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体がただ単に柔らかいというのではなく、心とつながった体の動きがしぜんにできるかということだと思う。体にしても心にしても自分を知っているということが歌に影響してくる。以前、他のレッスンで希望の表情をしてくださいという課題があって、ひとりの人がよくわからないと言っていた。
私にはちょっと信じられないことだったけど人は表情にしろ、体の動きにしろ自分で体験して知覚したものしか表現できないのではないかと思う。他人のものをみて演じることはできてもそれは心と直結した表情や動きにはならないのではないだろうか。いろんな経験が歌に生きてくると思うけれど経験しただけでは普通の人と同じだ。
花を見たとしたら、その匂い、感触、色、味と自分の感覚をフルにつかって感じることが大切だと思う。どんなことでも自分の体と心すべてを使って感じることが全身で表現することにつながってくるのではないだろうか。生活のなかでうれしいときにはうれしい顔、悲しいとき、頭にきたときいろんな感情に素直になってこそ表情もことばも自分のものとなる。だから嘘ばかりついて縛って生きていれば歌うときにだって同じようにしかできない。
バーバラ・ストライザンドがスティービーワンダーのハーモニカ(この場合は声、歌ではなくハーモニカだったが、同じ事だと思う)を表して「魂のひびき」と言っていたが、まさにスティービーワンダーは歌そのものの世界に生きているからこそ、バーバラをしてこう言わしめているのではないかと思う。
これは彼の心のきれいさ、純粋さ、純真さからくるものではないかと僕は思っている。だから何をやるにも結局は同じ事なのだろうが、心を磨くことの重要性を痛切に感じている。これは感性の豊かさにもつながるのだろう。そして、心は常に常に怠らず磨いていないと、すぐ元に戻ってしまうと言うことにも注意せねばならない。一度できたからといって油断していては、痛い目にあうのが関の山だ。僕自身、少しうぬぼれやすい面があるので気を付けねばならない。しかし、だからといってあまりにもストイックになるのは考え物なので、その辺のバランスをとれるようにはなりたいがなかなか容易なことではない。
聞いているときその歌の世界ではなくて、他のことが頭の中にイメージされたときがあった。その歌を聞くことによって、そのイメージが喚起されたのだろうが、この時フッと思ったことは「歌なんてめし食ってる時のBGMみてえなもんだな」ということだった。これは歌という者を少々卑下しているようにもとれるが、今改めてこのことを考えてみると、それぐらい心に余裕を持って、歌に取り組めよ、取り組む姿勢も必要なんだよということのような気がする。要するに心を充実させて、楽しくやる姿勢も大切だということ。「もうこれしかない」という気迫や真剣さも必要だが、どこかで楽しむという部分もあるのではないのだろうか。
本当に楽しむという心が欠けている。こんな状態では聞いている方は余計楽しくないということになる。何とか楽しみを見出さねばと思う。さらに、思ったことは客のことを考えて選曲するということだ。聞く者がどんな人間達で、どんな種類の人で、何を要求しているかという事を考え、曲を選ぶ。自分の歌の中に入れるという気迫、信念、テンションが必要だ。
いずれにしても聞く者の心を満たすことができなければプロとは言えないだろう。自分はどっちなのだろうか。客によって曲を変えるのか、客とは関係なく自分の歌いたい曲を選ぶのか。難しく考えなくてもいいかもしれない。自分の歌いたい曲を聞こきたい人達が集まって来るものなのかもしれないから。まとめとして、自分を知る、自分の分を知る、足るを知るということの大切さをとっても感じた。でもこれは今の若すぎる僕にはわからない。しかし、自分を知らない限りいろいろな面で不自然が生じ、それは自分以外の人に伝わるものだと思う。やっぱり素直になりたい、素直に自然に生きたい。
西野流呼吸法にはとても興味をもった。「気」というものは存在すると思うし、実際自分は体験していないけど信じている。何かをコンスタントにそれも自分の力を最大に保ちながら続けていくには相当なエネルギーがいる。このエネルギーというものは出せば出すほど増えていくから不思議だ。使わなかったらたまると思いがちだけど全く反対だと思う。よい気をもっている人はみていてわかる。健全な肉体と健全な精神は片方だけもてるものではなく、両方同時につくられていくものだと思う。健全な肉体というのは筋肉隆々というのではなく、きれいな血が流れているような体のことだと思う。姿勢はよい呼吸をするのにも歌うことにも大事なことだ。
