でやる。どうしてできないのか、できるところまでの距離に気がつく。伴奏が入ってきても、ヴォーカルが方向を決めていく。何もなくても自立できていることが前提。リズムのあるものが好きだ。入りやすい。よいことなのかもしれないし、悪い部分もあるのかもしれない。、
胸でとれない。体でつかめない。だから放すこともできない。体と息が結びついていない。息が吐けない。楽をしようとすると、前のクセでのどにきてしまう。体を使うと確かにきついがのどにこないし、しっかりした声になる。もっと体を有効に使い深いところで息を声にできるようになりたい。ここで息を入れたいというところでその通りにならない。手拍子からリズムをとっていく訓練が必要。だんだん体でとっていき、体に入れていく。全力でやると、その分みえてくるものが大きくて多い。中途半端でやると、その分しかみえてこない。全力でやったからこそ、みえてくるものがある。体のしんどい方に表現を引き受けていく。その人間がどう伝えようとしている。その人の練り込み方を考える。
ヴォイストレーニングの声で歌うのではなく、そこから取り出したものを歌に活かせるようにする。また深くつかんだり、ねばり過ぎるのも退屈な歌になってしまう。そろそろ歌の動きまでを感じとれるようなトレーニングも取り入れていく。
歌とはしぜんなもの(人間にとって生理的にも感覚的感情的にも)であるから、しぜんなものから学んでいく。たとえば息は吐けば入ってくる、その次にまた吐くものである。普段の生活のなかで話したりするところから学んでいく、考えていく。呼吸、発声、ブレス。体を無理して使っているのは却って不しぜんである。また、頭でばかり考えて、ここでブレスを入れて体をこう使って、というようにしていると不しぜんになる。頭はもっと違うところに使わねばならない。
ヴォイストレーニングとは、息をいかにコントロールできるかというトレーニングである。これは、声のコントロールに直結する。表現としての技が備わってくるかどうかということが大切である。体が使えたからといって歌が歌えているわけではない。ただ息を吐くだけとか、体を使うだけということは無駄であり、トレーニングとしてはおかしい。トレーニングのためのトレーニングにしてはいけない。パワーも必要だ。しかし、コントロールされたパワーでなければ使えない。しぜんな感覚がわかってくると、コントロールするということがわかってくる。深いところでコントロールする。
何のためのトレーニングかということを常に問うていく。中途半端な感覚を捨てていく。常に確実なところをみていく。コントロールされているかいないか。コントロールとは、そうしなければというよりも、そこにしぜんな力が働いてくる。「こういうふうにやると確実だったんだ」と問い正していく。自分はどういうふうに出しているんだろうということを見ていく。一音一音確実に出していく。ただ出しているというのはだめ。歌とは普段の感覚、特にポップスはそうである。普段の感覚をもっと考えていく。自分のペースをつかんでいくことも大切。声がよく出るペース、体のペースなど。
本来出しやすいはずの音域が一番クセがついている。「ハイ」と同じ感覚でフレーズが歌えない。ストレートに声が出ない。最初からクセのついた無駄な声の出し方をしているので、フレーズの最後までたどりつけない。もっとねらいを定めて発声すること。“4つのフレーズを一つに捉える”ということ。
一つのポイントを捉えて動かす感じは聞いていて徐々にわかってきた。
「スタンドマイクを使っているから、お腹のひびきがよくわかる」と言った先生の指摘は興味深かった。自分の体におきかえて声を聞くためには、こういうことがわかる耳が必要だと感じた。マイクや録音状態によってどのように音が変わるのか、それぞれ比較しながら違いを感じることができるレッスンを機会があったらお願いします。
まず、本質をきちんと捉える(リズム、音程、音の動き、ヴォリューム)-イメージをもつ、ねらいをもつ-音におきかえる、動きをつくる表現(音楽が入っていれば、すぐ表現に移行できる)-次につなげる、余力をみせる。出ている部分、引いている部分、広がっている部分、しぼんでいる部分という捉え方。日本語…一つの音に一つのことばもっとことばを入れてみる。抜いてみる。大きく一つに。
とても内容が濃い授業で、わかったつもりではあるけれど消化不良のまま腹の中に大きく固まっている状態です。ひとつひとつほぐして、自分に吸収されるかたちに分解するために、時間が必要です。歌のフレージングのリズムは常に均等ではない。そこにうねりが生まれる。拍を打つ瞬間よりわずかに早く入る感覚を磨く。ヴォーカル声は曲のブレイクからビブラートに至るまで一定のリズムに乗っ取って動いている。特に外国のヴォーカリストの歌うスピード感に注意して聞いてみる。例えばF-1のスピードでカーブを曲がる(コントロールする)場合にF-1ドライバーはコース全体を頭に入れている(描いている)からスムーズに行える。一曲全体のイメージにつながるワンフレーズになっているか。
「リラックスすればホームランが打てるか」という、まさにそれなんだ。まず足して足して、そこから余分なものを引いていく。もつと多くの攻撃パターン、コンビネーションを試してみるべきだ。あらゆる角度からパンチが撃てることができて始めて得意の必殺パンチが活きる。必殺パンチがあればの話だが…。声で表現する、していたかという点でもまったくできていなかったろう。たとえ大きなアクションをつけずに、淡々と語るにせよ、気持ちをともなわせて深く伝えようとすれば、おのずと息が必要になるだろう。今日はからだも棒立ち。全然使えていなかった。棒立ち⇔棒読み、つながりがありそうだ。
もっと厳密によりわける作業を耳と体の中でしてゆく必要があると思う。音楽や音声は自分の体の中のリズムや呼吸に合っているものを出してゆくものであるが、そこのところの選別作業に甘えやマンネリ、自分の出しているものへの客観的なチェックの不足があるとたぶん似て非なる方向に行ってしまう。目的をきちんと(仮定でも暫定でも)持って、そことの間へ不足しているものや必要な要素を盛り込んでゆく。、
イメージとしては手縫いで2枚を縫い合わせる作業をしてゆくとき(長い距離を縫うとき)まち針を打つようなものだろうか。2枚の布も必ずしも同じ材質や長さではない。まち針というあるポイントまで進むには、針を持つ手にも、布を調節する左手にもそれぞれのポイントまでの間のこと、そこに焦点が合うようにの逆算が一針一針に必要になる。どのへんまでどのくらいの強さ(結構肝心)で縫ってゆくか、どんな糸がいいか、どの縫い方が目的に合っているか、ぴたりとおさまるか。もっとも表現ということでは不測の条件は必要だろうが、基本としての、押さえるべき焦点への目的意識がないと一つのものにならない。、
話しとかはもちろん学びにつながったけど、グレードの上の人達の取り組み方や態度を肌で感した。だって、アドバイザーの人とかもいるんだもん。びっくりだ。オレが教わった人も一緒に学ぼうとしてる。ああ、ここはそういう所だ。レベルは違うけれど同じ状況から数々を得ようとするもの、一つでも何とかして得ようとするものさまざまだ。そしてなんとリラックスしている人の多いことだろう。アーティストってゆうか、グレードが上なら当然だろうがそれを肌で感じれたのが大きい。こんなに動いていいんだって思うようにやっていいんだって。入門の人達ばかりの授業ではそう得られないように思う。人のやり方というのがみれた。得たものの一つがこれかな。まだあるような、ないような。
やったことはフレーズを聞いてそれを次々にうたっていくということ。大事なことは、要は感覚で捉えそれを自分の感覚に変えて音声で表現するってこと。らしい。それを意識してやろうとすると困難の度合いが身にしみる。何故ってまず捉えることもできていないってこと、つまりきけてないのだと思う。そしてね、自分の感覚てナニヨ?それが、あるって確信的なものがなきゃダメでしょ。
オレなんかここをこうしてみようとか、弱くとか強くとか小さくとかのばすとか切るとか音ちょっと変えたらどうかとかってまさに計算的。感覚の世界じゃないよ。音ってさ。見えないし、書けないし、どこに存在してるかもあいまいなものでしょ。美しくふるえた空気みたいに。一瞬。時ととけあってる。そんな宇宙みたいな不思議なもの、計算で操れる気がしない。一つの手としてはあるかもしれないけどね。自分の感覚すら定かではない。歌が上手くてもそれがついてないと悲劇というものだろう。なぜか深みがない。思い出のラブソングなんてものにはなりにくいんじゃないかって思う。
いい曲がたくさんでている。それをみんな秀でた外人ボーカリストに歌わせたら大ヒット名曲になる曲だってたくさんあるはずだ。そんな名曲をさ、もったいないよね。ちょっとアイドルなんかにあてがうのはさ。オレはね。作曲については別に日本は外国より、劣っているってことはないみたい。歌みたいに。そう、それで話を戻すと、オレはいい声だそうと、大きく出そうと形にはしょうってことで音とろうってことで精一杯。最後の方はようやくやりたいようにできはじめたけど計算づくし。
あとやったのは、フランス語かなんかの歌の日本語の歌詞が書いてあって、その歌詞を好きに自分で当てはめていくというやつ。前にも似たのをやった。一通りはできたけど、アカペラではまずムリ。足りないのはリズム感とそれに歌詞を乗せていくという独特の感覚、そしてそれらのもとを感じとり聞き取る感覚と耳。足りないものばかりだ。でもそれを知ったせいで気が切迫してきた、やらなきゃならないことの多さに気付いただけでもいい時間といえた。
歌は「自分」の象徴だと思う。だから、それはすぐにわかってしまう。どんなに感情を込めようとしても、どんなに一生懸命やっていても、それはまだまだ余裕のある状態でやっているからわざとらしいし、伝わらない。自分は一生懸命やってるんだと思い込んでいるだけなのしょう。自分をもっともっと極限まで追いつめないと…。いつかは事前に内にあるものをとりだせるようになる。しかし、そうなるために、今は自分で自分をどん底までたたき落として、そのもがいている中で始めて何かがつかめるのだと思う。ふとした時にわかる時もあるけど、それは毎日毎日つきつめてやっていて、そういう開ける時にでくわす。たった今は、自分がちゃんと進んでいっているのかよくわからないし、求めるものと現実とのギャップの中、ジレンマに落ち込んで不安定でしょうがないけれど、求めるものがあるのだからやっていこう。
先生の声を聞くたびにすごいなと思ってしまう。とても安定したすごく落ち着いた声。うしろ向きに話していてもちゃんと聞こえる。先生の言うこともすごく納得してしまう。あたりまえだけれど、私よりずーっとずーっと前から音楽と一緒で、体をつくり、声をつくり、また、様々な世界を見て、先生の世界というものを築いてこられたのだなあといろいろ思うことがあります。
今日のレッスンはとてもたくさん人がいて、そのたくさんの人の中に私がいて。そしたら、そこで「私」をきづいてもらい、また私が場の雰囲気を変えようと思っていても、そうならない自分にどうしようもなく、イヤになってしまう。まだまだ音に入り込めていない自分、体のなさ、ことばそのものの力の宿る声のなさ、つめの甘い自分を感じずにはいられません。そしたらどうするか。求めるものの為にはどうしたらいいのか、追求し、追求し、全力で取り組んでいくしかないのです。
知っている顔が増えたせいか、ステージ実習1の時のような緊張感がうすれてきたように思う。「なかなか良かったですよ」なんて会話がなされているのを端から見て、なんだかなと思ってしまう。自分の歌の評価は結局自分がするしかないと思うので(他人の評価がどうであれ)他の人の歌の評価は口に出して言うまいと思った。どうしても迎合したことばが混じってしまうので。
せっぱつまった、ギリギリの感覚。言わずにはいられない、歌わずにはいられない感情。自分の歌っている歌が本能のままの自分の肉体から発せられているものなのか、今一度間うてみる事だ。ただ気持ちだけが先走りそれが歌として出ていなければしょうがない。そのためにはそれを表現するだけの基礎的な事、技量が必要となってくる。その音の細部にまで神経をゆき渡らせなければならない。そうするためにはどうしたらよいかと考えれば課題が次から次へと出てくるはずだし、その課題への取り組み方にも慎重にならなければならない。こんな事はいまさらここで甘くまでもない事かもしれないが恥ずかしながら私にはかなり欠けている点である。その事柄に対してどれだけ自分が素直な気持ちで向き合うことができるのか。私にとって重要な問題。本当に心からのってるの?心から叫んでいるの?あらゆる疑問の礫が私に投げつけられる。それはもう自分の中の問題であるから当然自分で処理していかなければならない事。かといって体がガチガチになりっぱなしでは体力ももたないしある程度の柔軟性も必要なのだろうか。それにしても音楽をことばで表現するのは難しい。
本当はこういいたいんだけどうまくことばにならないことが多い。間違ってとられたくないし…と思うともうことばにつまってしまうか無意味にだらだらとことばを並べてしまったり…。ことばって難しいですね…。そういえば今日は“暗い”という類の曲をいろいろ聞いたのですが、普段私は実はのりのよい曲を聞く方が多い。というのもそういう曲を聞くと暗くなってしまうからという理由があったのだが、今日のレッスンにでてみて本当に心から暗くなっているか疑問に思った。ただ感覚的なものだけにすぎないと思う。昨日も先生がおっしゃっていたが、ここですでに私は先入観を持ってしまっているということだ。自分の中の壊さなければいけないものがまだまだありそうだ。
ジムで危険だなと思ったのは声を出しているとやった気になってしまう事。ここでは流れて最後までいくのが目的ではない。これだけの疑問をもつという事は結局できていないという事なのだからそれを頭に置き原点に戻って自分がどういう状態で発声しているのかという事をもっと感じなければならないと思った。
表現の欠乏、感受性の欠乏が改めて大問題になりました。もちろん“声”の勉強をしているのですが、それが押し寄せてきて、“歌を歌っている”のではなく“声を出してる”だけになってきているという、デンジャラス・タイムです。ヴォイストレーニングと歌がごちゃ混ぜで、わからなくなり、自分の声、歌を録りまくって、悪いところ(歌になっていないところ)と、良いところ(歌になるところ。自分の声のポイントのところ)などPickUpし、少しずる、何か、暴かれてきたようにおもう。
自分が適当にソルフェージュを歌ったとして、その時出てくるメロディーが割と、バックで古めかしい音楽がなってる感じ、何か、自分のリズムみたいなものがある事に気づいた。声が少しずつ出てくるようになると、意外な発見がある。それがワルツだったりして、じゃあシャンソンをもうちょっと聞いてみようかなーとか、それに、何と言っても、(オーケストラ)クラシック(映画音楽にもハマッていますが、特に映像を知ってるものは、心に入ってくる。音楽に入り込める。)を改めて聞くようになった。抑揚とか、組曲になると、そのシーンごとの表現(演奏にしてもオペラにしても)や、曲作りのされ方など、とっても勉強になる。というか、今、身体は、それを求めているらしい。
何もない自分を知る気づくた為のレッスン。何も無いことに気づくということは全然気づかないよりましだけど、気づいただけじゃなんにもならない。そこから動かなくちゃ自分の生きたいところへたどり着かなくちゃ何も気づいていない。わかっていないのと同じ。
コメントを聞いてビックリ!!「声」は心の状態がそのまんまあらわれるということをまたまた実感させられた瞬間でした。「体は出したがってるのに自分で邪魔してる」ここのところ現在の生活とか、この先のこととか、自分は今どうしたいのか何をすべきなのかetc…。うだうだと考え込んでいて、まだまだ余計なものをたくさんたくさんひっつけているなぁと思いながら1日が過ぎています。きっと無意識のところではちゃんとしたこたえみたいなものがあるのに、あーだこーだと逃げ道を作ってわざわざ遠回りしている。すごくもどかしい。がー、すべて自分の中で起こっていることなんだ。他人のせいにしたりかんきょうのせいにしたり都合よく考えようとしても、全部自分で思いこんでがんじがらめにしているんだ。余計なことばっかり考えて邪魔してしまうこの頭がカポッととりはずせればいいのに…。でも、取り外せなくてもスイッチを切ることぐらいはできると思うようになってきました。何が何だかわからなくなったら、とりあえず呼吸をしていることだけで幸せな情愛にもどってみようと思います。そして、自分に起こっていることを客観的に観察してみようと思います。
私は自分の声というものがこんなに勢いよく出るとは思わなかった。発声する時、歌う時上半身がかたまってしまうのはわかっているのだけど声を出さねばという意識がそうさせてしまうのだと思う。上半身を動かしながら声を出していたら自分の声が生き物みたいに体から飛び出していって限りなく出るような気になった。ピアノの音程とかは意識になく自分のからだの感覚だけで声を出していたように思う。思うという言い方は何だか変だけど実際考えるとか意識するということが全くなく体がやったことと思っている。純粋に声を出すということはこんなに楽しいことなのだ。
音が、自分の中にすんなりと入ってこないことにはイメージは湧いてこない。音楽を聞いてしぜんに自分だったらこうしたいというものが出てくるようにならないと。(体と耳が同時にできてくるとわかってくるのだけれど、何としても把握する)
「できているできていないの問題ではなくて、本人の意志の問題で、自分がどうやりたいのかどううごかしたいのかその意志がでてこないとダメ」という先生のお話だった。
最近特に感じるのは、伸びる人、伸びない人というのがどの世界においても存在するが何故そうなるのだろう?と考えるとそのポイントは、気づくことにあると思う。伸びない人というのは目標が漠然としていて、何をどうしていったらよいのかというポイントをつかんでいないのだと思う。
目標はハッキリしていてもそのための対策として何をどうしていくべきかこれがものすごく大切でそれをできるだけ具体的に挙げてそれを実行しそれが正しく効果を出しているか厳しくチェックし反省し謝っていれば対策を修正する。それを面倒に思わず実行することによって他の人よりも無駄な事(トレーニング)をしなくなるのだと思う。そのチェックする行動の大切さに気づけるかどうかで伸びる伸びないが決まってくるように最近は思う。
何かしようとしないで自然体で表現するとおっしゃったが、やはり表現する意志や自分の感じたものを盛り込む作業をしないとダメだと思う。課題をやらされてるという感じがやはり出てしまっている気がする。できる、できないは別として表現する意志が前に出ないと、いくらこの練習を続けても進歩はないと思う。
時間という空気を手で掻いて、容易にすり抜けようとした。いわゆる逃げたいと思っている。自分を確立させようと。うたえる海に着いたのに。なぜか心が抓られるよう。早く深呼吸の出来る場所を、自分の手でつかまえたい。それには、今日の何倍も苦しみたい。体の中からあふれ落ちるほど、歌や音楽、美しいものが入っていない。隙間があるから、現実が入って来て、追っ払えず、何でもない人、普通の人、つまらない人になってしまう。もっといっぱい入れようと思った。
何度聞いても、いくら集中して聞こうとしても、どうしても耳コピーできないヴォーカルがあることを知る。(「待ちましょう」ハードロック調のアレンジのもの。誰なのかわからない)声を、まるでギターのフレット上を自由に行ったり来たりするかのようにひずませているので、こちらの耳がついて行かない。音に対する感覚、体の中にある音の種類が違う。彼の音が3次元にあるなら、私のは2次元、という感じ。
外国人との音を出すときのイメージの違い。音が上に上がる時体は低いイメージをとっている。今までずっと高音に行く時は心も体も一緒に上がるイメージで過ごしてきた。すっかりその感覚が身についているようだ。言われてみると高音域と低音域でのひびきや質感が変わってしまって一定な音質を感じない。今までしみついてしまったイメージを変え、それを体に覚え込ませることをしなくてはいけない。日本とむこうの人は音のイメージがずいぶん違うんだとしみじみ思った。故に出てくる音も違うのだなと…ことばの違いというのも影響が大きい。
自分でやってみると一点に集中してしまって全体的に見ることができないし、おろそかになってしまう部分がでてくる。例えば「オニジョルノ」の一言をとってみてもここで大きくする!という事で頭の中はいっぱい。最初と最後はすでに頭からはずれている。他の人のを聞いているとやはり日本語的なのっぺりとした感じに聞こえてしまった。はぎれがない、リズムがない。フレーズを一つに捉える事が難しい。まずそれがイメージできない。外国の曲は一音がたくさん入っていたりするのだが、それを聞いた時音として捉えるよりまず何を言っているのかとことばを一つ一つ明らかにしたいという聞き方のくせがあるという事に気づいた。そうするとその時点で一つのフレーズがバラバラになってしまう。正しいイメージを作るためにも聞き方も変えなくてはいけないなと思った。
先生に講師やアドバイザーの使い方が悪いと言われて、その通りだと思った。アドバイザーに頼るとか、教えてもらうとかそういうことではなくて、自分が最高のものを出して、アドバイザーをあおれるぐらいになって良い時間を作ろうとしないとダメだと思った。
走っている時は体を意識しないという所から(しぜんに体が使われているので)体に覚え込ませる。力を入れる事と抜く事をしないと体がもたなくなってしまう。解放してあげる事も大事。このバランスがたもてないと声ももたない。トレーニング後の体の調整をしてあげないと楽器もこわれてしまう。