自分が姿勢を意識しはじめたのは5、6年前ぐらいだが、最初の頃は板についていないものだから不しぜんきわまりなく、友達にも「気取っている」など言われたりした。毎日意識しているうちに不思議としぜんになってくるものだ。どんなことでもしぜんになるためには長い長い時間がかかる。それも常に意識し続けなければ身につかない。結局しつこくやり続けるに値する思いがないと続かないと思う。西野氏が「いま使われている人間の能力は氷山の一角にすぎず、その下に秘められている能力をいかすことができるのなら、もっといろんなことができるのではないだろうか」と言っていた。自分でも自分の体、心のことをどれだけ知っているのだろうかと思わされる。いつも私の一緒にいる奴なんだが何も知らないのではないかと思う。歌を歌っていくことは自分の体を心を知っていくことだと思う。それじゃなければ歌っていけないんじゃないだろうか。自分の能力が一体どのくらいあるのかなんて他人にわかるわけないし、ましてやこの自分さえわからない。でもわからないからこそ探究していきたいという思いがある。この世で一番不思議でおもしろいのは、この自分という人間かもしれない。人は目にみえること、耳に聞ここえることだけを信じがちだけどこの世には目にみえない不思議なことがたくさん存在すると思う。心の目はどんなものをみることができるのだろうか。
ついにこの前ストリートライブをやりました。ギターが弾けないので練習のために予定より随分遅くなってしまいましたが、田舎街の駅まではそんなことをやっている奴もなく、人が少ないのでかえって根性がいります。聞こいてくれるのは酔っぱらったヤンキーニーチャン達。一人でも聞こいていると思うとすごく緊張しました。聞こいてくれる人、拍手してくれる人、「よかったですよ!」といってくれる人がいるとやっぱりうれしいです。
エイズのドキュメント 何気なくつけたテレビ(BS1)でやっていた番組を見て-ある女の写真家がアフリカでエイズを防ぐために活動しているグループと行動を共にするドキュメント番組でした。彼女は写真で表現していた、エイズに苦しんでいる人、死んでゆく人にカメラを向ける。それはいいことなのか。彼女は表現する者として苦しんでいた。彼女が写真を撮ることに対してまわりはよく思っていなかった。その地域の社会、モラルを充分知らないのに、自分勝手に行動した結果だった。彼女が仲良くしていたジョイスという人(エイズ患者で彼女の写真を多く撮っていた)が亡くなった。つい昨日まで話をして、写真を撮っていたのに。最後はあっけないものだった。彼女にとって本当につらいことだった。患者のみんなが必死になって生きる姿、その姿が自分を勇気づけてくれる。その生きている輝きを残したいからといって彼女は写真をとり続けた。その写真の中の患者のみんなの姿は、なぜこんなにも生きていることを感じさせるのだろう。なぜそんな目をするの、その生きる姿は強烈に訴えかけてくる。自分はそれに対して何をしているのか、もっともっと生きて、その生き様が歌に表れてこなくては歌を歌う意味なんてない。
音楽に限って言えば、解釈とアレンジさえ新しければ、提示する曲はオリジナルより、ノスタルジー(郷愁)に訴えた方が近道だと思います。もしも、スナックに毛のはえたくらいの価格で、ちゃんとしたレシビのお酒が出せて、お金のことをちゃんとやってくれる人がいて、40代後半のおとなしいサラリーマン相手にショーのお店がやれたと仮定して─美空ひばりくらい、超スタンダードはJAZZと一緒だから全曲使えるけど、普通はちょっと懐かしいのを使うけど、プレイクしたのは使わない。黛ジュンの「天使の誘惑」は使えないけど「ハレルヤ」と「雲に乗りた「い」なら使えるという感覚です(ふるい)。あとは、構成そのものが文化対比論になるようにつくってみるとか、英語の歌は送り手ばかりが勉強して受け手に不親切ですから、作品をおかさない程度に手助けをする(英詞を掲げるとかね)。話は違うけど、美空ひばりって美人でもなく、かわいくもなく、かといってプスでなく、不思議な顔してますよね。夕イムリーには知らないけど、きっと女性ファンが多かったんじゃないかと思います。バブル期に出稼ぎに来ていた白人の人としゃべったり、洋画を見たりしていると、外人は“二ュアンスのある顔”を好むんだなと感じます。日本人のいうところの“べっぴんさん”ではなく。もし、ひばりさんが今の人だったら、世界に問うこともできたかもと感じる。美空ひばりは長年、新宿コマや梅田コマで熱狂的なファンにかたずを飲んで見守られてきた。アムロやミスチルや何万人を埋めつくす若いビーローもいるけど、趣味が多様化してきた現代では、2000人劇場のうねりでなく、500人劇場でのホットな密空間が、あちこちで見られるという現象が望ましいんじゃないかと感じたりします。コンサートに限って言えば。好みの問題といえばそうだけど、それが客席の成熟を示すような気もします。