60分間、腰で支えて声を出すということをやれた。今までも、充分に意識をおいてはやっていた。でも、今までのそれは、声を発する前の腰で支えるための構えを作らずに絞り込む感じだったので、絞ってゆくにつれ不安定になることが多かった。その点に関して、「息を入れて腰を外に出し、吐くとき更に外にふんばる」というアドバイスを参考にして、息、或いは声を出す直に一瞬にして息をためる=構えをつくる)ことをすると、そこを起点にして声をストレートに掴まえ易くなった。声を加工せず、直に出すという感覚に近づき易くなった。
今日のようなレッスンは初めてだった。内容は、耳で聞いた事、自分の声で取り出す。こんな単純な事だった。なのにどうしてか今までの中で一番レッスンらしく感じた。正直言って、ことばなんて聞こえてこなかった。それでも、少しでも近づけようとなんとなくにでも感じが出るようにと必死になってた。こんなに歌に集中して聞いた事、今までなかったと思う。それでもハッキリと聞こえてくるものなんてなかった。それが、今のボクの耳なんだと思う。それはそれはガッカリするけど、それでも今日は良かった。自分の聞く力のなさがハッキリとわかった。
スタジオに入って音楽が流れていたら、すぐそこに入っていける集中力でレッスンにのぞまなければ意味がない。1フレーズを回していったとき、うわべでなく体で思いっきりやる。そしてそこで自分と本物とどこが違うのか、それをうめるには何をしたらよいのかを理解し、それを日々のトレーニングにしていく。
1上のひびきを残したまま、胸にも入れる。体の中が瞬間的に開いて胸から頭まで一体化した感じがした。音は押し出されるのではなく、いくつ音があっても瞬間の中にすべてがはじける感じがした。
2「姿勢」「体が動いて「いる」を踊りなどに合わせて消化していく感覚もある。声を出している内に体が一つに固定していく。声を含めた連続した動きを感じていきたい。一つの音の中に次の音の線をつなげていくこと。これをやるためには、最初に自分の出したい音のイメージがあることが大切だと感じた。出したい音の感覚に体中がなっていることが大切。
体と相談しながらやるのがフレージングの練習。体に相談するという発想が自分に無いように思う。サビ、歌いたいところのために歌い手として向かっているか?最初からそのつもりか?フレーズを1つとしてとらえてみた。1つとしてとらえるってなんだろう。〜こういう大きな弧の中に1フレーズをあてはめて考えてきたが、何だか薄っぺらな解釈…と思ったとたん、分からなく見えてきた。
ロングブレスは“エス”の音で。ハーでやると音が抜けやすい。エスの“ス”だと抵抗があるのでよい。吸う息は深く、丹田までのイメージ。短い時間で深く吸えるように鍛える。歌うと体がしぜんに息を吸ったり吐いたりできるようになるまで体のバランスやフォームをもっていくこと。声のまとまりについての自分勝手な考察~声の芯があってはじめてそこからまとまりの第一歩なのではないか。声の芯をもっと深く、太く、丸く。意識して意識して吸うこと。(私は特に吸うのが苦手)吸わないと吐けない。日常、胸で呼吸したら自分で罰金ぐらいの気持ちでいること。
「構えをつくるというのは別におなかに力を入れるということではない。不しぜんにふくらませたりすことでもない。変に頭で難しく考えすぎている」今日の先生のコメントは目からボロッとうろこが落ちました。強化トレーニングとして行ってきたメニューは確かにわざとおなかをふくらませたりへっこませたり、意識してやってきたので、変なふうに頭にしみついてしまっている。もう一度同じメニューを違った意識で、もっと自然体ということを一番優先してやり直してみようと思う。
福島先生に指摘されたことで、もう一度やり直すつもりだったが、全く同じ意識でやり直すのではなくやっぱりそれなりに工夫をしないといけないんだということを感じた。トレーナーの「別に迷うようなことじゃないよ」ということばはとても心強い。いろいろな先生からいろいろな角度で指導してもらっても、それに迷ってあたふたするのではなくて自分の中でしっかりそれぞれを消化したところで行動にうつさないと身(実?)にはならないと思った。何か今日はとても幸せな気分になった。自分がとても贅沢な環境にいるということを感謝したい。
自分が経験によって積み上げてきたものをベースにしてアドバイスをする力はもちろんだけど、自分が通ってこなかったものが教えている人の中からひょっこり出てきた場合の対応の仕方がどうかという点がいい指導者かどうかを問われる一つの要素にもなるのかな……。一流選手が引退後に一流の指導者になるとはかぎらないのって多分そういうことかな。ただし、大大大前提として教わる者の意識がなければ何の意味もないということ。肝に命じておくこと。
踏み込んだら、次も一つの線上につなげていく。送り渡していく。先でフレーズを捉える。音をバラバラにしないこと。音が前へ飛んで行かなくなってしまう。伝える=ベタベタさせないこと。音符のまま歌わない、コードの中に何を感じるか。コードでフレーズを作っていく、乗せていく。シャンソンは、そういう意味では優しくもあり逆に難しくもある。
息の通り道を感じること。まず仰向けに寝て腰の膨らみを感じるように息吐きを行う。4段階に分けて段階的に息を送り込んでゆく。その逆も行う。それを、体でしっかり感じながら、息の流れを通り道を探る。その後、立ち姿勢になって行う。前傾の方が、身体の動きは感じやすい。寝ている時のトレーニング時に息の道を感じられなかった。普段の息吐きから、腰回りにちゅういを入れてやりすぎていたからか、リラックス「脱力」してやらなかったからだと思う。
立ち姿勢に関して、今までずっとどう立てば良いのか分からず、統一できていなかった。今回、教科書通りに、シンプルに戻ってみた。してみると、作らない声で出せている瞬間があった。息がツーと通っで声がいつの間にかついているという感じ。そのまま、音に合わせて昇っていけた。楽だった。でも、下りていく時に(上昇の際途中で止めた音)から入ると、体に力の入った息の流れのない声になってしまった。でも、とりあえずは今日の姿勢でやってみようと思う。
その曲を知っているのと自分の体に入っているかとは違う。いかに先入観に左右されて聞いているか。また、知っていても実際自分がやってみると出来ない。音が取れない。音がすっと入ってくる体になっていないということが明らかになる。初歩的なことがでいていない。ハーモニーを感じられるように。何故その音がそこにあるのか、全体の流れからそこに行き着くことを捉える。舞台に立つものは聞いているもの以上の膨大なエネルギーを持っている、出している。
最近、自分の過去の「好き嫌い」はあまりあてにならないなと感じる。音楽は自分がその時に体の中に持っているものや欲しているものによって感じ方が違ってくる。今まで退屈だなと思っていたジャンルでも飛び込んでくる音があるし、また自分が好きだと思っていた曲でも全然違った印象を受け新鮮に聞こえる事がある。今まで気がつかなかった音がふと耳に入ったりする。今も全然聞けていないのだが前はもっと聞けていなかったんだと思う。今まで曲を覚えるやり方として先ずはメロディーばかりを追っていた。さらには感想の所など数で数えたりしていた。これはまずいと思う。もっと音楽の全体を見なくてはいけないと思う。流れの中でなぜこの音があるのか、曲が高揚していく感覚をつかむ、取り入れる、曲自体の感情と自分の感情を一致させたい。
もっと音楽に対して誠実でありたい。そこにたどり着くまでには自分の中にある固定観念を取り払わなくてはならないし、これが結構くせ者で今まで一緒に過ごしてきてしまったからつきまとってくる。そして基本的な事ができていないということ。キラークイーンを聞いたとき難しいハーモニーだと思ってしまった。結局自分の中にハーモニー・コード感がない。短音で鳴っていてもハーモニーを感じられるようでなければだめ。リズムにしても例えばリズムに合わせて息吐きなどしてもそれがずれていれば声にした時でも戸迂遠リズムは出せない。そういった所からも注意して取り組まなければならないし、もっと体で感じられるようにならなければならない。
プロの声は表情豊かだ、どんな顔で歌っているのか、想像がつく。なぜなのか?まず自分の体と呼吸が一致している。あたりまえのこと、いや今となっては、であって、昔は福島先生にそう言われて「そうなのか」と思っていたけれど、実の所、自分の体でそれが判るようになったのは、ずいぶんあとになってからだ。それから、メリハリがきいている点。これも自分に足りないことは充分わかってはいたが、どうメリハリつければいいのか、これもまた、体ではわかっていなかった。そのため、表面的に音量を小さくしてみたり、大きくしてみたりしたが、大きくして、上の方で横に広がっているだけなので(呼吸と不一致であるし、メリハリとは程遠い…という状態だった。そして、前に出ているかどうかということ、これに関しては一時「前に出ていない」ことにも気付いていなかった。
何のためにトレーニングしているのか、完全に見失う。恐ろしいことだ。トレーニングのプロのためにトレーニングしているのではない、歌うために、人の前に出て表現するためにトレーニングしているという事を忘れていたときがあった。これは途中で気付いて、自分を必死に変えようといろいろと試み、今やっと少し前に出てきていると思う。結局声の表情を豊かにするためには基本的な所を目的を見失わず、あたりまえのことを「あたりまえ」のように思っているつもりになっていることを、いつもいつも自分に問うて、トレーニングしていくことだと感じました。
自分で自分の目をあけなければ見えない。見えていても自分でとらえようとしなければ気付けない。気付いても、見極めようとしないこと、本当の意味では気付けない。本当に気付いてもやらなければ、やれなければ結果は出ない。何も出てこない。何かが出せても、やっとそこからがスタートで、本当の意味での勝負はそこまでのものの何乘にもなってゆく。、
線(ライン)の中をころがす。旋律にことばをのせる。はみ出してゆく(感覚ではのせながら)最小の力で最大の効果を常に考える伝わっていたら使っていることになる(最小でも)伝えることを考えたらどうしてゆくかということ。声は入門1で基本をやりながら、大きなものもとらえてゆく。この時自分が読み込めなかったこと、自分が気付かなかったことを気付く。気付けないと実現できない。
ヴォイストレーニングは音楽的に伝えるために特化させてゆくことである。太く広く/細く他、その状態を意識的に取り出せることから、区別しなくても体がしぜんに取り出してこられるところまで持ってゆく。感覚がはたらきいろいろな声をセレクトして使えるようにすること、取り出したいときに取り出せるようにすることができるようになること=ヴォイストレーニングの目的。
歌は感覚によってセレクトされた完成品である。ヴォイストレーニングはセレクトのできる大きな器づくりであり、一つの正しい声息の中で、ミックスしずらしていく。