「ヘンメン」(漢字を忘れた)簡単に書けば「変面」という中国映画をみた。中国の秘伝、変面王と8才の少女の芸を通して、生きることとは人間の心とはといったものなのだが、こういう映画をみるとトレーニングしなくても息が深くなっていく。自分の心が動かされるということは、ものすごいことなのだよ。この少女は、実は父親に何度も売られては女だからと返され、変面王に売ったときは男といつわったわけなのだが、結局、嘘がばれて一人で生きろと言われてしまう。時代や環境によるところも大きいけれど、もともと芸人というものは社会から軽んじられていて、その日暮らしで生きてるようなものだったと思う。それでも心はどんな人間より人間味あるものをもっていたと思う。この映画の中で「芸とはこの殺伐とした世の中にあたたかいものをつくりだす。そしてそれが芸人の喜び」ということばがあったのだが、本当は、本当はそういうもののはずなのに、今の世の中、忘れ去られている気がする。少女は変面の秘俺を教えてもらいたくとも、女ということで無視され続ける。変面王はとにかく後を継いでくれる男の子が欲しくて欲しくてしょうがない。それならと、少女は男の子を連れてくるのだが、その子は誘拐された子どもだったので、変面王は誘拐犯として処刑されることになってしまう。最後は、少女の命がけの訴えで変面王は助かり、少女に変面を教えて終わる。人間は環境に慣れてしまう生き物だ。自分がどんな環境にいようと、ぐっとつかんで離さないものをもたない限り、自分の世界も芸も手に入らない。
香港返還をニュースでチラッと見たが、チャールズ皇太子のスピーチがすごく印象に残った。それはまさしく、イングランドっぽいってこともあるけど、何よりも声が渋くて太くて大きくよく通る声ですごくかっこよかったからだ。中世のキングのようにいさましかった。本当にびっくりしてどきもを抜かれた。チャールズ皇太子の声はあまり聞いたことがなかったので、細くて頼りなさそうなおぼっちゃまじみた声かなぁと思っていたが、全然そんなことはない。Not at allだ。むしろ、お手本としたいようなすごいスピーチだった!!さすが、グレートブリテンの皇太子だ。
先日僕の大切な人が死にました。僕を育ててくれたおばあちゃんです。僕の人生の中で一番温かく包んでくれた人。なの僕はあまり悲しくなかった。やはり涙も出なかった。俺はそういう人間なのだろうか。そうは思いたくない。だけれどやっぱりそうなのだろうな。でも人間なんてたぶんそんなものだろう。しょうがないんだと言い聞かせる。おばあちゃんにはなにも恩返しすることができなかった。死んでしまった今、俺ができる恩返しは、あなたのように温かい人間になることだけだ。
高校生の男の子にビデオ屋の場所を聞いた。教えられたとおり行ってみたらなくて、まあその辺にあるだろうと思っていた。するとその男の子が走って追い掛けてきたらしくそこに立っていた。「あの、教えた道間違っちゃって…」悪ガキそうにみえたその子が300メートルくらい暗い中を走ってきたことを思ってなんだか心があったかくなった。心というものは与えようと思ったときには届かなくて、その人の心が自然に動いたときに何か与えられるのかなと思った。
最近、英会話を独学で始めたが、テープに吹き込まれている文章を同じようについて発音していると、意識しないと息を流していないことに気づいた。つまり日常会話で自分たちが話しているときは息はそれほど流れていない体を使って声を出していない=イントネーションがほとんどない、ということだ。これが日本語の特性なのだろう。それならば意識して息を流して会話をしていれば体を使うようになるのではないだろうか。ちょっと試してみようと思う。
「才能という賜物の優劣について他人と競ったり、思い上がったり、劣等感を抱いたりすることは無益なことです。人生の大事とは、自分に与えられた能力、才能などを伸ばし、それに応じて世のため人のために尽くすことにほかなりません。それこそがこの世に生まれてきた一人ひとりの人間の神聖な使命だからです。もし私たちが、この世でそれぞれの使命を忠実に果たすならば、それが生き甲斐や自己表現につながってゆくのです。」~「心のともしび12月号」より