ミーナのように感覚を優先して体を捨てるようなずらし方もある。感性が成り立つときからだがついてくるようにするそこまで本来としては不しぜんなヴォイストレーニングをやってゆかなくてはいかない。本番で考えたときは失敗している。トレーニングを裏切る方向が歌としては正しいが、しかし体は使えていなくてはならない普段の練習不足が無意識下で、体が使えていない状況になる。ポジションは動いてゆく、感覚は狂いやすいこれを正しくとらえ直せるためのトレーニング。
体だけを元にするのも感覚だけを元にするのも両方が危険なこと。意識が声をともなっている体の力が抜けているが体が使えているように。そこで通用したものからだけそこから先に行ける。常に器を広げ、外側の限界を決めずに拡がってゆけるように、どうやっているのか、どうしたいのかを調整できるように。どうしたいのかの感性のところ(=きいてきたものとオリジナルの部分)を出してゆけるように。今には今しか歌えない歌がある。体にきいてみる。心にきいてみる。人がどう聞いているのかにも耳と心をかたむけてゆく。、
“音をつかんでいれば、歌は止まらない”すごくこのことばが残った。キープするとか、呼吸をつかむとか、いつもどの先生もいろいろいうが、つまりはこういう事だと、がっちりと、体が息が声を逃さなければ、声はつかんでいられる、それを話さなければ歌は止まらない。ミーナもビルラも、またトレーナーも何らかの形で共通するものがあると思う。体の強さとかそういう部分だと思うが、今は“これだ”と言えない、わからない。もう一度聞いて研究したい。
サビの部分を聞いてから、「このフレーズを聞いて何を気付けるか、自分がやるときに、それをいくつ感じることが出来るか?」正直言って一つも分からなかった。息を吐ききっているとか、一気に戻るとか、情けないくらい何も分からなかった。自分の耳の甘さを痛感した。
声を出すとき心がけること喉をあけておこう、喉をあけて吐ききろうとして出す。入ったところを支えにしてまた出す(そうなのか!)とばして放した瞬間に、投げた瞬間に入る(そうなのか!)テキストどれでもいいから一冊読む。いつでも、どこでも、自らの初心であり続けることが難しいからこそ、その最も大事なことを繰り返し伝えてくれる気がしています。
「自分のスタイルに気付いたら、足下を固めていけ」というお話が耳に残りました。今の私はといえば、自分のスタイルというものに漠然と気付き始めているのだが、それがあまり気に入らないので、もっと別の自分が出てくるのを待っている状態。“出す”ためには“入れ”なければならない。
人の声というものはここまで圧倒させる威力を持っているものなのかとトレーナーの歌を聞いて驚くばかりだった。どうしてあんな風に音を動かせて音を保てるのだろう。私があまりにもすごいと思うことでも先生にとってはあたりまえの事であって何を基準にしているのかが全然違うのだなという事。その人にはそれぞれ自分の世界があってそれで作られていく生まれていくもので、それで自分におきかるとはっきりしないところがあってこの状態では何をやってみても生まれない。一番大切なものが欠けている。
正しい声があるという事ではなく、正しく声を使う。声には良い悪いがあるのではない。一人の中に100通りとかのこえがあり、それをどう取り出せるか。どうコントロールして出せるかということ。といっても絶対的に良くない声は直してゆく。取り出す声が100回同じ様に出せるか、そうでないかが、判断の目安にしてもよい。(「ハイ」を一人ずつまわす)~喉から上で鳴っているイメージではダメ。深くとってゆく。やってみた時体に不しぜんさが出ていれば(どこか変に動いている)おかしいということ。
歌の大切な所とは、最初に声や歌の後ろからきこえてくるものである。そのためには、1自分の声をきっちと把握すること2自分の声を作らないこと3体をしぜんにすること。まだ、体がバラバラになっている。自分の判断でやる。1234の積み重ねでもなく、10のことをやってみて伸ばしていくこと。最小の力で、最大の効果が出せるようにすることが目標でもある。
練り込みとは、例えば、「セ・シ・ボン」の所を「ハイハイ・ハイ」から「ハイ・ハー・ラー」とかでトレーニングしてゆくことである。まずは体からとってゆくこと。力を抜いて小さい声で「ハァー」と言ってみて、楽に吐けていると感じるならば、自分の体はここまでしか体は出来ていないと思うこと。息だけを出していて、そこにしぜんに声にするのが本当である。そうするために、いろんな条件を整えてゆくこと。(集中。脱力。体作り。柔軟。ウォーミングアップ。etc.)
個人の「ハイ」チェックにて〜「ハイ」となっている。アゴ使いすぎ。外に出しすぎ。息広がっているので、息を縦にとること。楽にしぜんに出すこと。などとアドバイス頂く。「ハイ」を言ってみて、少しずつは言えてきてるという手応えは感じ、先生に言われていることが分かるようになってきてるということも思った。一回一回いろいろな出し方をしていて、全然一つの安定した「ハイ」と出ていないと痛感した。体づくりと息吐きがまだまだ足りないとわかる。また、体を90度前に曲げてこうなのだから、まっすぐ立ってはとうていできないということ。体の動きをもっと確認しながらトレーニングをしてゆかなければならない。というのが一番印象に残る。どんな声の出し方でも、100回出せて、使えるかがポップスの大事なところと言うこと。
自分で“線を出していく”こと。10の力をイメージの中では70.80…100で取っていくこと。オリジナルのフレーズについて考えなければいけない要素はいくつもある。基本を置いてその上に自分の色をのせていく。いろいろな置き方がある。今は音程の世界でしか聞こえてこない。音を切らないこと、フレーズの大きさは保つこと。何年後にはこう歌う、というのを見えておく。感覚で全体をとっていく流れルールからはずれない、聞いてる人があきるようではダメ。盛り上がって“どこへ行く?"と思っても必ず戻ってくる。ある意味、音楽ではなく、聞こえさせる。でも作ってはだめ。センスを磨くこと、問題があることに気付くこと。高い方が盛り上げられてもこういう低いところが持たないとすべてがむちゃくちゃになる。
最近はイメージングが重要だとすごく痛感しています。これなくしては、歌は歌えないだろうと思います。だからしっかりイメージを描けるようになりたいと思います。そしてビッチを整えようとして、自分の声を聞いて、ピッチをあわせていたんではいつまでも不安定のままでしょう。そうじゃなく、すべてイメージングの中で行う自分の体の感覚で処理する。それをこれからの課題として、やっていこうと思います。今まで、やって来なかったものを、やってゆかなければ、進歩はないと思います。そして、世界の一流の見本、一流のものを徹底して聞くこと、そのイメージが心に残るまで聞くこと、とにかくヴォーカルを追いかけること、そして明確にそのイメージ・コード感が描けるくらいに集中して聞く。
ナチュラルヴォイスの発見「ハイ」と言う寸前にどこに余計な力が入るか自分で確認できるようにすること。ナチュラルヴォイスはぶっきらぼうな声というイメージ。
・喉が開く支えがある(声を出すこと)。「ハイ」「ラオ」「ララ」でもはじめの「ハイ」の「イ」で喉が閉まるのが普通であるが、そこを開かないと次の「ラオ」へ入れない。
もっと声を聞くこと。もっといろいろ体を使い分けてみること。正しいと思ってることのすべてが正しいわけではないし、間違ってるっておもってる事のすべてが間違ってるわけではない。私の声と先生の声の違いをただ漠然と“違っている”でかたずけないこと。参考になるものは徹底的に利用すること。もっとじぶんでためすこと。
自分の意識が甘すぎてた。自分に自信を持つこと。他のみんなから違うよって言われてもすぐにそれをうのみにしないこと。自分が納得するまでつきつめること。自信がないのは、つきつめが甘いから。ムリに私は正しいって思いこまないで、つきつめた事から私は正しいって、思うようにすること。思いこみの強さは自分を傷つけるだけ。
声を出す前に息の準備をすること。息が深く入ってくる感覚をつかむために一度息をはききってしまいしぜんに体の中に息が入ってくる感覚を覚える。この呼吸の流れに従って声をのせていく。息のタイミングのよい時と悪いときの自分の声の違いを感じとっていかければならない。使う息の量は必要最小限。使いすぎてもだめ。効率よく使う。
よく、先生が「声にするのが早すぎる」とおっしゃっていたが、本当にそうだと自覚した。大きな声を出そうとか、声を出すことを急いで、自分の中に充分に溜めて出せていない。感覚的には出すというよりも、溜める感覚だった。過去の自分の一番良かった時を思い出すと。充分に待つということができずに出してしまうから、力が先攻した、深みのない音になるんだと思う。音質が明らかに違う。溜めて出さないと踏ん張れないし。深さ、キャパシティ、プロにしても、ここが違くて私が欲しいものは、それで、だからトレーニングをしている。コントロールができる。そしてその範囲が広いということ。すべてをコントロールするというか。
この授業に出て、この場に立つと、自分の中の優劣が(過去のものを全部含めて)急にものすごくはっきりとわかる。こうじゃない、こうではない!やっぱり誰よりも自分が感覚の違いを感じる。ひとつは、体。息。声のタイミングが違うんじゃないだろうか。声にするタイミング。今の方が、何だか不しぜんだ。また、ひびきに逃げ気味じゃないだろうか?芯の部分が弱くなっていないか。「ハイッ!」と言いきることすら、充分に芯が体に縦に深いところに入りきってなかった。力先攻、溜められてない、上のひびきだけ。以前は「ハイッ!」で常にしっかり入れられたのに!!ショックだった。その一方で、体、声はあると、私も認める人のフレーズが発声的にはいいけど、ちっとも良くないのを感じて考えさせられた。おそらく彼女も私同様、発声のことに集中してしまって、歌を歌えていないんだと思う。人のを聞くと「そこまで全部強く言う必要ないのに」と思う。「それは発声だよ」と。まさに他人のふりみて…である。
最近の自分のトレーニングに何かが足りないと思っていたが、それが何かを思い出した。それは“怒り”だ。これはどうして自分はこんなに出来ないのかという怒りだ。自分は少々“怒り”があったほうが、集中出きるしやる気も出てきて、変な感じだがリラックスもできる。
よくスポーツ選手が試合前に集中しようとして他の人が近づけないほどのものを出すことがあるというが、自分もそのタイプだと思う。今日感じたくやしさを忘れずに、100倍にしてお返ししてやると思いながらトレーニングしていきたい。
自分の弱点はガーと出して声になるし、よく現れる。雑になるし、体から離れてのど声になるし、冷静になれないし。自分の今の声を壊したい。すべて捨てて、また1から「ハイ」からできるように作っていきたい。それが出来たら、「ハイラララ」「ハイアオイ」と納得できるものが出来たら、それを捨ててもう一度はじめから。