やらなくちゃ/やれるはずだ/やりたい/やりたいからやるだけ
体の中は歌にあわせて動いているか(感情・映像)体の外も歌にあわせて動いているか(姿勢・表情)心も汗をかいているか(矢沢永吉)
<今月印象に残った言葉>止まっているところから作ると嘘になる。
出だしで勢い余って息を出し過ぎない/高めの声は少し遠くの人を呼ぶような感じで。
切った後の間で伝えている。
体に入れてしまい、その中で動かす。
これが自分ですと言えるものを出せるか。
悔しいけれど聞こかされてしまう、心地よいのは何故か。
より重いものが早く動く。
声楽的に正しいのに声楽的に聞こえないのは何故か
愛の讃歌訳 空が落ちてきても大地が壊れても2人でいるなら恐くはないわ。あなたの腕の中愛してくれるときどうでもいいのよ世界のことなんて。何でもするわ月でも盗ります。あなたが言えば何もいらない、友でも捨てます。あなたが望めばどこでも行くわ地の果てだって。あなたが呼べばこんな私を笑ってもいい。あなたしか見えないの。あなたを失くす日がいつか来るとしても愛は消えないわ。終わりはしない。死んでも愛してる。あなたもきっとそう。信じているなら永遠に愛し合える。
“自分たちのいいと思うものに共感してくれる人は必ずいると信じていた”と言っていた彼ら。自分が歌を歌えるとか声を手に入れるとかそういうものの前に、どんなことをどんなふうに表現したいのか考えさせられる。多くの一流アーティストがいて皆、自分の世界をもっている。それは本当に大切なことだ。常に考え続けていかなくてはいけないことだと思う。それは受け入れられるか、受け入れられないかということではなく、自分がどうしたいかということ。そして本物を知っている人に認められること。歌というか音楽は何でもありの世界だと思うが、何でもできる奴はいらない。何か一つ強烈な世界をもつことで人を引きつけていくのだと思う。自分の世界をつくっていくということは自分を深く知っていくことだ。自分の心ほど、広い世界はないこの世界。旅のしがいがあるというものだ。歌うということは、あらゆることで多くの責任を追うことだ。それは自分の生をしっかりとみつめることともいえる。
子供の頃、家から15kmくらい離れているところから歩いて帰った。いつも電車からみている風景の中をどうしても歩きたくなって、突然ひとりで歩きたくなった。線路づたいの道しか知らなかったけど本当に楽しくて、楽しくて、心が踊った。家にたどり着ける確信はあったけど、私の歩いた道はどんな道より素敵な道だった。家にたどり着いたことよりも、いつもみているだけだった道を歩いたことの方がずっとうれしかった。どんなことも結果以上にやっていることが喜びであるといいと思う。結果なんて誰でも頭で考えて、さも自分の答えのように言うけれど、本当の答えは自分で感じたものからしか生まれてこない。この感じるということも結構難しいことだ。点で生きていく人は、点と点の間がないから中身はスカスカだ。線で生きようとする人にだってもちろん点はある。でもそういう人の点は他の人と違うところにあるだろうし、線だって直線、曲線とさまざまだと思う。こういうことは歌にも言えると思う。音符だけを歌っていく歌と、それを線でつなぎ、線の中に自分をこめていく。簡単にはできないのだが、やりたきゃやっていくしかないと思う。枠があるからこそ、それを破ろうとして新しいもの、自分というものが生まれると彼は言っていた。彼のいうルールとは、社会のルールであったり、音楽の中のルール(基本)であったり、自分の心の中のルールであるのかもしれない。ルールに縛られるのは嫌だと、大地と縁を切ってしまったらものはつくれない。大地とつながりながらどこまで枠を超えていけるかということだと思う。枠の中は不自由だろうか。私は、この世に枠なんてものはないと思う。枠は自分の頭の中にあるものであって、生きている人間に共通のものじゃない。枠は自分の肉体なのではないかと思う。その枠を破るには表現の世界に入り込んでいくしかないのだと思う。聞く耳をもつには訓練が必要だと言っていた。自分にも人間に共通の感覚が備わっているけれど、それらすべてを本当に使えているのかと考えさせられる。世の中に一流といわれる人がいろんなジャンルで活躍していて、多くの人々に認められている。その認められているもののよさがわからなければ結局、私の耳は使われていないのだと思う。あまりにも今までいいものを求めてこなかったということもあるし、求める環境もなかったといえる。私がピアノを弾いても何の感動もひきおこさないだろう(あたりまえか)。でも、いいものに対して感動する心はもっている。
自分の中で先入観をもたず、いろいろなことに興味をもち続けることは大切だ。アンテナをピンッとはっていないと見過ごしてしまうから。何か一つを極めた人は、その他のことからいろんなものを吸収している。自分の世界以外のことを見ないわけではない。かえって普通に生活している人なんかより、ずっと多くのことを見ていると思う。自分の世界をもっといいものにしたいから学び続ける。学んでいる人がまわりにたくさんいれば自分も、もっと学ぶことができる。学ぶことは本当に楽しいことだと思う。それは学校で知識をつめこむようなことではなく、1+1=3かもしれない4かもしれない、いや10かもしれないと悩み、考え、な~んだ2だったのか!と発見することだ。答えを与えられちゃおもしろくもなんともない。学校の授業がつまらないのは、なんにでも答えが用意されているからだ。
「自分の感受性くらい」茨木のり子。ばさばさに乾いてゆく心をひとつのせいにはするな。自ら水やりを怠っておいて、気むずかしくなってきたのを友人のせいにするな。しなやかさを失ったのはどちらなのか。いらだつのを近親のせいにするな。何もかも下手だったのはわたくし。初心消えかかるのを暮らしのせいにするな。そもそもがひよわな志に過ぎなかった。駄目なことの一切を時代のせいにするな。わずかに光る尊厳の放棄。自分の感受性くらい自分でまもればかものよ。これを読むたび腹に力を入れなおし「やらねば」という気にさせられる。
弓の先生「岡部教子さん」のお話。「物事はとにかく10年間続けることにしている。一度握ったもの、握ってしまったものはそう簡単に話す訳にはいかない。何故一緒に勉強を始めた人達が私と同じにならないのか、ここまで来ないのか。」教えてもらえることが、同じ空間にいることがとても幸せです。すごく、素晴らしく、好奇心が旺盛で、とにかく凄い人です。弓を引く姿は拝みたくなります。何故だろう。
フラッと教会の日曜夕礼拝に参加してみた。教会なんて15年ぶりだった。(というわけで、私は信者ではありません。)何が印象深かったかといえば牧師さ 30代半ばの男性)の声だ。毎週のように賛美歌を歌ったり、聖書を読んだり、説教したり、いわゆる“声を使う職業”なので、何らかのトレーニングをしてもらっているのかもしれない。声そのものも大変魅力だったのだが、参考にしたいと思ったのが語りの“間”。もう絶妙なのだ。確かに久しぶりに慣れない神聖な場に身を置いて、その気にさせられたというのは多分にあるだろうが、聞いていて心地よかったし(少し寝てしまっ要所要所のことばが胸を打つという感じ。この技はどこから?と考えてみたところ、「定めた相手に語りかける」という姿勢から来るものなのだろうと思う。
バスケットをやっていた時、自分が死んでるとか背中が死んでるとしょっちゅう言われていた。だから体育館に入る前から自分の精神状態を最高にたかめておかなければ練習にならなかった。物事に真剣に取り組むというのはそういうことだと思う。歌というものは自分で明確な目標をおかない限りせっぱつまったものも感じないだろうし、ひとつのレッスンで学校の授業を受けるように終わったとしても自分の中の問題にはならないのだと思う。あまりにも目に見えないことが多すぎて見えなければその時間は確実に流れてゆく。先生が何度となく言われてる「中と外は同じ」ということばにいつもうなづく自分がいる。結局中も外もないということだし、私の中にわきあがる怒りというものも外だろうとここだろうと同じ。人のことをとやかく言っている暇はない、自分だけを見つめてやってゆきたいのだが根っこが腐ってきているような人を見るとこみ上げてくるものがある。いろんな人間がいていろんな心があってそれはいいことだけど、自分の大事にしているものに対しではまっすぐみつめたいという気持ちが強い。自分の大切な時間を無駄にはしたくない。
無駄遣い、あらゆるものの。何やってんだろう。片隅に不安がある。何か恐い。どんどんどんどん時間が過ぎていってくれないかなと思っている。私は、甘い。弱い。何でもない。「松山バレエ学校創立50周年松山バレエ学校発表会」簡易保険ホール)趣味だなというのと、命かけてるなというのは、出て来た瞬間、パッと見ただけで違う。各学校の習い事的な生徒の踊りは、はっきり言って、見ている方がつらいかも。表彰式で出て来た、松山校長森下洋子さん、清水哲太郎さん、踊っていないのに踊っているよう。魅きつけられる。