今日福島先生の「ハイ」がとてつもなく深くて、同時にするどくて切れがあって、それでいて包み込むような力があるという事がわかった。今ではただ漠然と深いものだと思っていたが、今日はじんじんと心に響いた。
素直なところでやってゆくこと。ex.見る。感じる。平面を表現する。写実よりもそれとして見るものに見える。デッサン(絵)。歌も同じ音声としての表現。そのもののフォルム(模倣と言うよりマネ)よりも自分の中で感じたものを音の世界で音声で表現してゆく。本質を捉える。自分の大切な時間を費やすトレーニングならもっと意味のある時間を得る。出ているだけ。たくさん出ていても内容に対して自分の精一杯(今/瞬間瞬間のベスト/本質への渇望/トレーニングと表現の位置づけ…etc.)をつくさなければ、いくら積み上げても0でしかない。
テンションを得る、曲の持つパワーを写し取っていく中で、自分自身のものとして変換する力のなさ。自分のものとして音楽を表現してこなかったことに改めて気付く。いいものには出会えてきたかも知れない。聞く機会にも恵まれてきたかも知れない。ただ演る時私は、こんなにいい音楽が、曲が、この曲に対しての音があるよとおすすめ紹介していただけだったのだろう。そのアーティストに対して、聞き手としての敬愛を示してきたに過ぎない。だから与えられるもの、表現されたものとしての聞き方、人のものは批評できても、自分で表現する事や自分自身の体の中も自分をあえて出せるためでなく、形をまねるために動かしてきた。自分を表現しようとした時、力みかえるのは、自分を出す事への不安なのだろうか。、
前屈姿勢で「ハイ」のチェックをしていただいて初めて自分なりに正しい声の感覚をつかんだ気がする。それはまるでおなかの中から声を落っことしたような感覚で「あっしまった声を下に落としちゃった」というようなまるで落とし物が下にストンと真っ直ぐに落ちた感じだった。あまりにも簡単に楽にしぜんに出たので、私は一体何をしてたんだろうと思って、驚きとうれしさと同時にとてもショックでもあった。これがトレーナーの言ってた泉から湧き出る水のように出る声なのだろうか、たりない一滴ということか。毎日声をしぜんに体を使って出そうとしていたが、そして感覚をつかもうとしていたが、すべてムダだったということか?確かにどうやっても体のどこかに力が入っていてどれも満足のいく声ではなかった。先生がいぜん言っていた100やってできたものを完全にいつでもどこでもできるよう完璧にしておくこと、とおっしゃってた意味を大切にしたい。
どんな音程でもどんなスピードでも、自分の呼吸をすべて一本に丁寧につなげていくことを心がけること。表面上の体裁にとらわれすぎず、体の中身をつなげていくこと。30分の間には、いろいろな山がある。最初からフルに出し切ることを目指すのでなく、いつも今の位置から丁寧につなげていく、身体の中心で捉える。
息と体をもっと一体化させて、ボリュームを作っていく。まだ、ボリュームのある声のイメージがしっかり体に入っていない。あごがまだ出る。「い」の音がまだ全然捉えられていない。つかめる鍵がまだ見つからない。出したい声のイメージが明確でない。「今なんなのか、どうなのか」これをつかめてないと、本当の統一は得られないと思う。
音楽を聞くにも、声を出すにも感じることが大切だということ。繰り返しやっていくことが必要だけど必ず慣れて甘くなるところが出てくる。そうすると感じることに関しても鈍感になってゆく。繰り返しの中で慣れずにいるには常に新鮮な気持ちでぶつかってゆかなければならない。聞いていれば、息を吐いていれば、アテンダンスをかいていればという考えはないけどそうなっている自分がいるといことも確か。気を付けろ!
前に出ている自分を後ろから見ているときの距離のあけ方が問題。イメージで体を決めつけない。頭で考えたら体は遅れる。つに捉える。ひとつの方向に展開する(集中力が必要)楽器として反映されているか・表現力のなさを声のせいにはでいない。やってみる。やれない。できるところまで戻るフレーズを捉える時点で焦点がぼやけている。ポイントを集中させれば自ずとその前後は開けるようになるはず。結局クセも個性も自分の捉え方。
自分でイヤだと思うところは直し、欲しい部分は取り入れるようにする。そこを煮詰めれば方向性は決まってくる。ことばで言いきることで勢いを作るという感覚はわかりかけてきている。(コントロールはまだまだできない)「死にもの狂いでやっている人に対してはぶしつけなことは言えない」ということばを聞いて、自分の状態について考えた。
「死にもの狂いでやっている人はぶしつけなことを言われても動じない」と考えるととても自分は「死にもの狂い」にはなり切れていない。やろうとすればできるのにやっていない事が多すぎる。そこを突かれると今の所何も言えない。
ポジションの動かなさ。ゆるぎないテンポ感/声とグルーヴ。普通に聞こえるという事の凄さ。共通のものを取り出しておいて、普通に聞こえるというのは、完成度の高いものということで、本質を取り出しているという事。本物に近い。アーチストの中の本物/本質。奇をてらわなくてもそれの香りが出せる。ポジションの中での自由度。これは大変なことだ。自分はポジションをキープするためにそのことだけに全身の能力が手いっぱいになってしまう。
あ、ずれた、あ、ここがあさくなった、あ、上に上がったなどということの修整に終始してしまう。彼女の歌の中、または多くの一流の歌い手の中ではそこが踏み板で、軸足ポイント(支点)であるだけだ。それが確実であるために、それはそれは自由に様々なものを繰り出せる。保ち、放ち、ゆらし、沈め、爆発させ、でも彼女自分としての本質が源であるというところから、離れはしない。自分に置き換えてみたとき思うことは、いつもじぶんは2通り前後のやり方…というかやり様しかないということだ。ポイントとしての支点を守るがあまり、音色としての自由度を全く失うか、変な自由度というか“はなしてやる”ことを中途半端な理解でやるためのまねや自己満足や感情移入過多になり支点を失うかだ。ほんと共存出来ないものかと思う。、
声がそんなにでないプロが歌っている歌をいい声とか、よくでる声で歌って通用するものではない。声の他にもいっぱいやることがあって、その中の1つでも通用するものがあればプロとしてやっていける。ということは頭では分かっているつもりだったが、心のどこかで、声が出れば何とかなるとか思っていたかも知れない。
頭で考えるのでなく、体で覚えなくてはいけない。ヴォイストレーニングは音楽の中ではスポーツと思ってやる。息を吐くときに姿勢を崩さないこと。声は息の流れに乗せて前に出すこと。下の方に出さない。今トレーニングしていることが5年後とか10年後とかに表れる世界。
アーティストによって、ことばの捉え方、流し方、つかみ方、それに伴う間の取り方、違っておもしろい。歌の世界ががらりと変わってしまう。解釈とか思い入れとかいうことばでは表すことの出来ないもっと素直な生のことば、生の気持ちが伝わってくる。おそらくそれは、深く正しい発声によってはじめて表出されるものなのだろう。時を心に入れる、取り込むというより、体を感受性で吸収して細胞や血にしていくこと。また、鍛えられた体によって、細胞や血がぬくもりを供えて具現化されること。そんなことを感じた。
今まで取り込む感性やスポンジのように吸収する集中力(緩んだ)は、表出する力、エネルギー(鍛えた体)とは別のものと思っていたが、同じなのかも知れないと何となく思い出した。そして、そんな正しい発声から“美しく魅力的な血の通った音色”が出てくるのだろう。複式発声と音色の考え方も、同一だろうと思ってはいても、どこか統一感の取れないときもある。技術は必要、しかし、気持ちがその音色を生み出すものだろうと思っているところもあり、その辺のバランスが難しい。気持ちが(例えば子供に話しかけるとき)優しくなって、優しい音色が出てきたとき、それがブロとして磨かれ鍛えられたものであることが理想なのかななどと考えた。
今日は得ることが多く、すっきりした感じで気分が良く帰れた。何が何だか分からないまま授業に出ていて不安が多かったが、授業を受ける生徒側の立場になっていろいろおっしゃってくれて、不安が吹っ飛んだ気がした。発声も、あってるか間違ってるかでなく、イメージして自分で見つけていくことの大切さを分かった気がする。最初はわからなくていい、すぐにわかるもんじゃないとおっしゃったとき、焦っていた自分が凄い解放された気がした。
息吐きをして(ハー)(ハー)(ハー)空気を取り入れるとき「カッ」と舌根を下げることで息の通り道が出来る感覚が良く分かった。のどは固定されたものでそこを空気が出たり入ったりしているだけ。呼吸のリズム(流れ)を止めてはいけない。息を吸うときはしぜんに行うことお尻の方まで空気が入ったのを感じること。そして息を押し出す。のどがしまってくると声は当然口先になってくる。口の中で操作してもだめ。上半身をリラックスして息の出し入れに集中する。
リズムがあったら、そこにフレーズをどう巻いていくか、テンションの方向性と声が一致していない。メリハリとは気持ちの抑揚、気持ちのピーク(⇔声のピーク⇔からだのピーク)。70年代は声の中にリズムを入れていた。コントロールできるかどうか、声が大きいとか小さいとかということではない。個を伝えてもしょうがない。何が言いたいのか。歌い上げて、それで?どうしたいのか?今の自分に一番欠けているところ。感覚・それを受け止めたか。からだそれをどう出すか、技術。その感覚、感性をみがくためにいい音楽を聞きなさい。何の目的のために体を鍛えているか。一つの独立した世界を作れば誰も何もいわなくなる。しかし、それを持続させるものは何か?歌いたいことを歌いたいように歌う。そのための技術。ことばの世界をいかに音の世界にするか。ことばの読み込みの重要性。技術でカバー出来るのは1割か2割。
いろんな線がある。絵(音楽、映画,歌、文学、芸術すべて)この人間が何を見てこの絵のタッチにしたか。伝えたい心が先にある。それをどう出すか、どう出せば効果的か、3分間ずっと一生懸命ということではない。そこに表現が宿ってくる。芝居と一緒だ!!気持ちを表すことば。それに音を乗せる。より効果的にするために。声、歌にリズムが入っていない、だから出てこない。声が落ち着くところに落ちついていない。これは居心地が悪い。浮いた浅い声になっているせいだと思う。イメージの線をまず描く。その通りに歌おうとする。どこができたか、どこが出来なかったか。出だしの音は完全にイメージしないと浮いたり、高い音になったりする。なぜこの線はこの線なのか、後でどんな線に発展するのか、どんな線のためにこの線があるのか。息をコントロールできないから、ただ勢いよく出すだけというフレーズしか描けない。体を充分使って小さい声が出せない。もっと乾いた声を出したい。よりしぜん(あるがまま)というものを表現するために。