楽器も歌も自分を表現するただの手段にすぎなくて、弾くことも歌うことももちろん好きで楽しいと思うが、それ以上に表現する喜び、それを人と共有する楽しみ、分かち合う喜びを知っているように思いました。歌は、その人を感じれるその部分にもとても大きな魅力があるんだなぁと。自分を素直に表現していくことの意味深さを何だか観る度に感じます。いろんなジャンルが存在していて好みもいろいろあるわけだけれど、何かを感じさせられる歌声が、とにかく共通して存在している。安心したり、興奮したり、悲しくなったり、嬉しくなったり、元気になったり、情熱的になったり、と感じる感情はさまざまだけれど発している人によってその深さが違うならより深いものを人は求めるだろうし、求めて欲しいと思う。発する人の中の深さが深くなることはとても魅力的なことだと思う。
技術面と精神面とでどんどん深くなっていきたいし、深いものを求め、創っていく自分でいようと動く。その動きはきっと人にも、そして自分にも興味深いものだというふうに感じる。笑顔にも深みのあるそんな彼だからこそ本当にしてきた苦労は大きかったんじゃないかと、私は思う。あんなふうに笑える自分って逃げずに何事へも立ち向かっていった自分なんだろうなぁ。
何かが違うのではないかという気がしてしょうがない。今まで「耳が聞ける」ということをわからないとは思っていたけど心の底から全くわからないとは思っていなかった。今いろんな外国の歌を聞いていてもボーッとしてしまう。以前はことばを一所懸命におって、「ここは強くして弱くして伸ばして」という聞き方をしていたのだけど何か違うような気がしてしょうがない。それが何なのかは全然わからないのだけど、今初めて「何か違う」ということばが私の頭に飛び込んできたのだ。このひっかかりを大事にして毎日聞き続けていこうと思う。
どんなことも、目の前には、いろいろなチャンスが転がっている。拾おうと思えば、どんな材料だって手に入る。私は、自分でも詞に書いているし、先生の文章でも読んだことがある気がするけれど、見ようとしないことは、見えないのと同じで、目は開いていてもその本質は見えていない。そこに意志が宿っていなければ、目をつぶっているのと同じことだ。一つ、チャンスを貰うたびに思う。ちゃんと目を開けて、心の窓も開けて、いつもいつも、こんな気持ちを持ち続けることが大切なんだなぁ···と思う。
日本の古くからのことばで、"言霊(ことだま)"というものがあるが、まさにことば自体が生き物であって、それ自体にパワーがある。何かを起こす力があるということを知っていたのだと思うが、このことをふまえて、ことばを表現し切るのはとても難しいものだとつくづく思っている。技巧も重要なポイントだと思うようになってきた。
一声発した時から世界が繰り広げられている。凄い人はみんなこうだ。歌い始めるときのあの集中した、一つの想いに集中した表情。あれだけの凄い人ですらそうだ。自分はどれだけ想いの強さで集中してもし過ぎることなどあるはずがない。そこをキチッと詰めないからおかしなことになる。詰めなきゃいけないことはたくさんあるけれども大事な一つ。でも集中するためには、その歌が何を言いたいかそして自分は何を感じ、何を誰に言いたいかがはっきりしていないと、歌う前のその作業にはとうてい入れない。しかし、本当に素晴らしい声だ。どうして声に艶を感じるんだろう、と思うが艶がある。ギスギスしたりギリギリでなくのびがある。のびやかだ。聞いていてのびのびする。ダラダラしていない。ムチがしなる様に。天性のものだけでは決してない。
同じ歌を歌うのに口先でうたっていればどうしても感情表現はことばに込められてしまい音に込めることができないと思う。ことばだけに感情を込めてしまうと一極の中で音色として統一されたものがなくなってしまう。もちろ彼女だってことばに感情を込めたりしているのだろうがひとつに捉えられていることばとそうでないことばでは表現されるものが違ってくる。ことば一つにいろいろなことを込めようとすると音は小さくなってゆくし視野の広い見方ができなくなってしまう。サビの部分だけ聞いてもその迫力と向かってくる勢いに圧倒されるけれどサビに行く前の段階に隙がないからこそサビが引き立つとも言える。全てが感情のピークのサビに向かうためにあるようなものだ。サビがくるとわかっていても予想以上の大きさに度肝を抜かれ時間が経つのを忘れ聞き入ってしまう。気付いた時には次の曲がはじまっている。観客を飽きさせないというのは息つく暇を与えないということかもしれない。
自分自身の歌を振り返ってみれば良くわかるが思っている以上に聞かせたいところとそうでないところの差をつけないと一本調子になってしまう。どんなにいい刺激だろうと同じ強さの物を与え続けられたら感覚は麻痺してしまうのと同じで慣らさせてはいけない。それと向こうの観客が歌のどういうところで興奮し、また拍手をしたくなるのか。感覚というものは頭で理解できるものではないから、こういう感じではないだろうかとしか言いようがないが歌い手の声を楽器の音色と同じように聞いている気がする。人間の声程、生々しいものはないし変化するものもないと思う。
最近、最後は自分の生き方をどうするかということだと思うのです。ここは、納得して入ってくる人達の場。でも何故でしょう。私も努力が足りない人間の一人ですが、頭の中は24H、語りについて、芸術について考え、アンテナを立てているつもりです。このつもりも、個人差があり、物差しが違い、怪しいものです。なんだかなあ、確かに、劇団のようにできなくて、隅っこで、真ん中でギャーギャー泣いている人がいない。こんな私だって体あるわしながら、“泣くもんか、おまえが出来ないからだ!”と云いきかせながらけいこして、“出来たじゃないか!”と言われたときドッと泣けたこともあったし。ここには切羽つまった空気がない。確かに何かヘン。“自分でつかめ”という最終的には一番自分の為になり力が付く方法をとっているからかもしれない。わかりにくいから、必死で考えている時間が個々にあって、クールな空気になってしまうのかも知れない。そんな気が今日のお話を聞いていてしました。
そうか、劇団やプロダクションは、そのまま、役がつくかとかオーディションに受かるかとか目の前に迫った目的が近いから、切羽詰まるんだ!ということはアンダーグランドでも本物指向(私もそうですが)のここでは、あまりにも目標への道が遠いのですね。そうなると、それこそ恐ろしいぐらいの精神力と欲求・欲望・野心でも何でもなくてはいけないということです。私も声のことで悩み続けていますがそれこそ10年スパンの話。“焦らずに焦り、焦りながら焦らず”などと周りでは云いますが、やる気がすべてなのだと。目標の高さなのだと思います。
私は、その人が感じている世界を私も感じたいし、それによって何か得るものがあったりすることがとても嬉しい。私は、自分を表現することを音楽で表現したいと思った。世の中、たくさんの表現方法のある中から歌をとった。私にもまだ不安定ながらも私の世界というものがあり、それはこれからも多くの経験をしながら確固たるものとなっていく。感性を研ぎ澄まし、内なるものを歌として浄化して外の世界へとときはなつ。とても感動してしまうときどき、先ばかりを見てしまうことがある。先ばかり追っているとあせりと不安でいっぱいになってしまう。どうしようもない、何もない自分と向かい、落ちるまで落ちて思うことは「今」ということ。今があるから未来がみえてくるのだし、自分が在るのは「今」だけなのだから、少しもおなざりになんてできない。そして「自分というものを考える」という環境を与えられたこと、気がついたことにも感謝したい。まず心があって、それを完璧に伝えるために足りない体を、声をつくる。すべてがひとつになるために、やるしかないのであると思う。自分が選んだ道なのだし、それができるのだからありがたい。誰かの本で読んだのだけれど、才能なんて後からついてくるものだという。天才は生まれながらに天才なのではなく、量をこなしそれがある時、質に転換し、それからもまだ量をこなし続け、天才と呼ばれるほどになる。だから天才はすごいのだと思う。
見える部分見えない部分、具体化される前の実体を見ていく。日本人の場合はひびきに逃げる。動いていなくてはならない。体=リズム←日本人が見えないところ。出し切ること、出し切らないと課題が明確にならない。役者になる訓練、歌うことと大変な結びつきがある。基本線を作っておいて、見えない部分を作っていく。母音をつなぐ、見えないところは子音の“形←音にならないところ”の部分か?一流、実際に出る前に取っている。できるかできないかということは別にして、「歌ってそんなに単純なのかなあ」と思った。「そんな簡単でいいの」って。
チーフタンズWithフレンズから、スティングのことば。