今日は発声がどうとか、どの声がいいかとか声がどのとか、そういうことを考えずに見本の歌を聞いてそれをいかに表に出すか、そのことばをいかによりよく表に取り出すかということに意識を集中させてレッスンに臨んだ。それが良かったのか、いつもよりマシなことができた。線があるということ、その線をはっきりイメージして歌うということ、そのためにはやはりからだが一致していなければならないということ、体が先にあるのではないということ、心とからだは同時で、一つのものだということを体験した。からだは必要だ。しかし、トレーニングのためのトレーニングでは最も大切なことができなくなる。最も大切なものを大切に扱うために体を鍛えよう。
「歌いたいことを歌いたいように歌えばよい。勝手に難しくしない」「自分が聞き取った感覚をそのまま体と気持ちを一致させて出す」「カを入れるのが説得力ではない」頭で考えれば考えるほど、すべてにブレーキがかかることを実感した。
よく聞いてみると意外とみんな最後を伸ばしていないのに気がつくことがあります。彼らは、空気を聞かせているのですね。最適な判断を下すことが出来るようになりたいです。
絶叫しなくても出せるテンション。全面にそして前面に表現する。かえってこれによって“出したら出せない”状態になる。声をあててゆかない。全体の中でこらえる。一つとして捉える。客に伝えることは100倍、200倍の出していくものが必要となる。気付いたこと、課題(自分の弱点など)息を使って自分の声でやっていく。客に伝えたい気持ち。好きな人にいい自分を見せたいような想い。一番今の時点でいい自分を見せる。普通に歌うこと。シンプルに伝わる。
上面だけのものはうそ。自分で取り出して、自分で両手いっぱいに抱えて、聞き手の目の前に「ほら見て!見て!見て!」とおしつけていく。共感を得るべくもない自分の楽なやり方、自分にしかわからないような、または使い古されたやり方で並べて。伝えるのは何のために、誰のために、何を?というあの問いが自分に向けられる。やればやる程自分を見つめれば見つめる程わからなくなってくる。今の自分にとって声を出すこと、歌うことは「すいません、ちょっと耳ふさいでて下さい。少しの間「歌いますから」に近くなっている。へんなところにはまっているのか。正しい通過点なのか。、
凄く精神的にしんどい授業だったが、充実した内容だった。しんどかったのは、ワンフレーズが次から次へと出てきて、そこにイメージを持ってくるのが大仕事だった。“気持ちのピークをフレーズに入れる”とは、その感情をイメージして、その気持ちになり、それを、そのままではなく、歌として伝えるという難しさがある。歌一曲を歌うということの大変さが、また身にしみる。そして、特に聞かせどころへの執念の取り出し方は、まだまだ足りないし、そのための体力がまだまだ足りない。自分の声はなかなかわかりにくく、全体的にヴォリュームは上がってきているとは思うが、それでもそれは自分だけで、実は平べったく聞こえるというのも体力だと感じる。それは、始めの1音をハッキリと強く始められないところにもある。
“原点へ”もう、「お勉強」の歌は歌いたくない。もう「やらされる」歌は歌いたくない。「私」が死んでる。私の心を、私の思いを、思いきりぶつけるための手段が、私であるための場所が、自分で自分を追い込んだ。決めつけて、手かせ足かせ、勝手につけてった。「バカ」がつくストイックさが。ふと気がつけば私の中からは一曲の歌も出てこない。詞も一年も書いていない。鳴ってたはずの音楽も何も聞こえない。これはどうしたことか!?「私」が死んだ!?すべてを忘れて、伝えたかった気持ちに戻りたい。何故歌いたかったのか、というところに。自分がいない、生きた自分の血を、肉を感じない、ただの「お歌」になるのなら私はもう歌をやめる。ロボットのようにただ歌うならばやめる。あぁ、私は、私のすべてを賭けた歌を歌いたい。想いのすべてを現した歌を。「私の命はここにあり」と。原点へ。そんな気持ちでのぞみたい。「歌う心」が死ぬ前に。
体を入れていくこと。音もリズムでつなげていくことだけで安心してはいけない。(“い”など大きく深く入れにくいものもより一層体を使うことによってとっていく。)体を読む、ただリズムにのっているような所でもどうやって入れているかどういう方向に体・息が使われているか。自分が思いこんでいることより、もっとシンプルなことなのかもしれない。体を読む。自分の体でやってみる。自分を知る。これが伝えることの核かもしれない。この香りを伝えよう、これをこう表現してとか、細かいことをどこかでやろうとしてしまっていないだろうか?核を得る、芯を得る、声を得ることが本質。わかっていない自分にことばだけでなく、トレーニングで言い聞かせてやる。黒板に沢山同じことばを書かせる。バケツを持たせて立たせる。それは罰されているのではなく先へ行くためのものだから、苦しみではないのだけれど、充分なものにはとうていなっていない。時間や体力が限られるのならもっと効率を考える。
理屈だけならもうほとんど頭の中にはこれまでもさんざんたたき込まれているので、在籍する意味はもうあまり残っていないのかもしれない。ただ、この頭の中の理屈が体で表現できないからこそ、まだ私にとって、ここが必要なんだ。そして、もしかしたら今の私に一番必要なのは指名制ライブ実習のように力量差のある人と同じ舞台に立って、恥をさんざんかくというような体ごとたたきつけられるような荒っぽいレッスンなのかもしれない
縄跳びを使ってリズムの円のイメージをつかめた。今までは何となく円のイメージだと頭では理解していたけれど、実際に大きな跳びを目の前で回してもらうとそれが良くわかった。あとはこれを体に入れて体の感覚として掴むところまでやっていけばよい。体を動かす方向が細の回転と反対の方向に動かしていた。前からのクセでそうなってしまっていたのだが、いまいちリズムにのれない気がした。これからは前に動かして体にしぜんに回転する感覚が入るまでやっていこうと思う。
伝える感じをキープしないと自分がのみこまれていってしまうこと、方向を見せる、ということは外側(聞き手)が感じるかどうか強烈に意識することだ。それを相手でなく絶対に自分のやり方の中で動かす。その意識がないと、特にことばやフレーズの語尾でもう雑に流れてしまうことに注意。だいたい知らない曲でも、自分と接点をつけることはできる。でもリズムやその音の中で動く自由度が全く足りない。そういうことに弱い。音楽を展開させていくのは、形的には微妙なのだが体の中では強い気持ち、冷静な情熱みたいな事が必要だ。この歌い手のリピートの部分を変化させている、かえって繰り返しを気持ちよくさせるところ。
私は動けないからリピートしていて自分で不快になってくる。線をまっすぐに引こうとするとかえって曲がってたどたどしくなってしまうように、私のフレーズはそうなってしまっている。サビの部分を歌ってみると、その手前までの部分より早くなる気がして余裕が持てなくなるのに対し、CDを聞くとその逆になっていて、サビでのノリはかえってゆったりしている、この違い!この弱点を何とかするにはやっぱりこの曲をフランス語できちんととって、部分的に練習し、1曲として歌えるようにする。そこで体に入ってくるものがあるはずなので、スキャットの曲とかやってみようと思う。
何年たっても取り組まなかったこと、後回しにしてきたことのツケはついてまわる。今でもこういう課題は課題として触れることはあったけれども、曲として仕上げることはしてこなかった。今までは、それは私の強みじゃないからと、過ごしてきてしまった。まず課題に入る前に、曲を覚えるためフランス語にまた苦しむことだろう。いい気味だ。とにかく弱点というのは徹底して乗り越えないと、1番やりたい部分、色とかタッチとか伸ばしたところにゆっくり浸れないから。
こういう始まりの歌は特に、イントロから(胸の中で)歌っているのがわかりやすい。時の状況が思い出から現在へ移るにしたがい、ドラムの導入が効果的にされている。元のラインからはずれた歌い方をするために、すごく細かいリズムを感じ、捉えているのがわかる。詩の意味する事のすべては不明だが語りかけるように、思い出すように。声にしていることばの先に、間に、広がる想いが詰まっていて、そんな風景を心に描いて歌っているはずだ。この曲を聞く人に対して、詩の風景にとどまらず、個人の想いでにもうったえかけているはずだ。流れてきた時間、時代と、大きく捉えれば人生だとか人の一生だとかそんなものにたどりつくのかと気付く。単に「昔は良かった」って事ではなしに。それを理屈でなく、感覚的に聞き手に共鳴させられなければわざわざ大声で訴える意味がない。
先生が歌を色で表現していたのはとてもわかる気がしました。僕はイラストも描きます。例えば楽しいキャラクターを描くときは自分もにこにこしながら描きます。そのキャラクターにのりうつります。マンガ家や画家はある絵を描くためにその数倍、数十倍の想いを込めてるはずだと思うのです。歌もその通りなんだろうなと思います。歌が乗り移るのか、歌にのりうつるのか、すごいと思う。感動させられるヴォーカリストの歌は、歌を超えてその人自身になっている。
声は息にのって出てくる。深く太く…。まだのどに力が入ってしまいすべての息が声にならない私には、やっぱり息は気が一番大事だと思う。もちろん他の事もとても大事だけれど、その中でも息吐きに重点をおこう。体から使う感覚。そして全身を感覚にして、自分の声を聞く。本当に最高の一音を出せてそれが聞けたら感動するだろう。自分のベストの声がいつでも取り出せて体と声にリズムが入っていたらそれは歌になって出てくる。想像しただけでもうずうずしてきます。
音とはメロディーに逃げると伝わらない。逆に「心」を伝えることがそれをはずす理由ならばそれは体に根ざしていてそれほどおかしくはならないはず。以上のことから考えたこと。これから2つの方向でのトレーニングが必要であるということである。
一つは自分をほっていくということ、自分のメッセージを持ち、アイデンティティを確認したうえで、自己の責任において叫ぶ。二つ目は歌の心を掴むための力を強化することである。そのためにはいままでのようにただ多くの曲に触れるだけでは遠回りである。一度に一つの曲を何回も聞いてその曲の良いところをわかるようにする。「わかる」曲のストックをためていくことによって、その他の曲の良い点も(新しく触れる曲の良い点も)より速くわかるようになる、感じることができるようになる、まとめると、自分について考えることと名曲から学ぶことの二つのトレーニングが必要である。
実にあたりまえのことであるが、とても大事なことがある。それは毎日体を使って鍛えて行くだけではダメだということである。それだけでは毎日トレーニングをしているとは言えない。大事なことは、毎日表現を試みているかどうかである。自分の連取はやみくもに声を出し、発声マシーンと化した練習をしていては、レッスンに出ていきなり表現することなど当然無理である。(しかし私はそうしていた)あまりにバカげている。レッスンの場でだけでなく、また自分の連取でたまに調子がノッている時だけでなく、毎日心と体を一致させるように試みることが必要なのだ。表現者なら当然である。
自分の練習においても一生懸命という点においてはレッスンでのそれと同じレベルを保っていたので大丈夫と思っていたが、テンションが(表現としての)全然保てていなかったのだ。毎日心に刺激を与え続けることだ。それで初めてトレーニングと言える。そのためにはことばの読みを頑張ることだ。ことばで感じられることは感じきることだ。その上でメロディのことば以外の感情が加わってはじめて歌に近づくはずだ。ことばを一つに捉え体と心も一つにする。その毎日を積み重ねることだ。
レッスンで失敗を恐れることはなくなった。恐いのは通り過ぎてしまうこと。強くなるのではなく慣れていってしまうこと。少しでもその場に何か残せればいいのじゃない。圧倒的に何か起こしているんもではないと意味はない。そしてそれができない。貯えが足りなすぎる。自分の体で知らないことをもっとたくさん知りたいのと、自分でやろうとしていることや感覚をもっと鋭く、明確にすることをやる。
自分一人では何もできてなくて、何も変えられないという力のなさを知った。具体的にいうと、今日はいつものメンバーがいない日で(自分の中で)の空気が全く違った。いかに自分がいつも周りの人によって助けられているかを思い知らされた。誰がいようと自分は変わらない強さが欲しい。このことを考えると、自分が知ってか知らずか、ここにいることで甘えていたり、いる人の中でしか考えてなかったり、視野が狭くなっていたり、自分だけは違うとか思ったり、ごちゃごちゃ狭いところでやっているなあと思った。また、全開の自分がやったテープを聞かせてもらい、その後の福島先生のコメントのほうが深くて心にぐっとくる声だったと思ってしまった自分って何と思った。
ねばって放す。欧米は立ち上がりがはやい、強拍の頭ないしはいる時間にピークがくる。その前のタイム・パルスのループ、体の入れるスピードによってそれができる。。きこえているものがちがう。歌歌にならないのは、みえているところだけでなく、見えていないところのスピードも違うから。遅れても速くいれられる。大きなTempo感。歌い手の器。変化を遊べること。感覚を入れる。骨や肉にする。ことばや音の方向性をとらえる。止まったら(止めるというのとちがう)死んでしまう。感覚が違っている。とらえられていない。だから体ができない。強弱の中で細分化されてばらばらになってしまってはだめ。音の持っている動き。線としてどううごかすか。声だけでもってゆこうとしているもの。最後まで分かってしまう。みえてしまう。奥行き、見えないところを作っていく。
精神/感覚。自分の感じたものをどう出して客に共有できる形にもっていくか。どう裏切れるか。ピアノがタッチなら、歌はフレージングがオリジナルの部分である。感情を押しつけない。基本を守った上でどう動かせるか。曲に親しむ。作り手の心、楽しむ、統合していく、生きていくスピード。感覚の思いこみのところを排除していく。歌ってしまってはいけない。読み込みをやっていく。情感と技術のぎりぎりのかけひき/バランスのところで出していく。何だったら伝えられるのか、努力して学ぶ。これが90パーセント以上選んだものを提示(失敗しても)してみるのがレッスン。、
息を均一に出せるようにすること。声の焦点を合わせないと息もれするということ。
1仰向けに横になり、曲に合わせて息吐き及び声だしを行う。ex.「花」~ブレスを早くとるトレーニング「椰子の実」~フロー、フレーズ長いので、息のコントロールが必要。おなかでブレスし、おなかでコントロールが基本。
2声の保持(P.30)声は作らないでしぜんな声でチェックする。声帯をしめる強さが、おなかの息の強さより強いと、のど声(硬い声)となり逆だと息もれ声になるので、一致させることが効率の良い声となる。声を切るのは喉でなくおなかの方で切る。(喉で切ると振動がしなくなる)P.31のトレーニング実践。
3「ハイ」で出しやすい音、高い音、低い音など自分の声をよく聞くと、声を当てているところ違うことを知る。まずは低音をきれいに出すようにすると、ひびきはしぜんに後からついてくる。自分で思っている以上に声が上がったり、胸の方で息をしたりしている点を鏡をみながら家で発声練習する。
1曲に合わせての息はきは、思ってた以上につかった。ブレスを目立たないように早くとることも、フレーズをもたせられるだけのブレスとコントロールすることの両方とも大変なことであるとわかる。もっと体(おなか)を使わないといけない。
2自分は声帯のしめる強さがおなかの息の強さよりも強いため、硬いのど声になるとわかったが、これらを一致させていくことが課題。声はおなかで切ることを体に染み込ませる。
3低音から自分の声を整えていくこと。素直に自分の声を出せること。歌うとよく、声が上がるので、今日言われたとおり、家で鏡でチェックすること。スタッカートがいつもきつい。体がつかえてないのと体力がないからきついのだろうし、喉に逃げてしまっていたことがわかった。
完全にコントロールするためには、完全に余分なものを取り除くこと。動きを作っておく。感覚で踏み込む。息はまわって動いている渋み。みえることとみえないことの差がイマジネーションを生み、言わない空間が共有になる。メッセージをとどけようという想いが声を前に届かせる。一つ言うことで九失う。音楽は一つで一瞬である。つかめない。。大切にPowerをこめて。音楽の中の風景をとらえる。裏切り。こんなものだろうと頭が思っていたことは煮詰めていないと体に裏切られる。これは圧倒的な量の不足である。でいないというのは勉強できていないということ。取り組み方である。歌の中でつめていく作業が足りない。出せている時というのは、ぎりぎりのさまざまな要素のバランスである。。その出せた瞬間が一つの単位で、それが集まっての歌にしていくこと。たくさんのことを自分で決めていかなくてはならない。古典をどう解釈するかのように、自分ならできるというものヘ。もとの形に対してぎりぎりのところまでねばってみる。自分が責任を持ってスタートさせるということ。自分で全部決めていく。、
「見えないもの、流れているものがあること」それが本物のすばらしいところだと思う。確かに歌声がよかったり、良い曲だったり、演奏がプロだったりする部分ですごいと思うこともあるけれど、何に感動するかといえばそのアーティストが作り出す、または醸し出す空気であり、それが私たちに叫びかけてきて、私たちの心は共鳴する。ライブに行くのも人を見に、そして感じにいく。
自分のしっかりした声でことばを言えることの大切さ。ことばがしっかりと言えるようになってくるとメロディにのせ流して歌うという感覚がなくなってくる。息の中にことばを入れていく感覚がわかる。点でとっていくのではなく大きな息の流れをつくって動かしていくということ。実際できないのだが、イメージとしてわかった。息の流れでフレーズをつくっていくということ、ことばをいいきることでリズムをつくっていくということ、どんな歌でも自分の中に曲を流してから始め、歌っている間も流れ続けていること。
歌はすべて自分の意思。意思あるものでプロは音と音のつなぎに必ず何かを入れ込んでいる。それは計算されたうえでの部分もあるかも知れないが入り込んでいかなければ声の表情なんてでてこない。
1.今の自分の力でも100パーセント出し切ればかなりのことができる。2.後で何とかなると思わないこと、今何とかならない人は後でも何とかならない。3.ベースの声の確立4.エンターティナーはライブのステージで評価する。客の前のエンターティナーとして見る。5.その人の中にどれだけ音楽が宿っているか(技術・熱意)どれだけ取り出せるか。ひたすら聞く、入り込む、気づく、それをとり出していく。この繰り返し。6.自分のスタイルを持たないとやっていけない世界。7.時間がかかってもいいから、すぐれたものをまず一つ作る。。いろいろなものが見えてくる。そこから学べる。8.必要以上に感情移入しない。9.全神経を集中して一回で覚えようとする。。普段の心がけ次第で、驚くほど力つく。10.伝える努力、表現になっているか、なっていないかを問う。常に問う。11.試みの中で、何か違うことができるのか、何を納得させることが出いるのかを問う。
1.思った通りの線を出すのに回数がいる。自分の番が回ってきて「さあ」というときに、全く違った線が出てくる。イメージ力、集中力、呼吸・からだの準備。出す前の情愛を大切にする。出る以前のものをまず作る。2.中音域を安定させる。3.動かし方は自分の感覚で。4.伝わるとはどういうことか?を問う。
簡単なようで難しくて、難しいようで楽しくて時に生きる気力を呼び覚ましてくれることもあれば、いっこうに進んでいかない自分の弱さを、実力のなさに嘆いてみたりして、音楽歌の深さと、自分ができない歯がゆさ、本当に自分にはやっていけるんだろうかという疑問の中で、その迷いと戦いながら必死で生きている。人間だから、その日のその時の気分と体調が様々で、本番一発で自分のすべてと実力を出し切ることの難しさを痛感する。ときどき練習の中で百回に一回くらい、うまくできたことを、いつでもどこでもどんな状況でも、すぐに取り出せ、人に提示でき、人をうならせ、感動させられることの難しさ。体調も悪くて、気分も乗ってなくて、ただ無意味にデカイ声でどなってる。その無神経さで歌を、声を大切に、本当に大切にできないで、ただ一本調子の無味乾燥な歌を作り出している。
自分の才能とやらに腹が立つ。歌に流れがないことと、構成が自分でまだ完全に把握できていないこと、そして、気持ちが前に飛び出ていかないこと。気持ちが前に出ていかないと、声も前に出てかなくて、もっともっと前へ上へ飛び出させて飛び抜かしていかなきゃいけない。リズム、音程もまだ全然不安定で落ちついて歌に、表現に入っていけない。すべてのことが一つになってはじめて音楽として、歌として、成り立つわけで、まだまだ不安定な所が多すぎ、なんだか聞いてて退屈しちゃうようなくそくらえな歌うたってる。気持ちと、心と体と、体で覚える技術と、歌に対するセンスと、集中力、自分への厳しさすべてが一体になって一つになって初めて、まあまあ人に聞かせられる程度で、今、そのうち自分はどれだけのことができ、どれだけの練習と、どれだけのことをやってるのかを自分に問うと、ほんの微々たることしかやれてない。発声練習もそうだけど、ただ無意味に声出したってしょうがないんだから、その出す声に、音楽と音の流れを入れて、作り出してやること。前へ前へ流していく。とどこおらせて、歌の流れを止めてしまわない。気持ちと声を前へ前へ流しだしていく。気持ちを前へ、声も前へ、川の流れのように流していく。