「詞を理解する必要はないと思う。作詞者の感情が分かればいい。(中略)会話ではないのだから、音楽と一体化し「て考えている」福島先生が授業でおっしゃっていたのもこういうことかなと思った。
疲れて来るとかたまりにするのが難しくなり、霧吹きみたいにファーッと広がってしまう気がする。もっとダメな時は口元からデレーッとこぼしてしまう(生玉子みたいに)。今日も後半は後者の吹き状態で、こうなってしまうとなかなか元の緊張感を身体に呼び戻すのが難しいことがわかった。
ライブハウスなどで歌ってたころ、95パーセントはこの「生玉子状態」で、歌ってる最中自分でもさびしくなってしまうようなことがあった。よいヴォーカリストはきっと95%が「ゆで玉子状態」なんだ。だから聴衆の胸にとどくし、つづけ様に撃ち込める手応えがある。一曲3分間でとても難しい。そういうことが身を持ってやっと分かりつつある、今日この頃。
霧島という力士がいた。太れない身体をもっと大きくするため、毎日ウェイトトレーニングをしつつ、夕食後に麺類を数杯、プロテインを一リットル飲んで、満腹のためすわっていられないから横になりさらに玉子豆腐などを口に押し込んで眠ったという。それでも負け込んだ彼はウェイトトレーニングを倍にした。
小林亜星の葉書の中より…。勉強してはいけない。溺れることだ。漬かることだ。
日本語になると、他にもましてリズムを失う。スピード感とは程遠く、子音が入り口でうなぎの寝床のような母音と作りすぎのひびき。楽譜を歌ってしまっている。日本語の“私の中での概念”の大きな要素に俳句や和歌がある。学校が小学校から大学までかなりちゃんとしたその分野では現役研究者の先生が何人か必ずいて、授業でも(受験のなかったせいもあって)かなりそこらを深くやるものがあった。一語の中にある深み、ひびきが醸し出す香り、リズム、本来の呼吸のようなもの、現代までの時の流れの中で人々の中でことばがどう意味を変えてきたのかなど、専門分野としては、ごく一部だが、そういう人達の練り込んだ研究結果に触れられた。式子内親王だろうが、人麿だろうがリアルタイムな情景が流れ込むところまで授業で踏み込んだ。本格的に自ら進んで洋楽も聞きはじめた時だったので、そういう並行の中で、やはりリズムが違うということをずっと思ってきた。本来の本当の良さをそれぞれに表現することができるベストのリズムが違うのだと思った。それは実は今も変わっていない。日本語の香を生かすのなら曲のリズムの捉え方自体の方を変えてやるのが正解ではないか?そうでなければ日本語を“意味を共通化させる記号”として位置づけて、伝えることに主眼をおいてひびきやイントネーションを音楽に同化させてやるよいうようにしてゆく形をとる。すけベ心を出して中途半端なところでやってゆくから私はずるずるになってしまっているのではないだろうか。、
ある格闘家(大山培達だったか?)が、「ケンカで一番恐いのは死ぬ気で向かってくるヤツだ。」と語っていたが、この歌にはその気迫があると思った。「歌の中で一度死ね」ということばの意味を考えている。頭で考えず身体で考えること。
誰もいないAスタの前にたたずんで、静かだ。
流した汗も涙も悔しさも、まだ味わっていない、喜び鳴々、嘘の様だ。
すべてはここから始まった。半分脅されて鉛を抱えるように帰ったレクチャー。
胸がかき乱され頭がひっかきまわされ、奈落の底に落ちていくように降りた階段。
逃げ出したかった、でも逃げるわけにいかない舞台。
舞台。そうわかっていたか?否。
でも今ここでならわかる。ここは舞台。ここが歌う人間を待っている。
ここは、すべてを知っている。すべてを見てきた。
塾生の涙も汗も喜びも悲しみも。福島先生の喜びも悲しみも。
でも今は黙っている。でもライトを浴びて歌う人間を待っている。
では、誰に向かって歌う。有り難うのことばのかわりに歌を捧げたい人間がいる。
伝えきれないことばを捧げたい人間がいる。
私に背を向けたあの人に。
それでも私はただただかたわらでたたずんでいると伝えたい。
対立するもしないも生きているという点では大差はないと伝えたい人間がいる。
共に生きていると伝えたい人間がいる。
目に見えるものは苦しい時があるかもしれなくても世界は愛にあふれていると伝えたい子供達がいる。
私も自由じゃないが、自由に生きる道もあると伝えたい子供達がいる。
私に世界を教えてくれたタクシーの運転手さんに歌いたい。
ここの前の地下鉄工事をしている人間に歌いたい。
月が美しい。月はみんな知っている。