体全体はリラックス。おさえるべきとこはおさえる。腹腰の支え、お尻の穴そして上へ声が貫通していくぐらい、流しだしてやる。そしてことば!息の流れを止めてしまわないよう、息のしぜんな流れを阻害してしまわないように。でも、人にはしっかり聞こえるように、発音をしっかりし、口の形をそのことば通りにしてやる。そして感じ、つられてく感じで、口もそのことば通りに動かし、ある程度はっきりさせてやる。でも、あまりあごや、口を動かし過ぎて、息のしぜんな流れと、歌の流れを止めてしまわないこと。あくまで、しぜんに息を流し、その息にしぜんにことばをのっけて、しぜんに口が動いていく感じ。声を詰まらせないこと。前へ前へ流しだしていくこと。気持ちも前へ前へ流しだしていく。あまり頭で考えない。考えすぎない。すべて全開。変なところで遠慮したり、弱気になって声を殺してしまわないこと。
声全開、気持ち全開、全部前へ前へ流して、上へ突き抜けさせていく。でもおさえるべきところはおさえられていること。発音、ことば、口の動き、音程、リズム、腹・腰の支え、お尻の筋肉、お尻の穴、下腹前に突き出さず、引っ込める喉の開き。胸でも声が取れ、腹の底から一本芯の通った声であることとにかく遠慮したり、中途半端にやると、何も伝わらないし、かえってヘタクソに聞こえ、声も殺してしまうし、聞いてて気持ちよくないので、どこもおさえつけることなく、遠慮せず、中途半端にやらず、全開でやること。全開で、人前で、本番でできることも、才能の一つ。気持ちと歌の技術が一体になること。気持ちは全開で無我夢中くらい必死で全力なんだけど、押さえるべきところはちゃんとおさえられてて、ただ暴走せず、自分が今どういうことをやっていて、体がどう動いていて、どう使えているのかがちゃんと分かった上で、爆発させること。ただ無茶苦茶に全開で暴走してしまわないことも大切。
全開で声を頭のてっぺんから、天井を突き抜けて空の果てまで届くくらい、声を突き抜けさせ、そのくらいの意識と気持ちをだしていくこと。とにかくだしている声が、歌になり音楽になってることが大切。それには、中途半端におさえるべきところはおさえることができて、ちょうどいいくらい。歌をたくさん歌うこととフレーズ練習の量をたくさんして、その感覚を覚え、研ぎすまさせていくこと。
漫然と、ただダラダラいい加減に歌ったり、声をだしたり、そういう練習はしないこと。そして歌の構成の仕方と、そのもっていき方も大事で、ただ漠然とやったり、いい加減に歌い流したりせず、ハッキリさせることが大切。声に強弱をつけたり抑揚をつけるのはいいが、こういうこともいい加減にやれた気になって、歌い流してしまうと、聞くに耐えないものになっていることが多いのでいい加減にやらないこと。歌の流れを止めてしまわないことと、ハッキリとしたその声の流れは持続しつつも、その声に変化をつけられること。流れを止めないことと、ことばののせ方をハッキリすること。ことばをいい加減に歌い流さない。歌とことばと声のハッキリした流れの中で強弱、大小、その歌い回しの仕方など変化させ、歌に色づけをすることが大切。
基盤となる歌のハッキリした流れと、ことばののせ方をしっかりとすること。当然ことばの中に音程の正確さも含まれ、流れの中にリズムの正確さと、安定も含まれる。ことばがリズムにしっかりのり、歌が流れ続け、そのことばがはっきりしてることと、そのことばに音程がしっかりくっついて、のっかって、ちゃんと音楽のメロディーになってることが大切。その上で様々な変化と、色づけができること。歌心を理解すること。出てていないことをあまり悔やまない。落ち込まない。悔やんでも、落ち込んでみても、結果は一緒で、結果がだせる訳じゃないから、できないことをあまりクドクド追求しないこと。できるように努力する。やれるところまでやってみる。結果はそれから。あわてない。急がない。自分のペースで、できることをやり、やりたいことをやれるところまでやる。ことば一つひとつの処理を大切にすることと、歌の流れを大切にすること。歌い方だとか発声だとか、技術だとかがいくらついても、気持ちがなかったらダメ。すべては気持ちの問題。後は気持ちと、生きることと、生き方の問題。
プロと自分のを比べて、同じ時間でどのくらいのことをやれるかを考えて捉えてみる。シャンソン・カンツォーネでポピュラーになったのは、多くの国で受け入れられているということ。何がどう音楽になっているのかが聞いて分かるようになること。自分の感じたことしか出てこないということ。ステージでは、その人の中にどれだけ音楽はいっているかが大事であり、それに技術や熱意などが加わって成り立っていくものである。結局は歌の中に表れたもので決まる。自分で歌をつくらなくてはいけない。時間がかかってもいいから、優れたものを一つ作ることが大切。
一回目から覚えるつもりで聞くこと。歌詞とかも五回で覚えるつもりで聞く。聞こえた曲に何かを感じるはず。体と心が入ってないところでやっている人が多い。詞の中のキーワードは一回でわかること。自分からそいう状態にならないとダメ。出し切ること。心を動かして、どう伝えたいかをやるために、練習では無理矢理にでも心を動かしてやる。音の動きをとってみて、何が表現なのかをつかもうとしなければいけない。リズムからとるのも一つの方法。少し後に残るものが表現である。音程やことばよりも大事なことがある。まずは伝わらなくてはいけない。最初のフレーズで伝わってこないといけない。お金をとる価値のステージができるかということ。できてるできてないよりも表現できるかが大事。その時その時入ってやること。忘れてはいけないのは、作ること(組み立てること)。
一拍一拍ローリングさせていくという感じをはじめて知った。つねにその感覚を意識していないとたかが4分音符でもローリングというようにはいかない。無意識にその感じをキープするには今後の練習が要求されるところだろう。前へ前へだそうだ。巻き込んで、聞こえるリズムに合わせるのではなくて自分がそのリズムを出してるというよう。そんな感じが分かった。ドラムになる。音程をさず。そのダッやチキとかタッとかの言い方やなんかでもグループ感がでる。ようはそのドラムのつもりで口でいっているのを他人が聞いてリズミカルに聞こえてるかどうかだろう。ただの8ビートでもいろいろだ。バラドラムに強弱をつけたりスネアをのばしてみたり。聞こえたのをどうリズミカルに表現するか、言われたのはリズムと別のことだけど「ドウッ」て言うのが声として前に出てないってこと。俺もそう思う。発声的に問題があるそうだ。いえてる。「つかみ」とは違うのだろうか。ボリューム感と前に出るってのは違うのか。
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1リズムは腰を中心に体全体でとる。このとき、ぼくのような初心者は手を打つと良い。すると案外リズムがとれていないことがわかる。
2メトロノームなどで練習するときは、まずジャストで当てることを目標とする。次にずっとやっていても、くるわなくなるまでやる。体全体で打つこと。
3リズムが不安定。まずジャストで打てない。キープできない。体全体で感じることが出来ない。
4練習するときの音域が高すぎる。まず、中音域を安定させ、太くする。
5今できないことでも先々出来るようになりたいことをイメージして練習する。
6踏み込むとは一瞬鋭く息を吹き込むこと。踏み込む前の音にも気を付ける。ここをしっかりしないと甘くなる。
7入れやすいフレーズ、とりやすいことばでどんどん練習する。太く安定させる。出来るようになったら次の段階へ。
8一回自分がやったフレーズ、出した結果についてもっと真剣につきつめていく。
スピード感、落とし込みの感覚、たて立体感、全部同じ配分にしない。下の線をキープしているから。上の線(フレーズ)を動かせる。これがなかったら、浮いてるだけになってしまう。
Ma cosa messo nel caffeのmessoで骨を入れる感覚。Ma cosa haiのフェルマータは大きな線上においている. 遅れない、落とし込む感覚(フレーズを作る)がとても楽しかった。落としこみが中途半端で効果が上がってないと単にアタックが強くなるのかも。
リズムを肉体(カラダ)でとらえる「普通通りにこなす」のではなく、「肉体(カラダ)の中からリズムを創る」感覚。あるフレーズを肉体(カラダ)の中に取り込み、自分の中で消化して打ち出すトレーニング、その曲が訴える世界の中に入る込む訓練。
Rhythmの何が出いていないか分かること。(声以上に分かりづらいのでは??)課題をきちんと理解すること。リズムの回転を感じて耳で聞くこと。リズムを回転で感じられるように。点で取らないこと。回っている様な感覚を感じられること。腰でリズムを取る、リズムのずれ(自分ではなかなかこれが分からない)最初の1・2・3・4をキープできないとそれはリズムがとれていないということ。Tempo遅くなる方か、早くなる方か自分で自覚を持つ。クセをみつけること。
どういうリズムかということにとらわれず回転を感じてみること。曲をとめるリズムを見失ってしまう。それをなくす。適当にのれてればなんとかなるということはない。続けることによって、体に入ってくるから。条件・手でも拍を打って。そのリズムが出せる。リズムを口で言ってそのリズムのノリが出せる。歌っただけでそのリズムのノリが出せる。全部同時に出来る。BASSの音を聞くこと(特にゆっくりの曲)
リズムのあるものは、ボクシングやバスケやフェンシングのようなもののような、予備のフットワークを体のなかにつくってくれる気がする。“次の動きのために常に動いている”という、あの基本のように、体のなかにリズムによって動きが生じている部分から、次がくり出しやすい。本当はゆったりとした曲でも何でも、Rのクラスでもやるように、体のなかにパルスやコイル状のリズムの鼓動が“うって”いなくてはいけないのだなと思う。それがないから、急にばーっと吐き出すようになるのだ。できるだけ、一小節は自分のなかで無意識にとり、跳び箱の踏み台のように、一拍前から音を動かすようにしているのだが、入った途端、コントロールに気をとられて、その流れが途切れてしまう。楽しい曲でも楽しくなくなってしまっている。、
1.なわとびの円をイメージし、4分音符を体に大きくとっていれる。
2.4分音符と8分音符を口で「ダーン」「ダッ」で言ってみる。4分きちんときざまないと8分言えない。
3.曲のベース音をとって、曲に合わせて口で言ってみる。ベースの音色で言ってみる。楽譜にとらわれないで、リズムをとるトレーニング
・男が女を愛するとき~3連符の歌なので、根底に3連を流して4分言う。
・ジョニーエンジェル~タイのリズムに注意、コード感覚つかんで音をとる。リズム喰った感じつかむ。 ・スタンド・バイ・ミー~「ポン」で言ったのに合わせて他の人うたう。下(ベース)でしっかり刻むと上(歌)のりやすい。
なわとびの音をよく聞くと床にあたる音と、空気を切る音できちんとリズムになっている。ループの感覚がとてもつかみやすい。
4分をしっかりとらないと8分がふらつく。自分の場合少し前のり気味になる。。
声が息と共にしっかり出ないと、マイクを使っても声が入らないようだ。音程ちょっと悪い所あったが、リズムはだいたいとれた。